「おー、あんたが来てくれるとは思ってなかったわ。いらっしゃい」
快活な声で私を迎え入れたのは、床に伏した一人の老婆だった。
長く白い髪に、皺だらけの肌。それでも、その少女のような語調と悪戯っぽい笑顔が、若かりし日の彼女の姿をはっきりと思い起こさせる。
「あら、私がそんなに薄情者だと思っていたのかしら、霊夢? これでもあなたの友達のつもりなんだけれどね」
「ああ、こりゃ失礼。来てくれてありがとね、輝夜」
余命一週間と宣告されてなお、彼女は――博麗霊夢は、遠い日の少女の面影を湛えていた。
「いやはや、幻想郷の医療も発達したもんよねえ。爺い婆あがいつくたばるかまで分かっちゃうなんてさあ。あんたの所の薬師のおかげかしら?」
「まあね、永琳は優秀だから。でも、里のお医者様も立派だったと思うわよ? 変に妬んだりせずに、自分から永琳に弟子入りしにきたりとかして」
「そこでけち臭いこと言わずに弟子にしてやるってのがいいじゃないのよ。広がる美しき思いやりの輪~、なんつって」
霊夢は、くくくと音を立てて笑い、続けて大きく咳き込んだ。
「……大丈夫?」
「じゃあ、ないでしょうねえ。何せ余命一週間だし? あはは……っと、そういや今更だけど横になったままで悪いわね。もう腰も立たないもんで」
「あら、そんなことを気にするような心の狭い奴だとでも思われてたかしら?」
「おっと、こりゃ失礼」
ほんの少し、笑い声が行き交った後、場はしんと静まり返る。外からは、鳥の鳴き声が聞こえている。
「今日、来たのはね、聞きたいことがあったからなの」
意を決して、私は沈黙を破る。霊夢はただ穏やかな笑みを浮かべている。
「覚えているかしら、ずっとずっと昔のこと。あなたが月に行って、帰ってきたときのこと」
霊夢は、ほんの少しだけ首を縦に動かして、私に続きを促した。
「あのときの私の問いかけを覚えているかしら。遠い未来、人が寿命を失くしたときに、どんな暮らしを望むのかと」
「……よく覚えてるわよ。豊姫に聞かれて、答えられなかったこと。私が、足りない頭振り絞って、ようやく答えを出せたことだから」
「私はね、あのとき驚いたのよ。あの問いかけに、あんな答えがあったのかって。あれは、ずっと私が悩んでいたこと。私が地上での穢れた生に憧れたのは、一体何故だったのかと。もし誰もが月の民のような暮らしを望むというなら、私の選択は一体何だったのだろうと。あなたは、それに答えをくれた」
霊夢は、私の言葉を聞いて、困ったように眉根を寄せていた。
「んー……正直ねえ、月の人等みたいな生き方って、すごいなって思うんだ。絶対に何にも殺さないで済むように、誰とも争わないで済むようにって、静かで、穏やかで……すっごく、立派だなって思った」
独特の、言葉に一かけらの嘘もないと確信させるような、素朴な語り口で霊夢は言葉を紡ぐ。
「だけどね、駄目なのよ。私にはそんな暮らし我慢できないの。沢山の生き物を殺してでも、美味しいものが食べたい。誰かを傷つけることになっても、賑やかに騒いでいたい。それが穢れだってことなら、まあ仕方ないかなって、そんな風に思っちゃう奴なのよ、私って」
自らの負った罪や穢れから目を背けることもなく、ただ自分が自分であることだけを受け入れる。霊夢の語ったことは、つまりはそういうことなのだ。
私にはそれがあのときまで理解できなかった。人は、自分が罪を負っていると知ったならば、何としてでもそれを雪ぎたいと願うものだと、そう思い込んでいた。
何と、美しい姿だろうと私は息をつく。月では決して見られない、穢れに塗れた低俗で下劣な美だ。
「……まあ、これからくたばる婆あの戯言だと思って聞いて頂戴な。あーあー、恥ずかしい。……って、何か聞きたいことがあるって言わなかった? さっきの話、じゃないよね?」
「ええ……」
拳を固く握り締め、霊夢の透き通った瞳を見つめて私は言う。
「あのときの答えは、まだ全てではないわ。あなたの望んだ生き方が、なぜ永遠の中ではできないというのか、私はまだそれを聞いていない」
「…………」
「あの時あなたは言ったわね。心が腐ってしまわぬよう、短かな生を全うしたいと。ねえ、聞かせて。私は、心を腐らせてしまっているかしら? ううん、私だけじゃない。この幻想郷に住んでいる、永の命を持つもの達は、その心を腐らせてしまっているかしら?」
