「飯綱権現降臨!」
「やば、位置取りミスった!わ、わわ、わわわ…あぎゃー!」
どかーん。被弾音と共に黒白の少女がへろへろと地面に落ちて行った。そして、べしゃりと張りついた。
「く、くそー…今日のところは負けにしておいてやるぜ。…とか言ってみるテスト」
少女は、すぐにむくりと起き上がるとそう言って、悔しそうに去って行った。
「まったく…図書館だけでは満足出来んのか」
ぱんぱんと手を払い、藍はマヨヒガの中へと帰って行った。マヨヒガの中に珍しいものが色々(主に紫が気まぐれに開くスキマのせいで)転がっていると世間に知られて以来(知れたのもスキマ絡みの事件のせいだったが)、侵入者が増えて困る。
「おかえり、藍さまー!」
玄関の戸を開けるなり、橙が彼女に飛びついた。
「おやおや、橙。起きてたのか?」
それを豊かな胸で抱きとめて頭を撫でてやりながら、藍は聞いた。時刻は昼下がりで、いつもなら橙はお昼寝をしている時間だった。
「うん、何だか目が覚めちゃったのー」
橙がそう言った時、ぐぅ…と大きな音が鳴った。彼女の顔がそれはそれは真っ赤に染まった。
「あ、そ、そのっ…えっと…」
藍はこらえてやろうとしたがこらえ切れず、くすくす笑いながら橙を抱き上げた。
「そうだな、ちょっと早めだがおやつにしようか」
「わあい、藍さま大好き!」
「紫様、おやつの時間ですよ」
居間へ向かう途中で紫の部屋に寄り、襖の外から軽く声をかけると、むくりと布団から起き上がる気配がした。
朝はいくら声をかけようが銅鑼を打ち鳴らそうが、しまいには弾幕を撃ち込もうがちっとも起きて来ないのに、こんな時ばかりは反応が早いのだ。もうすっかり慣れて、呆れる気持ちも起こらなくなっていた。
それに、おやつの時間とは言え呼んで起きただけマシだった。普段なら寝ながら食べに来るのだから。
藍はさっさと台所へ入り、おやつの中華まん(橙の頭ほどもありそうな)を取り出して蒸し器にかけた。
「んー…今日のおやつは中華まん?珍しいわね」
皿を持って居間に戻ってみると、さっぱりとした格好の紫と橙が待っていた。
紫も、一応は橙の教育を慮ってくれているのだ。橙が見ていない時は、それこそ色々当てられないような有様になっていることが珍しくなかった。
「はい、紅魔館の門番が持って来てくれまして」
「あなた、あの子に妙に好かれてるわよね」
まあ、主のとばっちりを受ける中間管理職同士、通じ合うものがあったのかも知れない。
紅魔館の門番、中ご…もとい紅美鈴は、藍に対してずいぶんと親愛の意を表していた。
美鈴の方が立場はよほど弱いし、天敵も多いのではあるが…。
「ふー、ふー…」
文字通り猫舌の橙は、中華まんは好きなのだがなかなか食べられない。まんじゅうをお手玉しながら一生懸命吹き冷ましている姿がとんでもなく可愛らしく、思わず藍の頬は緩んでしまう。
そして意識がお留守になり、うっかりとまだ熱い自分の中華まんにそのままかぶりついてしまった。
「!!!あち、あち…!」
「わ!藍さま大丈夫?!」
慌てて井戸へと突進して行った藍の後ろ姿を見つめ、自分の中華まんを頬張りつつ、紫はぽつりと呟いた。
「まだまだ未熟ねえ」
「そうだ、紫様。せっかく起きてらっしゃることですし、少しお部屋の押入れ整理をさせて頂きたいと思うのですが」
どうやら騒動も収まり、食後の茶を啜りながら藍はそう切り出した。普段紫はもっと遅くまで寝ているので、なかなか紫の部屋掃除は出来ないのだ。こんなに早い時間からやれるチャンスを逃すことはない。
「んー?別にいいわよ」
紫が頷くと、橙が手を元気に挙げた。
「はーい、藍さま、私も手伝うよ!」
「お、そうか?なら、せっかくだから手伝ってもらおうか。それなりの大仕事になりそうだしな」
藍はさらに頬をゆるませ、橙の頭をごしごしと撫でてやった。見るからに親馬鹿のその表情は、黒白の少女を撃墜した凛とした式神と同一存在だとはとても思えないような有様だった。
「それじゃ、私はお風呂で一杯と行こうかしら」
「起きた早々風呂酒ですか」
藍はやれやれと苦笑した。
「さすがにおつまみは用意出来ませんよ?お掃除しないといけませんから」
「仕方ないわね。じゃあ、仕舞い込んであった厚揚げでもつまもうかしら」
「…え?!」
藍の尻尾が残らずびんと立った。
あの厚揚げは、長い苦労の末にようやく買えた、材料職人厳選の、行列の出来る豆腐屋の…
「あー、冗談だってば。だから、そんな地獄の鬼でも泣き出しそうな顔しないの」
藍の恐怖と、それが導いた表情はどれほどのものだったのか。幻想郷の黒幕、悪と迷惑の権化たる八雲紫が罪悪感に駆られたのだから凄まじい。
藍は露骨にほっと胸を撫で下ろし、尻尾がへたへたと力なく垂れ下がった。その傍らで橙が、「藍さまをいじめた」とばかりに紫を上目遣いに睨んでいた。
