Nobody
星明りさえ差し込まぬ深い深い森の中、誰かに手引かれ誘われるような感覚と一緒に目を覚ませば、見知った顔が心配そうに私を覗き込んでいた。
「起きたみたいね」
ほう、と安堵の息と共にそう呟くそいつ――パチュリー・ノーレッジ。不健康そうな青白い顔色はいつものことだが、いまは更に疲労の色が混ざっている。また徹夜で読書にでも耽っていたのだろうか。もう少し、本当にあと半歩でいいから自分の健康とかその辺にも気を遣ってもらえれば、小悪魔の気遣いや愚痴やらも多少は減るのだろうけれど――まあ、言っても無駄なのだろう。間違いなく。
私はベッドの上で身体を起こし、周囲を見回した。壁紙も天井も、絨毯さえもが深く静かな、そして慎ましやかな紅で統一された客室。紅魔館の中に多数設けられた客室の一つだ。見慣れたどころの話ではなく、ほぼ私の専用部屋となりつつある一室。利用させてもらった回数は、とてもじゃないけど両方の指では賄いきれない。
なんでこんな所に、と寝ぼけた頭で考える。どうにも記憶が曖昧だ。昨夜は――そうそう、ここしばらく色々な瑣末事に忙殺されて顔を出せなかったから、久しぶりにフランドールの顔を見に来たのだ。毎度のことで割と肝を冷やす弾幕ごっこをしたことまでは辛うじて記憶がある。だけど、その後がどうにも曖昧だ。となれば、私はそのまま遊びつかれて眠ってしまったのだろうか。
……って、かなり恥ずかしいんじゃないだろうか、それは。後でどんな嫌味を言われるかを思うとかなり気が滅入る。具体的にはしたり顔の完全で瀟洒な従者とかその主とかに。
「魔理沙? 大丈夫?」
「ああ、大丈夫だぜ。ま、少し寝たり無いけどな」
覗き込んできたパチュリーを押しのけて、私はベッドから降りる。音も無く足を受け止めた絨毯の上質さが不思議と心地よい。
身体のこりをほぐすように私は伸びをする。思いっきり背筋を伸ばせば、気持ちいいほどに身体中がぼきぼきと不健康な音を立てた。おかしいな、別に運動不足って訳じゃないんだが。
首を廻せば、これまた景気良く骨が鳴る。……うーむ、どうしたものか。ひょっとして運動不足なのか私。あー、そう言えば最近急な調べものとかでろくに出歩かなかったしなー……うー、どうしよう。
そんなことを考えていると、ふと、思い出したかのようにパチュリーが呟いた。
「七日よ」
「あ?」
聞き返せば、パチュリーは右手と左手で指を四本と三本ずつ立て、言葉を繰り返す。
「だから、七日間。魔理沙が眠っていた日数よ」
「……本当か、それ」
「或いは一六八時間」
「いや、同じだそれは」
信じられない話であるが――と言うか、私でなくても一週間も寝てました、なんて聞かされれば大抵驚くだろう。驚きそうに無いのは、ああ、そうか、物凄く身近に一人居たな。霊夢あたりなら一年近く寝たまま過ごしても次の日から当たり前のように活動再会していそうだ。回りの連中の気遣いなんてお構い無しに。
ともかく、信じられない証言ではあるが、パチュリーの眼はそれが冗談ではないと語っている。確かに、身体がやけに鈍っているのもそういった事情故だとしたら……まあ、納得は無理にしても、理解の取っ掛かりにはなる。
それで、と私は先を促した。
「ここで寝ている、ってことは何があったんだ? 具体的には私に」
「覚えてないの?」
「いや、覚えてるぜ。おぼろげだけどな。フランとじゃれてた辺りまでははっきりと」
「ふうん……そう。なるほど。となると、」
何かを言いかけて、パチュリーは不意に眼を伏せる。
しかしそれは一瞬。直に上げられたパチュリーの顔には、いつもの通り眠そうな瞳と不健康そうな色が見える。
パチュリーは私を指差し、淡々と次げた。
「魔理沙が寝ている間に調べさせてもらったけど……肉体的な外傷は何も無いわ。内臓も健康そのものだし、脳、神経系にも異常なし」
「容赦ないな。隅々まで見られちゃったわけだ、私は」
「ええ。堪能させてもらったわ。ああ、そう言えば魔理沙、少し太った?」
「黙れ。お願いだから黙ってくれ。或いは撤回してくれ」
ポツリと致命的な言葉を吐いたパチュリーに思わず本気で願う私。
しかしパチュリーは私の嘆願を軽く無視して、だから、と言葉を続ける。
「壊されたのは、精神的な何かや、概念的な何かだと思う。何か心当たりはある?」
「壊されたって――ぁ」
ずきり、と頭が痛む。
