解るかい? 圧倒的なまでの知性の差というものを。
◇◆◇◆◇
パチュリー・ノーレッジは自他共に認める賢人である。
「パチュリー様」
姿は年端もいかぬ少女。寝巻のような遊びのある衣服に、いつも眠そうに瞼を下げている。身なりだけを見れば、とてもそうは見えない。
「あの、パチュリー様ってば」
しかしその齢は百を数え、専門は中華五行に対応した西洋魔術。吸血鬼と対等な友人であることから、その実力は推して知るべし。
「ぱーちゅーりーさーまー」
貪欲に知識を追い求め続ける者。それがパチュリー・ノーレッジという魔法使いであった。
「話しかけ続ける私……無視し続けるパチュリー様……この二つの意味するものはひとつ……! 実はパチュリー様は誘い受け派だったんだよ!!」
「よくわからない結論にたどりつくその癖が、治る見込みはなさそうね」
ぱたん、と開いていた本を閉じながらパチュリーは、ジト目を向けつつ使い魔の小悪魔にそう言った。
ここは紅魔館地下に存在する大図書館。曰く、世界の英知が集結した場所である。その評判の半分は誇張だが、半分は事実と言って差し支えない。
広がり続ける空間に、召喚され続ける幾千幾万の蔵書は、司書の小悪魔、そしてパチュリーでさえ把握しきれていないのだ。蓄積された無数の知と文字と本によって構成されたこの図書館は、世界の胎の中のようでもあった。
「それで、小悪魔。何の用事なの」
「はい、パチュリー様が長く読書をしていらっしゃるようなので、甘味を持ってまいりました。この包帯は、パチュリー様を思うが故の成果の勲章ですっ」
「……そう」
包帯を巻いた右腕をなでながら、コロコロと笑う小悪魔。ふ、とパチュリーの表情が小悪魔のその笑顔を見て和らぐ。なんだかんだと言いつつも、自身に尽くしてくれる小悪魔を、パチュリーは悪く思ってはいない。ちょうど本のキリも良いところだし、少し休憩を入れようかとパチュリーは思っ――
……っていたが、一瞬でその表情が無に変わる。
それもそのはず。
小悪魔の手に有ったのは見るからに毒々しいピンクの物体エックス。「キシャァァァァ」と奇声をあげている部分もあった。
「……小悪魔。一応聞いておくけれど、それは有機化合物で構成された食物なのかしら」
「はい。今日のテーマはやるせなさ、小悪魔特製ケーキでございます。ふんわり柔らかなスポンジに、口に入れた瞬間虫歯になりかねないという最高の甘みのクリーム、隠し味にぐっすり睡眠7時間の薬と、毒吐きの花から採取されるチョメチョメをしたくなる薬を少しょ」
「火符「アグニシャイン」」
どかーん。
「わにゃああああああ!!」
発動したパチュリーのスペルカード、アグニシャインの火柱に吹っ飛ばされる小悪魔。物体エックスケーキは一瞬で蒸発していた。
ちなみに火に弱い本達にはきっちり防壁魔法をかけてある。細やかな気配りであった。小悪魔を除いて、だが。
どーん、と小悪魔は本棚の上に落下した後バウンドし、さらにべちんと図書館タイルの上に叩きつけられる。
あたた、と鼻をこする小悪魔の頭上に影。
見れば、巨大な本棚がぐらりと……
どざざざざざ。
「みゃああああああ!!」
本の雪崩が小悪魔に降り注ぎ、無限の文字が小悪魔を埋め尽くした。
ばふん、と埃が大きくたつが、パチュリーはしっかり魔法障壁でガード。喘息持ちは埃から身を守る術を身につけている。
静かになって1分ほど経過した後。
本の山が少し崩れ、そこから小悪魔が蝉の幼虫よろしく、よろよろと這い出してきた。
「何するんですかぁ! 死ぬかと思いましたよ!?」
「正当防衛よ。そんな得体のしれないケーキからわが身を守るための」
「だからってスペカまで使います!?」
「傷が残るような攻撃にはしてないわ。それとも、本より本棚そのものに潰されたかったのかしら」
小悪魔の非難に対するパチュリーの返事に、ぬぐ、とつまる。
倒れかけた本棚は、対面の本棚にひっかかり倒れてはいない。もし本棚が倒れれば、押し花ならぬ押し小悪魔になってしまっていただろう。パチュリーもその程度の配慮はしていた。
