博麗霊夢が逝った。
翌年。
二月、最後の雪が降った。
三月、最初の桜が咲き、四月に最後の桜が散った。
六月、梅雨がはじまって、おわる頃には、日差しが肌を焼くようになっていた。
何もかもが例年通りだった。
「何かが違っていてほしかった」
響子が言いたいのはそういう事である。
山彦山の山頂から眺める幻想郷は相変わらずに豊かで、空から吹きつける風は優しい。
それをどうしても恨めしく思ってしまうのだ。
「まあ、人の生き死になんてのは、そんなもんだからねぇ」
と、早苗。
響子の首筋に鳥肌がたった。
早苗のその声があまりに満足げだったからだ。
達観だとか、そういうのではない。
――さぁ、逝く準備はもう整ったよ
という心持を感じさせられるのだ。
不吉である。八十を越えた老婆には、あまりにも似つかわしすぎる。
響子が立ち尽くしている隣で、早苗は切り株に腰を下ろしていた。
腰は錆びれて折れ曲がり、もはや上体を支えきれていない。切り株に腰を下ろしてなお、膝の前に杖を立てている。それに寄りかかって、どうにか体をおこしているのだ。
本当は布団にでも横たわっているべきなのだろう。
髪はとうに白くなり、顔には数え切れない皺がきざまれた。若りし頃の顔を重ねることは、もはや困難である。
そんな早苗が、守矢神社からここまで一人で飛んできた。
響子は今更ながらに肝が冷えた。
「おばあちゃん。あんまり無理しちゃいけないよ」
「ん……」
老人特有の曖昧な返事。喉を鳴らしただけのような、かすかに自嘲したような。
「怒られちゃったねぇ」
そうして早苗はまた、果てのない展望に目を向けた。
見えているのだろうか?
と、響子はいぶかしんだ。
「ああ、もう目が言うことを聞きよらんねぇ」
――やっぱり。
妙に可笑しそうな早苗の口ぶりが、かえって響子の気持ちを暗くした。
なので、一歩前へふみ出し、明るい声で言う。
「んっとね、今日はとーっても空気が澄んでるよ! おばあちゃんのところのオンバシラもはっきり見えてる。人里も見えるね。煙がのぼってる。お昼ご飯の準備かな? それとね、お天気が良くてお日様がとっても明るいから、どの山も緑が綺麗だよ!」
「ほうかぁ」
早苗はうたた寝をしている――ように見えた。瞼を閉じて体ごとで頷いている。
「今日も良い眺めなぁ。ありがとうねぇ。響子ちゃんのおかげでよぉく見えたよ」
「えへへ」
「ご褒美をあげんとねぇ」
緩慢な動きで着物の袖に手を入れる。うぐいす色の和服だ。
とりだされたのは、小さな紙の包み。
受け取って、開ける。
それぞれ色の違う金平糖が、いくつか。
「わぁ、ありがとう」
「響子ちゃんは甘いものが好きだからねぇ」
一粒口に含んでころがす。金平糖の小さな突起達が、舌や口壁をつついてまわる。その感覚をしばらく楽しんだ後、噛み砕く。つつましやかな甘さが、カケラと共に広がった。
「甘~い!」
――ふと、唐突に、
魔理沙を思い出した。
思い出してから、
「おい、私のは金平糖じゃなくて星だぜ。ま、似たようなもんだけどさぁ」
と、肩を小突かれた気がして、口もとが笑う。
最後に声を聞いたのは、おととしの秋だったか。結局一緒に雪を見ることはかなわなかったから、秋だろう。
隠居先の紅魔館で、静かに息を引き取ったという。
その次の年には霊夢が逝った。そして今年。
早苗のひどく丸まった背中が、響子の心をざわつかせた。
「……おばあちゃんも食べる?」
包みを差し出すと、早苗はかすかに首をふって、ん、ん、と確かに笑った。
「ばあちゃん歯がわるいけぇ、硬いもんは食べれんよ、かかか」
早苗がそうやって笑うと、響子も不思議と可笑しくなってきて、今度は一緒にケラケラとはしゃぐのだ。
(――でも、あとで寂しくなるんだろうな)
響子はそういう性分だった。
「ああ、お母さん! ここにいたのね」
という声は、空から聞こえた。
怒ったような、安心したような。声の響きは凛としている。
響子は声のしたほうを見上げる。
巫女さんが浮いていた。
斜め上に四、五メートルほど離れたところから、二人を見下ろしている。
見かけの年は十五、六の少女。ほっそりとした体に、白地と青地の涼しげな色合いの巫女服をまとっている。体がほそいと解るのは、肩口が露出しているからだ。その巫女服は、肩から二の腕までが、無い。
それは、数十年前まで早苗が着ていた巫女服である。
少女の印象はかつての早苗とは大きく違う。
まず髪の色。
早苗は昔、緑色の髪をしていたが、この少女の髪は黒々としている。長さも早苗より少し短い。セミロングといったところだろう。ヘビとカエルの髪飾りは、一緒である。
顔の輪郭は似ていたが、目つきは早苗の若いころより少し鋭い。計算高そうな印象を受ける。
そしてなにより早苗と違うのは、少女の背中ではばたく一対の羽。髪の毛と同じく、黒い。鴉のように黒い羽だ。
少女が羽ばたくたび、風が生まれ、響子と早苗にまで届く。
「ん……諏奈子かい?」
早苗は顔を正面に向けたまま、声だけで上を向いた。
顔をあげるだけの所作も、年老いた早苗には容易ではないのだろう。
名前を呼ばれた少女――諏奈子はひょいと肩をすくめた。
「私以外に、誰がお母さんを『お母さん』と呼ぶのかしら」
理屈好きした返事である。
こういう言い方を聞くと響子などは、なぜ「そうだよ」の一言ですませないのだろうと思うのだが、諏奈子は昔からこういう性格だ。かといってひねくれてはいない。
他の誰もがそうであるように、響子もこの守矢神社の跡取りを好いていた。
東風谷諏奈子は早苗が二十一の時に産んだ一人娘である。
名の由来は言うまでもないだろう。
