また一つ、水溜りを踏んだ。
湿った地面を蹴り進む足音と、地を叩く雨音とが混ざり、ノイズの様にけたたましく耳を侵していく。
身体を覆った合羽から水滴が落ち、ブーツに染み渡っていっては段々とその重みを増していった。うまく上がらぬ足を、引きずる様に前へと持っていく。
合羽に隠れている筈のスカートも、地面を蹴った拍子に跳ねた雨水を吸い、だらしなく垂れ、固まっていた。
吐く息が合羽に阻まれ、仮面の様に顔を覆う。剥ぎ捨てる様に手で払うが、幾重にも重ねられているかの如く、顔から離れない。
顔を水滴が滴った。それが雨なのか、それとも汗なのかすら判らない。だが、それを知ろうとする気も無かった。どちらにせよ濡れているのだ。
真っ直ぐ縦に引かれては消える、無数の線によって遮られた視界。
月光が僅かに射す、薄い鉛色した空から降りしきるそれは、重力の井戸に引かれ、地面に刺さっては土を穿っていく。
それでも。眼前にそびえ立つ館の紅い屋根だけは、灰色の空でも色濃くその存在を誇示していた。
濡らさぬ様に首元に隠した上海人形――半自立の命令を出している――が、顔に纏わり付く湿気を払おうと身を乗り出す。
小さな手が、ぱたぱたと肌を叩く度、何とも言えぬこそばゆさが体を駆け回った。
「ごめんね、もう少しで着くから」
上がらぬ足を酷使し、少しだけ歩みを早めた。
だが雨は非情にも、私の力を削ぐかの様にその勢いを増していった。
「濡れたくはないのだけれど……我慢して」
首元でせわしなく動き続ける人形に、そう呼び掛ける。絶え間無い雨音の所為で人形はおろか、自分の耳に届いたのかすら、良くは判らなかったが――。
私はただ、一心不乱に歩き続けた。
§
「雨の中、ご足労だったわね」
館に入って早々、魔法図書館の主、パチュリー・ノーレッジが直々に出迎えてくれた――顔は全く歓迎する気が無さそうだが。
「全くだわ」
合羽のフードを上げると、首元から人形が躍り出た。
ふるふると体を揺らし、纏わり付く湿気を払う。
「少しは労いなさいよ」
「ご足労と言った」
「……良いわ、付き合わせたのは私の方だし」
語弊は無い。ここまで出向いたのは私だが、ここまで来る理由を作ったのも私だ。
彼女は首を動かし、図書館への移動を催促する。
――あくまでも完成させるだけだ。無駄な色気は出さない積もりでいる。
「幻想郷じゃ、イリーガルな魔法よ。使ったりしたら、まず博麗の巫女が黙ってないわね。解ってるの?」
「今すぐに要るという訳では無いわ。でも、一刻位は止めさせて貰うわよ? 具合を見ながら進めたいの」
「私に決定権は無いわよ、それを決めるのは隙間妖怪か巫女位だろうし……」
『夜を止める魔法』。
私が此処に来た最大の目的、それはこの魔法の完成である。
夜を止める。つまりは月を空に留め、陽が昇らぬ様にするだけの魔法だが、それ故に完成も扱いも特別難しい。
一人でこの規模の魔法を完成させるのはまず不可能と考えた結果、同業者と言う事で、先ずは魔理沙の所へ厄介になる事も考えた……が、変な色気でも出されたら困るので止めておいた。
何処が妥当だろうかと考えあぐね続けた結果がここ、紅魔館である。数多くの魔導書を保有する図書館があり、更には同業者も居て、住人の主な行動時間が夜。この魔法を研究するには、実におあつらえ向きな場所だった。
§
見目だけは豪奢な扉を押し開けると、年季の入った紙が発する独特の香気に包まれた。
「服、乾かしたいでしょう。暖炉に火を入れるわ」
「お願いするわ」
つい最近までは、どこぞの亡霊の所為で長々と冬が続いていたのにも関わらず、今は梅雨入りをとうに過ぎた。既に春の終わりがそこまで迫っている。春が短過ぎたのだ。
延々と続く雨で、最近はだいぶ肌寒く感じる。かといって屋内に居ても、湿気じみて居心地が悪い。本にとって湿気は天敵に最も近く、図書館にとっては一番忌むべき時期である。
パチュリーは手近にあった魔導書に手を伸ばし、短く息を吐いた。
ぽん、と手の中で小爆発が起き、出来上がった火種を暖炉へ投げ捨てる。
「回りくどいのね」
「本来なら小悪魔に任せるのだけれど」
火は音を立てながら薪を屠り、砕き、暖炉の中でたちまち膨らんでいった。
裾が火の気に当たる様スカートを引っ張り、乾かしていった。その間にも、湿気であらぬ方向に跳ねた髪を上海に梳かせる。
「準備は半刻もあれば事足りるから、後は頭の使いようね」
ある程度乾いたら直ぐにでも取り掛かる積もりだった
「あぁ、ソレなんだけど……少しここを開けるわ。小悪魔は自由にしておくから、何かあったら彼女に言って頂戴な」
何を言い出すかと思えば。
「話が違うじゃない。貴女が居なきゃ術式は進まないわ」
「なら、一人でも出来る所まで完璧にしておきなさい」
「……はぁ、それで」
「半日も経たぬ内には戻るわ」
そう言い捨て、彼女は薄暗い書架の中へ消えていった。
「横暴過ぎるっての……」
確かに私も、突然の頼みで不躾だったのは解るが……独りでは無理と考えてここに来たのに。
がくりと落とした肩に、髪を梳き終えた人形が、ぴたりと留まった。小さな手が頬を撫でる。
「――ごめんね」
申し訳なさを感じながらも、再び半自立の命令を出し直した。
§
「ごめんなさい、パチュリー様に悪気は無いんです。最近は特に忙しいそうなので」
卓上に所狭しと置かれた魔導書を避け、一つのカップが置かれる。
「異変の直後だものね、ここのメイドも動いたって言うし」
――かく言う私もやり合った相手である。
四方八方から銀のナイフが飛んでくる様は、実に物騒極まりないと思った。
手品か何だか良く解らなかったが、そんな瑣末な事は今やどうでも良くなっていた。……異変だったし。
「……今日も限りある時間を割いて、アリスさんをお招きしたのですが」
「――図書館を借りたいと言ったのは私よ。貴女が気に病む事じゃないわ」
謝るのはこっちの方だから、と最後に付け加えておき、私は独りでも出来る段階までは進めることにした。
月の光と言うのは、妖怪にとって生命力の泉である。
ヒトや植物が陽光を欲するのと同じで、大半の妖怪は月光によってその力を増す。例外もいるが、夜が妖怪の天下なのはそれが故である。
魔法も例外ではなく、陽光や月光が無ければ意味を成さないモノもある。前者は昼、後者は夜を主な活動時間とし、生活サイクルが千差万別な魔法使いでも、陰陽はハッキリしている。