当然、逆に言えば、もっとひどい目に合わせることも出来たという訳で。
「これに懲りたら、そんな胡散臭いものを出さないことね」
「ううう、私はただパチュリー様と親睦を深めたかっただけなのに……しくしくしく」
「はい罪状追加。私はもう休むから、ここの後片付けもしておくように」
「えぅー!?」
血も涙もないパチュリーの宣告に、小悪魔は今にも卒倒しそうな悲鳴をあげた。
はくじょーものー! という小悪魔の悲痛な叫びを背後に聞きながら、パチュリーは自室へ向かおうと腰を上げた。
見たこともない本が足元に落ちていたのに気づいたのは、その時。
「……?」
埃をはたいて落としつつ、パチュリーはそれを手に取る。
妙な本だった。タイトルも、作者名も、何も書かれていない寂しい表紙。
ただ、魔力をまとっていることから、魔法書であることは間違いなさそうだ。
「パチュリー様?」
動きを止めたパチュリーの背に、不思議そうな小悪魔の声がかかる。
「小悪魔、この本の詳細はわかるかしら」
「んー? 随分さびしい本ですね……いえ、初めて見ましたよ」
「ふうん……」
前述の通り、パチュリーも小悪魔も、この図書館の全てを把握しているわけではない。そのため、詳細の分からぬ本も少なくは無い。
パチュリーは、ひとまず内容を見ようと本を開――
「……!」
……こうとするのをやめた。
「え、どうなされたんです?」
「……障壁とトラップで守られてるわね。迂闊に開いたら、この図書館ごとお陀仏だった」
「はい!?」
幾重にも重ねられた魔法障壁、十重二十重に編み込まれた罠の数々。パチュリーは、それを指で僅かに触れただけで感じ取った。
しかし、それは「触れるまで分からなかった」ということでもあり、高度な魔術が使われていることの証拠である。
――この本には間違いなく、有益かつ貴重な知識が入っている。
「と、とんでもない本ですね。そんな厳重に封じてあるなんて……」
「そう? これだけの封印、私としては血が滾るけど」
「……ええ!? ま、まさかパチュリー様、これを開ける気で……」
驚愕する小悪魔に、薄い笑みを浮かべてパチュリーは答えた。
「魔法使いに規律は無いわ。ただ知識を欲するのみよ」
これだけの封印に、どれだけの英知が隠されているのかを、想像しながら。
◇◆◇◆◇
効く薬ほど苦いものさ。
◇◆◇◆◇
コンコン。ノックの音が、澄んだ地下に響く。パチュリー・ノーレッジの自室の扉が叩かれる音だ。
「パチェ。吸血鬼でもないのに日光無しで一週間も引きこもってると、カビが生えるわよ。ちょっと出てきなさい」
戸を叩くのは、蝙蝠の翼を背中から生やした少女。
十に足るかどうかの見かけであるが、そのあどけなさとは正反対に重ねた齢は五百。
この紅魔館の当主、レミリア・スカーレットその人であった。
パチュリーがここ一週間、自室に引きこもりっぱなしだということをレミリアが知ったのは、十五分ほど前の話。
レミリアとパチュリーは、互いにあだ名で呼び合う程度には懇意の仲である。
しかし、基本的にレミリアはパチュリーの研究や魔法に関しては首を突っ込むことはしていない。魔法使いは、自分の領域に踏み込まれることを嫌う人種であることを、レミリアはよく知っている。
そのため、しばらくパチュリーが顔を見せていないことにも、いつものことだと放置していた。
だが、流石に一週間ともなると、何かあったのではないかと少々不安を抱かざるを得ない。
そういうこともあり、レミリアはパチュリーの自室を訪れた、のだが……
――ガチャリと扉が開かれ、のそりと現れたその姿を見て、レミリアは若干固まった。
「……何よ、レミィ? 今、ちょっと忙しいんだけど」
扉の向こうより出でたのは、紛れもなくパチュリー・ノーレッジだった。
しかし、残念ながら一週間前のパチュリーとは、別人に近い。
とくに、清潔さの面において。
髪はボサボサ、服はくたびれ、目にはクマ。
健康に詳しくない者が見たとしても、不健康極まりない姿であった。
「……用は無いの? じゃあ閉めるわよ、忙しいんだから」
「いや待ちなさい。パチェ、何してたのよ一週間も」