守矢神社の当代風祝で、友人や信者からは『おすなさん』などと呼び親しまれている。
早苗が二十一の時に生んだのだから、諏奈子はそろそろ六十になる。しかし見てくれはやはり十代半ばの少女である。
諏奈子の体には半分妖怪の血がながれており、それが人間より遥かに長い寿命を与えたのだ。
射命丸文――
現在では東風谷文と名乗っている。
文と早苗の愛の結果が、諏奈子である。
文と早苗の恋愛には特に言うべきところもない。気の合った女と女がごく当たり前に惹かれあい、想いを実らせて諏奈子をこさえた。
なので、過去にあった守矢神社のお家事情に、下世話なおもしろさを求めるのならば、八坂神奈子に焦点をあてると良い。
神奈子は幻想郷にきて以来、ゆくゆくは早苗を自分の嫁に迎えるつもりでいた。
そもそも神奈子は諏訪子に断られた神代の求婚を、代々諏訪子の子孫達に求めようとしてきた。けれど、時代をへるにつれ神奈子の存在は東風谷家の人間にすら認知されなくなり、望みはついえたかと思われた。
そんな時に早苗が生まれたのだ。期待は大きかった。
ところがどっこい、いつの間にやら泥棒天狗に早苗を寝取られてしまった。
「……そ、そいつと、け、結婚……するの?」
とは言え、これまで親代わりとして接してきた意地もある。神奈子は早苗と文の交際を表向きは祝福した。
しかしその後、早苗が諏奈子を妊娠した時、神奈子はある事を宣言した。
「早苗のニ子は、男であろうが女であろうが、必ず我が伴侶とする」
ごうを煮やした神奈子の強攻策である。
一子は、東風谷家を継がねばならない。だから二子だ。
文はさておき、早苗はむしろこれを歓迎した。自分の子が、敬愛する神の妻となるのだから。
ところが問題がおきた。
諏奈子が生まれたあと、神奈子は第ニ子の誕生を今か今かと心待ちにしていたのだが、結局文も早苗も子を孕まないまま、早苗は閉経してしまったのである。
神奈子は落胆のあまり、
「さては文のいじわるかな」
などとうっかり口にしてしまい、早苗と文を激怒号泣させた。二人とて子どもができないことを嘆いていたのだ。
そのあまりに心ない発言に諏訪子までもが怒り狂った。
「私は完全にお前を見損なったぞ! かつてお前の求婚を断っておいてよかったと、今ほど思ったことはない! お前ような愚か者の嫁になっていたかもしれぬなど、考えるだけで虫唾がはしるわ!」
結果、神奈子はしばらくの間神社を追い出されてしまった。
もっとも神奈子が本心から言ったのではないと三人ともわかっていた。
最後には許し、神奈子も己の発言を心からわびた。
さてその仲直りまでの間。
追い出された神奈子をこっそりと慰めてくれたのが諏奈子である。
諏奈子は早苗以上に信心深く、ニ柱を敬愛していた。いじけた神奈子が身を隠した山奥の洞窟まで、あとを追いかけてきてくれたのである。
諏奈子は洞窟を神社を何度も行き来し、仲直りの算段をつけもした。
「諏奈子を妻に迎えよう」
という決心がついたのは、この時期である。
かといって風祝の家系を絶やすわけにもいかぬので、東風谷諏奈子の名は残し、同時に八坂諏奈子とも名乗らせることにした。いずれ諏奈子に子が生まれれば、その子にこそ東風谷の名を継がせればよい。
神社を追い出されて三日目の夜。
人気どころかろくに明かりさえも無い洞窟。知覚されるのは、触れ合った互いの肌と、息づかいのみ。
「諏奈子。こっちへおいで」
「神奈子様……」
そんな場所で二人きり、神奈子は諏奈子に愛を伝え、諏奈子はそれを受け入れたのだった。
それが三十年ほど前の話である。
二人に子はまだない。もうしばらく、諏奈子の成熟を待つつもりらしかった。
これらが守矢家の過去の動性である。
ちなみに文と神奈子は概ね平穏な関係を保ってきた。
早苗をとられた妬みからか、神奈子がちょっとした嫌味を言う事もあったが、それも過去の話である。
だが今、二人の間には大きな火種がくすぶっている――
「文さんと神奈子様は、まだケンカしとるかいね」
「ううん。お母さんがいなくなっちゃって、それどころじゃなくなったみたい」
「そうかい。二人がせからしいけぇ、散歩にでとったよ」
「声をかけてくれれば私も一緒にいくのに。一人じゃ危ないよ」
「そうかねぇ」
「さぁ、もう帰ろうよ。そろそろお昼だし。文母さんも、神奈子様も、心配してるよ」
「ふむ……」
諏奈子が早苗に手を差し伸べる。
「あ、そうだ響子ちゃん」
と諏奈子。
「はい?」
「どうせだし、響子ちゃんも一緒にお昼してかない?」
「えっ」
響子はたじろいだ。
正直なところを言えば――おことわりしたいのだ。
早苗もさっき言っていたが、ここ数ヶ月、文と神奈子はとある問題で意見がぶつかり、あまり雰囲気がよろしくない。
そんなところにワザワザ顔を出したくはないのだが……
「それがいいねぇ。響子ちゃんもおいでな。また金平糖をあげようねぇ」
良くしてもらっている先代風祝と現風祝にそろって招かれて、断りきれるものではなかった。
居間に丸い茶机を出して、神奈子、諏訪子、早苗、文、諏奈子、響子が囲む。
早苗以外は、皆数十年前と変らぬ姿だ。
昼食は、基本的には静かだった。
一度つまらないことで――文々。新聞の内容がどうとか――、文と神奈子の憎まれ口が一往復した。
諏奈子が、すぐに二人をいさめた。
「お客さんがいる時にやめてよね!」
文と神奈子はそれぞれ口々に、「だってあっちが」と加勢を求めるのだが、諏奈子はどちらにもつかず、逆に二人を叱り付けた。文は娘に怒られ、神奈子は嫁に怒られ、大人しくなった。
諏奈子は申し分のない跡取りだった。
(もしかすると、ケンカ防止のために連れてこられたのかな?)
