Coolier - 新生・東方創想話

うみょんげ! 第10話「穢れ」

2011/07/06 17:58:35
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<注意事項>
 妖夢×鈴仙長編です。不定期連載、全12話予定、総容量未定。
 うどんげっしょー準拠ぐらいのゆるい気持ちでお楽しみください。

<各話リンク>
 第1話「半人半霊、半熟者」(作品集116)
 第2話「あの月のこちらがわ」(作品集121)
 第3話「今夜月の見える庭で」(作品集124)
 第4話「儚い月の残照」(作品集128)
 第5話「君に降る雨」(作品集130)
 第6話「月からきたもの」(作品集132)
 第7話「月下白刃」(作品集133)
 第8話「永遠エスケープ」(作品集137)
 第9話「黄昏と月の迷路」(作品集143)
 第10話「穢れ」(ここ)
 第11話「さよなら」(作品集155)
 最終話「半熟剣士と地上の兎」(作品集158)













「らんさまぁぁぁぁ~!」

 瞼を開けた途端、しがみついてくる質量に、藍は呻いた。茫漠とした意識が、同時に腹部に走った焼けるような痛みに、半ば強制的に覚醒させられる。
 のしかかっていた質量がひょいと持ち上げられた。目をしばたたかせれば、目の前には見慣れた顔と、馴染みの薄い顔がひとつずつあった。

「怪我人に体当たりしないの」
「す、すみませぇ~ん」

 首根っこを掴まれて持ち上げられているのは、半泣きの橙。そして橙を持ち上げているのは、

「……風見幽香?」
「おはよう。気分はいかが?」

 藍は身体を起こし、腹部の痛みに顔をしかめる。視線を落とせば、白い包帯が巻かれていた。――ああ、そうだ。藍は思い出す。主の命で、月の使者、綿月依姫と交戦し、――敗れたのだ。
 視線を巡らせば、どうやらここは人里の医院らしい。永遠亭に連れていくまでもない里の病人や怪我人の面倒を見ている医院だが――まさか自分が厄介になるとは。藍は苦笑する。

「回復力はさすがね。――傷は綺麗なものだったそうよ。内臓を避けて、致命傷を免れていたって。貴方にそんな傷を与えるなんて、どんな相手とやり合ったのかしら」

 病室の花瓶に花を生けながら、幽香は言う。その問いに答えることはせず、藍は橙の方を見やった。心配そうにこちらを見つめる橙の頭を、藍は笑って撫でてやる。
 橙はくすぐったそうに目を細めたが、不意にしゅんと視線を落とした。

「ら、藍様、あの、すみません……私、その」

 しょんぼり尻尾もうなだれて言う橙に、藍はひとつ首を傾げ――ああ、と思い至った。見張っていろと命じた兎たちを逃がしてしまったことだろう。

「いや、それはいいんだ、橙。――すまない、私が心配をかけてしまったな」
「い、いえ、そんな」
「――その子が私を呼んだのよ。藍様が死んじゃうって泣きそうな顔して」

 幽香は目を細めて微笑んだ。――前鬼か後鬼が橙まで知らせ、橙が助けを呼んでくれたのだろう。藍は橙を見つめ、「そうか、――ありがとう」ともう一度頭を撫でた。
 それから藍は顔を上げる。窓を見やれば、外は既に明るくなっている。自分が依姫と戦っていたのは夕刻だったから――夜は明けてしまったのか。

「私は――どれほど眠っていた?」
「半日と少しね」

 すると、今は翌日の朝方か。――月の使者は、今はどうしているだろう。
 結果的に、主の目論見通り、永遠亭に向かってくれていれば――少なくとも、主から命じられた自分の役目は果たしたことになる。――あのときあの場にいた、魂魄妖夢の顔を思い出して、藍はひとつ息を吐いた。
 ――結局、紫様は何がしたいのだろう。
 主があれほど月にこだわる理由。月面戦争の真の目的。藍には、計り知れるはずもない。
 自分の腹部の傷を見下ろす。主の命に殉じる覚悟などはじめから出来ている。自分があの月の使者に殺される可能性を踏まえて主が戦えと言ったのだとしても、それが主の言葉である限りは藍はただ従うだけだ。
 ただ――藍が怖れることは、ひとつだけある。
 八雲紫本人しか知らない、主の本当の目的。
 それが、もしも完全に潰えてしまったとしたら――。

「――紫様」

 朝の空に、月は見えない。今はそこにいるはずの、主の姿も。
 それでも藍はただ、不可視の月を見上げて、――今はここにいない主を思った。












うみょんげ!

第10話「穢れ」












      1


 時間は再び、夜へ戻る。


「お師匠、様……」

 竹林に淡く差し込む、月の光。その下で、八意永琳は目を細めて微笑んでいる。
 鈴仙は僅かに後じさって、永琳の手にした凶器を見やった。その弓矢は、永琳が輝夜に仇なす者へ向ける武器。――今、それを向けられるのは誰だ?
 自分だ。鈴仙・優曇華院・イナバだ。――絶望的な気分で、鈴仙はそれを悟った。
 月からの逃亡者である永琳と輝夜の近くに、月の使者の護衛であるサキムニを呼び寄せてしまった――永琳と輝夜に仇なしてしまった自分へ。

「ウドンゲ」

 穏やかな声音で、永琳が呼びかける。鈴仙は小さく首を振って、身構えた。
 どうする? 逃げるか? どこへ? ――月へ? ああ、だけどそのためには、永遠亭にある月の羽衣を回収しなければ、サキムニと、そうだ、サキムニはどこへ――。
 混乱する思考。身を震わせて、尻餅をつきそうになりながら、鈴仙は首を振る。
 そんな鈴仙に、永琳はゆっくりと歩み寄り――不意に気付いたように、手元を見下ろした。

「ああ……違うのよ、ウドンゲ」

 困ったように眉を寄せて、永琳は手にしていた弓矢を、足元に放り出した。
 ――――え?
 草の上に音をたてて転がった弓矢を、鈴仙はあっけにとられて見下ろす。
 永琳が武器を手放した――その意味を、鈴仙が悟る間もなく。

「おかえりなさい」

 両手が、鈴仙の方へ伸ばされて――そのまま鈴仙は、永琳に抱きしめられていた。
 目の前をふさぐ、永琳の柔らかい身体の感触。背中に回された優しい腕。
 え? え……え?
 鈴仙はますます混乱して、もがくこともできずに、惚けたようにだらりと両手を下げた。
 理解が追いつかなかった。永琳の行為の意味、その――ひどく優しい言葉の意味に。

「まったく――あまり心配をかけさせないで頂戴」

 鈴仙の髪を撫でながら、永琳はどこまでも優しく、その耳元で囁いた。

「お、師……」

 何も解らないまま、鈴仙はただ、その腕に捕らわれていた。


      ◇


「今度は、逃がしはしないからな」

 弾かれたように走り出しそうとしたサキムニの首根っこを捕まえ、呆れたように妹紅は言った。咄嗟にサキムニは振り返り、狂気の瞳を向けようとするが――その途端、目元をもう片方の手でふさがれてしまう。

「おっと、二度も同じ手に――いや、目には引っかからないぞ」

 妹紅の手に目をふさがれ、サキムニは呻いてもがくが、妹紅は手を放そうとはしない。
 相手の目をくらますには、視線を合わせなければいけない――それを封じられてしまっては、サキムニの目はこれ以上どうすることもできなかった。

「さあ、蓬莱の薬を渡すんだ。――あんなもの、ここにあっちゃいけない」
「嫌っ――」

 妹紅の手を掴んで、咄嗟にサキムニは叫んだ。妹紅が苛立たしげに唸る声が聞こえる。

「嫌でも渡してもらうぞ」
「渡さない! レイセンは――レイセンは死なせないんだからぁっ!」

 思わず叫んだ言葉に、一瞬、妹紅の手の力が緩んだ。目元を覆っていた手を強引に引きはがす。今度こそ、と妹紅の目を見据えようとした瞬間――そのまま地面に組み伏せられた。

「あぐっ――」
「……お前さん、あの薬を何だと思っているんだ?」

 サキムニの頭上から、冷たい声で妹紅が問う。背中を押さえつけられて、息苦しさに呻きながら、サキムニは唇を噛んで答えた。

「穢れを、払う、長生きの、薬――だから、レイセンに」
「……長生きの薬、か。間違っちゃいないが、あれはそんな生やさしいもんじゃない」

 妹紅の腕が、サキムニの首元に回された。喉が圧迫されて、呼吸が詰まる。
 ――殺されるのだろうか?
 その危機を、はじめて実感として受け止めて――サキムニは戦慄した。
 このまま、彼女が腕に力を込め続ければ、自分は死ぬ。
 嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ、怖い、怖い怖い怖い怖い怖い!

「死ぬのは、怖いか?」

 気付けば、両目から涙がぼろぼろとこぼれていた。サキムニは息苦しさに顔を真っ赤にして、涙と鼻水を垂れ流しながら、がくがくと頷く。

「そうか……私はとっくに、そんな感覚を忘れちまったよ」

 ひどく酷薄な言葉を吐き出して、妹紅はサキムニを羽交い締めにしたまま動かない。
 死が怖くない? これが地上なのか? 狂ってる。地上は狂ってる。こんな地上にいるから、レイセンは、レイセンが、死んでしまう、殺される――。

「死ねない苦しみは、死ねない者にしか解らない。だからこそ、余計なお節介なのかもしれないがな。――それでも私は、あの薬でこんな身体になる奴を増やしたくないんだ」

 妹紅の言葉の意味が、サキムニには理解できなかった。
 ただ、自分が殺されるかもしれない恐怖と、レイセンが暮らす地上の理への恐怖と、その狭間でサキムニは怯えて――。

「……そのぐらいで許してあげなさいな、もこたん」

 突然、妹紅の腕が解かれ、背中を押さえつけていた重みが消え去った。
 ぐったりとサキムニが振り返ると、妹紅が立ち上がり、凶悪な表情で身構えている。
 その視線の先を見やれば――月明かりの下、こちらへ歩み寄る影がひとつ。

「それに、その子の言ってることも、あながち間違ってないわ」
「――なんだと?」
「私や貴方が飲んだ完全な蓬莱の薬は、あのとき永琳が地上に残した分で全て。――そこのイナバが持っているのは、不完全な代用品よ。……って、永琳が言ってたわ」

 口元を袖口で隠しながら、笑みを浮かべて、黒髪の少女はそう言った。
 ――最初に妹紅に追われた夜、自分たちを助けてくれたあの少女だった。
 その姿は――どこかで――確か――。
 しかし、その正体を理解する前に、極度の緊張の解けたサキムニの意識は、静かに闇の中へ引きずり込まれていった。


      ◇


 甦るのは、永遠亭に転がり込んだ頃の記憶。
 迷いの竹林で行き倒れた自分は、てゐたちに発見され、永遠亭に担ぎ込まれたらしい。目を覚ますと、銀髪の女性が自分を見下ろしていた。――それが永琳だった。

『気分はどう?』

 身体を起こすと、彼女はそう問いかけた。所在なく周囲を見回して、それから顔を上げると、不意にひんやりした手が額に当てられた。――その手の感触が、ひどく心地よかった。

『貴方は、月の兎ね? ――月から逃げ出してきたの?』

 そう問われ、びくりと身を竦めた自分に、彼女は優しく微笑んだ。

『大丈夫よ。月から追っ手が来ても、ここなら見つからないわ』

 それから、彼女は奇妙な食べ物を差し出した。白く濁った液体に浮かぶ、白い何か。

『おかゆよ。大丈夫、毒でも何でもないわ』

 怯える自分に、彼女はそれをすくって差し出した。
 おそるおそる口に含むと、柔らかな熱が口の中から、身体へじわりと広がって。
 気が付けば、ぽろぽろと涙がこぼれていた。泣きながら、おかゆを掻き込むように食べた。
 そんな自分の背中を、彼女は優しくさすってくれていた。


 それから、彼女に自分のことを語った。月から逃げてきた理由を。
 つっかえつっかえ、決して上手くなかっただろう自分の話を、彼女はときおり確認を鋏ながら、辛抱強く聞いてくれた。
 全てを話し終えると、彼女は静かに私を見つめて、こう問うた。

『月に帰りたい?』

 自分はそれに――わからない、と答えた。
 その答えをどう思ったのか、彼女は何も言わなかった。そうして、『今はゆっくりお休みなさい』とだけ言って、部屋を出て行った。
 ひとり残された自分は、枕に顔を埋めて、――月のことを思い出して、少し泣いた。


