東方恋鬼異聞1の続きです。
/変化のもの
一
かの酒呑童子討伐から十日ほどが過ぎた。
綱たちが京に凱旋してからというもの、綱たちはあちこちに呼ばれて鬼退治の話をさせられた。綱は随身として頼光に伴ったが、話すのが苦手なので、もっぱら頼光が誇張を織り交ぜての武勇伝を披露していた。
今日は頼光の弟である頼信の邸宅へ行って朝から夕方まで滞在していた。同じ話をしすぎてさしもの頼光も疲れたのか、鬼退治の話ではなく摂津や河内の情勢について話し込んでいた。
今はその帰りである。
京の大路を二人はゆっくりと歩いている。橙色の日は遠くの大江の山にかかり、薄暗くなり始めている。たそがれ、逢魔が時であった。
「なあ綱よ。やはり、きゃつの首を老ノ坂に埋めないほうがよかったと思うぞわしは」
「晴明殿が言うことだ。素直に従おう」
「しかし、証しが無くてはいまひとつ話が盛り上がらないではないか」
「証しがなくとも盛り上げていたろう」
鬼退治を語る時、頼光はしばしば作り話をした。特に、斬った首が舞いあがって頼光の兜に噛みついた、というくだりは聴く者を大いに震え上がらせた。そんな忌まわしい首が今は土中に埋まっていると知って、多くの人はほっとしたのだ。
ふと、頼光は細い目を更に細め、遠くを見る。
「わしは鬼の首を見て皆が喜ぶ姿を見たかったのだ……ともあれ、これで流行り病も収まる。二年前は鼻を塞がずには表を歩くこともままならなかったからのう」
正歴四年、西暦にして九九四年、京にて疱瘡が大流行した。死亡者が道端に放置され、往来する者は鼻を塞ぎ、烏や犬は人の死体をもはや食べ飽き、骸骨があちこちを塞いだという。病は頼光の本拠地である摂津にも及び、頼光配下の者も、大勢、死んだ。
「……そうだな。そうなるといい」
そうはならないことを、綱はつい十日前に知った。
綱は疫病の真実を誰にも話さなかった。
真実を知りはしたが、どうすればよいのか分からなかったのだ。
「なあ、綱よ。此度の征伐の功で、わしの名は更に高まったな」
沈んだ空気を振り払うかのように、頼光は明るい口調で言った。
「やれやれ。親父はなにかにつけてそれだな」
頼光は露骨に出世欲の強い人物であった。父である満仲の代から藤原氏と強い繋がりを持ち、八年前に藤原兼家(ふじわらのかねいえ)が家を新築した際に頼光は馬を三十頭も贈っている。
「わしが昇殿するためには、受領を任ずる他には武功を挙げることしかないからのう。わしは京暮らしが性に合うておるが、こういう機も無駄にしたくないものよ。小さな信を積み重ねてこそ、大きな信を得られるというものだ」
「親父は大変だな」
「ああ、大変だとも。おまえたちにも所領を持たせてやらねば」
「所領か……おれは親父のもとで武芸を磨ければそれでいいのだが」
「いかんぞ、綱。男子として生まれたからには高みを目指さねば。おまえにはそのうち摂津の海を任せたいものよ」
武芸達者な綱は、泳ぎもまた達者であった。。
「……先のことはわからぬよ」
「まったくおまえというやつは。よいか、綱。若いおまえを筆頭に据えたのは、わしの贔屓などではない。おまえが誰よりも強く、戦も達者だからよ。兵どももおまえに信を置いておる」
先の討伐において、綱は三人をひと組として行動するように提案した。当時における戦の常識では考えられないことである。反対する者も少なからずいたが、相手が鬼であるとの説得によって提案は実現し、結果として損害は皆無であった。
二年前の疱瘡の大流行で配下を多く失った頼光は、内心では兵を失わなかったことこそを喜んだのだ。
「わしは父と違い、戦のことはあまり分からぬ。兵学を学び、個の武勇にも優れたおまえがいなければ、わしの郎党はもはや成り立たぬ」
「公時の兄者や季武(すえたけ)の兄者もいるだろう」
