――Ⅰ――
きのこがたくさんまほうのもり
きりがかかったおおきなみずうみ
おくにそびえるまっかなやかた
そこには、あかいきゅうけつきがすんでいました
逝ける銀月の為のセクステット
――1――
懐中時計の針がカチ、と動く。動いて止まる。止まってまた止まった。
停止した世界の中でシワ一つ無いメイド服に身を包むと、それだけで意識が切り替わる。
一日一日を完全に、完全で瀟洒にこなすことこそが、私のアイデンティティだった。
「時間は……あら?」
懐中時計を手に持ち、覗き込む。
私が時を止めるとき以外は寸分の狂い無く動いていたのに、何故だか今は止まっていた。
そうそう止まるものではなかったはずなのだが……あとで、香霖堂へ持っていこう。
窓辺から外を望むと、既に黒の天蓋が紅魔館をすっぽりと覆っていた。
「寝過ごした……?」
寝過ごした……寝過ごした?
どうしよう。お嬢様はまだ起きてこられる時間ではない。
けれど最近は妙に早起きして、色々なところへ出かけることもある。
お嬢様を置いて寝こけるなんて……はぁ、疲れているのかしら。
大きくため息を吐くのも、自分の部屋にいる間だけ。
部屋から一歩出てしまえば、そこに在るのはナイフのように研ぎ澄まされた私だ。
もう多少疲れてしまっても構わない。妖精メイドでは手に負えない仕事を、さっさと終わらせてしまおう。
館の中は常に肌寒く、そして湿気がひどい。
パチュリー様が魔法でどうにかすることもあるが、それはいつも何かの研究のついでだった。
何時だって、パチュリー様は自分の指針に沿って動かれる。魔女らしいというべきか。
「おかしいわね」
思わず、独りごちる。
先程まで掃除していたのだろう。モップやバケツが放置されている。
なのにそれを持っているはずの妖精メイドの姿は、どこにも見られない。
一歩踏み出せば、大理石の床を叩く音が、久遠に響いた。
私以外に誰もいないということなのだろうか?
いや、案外図書館辺りで大騒ぎしているのかも知れない。
「しょうがない子たちね」
独り言が、自然と増えてしまう。
誰かが返事をしてくれれば独り言にはならないのに、本当にしょうがない妖精たちだ。
時間を止めて移動する。
けれどそうしなくとも周囲には何もないのだから、どこか虚しい。
淡々と作業をこなすだけでは、瀟洒とは言いきれない。
ナイフでも投げながら、進んでみようかしら。
紅魔館地下に広がる、大図書館。
ここに入る前に、もう少し下に降りてみた。
妹様が起きていたら、彼女にも紅茶をお淹れしよう。
――コンコン
「失礼します、妹様」
ノックをして、返事はない。
そろそろ起きても良い時間だし……起こして、ついでに図書館へお連れしよう。
彼女は図書館で読書をするのが、好きだから。
「あら?」
けれど、時を止めて入った先に妹様はいらっしゃらなかった。
代わりに、お嬢様の姿のぬいぐるみだけが、ぽつんと置かれていた。
一緒に寝ていたのだろうか。シーツから顔の部分だけ出ていて可愛らしい。
森の人形遣いに頼んで、私の分も作ってもらおうかしら。
「でも、無駄足ね」
仕方がないので、お嬢様のぬいぐるみに一礼をして、その場を去る。
時を止めて動いてしまえば、そこに無駄な時間なんか存在しない。
ただ延々と止まった世界が、私を抱擁するだけだ。
地下大図書館に入り、パチュリー様の姿を探す。
けれどそこにも、妖精メイドたちや妹様の姿は見られなかった。
自分の吐息のだけが響く空間というのも、趣がある……か。
「パチュリー様!どちらにおいでですか?」
空を飛び、声を上げる。
パチュリー様から返事はなくとも、付き従っている小悪魔からはあるのが常だ。
なのにどうしてだか、胸騒ぎが、して。
「パチュリー様?」
図書館の中央。
パチュリー様がいるはずの場所には、読みかけの本があった。
普段肌身離さず持ち歩いている本と、その横にはナイフが入れられたホールケーキ。
ナイフがずれた様子もないし、この場を離れてからさほど時間は経っていないはずだ。
「外に行かれたのかしら」
顎の手を当てて、それからまた時を止めた。
そうしなくとも周囲に動きはないから、止めているという実感は色褪せた視界からでしかわからない。
なんとも虚しい光景だ。
図書館から出て向かうのは、門だ。
たまに寝こけているけれど、それでも彼女は優秀な門番だ。
出入りがあれば、感知していることだろう。
彼女が普段世話をしている庭園を抜け、それから真っ直ぐと門を目指す。
「美鈴、聞きたい事が……美鈴?」
門前で柔らかな笑顔を浮かべているはずの、彼女。
今はどうしてだかその場を離れていて、門前には丸椅子と星の飾りのついた帽子だけが置いてあった。
「異変……いえ、まだ決まった訳ではないわ」
美鈴だって、根を張っているが如く門前にいる訳ではない。
お嬢様が“占い”をして来客がないとわかれば、彼女はお嬢様と一緒に漫画を読んでいる。
だからきっと、これもそうだ。そうでなかったら……それは。
時を止めて、お嬢様の部屋へ行く。
ノックをして、返事をいただけず、入っても誰もいなかった。
それならたぶん、テラスで寛いでいることだろう。
「お嬢様、こちらですか?」
テラスに置かれた机。
湯気を立てる紅茶。
皿に盛られたクッキー。
立てかけられた、特注の白い日傘。
先程まで、ほんの少し前までそこにいたはずなのに。
確かにそうであったと示す証拠が、ここに揃っているのに。
なのに、お嬢様の姿は――――どこにも、なかった。
――Ⅱ――
あかいきゅうけつきには、たいせつなかぞくがいました
あかるくてかわいいいもうと
おだやかであたたかいもんばん
むくちだけどやさしいしんゆう
かんぜんでしょうしゃで、しんらいするめいど
きゅうけつきは、このめいどがだいすきでした
――2――
夜から進まない時間と、風の吹かない空間。
時を止めることなく、私は屋上の時計台を見た。
時針も分針も外れた、まっさらな大時計を。
「異変なのは確定みたいね」
巫女はなにをやっているのかしら?
あの黒白魔法使いもだ。普段なら、頼みもしないのに引っかき回していくのに。
とにかく今は巫女たちを焚きつけて、事態の解決を図らないとならない。
そうしてみんなが帰ってきたら、まず最初に朝の挨拶をして、それから朝食を振る舞おう。
私の日常を、なんだかよく解らないものに、崩される訳にはいかないから。
空を飛び、ここから一番近い魔法の森へ行く。
あの黒白魔法使い――魔理沙は留守にしていることが多いが、アリスの方は特別なことでもない限り家に篭もっている。
いざとなれば、そっちでもいいだろう。
キノコの胞子で充満しているはずの、魔法の森。
眼下に広がるその森の空気は、何故だか澄んでいた。
キノコがまともに機能していないのだろうか?考えてみれば、鳥や獣の姿も見られない。
「魔理沙、お邪魔するわよ」
この家からは、時折パチュリー様の本を徴収しに行く。
だから、侵入経路含めて抜かりはない。
時を止めてトラップを解除しながら、私は家の中へ進んでいった。
「魔理沙?どこにいるの?」
トラップが少なかったから、家にいると思ったのだけれど。
けれどどんなに家捜ししようと、魔理沙の姿は見えなかった。
机の上にぽつんと置かれた八卦炉と帽子が、どこか哀愁を漂わせる。
「いない?」
肌身離さず持っていた、八卦炉を置いて?