 結局、自分はそのまま永遠亭に居着くことになった。
 月に帰るのかどうか、決められないままの自分を、永琳は永遠亭に居させてくれた。
 兵隊としての訓練もなければ、依姫にどやされることも、サキムニに探し回られることもない。代わりに、永琳の手伝いを命じられて、働くようになった。
 薬の研究をしているという永琳の手伝いをするのは、慣れないことばかりで大変だったけれど、苦ではなかった。少なくとも、兵隊としての訓練よりはずっと。
 地上の兎たち、特にそのリーダーであるてゐには騙され、からかわれ。自分のことも地上の兎と全く区別しようとしない、この屋敷のお姫様、輝夜がときおり言い出す突拍子もないことに振り回されたりする――そんな日常に、次第に順応していく自分が居た。
 永琳たちが何者なのかは気になったけれど、藪蛇になりそうな気がして、問うことはしなかった。――そうしていつしか、この永遠亭が自分の居場所なのだと。ここにしか自分の行き場はもう無いのだと、そう思うようになっていた。
 永琳を師匠と呼ぶようになったのも、その頃だ。――自分が、今の名前を貰ったのも。


 そうだ、あれもこんな満月の夜だった。
 そのとき自分は、縁側でぼんやりと月を見上げていた。ずっと暮らしていた月が、サキムニたちや依姫たちの存在が、気が付けば随分遠くなったような気がしていた。
 永琳にこき使われ、てゐや輝夜に振り回されるうちに、月でのことを考えることが、少しずつ減っていった。そのことを、月を見ながら思っていた。
 ――ほら、自分はこんなに薄情なのだ。
 自嘲するように、そう心の中だけで呟いて、月から視線を外したとき。

『……帰りたい?』

 いつの間にかそこにいた永琳が、またそう問いかけた。
 静かに自分を見つめるその視線に、ゆっくり自分は、首を横に振った。
 ――もう、帰れない。今更どの面を下げて月に帰れるというのか。

『そう』

 永琳はそう呟いて、自分の傍らに腰を下ろした。

『レイセン。――地上で生きるなら、貴方にそのための名前を与えましょう』

 目を見開いた自分に、永琳はひとつ小首を傾げて『そうね』と鼻を鳴らして。

『優曇華院』
『……うどんげ?』
『三千年に一度咲く花の名前よ。――鈴仙・優曇華院。これね。貴方の新しい名前は』
『は……はあ』

 正直に言って、奇妙な名前だと思った。うどんげいん――なんだかおかしな響き。

『あら、永琳。イナバとどうしたの?』

 そこへ、輝夜が姿を現した。永琳が振り返って、『この子に名前をあげたのよ』と言った。

『名前? 兎なんだからイナバでいいじゃない』

 何が面白いのか、笑みを漏らしながらそう言った輝夜に、永琳は苦笑して。

『――そうね、じゃあ輝夜の案も入れましょう。鈴仙・優曇華院・イナバ。どう?』

 長い名前だと思った。長い上に、変な名前。
 それが自分の名前だというのが、ひどく不思議な感じがした。
 なんだかくすぐったくて、《うどんげ》という響きがおかしくて――気付けば、自分は笑みをこぼしていた。なぜだか――ただ、明確な理由もないまま笑っていた。
 そんな自分の姿に、永琳と輝夜は顔を見合わせて、目を細めていた。


      ◇


「……お師匠、様」

 追憶の中の永琳に、初めてそう呼びかけたときのように、鈴仙はそう口にしていた。
 こわばっていた身体から、力が抜けた。泣き出しそうになって、ぐっと唇を噛んで堪えた。
 今、自分を抱きしめている腕は、紛れもなく八意永琳のものだった。
 ――月から逃げてきた自分を、永遠亭に招き入れ、居場所と名前を与え、――いろんなものを自分にくれた師匠の、厳しいけれど、優しい腕だった。

「私の言葉が足りなくて、貴方を困らせてしまったのね」
「え――」
「ごめんなさい、ウドンゲ」

 耳元で囁かれる言葉に、――ああ、どうして、と鈴仙はうなだれた。
 どうして自分は、お師匠様を怖れて、疑って、逃げ出したりしたのだろう。
 どうして、自分を救ってくれたこの人を、信じることができなかったのだろう――。
 馬鹿だ。大馬鹿だ。なんで逃げた。なんで傷ついたサキムニをお師匠様に預けられなかった。そうしていれば、こんなことにはならなかったはずなのに。

「お友達はどこかしら? 大丈夫、貴方の友達は私たちの大切な客人よ」

 はっと、鈴仙は顔を上げた。そうだ、サキムニは。サキムニはどこへいったのだ?
 視線を巡らす。微かな風にざわめく竹林の中に、桃色の髪をした兎の姿はない。

「サキ――」

 その名前を呼んで――はっと、鈴仙はその場に立ち尽くした。

『このまま地上にいたら――レイセンが、死んじゃうから』

 あれから何度も頭の中を反響した言葉が、また脳裏に甦る。
 そうだ。地上の穢れ。自分の寿命。永琳がそれを黙っていたこと――それは。

「はぐれたの? あの剣士の子も」

 永琳の声。――妖夢。そうだ、妖夢もどこへ行ったのだろう。妖夢と――サキムニと、それから――あのとき、自分たちの目の前に立ちはだかったてゐは――、
 ぐるぐると思考が巡り、鈴仙は顔を覆って呻いた。
 たとえ永琳が自分の、サキムニの敵でないのだとしても――その事実だけに安住するには、自分のしでかしたことの代償は、あまりに大きすぎたのだ。
 だとしたら、自分は――。

「ウドンゲ」

 肩を叩かれて、鈴仙は身をこわばらせて振り返る。
 また怯えた顔を見せた鈴仙に、永琳は眉間に皺を寄せて首を傾げた。

「ウドンゲ?」

 ゆっくりと、後じさるように永琳から離れて、鈴仙は顔を伏せた。
 話を、しなければいけないのだ。
 ずっと逃げ続けた自分。何もかもから目を背けて、ただ安寧だけを求めて逃避を続けていた自分。――だけど、その逃避の先にあるのが結局、この騒動であるのなら。
 どこまでも、逃げられはしないのだ。

「……お師匠様。私は」

 顔を上げて、永琳の顔を見つめた。
 吹き抜けた風に、永琳の長い、銀色の三つ編みが揺れている。

「私は……死ぬんですか」

 その言葉に、永琳は微かに目を見開いて。
 ――ただ、静かに頷いた。








      2


 闇に覆い尽くされた、迷いの竹林の中。
 脇目もふらず、依姫はその中をまっすぐに走り続けていた。腕には、苦しげに呻くキュウを抱いて。妖夢はただ、シャッカとともにその後を必死で追いかけるしかできない。
 藍との戦いで重傷を負ったキュウを救うため、依姫に求められて、妖夢は迷いの竹林まで依姫たちを案内した。しかし、竹林の中は未だに妖夢でも迷う。藤原妹紅を探そうとした妖夢に、依姫は構うことなく、キュウを抱いたまま竹林の中に進んでいった。一分の迷いもなく。
 依姫の後をついていくと、いつもは平衡感覚を狂わせ果てしなく続くかのように思える竹林が、まるで自ら道を示すかのように開けていく気がした。
 この竹林は、心の迷いをそのまま映し出すのかもしれない。――今の依姫に迷いなどあろうはずもなかった。ただ腕の中、息も絶え絶えな部下の兎を救うため、張りつめた糸のような表情でまっすぐ歩いていく。
 ああ、と妖夢はその背中を、揺れるポニーテールを見ながら思う。
 彼女が、鈴仙のかつての主なら。この穢れに満ちた地上から、鈴仙を救い出すためにここにやってきたのだとしたら。――自分に何が言える?
 何も言えるはずはない。その力も、太刀筋も、意志も、あるいは鈴仙と過ごした時間さえも――あまりに、自分とは差がありすぎる。かなうべくもない。
 背中の鞘に納められた、折れた楼観剣。
 それこそがただ、今の妖夢そのものだった。

「――あっ」

 隣で小さな悲鳴。足を止め振り返れば、妖夢と並んで依姫の後ろを走っていたシャッカが、何かに躓いたのかその場に転んでいた。「シャッカ」と依姫が声をあげるが、その手はキュウの身体で埋まっている。

「……大丈夫?」

 妖夢はかがんで、シャッカに手をさしのべた。けれどシャッカは、きつく妖夢を睨み据えると、自力で立ち上がって依姫に向かって頷く。依姫はそれを確かめてまた走り出し、妖夢もあわててそれを追った。
 ――そうか、自分は彼女たちの敵だ。
 キュウに重傷を負わせた藍。それを庇ったのだから、シャッカにしてみれば仇敵に違いない。彼女たちは、鈴仙のかつての友達なのに。自分も、鈴仙の友達であったはずなのに――どうして、こうなってしまうのだろう?
 嘆いたところで、どうにかなるわけでもなかった。
 ――鈴仙。
 名前を呼びたかった。その横顔を見たかった。またあんな風に、笑いかけてほしかった。
 こんな弱い自分に、その資格があるのか、と自問して、妖夢は目を伏せる。
 鈴仙を守りたい、と思った。
 その覚悟を、因幡てゐに問われた。
 ――結果は、折れた楼観剣が全てだった。


 不意に、依姫が足を止めた。ぶつかりそうになり、つんのめるように妖夢とシャッカは立ち止まる。

「依姫様?」

 声をあげるシャッカに構わず、依姫はその身を微かに強ばらせて、周囲を見回した。

「月の使者は、永遠亭には近づけさせない――ってのが、お師匠様との契約なんだけどねえ」

 ざざざ、と竹林がざわめく。そのざわめきに乗って、聞き覚えのある声が響いた。
 竹林の薄闇の中、小柄な影が姿を現す。因幡てゐだった。

「お前は――」

 依姫の長身を見上げて、てゐは目を細めた。それから、その腕の中で呻くキュウを見やって、「参ったね」と頭を掻く。

「急患となりゃ話は別だわ。こちとら地上の、そちとら月のとはいえ、同じ兎にゃ違いないしねえ。ま、今はお師匠様も昔ほどピリピリしてないから問題ないか」

 ひとり、そう頷いて、てゐは依姫を前に、臆せず笑った。

「ようこそ、永遠亭へ。――八意様がお待ちかねだよ」

 てゐの言葉に、依姫がその目を見開いた。


      ◇


 気を失ったサキムニの身体を離して、妹紅は眉を寄せ、目の前の輝夜を睨む。輝夜は相変わらず悠然と、微笑んだまま妹紅を見据えていた。

「代用品?」
「私もあまり詳しいことは知らないのだけどね。私や貴方が飲んだ蓬莱の薬は、私の力がなければ作れない。そしてその子は月の兎。永琳が完全な蓬莱の薬を月に残して来なかったのだから、私と永琳が地上にいる以上、その子の持っているのは偽物。単純な理屈だわ」
「――何が違うっていうんだ」
「さあ。そのへんは永琳に聞いて頂戴」

 輝夜はさらりとそう言って、呆気にとられる妹紅の眼前、倒れたサキムニに歩み寄ると、そのポケットをまさぐり――小瓶を取り出した。透明な液体の詰まったそれは、月光を受けてきらりと煌めいている。

「飲んでみる? もこたん」
「……誰が飲むか、そんなもの」

 吐き捨てるように妹紅は言った。輝夜は小瓶を懐にしまうと、あくまで優雅に笑う。

「さてと。もこたん、その子を運んでもらえない?」
「なんで私が――」
「濡れ衣で痛めつけた責任ぐらいとりなさいな。それとも、このなよ竹のかぐや姫の細腕に任せようと? もこたんったら情けないわねえ」
「言ってろ」

 ため息をついて、妹紅はサキムニの身体をかつぎ上げる。月の兎の身体はひどく軽かった。

「さて、行きましょうか、もこたん。――永琳がお待ちかねよ」


      ◇


「どうして――」

 肯定されたことに、今更ショックはなかった。やはり自分は死ぬのだ。この地上にいる限り。それ自体はもう、実感を伴わずとも、半ば諦めのように鈴仙は受け止めていた。ただ――。

「どうして、何も言ってくれなかったんですか」

 そう、全てはそれに尽きるのだ。
 自分が、輝夜の術によって穢れから隔離され、生き延びることができたのだとして。あのとき人間たちに永遠亭が発見され、輝夜の術が解けたこと自体は不可抗力だとしても、なぜ――そのことを教えてくれなかったのか。
 地上の穢れが、自分を蝕むなら。せめて、自分自身のことぐらいは――。

