夕日に向けた、鉄の音。乾いた木屑が、一片落ちる。
背中に掛かる、鋭い囃子は心地良い。尤も、それが恨み節でなければの話。
「神奈子、御柱に仏像彫るのやめたら?」
「神仏習合のためよ」
このバカは何を言っているのか。尼になりたいなら鉄の輪で剃髪してやる。
「百体彫って、まだ満足できないの」
「だって早苗と鴉天狗が寝所を共にするのよ。そんなの耐えられないもん」
何が”もん”だ。歳を考えろ。乙女の柔肌が無残な鳥肌になっただろうが。
「”パジャマパーティー”と言え。大体他にも来てるんだから、エロいことにはならないでしょ」
「そうよ。それもそうよね」
飴玉もらった幼稚園児みたいに喜ぶほどじゃないだろう。
まったく。慰めてやるなんて、私も甘いなぁ。
「尤も、肉体関係まで後一歩だと思うけど」
「早苗ー!」
面白いなぁこれ。でも抱き締めた仏像が悲鳴上げてるけど大丈夫かね。
まぁいいか。御柱を彫る騒音は無くなった。さて、早苗達どうなってるかな。
***
『メトロポリタン美術館』だ。
夜中に目を覚まし、お手洗いに行った帰り道。ふと思い出す時がある。
暗い廊下の立てる軋みが耳に響く。高かったり低かったりと、二、三羽の小鳥が鳴いているようだと思う。
息を殺さないまでも、衣擦れや足音が立たぬように歩き続ける。
寝惚けたのだろう、忙しない羽ばたきが裏手の森から聞こえた。それが収まると、辺りは冷たい静寂に再び包まれる。虫の音が湧き始めた。そういえば、さっきから鳴いてたっけ。部屋に戻る足が、止まっていたことに気付いた。知らずに溜まっていた息を吐き出して、闇がわだかまる帰り道を歩き出す。隅の暗がりには誰かが居るようで、誰も居ない、でも何かは必ず居るだろう。そんな気にさせる暗闇。
『メトロポリタン美術館』。
季節の花が生けられた花瓶は、注がれた水も忘れて陽気に踊り出しそうだ。
玄関に敷かれたマットが、身をくねらせて飛び過ぎるかも知れない。
真っ暗な道中を、私は少し足早に通り過ぎた。
階段を上がる。足音が追いかけてきた。
額縁が物言いたげに、カタカタと壁を叩いた。
横目に入った黒い扉は、何かを吐き出そうと待ち構えている。
窓から差す月光に照らし出される廊下を、私はぎゅっと手を握り締めながら通り過ぎた。
到着。私の部屋に続くドアは、お手洗いに行く前とは何も変わらない。
中には誰かが居る。その人は寝ているし、起こしたくない。緊張している。暗い中を来たせいなのだろう。深呼吸。落ち着いて、静かにノブを回せ。その調子。焦らずに押して。足を出し、中に入る。音を立てないように、ドアを閉めろ。ノブを戻す時も、忘れずに。それでいい。部屋の中を確かめる前に、もう一度深呼吸して心臓を宥めよう。
うん、もう大丈夫。大丈夫なはずだ。
あの人は寝ているだろうか。
振り向いた先には、月明かりが満ちていた。
***
夕刻の空に漂う、鼻と空腹をくすぐる香り。
皮と脂が焼けてるなぁ。河童も来ると言ってたか。となると、岩魚かな。
さてさて、突撃我が家の晩御飯。厨房を拝見。
「あれ、諏訪子様。どうかなさいましたか」
「何、ちょっと様子見だよ。いい匂いもしたし」
「もう少し掛かるわよ。大人しくしててくださいな」
やっぱり早苗にゃ割烹着が良く似合うね。
雛は、ちっとドレスで裾が膨らんでるけど大丈夫か?