「あやつらも、おまえを推挙しておる。わしより余程な。わしが歳にも出自にも拘らぬことは誰よりもおまえがよく知っておろう。あやつらも同じことよ」
「おれは、そう大層な男ではないと思うのだが」
「やれやれ……まァ、おまえのその驕らぬところがよいのだろうが。力を持つ者は、その使い所を誤ってはならんのだぞ、綱」
その使い方を見出せないからこうして悩んでいるのだが。
頼光は気がよく配下からも慕われているが、どうも人の感情の機微にはあとひとつという所で疎い。
「さて。わしはこの後、道長殿の催す歌合わせに呼ばれておるが……お前は行かぬよな」
「ああ、すまないが、行かぬ。どうせ泊まるのだろう?」
「うむ。しかし綱よ、歌の一つや二つ嗜まぬと女にもてないぞ」
「もう少ししたら適当に嫁を貰うさ。なんなら親父が見繕ってくれ」
「適当になどと。枯れておるのう……わしの若い頃は日に日に違う女のところへ通ったものだが。おお、そうだ。この間、話をした時に礼としてよい唐絹をもろうてな。綱、あれはおまえが使え」
「おれが絹を着てどうする」
「ばか。おまえが使ってどうする。女にやるのよ」
などと他愛もない会話をしながら辻を曲った先で、牛が死んでいた。二人は言葉を失う。
丸々と太った牛であった。よいところの牛車を牽いていたのだろう。
腹が割かれて臓物が零れ、凄い臭いがしている。元々この季節の京はあまりよい臭いがしないものだが、道行く者は袖で鼻を押さえていた。蠅のたかる音もしている。
「あなや。凶兆であろうか……」
頼光が不安そうに呟いた。おぞましい光景と臭いは、二年前の疱瘡の大流行の記憶をいやがおうにも喚起した。
綱は通りがかった下人を呼びとめた。
「そこの。この牛の有様はどうしたことか、なにか知らぬか」
「はあ。どうやら朝の誰もおらぬころからそこで死んでいたようです。なにぶんこの大きさですので人の手で運ぶわけにもいかず、牛も嫌がって近づかないようなのですよ」
「一日放っておいたというのか」
「そこな邸宅の方が呼んだ陰陽師の方が占うことには、物忌を行って明日の未明に死体を片づければ凶事を免れると」
物忌とは凶事を避けるために行う引き籠もりのことである。
「なるほど。礼を言う。詳しいな」
「へへっ、今日はこのあたり、その話でもちきりでございましたので。では」
下人は頭を下げて去っていった。
頼光は口髭を撫で、手を揉んでうろたえていた。うろうろとその場で足踏みをする。
「どうしたものか。今から陰陽師に相談していては遅れてしまう。道長殿のお招きとあれば応じないわけにはいかぬ。さりとて厄を背負ったまま顔を出すわけにもいかぬ」
ぶつぶつと言いながら頼光が牛に背を向けた、その時であった。
綱の視界の端で、もぞり、と裂かれた牛の腹が蠢いた。
ことは、綱が身構えるより僅かに早く起こった。
「きえええええええええええええええっ!」
奇声と共に、血でずぶ濡れになった小さな童子が牛の腹から飛び出してきた。白い眼だけが薄暮の僅かな明かりを集めてぎらぎらと光っていた。
奇声に驚いて振り返る頼光に、ぼたぼたと血を零しながら子供が肉薄する。
綱は、童子の右手に握られた平たいものを見た。
考えるより先に脚が跳ね上がった。不十分な体勢から、しかし十分な威力を持った蹴りが放たれた。
「げえっ!」
腹に爪先が刺さり、童子が反吐をまき散らしながら鞠のように地面を転がった。
綱はすかさず髭切を抜き、油断なく切っ先を突きつけながら、地に仰向けになった血まみれの童子のもとへ歩み寄る。
童子の右手は丸く固められ、牛の血にまみれた短刀が飛び出していた。血で濡れても短刀が滑らぬように布を巻いていたらしい。
綱は無造作に髭切を持ち上げ、童子の右手首を刺した。腱を切ったのだ。
「ぎっいいいいいいいいあああああああああああああ!」