脳裏に浮かんだのは、悲しげな瞳で私を見る虹色の吸血鬼。
呟いたのは、多分私。
答えたのが、きっと彼女。
私は彼女のそれを否定して、
彼女は、
悪魔の妹、フランドール・スカーレットは、
「しっかりしなさい、魔理沙!」
不意の叱責。
侮蔑の混じったその響きに、私は辛うじて我に返る。それはきっと、その侮蔑が間違いなく本物だったからだろう。
パチュリーは静かな瞳で私を見る。それは私を叱咤するようで、憐れむようでもあった。
「大丈夫? 陥り掛けていたようだったけど」
「……ああ、大丈夫だ。サンキュな、パチュリー」
素直に礼を伝えれば、パチュリーの表情が緩む。
「いいわ、別に。それより、見当はついた? 妹様に――壊されてしまったものが」
「いや、まだちょっと分からないな。記憶って訳でも――ないみたいだし」
落ち着いて思い出せ。弾幕ごっこを終えたあとの私のフランドールの会話。
それは捉えようにとっては酷く些細な疑問で、
しかし彼女にとっては、私より遥かに長い時間を生きていながら、されど幼い虹色の悪魔にとっては、
……多分、耐えられぬ現実。
私は息を吐く。やれやれ、と苦笑の呟きが混じってしまった。
「記憶はあるし、感情も残ってるみたいだ。となると残ったのは、」
「ええ、そうみたいね」
私の言葉を結論まで聞かずに、知識の少女は首肯する。
でも、とパチュリーは柄にも無く縋るような視線を見せた。
「残念よ、と言う言葉を送ることは許されるのかしら? この私に」
「あ? 気にするなよ、パチュリー。おまえが悪い訳じゃないさ」
尤も、と私は胸のうちで苦笑する。
誰が悪いという話は、いまの私には最早意味がないのだろう。
でも、とパチュリーは、私の思惑を否定するように呟く。
「魔理沙。貴方は壊れてしまった。私の知識では修復不可能なほどに」
それは、おそらくは少女の心遣い。
どうしようもない事実を、どうしようもない事実だからこそ包み隠さずさらけ出す、真実の優しさだ。
だから私は苦笑する。知ってるぜ、とその気持ちを受け止めた。
「フランの能力は容赦が無いからな。ま、仕方ないだろ」
「……そうね。でも魔理沙、私は残念よ。これでもう、貴方に――」
夢呟くようにそう言って、パチュリーは距離を詰める。目の前に少女の瞳が見えて、唇が、同質の柔らかさに圧された。
けれど、私はぼんやりと思う。
ああ、やはり私は壊れたのだな、と。
やがてパチュリーは唇を離し距離を取る。
その眼が灯すのは憐れみと悲しみ、そして……何なのだろう。私の知らない感情。
「これでもう、貴方にこんなことをしても意味が無い」
パチュリーの言葉には、不思議と怒りがある。
独占欲にも似た、征服欲にも似た、私の知らない感情の奔流が。
少女は私に背を向け、詠う様に呟いた。
「けど、或いは僥倖かもしれない。これでもう、魔理沙、貴方に私のどれほど汚い面を見せても、貴方は決して私を嫌わない。私を否定しないのだから」
返す言葉が見当たらず、私は少女の背中を見ながらパチュリーの言葉を聞く。
唇にはパチュリーのそれの感触が残り、熱が残留している。あと僅かで消え絶える、知識の少女の温もりが。
以前の私なら、どうしたのだろう。驚き、焦っただろうか。それとも静かに受け入れたのだろうか。
でも、結局は瑣末事。過去の、失われた推測だ。いまの私は、パチュリーの突然の行為に対し、驚きや焦りは確かに覚えているものの……それだけ。そこで行き詰ってしまっている。感情は他の感情を引き出さず、常に単品として隔絶されつつ私の中で浮かび弾け消えてしまう。
だから、私は肩を竦めるだけだった。
そんな私に、パチュリーは背を向けたまま静かに告げた。
「出て行って、魔理沙」
「あ?」
「だから、出て行って、魔理沙。眼が覚めたのだから、レミィや咲夜にも顔を見せておきなさい」
「いきなりだな」
「煩いわね。いいでしょう、別に。……泣く時ぐらい、一人にさせなさい」
最後の言葉は酷く小さく、耳に届いたのは間違いなのかもしれなかった。
私はベッドサイドのテーブルの上に載った愛用の帽子を被り、聞こえなかったふりをして部屋を出る。
と、ドアを潜ったその瞬間。
「魔理沙」
小さな呟きが、私の名を刻んだ。
私は足を止め、しかし答えず、背を向けたまま少女の言葉を聞く。
「妹様が言ってたわ。両方とも壊しちゃった、って」
それは――なるほど。そういうこと、なのか。