「あ、えっと、お邪魔してます」
おや、河童か。
「そんなに怯えなくてもいいよ。胡瓜か。魚と一緒に持ってきてくれたの?」
「はい、これくらいはしないと駄目だって思ったので」
「嬉しいねぇ。瑞々しくて旨そうだ」
人見知りってのも大変だね。胡瓜を洗う手も止めて、そわそわもじもじ。
眺めるのは楽しいけど長居してもな。
「悪いけど、私達の分は縁側に置いといておくれ。神奈子の奴が立て込んでるから」
「承知しました。その際にはお呼びしますね」
はて。ひと、ふた、み。もう一人は。
「そういえば天狗も来てるんじゃないの?」
「文さんですか? お風呂に使う薪を割ってくれてると思います」
大方、照れて早苗の隣に立ちたがらなかったってところか。やきもきさせられる。
「そうかい。飯食った後に入るんでしょ? 先に湯を使ってね」
「それは心苦しいです」
まったく、固い子だ。気楽に構えて欲しいんだけど。
「神奈子が立て込んでるって言ったろう。私達を気にすることないよ。何より客が先だ」
「そう仰るなら、失礼して先に頂きます」
「よしよし。じゃあ、飯はお願いね」
後から食器の触れ合う音が聞こえる。何とも楽しげに響くもんだ。
女三人寄ればなんとやらだが、立てる音もそうなのかねぇ。
今日は特段賑やかになりそうだ。楽しみだよ。
早苗も楽しんでくれればいいけど。苦労掛けっぱなしなんだから。
何であれ、少なくとも私は楽しめるだろうねぇ。
さてさて、どうなるか。
***
「では火の番をしてますね。熱かったりしたら言ってください」
「うん、ありがとう」
襦袢と手拭を抱えて、脱衣場への戸を引いた。久しぶりに見たかも。
「ここって、にとり達が建てたのよね」
「そうだよ。何か懐かしいなぁ」
去年の秋口に神社から依頼が来て、私達で作った河童印の風呂場だ。
人間から頼まれるなんて久しぶりだったから、皆張り切ってた。私もそう。
「早苗達を待たせても悪いから、早く済ませましょうか」
「そうだね」
私が入ることになるなんて思ってなかった。建てた時とは変わってないように見えて、やっぱり少しだけくすんでたりしてる。大事に使ってくれてるんだなぁって思う。こういうの見るとすごく嬉しい。技術屋の冥利ってもんだ。じゃなくって感慨に耽ってても仕方ない。服脱がないと。
まずは帽子。二つ結いを解いて、ボタンへ手を掛ける。ブラウスとワンピースは畳んで籠へ。下着も一緒だ。これで終わり。手拭忘れないようにしないと。
「雛、大丈夫?」
「ええ、先に入ってて頂戴。直に行くから」
雛の服は綺麗でかわいい。でも、脱いだり着たりは手間が掛かる。こういう時は大変そうだ。
リボンを解かれた髪に、少し跡が残ってる。手元に落とした瞳は綺麗な宝石。被さる睫毛は長くて羨ましい。一つ一つボタンを外していく指。するすると淀みなく動いて、白い魚が泳いでるよう。落ちるドレスと一緒に、滑らかな髪が波打った。緋色の池と、碧の川面。
「見られてると照れるわよ、にとり」
「ごめんねっ」
駄目だ。この間喧嘩して仲直りして、雛のことがもっと好きになった。それまでだって、これ以上ないってくらい好きだったのに。綺麗でかわいい雛は大好き。でもこんなに好きだと、私がどうかなりそうだ。
とりあえず、風呂場に入って雛から離れないと。
「お湯加減はどうですかー」
「うん、丁度いいよ」
丁度いいけど、丁度よくなんてない。のぼせ上がった頭だけでも熱いのに、お湯に浸かったら倒れそうだ。どうしよう。座って落ち着くのを待つ? それがいいかも。うん、腰掛はちょっと冷たくて気持ちがいい。なんとかなりそう。
「どうかした? 掛け湯もしてないようだけど」
「何でもないよ。ちょっと考え事」
もう雛が来た。やっと落ち着いてきたと思ったのに、また心臓が飛び跳ね始めた。頭も熱いし、体も熱い。雛の優しい声だけでもこれなのに、顔なんて見たら大変だ。
「そう。なら先に体を流しましょうか。洗ってあげる」
「うん、えっと、そうだね。お願い」
「お二人は本当に仲良しですよね。羨ましいなぁ。文さんも私と一緒に入ってくれればいいのに」
「直にそうなるから、焦らないようにね。文の初心さは筋金入りなんだから」
雛に洗ってもらうって、何でそんな返事したんだ私。
「流すわよ。目瞑りなさい」
「うん」
流れていく。お湯が熱い。
「私のこと、ずっと見ていてくれたわね」
まぶたを閉じた暗闇の中、小さな音が頭に響いた。
髪から滴る水滴に混じり、耳に囁かれる幽かな声。
甘くて熱くて頭が茹る。
「私は、かわいい?」
「雛は綺麗でかわいいよ」
「ありがとう。にとりもかわいい」
何でこんなこと訊くんだろう。
「私のこと、好き?」
「うん、大好き」
「ありがとう。私もにとりが好き」
駄目だ。どんどん火照ってきてる。それに何故こんなこと訊くのかも分かった。分かったから余計駄目だ。早苗の家なのに。
耳から雛が離れた気配と一緒に、頬へ指が添えられる。そよ風みたいな優しい力が、僅かに顔へ加わった。それだけなのに首は隣を向く。何故だろう。