今度は、紫がやれやれと苦笑する番だった。
「橙、これそこに置いてくれない?」
「うん!」
布団や毛布など、押入れに入っていて当然のものから始まって、名前すら判らないような何やら面妖なものまでが押入れから取り出されては積み上げられる。
気まぐれにスキマから取り出したものを全て押し入れに突っ込むのは、正直やめて欲しいと藍は思っていた。
この際なので徹底的に押入れの奥まで整理を続けるうち、彼女の手がふと止まった。
「あれ…この葛籠…」
「?どうしたの?」
橙が、横から葛籠を覗き込む。それはやや大きめの、古びた朱塗りの葛籠だった。外見上は別に何と言うこともないのだが、藍にはそれはどこかで見覚えがあったように思われた。
訝しげに目を瞬かせると、彼女は手を伸ばして葛籠の蓋を取った。果たしてその中には、小さな白い童狩衣が入っていた。
「あら?これは…」
「懐かしいわねえ、藍の小さい時の服じゃない」
「わ?!…紫様、いきなり背後から出て来ないで下さい」
何の気まぐれかいきなりスキマが開かれ、紫が上半身を出して童狩衣を手に取った。
「わあ…藍さま、こんなに小さいの着てたんだ。…ねえねえ、藍さま、紫さま。ちょっと私着てみてもいい?」
「ん?…ああ、別にいいが」
「ふふ、いいわよ?」
尻尾をぱたぱたと振っている橙に紫は衣を渡した。藍はその着付けを手伝ってやる。そして、ややあって…
「おや…ちょうどぴったりじゃないか」
服の大きさは藍の言った通り橙にぴったりで、元気な橙が和服でちょこんと澄まし返っている様は、ミスマッチながら妙に似合っていた。
「わーい、藍さまといっしょなんだあ!」
橙は、それはもう嬉しそうにはしゃぎ回っていた。紫はそんな橙を見て、深々とため息をもらした。
「可愛いわあ…昔の藍を思い出すわね。昔は、もっと素直で可愛い子だったのに…どこで間違ったのかしら?よよよ…」
藍は腕を組み、ジト目で紫を睨んだ。
「子は親に似るものです。わざとらしい泣き真似しないで下さい」
「まあ、親のせいにするなんて。そんな娘に育てた覚えはありませんよ?よよよ…」
服の袂で大げさに顔を覆う紫。それを見て、藍はふと眉を寄せた。
「…ふと思ったんですが、もしかして幽々子嬢が妖夢嬢にする泣き真似、紫様が教えたんじゃないでしょうね?どことなく似ている気がしますが」
「…」
「…そこで沈黙しますか。まあいいですけど…っと、橙、裾踏んで転ばないように気をつけるんだぞ?」
「うん!藍さまといっしょー」
一応注意は素直に聞くのだが、そこはやはり子供。はしゃぎ回るのは止まらない。
「全くもう…あんまりお転婆にしちゃ駄目っていつも言ってるのに」
言葉ではそう言いながらも、その様子を見つめる藍の目は優しかった。しかし、その背後から紫が楽しそうに囁く。
「あら…どこかの誰かさんもすごくお転婆だったじゃないの。毎日日が暮れるまで遊び回って、いっつも服ドロドロにして帰って来て。仕方ないから白い服をしまって黒いのを着せてたのよ?」
藍は、尻尾をびんと立てて勢い良く振り返った。
「ゆ、紫様っ?!そ、そんな昔のこと」
「そうそう、思い出すわあ。橙、藍はね、昔はよく術の修行をさぼってお家を抜け出してたのよ?」
「え、そうなの?!…へえー…ねえねえ、他にはどんなことがあったの?藍さまの昔、聞いてみたい!」
「そうねえ…あ、そうだ。いつだったかしらね、そうそう、五年目の冬至のころだったわ。怪談の本を読んだらね、夜中ひとりで厠に行けなくなっちゃって…」
「紫様ぁあっ!」
顔を真っ赤にして藍は抗議したが、もちろんこの主人が聞く耳を持つはずはない。
「…それでね、顔だけはむくれて強気だったんだけど、厠に行った後も私の裾を放さなくって、そのまま私の部屋まで…」
「うわぁああああああ!!!」
容赦なく続く言葉につれて、藍は頭を抱え、地団駄を踏んでのたうち回っていた。
その様はまるで三蔵法師の前の孫悟空のようであったが、しかしながら仏心などどこにもなく、その拷問はしばらく続き、藍は部屋の床が抜けそうなほどに転げまわり続ける羽目になったのであった。
「…あ、そう言えばね」
「なになに?」
「…。…ふふ…やっぱりやめ」
えー、と不満の声を上げる橙を横目に、紫は何故か唐突に話を打ち切った。その顔には、珍しいほど暖かな笑いが浮かんでいた…ぐったりと床に突っ伏していた藍には見えなかったろうが。
「…さ、片付けを続けないと。このまんまじゃ終わらないまま日が暮れて、私の寝るとこなくなっちゃうもの。私も手伝ってあげるから」
「え?!紫様、今日は大地震を起こす予定でも…!!ぐぇ」
「…失礼ねえ。まるで、たまにって程にも仕事してないみたいじゃないの」
(実際その通りじゃないですか…)
頭上から降って来た墓石の下で、藍は賢明にもそう声に出すことを堪えていた。
