【一。 今年の冬のころ】
お姉ちゃんはね、私のことが嫌いで嫌いでたまらないのよ。
私が笑いながらそう言うとお燐は驚いたような顔をしたわ。
「でも、さとり様はいつだってこいし様のことを気にかけていますよ」
「だってそれは『お姉ちゃん』だもん。姉はね、妹のことを愛してなくちゃいけないってお姉ちゃんはそう信じているのよ」
そう言いながら私はおやつのミルフィーユをフォークでつついた。層の間には抹茶味のクリームが挟まっていて、和洋折衷っていうのかな、すっごく美味しい。
そんなおいしいケーキを前にしながらもお燐はどこか浮かない顔をしていた。
「そんなこと言っちゃ駄目ですよう。さとり様がかわいそうです」
「そうかな、そうだね。お姉ちゃんはがんばっているもんね」
私にお説教してみたり、かと思えば泣きながら抱きしめてみたり。まったくもって姉の鏡だわね。
そうそう、この間の私の誕生日なんて、お姉ちゃん、豪勢にお祝いしてくれたのよ。「こいしが生まれてきてくれてよかった」だなんて言われて、私ほんのちょっぴり泣いちゃったわ。
だけどね、お姉ちゃんはね、それでも姉になりきれていないの。
私、知ってるわ。
お姉ちゃんが私のことを憎悪の目で見ていることを。私だってむかしは覚りをやっていたから、人の感情の機微には敏感なんだよ。たとえ第三の目が閉じていたって、お姉ちゃんの気持ちなんて手にとるようにわかるわ。
でも、私気付かないふりしてる。
理由は簡単よ、だって私そんなこと認めたくないんだもの。お姉ちゃんに問い詰めて、肯定されたら、それこそ悲しくなっちゃう。
「そうじゃなくてっ……私はさとり様はこいし様のことを愛してると、そう思いますよ」
耳をしゅんと垂らしてお燐はそう言った。悲しそうに伏せられたお燐の赤い瞳に、まつげがかかるのが私は好きだったから、くしゃりと燐の赤い髪を撫でてやった。ついでに耳もかいてやると、お燐はごろごろとのどを鳴らした。うん、お燐のこういうところ、好きだよ。
「お燐は優しいね。うん、私もそうだったらいいなと思ってる」
だって、私、お姉ちゃんのことが大好きなんだもの。
くるくるした紫色の髪とか、それとおそろいの色をしたけだるそうな目とか、本当は私よりうんと背が高いくせに、そんなことを思わせない猫背とか。全部、全部好きなの。
私、知ってるわ。
お姉ちゃんがどれだけがんばって私を守ろうとしたか。そのためにどれだけの犠牲を払ったのか。私、知ってる、お姉ちゃんが男の人を嫌いな理由。夏でも決して肌を見せようとしない理由。
私はそれを尊いと思っている。だからずっと許せなかったの。お姉ちゃんが相手の心を見ないふりをしているのが。
私はまだ幼かったから、当時流れ込んでくる思念の意味はよくわからなかったけど、ただその下劣さだけは嫌というほどわかった。それをわかっていながらお姉ちゃんが涼しい顔をしているのが、なんだか心の底までお姉ちゃんが汚されてしまったみたいで本当に悔しかったの。
「こいし様……」
「そんな顔しないで、お燐。私はね、大丈夫だよ、幸せだもん」
「本当ですか……?」
「全く、お燐ったら心配性。もっと気楽に生きなよ、そうだ、お空くらいにさ」
「お空は気楽過ぎるんですっ! あんなだから山の神様なんかに騙されて!」
「あはははは、私もその場にいたかったなぁ」
ぶんぶんと尻尾を振って怒るお燐を笑いながら、私はフォークでミルフィーユを割いた。ふんわりと抹茶のいいにおいが立ち上る。そうだよ、こういうのを幸せっていうんだよ。
そういえば、このケーキはお姉ちゃんが作ったものだったっけ。ここに移ってきてからお姉ちゃんはお菓子作りが趣味になった。作るたびに、うれしそうなふりをして私に食べさせるの。そのときのお姉ちゃんは本当に幸せそうに見えるわ。
こんな風に、お姉ちゃんと暮らせるだけで私はいいの。
そうよ、お姉ちゃんが幸せならそれで。
たとえお姉ちゃんが私のことをどう思っていてもね……。
ええ。ですから私はあの子のことが心の底から憎くてたまらないのですよ。
いつまでたっても私にべたべた。彼女は気付いていないのでしょうね、私の気持ちなど、そう、あの子はそういう子ですもの。