私の唇に雛の唇。
私の中で、何度も何度も音がする。何度も何度も水が跳ねる。
細い銀糸が煌きながら、ゆっくりと離れていった。あれも美味しいのかな。
手帳くらいの小さな影が、顔の前に下りてきた。綺麗に畳んだ、雛の手拭。
「どうする?」
耳がくすぐったくて肩が震えた。体の芯まで染み渡る音。花から集めた蜜より甘くて、舐めれば舌がひりひりするだろう。そこに混じって小さな小さな山査子が、からかうようにちくちく喉を転がり落ちるだろう。
顎が動いて、何かへ噛み付く。雛の香り。口から抜けて、鼻を通った。熱い。
「そう」
泣きそうだ。どうして私は手拭を噛んだんだ。
でも、本当はちゃんと知ってる。何故って、私は雛が大好きだから。
「早苗達を待たせても悪いから、もったいないけれど早く済ませましょうか」
「いえー、ゆっくり浸かってください。急ぐようなこともないですし」
雛はいじわるだ。わざと大きめな声で言ったんだろう。早苗が返事をしてくれるってことも、分かってて言ったんだ。ごめんね、早苗。泣きそう
首に
何? 指? 指だ。これは雛の指だ。触れるか触れないかの、小さな間を開けて首筋を這っている。こんなことされたら大変なのに。噛み締めた布から音が漏れてる。頭の中で響いてる。早苗に聞かれたら大変だ。火の番はいいから、少し離れてくれたりしないかな。でも、そんなの勝手過ぎる。やっぱり私が耐えないと
「にとり、かわいい」
雛はいじわるだ。囁きが肌を駆け巡ってる。じりじり指が痺れてきてる。ますます頭がぼんやりしてきた。漏れ出る音が大きくなってる。我慢しないと駄目なのに。とりあえず、腰掛を掴んで我慢だ。それに、手拭はしっかり噛み締めること。あと、どうしよう? おへその下に、力を入れれば何とかなるかな? でも、そんなことして大丈夫? 私がどうかなるかも。どうしよう。
いつものお風呂とは全然違う。早苗がすぐ外にいる。何でこんなことしてるんだろう。熱い。どうか、私の音が早苗に届きませんように。お願いします。すぐ傍にいる厄神様は、このお願いを聞いてくれるだろうか。
背中に雛の重みが来た。二人分の体温が、じんわり溶けて混ざり合う。でも心音は混ざらない? 混ざりそうかも。こんなに近かったら、直接心臓がくっつくかも知れない。動悸が激しい。山を一日中駆け回ったって、こうはならないかも知れない。
雛はいじわるだ。
右に左にゆるゆると、羽根が静かに私を撫でる。
伝わり落ちる水滴が、上から下まで私を舐める。
緑に染まった優しい香が、くるりくるりと私を巡る。
熱い。
掛けてくれたお湯なんて、当の昔に乾いていいのに、肌は全然乾いてない。
何故って、汗とぬるま湯が体に纏わり付いているから。
顎が何だか疲れてきてる。腰掛を掴んだ指がちょっと痛い。
喉の奥から湧く音は、頭に溢れて響きっぱなしだ。外まで聞こえていないだろうか。
早苗、ごめんなさい。
羽根が私を探してる。お願いだから、どうか見つけないで。見つけて欲しい。見つけてくれた。私を撫でてくれている。
雛は綺麗でかわいくて、とても優しい。私が雛に好きって言うと喜んでくれる。その姿がとても嬉しい。
水滴が私を伝わる。もっとたくさんあればいいのに。肌を埋め尽くして欲しい。そうしたら、私は幸せで気を失うだろう。
雛は綺麗でかわいくて、とても優しい。雛は私が好きだって言ってくれる。その気持ちがとても嬉しい。
優しい香が私を巡る。全然足りない。鼻を通り、口に溜まった。もっと欲しい。体の奥に満ちていく。私が香で一杯だ。
ありがとう、雛。
私の中で、何度も何度も音がする。何度も何度も湯が跳ねる。
口に咥えた手拭が、下に引かれて静かに離れた。
水に浸った小さな布切れ。髪に跳ねて、床に落ちる。
「どうしたの」
雛の顔。綺麗でかわいくて大好きな雛の顔が、私を覗き込んでいる。
もっと近くに居て欲しい。もっと近くへ掻き抱く。擦れるほどに鼻を寄せた。雛の顔だ。
「お願い、雛。お願いだから言って」
「何を」
分かってる癖に。
「お願いだから。もう駄目なの」
「分かるように、お強請りなさい」
雛はいじわるだ。
「好きって。私に好きって言って。雛、お願い」
「よく言えたわね。かわいい」
笑顔。大好きな雛の笑顔だ。沼に浮かぶ睡蓮が、ゆらゆら紅く揺れてるような、優しい優しいこの笑顔。
雛のかわいい声で私は咲きたい。雛の綺麗な指で咲かせて欲しい。この大好きな睡蓮に寄り添って、静かに小さく咲かせて欲しい。お願い、私の大好きな厄神様。
「にとり、好きよ」
ひなだいすき
***
いやはや、熱いもんだねぇ。
風呂場の屋根まで良くまぁ温めてくれたもんだ。油の跳ねるフライパンに挿げ替えたって言われても納得できるよ。
「湯中りしたんだって? 河童がそうなるとは思わなかったよ」
「泳ぐにしても雪解け水だから、茹で上がりもするわよ。それに少しばかり、はしゃぎ過ぎたせいもあるわね」
