ナズーリンが部屋を訪ねてきた。声をかけたらすぐに来るけれど、自分から来るのは珍しい。開いていた書物を閉じて目を遣ると、ナズーリンは静かに私を見ている。いつものナズーリンのようだった。それだけど少し、違って見えた。
「……どうか、しましたか?」
胸の内に不可解さを抱きながら問う。ナズーリンは私の質問に答えないで。
――静かに、深く、頭を下げた。
「ナズーリン?」
「すみません、ご主人様。本当に……ごめんなさい」
理解が及ばず、言葉が出ない。ナズーリンはそのまましばらく頭を下げていたけれど、やがて頭を上げると、目を閉じて、私の部屋から出ていった。
引き止めなければいけなかったのだと、後になって思った。それでも、そう思う時には、もう遅い。後悔は絶対に先立たない。
――ナズーリンの姿が見えなくなったのは、その次の日のことだった。
――ナズーリンの姿が見えなくなって、もう一週間は経っただろうか。一人を欠いた命蓮寺は静かだ。ナズーリンは別にお喋りというわけでもなかったのに、どうしてこんなに静かなんだろう。ひどく、身体が重い。
皆でナズーリンを捜しているけれど、見つからない。顔の広い巫女や、情報通の天狗にも捜してもらっているのに。ナズーリンを捜しているのに、こんな時にナズーリンがいてくれれば、なんて思ってしまう。ひどく、心が重い。
主をなくした部屋の畳には、ほんのうっすらと埃が積もっていた。部屋の隅に寄せられた、ナズーリンが拾い集めた物にも。ここにあるのは、ナズーリンが集めた物の一部でしかない。他の物は確か、境内の隅の蔵に保管していると言っていたっけ……。
ぎし、と縁側の板が軋んだ。
「あれ、星? 何してるの?」
「……ぬえ」
振り返ると、そこにはぬえがいた。今現在の命蓮寺の雰囲気に反する、暢気な表情をしている。しばらく命蓮寺には顔を出していなかったし、もしかしたら今の状況を知らないのかもしれない。
「ぬえ、ナズーリンの居場所に心当たりはありませんか?」
「あれ、いないの? 珍しいね」
「ええ、一週間ほど前から」
「一週間ねえ……」
案の定、ぬえは知らないようだった。ほんの少し落胆しながら、見つけたら教えてください、と言おうとしたところで、
「……そういえば、その頃ナズーリンがなんかぶつぶつ言ってたなー」
「……え?」
何気ない口調で、手掛かりが不意に投げかけられた。
「……ナズーリンは、なんて?」
声音と表情が自然と厳しくなる。私の様子の変化に驚いた様子のぬえは、しどろもどろになりながら話し始めた。
「えっと、なんかすごい思いつめたような顔してたよ。俯き気味で、私が前に立っても気付かないの。それでぶつぶつと『叶えてはいけない』とか『苦しい』とか、そんなことをひたすらぶつぶつぶつぶつ……」
……なぜ、そんなことを? 不吉な想像が頭をよぎる。それを否定したくて、私は頭を大きく振った。ぐらぐらしている感覚の中で、不吉な想像は確固たる足場を持って存在し続けている。
ぬえは「覚えてるのはこれだけだよ」と言った。頭を押さえながら礼を言う。
「……そう、ですか。ありがとうございます。もし見つけたら、教えてください」
ぬえは不可解そうな様子で立ち去った。嫌な予感は全身を侵食し、吐き気と眩暈が押し寄せてきた。柱に手をついて大きく呼吸をする。
……ナズーリンは、何に悩んでいたのだろう。いつから、思い悩んでいたのだろう。なぜ、独りで悩んでいたのだろう。……なぜ、私は気付けなかったのだろう。まだ昼間なのに、ナズーリンの部屋がひどく暗い。苦しくて、私は目を閉じた。
「星」
そんな私に、聖の声がかけられた。
――ナズーリンの部屋よりも狭い聖の部屋に入り、勧められるままに座る。私の対面に正座した聖は、静かに一枚の札を差し出した。
「……これは?」
「小倉百人一首の、式子内親王の歌です」
玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする
それ自体は知っている。けれど、それがなぜここで出てくる?