聞くに堪えない悲鳴が、京の薄暮をほんの一瞬だけ明るく見せた。
「鬼か、綱!」
「……そうだな。鬼だろうよ」
童子の凄惨な姿を見て人だと思うものはあるまい。全身が赤黒く血にまみれ、体のあちこちに何とも知れぬ臓物の欠片がこびりついている。
「くちおしや……」
剥いた歯まで血にまみれている。
「貴様、誰の刺客ぞ」
「あるじの、無念を、晴らすためよ」
小さな鬼は絶え絶えの息でそう言った。舌足らずな喋り方だった。
「あるじ? よもや貴様、酒呑童子の《式》か」
小鬼は答えない。血走った眼球だけが忙しなく綱と頼光の間を行き来する。
「くちおしや……」
もう一度、体を震わせて、顔をおそろしく歪めて、小鬼が言った。よほど恨みが深いらしい。
「答えよ。答えねば斬る」
斬る、という言葉に、小鬼が反応した。
眼球をぎょろりと回した。ごきり、と音がした。奥歯を噛み砕いたらしい。
「おまえたちの手には、かからぬ」
そう言った後の小鬼の動作は素早かった。固めた右手を左手で掴み、短刀で自らの喉を突いたのだ。
制止する暇もなかった。
綱はその場に立ち尽くす。髭切の切っ先が地に着きそうなほどだらりと垂れた。
激しい後悔に襲われていた。
もとより、綱に小鬼を斬るつもりはなかった。
酒呑童子の《式》であるならば、あるじの恨みを晴らさんとするのは当然のことである。
だが綱は、頼光を斬らせるわけにはいかぬ。
確かに酒呑童子の《式》であると本人が言えば、命は助けるつもりでいた。頼光が斬れと命じたならば、土下座をしてでも小鬼の命乞いをするつもりでいたのだ。
綱はのろのろと髭切を納める。
十日前、白んだ空を見上げたときの、あのやるせない気持ちが蘇った。
武人であれば、人を殺めるときは必ずある。だが無益な殺生は、誰でも嫌いなのだ。
「おや、これは頼光殿」
いつの間に現れたのか、白い水干をふわりと着た中背の老人が立っていた。髪も髭も真っ白である。更には肌も白く、薄暮の中でぼうっと浮かび上がっていた。
「これは、晴明殿ではありませぬか」
安倍晴明。数年前に老齢を理由に天文博士を辞してはいるが、今でも京随一と名高い陰陽師である。
「あなたも、歌合わせに呼ばれに?」
と晴明が尋ねた。
「はあ。そうなのですが、かくかくじかじかという目に遭いまして。顔を出してよいものかどうか迷うております」
「ふむふむ……」
晴明はゆるりと足音を立てずに歩き、まず牛をじっと見て、べっと唾を吐きかけた。それから血の足跡を辿り、こと切れた小鬼の目を覗きこんで、また唾を吐きかけた。
最後に晴明は髭をしごきながら大きく二度頷いた。
「なるほど、なるほど。案ずることはありますまい。頼光殿に凶兆は見えませぬ」
「おお、まことでしょうか」
「まこともなにも、既にその凶兆を綱殿が退治したではありませぬか。我々が祭儀を組んでようやく祓う鬼をこうも容易く退けてしまうとは、我々もかたなしですな」
晴明はそう言って、ほっほと笑う。
「とはいえ、このことをあまり触れ回るのもよくないでしょう。そこな鬼の死体は夜のうちに《式》に片づけさせておきますゆえ、我らはなに食わぬ顔で歌合わせに出ればよいのです」
「かたじけない」
頼光の顔は薄暗がりでもはっきりと分かるほど明るく輝いた。
「ときに……綱殿」
晴明は声の調子をほんの少しだけ落とした。
「はあ。なんでしょう」
「今晩は霧が深う立ち込めます。そういった日には、えてしてよくないものが訪れますゆえ、あまり夜更かしをされませぬよう」
そう言うと、綱の返事を待たずに晴明は背を向けた。
綱は首を傾げたが、頼光に急かされてその場を離れ、晴明の後を追った。
二
頼光と晴明を歌合わせの会場まで送り、一条の頼光邸に戻った綱は槍を取って庭に出た。諸国の受領を歴任して財を蓄えた頼光邸の庭は、広い。