「研究よ、気になる物が出てきてね」
パチュリーは扉を大きく開け、中の様子がレミリアにも見えるようにした。
部屋の中央には、表紙に何も書かれていない本が浮かんでいる。
その周囲には濃密な魔力が漂っており、緻密な魔方陣と計算式が休むことなく書きかえられ続けていた。
しかしその解析から本自身は身を守るように、濃い魔力による壁と、罠を仕掛け続けている、
なるほど、あれが研究する対象なのだろう、
レミリアも顎に手を当てるほど、高度な魔術解析が繰り広げられていた。
「ぱ、パチュリー様ぁー」
部屋のさらに奥の扉が開き、今度は小悪魔が姿を現した。
自分の背丈よりも高く本を抱えており、ひぃひぃと息を荒く吐きながらも本を部屋の机の上に乗せる。
「ご、ご希望の本、持ってきましたよぉ」
「あぁ、さっき言い忘れちゃったんだけど、追加でもう十冊ほど持ってきて」
「ひぃー!?」
パチュリーの情け容赦ない要求に、小悪魔が悲鳴を上げる。
その様子を見て、レミリアは眉をひそめた。
「パチェ、小悪魔に働かせすぎじゃない? そんなに本だけ持ってきても、読み切れないでしょ」
「動く時間がもったいないわ。こうやって今話してる間の時間も」
じとりとした視線を放ちながら、パチュリーは言う。
パチュリーの放つ「早く帰れよ」オーラに、こりゃ重傷だと、レミリアは頭を押さえた。
「何を言っても無駄なようね。この研究が実を結ぶことを悪魔の神に祈っておいてあげるわ」
「それは重畳。知識の醜悪さを受容するのは悪魔の役得だからね」
互いに毒を以て皮肉を言いあうと、パチュリーはレミリアに背を向けて部屋の奥の扉へ去っていく。
やれやれ、とレミリアは息をつき、今度は小悪魔に喋りかけた。
「小悪魔」
「はい? なんでしょうか、レミリア様」
「あまり無茶を要求されたら、すぐに逃げ出して私に言いなさい。パチェのバカは痛い目を見ないと分からないところがあるからね」
「聞こえてるわよレミィ……」
極限まで細められた目でレミリアを睨むパチュリーと、困ったように苦笑する小悪魔。
その二人を尻目に、レミリアは部屋を出ていく。
「あぁ。そうそう、パチェ」
その寸前に、レミリアは足を止め、再度パチュリーを振り返った。
「……何よ?」
怪訝そうに眉をひそめ、パチュリーは問い返す。
「気をつけなさい。『最悪』というのは、仮初の宝をもたらし、本当に大事なものを奪い取っていくものだから」
じっと、吸血鬼のあかいひとみで、パチュリーの目を覗き込む。
レミリアからしても、あの本は中々骨の折れそうな代物だった。
そして、本の中に仕込まれている何かが、それ相応のものであることも。
レミリアは、魔法使いの性を知っているから、パチュリーの研究を止めはしない。
しかし、それゆえに、警告だけは残していた。
「……わかってるわよ」
パチュリーが帽子をきゅっと引絞り、目元を隠して答える。
レミリアはその答えに満足し、扉を閉めて立ち去った。
――ああは言ったが、レミリアはパチュリーを信用している。
自分の後始末は自分でつけるし、自身の従者を危険にさらすようなこともしないだろう。
大がかりな研究をしているようだが、大事には至るまい。
――その認識をレミリアが後悔するのは、しばらく後の話。
◇◆◇◆◇
暗き魂の導く先に、隠された知識は眠る。
◇◆◇◆◇
トントンと机で指で叩く。
カリカリと爪を噛む。
クルクルとペンを回す。
もちろんそんなことをしたって、作業は一向に進むはずもない。
部屋の中央に浮く本は、何の知識もさらけ出すことなく、沈黙を続けるのみ。
「……チ」
珍しくパチュリーは舌打ちをした。
本の解析が頭打ちとなってきている。
魔術の構成がこれまでと全く異なった罠が現れ始め、それを解くのに大幅な時間を割かれていた。しかもその難易度も尋常ではない。
順調だった研究の進む速さが、突如カタツムリより遅いものとなってしまった。
パチュリーは、らしくもなく、苛立っていた。
だからだろう。
「パチュリー様、紅茶をお持ちしました」
小悪魔のその笑顔が、癪に障ったのは。
「あまり無理はなさらないでください。休むのも大切だと思いますよ」