そりゃそうだろうけど。
「どっちが」
「私ね」
頑是無い童女みたいに笑って。さっきまでの婀娜っぽさは何処に行ったんだろうね。
まだ河童が起きる気配はなし。なら釘は今の内。
「うちの風呂場を何だと思ってるんだか」
「ごめんなさいね。あんまりかわいくて」
気に掛かる物言い。
「誰が」
「二人ともよ」
またいい笑顔で。
悪意は無いって、よく分かるのが余計困るねぇ。
「妙なこと言うね」
「お手本を、と思ったのだけれど。この子が思ったより我慢しちゃったわね」
目を細めて河童の頭を撫でてる分には優しげなんだけどなぁ。
善意を何処に向けてるんだか。少々悪戯心でもあるのかね。
「止しとくれ。あれはおぼこなんだよ。気付かれてたらどうなってたか」
「あら、そう? 大胆な子だと思ってたのだけれど」
傍目にはね。
「三日の間、”初めてのキス”がどうので上の空だったくらいだよ。いざとなると手が出せない性分してるのさ」
「分からないものね」
私もだよ。神奈子の奴と似てしまったのか。
私の子孫だっていうのに。まったく。
「まぁ注意してくれりゃいいよ。お大事に」
「ありがとう。もう一度、ごめんなさいね」
こんなことになるなんてねぇ。
とりあえず私が楽しめたからいいか。二人の初々しさが面白いったらないよ。
嗚呼、今夜は愉快だ。
***
何故。
誇りある鴉天狗の、この私が、何故これしきのことで煩悶しなければならないというのだ。些細なことだというのに。指を僅かに動かせばそれで終わる。一瞬だ。しかし、その一瞬が果てしなく遠い。
思えば、見るに耐えない姿になったものだ。右か左の選択肢。運命の岐路に立たされた彼女は誤り、儚く散った。二の轍は踏むまい。踏みたくはない。もし踏んだなら、どのような形で私の誇りを踏みにじられるか、良く分かっている。想像するだけでも怖気が立つというものだ。ともすれば足どころか、体までもが竦みあがる。
けれども、これは試練なのだろう。私は早苗の眼前で無様な醜態を晒したくはない。逡巡する顔すら見せたくはない。私は彼女の恋人なのだから。ならば壁を乗り越えなくてはなるまい。どういう結果が待ち受けているのだろうと躊躇うことは許されない。よろしい。
やってやるわよ見てなさい、早苗
「ババですね、文さん。おめでとうございます」
私としたことが。
「おめでとうもありませんよ。混ぜるから少しばかり待ってください」
「文も随分悩んだわね。あんなに表情が変わるところ初めて見たわ」
厄神様が楽しんでくれて何よりだ。ああもう、運に頼るしかないなんて嫌いなのに。ババ抜きって何よ。
「そろそろ覚悟は出来ましたか」
「どうしてそんなに強気なんですか、早苗。奇跡は使ってませんよね」
「疑っちゃ嫌ですよ。昔から、これ系には何でか強いんです」
私の手にはババと絵札が一枚づつ。このまま行けば、まず早苗は絵札を引くだろう。そして私は負ける。それは断固避けねばならない。私の命が掛かっている。何処かに救いはないものか。
頭上でランプが光を放っている。ガラスの奥で揺れる灯りは、蛍のように細く頼りない。私の未来を暗示しているのだろうか? そのような不吉は頂けないが、焦燥と不安を駆り立てることも事実。またランプによって明と暗に区切られた先、暗がりには正体定からぬ不吉ではなく、具体的な形を持った暗黒が潜んでいる。
本棚と服掛け。闇に覆われた中で無数の少女漫画が、今しも圧し掛からんとする重量感で持って私を威圧している。以前、その内容によって”乙女心のなんたるか”を私に叩き込み、今は待ち受ける運命を無言で宣告しているのだ。楽園の裁判長もかくやと言ったところか。ならば服掛けはどうか? 恐怖だ。ただその一言で事足りる。面と向かい合うことには躊躇いを感じざるを得ない。
安堵を求めて目を部屋の片隅に向ければ、こちらには恐怖の象徴たるもの。運命に呑み込まれた影がベッドの上に座っている。先だってババ抜きで負けた河童だ。
――にとりさんにはチューブトップです。是非お願いします。健康的な肌を出さないなんて、もっての外なんです。
――早苗、これは何? 帽子にしては重いけど。”パンツ”? いいわね。これにするわ、にとり。きっとかわいいわよ。
にとりは勇敢だった。そして健気だった。
”仁義無き青春の罰ゲーム”と早苗によって題された悪夢。予め敗者の受ける恥辱が決まっているとは雖も、そう簡単に飲み込めるものではない。だからこそ私は抵抗を続けているのだし、また勝者でありたいとも願っている。
けれども、にとりはただ敢然と苦難の海へ立ち向かったのだ。その少女然とした背中には、河童足りうる新奇の物事へ挑戦し続ける魂が見えた。目には全てを克服せんとする気概が籠りもしていた。誇りある鴉天狗である私も敬服するしかない。そして、彼女は早苗の理不尽な要求に交渉を持ちかけることもなく、雛さんが出した赤面する提案すらも甘んじて受け入れ……よく分からなくなってきたわね。やめましょう。記事練ってる訳じゃあるまいし。
