惹句。
どうもどうもどもどもどーも、あなたの誠実なる小悪魔です。
あの、失礼ですが、死ぬの怖いですか?
死ぬの嫌ですか?
まあ普通は嫌ですよね。
では他人から死ねと言われるのはどうでしょう。
これも不快な体験でしょうね。
死は本能的な恐怖ですから、死ぬことを命ずる『死ね』という言葉は人間の心をひどくうちのめすに違いないのです。
ただし、『死ね』と命じて実際に死んでくれる人間はほとんどいません。
人間の心はよくできているものでして、予測されるダメージに対して身をかたくします。
すなわち『死ね』と言われると、なにくそと思って、死んでやるものかと無意識的に防衛してしまうものなのです。
悪魔としては人間様に死んでいただきたい。それもできうる限り効率的に死んでいただきたいのです。もちろんレベルを上げて物理で殴ればいいという方式も存在しますが、それではあまりにも無粋で動物的。悪魔は高等種族を自称していますから、人間ごときにわざわざ物理的な力を行使する必要はないのです。
悪魔が用いるのは、神が用いるのと同じく言葉。
言葉をつくして、人間に死んでいただくというのが理想のかたち。
ですから、悪魔が人間に『死ね』なんて強圧的に接するのは稀でして、普通は、『あのう、すいませんけれども死んでくれませんか?』とか『あなたには、死ぬという選択肢もありますよ』とか言うものです。
人間様は総じて天邪鬼ですからね。
最初から喧嘩腰だと、言われた方は『じゃあ死んでみようかな』とかいう気持ちがなくなるものです。
まずは、親切丁寧に人に死んでと頼むべきだと思いますよ。
そこから、人の輪と協調が生まれ、『よーし死んでみるか』という気持ちが生まれるわけです。
1
おれは窓の外を望んだ。
それにしてもいい景色だ。瀬戸内海はその名のとおり内海だからか波が比較的おだやかである。
まだらもようの翠色をした絨毯とぽつりぽつりと見える島。それらが独特のリズムを作り出していて、見ているだけで心が安らぐ。
海からの風は少しだけ塩の匂いがしていて、それもまた心地よい。
塩害もひどそうだが、どうやって防止しているんだろうな。
無粋な考えか。
ここは旅館である。瀬戸内海に面したそれなりに豪華なところに泊まっている。
老舗というわけではない。
女房も畳も、そして旅館も新しいほうがいいに決まっている。
確か数年ほど前にできた新しい旅館で、バックには有名なホテルがあるらしい。旅館は日本人向けのホテル経営の実験かなにかだろう。
こんなふうに書くと、もしかすると旅館っぽさがまったく無いのではないかと思われるかもしれないが、そんなことはない。
女将さんは日本人だし、畳の上を靴のまま歩くとかいうこともない。
作法自体は普通の旅館と変わらない。
畳はまだ新しい独特の匂いをはなっていた。大の字に寝転がり、手足を伸ばすと気持ちがいい。
大きく息を吐く。疲れとも安堵ともいえる溜息。
じわりと広がる幸福感。
自由だ。
そう、おれは自由になったんだ。
おれはもう五十台の立派な中年であるが、男というものはいつだって自由を追い求めるものだと思う。それこそ少年の頃から死ぬまで変わらないだろう。
自由は実体がないから、そんなものを掴めるはずがないというのはわかる。だが、例えばそれは解放感のようなものかもしれない。
ありふれたことである。つまりは
――離婚した。
熟年離婚というものにあたるのだろうか。
妻の側からの申し出で、当然おれとしては理由を聞いてみたのだが、あちらは感情的になっていて理由がまったく論理的ではなかった。いや、結婚も離婚も――つまるところ、人を好きになることや嫌いになることに理由なんてあるはずもないのだ。おれなりにまとめると、仕事ばかりで家庭を省みなかったおれへのあてつけというところだろう。