何度あの子が眠っている間に、心臓に包丁を振りおろそうとしたでしょうか。首を絞めようとしたでしょうか。
殺してもいい、と思っています。いえ、むしろ彼女は私にとっても害悪だと言っても過言ではありません。
けれど、できないのです。手が震えて、どうしても手を下すことができないのです。
心のどこかではあの子を愛しているということでしょうか。
いいえ、まさか。
ずっと昔から、憎かったのです。それこそあの子がまだ幼くて物心もつかなかったころからね。あの頃は気づきもしませんでしたが、けれどただただ邪魔だと感じていたように思います。
だって私たちはずっと自力で生きなければならないのですからね。親? ああ、こいしが生まれてすぐに死にましたわ。覚りだなんて好かれるはずのない種族ですもの。願掛けのように私を名付けた親は、けれど最後はプライドを捨ててまで生き延びようとしたのですけれども。
きっと愚かだったのでしょうね。けれど私は賢明でありましたから。
ひたすらに媚を売りましたとも。心なんて読んでいないかのようにふるまいました。男たちの下卑た欲望なんてもう慣れたものですわ。とは言いましてもその欲望が私たちの生きる糧だったのですがね。
このころは私は必死にあの子を守ろうとしておりました。そうすることで私は誇り高くいられたのです。
けれどあの子はそんなこと知りもしなかったのでしょう。毎日毎日へらへらと。自らが覚りであることを臆面もなくさらけ出して、読んだ人の心を口にしたりしたのです。そのたびに謝るのは私ですわ。
ごめんなさいこの子は何も知らないのです、少し頭がおかしくて、気にしないでくださいませ、なにもわからずに口にしているのですから。
あれからもう数年が経ちました。
あの子も物の分別がつきました。いいえ、そんなこと私にとってはどうでもいいのですが。
未だに私は憎しみを引きずっております。年数を重ねるごとにその憎しみは強くなっていっているともいえましょう。
それでも私があの子を殺せないのは、一種の矜持なのかしらね。
【二。 去年の春のころ】
「あら、こいし、帰っていたのですか」
「あ、お姉ちゃん」
やけに長い地霊殿の廊下をふらふらしていると、お姉ちゃんとぐうぜんはちあった。お姉ちゃんは手に薔薇の花束を持っていた。真っ赤なバラ、まるでお姉ちゃんの第三の瞳みたいね。
私がそんなことを考えていると、お姉ちゃんがふいに私に近づいてきた。花束から抜いたバラを一本、私の頭にさして、お姉ちゃんは笑う。
まるで私のことを愛してるみたいに笑う。
「よく似合っていますよ、こいし」
「……どうしたの? これ」
「いただいたのですよ。こんなにたくさんもらって、どうしようかしら。枯らしてしまうのももったいないわ」
そう言って お姉ちゃんは軽くため息をついた。けれどいやがっているため息じゃない。嬉しそうなため息だ。聞いているこっちがうれしくなっちゃう。お姉ちゃんはお花が好きなのね、それとも他人からの贈り物が好きなのかしら。
多分どちらも。
そうだ、今度お姉ちゃんに薔薇の花をプレゼントしよう。お姉ちゃんはうまく喜んでいるふりをしてくれるのかしら。そしたら私は、うれしいわ。真相が何であれ、私には関係のないことだものね。
「ところでこいし、今週はどこへ行っていたのです?」
不意にお姉ちゃんが聞いた。
私の胸がとくんと高鳴る。気づけば、口からは言葉があふれだしていた。
「今日はね、地上へ行ったの」
「まあ、一人で?」
「もうっ、馬鹿にしないでよっ、私だってもう大人なんだからねっ」
「おとな? こいしが? おもしろいことを言うわね」
「どういう意味さ!」
私が頬をふくらましてみると、お姉ちゃんは目を細めてくすくすと笑った。ごめんなさい、私にとってこいしはいつまでもかわいらしい女の子なのですよ、なんて。
笑うお姉ちゃんがかわいかったから、許してあげて、それ以上怒る代わりにたくさん地上のお話をしてあげた。
例えば、不思議な巫女のこと。
ぼろっちいのにどこか神聖な神社の境内で、彼女達は宴会をしてたの。木の影から、妖怪も、人間も等しく笑っているのを見て、私、お姉ちゃんをここに混ぜてあげたいと思ったわ。お姉ちゃんは人付き合いを断ちすぎよ。これでもまだましになったとわかっているけど。
