私、パチュリー・ノーレッジは困った事態に遭遇している、現在進行形で。
場所はおそらく紅魔館だろう、なんとなく見覚えがある部屋だ。具体的にどこかは不明。馴染みのあるいつ
もの大図書館ではないという事だけは確実。うちの優秀なメイド長が頻繁に空間を弄ってしまうため、紅魔館
の間取りは把握しづらい。少なくとも私は把握していない。咲夜本人にしか分からないのではないか?いや、
本人も把握できているのかどうか、怪しいものだ。
あまり広い部屋ではなく調度品も少ない。出入り口は一つだけで、紅魔館の他の部屋と同じく頑丈で厚い扉
に遮られている。ありがたい事に部屋の外から施錠しておいてくれたようだ、ドアノブをどう捻っても開ける
ことは出来なかった。
壁に設けられた窓から淡い月明かりが射し込んでいる。通風の用途で開けられているのか間口は狭い。一般
的な体型の人間では窓枠を取り外しても、そこから出入りすることは不可能に見える。
部屋には暖炉も無いし、私が知る限り紅魔館に隠し通路の類は無い。天井や床から脱出するのも構造的に不
可能だろう。
つまり、密室に閉じ込められているという状況。
部屋には小さなテーブルと背もたれ付きの椅子が一つずつ、箪笥や戸棚、クローゼットの類は無い。窓とは
反対側の壁に燭台があり、蝋燭が揺らめいている。
そして、床には人間の死体らしきものが寝そべっている。これが私を困らせている元凶なのだが。
死体らしきものは、金髪に黒い服。私のよく知っている人物、霧雨魔理沙の特徴と酷似していた。うつ伏せ
に倒れて、背中にはナイフが深々と刺さり、白いブラウスは血で染まっている。
近づいて詳しく調べてみる。手首をとって脈をみてみるが、いくら念入りに調べても脈は無い。首筋で調べ
てみても同様。脈が無いということは、確実に死んでいる。
私の知っている魔理沙とよく似ているが、うつ伏せで顔が見えないので断定できない。壁から燭台を取り、
頭をずらして顔を確認する。死の直前の苦しみがよく伝わる、苦悶に歪んだ表情だ。……見るんじゃなかった。
死体が魔理沙だということは確認できた。苦しみに歪む醜い表情を晒すのは彼女としても不本意であろう。
床に落ちていた彼女の帽子で顔を隠してやる。私が見たくないという理由もあるが。
密室に閉じ込められて部屋には魔理沙が死んでいる、かなり困った状況だ。もしこの場面を第三者に見られ
たら、私が魔理沙を殺したと誤解されてしまうだろう、困る。
更に困ったことに、床にうつ伏せで倒れる霧雨魔理沙を殺した犯人は、誤解でも何でもなく、どうやら私ら
しいということ。
何度考え直しても、私にはこの部屋で魔理沙を背中から刺した記憶が、ある。ナイフを握り、魔理沙の背中
に押し込み、暴れる魔理沙が事切れる瞬間の感触まで、実感として覚えている。記憶違いを疑いたいが、それ
らの記憶を裏付ける証拠として、私の両の手のひらは魔理沙の血で塗れており、私の着ているワンピースも返
り血で染まっていた。
以上が、私の現在置かれている状況。念を押しておくが、本気で困っている。
とりあえず私は上着を脱いで、手のひらに付いた血を拭う。本当なら水で洗い流したいが、それが可能な状
況ではない。私自身の体に外傷が無いことも確認する。つまり少なくとも、これは私の体から流れた血ではな
い。
折角椅子があるのだから、座らせてもらおう。落ちついてよく考える必要がある。とてもじゃないが落ち着
ける状況ではないが。
密室で殺人が行なわれているのだから、これも密室殺人となるのだろうか?犯人まで密室に閉じ込められて
しまっているのだから、成立していない気もするが。この状況で目撃者が現れたら、謎もへったくれもあった
もんじゃない。魔法使いのパチュリーさんが犯人です、で終了だ。
目撃者が驚いている隙に、私がなんらかの手段で気づかれずに逃走するのだろうか?それはそれで無理難題
だろう。身を隠すにはこの部屋はシンプルすぎるし、魔道書を用意していない私には、魔法を使用して目撃者
の盲点をつくトリックを仕掛けることもできない。
現実逃避をしているな、もう少し冷静に考えよう。
まず魔理沙を殺したのが本当に私なのかどうかという点。状況から考えるに、私が犯人だというのは動かし
難い事実のように見える。今現在、この部屋には私と魔理沙しかいないわけだし、なにより私には魔理沙を殺
した記憶もあれば実感もある。
なら私が犯人なのか?……いや、やはりそれは納得できない。
なぜ納得できないのか?ひとつは私には魔理沙を殺す理由が無い。つまり動機の不在だ。
確かに魔理沙は私の図書館から、頻繁に魔道書を無断で持ち去っている。正直に言うと迷惑している。しか
し、だからと言って殺そうと思ったことなど一度も無い。むしろ魔理沙に対して私は好意的な感情すら抱いて
いる。
……駄目だな、主観論に終始している。殺す理由がなかったことの証明にはならない。第三者が見れば、魔
道書の持ち去りは動機として成立しうるだろう。
もうひとつ納得できない理由、これは違和感と近いのだが、私には魔理沙を殺そうとする意思がなかった。
つまり殺意の不在だ。
確かに魔理沙をナイフで刺して、殺した記憶も実感もある。しかし、思い返してみれば、ナイフで刺して殺
しているまさにその最中にさえも、私には魔理沙を殺そうという意思が欠片もなかった。
殺そうとしていないのに、事実、行動は殺している……奇妙な話だ。
殺す意思が無かったのなら事故なのだろうか?どんな可能性を考えれば、魔理沙の背中をナイフで刺すとい
う事故が起こりえるのだろうか?
ナイフを持った私が床に躓く?ナイフを持った私のところに魔理沙が倒れ掛かってくる?
……駄目だ、私は魔理沙の背中にナイフを突き立てた後、力を込めている。
私自身は殺そうとする意思が無くても、客観的に見れば、それは殺意の証明となる。
軽く眩暈がしてきた。違う方向から考えてみよう。
仮に私が魔理沙を殺したとして、どのような不都合が生じるのか?
人間が人間を殺したのなら、法的に罰せられるだろう。しかし魔理沙も私も魔法使いである。魔法使いが人
間であるかどうかは解釈の難しい問題だが、捨虫の魔法を行使していない魔理沙は人間で、捨虫の魔法を行使
している私は妖怪と定義しても、恐らく問題は無いだろう。
妖怪が人間を殺したとなると、これは法の枠外だ。過去に妖怪が人間を襲って殺したという事例は数え切れ
ないほど発生しているが、いずれも法的な処罰は与えられていない。
では法の枠外であったなら不都合は生じないか?もちろんそんな事は無い。少なくとも霊夢が黙っていない
だろう。私を妖怪と定義することにより妖怪退治という大義名分が成立してしまう。例えそれが私怨に元づく
行動であったとしても。
もちろん妖怪退治は超法規的な行動だ、法は守ってくれない。
霊夢が動いた場合、私は自力で自分を護らなければならない。レミィは味方してくれるだろうか?
……駄目だ、吸血鬼である彼女には、生きた人間を襲ってはいけないという契約が科せられている。いくら
味方してくれても、後ろで応援するくらいの事しかできない。それではかえって邪魔だ。
霊夢以外にも、魔理沙を慕っていた妖怪たちが仇討ちに名乗りを挙げるかも知れない。このあたりは不確定
要素だが、どちらにしても今までどおりの生活が続けられると考えるのは甘い認識であろう。
全く……気が滅入ってくる。
やはりどうあっても、私が魔理沙を殺したということを認めるわけにはいかないな。
事実として納得できているのならまだしも、納得もできなければ実感も湧かない。いや、事実がどうである
かは関係無い。私自身が納得できるまで、私は全力で抵抗するべきだろう。
「霧雨魔理沙を殺したのは、私ではない」
あえて口に出してみた。そうすることに意味があるのかどうかは怪しいところだが、目に見える事実を受け
入れてしまおうという弱気な気分がいくぶん和らいだ気もする。
とにかく何か、私が魔理沙を殺していないと証明ができるまで、あらゆる可能性を考えてみるべきだろう。
例えば、目の前に横たわっているのは本当に魔理沙の死体なのだろうか?さっき調べたことにより、状態と
して生きていないのは確認した。また、顔を見ることにより魔理沙本人で間違いないのも確認した。したがっ
て魔理沙の死体であることは確実である。
ただしこれは、視覚と触覚から得られる情報から考察した結果でしかない。もし、何か特殊な能力を使用す
ることにより視覚と触覚に偽の情報を認識させることができたとしたら、なにかしら変化系の能力が使用され
ていたとしたら、私の目の前に横たわっているのは
魔理沙の死体に見える何か
ということにならないか?
私自身はまだ会ったことがないのだが、封獣ぬえという妖怪の話を聞いたことがある。長らく正体不明とさ
れていた妖怪で、正体不明の種という、見る人によって違う物に見えてしまう特殊なアイテムを使用するらし
い。
もし、目の前に横たわっている物が魔理沙の死体に見える正体不明の種だったとしたら、本物の魔理沙は別
の場所でいつも通り生きていることになり、すなわち私が魔理沙を殺していないということになるのでは無い
か?
流石に突飛すぎるな、これでは妄想だ。会ったことも話したこともない妖怪が、なぜわざわざ私に魔理沙の
死体を見せるのか、そんなことをする理由が無い。それに、魔理沙を殺したという記憶も説明できない。
他にそのような変化系の能力を使う妖怪の話を聞いたことが無い。ということは、目の前にいるのは確実に
魔理沙本人で、それを殺したのは私だとするのが妥当な考えであろう。
ならば別の可能性として、私の今置かれている状況自体が現実ではないということは有り得ないだろうか?
例えば、これが私の見ている夢で、実際の私はベッドで寝息を立てているという可能性。
まさに悪夢のような現状を考えれば、私にとっては酷く在りがたいことなのだが、はたしてこれが夢だと考
えるのは無理があるような気もする。
意識も感覚も明確なので、夢だとは実感しづらい。先ほどから蝋燭も徐々に短くなっていっていることから、
時間の経過も正常なようだ。
とはいっても、蝋燭だけでは今が何時ごろなのか分からない。部屋には時計も無いし私も普段から時計を持
たない習慣なので、当然今も時計を持っておらず、漠然と夜だということしか分からない。
今の時間が分かったとしても、そんなことに意味は無いのかもしれないけど、窓から月が見えればおおよそ
の時間も分かるだろう。
窓を開けて夜空を見上げる。星座から方角を見当つけて東の空を見ると、比較的低い位置に満月が浮かんで
いるのが見えた。おおよそ二十時から二十一時の間ぐらいか。月齢からも日付が変わっていないことがわかる。
いつの間にか二、三日記憶が飛んでいただなんて事は起こっていないようだ。
「……あ!」
私は思わず声をあげる。
なんでこんな簡単で大事なことを、今まで失念していたのだろうか?やはり自覚は無くとも内心はかなり動
揺しているようだ。
つまり何度思い返しても、私には魔理沙を殺した記憶は、ある。しかし何度思い返しても、私にはこの部屋
に入った記憶が、ない。
図書館でいつも通りに魔道書を読み解いていたのが最後の記憶。それ以降の記憶は、魔理沙を殺している最
中のものとなる。この間に大幅な記憶の欠落がある、これはどう考えても不自然だ。
どう考えればこの現象に説明がつくのか?ひとつ考えられる可能性としては、私が局地的に記憶を欠落して
しまう謎の病気を煩っているという可能性。しかも発症したのはつい一時間ほど前だ。
……馬鹿馬鹿しい。
次の可能性、魔理沙を殺したということが私にとってあまりにもショックの大きいことだったので、それ以
前の記憶を忘れてしまった。
……多少はマシだけれど、まだ不自然だ。起こり得ないと切り捨てても問題なさそうだな。
最後の可能性。図書館から移動して部屋に入るまでの行動が、私の意思の下に行なわれた行動では無いため
記憶に残っていないという可能性。……具体的な方法はわからないが、大雑把に言ってしまえば何者かによっ
て行動が操られていたということ。
考え方としては自然に思えるし、魔理沙を殺したという行為に私が殺意を抱いていないことに説明がつくか
もしれない。つまり、この部屋に入ったことも、魔理沙を殺したことも、私自身の意思ではなく、私ではない
何者かの意思によって行なわれた行動だということ。
それは、何者かが私を罠に嵌めようとしているということを意味する。
ようやく、掴み所の無い状況に手応えらしきものが見えてきたようだ。私でない犯人がもし居るのだとすれ
ば、その犯人を突き止めることがすなわち私が無罪であることの証明となる。
欠落した記憶は現状で考えても恐らくわからないだろう。でも、それ以前の記憶を思い返せば、こんな状況
に私を叩き込んだ犯人が特定できるのではなかろうか?
いや、たとえ犯人が特定できなかったとしても、今のこの不可思議で困った状態に納得のいく説明をつける
ことぐらいは出来ないだろうか?
血生臭い話が胡散臭い話に変わってきたな。
なんにせよこの部屋では他にできる事も無い。欠落した記憶を起点として、今日の記憶を遡ってみることに
しよう。
そう、たしか図書館に珍しい来客があった。地霊殿の主、古明地さとりだ。時刻は夕食を摂った後だったか
ら、恐らく十九時頃だろう。
彼女を疑うべきかどうかは判断に迷うが、注意深く思い返すことにより何かしらかの手掛かりが掴めるので
はなかろうか。
◆
小さな足音が近づいてきたので顔を上げると、小柄な少女が立っていた。
「こちらに妹が来てないかしら」
私が顔を上げるのを待って、目の前の少女、古明地さとりは呟くように問いかける。柔らかく微笑んでいる
のだが、微笑んでいながらも不自然に白い顔は無表情を感じさせる。まるで能面のようだ。
「ここにあなたの妹がいると、どうして思ったの?」
「表の門番がこちらにいると教えてくれたわ」
そういう類の仕事は門番ではなく受付嬢の仕事だと思うのだが、おそらく美鈴には美鈴なりの考えがあって、
得体の知れない不審人物を親切に案内までして紅魔館に通したのであろう。他人の仕事領域に文句を言うつも
りは無いが、一体どんな劣悪な妖怪ならば彼女から門前払いを受けることができるのだろうかと疑問が湧いて
くる。
「……少し前に、本を読ませてほしいと訪ねてきたわ、今もまだ居るかどうかは分からないけど。ここの書物
を持ち出さなければ好きに妹さんを探してもらって構わない。わからない事があったら魔理沙がその辺にいる
はずだから、彼女に聞いて」
「ありがとう」
さとりは丁寧にお辞儀をすると、図書館の奥へ消えていった。後は勝手にやるだろう。
私は意識を手元の魔道書に戻す。
◆
これ以降の記憶は酷く曖昧だ。いつもと同じように魔道書に目を通し、その意味を分析し読み解く作業に就
いていたはずなのだが……ふと気がつくと、何処だかもよく分からない部屋に居て、魔理沙の背中をナイフで
刺していた。
魔道書の解読中は思考の全てを魔法の理論解析に振っているため、現実世界にある実体としての私は蔑ろに
なる面はある。本に集中し過ぎるあまり、上の空になっていると表現すれば分かりやすいか。
しかしそれにしても、ここまで酷い記憶の欠落というのは過去に経験したことが無い。いつもは精々、空に
なったティーカップに口をつけて紅茶を飲んだと思い込む程度の話だ。
さて、私の置かれた現状は古明地さとりの登場によって説明することができるだろうか?つまりは、彼女が
なにかしらの行動をしたがために、私が魔理沙を殺して密室に閉じ込められることとなった、と。
疑うべきは彼女の持つ特殊な能力ということになるであろう。さとりの妖怪である彼女は生来の能力として
第三の目を通して他人の心の中を覗くことができる。この能力により、彼女は、第三の目に写し出した対象の
考えていることは勿論、隠していること、過去の記憶に至るまで、無差別に認識することができるらしい。
心を覗き思考を読む、確かに恐ろしい能力ではあるのだが、その能力の性格ゆえにどこまで行っても受動的
であるという特性を持つこととなる。つまり、心を読まれたからといって、それにより怪我をしたり死に至っ
たりという事は通常なら在りえないわけだ。
このさとりの能力を利用して、密室で魔理沙を殺したという私の置かれた状況が作り出せるのであろうか?