しかし、実際おれは薄情な性格だったらしい。内心、悪くはないと思ったのだ。
もう少しで定年退職だし、娘も独立したし、これからは夫婦でやっていこうと一応言ってはみたのだが、心の中ではこれから先ひとりで生きていくことに魅力を感じてもいたのである。妻をうとましいと思ったわけではない。しかし、既にいっしょに住むということに実感がなくなっていたのかもしれない。家に帰って遅い夕飯を食べて、それから寝る。朝は早くにでかけて、また夜遅くまで帰ってこない。こんな生活をしていたら、一日の大半は妻と会話をすることもなく過ごしていることになる。
これから先、仮におれが定年退職したら、妻と四六時中顔をつきあわせて過ごすことになる。そんな生活に耐えられるだろうか。
もう一度言うが、おれは妻のことをうとましく感じたことはないし、夫として愛していないわけでもない。ただ、ずっと一日中同じ人間と暮らしていて、息が詰まるような感覚を覚えることはないだろうか。こんなことは家族であってはいけないと考えを振り切ってはみるものの、やはり無意識の呼び声を無視することはできない。
自由が欲しかったのかもしれない。
だから、おれは一も二もなく、すんなりと了承した。
離婚の手続は思っていたよりもあっけなく、粛々と終わった。
思えば、結婚式ではあれだけど派手にパーティをするくせに、終わりである離婚では葬式のような式典すらおこなわれないのは妙なことだ。おそらく離婚が原則的にはしてはいけないこととされているせいだろう。おれは例外的な人間なのだろうか。
それでも――
おれは今、言い知れない解放感をかんじている。
「失礼いたします。夕食の準備が整いました」
そうこうしているうちに、仲居さんと従業員の人が御台をもってあらわれた。
こんな高級旅館に泊まったことは久しくなく、おれはなぜか恐縮してしまい、座椅子の上でかたまって、夕飯が配置されるのをただひたすら待った。
こういうとき王様のように振舞えないのは日本人の美徳といえるだろうか。あるいはおれが小心者なだけかもしれない。ひとりになってようやく落ち着いて夕食を眺めることができた。目を惹くのはなんといっても舟盛りだろう。例の木でできた小さな船の上に鯛のお頭が乗っている。その横には羹。しゃぶしゃぶ。そのほかにもいろいろ。正直、名前もわからないがとりあえず頼んだものまでずらりと並んでいる。もちろん全部を食べきることはできないだろう。しかし、普段しないような贅沢をしてみることで、家族という呪縛から逃れたような気分に浸れた。もちろん、胸の奥ではひんやりとした寂しさのようなものも感じてはいたが、満足感のほうが大きかったのである。
夕食を食べたあとは、温泉に入り、部屋に戻ったころには布団が敷かれていた。
布団のうえにごろりと横になり、NHKを見ていると、おれにとっては特に関係もない政局についてニュースキャスターがなにやら言っていて、ビールを飲んで気持ちよくなっていたおれはそのままうとうととしだした。
それから眠りに落ちるのに時間はかからなかった。
2
飛び起きたのはそれから幾ばくか経った頃だろう。
ジリリリリンという昔ながらの電話の呼び出し音が突如部屋のなかに鳴り響いたのである。
なんだろう。
部屋の中の時計を見ると、もう真夜中といってもよい時間だ。
こんな時間に旅館の従業員が電話をかけてくるはずもないし、いったい何事であろうか。火事か。あるいは家族の不幸か。
しかし辺りはシンと静まり返っていて火事であるということは考えにくい。
家族の不幸だろうか。
おれは恐る恐る電話を手に取った。
「どうもどうも、あなたの誠実なる小悪魔です」
小悪魔?