「どうして、私が死ぬことを――」
「生きるものは、必ず死ぬのよ。ウドンゲ」

 静かな言葉だった。決して怒鳴りつけるような声ではなかった。けれど、気圧されたように、鈴仙は声を詰まらせた。

「それは罪でも、罰でもない。……貴方は生きて、死ぬことができる。貴方は変わることができる。それはただ、当然の理なのよ」
「――――」

 だから、だからといって。だけど、でも――。
 反駁の言葉は、しかし形を成さず、口の中で空回る。

「……ウドンゲ。私は、貴方を――」


 風がざわめいた。
 竹林がさざめき、闇の中、複数の足音が近づく。
 永琳が、弓矢を拾い上げて振り返った。
 差し込む月光が――その影を、照らし出した。


「八意……様」
「――依姫」

 てゐに導かれて現れたのは、傷ついた兎を抱えて歩く、長身の少女。それは、鈴仙にもあまりにも馴染みのある顔で。――その腕に抱かれた兎もまた。

「依姫、様……キュウ!」

 苦しげに呻くその兎が、かつての友人であることに気付いて、鈴仙は悲鳴のように叫んだ。キュウが、微かにその目を開けて、「……レイ、セン……?」と呼んだ。

「シャッカ――」

 依姫の背後から、眼鏡をかけた兎の姿が現れる。レンズの向こうから、厳しくこちらを見据える視線もまた、記憶に残るものそのままで。

「……鈴仙」

 そして、もうひとり。

「妖、夢」

 どこか泣き出しそうな顔をして、魂魄妖夢が、鈴仙を見つめた。
 鈴仙は――どんな顔をしていいか解らず、ただ顔を伏せて。

「あらあら、なんだかぞろぞろと――何事?」

 そこへ、さらに別の方角から現れる影。

「輝夜」

 永琳が、愛おしむようにその名前を呼んだ。

「サキ……!」

 鈴仙が、もうひとりの影の背中に負ぶわれた姿に、その名前を短く叫んだ。
 蓬莱山輝夜は、傍らにサキムニを負ぶった藤原妹紅を連れて――永琳と鈴仙、そして依姫たちの姿に、ただきょとんと、童女のように首を傾げた。


 蓬莱の罪人、八意永琳、蓬莱山輝夜、藤原妹紅。
 月の民、綿月依姫。兎、サキムニ、キュウ、シャッカ。
 永遠亭の兎、因幡てゐと鈴仙・優曇華院・イナバ。
 そして、魂魄妖夢。
 ――偽りの満月の下、月と地上に分かたれた因縁の当事者たちが、まるで導かれるように、一堂に会していた。








      3


 月の海は、ただ静かに凪いでいた。
 鏡のような水面を見下ろして、博麗霊夢はただ、徒労感にため息をつく。
 その徒労感は、今ここにいることではなく、いつぞやのロケット騒ぎのことだ。

「――こんなに簡単に来られるなら、わざわざあんな騒ぎする必要なかったじゃない」

 傍らに佇む、自分をここに導いた妖怪を睨んで、霊夢は言う。その言葉を受け流すように、八雲紫は口元を扇子に隠したまま笑った。

「あら、言うほど簡単ではないのよ。月の民に気付かれぬよう、満月にしか通じない道を、虚実の境界を曲げて偽りの満月に繋げるのは」

 そんなことを言われたところで、スキマ妖怪の苦労など霊夢には知ったことではない。
 結局自分はいつだって、幻想郷を愛しているというわりには異変に対して面倒くさがって動かない、この賢者の尻ぬぐいをさせられているだけなのかもしれない。霊夢はふとそう思う。

「まあ、何でもいいけど。どうせあんたの考えていることなんて解らないし、別に解りたくもないし。……まあ、正直ここにはもう来たくなかったけど」
「じゃあ、どうして着いてきてくれたのかしら」
「無理矢理連行したのはあんたじゃないの」

 はあ、と再びのため息は、泡のように静かの海に消える。

「で? あんたは私に何をさせようっていうの」
「――貴方が月の使者とやりあった話、実に愉快だったわ、霊夢」
「依姫と?」
「私が教えなくても、貴方が自分でそこに至ってくれたから、ね」

 紫の曖昧な言葉に、霊夢はひとつ眉を寄せ、依姫とやりあったときのことを思い返す。あのとき、咲夜、魔理沙、レミリアを圧倒した依姫に、自分がとった策――。
 まさか、と霊夢は顔を上げた。見上げた紫の顔は、ただ微笑のまま。
 ――紫が自分に神霊の力の修行をさせたのは、ロケットを飛ばすための住吉三神の力を手に入れるためだと、霊夢はそう思っていた。――月に行くだけが目的ならばそれでいい。だが、月に行って何かを為すのが目的であるなら、住吉三神は手段に過ぎない。
 月面戦争。紫の企み。依姫との戦い。――あのとき霊夢のとった手段。

「あんた――まさか、本命は大禍津日神だったっていうの?」

 霊夢の言葉を肯定も否定もせず、紫はただ笑っていた。


      ◇


「あ、危ないですよ、豊姫様」
「しーっ。誰か私を探しに来ても、上手くごまかしてね」

 綿月邸を囲む塀の上から、心配そうにこちらを見上げるレイセンに、豊姫はひとつウインクして、それからひらりと塀の外へ飛び降りた。
 依姫から、留守中はなるべく出歩かないようにと頼まれているけれど、何日も家の中に閉じこもっていたら気詰まりで仕方ない。正面から出ようとすると門番がうるさいし、こうして裏の塀を乗り越えて外に出るしか無いのである。

「まったく、依姫ったら心配性なんだから」

 見回りの姿が無いのを確かめて、豊姫は歩き出す。昨年のあの騒動が一段落し、地上から来た巫女を送り返してからは――酒を盗まれたりはしたが、おおむね月の都は平穏である。サキムニの脱走の件は、依姫は内々で処理するつもりのようで、地上に出ていることは今現在のところ内密だ。だからその件で誰かに問い詰められる心配もない。それなら少しぐらい散歩したところで何も問題はないだろう。
 あの地上の妖怪、八雲紫の動向は気になるが、先の騒動からは昨日の今日と言っていいほどの時間しか経っていない。前回が千年ぶりかそこらだったことを考えても、そうそう性急に何事か仕掛けてくることはおそらくあるまい。あるとしても、地上の依姫にちょっかいをかけるぐらいだろう。――それなら、依姫が負ける心配はない。そう考える程度には、豊姫は妹の強さを信頼していた。
 まあ、万が一の場合は、自分の力で地上の軍勢を返り討ちにするなり、あるいは依姫を強引に連れ帰るなり、いろいろとやりようはある。
 そんなことを考えながら、豊姫はぶらぶらと月の都の中を歩く。
 すれ違うのは、酒を飲み、歌を歌い、将棋を指し、享楽的に過ごす兎たち。遠くからは餅をつく兎たちの、やる気に欠ける歌声が聞こえてくる。
 月の都は今日も平和で、何も変わらない時間が流れている。
 昨日と同じ今日。今日と同じ明日。永遠のように続く月の時間。

「あっと」

 ぱたぱたと駆ける兎の一匹と肩がぶつかった。豊姫が振り返ると、ぶつかった兎はびくりと怯えたような目でこちらを見上げる。豊姫は微笑んで、「大丈夫? ごめんなさいね」と小脇に抱えていた桃をひとつ差し出した。
 兎は桃を受け取って、ぼんやりとした表情で桃と豊姫の顔を見比べると、ぺこりと頭を下げて走り去っていった。その背中を見送って、豊姫はひとつ息を吐く。

「……昔のレイセンみたいねえ」

 その茫漠とした表情、おどおどした態度に、ふと豊姫はその顔を思い出した。
 依姫が、何を考えているか解らない、と言っていた、サボり魔の問題児。
 もし地上であの子が今も生きているなら――今のあの子はどんな顔をして過ごしているのだろう。もっと笑うようになっただろうか? それとも――。

「――こんなこと考えるから、異端児扱いなのよね、私たちも」

 綿月家は、月で最も地上に近い家。
 今はもう、地上のことなどほとんど忘れ去った月の都で、地上を見守り、地上と月を繋ぐ使者の役割を与えられた異端の姉妹。――それが自分と依姫だ。
 月人のお偉方から、地上の穢れに近い連中、と軽んじられるのには慣れている。
 前回の騒動でいろいろ疑われたのも、そう考えれば仕方ないのだ。

「八意様……」

 一年前、その暗躍が噂されたかつての師のことを思う。月を捨て地上に逃げた彼女を。
 依姫は今、あの人に会っているのだろうか。
 そうしたら――あの人が月を捨てた理由も、聞けているのだろうか。
 豊姫は目を細めて、道ばたに佇む樹を見上げた。葉も花も実もない、みすぼらしい樹。それは地上の穢れに咲くと言われる優曇華の樹だと、いつか師が言っていた。
 そこに花は無い。まだ月の都に、穢れは持ち込まれていない。
 豊姫は視線を落とし、小さく肩を竦めて、また歩き出す。
 ――優曇華の樹は今はまだ、道ばたに沈黙を保っている。








      4


 永遠亭の一室、普段はほとんど使われない、入院患者用の部屋。
 久々に敷かれた布団の上に、安らいだキュウの寝息が響いている。

「これで、大丈夫。多少跡は残るかもしれないけれど、大事には至らないわ」

 包帯の巻かれたその姿を見下ろして、永琳が目を細めた。
 その言葉に、「……良かった」と依姫は、ただ深く深く安堵の息を吐き出した。
 キュウの短い髪をそっと撫でて、ごめんなさい、と依姫は呟く。ごめんなさい、貴方を守れない、情けないご主人様で。ごめんなさい、貴方を巻き込んでしまって。ごめんなさい――。

「……キュウ、キュウぅ」

 ふと傍らを見やると、シャッカが安堵でか、ぽろぽろと涙をこぼしていた。キュウに一番なついていたシャッカだ、緊張の糸が切れたのだろう。依姫がそっとその肩を抱き寄せると、シャッカはしがみついて、身体を震わせて嗚咽をあげた。
 ――この涙が、安堵の涙であって良かった。依姫は心からそう思う。
 シャッカの背中をさすっていると、ふと永琳の視線に気付く。振り返れば、永琳はどこか穏やかな眼差しで、静かに依姫を見つめていた。

「月の使者のリーダーにまで出世したとは、聞いていたけれど」

 薬と包帯をしまいながら、永琳はふっと笑みを漏らす。

「――貴方はあまり変わっていないわね、依姫」
「そう、でしょうか」
「ええ、全く、私の知る頃の貴方のまま」

 薬箱の蓋を閉じて、面白がるような顔を向ける永琳に、依姫は、む、と小さく唸った。

「誰よりも強がりで、誰よりも身内思いで、――誰よりも優しい」
「――――」
「そんな貴方だからこそ、月の使者のリーダーとなったのでしょう」
「……八意様」

 むしろ、その視線こそ、言葉こそ、月の賢者として、自分たちの師として月にいた頃の彼女よりも、随分優しくなったのではないか――と、ふと依姫は思った。月にいた頃の永琳は、もっと冷徹で厳しかった。こんな微笑みを向けてくれたことなど、どれほどあったか――。

「あとは、安静にしておくことね」

 永琳が立ち上がった。その姿を視線で追って、はっと依姫は我に返る。
 ――八意永琳は、月からの逃亡者。
 自分はそれを追う、月の使者。それが表向きの、自分たちの立場だ。
 無論、依姫に永琳を捕まえる気はない。永琳が逃亡者となる原因となったカグヤ姫に関しては依姫は何の恩義も無いが、永琳が彼女を守るというなら、永琳の意志を尊重するつもりではある。もちろん最善は永琳が月に戻ってくれることなのだが――。
 それから、レイセンだ。レイセンが今、永琳の配下にいるなら、サキムニの件と合わせて、永琳とは話し合っておかなければならない。
 出来ることなら、永琳が月を捨てた真の理由についても。
 そして――もうひとつの、依姫の懸念についても。

「あの――」
「解っているわ、依姫」

 依姫の言葉に、こちらに背を向けて、永琳は固い声で答えた。

「落ち着いたら、私の部屋へいらっしゃい」
「――解りました」

 そのまま襖の向こうに消えていく永琳の姿を、依姫はただ、黙して見送るしかなかった。


      ◇


 同時刻、永遠亭の別室。

「……まあ、だいたい話は解った」
「物わかりが良くて助かるわ、もこたん」

 あぐらをかいた妹紅の前、輝夜は楽しげに笑った。妹紅はため息をひとつ吐き出す。
 自分がサキムニを追いかけていたのは、あの蓬莱の薬を回収し処分するためだった。あれが地上に存在してしまっては、自分のような身になってしまう者を生み出してしまうかもしれない。永遠に生きる苦しみを知る者として、それは避けなければならなかった。今はある程度割り切っているとはいえ、ここに至るまでの千年以上の苦しみは今も、妹紅の精神に深く刻み込まれている。
 その蓬莱の薬は、今は永琳が回収していた。――元々、地上にあの薬を残していったのは輝夜と永琳だったのだから、正直なところそれで安心しているわけではない。不完全な代用品だという言葉も、どこまで信用していいか、だ。
 ともかく。

「寿命のない月から、地上に来たことで、長くは生きられなくなった鈴仙を助けるために、あの兎はここに来た。蓬莱の薬を持って……そういう話だったな」
「ええ」
「月の民は皆不老不死か。――そいつは、理想郷の顔をした地獄だな」

 吐き捨てるように妹紅は言った。誰も死なない、何も変化しない世界。そんなものがあるとすれば、それは全てが停止しているのと同じことだ。
 そんなものは、理想郷などではあり得ない。
 何も始まらない、何も終わらない、永遠の中だるみ。
 そんな停滞した世界で、誰が正気を保てるというのだろう?