と、響子は思わないでもなかったが、ご馳走になった素麺と芋のふかしはとても美味しかったので、文句はない。
むしろ、
(諏奈子さんのたくらみそうな事だなぁ)
と好ましくさえ感じた。
さてそんな食卓にあって、早苗と諏訪子の周りだけは始終ほのぼのとしている。
「はーい。早苗あーんして」
さじで神の粥をすくい、ふーふーと冷ましてから、口に運んでやる。
その姿は祖母を介護する孫そのものだ。
諏訪子は、老婆になった早苗をたいそう可愛がった。
「赤ん坊もバァ様も、同じようなもんだよ」
といって、意識が曖昧になりがちな早苗をあれこれ世話する。風呂やシモの世話も、大体は諏訪子が行っているようだった。
人間が愛猫を可愛いがるのと似たようなものだろうか。
子猫も、老猫も、人間にとっては等しく可愛い。
神様からすれば、人間など猫か犬なのかもしれない。
「早苗は今まで一生懸命に頑張ったんだから。あとは私と一緒にノンビリしてればいいんだよ」
守矢神社の近くを飛んだ時などは、楽隠居した二人が縁側に座ってぽけーっと日向ぼっこをしているのを良く見かける。響子はそんな二人の姿にいつもほっこりとさせられるてしまうのだ。
が、現役組のお三方は、そうノンビリとはしていられないらしかった。
食後の席で、
「――やはり早苗は死ぬべきなんだよ」
神奈子が突然そう断言した。
あまりに率直な言葉すぎた。
なので言った本人までもがギョッとしてしまっている。周りは言わずもがな。
「神奈子様ったら、乱暴ですよ」
諏奈子は皆に食後の茶を配っているところだった。神奈子の側にきて、肘で小突いた。
神奈子はばつのわるそうな顔をした。
響子は早苗の様子を伺った。
早苗はぼんやりと手元の湯のみを見つめているばかりだった。
「いや、人間として生涯を終えるべきだ、ということさ」
神奈子が言い訳をする。
文が、文句を言った。
喧々諤々のやりとりが始まる。
「またそんなことを言って。早苗に死んでほしいのですか?」
「まさか。馬鹿を言うな」
「だったら長生きしてもらいましょうよ。永琳さんの薬を飲めば、もう何百年かは生きられるのですよ? おまけに若返るそうですし」
「人間を妖怪化させる薬だとも、言ってたろう」
「いいじゃないですか妖怪になっても。見た目も変らないそうですし」
「良いもんか! おい、早苗は私の娘みたいなもんだ。嫁のあんたは黙って姑である私の言う事を聞きな!」
「あらそれなら私だって神奈子様の姑ですよ! 神奈子様は私の娘のお嫁さんなんだから――」
こうなるともう諏奈子がいさめたとて聞かない。
響子は諏奈子と目配せをしあって、ヤレヤレと肩をすくめるのだった。
文と神奈子は、近く訪れるであろう早苗の死について、意見を真っ二つにしていた。
「諏訪子様はどう思ってるんですか?」
響子がたずねた。
場所はすでに移動している。
今は縁側に並んで腰掛けている。
居間にいると嫁姑の言い争いがうるさいのだ。
「どうってねぇ。私は早苗がしたいようにすればいいと思うよ」
諏訪子はのんきそうに言って、隣に座っている早苗の膝をなでた。早苗は日差しに目を細めたまま、ネジの切れかけたカラクリ人形のようにぼんやりとしている。その早苗を挟んで、響子が座っている。
「おばあちゃんに長生きしてほしくはないのですか?」
「もう八十歳だよ。十分長生きしてるさ」
「そういうことではなくて」
「だってね、死んでいようが生きていようが、大差はないもの。居場所が近いか遠いかだけの違いだよ」
神様の言うことは、ときどき良くわからない。
「神奈子様は随分こだわってるみたいですね」
「あいつは早苗を幻想郷につれてきてしまったことに責任を感じてるんだよ。死に際くらい、人間らしく逝かせてやりたいのさ」
「ふぅん……」
響子は早苗の顔を覗き込んだ。早苗は背中を丸めて顔をうつむかせている。表情はない。瞼は一応少しだけ開いているが、起きているのか、眠っているのか、ちょっと判別がつかない。
「おばあちゃんはどう思ってるんでしょうね? やっぱり、それが一番大事じゃないかなぁ」
と、響子が言い終える頃に、軽やかな足音が廊下をやってくる。、
諏奈子である。
手にはお盆を持っていて、切り分けられた水ようかんをのせていた。
「それがねぇ、はっきり聞いたわけじゃないけど、どうやらお母さんも、どっちでもいいみたいなのよねぇ」
諏奈子は、響子の隣に腰を下ろしながら、会話に参加する。
「かっかっか」
と、諏訪子が笑った。
「先祖も子孫も、似たもの同士だねぇ」
「そのおかげで、文母さんと神奈子様は揉めちゃってるだけどね」
早苗は、何の反応も見せない。
「お母さんが、ああしてくれこうしてくれって、はっきり伝えてくれたら、さすがに二人ともそれに従うと思うんだけど……。あ、ちなみに私もお母さんの意見にしたがう派かな」
守矢神社の嫁姑は、かれこれ数ヶ月もこの話で揉めているのだ。
縁側から足をぶらつかせて、4人並んでようかんを摘む。
ただ、早苗は相変わらずぼんやりと庭を眺めるだけで、口をつける様子はない。
「……おばあちゃん、思ってたより元気ないんですね」
「お母さん、だいぶんボケがきちゃってるからねぇ」