魔法の森の中から僅かに射す月光は、群生する茸の幻覚作用にブースト作用をもたらす。月光を蓄えた茸は、一般的に森に生えているソレよりも強力で、質の高い魔術の糧になる――私は使っていないが。
また、月光を用いた、或いは月光を模した弾幕、スペルカードも多々ある。見栄えも申し分なく、何よりも弾幕そのものが良く映える。弾幕の美しさを特に重要視する命名決闘法案にとっても、理に叶う、非常に優れた素材である。
時を止め、それを常に空に留めておけるのだ。禁忌扱いされて当然である。
――しかし、いざ実行に移すとなると骨が折れる作業だ。
時を止めるにはまず、”刻符”を用いねばならない。この刻符だが、手に入れる方法が極めて特異で、一般人や生半可な妖怪ではそれを目にする事すら出来ない。
何故なら、『弾幕ごっこ』でしか手に入れる事は出来ないのだ。骨が折れる作業とは、この事を指している。
弾幕ごっこという幹から何本も伸びた、弾幕の枝に咲く花、その一片が刻符。弾幕と共に刻符も飛び散っている。
弾がその身を掠めた刹那。
敵、或いは自分に着弾した一瞬。
須臾の攻防に、刻符という花弁は絶え間無く舞い散る。私達は知らず知らずに、刻符を弾幕の一部としているのだ。
一つ例を挙げると、魔法使いが多用する使い魔。これは一番身近な刻符の塊であったりする。同じ時間を共有する己の写身として、その場に留めさせているのが理由……だと私は勝手に推測しているが、こればっかりは私も理解しかねる。――故に使い魔を砕けば刻符も出てくる。使い魔の操者を叩けば、出ていた使い魔分の刻符を得る事も可能だ。
だが、その程度の刻符では一刻すら止められないだろう。手に入れるのは酷だが、使おうものなら露と消える。それが刻符。
”時の流れを止めて且つ、天蓋の動きを止める”。つまり、月を留める為時刻の進み方を意図的に変えているだけ。
応用として時間遅延の魔法があるが、効果が短時間なのと範囲が小規模であるため、逆方向の転用が効かない。この魔法さえ完成すれば、制限付きながらも時間を手中に収められる。
――要するに、独りで刻符は手に入らない。私はそう言いたいのだが……。
「…………?」
魔導書を捲る手が止まる。開かれた手元の魔導書に、付箋代わりに適当な紙を挟み、散らかった本の表紙を一冊一冊確認していった。
二、三十冊はあった全ての魔導書を確認し、天を仰いでは、ふっと息を吐いた。
「……相当参ってるわね」
用意に不備があったらしい。抜かりは無いと思っていたが、私自身、抜かり有るモノだった。
端で見守ってくれていた小悪魔をこちらへ寄越し、お目当ての書架を教えて貰う。
ヤケに嬉しそうに教えてくれたものだから、少々訝しくもあった。だが、「他にお困りではありませんか」とせわしなく訊いてくるので、他意は無い様に見えた……が、すぐに悟った――あぁ、単に暇なのね。
そうであっても決して手伝おうとはせず、彼女はただ見守るだけ。良く出来た使い魔である。
「上海」
机で待機していた人形を呼び寄せ、目当ての魔導書を取って来させる。
「お願いね」
その背中を見送りながら、私はまた手を動かし始めた。
――遅い。
三分、いや五分は経っただろうか。一向に人形が戻ってくる気配は無かった。
半自立の魔法は先程掛け直した筈。小悪魔が書架を教え間違えた? それとも命令ミス……はあり得ない。
時間は惜しいが、その魔導書が無ければ進展しない。
半自立が故に、上海は魔法の糸による制御下から外れている。迎えに行く以外残されていなかった。
開かれた無数の魔導書に、付箋代わりの適当な紙――が無い。仕方無いので本同士で頁を挟み合う形にした。
言われた書架の裏に回り、上海を捜す。
「随分と遅いのね、上は……い?」
ふと人の気配を感じ、声が引っ込んだ。書架に一人の少女が寄りかかっているのを見つけた。
その手の中に、上海は居た。
正確には"捕まっていた"とでも言った方が良いか。
禍々しくも美麗ささえ伺える、宝石の様な一対の翼。まだあどけなさの残る顔で、手の中で足掻く上海を興味深そうに見つめている。
ここの当主、レミリア・スカーレットには五つ違いの妹が居る、とだけは話に聞いていた。当主とは宴会で顔合わせしていた事もあり、その話は容易に聞けたのだが。もしや、彼女がその妹とやらか。
「貴女もお人形さん?」
あどけなさが抜けきっていないが、どこか冷たい声と共に深紅の瞳が私を刺す。
あくまでも彼女に対してのイメージは形而上のモノでしかないが、気が触れやすいとの事――それは対話すら出来ないんじゃのかしら? と考えたものの、自ら動かねば上海は還ってこない。出来る限り刺激をしない様に……。
「その子、放してあげて? 私の大切な子なの」
「お人形さんじゃないの?」
「そうだけど……見て、嫌がってるじゃないの」
彼女は手元の人形に眼を落とす。
じたばたと四肢を動かし、纏わりつく彼女の手から必死に逃れようとしていた。
私が彼女の手から上海を取り返そうとしたものの、どうしても放してはくれない様だ。
「むん……」
「ほら、手を離してあげて」
「人形」
「そう、人形よ」
「独りでに動いたじゃない」
「魔法で動かしてるの」
たどたどしい会話がしばらく続いた。埒があかないと考えた私は、彼女を作業場に連れていこうと考えた。邪魔をされないのであれば、隣に置く事はできる。
「小悪魔も居るし……それが得策か。おいで」
人形を握りしめたままの手を引き、先導する。意外にも抵抗はせず、素直に付いて来てくれた――人形も素直に放してくれると嬉しいのだが。
「妹様? どうしてここに……」
書架の隙間から出るや否や、小悪魔が驚きを隠せない表情で駆け寄ってきた。
「館の中は見飽きちゃったもん、ここはまだロクに入れてなんだから、探検したって良いじゃない」
ぶっきらぼうに言い捨てる隣の彼女に、困り果てた表情を浮かべる小悪魔だったが、途端にこちらへ向きな折り深々と頭を下げた。それも何度も。
「もっ、申し訳ありません……まさか、ここに妹様が居られるとは思いもしませんでしたので」
「そんな大袈裟な……いいわ、この子は任せて」
「しかし……」
「任せろと言ってるの、無用な心配はしないで頂戴。それより、妹様って事は、この子……」