「――お前らは、そんな地獄に、あいつを送り返すのか?」

 妹紅は目を細めて、輝夜を見つめる。輝夜はゆるゆると首を振った。

「鈴仙が帰るかどうかは、少なくとも私が決めることではないわ」

 それに、と輝夜はひとつ首を傾げる。

「月の都も、決して完全な永遠ではないわ。――私は今の身体になったおかげで地上に落とされたけれど、よく考えてごらんなさいな、もこたん。月の民が皆不老不死なら、蓬莱の薬なんて元々必要無いでしょう?」
「……そうだな」

 思わず目をしばたたかせて、妹紅はうなずいた。言われてみればその通りだ。不老不死の者が、不老不死になる薬を作るなんて、全くおかしな話である。

「月の都はただ、時間が引き延ばされている――穢れの薄いだけの場所だって、永琳が言ってたわ。元々月人も地上の民だったんだから、当たり前と言えば当たり前よね。月は寿命が無いのではなく、無いと錯覚するほど皆長生きなだけなのよ」

 ごろり、と妹紅はその場に寝転んだ。天井を見上げて、それから目を閉じる。

「それなら、あとは当人の問題か。……死を奪われない限りは、誰だって死にたくはないわな」

 諦観のように、そう呟く。――死ねない苦しみは、死ねない者にしか解らないのだ。
 自分ならどうだろう、とふと妹紅は考える。自分が不死で無い場合、長生きのできる土地と、そう長くは生きられない土地。どちらを選ぶか――不死の苦しみを知らない、普通の人間ならば、迷わず前者を選ぶだろう。だが、
 ――私の場合、答えはひとつだな、と妹紅は小さく苦笑した。
 そして、自嘲の吐息を、心の中だけで深く吐き出す。
 サキムニから蓬莱の薬を回収しようとした理由は――本当に、自分のような者をそれ以上生み出さないため、それだけか? それ以外の理由はなかったか?
 ――瞼の裏に浮かぶのは、いつも自分を優しく見つめる彼女の笑顔で。
 あれだけ永遠に苦しんでも、大切なものが永遠であって欲しいと願ってしまうのは。
 それは――業なのか? それともただの愚かさなのか?

「ねえ、もこたん」
「何だよ」

 ふと、こちらに輝夜がにじり寄る気配があって、妹紅は瞼を開けた。
 こちらを見下ろす輝夜の視線は、どこか戸惑いの気配を孕んでいる。

「永琳がさっき、言っていたのだけれど」

 躊躇するように一度言葉を切って、そうして輝夜は、首を傾げながら口にした。

「貴方も私も、完全な永遠でないとしたら」
「――――なんだって?」

 妹紅は思わず身を起こした。耳を疑った。――自分が、完全な永遠の命ではない?

「須臾もまた時間でしかない――永琳は、そう言ったわ」

 輝夜の言葉に、妹紅は目をしばたたかせた。


      ◇


 鈴仙・優曇華院・イナバの自室。
 サキムニが布団で寝息を立てているのを、鈴仙がただ黙して見下ろしている。
 それを、襖の隙間から妖夢はただ見つめていることしかできなかった。
 サキムニを見つめる鈴仙の横顔に滲む憂い。それは鈴仙が、妖夢の隣を歩いているとき、ふと立ち止まって空を見上げたとき、垣間見せるもので。知りたいと願った、その憂いを断ちたいと思った。――そして真実は今、妖夢の手の届くところにあるのに。
 折れた剣では、何も斬れないのだ。
 ため息をかみ殺して、妖夢はそっと襖を閉じた。依姫たちを永遠亭に案内するという役目は既に果たした。他に、自分に今、誰かのために何かができるのか?
 廊下の床板を軋ませて、妖夢は唇を噛みしめたまま歩く。――鈴仙がこの地上で長く生きられないなら、鈴仙を救えるのは誰だ? 彼女の故郷である月の民だ。――綿月依姫だ。
 どうあがいても自分は、地上の民でしかないのだ。

「……あら」

 声。妖夢はぼんやりと顔を上げる。眼前に、こちらを見下ろす影。――八意永琳がいた。
 足を止め、永琳の顔を見上げて、妖夢は拳を握りしめる。
 ――自分は何のために、永遠亭に来ようとしていたのだったか。
 そうだ、彼女に問いただすためだった。サキムニの言葉が真実なのか。鈴仙の身体は本当に、地上の穢れに蝕まれているのか。――それを確かめて、それで、

「貴方が、依姫たちをここに案内してくれたそうね」

 ふと、ひどく穏やかに微笑んで、永琳はそう言った。妖夢は目を見開く。

「ありがとう。――おかげで、あの子の泣き顔を見ずに済んだわ」

 それだけ言い残し、永琳は妖夢の傍らを通り過ぎようとする。
 咄嗟に、無意識のうちに、妖夢は声をあげていた。

「あの――」

 永琳が足を止め、振り返る。妖夢はその顔を見上げて、もう一度拳を握りしめた。
 何のためにここまで来た、魂魄妖夢。せめて、真実は自分で見定めろ。

「鈴仙は、地上では、長く生きられないというのは……本当、ですか」

 どんな答えを自分は望んでいたのだろう、と妖夢は思う。
 鈴仙が地上で生きられるなら――そうすれば、自分は、鈴仙の隣にいられる?
 本当にそうか? 自分に本当に、そんなことを望むだけの――。

「……月にいるよりも、という意味でなら、その通りよ」

 息を飲んだ。こちらを見下ろす永琳の視線はひどく透明で、どんな感情も読み取れない。

「それならっ、それなら――鈴仙は、鈴仙は月に――」

 何を馬鹿なことを言おうとしているのだ、と妖夢の思考のどこかが声をあげる。
 そんなことは、かつて月にいた者であり、医者でもある永琳が、一番よく解っていることではないか。その永琳が、鈴仙を今まで地上に置き続けていた。月に帰そうとしなかった。意味もなく? ――そんなはずはない。相応の理由があるはずではないか。
 それは善意からか? 悪意からか? ――鈴仙の主は、鈴仙が師匠と慕う八意永琳は、己の都合に鈴仙を巻き込んで、悪意を持って見殺しにするような者か?
 ――そんなはずは、ない。
 だったら、自分は何と戦うつもりでいたのだろう?
 言葉を詰まらせた妖夢に、永琳は何も答えなかった。
 沈黙の落ちた廊下で、妖夢はただ、見つからない言葉を探して――。

「……妖夢?」

 襖の開く音がした。廊下の向こうから、姿を現す影があった。

「鈴、仙……」

 その顔を正面から見ることができなくて、妖夢は視線を落とす。

「お師匠、様」
「――ウドンゲ。私はこれから、依姫と話をするわ。あとで、私の部屋へいらっしゃい」
「は、はい」

 永琳はそれだけ言い残して、その場を去っていく。後には、妖夢と鈴仙だけが残された。
 妖夢は、その顔を見つめることができない。何もできることなど無いのだ。
 鈴仙もまた、ただ言葉を探すように、視線を彷徨わせながら黙して。
 そうして、どれだけ間抜けに突っ立って、向き合っていたのだろう。

「――あのね、鈴仙」

 顔を上げたのは、口を開いたのは、妖夢だった。
 自分は無力だ。刃にも、盾にも、傘にもなれない、ただの道化だった。
 そんな道化は、――舞台から、さっさと身を引くべきなのだ。

「私は……私は、鈴仙が、好きだよ」

 鈴仙が弾かれたように顔を上げた。妖夢はその赤い瞳を見つめて、ひきつるように笑った。

「鈴仙に、笑ってほしかった。鈴仙の隣にいたかった。鈴仙の友達として、鈴仙を守りたかったんだ。――鈴仙の、そばにいたかったんだ」
「妖、夢」
「だけど、私じゃ、鈴仙を守れないんだ。鈴仙がどれだけ苦しんでいても――私には何もできないんだ。私は、私は、鈴仙を助けられないんだ」

 鈴仙が首を振った。力なく、首を横に振った。
 妖夢は目を閉じた。そうしないと、こみあげてくるものを堪えられそうになかった。

「――ごめん、なさい」

 何に対する謝罪なのか、自分でも解らないまま、妖夢はそう言い残して、踵を返す。
 妖夢、と背後で鈴仙の声がした。耳をふさぎたかった。振り向いてしまったら、堪えたものが溢れてしまいそうだったから、振り向かずに妖夢は駆けだした。――鈴仙の足音は、追いかけてはこなかった。
 追いかけてきて欲しかったのだろうか?
 鈴仙に、優しい言葉をかけてほしかったのだろうか?
 ――それで何が、変わるわけでもないのに。自分の無力が変わるはずもないのに――。
 靴を履くのも忘れたまま、玄関を飛び出して、永遠亭の門をくぐり――竹林の中で立ち止まって、妖夢は頭上を仰いだ。鬱蒼と夜空を覆い隠す竹林が、ざわざわと風にざわめいている。
 その隙間から、ひどくまばゆく輝く月。
 手を伸ばした。その手は、月に届くはずもなかった。

「――――――ッ!!」

 胸の中で暴れる、行き場の無い感情のままに――妖夢は、近くの竹を殴りつけて、吠えた。


      ◇


 走り去っていく妖夢の背中を、鈴仙はただ見送ることしかできなかった。
 ――妖夢が謝ることなんて、何ひとつ無いのに。
 全ては自分の弱さと、臆病さが産んだ喜劇でしかないのに。
 自分はいつだってそうだ。自分のせいで、たくさん、周りのひとたちを傷つけてきた。
 サキムニも、妖夢も。――そして今、別室で治療を受けていたはずのキュウや、シャッカも。
 全部、自分のせいだ。自分が悪いのだ。
 何もかもから逃げ続けている自分が――。

「……レイセン」

 懐かしい声がした。ひどく低く、這うような重い声に、鈴仙は振り向いた。
 いつの間にかそこに、見覚えのある眼鏡と黒髪の兎が立っていた。

「シャッカ――」

 眼鏡の奥、赤い瞳をきつく細めて、シャッカは鈴仙を睨み付ける。

「何か、言うことはないの」

 その声に――ああ、と鈴仙は、どこか安堵している自分に気付いていた。

「キュウも、サキも、貴方のためにこんな目に遭ったんだよ! レイセン!」

 鈴仙に詰め寄って、シャッカは叫ぶ。――そうだ、その通りだ。鈴仙は目を閉じる。
 全部自分のせいなのだ。自分さえいなければ――寿命のままに、既に地上で死んでしまっていれば、こんなことにはならなかった。そう、何もかもが間違いだったのだ。あのとき、歴史の止まった永遠亭に転がり込んだことも――月から逃げ出したこと、そこから全てが。

「黙ってないで何とか言いなさいよっ、レイセン――」
「――止めなさい、シャッカ」

 鈴仙につかみかかろうとしたシャッカを、その背後から捕まえる影があった。
 瞼を開けば、こちらを見下ろす――懐かしい影がある。

「依姫、様……」

 綿月依姫は、感情の読み取れない顔で、ただ鈴仙を見下ろしている。

「離してくださいっ、依姫様――」
「シャッカ。貴方の気持ちはわかりますが――レイセンを責めても仕方ありません。まして私たちは、レイセンを断罪するためにここに来たわけではないのですから」
「でも――でも、キュウが、キュウが、」
「……あたしなら大丈夫だよ、シャッカ」

 割り込んだ声に、その場にいた全員が弾かれたように振り向く。
 襖のひとつが開いて、そこから包帯だらけの姿で、キュウが顔を覗かせていた。

「キュウ! だめ、まだ動いたら――」
「へいき、へいき。少し、楽になったから……」

 シャッカの悲鳴に、力なく笑って、キュウはよろめくように歩き出し――そのまま、前のめりに倒れ込んだ。慌てて依姫が、その身体を支える。
 すみません、とキュウはばつが悪そうに笑って、そして顔を上げた。鈴仙を、見つめた。

「……や、レイセン。久しぶり。元気そうじゃん」

 そうして、まるで昔のように、軽く手を上げて、そう笑った。

「なんだ、地上でも、相変わらずそんな辛気くさい顔してんの? だめだめ、レイセン、あんたはもっと笑わなきゃ。楽しかったら笑う、悲しかったら泣く、むかついたら怒る、そうやって自分の気持ちはっきりさせなきゃ――楽しくないじゃん、さ」
「……キュウ」

 息を飲んだ鈴仙の前、キュウはただ、どこまでも優しく笑っていた。

「ねえ、レイセン。――あたしが今、なんで笑ってるか、わかる? いや、まあ、正直わりとしんどいんだけどさ。できれば怪我人らしく、ぐったり死にそうな顔してたいぐらいなんだけどさ、けどあたし、今笑ってるんだよ。笑えてるんだよ。なんでだと思う?」

 息を切らせながら、キュウは言いつのる。
 解らない。――そんなの、解るはずもない。
 ゆるゆると首を横に振った鈴仙に、キュウは「馬鹿だなあ」と苦笑した。

「そんなの、決まってるじゃん。――あんたにまた会えたのが、嬉しいんだよ」
「――――――――」

 そこで力尽きたように、キュウはぐったりとうなだれた。シャッカが泣き出しそうな顔でその身体を支える。「ごめん、だいじょぶ、だいじょぶ」とシャッカの髪を撫でるキュウは、それでもやっぱり笑っていて。
 ただ立ち尽くすしかできない鈴仙に、――依姫が、一歩、歩み寄った。

