ページをめくる。めくるつもりも無いのに私はめくっている。ぱらぱらぱら、とページは進む。
ひたと私の手が止まる。何が書いてあるのかぼやけて読めない。読めないけども、頭に話が入り込んでくる。
読む気なんて無いのに。
――昔、ある村で小さな事件が起きた。
夜の村はずれの廃屋から、大騒ぎの音が聞こえる様になった。騒ぎが聞こえる様になったのは突然の事で、たまたま夜中に廃屋の前を通った村人が異変に気づいたという。
度々そんな事が起きるので、村の者は誰かが無断で入っているのだと思い、見張りを立てて戸を塞ぎ、廃屋に入れない様にした。
しかし夜になると相変わらず館からは大きな音が響く。そして『誰もいないのに騒ぐ家』の噂が広まるに連れて、廃屋の騒ぎが頻繁になり音も大きくなっていった。
村の人々はその怪奇を恐れ、高い金を払い術を操る者を呼ぼうとしたが、術者はあっさりと使者を追い返した。
「直に収まるから気にせず放っておけ金の無駄だ」
そう言う術者に従った人々は、騒ぎ続ける廃屋を無視し、見張りも止めて静かに眠った。そもそも村はずれの廃屋であったのだから、実害などまるで無かったのである。
そして、村人の口の端に廃屋が上らなくなった頃に、廃屋からの音は消えたそうだ。これも所謂騒霊の仕業だろう、おそらくこの事件では――
1、未明
青白い部屋が目に入った。半身を起こしてカーテンを開けると、未明の空はやはり曇っていた。絡みつく眠気を振り切り、ベッドから這い出る。
まだ薄ら暗い自室を歩きながら軽く空咳をした。喉の調子を確かめたのだ、念のために。机の上のケースを開けて寝ぼけた目でトランペットを組み立てる。片手に携えてベッドで膝立ちになり、そして自室で一つだけの窓を開け放った。
朝のしっとりと涼しい風が私の髪を揺らした。館の前には背の低い野原が広がっているが、見渡す限り誰もいない。鳥と虫の声が聞こえる以外、何も聞こえなかった。
これは、朝の儀式だ。すべていつも通り。
私はぐいと窓に身を乗り出し、トランペットを構える。何を吹こうか、適当でいい。そうしてトランペットを吹き鳴らした。曲ではなく、好きなフレーズを吹いた。ぶつけるかのように吹いた。
佳境だなと思ったとき、後ろからドアの開く音がした。ルナサだった。
おはよう、とも言わず只ぼんやりと突っ立ている。パジャマがずれてて肩が見えている。
「おはよう姉さん」
「…メルラン、ねむい」
姉が私に返した言葉が、それだった。
「先に降りてて、もう少し吹いてるから」
私がそう告げると、ルナサはこちらを寝ぼけた目で、じぃっと見てからドアを開け放したまま階段へ向かって行った。それを横目に私は、また窓に身を乗り出した。
しかしすぐに、後ろからリリカの声が聞こえた。
「メルラン、朝からうるさい。この睡眠妨害め」
膨れっ面のリリカがいた。いつも真っすぐの髪の毛が乱れてて、ドアの真ん前で腕を組んでいた。ご機嫌斜めといった感じがありありと伝わってくる。私はぱたぱたと窓を閉めてベッドから降りた。
「おはようリリカ、頭ぐしゃぐしゃになってるよ」
「そんなことどうでもいいでしょ。なんで朝からトランペット吹くの?まだ太陽も上がってないのにさぁ」
「朝って、気持ちいいじゃない」
私がそう答えるとリリカは諦めたような溜息をついて、大体なんで楽器使うの、能力使えば小さい音に出来るのに、などとブツブツ言いながら、髪を整えようと引っ掻いている。
その答えは、能力を使わない本物の音こそが感動を呼ぶ!なんていうことにしているが、答えなくて良さそうだったので答えなかった。ついでに、こんな曇り空で太陽が昇ったかどうかなんて分からないでしょ、というイジワルも控えておいた。
「それじゃあ降りるわよ、朝ご飯用意しなきゃ」
そう言ってトランペットを拭いて、ケースにしまう。
「はぁい」
とリリカは答えて、階段に向かった。しぶしぶといった感じがなんとも愛らしくて、ついニヤついてしまうのだった。私はその背中を追って、キッチンに向かう。こんな感じにいつも、プリズムリバーの一日は私のトランペットで始まるのだ。
2、未明から朝
1階のキッチンに向かうと、ルナサがキャベツを切っていた手を止めた。そして「リリカおはよう」とぼそぼそ言った。いくらか目が覚めた様だが、まだパジャマから肩が覗いている。
「肩出てるよ」
そうリリカが指摘したが、ルナサは肩を揺すっただけだった。この様子じゃあ、また夜更かしでもしたらしい。まだ肩が出てるし。
「メルラン、水汲んできて、リリカは食器だして。」
ぼんやりしながらも指示しようとする辺りが、リーダー兼長女たる所以か。いや、別に関係ないか。ぼんやりとそんな事を考えながら、おっけーいと適当に返事して作業に取りかかる。
壁の棚に置かれた木桶をひっつかんで、裏口から外に出た。スリッパをわざと鳴らしながら井戸に向かった。空は曇っているが気分が良い。朝は希望だ。そんな事をいつも思う。
後ろから小鳥が飛んでいった。
もう何十年も暮らしているのに、この国の鳥の名前をよく知らない。鷹とかカラスとかツバメぐらいは知っているのだけども、あの鳥は知らない。
ところで、ツバメは渡り鳥ではなかったか。どこから来るのだろう。幻想郷は不思議に満ちている。
つるべの片方を井戸にゆっくりと下ろす。
なんにせよツバメは、居るからには居るんだろう。来るのか住み着いているのか知らないが、羽があってクチバシがあって命があるのだから、それでいいのだ。あの名前の知らない鳥も、それでいいのだろう。
滑車を軋ませながら水を汲む。引っ張り上げたつるべの中で、何か黒い物が泳いでいた。カエルだった。
井の中の蛙大海を知らず、なんてつぶやいてみた。私だって海なんてもうずっと見てないのだが。
「カエル君、そんな暗いところで暮らせるの?食べ物とかもさ」
つまみ上げようとしたが、その前にカエルはつるべの外に飛び出して、ぴょんぴょん跳ねながら草むらに逃げ込んだ。
ありえないけど、もしオタマジャクシが井戸で繁殖するような事態が起きたら結構面倒だろう。水を汲む度オタマジャクシがうじゃうじゃいて、それと井の中の蛙もいる、そんな光景を思い浮かべた。とりあえず、水は捨てた。
桶を水で一杯にして両手で下げて、裏口に向かった。
遠心力の実験でもしようかな、やらないけど。一人でやってもしょうがないし。
キッチンに入ると誰もいなかった。ずいぶん早く作り終えたようだが、これだとかなり適当な朝食だろう。やかんに火をかけて紅茶の準備をして居間に向かうと、予想通りというべきか二人が座る食卓にはキュウリとトマトオンリーのサラダとトーストだけが載っていた。少ない。これは絶対に少ない。
「ねえ、もうちょっと品数増やそうよ。絶対物足りないってー」
「朝にこれ以上作るのはめんどくさい……」
「いやいや、ルナサにしたらこれでもよくやった方だよ」
私の提案は朝の弱い姉妹に拒否された。これだから夜型は駄目なのだ。朝エネルギーをつけなければ日中エネルギッシュに過ごせないのだ。私たちは食事を必要としていないが、精神的に必要であろう。我々騒霊が日々色々と感じていなければ力が弱まる一方である。たぶん。
あとリリカは暴言吐きすぎだ、皿しか出してない癖に。とりあえずリリカの頭にチョップしておいた。
「あだっ!」
すとーんと綺麗に入ってリリカが頭をかかえる。ナイスな手応え。
「ちょっと待ってて、紅茶も沸かしてるし」
暴力反対と抗議するリリカを無視してキッチンに戻った私は、手っ取り早く品数を増やすことを考えた。野菜を調理していたら二人は待ちくたびれるだろう。やはり肉系がベストか。
冷蔵室を覗くとベーコンがあったので、取り出して手早くスライスし、フライパンに放りこんで焼いた。続いて、ポットに茶葉を入れて、沸いたお湯を注ぐ。紅茶を待つ間に、料理箸でベーコンを突っつきまわしながら卵を投入し、程良く焼けたら皿に乗っける。そして、紅茶を茶漉を通して3つのカップにゆっくりと注いだ。白いカップが徐々に透き通った紅茶で満たされていく。
さて、お盆と思ったけども、どうやら居間に忘れていたらしい。行儀が悪いけど、魔法でベーコンと紅茶を浮かせて食卓に運ぼう。
私の目の前で、ベーコンや紅茶がふわふわ浮いて、私を先導するように居間にゆっくりと飛んでいく。紅茶がこぼれそうになって、おっとっとと言いながらバランスをとる。