考えるまでもない、受動的な特性の能力である以上、どんな理論展開を繰り広げても不可能だ。
しかし彼女の能力が、ただ相手の心を覗くだけでは無いことに気づく。彼女の能力には想起という概念があ
る。これは心を覗くという能力の応用として、対象が過去に体験したスペルカード等の能力を再現して、自ら
の能力として発揮するという極めて特殊な能力だ。実際に地霊殿の異変の時、魔理沙の心を覗いて彼女が過去
に体験した私のスペルを見事に再現していたのを覚えている。
想起というものがどの程度までの再現を可能とするのかは分からない。以前、霊夢に聞いた話によると萃香
の能力を想起することにより、さとり自身が霧状に変化することが可能だったらしい。だとすればスペルカー
ドに囚われることなく、対象の知っている能力ならほぼ制約無く再現が可能だということだろうか。
この想起ならば、相手に対して能動的に働きかけることが可能であろう。では想起により今の私の状況が説
明できるかというと、これも難しい気がする。過去に私が魔理沙を殺したことがあるのならば、それを想起す
ることも可能だろう。しかし当然ながら、私は過去に魔理沙を殺したことは無いし、そもそも人間である魔理
沙は一度殺されれば二度と生き返ることは無い。
ふと私は、霧状に変化したさとりが神社を彷徨うところを想像して、少し可笑しい気分になる。
なんにせよ、私の置かれた状況とさとりを関連付けることは難しいように思える。
小悪魔が不在なのも、いつもと違う点なのかもしれない。それが私の現状と直接の関わりを持つとはどうに
も考え難いが。
魔界のほうでちょっとした魔道書の出物があったと知人から連絡があったため、私のかわりに彼女を魔界に
向かわせていた。速くとも帰還は明日になるであろう。
私一人がいつも通りの生活をするだけなら小悪魔の助けは必要ない。どうしても人手が必要な時には、咲夜
を呼んで手伝ってもらえばいい。
その咲夜も、こちらから呼ばない限り図書館へは顔を出さない。思考の邪魔をされるのを私が嫌うというこ
とを彼女はよく理解しているので、彼女なりに気を遣ってくれているのだ。唯一の例外はレミィに私を呼んで
こいと命じられた時。そのレミィも今夜は外出中であろう。
つまり、偶然図書館に顔を出した咲夜かレミィが、私が居ないことを不審に思って捜索する、といった友情
に溢れるストーリーは期待できないというわけだ。
さておき、更に記憶を遡ってみることにしよう。
古明地さとりが現れる三時間ほど前に、妹の古明地こいしが図書館を訪れていた。さとりが妹を探しに来た
時点で、こいしがまだ図書館に居たかどうかは確認できていないので不明。
◆
「こんにちは、魔法使いさん」
声をかけられるまで存在に気がつかなかった。
別に私が呆けていたわけではない。無意識故に誰にも存在を悟られないというのが、私の目の前に立つ少女
の能力なのだから。
無意識を操る程度の能力、とか言ったっけ。
この少女、さとりの妹、古明地こいしは、頻繁ではないにしろたびたびここを訪れる。忍び込むと言ったほ
うが正確かもしれないが。
いつのまにか現れて、気の向くまま本を読んで、ふと気がつくといなくなっている。
突然に声をかけられて私が少しだけ驚くのも、いつものことである。
「本を読ませてほしいの」
この台詞も、いつもと同じ。
手が届くほど近くにいるのに、どこにも居ないかのように存在が希薄、不思議な子だ。
「持ち出したり破いたりしなければ、好きに読んでもらって構わない」
私が返す言葉も、いつもと同じ。
「今日は案内がいないから、その辺にいる魔理沙に案内をしてもらうといいわ」
この台詞はいつもと異なった。
いつもなら小悪魔に任せるのだが、今日はいないのだから仕方ない。魔理沙でも案内役ぐらいはできるだろ
う……たぶん。
小悪魔の話では、こいし嬢はいつも目的の書物まで案内し終わる前に姿を消してしまうらしい。不審に思い
姿を探すと、当初とは無関係な場所で無関係な本を読んでいるとか。まるで幽霊のような話だ。
なんにせよ、静かにしていてくれさえすれば、どうこう言うつもりはない。
伝える必要のあることを伝え終えた私は、手元の魔道書に視線を戻す。再び顔を上げると、古明地 こいし
の姿は消えていた。
これもいつものこと。
◆
古明地こいし、この不思議な少女が図書館を訪れたことと私の置かれた状況とは関連するのだろうか?
例えば彼女の能力、無意識を操る程度というその能力によって、強制的に無意識状態とされた私が、無意識
を操られて魔理沙を刺し殺した、と。
彼女の能力の詳細がわからないので何とも言えないのだが、流石に無理のある推測に思える。
こいしの能力が無意識状態にある他者を自在に操る能力だとは聞いた覚えがない。私が聞いて実感した情報
だと、彼女の能力は自身の存在を他者に意識させない、そういう類いの物のように思う。
また、もし仮に彼女の能力で無意識状態にある私を自在に操れたとしても、はたして魔理沙を殺した時点で
の私は無意識状態であったと言えるのであろうか?むしろ殺意を抱いていないという奇妙な点を除けば、意識
は鮮明だったのでは無かろうか?
こいしの能力で操られた上で、魔理沙を刺し殺したという仮説は成り立たないようだ。
ならば本来の、既に観測されている彼女の能力、自身の存在を他者に意識させないという点ではどうであろ
うか?私が気がついていないだけで、今現在この部屋にこいしが居るという可能性は。
……居たからどうなると言うのだ?仮にこいしが私に認識されないうちにこの部屋で魔理沙を殺したとすれ
ば、それでは私自身に魔理沙を殺したという記憶があることにが説明つかない、矛盾が発生する。
どうやら古明地こいしと私の置かれている状況とは無関係のようだ。
古明地さとり、こいし姉妹の他に図書館を訪れたのは、当然だが被害者である霧雨魔理沙。
今日尋ねて来たのは私が知る限りではその三人だけである。もちろん私は一日中、図書館に居た。
常識的に考えれば魔理沙が犯人であるはずは無いのだが、なにか手掛かりを残してくれているのかもしれな
い。彼女が訪れた時のことも思い出してみよう。
◆
彼女が図書館に現れたのは、たしか正午を少し回った頃だった。当然予告も無いし、ここを訪れる頻度や時
間帯にも法則性が見られないので、たぶん思い付くまま行動しているのだと思う。
彼女流に言えば「潜入」らしいが、もはや日常の風物詩といってもいい程度には顔を出すので、突然やって
来ても誰も驚かない。
「あれ、今日は小悪魔いないのか」
「あの子は遣いに出したわ、明日までは戻らない」
「そうか、探してる本があったんだが自分で探さないといけないのか、まいったな」
「がんばるといいわ」
横目でチラチラ私の顔色を伺っているが、気づかないフリをする。
「おいおい、そこは『なんなら私が案内してあげましょうか』だろうが」
「残念ね、図書館の管理は小悪魔に任せてあるから、私には本の場所がわからないの」
これは嘘。私はここの蔵書の全てを把握し記憶している。正確なタイトルさえ分かればどの場所にあるのか
も当然分かる。しかし無尽蔵に広いここでは、場所が分かっていてもそこに辿り着くまでがなかなか骨の折れ
る仕事になる。だからやりたくない、だから嘘を吐く。
「なんだそりゃ?偉そうに座ってても本の場所すら分からないんじゃ、小悪魔のが偉いみたいじゃないか」
「そうね、その通りね」
挑発に乗る気は無い。たまには自分で汗水流して探すといい。
「仕方ない……ここの広さを考えると気が遠くなるが、自分で探すか」
それからしばらく魔理沙はメモをとりながら飛び回っていた。動きが見えなくなった時は、廊下に座って本
を読んでいるようだった。目的の本じゃなくても、興味があればとりあえず読んでみるのだろう。
◆
言うまでも無く魔理沙は被害者である。被害者の行動が発端となって、密室に死体とともに閉じ込められて
いるという私の現状が説明できるとは考えづらい。私が重要な記憶を失念しているのならば話は別だが。
だが、記憶を考察することにより、私の最も知りたくない情報が浮き彫りにされる可能性が無いとは言い切
れない。
私が魔理沙を殺害した動機が。
それが明確になるという事は、私自身が間違いなく魔理沙を殺したと認めることになる。最悪の結末だ。
いや、本当に最悪なのは、現象に納得ができない今か。納得ができるのなら、今の状況よりはほんの僅かだ
けれどマシだな。
殺害の動機として思い当たりそうな事としては、魔理沙がたびたび図書館の蔵書を持ち出していた事だろう
か?確かに持ち出されるのは迷惑だけれども、口には出さないながらこれについては容認していた。
蔵書を金品に換えるのが目的での持ち出しだったとしたら、私は全力で阻止していたと思う。それでも殺意
には至らないが。しかし彼女の場合、営利目的などでは無く、純粋な知識欲として持ち出しを行なっていたと
私は認識している。
それはつまり、本に納められた知識が人に伝えられるという、書物本来の目的に沿った行為なのではないか
と思える。だからまぁ、今まで大目に見てきた。もちろん本当は持ち出してほしく無いが。
そもそも霧雨魔理沙という人物は魔法使いとして見た場合、少々異例な存在なのではないかと思う。魔法に
有利な幻想郷にあるとしても、スペルを行使して戦闘ができるクラスの魔法使いとしては、あまりにも若すぎ
る。
しかも私のような生まれつきの魔法使いでもないし、力のある魔法使いと師従関係にあった訳でもない。
魔法使いになりたいという一念のもと独学を積み重ね今に至るということらしい、俄かには信じ難い話だ。
だから私が魔理沙に抱いた最初の印象は、不可思議さだった。これだけの条件を考えに入れれば、彼女には
なにか常人離れした天賦の才が備わっているのではないかと思われる。しかしいくら観察しても一向にそれら
しい才能は見出せない。魔法使いとしてはあまりにも普通すぎるのだ。
長く観察し考察した結果、納得できかねる話ではあるが、彼女は人並み以上に努力家だという結論に至った。
たくさん努力しているから程度の理由で、二十歳にも満たない普通の人間が時には私を戦闘で負かすことも
あるというのは信じられない事なのだが、他には欠片も理由が見当たらないのだから仕方ない。
そんな努力家がうちの図書館にある知識を欲しがっているのなら、多少のことは目を瞑ってやろう、本とし
ても本棚の中で朽ちるのを待つだけよりもは有意義な使われ方だろう、これが魔理沙の持ち出しに対する私の
考え方だった。
彼女が図書館に頻繁に出入りするようになるにつれ、私の心情は少しずつ変化していった。彼女は節度のあ
る読書家なので必要がなければ静寂を妨げることなく自身の読書に没頭していた。しかし、彼女が訪れ彼女が
居る図書館に、私は何とも表現できない心地よさのようなものを感じるようになっていた。
そのうちに、彼女がいない図書館に一抹の寂しさを感じるようになり、彼女が図書館を訪れることを心待ち
にしている自分に気づく。
私は魔理沙のことを友達だと捉えていたのだと思う。恐らく魔理沙も、私のことを友達として扱ってくれて
いたように思える。
そんな友達を自ら殺す理由が、いくら考えても思い当たらない。やはり私には魔理沙を殺す動機が無い。
そのことを確認できただけでも、魔理沙のことを思い返した意味はあった。
図書館を訪れた人物は古明地姉妹、それと魔理沙の三人だ。他にいつもと違う点は小悪魔がいないというこ
と。記憶を辿って考察しても、私の置かれた不愉快な状況に納得のいく回答は得られなかったようだ。
しかし、なにかを見落としているような、腑に落ちない感覚があった。
目を瞑りもう一度記憶を辿る。今日のこと、昨日のこと、一昨日のこと……やがて、ある特異点に思い当た
る。
今日、図書館を訪れたのは先の三人だけだ。しかし、恐らくそれは重要では無かった。
今日だけ図書館を訪れなかった人物がいる。その人物は昨日までの数日間、欠かさず図書館を尋ねて来てい
ながら、今日だけは姿を現さなかった。
彼女ならば、あるいは……。
◆
五日ほど前のことだった。
ここに来る客としては珍しいことに、上白沢慧音は案内に美鈴を連れて図書館を訪れた。
「それじゃ、私は持ち場に戻りますので」
「ああ、手間をかけて済まなかった」
飾り気の無い男口調と釣り合わない、丁寧なお辞儀を美鈴に返す慧音。堅苦しいのはいつもどおり。
「図書館までの道がわからなかったの?」
「そうではないが、悪魔の館と揶揄されるような場所でも人様の家には違いない。来客が一人で歩きまわるの
は無礼だろう」
「それはもっともな意見ね。どこかの黒いのにも見習ってほしいわ」
「勘違いするなよ私は泥棒だぜ!家人に案内されて登場するだなんて、泥棒のアイデンティティに反するだろ
うが」
家人に勧められてお茶を呑んだりラスクを齧ったりしている現状は、泥棒のアイデンティティに反しないの
だろうか。
ともかく、泥棒と違い本物の来客である慧音にお茶を出して用件を聞くことにしよう。
「それで今日は何の用かしら」
「うん、前に言っていた里の街道整備の話が本格的に動くことになってな」
「へぇ、よかったじゃない」
「今は具体的な計画を話し合っている。そこでなんだが、一言に街道整備といっても私たちは素人の集まりだ。
里の立地条件からどのような物が最適なのか、私たちでは知り得ない」
「つまり、ここで街道整備について調べさせてほしいと」
「そういうことだ」
静かにお茶を呑む慧音の様子は、どことなく気分が高揚しているように見える。
「ここで本を見て調べるのは構わないわ。ただし本を持ち出すのはお断りさせてもらってる」
「勝手に持ち出してもバレないけどな」
「泥棒の意見は参考に価しない」
この泥棒は本の持ち出しがバレていないと思っているのだろうか?正直呆れる。
「わかった。必要な部分は持ち出さずにここで書き写させてもらう」
「ええ」
「恩に着る。正直なところを言うと、おまえには断られると思っていた。ここの蔵書を部外者に見せるのを嫌
うのではないかと、私は勝手に思い込んでいてな」
「本というのは形でしかなくて価値があるのはそこに綴られた知識よ。その知識も人に使われなければ価値を
無くすわ。伝わりやすい形にしたのが本というだけの話。私は知識を求める者には寛容な心で接することにし
ている」
「そうか、おまえのことを今まで誤解していたのかもしれない」
「ただし騒がしい奴は即座に追い出すわ。図書館は何よりも静寂を重んじるべきだから」
「ああ、なんにせよ助かるよ」
◆
その日から上白沢慧音は図書館に毎日現れた。
夕方頃に来て、黙々と蔵書を書き写して、日付が替わる頃合で帰っていった。しかし四日間連日で尋ねてき
たにも関わらず、とくに予告もなく今日は現れなかった。
私はその理由を、今夜が満月だからと解釈していた。満月の夜になると上白沢慧音はハクタクとなり、溜ま
った仕事を一斉に消化すると聞く。今日図書館を訪れなかったのは、彼女本来の仕事で忙しいためだと思っ
ていた。
もし、その前提が間違っていたとしたら?つまり、上白沢慧音が本当は今日も図書館に来ていたのだとした
ら?里のために街道整備のことを調べるためでなく、霧雨魔理沙を殺害するために、来ていたのだとしたら?