「レイセン」

 びくりと身を竦めて、鈴仙は顔を上げた。
 いつか、訓練をサボっていたのが見つかったときのように、眉間に深い皺を寄せて、依姫は鈴仙を見下ろしていた。

「正直なところ、貴方に言いたいことは山ほどあります。――が」

 ふぅ、とため息のようにひとつ鼻を鳴らして、依姫は。

「――先に、私が貴方に謝らなければいけないことがあります」
「え――」
「貴方が地上に逃げ出したと解ったとき、私はすぐにでも、貴方を連れ戻すべきだった。地上に下りてしまえば、貴方が長く生きられないだろうことは解っていたから。――けれど、月の使者という立場に縛られて、私は貴方を助けに行けなかった」
「依、姫、様」
「自分の役割と、貴方を天秤にかけて、私は貴方を見殺しにした。貴方を助けることを諦めた。それは、貴方を見捨てた、主としての私の罪。――ごめんなさい、レイセン」

 そうして、依姫は深く、鈴仙に頭を下げた。
 あの依姫が――自分に、謝っている。何を? どうして?
 混乱したまま、鈴仙はただ、おろおろと視線を彷徨わせて。

「レイセン」

 依姫が、ゆっくりと顔を上げる。腕を伸ばす。その腕の中に、鈴仙の身体は包まれる。

「――貴方が生きていてくれて、本当に、良かった」

 髪を撫でられて、かけられた言葉は、どこまでも優しかった。


 どうして。
 自分が悪いのに。何もかも自分のせいでしかないのに。
 自分は――許されていいはずがないのに。
 どうしてみんな――そんなに、優しいの。
 どうして、自分を、そんなに、そんなに――。


 堪えきれなかった。依姫の腕の中で、その胸にすがりついて、鈴仙は泣き崩れた。
 小さく震える兎の身体を、依姫はただ、きつく抱きしめて、背中をさすり続けていた。







      5


「言っておくけどね、私はテロの片棒を担ぐ気なんかないわよ」

 月の海を超え、陸地に至ったところで、霊夢は地面に降り立つと、前を飛ぶ紫の背中にそう声をかけた。険しく眉を寄せながら。
 ここで依姫と戦ったとき、霊夢が対抗策として用いた力――大禍津日神。その溜めこんた厄災を弾幕として、霊夢は依姫にぶつけた。穢れを持ち込まれることを極端に嫌う月人の弱点、それを突く形で。

「あら、月の使者との戦いで大禍津日神の厄災をぶつけるのは、月へのテロではないの?」
「所詮は弾幕ごっこ、お遊びでの話でしょ。向こうが降参してたら自分で祓ったわよ」
「実際は負けたけれど?」
「うっさい」

 ふん、と鼻を鳴らす霊夢に、紫は口元を扇子に隠して静かに微笑む。

「大丈夫よ、霊夢。私だって、テロを起こそうなんて気はないわ」
「レミリアをそそのかして月を侵略させようとした黒幕が、どの口で言うのよ」
「あら――あんなひよっこに、月の侵略なんてできるはずがないじゃない」

 可笑しそうに笑う紫に、霊夢はただため息をつく。

「……あんたはいったい、何がしたいのよ?」

 霊夢は問う。無為な問いだとは解っていても。
 このスキマ妖怪が本当のことなど、決して口にしないのだということは解っていても。
 ――それなのに。

「そうね……」

 不意に紫は、空を見上げた。月の夜空にも、地上と同じように星が瞬いている。
 紫が何かを呟いた。その声はあまりに微かで、霊夢の耳には届かない。

「紫?」
「約束したのよ」

 不意に、紫はそう口にした。――どこか、紫らしからぬ、あどけない声で。

「約束?」
「大切な約束。決して違えてはいけない誓約。――私が彼女のそばにいるための言葉」
「……紫?」

 霊夢は眉を寄せた。――誰だ、これは。今目の前にいるのは、誰だ?
 紫ではない。そこにいるのは、霊夢の知る、八雲紫という得体の知れない妖怪ではない。
 空を見上げているのは、迷子のように立ち尽くした少女だ。

「貴方がどこで迷っても、私が必ず、貴方を連れて帰るからって」

 紫は振り返った。――その顔は、確かに八雲紫のそれだったはずなのに。
 霊夢の目には、彼女の顔が、見知らぬ少女のように、見えた。

「――約束したの」

 静かの海は、ただ凪いでいる。
 生きるものの気配のない、闇と静寂の中に――猫のような笑みを浮かべて、紫は目を細めた。







      6


「失礼します」

 その声とともに、静かに襖が開く。永琳は入ってきた影に顔を上げ、自分の向かいの座布団を指し示した。来訪者――綿月依姫は、静かにその座布団に腰を下ろす。
 ひとつ息を吐いて、永琳は正面から、かつての弟子の顔を見つめた。
 厳しく引き締められた、月の使者のリーダーとしての、綿月依姫の顔。
 まだあどけなかった頃の面影をそれに重ねて、永琳は微かに微笑んだ。

「鈴仙は落ち着いた?」
「……はい、今はサキムニのところに」
「そう」

 頷いた永琳に、依姫は深く頭を下げる。

「八意様。――あの子のこと、本当に感謝しています」
「いいのよ。貴方たちのペットと知って拾ったわけではないし。――手の掛かる子だしね」
「……そうですね」

 苦笑し合い、しかし依姫はすぐに、また表情を引き締める。

「――八意様」
「そう急くものではないわ。――話すべきことは沢山ある。順繰りに片付けましょう」
 そこで、襖の向こうから「お師匠様」と声。永琳が応えると、てゐがお盆に湯飲みと茶菓子を載せて現れる。永琳は「あら」と笑った。
「貴方がお茶を持ってきてくれるなんて珍しい」
「鈴仙があれだからねえ。ま、この分はつけにしとくよ、鈴仙へのね」

 にっと笑って、ぱたぱたとてゐは去っていく。その背中を見送って、いつもより少し味の薄いお茶を啜り――「さて」と永琳は顔を上げた。

「今回の件、裏で八雲紫が動いていることは、ほぼ間違いないわ」

 窓の外、偽りの満月を見上げて、永琳は呟く。――自分の仕掛けた罠は既に破られている。となれば今、おそらく紫は月にいるのだろう。

「八雲紫の目的は、月の都の守護者である貴方を、この幻想郷に留めておくことでしょうね。おそらくは、古酒を盗むことではない――真の目的を果たすために」

 音をたてて、依姫が立ち上がる。その険しい顔を見上げて、永琳は――笑った。

「落ち着きなさい、依姫」
「しかし、八意様――」
「大丈夫よ。前回の件で確信したことがあるわ。――八雲紫の目的は、少なくとも、月の都の侵略ではない」
「侵略では、ない?」
「だからお座りなさい。月の都には豊姫がいるのでしょう。万一のことがあってもあの子が何とかしてくれるわ」

 釈然としない顔で、依姫は座り直す。「お茶が冷めるわよ」と永琳が言うと、こちらの顔と湯飲みを数度見比べて、そっと口をつけ――「美味しい」と、依姫は小さく呟いた。

「一年前、八雲紫は地上の妖怪をそそのかして、ロケットで月に向かわせ、貴方と戦わせた。その間隙をついて、自ら月に乗り込もうとしたのを、私の仕掛けた罠で防ぎ、豊姫が彼女を降参させた。――そのはずが、結果的に貴方たちの家から貴重な古酒が盗まれた。おそらくは八雲紫の手引きした協力者によって。それが、前回の件の全貌」
「……はい」
「この回りくどい上に、八雲紫に益の少ない策の意味は何か。ずっと考えていたのだけれど、貴方がここに来て、ようやく解ったわ」

 お茶菓子をひとつかじって、永琳は息を吐いた。

「前回の件は――八雲紫の意思表明だったのよ。彼女の真の目的についての」
「……意思表明?」

 首を傾げる依姫に、永琳は頷く。

「考えてごらんなさい。古酒が盗まれたということは、私の仕掛けた罠はあのとき既に、彼女に破られていた。八雲紫はそれを見破った上で、あえて自分が囮になった。――さあ、これはなぜ? 古酒を盗んだ協力者を、ロケットに乗った妖怪たちと同じく囮にすれば、彼女自身が悠々と、貴方も豊姫もいない月の都に乗り込むことができたのに。たとえそれが私の目をごまかすためだとしても――彼女の能力を考えれば、馬鹿正直に自分自身が囮にならずに済む方法なんていくらでもあったはずだわ。それこそ、偽物を仕立てるなりなんなり、ね」
「――――――」
「八雲紫の最終目的が月の都の侵略ならば、一年前にそれは為しえたはずだった。貴方も豊姫もいない、全くの無防備である月の都に進入するという最大のチャンスを、彼女は敢えて逃して、月の都にはなんら危害を加えず、古酒だけを盗んでいった。――その行為に意味があるとすれば、彼女は私や貴方たちに、こう伝えたかったのだと思うわ。……自分の目的は、月の都にある《何か》を、平和裏に手に入れることだ、と。侵略の意志はない、と」
「――しかし、だからといって、見逃すわけには」
「月には豊姫がいるわ。――貴方をここに留めたとはいえ、豊姫がいることを承知の上で八雲紫が月に向かったなら、彼女の手に入れたいものは豊姫との交渉が必要なのでしょう。それならば、豊姫が適切に対処してくれるはずだわ。彼女の手に入れたいものがなんであれ、与えることで彼女が月から手を引くならそれでよし。与えられぬものなら――地上の民は月の民には敵わない。そうでしょう?」
「……解りました」

 唇を噛んで、依姫は俯く。結果的に、自分が月を離れた間隙を突かれたことを悔やんでいるのだろう。生真面目な依姫らしいが、この状況はやむを得まい。鈴仙を一度、半ば見捨てるようにしている依姫が、二度も部下を見捨てられるはずがないのだ。

「そういうわけだから、月のことは豊姫に任せて。――私たちは、私たちの話をしましょう」

 飲み終えた湯飲みを置いて切り出した営林に、依姫は顔を上げ、向き直る。
 自分たちの話。――それは、サキムニと、鈴仙と、そして永琳と輝夜のこと。

「依姫、遠慮せずに答えて。――貴方の目的と望みは?」

 ごくり、と一度唾を飲んで、依姫はゆっくりと口を開く。

「目的は、サキムニの捜索と救助です。――付随して、レイセンの捜索もするつもりでした」
「あら、私の捜索はいいの?」
「――それは、その」
「冗談よ。さて、サキムニと鈴仙、そして私はここにいる。貴方はどうするの?」
「サキムニは、連れて帰ります。――レイセンも、……叶うならば、連れ帰りたいと思います。地上の暮らしは、穢れに耐性のないあの子たちの寿命を縮める。――そうではありませんか、八意様」
「……ええ、そうね」
「もちろん、レイセンがどうしてもここに居たいというなら――それは仕方ありませんが。ですが、私としてはやはり、あの子をこの穢れた地上に置いていくのは――」

 そこまで口にして、はっと依姫は口をつぐんだ。今目の前にいるが、既に地上の民となった永琳であるということを思い出したのだろう。永琳はただ目を細める。

「――八意様」

 首を振って、依姫はこちらの目を、正面から覗き込んだ。

「なぜ、八意様は月を捨てられたのですか。なぜ地上で生きることを選ばれたのですか」

 ――そう、全てはそこに集約されるのだ、と永琳は思う。
 自分が月を捨てた理由。使者たちを皆殺しにしてまで輝夜と逃げ続けることを選んだ、本当の理由。――いずれは話さなければいけないこと。

「……少し、長い話になるわ」

 永琳は座布団から立ち上がり、窓のそばに歩み寄った。
 八雲紫の仕掛けた、偽りの月。そのまぶしすぎる光に、永琳は手をかざして。

「依姫。穢れとは何か、貴方には解る?」
「――え?」

 不意を打たれたように、依姫は目をしばたたかせた。

「穢れとは……生命の理、です」
「そう、ね。――ではなぜ、完全な蓬莱の薬を飲むことは禁忌なのか、解る?」
「そ、それは……飲むと穢れを生じるからと、聞きました」
「あら、不思議ね。月人は穢れを嫌って、穢れのない月に移り住み、永遠に近い寿命を手に入れた。それならば、完全な不老不死となる蓬莱の薬は、生命の理――穢れからの完全なる脱却に他ならない。それは月人の宿願であるはず。禁忌となる理由などどこにもないわ」
「――それは、いや、ではなぜ、カグヤ姫は」

 混乱する依姫を見下ろして、永琳は小さく息を吐く。――やはり真実は全て伏せられたままか。当たり前だ。自分と輝夜は、月にとっては許されざる罪人でなければならないのだ。
 自分たちは、月の民の本当の罪を覆い隠すための、スケープゴートに過ぎない。無論、月の使者を皆殺しにした自分の罪が、それで消える訳ではないにせよ。