居間に入ると、おお、とルナサが私を見て声を漏らした。ルナサの気だるそうな目が少し元気になっている。
「わーい、手間もかけずに一品ふえたー。持つべきは朝元気な姉だねぇ。暴力振るってくるけど」
リリカは頬杖をつきながら嫌味ったらしくニヤニヤした。コヤツめちょっとイラッとする。私はまっすぐリリカを睨めつけた。
「リリカが手伝わないからでしょうに」
「お皿出したじゃん、それでいいって言ったのはルナサだし」
「屁理屈。姉さんももうちょっとリリカに仕事させてよ、当番以外の時まるで何もしないじゃない」
ルナサはふうと溜息をついて、目を逸らして「リリカはすぐサボるし、当番じゃなかったら仕事が遅い」とのたまった。私は直ぐに反論する。
「それだったら、サボればサボるほど楽できるって事に――」
「あーもう、とっとと食べようよ。ウザイなあ」
腕を組んで糾弾する私に、リリカは口を尖らせた。いただきますをしなければ食べないあたり、まだそこまで堕ちていないらしい。そこら辺に免じて今日はこのぐらいにしておいてやろうじゃないの。
「はいはい、わかりましたぁ」
よし、気をとりなおして食事だ。といった感じに私が席についてから、いただきますと3人一緒に言って食べ始める。手始めにカリカリのトーストをちぎる。
一欠けかじると、ふっと甘い素朴な香りがした。サラダも貧相な見た目の割には美味しかった。ドレッシングが良いのだ、これは私が作った奴である。ふふん。ちょっとピリっと辛くて、 食が進む。でもパクパク食べちゃあいけない。
一つ一つ味わうことが大事なのだ。ベーコンをかじり、しっかりトーストを噛んで、サラダを食べて、ゆったり紅茶を飲む。そういった事がなにより大事なのだ。そうしなければ――。
「メルラン、最近神経質じゃないか?前は、朝食が少なくても何もいわなかったと思うんだけど」
ルナサがポツリと言ってきた。蒸し返すのか、とでも言いたげにリリカはルナサを見た。
何故だか私はギョッとして、ルナサを見返す。
「――そう?」
生活していく上で必要な事を言っているだけで、そんな腹を立てて言っているわけではなかった。
「べつに、必要なことだけ言っているつもりなんだけど」
「ああ、そうかもね。私の方が神経質だった」
ルナサがそう話を打ち切ると、会話は日常に戻って行った。
「で、初夏のライブのことなんだけども――」
3、 昼
「さあ、皆さん。今から私が演奏しますのは本番のほんの一部分!一部分ですが興味がわきましたら、是非ともライブにお越し下さい!」
来るべき初夏のライブに向けて、私は人里に一人宣伝におもむいていた。二人はそれぞれ別の所で宣伝をしている。
今回のライブは冥界、人里、妖怪の山の三連続でやることを決めていて、ちょっとしたツアーのような感じになっているのだ。なので、冥界はリリカ、妖怪の山はルナサが宣伝を受け持っている。みんな頑張ってくれているんだろう。
徐々に集まる群衆の中トランペットを吹き鳴らす。そして、セリフを言いながらでも演奏できるのが騒霊の強みだった。
私はプリズムリバー楽団の一員のメルランになりきる。宣伝文句は考えずともすらすらと口から出てくる。
「たとえ、私の演奏に興味が湧かなくてもお越し下さい!私の姉妹たちはよくやります!そこのチラシはどんどん持って行ってください。チラシはありがたい事に無料です。私たちの財布は痛みますが!」
群衆が笑う。私の躁にさせる力が働き、人々は活発になる。しかし、それをある程度の所で抑える。暴動を起こして出入り禁止になりたくない。
人々は群衆になりきる。群衆となれば人々は日々の苦しみを忘れる。ただ目の前の物に集中するだけになる。それが楽しくて人々は群衆になる。
私はそう思っている。
群衆はどんどん広がっていく。群衆が私を取り囲む。私の名前を叫ぶ人もいる。
私は笑顔で次々とセリフをうたう。
群衆がチラシを持っていく。そこに個はあるのだろうか。たぶん個である必要が無い。人はどうしても個なのだから、結局個に引き戻される。
そして、非日常を味わったことで苦しみを耐えることができる。
何かになりきることは楽なのだ。それぞれ人は何かになりきって生きている。農家であり、職人であり、親であり、妻であり、夫であり。
そうして、なりきり続けていて、それでもたまった鬱憤を、群衆になることで晴らしてもらえる。
私はそう思ってライブを続けている。私達を認めてくれる元になる。
「さあ、もう少しで演奏はおしまいです。続きが気になって不眠症にならないためにもライブにお越し下さい。」
私の今日の楽団員としての役がもう少しで終わる。徐々に、一人のメルランに近づいていく。だが、私の役目はまだ終わっていない。
「はい、演奏はこれまで。皆さん、子供は半額ですよ。あと赤ん坊は無料です!ただし子供みたいな大人はちゃんと大人料金ですのでお忘れなくー」
しばらく人々は興奮覚めやらぬと、私の周りを囲んでいたが、それでも徐々に人々が散っていく。
チラシを載せた台はしばらくここに置いてもらえるようになっているから置きっぱなしでいい。そのチラシから一束とって、広場の端っこに立っている男に歩み寄る。
「いつも監視ありがとうございます。毎回勝手な宣伝をしているのに、お礼をしなくってごめんなさい」
「職務だから当然だって。それでお礼なんてされたら、周りからなんて言われるか分かったもんじゃないよ」
そういって男はわずかに微笑む。男は里の守護者の一人だ。私達が里の中で演奏するときは、彼に見張ってもらうという条件で演奏が許されている。暴動が起きたときの備えだそうだ。
彼がこんな雑務を任されている理由は、まだ若くて下っ端だから、と彼から聞いている。
「それはそうかも知れないけど……ちょっと来て」
私は周りの人が見ていない事を確かめてから、路地裏に彼を呼び込んだ。
彼は少し困ったような顔をしながらも付いて来てくれた。
「これ、無料券なんだけど、もらってくれない?」
「……そういうことをされたら困るんだけどなぁ」
私が差し出したのは販売されているチケットと同じ物だ。
若い守護者は人目を気にするようにきょろきょろと周りを見た。
「それに、ライブを観に行くんなら自分でお金払って観に行くって。下っ端でも貧乏じゃ無いんだしな」
「それでも感謝の気持ちとして……ね?」
「いや、その券は貧乏な子達にあげてるんだろ。それを俺が貰ったらだめだ」
えっ、という声が私の喉から漏れた。
「それ、誰から聞いたの?」
へっ、と男も驚いたような声を出す。
「……いや、上白沢さんから。寺子屋の」
ああ、慧音が教えたのか、なら広まっているわけではないのかも知れない。
私は人里でライブをするときに慧音を介して、貧しくてライブに来れない子供達に無料のチケットを配っているのだ。
そして私自身が配らずに、慧音にこっそりと配ってもらっている。それも、慧音自身が善意でしていることにして。
慧音には、その子たちが特別扱いされているとして苛められないようにするため、と説明していたのだが。
「どうして、言った本人がそんなに驚いてるのよ」
わたしは呆れたと言うような表情を作って彼に聞いた。
彼はまじまじと私の顔を見ていたのだった。
「いや、メルランさんはいつも余裕な感じに見えていたから、そんな表情もするのかって……」
いまどんな表情をしているのか不安になる。気にしていないふりをして私は質問を続けた。
「なんで、慧音はあなたに教えたのかなぁ。秘密だったのにー」
「子どもが苛められない為だっけな、君等は目立つからなぁ。いや、大丈夫、俺にしか教えてないらしいから。上白沢さんが俺に所得の目録をみせて欲しいって言ってきた時に、俺が何のために使うのかって聞いたから教えられただけだし。君が勝手にやっている事だから、君の姉さんや妹さんにも話したらいけないって事も、ちゃんと聞いてるから」
なるほど、寺子屋に通っていない子供の事を知るために聞いてきたのだろう。しかし、なぜ彼はそんなに慌てて言い訳がましく言うのだろう。
いや、気にしてはいけない。
「え?慧音は目録見れないの?あなたより立場は上じゃない」
「確かに上白沢さんは立場は上だけど、機密の書類を普段見ない立場だから申請しなきゃ見れない。その点俺の方は雑務ばかりしているから、所得に関する書類は簡単に見れるようになっててな」
「ああ、それで……」
手を横にしたり縦にしたりして、若い守護者はよく解らないジェスチャーめいた動きをしている。