そんなミスをするのかはわからないけれど……とびかく今は、急ぎたい。
胸に重く押しかかる影を、振り払うためにも。
魔理沙の家を出て直ぐの場所。
そこに済む人形遣い、アリスを訊ねて見ても、結果は変わらなかった。
作りかけの人形と人形の服が、机の上に投げ出されているだけだった。
「……っ」
急いで魔法の森から飛び出して、他の場所も探し始める。
これほどの大異変なのに、誰も動いていないなんて、そもそもおかしい。
ああ、本当なら、ここにもっと早く気がつけば良かったのよ。
私はそう、唇を噛みたくなるのを、ぐっと堪えた。
そんなのは、瀟洒ではない。
早く誰かに合流して、事態の把握を勧める。
しかし私のそんな考えは――そうそうに消滅することになった。
博麗神社も。
守矢神社も。
地霊殿に冥界。
さらに永遠亭や命蓮寺、それマヨヒガまで。
直前までそこにいたはずという痕跡だけ残してをその場から――幻想郷から消え去っていた。
「誰かが、私以外のメンバーを消した?」
だったら何故、私だけ残されたのか。
時間を操る能力で、止めていた世界に私が居た。
そんな矛盾だらけの状況でもあったのなら、更に理不尽な存在がどうにかしたのかも知れない。
「メアリー・セレスト号?冗談じゃないわ」
踵を返して、紅魔館に戻る。
その道中に見た風景の中には、チルノや大妖精、それにルーミアの姿さえも見えなかった。
私だけが、ただ、世界に取り残されている。
それはもうきっと…………覆しようのない、事実だ。
「何故私だけ残って、みんなが消えたのかしら?」
顎に手を当てて、考えを整理する。
けれども、そもそも切っ掛けすらわからないのだ。
それなのに、答えが見つかるはずもなかった。
「ッ……お嬢様、いったいどちらへ?」
見上げた月は、答えてくれない。
ただ門前の緑の帽子だけが、ぽつんと私を迎え入れた――。
――Ⅲ――
きゅうけつきは、しょうしゃなめいどをしんらいしていました
しんらいして、とてもとてもたいせつにしていました
あるひ、きゅうけつきはといました
ずっとずっといっしょにいたいと、といました
けれど、しょうしゃなめいどは――くびをたてには、ふりませんでした
――3――
肩を落として、息を吐く。
美鈴の帽子を手にとって、私は彼女が愛用している丸椅子に、腰掛けた。
私が紅魔館に来たばかりの頃は、椅子に座りながら仕事をする姿なんか、見せてくれなかったのに。
「そういえば」
帽子をくるりと回して、被る。
路頭に迷った私、トチ狂ってお嬢様に挑んで、敗北した私。
そんな私に最初に笑顔を向けてくれたのは、彼女だった。
執事服に身を包んだ、男装の令嬢。令嬢というには、凛々しすぎたのだけれど。
『これからびしびし鍛えます。ついて来られますか?』
厳しくすると言っているのに、その笑顔は柔らかすぎて。
彼女が有能だったなんて、思いもしなかった。
炊事に洗濯、掃除にナイフを使った護身術。
私がここで働くための基礎、メイドしての仕事の全て。
それらは全て、美鈴が教えてくれた。
そんな彼女に敬意を表して、未だに彼女の“家令”という肩書きは空席だ。
『ええ、似合いますよ。咲夜』
この三つ編みも、そんな美鈴に、教わったものだ。
「……振り返れば、けっこう出てくるものね」
帽子を置いて、門を撫でる。
そのまま私は、その場を後にした。
門に未だ残る傷跡は、ナイフの練習をした後だ。
練習と言えば、そういえば思い出すことがある。
紅魔館の地下室。
当時はまだ、妹様は外に出ることを拒んでいた。
それでも美鈴とはよく話をされていて、私がメイドの仕事を覚え始めた頃に彼女に引き合わされたのだ。
妹様は、情緒不安定だったが、自分の“能力”に対しては精微な制御を可能としていた。
先天的に備わった力の、効率の良い使い方。
時間を操る程度の能力を制御しきれていなかった私は、妹様に力の制御方法を教わることになったのだ。
『今日から私が、貴女の師匠よ!』
「ええと確か――はい、師匠……って、答えて」
『じ、実際に言われると照れるかも。どうしよ、めーりん』
過去を振り返りながら、当時の言葉を思い出す。
目の前に広がる暗い地下室は、私の能力の実験場だった。
私と妹様の、交流の場だった。
『そうそう、もっと早く、まだ、いいよ!』
『フランドール様、支離滅裂です』
『めーりんは静かに強く早くッ……あれ?』
大変だったし、辛かったし、何度も泣いたし、痛かった。
けれどその時間で得られる瞬間々々が本当に嬉しかったのを、覚えている。
妹様は私に、死なないように死なないようにと力の使い方を教えてくれた。
『これで終わり!ご苦労様、もう私に教えることはないや』
「ありがとうございました、師匠――か」
『だから、“師匠”はもういーよ』
なにかお礼がしたかった。
だから人里へ行って、人形劇をしていた人形師――当時はそれが魔女だったなんて、気がつきもしなかった――にお嬢様の人形を作ってもらって、それをプレゼントした。
『あわわ、え、ええっと、咲夜!』
「はい、フランドール様」
『私のことは今日から、“妹様”と呼びなさい!お姉さまに仕えて、家族として私を護りなさい!』
「はい、妹様」
『それから、ええっと……ありがと、咲夜』
あのはにかんだ笑顔が、忘れられない。
私がプレゼントした人形を、妹様は肌身離さず持っていてくださった。
頬が緩んでいくのがわかる。きっと私は今、だらしなく笑っていることだろう。
妹様のベッドに一礼して、その場を去る。
地下室から少し登った場所に在るのは、当時はまだ窮屈だった図書館だ。
小さな部屋に、ぎゅうぎゅうに本を詰めた図書館。
そこには、無口な知識人と悪魔らしくない悪魔が居た。
無限に広がる図書館。
元に戻すと怒られてしまうから、できないけれど。
その小さかった図書館は、今でも私の記憶に刻み込まれている。
親もなく友もなく、当然のように学もなかった。
そんな私にありとあらゆる知識を刻み込んでくれた、図書館の主。
彼女は私に、本当に色々な事を教えてくれた。
文字の読み書き。
丁寧な言葉遣い。
算学から経済学。
初歩的な魔術論。
『ここは知識の倉、全能の泉。知恵の魚の油を舐めたくば、私の矩に従いなさい』
荘厳だった。知識の全てを従えて佇む彼女に、私は目を惹かれた。
無駄知識と謂われるものもあったけれど、その全ては私の糧になっている。
そういえば、そんなパチュリー様に、美味しいケーキの作り方を教わったこともある。
私が“先生”と呼び慕うと、パチュリー様はなんでも教えてくれたから。
『ふふふふ、任せなさい。私の数千に渡るレシピが深淵から覗き込んで待っているわ!』
そこまで言い切って見せたのに、お菓子作りは簡単にはいかなかった。
少し横着すれば変な味になるし、スポンジを作る段階でパチュリー様の体力が切れるし。
結局小悪魔が寝ずの特訓をして、私に美味しいケーキを食べさせてくれた。