あるいは白黒の魔女の話こと。
愉快な魔女だったわ。森でであったのだけど。きのこ狩りをしていたみたいなんだけどね、名も知らない私に向かっていきなり、「食うかい」なんてキノコを差し出してくるものだからびっくりしたわ。でも、美味しかったの。今度同じのをお土産にもって帰るわ。
他にもいろいろなところへ行った。
美しくも恐ろしい紅い館。整えられた庭が目をひく冥界の楼閣。人を惑わす神秘の竹林。神のおわします荘厳な山。
「私、この能力で、どこへだって行けるのよ」
素晴らしいところへ、沢山行った。
素晴らしいものを、沢山見た。
そして私はそれら全てをお姉ちゃんにわけてあげたいとそう望むだけ。お姉ちゃんの笑顔が、見たいだけ。
心を閉ざしてしまった私のそんな気持ちに気付いたのかどうかはわからない。けれど、お姉ちゃんは、柔らかく笑ってみせてくれた。
「ありがとう、こいし。地上の世界は素晴らしいのねぇ」
「そうだよ。ね、今度一緒に行こう。紅魔館の薔薇が満開のはずだよ。私ね、あそこの門番と仲良しになったのよ」
「まあ、それはそれは」
咲き誇る薔薇の花を想像したのか、お姉ちゃんの顔が綻んだ。しまった、これもお土産に持ってくればよかった。お土産リストに追加だ。美味しいキノコ、綺麗な薔薇、そして素敵な思い出。これが私にもって帰れる全部。
「けれど」
ふいにお姉ちゃんの顔が曇った。
「あまり危ないことをしてはなりませんよ。第三の目を疎ましく思うものなど珍しくありません。例えそれが閉じていてもね」
「お姉ちゃんってば、心配性だなあ」
いや、違うか。
多分お姉ちゃんは知っているのね。人間が覚りのことをどう思っているのか。私だって、わかっているつもりだけど、目を開いている間はついぞ気づくことが出来なかった。それがお姉ちゃんのおかげであることは想像するにたやすい。
だから、わたしせめて笑うのよ。お姉ちゃんを安心させるために、ニコニコと笑顔を振り撒くのよ。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。私、もう子供じゃないの、お姉ちゃんに迷惑はかけないよ」
「そう、ですか」
その浮かない顔は「心配」なんだろうね。それ以上のことは私わからないよ。だって私はお姉ちゃんの心を読めないもの。わからない、わからないの。
不安な気持ちをおしこめて、私は自分を心配してくれるお姉ちゃんをまた好きになる。
先日、久しぶりに妹が帰って来ましたよ。もちろん、帰って来なければいいとも思いましたわ、でも、ペットはあの子に懐いているようですからね、帰らなければ帰らないで困りものですが。
そいでね、あの子ってばどこへ行っていたと思います? 地上ですよ、地上。それを聞いたとき、私は、眩暈がして倒れそうになりました。
あの子は、知らないのですかね、地上には数多の外敵が蔓延っていることを。知る由もないかもしれませんね。私はそのように努力してきたつもりです。あの子には汚らわしいものを見せないようにと。天使であれ、と育てました。そのことが私の心を苛みつづけていたのは、皮肉なことです。
あの子はね、善悪の概念がはっきりしすぎているのです。
優しい人が善い人、優しくない人が悪い人。現実は、優しい人こそ内心に悪意を秘めていますのに。優しくない人にこそ媚びを売らねばなりませんのにね。
彼女は石を投げられたことがありません。いつも私達に優しくしてくれる方が、心の底でどれだけの罵詈雑言を浴びせているか知りません。上品そうな紳士が、脳内で私達をどう扱っているか知りません。
ですからね、あの子が楽しそうに地上のことを語る度に寒気がするのですよ。裏がある、なんて思いもしない。私ならば、あんなところ真っ平ごめんです。あの子が美しいと思ったもの全て、私に牙をむくでしょうから。
あるいは――嫉妬しているのかもしれませんね。
私はこんなにもおびえて暮らしているのに、自由気ままに暮らすあの子に対して。私もこの能力さえなければ、と思いました。けれど目をつぶす勇気は、やっぱり起きません。