「文も私みたいになってみない?」
「なりません。なってたまるものですか」
私の視線に気付いたのか、恥らう亡者が手を伸べてきた。
その身には服と呼べる物は纏っていない。果たすべき責務を持った生地は、体に弱々しく縋り付くのみ。代わりとして、羞恥の紅が全身に余すところなく塗りたくられている。肩は言うに及ばず、胸元、背中、脇腹、足。全てが布団という舞台の上で晒されている無残な姿だ。尤も、へそは抱きかかえた柔らかな遮蔽物によって、露になることを免れている。私から小さいワニのぬいぐるみを進呈した結果と言えよう。先日私が味わった同様の経験を考えれば情けも湧くと言うものだ。
けれども、あのような状態にも関わらず、何処となく御満悦げに見える。理由に察しが付かない訳でもないが。
にとりの着替えた様を見た雛さんは、現状を大層お気に召したようだ。裸体とほぼ変わりがない河童を、”新鮮”だの”かわいい”だのと言いながら、矯めつ眇めつ撫で擦っていた。恋人から賛辞を受ければ、にとりも御満悦になろうというものだ。あんな風に私が早苗に愛でられたらどうなるんだろう。きっと幸せで頭がぼやけて肌がちりちりしてお腹の中がむずむずして……やめやめ。本当にされたら気絶どころじゃ済まないわね。うっかりしたら死ぬかも。
何であれ、恥じらいに火照る河童に捕まっては、熱く燃え盛る絶望に引き摺り込まれるだろう。そこに救いはない。では、何処に? なんとしても見付けなければならない。二人で手に手を取り合って、奈落に落ちるなぞ勘弁願いたい。
首を正面に戻せば、双眸を炯々とし悠然と構える早苗の姿。
その眼は一見して、捕食の運命に打ち震える脆弱な子兎を見掛けた、飢餓にある野獣のようである。けれども、よくよく観察したなら、可憐な眦に縁取られた悠遠の星空とも見紛う瞳は、情熱と期待に潤み、過ごした歳月には似つかわしくない蠱惑の表情を浮かべたまま、ひたむきに私を捉え……違う。そこじゃない。なんだっけ? そう、姿だ。
彼女は淡い向日葵色をしたパジャマに華奢な少女の身を鎧い、袖を捲って溢れんばかりの闘志と繊細な白磁の肌を露にしている。しかし、顔には気負いの欠片も見えない。ただ訪れる未来を確信しているかのように、口端を僅かに上げ余裕と共に微笑んでいる。笑みを形作る艶やかな唇は湿り気を含み、柔らかな弾力を持つだろうことは明らかに見て取れる。緩く結ばれた桜色は、愚かな獣を捕らえる巧緻な罠であり、また餌食を誘い出す神仙をも惑わせるであろう美味なる生餌であり、静かに佇みながら獲物を待ち、空腹を満たす想いに焦がれているのだろう。ならば私は、この欲するところに全身全霊を持って応えた……待って駄目よ、無理に決まってるわよ。私なんかに出来る訳ないでしょう。何考えてるのよ。ああもう身が持たない。大体早苗が救ってくれる訳ないじゃない。他あたろう。
視線を剥がした先には、襦袢姿の厄神様。
「そう、雛さん。ちょっとばかり私の厄を
「取らないわよ」
分かっていた。当の昔に知っていた。理の当然だ。
「遊びでそんなことしても詰まらないでしょう。それに負けると決まっている訳でもないのに」
「そうは思えませんよ。この自信に満ち溢れた早苗を見てください」
一足先に勝ち抜けたせいだろう。気楽に言ってくれるものだ。恨めしい。
「文さんには絶対あれを着てもらいます。私は燃えているんです」
”あれ”。恐怖の根源とも言うべきあれ。私を躊躇わせ身を竦ませ、ありったけの平静さを掻き集めて奮い起こした勇気を、ババ抜きが始まる前から根こそぎ奪い取ろうとしているあれ。
――私のドレスが文に合うかもって、以前言ってたわよね。なんなら貸しましょうか。
――いいんですか! きっとばっちり似合いますよ。保証します。
――結構良さそうだねー。文の乙女っぽいとこ見てみたいかも。
部屋の隅には、吊られた緋色の服。寝巻きに立場を譲り休んでいるそれは、フリルで覆われ重厚だ。
あれを私が着る? 冗談じゃない。羞恥の紅によって、ドレスと私の見分けが付かなくなるかも知れない。
「よし、準備はいいですか、文さん。決着をつけましょう」
負ける訳にはいかない。しかし、出来る事と言えば祈るだけだ。何と頼りない。しかも周りには、乗り気な厄神様と、はしゃいでいる現人神。この二柱に祈りを捧げたところで、運命の天秤は好ましくない方へ傾くだけだろう。そして私は天秤の受け皿から振り落とされ、煮え滾る釜の暗く深い底へ沈んでいくのだろう。お願いだから勘弁してよね、早苗。
けれども、これは試練なのだろう。運否天賦に委ねるとは言っても、一つの勝負には間違いない。そして私の恋人は目の前にいる。ひたすらに愛しく、また愛しいと想って欲しい私の大切な人だ。ならば血と煙と涙しか残らぬ一騎打ちとはいえ、怖気から腰を引いては無礼というもの。何があろうとも鴉天狗の矜持を胸に携え、我武者羅にでも先へ進むしかないだろう。
腹を括るしかあるまい。