『できない約束はしない!約束できますか?パチュリー様』
そういって胸を張った小悪魔に、パチュリー様は簡単に頷いた。
これは破る顔だ、なんて思っていたら、その後やっぱり何度も破っていたのを思い出す。
「ふふっ」
思わず、声が零れる。
あの日から、小悪魔の得意料理は“美味しいケーキ”だ。
ちょうど今机の上に在るような、生クリームのスポンジケーキ。
お嬢様にも褒められた、ケーキ。
「――そう、よ」
お嬢様。
お嬢様に、逢いに行きたい。
お嬢様のそばで、佇んでいたい。
お嬢様に美味しい紅茶をお淹れして。
お嬢様と、紅魔館のみんなで、ケーキが食べたい。
図書館から出て、走る。
時間を止めるのも忘れて、空を飛ぶのも忘れて。
ただただ、お嬢様が紅茶のカップを傾けている、あのテラスに走った。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……お嬢、様」
大きな扉を開け放ち、それから息を整える。
息を整えて、誰も座っていない椅子の後ろに立った。
お嬢様の斜め後ろ。
一歩下がったこの場所は、私の特等席。
誰にも奪わせないと誓った、私の居場所。
湯気を立てる紅茶は、その微かな赤色は――私が、お嬢様からいただいたものだ。
長い年月を生きていたというお嬢様は、何故だか美鈴よりも紅茶を淹れるのがお上手だった。
暇つぶしに覚えたそれが、役に立つなんて思いもしなかった、なんて。
お嬢様はそんな風に笑うと、私に紅茶の淹れ方を教えてくれた。
『学びなさい、咲夜。これからは貴女が、紅茶を淹れるのよ』
手を取って、失敗した紅茶でも必ず飲んで、容赦なくまずいと言って。
それでも、たったの一度たりとも、私がお出しした紅茶を残されなかった。
必ず全部飲み干して、苦い顔を作って、それでもやっぱり飲み干して。
そんなお嬢様に、紅茶を飲んで笑顔になって欲しいと思った。
だから特訓して、特訓して、特訓して、体調を崩して怒られて。
あの日病床で飲んだ、お嬢様の紅茶。
あの日のその味を、私は忘れたことがない。
あの日出逢ってから、お嬢様は私に色々なものを与えてくれた。
あの日、私に、名をくれたときから。
『いい目ね』
紅い目、薄く青い髪、緋色のドレス。
『運命を覆すことの出来る目よ』
大きな翼を広げ、傲慢に口元を歪め、縦に割れた瞳孔で全てを見下し。
『その目で私に、最上の運命を紡いで見せなさい』
誰よりも強く、格好良く、倒れ伏す私に言い放った。
『貴女の運命は私のもの。他の何者にも、脅かせはしない』
差し出された手。
自分のそれとさほど変わらない手。
なのに誰よりも大きく、強く、優しく感じた。
『貴女の名前は“十六夜咲夜”――満月の王たる私に、付き従う運命を持つ従者よ』
お嬢様にそう言われたのが、嬉しくて。
惨めに生きていた自分に差し出してくれた手が、優しくて。
「お嬢様……お嬢、さまっ」
膝から崩れ落ちる。
どこにもいない。どこにも、いない。
たったそれだけのことが、こんなにも辛いなんて。
お嬢様は私に、色んな事を教えてくれた。
失敗すれば、叱ってくれた。
――父親が居れば、そうしてくれたように。
成功すれば、微笑んでくれた。
――母親が居れば、そうしてくれたように。
世界には、色があって。
世界は極彩に、満ちていて。
世界の全ては、一筋の道に沿っていて。
私の世界は、お嬢様に護られていて。
私の世界は、お嬢様の背中によって彩られていた。
お嬢様に、妖怪にならないかと誘われたことがあった。
その時、私の心は揺らいだはずなのに、なのに私の口は答えを出していた。
これは、私の我が儘です。
だって、悠久を生きる存在になってしまったら、噛みしめられなくなってしまう。
変化への成長を捨ててしまったら、味わうことが出来なくなってしまうのです。
幻想郷で、紅魔館で、お嬢様と過ごす…………一刻みの運命を。
だから。
だから、私は。
だから、私はあの“最期”の時まで――
「――あ」
頬を伝う熱に気がついて、指を這わせた。
「ああ、ぁ」
こぼれ落ちた透明の雫。
「ああああ、ぁ、ああっ」
拭っても、拭っても、拭っても。
「ぁぁああああああああっ!!!」
止まることのない……涙。
みっともなく崩れ落ちて、テラスのタイルを指で掻く。
完全な自分も、瀟洒な自分も、全部が全部投げ捨てて。
私は。
私がした、選択は。
私の、望んでいたものは。
こんな、世界だった?
――Ⅳ――
きゅうけつきは、しょうしゃなめいどにみちたりたじんせいをおくらせることを、やくそくしました
はるがすぎて、はなをつみ
なつがすぎて、みずうみへでかけ
あきがすぎて、こうようをながめ
ふゆがすぎて、ゆきげしきになべをかこむ
いくどもいくどもちがったたのしみを、あたえつづけてきました
けれど、ついに、かのじょのじかんにおわりのときがおとずれました
――4――
全部、思い出した。
吸血鬼になることを拒んだ私に、お嬢様は最高の人生を約束してくれた。
私という存在が消え去るまで、私に飽きさせない世界を与えると、そう約束してくれた。
春が訪れたら、花見をした。
冥界の桜の下で大騒ぎをして、目を血走らせた妖夢と弾幕ごっこを繰り広げた。
夏がやってきたら、ピクニックをした。
夜の湖畔で魚を釣り、美鈴がそれを塩焼きにしてくれた。
秋になったら、紅葉狩りにでかけた。
妖怪の山に正面から殴り込んで、大天狗を倒し、射命丸と酒を呑んだ。
冬で外が白に染まったら、みんなで引き籠もった。
妹さまのレーヴァテインの側で鍋を囲んで、炬燵から出られる人がいなくなった。
楽しかった。
楽しくて、楽しくて、一秒一秒を心に刻み込んだ。
幾度も幾度も、彩りに溢れた四季を巡り続けた。
春が訪れた。
最初に逝ったのは、霊夢だった。次代に巫女の席を明け渡して、数年経った頃だった。
夏がやってきた。
次は、早苗だった。現人神として短くも力強い生を全うした、立派な風祝だった。
秋になった。
紅葉と恒星に世界が覆われた頃、魔理沙が逝った。最期に、空に魔砲を放って。
冬が来て、雪景色に染まった頃だった。
私の身体にガタが来て、ついに終わりを迎えることになったのは。
最期にお嬢様は、もう一度私に問うた。
その瞳は、ひどく穏やかで、優しくて。
久々に淹れてくださった紅茶が、温かくて。
『死を恐れるなら、受け入れよう。私の眷属になる気はない?咲夜』
『私は一生死ぬ人間ですわ。大丈夫です、たとえどんな姿に移ろいでも、側におりますから』
お嬢様の側にいたい。
けれど私は、人間として、在りたかった。
お嬢様に貰った宝物の全てを、曖昧なものにしたくなかった。
なのに――――なのに。
「このなにもない世界が、私への罰なの?この、あのひとたちの“温もりの残滓”だけが残る世界がッ!」
時間を操る能力。
世界の理から外れた力。
その力を行使し続けた先――それが、全てが“停止”した世界に在ること?