「……小悪魔」
「あ、今日は紅茶に変なものは入れてないですっ、良いシロップも買いましたので、一緒に」
「少し黙っていてくれない?」
氷より冷たい声音で言いながら、カップを床を投げ捨てた。
高い音を立ててカップは砕け、注がれた紅茶をぶちまける。
ニコニコと笑っていた小悪魔が息をのみ、盆を取り落とす。
「今私が集中しているのが見て分からないの? ねぇ」
「……すみませ……」
「もういいわ。出て行って。邪魔なのよ」
小悪魔は色を失い、蒼白になって立ち尽くしている。
数秒ほどして我に返ったようで、半分逃げるように――目元を一度だけ拭ってから、部屋を出て行った。
そして、部屋の扉が閉じられ、パチュリーは一人になる。
――急激な虚無感。
「(私は……何を)」
苛立ちから従者にあたり散らし、子供のように紅茶を捨てる。
余りの稚拙さに吐き気さえ覚えた。
――カチャン。カチカチ、カチリ。
奇妙な金属音。
ん、とパチュリーが訝しむと、その音は中空に浮かぶ本から響いていた。
鍵穴をこじ開けるような音が二度三度として、収まる。
「……?」
少し近づいて確認してみれば、本の障壁と罠がいくらか解けていた。
投入しておいたいくつかの解除魔法が、うまく先を切り開いている。
「……さっき参考にしたのは……!」
パチュリーは慌てて参考にした本を探し始める。
小悪魔へ抱いた悔恨は、消え去っていた。
知識への欲望に塗りつぶされて。
◇◆◇◆◇
知識は問題の解決を手助けするが、度を越した知識はそれ自体が不幸を呼ぶ。
◇◆◇◆◇
箒にまたがる姿に、頭に被るはトンガリ帽。ハットの下には金の髪が踊っている。
フンフンフンと鼻歌を歌いながら、その少女は紅魔館の廊下を緩やかな速度で飛んでいた。
メイドたちはその姿に恐れをなし、いそいそと道を開けてしまう。
当然だ。このよそ者は、紅魔館の門番隊を正面から蹴散らしているからこそ、ここにいるのだから。
彼女の名は、霧雨魔理沙と言った。
魔理沙は魔法使いであり、泥棒である。もっとも、泥棒という評判に関しては、本人は借りているだけと宣(のたま)っているのだけれども。
彼女の主な襲撃地は、紅魔館の地下図書館だ。無数の蔵書は魔法使いにとってまさに垂涎。今日も今日とて知識欲を満たすため、魔理沙はこの紅魔館を襲撃。いつものごとく門番とその隊員たちを弾幕ごっこで打倒し、紅魔館内部へと侵入を果たしていた。
地下への階段を勢いよく下り落ちれば、もう図書館は目の前。しかし、ここにはいつも最後の関門が立ちふさがるのだ。
魔理沙は叫ぶ。己が宿敵の名を。
「パチュリー! 今日も一丁、本を借りに……ん?」
――下りきった先には、無人。ただ静かに、図書館の巨大な扉が座しているのみ。
「……おーいパチュリー?」
ひょい、と魔理沙は箒から降り、扉から図書館へと呼びかける。
しかし扉の向こうからは返事は無く、気配すらもしない。
魔理沙は首を傾げながら、その扉へと手をかけた。
――ぎぎぃ。
「……開いてる?」
古びた木製の扉が上げた軋みに、思わず魔理沙は呟いた。
在宅ならば自身を迎え撃たない理由がなく、留守にしては不用心すぎる。
魔理沙は古びた扉をぎぃぎぃ軋ませて、図書館内へと足を踏み入れた。
「……なんだこりゃぁ」
床には打ち捨てられている本の山。破れかけたページからは魔力が漏れ出している。
見上げるような本棚の魔天楼は、本が横倒し、背表紙がさかさま、開きの部分が手前側。
随分と内部はひどい有様だった。ともすれば、魔理沙の家の乱雑さに匹敵するほどの。
「パチュリー! 小悪魔! いるんだろー!」
顔をしかめつつも、再び魔理沙は呼ぶ。
今度はその呼び声が届いたのか、よろよろと本棚の影から誰かが現れた。
「あ、あぁ、まりさ、さん……」
「こ、こあくま? どうしたんだよ、おい」
弱々しい姿を見せたのは小悪魔。顔色は悪く、頬も大分痩せこけてた。
それにもかかわらず大量の本を抱えており、足取りは見るからにふらふらとおぼつかない。
「あ、ええ、最近ちょっと仕事が増えて……あっ!」
「っと!」