ひとつきり灯したかがり火は庭を照らしていたが、同時に闇を際立たせてもいた。庭の隅、植木の背後、築山に脇、池に架かる橋の下。どこにでも闇は溜まっている。
上を脱いだ綱はその闇に向かって黙々と穂先を振るう。
綱の足がざっと土を擦り、遅れて風を切る音がする。それを繰り返す。
虫や鳥も鳴かず、犬の遠吠えも聞こえない、静かな夜。時折、かがり火がぱちりと弾ける。
あちこちの暗闇に鬼が潜んでいるような気がして、それを打ち払うために綱はひたすら槍を振った。鋭い穂先が闇を薙ぐたびに、逞しく引き締まった体から汗が散る。
小鬼のことを、考えていた。
腕が痺れるころになって、ようやく綱は槍の石突を地に置いた。
「ふう……」
息をついて夜空を見上げると月はなく、星もなかった。晴れていたはずだが、と目を凝らすと、もやがゆるりと流れた。晴明の言った通り、霧が出ているのだ。
だが、おかしい。あれだけ晴れていた夏の真夜中に霧が出るはずがない。
よもやと思った。
すん、と綱は鼻を鳴らす。
汗の臭いに混じって、嗅ぎ覚えのある酒の匂いがした。匂いの方角には綱が寝泊まりしている離れがあった。
灯がひとつ、ちらちらと揺れている。
「あ奴……」
綱は呆れて溜息をついた。
井戸で行水をして汗を流し、予め用意しておいた水干に着替えた。
足早に離れへと向かう。
白い水干を着た白い肌の女児が、板間に置いた畳の上で胡坐をかいていた。
「やあ。精が出るな、綱」
萃香はひょいと細い手を上げて無邪気な笑顔を見せた。対する綱は不貞腐れた顔である。
「あんたの振る槍は速いな。聞けば弓も達者だそうじゃないか」
「なぜここにいる」
「ひどいな。また来いと言ったのにいつまで経っても来ないからさ」
「そうほいほいと山に足を運べるものかよ……どうしてここが分かった」
「なに、そのへんの童に頼光邸はどこかと聴けばすぐさ。あとは綱の気配が残っていたからここで待っていたというわけ」
萃香は手を振り、綱に座るよう促した。それも板間に座れと言っている。振る舞いがまるで自宅のようであった。
「あれ、なんで肴を持ってきてないんだ。わたしはするめが食べたいのに」
「なぜおれが肴を持ってこねばならんのだ」
「じゃあわたしが持ってこよう。綱はなにがいい」
「おまえが? ばか、人目についたらどうする」
「心配するな。人払いをしてあるから。それで、なににするんだ。梅干しでいいかな」
「梅干しでいいかもなにも、おれが干したものではないか。なぜおまえにやらねばならん」
「わたしが酒を持ったんだから、綱は肴を持つのが正道だろう?」
ようやく、なにを言っても無駄であると綱は悟った。
「好きにしろ……頼むから家人に見つからないでくれよ」
「わたしの力を忘れたのかい。人を集めることも散らすこともできるのさ」
萃香は亜麻色の髪を一本抜き、ふっと息を吹きかけて小さな萃香を作り出した。ちび萃香は綱の足元を駆け抜け、ぴょんと庭に飛び下りて大炊殿(おおいどの)へと向かう。相変わらずのむちゃくちゃであった。
ほどなくして肴が届いた。するめが二枚と梅干しが幾つか。角高杯に載せられ、萃香と綱はそれを挟んで向かい合って座っている。
「まァ呑め、綱」
「ああ。呑む」
二つの盃に澄んだ鬼の酒が注がれる。口に含むと僧坊酒にも劣らぬ豊かな味と香りが広がった。喉に下すとかっと熱くなり、吐息を鼻に抜くと頭がくらりと揺れた。
「うまいな」
と綱は言った。
萃香はするめを紙でも破るかのように細かくちぎり、欠片を口に放り込んで咀嚼する。
「うまいな」
と言いながら指を舐めるさまはまったく子供である。
萃香はするめの欠片をもう一つ取り、隣に座るちび萃香にもくれてやる。
ちび萃香はちゃっかり小さな盃を持ってきており、萃香が酒を注いでやるとそれを抱えて上機嫌になってするめを肴に呑(や)り始めた。