地獄で罰を受けなければならないというのなら、受け入れよう。
どんなに時間がかかっても、必ず転生してみせるから。
けれど、この世界に囚われ続けていたら、私は……お嬢様の側に、在れない。
「あ、ぁぁぁ、ああああ、ぁ、ああっ!!!」
これが、定めなのだろうか。
私に課せられた、宿命なのだろうか。
逃れることの出来ない、楔なのだろうか。
「美鈴、妹様、パチュリー様、小悪魔――――お嬢、さま…………」
声が、虚しく響く。
この、全てが停止した世界に。
――Ⅴ――
しょうしゃなめいどは、じかんをあやつります
そのおおきなちからのだいしょうに、かのじょはじかんのはざまにとじこめられました
それはせいとァァうなだいしょうで、だれにもくつがえすことができません
なぜザならそれは、ァしぜんのせつりでッザァあるからです
だかァら、しょうしゃなめザいどは、このさきザァみらいえいごうザザに
このせザッかいにザァ、とッじこめァられザァァァァァァァァァァ――
「――で?誰がそんな“運命”を、許可したのかしら?」
ァァァァァ――とじこめられたりは、しませんでした
なぜなら、しょうしゃなめいどには、さいあいのあるじがいたからです
かのじょがだれよりもしたい、ちゅうせいをちかった、さいきょうのきゅうけつきがいたからです
――5――
ふと、頬に風を感じた。
停止した世界、なにもかもが冷たい世界、残滓だけの世界。
そこに、強い風が吹いた。
「顔を上げなさい」
声が、響いた。
声が、聞こえた。
声が、全てを貫いた。
「おじょう、さま?」
ここは私の檻なのに。
私が罰せられるための、牢なのに。
それなのに、お嬢様は。
「私に従う悪魔の犬よ。完全で瀟洒の名が廃れるわよ」
叢雲が流れ。
夜が星空を讃え。
満月が真紅に染まる。
どうしてだろう。
どうして、こんなにも、胸が軽くなるのだろう。
「申し訳、ありません――――我が主、レミリアお嬢様」
さっきまでは、もう立てないと思っていたはずなのに。
さっきまでは、深い絶望に抱擁されていたはずなのに。
たった一言で、こんなにも心が軽くなる。
「失態をお見せしましたわ」
「本当よ。次からは気をつけなさい」
「次はありませんわ」
「そう、期待しているわ」
机の横に降りたって、お嬢様は紅茶を傾ける。
それから眉を顰められたから、私は直ぐに新しい紅茶に淹れなおした。
――お嬢様が、気に入ってくださった、“私の紅茶”を。
「うん、やっぱり咲夜の紅茶が一番ね」
「ありがとうございます、お嬢様」
一礼をして、涙の跡を拭う。
それから、お嬢様の一歩後ろに控えた。
もう肩書きは譲ってしまったのだけれど、それでもお嬢様の“一歩”後ろは私のものだ。
誰にも譲らない、私だけの場所だ。
「ねぇ咲夜」
「なんでしょうか」
「いくの?」
「はい」
迷わない。
迷えない。
迷うことなんか、できない。
「そう、知っていたわ」
「あら、流石ですわ。お嬢様」
「ふふ、でしょう?」
幻想郷から、紅魔館から、お嬢様から。
これ以上ないというほどに詰め込まれた、私だけの宝物。
長命になったら、きっとこんな瞬間も、曖昧になってしまう。
摩耗して摩耗して、宝石は路傍の石になる。
私は、私の全ての始まりの、この時間を。
私を包んできた優しくて温かい運命を……失いたく、ないから。
「辛くなったら、何時でも来なさい」
「転生したら、記憶はありませんわ」
「いいから、約束」
「――畏まりました、お嬢様」
紅茶を飲むお嬢様の顔が、見えない。
でもきっと、強く笑っていてくれているはずだ。
「私はもう少し休んでから帰るわ。だから貴女は、先に逝ってなさいな」
「はい――――ありがとう、ございました」
お嬢様が指し示した先。
真紅の月は、瞬く間に欠けた。
十五夜から一歩控えた、十六夜の月だ。
最期にもう一度だけ時間を止めて、お嬢様の前に懐中時計を置く。
私の懐中時計はここに来る間際に渡していたが、構うまい。
「十六夜咲夜は、これで失礼致しますわ」
一礼して、飛び立つ。
最期まで、最後まで、完全で瀟洒に。
お嬢様が望まれた、お嬢様だけの私の姿で。
遙かな夜に、身を躍らせた。
真紅の月に手を伸ばすと、それだけで私は“向こう側”へ引っ張られた。
星の生誕と終焉を、目まぐるしく浴びながら、世界を渡る。
お嬢様。
お嬢様、私は。
お嬢様、咲夜は、お嬢様に出逢うことができて――
――幸福でした。
――Ⅵ――
きのこがたくさんまほうのもり
きりのかかったおおきなみずうみ
おくにそびえるまっかなやかた
そこには、あかいきゅうけつきがすんでいました
あかいきゅうけつきには、たいせつなかぞくがいました
あかるくてかわいいいもうと
おだやかであたたかいもんばん
むくちだけどやさしいしんゆう
かんぜんでしょうしゃにはほどとおいけれど、いっしょうけんめいなめいど
きゅうけつきは、やかたのみんながだいすきです
――6――
パタン、と本が閉じられる。
すると、空いたカップに突撃する幼い少女の姿が見えて、レミリアは小さく横に移動した。
がたん、と椅子を動かして、顔には苦笑を浮かべて。
「おおおお、お嬢様!紅茶のお代わりでふッ!?」
思い切り舌を噛んだのか。
黒髪のメイドは、口元を抑えながら俯いて、それでもなお紅茶を淹れようとする。
気概だけなら、未だに空きポストの“メイド長”よりも上かも知れないと、レミリアは慰めにも似た感想を呑み込んだ。
「うぅ……本日は、どのようにおすごしになりますか?」
「無理しなくて良いのよ?」
「いいえ!私は誠心誠意一生懸命仕事を全うしたく存じあげます!」
今度は言い切った。
そんな感情を滲ませる表情に、レミリアは顔を引きつらせることしかできなかった。
けれど、彼女も“メイド長”の教えを継ぐ一人だ。これからに期待しようと、レミリアは妙に甘酸っぱい紅茶を飲み込んだ。
なんとも言えない濃すぎる甘味。
強いて言うなら、チクロ味の、紅茶に似たなにか。
おかしなものを淹れる癖まで、継承済みな様であった。
「今日は少し散歩をしてくるわ」
「では今日こそご一緒に!」
「いいえ――――ああ、いや、そうね。偶には日傘を持ちなさい」
「はいっ!」
太陽のような笑顔は、月のようだった彼女とは正反対だ。
けれどその笑顔が憎めなくて、レミリアはいつも苦笑を浮かべるのに止まっている。
もう威厳に満ちあふれた笑みは、妹に譲ってしまおうか。
そんな風に、レミリアは肩を落とした。
「さて……朝までには帰るわよ」
「はい、畏まりましたっ」
レミリアは手に銀の懐中時計を持つと、深い空に身を預ける。
彼女は、満月から一歩控えた、僅かに欠けた月――
――十六夜の月を見上げて、穏やかな笑みを浮かべた。
――Sextet――
あかいやかたのきゅうけつき
かのじょはきょうも、かいちゅうどけいをかたてにもって、つきをみます
どんなにときをきざもうと、つきをみればおもいだします
つきをみておもいだして、あらたなおもいをつむぎます
これはそんな、あかいきゅうつきと、ようかいたちと
それから、よわくてつよいにんげんの、やさしいやさしいものがたり
――了――
きのこがたくさんまほうのもり
きりがかかったおおきなみずうみ
おくにそびえるまっかなやかた
そこには、あかいきゅうけつきがすんでいました
逝ける銀月の為のセクステット
――1――
懐中時計の針がカチ、と動く。動いて止まる。止まってまた止まった。
停止した世界の中でシワ一つ無いメイド服に身を包むと、それだけで意識が切り替わる。
一日一日を完全に、完全で瀟洒にこなすことこそが、私のアイデンティティだった。
「時間は……あら?」
懐中時計を手に持ち、覗き込む。
私が時を止めるとき以外は寸分の狂い無く動いていたのに、何故だか今は止まっていた。
そうそう止まるものではなかったはずなのだが……あとで、香霖堂へ持っていこう。
窓辺から外を望むと、既に黒の天蓋が紅魔館をすっぽりと覆っていた。
「寝過ごした……?」
寝過ごした……寝過ごした?