「はい。フランドール・スカーレット様。お察しの通りレミリア様の妹様で居られます」
「そう。まさかとは思ったけど」
まさかとは思ったが。姉の様な厳格さは特に感じられず、見るからに幼いという印象しか私の眼には映らなかった。
気に病む必要は無いと、私は彼女の面倒を買って出た。どうせ、独りでは作業の進展は永久にゼロから変わらないだろう。
「そうだったの。私はアリス。アリス・マーガトロイド」
「アリス? ……うん、アリス」
(なーんだ。気が触れてるどころか、むしろ良い子じゃないの)
すっかり気前を良くしてしまった私は、魔導書の他に持ち寄った人形を、彼女に与えてやった。
「お人形?」
布で作られたその人形には下半身が無く、下から手を通せる程度の穴が開けられている。
「これを貴女にあげる。だからその子と交換。駄目?」
「…………」
勿体無さそうに一瞬躊躇ったものの、手の力を緩めた彼女の手から上海が躍り出る。
飛び込んできた上海を抱き止めるが、脱兎の如く私の背後へ隠れてしまった。まぁ、結果オーライ。
「良い子ね」
そのままフランの右手を取り、人形の衣装の下に手を滑り込ませる。
「端の指が人形の手になるの。後は顔に……そう、そんな感じね」
解説を交えながら、丁寧に指を人形に収めていく。
フランも興味津々といった表情で、指を通していった。
「ギニョルよ。可愛いでしょう」
「ぎにょる?」
「少し古い型の人形なんだけど……どうかしら。気に入ってくれた?」
人形の動きを一つ一つ確かめる様に、ただ真剣に見つめるだけの彼女。
気に入ってくれた? 夢中になっているだけ? ――本当にそうであるなら本望。あげた甲斐が有った……と、何処からともなく湧き出た優越感に浸っていた刹那。
ぽんっ。
小気味の良い破裂音と共に、人形は文字通り”四散”した。
さっきまでは人の形だった筈の布切れが、力無く落ちていった――。
「……どういう?」
おかしい。
この人形には爆薬を詰めていない。実戦に耐えうる代物でも無いし、元々娯楽用の人形として作っただけ。制作の過程で何かあった?
「壊れちゃった」
――は?
「つまんない」
「いや、何が起きたの? 手、大丈夫?」
彼女が人形を嵌めていた手は傷一つ無く、ただ布切れが握り締められていた。その瞳は何処か、虚しかった。
「ちょっと握っただけなのに」
背筋に冷たいモノが走るのを感じた。
「……貴女が壊したの?」
「人形が壊れたの」
「つまりは自壊したって事なのかしら、そんなヤワに作ってた?」
「みんな同じよ。簡単に壊れちゃう」
「ちょっと、意味が分からなっ……」
「貴女は壊れないよね?」
握ったままだった手が、私の腕を、肩を、そして首元を撫でていった。滑り続けた手は頬に触れ、耳を掴み、眼を覆う。
視界の半分は彼女の手に奪われた。その所為か、彼女の顔も良く見える――気持ち悪い程に。
光すら射さないその眼に移る自分の姿が、どこか矮小に見えた。
「人形みたいに壊れないよね?」
「…………」
「ねぇ、壊れないよね?」
機械的に同じ言葉を聞かされ続けた。同じ音階で、同じ調子で、同じ顔をして。
――声が既に凶器になっていた。耳をつんざく様なソレではなく、耳を塞ぎたくなる様なソレでもない。聴覚を手で抉り取られる様な、生気、活力、光……何もかもを持って行ってしまいそうな、そんな声。
眼を閉じたい。
聴覚を切り捨てたい。
戦慄が判断を狂わせ――
「貴女は?」
何故か口が動いた。
「そう願ってた?」
覆われていた眼に光が射す。
「最初から人形を壊すつもりだった?」
添えられた手が頬を滑り落ちる。
「貴女がその積もりじゃなくても、壊れた。違う?」
「ちがう……?」
「不本意なんでしょ?」
「……うん」
「……少しお話しましょ」
おいで、と途端に大人しくなったフランを引き寄せ、山積みの魔導書をかき分け、ソファへと導く。
上海には、バラバラに引き裂かれた人形の破片を集めさせた。破れたとは言え、再利用も効くには効くし、何しろフランの視線がさっきからそちらへ注がれている。
「雨音、聞こえる?」
「雨?」
気を引こうと 不思議な表情を浮かべながらも、フランは私の話を興味深く聞いてくれていた。
口元で指を立て、彼女の瞼を下ろしてやると、素直に閉じたままでいてくれた。
自分も目を伏せ、耳を澄ます。
遙か遠くで、微かに聞こえる程でしか無いが、雨が地を叩く音を拾えた。
「聞こえた?」
「うん、でも何で雨なんか」
「そうね……吸血鬼である貴女が外に出れば、貴女は雨に穿たれて、消える」
途端に哲学臭い話になってしまったが、口は動き続けた。
雨は貴女を消す積もりなんてないのに、貴女は消えていく。それこそ不本意ではないか、と彼女に説いてやった。
「消えないわ」
「……どうして?」
「どうせ、お外に出れないもの。お姉様が出してくれないもん」
「出れたとしても外は歩けないわね。雨が上がれば、日の光が貴女を灼くでしょう。それも貴女にとっては不本意。――貴女は消えたい?」
「消えたくない」
ふるふると首を振り、即答した。
「そうね、お天道様は加減を知らないから。貴女は分かる?」
「分かんない。私が触ろうとするとみんな怯えて逃げるんだもの。加減なんて分かんないよ」
「分かろうとする気持ちがあれば大丈夫よ。そんなに気に病む必要は無いわ」
「うん……?」
月並みな言葉しか言えなかったが、他に掛けてやれる言葉が見付からなかった。
だが、自分が彼女を変えられるなら変えてやりたい。
「時間の許す限り、じっくり考えなさいな。誰も貴女を咎める権利は無いのだから」
ぽすん、とフランの頭を膝に乗せ、頬をそっと撫でてやる。
意外にも抵抗はせず、むしろ脚の感触を確かめる様に頭を擦り付けてきた。
――って、何やってるんだ私は。
「ねぇ」
彼女は頭を動かさぬまま、上海が持ったままだった、回収してくれた人形――今は布切れだが――をひっ掴み、私の目の前に差し出した。
「これ、直る?」
さっきまでの無機質な表情は無く、懇願する様な、憂いを含んだ表情。その表情が何処か悲しげで、どうしてか嬉しかった。
「ええ、勿論」
流石に復元という形は無理だが、再利用して同じ人形を作るのは造作も無い。
「だから少しの間だけ、待てる?」
私がその布切れを受け取ると、返事代わりに満面の笑みを浮かべた。
「……良い子ね」