珍妙な様子を呆れて眺めていて、ふと綱は思いついて尋ねた。
「それは《式》とは違うのか」
「これはわたしさ。《式》じゃあない」
萃香は指先に光を灯し、蛍が飛ぶように動かして空中に字を書く。
「《式》は《使鬼》。鬼(もの)を使うと書いて、つまり自分ではないものを使う」
「ははあ」
綱は分かっていない顔である。
「陰陽師の使う《式》というのは、結局のところ人の情けや物の報せを集めてくれるもののことなのさ。だから《識》とも言うね。陰陽師はそれを使って様々な物事を見通すというわけ」
人の情けや物の報せ、という言い回しには覚えがあった。
「む、そういえば。今日、酒呑童子の《式》と思しきものに襲われたぞ」
「へえ」
綱は先ほどの出来事を、晴明の出現まで含めて萃香に話した。
ちび萃香は早くも酒が回ったようで、盃の縁に顎を載せてまどろんでいる。咥えたするめの端が酒に浸かっている様子が滑稽だった。
綱がことのあらましを話し終えると、萃香は細い腕を組んで頷いた。
「なるほどねえ」
「あれは《式》なのか」
「うん。確かにあいつは京に多くの《識》をやっていたね。童を好んで使っていたみたいだよ」
「童……あの《式》も童であったな。《式》とは、つまるところ人か」
「人であることもあるし、人でないこともある。犬も《式》、紙も《式》。晴明あたりは妖物も《式》としているんじゃないかな。まァ、山のあいつは人の《識》しか使っていなかったけれど」
「だが、誰よりも京のことをよく知っていた」
そして綱のことも。
萃香は下足を口に放り込んだ。
綱は梅干しを齧る。しっとりとした果肉から舌の根が痺れる酸味と強い塩味が染み出し、耳の奥にまで広がった。鍛錬で疲れた体にはこれが何よりも効く。
「もっと呑みなよ、綱」
「ああ」
萃香は紫色の瓢箪を傾けて、綱が差し出した盃に鬼の酒を注ぐ。
綱はそれをひと口呑んで、息を長く吐いた。
「……酒呑童子は、池田中納言様の娘御は疱瘡に罹ったがために幽閉されたと言っていた。あれが《式》を京に放っていたとあれば、どうやらそれがまことなのではないかと思う」
「うん」
「だがおれにはどうにも信じられないのだ。親が子を閉じ込めて、鬼にさらわれたことにするなど、あまりにむごい。この世からいなくなったことにするというのは、殺したことと同じではないか」
「まァ、そうだね」
萃香は、ずず、と音を立てて盃の酒を呑み干した。
綱は盃に揺らめく黒く透明な鬼の酒を、手の中で揺らした。
「それじゃあ、確かめに行くかい?」
「なに?」
「その池田なにがしのところへ、娘の様子を見に、さ」
そうだった。萃香ならばそれができるのだ。
綱の決断は早かった。
「うむ。行こう」
萃香と綱は盃を置いて立ち上がった。ちび萃香は気持ちよさそうに眠っている。
「ああ、待て。沓(くつ)を履く」
「人間は大変だな。わたしはいつも裸足だぞ」
綱は庭に下りて黒い浅沓を履いた。
「では」
「おう」
綱は萃香の手を握る。やはり、猫のように熱い。
「ところで、場所は知っているのか」
「うんにゃ。綱が知ってるんだろう?」
これである。知ってはいたので、綱は呆れながらも頷いた。
「綱、池田の住んでいるところを思い浮かべるんだ。なるべくはっきりとね。でないと、変なところに出ても知らないぞ」
「変なところとは」
「幽世(かくりよ)に出てしまうかもしれない」
萃香は笑いながら言ったが、ぞっとしない話であった。またおれを脅して楽しんでいるに違いない、と思いつつも綱はじっと集中して池田の邸宅の場所を思い浮かべる。
やがて目眩がおとずれ、上も下も分からなくなった。右手に握った萃香の左手だけが確かだった。
上下の感覚が戻っても、綱の視界は暗いままであった。