どうしよう。お嬢様はまだ起きてこられる時間ではない。
けれど最近は妙に早起きして、色々なところへ出かけることもある。
お嬢様を置いて寝こけるなんて……はぁ、疲れているのかしら。
大きくため息を吐くのも、自分の部屋にいる間だけ。
部屋から一歩出てしまえば、そこに在るのはナイフのように研ぎ澄まされた私だ。
もう多少疲れてしまっても構わない。妖精メイドでは手に負えない仕事を、さっさと終わらせてしまおう。
館の中は常に肌寒く、そして湿気がひどい。
パチュリー様が魔法でどうにかすることもあるが、それはいつも何かの研究のついでだった。
何時だって、パチュリー様は自分の指針に沿って動かれる。魔女らしいというべきか。
「おかしいわね」
思わず、独りごちる。
先程まで掃除していたのだろう。モップやバケツが放置されている。
なのにそれを持っているはずの妖精メイドの姿は、どこにも見られない。
一歩踏み出せば、大理石の床を叩く音が、久遠に響いた。
私以外に誰もいないということなのだろうか?
いや、案外図書館辺りで大騒ぎしているのかも知れない。
「しょうがない子たちね」
独り言が、自然と増えてしまう。
誰かが返事をしてくれれば独り言にはならないのに、本当にしょうがない妖精たちだ。
時間を止めて移動する。
けれどそうしなくとも周囲には何もないのだから、どこか虚しい。
淡々と作業をこなすだけでは、瀟洒とは言いきれない。
ナイフでも投げながら、進んでみようかしら。
紅魔館地下に広がる、大図書館。
ここに入る前に、もう少し下に降りてみた。
妹様が起きていたら、彼女にも紅茶をお淹れしよう。
――コンコン
「失礼します、妹様」
ノックをして、返事はない。
そろそろ起きても良い時間だし……起こして、ついでに図書館へお連れしよう。
彼女は図書館で読書をするのが、好きだから。
「あら?」
けれど、時を止めて入った先に妹様はいらっしゃらなかった。
代わりに、お嬢様の姿のぬいぐるみだけが、ぽつんと置かれていた。
一緒に寝ていたのだろうか。シーツから顔の部分だけ出ていて可愛らしい。
森の人形遣いに頼んで、私の分も作ってもらおうかしら。
「でも、無駄足ね」
仕方がないので、お嬢様のぬいぐるみに一礼をして、その場を去る。
時を止めて動いてしまえば、そこに無駄な時間なんか存在しない。
ただ延々と止まった世界が、私を抱擁するだけだ。
地下大図書館に入り、パチュリー様の姿を探す。
けれどそこにも、妖精メイドたちや妹様の姿は見られなかった。
自分の吐息のだけが響く空間というのも、趣がある……か。
「パチュリー様!どちらにおいでですか?」
空を飛び、声を上げる。
パチュリー様から返事はなくとも、付き従っている小悪魔からはあるのが常だ。
なのにどうしてだか、胸騒ぎが、して。
「パチュリー様?」
図書館の中央。
パチュリー様がいるはずの場所には、読みかけの本があった。
普段肌身離さず持ち歩いている本と、その横にはナイフが入れられたホールケーキ。
ナイフがずれた様子もないし、この場を離れてからさほど時間は経っていないはずだ。
「外に行かれたのかしら」
顎の手を当てて、それからまた時を止めた。
そうしなくとも周囲に動きはないから、止めているという実感は色褪せた視界からでしかわからない。
なんとも虚しい光景だ。
図書館から出て向かうのは、門だ。
たまに寝こけているけれど、それでも彼女は優秀な門番だ。
出入りがあれば、感知していることだろう。
彼女が普段世話をしている庭園を抜け、それから真っ直ぐと門を目指す。
「美鈴、聞きたい事が……美鈴?」
門前で柔らかな笑顔を浮かべているはずの、彼女。
今はどうしてだかその場を離れていて、門前には丸椅子と星の飾りのついた帽子だけが置いてあった。
「異変……いえ、まだ決まった訳ではないわ」
美鈴だって、根を張っているが如く門前にいる訳ではない。
お嬢様が“占い”をして来客がないとわかれば、彼女はお嬢様と一緒に漫画を読んでいる。
だからきっと、これもそうだ。そうでなかったら……それは。
時を止めて、お嬢様の部屋へ行く。
ノックをして、返事をいただけず、入っても誰もいなかった。
それならたぶん、テラスで寛いでいることだろう。
「お嬢様、こちらですか?」
テラスに置かれた机。
湯気を立てる紅茶。
皿に盛られたクッキー。
立てかけられた、特注の白い日傘。
先程まで、ほんの少し前までそこにいたはずなのに。
確かにそうであったと示す証拠が、ここに揃っているのに。
なのに、お嬢様の姿は――――どこにも、なかった。
――Ⅱ――
あかいきゅうけつきには、たいせつなかぞくがいました
あかるくてかわいいいもうと
おだやかであたたかいもんばん
むくちだけどやさしいしんゆう
かんぜんでしょうしゃで、しんらいするめいど
きゅうけつきは、このめいどがだいすきでした
――2――
夜から進まない時間と、風の吹かない空間。
時を止めることなく、私は屋上の時計台を見た。
時針も分針も外れた、まっさらな大時計を。
「異変なのは確定みたいね」
巫女はなにをやっているのかしら?
あの黒白魔法使いもだ。普段なら、頼みもしないのに引っかき回していくのに。
とにかく今は巫女たちを焚きつけて、事態の解決を図らないとならない。
そうしてみんなが帰ってきたら、まず最初に朝の挨拶をして、それから朝食を振る舞おう。
私の日常を、なんだかよく解らないものに、崩される訳にはいかないから。
空を飛び、ここから一番近い魔法の森へ行く。
あの黒白魔法使い――魔理沙は留守にしていることが多いが、アリスの方は特別なことでもない限り家に篭もっている。
いざとなれば、そっちでもいいだろう。
キノコの胞子で充満しているはずの、魔法の森。
眼下に広がるその森の空気は、何故だか澄んでいた。
キノコがまともに機能していないのだろうか?考えてみれば、鳥や獣の姿も見られない。
「魔理沙、お邪魔するわよ」
この家からは、時折パチュリー様の本を徴収しに行く。
だから、侵入経路含めて抜かりはない。
時を止めてトラップを解除しながら、私は家の中へ進んでいった。
「魔理沙?どこにいるの?」
トラップが少なかったから、家にいると思ったのだけれど。
けれどどんなに家捜ししようと、魔理沙の姿は見えなかった。
机の上にぽつんと置かれた八卦炉と帽子が、どこか哀愁を漂わせる。
「いない?」
肌身離さず持っていた、八卦炉を置いて?