案の定バランスを崩した小悪魔を慌てて魔理沙が支える。
しかし抱えた本まではそうはいかず、ドサドサと雪崩を打って床へとばらまかれた。
「なんだってそんなヒョロヒョロになってんだよ。ダイエットにしちゃ無茶すぎるぜ」
「だ、大丈夫です。あわわ、片づけな……い、と……」
「?」
尻すぼみになっていく小悪魔の声に魔理沙は首をひねった。
さらには声量に反比例して、顔色が青くなっていく。
その様子にますます訝しみつつも――その時に魔理沙は気付いた。
こつ、こつ、こつ。背後より近づく、足音。
正体なんて分かりきっている。
魔理沙は文句の一つも言ってやろうと、図書館の主を振り返った。
「おいパチュリー、何があったんだか知らんが、小悪魔がこんなになるまで片付けさせるなんてやりす……」
――背筋が凍りついた。
そこにいたのは魔理沙の予想通り、パチュリー・ノーレッジだった。
しかし、その気配と姿はまるで異なる。傍目には別人のようにも見えた。
良く似合っていた筈の遊びのある服は、見る影もなく縒れ、くたびれ、シミさえも目に付いた。
豊かに蓄えられていた筈の紫の髪は、見る影もなく荒れ果て、乾き、虫さえもが見えていた。
なによりも、右の眼窩には濁った瞳が埋め込まれ、普段の眠たげな、半分まどろんでいるような双眸は消え失せている。
特にその左目は、ぎょろりぎょろりと、あらぬ方向へ動いていた。
崩れ落ちそうなその体からは、生きる意志さえ感じない。
「…… …… ―― …… ――」
変わり果てた容貌のパチュリーは、二人の存在にすら気づいていないようだった。
ブツブツと何事か呟きながら、右手には本を携えている。
その左手には魔力が巡っては消え、消えては巡り、そのたびに左手からは血が流れ出していた。
「……お、前。……パチュリー、か?」
「――……? ……あぁ。そこにいるのは、魔理沙なの。それに小悪魔ね」
蠢いていた左目がびたりと魔理沙と小悪魔を捕え、魔理沙はその身を竦ませた。
右目が見えてないのか。魔理沙は冷や汗を流しながらそう考える。
「小悪魔。なぜ早く本を持ってこないの。おかげで何秒時間を無駄にしたか、わかる?」
「は、はい。申し訳ございません……」
冷徹な言葉に、目に薄く涙さえ浮かべて小悪魔は小さくなってしまった。
異様な左目の視線は、次に魔理沙へと突き刺さる。
「魔理沙。生憎、今は貴女の遊びに付き合っている暇は無いわ。さっさと消えなさい」
「……あぁ。取るもん取ったら帰らせてもらわぁ。こんな風に本を放置してたら、泥棒に取られても文句は言えないぜ?」
その言葉は、魔理沙にとって、一種の希望だった。
この言葉で、いつもの弾幕ごっこが始まってくれたのなら、という、希望。
「あぁ。そのゴミ、いらないから」
希望。何とつまらない言葉か。
パチュリーの吐き捨てた言葉によって、魔理沙の希望はあっさりと打ち砕かれた。
「……ゴミだと。お前、それがこの図書館の持ち主の言葉かよ」
「ええ。もうその本の知識は頭の中に入りきっている。もう用済みよ。なんなら、最初から最後までそらんじてみせましょうか?」
とんとん。
パチュリーは頭を叩き、ニタリと歪んだ笑みを浮かべて、付け加えた。
ぐわりと本から溢れる魔力がねじ曲がり、淀んだ流れを作り出す。
こいつ、まともな状態じゃない。そして原因はあの本。魔理沙はそう判断した。
先ほどから黙りこくってしまった小悪魔に、魔理沙はそっと耳打ちする。
「(おい、パチュリーの持ってるあの本はなんだ)」
「(……さ、最近パチュリー様が研究なさってる本です。大量の魔法の罠と防壁で守られていて)」
「(OKわかった、とりあえずヤバイ本なんだな。……なら、小悪魔、良く聞けよ)」
ごにょごにょと小悪魔に、作戦を告げる。
魔理沙はすぐに会話をやめ、パチュリーに向き直った。
「パチュリー、お前にも随分と間の抜けたところがあったんだな。使うはずの知識に呑まれてるぜ?」
「……呑まれているですって?」
「そうさ。大方、その魔法書を解析するための知識を頭に入れる為に、むちゃくちゃな魔法でも使ったんだろ? その目も、その不健康な体も、代償にして。使うはずの知識に"使われる"なんて、滑稽極まりないぜ」
