てゐがもう怒ってないときのパターン
人里をふたりで闊歩。昼下がり。
私「もうお昼だし、休憩しない?」
てゐ「そうだね」
私「ここのお饅頭屋なんてどう?」
てゐ「いいと思う」
私とてゐが椅子に腰かける。
そして適当に注文。
私「今日は手伝ってくれてありがとう」
てゐ「どういたしまして」
しばし雑談。
注文の品、到着。
私「あれ? てゐ、口に饅頭がついてるよ」
てゐ「どこ?」
私、おもむろにてゐへ顔を近づける。
そして相手の唇をうば
――なんだこれ?
手をとめる。紙をもちあげ、鈴仙は今しがた自分が書いていたものを眺めた。
机の上のロウソクが放つぼんやりとした明かりが自分の文字をてらしている。
――なんだこれ?
ほっぺたがじわじわと熱くなる。眉間のしわがナイフで彫りこんだように深くなる。――なんて恥ずかしいことを書いていたのだろう、さっきまでの自分は。
そうだ、夜がふけたせいなんだ。こんなの、本心じゃないんだ。
しかし、それにしたって――
冷静のとき。羞恥心にかられる時間。
鈴仙が目のまえの紙を丸める。くしゃくしゃ。そして後方へ、すばやく手首を動かしスナップをきかせて放った。無意識の所業である。
紙はきれいな弧を描き、約四メートル離れたゴミ箱へとはいった。
そのなかは同じようにくしゃくしゃになった紙がひしめきあっている。だが、すべてうしろむきで投げたというのに床にはひとつも落ちていない。
それもそのはずである。月で軍人をしていたころ、鈴仙は『投擲の鬼兎』と呼ばれていた。
たとえ目をつむっていても方角、風向き、遮蔽物の情報、距離を知っていれば、五百メートル以内のどこにでも投擲することができるのだ。
たったひとりであの絶対要塞と呼ばれていた『キャロットキャッスル』を制覇したのは、もはや月では伝説となっている。
閑話休題。
ニンジンの描かれた青色パジャマを着ている彼女は、盛大なため息を目下の机に吐きかけるようについた。椅子の背もたれによっかかる。
壁時計が目にはいった。午後十一時四十三分。あと十七分で日づけが変わる――。
やる気がなさそうに動く振子を見ながら、鈴仙は自分にあきれはてた。自室にこもり机にむかってから一時間近くがたつ。だというのに、なにひとつ進展していないじゃないか。
しばらく苦々しい顔で虚空をにらんでいたが、突然いちばん上の引き出しからまっ白な紙をとりだした。
それを数秒見つめてから、おもむろにペンをもって書きはじめる。
人里をふたりで闊歩。昼下がり。
私「手伝ってくれてありがとう」
てゐ「どういたしまして」
そして相手の唇をうば
――なんでだよ!
ペンを机にたたきつけ、わしゃわしゃと自分の長い髪をかきむしる。
脈略ゼロじゃん! あと是が非でも唇をうばおうとする姿勢やめようよ!
すぐにまた紙をくしゃくしゃにする。すこし冷静になったほうがいいみたいだ、と思い深呼吸を二回。
落ち着いてきたところでにぎっていた紙をうしろに投げた。横になぎ払うようなスナップをきかせて。
紙はゴミ箱からはずれた方向へ飛んでいった。が、高度がさがってきたところでだし抜けにむきを変え、最後は吸いこまれるようにしてゴミ箱へとはいった。
得意な投げ方のひとつ、『カーブ』だ。別に意図してやったわけではない。無意識の所業である。
「――どうしよう」
弱々しい声は夜の静寂へとけていくだけ。むろん返事などはない。
机につっぷして戦場で白旗を振るように片手をひらひらさせた。隊長、もう無理です。士気がさがる一方です。完全な戦意喪失の証拠である。
どうして自分はこんなことをしているのだろうか? ふと疑問を感じた。どうして寝る間も惜しんでこんなことを?