なにかのいたずらだろうか。
おれは受話器を置くべきか否か逡巡する。
「あれ。魔理沙さん?」
「僕は魔理沙とかいう人じゃないよ。間違い電話じゃないですか」
おれはぶしつけに言った。
起こされて不快だったというのもあるが、相手が知らない人物なので対応が硬くなってしまったのだ。
若い女の子の声だった。
決して不快ではない。むしろ耳触りのよいハチミツレモンのような声である。
「あれ。もしかして混線しているんですかね。ごめんなさい。そのそちらは?」
「そちら?」
間違い電話ならすぐに受話器を置くのが普通だろう。
これはなにかの商法なのだろうか。
考えていると少女の声が続いた。
「失礼ですが、もしかしてあなたは男性ですか?」
「ああ、そうだが」
なんなのだろう。どういう文脈で男か否かを尋ねる必要があるのか、さっぱり思いつかない。
受話器を置くべきか迷う。しかし少女らしい張りのある声は何かを確認しているようで、特に悪意があるようには思えなかった。
「そうですか。わかりました。時々あるんですよね。ここの電話が外の世界に繋がっちゃうこと。でも素敵ですね」
「素敵?」
「実はわたし、とても閉鎖的なところに住んでいるんです。ですから、外に電話をかけることも禁止されているんですよ」
「ふうん」
正直あまり興味のあることじゃない。
だが、なんとなく電話を切るタイミングがわからず、そのまま聞き流すことにする。
「あの、こんなことを言うのもなんですが、少しお話しませんか」
「話? べつにいいけど、君、家族に叱られるんじゃないかい」
「んー。確かに仕事をしろって叱られちゃうかもしれませんけど、外の方とお話する機会なんてめったにないですから、わたくしとしては叱られることよりもチャンスを活かしたいですね」
少女の言い分は、どうやら思春期特有の自由を求める性分でできているように思えた。
ずいぶんと閉鎖的なところで育ったのだろうか。外の世界に憧れのようなものをもっているのだろう。おれと同じだ。おれも自由でありたいから離婚した。おれが今はなしている少女は囲われている世界から抜け出そうともがいている雛鳥のように思えた。
少しぐらいは話してもいいだろう。いかがわしい話になりそうだったらすぐに電話を切ればいい。
とはいっても――何を話せばいいのかさっぱりわからない。
相手はおれの娘と同じぐらいの年頃の子である。いやそれよりも少し下だろう。声だけだから判別はつきにくいが、言い回しの丁寧さと声の質から考えれば、高校生か大学生といったところだろう。いずれにしろ、おれとは話題がまったくあわないことは優に想像できる。
「あの――よろしいですか?」
「ん?」
「話してもよろしいですか」
いまどき珍しい礼儀正しさだ。おれは最近の子どもを色眼鏡で見ていたのかもしれない。
それともこの子が例外なのだろうか。
おれは考えながら口を開き、遠慮がちに言った。
「ああかまわないよ。どうせしばらくは暇だからね」
「ありがとうございます。さっそくですけれど――そうですね。あなたのことを教えてください。もちろん教えられる範囲で結構です」
「僕はいわゆる商社のサラリーマンをしている。いちおう部長だよ」
「瀟洒なサラリーマンなんですか。うちにも瀟洒な方はいますけれど、なるほど外でもそんな方はいらっしゃったのですね」
「商社のサラリーマンが珍しいの?」
「うーん。閉鎖的なところなので珍しいのかどうかもよくわかりません。けれど珍しいほうなのではないかと思います」
「君の住んでいるところは、その、ずいぶんと……牧歌的なところなのかな」
「そうですね。とても平和なところだと思いますよ。けれどわたくしとしてはそんな場所が憎らしくもありますね」
「憎らしい?」
「平和は停滞じゃないですか。争うことをやめたらもう生きているとは言えませんよ。ただ死んでないだけです」
「まあ確かにそんな考え方もあるだろうな。ただ競争ばっかりしてると疲れるよ」
「そうですね。時々は競争することが必要みたいです。こっちでも形式化された傷つかない競争みたいなのが流行ってるんですけど、欺瞞くさくて嫌いなんですよね」
「欺瞞か」
少女らしいまっすぐとした気持ちだろう。
悪く言えば、清濁併せ呑むことを知らない未熟さともいえるが、おれとしては純真な子だなというイメージを強く抱いた。