ちゃんと理由があって彼に教えたらしい事を知って、私はほっと息をついた。ように見せた。
「じゃ、そのチケットを渡しに慧音のところに行くけど、ホントにチケットいらないの?」
「ああ、観に行くんならお金を払って観に行くよ」
「ライブに来たことないじゃない」
私は『あきれた』とでもいうかのように笑顔を作った。
「一人前になるまで遊びはしないって決めててな」
彼も笑顔を作る。やはり何かを気にしたように私の目には映った。
「じゃ、社会勉強」
「社会勉強したくなったら行くよ、ありがとう」
どうやら本当に行く気はないらしい。余計なお世話だったかも知れない。
「ああ、ごめんね時間取らせて。もう行くから」
そう言って私は路地裏から広場に足を向けた。
そして、広場に入る手前でこらえきれなくなって振り返った。
「ねえ、さっき、私どんな顔してたの?」
彼は少し言いよどんだ。
「なんというか……戸惑ったような、途方に暮れたような……少しだけな」
そう言う彼の目は、今も私がそんな顔をしている、と言っているかのようだった。
4、夕方
「それじゃあ、いつも通りで」
私は、慧音の家を辞そうとした。長々と座っていた座布団から腰を上げた私に、つまんでいた煎餅を皿に戻した慧音が返事した。
「了解、いつも通りにな」
もうすぐ、日が落ちる頃だった。結構長居してしまった。夕方まで誰も家には帰らないから、少し甘えさせて貰ったのだ。
慧音の家で過ごすのは中々楽しい。それにとても気楽だ。慧音がぱたぱた仕事して回っている間、私は茶菓子をつまみながら読み物などして、そして慧音に暇が出来たらあれこれと世間話をするのだ。そして、この世間話が面白い。慧音は里で起こった事にすごく詳しくて、色んな話が聞けるのだ。
例えば心配性で有名な弥吉という人が、木に登った猫が降りられなくなっているのを見るに見かねて助けに登った事があったらしい。
しかし近づく弥吉を猫が怖がって自分で木から降りてしまい、しょうがない、さて降りようと下を見た弥吉が、今度は高い木の上が怖くなって降りられなくなってしまった――などという笑い話を聞いたりしている。
先生をしているだけあって慧音の語り口は分かりやすく、うわさ話を聞いていると、会ったこともない心配性の弥吉や男勝りの花子というような人々が、旧知の人だったような気すらしてくるのだった。
「またうわさ話してよ。あんまり里の人と話さないから聞いてて凄い楽しいし」
「あんまり話し過ぎたら怒られるかも知れないけどな、花子辺りに。しかし、まあ、勝手に教えてしまって悪かったよ。お前に一言ぐらい伝えておけば良かった」
私はそう謝られて、慧音にわざわざ守護者との話を言わなければ良かったと思った。彼女はそういうことを気にする性格なのに。
玄関に腰を下ろした私に、軽い後悔が沸いた。慧音は約束を半ば破ってしまったと思っているらしく、申し訳なさそうにしている。
「まあ、心臓が止まりそうなぐらい驚いたけど、誰も彼もに秘密にしなければいけないっていう訳でもないから、気にしないでよ。本来はこっちが感謝しなきゃいけない立場なんだし」
「メルランが私に感謝する必要なんてないだろ」
「心臓なんてないだろって突っ込んでよ」
私が振り返ってそう言うと、慧音は少し笑ってくれた、苦笑い気味だけど。窓からの西日の光が、慧音の顔半分を覆って赤く染めている。
「それに、子供のためじゃないしね。将来、子どもがお金持ちになった時の為の布石だから」
「嘘をつけそんな風には見えない。だいたい元からチケット代なんてずいぶん安いじゃないか、利益なんて全然出ないだろうに。全くお前は感心な奴だ、時々変な事をやらかすけども……本当に変な事を」
ああ、会話がどんどんと泥沼に入っていく。私は、本当にそんなつもりではないのだから。
終わらせようと、私は急いで立ち上がる。
「はいはい。じゃあ感心な騒霊はそろそろお家に帰ります」
「それじゃあ気をつけて」
貰った食材を入れた袋を片手に慧音の家を出る。外はまだ明るいが、もうすぐ暗くなることを風から感じられた。
私は笑顔で振り返って手を振ると、慧音は戸口から体を半分突き出した体勢で手を振った。
「じゃあね。また」
「ああ、また」
なるべく軽い足取りで、私は慧音の家から離れる。
角を曲がって慧音から見えなくなると、私はずっしりと重い体に耐え切れず肩を落とした。
守護者の彼と別れてから、私の心は歯車が狂ったように少しずつ暗い方向に歪んでいったのだろう。それが今、一気に折れてしまったらしかった。
慧音の家に居て少し楽になった様に勘違いしていたが、痛みを無視していたに過ぎなかったのか。
顔に張り付いた笑顔がつらい。これは人に悩みを隠して抱え込んでいるからだ。
でもこんな卑怯なこと、誰にも言えない。「しょうが無いじゃないか」そんな風に心の中で私は、言い訳じみた考えをくどくど並べた。
――私達は、ひどく不安定な存在だ。
レイラに慰めとして生み出され、レイラが死んだ今、私達の存在を支えているものが何か明確に分からない。
仮に私たちを支えているものが有るとすれば、個を保ち続けること――例えばそれは自らを律する規律を持つこと、感情を失わないこと、そしてなにより『人が認識していてくれる事』だと私は考えている。
だから、私は姉妹の誰よりライブを重視しているし、人には愛想良く接している。私は精一杯まっとうな努力をしているのだ。
それでも、何か事件でも起きて私達が社会から孤立すれば、想われなくなった私達はどうなるのか――――考えたくもなかった。
だから、無料チケットはその時のための布石だ。
私の努力が実らず私たちの評価が地に堕ちたとき、慧音を通して私が無料チケットを配っていた事をどこからか広める。それによって私たちの評価の回復を図るのだ。人は、隠れてする善行を美談とする節が有る。だからいざという時まで人に明かしてはならない。
私にとっての最後の砦、切り札だ。
その為に慧音を騙して、わざとでは無いにしても、あの若者にも『いい人』と思わせて、ライブを見る子供たちを道具扱いしている。
打算にまみれた私の、卑怯な作戦だ。私は私をあざ笑う。
普段は『悪いことはしてないから』って割り切ってるつもりでも、不意に黒いものがこうやって顔を出してくる。
でもしょうが無いじゃないか、私だけの事じゃないんだから。死活問題なんだから……。
『村人の口の端に廃屋が上らなくなった頃に、廃屋からの音は消えたらしい』
私の恐怖の始まりとなった、大嫌いな本の一節を思い出す。人里で手に入れた本だったか、物のついでに買ったそれは、この世の怪奇について記された本だった。黄色い装丁の、開けると古本特有の匂いが鼻につくその本は、最後に開いたのはずいぶん昔だというのに、いまだ私の心に深く杭を打っている。その本に書かれていた事が本当なのかはどうでも良い。そういう事が、十分ありえると私が感じてしまったのだ。
読まなきゃ良かったのか。いいや、読まなければならなかった。受け入れなきゃいけないんだ。
村を出た。出たが家に向かう前に心を落ち着かせたかった。いっそ誰かにぶち撒けたくもなった。一人で抱え込むなんてもう嫌だ。でも、もし皆にそれが広まれば一巻の終わりだ。そして、家族の耳にも届くだろう。そうしたら、特にそんな事を考えていないだろうリリカはどうなるのだろうか。
考えるだけでも不安だった。
飛ぶ気になれなくて、辺りを歩いた。
丘を登る。墓がいくつか立ち並んでいる。黄色い花が咲いている。どんどん登る。
こんなの、私らしくない。どうしたのか。どうしたらいいのか。
徐々に青暗さを増す登り道は木の根が這って荒れていた。おぼつかない足取りで私は登る。
――私は恐れているのだ。
横から見下ろすと丘の姿が見渡せた。草が生い茂り、花がポツポツと咲いている。その中には虫が潜んでいるのだろう、虫の声が聞こえる。そして、その土にすら生き物が住んでいる。私が名を知らない鳥が飛ぶ。妖精も飛んでいる。
見渡す限り、世界には命が満ちていた。
そして、妖精より不確かな私は、その光景からついと目を逸らす。
消滅を恐れているのだ。
閻魔の話を聞くずっと前から。
ずっと。
5、夜
暗い空から着陸すると、私は少しふらついた。屋敷の明かりが点いている事を確認し、深呼吸して息を整える。手荷物を塀の上に置いて、ぐいと腕を上に伸ばして軽くストレッチする。