紫の手助けを得ると、その後の片付けはぐんぐんとはかどって、速やかに目星がついたのだった。彼女の手際は非常に良かった…傍目には怠けているようにしか見えないのに。さすがの藍の手腕をもってしてもその秘訣は見極められず、首を捻るしかなかった。
「さ、そろそろ夕飯にしてちょうだいな。労働の後はお腹がすくわ」
「眠ってたっていつでも空いて…あたっ!」
今度はどこからともなく金だらいが落ちて来た。
「口は災いの門よ?藍」
頭を抱えてうずくまった藍を心配そうに見つめる橙の頭をぽんぽんと撫でてやりながら、紫はこともなげにそう言ったのだった。
その夜、食事の後片付けを済ませ、橙を寝かしつけてやった後、藍は行灯の灯りを供に古い書物を読みふけっていた。
未だに行灯の油を舐めたい欲求が湧かぬものでもなかったが、さすがに九尾の身としてはそれはいかにも見栄えがしないので我慢した。
そして、しばらくしてふと自然の欲求にかられて花を摘みに立ってみると、ついさっきまで宵の口だったはずが外はもうすっかり丑三つ時の暗さになっていた。
真の闇に包まれた迷い家の廊下を静かに歩き、厠へ向けていくらか歩いたところで…ふと、何かおかしな引っ掛かりを感じて彼女は足を止めた。
その引っ掛かりの正体は判らないが、何かあり得ないもの、そこにあってはいけないものを見ているような気がしたのだ。
目の前に広がっているのは闇だけだと言うのに。それ以外に見えるものと言えば、前方の薄い明かりだけ…
「…明かり??」
そう、それは明らかにおかしかったのだ。あまりにおかし過ぎて、一瞬認識出来なかったほどに。
…何せ、明かりの灯っていた部屋は紫の部屋だったのだから!
こんなとろりとした心地いい風の中、月も厚い雲の寝床で眠りについていると言うのに、夕飯のすぐ後に眠ったはずの紫がこんなに短時間で目を覚ます?そんなことは、純白のドレスを着て可愛らしい言葉遣いをする黒白くらいに考えられない。
彼女はごくりと喉を鳴らし、そろそろと明かりへと近づいて行った。
…ああ、障子には紛れもなく紫の影が映っている。一体何事か。やはり天変地異を起こす心算でもあったのだろうか?
事態を確認するために藍がもう一歩を踏み出したその時、いきなり彼女の足元から床の感触がなくなった。
「…ほぇ?」
目を瞬かせ、足元に視線を落とすと、そこにはぽっかりと口を開けた深淵。彼女はもう何度か瞬きをし…
「…わーーー?!?!?!」
一瞬の墜落の後、彼女はいきなり冷たい水に頭から突っ込み、あまり深くはなかったその池の底に頭をぶつけて目から星を出した。
そして、短い間の混乱を払いのけると憮然と水面から顔を出して水を吹いた。
「…スキマで人払いまで…やっぱり何か企んでいる?」
あの紫様が夜なべまでして企むこととは一体…?水の冷たさと不快さだけではなく、藍の背筋はぞくりと震えたのだった。
それから数日間同じような日々が続き、藍はその日も恐怖にかられながら昼食の後片付けを始めようとしていた。
すると、その背中に紫の言葉がかけられた。
「藍。片付けが終わったら、橙も連れて私の部屋にいらっしゃいな」
藍の全身の毛が、一斉にばちんと逆立った。橙まで巻き込む悪巧みだと言うのか。それは、想像していた中でも最悪の可能性だった。
染み付いた習性で無意識に皿を洗い、片付けながら、彼女はひたすらに主を説得するための言葉を考え続けていた…無駄だとは思っていたが。
そして、とうとう洗い物が終わってしまい、彼女は内心頭を抱えながらも、橙の手前平静に主の部屋へと向かった。
「…紫様、入りますよ」
声をかけて襖を開けてみると、紫は縁側に腰掛けたまま、名高い煮ても焼いても食えないような笑顔で振り返った。
その後ろ手はスキマに隠れていた。一体何を隠しているのやら…。
「…来たわね、藍。ちょっとこっちへいらっしゃいな」
「は、はい…一体何でしょうか?」
恐る恐る、藍は紫の傍に立った。すると、紫は優しく床を叩き、明らかに何かを企んでいる笑顔で言った。
「いいからお座りなさいな。そして、いいと言うまで目を開けちゃダメ。ほらほら、早く早く」
紫の動作の奇妙なほどの優しさが逆に恐ろしく、藍は毛を逆立てながらも言われた通り素直に正座し、そして目を閉じた。内心、目隠しをされた死刑囚の気分だったが。
さらにその直後、背後で橙が何かを口に出しかけ、慌てて口をつぐんだのが気配で感じられ、気分は喩えようもないほど真っ黒に覆われた。
…さらに次の瞬間、ふわりと何か柔らかな感触が体に感じられた。思わずちらりと薄目を開けると…何とも言えないような笑みを浮かべて覗き込む紫の顔が最初に視界に飛び込んで来た。
「くすっ…まだいいって言ってなかったのに、やっぱり我慢できないのよね藍は。でも、もういいわよ」
「も、申し訳…」