「そんなわけ、ない」
少しだけ、語気を強めて霊夢が答える。
「じゃあ――」
「……私はね、自信がないのよ。妖怪共みたいに延々と続く毎日を楽しんでいられる自信も、月の人等みたいに高潔に生きていく自信も」
ぽつぽつと、霊夢は言葉を継いでいく。私はただ、俯いてその言葉を聞いていた。
「私等みたいに小さな心じゃ、短い一生で手一杯なのよ。毎日楽しく暮らすのなんて、ね。美味しいお酒も、三日も続けて飲めばすぐに飽きちゃう。どんなに仲良い相手でも、毎日顔突き合わせてたらうんざりする。そんなもんなのよ、私等人間なんて。永遠の時間は、私達にはちょっと荷が重過ぎる」
私達、と複数形で語る霊夢の言葉の影には、今は亡き、彼女の生涯を通じた親友の姿が見て取れた。
「というわけで、これでいいのよ。大満足。変に長生きしてあんたらとの付き合いに飽きちゃったりしたら、今までの楽しい思い出まで色あせちゃうわ。それだけは、嫌だしね」
「私は」
「うん?」
思わず、言葉がこぼれ出ていた。眉間の辺りに、何か熱いものがこみ上げている。
「私には、自信があるわ。これからやって来る無限の未来も、積み重なっていく幾多の過去も、永遠に楽しみ続けて、色あせさせない自信が。絶対に、心を腐らせたりなんかしない」
「そう、それは――羨ましい」
「なら、あなたも」
「無粋」
ぴしゃりと私の言葉を止めた霊夢の表情は、どこか少し寂しげで、それでいて満ち足りたものだった。
「あんまり未練を増やさないで頂戴な。それに――これは、あいつとの約束でもあるんだし」
――もう、そこは。
私には立ち入れない領域だ。
私は、ほんの少しの悔しさと、沢山の寂しさに、歯噛みする。
「はいはい、そんなに寂しそうな顔するんじゃないわよ。寂しいのはお互い様なんだからね。もう、あんたらと一緒に馬鹿騒ぎ出来ないなんてさ。だから、あんたばっかりそんな顔するのは不公平じゃない」
「不公平?」
「そ、不公平。これっきりお別れなのは私も一緒。私だってすっごく寂しいんだから」
「それなら」
「何?」
「それなら、あなたも寂しがってみせてよ。私ばっかり格好悪いところ見せて、馬鹿みたいじゃないの。寂しいっていうんなら、もっと泣き喚いたりしなさいよ、霊夢の、馬鹿」
私の言葉に、そんなことを言われるとはまるで考えていなかったという風に、霊夢は目を丸くする。
「ああ――そっか。そうすりゃいいのね。そんなことにも気付けないなんて、やっぱ私頭悪いなあ」
そう言って霊夢は目を閉じ、何度も小さく頷く。これまでの、自分の歩んできた道を振り返っているのだろう。
「おー……よしよし、泣けてきた泣けてきた。良かったわ、あんたに見せてやれるだけの涙が残っててさ。……うん、――ああ、楽しかった、なあ。皆と一緒に、笑って、騒いで――寂しい、なあ」
ぽろぽろと、霊夢の目から大粒の涙が零れていく。それにつられて、私の目からも涙が零れだしていた。
静かな部屋に、二人分の泣き声が染み込んでいった。
「……それじゃあ、そろそろお暇するわね。長いこと、ごめんね」
「いいのよ全然。また来て頂戴――って、もうそんときはくたばってるかもねえ。ま、葬式にでも来てやって頂戴な」
「ふふ、そうさせてもらうわ。じゃあ、またお葬式で、ね」
布団をかぶったまま、笑顔で送る霊夢に背を向けて、私は神社の縁側から降りる。
踏みしめたのは一枚の枯葉。そして幾多もの死を飲み込んできたのであろう土。
私もまた、これからいくつもの死を踏み越えて歩んでいくのだ。この穢れ多き大地を。
――無限の未来も、積み重なっていく幾多の過去も――
私はきっと、愛し続けて見せよう。彼女が短かな生の中で、懸命にそうし続けて見せたように。
<了>
快活な声で私を迎え入れたのは、床に伏した一人の老婆だった。
長く白い髪に、皺だらけの肌。それでも、その少女のような語調と悪戯っぽい笑顔が、若かりし日の彼女の姿をはっきりと思い起こさせる。
「あら、私がそんなに薄情者だと思っていたのかしら、霊夢? これでもあなたの友達のつもりなんだけれどね」
「ああ、こりゃ失礼。来てくれてありがとね、輝夜」
余命一週間と宣告されてなお、彼女は――博麗霊夢は、遠い日の少女の面影を湛えていた。