「では、早苗。引いてください」
指が迫る。
***
何だろうねぇ、この空気。
奥には河童がワニを抱えている。雛はベッドに寄りかかって傍観。
中央には天狗と天狗。向かい合って、俯いたまま座って……天狗が二人? ああ、違うな。
「何してんの、早苗」
「はい、えー、罰ゲーム、なんです」
それでか。でも、どっちが。
「私が負けまして、こうなりました」
「楽しそうだねぇ。ミニなんて向こう以来じゃない?」
「仰る通りです。なので私も少し楽しみにしていましたが」
だろうとは思うけど。ほんと何だろうなぁ、この空気。
「ちょっとこれは、何でしょうか。文さんに、抱き締められている感じ、と申しましょうか」
「言わないで早苗。ああもう何なのよこれ」
片方は真っ赤になって、もう片方は頭を抱えて。
神奈子の奴にゃ見せられないね。憤死されても困る。
「そうかい。まぁ麦茶ここに置いとくよ」
「諏訪子様が手ずからなんて、すみません」
まったく、固い子だ。昔のようになるにはもうちっと掛かるか。
「気にしなさんな。お前さん達は楽しめばいいんだよ。こんなこと久々なんだから」
「ありがとうございます」
私は面白いもんが見られて満足してるんだよ、早苗。
二人の初々しさったらないよ。笑い声がどうしたって止まらないねぇ。
嗚呼、嗚呼、何て愉快だろう。
***
月明かりが柔らかく私を照らしている。今日が終わることを私に感じさせる。
思い出すのは静葉のこと。時折、何かを指して「終焉は日常」なのだと言う。
それは流れに乗り、河を下る落ち葉を指していることがある。目を抜かれ、肉を啄ばまれた獣の抜け殻であったりもする。また、朽ち果てた雨曝しの家屋を指差し、言葉を紡ぐ日もある。「終焉は日常」。
もう一つ思い出すこと。穣子が静葉の言葉を受けて、「そして終焉は再生の種」という文句を下に続ける。
それは浅く積もった雪を掻き分け、芽吹いた緑を指していることがある。せせらぎを身に受け、一心に泳ぎ続ける稚魚であったりもする。また、堀跡も新しい野兎の塒を指差し、言葉を紡ぐ日もある。「そして終焉は再生の種」。
今夜は終焉を迎える。それならば、明日再生してくれることを切に願いたい。
三組の布団と一台のベッド。それぞれに影が一つづつ。
俄雨が止むように語らいが途絶えてきた。そろそろお開き。少しばかり名残惜しいけれど、仕方ないわね。
「椛さんが任務で来られなかったこと、残念ですね」
「多分遠慮してくれたんだと思うよ。私と雛のことでも色々気遣ってくれてるし」
そう何でしょうね。根が真面目で義理堅いから、邪魔をしたくないと考えたのでしょう。頑固で優しい子。
「文さん寝ちゃったんですね。もうちょっと起きてるかと思ったんですけど」
「布団に入るまではガチガチだったのにね。鴉だから早寝早起き?」
にとりと反対側の布団には、月明かりに浮かぶ整った顔。幽かに寝息が聞こえる。
本当、寝付きがいいこと。何処でも寝られるようにしてるのかしら。
「今日は随分とはしゃいだから。私達も寝ましょうか」
私の促す声に続いて、就寝の挨拶が二つ穏やかに部屋へ満ちる。それに応えて、まぶたを閉じた。名残惜しいことは確かだけれど、良い夢が見られると思う。今夜は楽しかったから。
指に込められる力を感じた。幽かだけれど、私の意識を向けさせるには十分な大きさ。眠っている文の逆へ目を向ける。にとりの顔。愛しい恋人の顔が、こちらに傾けられている。仰向けの体を横に倒し、正対した。
月光を映しこんだ瞳は輝いている。この光が純粋さだけならいいけれども、どちらかといえば茶目っ気の方が多いように思えた。いじわるな子だ。
髪留めを解いたせいで、にとりの頬には緩く髪が掛かっている。寝ている二人を邪魔したくないわね。繋いだままの手を外す。分かっているのだと思う、指は指から水を抜けるように離れた。衣擦れを抑えるよう気を配りつつ、腕を上げて頬の髪を静かに払う。
いじわるなこと。先刻のお返しかしら。
腕は指に捉えられ、指は唇に囚われた。降り注ぐ淡い光の中で、蠢く桜が私の白を食んでいる。ここで音を立てるような子ではないと分かっているけれど、やっぱり緊張するものね。
爪と肉の隙間をなぞられていく。一つ一つ丁寧に仕上げられる感触は、細かい所まで手を抜かない技術屋のもの。にとりは優しい。背筋が少しづつ強張っていくのが分かった。その間も、彼女の瞳は悪戯心を持ったまま、私を覗き込み続けている。終わる頃には、額に僅かな汗を感じていた。
それでも、彼女の目から飢えは消えていない。むしろ強まったように見えるわね。当然か。為る様に為るまで任せましょう。
水気を含んだ柔らかな刷毛が、私の指を撫でていく。節から節へ。背中まで擦られている錯覚に襲われた。節から手の甲へ。それだけなのに、窓から差し込む光が傾いたかと思うような震えが来る。妙ね。いつもより息が荒くなっている。これ以上になると、二人の眠りを妨げかねない。親指を噛めば耐えられるかしら。