「山にきて私とお喋りするときは、まだ元気そうなのに」
「元気があるときじゃないと、山まで飛んでいけないもの」
「そっか、そりゃそうですね……」
急に早苗が老け込んでしまったような、そんな気がした。
響子はお手洗いに向かう途中、居間の前を通った。
入口のしょうじは開いている。
文がいた。
神奈子の姿は無い。
文は茶机に向かって、思案顔で頬杖をついていた。
壁掛け時計の針が、カチコチと静かな音をたてている。
「……」
おしっこは、我慢することにした。
「文さん」
「あやややや、響子さん」
「考えごと、あー、……ですか?」
白々しいかなとちょっとためらうが、そのまま言い切った。
文は察してくれた。
「ええまぁ。先ほどはすみませんでしたね。折角お昼しにきてくれたのに騒いでしまって。神奈子様の気持ちはわかるんですけどねぇ。どうにも」
「いえいえ。ご馳走さまでした。……まぁ本当のところ、お招きされようかどうか、ちょっと迷いましたけど」
あはは、と文が笑う。
「家主二人がこうですから、無理もありませんねぇ」
文との付き合いは、もう随分長い。ある程度は、歯に衣を着せずに語り合える仲だ。
「早苗は今、諏訪子様と一緒ですか」
「うん。縁側。諏奈子さんも一緒に」
「そうですか」
「あの、座ってもいですか?」
「もちろん! どうぞどうぞ」
文は嬉々として隣をすすめた。
「近頃はどうですか。山彦サービスのほうは相変わらずですか?」
「む、サービスの取材は御法度ですよ」
「いやいや! 他意のない世間話ですよ。興味があるのは響子ちゃんのことです」
「……それもなんかどきどきしちゃいます」
二人はしばらく、ありふれた世間話に花を咲かせた。
互いの気持ちがすっかりほぐれたころ、文がおずおずと言った。
「あのぉ……愚痴を聞いてもらってもいいですか?」
「いいですよ」
苦笑しながら頷く。
聞いてあげよう、という気持ちになっている。
文がほっとしたように微笑んだのが、可愛らしかった。
「この件では、家じゃ誰も愚痴を聞いてくれないんですもん」
「あはは……」
「いやねぇ、私もわかってるのですよ。自分がフェアじゃないって」
「フェアじゃない?」
「ええ。……早苗に結婚を申し込んですぐの頃だったかなぁ。神奈子様とお話をしたんのですよ」
文は、ぽつりぽつりと昔話を始めた――
――ある夜、神奈子様に呼び出されましてね。
嫌味の一つでも言われるのかと思ったんですけど、いやぁ、真面目な話でした。
まぁ、嫌味のほうは結婚してからたんまり聞かされましたがね。
……こほん。
ようするに、人間である早苗は妖怪のお前よりも相当早く死ぬぞ、という念押しですね。
お前はそれでもいいのか、耐えられるのか、とね。
私ははっきり、もちろんです、と答えましたよ。
そういう話はすでに早苗ともしてあったのです。
やっぱり、お互いの先のことを考えると、どうしても避けられない問題ですからね。
けれど愛しあう二人でしたから、えへへ、たとえ悲しい別れがまっているとしても、いやだからこそでしょうかね、二人の想いは変りませんでしたよ。
まぁ正直なところ、そんな先のことで悩むよりも、今、目の前にいる相手をとにかく抱いていたかった。
二人一緒なら大丈夫。いつか別れは訪れるけれど、心を強く持ってともに向きあおう。
早苗とはそんなふうに誓いあったんです。
で、昔にそうやって返事をしているわけですから。今更それに抗っている私は、やっぱりフェアじゃありませんねぇ。
……まぁ、認めるのは悔しいですが、私も早苗も今とは違い、若く、情熱に溢れていました。そんな心配事には、あまり実感がなかったのかもしれません。
早苗がもう子どもを産めなくなった頃です。
私は急に不安になりました。
私と早苗が一緒にいられる時間はもうとっくに半分をきっていたんだなと、強く実感させられたのです。
恥ずかしながら、いてもたってもいられなくなって、夜な夜な雲の上を飛んでむちゃくちゃにわめいたものです。
そしてとうとうある夜ふけに、これもまた恥ずかしいやら情けないやらですが、私は早苗に何もかもぶちまけたのですよ。
結婚前に交わした誓いは覚えているが、どうにも向き合えそうにもない。早苗がいなくなるのが怖い、とね。
私は、どんな方法でもいいから早苗に生きてほしいと伝えました。
霊夢さんや魔理沙さんもそうでしたが、人間達はたいてい人として死ぬことを望みます。不思議なほどその事に誇りを持っているのです。
早苗もまたそうだと知っていましたし、私もそれを受け入れているつもりではいたんですよ。
だから、お願いしたところで早苗は断るんだろうなって、内心では分かっていましたし、それがすごく恐かった。
けれど早苗は……そっと私を抱いて、いってくれたのです。
『文さんがどうしてもと言うなら、私は文さんがしてほしいようにしますよ』、とね。
……。
私はね、もう、本当に自分が情けなくてしかたありませんでした。そしてまた、そんな私に優しくしてくれる早苗が愛しくてしかたなかった。
早苗に抱かれたまま、わぁわぁと大泣きしてしまいましたよ。
あんまり泣き声が大きいものだから、眠っていた諏訪子様も起きてきちゃって、いやぁ恥ずかしかったなぁ。
神奈子様とお諏奈?