「ところで、部長さんってもしかして偉かったりするんですか?」
「偉いかどうかはわからないけれど、まあそれなりじゃないかな」
「すごいんですね」
「まあ、仕事一筋にがんばってきたからね」
「あれ。でも今日はお暇なんですよね? お仕事はお休み中なんですか」
「有給休暇中だよ。でも、実は仕事辞めようかなと思ってるんだよ」
「え、どうしてです? 仕事一筋だったんでしょう」
「実は最近宝クジが当たってね。べつに仕事をしなくても生きていけるようになったんだ」
「宝クジですか。うらやましいですね。おいくら当たったんです?」
「まあとりあえず百万よりは多いよ」
実を言えば、一億だ。
妻と離婚したすぐ後に、ふと思いついて買ってみると大当たり。妻にも――いや、妻だったあいつにも連絡しようと一瞬思ったものの、もはやあいつとは縁が切れたのだと思い直して、なんとか踏みとどまった。財産分与はきっちりおこなったのだ。建前上は男女共同参画社会とはいえ、経済的にはまだまだ弱者にあたる妻に対し、生きていくのに不自由がないように家と財産のほとんどは明け渡したのである。それ以上は、おれが自分の力で得たものであり、おれのものだ。なんの非難をうけるいわれもない。娘には連絡すべきであると思っているが、とりあえず今はまだしていない。そのうちしようと思っているものの、娘は娘ですでに家庭を持っているので、なにかのついででも良いだろう。
ともあれ、一億円である。知ってのとおり宝クジは税金がかからないので、そのまま手取り一億円。サラリーマンが生涯に稼ぐ金はだいたい平均一億円であると聞いたことがある。つまり、既におれは生涯に稼ぐだけの金を得たのだから、もはや仕事をしなくてもよいのである。
いまかんじている解放感の正体は、仕事をしていかなくても生きていけるという事実によるものなのかもしれない。実際、しゃかりきになって働かなければならないというプレッシャーからは解放されていた。
「へえすごいですね。でも、お仕事を辞めるというのも覚悟がいるでしょう?」
「そうだね。なにしろ何十年も続けていることだからなぁ。簡単にはやめられないなぁ」
「責任感からですか」
「そんなたいそうなもんじゃないよ。惰性だよ」
「男のかたって、いまの生活を変えるのが苦手だったりしますよね。例えばずっと同じ床屋さんに通いつめたり。それと同じ気持ちでしょうか」
「うん。近いかもしれないな」
おもしろい喩えである。
しかも、当たっているかもしれない。おれは近所にいきつけの床屋があって、そこにしか行かないことにしている。たとえ金に余裕ができたとしても、おそらく変わらないだろう。
「お仕事続けられるんですか?」
「そうだねぇ。今は少し考え中かな。君はどうなのかな。なにか仕事をしているふうだったけど」
「はい。実は図書館で司書の仕事をしているんですよ」
「へえ。大学生?」
「いえ学生ではないのですが、言ってみればご奉公をしに」
「奉公? ずいぶんと格式ばってるな。君、日本に住んでるんだよね。日本語しゃべってるし」
「ええ、いちおう日本ですよ。すごく田舎な場所なんですよ」
彼女は柔らかく笑った。
ずいぶんと明るい性格をしているようだ。
「部長さんはどんなところに住んでいるんですか?」
「そうだな。海に近い場所かな」
本当は都心部近くで海なんてそんなに見る機会はない。いまいる場所を言ってみたのだ。
「海ですか? 海は見たことがないのでちょっと見てみたいですね」
「山のほうに住んでいるのかい」
「はい。そうです。大きな湖はあるんですけれど、やっぱり淡水だと味気ないですよね」
「確かに塩加減が足らないかもしれないね」
「おもしろいジョークですね」
電話越しからも、はっきりと人柄が伝わってくる。
温かみがあって、好ましい性格をしているようだ。きっと人を疑うことを知らないのだろう。司書という仕事も彼女に合っているように思う。きっと、厚みのある本をしっかりと両手に抱いて、小さな物語に一喜一憂するような、そんな優しい子なのだろう。
おれは自然と顔がほころぶのを感じた。
言ってみれば、道端にいるネコを見て、和むような、そんな感覚に近い。
彼女の純朴な受け答えは、久しく忘れていたコミュニケーションの楽しさを思い出させてくれる。