指の股に押し当てられる感触。そのために作られたかと思える程に、窪みへ馴染む形の刷毛。
繊細な木目を扱うかのように優しく、丁寧に時間を掛けて擦り上げられていく。
痛い。噛み締めた親指が痛い。いじわるな子だ。”してやったり”と言わんばかりの目付き。白く頼りない光の中でも、それと分かるほどに頬が上気している。
艶かしいこと。この子から薫る色気に中てられそう。もう手遅れかしらね。体に訊けば、手遅れのよう。あの時感じた違和の正体が、ようやく分かった。どうしましょうかしらね。満足してくれると良いけど、一先ずは。
捕まれた手首に、引き寄せる力を込める。幽かだけれど、感じ取ってくれるはず。そう、優しい子。解放されたところで、まずは一安心かしらね。
刷毛を当ててくれていた指先を口に含む。先客の水気に、少しばかり湿り気を混ぜる。もう一度、愛しい恋人の唇へ。
軽く啄ばむ口付けの感触。二度繰り返したところで終わった。満足してくれたかしらね。
引き際に掬い上げられて、くすぐられる。続いて、やんちゃをした犯人の隠れる口が、就寝を告げる四文字を象った。本当、いじわるな子。そうは言っても、これで寝てくれるようだから、安心しないといけないけれど。
熱い。
天井を見上げる姿勢に戻り、胸へ手を当てる。随分上下しているけれど、戻ってくれるかしらね。難しそう。
あの時感じた違和の正体。にとりが声を殺して、耐え切った理由。普段と比べられないほどの激しい鼓動を、私が必死に抑えている訳。恐らく緊張から何でしょうね。こうしたことを人前で、なんて初めてだから。
彼女も私も、お互いに”耐えられる限界”を知り尽くしている。彼女も寸前で止めるつもりだったはず。優しい子だから。それなのに私は、こうして限界を越えている。本当、迂闊なこと。
今後一切、こんな悪戯は止しましょう。お風呂での”お手本”は冗談と本気が半々。早苗が発奮してくれたなら、なんて余計なお節介。少しばかり気楽に考え過ぎていたようね。釘を刺された直後なのに、守矢家へ迷惑をかける手前まで行った。助かったと思う。今なら私が寝不足になるだけで済む。
なるべく早く寝られたなら嬉しい。収める手もあるけれど、音はともかく誤魔化しきれないものもある。甘く考えた罰と素直に受け止めましょう。むしろこれだけでは足りないくらい。ごめんなさいね、早苗。
横に傾けた顔の先には、唇を薄く開けた恋人の寝顔。幸せね。
終焉は日常のけじめ。再生は日常の確認。
明日は優しい彼女へ謝って、それから”好き”を何度も言ってもらおう。そして何度も言ってあげよう。
おやすみ、にとり。大好きよ。
***
さて、家は寝静まったが、あいつはどうなったかね。
まだ仏像……は、この時間だし流石に諦めたか。常識がないわけでもない、か? まぁそうだ。多分そうだ。
「月が綺麗だね、神奈子。一杯どう」
「ほっといて」
しょぼくれてまぁ。雨に濡れた捨て猫とどっこいだ。
といっても二人の邪魔に入ることなしに我慢し続けたのは偉いね、うん。
「そう言わずに、それ」
どうも張り合いがない。でも杯を受け取っただけましか。
「今日は色々楽しかったんだよ。お前に”見ろ”なんて言わないけどさ」
さて、もう一杯だ。酒さえありゃこいつもなんとかなるだろう。
「それで分かったけどね。あの子達は心底からおぼこだよ」
「そうね」
まだまだお代わり。濡れた子猫がちっとばかり乾いてきたか。
「だから懇ろになるのは遠い先ってことさ。安心しなよ親バカさん」
「そう思う?」
まったく。慰めてやるなんて、私も甘いなぁ。
「ああそうさ。親としちゃ心底バカだと思うけどね」
「うっさいわね」
面白いなぁ。これでこそ神奈子ってもんだけど。
「それじゃ、そろそろ寝ようか」
「あんた一人で寝なさい。私はもうしばらく呑んでいるから」
張り合いがないねぇ。面白いもん見せ付けられた私はどうしろってんだ。
決まってるけどね。
「一緒に寝よう」
ああ、笑ってしまいそうだ。怖い怖いものに怯えて子猫が震え上がった。かわいいなぁ。
耳が弱いなんて先刻ご承知。幾千幾万幾十万の歳月を重ねたって変わりゃしない。
「呑みたい気分なのよ」
「そんなこと言わずにさ」
これはどうかな耐えられるかな。髪を掻き揚げ耳たぶだ。
口に手を当てても無駄なんだよ。歯を食いしばったって何にも為らない。
たっぷり舐れば我慢出来なくなるなんて分かりきってるさ。
「寝床は拵えとくよ」
「勝手になさい。私は行かないわよ」
バカだなぁ。かわいいなぁ。子猫が布団に包まった顔。本当に変わりゃしない。
髪で幾ら耳を隠していても、火口がそこに備えられてるのは変わんないのさ。
一度火が点きゃ止まりはしないよ。私はお前をよく知っているんだ。
さてさて、いつまで耐えられるかな。いつ頃布団に潜るかな。
あいつのにゃあにゃあ鳴く声が、どうしたって止まないだろうねぇ。
嗚呼、嗚呼、今夜は何て愉快なんだろう。
***
月明かりが満ちている。