ありません、と言いかけて藍は言葉を失った。赤絹仕立てのそれはそれは美しい衣が、紫の両手に広げられていたからだ。
「こ…これは、新しいお召し物で?」
すると、紫は口元を上げた。計ったように差し込んだ逆光のせいで、それがどんな表情だったのか藍には判らなかった。
「そうよ…あなたのね、藍」
「は…はい?」
彼女は藍の頭に優しく手を置くと、そっと囁いた。
「あなたは忘れてしまったの?藍」
「忘れ…?…て…」
刹那、頭の中で何かがぱちりと音を立てて弾け、記憶が奔流のように流れ出した。
――ねえ、わたしもいつか、紫さまに負けないくらいの美人になれるかな?――
――ええ、あなたがそう望むなら、きっとそうなれるわ――
――…うん!そしたら、いっぱいいっぱいおめかしして、紅い絹のよそいき来て紫さまと一緒に歩いてみたいな――
――いいわ、その時にはきっと一緒に歩いてあげる。誰もが揃って振り向くわよ?――
――うんっ!――
その時の自分の無邪気な笑顔や声、そして強い陽射しの匂いさえもはっきりと手に取るように思い出し、藍は顔を赤らめながら呆然と、もの問いたげに紫を見た。すると、彼女は静かに笑って答えた。
「もっとも、私もこの間までは忘れてたのだけどね。でも、約束だったでしょ?…らーん」
昔呼んでいたように、音を優しく伸ばして紫は呼びかけた。藍の胸は懐かしさと温かさに溢れ出し、とても返事は出てきてくれなかった。
「さ、早く着て見せなさいな。…ほらほら、橙も早く見たいって」
「ば…ばい」
声を詰まらせかけながら顔を橙から背け、藍は紫と共に隣の部屋に入って行った。
ややあって藍が再び襖を開けると、橙の驚きの声が彼女を迎えた。
「わあ、すごいよ藍さま!藍さまお姫様みたいー!」
藍は上品な帯と飾り紐に締められた赤い衣で装われ、髪はきちんと結い上げられて、口元には紅もうっすらと引かれ、仕上げに鼈甲の櫛と銀の簪で飾りつけられていた。
橙は尻尾をぱたぱたさせながらそんな彼女の周りをしきりと駆け回り、長い裾に優しく覆われた足に身体を何度もこすり付けた。
続いて出て来た紫は、その光景を見て扇で口元を覆いながら、おかしくてたまらないと言うふうな笑い声をたてた。
「ふふ…あんまりくしゃくしゃにしないようにね、橙?…さ、行きましょ藍」
「え…どこに…ですか?」
真っ赤な目元をしきりと袂で隠しながら、藍はどこか夢心地に聞き返した。すると、紫はちょっと意地悪げに笑った。
「もちろん、一緒に出かけるのよ。橙も来るわよね?」
「うん!」
「え!そ、それは、その…ちょっと…」
藍はもちろん嬉しくてたまらなかったのだが、久しくこんなに装ったことなどなかったし、すっかり紫とのいつものやり取りに馴染んでしまっていたから、それと同時にどうも気恥ずかしくてたまらなかった。
しかし、そんな彼女に有無を言わせず、紫はぱんと音を立てて縁側の障子を全開にし、庭へと飛び出した。
「あ、紫さま待ってくださいー」
橙がその後を追って駆け出し、藍も続いて長い裾に足を取られそうになりながら駆け出した。
「ちょ、ちょっと待っ…わわ、きゃ」
必死で駆けて行くと、そこには笑顔の…あの頃と何ひとつ変わらない笑顔の紫が待っていた。
「さあ、行くわよ二人とも。お昼のお散歩なんて久しぶりだけどね」
「あ、ゆ、紫様!」
そう言ってさっさと歩き出す紫に藍は慌てて追い縋り…ふと、自然に手を伸ばして紫の手におずおずと触れた。
「?」
紫が振り向くや否や、藍はばっと手を引っ込めて明後日の方向を向いた。紫はきょとんと一度瞬き、そして得心して微笑んだ。
「そうね…あのころみたいに。ほんと、いつまで経っても素直じゃないんだから…。…らーん?」
紫が静かに手を差し伸べると、藍はそっぽを向いたまましばらく動きを止め…やがて、またもおずおずと、本当におずおずと、その手をきゅっと握り締めた。
さらに、橙が紫のもう片手にぎゅっと全身で抱き着く。
「私も」
「あらあら…そうね、今は橙もいっしょ」
午後のじりじりするような陽射しの中で、三人はそうして手を繋いだままどこまでも歩いて行った。
血は繋がっていなくとも、まるで母と娘が連れ立つように。
「…紫様…その…ありがとうございます…」
「ん、何言ったの藍さま?小さくって聞こえなかったけど…」
「ふふ…別に何も言ってないわよ、ねえ?」
…紫様はおばあさんに当たるのか、などとは決して言うことなかれ。
※童狩衣=子供用の狩衣。大人のものより装飾的に作られています。狩衣は、安倍晴明が多くの場面で身に着けているような衣のことです。貴人の活動的な普段着と言うところです。藍様は式神使いなので、あの衣はおそらくこれではないかな…と思いました。
「やば、位置取りミスった!わ、わわ、わわわ…あぎゃー!」