今日一日の記憶をたどっていると、朝のできごとにいきついた。
そうだ、このときだ。このときから私の壮絶な戦いは始まったのだ……。
彼女は目だけを動かし、窓を見やる。
外の月は、今にも爆発しそうな手榴弾のようにまん丸であった。
◆ ◆ ◆
「明日の人里での薬売りは、てゐと鈴仙のふたりでいってほしいのだけど」
つまらぬことで悩んでいた四十三秒まえが恋しくなる永琳のひと言。みそ汁の具をどうしようと考えあぐねていたさっきまでの自分は、なんて平和的だったのだろう、と鈴仙はしみじみと思った。
なんせ、一大事が発生したのだから。
「ど、どうして?」
正座の鈴仙の横であぐらをかいていたてゐがぐいっと前方に身をのりだして訊ねた。「なんで鈴仙と!」といって、ちらっと横目で鈴仙を見た。
ふたりの視線があう。どちらともなく顔をそらす。
「いつも鈴仙ひとりで荷物もちじゃ大変だと思ってね。だからてゐにでも手伝ってもらいたいの」
ダメかしら?――という屈託ない永琳の発言を契機に、居間から言葉は消えうせた。どんよりとした重苦しい空気がこの部屋に充満する。
異様な雰囲気を察したらしく、永琳は腕をくみながらそっぽをむきあうふたりを見比べはじめた。視線が二匹の兎をいききする。
往復五回目。彼女がいった。
「……もしかしてあなたたち、ケンカ中?」
「そういうわけじゃないです」
鈴仙がこたえる。
本当のことである。別にケンカをしているわけではない。――ただ気がすすまないだけなのだ。
よくわからないが、最近てゐとふたりきりになると会話が弾まなくなってしまった。へんに相手を意識してしまうせいだ。意識して、かってに緊張してしまうせいだ。
はてさて原因はなんだろう? でっかい音を立てているこの心臓の鼓動と関係があるのだろうか?
軍事的なことに対しては精通しているのに、自分のことになるとからきしわからない。心というものも、指の屈伸ひとつで発砲できる拳銃みたいな単純構造であればいいのに……。
「――鈴仙が私に冷たいから」
驚いた鈴仙がとなりに顔をむける。ちょっぴりすねたような相手の横顔が見えた。
「そうなの?」と永琳が問いかけると、てゐがうなずいた。くせっ毛な髪がかすかに揺れる。
「仕事を手伝ってあげても、ただひと言「ありがとう」としかいってくれないんだよ。まえは頭をなでてくれたりしたのに。別に寂しいわけじゃないけど、本当に寂しいわけじゃないけど、なんかもの足りなくて……。ほかにも、部屋に遊びにいってもほとんど遊んでくれないし、おしゃべりもしてくれないんだ。それだけじゃない。罠をつくったりしてちょっかいだしても反応なし。こっちはわざと相手の気を引こうとしてるのにさ。寂しいからしているわけじゃないけどね。あとは――」
彼女の言葉は機関銃のようにとまることなく放たれつづけた。そしてその一発一発が鈴仙に撃ちこまれる。
申しわけない気持ちでいっぱいだった。まさかここまでてゐが不満を抱えていたとは知らなかった。反省しても反省しても、罪悪感が湧いてくる。
「――なるほどね」
てゐが弾切れを起こしたところで永琳がつぶやいた。
彼女は息をすこし切らしながら最後につけ加えた。「まあ、こんなところかな。別段、寂しいわけじゃないけどね」
神妙な顔つきでうなずいていた永琳が、鈴仙のほうをむいた。怒気がまじっているその表情を見て、鈴仙は条件反射で背筋を伸ばした。
「だそうよ。てゐ、寂しがってるわよ」
てゐがすぐさま合の手をいれる。「寂しくなんか――」
「この子は兎なのよ? 寂しさにはことさらに敏感なの」
「だから寂しくなんか――」
「ほら謝りなさい。寂しい思いをさせてごめんなさいっていうの」
「寂しい思いなんかしてな――」
「てゐ、ごめんね」
てゐが目をまん丸にして固まる。その眼下で鈴仙が頭をさげていた。
これぐらい当然のことだと鈴仙は思った。わざとではないといえ、理由はほかにあるといえ、自分が相手を傷つけていたのだから。
永琳は厳しい顔のままてゐのほうを見た。
「どうする? 許してあげる?」
てゐの顔がだんだんと元のすねたような顔にもどっていく。
ぷいっと顔をそむけていった。「許さない」
これは困ったぞ、と鈴仙はとまどった。上目づかいで相手を見やるが黒々としたくせっ毛しか確認できない。
「本当にごめん」
「許さない」
でも――と言葉をつづけたてゐはいいにくそうに口をもごもごさせたあと、いった。「明日の薬売りは、一緒にいく」
その台詞がどういった意味のものなのかは鈴仙にはわからなかった。ついでに永琳が相好をくずしてうなずいている理由もわからなかった。
「じゃあ、ふたりともお願いね。時間とやることは鈴仙から聞いてちょうだい」
そういって話を切りあげると、永琳は「さて、朝ごはんにしましょうかね」と手をたたいた。
「鈴仙は至急、朝ごはんの準備をお願い。まだなんでしょ? それとてゐは姫様起こしてきて」
「ラジャー」
まだちょっぴりむすっとした声でてゐが返事をする。そして立ちあがり、居間からでていった。
彼女の背を見ていると永琳も立ちあがった。ふっと視線をまえにもどす。
永琳は楽しそうに笑っていた。鈴仙が驚いていると、横をとおりすぎざまにいった。
「頑張りなさいよ。あの子、繊細なんだから」
怪訝な表情を浮かべているうちに彼女も部屋をでていく。すっとふすまがとじられる音を聞いてからこめかみに指をあてた。
――どう意味だ?