「だから、もし貴方の壊れたものが私たちの想像している通りのものなら、魔理沙。貴方はこれからどうするの?」
「分かってるだろ? どうにもならないと思うぜ」
会話はそれで終わり。
私は今度こそ部屋を出て、少女はそれを止めなかった。
向かったのは、この紅魔館の幼い主、レミリア・スカーレットの部屋だ。
私が足を踏み入れると、周囲と変わらず紅い――いいや、館の他の個所の何処よりも深く深い紅の部屋、その中央に据えられた豪華な天蓋付きベッドに腰掛けて、レミリアは私を待っていた。
「眼が覚めたのね。身体は無事?」
「身体はな」
そのように問うということは、この吸血鬼は私の存在に起こった破壊を既に承知しているらしい。
レミリアの言葉に苦笑しながら答えて、私は適当な椅子に腰掛ける。窓に視線を向ければ、はためく薄紅のカーテンの向こう側は夜の闇。吹き込む風は不思議と冷えている。
しかし部屋の主は何も気にしたふうではなく、静かに微笑んで見せる。
「それなら重畳でしょう、魔理沙。最低限身体が無事なら、生きながらえることは出来るわ。尤も、いまの貴方は既に生きながらえているのでは無く……在りながらえている、とでも言うべきなのかしら?」
「さあな。その辺はパチュリーか、そうだな、幽々子あたりにでも聞いてくれ」
「お断りするわ。面倒だもの」
嘲笑うようにそう言って、レミリアはベッドを降りる。小柄なその身体が向かうのは、開かれた窓。吹き込む冴風に僅か髪を揺らせながら、吸血鬼の少女は空を仰ぐ。視線の先を追えば、吸い込まれそうな果ての無い夜の空、その只中にぽかりと浮かぶ欠けた月がある。
「それで」
ぽつりと紡がれた言葉は、ひやりと冷たく耳に届いた。
「これからどうするつもり? 魔理沙」
「そうだな。特に何も考えてないんだが」
「行き当たりばったり、ね。貴方らしいわ。でも、」
レミリアは、そこで一旦言葉を切る。
僅かな間を――それが逡巡かどうなのか、私には分からない。ただ、そんな私の思考を無視して、少女は毅然と告げた。
「でも、もし貴方がフランを悲しませたら、私は貴方を絶対に許さない」
「やれやれ。随分な言い分だな。どっちかって言えば、私が悲しまされたんだが、今回」
「でもいまの貴方は悲しむことなんて出来ないでしょう?」
「感情は残ってるぜ?」
「ええ、知ってるわ。確かに魔理沙、貴方に感情は残っているでしょう。フランの言ったことが真実ならね」
幼い吸血鬼は淡々と語り、私に冷めた視線を向ける。
「今回の件、非は間違いなくフランドールにあるわ。でも魔理沙、もし貴方がフランを悲しませたら、私は決して貴方を許さない」
あまりと言えばあまりに過ぎる宣告に、私は苦笑してしまう。
それが気に障ったか、レミリアは眉根を寄せて顔を顰めた。
「何よ。人が真面目に言ってるのに」
「ああ、悪い。ちゃんとお姉さんしてるじゃないかと思ってな」
「当たり前でしょう。フランドールは私の大事な妹よ?」
何を当然、と言わんばかりのレミリアに対し、私はコメントを控えることにした。
勿論私は覚えている。以前に起こった紅魔館を中心に据えた一騒動、その後日談。私こと霧雨魔理沙が、初めてフランドール・スカーレットと顔を会わせたあの事件。それまでずっと、何百年という長い年月を幽閉され過ごしてきた悪魔の妹。
そして、そんな少女と同じ館でしかし普通に生活していたその姉の吸血鬼。
正直、私には想像がつかない。妹をそれほどまでに長い間幽閉したレミリアの思いも、それに甘んじたフランの過去も。
ただ、それでも――見当なら、着くのだ。
例えば、そう、レミリアがフランを幽閉したのは、間違いない真実の優しさ故だとか、その程度なら。
フランドール・スカーレットの力は圧倒的だ。あらゆるものを破壊しうる彼女は、おそらくは概念的なものすらも壊せるのだろう。いや、だろう、という言葉は既に不適だ。何せその概念を壊された私がここに居る。
それはともかく、だからこそ――レミリアはフランを幽閉したのだろう。
あらゆるものを壊すということは、あらゆるものを喪うということと同義だ。それも幼い、分別のつかぬ時分なら、己の能力を理解しえぬ内なら、その喪失はより甚大だろう。
それを防ぐため――フランがあらゆるものを破壊するのを阻止するためではなく、何かを壊し喪うことによってフランドールが悲しみと罪を背負うのを防ぐため、レミリアはフランを幽閉したのだろう。幽閉し、何も与えず、よって何も壊させず、何も喪わせず、何も悲しませなかったのだろう。