頬をそっと撫でてやると、むず痒そうにころころと表情を変えていく。何とも愛い奴め。
布切れに視線を落とす。
空手で引き裂かれたのとは違うほつれすら無い綺麗な断面で、内側から組織が崩れていく様な、云わば自壊に近い破れ方をしていた。
人形は、壊れる。
それは至極当然な事。
人形とは家族であり、下僕であり、恋人であり。
そうでありながらも、壊れる。
――思えば、私も人形か。
魔界の神に生み出された一つの人形。
その人形が、こうして人形を生み、壊される。
私も、何人もヒトガタを殺して来たのだ。
「道化ね」
途端、上海が不安げに身体を擦り寄せて来た。悪い事をしてしまった様だ。慰める様に、手で丸め込み抱いてやる。
「ごめん。変な事言ったね」
ふと、フランがやけに静かな事に気付く。さっきまであんなに嬉々と会話していたのに。
「あら……」
既にフランは、だらしない顔をして健康な寝息を立てていた。
「吸血鬼が寝不足なんてあるのかしら」
「一日中歩き回って疲れたのでしょう、すみません」
その隣、毛布を抱えた小悪魔が立っていた。実に用意周到な事で。
「こういうのも……良いわね」
彼女から毛布を受け取り、フランの体にそっと広げてやった。
「実の姉妹みたいですね」
「はぃ?」
「髪色同じですし。妹みたいだなーと思いません?」
「髪色だけじゃないの」
「良いじゃないですか」
「順調かしら……って、あら」
くだらない談話の最中で主の御帰還である。
「意外に早かったのね」
「えー、うん、それは、何?」
「何って、膝枕」
「そうじゃなくて」
「一人じゃ進むモノも進まないから。こうやって子守を買ってやってるの」
「……じゃなくて。何でフランがここに居るのよ」
「しーっ、起きるでしょうが」
僅かな沈黙。
「……それで? 何時まで待てば良いのかしら」
彼女の言葉に呼応するかの如く、真夜中を知らせる鐘の音が、館中に響き渡った。
「こんな時間だけど」
「この子が起きるまで……じゃ駄目かしら」
「別に、何時でも。急げと言ってたのは誰だったかしらね」
「何とでも」
――
明朝。
一向に起きず、泥の様に眠りこけるフランを小悪魔に任せ、放りっぱなしの魔導書を開き始める。
その魔導書をパチュリーは一つ一つ確認し、手渡したメモとを照らし合わせる度に顔をしかめた。
「う……面妖な」
「イリーガルな魔法、でしょ?」
「解ってるわよ。さっさと仕上げたいんでしょう? やるわよ」
「えぇ、すぐにでも始めるわ。ただ……頼みがあるの」
無駄な色気は出さないと言ったが、少しだけ。
§
光が、夜空に躍った。
禍々しくも神々しい翼が、光の残滓を撒き散らしていく。
パチュリー経由で主レミリアに掛け合い、庭までなら、と言う制約の下、フランを外へ出してやった。
無論、夜を止めて。
時間はそれ相応に掛かったが、魔法の
後は無事に止められるかどうかの実験が必要だった。
更なる紆余曲折(主に弾幕ごっこ)を経て、半刻程度なら止められる刻符は集まった。それを惜しみ無く使い、実験がてらにフランを外に出してやったのである。
無事に天蓋が止まってくれて何よりだった。成功してくれないとフランも外に出せなかったのもある。
こうして、ひとまずの山場を越え一息ついている間にも、夜に躍るフランの姿にしばらくは魅せられていた。
――なのに。
頭の片隅では未だに、木っ端微塵となった人形を引きずっていた。
自分でも、解らない。
常日頃から人形を弾幕の一つとして使い、使い捨て、費やしていると言うのに。
何故、あの人形が壊されたのを気に留め続けているのか。
あの子は戦う為の人形じゃない、壊される道理が無かった子。
突如、魔が差した。
折り目正しい人形劇には程遠いモノ――ヒトガタがヒトガタを殺す?
いや、それよりもっと非情で、理不尽で、血腥い――
彼女がくれた一時に、使える要素は数多に存在していた。
使わないのは勿体無い。
使わない道理は無い。
――
わずかに時は過ぎ、中秋の名月が迫っていた時の事。
突如、幻想郷から満月が消えた。
僅かに欠けた満月はその力を失い、妖怪達はこの異変をただ憂える事しか出来なかった。
ただ、異変で”彼女”が動かない筈は無い。
――と思っていた。
動かなかったのだ。
彼女に何を言っても無駄で、一歩も神社の境内から出ようとはしなかった。
もしや人間はこの異変に気付いていない……?
私は動き始めた。
動かぬ巫女の代わりとなる”彼女”を尋ねに。
案の定彼女も気付いていなかった。
ここで引くわけにも行かない。多少の犠牲を払いつつも、何とかこの白黒魔法使いをその気にさせる事は出来た。
そして、私達は夜を止めた。
今回は相当な長丁場になるだろう。刻符も相当な量が入り用になるのは必至だろう。道中で追々回収出来ると考え、術が破れぬよう急いだ。
「手間取らせないでよ、まったく」
「普通だぜ。それに、異変解決は霊夢の専売特許だろう」
「人間達はこの異変に気付いてないみたいなの。残念だけど、霊夢もその一人よ」
「霊夢が気付かん筈は無いと思ったんだがな」
「アンタも!」
飄々と風が吹く、夜空を駆ける。
ほんの少しだけ欠けた月は傾く事無く、夜空を妖しく照らし続けた。
「魔理沙」
とある頼み事を思い出した。別に誰でも構わないのだが、今は目の前の異変を解決する為に、彼女と行動を共にしている。故に彼女に頼めば手っ取り早く”相手”をしてくれるかもしれない。
「ん?」
「新しい弾幕が出来そうなの。後で試作段階のお相手してくれるかしら」
ほぉ、と珍しいモノを見たかの様な声を漏らす彼女。
「お前から弾幕勝負をふっかけて来るなんてな。明日は雹でも降るんじゃないか?」
「何とでも。とにかく相手が欲しいのよ。頼まれてくれるかしら」
「私は一向に構わんが……一体何だ?」
「人殺し」
「ひゅぅ……」
魔理沙は最後に「実にルナティックだな」と付け足した。
実際そういうイメージで趣向を凝らしてみた弾幕なのだ。そう言われるのはむしろ有り難い。
「して、その名前は」
「……あるにはあるんだけど、ね」
「勿体ぶるなよ」
折り目正しい人形劇には程遠いモノ。
ヒトガタがヒトガタを殺す道化。
もっと非情で、理不尽で、血腥い、目を背けたくなるような惨劇。
お人形遊びで終わらせない。
そう。
「『グランギニョル座の怪人』」