神奈子様はほら、そのころ神社を追い出されてましたから。お諏奈はその夜は神奈子様と一緒にいましたし。
なので二人はこのことを知りませんね。諏訪子様も伝えてないそうです。
でね、早苗はこうも言ったのです。『だけど神奈子様や諏訪子様の思いにも私は従いたいんです。だから、皆が納得したことに、私は従いますとね』
まぁ結局その意見は、早苗が何度か、ボケてないときに自分で言ってますから、皆知ってます。
やぁ……これが美談の類ならねぇ。、私は、早苗の言葉に心を強くして、早苗の死を受け入れられるようにもなるんでしょうが。
いやぁ、あはは、やっぱり駄目でしたね。そうあろうと努力しなかったわけではないのですが、ええ、駄目です。無理無理。
咲夜さんが逝って、魔理沙も逝って、そして霊夢さんも……。
今年はいよいよ早苗の番かなぁ、なんて考えてたら、気がついたときは永遠亭にいましたよ。本当の話です。冗談じゃないですよ。
私は永琳さんにつめよりました。
早苗を長生きさせる薬をくれ! とね。
そしたら永琳さんは、
『どうぞ』
といって私に透明な液体の入った小瓶をくださいました。
いやぁ、目が点になりましたね。
あとあと聞きましたが、
『あいつらが皆いなくなるのは寂しいわねぇ』
とかなんとか、輝夜さんが嘆いてたそうで。
その小瓶ですか? 私の部屋の机にしまってあります。
ああ、蓬莱の薬とはまた違いますよ。
しかしねぇ、ううむ……あとは神奈子様さえ納得してくれたらなぁ……。
……え? ああいや、別にあの人と私は仲が悪いわけではありませんよ。
お互いに負けん気が強いですし、嫁姑かつ姑嫁の妙な立場もあって、まぁ、一番憎まれ口を言いやすいのですよ。
神奈子様は、早苗のことを本当に心から大切に考えてらっしゃいますよ。
早苗を人間として自然に死なせてやりたいという気持ち、わからなくはないんです。
っていうか、私が部外者だったら、神奈子様の意見に賛成しますよ。
……だけどね、
早苗は、私の妻なんです。
わりきる事ができないのですよ。
……しかしこうやって改めて考えると、やっぱり全部、私の我侭なんですよねぇ。
皆は、ちゃんと別れを覚悟してます。
そんな中で私だけがイヤイヤをしているのです。
申し訳ないとは思うんですよ。
でも……どうしようもないんです――
ふぅ、
と文は溜め息をついた。
これで話は終わりなんだなと、響子には分かった。
文は、少し努力して笑った。
「いやぁ、ありがとうございました。愚痴らせてもらって、ちょっとすっきりしました」
「いえ、文さんの気持ちが聞けて私、嬉しかったです」
「響子さんは幻想郷一口が硬いですからね。山彦サービスでいろんな人の秘め事を聞いているくせに、一つも私に教えてくれないんだから。だから安心して何もかも話せます」
あはは、と文が笑った。
響子は、妙な信頼の仕方だ、と苦笑する。
「さぁて、すっきりしたし、そろそろ新聞のネタ探しにでもいきますかぁ!」
文はすっと立ち上がり、縁側に向かう。
響子は内心でホッとしていた。
実は響子はかなり焦っていた。
つまり、
――おしっこ漏れちゃうぅぅぅぅ
文の話の半ば頃から、お股のあたりの筋肉がツリそうになっている。
決壊は近い。
「では! いってきますね!」
文が飛び立つ。
即座に響子は小走りで駆け出した。
「おトイレ! 漏れちゃう!」
廊下に飛び出してカワヤを目指す――が、
「きゃっ!?」
響子は驚いて声をあげた。
神奈子が立っていた。
壁に背中をもたれ、仏頂面で腕を組んでいる。
明らかに、二人の話を盗み聞きしていた。
まぁ、聞かれてまずい話だったというわけでは、ないのだろうが。
響子は神奈子を凝視した。
「……馬鹿嫁が」
神奈子はそう呟くと、くるりと響子に背を向け、廊下の向こうに消えていった。
「……」
響子は立ち尽くしたままだ。
サァ――と、庭の草木の揺れる音が、家の中にまで聞こえてくる。静かな廊下に、それが反響する。
「……あっ」
気がつくと、パンツに、暖かいものがジワリと広がっていた。
完全決壊にはなんとかまだいたっていないが……。
「ふぇぇぇん……」
ひょこっひょこっとした足取りで、響子はきわめて慎重に便所へと向かった。
あの日もらった諏訪子のパンツは驚くほどにサイズがぴったりだった――
「諏訪子様と私って、身長一緒くらいだしね」
さておき。
山彦山山頂である。
天気は良いが、風がとても強い。吹き付ける風が、耳元で地鳴りのように鳴る。
「神奈子様と文さん、どうするのかなぁ。早苗さんも……」
という自分の呟きさえ聞こえない。
上空はさらに風が強いのか、あちらこちらで雲が吹き飛ばされて煙のようになっている。
空が青くない。水色だ。
そんな荒ぶった空を、早苗が飛んでいた。
「……へっ!?」
響子は目を疑った。
本当にそれが早苗かどうか自信が無かった。
ボロ雑巾が風に飛ばされているのではと思った。
進行方向は定まらず、風に煽られて、あちらこちらへと舞っている。
目をこらしてようやく、ボロ雑巾のように見えるのは、和服をはためかす早苗なのだと分かった。
響子は慌ててに空に飛びあがった。
「おばあちゃん!」
近づくにつれ、早苗が心底難儀しているのが良く分かった。まるで溺れているような有様だった。