どんどんわからないことが増えていく。まったくもって人の心というのは難しいものだ……。
首をかしげ熟考する鈴仙。だが、そろそろ自分も動いたほうがいいだろうと思い、足をくずして立とうとした――
その刹那、もっともおおきな不安要素が頭のなかを銃弾のようによぎった。
しまった! 明日てゐとふたりきりだ!
◆ ◆ ◆
ゴーン、というにぶい音が頭上から降ってくる。水中で手榴弾が爆発したようなくぐもった音。
つっぷしていた鈴仙は上体を起こし、音の発生源へ目をやった。
十二時ちょうどをしめした壁時計――
なんて無駄な十七分をすごしたのだろう、と盛大にため息をつく。と同時に、長い夜になりそうだな、とも思った。
引き出しから一枚の紙をつまみ机上におく。嫌々そうにペンをもつ。
今日のうちに明日の想定される会話を考えておかなくてはまずいことになる。きっとご多分にもれず、明日も自分はあがってしまうに違いない。だからといってなにも会話しないで一日をすごせば、また彼女は意地悪されたと勘違いしてすねてしまう可能性がある。そうなると今度こそ大変なことになりかねないのだ。
うまく会話ができない根本的な理由がわかればいいんだけどなあ。それかもうすこし気持ちを楽にもてれば。たとえば相手も自分と同じようなことで悩んでいたりしたら……いささか楽になるな。
――まあ、そんなことはまずないだろうけどね。
ほんのり自嘲気味に笑んだ鈴仙は、おおきく伸びをして、そんでもってすこし惚けてからペンを動かしはじめた。
てゐがまだ怒っているときのパターン
私「今日は手伝ってくれてありがとう」
てゐ「」←無視か無愛想な返事
私「ここで休もうか」
てゐ「」無愛想に同意の言葉
ふたりで茶店に座る。
しばし雑談
私「
――なにを話せばいいんだ?
書く手がとまる。ここがいちばん大事な部分なのだがぜんぜん内容が思いつかない。
すると今朝と昼間のてゐのすねた顔がよみがえる。あんな顔をした彼女になにを語りかければいい?
そうだ、けっきょく今日だってとつとつと語りかけることしできなかったじゃないか。それなのに自分たちの会話内容を予測できるはずがない。
くしゃくしゃと紙を丸めてうしろへ投げる。手首で円を描くようなスナップをきかせて。
紙くずはゴミ箱の方向へまっすぐ飛んでいくが普通のときよりは早く下降しがちである。しかしそれは唐突に宙で円弧を描いた。きれいにくるりと一回転してからなにごともなかったようにゴミ箱へはいる。
これまた得意な投げ方、『くるりんボ-ル』である。これで数々の敵の目をくらませてきた。だが今回も意図してやったわけではない。無意識の所業である。
――いっそ、明日がこなきゃいいのに。
冗談と本気を半々の割合でそう思った。机にひじをつき頭を抱える。
きっとこのまま考えつづけてもさきには進めないだろう。ならもうあきらめるのが得策かもしれないな。
なら――
どうしようか悩んだあげく、鈴仙は上から二番目の引き出しに手をかけた。しょうがない。あきらめの白旗を振ろう。
振ってしまって、明日の薬売りの最終確認にとりかかろうではないか――。
引き出しから厚ぼったいファイルをとりだす。色は濃い赤。なんだか血に染まっているみたいで、鈴仙はこのファイルがあまり好きではなかった。
表紙をめくると人里の地図が目に飛びこむ。敵軍をマーキングするように、ところどころの家に赤丸がついていた。
そこが子どもや年寄りがいる家庭である。つまり、飲み薬や絆創膏などの消耗がはげしいところ、となる。子どもは自分の体をかえりみずに遊ぶし、老人は体が弱いからだ。
ページをもう一枚繰ると、マーキングしておいた家庭の簡単な情報が書かれた紙があらわれた。そんな紙がけっこうな枚数、ファイリングしてある。
そこには家族構成や持病をメモしてある。ささいでも前情報があるだけで薬売りはよりはかどるのだ。これらはいつも各家庭との世間話をおこたらないこそ得れるものである。
一枚めくっては二枚もどったりとせわしなく手を動かしながら、書かれていることを頭のなかにたたきこむ。と同時にいろんなことを鑑みる。
最初の家には子どもが三人。三番目が今年から寺子屋にかよいはじめたということは、わんぱく盛りだろう。絆創膏、塗り薬を手前側に。それに今は体温調節が難しい時期だ。風邪薬も一応あったほうがいいだろう。