どかーん。被弾音と共に黒白の少女がへろへろと地面に落ちて行った。そして、べしゃりと張りついた。
「く、くそー…今日のところは負けにしておいてやるぜ。…とか言ってみるテスト」
少女は、すぐにむくりと起き上がるとそう言って、悔しそうに去って行った。
「まったく…図書館だけでは満足出来んのか」
ぱんぱんと手を払い、藍はマヨヒガの中へと帰って行った。マヨヒガの中に珍しいものが色々(主に紫が気まぐれに開くスキマのせいで)転がっていると世間に知られて以来(知れたのもスキマ絡みの事件のせいだったが)、侵入者が増えて困る。
「おかえり、藍さまー!」
玄関の戸を開けるなり、橙が彼女に飛びついた。
「おやおや、橙。起きてたのか?」
それを豊かな胸で抱きとめて頭を撫でてやりながら、藍は聞いた。時刻は昼下がりで、いつもなら橙はお昼寝をしている時間だった。
「うん、何だか目が覚めちゃったのー」
橙がそう言った時、ぐぅ…と大きな音が鳴った。彼女の顔がそれはそれは真っ赤に染まった。
「あ、そ、そのっ…えっと…」
藍はこらえてやろうとしたがこらえ切れず、くすくす笑いながら橙を抱き上げた。
「そうだな、ちょっと早めだがおやつにしようか」
「わあい、藍さま大好き!」
「紫様、おやつの時間ですよ」
居間へ向かう途中で紫の部屋に寄り、襖の外から軽く声をかけると、むくりと布団から起き上がる気配がした。
朝はいくら声をかけようが銅鑼を打ち鳴らそうが、しまいには弾幕を撃ち込もうがちっとも起きて来ないのに、こんな時ばかりは反応が早いのだ。もうすっかり慣れて、呆れる気持ちも起こらなくなっていた。
それに、おやつの時間とは言え呼んで起きただけマシだった。普段なら寝ながら食べに来るのだから。
藍はさっさと台所へ入り、おやつの中華まん(橙の頭ほどもありそうな)を取り出して蒸し器にかけた。
「んー…今日のおやつは中華まん?珍しいわね」
皿を持って居間に戻ってみると、さっぱりとした格好の紫と橙が待っていた。
紫も、一応は橙の教育を慮ってくれているのだ。橙が見ていない時は、それこそ色々当てられないような有様になっていることが珍しくなかった。
「はい、紅魔館の門番が持って来てくれまして」
「あなた、あの子に妙に好かれてるわよね」
まあ、主のとばっちりを受ける中間管理職同士、通じ合うものがあったのかも知れない。
紅魔館の門番、中ご…もとい紅美鈴は、藍に対してずいぶんと親愛の意を表していた。
美鈴の方が立場はよほど弱いし、天敵も多いのではあるが…。
「ふー、ふー…」
文字通り猫舌の橙は、中華まんは好きなのだがなかなか食べられない。まんじゅうをお手玉しながら一生懸命吹き冷ましている姿がとんでもなく可愛らしく、思わず藍の頬は緩んでしまう。
そして意識がお留守になり、うっかりとまだ熱い自分の中華まんにそのままかぶりついてしまった。
「!!!あち、あち…!」
「わ!藍さま大丈夫?!」
慌てて井戸へと突進して行った藍の後ろ姿を見つめ、自分の中華まんを頬張りつつ、紫はぽつりと呟いた。
「まだまだ未熟ねえ」
「そうだ、紫様。せっかく起きてらっしゃることですし、少しお部屋の押入れ整理をさせて頂きたいと思うのですが」
どうやら騒動も収まり、食後の茶を啜りながら藍はそう切り出した。普段紫はもっと遅くまで寝ているので、なかなか紫の部屋掃除は出来ないのだ。こんなに早い時間からやれるチャンスを逃すことはない。
「んー?別にいいわよ」
紫が頷くと、橙が手を元気に挙げた。
「はーい、藍さま、私も手伝うよ!」
「お、そうか?なら、せっかくだから手伝ってもらおうか。それなりの大仕事になりそうだしな」
藍はさらに頬をゆるませ、橙の頭をごしごしと撫でてやった。見るからに親馬鹿のその表情は、黒白の少女を撃墜した凛とした式神と同一存在だとはとても思えないような有様だった。
「それじゃ、私はお風呂で一杯と行こうかしら」
「起きた早々風呂酒ですか」
藍はやれやれと苦笑した。
「さすがにおつまみは用意出来ませんよ?お掃除しないといけませんから」
「仕方ないわね。じゃあ、仕舞い込んであった厚揚げでもつまもうかしら」
「…え?!」
藍の尻尾が残らずびんと立った。
あの厚揚げは、長い苦労の末にようやく買えた、材料職人厳選の、行列の出来る豆腐屋の…
「あー、冗談だってば。だから、そんな地獄の鬼でも泣き出しそうな顔しないの」
藍の恐怖と、それが導いた表情はどれほどのものだったのか。幻想郷の黒幕、悪と迷惑の権化たる八雲紫が罪悪感に駆られたのだから凄まじい。
藍は露骨にほっと胸を撫で下ろし、尻尾がへたへたと力なく垂れ下がった。その傍らで橙が、「藍さまをいじめた」とばかりに紫を上目遣いに睨んでいた。
今度は、紫がやれやれと苦笑する番だった。
「橙、これそこに置いてくれない?」
「うん!」