だから、その気持ちまでも、全部怨みへと変換されていくのです。あの子さえ、あの子さえ、何度繰り返してきたことでしょう。
あの子がもっとこの世に絶望していたら、私は幸せだったのかもしれません。でも、あの子は、すべての物を愛するんですもの。信じるのですもの。
ああ、そしてそれは私自身にも言えますね。あの子、私がいい人だと思っているに違いありませんわ。そうでなきゃね、あんなに楽しそうに話せやしませんよ。
あげくの果てにね、あの子「もうお姉ちゃんに迷惑はかけない」なんて言うのです。なんて、愚か。なんて、自分勝手。あの子が外を出歩くだけで私の心臓は止まってしまいそうになるというのに。
始めは、あの子も私のことが嫌いだからあんなことをするのだと思っていました。
けれど、違うんです。心の底からあの子は私のことを慕っているのでしょう。
罪悪感を感じない、といえば嘘になります。
あの子はね、心のそこから善良です。けれど私にとっては害悪です。あの子に対する全ての感情が憎しみに吸い取られるようなそんな心地さえします。
今私を動かしているのは、あるいは留めているのは、面子、あるいは義務かしら。私は善い姉でなくてはなりません。誰に教えられたわけではないけど、そう知っています。私を信じるあの子を、私は守らねばなりません。
けれど、もし、もし仮にですよ、あの子が私の憎悪を知っているのだとしたら。
――私はあの子を殺してしまうかもしれませんね。
【三。 昔の夏のころ】
夏がくると思い出すのは、初めてお姉ちゃんに殴られた日のことだ。
その日はいつもよりも暑くて、それに加えて沢山のうっとうしい思念も頭のなかでうずまいていて、幼い私は倒れそうになっていた。
そんな私の手を引いて、お姉ちゃんは颯爽と歩いていた。暑さなど感じさせないその表情、瞳には、まさしく決意というものが溢れていて、それがかっこよくって私も真似して歩いたっけ。
(覚りの姉妹だ)(ああおそろしや)(早く村からでていってくれよ)(なかなか可愛い面してるなあ)(すまし顔して)(この心も読まれているのかしら)
私はつん、とまるで高貴なお嬢様にでもなった気分で歩いていたけど、遠巻きにこちらを見る人々は容赦なかった。
頭のなかに流れ込むその言葉を幼い私はうまく理解できない。ただ少し眩暈に似た嫌悪感だけは覚える。
「おねえちゃん」
不安になって、くい、と握った手を引っ張るとお姉ちゃんは少し呆れたような顔でこちらを見た。
「聞こえていない振りをなさい、こいし」
そういうお姉ちゃんの、その眉がひそめられているのに私は気付いた。お姉ちゃんだって嫌なのだ。でも聞こえない振りをしている。生きていくためには仕方ないこと。
でも幼い私はそれがわからない。自分の奇異さに気づかない。理不尽だと思っている。
「どうして言い返さないの? それとも私が行ってきてあげようか」
「馬鹿なことを言わないの」
私の手を引いて歩くお姉ちゃんの歩調が少し早くなった。それと同時に頭の中にお姉ちゃんの思考回路が流れ込んでくる。冷たい声。心の中では音声なんて聞こえないはずなのに、お姉ちゃんの言葉だけは本当に聞こえてくるような気がするの。
(馬鹿な子)(馬鹿な子馬鹿な子)(そんなことしたらどうなるか分かっているでしょうに)(誰に似たのでしょう)(怖いわ)(本当にやりかねない)(馬鹿な子)(死)(私は姉だわ)(こいしを守るの)
それはあからさまな憎悪だった。
けれど気づかない。私は幼いから気付かない。お姉ちゃんが大好きだから気付かない。嫌われてるだなんて思いたくないから気付かない。
気づかないふりをしている。
自分が悪い子だから、お姉ちゃんは少しいらだっているのだと、ただそう思った。きっと言い返すのはいけないのね、お姉ちゃんは優しい人だわ。そうね、悪口を言われたからやりかえすだなんて、子供のリロンよ。
私はそのとき高貴なお嬢様のつもりだったから、そういう風に自分を納得させて、お姉ちゃんの手を強く握り返した。一瞬ためらうような間があったあと、お姉ちゃんも握り返してくれた。
「おや、さとりちゃんとこいしちゃんじゃないか」