鬱陶しい顔して帰っちゃまずい。笑顔の練習をするように顔に力を入れて、そしてまた力を抜き、暗い顔をほぐした。
よし、もう大丈夫だろう。私はそう心に言い聞かせながら玄関のドアを押した。
そっと開けたせいだろう、だれもおかえりとは言わなかった。その事が無性に寂しくて、チリチリと焦燥感が私を攻め立てた。わざと足を踏み鳴らしながら、居間を目指し、ドアを勢い良く開けた。
部屋の中では、リリカがソファに寝転びくつろいでいた。本を読んでいる。リリカは目だけを動かして、私を見上げる。
「おそいよ、メルラン。ご飯早くたべたい。作って」
私が帰るなりリリカはこれだった。
「今日は……姉さんが当番じゃない」
「帰るのが遅かった連帯責任だよ。私が真面目に5時に帰ってたっていうのに、だーれも帰って来ないじゃないの。ずっと私を一人で待たせといて、料理しないなんてのは唯の非常識だねー」
さも当然という様なその口調に私がちょっと言葉を失う姿を見ると、リリカはより挑むようなニヤケ顔で挑発していきた。でも、私の中で怒りは少しも沸かなかった。そんなリリカのわがままに少しほっとしている自分すら居た。
何時もの私なら、その挑発にのって口論を開始していただろう。さっきまでの不安定さが霧散して引っ込んでいく。平静を装うまでもなく、私は何時もの私に戻っていた。
にしても自分勝手な妹だ、チョップしてやろうか。……しないけど。
なんだか、とにかく体を動かしたくなってきた。私は『しょうがないなぁ』という格好をつける為に、胸の前で腕を組んだ。
「あーもう、難癖付けるんじゃないの。作ってあげるから、手伝って」
「よっしネゴシエーション成功!」
ソファから元気よく跳び降りると、リリカはキッチンに駈け出した。私はラタンのチェストから二人分のエプロンを取り出して後を追う。
そして買い物かご片手に、キッチンに魔法で光をつけてリリカにエプロンを渡した。いそいそと二人してエプロンを着ける。
「で、何作る?」
私がそう尋ねると、三角巾をきゅっと頭に結びつけながらリリカはニヤリと笑う。
「おでんの方向で」
「いやいやリリカ、おでんは無理でしょ。ねえ?時間的に」
「冗談。コンソメスープとかでいいんじゃない?玉ねぎとかジャガイモならあるでしょ」
私の突っ込みにリリカは顔を素に戻して適当に言ってきた。
他に作るものも思いつかないし、それで良いか。買ってきた鶏肉もこれに使ってしまおう。
今日慧音に貰った蕗は明日佃煮にでもしようかな。ああそうだ、ホウレン草とベーコンを唐辛子とかニンニクと炒めてペペロンチーノみたいなソテーにしよう。それだったらパンとも合うだろうし。今日は和食は排除の方針だ。
リリカにお鍋に水を入れるのを指示したりしながら、食材を洗ったり切ったりして、料理の準備を進めていく。ジャガイモをトントン切ったり、お湯が沸いたから慌ただしく火を弱めたり作業に追われているとさっき暗い気持ちだったことすら忘れそうだった。ちょっと気になるフレーズを鼻歌したりしながら、リリカに次々と指示をしていく。
「唐辛子に色がついたら引き上げて、このベーコンを入れておいて」
「わかってるてば、メルラン。いちいち指示しなくってもわかりますー」
リリカがまた唇を尖らせている。ああ、かわいい。
「じゃあ、その次になにするのか分かるのよね?」
え、とリリカが口ごもった。灰汁を取るために茹でたホウレン草を水で洗いながら私は、くふふと笑った。
「わかるよ。そのホウレン草を入れるんでしょ」
「残念、塩を一摘みだけ入れる、でしたー」
「そんなのしなくてもソテーは作れるし!」
リリカが壁で跳ね返るボールのように直ぐに反論して来た。口をへの字に曲げて、丸い目をすがめて私を真っ直ぐ睨んでいる。ああ、私の妹はなんて憎たらしくも可愛いんだろう。
この子は人をからかい過ぎている。だから、偶にはからかわれた方がいい。……ほんとは私がからかいたいだけなんだけど。
「残念なお味のソテーが、ね。普段料理を適当にしてるからそんななのよ。私が教えてあげるから明日も手伝って」
「……そしたら、私が当番の時に教えてよ」
「いっつも教えてるじゃない。でも絶対言う通りにしないし、『ウルサイ黙ってて、私の当番なんだから』とかいうばっか」
あー、とリリカがうんざりしたように呻く。パチパチいうベーコンをかき混ぜながら、リリカは片手で塩を振った。
「わかったよ、明日も手伝うから今日はもう勘弁して」
はいはい、と私が返す。真に受けちゃいけない。きっと明日になったらメンドクサイとか言ってやらないんだ。思わず苦笑いしながら、私は『こういうのは根気だな』って思った。
そして、辛うじて手懐けたリリカに切ったホウレン草を渡して、細かく刻んだジャガイモと玉ねぎの入ったお湯にソースをひとさじ入れようとした時、玄関の方で微かに物音がした。
ルナサが帰ったのだろうと思い、キッチンをリリカに任せて居間にぱたぱたと向かうと、やっぱりルナサがドアを開けて入ってきた。
「おかえり」
しかしルナサは返事もせず、俯き加減の顔をちょっと上げただけだった、重苦しい足取りで、スリッパを擦らせながらルナサがこっちに歩いてくる。また何かあったのだろう。また私は苦笑いする。
「失敗した。宣伝場所間違えた……。前と同じ場所だって思い込んでたら、山の反対側だった……」
ルナサがぼそぼそと今日の失敗談を話しだした。「もうやだ」とかまで呟いちゃっている。またか、と言いたくなるようにルナサはすぐ小さなことで落ち込んでしまうのだ。いちいち相手してもしょうが無いとは思うのだけれど、ついつい私は構ってしまう。
「でもちゃんと宣伝は出来たんでしょ?」
「一応出来たけど……ちょっと時間が遅れたし、警備担当の天狗さんが凄い困ってた。そのせいで宣伝もなんだか乗らないし……」
あー、とか言いながら私はほっぺたを掻く。その後落ち込んでこの時間までどっかでブラブラしていたんだろう。こういう状態のルナサはいくら慰めても落ち込んだままだから、これ以上相手しても無駄だ。
「そこで座ってて。今リリカと料理してるから、もうすぐしたら御飯できるよ。後でゆっくり話を聞いてあげるから」
「……ありがとう」
ルナサがソファーに鞄を置いて、寝転んだ。あらら、座るどころじゃなかったか。「ああ」だの、「うう」だの声を漏らしながら、ルナサはもぞもぞ動いている。
これは案外重症かもな、と思った。ルナサはその挫折の軽重で落ち込み方が比例しないからややこしい。とにかく今はそっとしておこう。
キッチンに戻ると、ソテーはあらかた出来上がったらしかった。味付けやらを除けば、チキンスープが具材に火がちゃんと通るのを待ってパンを焼くだけだ。
「リリカ、料理はもういいからお風呂沸かしてきて」
リリカは首を素早くこっちに向けて、ぶーぶー文句を言う。
「えー、ルナサ帰ってきたんでしょ。ルナサにやらせなよ。代わりに私達が料理したんだから」
「今なんだか落ち込んでて、それどころじゃないって感じだから。私は今から味付けしたりパンを焼いたりしなきゃいけないし。それに魔法を使えばすぐでしょ」
リリカがキッチンの入り口に手を引っ掛けて居間を覗いた。振り返ったリリカは、呆れたと言った感じにため息をついて、肩をすくめた。
「わかった、やるよ。あれじゃ任せらんない」
「ありがと」
リリカもこういう時は、動いてくれるのだ。多分、私とルナサが働くからサボるだけで、どうしても働かなきゃいけないときは、ちゃんと働く子なんだろうと思っている。あんまりそんな場面に出くわさないけど。
風呂場に向かったリリカを尻目に、私はパンをオーブンに入れ、スープやソテーの仕上げをした。
しばらくして料理が終わり、居間に鍋を持って行ってルナサに声を掛ける。
「出来たよー。座って」
「……うん」
私が皿やら何やら出している中、ルナサがのそのそと机に向かい、ガタガタと椅子を引いて座った。
程なくリリカが裏口から戻ってきた。ありがとう、と伝えるつもりで私がウインクすると。照れくさいのかリリカは私を無視するように歩いて黙って席に着いた。
ルナサがリリカを見て、グチグチと今日起こった事を話し始めた。リリカはうんざりした顔をしながらも相槌を打っている。
私はその間に我ながら素早い手さばきで料理をよそって、夕食の準備を終えた。
「じゃ、いただきます」