湿った地面を蹴り進む足音と、地を叩く雨音とが混ざり、ノイズの様にけたたましく耳を侵していく。
身体を覆った合羽から水滴が落ち、ブーツに染み渡っていっては段々とその重みを増していった。うまく上がらぬ足を、引きずる様に前へと持っていく。
合羽に隠れている筈のスカートも、地面を蹴った拍子に跳ねた雨水を吸い、だらしなく垂れ、固まっていた。
吐く息が合羽に阻まれ、仮面の様に顔を覆う。剥ぎ捨てる様に手で払うが、幾重にも重ねられているかの如く、顔から離れない。
顔を水滴が滴った。それが雨なのか、それとも汗なのかすら判らない。だが、それを知ろうとする気も無かった。どちらにせよ濡れているのだ。
真っ直ぐ縦に引かれては消える、無数の線によって遮られた視界。
月光が僅かに射す、薄い鉛色した空から降りしきるそれは、重力の井戸に引かれ、地面に刺さっては土を穿っていく。
それでも。眼前にそびえ立つ館の紅い屋根だけは、灰色の空でも色濃くその存在を誇示していた。
濡らさぬ様に首元に隠した上海人形――半自立の命令を出している――が、顔に纏わり付く湿気を払おうと身を乗り出す。
小さな手が、ぱたぱたと肌を叩く度、何とも言えぬこそばゆさが体を駆け回った。
「ごめんね、もう少しで着くから」
上がらぬ足を酷使し、少しだけ歩みを早めた。
だが雨は非情にも、私の力を削ぐかの様にその勢いを増していった。
「濡れたくはないのだけれど……我慢して」
首元でせわしなく動き続ける人形に、そう呼び掛ける。絶え間無い雨音の所為で人形はおろか、自分の耳に届いたのかすら、良くは判らなかったが――。
私はただ、一心不乱に歩き続けた。
§
「雨の中、ご足労だったわね」
館に入って早々、魔法図書館の主、パチュリー・ノーレッジが直々に出迎えてくれた――顔は全く歓迎する気が無さそうだが。
「全くだわ」
合羽のフードを上げると、首元から人形が躍り出た。
ふるふると体を揺らし、纏わり付く湿気を払う。
「少しは労いなさいよ」
「ご足労と言った」
「……良いわ、付き合わせたのは私の方だし」
語弊は無い。ここまで出向いたのは私だが、ここまで来る理由を作ったのも私だ。
彼女は首を動かし、図書館への移動を催促する。
――あくまでも完成させるだけだ。無駄な色気は出さない積もりでいる。
「幻想郷じゃ、イリーガルな魔法よ。使ったりしたら、まず博麗の巫女が黙ってないわね。解ってるの?」
「今すぐに要るという訳では無いわ。でも、一刻位は止めさせて貰うわよ? 具合を見ながら進めたいの」
「私に決定権は無いわよ、それを決めるのは隙間妖怪か巫女位だろうし……」
『夜を止める魔法』。
私が此処に来た最大の目的、それはこの魔法の完成である。
夜を止める。つまりは月を空に留め、陽が昇らぬ様にするだけの魔法だが、それ故に完成も扱いも特別難しい。
一人でこの規模の魔法を完成させるのはまず不可能と考えた結果、同業者と言う事で、先ずは魔理沙の所へ厄介になる事も考えた……が、変な色気でも出されたら困るので止めておいた。
何処が妥当だろうかと考えあぐね続けた結果がここ、紅魔館である。数多くの魔導書を保有する図書館があり、更には同業者も居て、住人の主な行動時間が夜。この魔法を研究するには、実におあつらえ向きな場所だった。
§
見目だけは豪奢な扉を押し開けると、年季の入った紙が発する独特の香気に包まれた。
「服、乾かしたいでしょう。暖炉に火を入れるわ」
「お願いするわ」
つい最近までは、どこぞの亡霊の所為で長々と冬が続いていたのにも関わらず、今は梅雨入りをとうに過ぎた。既に春の終わりがそこまで迫っている。春が短過ぎたのだ。
延々と続く雨で、最近はだいぶ肌寒く感じる。かといって屋内に居ても、湿気じみて居心地が悪い。本にとって湿気は天敵に最も近く、図書館にとっては一番忌むべき時期である。
パチュリーは手近にあった魔導書に手を伸ばし、短く息を吐いた。
ぽん、と手の中で小爆発が起き、出来上がった火種を暖炉へ投げ捨てる。
「回りくどいのね」
「本来なら小悪魔に任せるのだけれど」
火は音を立てながら薪を屠り、砕き、暖炉の中でたちまち膨らんでいった。
裾が火の気に当たる様スカートを引っ張り、乾かしていった。その間にも、湿気であらぬ方向に跳ねた髪を上海に梳かせる。
「準備は半刻もあれば事足りるから、後は頭の使いようね」
ある程度乾いたら直ぐにでも取り掛かる積もりだった
「あぁ、ソレなんだけど……少しここを開けるわ。小悪魔は自由にしておくから、何かあったら彼女に言って頂戴な」
何を言い出すかと思えば。
「話が違うじゃない。貴女が居なきゃ術式は進まないわ」
「なら、一人でも出来る所まで完璧にしておきなさい」
「……はぁ、それで」
「半日も経たぬ内には戻るわ」
そう言い捨て、彼女は薄暗い書架の中へ消えていった。
「横暴過ぎるっての……」
確かに私も、突然の頼みで不躾だったのは解るが……独りでは無理と考えてここに来たのに。
がくりと落とした肩に、髪を梳き終えた人形が、ぴたりと留まった。小さな手が頬を撫でる。
「――ごめんね」
申し訳なさを感じながらも、再び半自立の命令を出し直した。
§
「ごめんなさい、パチュリー様に悪気は無いんです。最近は特に忙しいそうなので」
卓上に所狭しと置かれた魔導書を避け、一つのカップが置かれる。
「異変の直後だものね、ここのメイドも動いたって言うし」
――かく言う私もやり合った相手である。
四方八方から銀のナイフが飛んでくる様は、実に物騒極まりないと思った。
手品か何だか良く解らなかったが、そんな瑣末な事は今やどうでも良くなっていた。……異変だったし。
「……今日も限りある時間を割いて、アリスさんをお招きしたのですが」
「――図書館を借りたいと言ったのは私よ。貴女が気に病む事じゃないわ」
謝るのはこっちの方だから、と最後に付け加えておき、私は独りでも出来る段階までは進めることにした。
月の光と言うのは、妖怪にとって生命力の泉である。
ヒトや植物が陽光を欲するのと同じで、大半の妖怪は月光によってその力を増す。例外もいるが、夜が妖怪の天下なのはそれが故である。
魔法も例外ではなく、陽光や月光が無ければ意味を成さないモノもある。前者は昼、後者は夜を主な活動時間とし、生活サイクルが千差万別な魔法使いでも、陰陽はハッキリしている。