「いやはや、幻想郷の医療も発達したもんよねえ。爺い婆あがいつくたばるかまで分かっちゃうなんてさあ。あんたの所の薬師のおかげかしら?」
「まあね、永琳は優秀だから。でも、里のお医者様も立派だったと思うわよ? 変に妬んだりせずに、自分から永琳に弟子入りしにきたりとかして」
「そこでけち臭いこと言わずに弟子にしてやるってのがいいじゃないのよ。広がる美しき思いやりの輪~、なんつって」
霊夢は、くくくと音を立てて笑い、続けて大きく咳き込んだ。
「……大丈夫?」
「じゃあ、ないでしょうねえ。何せ余命一週間だし? あはは……っと、そういや今更だけど横になったままで悪いわね。もう腰も立たないもんで」
「あら、そんなことを気にするような心の狭い奴だとでも思われてたかしら?」
「おっと、こりゃ失礼」
ほんの少し、笑い声が行き交った後、場はしんと静まり返る。外からは、鳥の鳴き声が聞こえている。
「今日、来たのはね、聞きたいことがあったからなの」
意を決して、私は沈黙を破る。霊夢はただ穏やかな笑みを浮かべている。
「覚えているかしら、ずっとずっと昔のこと。あなたが月に行って、帰ってきたときのこと」
霊夢は、ほんの少しだけ首を縦に動かして、私に続きを促した。
「あのときの私の問いかけを覚えているかしら。遠い未来、人が寿命を失くしたときに、どんな暮らしを望むのかと」
「……よく覚えてるわよ。豊姫に聞かれて、答えられなかったこと。私が、足りない頭振り絞って、ようやく答えを出せたことだから」
「私はね、あのとき驚いたのよ。あの問いかけに、あんな答えがあったのかって。あれは、ずっと私が悩んでいたこと。私が地上での穢れた生に憧れたのは、一体何故だったのかと。もし誰もが月の民のような暮らしを望むというなら、私の選択は一体何だったのだろうと。あなたは、それに答えをくれた」
霊夢は、私の言葉を聞いて、困ったように眉根を寄せていた。
「んー……正直ねえ、月の人等みたいな生き方って、すごいなって思うんだ。絶対に何にも殺さないで済むように、誰とも争わないで済むようにって、静かで、穏やかで……すっごく、立派だなって思った」
独特の、言葉に一かけらの嘘もないと確信させるような、素朴な語り口で霊夢は言葉を紡ぐ。
「だけどね、駄目なのよ。私にはそんな暮らし我慢できないの。沢山の生き物を殺してでも、美味しいものが食べたい。誰かを傷つけることになっても、賑やかに騒いでいたい。それが穢れだってことなら、まあ仕方ないかなって、そんな風に思っちゃう奴なのよ、私って」
自らの負った罪や穢れから目を背けることもなく、ただ自分が自分であることだけを受け入れる。霊夢の語ったことは、つまりはそういうことなのだ。
私にはそれがあのときまで理解できなかった。人は、自分が罪を負っていると知ったならば、何としてでもそれを雪ぎたいと願うものだと、そう思い込んでいた。
何と、美しい姿だろうと私は息をつく。月では決して見られない、穢れに塗れた低俗で下劣な美だ。
「……まあ、これからくたばる婆あの戯言だと思って聞いて頂戴な。あーあー、恥ずかしい。……って、何か聞きたいことがあるって言わなかった? さっきの話、じゃないよね?」
「ええ……」
拳を固く握り締め、霊夢の透き通った瞳を見つめて私は言う。
「あのときの答えは、まだ全てではないわ。あなたの望んだ生き方が、なぜ永遠の中ではできないというのか、私はまだそれを聞いていない」
「…………」
「あの時あなたは言ったわね。心が腐ってしまわぬよう、短かな生を全うしたいと。ねえ、聞かせて。私は、心を腐らせてしまっているかしら? ううん、私だけじゃない。この幻想郷に住んでいる、永の命を持つもの達は、その心を腐らせてしまっているかしら?」
「そんなわけ、ない」
少しだけ、語気を強めて霊夢が答える。
「じゃあ――」
「……私はね、自信がないのよ。妖怪共みたいに延々と続く毎日を楽しんでいられる自信も、月の人等みたいに高潔に生きていく自信も」
ぽつぽつと、霊夢は言葉を継いでいく。私はただ、俯いてその言葉を聞いていた。
「私等みたいに小さな心じゃ、短い一生で手一杯なのよ。毎日楽しく暮らすのなんて、ね。美味しいお酒も、三日も続けて飲めばすぐに飽きちゃう。どんなに仲良い相手でも、毎日顔突き合わせてたらうんざりする。そんなもんなのよ、私等人間なんて。永遠の時間は、私達にはちょっと荷が重過ぎる」