「……頃合いを見て言うようにと、ナズーリンに頼まれました」
「……え?」
呼吸が、止まった。聖は真っ直ぐに、辛そうな表情を浮かべながら、私を見ている。
「ナズーリンは、恐らく蔵にいます」
唾を飲む。口の中はからからに渇いていた。聖の言葉を止めたい。そうしなければ、不吉な想像が現実化しそうで、楽観的な幻想が否定されそうで。
けれど聖は辛そうに、けれども残酷に、言葉を続ける。
「ナズーリンの言葉を伝えましょう。けれどその前に、貴女は一人で、蔵に行きなさい」
聖は目を閉じ、静かにそう言った。全身が震える。聖に掴みかかりたい衝動を必死に抑え、私は部屋を飛び出した。
――今までこの蔵に来なかったのは、いつかにナズーリンが「入らないで」と言ったからなのだろう。鉄扉には閂がかけられていて、蔵に他が侵入することを拒んでいる。閂を外して、扉を開けた。そのどちらもが異様に重いのは、きっと確信のせいだ。できるのならば否定したい、見たくない、不吉な確信。
けれどその確信を、陽光は照らし、肯定した。
「……ナズーリン」
床に敷かれた薄い茣蓙、その上に横たわる小さな身体。眠っているみたいだな、なんて、虚ろになった頭で思う。……そうでないのは、よくわかっているだろうに。蔵に踏み入る。陽光が暗くなった。
「ナズーリン……」
身体を抱き起こす。小さく、華奢なのに、その身体はひどく重い。かつて触れたときの温かさはなくて、ただただ、冷たい。冷たすぎて、凍り付いてしまいそうだった。
安らかだった。本当に、眠っているかのようで。
「ナズー……リン」
けれど、その魂の緒は、絶えている。
「――っあああああっ!」
虚ろは激しい哀しみに染まり、喉が涸れるほどに、私は哭いた。
――遠くから、念仏の声が聞こえた。
★ ★ ★
――やあ、聖。話があるんだが、時間は大丈夫かな? 込み入った話なものでね、時間がないなら日を改めよう。……大丈夫かい、助かるよ。
まあ、話があると言っても、別に聖から何かの言葉をもらいたい、というわけではなくてね。ただ一方的に、私の言葉を聞いてもらいたいだけだ。話をする、というよりは、異教の告解というものに近いかもしれない。仏徒である聖に基督の役回りは不満かもしれないが、そこはまあ、容赦してくれると嬉しい。
時に聖、貴女は和歌はわかるかい? そんな深く、何も古今伝授云々まで知っている必要はないが。……ぼちぼち、うん、なら大丈夫だろう。有名な和歌だからね。百人一首の中の、式子内親王の和歌だ。
……聖、この時点でそんな顔をするのはやめてくれないか? 今この状況では、聡明さは悪だよ。……まあいい、そういうことさ。続けても構わないね? 構わなくても続けるが。告解だから、しっかり名前も言ったほうがいいかな? 言わないと話す意義がなくなってしまうから、言わせてもらおう。ああ、でも私が言うのは本名とかじゃないか。でも敬称のほうが親しみがあるというか、慣れているというか、そんな感じだからそれで話を進めさせてもらおう。
聖。私は、ご主人様を愛してしまった。うんそう、恋愛、色恋の話だ。女同士なのに、とか上司と部下なのに、とか野暮ったいことを言わないでくれよ? いざこの想いを抱いてしまえば、そんな言葉は野暮以下というか、無価値だからね。
知らないはずはなかろうが、ご主人様はこの寺におわす毘沙門天だ。代理だけどね。仏教とは、欲を排して悟りへ至る道。排する欲の中には当然、誰かを愛するなんていうよくも含まれるね。貴女にはよくわかるだろう? 今更だから言うが、私は別に仏門に下っているわけじゃあない。ある程度解してはいるがね。だから別に、私は悟れなくなろうが構わないんだよ。悟りに魅力も感じないし。