ファイルにむかいながら鈴仙はいちばん上の引き出しから紙をとりだす。机においてペンをもった。
さらさらと明日のルートを書きだしていく。どこの家にいって、次にどの道をとおるか。図示はせずに文字だけで。
先ほどまでとはうって変わって、彼女の手はよどむことなく動きつづけた。
しかし、紙の半分が予定でうまったころ、鈴仙が燃料切れを起こしたタンクのように動かなくなった。今しがた、したためた場所の名前は『寺子屋』。
その文字をにらみつける。左手の人さし指はモールス信号よろしく机をたたく。
そういえば、この付近においしいと有名な饅頭屋があったな。てゐは饅頭が好きといっていたから、喜んでくれるに違いない。
真顔のままでもう一枚紙を引っ張りだして、『饅頭屋』と記す。下には覚えているかぎりの情報を書きこんだ。
すると芋づる式で記憶がどんどんよみがえってきた。
あと、この先には団子屋があるな。みたらし団子で有名な。――でもちょっと待て。てゐはしょっぱい団子が嫌いではなかったか?
ファイルのいちばん最後のページを開く。そこにはお客さんとの世間話で得たさまざまなお店の情報が書かれていた。
ならばここはよそう。その代わり、中央にある団子屋にでも寄ろうか。――それもダメだ。そうしてしまうとルートを大幅に変えないといけなくなる。ならば店の範囲を絞ってしまったほうがいいかもしれない。
地図を見ては紙に店の情報を記す。視線が右左をいききする。
ルートの確認なんてもう忘却している。鈴仙にとって『てゐのための予定』のほうが、大事なことなのだ。
紙を半分以上、予定でうめた鈴仙は手をとめた。渋面のまんまで腕をくむ。
自分の知ってるかぎりのことは書きだした。しかし、この店のどこをチョイスすればいいのか。また、はたしててゐは喜んでくれるのか。
不安と苦悩がどっと押しよせる。
どうしたものかと思案していると、本業のほうをふっと思いだした。
呆然のとき。脱力感におそわれる時間。
「……なんてことだ」
気がついたらつぶやいていた。なんてことだ。心のなかでもう一度。
力を体から抜いて天をあおぐ。私はどうしてしまったのだろう、ととまどう鈴仙はすすけた天井を見つめた。
会話の想定はできないからあきらめた。てゐ絡みの予定を立てるのはあきらめたはずなのに。気がついたら一緒にいく店なんかを考えている。
普段はこんなにも心配なんてする性格ではない。今回が特別なんだ。明日をとにかく恐れ、怯えているんだ。
明日がこなきゃいいのに、とまた思う。気を楽にもてればいいのに、とふたたび考える。
らしくない自分に惑いながら、窓に目をやった。
――そういえば、昼間のてゐもらしくなかったな。
彼女もなにか抱えているのだろう。そのなにかは皆目見当もつかないけど。
皓々とこの部屋をてらす窓の外の月。それを恨めしそうににらむ。
目を細めると月の光はいっそうましたように思えた。
◆ ◆ ◆
――なんだあれ?
迷いの竹林のどまんなかに、薄ピンクの物体がつるされていた。
――なんだあれ?
いぶかしげな顔の鈴仙がそれに近づいていく。だが距離が縮まるにつれて、彼女の表情は困ったときのものに変わっていった。
てゐだった。物体の正体は。てゐの片足にロープが結ばれていて逆さまにつるされていた。
ワンピースの裾がひるがえらないよう両手で押さえながら、朝のときのようなすねた顔でひたすらに目のまえをにらんでいる。
「……どうしたの?」
おずおずと訊ねる。
「……」
無言のまま、てゐの鋭い眼光が鈴仙を射た。まるで銃口を突きつけられたときのようにすくみあがる。
「……てゐ?」
「ほどいて」
ほっぺたをほんのり赤くしながらいった。「早くほどいて」
鈴仙は当惑した。やっと状況が飲みこめたのである。
いそいで彼女の片足に結ばれたロープに手をかけた。いつもながら、これをほどくのは億劫だ。
どうやらてゐは自分でしかけた罠に引っかかってしまったらしい。これはとても珍しいことであった。というより、自分の記憶が正しければ初のことである。
最近の鈴仙はもう彼女の罠に引っかかることはなかった。慣れてしまえば設置されているポイントの予測ができるし、目をこらすと存外トラップが見えてしまうのだ。
だからこそ当事者がはまったとなると違和感もひとしおなのだ。よっぽど意識が散漫になっていないかぎり、まずありえない。
いったい、てゐはどうしてしまったのだろうか……?