魔理沙はパチュリーの迂闊さを鼻で笑う。
見え見えにして分かりやすい挑発だったが、通常の精神を失しているパチュリーには、十二分に効果があったようだ。
ざわりと、気配が変わる。
「小娘が……知ったような口を」
「おーおー、分かりやすい小物くせえ台詞なこって。その小娘に正論言われて激昂してるお前は、なんなんだ?」
「まままま魔理沙さん! ああああんまり怒らせすぎるのは……!」
もう遅い。
パチュリーは一瞬にして火球を五つ生み出した。
具現化した怒りは、半秒も無い刹那の間に魔理沙と小悪魔のいた場所にへとうちこまれる。
爆音。
図書館が揺れる。
舞い起こる火を纏った爆風に本は焼かれ、伴う高温に本棚は悲鳴のような軋みを上げた。
躊躇の無い破壊。弾幕ごっこのレベルなどをはるかに凌駕。
本への慈愛など、とうに消滅していた。
爆煙の晴れた向こう側には、黒い焦げ炭。骨まで炭化したその亡骸。
害悪を焼き尽くし、パチュリーはわずかな安堵を抱いた。
奇襲はタイミングが命。相手が勝利を確信した時こそ、起死回生のチャンスなり。
「――頂きっ!!」
「――なっ!?」
突然の背後からの声。
パチュリーが驚愕している間に、その本を奪い取られた。
我に返れば、上方には箒に乗った魔理沙の姿。その背には小悪魔も乗っている。
そんなバカな、とパチュリーは死体があったはずの場所にへと目を向けた。
そこには、ほつれ始めた魔力の塊。それを見てすぐにパチュリーは状況を把握する。
呆れるほど単純なトリック。
死体の様なものは、ただの黒い魔力。それに意識を向かわせている間、煙に紛れ、背後に回る。
そして、パチュリーの潰れた右目、その死角。斜め右後方からの奪取。
警戒心が薄れた、その瞬間を狙っての奇襲だった。
「貴女っ……!」
大きく距離を取られ、パチュリーは凄まじい形相で魔理沙を睨みつける。
「そう怖い顔すんじゃねえよ。少しは頭を冷やしたらどうだ?」
軽口をたたきながらも、魔理沙はパチュリーから目を切らない。埃と煙の舞う中、集中するのはパチュリーのみ。
警戒を最大レベルに保持しながら、奪った本に目をやる。
「魔理沙さん、その本ってどういうものなんです?」
「……この本、近くで持ってみりゃ、ヤバイ本だってのが良く分かるな。
上っ面に分厚い防壁とトラップを張り巡らして、それを解析すればするほど、精神に引っかかる魔法を仕込んで……深く泥沼にはまるようになってる」
「そ、そんなことまですぐに分かっちゃったんですか」
「そんなわけねーだろ。パチュリーがここまで解いて無けりゃ、わかるもんか」
そう。優秀な魔法使いで無ければ、この本の真の悪意にまで届かない。
パチュリー・ノーレッジほど優秀な魔法使いが、解析に専念して初めて、精神を失する魔法が発動する。
だからこそ、この本の悪意が、憎たらしかった。
「……ど、どうするんです」
「レミリアに渡す」
パチュリーの表情が蒼白と化した。
「これは私の手に負えるもんじゃねえ。レミリアくらいの奴じゃないと、多分消し去れない」
「やっ……やめて、魔理沙。貴女、その本に、どれだけの価値があるか分かってないの?」
まるで懺悔をするように指をからめ、祈るパチュリーの姿を魔理沙は見降ろす。
「だからって、身を滅ぼしてたら本末転倒だろうが。こんな本はさっさと――」
――その時、魔理沙が反応できたのは、奇跡に近かった。
小悪魔を箒の上から突き飛ばし、弾き落とす。
目を見開き、驚愕しながら落ちていく小悪魔から視線を外し、頭上を見上げる。
そこには、パチュリー・ノーレッジ。
真下にいたはずの少女が、なぜ頭上に現れたのか。魔理沙には皆目見当がつかなかった。
そして、これから先も永遠に、その理由を知ることは無い。
「生まれる前からやり直したら?」
最も高温の炎は、青でも赤でもない白色と化す。
パチュリーの右手から放たれた「白」に包まれ、霧雨魔理沙という存在は、この世から消えさった。
◇◆◇◆◇
恐怖が行動を単純化する。
◇◆◇◆◇