私達、と複数形で語る霊夢の言葉の影には、今は亡き、彼女の生涯を通じた親友の姿が見て取れた。
「というわけで、これでいいのよ。大満足。変に長生きしてあんたらとの付き合いに飽きちゃったりしたら、今までの楽しい思い出まで色あせちゃうわ。それだけは、嫌だしね」
「私は」
「うん?」
思わず、言葉がこぼれ出ていた。眉間の辺りに、何か熱いものがこみ上げている。
「私には、自信があるわ。これからやって来る無限の未来も、積み重なっていく幾多の過去も、永遠に楽しみ続けて、色あせさせない自信が。絶対に、心を腐らせたりなんかしない」
「そう、それは――羨ましい」
「なら、あなたも」
「無粋」
ぴしゃりと私の言葉を止めた霊夢の表情は、どこか少し寂しげで、それでいて満ち足りたものだった。
「あんまり未練を増やさないで頂戴な。それに――これは、あいつとの約束でもあるんだし」
――もう、そこは。
私には立ち入れない領域だ。
私は、ほんの少しの悔しさと、沢山の寂しさに、歯噛みする。
「はいはい、そんなに寂しそうな顔するんじゃないわよ。寂しいのはお互い様なんだからね。もう、あんたらと一緒に馬鹿騒ぎ出来ないなんてさ。だから、あんたばっかりそんな顔するのは不公平じゃない」
「不公平?」
「そ、不公平。これっきりお別れなのは私も一緒。私だってすっごく寂しいんだから」
「それなら」
「何?」
「それなら、あなたも寂しがってみせてよ。私ばっかり格好悪いところ見せて、馬鹿みたいじゃないの。寂しいっていうんなら、もっと泣き喚いたりしなさいよ、霊夢の、馬鹿」
私の言葉に、そんなことを言われるとはまるで考えていなかったという風に、霊夢は目を丸くする。
「ああ――そっか。そうすりゃいいのね。そんなことにも気付けないなんて、やっぱ私頭悪いなあ」
そう言って霊夢は目を閉じ、何度も小さく頷く。これまでの、自分の歩んできた道を振り返っているのだろう。
「おー……よしよし、泣けてきた泣けてきた。良かったわ、あんたに見せてやれるだけの涙が残っててさ。……うん、――ああ、楽しかった、なあ。皆と一緒に、笑って、騒いで――寂しい、なあ」
ぽろぽろと、霊夢の目から大粒の涙が零れていく。それにつられて、私の目からも涙が零れだしていた。
静かな部屋に、二人分の泣き声が染み込んでいった。
「……それじゃあ、そろそろお暇するわね。長いこと、ごめんね」
「いいのよ全然。また来て頂戴――って、もうそんときはくたばってるかもねえ。ま、葬式にでも来てやって頂戴な」
「ふふ、そうさせてもらうわ。じゃあ、またお葬式で、ね」
布団をかぶったまま、笑顔で送る霊夢に背を向けて、私は神社の縁側から降りる。
踏みしめたのは一枚の枯葉。そして幾多もの死を飲み込んできたのであろう土。
私もまた、これからいくつもの死を踏み越えて歩んでいくのだ。この穢れ多き大地を。
――無限の未来も、積み重なっていく幾多の過去も――
私はきっと、愛し続けて見せよう。彼女が短かな生の中で、懸命にそうし続けて見せたように。
<了>
近しい相手の死を悲しめなくなったら、心が腐ってしまったということなのかも。
違いは有れど、根っこの部分で両者は同じなのかもしれませんね。
作者様に、以前某所でボウゲッシャー扱いされかかった者から一言。
その単語はあなたが思っているほど大きな意味を持っている訳ではありません。気負うことも恥じることもありませんよ。
私個人としては、儚月抄を扱った作品が増えることは大歓迎です。
これからの活躍に期待させていただきますよ。
目の前に蓬莱の薬があるとする。迷わず飲むね、間違いなく。
まぁでも、この作品に目を通して「ケッ!」などと思うこともなく、
綺麗だな、羨ましいな、と思えている内はまだ救いはあるのでしょう。多分、おそらく。
その月の民の生き方の高潔さを認めつつも
でも地上の生き方の方が穢れてても楽しいと言ってくれたことに感動しました
結局、月と地上は清流を好む魚と濁水を好む魚の違いでしかないから
無理に水が汚れてることを否定しても仕方ないんですよね
自分は住み慣れた汚れた濁水の方が良いと胸を張ることが一番重要
おかげでそれを実感しました