私が今置かれている奇妙な状況は、彼女が図書館に来ていたとすることで説明可能だろうか?
彼女は、歴史を消す能力を有する。実際には起こっていることでも、彼女がその事実を抹消して歴史を編纂
することにより、それが起こっていないと認識させることができる。……いやこの能力については今は考えな
くてもいい、問題はもうひとつの能力だ。
さきほども触れたが、彼女は満月の夜になるとハクタクという妖怪に変身してしまう。本人が好む好まざる
に関わらず、自然現象としてこれは起こってしまうらしい。
ハクタクと化した彼女は、人間の状態とは異なる能力を有する。つまり、歴史を創る能力。この能力は歴史
を消す能力とはまさに正反対で
実際に起こっていないことを、彼女が捏造して歴史を編纂することにより、それが起こったと認識させるこ
とができる。
つまり……私の現状とこの能力を合わせて考えれば…………つまりはこういう事か!?
私は霧雨魔理沙を殺していないし密室に入ってすらいない。しかし上白沢慧音の能力で歴史を捏造された。
その歴史の中では、私は霧雨魔理沙を殺して密室に閉じ込められている。そして私は今まさにその歴史の中に
いる。
これならば、不可思議な今の状況も説明可能ではなかろうか?
必要な条件は揃っているし、致命的な矛盾も見当たらない。
歯車が噛み合って綺麗に回りだすような感触。
慧音のこの行動の意図はわからないし、慧音が本当は図書館に来ていたということも証明できない。
しかし、恐らくこれが正解なのではないかという、そんな予感がする。
もう少し踏み込んで考えてみよう。ハクタクの歴史を創る能力については、以前慧音本人から仔細な情報を
聞いたことがある。射命丸文の取材に協力するという形で、慧音に質問をする機会があったのだ。
たしか二年ほど前のことだったと思う。
◆
「というわけでして、慧音さんへの取材の際に、ぜひパチュリーさんにインタビュアーを勤めていただいてで
すね、こうアカデミックな観点から彼女のハクタクの能力を白日の下に晒していただけないかと」
大げさな身振り手振りを交えて説明する射命丸。観察していると少し面白い。
「あなたがインタビューしても私がインタビューしても大して内容は変わらなく思うけど、まあハクタクの歴
史を創る能力には興味があるわね」
「うんうん、そうですよね」
「わかりました、引き受けるわ。私のほうはいつでも都合つけるから、あなたと慧音の都合の良い日時を指定
してもらえるかしら」
取材は慧音の都合を考え、里にある寺小屋で行なわれることとなった。当然、満月の夜のことである。
私たちを快く迎えてくれた慧音には、普段の姿と違い立派な二本の角が生えていた。噂に聞いた通りだ。
「自身の能力を晒すような真似して、大丈夫なのかしら」
「それは晒すより晒さないほうがいいのだが、実は射命丸殿と取り引きがあってな」
「そうなんですよ、ギブアンドテイクですね」
「うん、里の街道を整備しようという計画があるのだが、利便性を考えるとどうしても天狗のテリトリーに抵
触してしまう。そこで天狗にも計画に協力してもらえないかと思っているのだが、その交渉役を射命丸殿が引
き受けてくれるというのだ」
「そうです、その交換条件が今日の慧音さんへの取材ですね」
人も妖怪も、長く生きるほど生きることに意味を欲しがるようになる。長すぎる時間を無駄なものにしたく
ないと思うのは自然なことだ。
慧音にとっては人間の里が、生きる意味にあたるのであろう。私の図書館や射命丸の新聞と同じように。
「そのあたりの込み入った事情には興味無いわ。さしあたってはハクタクの歴史を創るという能力について説
明してもらえないかしら?歴史を消すのは私たちの魔法にも似た物があるから想像し易いのだけれど、歴史を
創るというのはイメージが湧かないわ」
「口で説明するのはなかなか難しいが、そうだな……例えばある所に王がいたとする。こいつは人格に問題が
ある、いわゆる暴君だ。事実をありのまま伝えれば、その王は暴君だったとなる、当然だな。しかし誰かが作
為的に事実と異なる情報を流布したとする、その王は国民に慕われていたと。この場合、王が暴君だったとい
うのが『事実』、国民に慕われていたというのが創られた『歴史』となる」
「王のことを知らない人は国民に慕われていたと信じてしまうということかしら、でも嘘の情報を流すくらい
のことならば誰にでもできる。特殊な能力とは思えないわ」
「確かにその気になれば誰にでもできるだろうな。だがもし、『歴史』を捏造する事によってその王に虐げら
れていた国民たちでさえも王が慕われていたと信じてしまうとしたら」
「……それは特殊ね」
「そこまでの『歴史』を創ることができるのが、ハクタクの能力だと捉えてもらえればいいと思う。『歴史』
の渦中にいる人には、それが捏造された偽りの『歴史』だとはまず気づけない」
「なるほど、それは厄介。でもその『歴史』は偽りなわけだから『事実』とは異なるわけよね」
「まあ『事実』と同じならば捏造する意味が無いしな」
「だったらどこかに必ず綻びが生じるわ、矛盾するはずよ」
「……ああ、そうだ」
慧音は少し笑った。
「確かに矛盾は必ず発生する。細かく言い出すとキリが無い話なのだが、酷く大雑把に言ってしまえば矛盾に
気づけば『歴史』は破綻し、誰も矛盾に気づかなければ『歴史』は『事実』となる」
「なるほど、気づかない矛盾は矛盾となりえないわけね。じゃあ矛盾に気づき『歴史』が破綻したら、それに
よって何が起こるのかしら」
「『歴史』が破綻したら『歴史』を見せられていた人は『事実』に引き戻される。いや『事実』というよりも
偽りでない、実際の『歴史』といったほうが理解しやすいかもしれんな」
「理解はできているから大丈夫。それじゃ、例えばの話だけど『歴史』の中で誰かが怪我をしたり死んだりし
たとする、当然『事実』は誰も怪我をしてないし死んでないわよね、こういう場合は?」
「そうだな、その場合偽りの『歴史』が続いている限りは怪我も死亡も持続される。しかし偽りの『歴史』で
の怪我や死亡が『事実』に影響を与えることは無い。従って『歴史』が破綻すれば、その怪我も死亡も無かっ
たこととなる」
「ややこしいわね」
ややこしくて、そしてなにより胡散臭い。
何気なく射命丸を見る。彼女は一言も発言をせず、真剣な表情でひたすらメモを取っている。
「それならば、もし偽りの『歴史』に取り込まれてしまったら、矛盾点を探し出せば抜け出すことができると
いうことかしら」
「そういうことになるな。例えば本人しか知らない情報があれば、それは『歴史』には反映されない。矛盾を
見つけて偽りの『歴史』の中に居ると認識できれば『歴史』は破綻する。最も、偽りの『歴史』を見せられて
いると疑うこと自体が……通常ならばまず無理だろう」
一拍置いて、慧音は畳んだ扇子を机に打ち付ける。
小気味よい音が響く、その音と同時に周囲の景色が瞬間的に塗り替えられる。
寺小屋だった周りの景色が、瞬きする間もなく図書館となっていた。
私は状況が理解できない。射命丸と顔を見合わせる、彼女もなにがなんだか解らないといった表情。
「気づかなかっただろう?『歴史』を見せられていたという事」
愉快そうに笑う慧音。
なるほど……つまり、見事に嵌められたわけだ。
「驚いたわ、何時からだったのかしら」
「最初からだな。おまえらは私と約束して寺小屋で落ち合ったつもりになっていた。しかし事実は、私がおま
えらの居る図書館に出向いて、そこで『歴史』に取り込んだ」
つまり、私は射命丸と共に歩いて里に行き寺小屋を訪れた。しかしそれは慧音の創った『歴史』の中の出来
事で、実際は私も射命丸も図書館から一歩も動いていなかった、と。
「少しも気づきませんでした、凄いですね」
射命丸の声は、いつもより表情が込っていないように聞こえた。
◆
魔理沙の死が偽りの『歴史』の中での出来事なのだとしたら、実際の彼女は普段と変わらず元気に生きてい
るという可能性もあるのだろうか?
心情的にはその可能性を信じたいが、状況から考えるに望みは薄そうだ。わざわざ彼女の死を『歴史』で見
せた理由を考えれば、実際に彼女は殺されていて、私をその犯人に仕立て上げようとしている、という考えが
一番妥当に思えてくる。そうでなければ彼女を『歴史』の中で死なせる必然性が無い。
なんにせよ今更考えても拉致が明かない。この『歴史』から抜け出すことができれば、はっきりすることだ。
もし、私が魔理沙を殺して密室に閉じ込められているという現在の状態が、慧音の創りだした『歴史』なの
だとしたら、ここから抜け出す方法は
現実と矛盾する事柄を探し出し、これが偽りの歴史だということを認識する
ということらしい。
慧音の話を信用するのなら、自分の今いるのが創られた歴史の中だと認識できれば、その時点で実際の歴史
へと引き戻されるようだ。夢から醒める方法と似ているのかもしれない。
実際の歴史へと引き戻されれば、それはすなわち今の状況が偽りの『歴史』だったということの証明となり、
自動的にこの事件が慧音の仕組んだ事だということになる。
いや、誰の仕業かだなんて事はどうでもいい。今は現状を打破することだけを考えよう。
これらの事に丁度いい情報を、私は思い出す。
私の左の太腿には、古い傷跡が残っている。大昔、まだレミィと友達になる前に、彼女とやり合って付けら
れた傷だ。なにぶん古い話なので、この傷跡のことは傷を付けた本人と付けられた本人しか知らない。
つまり、レミィと私しか知り得ない傷跡。当然ながら慧音が知るはずもない。知らない傷跡ならば、捏造し
た歴史に反映させることは不可能だ。
もし太腿を確認して、あるはずの傷跡が無ければ、それはこの世界が偽りの歴史だという証明になるはず。
私は焦る気持ちを抑えて、スカートを静かにたくし上げ下着の足のリボンを解く。少し緊張しているのか、
思ったよりも手間取る。下着に手をかけて、そこで硬直してしまう。
これが創られた歴史だと確信はしている。だが、もし太腿に傷跡が『あった』としたら……それはこのふざ
けた状況が事実だという証明になってしまうのではないか?
それを受け入れる覚悟が、私にはあるのか?
私は目を瞑り、いままでの思考をもう一度思い返す。どこかに漏れがあるだろうか……いや、無い。
ならば自分の考えが間違いないと信じられるだろうか……大丈夫だ。
駄目ならば……その時は全てを受け入れてしまおう。
ゆっくりと下着を捲ると、徐々に太腿が露になっていく。燭台を近づけて太腿を照らす。
白い太腿には、褐色の切り傷の跡が薄っすらと残っていた。
つまりそれは……この世界が慧音の創りだした偽りの歴史ではないという証。
頭が真っ白になる。
落ち着け、まだ他に可能性は?例えば慧音が傷跡のことをレミィから聞いていた?……有り得ない。慧音と
レミィはあまり親しくない。何故私の太腿の傷を話題にするのか、不自然だ。なら傷跡のことを小悪魔か咲夜
あたりが知っていて慧音に教えた……二人とも知るはずは無いし、仮に知っていたとしても慧音にそれを教え
る必要性が無い。もう一度傷跡を確かめる……間違いない、私の記憶にある傷跡そのものだ。人づてに聞いた
としても実際に目にしなければ、ここまで寸分違わぬ様には再現できないだろう。
なら……だったら……私の置かれた状況は、魔理沙を殺したという記憶は、間違いの無い事実だということ
なのか?
私は……魔理沙を殺してしまったのだろうか?
両の手のひらに忌まわしい感覚が蘇る。
ナイフを押し込む抵抗感溢れる赤い血絞り出すかのような絶叫血で滑るナイフ無茶苦茶に暴れる魔理沙それ
を押さえ込みさらにナイフを深く深く伝わる痙攣まるで獣のような潰れた声ひくひくと震えるように動きそし
て動かなくなる魔理沙、もう動かない魔理沙。
もう笑わない魔理沙。もう生意気な強がりを聞くこともできない。もう真剣な眼差しで読書をする姿を見る
こともできない。もう図書館で待っていても魔理沙はやって来ない。何日待っても、何年、何十年、待っても。
私が殺してしまったから……。
心の奥から寂しさが込みあげてくる。胸が締めつけられるみたいで苦しい。
「……っ……ううっ…………」
押し殺したような呻き声が聞こえる。この部屋に居るのは私だけだ、これは私の声?
顔が熱い。気がつくと涙が零れていた。泣くのは嫌だ、泣きたくない。
涙を止めようとすればするだけ、余計に涙は溢れてくる。
頭が混乱しすぎて冷静な思考ができない。気持ちも昂ぶっているのだろう。私は上着を手に取り、それに顔
を埋める。微かに血の匂いがした。
泣き顔を見られたくない。弱い私を誰にも見られたくない。
誰もいない部屋なのだから誰も見ていない。
誰も見ていなくても、私が見ていたくない。私の心が、その奥底がこんなにも弱いということを認めたくな
い。私の心を見ていたくない。これ以上見ていたくない。
ああ
そっか、そういうことなんだ。
でも
どうすれば……。
涙を拭い、魔理沙の遺体をじっと見る、その背中に刺さったナイフを。
無意識のうちに下唇を強く噛んでいた。スカートを握り締める手からも血の気が失せている。
相当な覚悟が必要。私にできるだろうか?