「悲しませやしないぜ。フランは別に、こうなることを理解して私の「それ」を壊した訳じゃないだろうしな」
「それはそうでしょうけれど。でも魔理沙、あなたは――ああ、そうだったわね。その思いは、絶対に変わることがないのね。これから遥か、悠久に」
憐れむような、それでいて突き放すかのように呟くレミリア。
私は頷く変わりに背を向ける。
「そろそろ帰らせてもらうぜ。咲夜の姿が見えなかったけど、よろしく言っておいてくれ」
「あら、そう? フランドールには会っていかないの?」
「いま会っても無駄だろ。フランはよかれと思ってやった訳だし、いまの私にフランを責めることは出来ないし、フランもぴんと来ないだろ。自分の罪なんて」
できればフランにはそれに一生気付いて欲しくないのだが、そうも行くまい。
彼女はあれで中々聡明だ。ならばその罪に、私を決定的に破壊したという罪に気付くのもそう遠い話ではないのだろう。
まあ、と私は苦笑に混ぜて言葉を閉める。
「時間は末永くあるわけだしな。ゆっくりやるさ」
「そうね――じゃあ、これからもよろしく。魔理沙」
「ああ、こっちからもお願いするぜ、レミリア。多分私の方が長生きしてしまうんだろうけどな」
「ご愁傷様」
そんな短い合図を別れの言葉とし、私は紅魔館を立ち去った。
近いうちに霊夢に会いに行かないといけないな、と頭の片隅でそう思いながら。
実に一週間ぶりとなる(実感は無い。なにせ寝ていたのだから)我が家に戻ったのは、既に東の空が僅かに明るくなり始めたころだった。随分とゆっくり飛んでたな、と苦笑交じりに思いながら寝室に向かえば、私のベッドの中でどこかで見たたスキマ妖怪が爆睡こいていた。
とりあえず全力でマジックミサイルを打ち込んでみた。遠慮も手加減も無く。
どかーん、と言うべきかばかーん、と言うべきか、とりあえずそんな感じの派手な爆発が起こる。と、立ち篭った煙の中、ベッドの上からべちと紫が地面に落ちた。うつ伏せに倒れたままぴくりとも動かないので、まだ寝てるのかと思いもう一度マジックミサイルを撃とうとしたら、すんでのところで紫が顔を挙げ、身を起こした。ちっ。
紫はすすに汚れた顔で不満気に私を睨む。
「いつもの事ながら、乱暴ね。何するのよ、いきなり」
「それはこっちの台詞だぜ。何してるんだおまえ。私の家で」
「あら、ここ貴方のお家だったの? 長い間留守にしてたから空き家かと思ったわ」
「留守、とか自分で言ってるくせに空き家とか言うんじゃない。と言うかおまえの家はマヨヒガだろ。帰れ帰れ」
「ぅー、魔理沙がなんか意地悪……あら?」
寝ぼけ眼を擦っていた紫が、何かに気付いたかのように小さく呟く。その顔から弛緩が抜け、刺すような鋭い視線が私に向けられた。
紫は取り出した扇で口元を隠し、窺うように、或いは射殺すように私を見ながら問う。
「何があったの、魔理沙。随分と大事なものがなくなっているようだけど」
「凄いな。分かるのか?」
「当たり前よ。だっていまの貴方には境界しかないのだもの。異常が過ぎるわ。人間でもないし、かといって私たち妖怪の範疇からも逸脱している。随分と面白い存在になったわね、魔理沙」
「……随分と遠慮なく言うじゃないか」
「あら、間違って?」
「いんや。正解だ」
境界しか無い……なるほど。これほど端的に私の状況を示した言葉は無いだろう。
紫はしばらくの間私を睨みつけていたが、やがて飽きたかのように身体の緊を解いた。
「まあいいわ。私には関係の無いことだし」
そんな地味に薄情なことを呟いて、大きな欠伸をしてみせる。
「あーあ、せっかく気持ちよく寝てたのに。眼が覚めちゃったじゃない」
「知るか」
「あら、いけずねぇ……仕方ないわ、帰るとしましょう。でもあっちだと今度は藍が眠らせてくれないのよねぇ」
ぶつくさとぼやきながら、紫は扇子を縦に振り世界の隙間を開く。
じゃあね、とその隙間に消えようとした紫に――境界を操るという、ともすればこの幻想郷をすら潰しうる妖怪の背中に、私は思わず声を掛けていた。
「待て、紫。一つだけ聞かせてくれ」
「あら、何かしら?」
身体を半分ほど隙間の向こうに落としこみながら、気だるげに私を見る紫。
私はその疑問を告げようとして、迷った。ここに来て逡巡した。