「誤解しないでね、依姫。――私は月の都を、月の民を恨んでいるわけではない。私の復讐すべき相手は、既にこの世に亡い。千三百年前のあの日、私がこの手で殺したから」
「八意様?」
「私が憎むのは、ただ――あの忌まわしい計画に手を貸した、己の愚かさだけよ」

 窓枠を強く握りしめて、永琳はただ、その忌まわしい記憶を辿る。
 己の本当の罪。輝夜にすら語っていない、《竹取物語》の真実を。


      ◇


 ――月の都は、限りなく穢れの薄い場所であり、穢れの全く無い場所ではない――ということは、貴方も知っているでしょう。そもそも月の民は、穢れを嫌って月に移り住んだ地上の者。自ら持ち込んでしまった原初の穢れの存在は、月の民にとって最大の難題だったわ。
 原初の穢れを消し去る計画。私はそのプロジェクトチームの一員として、難題に挑んだわ。月の都が、月の民が完全なる永遠を手に入れるため。それが正しいことと疑わなかった。

 完全なる不老不死の薬を作るため、試行錯誤を続ける日々の中で、私は考えたわ。そもそも、永遠とは何か。無限とは何か。――それは即ち《ゼロ》であるという結論に、私は至った。始まらなければ、終わらない。生きていなければ死ぬことはない。生きるということが《変化》であるならば、その全てを拒絶する《不変》――それこそが永遠であると。
 しかし、《ゼロ》という概念は実にして虚。《存在しない》という概念を、私たち月の民という実存に共存させるという矛盾を乗り越える術を、私は見つけられなかった。――そんなときに、私は輝夜の持つ力を知ったの。須臾を視、須臾を操る彼女の力を。
 須臾とは、限りなくゼロに近い、限りなく静止に近いほんの刹那の時間。しかし、それは虚ではなく、コンマのあとに限りなくゼロの連なる一だった。実存だった。それならば、作ることができる。限りなくゼロに等しい須臾に肉体を固定する薬を。
 そう、それが嫦娥や輝夜の飲んだ、完全なる蓬莱の薬。

 輝夜の力を知り、私はそれを作れるという確信を得た。それをプロジェクトの会議で報告した。――報告してしまった。そのとき、あの忌まわしい計画が始まってしまったの。
 私と輝夜の力で、作り出すことのできる蓬莱の薬。それが真に、月の都が求める《永遠》であるのか――それを確かめるための、地上での人体実験。
 被験者は二名。――そう、それが嫦娥と輝夜。
 嫦娥と輝夜は、罪人でも何でもない。永遠に目がくらんだ月の民の愚かさが生み出した、何も知らない犠牲者なのよ。

 輝夜は知らないわ。自分が人体実験の被験者だったことなんて。おそらく嫦娥も同じ。
 自分が蓬莱の薬を望んだから、私が作ったのだと、輝夜は思っているはず。
 ――その計画は《奔月計画》と呼ばれたわ。人体実験であることを隠すため、計画は周到に進められたわ。まず、蓬莱の薬というものが存在し、それを飲むことは禁忌である、禁忌を犯せば地上へ落とされる、というありもしない事実を、それとなく流布し始めた。同時に、被験者である嫦娥と輝夜に、それぞれの世話役――輝夜の場合は私だけれど、その世話役によって、ふたりが地上に興味を示すように仕向けられた。
 そう、あのふたりが自発的に蓬莱の薬を求めた、という形にするために、ね。

 私は――それでも自分の正しさを疑わなかったわ。永遠を手に入れることは月の民の宿願。それを疑うことなんて考えられなかった。何も知らず、私に仕向けられるままに地上に興味を持ち、蓬莱の薬の話を聞く輝夜を、哀れに思ったけれど――仕方のないことだと思っていた。そう思い込もうとしていた。
 だけど。――ああ、だけど。
 輝夜が計画通りに蓬莱の薬を求め、私がそれを完成させた。完全なる蓬莱の薬を。
 それを、先に飲まされたのは嫦娥だったわ。もちろん、嫦娥自身が求めたという形で。
 計画が成功であるかの確認は二段階に分けて行われたわ。まずは《不死》の確認。そのために、嫦娥はありとあらゆる手段で、何度も殺されたわ。何度殺されても、須臾に固定された肉体は復活し、そしてまた殺される――私たちは殺し続けた。何度も、何度も、何度も。
 ええ、狂気だわ。――そしてあるとき、私はその狂気から覚めてしまった。
 十数回殺され、精神の摩耗しきった嫦娥が、私の前でふっと笑ったの。ひどく虚ろな笑みで。
 そのとき――私は気付いた。輝夜が同じように蓬莱の薬を飲めば、また同じことが繰り返される。輝夜が何度も殺される。精神が摩耗しきるまで、何度も、何度も、何度も。
 輝夜が私に向ける笑顔が、瞼に浮かんだわ。
 そうしたらもう――私は、耐えられなかった。何としても、輝夜が蓬莱の薬を飲むことだけは阻止しなければいけないと悟った。輝夜にこんな顔をさせるわけにはいかないと――。
 ……だけれど、遅かった。気付いたときには遅すぎた。
 そのときにはもう、輝夜もまた、蓬莱の薬を飲んでしまっていたの。

 ――ごめんなさい。それはあまり、思い出したくない記憶だわ。
 何度も殺され続ける輝夜を、私はどうすることもできなかった。
 動き出してしまった計画は、私ひとりの力では止めることなどできなかった。
 どうして自分がこんな目に遭うのか理解できないまま、私に手を伸ばして泣き叫ぶ輝夜から、私は必死に目をそらし、輝夜が私の名前を呼ぶのから耳をふさぐしかなかった。
 これが、こんなものが、月の望むことなのか。
 私は初めて、自分たちの目指すものに疑問を持った。あまりにも遅すぎたのだけれど、

 計画の第二段階、《不老》の確認のために、嫦娥と輝夜は地上へ落とされた。穢れに満ちた地上でも、彼女たちが《不変》であり続けられるならば、計画は成功になる。月の民は完全なる永遠を手に入れる。
 ――だけどそのときには、私はもう、それが失敗することは解っていたわ。
 なぜなら、須臾は限りなくゼロに近い時間であっても、ゼロではない。
 どれほど短くとも、それは確かに時間であって、完全なる不変ではないの。
 だから輝夜も、嫦娥も――そして、私も。……ああ、言っていなかったわね。私も、輝夜と逃げ出したときに蓬莱の薬を飲んだのよ。だから今は、私も輝夜と同じ罪人。そして、限りなく完全に近い、不完全な永遠の者。

 輝夜と嫦娥が地上に落とされるとき、私はひとつの薬を作ったわ。
 それは、記憶を消す薬。実験のために何度も殺された記憶を、ふたりから消し去るため。そして自分が月の民であることを一時的に忘れさせるための薬。
 その薬を飲んで、月の民である記憶を失って地上に落とされた嫦娥と輝夜の暮らしを、私は月から見守っていたわ。表向きは《奔月計画》のため。本心は、己の悔恨から。
 私の予想した通り、ふたりは肉体的には不死であっても――精神が穢れの影響を受けていた。嫦娥は地上で出会った者のことを深く愛していた。輝夜は求婚を全てはねつけてはいたけれど、自分を拾って育ててくれた人間の夫婦への恩義に囚われはじめていた。穢れた地上の民に囚われるような精神は、月の民の求める《永遠》にはほど遠かったのよ。

 計画が失敗とわかると、プロジェクトはそのまま、ふたりを罪人として地上に放置する方針を選択しようとした。当然ね、ふたりは既に穢れに囚われているのだから。だけどそれには、私が反対した。生命の理から外れたにもかかわらず、ふたりの精神を蝕んだ穢れの正体を見極めなければいけない、と。
 私たち《奔月計画》のメンバーは、地上へ降り、まず嫦娥を連れ戻したわ。嫦娥の方が穢れの影響を強く受けているようだったから。
 連れ戻された嫦娥は、あまりに多くの穢れを受けていたため、月の都の奥深くに幽閉された。幽閉された嫦娥は、ただただ、地上に残してきたものを想って泣き続けていたわ。
 その嫦娥の姿に、私は理解したわ。――穢れの本質を。

 そう、穢れとは、生命の理そのものではない。
 その理に囚われた精神を蝕む、執着心。
 いずれ失われると解っているものを惜しむ心。失われるからこそ愛しく想う心。
 そして、いつか失われるという現実に抗おうとする心。
 それこそが穢れ。有限を愛おしむ心こそが、精神を有限に縛り付ける鎖なのよ。

 もう解ったでしょう。
 サキムニの持ってきた、私が月に製法を残していった不完全な蓬莱の薬。――それは即ち、私が嫦娥と輝夜に飲ませた記憶消去の薬なの。
 嫦娥は今も、それを飲まされ続けている。それこそが彼女の贖罪とされているもの。
 地上で愛したものの記憶を完全に封じてしまうために、彼女は記憶を消され続けている。
 けれど、強すぎる想いは、穢れとなって嫦娥を縛り、彼女は抗い続けているの。
 自分が、愛したひとのことを忘れてしまうことを。
 どれだけ、蓬莱の薬を飲まされても、彼女はどこかに大切なものの名を書き記して、その記憶を留めようと、今も戦い続けている。――彼女が今も幽閉されているなら、そのはずよ。

 ――ええ、依姫。貴方の考えている通り。
 だから私は、あのとき、月の使者を殺したの。
 輝夜を何十回と殺し、地上へ落とし、見捨てようとした、《奔月計画》のメンバーたちを。
 復讐。――いいえ、私もその一員だったのだから、ただの八つ当たりかもしれない。
 だけど私は、せめて輝夜だけは救いたかった。
 月へ連れ戻しても、輝夜は嫦娥同様に薬漬けにされて幽閉されるか、そうでなくとも、罪人とされてしまった輝夜に月で生きる場所は無い。
 だから――私は逃げ出したの。輝夜を連れて、この幻想郷へ。
 何も知らない輝夜から、全てを奪ってしまった私が。
 せめて――輝夜の望むもの全てを、これから私の生涯をかけて、与えるために。
 不死となった輝夜と寄り添うために、私自身も不死の身となって。

 ……依姫。貴方は私に、月へ戻ってほしい?
 ごめんなさい。今の私が月へ戻ったら、きっと嫦娥と同じ薬漬けの幽閉だわ。
 だって私は、愛してしまっているもの。
 既に地上の民となった、私のお姫様を。――輝夜を。
 だから私は、月へは戻れない。戻る気もない。
 私は、輝夜のそばにいる。この不完全な永遠が、須臾の積み重ねがいつか終わるまで。
 ――そう、永遠に、ね。


      ◇


 永琳の告白を、依姫は身じろぎもせず、ただ黙して聞いていた。
 言葉を途切れさせた永琳は、深く息を吐き出して、依姫に向き直る。
 何か、ひとつ肩の荷が下りた気がした。輝夜も知らない、誰にも打ち明けたことのない真実。いずれは打ち明けることになるとしても、――輝夜に話す前に、依姫に話してしまえたことで、踏ん切りがついたと、永琳は思った。
 自分は、この地上で生きていく。この永遠が終わるまで。
 そう――自分も輝夜も、不完全な永遠でしかないから、穢れからは逃れられない。
 輝夜を、大切なものを、愛おしく思ってしまう――この心からは。

「……八意様。だとすれば、私もまた穢れに囚われているのでしょうか」

 微かに震えた声で、依姫はそう問うた。
 永琳は目を細め――そして、静かに頷いた。

「貴方は、月で最も地上に近い者。――それは、そういう意味よ」

 そう。依姫はあまりに優しかった。月の民としては、あまりに優しすぎた。
 兎の一匹一匹まで目を配り、心を砕き、逃げ出せば地上まで追いかける。危険が迫れば全力で守る。怪我でもすれば血相を変えて心配する。死んでしまおうものなら――深く悔やみ、悲しみ、二度とそのようなことは繰り返さないよう必死になる。
 それは、月の民が怖れた穢れと、何も変わらない。
 大切なものを愛おしむ心に、他ならない。

「――だけど、そうでなければ、守護者としての月の使者は務まらない。月の都という場所を、そこに暮らす者たちを愛せる者でなければ。――だからこそ、原初の穢れからは、月は決して逃れられないのよ」

 依姫はうつむき、膝の上に置いた拳をぎゅっと握りしめる。

「……さて、依姫。長い前振りだったわ」

 はっと顔を上げた依姫に、永琳はひとつ微笑む。

「私は帰らない。輝夜もね。――だけど、鈴仙はまだ地上の穢れに触れて日が浅い。たまたまだけれど、数十年、穢れから隔離する格好になっていたしね。……今ならまだ、鈴仙は月に戻れるわ。あの子は揺れている。帰るべきか、残るべきか。――揺れているということは、まだ穢れに囚われきっていないということ」
「八意様……」
「ちょっと、普段から厳しくしすぎたかしらね。……私は肝心なところであの子に信じてもらえなかった。でもそれは、あの子にとってはむしろ良かったのかもしれない」