でも、仕方が無いか。
私はゆっくりと立ち上がり魔理沙の遺体に近づく。背中に刺さったナイフは柄の部分まで血にぬれている。
上着で血を拭き取ると、ナイフを手に取り、それを魔理沙から引き抜く。
不快な手応えを感じる。力はさほど必要なかった。
ナイフの刃は血で赤黒く染まりながらも、月明かりに鈍く輝いていた。私は自分の手が小さく震えているこ
とに気付く。
首筋を手で触り場所を確認する。
鼓動が速くなり呼吸も荒くなっていた。身体がどうしようもない恐怖を感じる。
ナイフの刃をじっと見つめる。喉がカラカラに渇いていた。
息を止めて奥歯を噛み締めると、私はナイフの刃を首筋に押し当てる。刃先が柔らかい肉に埋もれていくの
が手応えでわかった。
そして真横へと、一息に引き抜く。鮮血が赤い霧となり視界を塞いだ。
開いた首筋に熱と鼓動を感じる。脈に合わせて止め処なく血を吐き出している。反射的に手で押さえてしま
うが、そんなもので止まるはずがない。
力が入らなくなってきて、膝から崩れる。魔理沙の上に覆い被さる形となり、彼女の亡骸が瞬く間に赤く染
まってしまう。体温が急激に失われていく。ただ首の傷だけが焼けるように熱かった。気道まで傷つけてしま
ったのかもしれない。息をするとヒューヒューと間抜けな笛のような音が聞こえる。喘息の発作で馴染みのあ
る音だ。
間を置かずに目が霞んで、やがて機能しなくなった。手足を動かすことも、もう無理なようだ。
なるほど、死ぬというのはこんな感じなのか。想像していたよりも、痛くも苦しくもないな。ただ、とても
寒い。首からどんどん熱が溢れ出ていってしまうみたいだ。まるで、命が身体から抜け出ていくみたい。
頭が朦朧としてきた。思考がうまく纏まらない。
まどろみに落ちていきそうな霞のかかった頭で、私はあのときのことを思い返していた。
◆
最後の質問、いい?
ああ、構わない
もし、創られた歴史を見せられていた本人がその歴史の中で死んでしまったら、その場合、その人はどうな
ってしまうのかしら
見せられていた本人が死んだら、歴史はそこで終了だ。だからその場合、創られた歴史も終わる。だが、造
られた歴史の中で死んだからといって、実際の歴史で死んでいないのなら、その死そのものが虚となる
遠回しな言い方ね、結論は?
創られた歴史の中で事切れたその時点で、その人物は実際の歴史に引き戻される
それは確かなことなの?
ああ、確実だ
……根拠は?
実際に試した
◆
暴力的なほど唐突に、意識が覚醒する。
急激な変化に意識がついていかない。酔ったように視界は定まらず、急くように呼吸が荒い。
落ち着け、私は呼吸をしている、目も見える。私は生きている。
眩暈のような感覚が薄れていく。私は思わず首筋を擦る。滑らかな手触り、どこにも傷は無い。
大丈夫……もう大丈夫だ。
目に映る景色は、見上げるほど高くそびえる本棚に納められた、おびただしい数の書物。似た景色ばかりな
ので具体的な地点は分からない。だがここが、薄暗く微かに黴臭く、そして酷く落ち着く、私の心の拠り所で
ある大図書館の中のどこかだということだけは確実。
私は永遠に続くかのような本棚の列の中に、呆然と立ち尽くしていた。
つまりこれは……私があの忌々しい『歴史』からの脱出に成功したことを意味する。
そして、床には人間の死体らしきものがうつ伏せに寝そべっている、霧雨魔理沙だ。
彼女の死は『歴史』で捏造されたものでは無かったようだ。何者かに背後からナイフで刺殺される、これが
彼女の逃れられなかった運命。本当に残念だ。
魔理沙の死は『歴史』でなぞられた通り、寸分の違いもない。しかし彼女の前に立つ私、その私の手も服も、
『歴史』とは違い血で染まってはいない。彼女を殺したという記憶も、実感を伴っていない。まるで、そう、
物語の中の一場面をたまたま記憶していたような、現実味のない記憶。
魔理沙の亡骸の傍らに、一人の人物が屈みこんでいた。私が想定したとおりの人物。
彼女は物憂げに私の顔を見上げると、静かに口を開く。
「魔理沙が死んでいるわ」
古明地さとりは、感情の篭らない声で私にそう言った。
「ええ、知っているわ」
「背中からナイフで刺されて」
「ええ」
「霧雨魔理沙を殺したのは……パチュリー、あなた?」
「霧雨魔理沙を殺したのは、私ではないわ!」
さとりの射るような視線をまっすぐ受け止める。
「猿芝居はもう結構。その失礼な第三の目も瞑っててもらえないかしら」
「……なんのこと?」
「とぼける姿も滑稽に映るわ、観念するべきね。あなたの術は既に破れているのよ」
さとりは困惑の表情を顔に浮かべる。
構う必要はない。彼女が第三の目を閉じたことを確かめて、私は先を続ける。
「最初は上白沢慧音を疑ったわ。満月の今夜なら、ハクタクとなった彼女なら、私が魔理沙を刺し殺すという
偽りの歴史を捏造して、それに私を取り込むことができる。でも、歴史の中にある私にも、私とレミィしか
存在を知らないはずの太腿の古傷があった。慧音の知らないはずの情報を、歴史の中の私は兼ね備えていた。
これはどういう事か……つまりこれは、私の取り込まれた歴史が、慧音によって捏造されたものではないとい
う、そういう意味」
「歴史とか何を言ってるのかさっぱり分からないわ。でも、現実にいるあなたが現実にいる魔理沙を殺したの
なら、他人の知らない古傷があなたにあってもおかしくないんじゃないかしら」
「……続けるわ。私の取り込まれた歴史を慧音が作ることができないのなら、これは現実で、魔理沙を殺した
のは私なのか?そんなわけが無い、私が魔理沙を殺すわけがない。だったら誰の仕業?魔理沙を刺し殺して、
偽りの歴史を捏造して、それに私を取り込んだのは誰?……古明地さとり、あなたね」
「自分勝手なご都合主義、付き合いきれないわ」
「私が取り込まれていたのは、あなたが『想起』で作り上げた、偽りの歴史」
さとりの顔から表情が消える。
「動機はわからない、だけどあなたは魔理沙を殺した。そこを私に目撃されたのかしら?記憶が曖昧だからわ
からないけれど。あなたは咄嗟に私の心を覗いて、私が過去に慧音の捏造した歴史に取り込まれたことがある
ことを知り、これを利用することを思いつく。慧音の歴史改変能力を『想起』することにより、私が魔理沙を
殺したという歴史を創り、それに私を取り込んで私が魔理沙を殺害したと信じ込ませようとした。……信じ込
ませる必要すら無かったのかもしれないわね。私の中に魔理沙を殺したという歴史があれば、あなたは心を覗
いて告発することができる。つまり私に罪を着せようとしたわけ」
「…………」
「歴史の中の私に他人の知らない古傷があったとしても、心を覗いていれば知り得る情報だから不思議も無い。
密室に閉じ込められていたのは、不用意に魔法を使われて歴史に取り込まれていることを看破されないため。
……あの部屋、一体どこなのかしらね」
「妄想だわ、なんの証拠もない」
「自ら命を絶つことにより、想起は破れ私は本当の歴史に引き戻された。死んだはずの私が生きてここにいる、
それこそが、私が想起により造られた歴史へ取り込まれていたという何よりの証拠!」
しばらく私の顔を睨みつけていたさとりだったが、やがて溜め息を吐き、芝居がかった仕草で小さな拍手を
する。
「想起を破るために自殺するだなんて、やる事が無茶苦茶だわ。もし推理が外れていたら本当に死んでた」
「自分の発想に命を賭けられないのは三流魔法使い、私は違うわ」
さとりは虚ろな視線で私を眺める。
「どう言い逃れしても誤魔化せないようね、確かに私は想起を使って、あなたが魔理沙を殺したと信じ込ませ
ようとした。あなたに罪を着せようとした、それはあなたの言う通り。でもね、魔理沙を殺したのは私じゃな
いの。……私が彼女を見つけた時にはすでに事切れてた。そして全身を血まみれにしたこいしが、呆然とそれ
を眺めてた」
魔理沙の返り血を浴びながらも、なにをするでもなく立ち尽くしている古明地こいし。
なるほど、つまり魔理沙は古明地こいしによって、無意識のうちに殺されてしまったと、そんなところか。
無意識のうちに、なんの想いも意味すらも存在しない殺人、なんて理不尽で不条理。これでは死んだ魔理沙
も報われない。
少なくとも私の知り得た情報では、流石にそこまでを推理するのは不可能だった。
「いつか、こんな事が起きると思ってなかったわけじゃないけど、それでも私はこいしを信じていた」
「ただの管理不行き届きじゃない」
「そうね、返す言葉もないわ」
「それで、そのこいしは何処に?」
「こいしは先に帰したわ」
犯人を現場から帰してしまうのは常識的に考えて、責任ある行動とは思えない。なにを考えているのか、物
憂げな表情のさとりからは読み取ることができない。
「魔理沙を殺したこと、私を騙したこと、あなたたちは罪を償わなければならない」
「罪を償う、ね……。残念だけど私たちにその気は無いわ。罪は認める、あなたにも申し訳ないことをしたと
思ってる。でも罪を背負いそれを償う、そんな生き方をするつもりは無いの」
「……唯じゃ済まないわよ」
「どう済まないのかしら?」
さとりは、一瞬だけ冷たい笑みを浮かべる。
「私は、いいえ私たちは、こいしの幸せだけを願ってそれを常に優先して生きているの。もし、こいしの幸せ
が損なわれることがあるのなら、私たちはたとえ世界中が敵だとしても戦うでしょう。私も、お燐も、そして
……お空も」
不気味なほど余裕のある態度を見せるさとり、うっすら微笑んですらいる。
この期に及んでまだ何か隠しているのだろうか?
世界中が敵だとしても戦う、そんなのは感情論でしかない。実際にそうなってしまえば勝ち目の無い戦いに
消耗していくのを待つばかりだ。いくら妖怪といえども、たった二人の姉妹とそのペットで何ができるという
のか?心が読めるだけの妖怪と、猫と烏で……
烏……
霊烏路 空!?
八咫烏の力を喰らったという、地底の烏。
そのことに気付き、私は言葉に詰まる。
霊烏路空。これが古明地さとりの切り札か!
事件が発覚すれば、魔理沙の敵討ちとして霊夢が地霊殿を襲うことになるであろう。いつものごとく妖怪退
治ならば問題は無い。しかし、事が仇討ちとなれば話は別だ。
地霊殿が、いや霊烏路空が仇討ちに巻き込まれるとなれば、他の勢力も静観するわけにはいかなくなる。
空を巡って利害関係のある河童が動く、そして守矢が動く、守矢が動けば天狗も動かざるを得ない。
なんてことだ……彼女の立ち回り次第で、幻想郷の半分を味方に付けることができるというわけか?
「気づきましたか」
古明地さとりは表情なく笑う。
「私としては」
表情の浮かばない目で、私を見る。
「魔理沙には、行方不明になってもらうのが最善じゃないかと、そう思うのだけれど」
……最低だ。
目の前にいる妖怪は幻想郷を人質に捕って、私に脅しをかけている。
首を突っ込めば、大きな争いが起きる
それが嫌なら
目を塞いで、黙っていろ!!
「……隠し通せると思っているの?」
「運のいいことに、魔理沙が死んだことを知っているのはこいしと、あと私とあなただけ。こいしや私が言う
わけがないのだから、あとはあなたが黙っていてくれれば、あなたが何もしなければ、うちの猫が死体をどこ
かに運び去って、それでお終い」
「…………」
「本当はあなたが歴史を消されたことがあったのなら話が早かったのだけれどね。まぁでも、どのみち話が上
手くまとまれば不満は無いわ」
妖怪は魔理沙を裏切れと誘っている。
理由も無く殺された、魔理沙を裏切れと誘っている。
魔理沙の無念を
そして
私の魔理沙への想いを
裏切れと誘っている。
私は……
私は、気がつくと見覚えの無い部屋にいた。
あまり大きい部屋じゃない。家具もテーブルと椅子が一つずつ、それと部屋の真ん中にベッド。
出入り口に大きくて立派な扉があるけど、鍵がかかってる、さっき確認した。別の壁に窓がある。こちらは
開け閉めできるけど、小さすぎてここから出ることはできなさそう。
なんだか閉じ込められてるみたいで嫌なかんじ。
ここ、どこなんだろう?
こんなとこに来た覚えが無い。……多分、無い。……無いと思う。……思い出してみよう。
たしか、今日は……そうそう、地上に行ったお燐が帰ってこないから、みんなが騒がしかったんだ。それで
私もお燐が心配だから探しに行こうとして、その前にさとり様に声をかけられたんだった。「後で話がある」
って。話があるのは後だから今じゃない、だから私はお燐を探しに地上へ行こうとして……えーと。
「失礼します、お食事をお持ちしました」
急に後ろから声をかけられて私は驚く。さっきまで誰も居なかったはずなのに。
そこに居たのは紺色の制服みたいな格好の、美人なお姉さん。なにもない所から急に現れるなんて、まるで
こいし様みたいだ。
「驚かせてしまって申し訳ありません」
「あなた、誰?」
「私は十六夜咲夜と言います。空様のお世話をするようにと仰せつかっています」
「ここは、どこ?」
「ここは地上に建つ、紅魔館というお屋敷です」
「地上?なんで私はそのお屋敷にいるの?」
「おや、さとり様からお聞きではありませんか」
咲夜さんは少し不思議そうな顔をした。
「なんでも地霊殿が緊急の改装工事で部屋が使えなくなるそうで、しばらくの間、空様の面倒を見て欲しいと
さとり様からお願いされたのですが」
緊急の改装工事?そんな話は初めて聞いたけど。ああそうか、さとり様が「後で話がある」と言われたのは
その工事のことだったんだ。
安心したらお腹が空いてきた。咲夜さんがテーブルに食事の用意をしてくれている。すごく美味しそうな匂
い。
「食事のご用意ができました」
「これ、食べていいの?」
「勿論です、空様に食べて頂くために用意したものですから」
私はフォークを持って料理を食べ始めた。どの料理も今まで食べたことがないほど美味しい。地上の人はい
つもこんな美味しい物を食べてるんだろうか?