……だって、それは決定的なのだ。あまりに単純な疑問で、答えは是か非の二者択一。私が願う答えなら問題は無いのだが、もしそうでないのなら。
私は、どうなってしまうのだろう。
どれだけ躊躇っていたのだろうか。紫は気だるげに、しかし問いを躊躇う私を楽しむように観察していて、そのことに気付いた私はようやく声の震えを必死で押し隠し、端的に問うことが出来た。
「おまえは――幻想郷は、私を受け入れてくれるのか?」
答えは、酷く端的。
「知らないわ。霊夢にでも聞きなさい」
ごく当たり前のように、まるでその答えが何年も昔から用意されていたかの如く、隙間を操る妖怪はそんな言葉を返してきた。
だから、私は苦笑してしまう。理由は簡単だ。紫の言葉が、あまりに私の予想通りだったが故。
紫はそんな私を冷めた眼で見たまま、淡々と告げる。
「私は維持者であって管理者ではないわ。異物の処理と例外判定は然るべき者に窺いなさいな」
「管理者、ねぇ。ま、あいつならいまの私を見ても特に何も言わなそうだけどな」
「あら、いいことじゃない。此処は元より外界からあぶれた者、外れた者が辿り着く吹き溜まりだもの。霊夢の価値観が幻想郷の価値観であれば、何も問題は起こらないでしょう?」
「あの無関心さが、か?」
「違うわ。寛容なのよ、何処までも、果てしなく」
囁き笑うようにそう言って、紫は扇を翻す。
僅かな風が起こり、消えた後には紫の姿は何処にも無かった。
朝日が差し込む部屋の中、私は一人でただ佇む。
やがて、私はひとり呟いた。
「……霊夢、か」
博麗霊夢。私にとっては馴染みの深すぎる名前。幻想郷の境界、博麗神社を収める巫女。
思い返せば――否、思い返すまでも無く。私の記憶には、霊夢との思い出が多すぎる。おそらくは、きっと。その気になれば、私は多分あいつと出会ったその瞬間からの全ての記憶を余すことなく思い返すことができるだろう。
だけど、その行為に最早意味は付属しない。
だってほら、どれだけ思い返しても、どれほど振り返り仰ぎ願いても、それらの記憶は私の感情になんら波風を起こさせない。
……正確に言うのなら、起こしてくれなどしない。
私が抱えるどんな記憶も、足跡も、思い出も、全ていまの私になんら影響を及ぼしはしない。
なぜなら、私は壊れてしまったのだから。
パチュリーとの会話を思い出す。
私が目覚めたとき、私を心配そうに見つめていた知識と日陰の少女。
人の唇を奪っておきながら、こんなことをしても意味が無い、と自嘲した図書館の主。
そしておそらく、誰よりも嫉妬していた彼女。
レミリアとの会話を思い出す。
私に非は無いと言いながら、しかしフランドールを悲しませるのは許さないと断じた幼い吸血鬼。
常に瞳に嘲笑の色を、私ではなく自らを嘲る色を灯していた紅い悪魔。
そしておそらく、今回の件で一番責任を感じている彼女。
紫との会話を思い出す。
変わってしまった私の本質を一瞬で見抜き、それでいて自分には関係ないと感じた維持者。
事態を何も知らず、しかし誰よりも私を理解しているであろう境界弄り。
そしておそらく、これからも何もすることの無い傍観者。
私は、最後に、フランドールのことを思い出した。
最後の記憶。私が私であり、七日間を眠り壊れてしまう直前の記憶。
それはいつも通りの会話で、遊びで、いつもとは違うフランの疑問。
何時までも私と一緒には居られないという事実を不意に理解してしまった、フランドールの我儘だ。
「嫌。そんなのは、嫌」
何処までも深く紅い紅魔館の中、永い間独りで在り続けた少女はそう言って泣いていた。
「どうして? どうして魔理沙はそんなことを言うの? どうして魔理沙は何時までも一緒に居てくれるって約束してくれないの?」
どうして、と問われても答えに困る。何時までも、と言われても私たちが生きる時間は違うのだ。私は、確かに魔法使いでこそあるものの人間であり、フランドールは吸血鬼。確かにいろいろと手を尽くせば多少永らえることは出来るが、それでも本質的な差は埋まらない。フランドールと私とでは、明らかに私の方が早く死ぬのだ。
それは、どうしようもない現実。聞いたことはないし、尋ねようとも思わないが――おそらくレミリアと咲夜はごく自然に受け入れているだろう、当たり前の結末だ。
だが、それを――幼い彼女は、認めることが出来なかっただけの話。