「――ほどけたよ」
ロープの最後の結び目をほどくとてゐは地面へ頭から落下したが、即座に受け身をとり、ぴょこんと勢いをつけて両足で立った。
「ありがと」
つぶやくようにそういったので、「どういたしまして」と笑みを返した。
しかし鈴仙の内心、とても緊張していた。なんていったって今はてゐとふたりきりである。むしろ笑顔をつくれたことが本人にとってはすごいことであった。
てゐはすこしうつむいて黙る。鈴仙は自分の張り裂けんばかりの鼓動を感じながら黙る。竹林が静寂につつまれた。
「……じゃ、じゃあ私はそろそろ帰るね」
鈴仙がいった。そして機械のようにぎこちない動きで歩きだした。手足が同時にでていないだろうか? 自分で心配になる。
うしろをてゐがついていく。足音で気づいたらしく鈴仙は足をとめ、振り返った。視線を斜め下に固定した相手。ちょっぴりすねたような顔の。
もしかして怒ってる? 私、なにかしたっけ?
鈴仙が冷や汗を流していると、
「私も帰る途中なの」
とてゐが唇をとがらした。「どうせいきさきは同じなんだから、一緒に帰ってもいいでしょ」
たしかに鈴仙も散歩から帰る途中であった。
「そうだね」とまた笑顔で返事をする。すると、てゐは距離をつめてとなりに並んだ。現在はうまく笑えている自信はない。
ふたたび歩きだす。激しい鼓動で心臓が爆発してしまいそうだ。
ざっざっというふたり分の土を踏む音。それ以外の音はない。
どうしようどうしよう、と頭をフル回転させてひたすらに話題を探した。
「……そ、そういえばさ」
鈴仙が口を開く。できるだけ自然体を心がけて。
「てゐが自分の罠に引っかかるなんて珍しいね」
ははと乾いた笑いを浮かべながら横を見た。てゐはあいかわらずの仏頂面。話題チョイスをミスったか!?
「……考えごとをしてたの」
返事がきていささか安心する。「それまた珍しいね」というと、鋭い目つきでにらまれてしまった。
「私だって考えごとぐらいするよ」
「ご、ごめん」
なんだか朝から謝ってばっかりだな、と鈴仙は思った。ふうっとてゐの嘆息が聞こえる。
「明日のことについてね。――こう見えても緊張してるんだよ」
あまり信じられない。自分からいくと立候補したはずなのに。
「鈴仙はどんな気持ち?」
戦争にいく前日みたいな気持ちだよ――とはいえなかった。きっと相手を怒らせてしまうから。
だから正反対のことをいった。
「私は明日が楽しみかな」
てゐがはっとして鈴仙を見やる。が、目があうとあわててそらした。だけどちょっとうれしそうに笑んでいる。かわいいな。
トラップであるロープが張られていたのでまたぎ、すこし考えこむ。
――いっておいたほうがいいかな。
鈴仙はまえをむいたままいった。
「朝いい損ねたんだけどさ……別にてゐに冷たいのは意地悪してるわけじゃないんだよ」
返事がない。歩くのをやめ横を見る。てゐがいない。
うしろをむくと、トラップに引っかかりふたたび宙ぶらりんになったてゐがいた。
「……ほどいて」ぶっきら棒にいう。
鈴仙は無言でロープをほどきはじめた。頭のなかは自分でもびっくりするほど冷静だった。疑問は湧いているけど。
どうしてもう一度引っかかった?