「お気に召しましたか」
「私、こんな美味しい料理、初めてです」
「それはなによりです、腕によりをかけた甲斐がありました」
ああわかった、地上だとか地底だとかじゃなくて、美味しいのは咲夜さんが作ったからなんだ。きっとこれ
は特別なことなんだ。
食事が終わると咲夜さんは「失礼しました」と言い残して、来たときと同じように突然消えてしまった。
おいしい料理でお腹一杯になった私は、なんだか眠くなってきたのでフカフカなベッドに横になる。
「そういえば、お燐大丈夫かな……心配だな」
後から咲夜さんに相談してみよう。優しそうな人だったからきっと助けてくれると思う。
とりあえず、今は、気持ちいいベッドで……寝よう。
そういえばあの時……お燐を探しに行こうとして…………蝙蝠がたくさん現れて……。
終
場所はおそらく紅魔館だろう、なんとなく見覚えがある部屋だ。具体的にどこかは不明。馴染みのあるいつ
もの大図書館ではないという事だけは確実。うちの優秀なメイド長が頻繁に空間を弄ってしまうため、紅魔館
の間取りは把握しづらい。少なくとも私は把握していない。咲夜本人にしか分からないのではないか?いや、
本人も把握できているのかどうか、怪しいものだ。
あまり広い部屋ではなく調度品も少ない。出入り口は一つだけで、紅魔館の他の部屋と同じく頑丈で厚い扉
に遮られている。ありがたい事に部屋の外から施錠しておいてくれたようだ、ドアノブをどう捻っても開ける
ことは出来なかった。
壁に設けられた窓から淡い月明かりが射し込んでいる。通風の用途で開けられているのか間口は狭い。一般
的な体型の人間では窓枠を取り外しても、そこから出入りすることは不可能に見える。
部屋には暖炉も無いし、私が知る限り紅魔館に隠し通路の類は無い。天井や床から脱出するのも構造的に不
可能だろう。
つまり、密室に閉じ込められているという状況。
部屋には小さなテーブルと背もたれ付きの椅子が一つずつ、箪笥や戸棚、クローゼットの類は無い。窓とは
反対側の壁に燭台があり、蝋燭が揺らめいている。
そして、床には人間の死体らしきものが寝そべっている。これが私を困らせている元凶なのだが。
死体らしきものは、金髪に黒い服。私のよく知っている人物、霧雨魔理沙の特徴と酷似していた。うつ伏せ
に倒れて、背中にはナイフが深々と刺さり、白いブラウスは血で染まっている。
近づいて詳しく調べてみる。手首をとって脈をみてみるが、いくら念入りに調べても脈は無い。首筋で調べ
てみても同様。脈が無いということは、確実に死んでいる。
私の知っている魔理沙とよく似ているが、うつ伏せで顔が見えないので断定できない。壁から燭台を取り、
頭をずらして顔を確認する。死の直前の苦しみがよく伝わる、苦悶に歪んだ表情だ。……見るんじゃなかった。
死体が魔理沙だということは確認できた。苦しみに歪む醜い表情を晒すのは彼女としても不本意であろう。
床に落ちていた彼女の帽子で顔を隠してやる。私が見たくないという理由もあるが。
密室に閉じ込められて部屋には魔理沙が死んでいる、かなり困った状況だ。もしこの場面を第三者に見られ
たら、私が魔理沙を殺したと誤解されてしまうだろう、困る。
更に困ったことに、床にうつ伏せで倒れる霧雨魔理沙を殺した犯人は、誤解でも何でもなく、どうやら私ら
しいということ。
何度考え直しても、私にはこの部屋で魔理沙を背中から刺した記憶が、ある。ナイフを握り、魔理沙の背中
に押し込み、暴れる魔理沙が事切れる瞬間の感触まで、実感として覚えている。記憶違いを疑いたいが、それ
らの記憶を裏付ける証拠として、私の両の手のひらは魔理沙の血で塗れており、私の着ているワンピースも返
り血で染まっていた。
以上が、私の現在置かれている状況。念を押しておくが、本気で困っている。
とりあえず私は上着を脱いで、手のひらに付いた血を拭う。本当なら水で洗い流したいが、それが可能な状
況ではない。私自身の体に外傷が無いことも確認する。つまり少なくとも、これは私の体から流れた血ではな
い。
折角椅子があるのだから、座らせてもらおう。落ちついてよく考える必要がある。とてもじゃないが落ち着
ける状況ではないが。
密室で殺人が行なわれているのだから、これも密室殺人となるのだろうか?犯人まで密室に閉じ込められて
しまっているのだから、成立していない気もするが。この状況で目撃者が現れたら、謎もへったくれもあった
もんじゃない。魔法使いのパチュリーさんが犯人です、で終了だ。
目撃者が驚いている隙に、私がなんらかの手段で気づかれずに逃走するのだろうか?それはそれで無理難題
だろう。身を隠すにはこの部屋はシンプルすぎるし、魔道書を用意していない私には、魔法を使用して目撃者
の盲点をつくトリックを仕掛けることもできない。
現実逃避をしているな、もう少し冷静に考えよう。
まず魔理沙を殺したのが本当に私なのかどうかという点。状況から考えるに、私が犯人だというのは動かし
難い事実のように見える。今現在、この部屋には私と魔理沙しかいないわけだし、なにより私には魔理沙を殺
した記憶もあれば実感もある。
なら私が犯人なのか?……いや、やはりそれは納得できない。
なぜ納得できないのか?ひとつは私には魔理沙を殺す理由が無い。つまり動機の不在だ。
確かに魔理沙は私の図書館から、頻繁に魔道書を無断で持ち去っている。正直に言うと迷惑している。しか
し、だからと言って殺そうと思ったことなど一度も無い。むしろ魔理沙に対して私は好意的な感情すら抱いて
いる。
……駄目だな、主観論に終始している。殺す理由がなかったことの証明にはならない。第三者が見れば、魔
道書の持ち去りは動機として成立しうるだろう。
もうひとつ納得できない理由、これは違和感と近いのだが、私には魔理沙を殺そうとする意思がなかった。
つまり殺意の不在だ。
確かに魔理沙をナイフで刺して、殺した記憶も実感もある。しかし、思い返してみれば、ナイフで刺して殺
しているまさにその最中にさえも、私には魔理沙を殺そうという意思が欠片もなかった。
殺そうとしていないのに、事実、行動は殺している……奇妙な話だ。
殺す意思が無かったのなら事故なのだろうか?どんな可能性を考えれば、魔理沙の背中をナイフで刺すとい
う事故が起こりえるのだろうか?
ナイフを持った私が床に躓く?ナイフを持った私のところに魔理沙が倒れ掛かってくる?
……駄目だ、私は魔理沙の背中にナイフを突き立てた後、力を込めている。
私自身は殺そうとする意思が無くても、客観的に見れば、それは殺意の証明となる。
軽く眩暈がしてきた。違う方向から考えてみよう。
仮に私が魔理沙を殺したとして、どのような不都合が生じるのか?
人間が人間を殺したのなら、法的に罰せられるだろう。しかし魔理沙も私も魔法使いである。魔法使いが人
間であるかどうかは解釈の難しい問題だが、捨虫の魔法を行使していない魔理沙は人間で、捨虫の魔法を行使
している私は妖怪と定義しても、恐らく問題は無いだろう。
妖怪が人間を殺したとなると、これは法の枠外だ。過去に妖怪が人間を襲って殺したという事例は数え切れ
ないほど発生しているが、いずれも法的な処罰は与えられていない。
では法の枠外であったなら不都合は生じないか?もちろんそんな事は無い。少なくとも霊夢が黙っていない
だろう。私を妖怪と定義することにより妖怪退治という大義名分が成立してしまう。例えそれが私怨に元づく
行動であったとしても。
もちろん妖怪退治は超法規的な行動だ、法は守ってくれない。
霊夢が動いた場合、私は自力で自分を護らなければならない。レミィは味方してくれるだろうか?
……駄目だ、吸血鬼である彼女には、生きた人間を襲ってはいけないという契約が科せられている。いくら
味方してくれても、後ろで応援するくらいの事しかできない。それではかえって邪魔だ。
霊夢以外にも、魔理沙を慕っていた妖怪たちが仇討ちに名乗りを挙げるかも知れない。このあたりは不確定
要素だが、どちらにしても今までどおりの生活が続けられると考えるのは甘い認識であろう。
全く……気が滅入ってくる。
やはりどうあっても、私が魔理沙を殺したということを認めるわけにはいかないな。
事実として納得できているのならまだしも、納得もできなければ実感も湧かない。いや、事実がどうである
かは関係無い。私自身が納得できるまで、私は全力で抵抗するべきだろう。
「霧雨魔理沙を殺したのは、私ではない」
あえて口に出してみた。そうすることに意味があるのかどうかは怪しいところだが、目に見える事実を受け
入れてしまおうという弱気な気分がいくぶん和らいだ気もする。
とにかく何か、私が魔理沙を殺していないと証明ができるまで、あらゆる可能性を考えてみるべきだろう。
例えば、目の前に横たわっているのは本当に魔理沙の死体なのだろうか?さっき調べたことにより、状態と
して生きていないのは確認した。また、顔を見ることにより魔理沙本人で間違いないのも確認した。したがっ
て魔理沙の死体であることは確実である。
ただしこれは、視覚と触覚から得られる情報から考察した結果でしかない。もし、何か特殊な能力を使用す
ることにより視覚と触覚に偽の情報を認識させることができたとしたら、なにかしら変化系の能力が使用され
ていたとしたら、私の目の前に横たわっているのは
魔理沙の死体に見える何か
ということにならないか?
私自身はまだ会ったことがないのだが、封獣ぬえという妖怪の話を聞いたことがある。長らく正体不明とさ
れていた妖怪で、正体不明の種という、見る人によって違う物に見えてしまう特殊なアイテムを使用するらし
い。
もし、目の前に横たわっている物が魔理沙の死体に見える正体不明の種だったとしたら、本物の魔理沙は別
の場所でいつも通り生きていることになり、すなわち私が魔理沙を殺していないということになるのでは無い
か?
流石に突飛すぎるな、これでは妄想だ。会ったことも話したこともない妖怪が、なぜわざわざ私に魔理沙の
死体を見せるのか、そんなことをする理由が無い。それに、魔理沙を殺したという記憶も説明できない。
他にそのような変化系の能力を使う妖怪の話を聞いたことが無い。ということは、目の前にいるのは確実に
魔理沙本人で、それを殺したのは私だとするのが妥当な考えであろう。
ならば別の可能性として、私の今置かれている状況自体が現実ではないということは有り得ないだろうか?
例えば、これが私の見ている夢で、実際の私はベッドで寝息を立てているという可能性。
まさに悪夢のような現状を考えれば、私にとっては酷く在りがたいことなのだが、はたしてこれが夢だと考
えるのは無理があるような気もする。
意識も感覚も明確なので、夢だとは実感しづらい。先ほどから蝋燭も徐々に短くなっていっていることから、
時間の経過も正常なようだ。
とはいっても、蝋燭だけでは今が何時ごろなのか分からない。部屋には時計も無いし私も普段から時計を持
たない習慣なので、当然今も時計を持っておらず、漠然と夜だということしか分からない。
今の時間が分かったとしても、そんなことに意味は無いのかもしれないけど、窓から月が見えればおおよそ
の時間も分かるだろう。
窓を開けて夜空を見上げる。星座から方角を見当つけて東の空を見ると、比較的低い位置に満月が浮かんで
いるのが見えた。おおよそ二十時から二十一時の間ぐらいか。月齢からも日付が変わっていないことがわかる。
いつの間にか二、三日記憶が飛んでいただなんて事は起こっていないようだ。
「……あ!」
私は思わず声をあげる。
なんでこんな簡単で大事なことを、今まで失念していたのだろうか?やはり自覚は無くとも内心はかなり動
揺しているようだ。
つまり何度思い返しても、私には魔理沙を殺した記憶は、ある。しかし何度思い返しても、私にはこの部屋
に入った記憶が、ない。
図書館でいつも通りに魔道書を読み解いていたのが最後の記憶。それ以降の記憶は、魔理沙を殺している最
中のものとなる。この間に大幅な記憶の欠落がある、これはどう考えても不自然だ。
どう考えればこの現象に説明がつくのか?ひとつ考えられる可能性としては、私が局地的に記憶を欠落して
しまう謎の病気を煩っているという可能性。しかも発症したのはつい一時間ほど前だ。
……馬鹿馬鹿しい。
次の可能性、魔理沙を殺したということが私にとってあまりにもショックの大きいことだったので、それ以
前の記憶を忘れてしまった。
……多少はマシだけれど、まだ不自然だ。起こり得ないと切り捨てても問題なさそうだな。
最後の可能性。図書館から移動して部屋に入るまでの行動が、私の意思の下に行なわれた行動では無いため
記憶に残っていないという可能性。……具体的な方法はわからないが、大雑把に言ってしまえば何者かによっ
て行動が操られていたということ。
考え方としては自然に思えるし、魔理沙を殺したという行為に私が殺意を抱いていないことに説明がつくか
もしれない。つまり、この部屋に入ったことも、魔理沙を殺したことも、私自身の意思ではなく、私ではない
何者かの意思によって行なわれた行動だということ。
それは、何者かが私を罠に嵌めようとしているということを意味する。
ようやく、掴み所の無い状況に手応えらしきものが見えてきたようだ。私でない犯人がもし居るのだとすれ
ば、その犯人を突き止めることがすなわち私が無罪であることの証明となる。
欠落した記憶は現状で考えても恐らくわからないだろう。でも、それ以前の記憶を思い返せば、こんな状況
に私を叩き込んだ犯人が特定できるのではなかろうか?
いや、たとえ犯人が特定できなかったとしても、今のこの不可思議で困った状態に納得のいく説明をつける
ことぐらいは出来ないだろうか?
血生臭い話が胡散臭い話に変わってきたな。
なんにせよこの部屋では他にできる事も無い。欠落した記憶を起点として、今日の記憶を遡ってみることに
しよう。
そう、たしか図書館に珍しい来客があった。地霊殿の主、古明地さとりだ。時刻は夕食を摂った後だったか
ら、恐らく十九時頃だろう。
彼女を疑うべきかどうかは判断に迷うが、注意深く思い返すことにより何かしらかの手掛かりが掴めるので
はなかろうか。
◆
小さな足音が近づいてきたので顔を上げると、小柄な少女が立っていた。
「こちらに妹が来てないかしら」
私が顔を上げるのを待って、目の前の少女、古明地さとりは呟くように問いかける。柔らかく微笑んでいる
のだが、微笑んでいながらも不自然に白い顔は無表情を感じさせる。まるで能面のようだ。
「ここにあなたの妹がいると、どうして思ったの?」
「表の門番がこちらにいると教えてくれたわ」
そういう類の仕事は門番ではなく受付嬢の仕事だと思うのだが、おそらく美鈴には美鈴なりの考えがあって、
得体の知れない不審人物を親切に案内までして紅魔館に通したのであろう。他人の仕事領域に文句を言うつも
りは無いが、一体どんな劣悪な妖怪ならば彼女から門前払いを受けることができるのだろうかと疑問が湧いて
くる。
「……少し前に、本を読ませてほしいと訪ねてきたわ、今もまだ居るかどうかは分からないけど。ここの書物
を持ち出さなければ好きに妹さんを探してもらって構わない。わからない事があったら魔理沙がその辺にいる
はずだから、彼女に聞いて」
「ありがとう」
さとりは丁寧にお辞儀をすると、図書館の奥へ消えていった。後は勝手にやるだろう。
私は意識を手元の魔道書に戻す。
◆
これ以降の記憶は酷く曖昧だ。いつもと同じように魔道書に目を通し、その意味を分析し読み解く作業に就
いていたはずなのだが……ふと気がつくと、何処だかもよく分からない部屋に居て、魔理沙の背中をナイフで
刺していた。
魔道書の解読中は思考の全てを魔法の理論解析に振っているため、現実世界にある実体としての私は蔑ろに
なる面はある。本に集中し過ぎるあまり、上の空になっていると表現すれば分かりやすいか。
しかしそれにしても、ここまで酷い記憶の欠落というのは過去に経験したことが無い。いつもは精々、空に
なったティーカップに口をつけて紅茶を飲んだと思い込む程度の話だ。
さて、私の置かれた現状は古明地さとりの登場によって説明することができるだろうか?つまりは、彼女が
なにかしらの行動をしたがために、私が魔理沙を殺して密室に閉じ込められることとなった、と。
疑うべきは彼女の持つ特殊な能力ということになるであろう。さとりの妖怪である彼女は生来の能力として
第三の目を通して他人の心の中を覗くことができる。この能力により、彼女は、第三の目に写し出した対象の
考えていることは勿論、隠していること、過去の記憶に至るまで、無差別に認識することができるらしい。
心を覗き思考を読む、確かに恐ろしい能力ではあるのだが、その能力の性格ゆえにどこまで行っても受動的
であるという特性を持つこととなる。つまり、心を読まれたからといって、それにより怪我をしたり死に至っ
たりという事は通常なら在りえないわけだ。
このさとりの能力を利用して、密室で魔理沙を殺したという私の置かれた状況が作り出せるのであろうか?