多分、嘘をつくことは出来た。当たり障りの無いことを口にして、フランの癇癪を止めるだけのことはできたと思う。
ただ、私はそれを是としなかった。理由は今でも、いいや、いまとなったからこそよく分からない。単に嘘をつくのが嫌だったのか、それとも……憶測だが。
私は、フランを偽るのが我慢ならなかったのかもしれない。
ただ、まあ……それらも、いまとなっては瑣末事。
フランは私の言い分を否定して癇癪を起こし、やがてその結末に行き着いたのだ。
「そうだ。ねえ、魔理沙」
その時の笑顔を、私は不思議と鮮明に覚えている。
フランドールは泣きはらした紅い瞳で私を見て、にこり、と、何も知らぬ童女のように微笑んだ。
「魔理沙が私より先に死んじゃうなら、」
少女は歌うように、歌うように、そして夢見るかのように言葉を口にする。
「それなら、私はそんな魔理沙の未来を壊すね。私の力で、魔理沙を私と同じにしてあげる。魔理沙は私とずっと一緒に居るの。だから任せて魔理沙、あなたを永遠にしてあげる。ずっと遊ぼう? 明日も、明後日も、次の春も夏も秋も冬も何時までも。ずっと魔理沙は魔理沙のままで、これからずっと、ずーっと、私と一緒に居よう? 私の能力で、魔理沙、魔理沙を束縛する全てのものも壊してあげるから!」
そんな言葉と一緒に振るわれた力は、私がいままで眼にしたあらゆるフランのそれより凄まじく、素早く、容赦が無かった。
……思い返せば、それだけの話。
輝くような笑顔のフランに代わり、眩いばかりの光が私の視界を埋め尽くし、そうして。
――そうして私は、私の変わり行く先、つまり未来と。
私を束縛する全ての過去とを、破壊されたのだ。
気がつけば、部屋に差し込む朝日は随分とその強さを増していた。光の差し込む角度も高くなっているし、どうやら随分と永い間考え込んでいたらしい。
私はそんな自分に苦笑して、くしゃり、と帽子を握る。乱れたままのシーツを直すこともせず、ベッドに腰を下ろした。この辺は私が先ほどマジックミサイルを打ち込んだ場所だが、侮るな、私の寝室だ。あの程度の魔力では煤一つ着いていない。……以前に寝ぼけて全力で魔法を撃って壊してしまい、懲りたので頑丈なのを香霖に調達してもらったのは秘密だ。
それはともかく――私はベッドに腰掛けて、ぼんやりと窓の外を見る。朝の光、いいや、そろそろ昼の光になりつつあるそれを浴びている魔法の森。昨日と同じようでいて、昨日とはまるで違う一日の始まり。
それは、私から完全に喪われてしまった概念だ。
……フランドールは何時気付くのだろう。彼女が私にしたことは、私を殺すということよりよほど重い罪を彼女に背負わせてしまったのだということを。
私は、最早変われない。これからどれだけの経験をしようと、どんな場面に出くわそうと、決して私は生き方を、見解を、価値観を変えることが許されない。私はずっと私のままで、おそらくは死ぬことすらなくこのまま在り続ける。過去は私を縛ることなく、どんな思い出も最早ただの知識に成り下がった。私が――以前の私が胸にしまった大事な記憶も、夢も、叶うわけないと自嘲した願いすら、全てが一辺倒の知識の欠片に押し潰された……私の好む好まないに関わらず。
だから、私は思うのだ。
そんな私は――過去の意味をなくし、未来を奪われた私は、果たして人間なのだろうかと。
「……うだうだ考えても仕方ない、か」
呟いて、立ち上がる。
耳元に残ったのは隙間に消えた妖怪の声。
人間ではない、と彼女は言い、
妖怪でもない、とそう断じた。
ならば、ああ、つまりそういう訳で。
――――私は、いまのところ、誰でもないらしい。
家を出れば、外は既に昼。今日は随分といい天気だ。時間もいい頃合だし、いい加減霊夢も眼を醒ましているだろう。
私は愛用の箒に跨り、空を飛ぶ。
向かう先は一つしかない。
幻想郷の管理人、境界の上に在る博麗の巫女の元。
誰よりも寛容で、何処までも無関心極まる、
いまの私を、誰でもない誰かから一人の霧雨魔理沙に認定しうる、唯一の友人の下へと。
極限の微小はそのまま0に等価となる。
……そんなことを思ったりしました。
感情が壊れていないだけになんともいえませんねぇ
なによりも、やったフランは気付くのだろうか
これで魔理沙にとって、霊夢以外の存在は殆ど無価値になってしまったことに
これ続けてくれたりしないだろうか?