……だが、ご主人様はそうじゃない。あの方は仏門に、というより、聖、貴女に心服している。貴女のようにありたいと願っているのを、近くで見ていた私はよく知っている。故に、ご主人様には、誰かを愛すことなどできないだろう。仮に愛せたとしても、それは衆生に向けられる愛だ。それをもらっても、私は満たされない。私は、私だけを愛してほしいから。
私の想いは、叶わない、叶えてはいけないものになってしまうわけだ。ご主人様の行く道、行きたい道を塞ぎたいわけじゃないからね。
恋情は時に、熱病やらに喩えられる。それだけ苦しいってことさ。明かしてはならず、決して叶いもしない想いを、盛らせることも消すこともできないまま抱き続けるのは、それはそれは辛かったよ。声を聞く度に心が焦がされて、姿を見る度に狂おしい衝動に駆られるんだ。箍を外して腕の中に抱こうと思ったのも一度や二度じゃない。その度に心を擦り切らせていって、そろそろ擦り減るものが無くなってきた。こうなると、もはや私は獣に戻るしかなくなる。それは嫌な話だよ、冗談でも遠慮願いたい。
さっき言った式子内親王の和歌、初めは「この命よ、絶えるならば絶えてしまえ」という仮定だな。人間である彼女なら仮定でも構わないだろうが、こちらは妖怪。絶えるならば、なんて言って死ぬのを待つという悠長な真似をしていては、命が絶える前に擦り減って、周りに知られるどころかいろいろなくなってしまう。だから仮定を願望に変えて詠み直してみたいところだが、和歌の雅を解せないのでやめておくよ。勝手に改変して「絶唱」と謳われるこの歌を穢すのは忍びない。
……まあ、そういうわけさ。私はもう、この苦しみに耐えられない。自分が苦しいというのもそうだが、何よりご主人様を穢してしまう、そのことが怖い。……なんて言うとそれらしいけどね、実際はただの身勝手さ。忍耐が足りないとか、自分勝手とか、貶して笑ってもらっても構わない。事実、その通りだから。
基督と違って、仏教では別に劫罪ではないだろう? もっとも、厳格なる閻魔様のことだ。二度と輪廻の輪には入れてもらえないかもしれないがね。まあ、私にとってはそのほうがありがたい。何かの偶然でまた巡り合ったら、また同じ苦しみを抱かないといけなくなる。その可能性がないのは気が楽だよ。ここらへんも大分自分勝手だね、誰かに笑ってもらえたほうが、道化っぷりを自覚できていいかもしれない。……まあ、貴女にそれを求めるのは酷かな。
ちなみに、私が他の誰でもなく聖にこのことを話した理由はわかるかい? 貴女なら私のやろうとしていることを止めないでくれるだろうし、またここで言ったことを話すべき時分を弁えてくれていると思ったからだ。ゆめゆめ、頃合いの前に誰かに言ったりしないでくれ。話すのは、然るべき時になってからだ。
ん? 最期に何か望みはあるかって? そんな質問をしてくるあたり、流石は聖だ。……そうだね、特にはないと言いたいところだが……
……一番初めは、ご主人様が――。
……いや、なんでもない。忘れてくれ。時間を取らせてすまなかったね、聖。聞いてくれてありがとう。
それじゃあ、さようなら。
すごく切ない、いい作品でした。
起承転結の承で終わってしまったような物足りなさも感じました。
あと起の部分をもっと練りこんでナズ失踪までの流れに厚みが欲しかったです。
文章には特に気になる点はありませんでしたのでこの点で。
偉そうな批評になっていたら申し訳ありません。
もっと派手に起承転結つけてくれてたら更に加点した
次も期待してる
でも、話は良かった。あとは、もう少しボリュームが欲しい。そうしたら完璧。