誰も寄せ付けないように足早に歩く私たちに声をかけてきたのは、『じぬしさん』だった。いっつも上等そうな服を着ているこの人は、ときどき内緒で私に飴をくれる。可愛いって言ってくれる、思ってくれる。お家におよばれしたこともあるけれど、お姉ちゃんにとめられた。大きくってきれいなお家だったから、私は楽しみにしていたのに。
そう、私、この人好きよ。優しくしてくれるんだもの。
「こんにちは!」
「こんにちは、こいしちゃんは元気だねぇ」
私が元気いっぱいに挨拶すると、お姉ちゃんは少し顔をこわばらせたように思えた。心の中はぐるぐるしていて、少しわかりにくい。断片的に、いやな感情が見えたから、私は目をそらすことにした。
お姉ちゃんは、挨拶をしない。
ただすこし、目を伏せがちにして、会釈をするだけ。お姉ちゃんは恥ずかしがり屋さんだから、こういうことがよくあるのよ。だからね、私はかわりに元気よく挨拶するの。
「さとりちゃんも、こんにちは。どこかへお出かけかい、仲良しだねぇ」
そのとき、じぬしさんの、お姉ちゃんにかける声が私に向ける声とちょっと違うのに気付けたのはどうしてかしら。甘くてね、どろどろしてて、水飴みたい。でもその真意はさすがにわからなかったわ。
ただ、お姉ちゃん嫌そうな顔をしてたわ。
だからね、私ふと不思議になって、じぬしさんの心をじっと観察してみることにしたのよ。もしかしたら、二人がけんかしているのかもしれないと思って。お姉ちゃんの心は相変わらずどろどろしていたの。
そして私、気づいたら、叫んでいた。
「お姉ちゃん! この人、お姉ちゃんにいじわるしようとしてるよ!」
次の瞬間、私の頬に痛みが走った。
(馬鹿な子)(馬鹿な子馬鹿な子)「何を言ってるのこいし」(何を言ってるのこいし)(やめなさい)(あなたは本当に迷惑ばかり)(馬鹿な子)「ごめんなさいね」(なにもわかっていない)(邪魔)(ざまあみろ)(邪魔だわ)(殺したい)「きっと勘違いでしょう」(そうだわ)(この子を殺して)「気分を悪くしないでくださいね」(私は生きるの)
けれど何より、流れ込んでくるその思念に愕然とした。お姉ちゃんは私を怨んでいた。叱っていた。憎んでいた。
疑問ばかりが頭をめぐった。
どうして? 私はお姉ちゃんのことを思って言ったのに! お姉ちゃんにだって見えているはずでしょう? じぬしさんはなにか悪いことをしようとしているの。
幼い私にはわからない。
お姉ちゃんがどうやって私を守ってきたのか。じぬしさん、がお姉ちゃんになにをしようとしているのか。そのことでお姉ちゃんは何を得るのか、失うのか。どうしてお姉ちゃんは私にそれを隠しているのか。
わからない、わかろうともしない。
「では、私達急いでいますので」
呆然とする私の腕を乱暴にひいてお姉ちゃんは歩きだしていた。じぬしさんはただ、見たことがないような恐ろしい目で私を見ていた。怖がっているようにも見えた。
「お、お姉ちゃん、痛いよ。ごめんなさい、怒っているの?」
しばらく歩いて、人のいない小道で、お姉ちゃんはやっと止まった。
暑さで汗一つ書かないようなお姉ちゃんが、息を荒げていた。こんなに怒っているお姉ちゃんは初めて見た。私はただ、ごめんなさいと繰り返し謝ることしかできない。
でもお姉ちゃんは何も言わなかった。一度、こちらを睨みつけてからは、もう私を見ようとさえしなかった。
(どうしましょう)(本当にいやな子)(もう生きていけない)(生かしておけない)(殺して)(大丈夫よ)(だれも責めない)(喜ぶ)(むしろ)「こいし」
(いいえ、ダメだわ)(私は姉)(いい姉)(妹思いの姉)(姉)(姉でないといけない)(義務)(そう、義務だわ)(愛さないと)(こいしを)(こいしを愛するの)(愛している)(私はこいしを)(愛している)
「こいし、この町を今晩にでも出ましょう」
お姉ちゃんは覚悟を決めたようにそう言った。私の頬を撫でて、笑った。
「どうして?」
「ここにいたら、私がひどい目にあわされてしまうのでしょう?」
「……うん!」
そこで私は、わかったの。
全部あれは、演技だったのね! お姉ちゃんはやっぱりわかっていたのよ、私が正しいってこと! 私が怒られないようにあんなことをしてくれたのね!