いや、絶対に鬱系の話になるような気がするのだがw
永遠より不変、不変より停滞・・・
与えた者が成長するのなら、そこにある残酷さと苦悩とはどれほどか
彼女達への"救済"があるのなら、それが歪でも安らかなモノである事を・・・
忘却とか気付かない事のシアワセってこういう時のものかなと
・・・思いました。
なんていうか本当に楽しみです。どうなるんだろう
でも結構重い話なんですよね…
わたしおかしいのかな・・・・・・
この後の話は気になりますが、魔理沙の変化については何も感じられませんでした
なんて言うか、何がどうあっても魔理沙は魔理沙であってどう変えられようが霧雨魔理沙と言う人格があるのならそこからどうにかしてあがき続けると思います
たとえ、変わらない存在になったとしても
あ~読解力が無いのかなぁ~
やり方はずいぶんと乱暴だけど効果はほぼ変わらない気がする。
何があろうと不変たる「本質」。終わりがないのが終わり。
それでも前を向くのが魔理沙だ、と思うのは私だけでしょうか?
これって魔理沙が新しく知識を得ても今までの知識に、今得た知識は『変化する』んですかね?
つまり、今までは経験や知識をつむと
今まで+要因=変わる
『変わらなくなった』だと
今まで+要因=変わらない
あ~説明難しい・・・・・
つまりは何かをして魔理沙が変われるなら永遠は特に気にしないと思います
逆に+思考に変わるんじゃないのかな
幻想郷の連中もそこまでこだわらないし・・・・・
って、自己完結しようとしている(汗
続き楽しみにしています~ではでは~
レクイエムを思い出すわけですが。
しかし、確かに続きが気になるね。
ここで終わるのが「いい」のかもしらんけど。
終わりと始まり渡り行く、虹の翼持つその鳥の、
抜け落ちえざるその羽根一枚、力いっぱい引き抜いた。
きらきら光るその羽根を、欲した少女は喜ぶが、
己も飛び去る鳥の羽(は)一枚、それに気づくはいつの日か。
…思わずこんな短文が浮かんできました。非常に考えさせられる内容だったと思います。GJ!
概念的なものではありますけど、残酷ですね。
永久不変で存在し続ける…これほど酷なものはない。
果たしてフランドールがそれに気付くのはいつの日か?
気付いた時彼女はどうするのだろうか?
その時魔理沙は?
…って幻想だけが膨らむ…。
未来と過去を壊された魔理沙は、結局は今という境界(未来と過去の狭間である現在)にしか留まれなくなってるのではないかと
外面としての今の魔理沙を魔理沙足らしめている過去という要素と、別の魔理沙というものを形作っていく未来という要素を壊されたから、変化できない=不変の存在になったという感じ。
元々過去も未来も概念みたいなもので、記憶とか感情とはとはまた違うものだと思うから、結局は今の魔理沙には変化がない。
でも、パチュリーに口付けをされて驚かないのは、それは今の魔理沙としての過去がないから、それをどう思うべきなのかがわからない<琴線が切れている感じで、決して揺れない
そして、過去も未来も外面としての魔理沙を形作るからこそ、それを壊された魔理沙はきっと誰でもないのだろう。その本質を認められない限りは
で、多分霊夢は、その外面ではなく魔理沙としての本質を常に見ていたのではないだろうか?
誰からも認められない存在を認めてくれる唯一の存在たる霊夢
常に一緒に居て欲しいからこそか魔理沙の過去と未来を壊したフラン
そして現在に留まり続けるしかなくなった魔理沙
果たしてどうなってしまうことなのだろうか?