「奉公というのはよくわからないんだけどね。海が見たいなら海のある場所に行けばいいんだよ」
気づいたら偉そうに講釈をたれていた。
おれはそんなに偉い人間ではない。だが、彼女になにかしらアドバイスをしたかったのだ。
籠のなかの鳥にひとかけらでもよいから勇気を与えたかったのである。
「うーん。そうですね。でも今いる場所も気にいってるんですよ」
「そうか。ならよかった」
「血がつながってるわけではないですけれど、わたしのご主人様もとても優しくしてくださってますし、ご主人様のご友人にあたるお方も同じく寛容なお方です」
「奉公って、本当に他人のおうちに厄介になってるのかい?」
「はいそうですよ。わたしの家のきまりで、他人の家にご奉仕する契約を結ばなければならないんです」
少々驚いた。
いまどきそんな場所があるなんて、日本もずいぶんと広かったようだ。
「へえ。そんな仕事があるなんて知らなかったよ。それじゃあますますこんな電話をしていたらまずいんじゃないかな」
電話代がかかるといけないから早めに切り上げたほうがいいかもしれない。
しかし、ほんの少しだけいますぐに切ることが惜しいように感じもした。こんなに長く会話したのは久しぶりだったからかもしれない。もちろん仕事で会話もするし、娘とメールのやりとりもしている。だが、それらは本当に会話をしているといえるのだろうか。人と話しているといえるのだろうか。
自分でも情けないことに、おれは会話に飢えていたらしい。
「あ、大丈夫です。仕事はいまのところないですし、用事はあとで済ませればいいですから」
「しかし、電話代がかかると後で叱られるかもしれないよ」
「ああ……、なるほど、電話代ですか。でもこの電話。代金はかからないんですよ」
「代金がかからない? 定額ってことかな?」
そんなサービスがあったかよくわからないが。
「てーがく? あ、たぶんそんな感じです」
「ふうん。そうなの?」
少し妙な気もしたが、もしかすると彼女もまた会話に飢えていたのかもしれない。ご奉公しているというのが本当なら、いくら優しくしてくれるといってもやはり他人の家。気を使うだろうし、奉仕の心を忘れることもできないだろう。
いま、彼女は一時の弛緩を得ているのだ。
「なんだか懐かしい感じですね」彼女がしんみりと言う。「実家のお父さんと話しているような気分です」
「お父さんとは電話したりしないのかい?」
「それも難しいんです。実家には電話がないんですよ」
「それはまたとんでもないところだね」
「ああ、電話がないわけではないんですけどね。こちらに通じるような電話がないんです」
「なるほど。外国なのかな」
「そうです。とても遠いところなんですよ」
3
わずかばかり沈黙が続いた。
その数秒ほどの時間のなかに、彼女の寂しさが見えた気がした。
しかし、元来から口下手なおれがうまい言葉を探せるはずもない。
結局、沈黙を割ったのは彼女のほうだった。
「そういえば、部長さんのほうのご家族はどうなんです?」
これはおれが言わせた言葉だろう。
彼女は今頃家族の顔をひとりひとり思い出しているのかもしれない。
「家族は――そうだね」
真実を言うべきだろうか。離婚した、と。それはずいぶんと酷薄ではないか。奇妙なことに、そんなふうに彼女に気を使っているおれがいた。
短時間で交わした言葉からわかる彼女の性格からは、どうも、まったくかかわりのない他人の言葉でもたやすく傷ついてしまうような気がする。ましてや、ひとり寂しく他人の家で暮らしている少女だ。
どう答えるべきだろうか。
「いまは……うん、離れて暮らしているんだ」
「離れてですか。それは寂しいですね」
「いや、そうでもないよ。確かに寂しくはあるが、絶対に会えなくなったわけじゃないからね。今からでも会おうと思えば会えるわけだし」
「自由を満喫中ということですか?」
少し声色が明るくなった。
「ああ、そうだね。自由を満喫中ってわけだ」
「部長さんは自由がお好きなんですか?」
「そりゃそうだよ。自由がなければ人間生きていけないからね」
「家族よりもですか?」
「その問いは難しいな。君は家族のほうが大事かな」
「いまご奉公している方も、わたしの大事な家族です。しかし家族というのは難しい場所だと思います」
「難しい場所?」
「いつだって天国ですが地獄でもありうるということです。ゆりかごでありながら墓場でもありうるともいえます」