その証拠に、お姉ちゃんは今私を愛していると、そう思っているの。
幼い私は気付かない。
その愛情が偽物であることに。心の底では憎悪が渦巻いていることに。お姉ちゃんは私のことが大嫌いだということに。気づかない。気づかない。
気づかないふりをしている。
それでもいいわ。
私、私のことを愛してくれるお姉ちゃん以外は、信じない。
夏がくると思い出すのは、あの子と浴衣を買いに行った日のことでしょう。
梅雨が終わって、いよいよ夏本番といった感じのころでした。いきなり、あの子が、浴衣がほしい、だなんて言い出すものですから、私驚いて驚いて。確かに家計は苦しかったです。まともな職になどつけませんもの。
でも、頑張って余裕を作りました。その頃私は愛するのが下手で、物をあげる以外にいい方法が思いつかなかったのですね。できる限りあの子の欲しがるものは買い与えてきたつもりです。そうすることで、私は、妹に優しいお姉ちゃん、になりきれていたのです。
あの子はそのたび喜びました。
私とおそろいの髪飾りとか。かわいらしい、指先に乗るくらいの、ガラスでできた猫だとか。そうそう、今あの子がかぶっている帽子も私があげたものでしたっけ。
妹のために頑張って『働いて』自分のためにはお金を使わず、節約し、妹へのプレゼントは欠かさない。いいお姉ちゃんでしょう、私。そんな自分にね、私少し誇りを持っていたのです。
でもね、流石に浴衣を買うのは少し大変でした。普段は小さな小物とか、安いものばかりを欲しがっていたのに、どうして急にあんなもの欲しがるのか。当時の私は不思議に思いましてね、聞いたんですよ。
ああ、それは、あの子の手を握って二人で浴衣を買いに行く途中のことでしたね。はたから見たら仲良しの姉妹だったことでしょう。
どんな色がいいとか、こんな柄はあるかしら、なんてあの子は楽しそうに喋っていたのです。そんな姿を疎ましく思いながらも、私はなるべく優しく聞いたのです。どうして浴衣なぞがほしいの、と。
あの子は笑いました。天使のごとき笑みでした。
そしてその笑みのまま、お姉ちゃんに着てほしいのだというのです。
そのとき、私が懺悔できていたら、なにか変わっていたのでしょうか。あの子を抱きしめて、謝ればよかったのでしょうか。
それにたるだけの優しい子でした。姉思いの、美しい心を持った子でした。能力をひけらかすののなにが悪いのでしょう。いっそ、二人きりで山奥にでもこもればよかったのです。
けれど、できませんでした。
今更許しを請うのが、ひどく滑稽に思えたのです。だって、もう幾度となくこの子の心に憎悪の思念を流してたのです。少し悩みました。悩んでいる間に、もうその感情も薄れて、憎悪にかき消されて行きました。
あるいは、それが私の最後の理性だったのでしょうか。ここであの子に謝れば、私があの子を憎んでいたことの証明になる。幸い、あの子は私の憎悪に気付いていないようでしたので、なるべく、私も悟らせたくなかったのですね。いい姉ですから、私は。
私のことなど気にかけないでいいのです、私はそう返しました。
お姉ちゃんのことが大好きなのに、とあの子は答えました。
私はなにも答えませんでした。答えられませんでした。結局浴衣を買うのはやめて、かき氷を買って食べました。きっと浴衣を買っていたら、私の心は罪悪感で塗りつぶされていたでしょうから。
【四。 いつかの秋のころ】
古明地こいしはただふらふらと歩いていた。その目はうつろで、光を映していない。
ぽつり、と彼女の額に水滴が落ちた。雨が降ってきたのだ。最初はぽつり、ぽつりと遠慮しがちに降っていた雨も、すぐにザーザー降りにかわる。こいしはもう帽子から靴まで、ぐっしょりだ。
だが、彼女自身はそんなことなど全く気にしていないらしい。ただぶつぶつとうわごとのように「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と繰り返している。
その姿はさながら亡霊。すれ違えば、誰でも恐怖しそうな様子であるのに、誰も彼女には気付かない。
「これでいいんでしょ、お姉ちゃん」
ぽたぽたとこいしの第三の瞳から涙のように水滴が落ちる。雨のせいだけではなかった。