因みに蛇足というか追加で思いついたことだと、過去も未来もない魔理沙には知識はただの知識なのだと思う。
多分、今の魔理沙にとっては、過去や未来の知識や記憶も、ガラス一枚隔てたところにある光景でしかないのだろう。
so氏の感想では、魔理沙が霊夢のような存在になってしまった気がするし
無為氏の感想では、なるほど蓬莱人のようになってしまったと感じます。
霊夢と蓬莱人が似ているとはあまり思わないので、不思議ですね。
ただし、その映写機が永遠に不変であること。
映像にも関わらず感情があるという違いはあるのだが。
そう問えなくなったのなら、もう貴方は人間ではない。
人間は、現実にだけ生きるもの。
現実は、前後の合わせ鏡により生まれる幻。
かつてとそしての鏡が無くなったのなら――
まぁ、擦りガラスでも張っておくのが一番なのでしょうね。
慣れた木枠は使い回しつつ。
以下、長文に過ぎるので、省略。
ゴチになりゃした。
これは、本の題名すら忘れたものの、メリケンのぷらぐまてぃずむなる物に一時期かぶれていた時に私が最も好きだった言葉であります。
さて未来と過去を完全に壊してきちんと今だけが残るかと言えば、しかしそれははなはだ疑問でございます。
自分が今その一点から永遠に自分が変わらなくなる、不老不死、永劫不変になると言う未来は、果たしてフランが未来を壊さなくても絶対なかった事象であるか? と思案をめぐらせればそれを否定できる要因は無いのです。
限りなく非現実的な話ではありますが、現実の我々にとってもそれを否定する理屈は、今までに例が無いから、恐らく今後も無いだろう、と言う予測的なものでしかありえないのです。 そう考えれば箱の中の猫程ではないですが、絶対に、と断言する事は出来ぬあやふやなものとなりましょう。
また、ありとあらゆる過去が自分を変える事が出来ぬ知識と成り下がった、と言いいますが、どんな事象も過ぎ去れば知識、または記憶の一部としてしか語れず、隠蔽や改竄は出来ても変化をさせる事ない絶対のものが過去と言う物です。
現に魔理沙、そしてパチュリーやレミリアはフランドールが破壊したものに対し認知しており、それを語り。 これはれっきとした過去でしょう。 ならばこの過去の事実に対し、少なくとも魔理沙はそれ以前の魔理沙と、少なくとも霊夢にのみ自分の足場を求める程には変わっているように思えます。
フランは魔理沙の未来を破壊した。 死を破壊した。 変化を破壊した。
しかしそれは、裏を返せば輝夜と同じ永遠を創り出した事を意味せず、創生の力を持たぬフランなら、それだけ残して壊した、とすべでしょうか?
全ての未来、破壊出来るものを破壊したと言うのなら、その不変の永遠すら残る筈が無い。 また、全ての過去を壊したと言うのなら、その壊れた過去すら残る筈がない。 だからでしょうか・・・。
まだ魔理沙とフランには、そんな完全なる永遠をも破壊する選択肢、つまり未来が残っているような気がすると言う、ここらへんがいささか読み斬れぬ凡俗の垂れ流しをば、失礼致しました。
もう、なんと言っていいか分からないくらい。
それは彼の「蓬莱の薬」を服用することよりも恐ろしい事だと思います。
…少なくとも輝夜や妹紅は、精神的に成長する事が可能なのだから。
けど何が壊れたのかが解った瞬間、ああ、そういう事なんだなぁと理解しました。
未来を壊され永遠に変わらず生き続け、感情はあってもそれに付随するモノが何もなく、ただ知識と経験として蓄積され主観として感じる事が出来ないというのは、事実として受け止めるだけで悲しめない魔理沙は多分、存在としては空ろなんだと思います。故に境界しかない、と。
霊夢は一体どうするのか。フランは自分の罪の重さに気づくのか。これから先がどうなるのかは気になるので、もし続きがあるのなら読んでみたいとこです(笑
情景描写や心理描写が優れていて、非常に読み応えのある作品でした。
あるポイントで物体の全ての情報を抽出し、記録し、プログラム化する。
ある程度の自立思考をもった、外の人間で言うところのロボット。
フランは魔理沙を霧雨魔理沙っていう現象にしてしまったのか。
過去があるから今があり、今があるから未来があるのにそれが壊されるというのはどれだけ辛い事なのか・・・。
それとも、今しかない事は幸せな事なんでしょうか?
今しかない魔理沙はもう失う物も得られる物もないというのだろうか?
霊夢はいったいどうするんだろう。
ふと元祖直死の人を思い出しました。でも未来が無い魔理沙は更に悲惨。
霧雨亭に紫がいる理由がどうしても出てこなかったので減点10。知っていて待っていた感じもしませんし……読解力の無いアホで申し訳ないです。
周囲の反応から、過去と現在の違いについて認識していっていますね。それは変化でしょう。経験(思考と行動)を積み重ねている途中に見えるので・・・
何か的外れな意見だったら申し訳ない