私の声に、二人がぼそぼそと追随し、いただきますと答えた。
ルナサのグチグチが再開して、今度はその矛先が私に向かった。
「ちゃんと伝えられてたのに、私なんで間違えたんだろ。メルランも場所変わったの覚えてたよね……」
食器を鳴らさずにスープをすくいつつ、咀嚼して飲み込む合間に愚痴るルナサの声に、私はいちいち手を止めて相手した。
「ええ、うん。一応覚えてたけど……いざとなったら私も間違えちゃうかも」
「そんな気休め……。ああ、私はなんでここぞという時にヘマをしでかすんだろう……」
私はその声に苦笑いするしかなく、助け舟を求めたつもりでリリカを見るが、リリカは『自分でなんとかしろ』というようにソテーをフォークで突き刺していた。
「そんな事ないって。それに、ルナサが一番メンドクサイ妖怪の山を受け持ってくれてるから、私達が楽出来てるんだし」
「そーかなぁ。そーでも無いと思うけどなぁ」
ルナサは魂を飛ばしたような顔で、気の抜けた声を出した。
苦笑いが愛想笑いに変わりそうなのを食い止めながら、私は必死にルナサの相手をした。
しかし、ルナサの言葉をやんわりと受け止めつつ、なんやかやと元気づけようとする私の声はルナサに届かないらしく、ぼやきは止まらなかった。
「いや……やっぱりダメだよ私は。このままじゃなぁ」
相手するのも無駄と悟った私は、相槌だけ打ちながら、食事を進めた。パンをちぎって口に入れたが、こんな状況ではひどく味気なく感じた。リリカは相変わらず私達を無視したように、さっさとパンを齧ったりスープを食べたりしていた。
それでもルナサはグチグチ続けながら、少し行儀悪くスープの底をこするように掬った。
その時だった。やたら耳に響く言葉をルナサは呟いた。
「ほんと駄目だ私は……。美味しいねコレ、タマネギが特に。お代わりして良い?」
伏せ気味していた顔を上げると、小難しい顔のままルナサが、ひょいとスープの入っていた深皿を指差し私に尋ねていた。
私は吹き出しそうになった顔を、さっきまでの苦笑いに閉じ込めて堪えた。腹から込み上げてくるひくつきには、少し前傾姿勢をとって誤魔化した。ルナサの横に座ったリリカがそっぽ向いて肩を震わせている。
――お代わりして良い?って。
ついさっきどころか今落ち込んでいるのに、『美味しいねコレ』なんて言ってしまうルナサの素振りがすごく滑稽で図太く見えたのだ。
ひくつくお腹を抑えながら私は平静を装ってルナサに答えようとした。
「う、うん。良いよ」
私はちょっと身を伸ばしてお玉をとって、ルナサの深皿にスープをよそった。声がすこし震えてしまった。
「ああ、ありがとう……。いやホント美味しいねコレ」
などと呟きながらルナサはスープをパクパク食べている。
私はその声にまた笑いがこみ上げてきて、また顔を伏せて食事している振りをした。
視界の上端で、ルナサが私達の顔をきょろきょろと見回した。
「二人ともなんだか顔が赤いね……。どうかした?」
「いや、ルナサ。ソテーが辛いから、顔が熱くなってるだけで。……ルナサもそうなってるよ」
ちらりとリリカの方を向くと、リリカの顔が真っ赤だった。きっと私の顔も赤くなっているのだろう。すごく顔が熱い。
ルナサは自分の顔に手をやって、「うーん……そうかな」などと呟いているが、ルナサの顔は普段どおりの白さである。また笑いそうになって私たちは堪える羽目になった。
――なんて、ルナサは図太いんだろう。
茶化すわけでなく、純粋に羨ましかった。私は愚痴一つ言うのも憚られて黙ってしまうというのに、お代わりをするような気楽さでルナサは愚痴るのだった。私なんて、せいぜいが笑い話にして言うぐらいで、辛い時に辛いって事を言えないのに。
ルナサは、私なんかよりずっと勇気がある。私はルナサのように話すことは出来ない。空気を壊してしまうだとか、鬱陶しがられるとか考えてしまって、そんな事とてもじゃないが不可能だ。
ルナサはまた、自分は駄目だとかいう愚痴を再開している。でも、お代わりを頼めるぐらいの元気があるのだったら大丈夫だという安堵が私を満たした。
それから、食事の美味しさが戻って、私たちはゆっくり夕食を味わったのだった。
6、夜眠りに付く頃
食事も終わり、風呂にも入ると、もう眠らねばならない時間が来て、私たちは二階に上がった。
ルナサがため息をつきながら自室に入ると、私はリリカが私を見ているのに気がついた。
どういうつもりかは読めていたけども、私は一応リリカに尋ねた。
「どうしたの?」
「えーと、ちょっと夜の散歩に出かけたいんだけどー……」
またか、という言葉が私の心の中で湧き上がった。つい一昨日もリリカは夜の散歩に出かけたのだ。しかもその時帰ってきたのは午前の2時である。私はリリカが帰ってくるまでずっと起きて待っていたのだ。
「ダメよ。2時に帰ってきたのはいつの話だったかしら?」
リリカはお決まりのごとく唇を尖らせて私を睨んでくる。上背はほとんど無いけど、私はちょっと背筋を伸ばしてリリカを見下ろす。
「どーして駄目なの。別に危なくなんてないよ」
「危ないの。一人で出かけたらどんな奴が襲ってくるか分からないでしょ」
リリカ一人なんて強い妖怪たちにとっては本当に雑魚のようなものでしか無い。騒霊といえど、妖怪の本分である夜の自然の中を歩くのは少々危険なのだ。
「じゃあ、メルランも一緒に散歩しようよ」
「いやよ、今日はもう寝たいの」
「今日お風呂沸かしてあげたのに?手伝いもしたのに?」
今日はもう寝るべきなのは確かだけれども、リリカのいう事も無視できなかった。せっかくリリカが手伝いしたのに、それに対するご褒美が無かったらリリカが拗ねて、手伝いをしなくなるかも知れない。
私はちょっと難しい顔を作って、ルナサの部屋をちらりと見た。
「姉さんの許可が出たら、一緒に行ってあげる。少しだけ」
リリカはやった、とか喜んでいる。実質ルナサが拒否するとは思えないので、散歩して良いと言ったようなものだった。それにしても、一昨日長々と散歩したばっかなのに何が嬉しいんだろうか――とか考えてしまう。
「ねえ、リリカと散歩に行きたいんだけど……良い?」
ルナサの部屋をノックして尋ねると、のそのそと物音がして、ドアからルナサが顔をのぞかせた。
「へえ、良いけど。私は除け者なんだ……」
「え、いや、じゃあ姉さんも来なよ」
「いい、そういう気分じゃないから……行ってらっしゃい」
それだけ言うと、ルナサはドアを閉めて部屋に戻った。
暗いなあ、という気持ちを込めて私がリリカと顔を見ると。リリカも私の顔を見ていた。リリカはなんだかちょっと笑いそうな顔をしていた。
立ち尽くしてもしょうが無いから、私たちは寝間着のまま外に出ることにした。サンダルを引っ掛けて外に出て、玄関を閉じた。空は、思ったとおり星一つない真っ暗な空だった。
夜のひんやりした風が私の髪をくすぐる。風呂から上がったばかりの火照った体には心地良かった。
リリカの方に振り返ると、何処に行くつもりなのか、緩やかに地面を離れ浮き上がっていた。
そして、すい、と私の頭上を越えて飛んでいく。何も身に着けない白いパジャマのまま、暗闇で浮かぶその姿は、まるで糸の切れた風船の様だった。パジャマの裾が微かに風にそよいでいる。
私は慌てて飛び上がり、リリカの手を掴んだ。こちらに向かせたリリカの顔は少し驚いていた。
「なに掴んでんのさ」
あ、と私の口が漏らした。誤魔化しの言葉を吐こうとして、少しつっかえた。
「……別に、はぐれないようにと思って掴んだだけ、暗いし」
「こんな所でどうしてはぐれる訳無いでしょ」
「はぐれる時ははぐれるわよ、きっと」
苦しい言い訳だと我ながら思った。なんの遮るものもないこの場所で、近くにさえいれば逸れるはずがない。
リリカは子供扱いされていると思ったらしく、そっぽを向いた。
「あーそう」
そしてそう呟くと、リリカは黙って私を引っ張り湖の逆側にある草原の方に向かった。途中で越える林や森は暗いながらも明らかなシルエットをもって私に存在を示していた。
虫の声が一際強い一帯に着くと、リリカは「降りるよ」といって降下し始めた。暗すぎて足元がどうなっているのか分からず危ないと思ったので、私は魔法で小さな光を作った。リリカは草の丈が低い所を選んで降りた。その素っ気無さに、またへそを曲げているのかと私は思った。しかし、リリカの顔を覗き込んでみると、むしろ機嫌が良さそうである。リリカは私の手をほどいて、足元を手で探ってから草の上に腰を下ろした。