水滴には赤く色が付いていた。こいしの第三の瞳から、血液があふれだしていた。否、そこには瞳は無かった。ただ外殻にうつろな穴だけが残されており、その穴からひっきりなしに血液が流れ出している。見ているだけで痛々しかった。
こいしの体が大きくかしいだ。ぜぇ、と苦しそうに息を吐いて彼女は立ち止まる。けれど、すぐに次の一歩を踏み出していた。
「待っててね、お姉ちゃん、すぐ帰るからね」
古明地さとりがこいしに向かって激情の言葉を向けたのはつい先ほどのことだった。
きっかけが何かなんて、もう二人とも覚えていない。くだらない言い争いから始まったように思える。大人になりなさい、とか、あるいは片付けをしなさいとか、もっと具体的なことから始まったのかもしれない。
ただ、心の引き金を引いたその言葉だけ、さとりの胸に深く突き刺さっていた。
『きっと、お姉ちゃんは私のことが嫌いなんでしょう』
気づいた時にはこいしにひどい憎悪の言葉を投げかけていた。我にかえった時には、こいしがいなくなっていた。
それからもう数時間は経っている。さらには雨が降り出した。さとりの頭の中は不安でいっぱいだった。だが、それはこいしを心配しているわけではない。こいしがあたりにどんな害悪を振りまくかわからないから。
二人にこの地底の屋敷を与えられてから、早一ヶ月が経っていた。今のところ、少しぎくしゃくとした感じはあるが、近所との関係はまだ良好。ほぼご近所づきあいをしていないのが逆に功を奏しているのであろう。
正直言って、さとりは現状にいたく満足していた。広いお屋敷は少し寒々しい感じがするが、それを言うのは贅沢というものだろう。だからこそ、こいしの行動によって、この環境が壊されるのを恐れているのだった。
「あの子はいつになったら帰ってくるのかしら」
ほう、と不安がため息となって口からあふれてくる。
気分を落ち着けるために紅茶でも入れようかとたちあがるさとりを見ている存在があった。
こいしである。
眼と鼻の先、手を伸ばせば触れられる距離にいると言うのに、さとりはその存在に気付かない。どうやら知覚できていないらしい。そのことに、こいしは「きゃは」と笑う。
「すごいわ本当に意識に入らないのね」さとりはお湯を沸かしている間にミルクと砂糖を用意する。ティーカップを洗う。お茶の銘柄をどれにしようかと悩む。「私はこっちの方が好きかなぁ」さとりは違う方を選ぶ。「あれれ、残念」
「まったく、いっつも心配ばかりかけさせて」
「心配してくれるのね、うれしい」さとりはひとり分だけ紅茶を入れる。ミルクを入れて、続けて、砂糖も。「お姉ちゃんってば案外甘党なのね」口にして、ため息をついてから、またうつむく。
「本当に、不安だわ」
そのうつむいたうなじに触れられているのに、さとりはまだ気づいていない。
その紫の髪にキスされているのに、さとりはまだ気づいていない。
自分の妹がどれだけさとりのことを愛しているのか、さとりはまだ気づいていない。
気づいていない。ずっと気づくことができなかった。
「ただいま、お姉ちゃん」
急に耳元で呼びかけられて、さとりはあわてて振りかえった。
そこにいるのは彼女の妹、憎くて憎くてたまらない、覚りの妹。馬鹿な妹。けれどそこに立っている少女は、もはや覚りとはいえなかった。
第三の瞳を閉じた覚りは、果たして何と呼ばれるべきなのだろう。彼女はなんでもなかった。ただ、さとりの妹であるという事実以外、彼女をこの場につなぎとめるものは無かった。
「私、これまでずっとお姉ちゃんに迷惑をかけ続けていたね」
「あ、なた……」
さとりが驚きに目を見開く。あたりまえだ、こんな話があるはずもない。自分の力で、つぶした? 第三の目を? さとりの心の中を驚愕が埋めつくす。
だが、それよりも、嫌悪の方が大きかった。
「あのね、私ね、きづいたの。お姉ちゃんは私の人の心をすぐ読んじゃうところがね、きらいなんでしょ」
「その、目……どうしたの」
「あはは、えぐっちゃった。そしたらね、すごいの、なんも聞こえない。そのかわりねあんなことできるようになったの。なんだろうねぇ、私が人の気持ちを読めないように、人も私の存在を読めないの」