布団や毛布など、押入れに入っていて当然のものから始まって、名前すら判らないような何やら面妖なものまでが押入れから取り出されては積み上げられる。
気まぐれにスキマから取り出したものを全て押し入れに突っ込むのは、正直やめて欲しいと藍は思っていた。
この際なので徹底的に押入れの奥まで整理を続けるうち、彼女の手がふと止まった。
「あれ…この葛籠…」
「?どうしたの?」
橙が、横から葛籠を覗き込む。それはやや大きめの、古びた朱塗りの葛籠だった。外見上は別に何と言うこともないのだが、藍にはそれはどこかで見覚えがあったように思われた。
訝しげに目を瞬かせると、彼女は手を伸ばして葛籠の蓋を取った。果たしてその中には、小さな白い童狩衣が入っていた。
「あら?これは…」
「懐かしいわねえ、藍の小さい時の服じゃない」
「わ?!…紫様、いきなり背後から出て来ないで下さい」
何の気まぐれかいきなりスキマが開かれ、紫が上半身を出して童狩衣を手に取った。
「わあ…藍さま、こんなに小さいの着てたんだ。…ねえねえ、藍さま、紫さま。ちょっと私着てみてもいい?」
「ん?…ああ、別にいいが」
「ふふ、いいわよ?」
尻尾をぱたぱたと振っている橙に紫は衣を渡した。藍はその着付けを手伝ってやる。そして、ややあって…
「おや…ちょうどぴったりじゃないか」
服の大きさは藍の言った通り橙にぴったりで、元気な橙が和服でちょこんと澄まし返っている様は、ミスマッチながら妙に似合っていた。
「わーい、藍さまといっしょなんだあ!」
橙は、それはもう嬉しそうにはしゃぎ回っていた。紫はそんな橙を見て、深々とため息をもらした。
「可愛いわあ…昔の藍を思い出すわね。昔は、もっと素直で可愛い子だったのに…どこで間違ったのかしら?よよよ…」
藍は腕を組み、ジト目で紫を睨んだ。
「子は親に似るものです。わざとらしい泣き真似しないで下さい」
「まあ、親のせいにするなんて。そんな娘に育てた覚えはありませんよ?よよよ…」
服の袂で大げさに顔を覆う紫。それを見て、藍はふと眉を寄せた。
「…ふと思ったんですが、もしかして幽々子嬢が妖夢嬢にする泣き真似、紫様が教えたんじゃないでしょうね?どことなく似ている気がしますが」
「…」
「…そこで沈黙しますか。まあいいですけど…っと、橙、裾踏んで転ばないように気をつけるんだぞ?」
「うん!藍さまといっしょー」
一応注意は素直に聞くのだが、そこはやはり子供。はしゃぎ回るのは止まらない。
「全くもう…あんまりお転婆にしちゃ駄目っていつも言ってるのに」
言葉ではそう言いながらも、その様子を見つめる藍の目は優しかった。しかし、その背後から紫が楽しそうに囁く。
「あら…どこかの誰かさんもすごくお転婆だったじゃないの。毎日日が暮れるまで遊び回って、いっつも服ドロドロにして帰って来て。仕方ないから白い服をしまって黒いのを着せてたのよ?」
藍は、尻尾をびんと立てて勢い良く振り返った。
「ゆ、紫様っ?!そ、そんな昔のこと」
「そうそう、思い出すわあ。橙、藍はね、昔はよく術の修行をさぼってお家を抜け出してたのよ?」
「え、そうなの?!…へえー…ねえねえ、他にはどんなことがあったの?藍さまの昔、聞いてみたい!」
「そうねえ…あ、そうだ。いつだったかしらね、そうそう、五年目の冬至のころだったわ。怪談の本を読んだらね、夜中ひとりで厠に行けなくなっちゃって…」
「紫様ぁあっ!」
顔を真っ赤にして藍は抗議したが、もちろんこの主人が聞く耳を持つはずはない。
「…それでね、顔だけはむくれて強気だったんだけど、厠に行った後も私の裾を放さなくって、そのまま私の部屋まで…」
「うわぁああああああ!!!」
容赦なく続く言葉につれて、藍は頭を抱え、地団駄を踏んでのたうち回っていた。
その様はまるで三蔵法師の前の孫悟空のようであったが、しかしながら仏心などどこにもなく、その拷問はしばらく続き、藍は部屋の床が抜けそうなほどに転げまわり続ける羽目になったのであった。
「…あ、そう言えばね」
「なになに?」
「…。…ふふ…やっぱりやめ」
えー、と不満の声を上げる橙を横目に、紫は何故か唐突に話を打ち切った。その顔には、珍しいほど暖かな笑いが浮かんでいた…ぐったりと床に突っ伏していた藍には見えなかったろうが。
「…さ、片付けを続けないと。このまんまじゃ終わらないまま日が暮れて、私の寝るとこなくなっちゃうもの。私も手伝ってあげるから」
「え?!紫様、今日は大地震を起こす予定でも…!!ぐぇ」
「…失礼ねえ。まるで、たまにって程にも仕事してないみたいじゃないの」
(実際その通りじゃないですか…)
頭上から降って来た墓石の下で、藍は賢明にもそう声に出すことを堪えていた。