「つかまっておばあちゃん!」
おんぶをしようと背中を向けて近づく。
早苗は響子の肩にしがみ付いた。
よほど飛ぶのに苦労したのか、息が荒い。
発作でも起こしたかのように激しく喘いでいる。
このままどうかなってしまうんじゃないだろうか、と響子は恐くてたまらなかった。
「守矢神社までは、遠い」
響子は瞬時に判断して、ネグラの洞穴へすっ飛んでいった。
「さぁ横になって」
畳の上に早苗を寝かせる。
命蓮寺からもらってきた畳である。
それが洞穴のなかに一枚だけ敷いてあるのだ。響子は地べたで寝ても平気なのだが、聖が持っていけとゆずらなかったのである。今は、心から感謝した。
早苗はすでに大分落ち着いていた。
呼吸も静かになっている。
ほっと息をつくと、ようやく吐き出された不安のかわりに文句が沸いた。
「もう! 危ないでしょ! こんな風に強い日に一人で! びっくりしたんだから」
「ごめんね」
言葉がはっきりとしている。先日のような早苗ではない。
もっとも今日はそれが災いしたのかもしれないが。
「風さんがちっともいうことを聞いてくれなかったよ。昔ならこんな日でも平気だったんだけど、もう駄目なんだねぇ。風祝が風にあそばれちゃあねぇ」
と言って笑った。
「笑い事じゃないよ! 本当に心配したんだからねっ」
「ん……」
口を閉じて、早苗は暗い天井をぼんやりと見つめた。
さすがに落胆しているのかもしれない。
風も悪かったが、いよいよ一人では飛べなくなったのだ。
響子は、横たわる早苗の側に、本当の孫のように寄り添った。
「今日はどうしたの? ……また二人がケンカしてるの?」
神奈子の声は、まだ頭に残っている。
『馬鹿嫁が……』
しかし、あれで何かが変るというわけでもないのだろうか。
「実はねぇ……響子ちゃんに山彦サービスを頼まれてほしいんだけどねぇ。今日はそのために来たんよ」
響子は、ハッとした。
「神奈子様と文さんに伝えたいことがあって――」
「だめだよ!」
と、響子は言ってしまった。
洞窟に声が反響する。
「ちゃんとおばあちゃんが直接伝えないと、いけないよ……」
今のこのタイミングで、ただの山彦なはずがないのだ。
おそらくは、とても大切なこと。
自分のような者がイの一番に早苗の言葉を聞いてしまうのが恐ろしかった。
とても受け止められない、と思ってしまう。
だが早苗は、それでも、と譲らなかった。
「昔、文さんが私に結婚を申し込んだのも、山彦だったんだから。私らは山彦さんに縁があるんだよ」
早苗の声は、朗らかだった。
響子の心の中には、まだあの時の山彦がしっかりと残っている。
――神奈子様、諏訪子様! 娘さんを私にください!!
しかし響子はますます不安になった。
そんな山彦を例えに持ち出すとは、ただ事ではない。
響子が山彦サービスの以来を受けるとき、少なくともしばらくは世界で一人だけの秘密を抱える事になる。
今だけはそれが怖い。
「……」
響子は口をつぐんだ。
本音を言えば逃げ出したいのだ。唇を噛んで、それに耐える。
「響子ちゃんにしか頼めないことなんだよ」
そんなことない!
と否定したくもあるし、早苗の言葉が嬉しくもある。
心は複雑にゆれて、やはり言葉が出ない。
早苗は横たわったまま、そんな響子を虚ろに見つめていた。
「……近頃よく夢をみるよ」
と、早苗が呟いた。
脈絡のない言葉だが、ボケているわけではない。
そういう声とは違う。
「霊夢さん、魔理沙さん、咲夜さんがでてきてねぇ」
「……」
「皆、若い頃の元気な姿で」
「……」
「早く一緒に遊ぼうぜって、魔理沙さんがね。相変わらずあの人は、いつも男の子みたいな喋り方だねぇ」
響子は、ふいに、鼻の奥がツンとした。
「おばあちゃんは――」
それだけを言う間に、涙が目の奥からわいてくる。
「おばあちゃんは、霊夢さん達とまた一緒に遊びたい?」
今度は早苗が、黙った。
天井を、いや、もしかするともっと高いところを、見る。
「まぁ、ただの夢だからねぇ」
そう言って、響子に視線を向ける。
「生きとる人らのほうが大切じゃけ」
早苗は暗に認めたのではないだろうか。
そんな気がして、響子の背中が震えた。
「明日、天気がよければ皆で向かいの山に登るよ。文さんか、神奈子様か、叫んでくれる」
「……」
「今から伝える言葉を、山彦にしてくれるかい」
響子は、とうとう頷いてしまった。
翌日。
少し雲が多いが、晴れた。
昨日ほどの風はない。雲は形を整え、幾重にも連なる白亜の山脈となり、合い間に青空を覗かせている。
昼下がり。日差しはひとときよりは弱くなった。
響子は深呼吸を繰り返した。
もう時期に、その時がくる。
「おばあちゃんの気持ち、ちゃんと届けるからね」
覚悟は、すでに決まっていた。
――やっほー!
「きた!」
向かいの山から空を翔けて聞こえてきたのは、文の声。
「いくよぉ!」
山彦に臨む高揚感から、胸の奥が熱くなる。しびれるような感覚がが全身にジワリと広がり、獣耳が逆立った。
響子は思う。山彦伝心サービスなどと慈善ぶっていても、結局は自分が山彦をしたいだけだろう。
だが、それで良い。それこそが山彦の本能だ。
腰を落とし、膝を僅かに曲げ、大地を踏みしめる。丹田のあたりで両の拳を握って、大きく息を吸い込んだ。
吐く。
――yahoo !