考えるまでもない、受動的な特性の能力である以上、どんな理論展開を繰り広げても不可能だ。
しかし彼女の能力が、ただ相手の心を覗くだけでは無いことに気づく。彼女の能力には想起という概念があ
る。これは心を覗くという能力の応用として、対象が過去に体験したスペルカード等の能力を再現して、自ら
の能力として発揮するという極めて特殊な能力だ。実際に地霊殿の異変の時、魔理沙の心を覗いて彼女が過去
に体験した私のスペルを見事に再現していたのを覚えている。
想起というものがどの程度までの再現を可能とするのかは分からない。以前、霊夢に聞いた話によると萃香
の能力を想起することにより、さとり自身が霧状に変化することが可能だったらしい。だとすればスペルカー
ドに囚われることなく、対象の知っている能力ならほぼ制約無く再現が可能だということだろうか。
この想起ならば、相手に対して能動的に働きかけることが可能であろう。では想起により今の私の状況が説
明できるかというと、これも難しい気がする。過去に私が魔理沙を殺したことがあるのならば、それを想起す
ることも可能だろう。しかし当然ながら、私は過去に魔理沙を殺したことは無いし、そもそも人間である魔理
沙は一度殺されれば二度と生き返ることは無い。
ふと私は、霧状に変化したさとりが神社を彷徨うところを想像して、少し可笑しい気分になる。
なんにせよ、私の置かれた状況とさとりを関連付けることは難しいように思える。
小悪魔が不在なのも、いつもと違う点なのかもしれない。それが私の現状と直接の関わりを持つとはどうに
も考え難いが。
魔界のほうでちょっとした魔道書の出物があったと知人から連絡があったため、私のかわりに彼女を魔界に
向かわせていた。速くとも帰還は明日になるであろう。
私一人がいつも通りの生活をするだけなら小悪魔の助けは必要ない。どうしても人手が必要な時には、咲夜
を呼んで手伝ってもらえばいい。
その咲夜も、こちらから呼ばない限り図書館へは顔を出さない。思考の邪魔をされるのを私が嫌うというこ
とを彼女はよく理解しているので、彼女なりに気を遣ってくれているのだ。唯一の例外はレミィに私を呼んで
こいと命じられた時。そのレミィも今夜は外出中であろう。
つまり、偶然図書館に顔を出した咲夜かレミィが、私が居ないことを不審に思って捜索する、といった友情
に溢れるストーリーは期待できないというわけだ。
さておき、更に記憶を遡ってみることにしよう。
古明地さとりが現れる三時間ほど前に、妹の古明地こいしが図書館を訪れていた。さとりが妹を探しに来た
時点で、こいしがまだ図書館に居たかどうかは確認できていないので不明。
◆
「こんにちは、魔法使いさん」
声をかけられるまで存在に気がつかなかった。
別に私が呆けていたわけではない。無意識故に誰にも存在を悟られないというのが、私の目の前に立つ少女
の能力なのだから。
無意識を操る程度の能力、とか言ったっけ。
この少女、さとりの妹、古明地こいしは、頻繁ではないにしろたびたびここを訪れる。忍び込むと言ったほ
うが正確かもしれないが。
いつのまにか現れて、気の向くまま本を読んで、ふと気がつくといなくなっている。
突然に声をかけられて私が少しだけ驚くのも、いつものことである。
「本を読ませてほしいの」
この台詞も、いつもと同じ。
手が届くほど近くにいるのに、どこにも居ないかのように存在が希薄、不思議な子だ。
「持ち出したり破いたりしなければ、好きに読んでもらって構わない」
私が返す言葉も、いつもと同じ。
「今日は案内がいないから、その辺にいる魔理沙に案内をしてもらうといいわ」
この台詞はいつもと異なった。
いつもなら小悪魔に任せるのだが、今日はいないのだから仕方ない。魔理沙でも案内役ぐらいはできるだろ
う……たぶん。
小悪魔の話では、こいし嬢はいつも目的の書物まで案内し終わる前に姿を消してしまうらしい。不審に思い
姿を探すと、当初とは無関係な場所で無関係な本を読んでいるとか。まるで幽霊のような話だ。
なんにせよ、静かにしていてくれさえすれば、どうこう言うつもりはない。
伝える必要のあることを伝え終えた私は、手元の魔道書に視線を戻す。再び顔を上げると、古明地 こいし
の姿は消えていた。
これもいつものこと。
◆
古明地こいし、この不思議な少女が図書館を訪れたことと私の置かれた状況とは関連するのだろうか?
例えば彼女の能力、無意識を操る程度というその能力によって、強制的に無意識状態とされた私が、無意識
を操られて魔理沙を刺し殺した、と。
彼女の能力の詳細がわからないので何とも言えないのだが、流石に無理のある推測に思える。
こいしの能力が無意識状態にある他者を自在に操る能力だとは聞いた覚えがない。私が聞いて実感した情報
だと、彼女の能力は自身の存在を他者に意識させない、そういう類いの物のように思う。
また、もし仮に彼女の能力で無意識状態にある私を自在に操れたとしても、はたして魔理沙を殺した時点で
の私は無意識状態であったと言えるのであろうか?むしろ殺意を抱いていないという奇妙な点を除けば、意識
は鮮明だったのでは無かろうか?
こいしの能力で操られた上で、魔理沙を刺し殺したという仮説は成り立たないようだ。
ならば本来の、既に観測されている彼女の能力、自身の存在を他者に意識させないという点ではどうであろ
うか?私が気がついていないだけで、今現在この部屋にこいしが居るという可能性は。
……居たからどうなると言うのだ?仮にこいしが私に認識されないうちにこの部屋で魔理沙を殺したとすれ
ば、それでは私自身に魔理沙を殺したという記憶があることにが説明つかない、矛盾が発生する。
どうやら古明地こいしと私の置かれている状況とは無関係のようだ。
古明地さとり、こいし姉妹の他に図書館を訪れたのは、当然だが被害者である霧雨魔理沙。
今日尋ねて来たのは私が知る限りではその三人だけである。もちろん私は一日中、図書館に居た。
常識的に考えれば魔理沙が犯人であるはずは無いのだが、なにか手掛かりを残してくれているのかもしれな
い。彼女が訪れた時のことも思い出してみよう。
◆
彼女が図書館に現れたのは、たしか正午を少し回った頃だった。当然予告も無いし、ここを訪れる頻度や時
間帯にも法則性が見られないので、たぶん思い付くまま行動しているのだと思う。
彼女流に言えば「潜入」らしいが、もはや日常の風物詩といってもいい程度には顔を出すので、突然やって
来ても誰も驚かない。
「あれ、今日は小悪魔いないのか」
「あの子は遣いに出したわ、明日までは戻らない」
「そうか、探してる本があったんだが自分で探さないといけないのか、まいったな」
「がんばるといいわ」
横目でチラチラ私の顔色を伺っているが、気づかないフリをする。
「おいおい、そこは『なんなら私が案内してあげましょうか』だろうが」
「残念ね、図書館の管理は小悪魔に任せてあるから、私には本の場所がわからないの」
これは嘘。私はここの蔵書の全てを把握し記憶している。正確なタイトルさえ分かればどの場所にあるのか
も当然分かる。しかし無尽蔵に広いここでは、場所が分かっていてもそこに辿り着くまでがなかなか骨の折れ
る仕事になる。だからやりたくない、だから嘘を吐く。
「なんだそりゃ?偉そうに座ってても本の場所すら分からないんじゃ、小悪魔のが偉いみたいじゃないか」
「そうね、その通りね」
挑発に乗る気は無い。たまには自分で汗水流して探すといい。
「仕方ない……ここの広さを考えると気が遠くなるが、自分で探すか」
それからしばらく魔理沙はメモをとりながら飛び回っていた。動きが見えなくなった時は、廊下に座って本
を読んでいるようだった。目的の本じゃなくても、興味があればとりあえず読んでみるのだろう。
◆
言うまでも無く魔理沙は被害者である。被害者の行動が発端となって、密室に死体とともに閉じ込められて
いるという私の現状が説明できるとは考えづらい。私が重要な記憶を失念しているのならば話は別だが。
だが、記憶を考察することにより、私の最も知りたくない情報が浮き彫りにされる可能性が無いとは言い切
れない。
私が魔理沙を殺害した動機が。
それが明確になるという事は、私自身が間違いなく魔理沙を殺したと認めることになる。最悪の結末だ。
いや、本当に最悪なのは、現象に納得ができない今か。納得ができるのなら、今の状況よりはほんの僅かだ
けれどマシだな。
殺害の動機として思い当たりそうな事としては、魔理沙がたびたび図書館の蔵書を持ち出していた事だろう
か?確かに持ち出されるのは迷惑だけれども、口には出さないながらこれについては容認していた。
蔵書を金品に換えるのが目的での持ち出しだったとしたら、私は全力で阻止していたと思う。それでも殺意
には至らないが。しかし彼女の場合、営利目的などでは無く、純粋な知識欲として持ち出しを行なっていたと
私は認識している。
それはつまり、本に納められた知識が人に伝えられるという、書物本来の目的に沿った行為なのではないか
と思える。だからまぁ、今まで大目に見てきた。もちろん本当は持ち出してほしく無いが。
そもそも霧雨魔理沙という人物は魔法使いとして見た場合、少々異例な存在なのではないかと思う。魔法に
有利な幻想郷にあるとしても、スペルを行使して戦闘ができるクラスの魔法使いとしては、あまりにも若すぎ
る。
しかも私のような生まれつきの魔法使いでもないし、力のある魔法使いと師従関係にあった訳でもない。
魔法使いになりたいという一念のもと独学を積み重ね今に至るということらしい、俄かには信じ難い話だ。
だから私が魔理沙に抱いた最初の印象は、不可思議さだった。これだけの条件を考えに入れれば、彼女には
なにか常人離れした天賦の才が備わっているのではないかと思われる。しかしいくら観察しても一向にそれら
しい才能は見出せない。魔法使いとしてはあまりにも普通すぎるのだ。
長く観察し考察した結果、納得できかねる話ではあるが、彼女は人並み以上に努力家だという結論に至った。
たくさん努力しているから程度の理由で、二十歳にも満たない普通の人間が時には私を戦闘で負かすことも
あるというのは信じられない事なのだが、他には欠片も理由が見当たらないのだから仕方ない。
そんな努力家がうちの図書館にある知識を欲しがっているのなら、多少のことは目を瞑ってやろう、本とし
ても本棚の中で朽ちるのを待つだけよりもは有意義な使われ方だろう、これが魔理沙の持ち出しに対する私の
考え方だった。
彼女が図書館に頻繁に出入りするようになるにつれ、私の心情は少しずつ変化していった。彼女は節度のあ
る読書家なので必要がなければ静寂を妨げることなく自身の読書に没頭していた。しかし、彼女が訪れ彼女が
居る図書館に、私は何とも表現できない心地よさのようなものを感じるようになっていた。
そのうちに、彼女がいない図書館に一抹の寂しさを感じるようになり、彼女が図書館を訪れることを心待ち
にしている自分に気づく。
私は魔理沙のことを友達だと捉えていたのだと思う。恐らく魔理沙も、私のことを友達として扱ってくれて
いたように思える。
そんな友達を自ら殺す理由が、いくら考えても思い当たらない。やはり私には魔理沙を殺す動機が無い。
そのことを確認できただけでも、魔理沙のことを思い返した意味はあった。
図書館を訪れた人物は古明地姉妹、それと魔理沙の三人だ。他にいつもと違う点は小悪魔がいないというこ
と。記憶を辿って考察しても、私の置かれた不愉快な状況に納得のいく回答は得られなかったようだ。
しかし、なにかを見落としているような、腑に落ちない感覚があった。
目を瞑りもう一度記憶を辿る。今日のこと、昨日のこと、一昨日のこと……やがて、ある特異点に思い当た
る。
今日、図書館を訪れたのは先の三人だけだ。しかし、恐らくそれは重要では無かった。
今日だけ図書館を訪れなかった人物がいる。その人物は昨日までの数日間、欠かさず図書館を尋ねて来てい
ながら、今日だけは姿を現さなかった。
彼女ならば、あるいは……。
◆
五日ほど前のことだった。
ここに来る客としては珍しいことに、上白沢慧音は案内に美鈴を連れて図書館を訪れた。
「それじゃ、私は持ち場に戻りますので」
「ああ、手間をかけて済まなかった」
飾り気の無い男口調と釣り合わない、丁寧なお辞儀を美鈴に返す慧音。堅苦しいのはいつもどおり。
「図書館までの道がわからなかったの?」
「そうではないが、悪魔の館と揶揄されるような場所でも人様の家には違いない。来客が一人で歩きまわるの
は無礼だろう」
「それはもっともな意見ね。どこかの黒いのにも見習ってほしいわ」
「勘違いするなよ私は泥棒だぜ!家人に案内されて登場するだなんて、泥棒のアイデンティティに反するだろ
うが」
家人に勧められてお茶を呑んだりラスクを齧ったりしている現状は、泥棒のアイデンティティに反しないの
だろうか。
ともかく、泥棒と違い本物の来客である慧音にお茶を出して用件を聞くことにしよう。
「それで今日は何の用かしら」
「うん、前に言っていた里の街道整備の話が本格的に動くことになってな」
「へぇ、よかったじゃない」
「今は具体的な計画を話し合っている。そこでなんだが、一言に街道整備といっても私たちは素人の集まりだ。
里の立地条件からどのような物が最適なのか、私たちでは知り得ない」
「つまり、ここで街道整備について調べさせてほしいと」
「そういうことだ」
静かにお茶を呑む慧音の様子は、どことなく気分が高揚しているように見える。
「ここで本を見て調べるのは構わないわ。ただし本を持ち出すのはお断りさせてもらってる」
「勝手に持ち出してもバレないけどな」
「泥棒の意見は参考に価しない」
この泥棒は本の持ち出しがバレていないと思っているのだろうか?正直呆れる。
「わかった。必要な部分は持ち出さずにここで書き写させてもらう」
「ええ」
「恩に着る。正直なところを言うと、おまえには断られると思っていた。ここの蔵書を部外者に見せるのを嫌
うのではないかと、私は勝手に思い込んでいてな」
「本というのは形でしかなくて価値があるのはそこに綴られた知識よ。その知識も人に使われなければ価値を
無くすわ。伝わりやすい形にしたのが本というだけの話。私は知識を求める者には寛容な心で接することにし
ている」
「そうか、おまえのことを今まで誤解していたのかもしれない」
「ただし騒がしい奴は即座に追い出すわ。図書館は何よりも静寂を重んじるべきだから」
「ああ、なんにせよ助かるよ」
◆
その日から上白沢慧音は図書館に毎日現れた。
夕方頃に来て、黙々と蔵書を書き写して、日付が替わる頃合で帰っていった。しかし四日間連日で尋ねてき
たにも関わらず、とくに予告もなく今日は現れなかった。
私はその理由を、今夜が満月だからと解釈していた。満月の夜になると上白沢慧音はハクタクとなり、溜ま
った仕事を一斉に消化すると聞く。今日図書館を訪れなかったのは、彼女本来の仕事で忙しいためだと思っ
ていた。
もし、その前提が間違っていたとしたら?つまり、上白沢慧音が本当は今日も図書館に来ていたのだとした
ら?里のために街道整備のことを調べるためでなく、霧雨魔理沙を殺害するために、来ていたのだとしたら?