今夜は蒸し暑い。カーテンも引かずに、窓は網戸を閉めただけだ。
空き巣も何もないことは、山に来た利点の一つだとしみじみ思う。
ベッドの脇。部屋の真ん中には、来客用の布団が敷かれている。
小学生の頃は、頻繁にでもないけど使われることがあったっけ。でも、敷かれる機会は成長する毎に、段々と減っていった。学ぶ必要のある神事や作法が多く、交友は学校や休日の昼間に限定されたからだ。また、二柱へ心配をお掛けするほどに、修行へのめりこんだせいもある。
そうして、来客用は虫干しでしか、引っ張り出さないようになった。ただ日光を浴びるだけの姿が、何だか寂しく思えてならなかったことを覚えている。自分のせいなのに我侭だと思ったし、申し訳なく感じていた。
そんな布団が、久しぶりの仕事を迎えるために昨日干されたのだ。日差しを受ける姿は、とても暖かくて誇らしげで、白い布地が眩しかった。私は嬉しくて嬉しくて、何も手が付かなくなるんじゃないかと思ったほどだ。いざ敷くことになった時だってそうだ。あんまり嬉しかったために、うっかり笑い出してしまって気味悪がられた。失礼な。
そんな布団が、部屋の真ん中に居る。
月明かりが満ちている。
にとりさんと雛さんは眠っているようだ。頭以外にも、手首から先が掛け布団から出ている。二人の指は絡み合っていて、恋人同士なのだと改めて実感させられる。
その隣には、もう一人。しっかり寝ているはずだ。寝顔なんて初めて見たから、断言は出来ないけど。
私はお手洗いに起きた。そのはずだったけれど、嘘なのだと思う。
暗い廊下を足早に通り過ぎたのは、急きたてる心を抑えられなかったせいだ。
月光を浴びながら手を堅く握り締めたのは、決心が鈍らないようにするためだ。
ドアを前にして深呼吸したのは、これからを考えて足が止まりそうだったせいだ。
今夜私は彼女を、襲う。
初めてデートをした日。初めて私の唇を彼女は求めてくれた。
あの日から、彼女が私を求めてくれたことはない。
あの日から、私は彼女が欲しいと、想い続けている。
想い焦がれたままだと、私が耐えられない。
奪うことを、許してください。
月明かりが満ちている。
彼女の隣に膝を着き姿を眺める。
何も知らないまま、幽かに寝息を立て眠っているようだ。
寝顔は冷たい光に照らされて、星空に浮かぶ月のように綺麗だと思う。
初めてデートをした日。
貴方は思い悩みながらも頑張りました。そして、隣を歩く私との距離を縮めてくれましたね。幸せでした。
”たった半歩だ”と貴方は言います。でも、去年私達が出会ってから、”一歩”の隙間がずっと開いていたんですよ。
その距離を縮められたんです。誇っていいと思います。
もっと長い時間が掛かるものだと、勝手に決め付けていました。照れ屋さんだから。
半歩も近寄ってくれて、本当に幸せでした。
その上、貴方は勇気を出して、私の指へ触れてくれましたね。照れ屋さんなのに。
私はずっと待っているだけでも良かったんです。隣から離れなければ、それだけでも満足できていたと思います。
一度は出来たはずの、”好き”を口に出す事さえ躊躇う貴方です。手を握れるなんて思いもしませんでした。
嬉しかったです。
無理強いなんてしたくありません。”好き”以外、全部全部我慢してきました。貴方は照れ屋さんだから。
それなのに、私の唇を貴方は求めてくれました。幾ら私が拒んでも、全然聞かずに私を求めてくれました。
今にも泣きそうだって思えるくらい顔を緊張で赤くして、頑張ってくれて、本当に嬉しかったです。
遠い遠い未来のことだと思ってたんですよ。私達が恋人になって三ヶ月も経っていなかったんですから。
幸せどころじゃありません。毎日思い返して、一人でにやけてるくらいです。
あの日、勇気を出してくれた貴方を恨みます。
腕を組むことさえ出来ない癖に頑張るから、私が貴方へ期待する羽目になるんです。
あの日、私は貴方の唇を知りました。知ってしまったんです。
貴方の香り、貴方の視線、貴方の指、そして貴方の唇。
毎日、貴方の全てが欲しいと想っています。想ってしまってるんです。
それでも我慢しようと思います。
照れ屋さんな貴方は、まだ腕を組むことさえ出来ないって知ってますから。
でも、貴方の唇を知ってしまった、今の私では待ち続けられません。
待っていたら気が狂うと思います。
だから、私が耐えられるために。
何もない日常の中でも気負わずに、貴方が私を求めてくれるようになる日が来るまで。
それまで私が待ち続けられるように、あの日見せてくれた勇気を少しだけ分けてください。
月明かりを浴びている貴方は、綺麗ですね。
「一つだけ、キスをください。文さん」
最後の描写が若干背徳的でしたが、切なくていいでした
もどかしさがとても良いし、胸キュンするんだけど、それでも、それでも……!
あと、ケロちゃんは自重しないで下さい。
ずっとそのノリで書いてくれてたら100点だったわ
今度は終始ギャグっぽいの書いて欲しいな