紫の手助けを得ると、その後の片付けはぐんぐんとはかどって、速やかに目星がついたのだった。彼女の手際は非常に良かった…傍目には怠けているようにしか見えないのに。さすがの藍の手腕をもってしてもその秘訣は見極められず、首を捻るしかなかった。
「さ、そろそろ夕飯にしてちょうだいな。労働の後はお腹がすくわ」
「眠ってたっていつでも空いて…あたっ!」
今度はどこからともなく金だらいが落ちて来た。
「口は災いの門よ?藍」
頭を抱えてうずくまった藍を心配そうに見つめる橙の頭をぽんぽんと撫でてやりながら、紫はこともなげにそう言ったのだった。
その夜、食事の後片付けを済ませ、橙を寝かしつけてやった後、藍は行灯の灯りを供に古い書物を読みふけっていた。
未だに行灯の油を舐めたい欲求が湧かぬものでもなかったが、さすがに九尾の身としてはそれはいかにも見栄えがしないので我慢した。
そして、しばらくしてふと自然の欲求にかられて花を摘みに立ってみると、ついさっきまで宵の口だったはずが外はもうすっかり丑三つ時の暗さになっていた。
真の闇に包まれた迷い家の廊下を静かに歩き、厠へ向けていくらか歩いたところで…ふと、何かおかしな引っ掛かりを感じて彼女は足を止めた。
その引っ掛かりの正体は判らないが、何かあり得ないもの、そこにあってはいけないものを見ているような気がしたのだ。
目の前に広がっているのは闇だけだと言うのに。それ以外に見えるものと言えば、前方の薄い明かりだけ…
「…明かり??」
そう、それは明らかにおかしかったのだ。あまりにおかし過ぎて、一瞬認識出来なかったほどに。
…何せ、明かりの灯っていた部屋は紫の部屋だったのだから!
こんなとろりとした心地いい風の中、月も厚い雲の寝床で眠りについていると言うのに、夕飯のすぐ後に眠ったはずの紫がこんなに短時間で目を覚ます?そんなことは、純白のドレスを着て可愛らしい言葉遣いをする黒白くらいに考えられない。
彼女はごくりと喉を鳴らし、そろそろと明かりへと近づいて行った。
…ああ、障子には紛れもなく紫の影が映っている。一体何事か。やはり天変地異を起こす心算でもあったのだろうか?
事態を確認するために藍がもう一歩を踏み出したその時、いきなり彼女の足元から床の感触がなくなった。
「…ほぇ?」
目を瞬かせ、足元に視線を落とすと、そこにはぽっかりと口を開けた深淵。彼女はもう何度か瞬きをし…
「…わーーー?!?!?!」
一瞬の墜落の後、彼女はいきなり冷たい水に頭から突っ込み、あまり深くはなかったその池の底に頭をぶつけて目から星を出した。
そして、短い間の混乱を払いのけると憮然と水面から顔を出して水を吹いた。
「…スキマで人払いまで…やっぱり何か企んでいる?」
あの紫様が夜なべまでして企むこととは一体…?水の冷たさと不快さだけではなく、藍の背筋はぞくりと震えたのだった。
それから数日間同じような日々が続き、藍はその日も恐怖にかられながら昼食の後片付けを始めようとしていた。
すると、その背中に紫の言葉がかけられた。
「藍。片付けが終わったら、橙も連れて私の部屋にいらっしゃいな」
藍の全身の毛が、一斉にばちんと逆立った。橙まで巻き込む悪巧みだと言うのか。それは、想像していた中でも最悪の可能性だった。
染み付いた習性で無意識に皿を洗い、片付けながら、彼女はひたすらに主を説得するための言葉を考え続けていた…無駄だとは思っていたが。
そして、とうとう洗い物が終わってしまい、彼女は内心頭を抱えながらも、橙の手前平静に主の部屋へと向かった。
「…紫様、入りますよ」
声をかけて襖を開けてみると、紫は縁側に腰掛けたまま、名高い煮ても焼いても食えないような笑顔で振り返った。
その後ろ手はスキマに隠れていた。一体何を隠しているのやら…。
「…来たわね、藍。ちょっとこっちへいらっしゃいな」
「は、はい…一体何でしょうか?」
恐る恐る、藍は紫の傍に立った。すると、紫は優しく床を叩き、明らかに何かを企んでいる笑顔で言った。
「いいからお座りなさいな。そして、いいと言うまで目を開けちゃダメ。ほらほら、早く早く」
紫の動作の奇妙なほどの優しさが逆に恐ろしく、藍は毛を逆立てながらも言われた通り素直に正座し、そして目を閉じた。内心、目隠しをされた死刑囚の気分だったが。
さらにその直後、背後で橙が何かを口に出しかけ、慌てて口をつぐんだのが気配で感じられ、気分は喩えようもないほど真っ黒に覆われた。
…さらに次の瞬間、ふわりと何か柔らかな感触が体に感じられた。思わずちらりと薄目を開けると…何とも言えないような笑みを浮かべて覗き込む紫の顔が最初に視界に飛び込んで来た。
「くすっ…まだいいって言ってなかったのに、やっぱり我慢できないのよね藍は。でも、もういいわよ」
「も、申し訳…」
ありません、と言いかけて藍は言葉を失った。赤絹仕立てのそれはそれは美しい衣が、紫の両手に広げられていたからだ。