私はなんだか腰をおろす気になれなくて、そこにたったまま佇んだ。
そのまま、1分、2分と時間が過ぎていく。リリカは何も話さない。チラリと表情を伺うと、目の前の草っ原をただ見つめているだけらしかった。なんだか、声を掛けづらかった。いつも、リリカはこんなことをしているのだろうか。もっと大騒ぎをしている様なイメージが有ったから少し意外に感じる。
私は辺りを見渡す。真っ暗な野原に明かり一つだけで、まるで私達が世界に隔絶されているようだ。羽虫が光に向かって飛んで来るので、私が明かりを消すと、また目が慣れて暗闇に馴染んでいった。
暗闇になじむと、虫の声が妙に良く聞こえるようになってきた。それはきっと私の感覚の話で、リリカはそう思わなかったかも知れない。現にリリカはずっと草っ原を見ているだけだった。たぶんリリカは、ひたすら虫の声に耳を傾けていたのだろう。そして耳を傾けたくなる気持ちは私にも分かった。虫達の声は、誰が指揮をしているわけでもないのに美しい音色がある。そして、誰が指揮をしているのでもないから、よく聞くと一定ではなく、聞き飽きなかった。暗闇に沈んで虫の声に浸っていると、時間の感覚がよく分からなくなってくる。私とリリカは、ずっと此処で虫の声を聞き続けるのだという妄想すらしそうだった。沢山の虫達が、命がけで歌い続けている。
――命。
命という言葉を思ったとき、私は不安に駆られ、とっさに屈んでリリカの手を握った。
リリカはまた驚いた目を私に向けているのだろう、ぱっちりした目が微かに光った。
「どうしたの?」
「そろそろ帰りましょ」
慌てて告げた誤魔化しは、今度はそれなりに理にかなっていた。今日はちょっとだけ散歩をしに出かけただけなのだ。もう出かけて何十分か経っている。散歩は十分だろう。
「やだよ、もうちょっと」
「駄目、もう40分は経ってる」
少し、多めに鯖を読んだ。
「そんなに経ってないって、せいぜい20分ぐらいだよ」
「じゃ、間を取って30分ね。何にせよ帰る時間よ」
そう告げると、私はリリカの手を握って少しだけ浮いた。
リリカはしぶしぶと立ち上がり、離陸した。
今度は私がリリカを引っ張って家に向かっている。
「ねえ、なんで寝なきゃいけないの?私達騒霊だよ」
リリカが背後で文句を言った。私は少し答えあぐねながら、紋切り型に返事した。
「規則を守って暮らすっていうのは大事なの」
リリカがはあ、とため息をついたのが聞こえた。
「あーあ、自分が他人に合わせられないから、他人を自分に合わせようとするんだ」
「姉に社会不適合者みたいなレッテル貼らないでよ、人聞きの悪い」
ふん、鼻を鳴らして不満を顕にするリリカは、今度は本当にへそを曲げたらしく、それからはずっと黙ったままだった。
程なく家に着くと、リリカは私の手を振り払い、さっさ鍵を開けて家に入っていった。
あーあ、といった気持ちで私はその背中を追う。リリカに譲歩してあげたのに、なんでこうなるんだろ。
家の中に入ると、階段を登るリリカの灯す明かりが登っていった。
私は追いかけて「ねえ、夜の散歩は何時もあんな感じなの?」と尋ねた。
リリカが振り向く。詮索するのかっていう様な目付きだった。階段の上の廊下でリリカは立ち止まり、私を見下ろしている。
「どうしてそんな事聞くの」
「いや虫の声を聞いてて楽しいのかなって思って」
「……楽しいよ、キレイだから。自分が溶けていくようで」
私は一瞬黙りこくった。変な事言ったかと気にするように、リリカはほっぺたを掻いている。
私はまたリリカに問いかけた。
「ねえ、今度から散歩しに行く時は私も一緒に行っていい?」
「やだ、どうせ早く帰らそうとするんでしょ」
「そんな事しないって約束するから」
疑うような目付きでリリカが私を見つめている。立ち止まった足をまた動かし、私は階段をゆっくりと上がる。
「虫の声聞きたいだけなら、一人で行けばいいじゃない」
「一緒に虫の声に耳を傾けるっていうのが、好きになったのよ。リリカが私と一緒に散歩するのが嫌じゃなかったらの話だけどね」
私がスラリと口から出任せを吐くと、リリカは少し複雑そうな顔で一瞬だまり、そして了承をした。
「……分かったそれで良いよ。メルランが付いてきてくれるなら気兼ねなく散歩できることだし。……にしてもメルランにこの風流が分かるとは思わなかったよ」
リリカは先程までの不機嫌をかなぐり捨てて、ニヤリとからかうような表情で私を見た。私はほっとしながらも、軽口に応酬する。
「リリカに分かるんだから、私に分からない訳が無いでしょ。じゃ、話は済んだからとっとと寝なさい」
「何よ自分で呼び止めておきながら……わたくしリリカは仰せ付け通りに眠りに付きます、これでよござんすか?」
「何で途中から江戸っ子なのよ……よござんす。おやすみなさい」
軽い捨て台詞を残して部屋に入るリリカに「おやすみなさい」と言ったとき、私はリリカの手をまた掴んで引き止めたくなる衝動に襲われた。しかし、私がその手を掴むことなく、ドアはあっさりと閉まり、私たちは隔絶された。私はまた一人になった。
自分で寝なさいって言っておきながら、何寂しくなってるんだろう。バカだ、私は。
言葉にもせず、口の中で呟きながら、私も自室に入る。机の上のトランペットのケースを通りがかりに撫で、ベッドに腰掛けた。
真っ暗闇の中、リリカの言葉を思い出す。
「楽しいよ、キレイだから。自分が溶けていくようで」
私は小さく呟いた。この言葉は、私にとって怖かった。リリカが、虫の声に耳を傾けているうちに、本当に溶けて消えるんじゃないかと思ってしまった。
だから、一緒に行って見守りたいと思ったのだ。ああ、私は病気かも知れない。
私はベッドに身を預ける。ひんやりしていたマットレスが、直ぐに温くなった。私は丸まるように寝返りを打った。
――寂しい。
でも私たちは一人で寝なければならない。今別々に寝ている事にもちゃんとした意味が有るのだ。
演奏中に、異様な一体感が私達を包む事がある。その時、互いの心の全てを共有できそうな気すらして、異常な幸福感が私の心を占めるのだ。だがそれに陥ったとき、私は自分を落ち着かせるようにしている。心を一つにせず、少し離れた所から自分の心を見るように。
何時からか、私は、一体感を持ちすぎる事を危険だと思ってしまっていた。
私たちは全員レイラに創りだされたのだから、一体感を持ちやすいのは当然なのだろう。私はそれが怖くなった。それぞれ一人の騒霊として生きているが、根は同じレイラの魔力だ。精神的な存在である私たちが一体になり過ぎれば、ふとした時に一つにくっついてしまうのではないだろうか。そう私は考えてしまったのだ。
意識を持てない時、つまり眠っているときは尚更だろう。その時、はたして私たちは個を保てるのだろうか。どうなのだろうか。それが不安で、それまで一緒に寝ていたのを、皆別々で眠る様に私が決めたのだ。
私たち騒霊の悲しさはここに有る。心は人と近い物でありながら、存在を支えるものがまるで違う。存在を守ろうと思えば、方針を持って自らを管理しなければならない。
人の様に本能に従えば存在を確立し続けられるものではない。人は腹が減れば食べ物を食い、敵をおそれ、年をとれば子を作り、そしていずれあの世に行く。しかし、我々は食べ物を食べても身は確かにならず、自らを脅かす物が何かも良く分からず、あの世に行けるかも分からない。
私達の存在がどういうものか教えてくれる教科書など無い、だから私は今までずっと手探りで生きてきた。
昔、人が食べられる植物を毒草扱いしていたような、愚かしい妄想を私はしているのかもしれない。でも、やっぱり、どうしようも無いのだ。私達姉妹が存在し続けるには例え愚かであろうとも慎重に生きなければならない。昔読んだ本に出てくる騒霊の様に、消滅する訳にはいかない。
私は、本当は、皆一緒に寝たいのだ。本当は寂しがり屋な自分を知っている。しかし心の行くまま生きる事など出来ない。そうやって生きるほうが、もはやずっと恐ろしくなってしまっている。
でも、と私の心が声を絞り出す。
――寂しい。怖い。
ああ、リリカは、ルナサは、今も壁の向こうに存在するのだろうか。消えてしまってるんじゃないだろうか。声が聞きたい、抱きしめたい、存在を確かめたい。あの憂鬱な顔と、憎たらしい顔が見たい。