山彦を放つとき、響子は大砲の筒だ。
体の奥で妖気を爆発させて、ありえないほどの大声量を打ち出す。もはや衝撃波となったそれは、山肌に黒い波を引き起こしながら、音速で広がっていった。
風のうねりの向こうから、幾重にも反響した己の声がやってくる。山彦が、山彦を生みだす。
排泄感にもにた快感が、響子の脳髄を痺れさせた。
が、本番はまだこれからである。
パチンと両手で頬を張って、惚けた己の頭を覚醒させる。
響子はジッと耳を澄ました。
そして――
――早苗!
今度は神奈子の声。
――話しってなんだい!? 早く聞かせておくれ! わたしゃもう気になって気になって、どうにかなってしまいそうだよ!
いつもは落ち着いた神奈子の声が、この時は、迷子になった童女のようにゆれている。
だがそれを笑う余裕は響子には無い。
響子はすでに、山彦の準備を整えていた。
渾身の力を込めて、吐く。
――神奈子様。文さん。
早苗の声である。
ただし、若い。
諏奈子を産んで間もない頃の声であろうか。懐かしい声に驚く神奈子達の顔が、響子の脳裏に浮かんだ。
「昔の自分の声で、山彦を伝えてほしい。こんなおばあちゃんの声じゃなく」
なるほどそれは響子にしかできないことだった。
響子は生涯に聞いたすべての山彦を記憶している。日常的に取り出せる類の記憶ではないが、山彦妖怪の遺伝子には、たしかに刻まれている。だからもちろん、数十年前であろうが早苗の声だってちゃんと覚えている。
響子の山彦によって、早苗の声は時を越えた。
――いままで私に良くしてくれて、本当にありがとうございます。私にはもう、思い残す事は何もありません。守矢神社の事も、娘が立派にきりもりしてくれるでしょう。だから残された時間は、神奈子様と文さんに捧げるつもりでした。けれどそのせいで、お二人をケンカさせてしまって、申し訳なく思います。もしこのまま私が死んでしまったら、神奈子様と文さんにおかしなシコリが残ってしまいそうで、それだけが私の心残りです。
響子はいったん山彦を止め、間を挟んだ。
その方が、神奈子と文に、ゆっくりと早苗の気持ちを理解してもらえるだろう。
――だから、最後に一度だけ、私の気持ちをお伝えします。
再び、間。
――神奈子様。私は、幻想郷にやってきたことに、まったく悔いはございません。神奈子様と諏訪子様のお側にいられて、幸せでした。たくさんのわがままを聞いてくれて、本当にありがとうございます。ですが、後一つだけ、我がままを言ってもよろしいでしょうか。
――私はもの覚えも悪くなり、もはや昨日の事も定かではありません。ですが、数十年前に、神奈子様にいただいた言葉は、今でも忘れてはおりません。幻想郷に来て間もない頃、力の使い方に戸惑っていた私に、神奈子様はこうおっしゃってくださいました。「常識に囚われるな――外の世界のように、力を隠してひっそりと生きることはない。お前の思うようにやってみろ」。あの言葉で私の生き方は変ったのです。そして、人間としての死を目前に控えた今、あの言葉を時々思いかえすのです。
――神奈子様。私は神奈子様と諏訪子様の娘です。そして……文さんの妻なのです。文さんは、私に生きて欲しいというのです。どうか神奈子様、娘の最後の我がままをきいてくださいませんでしょうか。
最後の言葉を前に、また一呼吸。
次の言葉こそ、依頼された山彦の全て。
――もう少し、長生きしてもいいですか? 文さんが望むなら、私は妖怪になってでも、もう少し生きたいのです。非常識な娘をお許しください――
言い終えた。
「ふぅ……」
山々の間に拡散してゆく山彦を、見送った。
さすがにこの時は、山彦の快感よりも、得体の知れない感慨のほうが強かった。
早苗が生きたいと言ってくれたことが、何より嬉しいのだ。そしてその思いを、伝えるべき相手に伝えられた。今まで得たことのない満足感が、響子の胸にあった。
「神奈子様、納得してくれるかな」
響子は飛び立った。
向かう先は、早苗達のいる向かいの山。
今回の依頼は、山彦を伝えてハイお終い、というわけにはいかない。
どうしても、結果を確かめなければならなかった。
文が、早苗にしがみついて泣きじゃくっていた。
「うわぁぁぁん。うわぁぁぁん」
早苗は岩に腰を下ろして杖をついたまま、文のなすがままに抱擁されている。今日はあまり意識がはっきりしていないのかもしれない。
神奈子はそんな二人に背を向けて、胡坐をかいて地べたに座り込んでいる。
がっくりと頭をしょげさせて、後ろから見ると首なしである。
その背中を、諏訪子と諏奈子が慰めている。
「まぁまぁ、お母さんが長生きしたいって言ってるんだから、いいじゃあないの神奈子様」
「そうだよ神奈子。なぁにちょいと人間やめるだけじゃないか。常識に囚われてちゃだめだよ。けけけけ」
二人は嬉しそうだ。
「はぁ……」
と神奈子が深く深く溜め息をついた。
「まぁ、早苗がそうしたいと言うなら良いんだけどさぁ……」
響子が広場に降り立つころには、もう、状況は決しているらしかった。
「あのう、皆さん……」
「おお、響子、ごくろうさん。いやぁ早苗の若い頃の声が聞けるとはねぇ」
「お母さんの声懐かしかった~」
と諏訪子と諏奈子。
神奈子はチラリと振り返って、響子に恨めしげな視線をよこした。
おっかなくて、響子は半歩程身を引いてしまった。
「響子さん」