ずるり、ずるり。……がちゃり。
パチュリーは足を引きずるようにして自室に辿りつき、そこに大きなかんぬきをかけた。
ドアに背を凭れて座りこむその胸には、後生大事に本を抱えている。まるで赤子を抱えるように、慈愛を以て。
パチュリーの胸中には、さまざまな感情が渦巻いていたが、最も大きい物は、恐怖だった。
魔理沙を消してしまったという恐怖。
嫌いではなかった。憎んでもいなかった。しかし、あの瞬間の殺意は、今も胸に焼き付いている。
あの時、パチュリーは懺悔の恰好を取った瞬間に、自身と同じ形の魔力を練り上げフェイクを作った。そう、パチュリーに奇襲をかけた魔理沙のように。
いくら魔理沙がパチュリーに警戒してたとはいえ、一瞬の煙や埃で物理的に視界が阻害されることは防げない。
一度の隙でフェイクを作り上げてしまえば、後は簡単だった。
フェイクのパチュリーにずっと集中している魔理沙の上空に回りこむことなど。
レミリアに報告されるという恐怖。
突き落とされたはずの小悪魔の姿は探しても無かった。おそらくはレミリアのもとへ逃げたのだろう。
まもなくレミリアはここへと来るに違いない。本を、そしてパチュリーを消し去るために。
こんな程度の鍵など、レミリアにはなんの障壁にもならない。
「……ははは」
乾いた笑いが漏れた。
何もかも、レミリアの言う通りになった。
魔理沙を自分の手で消しさり。
小悪魔を失い。
パチュリー自身の命さえも、この世から消し去られる運命にある。
この本がもたらしたものは、仮初の知識と本物の絶望。奪っていったものは友人と従者。
「ははは……!」
こうまでレミリアの忠告通りに進んだなんて、笑いが止まらなかった。
けれどもその笑いも、次第に止まり、空虚がパチュリーを満たしていく。
死のう。そう思った。
レミリアに殺される前に、自分の心臓を止めてしまおう、と。
――カチャン。カチカチ、カチリ。
いつかに聞いた金属音が響く。
え? と、パチュリーは胸の本を見降ろした。
――何十、何百、何千、いやそれ以上の魔法の罠と障壁が消えていく。
ついには、本を守るものは何一つなくなり、ただの「本」がパチュリーの胸におさまっていた。
パチュリーは状況が理解できない。
あれだけの障壁が、「諦め」をトリガーとして、消滅したのだから。
しかし、しだいに衝撃は消え、パチュリーの手に入れた知性が利己的な感情を作り上げていく。
浅ましく、思慮を放棄した、まさしく浅慮な感情を。
これだけの力を持つ本さえあれば、レミリアを返り討ちにすることも可能だろう。
いや、出来ないはずがない。
魔理沙を消してまで得たかった知識を、使わない理由など無い。
パチュリーは本を開いた。
◇◆◇◆◇
ぱっくりもぐもぐ。
◇◆◇◆◇
無人となったパチュリーの部屋。
部屋の扉の前には、一冊の本が落ちている。
かちゃりと、鍵抜きの魔法で、かんぬきが独りでに外れ、扉が開かれた。
「……思慮無き冒険者は、探し求めていた箱の中味に早変わり。……とは、良く言ったものですねぇ」
小悪魔だった。
本を呼びだしたのは、小悪魔である。
この本に、どういう魔術が使われていて、どういう仕組みになっているのか、小悪魔は知らない。
ただ知り得るのは、誰かを呑みこむための本、ということだけ。
これまで一度も、小悪魔は嘘を言っていない。
パチュリーに甘味を持って行った時に、小悪魔はその本を召喚したのだから。
本を「初めて見た」のは、その瞬間。
包帯もそうだ。
召喚のために呪いをこめて刻み込んだ、「成果の勲章」
魔理沙を逃走させず、わざとパチュリーの前で話し続けた時にも、嘘は言っていない。
小悪魔は、優しく優しく本を拾い、心から愛おしそうに、その表紙を撫でる。
ぎゅう、と抱きしめて、頬をすりつけた。
まるで恋人のように。
さて。と、小悪魔は顔を上げる。
あの後、慌てて地上の紅魔館へ向かい、轟音を聞きつけ、この地下図書館へ向かおうとした紅魔館の当主をなんとか宥めすかした。
しかし、どうせすぐに感づかれるだろう。
この所業がばれたのなら、殺されるだけでは済むまい。