私が今置かれている奇妙な状況は、彼女が図書館に来ていたとすることで説明可能だろうか?
彼女は、歴史を消す能力を有する。実際には起こっていることでも、彼女がその事実を抹消して歴史を編纂
することにより、それが起こっていないと認識させることができる。……いやこの能力については今は考えな
くてもいい、問題はもうひとつの能力だ。
さきほども触れたが、彼女は満月の夜になるとハクタクという妖怪に変身してしまう。本人が好む好まざる
に関わらず、自然現象としてこれは起こってしまうらしい。
ハクタクと化した彼女は、人間の状態とは異なる能力を有する。つまり、歴史を創る能力。この能力は歴史
を消す能力とはまさに正反対で
実際に起こっていないことを、彼女が捏造して歴史を編纂することにより、それが起こったと認識させるこ
とができる。
つまり……私の現状とこの能力を合わせて考えれば…………つまりはこういう事か!?
私は霧雨魔理沙を殺していないし密室に入ってすらいない。しかし上白沢慧音の能力で歴史を捏造された。
その歴史の中では、私は霧雨魔理沙を殺して密室に閉じ込められている。そして私は今まさにその歴史の中に
いる。
これならば、不可思議な今の状況も説明可能ではなかろうか?
必要な条件は揃っているし、致命的な矛盾も見当たらない。
歯車が噛み合って綺麗に回りだすような感触。
慧音のこの行動の意図はわからないし、慧音が本当は図書館に来ていたということも証明できない。
しかし、恐らくこれが正解なのではないかという、そんな予感がする。
もう少し踏み込んで考えてみよう。ハクタクの歴史を創る能力については、以前慧音本人から仔細な情報を
聞いたことがある。射命丸文の取材に協力するという形で、慧音に質問をする機会があったのだ。
たしか二年ほど前のことだったと思う。
◆
「というわけでして、慧音さんへの取材の際に、ぜひパチュリーさんにインタビュアーを勤めていただいてで
すね、こうアカデミックな観点から彼女のハクタクの能力を白日の下に晒していただけないかと」
大げさな身振り手振りを交えて説明する射命丸。観察していると少し面白い。
「あなたがインタビューしても私がインタビューしても大して内容は変わらなく思うけど、まあハクタクの歴
史を創る能力には興味があるわね」
「うんうん、そうですよね」
「わかりました、引き受けるわ。私のほうはいつでも都合つけるから、あなたと慧音の都合の良い日時を指定
してもらえるかしら」
取材は慧音の都合を考え、里にある寺小屋で行なわれることとなった。当然、満月の夜のことである。
私たちを快く迎えてくれた慧音には、普段の姿と違い立派な二本の角が生えていた。噂に聞いた通りだ。
「自身の能力を晒すような真似して、大丈夫なのかしら」
「それは晒すより晒さないほうがいいのだが、実は射命丸殿と取り引きがあってな」
「そうなんですよ、ギブアンドテイクですね」
「うん、里の街道を整備しようという計画があるのだが、利便性を考えるとどうしても天狗のテリトリーに抵
触してしまう。そこで天狗にも計画に協力してもらえないかと思っているのだが、その交渉役を射命丸殿が引
き受けてくれるというのだ」
「そうです、その交換条件が今日の慧音さんへの取材ですね」
人も妖怪も、長く生きるほど生きることに意味を欲しがるようになる。長すぎる時間を無駄なものにしたく
ないと思うのは自然なことだ。
慧音にとっては人間の里が、生きる意味にあたるのであろう。私の図書館や射命丸の新聞と同じように。
「そのあたりの込み入った事情には興味無いわ。さしあたってはハクタクの歴史を創るという能力について説
明してもらえないかしら?歴史を消すのは私たちの魔法にも似た物があるから想像し易いのだけれど、歴史を
創るというのはイメージが湧かないわ」
「口で説明するのはなかなか難しいが、そうだな……例えばある所に王がいたとする。こいつは人格に問題が
ある、いわゆる暴君だ。事実をありのまま伝えれば、その王は暴君だったとなる、当然だな。しかし誰かが作
為的に事実と異なる情報を流布したとする、その王は国民に慕われていたと。この場合、王が暴君だったとい
うのが『事実』、国民に慕われていたというのが創られた『歴史』となる」
「王のことを知らない人は国民に慕われていたと信じてしまうということかしら、でも嘘の情報を流すくらい
のことならば誰にでもできる。特殊な能力とは思えないわ」
「確かにその気になれば誰にでもできるだろうな。だがもし、『歴史』を捏造する事によってその王に虐げら
れていた国民たちでさえも王が慕われていたと信じてしまうとしたら」
「……それは特殊ね」
「そこまでの『歴史』を創ることができるのが、ハクタクの能力だと捉えてもらえればいいと思う。『歴史』
の渦中にいる人には、それが捏造された偽りの『歴史』だとはまず気づけない」
「なるほど、それは厄介。でもその『歴史』は偽りなわけだから『事実』とは異なるわけよね」
「まあ『事実』と同じならば捏造する意味が無いしな」
「だったらどこかに必ず綻びが生じるわ、矛盾するはずよ」
「……ああ、そうだ」
慧音は少し笑った。
「確かに矛盾は必ず発生する。細かく言い出すとキリが無い話なのだが、酷く大雑把に言ってしまえば矛盾に
気づけば『歴史』は破綻し、誰も矛盾に気づかなければ『歴史』は『事実』となる」
「なるほど、気づかない矛盾は矛盾となりえないわけね。じゃあ矛盾に気づき『歴史』が破綻したら、それに
よって何が起こるのかしら」
「『歴史』が破綻したら『歴史』を見せられていた人は『事実』に引き戻される。いや『事実』というよりも
偽りでない、実際の『歴史』といったほうが理解しやすいかもしれんな」
「理解はできているから大丈夫。それじゃ、例えばの話だけど『歴史』の中で誰かが怪我をしたり死んだりし
たとする、当然『事実』は誰も怪我をしてないし死んでないわよね、こういう場合は?」
「そうだな、その場合偽りの『歴史』が続いている限りは怪我も死亡も持続される。しかし偽りの『歴史』で
の怪我や死亡が『事実』に影響を与えることは無い。従って『歴史』が破綻すれば、その怪我も死亡も無かっ
たこととなる」
「ややこしいわね」
ややこしくて、そしてなにより胡散臭い。
何気なく射命丸を見る。彼女は一言も発言をせず、真剣な表情でひたすらメモを取っている。
「それならば、もし偽りの『歴史』に取り込まれてしまったら、矛盾点を探し出せば抜け出すことができると
いうことかしら」
「そういうことになるな。例えば本人しか知らない情報があれば、それは『歴史』には反映されない。矛盾を
見つけて偽りの『歴史』の中に居ると認識できれば『歴史』は破綻する。最も、偽りの『歴史』を見せられて
いると疑うこと自体が……通常ならばまず無理だろう」
一拍置いて、慧音は畳んだ扇子を机に打ち付ける。
小気味よい音が響く、その音と同時に周囲の景色が瞬間的に塗り替えられる。
寺小屋だった周りの景色が、瞬きする間もなく図書館となっていた。
私は状況が理解できない。射命丸と顔を見合わせる、彼女もなにがなんだか解らないといった表情。
「気づかなかっただろう?『歴史』を見せられていたという事」
愉快そうに笑う慧音。
なるほど……つまり、見事に嵌められたわけだ。
「驚いたわ、何時からだったのかしら」
「最初からだな。おまえらは私と約束して寺小屋で落ち合ったつもりになっていた。しかし事実は、私がおま
えらの居る図書館に出向いて、そこで『歴史』に取り込んだ」
つまり、私は射命丸と共に歩いて里に行き寺小屋を訪れた。しかしそれは慧音の創った『歴史』の中の出来
事で、実際は私も射命丸も図書館から一歩も動いていなかった、と。
「少しも気づきませんでした、凄いですね」
射命丸の声は、いつもより表情が込っていないように聞こえた。
◆
魔理沙の死が偽りの『歴史』の中での出来事なのだとしたら、実際の彼女は普段と変わらず元気に生きてい
るという可能性もあるのだろうか?
心情的にはその可能性を信じたいが、状況から考えるに望みは薄そうだ。わざわざ彼女の死を『歴史』で見
せた理由を考えれば、実際に彼女は殺されていて、私をその犯人に仕立て上げようとしている、という考えが
一番妥当に思えてくる。そうでなければ彼女を『歴史』の中で死なせる必然性が無い。
なんにせよ今更考えても拉致が明かない。この『歴史』から抜け出すことができれば、はっきりすることだ。
もし、私が魔理沙を殺して密室に閉じ込められているという現在の状態が、慧音の創りだした『歴史』なの
だとしたら、ここから抜け出す方法は
現実と矛盾する事柄を探し出し、これが偽りの歴史だということを認識する
ということらしい。
慧音の話を信用するのなら、自分の今いるのが創られた歴史の中だと認識できれば、その時点で実際の歴史
へと引き戻されるようだ。夢から醒める方法と似ているのかもしれない。
実際の歴史へと引き戻されれば、それはすなわち今の状況が偽りの『歴史』だったということの証明となり、
自動的にこの事件が慧音の仕組んだ事だということになる。
いや、誰の仕業かだなんて事はどうでもいい。今は現状を打破することだけを考えよう。
これらの事に丁度いい情報を、私は思い出す。
私の左の太腿には、古い傷跡が残っている。大昔、まだレミィと友達になる前に、彼女とやり合って付けら
れた傷だ。なにぶん古い話なので、この傷跡のことは傷を付けた本人と付けられた本人しか知らない。
つまり、レミィと私しか知り得ない傷跡。当然ながら慧音が知るはずもない。知らない傷跡ならば、捏造し
た歴史に反映させることは不可能だ。
もし太腿を確認して、あるはずの傷跡が無ければ、それはこの世界が偽りの歴史だという証明になるはず。
私は焦る気持ちを抑えて、スカートを静かにたくし上げ下着の足のリボンを解く。少し緊張しているのか、
思ったよりも手間取る。下着に手をかけて、そこで硬直してしまう。
これが創られた歴史だと確信はしている。だが、もし太腿に傷跡が『あった』としたら……それはこのふざ
けた状況が事実だという証明になってしまうのではないか?
それを受け入れる覚悟が、私にはあるのか?
私は目を瞑り、いままでの思考をもう一度思い返す。どこかに漏れがあるだろうか……いや、無い。
ならば自分の考えが間違いないと信じられるだろうか……大丈夫だ。
駄目ならば……その時は全てを受け入れてしまおう。
ゆっくりと下着を捲ると、徐々に太腿が露になっていく。燭台を近づけて太腿を照らす。
白い太腿には、褐色の切り傷の跡が薄っすらと残っていた。
つまりそれは……この世界が慧音の創りだした偽りの歴史ではないという証。
頭が真っ白になる。
落ち着け、まだ他に可能性は?例えば慧音が傷跡のことをレミィから聞いていた?……有り得ない。慧音と
レミィはあまり親しくない。何故私の太腿の傷を話題にするのか、不自然だ。なら傷跡のことを小悪魔か咲夜
あたりが知っていて慧音に教えた……二人とも知るはずは無いし、仮に知っていたとしても慧音にそれを教え
る必要性が無い。もう一度傷跡を確かめる……間違いない、私の記憶にある傷跡そのものだ。人づてに聞いた
としても実際に目にしなければ、ここまで寸分違わぬ様には再現できないだろう。
なら……だったら……私の置かれた状況は、魔理沙を殺したという記憶は、間違いの無い事実だということ
なのか?
私は……魔理沙を殺してしまったのだろうか?
両の手のひらに忌まわしい感覚が蘇る。
ナイフを押し込む抵抗感溢れる赤い血絞り出すかのような絶叫血で滑るナイフ無茶苦茶に暴れる魔理沙それ
を押さえ込みさらにナイフを深く深く伝わる痙攣まるで獣のような潰れた声ひくひくと震えるように動きそし
て動かなくなる魔理沙、もう動かない魔理沙。
もう笑わない魔理沙。もう生意気な強がりを聞くこともできない。もう真剣な眼差しで読書をする姿を見る
こともできない。もう図書館で待っていても魔理沙はやって来ない。何日待っても、何年、何十年、待っても。
私が殺してしまったから……。
心の奥から寂しさが込みあげてくる。胸が締めつけられるみたいで苦しい。
「……っ……ううっ…………」
押し殺したような呻き声が聞こえる。この部屋に居るのは私だけだ、これは私の声?
顔が熱い。気がつくと涙が零れていた。泣くのは嫌だ、泣きたくない。
涙を止めようとすればするだけ、余計に涙は溢れてくる。
頭が混乱しすぎて冷静な思考ができない。気持ちも昂ぶっているのだろう。私は上着を手に取り、それに顔
を埋める。微かに血の匂いがした。
泣き顔を見られたくない。弱い私を誰にも見られたくない。
誰もいない部屋なのだから誰も見ていない。
誰も見ていなくても、私が見ていたくない。私の心が、その奥底がこんなにも弱いということを認めたくな
い。私の心を見ていたくない。これ以上見ていたくない。
ああ
そっか、そういうことなんだ。
でも
どうすれば……。
涙を拭い、魔理沙の遺体をじっと見る、その背中に刺さったナイフを。
無意識のうちに下唇を強く噛んでいた。スカートを握り締める手からも血の気が失せている。
相当な覚悟が必要。私にできるだろうか?