文がいそいそと近づいてくる。
そして突然、響子の足元で三つ指をついて土下座した。
「わ、文さん!?」
「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
「い、いや、私はおばあちゃんの山彦を伝えただけで……」
狼狽しながら、早苗をチラと見る。
ほんのちょっぴりは、神奈子にたいしての弁明でもある。
早苗は岩に座ったまま、ぼぉっと山彦山の方向を眺めていた。
「おばあちゃん……」
と、響子は微笑んだ。
今はあんなふうだが、早苗の心の奥には文へ強い愛情が宿っている。
きっと良い人生だったんだな、と響子は心から思うのだ。
「――さて、と」
妙にさっぱりした声で、文が顔をあげた。
まだ目は赤いが、表情は生き生きとしている。
「こうなった以上、もう待つ必要はありませんね!」
朗らかに言って胸元から取り出したのは、親指ほどの小さな小瓶だった。
中には透明な液体が入っている。
「あ、それって、もしかして」
と諏奈子。
「けっ。用意の良い奴だ」
神奈子が忌々しそうに言う。
いやいや、と文がかぶりをふる。
「場合によっては、ここから投げ捨てるつもりでしたよ……そうならなくてよかった」
「……ふん」
「神奈子様、いえ、お義母さん……許してくれますか?」
「……さっさと飲ませてあげな」
神奈子はまた背を向けて、文を追い払うかのように、手をひらひらとさせた。
文はゆっくりと早苗に歩み寄っていく。
皆が――神奈子も肩越しに――その様子を見守る。
「さぁ、早苗。飲んで。長生きのお薬だよ」
瓶の蓋を開け、口もとに運ぶ。
「ん――」
早苗が僅かに声をあげ、そして、飲んだ。
瞬間――
ボウン!
爆発音。
同時に、辺りに煙が広がる。
「ぷわ!?」
文が退いた。
早苗がいた辺りは、濃い煙につつまれて何も見えない。
「お、おい!? 大丈夫なんだろうな!?」
神奈子が血相を変えて立ち上がる。
皆一様に固唾を飲んだ。
その時、
ひゅう――
と、風が吹いた。
「煙が」
と、言ったのは誰だろうか。
風に追いやられ、煙が晴れていく。
「あ」
――煙の隙間に一瞬、翡翠色の髪がなびいた
響子は、皆の様子を伺う。
諏訪子と諏奈子は、ともに笑みをたたえている。
神奈子は煙の向こうを凝視している。
文の大きく見開かれた瞳から、涙が一粒、零れ落ちた。
ハッピーエンド万歳!
早苗さんはおばあちゃん姿が想像しやすいですねー。梅ジャムとかくれそう。
生きたい
寿命関係のお話だと悲しい終わり方が多いのですが、この終わり方は凄くハッピーで新鮮な感じでした。
そして後書き。自重しろやwwwwwww
この話を書いてくれた作者様に全身全霊の感謝を…
目頭が熱くなった。年老いた早苗さんやその他諸々設定などに違和感を持ったけれど、
読み進めるうちにそんなもん気にならなくなった。
読み入りました。
本当に囚われない発想でした
早苗がもう子どもを埋めなくなった頃です。→産めなく
ただあとがきww
個人的には何者に背いてでも生き延びたいっていう方がずっと好き
だからこの終わり方はすごく好みでした
死を望むより生にしがみつく方がエネルギーを感じます
泥臭いというか生臭いというか。一見目茶苦茶なのに妙にリアルな話に見えてしまう。
後半は意外でしたね。
幻想郷の人間は、人間として全うするものだという固定観念を真っ向から覆されました。
なにより、いきなり早苗が年取っててビビった。
>>響子もこの守矢神社の跡取りが好いていた。
跡取りを?
>>神奈子は罰のわるそうな顔をした。
ばつのわるそうな
人間キャラは人間として死ぬほうが良いと思っていましたが、
この話ではむしろ早苗さんが死なないでくれて本当に良かったです!
若い頃の声でやまびこを返すという発想も良いなと思いました。
今回は衝撃的な一文から始まった物語、最後はとても暖かな高揚で心が満たされました。
結局、人間として死ぬことを選ばなかったのが正しかったのかはわかりません。
ただ、私も含めて皆が得心したのならいいじゃないか、と感じ入りました。
とても良いあやさなでした。
響子ちゃんもいい子で可愛いです。
素敵なSSを読ませて頂き、ありがとうございました。
全くそれらがなくとも読んでいい作品だなと思えるのにその描写がありますと非常に不快です
咲夜さんは原作のセリフもあってか人間のまま生涯を全うする印象が強いですが、早苗さんは(今回はいい意味で)常識に縛られずに自由に生きていそうなのでこういう選択肢もありかなと思います。
一方ガチで何物にも縛られないもう一方の巫女は人間のまま、って印象が強いのは何故でしょうかね…というか人間でありながら妖怪より恐い存在かもちょ封魔針やm(ピチューン
話それますが60年の歳月で容姿が変わりそうなキャラって実は結構少ない?妖夢、うどんげ、慧音、霖之助…あたりしか浮かびませんね。阿求は確か短命だったと記憶してるので主人公達より早くに逝去してると思われますし。
すなちゃんも趣味:写真撮影とかだったりするんでしょうか
烏天狗の血が入ってるんで可能性はありそう
あと「アーリーライス」って早稲=早苗か!
何よりあやさな万歳!人間と妖怪の壁を越えた二人の愛情が良い。
ハラハラしながら見てたが、いいハッピーエンドだった
あとがきで笑わしてもらえたし文句なしの100