「…………モノ」
「これでお姉ちゃんとも仲直りできるわ、うれしい。お姉ちゃん大好きよ」
「バケモノ!」
ばしゃり、とまだ熱い紅茶がこいしに浴びせかけられた。
したたる雫の音さえも聞こえそうな静寂の中、さとりのあらい息遣いだけが聞こえている。さとりは泣いていた。声をあげることなく泣いていた。
こいしは笑っていた。
「お姉ちゃん、ごめんね、びっくりしたよね」
「……っはぁ、あなたは……どうして……」
「大丈夫だよ、お姉ちゃん、わかってるよ、びっくりしただけだもんねぇ。私、知ってる、お姉ちゃんが私を愛していること」
こいしは笑っていた。
「お姉ちゃん大好きだよ」
「やめて、こないで、あなたは私の妹じゃない」
「また、そんなこと言って。心の中では私を愛しているくせに」
こいしは笑っていた。
彼女の中のさとりは、未だに彼女のことを愛し続けているのだ。口ではなんと言おうとも。かつてこいしのことをどう思っていようとも。
瞳を閉じた彼女には、さとりの憎悪は見えない。見えないから、存在しない。
「私のお姉ちゃんは、私のことが大好きなんだよ! だってお姉ちゃんって、そういうものでしょ?」
【五。 】
誰かに頭を撫でられているような感覚で私は目を覚ました。うっすらと目を開ける。覚醒と睡眠の間の微妙な時間。この時間が私は好き。なにも考えないでいいような気分になるから。
私の頭を撫でているのは、やっぱりというかなんというか、お姉ちゃんだった。撫でているのとは逆の手に、包丁を握っていた。光を映さない両の目には、私への殺意が満ち溢れていた。
私がかすかに身じろぐと、お姉ちゃんは落ち着いた仕草で包丁を背中の後ろに隠した。殺意に満ちた目も細められて、今ではこちらに笑いかけている。
「おはよう、こいし」
「おはよう、お姉ちゃん」
私の手をそっと握って、お姉ちゃんはほほ笑んだ。
ステンドグラス越しに朝の陽光が降り注いで、ねぇ、私たち本当に素敵な、絵画みたいな姉妹なのよ。
私、気づいてるわ。
お姉ちゃんが私のことを嫌いなこと。殺したいと思っていること。
ずっと昔から、そうだったんでしょ。そのときは気付かなかったけど、お姉ちゃんはずっと私のことを憎悪している。
私のことを愛したふりをするのは、ただの自己満足でしょう?誰がほめるわけでもないのに、お姉ちゃんはずっといい姉であり続けようとしているだけ。
私、全部全部気づいてるわ。
でもね、私、お姉ちゃんのことが大好きよ。
だってね、お姉ちゃん、知ってる?
お姉ちゃん、まるで懺悔するみたいに私の手を握るのよ。
なに書いても無粋になる気がする。
しかし、好みの問題のレベルだと思いますが、もう1、2シーン欲しかった。
憎悪。善良なる市民の僕達には中々自覚できない感情なので、そのきっかけの部分、明確に自覚した場面があると嬉しかったです。
ワイドショー見てるおばさんが、「嫌いで人殺しちゃあいかんよねえ」と、その感情を理解できずにいる光景はすぐに想像できると思います。
しかしその実、そういったおばさんこそがワイド劇場で殺人者の気持ちに同情するのを楽しんでいるのではないでしょうか。
何を言っているのかよく分からなくなりましたが、この手の作品はそういったいきさつが肝になってくる気がします。
でもでも、シーン数がもうちょっとほしいというのは、この作品の空気にもうちょっと浸っていたいという
僕の我がままから生まれたものなのかもしれません。
或る意味非常に真っ当な姉妹の関係といえる気もする。
俺は好きですね、嘘吐きで正直者のこの二人が。
うん、好きだ。
久々に心抉られた。
歪んでいてでもとても理解出来るもので、そんな2人が良かったです。
でもこの二人が幸せになるのは無理じゃないかなぁ
すばらしい。
こめいじかわいい
ずっとハラハラしてどうなるかなと思ったが、最後の一行でもっていかれた。
しかし、よく考えなおすと、それでも幸せかどうか分からないところが悲しい。
さとり様可愛い
最後の一言に破壊力があるのは大好きです
もっと読みたいなぁと思いました。
その逆もあり得るのにね。
あまりいい結末が見えませんが、ぜひとも続きをみたいものです