そんなミスをするのかはわからないけれど……とびかく今は、急ぎたい。
胸に重く押しかかる影を、振り払うためにも。
魔理沙の家を出て直ぐの場所。
そこに済む人形遣い、アリスを訊ねて見ても、結果は変わらなかった。
作りかけの人形と人形の服が、机の上に投げ出されているだけだった。
「……っ」
急いで魔法の森から飛び出して、他の場所も探し始める。
これほどの大異変なのに、誰も動いていないなんて、そもそもおかしい。
ああ、本当なら、ここにもっと早く気がつけば良かったのよ。
私はそう、唇を噛みたくなるのを、ぐっと堪えた。
そんなのは、瀟洒ではない。
早く誰かに合流して、事態の把握を勧める。
しかし私のそんな考えは――そうそうに消滅することになった。
博麗神社も。
守矢神社も。
地霊殿に冥界。
さらに永遠亭や命蓮寺、それマヨヒガまで。
直前までそこにいたはずという痕跡だけ残してをその場から――幻想郷から消え去っていた。
「誰かが、私以外のメンバーを消した?」
だったら何故、私だけ残されたのか。
時間を操る能力で、止めていた世界に私が居た。
そんな矛盾だらけの状況でもあったのなら、更に理不尽な存在がどうにかしたのかも知れない。
「メアリー・セレスト号?冗談じゃないわ」
踵を返して、紅魔館に戻る。
その道中に見た風景の中には、チルノや大妖精、それにルーミアの姿さえも見えなかった。
私だけが、ただ、世界に取り残されている。
それはもうきっと…………覆しようのない、事実だ。
「何故私だけ残って、みんなが消えたのかしら?」
顎に手を当てて、考えを整理する。
けれども、そもそも切っ掛けすらわからないのだ。
それなのに、答えが見つかるはずもなかった。
「ッ……お嬢様、いったいどちらへ?」
見上げた月は、答えてくれない。
ただ門前の緑の帽子だけが、ぽつんと私を迎え入れた――。
――Ⅲ――
きゅうけつきは、しょうしゃなめいどをしんらいしていました
しんらいして、とてもとてもたいせつにしていました
あるひ、きゅうけつきはといました
ずっとずっといっしょにいたいと、といました
けれど、しょうしゃなめいどは――くびをたてには、ふりませんでした
――3――
肩を落として、息を吐く。
美鈴の帽子を手にとって、私は彼女が愛用している丸椅子に、腰掛けた。
私が紅魔館に来たばかりの頃は、椅子に座りながら仕事をする姿なんか、見せてくれなかったのに。
「そういえば」
帽子をくるりと回して、被る。
路頭に迷った私、トチ狂ってお嬢様に挑んで、敗北した私。
そんな私に最初に笑顔を向けてくれたのは、彼女だった。
執事服に身を包んだ、男装の令嬢。令嬢というには、凛々しすぎたのだけれど。
『これからびしびし鍛えます。ついて来られますか?』
厳しくすると言っているのに、その笑顔は柔らかすぎて。
彼女が有能だったなんて、思いもしなかった。
炊事に洗濯、掃除にナイフを使った護身術。
私がここで働くための基礎、メイドしての仕事の全て。
それらは全て、美鈴が教えてくれた。
そんな彼女に敬意を表して、未だに彼女の“家令”という肩書きは空席だ。
『ええ、似合いますよ。咲夜』
この三つ編みも、そんな美鈴に、教わったものだ。
「……振り返れば、けっこう出てくるものね」
帽子を置いて、門を撫でる。
そのまま私は、その場を後にした。
門に未だ残る傷跡は、ナイフの練習をした後だ。
練習と言えば、そういえば思い出すことがある。
紅魔館の地下室。
当時はまだ、妹様は外に出ることを拒んでいた。
それでも美鈴とはよく話をされていて、私がメイドの仕事を覚え始めた頃に彼女に引き合わされたのだ。
妹様は、情緒不安定だったが、自分の“能力”に対しては精微な制御を可能としていた。
先天的に備わった力の、効率の良い使い方。
時間を操る程度の能力を制御しきれていなかった私は、妹様に力の制御方法を教わることになったのだ。
『今日から私が、貴女の師匠よ!』
「ええと確か――はい、師匠……って、答えて」
『じ、実際に言われると照れるかも。どうしよ、めーりん』
過去を振り返りながら、当時の言葉を思い出す。
目の前に広がる暗い地下室は、私の能力の実験場だった。
私と妹様の、交流の場だった。
『そうそう、もっと早く、まだ、いいよ!』
『フランドール様、支離滅裂です』
『めーりんは静かに強く早くッ……あれ?』
大変だったし、辛かったし、何度も泣いたし、痛かった。
けれどその時間で得られる瞬間々々が本当に嬉しかったのを、覚えている。
妹様は私に、死なないように死なないようにと力の使い方を教えてくれた。
『これで終わり!ご苦労様、もう私に教えることはないや』
「ありがとうございました、師匠――か」
『だから、“師匠”はもういーよ』
なにかお礼がしたかった。
だから人里へ行って、人形劇をしていた人形師――当時はそれが魔女だったなんて、気がつきもしなかった――にお嬢様の人形を作ってもらって、それをプレゼントした。
『あわわ、え、ええっと、咲夜!』
「はい、フランドール様」
『私のことは今日から、“妹様”と呼びなさい!お姉さまに仕えて、家族として私を護りなさい!』
「はい、妹様」
『それから、ええっと……ありがと、咲夜』
あのはにかんだ笑顔が、忘れられない。
私がプレゼントした人形を、妹様は肌身離さず持っていてくださった。
頬が緩んでいくのがわかる。きっと私は今、だらしなく笑っていることだろう。
妹様のベッドに一礼して、その場を去る。
地下室から少し登った場所に在るのは、当時はまだ窮屈だった図書館だ。
小さな部屋に、ぎゅうぎゅうに本を詰めた図書館。
そこには、無口な知識人と悪魔らしくない悪魔が居た。
無限に広がる図書館。
元に戻すと怒られてしまうから、できないけれど。
その小さかった図書館は、今でも私の記憶に刻み込まれている。
親もなく友もなく、当然のように学もなかった。
そんな私にありとあらゆる知識を刻み込んでくれた、図書館の主。
彼女は私に、本当に色々な事を教えてくれた。
文字の読み書き。
丁寧な言葉遣い。
算学から経済学。
初歩的な魔術論。
『ここは知識の倉、全能の泉。知恵の魚の油を舐めたくば、私の矩に従いなさい』
荘厳だった。知識の全てを従えて佇む彼女に、私は目を惹かれた。
無駄知識と謂われるものもあったけれど、その全ては私の糧になっている。
そういえば、そんなパチュリー様に、美味しいケーキの作り方を教わったこともある。
私が“先生”と呼び慕うと、パチュリー様はなんでも教えてくれたから。
『ふふふふ、任せなさい。私の数千に渡るレシピが深淵から覗き込んで待っているわ!』
そこまで言い切って見せたのに、お菓子作りは簡単にはいかなかった。
少し横着すれば変な味になるし、スポンジを作る段階でパチュリー様の体力が切れるし。
結局小悪魔が寝ずの特訓をして、私に美味しいケーキを食べさせてくれた。