でも、仕方が無いか。
私はゆっくりと立ち上がり魔理沙の遺体に近づく。背中に刺さったナイフは柄の部分まで血にぬれている。
上着で血を拭き取ると、ナイフを手に取り、それを魔理沙から引き抜く。
不快な手応えを感じる。力はさほど必要なかった。
ナイフの刃は血で赤黒く染まりながらも、月明かりに鈍く輝いていた。私は自分の手が小さく震えているこ
とに気付く。
首筋を手で触り場所を確認する。
鼓動が速くなり呼吸も荒くなっていた。身体がどうしようもない恐怖を感じる。
ナイフの刃をじっと見つめる。喉がカラカラに渇いていた。
息を止めて奥歯を噛み締めると、私はナイフの刃を首筋に押し当てる。刃先が柔らかい肉に埋もれていくの
が手応えでわかった。
そして真横へと、一息に引き抜く。鮮血が赤い霧となり視界を塞いだ。
開いた首筋に熱と鼓動を感じる。脈に合わせて止め処なく血を吐き出している。反射的に手で押さえてしま
うが、そんなもので止まるはずがない。
力が入らなくなってきて、膝から崩れる。魔理沙の上に覆い被さる形となり、彼女の亡骸が瞬く間に赤く染
まってしまう。体温が急激に失われていく。ただ首の傷だけが焼けるように熱かった。気道まで傷つけてしま
ったのかもしれない。息をするとヒューヒューと間抜けな笛のような音が聞こえる。喘息の発作で馴染みのあ
る音だ。
間を置かずに目が霞んで、やがて機能しなくなった。手足を動かすことも、もう無理なようだ。
なるほど、死ぬというのはこんな感じなのか。想像していたよりも、痛くも苦しくもないな。ただ、とても
寒い。首からどんどん熱が溢れ出ていってしまうみたいだ。まるで、命が身体から抜け出ていくみたい。
頭が朦朧としてきた。思考がうまく纏まらない。
まどろみに落ちていきそうな霞のかかった頭で、私はあのときのことを思い返していた。
◆
最後の質問、いい?
ああ、構わない
もし、創られた歴史を見せられていた本人がその歴史の中で死んでしまったら、その場合、その人はどうな
ってしまうのかしら
見せられていた本人が死んだら、歴史はそこで終了だ。だからその場合、創られた歴史も終わる。だが、造
られた歴史の中で死んだからといって、実際の歴史で死んでいないのなら、その死そのものが虚となる
遠回しな言い方ね、結論は?
創られた歴史の中で事切れたその時点で、その人物は実際の歴史に引き戻される
それは確かなことなの?
ああ、確実だ
……根拠は?
実際に試した
◆
暴力的なほど唐突に、意識が覚醒する。
急激な変化に意識がついていかない。酔ったように視界は定まらず、急くように呼吸が荒い。
落ち着け、私は呼吸をしている、目も見える。私は生きている。
眩暈のような感覚が薄れていく。私は思わず首筋を擦る。滑らかな手触り、どこにも傷は無い。
大丈夫……もう大丈夫だ。
目に映る景色は、見上げるほど高くそびえる本棚に納められた、おびただしい数の書物。似た景色ばかりな
ので具体的な地点は分からない。だがここが、薄暗く微かに黴臭く、そして酷く落ち着く、私の心の拠り所で
ある大図書館の中のどこかだということだけは確実。
私は永遠に続くかのような本棚の列の中に、呆然と立ち尽くしていた。
つまりこれは……私があの忌々しい『歴史』からの脱出に成功したことを意味する。
そして、床には人間の死体らしきものがうつ伏せに寝そべっている、霧雨魔理沙だ。
彼女の死は『歴史』で捏造されたものでは無かったようだ。何者かに背後からナイフで刺殺される、これが
彼女の逃れられなかった運命。本当に残念だ。
魔理沙の死は『歴史』でなぞられた通り、寸分の違いもない。しかし彼女の前に立つ私、その私の手も服も、
『歴史』とは違い血で染まってはいない。彼女を殺したという記憶も、実感を伴っていない。まるで、そう、
物語の中の一場面をたまたま記憶していたような、現実味のない記憶。
魔理沙の亡骸の傍らに、一人の人物が屈みこんでいた。私が想定したとおりの人物。
彼女は物憂げに私の顔を見上げると、静かに口を開く。
「魔理沙が死んでいるわ」
古明地さとりは、感情の篭らない声で私にそう言った。
「ええ、知っているわ」
「背中からナイフで刺されて」
「ええ」
「霧雨魔理沙を殺したのは……パチュリー、あなた?」
「霧雨魔理沙を殺したのは、私ではないわ!」
さとりの射るような視線をまっすぐ受け止める。
「猿芝居はもう結構。その失礼な第三の目も瞑っててもらえないかしら」
「……なんのこと?」
「とぼける姿も滑稽に映るわ、観念するべきね。あなたの術は既に破れているのよ」
さとりは困惑の表情を顔に浮かべる。
構う必要はない。彼女が第三の目を閉じたことを確かめて、私は先を続ける。
「最初は上白沢慧音を疑ったわ。満月の今夜なら、ハクタクとなった彼女なら、私が魔理沙を刺し殺すという
偽りの歴史を捏造して、それに私を取り込むことができる。でも、歴史の中にある私にも、私とレミィしか
存在を知らないはずの太腿の古傷があった。慧音の知らないはずの情報を、歴史の中の私は兼ね備えていた。
これはどういう事か……つまりこれは、私の取り込まれた歴史が、慧音によって捏造されたものではないとい
う、そういう意味」
「歴史とか何を言ってるのかさっぱり分からないわ。でも、現実にいるあなたが現実にいる魔理沙を殺したの
なら、他人の知らない古傷があなたにあってもおかしくないんじゃないかしら」
「……続けるわ。私の取り込まれた歴史を慧音が作ることができないのなら、これは現実で、魔理沙を殺した
のは私なのか?そんなわけが無い、私が魔理沙を殺すわけがない。だったら誰の仕業?魔理沙を刺し殺して、
偽りの歴史を捏造して、それに私を取り込んだのは誰?……古明地さとり、あなたね」
「自分勝手なご都合主義、付き合いきれないわ」
「私が取り込まれていたのは、あなたが『想起』で作り上げた、偽りの歴史」
さとりの顔から表情が消える。
「動機はわからない、だけどあなたは魔理沙を殺した。そこを私に目撃されたのかしら?記憶が曖昧だからわ
からないけれど。あなたは咄嗟に私の心を覗いて、私が過去に慧音の捏造した歴史に取り込まれたことがある
ことを知り、これを利用することを思いつく。慧音の歴史改変能力を『想起』することにより、私が魔理沙を
殺したという歴史を創り、それに私を取り込んで私が魔理沙を殺害したと信じ込ませようとした。……信じ込
ませる必要すら無かったのかもしれないわね。私の中に魔理沙を殺したという歴史があれば、あなたは心を覗
いて告発することができる。つまり私に罪を着せようとしたわけ」
「…………」
「歴史の中の私に他人の知らない古傷があったとしても、心を覗いていれば知り得る情報だから不思議も無い。
密室に閉じ込められていたのは、不用意に魔法を使われて歴史に取り込まれていることを看破されないため。
……あの部屋、一体どこなのかしらね」
「妄想だわ、なんの証拠もない」
「自ら命を絶つことにより、想起は破れ私は本当の歴史に引き戻された。死んだはずの私が生きてここにいる、
それこそが、私が想起により造られた歴史へ取り込まれていたという何よりの証拠!」
しばらく私の顔を睨みつけていたさとりだったが、やがて溜め息を吐き、芝居がかった仕草で小さな拍手を
する。
「想起を破るために自殺するだなんて、やる事が無茶苦茶だわ。もし推理が外れていたら本当に死んでた」
「自分の発想に命を賭けられないのは三流魔法使い、私は違うわ」
さとりは虚ろな視線で私を眺める。
「どう言い逃れしても誤魔化せないようね、確かに私は想起を使って、あなたが魔理沙を殺したと信じ込ませ
ようとした。あなたに罪を着せようとした、それはあなたの言う通り。でもね、魔理沙を殺したのは私じゃな
いの。……私が彼女を見つけた時にはすでに事切れてた。そして全身を血まみれにしたこいしが、呆然とそれ
を眺めてた」
魔理沙の返り血を浴びながらも、なにをするでもなく立ち尽くしている古明地こいし。
なるほど、つまり魔理沙は古明地こいしによって、無意識のうちに殺されてしまったと、そんなところか。
無意識のうちに、なんの想いも意味すらも存在しない殺人、なんて理不尽で不条理。これでは死んだ魔理沙
も報われない。
少なくとも私の知り得た情報では、流石にそこまでを推理するのは不可能だった。
「いつか、こんな事が起きると思ってなかったわけじゃないけど、それでも私はこいしを信じていた」
「ただの管理不行き届きじゃない」
「そうね、返す言葉もないわ」
「それで、そのこいしは何処に?」
「こいしは先に帰したわ」
犯人を現場から帰してしまうのは常識的に考えて、責任ある行動とは思えない。なにを考えているのか、物
憂げな表情のさとりからは読み取ることができない。
「魔理沙を殺したこと、私を騙したこと、あなたたちは罪を償わなければならない」
「罪を償う、ね……。残念だけど私たちにその気は無いわ。罪は認める、あなたにも申し訳ないことをしたと
思ってる。でも罪を背負いそれを償う、そんな生き方をするつもりは無いの」
「……唯じゃ済まないわよ」
「どう済まないのかしら?」
さとりは、一瞬だけ冷たい笑みを浮かべる。
「私は、いいえ私たちは、こいしの幸せだけを願ってそれを常に優先して生きているの。もし、こいしの幸せ
が損なわれることがあるのなら、私たちはたとえ世界中が敵だとしても戦うでしょう。私も、お燐も、そして
……お空も」
不気味なほど余裕のある態度を見せるさとり、うっすら微笑んですらいる。
この期に及んでまだ何か隠しているのだろうか?
世界中が敵だとしても戦う、そんなのは感情論でしかない。実際にそうなってしまえば勝ち目の無い戦いに
消耗していくのを待つばかりだ。いくら妖怪といえども、たった二人の姉妹とそのペットで何ができるという
のか?心が読めるだけの妖怪と、猫と烏で……
烏……
霊烏路 空!?
八咫烏の力を喰らったという、地底の烏。
そのことに気付き、私は言葉に詰まる。
霊烏路空。これが古明地さとりの切り札か!
事件が発覚すれば、魔理沙の敵討ちとして霊夢が地霊殿を襲うことになるであろう。いつものごとく妖怪退
治ならば問題は無い。しかし、事が仇討ちとなれば話は別だ。
地霊殿が、いや霊烏路空が仇討ちに巻き込まれるとなれば、他の勢力も静観するわけにはいかなくなる。
空を巡って利害関係のある河童が動く、そして守矢が動く、守矢が動けば天狗も動かざるを得ない。
なんてことだ……彼女の立ち回り次第で、幻想郷の半分を味方に付けることができるというわけか?
「気づきましたか」
古明地さとりは表情なく笑う。
「私としては」
表情の浮かばない目で、私を見る。
「魔理沙には、行方不明になってもらうのが最善じゃないかと、そう思うのだけれど」
……最低だ。
目の前にいる妖怪は幻想郷を人質に捕って、私に脅しをかけている。
首を突っ込めば、大きな争いが起きる
それが嫌なら
目を塞いで、黙っていろ!!
「……隠し通せると思っているの?」
「運のいいことに、魔理沙が死んだことを知っているのはこいしと、あと私とあなただけ。こいしや私が言う
わけがないのだから、あとはあなたが黙っていてくれれば、あなたが何もしなければ、うちの猫が死体をどこ
かに運び去って、それでお終い」
「…………」
「本当はあなたが歴史を消されたことがあったのなら話が早かったのだけれどね。まぁでも、どのみち話が上
手くまとまれば不満は無いわ」
妖怪は魔理沙を裏切れと誘っている。
理由も無く殺された、魔理沙を裏切れと誘っている。
魔理沙の無念を
そして
私の魔理沙への想いを
裏切れと誘っている。
私は……
私は、気がつくと見覚えの無い部屋にいた。
あまり大きい部屋じゃない。家具もテーブルと椅子が一つずつ、それと部屋の真ん中にベッド。
出入り口に大きくて立派な扉があるけど、鍵がかかってる、さっき確認した。別の壁に窓がある。こちらは
開け閉めできるけど、小さすぎてここから出ることはできなさそう。
なんだか閉じ込められてるみたいで嫌なかんじ。
ここ、どこなんだろう?
こんなとこに来た覚えが無い。……多分、無い。……無いと思う。……思い出してみよう。
たしか、今日は……そうそう、地上に行ったお燐が帰ってこないから、みんなが騒がしかったんだ。それで
私もお燐が心配だから探しに行こうとして、その前にさとり様に声をかけられたんだった。「後で話がある」
って。話があるのは後だから今じゃない、だから私はお燐を探しに地上へ行こうとして……えーと。
「失礼します、お食事をお持ちしました」
急に後ろから声をかけられて私は驚く。さっきまで誰も居なかったはずなのに。
そこに居たのは紺色の制服みたいな格好の、美人なお姉さん。なにもない所から急に現れるなんて、まるで
こいし様みたいだ。
「驚かせてしまって申し訳ありません」
「あなた、誰?」
「私は十六夜咲夜と言います。空様のお世話をするようにと仰せつかっています」
「ここは、どこ?」
「ここは地上に建つ、紅魔館というお屋敷です」
「地上?なんで私はそのお屋敷にいるの?」
「おや、さとり様からお聞きではありませんか」
咲夜さんは少し不思議そうな顔をした。
「なんでも地霊殿が緊急の改装工事で部屋が使えなくなるそうで、しばらくの間、空様の面倒を見て欲しいと
さとり様からお願いされたのですが」
緊急の改装工事?そんな話は初めて聞いたけど。ああそうか、さとり様が「後で話がある」と言われたのは
その工事のことだったんだ。
安心したらお腹が空いてきた。咲夜さんがテーブルに食事の用意をしてくれている。すごく美味しそうな匂
い。
「食事のご用意ができました」
「これ、食べていいの?」
「勿論です、空様に食べて頂くために用意したものですから」
私はフォークを持って料理を食べ始めた。どの料理も今まで食べたことがないほど美味しい。地上の人はい
つもこんな美味しい物を食べてるんだろうか?
「お気に召しましたか」
「私、こんな美味しい料理、初めてです」
「それはなによりです、腕によりをかけた甲斐がありました」
ああわかった、地上だとか地底だとかじゃなくて、美味しいのは咲夜さんが作ったからなんだ。きっとこれ
は特別なことなんだ。
食事が終わると咲夜さんは「失礼しました」と言い残して、来たときと同じように突然消えてしまった。
おいしい料理でお腹一杯になった私は、なんだか眠くなってきたのでフカフカなベッドに横になる。
「そういえば、お燐大丈夫かな……心配だな」
後から咲夜さんに相談してみよう。優しそうな人だったからきっと助けてくれると思う。
とりあえず、今は、気持ちいいベッドで……寝よう。
そういえばあの時……お燐を探しに行こうとして…………蝙蝠がたくさん現れて……。
終
刑事ドラマで言うなら、犯人を探り当てて火サス崖に追い込んで、犯人の独白を聞いた所でフェードアウトする感じ。
あれ、説得 or 捕り物は? ってな気分で、どうにもしっくり来ない。
話のスキマは想像で埋めるものだけど……埋めていいの、これ?
とりあえず、パチェさんは復讐に走ったものと理解しておく。
Ep1という感じ