「――もしかしてさ、さっきの言葉がそんなにうれしかったの?」
「うるさい!」
またまた怒らせてしまった。彼女が照れ隠しのときに怒ることは知っている。今がそのときのことも。
ロープがほどけたのでふたたび並んで歩きだす。
「……さっきなんかいってなかった?」
てゐが訊ねた。もう顔は笑っていない。あの笑顔、かわいかったのになあ……。
「いってたよ」
「なんていってたの?」
ちょっと淀んでからさっきの台詞をもう一度くり返した。
――相手の返事はない。またトラップに引っかかってしまったのではないかと心配し、視線をむけてみたらちゃんと横にいた。
ただ表情は憮然としている。今にも怒りだしそうな顔、といったほうが正しいかもしれない。
どくんどくんと脈動する自分の鼓動音は、時限爆弾のカウントダウンのようにも聞こえた。
「……じゃあ、なんでなの?」
ふたりの足が自然にとまる。鈴仙の目をじっと見つめながら訊いてきたので、彼女もてゐの目を見つめつづけた。
「わたしのことが嫌いだからじゃないの?」
「それは違う。だけど、本当の理由はわからないんだ」
てゐの目つきが胡乱なものになる。――やっぱり信じられないか。
でも真実なんだ。目のまえの人物が嫌いじゃないことも、理由が自分でもわからないことも。
ダメ元でそういおうとしたとき、
「ねえ、明日が楽しみっていってたけど、それって嘘でしょ」
とてゐに先制されてしまった。
言葉につまってしまう。本当なら、「そんなことないよ」と返答すればいいことだ。きっとうまく騙すことができるだろう。
だけど、それはできなかった。いや、しなかった。嘘をつくのは得意でも、好きではないから。
こんな状況の今さえ、嘘を貫くとおすほうに罪悪を感じるのだった。
ばつが悪そうな鈴仙を見て、てゐは寂しそうに息をもらした。
「――やっぱりね。でも残念だな。私は楽しみだったのに」
その言葉が鈴仙の心を撃ち抜き、ずきんと痛くなる。ずきんずきん。痛みはましていく。
彼女は震える声でつづける。
「そうだよね。こんなやつと一緒に人里にいくなんて嫌だよね。ごめん」
「違うの。それは理由がほかにあって――」
「もう、いいの。じゃあ、ね」
うつむき加減で駆けていくてゐ。速くはやく走って、鈴仙から逃げるように走っていく。
その背をぼんやりと鈴仙は眺めた。もう横にはてゐがいないというのに、鼓動はまだ高鳴っている。
視界から相手の姿が消えたとき、鈴仙はくしゃりと泣きそうな顔をつくった。悲しくて、寂しくて、悔しくて。そんな感情を背負って一歩を踏みだした。
『明日』という日がいっそう嫌いになった瞬間であった。
◆ ◆ ◆
〇南門近くの甘味処
一番人気はお汁粉。なかのもちは大きくて歯ごたえがある。それがあまり甘すぎないあんと合う。
てゐはもちが好きなため、気にいってくれる可能性が高い。しかし彼女は甘党でもあるため、いいきることはできない。
書きおえると、鈴仙はペンをことりとおいた。そしてまじまじと紙を眺める。
半分以上がすでに文字でうまっていた。内容は店の簡単な情報とてゐが気にいってくれるかどうかについて。
――こんなものかな。
自分が知っているかぎりの店はすべて書ききった。あとはこれを明日のルートに織り交ぜるだけだ。
ふわっとあくびをもらす。涙のたまった目をこすり、しょぼついた目で時計を見た。
午前一時すぎ。明日は七時ぐらいに起きる予定だから二時までには寝たい。
視線を机上の紙にもどした。文字がかすむのは眠たいせいだろう。
そういえば、こんなにも夜遅くまで起きているのは珍しいな。鈴仙はふと思った。
いつもは日づけが変わるまえには布団にもぐっているし、仕事があるならなおさらのことである。
しかし今日は違う。いろんなことがあったせいだ。
明日がくるのが怖い。
なんの気兼ねもせずにいられたらこんな予定を立てなくてもいられるんだ。でもてゐは勘違いをしてしまっている。
とうとうと会話ができなかったり、相手を気づかうことができなかったら勘違いはいっそうおおきくなってしまう気がするんだ。
だから――今夜はがんばるのだ。
そして――明日もがんばるのだ。
鈴仙はペンをもち、すこし惑ってから紙の下のほうに書き足した。
明日はてゐが笑ってくれますように。
なんだかずいぶんと気恥ずかしい言葉だが、今はたいして気にならなかった。深夜のテンションとはこういうものである。