『できない約束はしない!約束できますか?パチュリー様』
そういって胸を張った小悪魔に、パチュリー様は簡単に頷いた。
これは破る顔だ、なんて思っていたら、その後やっぱり何度も破っていたのを思い出す。
「ふふっ」
思わず、声が零れる。
あの日から、小悪魔の得意料理は“美味しいケーキ”だ。
ちょうど今机の上に在るような、生クリームのスポンジケーキ。
お嬢様にも褒められた、ケーキ。
「――そう、よ」
お嬢様。
お嬢様に、逢いに行きたい。
お嬢様のそばで、佇んでいたい。
お嬢様に美味しい紅茶をお淹れして。
お嬢様と、紅魔館のみんなで、ケーキが食べたい。
図書館から出て、走る。
時間を止めるのも忘れて、空を飛ぶのも忘れて。
ただただ、お嬢様が紅茶のカップを傾けている、あのテラスに走った。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……お嬢、様」
大きな扉を開け放ち、それから息を整える。
息を整えて、誰も座っていない椅子の後ろに立った。
お嬢様の斜め後ろ。
一歩下がったこの場所は、私の特等席。
誰にも奪わせないと誓った、私の居場所。
湯気を立てる紅茶は、その微かな赤色は――私が、お嬢様からいただいたものだ。
長い年月を生きていたというお嬢様は、何故だか美鈴よりも紅茶を淹れるのがお上手だった。
暇つぶしに覚えたそれが、役に立つなんて思いもしなかった、なんて。
お嬢様はそんな風に笑うと、私に紅茶の淹れ方を教えてくれた。
『学びなさい、咲夜。これからは貴女が、紅茶を淹れるのよ』
手を取って、失敗した紅茶でも必ず飲んで、容赦なくまずいと言って。
それでも、たったの一度たりとも、私がお出しした紅茶を残されなかった。
必ず全部飲み干して、苦い顔を作って、それでもやっぱり飲み干して。
そんなお嬢様に、紅茶を飲んで笑顔になって欲しいと思った。
だから特訓して、特訓して、特訓して、体調を崩して怒られて。
あの日病床で飲んだ、お嬢様の紅茶。
あの日のその味を、私は忘れたことがない。
あの日出逢ってから、お嬢様は私に色々なものを与えてくれた。
あの日、私に、名をくれたときから。
『いい目ね』
紅い目、薄く青い髪、緋色のドレス。
『運命を覆すことの出来る目よ』
大きな翼を広げ、傲慢に口元を歪め、縦に割れた瞳孔で全てを見下し。
『その目で私に、最上の運命を紡いで見せなさい』
誰よりも強く、格好良く、倒れ伏す私に言い放った。
『貴女の運命は私のもの。他の何者にも、脅かせはしない』
差し出された手。
自分のそれとさほど変わらない手。
なのに誰よりも大きく、強く、優しく感じた。
『貴女の名前は“十六夜咲夜”――満月の王たる私に、付き従う運命を持つ従者よ』
お嬢様にそう言われたのが、嬉しくて。
惨めに生きていた自分に差し出してくれた手が、優しくて。
「お嬢様……お嬢、さまっ」
膝から崩れ落ちる。
どこにもいない。どこにも、いない。
たったそれだけのことが、こんなにも辛いなんて。
お嬢様は私に、色んな事を教えてくれた。
失敗すれば、叱ってくれた。
――父親が居れば、そうしてくれたように。
成功すれば、微笑んでくれた。
――母親が居れば、そうしてくれたように。
世界には、色があって。
世界は極彩に、満ちていて。
世界の全ては、一筋の道に沿っていて。
私の世界は、お嬢様に護られていて。
私の世界は、お嬢様の背中によって彩られていた。
お嬢様に、妖怪にならないかと誘われたことがあった。
その時、私の心は揺らいだはずなのに、なのに私の口は答えを出していた。
これは、私の我が儘です。
だって、悠久を生きる存在になってしまったら、噛みしめられなくなってしまう。
変化への成長を捨ててしまったら、味わうことが出来なくなってしまうのです。
幻想郷で、紅魔館で、お嬢様と過ごす…………一刻みの運命を。
だから。
だから、私は。
だから、私はあの“最期”の時まで――
「――あ」
頬を伝う熱に気がついて、指を這わせた。
「ああ、ぁ」
こぼれ落ちた透明の雫。
「ああああ、ぁ、ああっ」
拭っても、拭っても、拭っても。
「ぁぁああああああああっ!!!」
止まることのない……涙。
みっともなく崩れ落ちて、テラスのタイルを指で掻く。
完全な自分も、瀟洒な自分も、全部が全部投げ捨てて。
私は。
私がした、選択は。
私の、望んでいたものは。
こんな、世界だった?
――Ⅳ――
きゅうけつきは、しょうしゃなめいどにみちたりたじんせいをおくらせることを、やくそくしました
はるがすぎて、はなをつみ
なつがすぎて、みずうみへでかけ
あきがすぎて、こうようをながめ
ふゆがすぎて、ゆきげしきになべをかこむ
いくどもいくどもちがったたのしみを、あたえつづけてきました
けれど、ついに、かのじょのじかんにおわりのときがおとずれました
――4――
全部、思い出した。
吸血鬼になることを拒んだ私に、お嬢様は最高の人生を約束してくれた。
私という存在が消え去るまで、私に飽きさせない世界を与えると、そう約束してくれた。
春が訪れたら、花見をした。
冥界の桜の下で大騒ぎをして、目を血走らせた妖夢と弾幕ごっこを繰り広げた。
夏がやってきたら、ピクニックをした。
夜の湖畔で魚を釣り、美鈴がそれを塩焼きにしてくれた。
秋になったら、紅葉狩りにでかけた。
妖怪の山に正面から殴り込んで、大天狗を倒し、射命丸と酒を呑んだ。
冬で外が白に染まったら、みんなで引き籠もった。
妹さまのレーヴァテインの側で鍋を囲んで、炬燵から出られる人がいなくなった。
楽しかった。
楽しくて、楽しくて、一秒一秒を心に刻み込んだ。
幾度も幾度も、彩りに溢れた四季を巡り続けた。
春が訪れた。
最初に逝ったのは、霊夢だった。次代に巫女の席を明け渡して、数年経った頃だった。
夏がやってきた。
次は、早苗だった。現人神として短くも力強い生を全うした、立派な風祝だった。
秋になった。
紅葉と恒星に世界が覆われた頃、魔理沙が逝った。最期に、空に魔砲を放って。
冬が来て、雪景色に染まった頃だった。
私の身体にガタが来て、ついに終わりを迎えることになったのは。
最期にお嬢様は、もう一度私に問うた。
その瞳は、ひどく穏やかで、優しくて。
久々に淹れてくださった紅茶が、温かくて。
『死を恐れるなら、受け入れよう。私の眷属になる気はない?咲夜』
『私は一生死ぬ人間ですわ。大丈夫です、たとえどんな姿に移ろいでも、側におりますから』
お嬢様の側にいたい。
けれど私は、人間として、在りたかった。
お嬢様に貰った宝物の全てを、曖昧なものにしたくなかった。
なのに――――なのに。
「このなにもない世界が、私への罰なの?この、あのひとたちの“温もりの残滓”だけが残る世界がッ!」
時間を操る能力。
世界の理から外れた力。
その力を行使し続けた先――それが、全てが“停止”した世界に在ること?