綱が僅かに足踏みをすると、浅沓の裏で、じゃら、と音が鳴った。玉砂利の音であった。
「着いたか」
「うん、着いた。やけに静かだねえ」
「あと、暗い。なにも見えぬ」
「じゃあ光ろう」
綱の目の前で、ぼう、と白い光が膨らんだ。萃香が体からうっすらと光を放っている。
美しい庭園の一部が、萃香を中心としてぼんやりと浮かび上がった。下草を詰めた楕円の島々から桔梗が伸び、紫色の花をつけている。
「なんだ、驚かないのか」
「今さらおまえがなにをしようと驚くものかよ。娘御が幽閉されているとなれば、どこだろうか」
「急くなよ、綱。我らが今探しているところさ……おや、ここかな」
萃香は綱に先んじて歩きだした。玉砂利を踏むときの音が、綱のそれに比べると格段に軽かった。
池に渡された幾つかの丹塗の橋を渡り、庭園の端へと二人は向かう。鯉が尾で水を打つ音くらい聞こえてもよさそうなものなのに、物音ひとつしなかった。
優雅に枝を伸ばす松に隠れるようにして、その小さな土蔵はあった。
小さな扉に不釣り合いな、とても太い閂が通されていた。更には大きな錠前がかけられていて、ひと目で抜くことがかなわないと知れた。
触れてみると、ひんやりと冷たく、重い。とても壊せそうにはなかった。
「どうしたものか」
「どいていろ、綱」
綱を横にのけた萃香は小さな手で錠前を掴み、骨と皮しかないような腕に力を込めた。
僅かな間もおかず、べきん、と高い音を立てて錠前が真っ二つに割れた。萃香は錠前を放ると手を払い、得意げな顔で綱を見上げた。小さな鼻をふふんと鳴らす。
「……凄いな」
「そうだろうそうだろう。力比べでは負けたことがないよ」
もはや力比べをするとかそういった次元の膂力ではない。公時は鉄を素手で割ると巷では噂されているが、真実ではないことを綱は知っている。人は素手で鉄を割ることなどできない。
綱が閂を外して地に置き、萃香が扉を開いた。
今まで体から光を放っていた萃香だったが、ここにきてその光を消した。綱がその意図を尋ねる前に萃香はさっさと土蔵の中へと入ってしまった。綱もその後を追う。
踏み入って、まず綱は饐えた臭いに顔をしかめた。
土蔵の内部にはひとかけらの明かりもなかった。目を閉じた時のように、赤や緑の、細いなにかがちらちらと瞬くだけであった。
「誰ですか」
暗闇の奥から、若い女のか細い声がした。かすれ、震えていた。
「私は源綱と申すもの。もしや、池田中納言国賢様の娘御であらせられましょうか」
「おお……」
感極まったように、女が声を上げた。ひゅう、と喉が鳴る音が聞こえた。どうやら泣いているようだった。
「確かに、わたくしは国賢の娘でございます」
「……では、あなた様を閉じ込めたのは」
「はい。父でございます」
綱は言葉を失う。酒呑童子は何一つとして嘘を言っていなかったのだ。
「わたくしは一度熱に倒れ、熱が引くと顔に……顔に、あの発疹が現れました。その時から、父はわたくしを娘と思わなくなったようなのです……」
むごい話であった。
「たいへん、苦しゅうございました。身は焼かれるように熱く、骨は砕かれているかのように痛みました。肌に……肌に触れれば、瘡が、あばたが……」
娘の言葉が途切れ、すすり泣きが土蔵に満ちる。
いたたまれない気持ちになった。
かけるべき言葉を、綱は持たなかった。
「……ふた目と見られない姿に成り果て、なればいっそ食を断って世を辞しようと悲嘆に暮れていたところでございました。最後の最後で、よもや、綱様にお会いできようとは」
「私を御存じでいらしたのですか」
「あなた様の武勇を、遠くから、存じ上げておりました。笠懸では的を外したことがなく、相撲では負け知らずで自分より遥かに大きな相手を投げ飛ばす、と」
的を外したこともあれば相撲で負けたこともあるが。