魔法の森の中から僅かに射す月光は、群生する茸の幻覚作用にブースト作用をもたらす。月光を蓄えた茸は、一般的に森に生えているソレよりも強力で、質の高い魔術の糧になる――私は使っていないが。
また、月光を用いた、或いは月光を模した弾幕、スペルカードも多々ある。見栄えも申し分なく、何よりも弾幕そのものが良く映える。弾幕の美しさを特に重要視する命名決闘法案にとっても、理に叶う、非常に優れた素材である。
時を止め、それを常に空に留めておけるのだ。禁忌扱いされて当然である。
――しかし、いざ実行に移すとなると骨が折れる作業だ。
時を止めるにはまず、”刻符”を用いねばならない。この刻符だが、手に入れる方法が極めて特異で、一般人や生半可な妖怪ではそれを目にする事すら出来ない。
何故なら、『弾幕ごっこ』でしか手に入れる事は出来ないのだ。骨が折れる作業とは、この事を指している。
弾幕ごっこという幹から何本も伸びた、弾幕の枝に咲く花、その一片が刻符。弾幕と共に刻符も飛び散っている。
弾がその身を掠めた刹那。
敵、或いは自分に着弾した一瞬。
須臾の攻防に、刻符という花弁は絶え間無く舞い散る。私達は知らず知らずに、刻符を弾幕の一部としているのだ。
一つ例を挙げると、魔法使いが多用する使い魔。これは一番身近な刻符の塊であったりする。同じ時間を共有する己の写身として、その場に留めさせているのが理由……だと私は勝手に推測しているが、こればっかりは私も理解しかねる。――故に使い魔を砕けば刻符も出てくる。使い魔の操者を叩けば、出ていた使い魔分の刻符を得る事も可能だ。
だが、その程度の刻符では一刻すら止められないだろう。手に入れるのは酷だが、使おうものなら露と消える。それが刻符。
”時の流れを止めて且つ、天蓋の動きを止める”。つまり、月を留める為時刻の進み方を意図的に変えているだけ。
応用として時間遅延の魔法があるが、効果が短時間なのと範囲が小規模であるため、逆方向の転用が効かない。この魔法さえ完成すれば、制限付きながらも時間を手中に収められる。
――要するに、独りで刻符は手に入らない。私はそう言いたいのだが……。
「…………?」
魔導書を捲る手が止まる。開かれた手元の魔導書に、付箋代わりに適当な紙を挟み、散らかった本の表紙を一冊一冊確認していった。
二、三十冊はあった全ての魔導書を確認し、天を仰いでは、ふっと息を吐いた。
「……相当参ってるわね」
用意に不備があったらしい。抜かりは無いと思っていたが、私自身、抜かり有るモノだった。
端で見守ってくれていた小悪魔をこちらへ寄越し、お目当ての書架を教えて貰う。
ヤケに嬉しそうに教えてくれたものだから、少々訝しくもあった。だが、「他にお困りではありませんか」とせわしなく訊いてくるので、他意は無い様に見えた……が、すぐに悟った――あぁ、単に暇なのね。
そうであっても決して手伝おうとはせず、彼女はただ見守るだけ。良く出来た使い魔である。
「上海」
机で待機していた人形を呼び寄せ、目当ての魔導書を取って来させる。
「お願いね」
その背中を見送りながら、私はまた手を動かし始めた。
――遅い。
三分、いや五分は経っただろうか。一向に人形が戻ってくる気配は無かった。
半自立の魔法は先程掛け直した筈。小悪魔が書架を教え間違えた? それとも命令ミス……はあり得ない。
時間は惜しいが、その魔導書が無ければ進展しない。
半自立が故に、上海は魔法の糸による制御下から外れている。迎えに行く以外残されていなかった。
開かれた無数の魔導書に、付箋代わりの適当な紙――が無い。仕方無いので本同士で頁を挟み合う形にした。
言われた書架の裏に回り、上海を捜す。
「随分と遅いのね、上は……い?」
ふと人の気配を感じ、声が引っ込んだ。書架に一人の少女が寄りかかっているのを見つけた。
その手の中に、上海は居た。
正確には"捕まっていた"とでも言った方が良いか。
禍々しくも美麗ささえ伺える、宝石の様な一対の翼。まだあどけなさの残る顔で、手の中で足掻く上海を興味深そうに見つめている。
ここの当主、レミリア・スカーレットには五つ違いの妹が居る、とだけは話に聞いていた。当主とは宴会で顔合わせしていた事もあり、その話は容易に聞けたのだが。もしや、彼女がその妹とやらか。
「貴女もお人形さん?」
あどけなさが抜けきっていないが、どこか冷たい声と共に深紅の瞳が私を刺す。
あくまでも彼女に対してのイメージは形而上のモノでしかないが、気が触れやすいとの事――それは対話すら出来ないんじゃのかしら? と考えたものの、自ら動かねば上海は還ってこない。出来る限り刺激をしない様に……。
「その子、放してあげて? 私の大切な子なの」
「お人形さんじゃないの?」
「そうだけど……見て、嫌がってるじゃないの」
彼女は手元の人形に眼を落とす。
じたばたと四肢を動かし、纏わりつく彼女の手から必死に逃れようとしていた。
私が彼女の手から上海を取り返そうとしたものの、どうしても放してはくれない様だ。
「むん……」
「ほら、手を離してあげて」
「人形」
「そう、人形よ」
「独りでに動いたじゃない」
「魔法で動かしてるの」
たどたどしい会話がしばらく続いた。埒があかないと考えた私は、彼女を作業場に連れていこうと考えた。邪魔をされないのであれば、隣に置く事はできる。
「小悪魔も居るし……それが得策か。おいで」
人形を握りしめたままの手を引き、先導する。意外にも抵抗はせず、素直に付いて来てくれた――人形も素直に放してくれると嬉しいのだが。
「妹様? どうしてここに……」
書架の隙間から出るや否や、小悪魔が驚きを隠せない表情で駆け寄ってきた。
「館の中は見飽きちゃったもん、ここはまだロクに入れてなんだから、探検したって良いじゃない」
ぶっきらぼうに言い捨てる隣の彼女に、困り果てた表情を浮かべる小悪魔だったが、途端にこちらへ向きな折り深々と頭を下げた。それも何度も。
「もっ、申し訳ありません……まさか、ここに妹様が居られるとは思いもしませんでしたので」
「そんな大袈裟な……いいわ、この子は任せて」
「しかし……」
「任せろと言ってるの、無用な心配はしないで頂戴。それより、妹様って事は、この子……」
「はい。フランドール・スカーレット様。お察しの通りレミリア様の妹様で居られます」