「なるほど……」
「べつにそんなに重い意味で申し上げたわけではありませんよ。いつだって家族という概念には二重性があるということなのです。家族といっしょにいたらたとえば心地よく守れてるって感覚はしますけれど、逆に言えば、自由を束縛されているように感じたりするわけじゃないですか」
「確かにそうだな」
「部長さん、ご家族と離れて暮らしているのは――なにかしらトラブルがあったのですか」
急に、ぞわりとした感覚が襲った。
心臓を直接つかまれているようなそんな得体の知れない感覚だ。
彼女の声色はあいかわらず柔らかく、シフォンケーキのような甘ったるさだったのであるが。
しかし、おそらく図星をつかれたせいだろう。
おれは彼女を勝手に脳内で、時代劇風の少女を思い描いていたのだが、彼女は実際に生きている人間なのだし、人の心の暗い部分もそれなりに体験してきたはずなのである。
彼女がおれの小さな嘘を見抜けたのも、おかしなことではない。
「よくわかったね。声にでちゃったかな。実は最近離婚したんだよ」
「離婚ですか」
「ああ」
「離婚して、自由になったと、そうお考えなわけですね」
「ある意味。僕にとってもあいつにとっても、幸せな選択だったと思うよ。時々は弛緩の時が必要だろう。今がそうだったんじゃないかと思うんだ」
「幸せですか?」
「ああ、幸せだよ」
「なるほど。それでは部長さんの選択は正しかったと思います」
彼女は迷いなくそう言い切った。
「そうかな」
「ええ、そうですよ。わたくし、こう見えましても、人間が自由を追い求める精神はすごいなと思っているんですよ。とある総理大臣は、人間の精神は萌えいずる草花のように自由を求めてやまないとおっしゃったそうじゃないですか。人間の精神にとっては自由こそが幸福に違いなく、それ以外は優先順位的に劣ってもしかたないと言えるのです」
「しかし、家族も大事だが」
「けれど、部長さんは選んだわけじゃないですか。わたしは部長さんの選択を肯定しているんですよ。ご自分の自由を選んだわけでしょう。人間の本性にしたがって、あなたの本性にしたがって、一番いい現実を選んだんじゃないですか。ご家族よりも」
「確かに……確かにそうだが」
従順そうに思えた彼女は、いまや貪欲なまでに積極性を見せていた。
「それとも、いまからでも元に戻りたいと願っているんですか?」
「いや、そういうわけじゃないよ。いまさらよりを戻せるわけもないからね」
「どうしてです?」
「そりゃ……、相手が嫌だと言うだろうさ」
「相手の方から、離婚しようともちかけられたんですね」
「ああ」
「でも本当は離婚したくなかった?」
「いや、そういうわけじゃない。なんとなく予感のようなものは感じていた」
「予感とは?」
「いっしょに住むことに息苦しさを感じていたんだ。お互いに」
「でも惰性でいっしょに暮らしたいとも思っていたんでしょう?」
「長年暮らしていたからな」
「奥さんを、愛していらしたんですか?」
「……ああ」
「そうですかー。でも、今が一番幸福だと思っているんですよね。ならそれでいいじゃないですか」
「君は……君は失礼じゃないか」
「そうですね。少々失礼な物言いになってしまいました。けれど忘れないでいただきたいのは、あくまで選択したのは部長さんなんですよ。わたくしは部長さんの選択になにひとつ加担していませんし、決めたのは部長さんなんです。わたくし、部長さんのことがこの電話で話しているうちに少しだけ好きになっちゃいましたから、部長さんの選択を肯定してあげたいんですよ」
――けれど。
と言って、余計なお世話でしたねと言って。
「さよなら」
最後には週刊の打ち切り漫画のような終わり方で、唐突に電話は切れた。
ツーツーという音を聞きながら、おれはしばらく呆然としていた。
こんなふうに妙な終わり方をするとは思っていなかったから、いまだ心の中で整理がついていないのかもしれない。「さよなら」と、そういうふうに電話を切られるなんて、おれの人生のなかでは初めてだから、戸惑っているのだろう。自分で、自分をそう分析する。
しかし、心の中には、小さな嫌悪感。
たったそれだけの違和感であったが、なぜか心の中は宙釣りになったかのような不安を覚えている。
おれは幸せである。
幸せなはずである。