地獄で罰を受けなければならないというのなら、受け入れよう。
どんなに時間がかかっても、必ず転生してみせるから。
けれど、この世界に囚われ続けていたら、私は……お嬢様の側に、在れない。
「あ、ぁぁぁ、ああああ、ぁ、ああっ!!!」
これが、定めなのだろうか。
私に課せられた、宿命なのだろうか。
逃れることの出来ない、楔なのだろうか。
「美鈴、妹様、パチュリー様、小悪魔――――お嬢、さま…………」
声が、虚しく響く。
この、全てが停止した世界に。
――Ⅴ――
しょうしゃなめいどは、じかんをあやつります
そのおおきなちからのだいしょうに、かのじょはじかんのはざまにとじこめられました
それはせいとァァうなだいしょうで、だれにもくつがえすことができません
なぜザならそれは、ァしぜんのせつりでッザァあるからです
だかァら、しょうしゃなめザいどは、このさきザァみらいえいごうザザに
このせザッかいにザァ、とッじこめァられザァァァァァァァァァァ――
「――で?誰がそんな“運命”を、許可したのかしら?」
ァァァァァ――とじこめられたりは、しませんでした
なぜなら、しょうしゃなめいどには、さいあいのあるじがいたからです
かのじょがだれよりもしたい、ちゅうせいをちかった、さいきょうのきゅうけつきがいたからです
――5――
ふと、頬に風を感じた。
停止した世界、なにもかもが冷たい世界、残滓だけの世界。
そこに、強い風が吹いた。
「顔を上げなさい」
声が、響いた。
声が、聞こえた。
声が、全てを貫いた。
「おじょう、さま?」
ここは私の檻なのに。
私が罰せられるための、牢なのに。
それなのに、お嬢様は。
「私に従う悪魔の犬よ。完全で瀟洒の名が廃れるわよ」
叢雲が流れ。
夜が星空を讃え。
満月が真紅に染まる。
どうしてだろう。
どうして、こんなにも、胸が軽くなるのだろう。
「申し訳、ありません――――我が主、レミリアお嬢様」
さっきまでは、もう立てないと思っていたはずなのに。
さっきまでは、深い絶望に抱擁されていたはずなのに。
たった一言で、こんなにも心が軽くなる。
「失態をお見せしましたわ」
「本当よ。次からは気をつけなさい」
「次はありませんわ」
「そう、期待しているわ」
机の横に降りたって、お嬢様は紅茶を傾ける。
それから眉を顰められたから、私は直ぐに新しい紅茶に淹れなおした。
――お嬢様が、気に入ってくださった、“私の紅茶”を。
「うん、やっぱり咲夜の紅茶が一番ね」
「ありがとうございます、お嬢様」
一礼をして、涙の跡を拭う。
それから、お嬢様の一歩後ろに控えた。
もう肩書きは譲ってしまったのだけれど、それでもお嬢様の“一歩”後ろは私のものだ。
誰にも譲らない、私だけの場所だ。
「ねぇ咲夜」
「なんでしょうか」
「いくの?」
「はい」
迷わない。
迷えない。
迷うことなんか、できない。
「そう、知っていたわ」
「あら、流石ですわ。お嬢様」
「ふふ、でしょう?」
幻想郷から、紅魔館から、お嬢様から。
これ以上ないというほどに詰め込まれた、私だけの宝物。
長命になったら、きっとこんな瞬間も、曖昧になってしまう。
摩耗して摩耗して、宝石は路傍の石になる。
私は、私の全ての始まりの、この時間を。
私を包んできた優しくて温かい運命を……失いたく、ないから。
「辛くなったら、何時でも来なさい」
「転生したら、記憶はありませんわ」
「いいから、約束」
「――畏まりました、お嬢様」
紅茶を飲むお嬢様の顔が、見えない。
でもきっと、強く笑っていてくれているはずだ。
「私はもう少し休んでから帰るわ。だから貴女は、先に逝ってなさいな」
「はい――――ありがとう、ございました」
お嬢様が指し示した先。
真紅の月は、瞬く間に欠けた。
十五夜から一歩控えた、十六夜の月だ。
最期にもう一度だけ時間を止めて、お嬢様の前に懐中時計を置く。
私の懐中時計はここに来る間際に渡していたが、構うまい。
「十六夜咲夜は、これで失礼致しますわ」
一礼して、飛び立つ。
最期まで、最後まで、完全で瀟洒に。
お嬢様が望まれた、お嬢様だけの私の姿で。
遙かな夜に、身を躍らせた。
真紅の月に手を伸ばすと、それだけで私は“向こう側”へ引っ張られた。
星の生誕と終焉を、目まぐるしく浴びながら、世界を渡る。
お嬢様。
お嬢様、私は。
お嬢様、咲夜は、お嬢様に出逢うことができて――
――幸福でした。
――Ⅵ――
きのこがたくさんまほうのもり
きりのかかったおおきなみずうみ
おくにそびえるまっかなやかた
そこには、あかいきゅうけつきがすんでいました
あかいきゅうけつきには、たいせつなかぞくがいました
あかるくてかわいいいもうと
おだやかであたたかいもんばん
むくちだけどやさしいしんゆう
かんぜんでしょうしゃにはほどとおいけれど、いっしょうけんめいなめいど
きゅうけつきは、やかたのみんながだいすきです
――6――
パタン、と本が閉じられる。
すると、空いたカップに突撃する幼い少女の姿が見えて、レミリアは小さく横に移動した。
がたん、と椅子を動かして、顔には苦笑を浮かべて。
「おおおお、お嬢様!紅茶のお代わりでふッ!?」
思い切り舌を噛んだのか。
黒髪のメイドは、口元を抑えながら俯いて、それでもなお紅茶を淹れようとする。
気概だけなら、未だに空きポストの“メイド長”よりも上かも知れないと、レミリアは慰めにも似た感想を呑み込んだ。
「うぅ……本日は、どのようにおすごしになりますか?」
「無理しなくて良いのよ?」
「いいえ!私は誠心誠意一生懸命仕事を全うしたく存じあげます!」
今度は言い切った。
そんな感情を滲ませる表情に、レミリアは顔を引きつらせることしかできなかった。
けれど、彼女も“メイド長”の教えを継ぐ一人だ。これからに期待しようと、レミリアは妙に甘酸っぱい紅茶を飲み込んだ。
なんとも言えない濃すぎる甘味。
強いて言うなら、チクロ味の、紅茶に似たなにか。
おかしなものを淹れる癖まで、継承済みな様であった。
「今日は少し散歩をしてくるわ」
「では今日こそご一緒に!」
「いいえ――――ああ、いや、そうね。偶には日傘を持ちなさい」
「はいっ!」
太陽のような笑顔は、月のようだった彼女とは正反対だ。
けれどその笑顔が憎めなくて、レミリアはいつも苦笑を浮かべるのに止まっている。
もう威厳に満ちあふれた笑みは、妹に譲ってしまおうか。
そんな風に、レミリアは肩を落とした。
「さて……朝までには帰るわよ」
「はい、畏まりましたっ」
レミリアは手に銀の懐中時計を持つと、深い空に身を預ける。
彼女は、満月から一歩控えた、僅かに欠けた月――
――十六夜の月を見上げて、穏やかな笑みを浮かべた。
――Sextet――
あかいやかたのきゅうけつき
かのじょはきょうも、かいちゅうどけいをかたてにもって、つきをみます
どんなにときをきざもうと、つきをみればおもいだします
つきをみておもいだして、あらたなおもいをつむぎます
これはそんな、あかいきゅうつきと、ようかいたちと
それから、よわくてつよいにんげんの、やさしいやさしいものがたり
――了――
一瞬バッドエンドかと思いましたがお嬢様最高。
そう言える逝き際っていいですね。
他の方々の話も見たいな~なんて・・・
前回のホラーも良かったですが今回の感動系もとても良かったです。
紅魔の主従は最高ですね。
なんというお嬢様。
なんという紅魔館。
紅魔主従は良い主従。
咲夜さんは幸せ者ですね。お嬢様も。
こういうの、すごく好きです!
あと、誤字かな?と思ったものですが、『きゅうつき』は『きゅうけつき』ではないでしょうか。