「そう。まさかとは思ったけど」
まさかとは思ったが。姉の様な厳格さは特に感じられず、見るからに幼いという印象しか私の眼には映らなかった。
気に病む必要は無いと、私は彼女の面倒を買って出た。どうせ、独りでは作業の進展は永久にゼロから変わらないだろう。
「そうだったの。私はアリス。アリス・マーガトロイド」
「アリス? ……うん、アリス」
(なーんだ。気が触れてるどころか、むしろ良い子じゃないの)
すっかり気前を良くしてしまった私は、魔導書の他に持ち寄った人形を、彼女に与えてやった。
「お人形?」
布で作られたその人形には下半身が無く、下から手を通せる程度の穴が開けられている。
「これを貴女にあげる。だからその子と交換。駄目?」
「…………」
勿体無さそうに一瞬躊躇ったものの、手の力を緩めた彼女の手から上海が躍り出る。
飛び込んできた上海を抱き止めるが、脱兎の如く私の背後へ隠れてしまった。まぁ、結果オーライ。
「良い子ね」
そのままフランの右手を取り、人形の衣装の下に手を滑り込ませる。
「端の指が人形の手になるの。後は顔に……そう、そんな感じね」
解説を交えながら、丁寧に指を人形に収めていく。
フランも興味津々といった表情で、指を通していった。
「ギニョルよ。可愛いでしょう」
「ぎにょる?」
「少し古い型の人形なんだけど……どうかしら。気に入ってくれた?」
人形の動きを一つ一つ確かめる様に、ただ真剣に見つめるだけの彼女。
気に入ってくれた? 夢中になっているだけ? ――本当にそうであるなら本望。あげた甲斐が有った……と、何処からともなく湧き出た優越感に浸っていた刹那。
ぽんっ。
小気味の良い破裂音と共に、人形は文字通り”四散”した。
さっきまでは人の形だった筈の布切れが、力無く落ちていった――。
「……どういう?」
おかしい。
この人形には爆薬を詰めていない。実戦に耐えうる代物でも無いし、元々娯楽用の人形として作っただけ。制作の過程で何かあった?
「壊れちゃった」
――は?
「つまんない」
「いや、何が起きたの? 手、大丈夫?」
彼女が人形を嵌めていた手は傷一つ無く、ただ布切れが握り締められていた。その瞳は何処か、虚しかった。
「ちょっと握っただけなのに」
背筋に冷たいモノが走るのを感じた。
「……貴女が壊したの?」
「人形が壊れたの」
「つまりは自壊したって事なのかしら、そんなヤワに作ってた?」
「みんな同じよ。簡単に壊れちゃう」
「ちょっと、意味が分からなっ……」
「貴女は壊れないよね?」
握ったままだった手が、私の腕を、肩を、そして首元を撫でていった。滑り続けた手は頬に触れ、耳を掴み、眼を覆う。
視界の半分は彼女の手に奪われた。その所為か、彼女の顔も良く見える――気持ち悪い程に。
光すら射さないその眼に移る自分の姿が、どこか矮小に見えた。
「人形みたいに壊れないよね?」
「…………」
「ねぇ、壊れないよね?」
機械的に同じ言葉を聞かされ続けた。同じ音階で、同じ調子で、同じ顔をして。
――声が既に凶器になっていた。耳をつんざく様なソレではなく、耳を塞ぎたくなる様なソレでもない。聴覚を手で抉り取られる様な、生気、活力、光……何もかもを持って行ってしまいそうな、そんな声。
眼を閉じたい。
聴覚を切り捨てたい。
戦慄が判断を狂わせ――
「貴女は?」
何故か口が動いた。
「そう願ってた?」
覆われていた眼に光が射す。
「最初から人形を壊すつもりだった?」
添えられた手が頬を滑り落ちる。
「貴女がその積もりじゃなくても、壊れた。違う?」
「ちがう……?」
「不本意なんでしょ?」
「……うん」
「……少しお話しましょ」
おいで、と途端に大人しくなったフランを引き寄せ、山積みの魔導書をかき分け、ソファへと導く。
上海には、バラバラに引き裂かれた人形の破片を集めさせた。破れたとは言え、再利用も効くには効くし、何しろフランの視線がさっきからそちらへ注がれている。
「雨音、聞こえる?」
「雨?」
気を引こうと 不思議な表情を浮かべながらも、フランは私の話を興味深く聞いてくれていた。
口元で指を立て、彼女の瞼を下ろしてやると、素直に閉じたままでいてくれた。
自分も目を伏せ、耳を澄ます。
遙か遠くで、微かに聞こえる程でしか無いが、雨が地を叩く音を拾えた。
「聞こえた?」
「うん、でも何で雨なんか」
「そうね……吸血鬼である貴女が外に出れば、貴女は雨に穿たれて、消える」
途端に哲学臭い話になってしまったが、口は動き続けた。
雨は貴女を消す積もりなんてないのに、貴女は消えていく。それこそ不本意ではないか、と彼女に説いてやった。
「消えないわ」
「……どうして?」
「どうせ、お外に出れないもの。お姉様が出してくれないもん」
「出れたとしても外は歩けないわね。雨が上がれば、日の光が貴女を灼くでしょう。それも貴女にとっては不本意。――貴女は消えたい?」
「消えたくない」
ふるふると首を振り、即答した。
「そうね、お天道様は加減を知らないから。貴女は分かる?」
「分かんない。私が触ろうとするとみんな怯えて逃げるんだもの。加減なんて分かんないよ」
「分かろうとする気持ちがあれば大丈夫よ。そんなに気に病む必要は無いわ」
「うん……?」
月並みな言葉しか言えなかったが、他に掛けてやれる言葉が見付からなかった。
だが、自分が彼女を変えられるなら変えてやりたい。
「時間の許す限り、じっくり考えなさいな。誰も貴女を咎める権利は無いのだから」
ぽすん、とフランの頭を膝に乗せ、頬をそっと撫でてやる。
意外にも抵抗はせず、むしろ脚の感触を確かめる様に頭を擦り付けてきた。
――って、何やってるんだ私は。
「ねぇ」
彼女は頭を動かさぬまま、上海が持ったままだった、回収してくれた人形――今は布切れだが――をひっ掴み、私の目の前に差し出した。
「これ、直る?」
さっきまでの無機質な表情は無く、懇願する様な、憂いを含んだ表情。その表情が何処か悲しげで、どうしてか嬉しかった。
「ええ、勿論」
流石に復元という形は無理だが、再利用して同じ人形を作るのは造作も無い。
「だから少しの間だけ、待てる?」
私がその布切れを受け取ると、返事代わりに満面の笑みを浮かべた。
「……良い子ね」
頬をそっと撫でてやると、むず痒そうにころころと表情を変えていく。何とも愛い奴め。