私は布団を掻き抱く。柔らかな羽毛が抱きしめるには心もとなくて、抱き潰すように力を込めた。柔らかな感触に顔を埋め、髪を擦り付ける。静かな恐怖が背中から私を覆っていく。
――眠るのも怖い……。
私が意識を手放したとき、私の体が消滅するんじゃないだろうか。指先から、足元から溶けていって、塵以下になって消えてしまうんじゃないだろうか。
私が、私を拘束している意識がなくなれば、ずっと消えやすくなってしまっているんじゃないだろうか。
怖い。消えたら、きっとあの世も無くて、何にも無くなって、何かを感じることも、考えることも出来なくなってしまうんだろうか。存在自体が消滅するんだからそれどころじゃなくって、私というものが、この世界から永遠に除け者にされてしまうんじゃないだろうか。
そんな事を想像するたびに私の背中がぞくぞくして、もっと強く布団を抱きしめた。力を緩めたら、私が消えてしまうような気がした。
どうして私は騒霊なんかに生まれてしまったんだろう。もし私が人や、妖怪だったならあの世に行けるのに。いいや、この際そこら辺の獣でもいい。死んでも、存在は消滅しなくて済むんだから。
今日里で見た人々も、慧音も、飛んでいた鳥も、井戸にいた蛙も虫すらも、羨ましかった。ちゃんとそこに居て、訳の解らない理由で消えたりしない。そんなことで不安になったりしないんだ。
ずるい。人は私と見た目が変わらないのに、心もそっくりなのに、あり方がまるで違う。ずるい。人間はずるい。妖怪もずるい。妖精も私より存在が確かだからずるい。皆、ずるい。
これだから夜は嫌いなんだ。夜なんてずっと来なければ良いのに。嫌いだ。夜なんて嫌いだ。
少し手を伸ばせば手に届く、机の引き出しにしまってあるあの本をまた思い出す。
――廃屋からの音は消えたそうだ。
あの本を読んでから心の底から明るかった私は少しずつ消え失せて、臆病なヤツになった。だのに、いまだに怖いもの知らずのフリして生きている。人里で、本屋で、本を漁っていたときに偶然手にとった胡散臭い訳書、あの安売りされてたボロっちい本に、これほど人生を揺るがされるとは思ってなかった。一粒の不安の種がどんどん成長して、私の心に深く根を張っている。やっぱりあんな本読まなきゃ良かったのだろうか。いや、読まなかった方が怖い。それに他の事でいずれ気付いていただろう……。私はいつも同じ一人問答を繰り返す。
誰かがあの本を読めと言っている様な気がして、少しでも机から離れたくて、私は寝返りを打った。
もう二度と、絶対の安心というものは私の手には入らないのだろう。でも、それでもいいから、私が不安でもいいから、家族を守らなきゃいけない。二人が不安にならなくても生きられる様にしなきゃいけない。
でも、怖い。今意識を手放すのすら恐ろしい。一人は寂しい……
眠りを拒絶するかのように私は「寂しい」、「怖い」と心の中で繰り返す。そんな思考に囚われているうちに、無慈悲な眠りは私の体を包んで、ぐちゃぐちゃの心のまま私を引きずり込んでいくのだった。
7、明朝
目を覚ますと、部屋は青白んでいた。私は汗に湿った体を滅茶苦茶に動かしてベッドから這い出ようとした。起き抜けで体は上手く動かず、ベッドから転がり落ちた。体に走り抜ける衝撃を無視し、机のへりを掴んで立ち上がった。そして落ち着かない手つきでケースを開けてトランペットを取り出し、組み立てた。
ベッドに駆け上り、カーテンを力任せに横にひっぱる。カーテンレールが何度も引っ掛かり、そのたび私は狂いそうな気持ちになりそうになった。
そして青白い外を映す窓を押し開き、膝立ちになって体を外に突き出した。
空は何一つとして無い暗い青空で、声を張り上げても届かない様なその色に、私は息が詰まりそうになった。
ひるんだのも一瞬。私はマウスピースに唇を当て、トランペットを構え、そして全力で吹き鳴らした。
朝だ。もう怖がらなくていい朝が来たんだ。大嫌いな夜は終わった。希望の朝が来たんだ。
こんなの、吹き飛んでしまえ。溜まっていた泥を下から噴きあげて飛ばすように、ひたすら吹く。
体の中の空気を吐き切ると頭が真っ白になって、心の中に渦巻いていた物が消し飛んでいく様だった。
これで、今日も何時もどおりだ。ねえ、そうでしょ?
青空に問いかけても答えは帰らず、眼下でざわめく草っ原も何も言ってはくれなかった。
全力を振り絞って奏でる騒音は無音にも似ていて、この空の色のように何にも届かないのじゃないかと思った。
ぼろぼろと涙が出てきた。涙は顎まで伝って風にさらわれていった。
もう、どれだけ吹いたか分からない。10分かも知れない。3分も経っていないかも知れない。でも誰も答えてはくれなかった。
ルナサも、リリカも来なかった。
今、二人は何処に居るのだろう。本当に、隣の部屋に居るのだろうか。もう消えてしまったのじゃないだろうか。今、私はこの館に一人だけ残されたのではないだろうか。
だとしたら、私は後何秒この世に存在できるのだろうか。二人が消えたなら、私もきっと消えてしまうんだろう。消えたくない。存在を確かめたい。話したい。ふれ合いたい。
でも、怖くて部屋を訪ねることは出来ない。私にそんな勇気は無い。ドアを開けたら、ルナサもリリカも居ない気がする。
だから、私はトランペットを鳴らすことしか出来ない。
怯えを振りほどこうと、狂ったように吹き鳴らした。本当に私は狂ってしまったのかも知れない。
誰も来ない。見渡す限り誰もいない。私のトランペットで全ての音がかき消されて、何も聞こえない。
起きてよ。ねえ、姉さん、リリカ。私を安心させてよ。姿を見せてよ。
息を吐ききって、見苦しい息継ぎをしようと口を開けた時、部屋の方から外に風が抜けていって、カーテンが少し外に吸い込まれた。
涙を拭い、振り返るとルナサが居た。何時もどおり、ぼんやりした顔で廊下に立っていた。
――ほら、大丈夫だったじゃないか。
今日もなんて事ないのだ。ただ何時もよりも私が怯えていただけで、何もかもがいつも通りなんだ。
私は直ぐに窓に向き直り、「もうちょっとだけ吹いてるから」と告げた。涙声じゃなくて、ほっとした。きっと目元が赤くなってるだろうけど、これは寝起きで誤魔化せる。
ずっと私はこの恐怖と安堵のサイクルを繰り返すのだろう。でも、昨日と今日ほど怖く感じる日なんてめったに無いのだから。十分耐えられる。
問題ない、何にも問題ない。毎日ちょっとずつ耐えるだけだ、毎日、少しずつ。
昨日は本当にひどかったけど、今日はきっと大丈夫。
また息を吹きこもうとした瞬間、後ろの気配に気がついた。半端に音が出て、トランペットは間抜けな音を立てた。
首だけ振り返ると、ルナサが目の前に居た。手の届きそうな距離だった。それが、ずい、とまた歩み寄って、息の当たりそうな距離になった。
訳が分からず、私はぽかんとした。そしたら、私はルナサに引っ張られ、上下が逆さまになった。
ベッドに押し付けられていて、ルナサの顔が目の前に在った。そこでようやく私は、ルナサに押し倒されていることに気がついた。
本当にわけが分からなかった。ルナサの口が動いた。
「ねえ、メルラン」
「なに?」
そう答えながら私は、自分の目が見られている事に気がついた。まじまじと見られたら、泣いていたことがバレるかも知れない。私は慌てて目を両手で隠し、指の隙間からルナサを見た。それでもバレる気がして、顔を微妙に逸らした。それがかえって怪しいということまで、私は考えられなかった。
ルナサは私をじっと見つめている。目が据わっていて、感情が読めなかった。なぜ、ルナサは私を押し倒しているのだろうかと考えようとしたが、理由など思いつく訳が無かった。私の肩を掴んでいるルナサの両手から、じんわりと体温が移ってきた。
「昨日すごい落ち込んでた」
「へ?」
息を変に吸い込んで、変な声が出てしまった。
「広告に失敗したから、私すごい落ち込んでたのよ」
「あ、うん」
私が落ち込んでいるのを見抜いてたのかと思って驚いたけど、全然そんな事なかった。
じっとりと私を見つめたまま、ルナサは続ける。
「で、昨日全然眠れなかったの」
「……」
「眠いのよ」
ルナサの目を見て気がついた。これは据わっているというよりは眠たいのだ。
「だから、演奏禁止」
気がつくと、私のトランペットは取り上げられていて、机の上に放置されていた。なんという勝手者なんだ、私の姉は。