――まあ、こんなこと書いても、なにも変わらないんだけどね。
嘲笑の笑みを浮かべながら諦観しきったことを思う。
こんなことで彼女との関係が直るのなら、どれほどいいことか……。
鈴仙はあくびをもらし、トイレにいくため椅子からおりた。紙は机上においておいてあるままである。
障子をあけて縁側にでると、さあっと夜風が銃弾のようにほおをかすめた。そろそろ夏だが、夜風はひんやりとしていた。少々寒すぎる気もするほどに。
空をあおぐと満月が浮いていた。
あそこでは、まだ戦争はつづいているのだろうな……。
――そちらはどうでしょう? こちらもとても大変ですが、がんばっています。
まるで通信するかのように、鈴仙はそんなことを思った。
自分の部屋のもどっている途中、縁側になにか落ちているのを見つけた。
不審に思いながらもそれに近づき、拾いあげる。
丁寧に折りたたまれている、一枚の紙であった。
トイレにむかうときにはなかったものだ。なんだか不気味に思いながら、こんなときどうすればいいのだろう、と鈴仙は逡巡した。指先で紙をもてあそび、ときおり月の光に透かしてみたりする。
悩んだあげく、中身を確認してみることにした。紙を開いているあいだも、うしろ髪を引かれる思いは消えなかった。
文字が、たくさん書いてあった。にわかには内容がつかめなかったが、落ち着いて読みすすめているうちに彼女の顔が赤くそまっていった。
とくんとくん。
申しわけないことをしてしまった。文字を目で追いながら頭の片隅の罪悪感がおおきくなる。
私はどうすればいいのだろう? 鈴仙は神妙な顔をした。
と、そのとき、前方からかすかな音が聞こえた。
視線をあげる。数十メートル離れた鈴仙の部屋から、てゐがでてきたところだった。
――あ、まずい。
駆けながら、紙をいそいで折りたたみポケットにしまいこむ。夜だが自分の足音のおおきさに注意を払う余裕はなかった。
てゐも鈴仙に気づいたらしく、すこし驚き、それから不敵に笑った。白玉の描かれたピンクのパジャマのうしろで両手をくんでいる。
鈴仙が彼女のまえに到着すると、てゐはいった。「こんばんは」
白々しいあいさつ。鈴仙はそれにはこたえなかった。
「てゐ、ここでなにしてるの?」
「いやさ、明日の日程を鈴仙に訊ねわすれたから、部屋を訪れていたんだ」
もう手遅れなんだろうな、と心底思った。
「――声を何度かけても返事がなかったからさ、なかにはいらせてもらったよ」
そしたら――とつづけてうしろにくんでいた手を鈴仙のまえにつきだした。
紙がそこにはあった。なんの紙かは――訊ねなくてもいい。
「そしたら、机の上にこんなものが。悪いとは思ったんだよ? でも好奇心には勝てなくてね」
「内容――見たよね?」
てゐがこくりとうなずいた。
彼女の浮かべている笑みはどっかで見たことがある。たしか、戦争で優勢になった軍の兵士がこんな感じで笑っている。
「私のためのお店がいっぱい書いてあったよ」
てゐがいった。鈴仙は赤い顔のまま閉口してしまった。
「明日の寄るお店、考えてくれてたんだね。しかも私の好みまで考えて」
歯を見せて笑んでいる。
まったくもって意地悪だ。別に混ぜっ返さなくてもいいじゃないか……。
そのあと、しばらくたがいは無言をつづけた。ふたりのあいだを夜風が吹き抜け、障子にぶつかり乾いた音を立てる。
それと同時に、てゐが口を開いた。
「――でも、まあ」
さっきまで饒舌だったのに、もごもごといい淀んでいる。ほっぺたがパジャマの色みたいにピンク色である。
「ま、まあ、ありがとう――」
彼女の意地悪な言葉も、けっきょくはそんな言葉に落ち着くのであった。
鈴仙もかしこまってしまい、返事に窮していると、
「それと――ごめん」
という、謝罪の言葉が聞こえてきた。すこし面食らってしまう。
「え、なんで?」
「だってさ、なんか私、勘違いしてたみたいで。鈴仙の話を信じてあげなくて、ごめん」
――こんなやつと一緒に人里にいくなんて嫌だよね。
昼、てゐがいっていた台詞である。自分は嫌われていると思いこんでいたことに起因していた。
「だってさ、嫌いなやつのために、こんな予定立てないもんね」
それに、こんなこっぱずかしい台詞もふつうは書かないよ――と照れ笑いを浮かべながら、下に書いてある一行を指さした。
――明日はてゐが笑ってくれますように。
ますますしどろもどろになる鈴仙。やっぱり書くんじゃなかった!