その前に、どこかへ逃げるとしよう。
誰も知らない場所へ。
「――ずっと一緒です。……パチュリー様」
ぎぃぃぃィィィ……ガチャン
扉は閉じられ。
部屋には誰もいなくなった。
「あなたを誰にも渡さない」---毒吐きダリアの花言葉
結局、本は高レベルのミミックだったんですね。
本の罠としてはよくある手法の数々だけど、重ね方が上手いと感じました。
この小悪魔は歪んでいていいなぁ。
あと、だしにされた魔理沙に南無三。
……もしも魔理沙が、本を奪った際に自身の魂を本に注入とかしていたら、本の中でパチュリーと二人きりか。
できてないだろうけど、そうしていたら魔理沙の逆転一人勝ちだったかもしれないな。
長文失礼。
ぱっくりもぐもぐにダリアってことはDMかな
しかも結構懐かしい
MtGもあるのかもしれんがわからないな
しかし悪魔はどこまでいってもやっぱり悪魔ですね
嘘は言っていないところとか特に
テキストが場面を表しているのも面白かったです
ピクッ
怖っ…
でも、この歪んだ感じが良いかも
まさか魔理沙をさっくり逝かせるとは。
油断していた。作者様の思い切りの良さに諸手を挙げて降参だ。
欲を言わせてもらうなら序盤のギャグパート。
そこに小悪魔のパチュリーに対する執着をもうちょい匂わせるような描写が欲しかったです。
個人的には最後の一行がより効果を発揮したんじゃないかと思いまして。
まぁ、貴方の作品に見事にしてやられた負け惜しみってやつです。
主人公属性のキャラはあんなにあっさり死ぬはずが無いとか思ってたみたいです。頭が固いなぁと痛感しました。
期待を裏切られたはずなのに、なんというか…爽快感がありますね。
ヤンデレと小悪魔は相性がいいのですね。
いや、これは作者様の手並みを褒めるべきでしょう。
魔理沙がやられたのには驚いたけど、この話はこうでないと完結しない気がしますね。どうしようもなく救いのない話であるからこの作品は面白い、そう感じました。
アストラル・リーフ、バイバイ・アメーバ、ルナ・レーザーコブラ、吸引のシーリゲル、黒神龍ダフトヘッド、封魔アガシオン、アストラル・ネビューラ、ロスト・ソウル、偽りの影ヘル・スモーク、キューティー・ハート、テレポーテーション、魂縛、デス・スモーク、衰弱秘宝デッドリーン、毒吐きダリア
DMwikiとか自分の知識とかで、何とかここまでは分かりましたが・・・これ以上ネタが仕込まれていたらお手上げです。
しかし嘘を言わずに相手を騙す小悪魔怖いなぁ。力はなくとも悪魔のはしくれ、歪んだあたりとかも。
だから、魔理沙の死も本の内容も、きっとなにか救いがあると信じてしまった
このお話も、この本のような構造をしていた……私は喰われました
まさかこんな結末とは思いもしなかった
すごいダークだ…
おもしろかったです。
それは作者様の狙い通りなんじゃないかなって
文句なく100点をおいていきます
なんというダーク。自分も読み終わった後ロスト・ソウルを撃たれた時みたいになりました。
いや、好きですが
すごい好きですこういうの。
しかしこれ、レミリアは予知できなかったんだろうか。
空白を多用した演出も効果的でよかったです
小悪魔を死なせて後悔する話かと思ったらパチェが……。
凄まじいヤンデレっぷり
きっとこの小悪魔は忠告してくれたレミリアも庇って死んだ魔理沙さえもどうとも思ってないんだろうなぁ
最初の楽しげな雰囲気に読ませる気にさせられ、最後のどんでん返しに唖然としたのもきっと作者の思惑どおりに違いない
でも面白かったとも思ったからこれは完敗です
やられました。脱帽です。
作品の冒頭がギャグ作品のように軽いノリだっただけに、最後の子悪魔の独白の衝撃度が増していると思います。
他の方のコメントにもありますがオチが衝撃的な分唐突過ぎる印象が無くも無いので、個人的には、冒頭の日常描写にもう少し子悪魔の歪んだ愛情を感じさせる描写があればより面白くなった気もします。
余裕で満点を入れたくなる完成度でした。
恐ろしくダークかつヤンデレな小悪魔に心臓バクバクです。
時にはバッドエンドもいいなあ。