布切れに視線を落とす。
空手で引き裂かれたのとは違うほつれすら無い綺麗な断面で、内側から組織が崩れていく様な、云わば自壊に近い破れ方をしていた。
人形は、壊れる。
それは至極当然な事。
人形とは家族であり、下僕であり、恋人であり。
そうでありながらも、壊れる。
――思えば、私も人形か。
魔界の神に生み出された一つの人形。
その人形が、こうして人形を生み、壊される。
私も、何人もヒトガタを殺して来たのだ。
「道化ね」
途端、上海が不安げに身体を擦り寄せて来た。悪い事をしてしまった様だ。慰める様に、手で丸め込み抱いてやる。
「ごめん。変な事言ったね」
ふと、フランがやけに静かな事に気付く。さっきまであんなに嬉々と会話していたのに。
「あら……」
既にフランは、だらしない顔をして健康な寝息を立てていた。
「吸血鬼が寝不足なんてあるのかしら」
「一日中歩き回って疲れたのでしょう、すみません」
その隣、毛布を抱えた小悪魔が立っていた。実に用意周到な事で。
「こういうのも……良いわね」
彼女から毛布を受け取り、フランの体にそっと広げてやった。
「実の姉妹みたいですね」
「はぃ?」
「髪色同じですし。妹みたいだなーと思いません?」
「髪色だけじゃないの」
「良いじゃないですか」
「順調かしら……って、あら」
くだらない談話の最中で主の御帰還である。
「意外に早かったのね」
「えー、うん、それは、何?」
「何って、膝枕」
「そうじゃなくて」
「一人じゃ進むモノも進まないから。こうやって子守を買ってやってるの」
「……じゃなくて。何でフランがここに居るのよ」
「しーっ、起きるでしょうが」
僅かな沈黙。
「……それで? 何時まで待てば良いのかしら」
彼女の言葉に呼応するかの如く、真夜中を知らせる鐘の音が、館中に響き渡った。
「こんな時間だけど」
「この子が起きるまで……じゃ駄目かしら」
「別に、何時でも。急げと言ってたのは誰だったかしらね」
「何とでも」
――
明朝。
一向に起きず、泥の様に眠りこけるフランを小悪魔に任せ、放りっぱなしの魔導書を開き始める。
その魔導書をパチュリーは一つ一つ確認し、手渡したメモとを照らし合わせる度に顔をしかめた。
「う……面妖な」
「イリーガルな魔法、でしょ?」
「解ってるわよ。さっさと仕上げたいんでしょう? やるわよ」
「えぇ、すぐにでも始めるわ。ただ……頼みがあるの」
無駄な色気は出さないと言ったが、少しだけ。
§
光が、夜空に躍った。
禍々しくも神々しい翼が、光の残滓を撒き散らしていく。
パチュリー経由で主レミリアに掛け合い、庭までなら、と言う制約の下、フランを外へ出してやった。
無論、夜を止めて。
時間はそれ相応に掛かったが、魔法の
後は無事に止められるかどうかの実験が必要だった。
更なる紆余曲折(主に弾幕ごっこ)を経て、半刻程度なら止められる刻符は集まった。それを惜しみ無く使い、実験がてらにフランを外に出してやったのである。
無事に天蓋が止まってくれて何よりだった。成功してくれないとフランも外に出せなかったのもある。
こうして、ひとまずの山場を越え一息ついている間にも、夜に躍るフランの姿にしばらくは魅せられていた。
――なのに。
頭の片隅では未だに、木っ端微塵となった人形を引きずっていた。
自分でも、解らない。
常日頃から人形を弾幕の一つとして使い、使い捨て、費やしていると言うのに。
何故、あの人形が壊されたのを気に留め続けているのか。
あの子は戦う為の人形じゃない、壊される道理が無かった子。
突如、魔が差した。
折り目正しい人形劇には程遠いモノ――ヒトガタがヒトガタを殺す?
いや、それよりもっと非情で、理不尽で、血腥い――
彼女がくれた一時に、使える要素は数多に存在していた。
使わないのは勿体無い。
使わない道理は無い。
――
わずかに時は過ぎ、中秋の名月が迫っていた時の事。
突如、幻想郷から満月が消えた。
僅かに欠けた満月はその力を失い、妖怪達はこの異変をただ憂える事しか出来なかった。
ただ、異変で”彼女”が動かない筈は無い。
――と思っていた。
動かなかったのだ。
彼女に何を言っても無駄で、一歩も神社の境内から出ようとはしなかった。
もしや人間はこの異変に気付いていない……?
私は動き始めた。
動かぬ巫女の代わりとなる”彼女”を尋ねに。
案の定彼女も気付いていなかった。
ここで引くわけにも行かない。多少の犠牲を払いつつも、何とかこの白黒魔法使いをその気にさせる事は出来た。
そして、私達は夜を止めた。
今回は相当な長丁場になるだろう。刻符も相当な量が入り用になるのは必至だろう。道中で追々回収出来ると考え、術が破れぬよう急いだ。
「手間取らせないでよ、まったく」
「普通だぜ。それに、異変解決は霊夢の専売特許だろう」
「人間達はこの異変に気付いてないみたいなの。残念だけど、霊夢もその一人よ」
「霊夢が気付かん筈は無いと思ったんだがな」
「アンタも!」
飄々と風が吹く、夜空を駆ける。
ほんの少しだけ欠けた月は傾く事無く、夜空を妖しく照らし続けた。
「魔理沙」
とある頼み事を思い出した。別に誰でも構わないのだが、今は目の前の異変を解決する為に、彼女と行動を共にしている。故に彼女に頼めば手っ取り早く”相手”をしてくれるかもしれない。
「ん?」
「新しい弾幕が出来そうなの。後で試作段階のお相手してくれるかしら」
ほぉ、と珍しいモノを見たかの様な声を漏らす彼女。
「お前から弾幕勝負をふっかけて来るなんてな。明日は雹でも降るんじゃないか?」
「何とでも。とにかく相手が欲しいのよ。頼まれてくれるかしら」
「私は一向に構わんが……一体何だ?」
「人殺し」
「ひゅぅ……」
魔理沙は最後に「実にルナティックだな」と付け足した。
実際そういうイメージで趣向を凝らしてみた弾幕なのだ。そう言われるのはむしろ有り難い。
「して、その名前は」
「……あるにはあるんだけど、ね」
「勿体ぶるなよ」
折り目正しい人形劇には程遠いモノ。
ヒトガタがヒトガタを殺す道化。
もっと非情で、理不尽で、血腥い、目を背けたくなるような惨劇。
お人形遊びで終わらせない。
そう。
「『グランギニョル座の怪人』」
次も頑張ってくれ
アリスとフランの会話をもう少し読んでいたかった。