「でも、この言葉もあるから、鈴仙の話も信じるよ」
やっぱり、書いて正解だったかも――と現金なことを考える。
上目づかいでてゐが訊ねた。
「本当に……私のこと、嫌いじゃないんだよね?」
「も、もちろん!」
なんて恥ずかしい問答だろうか。
でも、別にいい気がした。深夜のテンションとはこういうものである。
返事は胸を張ってこたえた。だって、嘘偽りはなにひとつないもの。
「そ、そう」
てゐはとびっきりの笑顔を満面にたたえた。昼のときよりも、数倍もかわいかった。
しばらく見惚れていると、彼女はふたたびにんまりと不敵に笑った。
「それにしても、寝る時間までさいてこんな予定を立てるなんてどうかしてるよ」
「いいじゃない」
「いいけどさ。でもよっぽどの臆病者がやることだよ」
本当に、どうかしてるよ――ともう一度、彼女はちいさな声でつぶやいた。
そのすきをついて、紙を相手の手から奪いとる。「あっ」とてゐがもらした。
「どうせ私は極度の臆病者ですよ」
鈴仙が唇をとがらす。
「まあまあ、すねないの。――ところで、明日は何時に起きればいい?」
「七時。詳しい内容はそのとき説明するから」
「わかった。じゃあ、おやすみ。予定立てに没頭しすぎて、寝坊しないように」
最後までからかい、てゐは鈴仙の横をとおりすぎ自分の部屋へとむかった。浮き足立っている。
それを見ると、よけいに申しわけない気持ちになった。
――返しておくべきだよね。
「てゐ!」
距離もそれほど離れたなかったので、ちいさめの声で呼んだ。くるりとてゐが振り返る。
「ん? どうしたの?」
鈴仙はまた逡巡してから、おもむろにポケットから一枚の紙をとりだした。先ほど拾ったやつである。
開いて見せると、てゐが目をむいた。
「ご、ごめん……」
消え入りそうな声でいった。
その紙には鈴仙のものとはくらべものにならないほど、字がびっしりと書かれていた。
上には手書きの人里マップ。店の情報で全体の半分以上がうまっている。しかもすべてが鈴仙のものより詳しい。メニューもいくつか記されている。そして、そのときそのときの会話想定文もところどころに挿入されている。けっこう具体的に、である。
極めつけは下部の欄である。
『思いを伝えるには』というタイトルで、いくつかのことが箇条書きされていた。『もっと素直になる』とか『シチュエーションが大事!』などと。
「落とした……?」
鈴仙が訊ねる。しばらく固まっていたてゐは、右手だけをゆっくりと動かしポケットのなかにいれた。
「穴、あいてる……」
ぽつりといった。
「中身、読んだ?」
ばつが悪そうな顔をして、斜め下を見すえる。
「ごめん……」
もう一度、謝った。
どたどたと鈴仙へ駆けるてゐ。一瞬のうちに紙を奪いとる
涙目を浮かべる彼女はきっと相手をにらんだ。
「鈴仙なんて、大っきらい!」
そう叫び、振り返ってどたどたと縁側を走りだした。
まさか、こんなにも怒るとは思いもしなかった。彼女の遠くなる背を見ながら思う。
明日は大丈夫だろうか……。
あ、転んだ。
すぐに立ちあがったてゐは、脱兎のごとく――まあ、脱兎なんだけど――走って、自室にはいった。障子がぴしゃりとしまる。離れているはずなのに、こちらまで音が聞こえてきそうだった。
その瞬間、静寂がもどってくる。夜風に吹かれながら鈴仙はしばらくほうけていた。
――明日、また謝るか。
ふと右手を見てみると、くしゃくしゃになった自分の紙。
呆然と見つめる。が、だし抜けに鈴仙は笑った。
――おあつらえむきの形状だ。
自分の部屋の障子をあけた。ゴミ箱への距離を目測で測る。約、七メートルといったところか。
不思議である。さっきまで明日がくることに不安を抱いていたのに。予定を立てなきゃおちおち眠れないと思っていたのに。
不安はきれいに消えていた。なんとかなるような気がしていた。
きっと明日になったら、またうまく会話ができなくなるんだろうな。そしたらまた、勘違いされるかもしれない。
そのときはそのときだ。また長い夜をすごせばいい。どうせてゐは、ふたたび私の目をくぎつけにするほどのかわいらしい笑みを浮かべるのだから。
だから――なんとかなる。
目標は自分のむかい。風は追い風。遮蔽物ゼロ。なにをするにもすばらしい状態だ。
鈴仙は力いっぱい紙くずを投げる。それはただ一直線にゴミ箱へむかっていった。ストレートである。
すとんときれいにはいった。
つづけて鈴仙は右手で銃の形をつくり、ゴミ箱に標準をあてた。
バン。
口にだして音をいってみる。思いのほか気持ちがいい。きっとこれも、深夜だからかな。
さあ、眠るか……。
部屋にはいり、障子をしめる。しばらくして、なかのろうそくの明かりがふっと消えた。
白々とした障子をひたすらに月がてらすばかりとなる。
明日の予定は決まらぬままで、こよい鈴仙は安眠するのであった。
あと、あとがきww