なぜなら、妻との縁も切れ、これからは自由に生きることができるのだし。
俺は部長で社会的地位もそれなりにあるのだし。
一億円が当たって、悠々自適に生活していくこともできるのだ。
けれど、不意にすべてが色あせてしまって、なにもかも無意味に思えた。
「糞。糞!」
わけのわからない怒り。
彼女の言葉に怒ったわけではない。
では何に怒ったのかと言われれば、うまく言葉にできない。
もしかしたら家族を続けていけたかもしれないのに――愛を得られたかもしれないのに、そうしなかったおれ自身に対してか。
今夜はきっと後悔で眠れそうになかった。
総括
はいはいはいどうもです。小悪魔です。あなただけの小悪魔ですよ。
今回使ってみておもしろかったのは電話という機能ですかね。
いや、電話という様式というべきでしょうか。
この電話、外の世界にある器具なのですが、もはや話の終わらせ方が定式化されているのですよね。
皆様も少し考えを巡らせればおわかりかと思いますが、だいたいは『どうも』『それではまた』などの言葉で終わらせるのが普通なのではないでしょうか。
だから、それ以外の言葉で終わらせると、たとえそれを言った人がどんな気持ちだろうと、思いがけないダメージを与えることができるはずなのです。
場合によっては『死ね』という言葉よりも強力かもしれませんね。
人と人とのつながり。
それは形式化されているプロトコルにのっとっているからこそ、感じ取れるものなのです。
たとえば、大の大人がはだしで外を歩いている。その人はスーツ姿なのだが、なぜか靴は履いてないというときに、それを見た人ははだしで歩く人物を不審者と思いこんでしまうのではないでしょうか。
同じことなのです。
人と人とのつながりは脆弱ともいえるプロトコルによるものですから、このプロトコルを切断すれば、あら不思議。
簡単に、自分が『孤独かもしれない』というような言い知れない不安にかられちゃうんですよね。
その意味で、電話で会話できたのは僥倖でした。
もちろん、わたくしは部長さんの選択を尊重していますので、部長さんが首をつろうが、このまま生きていこうが、いずれにしろオールオッケーです。どうでもいいのです。人間的な幸せをもう一度問い直してみて、奥さんとよりを戻そうとする選択もありうるかもしれませんし、それもまた小悪魔の関与することではありません。
わたしは人間に対して誠実ですから、人間の選択を侵すことは無いと言ってよいのです。
ただ……、幸福という概念。
これは難しいですね。幸福は人間にとっては幻想に過ぎないわけですが、生きている人間はほとんど皆、幸福になりたいと思っているようです。これもプロトコルで一応の規定は存在します。例えば家族。例えば愛。例えばお金。例えば地位です。これらの総合成績が高いと、自分は幸福なんだと思いこめるみたいです。馬鹿であればあるほど思いこみやすいわけですから、幸せになりやすいともいえますね。逆に微妙に頭が良いと幸福とはなんぞと考えてしまってドツボにはまる。
そうです。幸福について考えれば考えるほど幸福からは遠ざかっちゃうわけです。
幸福がゼロへと近づけば不幸へ、そして絶望へと進化していく。
絶望とは、それすなわち魂の死です。
ならば、小悪魔は悪魔として、人間の幸福を破壊するのも一つの業務というわけですよ。
ところで――
あなたはいま幸せですか?
でもなんかブルーになった
難しい……考えさせられますね。
私は今幸せなんでしょうか……?
なんか……いや、形容し難い気持ちになりました。
小悪魔ちゃんマジ小悪魔、最後まで仕事をしていくとは……
幸せの形なんて人それぞれですが、迷いなく幸せだと断言できなければ幸せではないかと思います。
まぁ絶対に幸福が必要なわけではないでしょうが。
なくても生きてはいけますし、趣味とかで足りない部分を適当に埋めて生きていければそれでいい。ごまかしは利きます
なんかしらないけど、ドキっとした。
>>布団が設置されていた。
この表現に、ちと違和感が拭えません。布団が敷かれていた、の方がいい気がします。
言葉の意味ではなく形式的な違和感を抱かせることで、言葉に破壊力を持たせる。
しかも話の内容が内容だけに、余計に心が揺れる揺れる。
この名もなきオッサンに幸あれ。
でもこの作品を読めて幸せです←