「こ…これは、新しいお召し物で?」
すると、紫は口元を上げた。計ったように差し込んだ逆光のせいで、それがどんな表情だったのか藍には判らなかった。
「そうよ…あなたのね、藍」
「は…はい?」
彼女は藍の頭に優しく手を置くと、そっと囁いた。
「あなたは忘れてしまったの?藍」
「忘れ…?…て…」
刹那、頭の中で何かがぱちりと音を立てて弾け、記憶が奔流のように流れ出した。
――ねえ、わたしもいつか、紫さまに負けないくらいの美人になれるかな?――
――ええ、あなたがそう望むなら、きっとそうなれるわ――
――…うん!そしたら、いっぱいいっぱいおめかしして、紅い絹のよそいき来て紫さまと一緒に歩いてみたいな――
――いいわ、その時にはきっと一緒に歩いてあげる。誰もが揃って振り向くわよ?――
――うんっ!――
その時の自分の無邪気な笑顔や声、そして強い陽射しの匂いさえもはっきりと手に取るように思い出し、藍は顔を赤らめながら呆然と、もの問いたげに紫を見た。すると、彼女は静かに笑って答えた。
「もっとも、私もこの間までは忘れてたのだけどね。でも、約束だったでしょ?…らーん」
昔呼んでいたように、音を優しく伸ばして紫は呼びかけた。藍の胸は懐かしさと温かさに溢れ出し、とても返事は出てきてくれなかった。
「さ、早く着て見せなさいな。…ほらほら、橙も早く見たいって」
「ば…ばい」
声を詰まらせかけながら顔を橙から背け、藍は紫と共に隣の部屋に入って行った。
ややあって藍が再び襖を開けると、橙の驚きの声が彼女を迎えた。
「わあ、すごいよ藍さま!藍さまお姫様みたいー!」
藍は上品な帯と飾り紐に締められた赤い衣で装われ、髪はきちんと結い上げられて、口元には紅もうっすらと引かれ、仕上げに鼈甲の櫛と銀の簪で飾りつけられていた。
橙は尻尾をぱたぱたさせながらそんな彼女の周りをしきりと駆け回り、長い裾に優しく覆われた足に身体を何度もこすり付けた。
続いて出て来た紫は、その光景を見て扇で口元を覆いながら、おかしくてたまらないと言うふうな笑い声をたてた。
「ふふ…あんまりくしゃくしゃにしないようにね、橙?…さ、行きましょ藍」
「え…どこに…ですか?」
真っ赤な目元をしきりと袂で隠しながら、藍はどこか夢心地に聞き返した。すると、紫はちょっと意地悪げに笑った。
「もちろん、一緒に出かけるのよ。橙も来るわよね?」
「うん!」
「え!そ、それは、その…ちょっと…」
藍はもちろん嬉しくてたまらなかったのだが、久しくこんなに装ったことなどなかったし、すっかり紫とのいつものやり取りに馴染んでしまっていたから、それと同時にどうも気恥ずかしくてたまらなかった。
しかし、そんな彼女に有無を言わせず、紫はぱんと音を立てて縁側の障子を全開にし、庭へと飛び出した。
「あ、紫さま待ってくださいー」
橙がその後を追って駆け出し、藍も続いて長い裾に足を取られそうになりながら駆け出した。
「ちょ、ちょっと待っ…わわ、きゃ」
必死で駆けて行くと、そこには笑顔の…あの頃と何ひとつ変わらない笑顔の紫が待っていた。
「さあ、行くわよ二人とも。お昼のお散歩なんて久しぶりだけどね」
「あ、ゆ、紫様!」
そう言ってさっさと歩き出す紫に藍は慌てて追い縋り…ふと、自然に手を伸ばして紫の手におずおずと触れた。
「?」
紫が振り向くや否や、藍はばっと手を引っ込めて明後日の方向を向いた。紫はきょとんと一度瞬き、そして得心して微笑んだ。
「そうね…あのころみたいに。ほんと、いつまで経っても素直じゃないんだから…。…らーん?」
紫が静かに手を差し伸べると、藍はそっぽを向いたまましばらく動きを止め…やがて、またもおずおずと、本当におずおずと、その手をきゅっと握り締めた。
さらに、橙が紫のもう片手にぎゅっと全身で抱き着く。
「私も」
「あらあら…そうね、今は橙もいっしょ」
午後のじりじりするような陽射しの中で、三人はそうして手を繋いだままどこまでも歩いて行った。
血は繋がっていなくとも、まるで母と娘が連れ立つように。
「…紫様…その…ありがとうございます…」
「ん、何言ったの藍さま?小さくって聞こえなかったけど…」
「ふふ…別に何も言ってないわよ、ねえ?」
…紫様はおばあさんに当たるのか、などとは決して言うことなかれ。
※童狩衣=子供用の狩衣。大人のものより装飾的に作られています。狩衣は、安倍晴明が多くの場面で身に着けているような衣のことです。貴人の活動的な普段着と言うところです。藍様は式神使いなので、あの衣はおそらくこれではないかな…と思いました。
藍の大将は、いやおっかさんは間違いなく紫なんだな。
紫は、純真だった頃の藍の事も、ちょっとスレてしまった今の藍の事も、変わらず大切に思ってるのでしょうね。
誰のせいでスレてしまったかなんて野暮な事は言いませんよ(笑)。