 そう、ずっと鈴仙は揺れ続けていた。月と地上の狭間で。
 あの永夜異変のとき、鈴仙を地上に留めたのは自分たちだ。
 その贖いは、そろそろ為すべきなのかもしれなかった。

「依姫。――鈴仙を、連れて帰る?」

 永琳の言葉に、依姫はただ――血がにじみそうなほどに強く、拳を握りしめた。
 鈴仙を、月に連れて帰るということに伴う事実を、悟ったのだろう。
 ――やはりこの子は優しすぎると、永琳は愛おしむように、依姫を見つめた。







      7


「お、目が覚めたか」

 サキムニが目を開けて、最初に目に入ったのは長い銀色の髪だった。
 目をしばたたかせて、身体を起こす。なんだか身体の節々が痛い。おまけに、自分がいるのは見慣れない部屋だった。そうして、自分の布団の傍らに、銀色の――、

「ひっ!?」

 その顔を認識して、サキムニは悲鳴をあげてのけぞった。記憶が一気に甦る。そうだ、自分はレイセンとはぐれて、ひとりでいたところを彼女に襲われて、それで――。

「いや、すまん。いろいろ怖がらせたことは謝るから、そう怯えないでくれないか」

 藤原妹紅は苦笑混じりにそう言って、「ほら」と水の注がれた湯飲みを差し出した。
 今までと全く違う態度に、サキムニは目をしばたたかせて――それから慌てて、自分の服のポケットを探る。……無い。蓬莱の薬が無い。
 蒼白になった顔を悟られたか、妹紅が「ああ」と目を細めた。

「お前さんの持ってた薬なら、今は八意永琳のところだ」
「やご、ころ……え?」
「お前さん、月の兎だろう? 仲間じゃないのか?」
「――え、ええと、じゃあ、ここは」
「永遠亭。八意永琳の屋敷だ。――お前さんの友達の、鈴仙の家って言った方がいいか」
「レイセン――レイセンがいるの!?」

 息を飲んで、サキムニは身を乗り出す。「あ、ああ」と妹紅は頷いた。

「そのへんにいるだろ。お前が起きたぞって呼んでくるか?」
「……あ、いえ……今は、いい、です」

 はっと我に返って、サキムニは小さくうなだれた。湯飲みの水面に、自分の顔が映る。
 ――どんな顔をしてレイセンに会えばいいのか、もうよく解らなかった。
 目を閉じれば、レイセンの顔が瞼に浮かぶ。
 結局……自分は何をしにここに来たのだろう。
 レイセンを助けるためだ。穢れに満ちた地上から、レイセンを救うためだった。
 だけど――だけど。それは本当に、レイセンのためなのだろうか?
 レイセンは、自分たちよりも、この地上での友達と一緒にいる方が幸せなのではないか?
 ――ああ、とサキムニは小さく首を振った。
 そんなのは、レイセンが決めることだ。自分が決めることではないのだ。
 だとしたら、自分は。

「……あー、まあ、なんだ。その、すまなかった」

 と、突然、目の前の藤原妹紅が頭を下げて、サキムニは目をしばたたかせた。

「な、なに?」
「いや、お前さんの持ち込んだ薬だ。あれはてっきり、私の飲んだものと同じだと思ったんだが、どうも別物らしくてな。――誤解でお前さんを追いかけ回して痛めつけてしまった。そのことは本当にすまないと思ってる。この通りだ」
「いや、そんな、急に言われても――」

 深く頭を下げる妹紅に、サキムニは困惑して、ただ首を横に振る。
 妹紅はゆっくり顔を上げ、こちらを目を細めて見つめた。

「……それでだ、老婆心ながらひとつだけ、言わせてほしい」
「え?」
「お前さん、長生きの薬って言ったよな。――鈴仙を長生きさせたかったのか」

 妹紅の問いかけに、サキムニは小さく鼻を鳴らして、それから頷く。正確ではないが、確かに自分のしたかったことは、そういうことだ。

「別に、それが悪いわけじゃない。誰だって長生きしたいに決まってるからな。――でもな、長生きすること、それ自体は決して、幸福とは限らない。永く生きれば生きるだけ、幸福と同じだけ、不幸や悲しみもともにある。そのことから、目を逸らしちゃいけない」
「――――」
「もちろん、幸福なうちに早死にする方がいいってわけでもない。――大事なのは、生きることに伴う全てを、本人がどう受け入れて、折り合いをつけていくかだ。長生きをするのが、誰かにとって望むことか、幸福であるかは――本人にしか決められない。本人以外が決めちゃいけないんだ」

 どこか、自嘲するように、妹紅は笑った。サキムニは、何も答えられなかった。

「友達のことを大切に思う気持ちは立派だよ。長生きしてほしいと思う気持ちもわかる。よくわかる。――だがな」
「……レイセンが、どう生きるかは、レイセンが決めること」

 サキムニが呟いた言葉に、妹紅は目をしばたたかせて、ばつが悪そうに頬を掻いた。

「なんだ、解ってたか。こいつは失敬。今のは忘れてくれ」

 照れくさそうに妹紅は立ち上がって、襖に手を掛ける。そして、こちらを振り向いた。

「何が幸福かは、他人が決めることじゃない。――お前さんも、自分がどうすべきかは、自分で決めな。それで後悔したっていいんだ。自分で決めたことなら、いずれ受け入れられる」

 そうして、妹紅の姿は襖の向こうに消えていく。遠ざかる足音を聞きながら、サキムニは手の中の湯飲みをもう一度見下ろして――その中の水を、傾けた。
 ほどよく冷たい水は、渇いた喉に染み渡るようで、美味しかった。


      ◇


 今更永遠亭に戻ることも、しかし白玉楼に帰ることもできなかった。
 だから妖夢は、竹林の片隅で、ただ膝を抱えて座り込んでいた。
 ――結局のところ、鈴仙の事情に、自分の介在する余地なんて、最初から存在しなかったのだ。ただ自分はそこに巻き込まれた脇役でしかなかった。
 永琳。輝夜。てゐ。依姫。サキムニ。――鈴仙の月での仲間たち。
 自分などよりもずっと、鈴仙について多くを知る者がたくさんいて。
 生まれ故郷と、今の家と、鈴仙の居場所は、その二択でしかない。
 ――自分の隣が、そんな場所になれるなんて思った、どうしようもない自惚れ。
 家族の問題に、ただの友達が口を出せることなんて、あるはずもないのだ。

「……馬鹿だよね、私」

 だったら、それが解っているなら、自分は自分の家に帰ればいいのだ。
 白玉楼に戻って、いつも通りに、庭師として、主の傍らにいればいいのだ。
 ――だけど、そうしてしまえばもう、二度と鈴仙に会えなくなる気がして。
 自分は無力だ。だけど、無力を認めて諦めてしまうには――鈴仙・優曇華院・イナバという存在が、自分の中で大きくなりすぎてしまったのだ。
 だけどそれは大きすぎて、もう支えられない。
 見えない何かに押しつぶされてしまいそうで、妖夢はただぎゅっと縮こまり――。

「全く、本当に、大馬鹿だよ」

 不意に、声。妖夢は、ぼんやりと顔を上げる。
 月に照らされて、鈴仙ではない地上の兎が、座り込んだ妖夢を見下ろしている。

「……いや、少しは見所があるかと思った私こそ馬鹿だったね」

 因幡てゐはそう言って、やれやれと大げさに肩を竦めた。

「まあ、そういうところが鈴仙にはお似合いなのかもしれないけどさ」
「…………」
「そっくりだよ。あんたと鈴仙」

 逆光になって、こちらを見下ろすてゐの表情は、妖夢にはよく見えなかった。

「うじうじ悩んで、考え込んで、考えすぎてどつぼにはまる。ヘタレで臆病で、目の前にあるものにさえ手を伸ばすのを怖がって、――何も傷つけたくないなんて、間の抜けたこと考えてるから、身動きがとれなくなるのに、開き直ることもできやしない。なんやかんやと、勝手に自分で理由を作って、自分で自分を縛り付けて、目を背けてじっとしてれば周りが解決してくれると思ってる、甘ったれた腑抜け。――似たもの同士すぎて涙が出るね」
「――――――」

 辛辣な言葉に、だけど妖夢は返す言葉も無かった。――その通りだ、と思った。
 だけど今更、何ができるというのだろう。
 自分に――何が。

「周りがまた、そんなヘタレを甘やかすからつけあがる。お師匠様も、姫様も、鈴仙の昔の飼い主だってみんな同じさ。全く、どいつもこいつも、どうしてあんなヘタレのこと好きになるんだか。理解に苦しむよ」

 くるりと妖夢に背を向けて、てゐは月に向かって盛大にため息をついた。
 妖夢は、その月を一緒に見上げて――、

「……鈴仙は」

 気が付けば、口が勝手に動いていた。

「鈴仙は……優しいんだ」

 妖夢は、その場に立ち上がっていた。目の前のてゐへ向けて――いつの間にか、叫ぶように、声を上げていた。

「いつでも明るく笑ってて、誰かのために親身になれて、楽しいことを教えてくれて、私に、私に――色んなものを、くれたんだ。私の書いたものを、面白かったって言ってくれた。誰かとおしゃべりしながら一緒に歩く楽しさを教えてくれた。会える日を楽しみにする時間をくれた。――辛そうな、泣き出しそうな顔をしてるのを、笑わせたいって、その笑顔を守りたいって、ずっと――ずっと一緒にいたいって、そう思う気持ちをくれたんだ。私のことを――友達だって言ってくれたんだ。幽々子様じゃない誰かのことを、好きになる、大切だって思う、そんな気持ちを――教えてくれたんだ」

 声がかすれていた。両手が、両膝が――全身が震えていた。
 言葉にすればするほど、感情はあふれ出して、留まらなかった。
 鈴仙。鈴仙。鈴仙。――鈴仙が、好きだ。
 鈴仙が好きだ。魂魄妖夢は、鈴仙・優曇華院・イナバのことが好きなのだ、と。
 大好きな、大切な、かけがえのない、決して失いたくない――友達なのだ、と。
 肩を上下させて、言葉を途切れさせた妖夢に、しかし振り返らず、てゐは。

「――だったら、どうしてそれを、さっき言ってあげなかったのさ」
「――――――っ」

 ああ、そうだ。どうして逃げた。どうしてあのとき、鈴仙の前から逃げ出したのだ。
 こんなに、鈴仙が好きなのに。そのことすら、ちゃんと伝えられないで。
 このまま――鈴仙が月に帰ってしまっていいのか?

「ま、そんなのはあんたと鈴仙の問題だけどさ」

 そして、てゐは振り向く。風に竹林がざわめき、月の光が微かに陰った。

「魂魄妖夢。お師匠様が呼んでるよ。……鈴仙のことで、話があるってね」

 妖夢は、ただ息を飲んだ。


      ◇


 鈴仙が部屋に戻ると、布団の上でサキムニはもう身体を起こしていた。

「……サキ」
「あ……レイセン」

 サキムニはこちらを振り向いて微笑む。その手に見覚えのない湯飲みがあるのに気付いて、鈴仙は目をしばたたかせた。

「それ……」
「ああ、さっき、あの銀髪の人間さんが……すまなかった、って」

 銀髪の人間――咄嗟に妖夢の顔が浮かんで、違う、と慌てて鈴仙はかぶりを振った。銀髪の人間なら、もうひとり今永遠亭にいる。藤原妹紅だ。
 それ以上、かける言葉も思い浮かばず、鈴仙はただ布団の傍らの座布団に腰を下ろす。
 サキムニは湯飲みを傍らに置いて、ぐるりと部屋の中を見回した。

「ねえ、ここ、レイセンの部屋?」
「え? ……あ、う、うん」
「そっか。……こっちでも、相変わらず本読んでるんだね、レイセン」

 本棚に並ぶ背表紙を見やって、サキムニは目を細める。
 鈴仙は立ち上がり、その本棚の奥から、一冊の本を抜き出した。
 色あせた、古びた文庫本。――『小川未明童話集』。
 鈴仙がそれを差し出すと、不意にサキムニは泣き出しそうな顔をして、鈴仙を見上げる。

「やっぱり、まだ、それ、持ってたんだ」
「……うん」
「そっか……ごめんね。私、それ、なくしちゃった」

 小さくうなだれて、サキムニはそう呟く。――ああ、と鈴仙は悟った。やっぱりあれは、サキムニの落とし物だったのだ。霧雨書店にあった、サキムニの名前の記された同じ本は。

「サキ。……サキの本、私、見つけたよ」
「え?」
「人里の本屋さんにあったの。たぶん、サキが取りに行けば、返してもらえるから。……あとで、返してもらいに、行こう」

 鈴仙は、そう言って目を細めた。目の前のサキムニの目に、じわりと、雫が浮かんだ。

「――レイセン」

 両手を広げて、サキムニは鈴仙にしがみついた。震える身体を、どう受け止めて良いのかわからず、鈴仙はただ目を見開くしかできない。

「レイセンは……優しい、ね」

 耳元で囁かれる、サキムニの言葉に、鈴仙は息を飲んだ。
 その言葉はいつか――あのお月見の夜、妖夢がくれた言葉と、同じだった。
 ――違う。自分は、いつだって身勝手で、卑怯で、臆病で、
 そう否定しようとしても、自分を抱きしめるサキムニの腕が、それを許してくれない。