「ちょっと、姉さん勝手すぎ……」
肩を押さえられていてそっぽを向けないので、手で目を隠し、顔を背けるのを継続しながら私は文句を言おうとした。
しかし、ルナサはそれすら遮った。
「メルランうるさい」
頭をがっしと両腕で掴まれた。ぐいとルナサが顔を近づけてきたので何をされるのかと思ったら、私はルナサの胸に抱きしめられていた。
何も見えなくなって、私はもがいたが、今まで何処に秘めていたのだと言いたくなる様なルナサの剛力を振り払えず、バカバカしくなって抵抗を止めた。ルナサは私に体重がかかるのを避けるように横になったので、私は大分楽になった。
そして直ぐにルナサのややウルサイ寝息が聞こえてきた。体温が、とても温かかった。
「なにしてるの?」
リリカの声が聞こえた、辛うじて出来た隙間に顔を出すと、リリカが所在なさ気にドアの前に突っ立っていた。
当然ながら、昨日外で歩いていたのと同じパジャマを着ていた。
本当に、「なにしてるの?」だとおもう。トランペットを吹いていた私がルナサに抱きしめられているのだから。
「姉さん眠いんだって」
私はなんて言うべきか困ってそう告げると、リリカは察したのか察してないのか分からないけど「ふうん」と答えた。
その時、私はリリカも寝てないんじゃないかと、なんだか直感した。だから、私はリリカに手招きした。
「リリカも一緒に寝る?」
すると、リリカは案の定、話に乗りたげな顔をした。
「いいの?」
「今日はね」
そこまで言って私はまたルナサに押し込められた。でも、今度は苦しくないようルナサの逆側に顔が向くように体をねじった。すると座りが良くないのか、ルナサは私の体を色々まさぐって、結局胸の辺りを抱きしめてきた。
リリカが私達をまたいで、壁と私の間に寝転び、足元から布団を引っ張り上げて私達に被せた。こっちに向いた大きな目は、やっぱり眠いのかしょぼしょぼしている。
「なんでわざわざこっち側に来るの?狭いのに」
明かりを避けている振りをして目を隠しながら、私が尋ねると、リリカはめんどくさげに目を動かした。
「ルナサ寝相が悪いから蹴落とされちゃう」
リリカはそれだけを言うと、寝返りを打った。
「ねえ、昨日寝てないでしょ」
「ちゃんと寝たよ」
絶対嘘だと思った。どうせ、読書か作曲か何かをして、夜更かししたんだろう。そう思ったけど、言わなかった。
私たちは、ちょっと黙った。
「これって所謂川の字だよね」
不意に、そんな言葉が私の口から出てきた。
「むしろ、親亀、小亀、孫亀」
リリカはそっけなく返す。
そんなリリカを、私は後ろから抱きすくめた。
「抱きしめたら、マトリョーシカ」
意味も無く、それっぽいと思ったからそう言った。眠いのにあんまりちょっかいを掛けても可哀想だったから、私はもう黙った。
すると、リリカも直ぐに小さく寝息を立て始めた。
なんとなく言った言葉だけど、マトリョーシカって言うのは私達の関係の的を得ている。
だって、私はリリカを必死に守ろうとしているし、私はなんだかんだでルナサに救われている。
昨日だって、今日だって、ルナサは私の気持ちをなんだかんだで解きほぐした。今、私は、何となくな安堵感に包まれている。
絶対にわざとじゃないし、絶対に私の気持ちなんて気づいてないだろうけど、それでもこの厚かましさが私を救ってくれるのだ。リリカもそうだ、守っているつもりでも、時々救われている。なんか不本意だけど、ありがとうって言いたくなる。
私は口の中で、ありがとうって呟いた。絶対に二人には聞こえてないけども、なんか告白をしたみたいで、私の顔が熱くなった。
はあ、と私はため息をつく。なんだか、自分の心変わりに呆れたのだ。
これが唯の小康状態だって知っている。でも、前より二人を信じようって私は思った。つまり、そんなに簡単に消えないって信じようって思ったのだ。
だって、こんなに温かいんだから、こんなにずっしりと重いんだから。眠ったぐらいで消えるはずがない……。だなんて、根拠が根拠になっていない。でも、それでいいやって思う。
それでも、全員で眠るのはまだ怖いから、今日は私だけ起きておこうと思う。まあ、ちょっとずつ、ちょっとずつ変わっていこう。
私は抱きしめているリリカの向こうの、いつの間にか閉められていたらしいカーテンの、その隙間から覗く空を見た。
まだまだ暗かった。でも、南向きのこの窓から、昼には太陽が差し込まれるのだろう。
そうなったら多分、流石に暑くなって二人が起きだすだろう。
じゃあ、それまでは寝かせてあげようじゃないか、今日はオフだし――。そんな事を考えられるぐらい、私の心に余裕が出来ていた。
抱きしめたままだったらゴロゴロして苦しいだろうと思い、私はリリカを抱きしめるのを止めた。
そしたら手の座りが良くなくなったので、取り敢えずリリカの頭を撫でておいた。リリカは身を揺すって寝相を直した。ルナサが寝息が耳にかかってこそばゆかった。
繰り返すけど、これは小康状態だ。私が人を騙し続けている事も、私達が曖昧な存在であることも、解決された訳ではない。でも、それで構わないのだ。確かに、明日にはもう私は恐怖にとりつかれているのかも知れない。
いや、あの古本を核に、今も私の中で恐怖は潜み続けている。
でも、今私はこの二人をちょっと信じられている。日々努力を尽くせばきっと消えないで済むって、思えている。じゃあ、その努力をするまでだ。気を病む必要などない。
――だから。
今日二人が起きたら、思う存分こき使ってやろうと思う。それでヘトヘトにして、夜は問答無用に寝かせてやろう。このまま夜型にさせず、日々のリズムを取り戻し、規則正しく生きさせるために、これは重要なことだ。
ふふん、と私は鼻を鳴らす。リリカは今日食事当番だ、せいぜい料理を教えてやって、やたら手間のかかる料理を作らせてやろう。
ルナサもなんだかんだで仕事をさせて、ヘトヘトにさせてやろう。
何をしてもらおうかと考えた。物置の掃除でもやってもらおうか、いや、花壇の雑草を抜いてもらってもいいかも知れない。
そんな事を考えている内に、私の口元が笑みを浮かべ始めていた。
――人生は楽しんだ者勝ちだ。
こんな言葉を思うのは、ずいぶんと久しぶりな気がした。
カーテン越しに見える外の世界が、ちょっとずつ青く、明るくなっていくのを、私はずっと見つめている。
その色は、今の心に似合うと思った。
姉妹の心情が良く伝わってきました
冒頭の、一見読んでいて無駄に思えたシーンが後ろの方で繋がってくるのとか上手いなと思いました。
と言うか、そこに限らず想像を掻き立てられるような描写が多いですね。さて実際の所はどうなんでしょう。
ただ、総じて確かだと思うのはこの姉妹は仲が良いのだろうなと言う事です。
面白かったです。
劇的に救われるわけでもなく、ただただ一日を過ごす。
でも、そのうちに救われてほしいなぁ~
プリズムリバー三姉妹の依り代の問題は考えさせられるものですが、こんな感じに悩むメルランも面白いですね。
最後に三人で抱き合って眠るシーンは素敵だったと思います。
三人とも幸せでいて欲しいものですね。
なんとかルナサ。いや、どうにかナルサ。
7章が抜群に良い。1から6章までの丹念な積み重ねが効いたともいえるのでしょうが。
作品全体に関して感想を述べるならば、答えは正解なんだけど途中の計算式があやふや、みたいな印象。
おおむね全力? 俺もそう思う。まだまだ良くなる、そう確信しています。
なもんでこの点数。絶大なる期待を込めて。
彼女達は悩みなんてないという先入観があったので、新鮮でした
7章の雰囲気がとても素敵でした
面白かったです。
完全に救われたわけではないけれど、でも、きっと大丈夫だ。
そんな風に思わせてくれる作品が、私は好きです。
このお話もそのように感じられたので、とても良かったです。
気遣いのこころが文章の端端から滲み出てます。
あなたのことがちょっと好きになりました。
それに比べてメルランが一番「鬱」に近い気がするなぁ。うん、あれこれ抱えて見つからない答えを自分だけで探そうとしてるのね。
しかし無料チケットについてはむしろその参謀っぷりに感心。いや実に世渡り上手だと思う。本当に心の醜いやつはまず悩まないし。
さて、こういう日々を繰り返していくことで、いつかメルランも安心して一緒に眠ることが出来るのかな。出来ると良いなぁ。
好きです。