「……レイセンが月から逃げたの、どうしてだろうってずっと考えてた。地上との戦争の噂が怖くて逃げ出したんだって、みんな言ってた。……でも、きっと、違うんだよね」

 身体を離して、サキムニは鈴仙の赤い瞳を、まっすぐに見つめた。
 サキムニの赤い瞳に、鈴仙の顔が映っていた。

「レイセンは……戦争で自分が傷つくことが怖くて逃げ出したんじゃ、ないよね」
「――――」
「戦争になったら、みんなが目の前で傷つくのが怖かった。……違う?」

 へなへなと、鈴仙の身体から力が抜けた。
 ――自分でも、そんなことはよく解っていなかった。
 あの頃の月は、ただ怖かった。戦争の噂。不穏な空気。張り詰めた気配。ただ不安で、怖くて、何が怖いのかも解らないまま、自分は逃げ出していた。
 だから――違う、とも、正しい、とも、答えられるはずはない。
 だけど、でも――。

「ああ……ごめん。私、また、レイセンのこと、勝手に決めつけてる」

 ゆるゆると首を振って、そしてサキムニは、また鈴仙の肩に、その顔を預けた。
 どこか、泣き出しそうなのを堪えているように震えながら。

「レイセン。……ごめんね、私、勝手に来て、いっぱい迷惑かけた」
「そん、なこと――」
「レイセンの幸せとか、レイセンの暮らしとか、そういうの全然考えないで、ただレイセンが死んじゃうかもしれないっていうのが嫌で、ただレイセンを助けたくて――だけどそれは、私の勝手な自己満足だったんだよね。……レイセンにはレイセンの、今の居場所があって、暮らしがあって……月にいるより、永く生きられなくても、レイセンにとってどっちが大切かは、私が決めることじゃ、ないんだよね」
「――サキ」
「ねえ、レイセン。あの剣士の子……妖夢のこと、好き?」

 びくりと、鈴仙はその名前に身体を震わせた。――妖夢。妖夢のこと。
 妖夢。初めてできた、地上の友達。自分を友達と言ってくれた少女。
 隣に居たいと、笑っていてほしいと、そう言ってくれた、少女。
 ――瞼を閉じた。妖夢の顔が浮かんだ。
 照れ顔が。笑顔が。凛々しい横顔が。――泣き出しそうな顔が。

「私、私は……」
「……いいよ、レイセン。私はもう、何も言わないから。そりゃ、私はレイセンに永く生きてほしいし、月に帰ってきてほしいよ。月でまた、レイセンと一緒に、キュウやシャッカとわいわいやって過ごしたいよ。……でも、レイセンが本当に笑える場所が、月じゃないなら」

 ぎゅっと、背中に回された腕に、痛いほどの力がこもった。

「あとは、レイセンが決めて。――私は、レイセンに笑っていてほしいから」

 そう言って、サキムニはもう一度、鈴仙に向き直って、笑った。
 どこか痛々しいその笑みに、――鈴仙は、どんな言葉も、返せないまま。

「……レイセン、ここにいましたか」

 突然、部屋の襖が開いて、第三者の声が割り込んだ。
 ばっと身体を離して、ふたりは振り向き――現れた姿に、目を見開いた。

「よっ、依姫様!? なっ、ななな、なんでここに――」
「サキムニ。……貴方にはあとでゆっくり話したいことがあります」

 眉間に皺を寄せて、依姫はサキムニにそう言った。「はひ」とサキムニは身を縮こまらせる。
 そして依姫は、レイセンの方に向き直る。

「レイセン。八意様がお呼びです。……貴方のこれからについて」

 鈴仙は、その言葉に、ただ黙って頷くしかなかった。








      8


 そして、永琳の自室。

「いらっしゃい、ウドンゲ」
「……失礼します」

 依姫に連れられて姿を現した鈴仙は、所在なさげに俯いていた。
 永琳は依姫に目配せする。頷いて、依姫は部屋を後にした。

「お座りなさい」

 用意していた座布団を指し示すと、鈴仙は俯いたままそこに腰を下ろす。
 そして、もう一枚隣に置かれた座布団に目を留め、僅かに眉を寄せた。

「お師匠様、あの」

 顔を上げた鈴仙に、永琳はただ曖昧に笑って、襖の方を見やる。
 鈴仙がそちらを振り向いた、ちょうどそのとき――音もなく襖が開いた。

「――妖夢」

 姿を現したのは、てゐに連れられた妖夢だった。永琳が頷くと、てゐも肩を竦め去って行く。

「いらっしゃい、魂魄妖夢さん。――そちらへどうぞ」

 もう一枚の座布団を指し示すと、妖夢は困惑した表情で鈴仙と永琳を見比べ、それからおそるおそるといった様子で、座布団に腰を下ろす。
 不意に、妖夢と鈴仙の視線がかち合い――ふたりは気まずそうに目をそらした。
 そんな姿に、永琳は小さく唸る。さて、どうなることか。――いずれにしても、結局は全て、鈴仙の決めることではあるのだが。
 妖夢を同席させたことに、恣意があると言われれば、否定はできないにせよ。

「さて、鈴仙」

 永琳が呼びかけると、鈴仙はびくりと顔を上げた。

「それから、妖夢さん。――まず、謝罪します。今回の騒動を引き起こしたのは、ひとえにこちらの説明不足が原因。それは私の責任ですから。――ごめんなさい、鈴仙」
「お、お師匠様?」

 深く頭を下げた永琳に、鈴仙が困惑した声をあげる。
 顔を上げて、永琳はそれから、小瓶を取り出す。――サキムニが持ってきた、蓬莱の薬。

「鈴仙。……永遠亭の歴史が動き始めてから、貴方は確かに地上の穢れの影響を強く受け始めているわ。今すぐに、ということはないけれど、少なくとも月に居続けるよりは、貴方の寿命は遙かに短くなる。これはもう、抗えない事実」
「……はい」
「本当は、輝夜の術が解けたときに、きちんと話をしておくべきだったわね。……隠しておく気はなかったの。ただ……生きるものは全て死ぬ。それはこの世の理でしかない。それで貴方を過剰に怯えさせたくもなかった。……地上で生きる貴方を見ていたかったから」
「私、を?」
「優曇華院。私が貴方に与えた名前のままよ。――優曇華は地上の穢れに咲く花。穢れとは、《不変》を拒絶する《変化》の理。……貴方はその通りに変わっていった。ここに来たころより、よく笑い、よく怒るようになった。はじめは人里のお使いだって嫌がっていたのに、喜んで行って、素敵な友達まで作ってきた」

 目を細め、永琳は妖夢の方を見やった。妖夢は居心地悪そうに俯く。

「そんな貴方を見ているのが、楽しかった。貴方がこの地上で、どんな優曇華の花を咲かせるのか、見届けたかった。貴方をずっとそばに置いておきたかったの、鈴仙」
「……お師匠様」

 鈴仙の声が震える。永琳はその手元に、薬の小瓶を差し出した。不完全な、蓬莱の薬。

「だけど、貴方がどうしたいかは、貴方が決めること。――貴方の命も、生き方も、全て。医者なんてやってると、他人の生死を自分で左右するのが当たり前になっていけないわね」

 自嘲気味に永琳は笑って、その小瓶を、鈴仙の手の中に落とした。
 小瓶を見下ろして、鈴仙は不思議そうに顔を上げる。

「お師匠様、これは……」
「それは、不完全な蓬莱の薬。貴方の穢れを祓うもの」
「――――」

 妖夢が弾かれたように顔を上げる。――優しい子だ、と永琳は思う。
 そんな子だからこそ、ここに呼んだのだ。
 鈴仙の決断がどちらになるにせよ、彼女の存在を抜きには、決められないだろうから。

「ただし、その薬には副作用があるわ」
「……副作用?」
「ええ。――それを飲むと、穢れを祓うかわりに、貴方の地上での記憶は失われる」

 鈴仙と妖夢が、同時に息を飲んだ。
 永琳は目を閉じて、ゆっくりと言葉を続ける。

「鈴仙。貴方の選べる道はふたつよ。ひとつは、このまま地上で永くない時間を生きること。そしてもうひとつは――それを飲んで、私たちのことを忘れて、月へ帰ること」

 鈴仙の手が震えた。小瓶が手から落ちて、畳の上を転がった。
 永琳はそれを拾い上げ、もう一度鈴仙を見つめる。

「このまま、残り短い時間を生きるか。それとも、全てを忘れて、永い時を月でやり直すか」

 ――どちらが正しいということでも、きっと、ない。
 地上には、自分がいる。輝夜が、てゐがいる。――魂魄妖夢がいる。鈴仙にとっての、今の居場所はここにある。そのぐらいは、自惚れてもいいと、永琳は思う。
 しかし月にも、サキムニや、同じ玉兎の仲間たちや、依姫や豊姫がいる。――彼女たちだって、きっと自分たちと同じように、鈴仙を愛するだろう。
 どちらを選んでも、鈴仙を愛する者はたくさんいる。
 ――それはとても、幸せなことだけれど、同時に残酷なことかもしれなかった。
 鈴仙は、たったひとりしかいないのだから。

「どちらを選ぶか。――貴方が決めなさい、鈴仙」





第11話へつづく
~次回予告~

※この予告の内容は変更される可能性が多々あります。


 鈴仙へ。

 私は、魂魄妖夢は、鈴仙のことが、大好きです。

 私を友達と呼んでくれた鈴仙のことが、大好きです。

 だから、


 うみょんげ! 第11話「地上より永遠に(仮)」


 ――私は、鈴仙に笑っていてほしいと、思います。



***


 終盤のプロットをいちから組み直したりしてたら、危うく前回から3ヶ月経つところでした。月一連載とかもう遠い過去の話ですね。はいすいませんでした。
 というわけで、プロット組み直した結果、全12話になりそうです。あと2話で終わります。たぶん。
 ここに話を持ってくるまでにだいぶ遠回りしてしまいましたが、なんとか最後まで完走できるよう頑張ります。
浅木原忍
[email protected]
http://r-f21.jugem.jp/
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コメント



0.2250簡易評価
1.60蕩けるマッシュルーム削除
きっと良かったと思います
3.90名前が無い程度の能力削除
次の展開が気になるあまり長さを全然感じませんでした。
竹取物語の真実は少し唐突な気がしましたが、おもしろかったです。
8.100名前が無い程度の能力削除
待ってました!
14.100名前が無い程度の能力削除
>>そんなことを考えながら、依姫はぶらぶらと月の都の中を歩く。

>>依姫は目を細めて、道ばたに佇む樹を見上げた。

ここは豊姫の誤植かな?


ここまで月設定に真正面から取り組まれてる姿勢には感服せざるを得ないです
しかし今回すごく良い話だっただけに
前回前々回の依姫の戦いがもっと相手に対しても慈悲があってスマートなやり方だったら
それが積み重なって今回がもっと良い話になってた筈なのがすごく惜しくてもったいない気分
17.90名前が無い程度の能力削除
てゐ格好良いですww
18.100名前が無い程度の能力削除
いよいよ大詰めですね。
残り2話、楽しみに待たせていただきます。
19.100名前が無い程度の能力削除
そういう補完をしてくるかあ、とただただ感服です。
21.100Rスキー削除
お名前を見た瞬間に心が踊りました○
24.100名前が無い程度の能力削除
このシリーズのてゐが好きすぎる。今回も面白かった。あと、紫の台詞が何だか凄く興味深いですね。

>> 「魂魄妖夢。お師匠様が読んでるよ。……鈴仙のことで、話があるってね」
呼んでるよ の誤植ですかね?
29.80名前が無い程度の能力削除
もし、私の読み解きが当たってしまうなら紫様は本当に純粋で罪深いお方…
さて、今までの分を読み直さなければ…
32.90名前が無い程度の能力削除
相変わらず引き込まれます
しかし紫の真の目的は…まさか
37.70名前が無い程度の能力削除
紫は結局何もかもお見通しでありながら己の欲望のままにいきる究極の罪人なのか?
空気極まりないうどみょんはあと二話でちゃんと主役らしいことができるのか?
本編で見せてた余裕がまるでみられない依姫はどうなるのか? 
楽しみに待たせてもらいます!! あ、そういや霊夢ってなんのために月に行ったんでしょう、それも追加で。
57.無評価blueloalmot削除
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60.100令和の時代からこんにちは削除
うみょんげ、3巻、までは中古で買えましたが、4巻のみ買えなかったので創想話にて拝読。秘封録が完結して寂しくなった(第1巻発売時は僕は4歳でした)ので昔の作品に手をのばしました。ルナ×だいは甘々でしたが(これはこれで好きですが)、悠久の花のようなストーリーがいい作品も好きなのでうみょんげも凄く楽しめて読めています。