「最後にあなた様にお会いでき、心残りは、父への恨み。しかし、わたくしはいまだ、父が愛しいとも思うのです。どうしたことか、憎くて仕方ないのに、わたくしにとって父は、やはり、父なのです」
それは、深すぎてもはや形が分からなくなった悲しみであった。突然口に押し込められた不幸は悲しみの味をしていて、やがて味が分からなくなり、飲み下されて形さえ失われた。
「その恨み、晴らしてみるかい」
と、今まで黙っていた萃香が言った。
「そちらの方は……?」
「わたしは萃香。伊吹山の萃香。綱をここまで連れてきた、鬼さ」
「鬼……!」
身構える気配がした。
「なに、取って食ったりはしないさ」
萃香はなぜか満足げな口調でそう言った。
「それに、いまさら怖いものもないだろう」
萃香がそう言ったその瞬間。闇の奥でゆらりと気配が立ち上がって膨れ上がり、綱は思わず身構えてしまった。
鬼気が立ち上ったかのように幻視をしたのだ。気を取りなおして見てみれば、暗闇があるばかりである。
「……恨みを晴らす、とは?」
「わたしにひとつ考えがある」
にやりと笑ったのだと見ずとも分かる声音で、萃香はその考えとやらを池田の姫に伝えた。それは確かに恨みを晴らすことになりそうだった。
やります、と姫は言った。
趣味の悪い、と綱は思った。
だが、止めなかった。
それからしばらくが経ち。
国賢の寝所にすすり泣く声が現れたのは、寅の刻になった頃であった。
寝殿造というのは風通しがよい造りになっているが、その日はまるで風がなく、寝苦しい夜であった。中央の寝所ともなれば、暑さは格段であった。
「むうん……」
何度も寝返りをする国賢の枕元に、ぼう、と白い光が立っていた。
すすり泣きの声は次第に大きくなり、やがて国賢ははっと目を覚ました。
「……だ、誰じゃ!?」
「わたくしを、もうお忘れですか……父上……」
「そ、その声は……」
国賢は飛び起き、しかし光を放つ娘の姿を目にして腰が抜けた。手足をばたつかせて寝所の隅に逃げ込み、小さくなる。
「お恨み申し上げます……ひと月の間、わたくしは生き地獄でございました。恨みがつのるあまり鬼に変じたのでございます」
「ひ、ひい……」
歯をがちがちと滑稽なほどに打ち合わせて国賢は震える。
誰か駆けつけぬものかと視線を求めたが、人が起きだす気配はまるでない。
「聞けばわたくしは鬼にかどわかされたということになっているとか……娘を閉じ込めて、よくそのようなことを……であれば、わたくしを人目につかぬところへかどわかした、あなたこそが鬼ではありませんか」
「な、なにを! 疱瘡などに冒された、おまえが悪いのじゃ! 隠れて出歩くなり、誰かに祟られるようなことをするなり、したのであろ!」
「ひどいことを申されます。わたくしをいずれ藤原のどなたかに嫁がせるべく、品行を正し、厳に慎むよう申されたのは父上でございませんか。わたくしは今の今まで、その言葉にそぐわないよう生きてきました。それも、父上を愛すればこそでございましたのに……」
ゆらり、と光が立ち上がる。ひいっ、と国賢は喉を鳴らした。
「命を取ろうとは申しません。ですが、恨みまする。あなた様がこの世にある限り、恨みまする。わたくしは、もはや鬼。凶事あればすべてわたくしの嘆きと思いませ。不幸あればすべてわたくしの悲しみと思いませ」
「と、疾く、疾く、去ね!」
そう叫んで娘を拒絶し、国賢は般若心経を唱えて神仏に祈り始めた。
娘は、憐みの情をもって父を見つめた。
「……さようなら。もう、二度と会うこともないでしょう」
すう、と白い光が消え、娘の姿も消えた。
国賢はそのことに気づかず、目を固く閉じていつまでも般若心経を唱え続けていた。
ひとけのない暗い屋敷で一人、念仏を唱え続ける姿は、死んだことに気づかない亡者のようにも見えた。
玉砂利の敷かれた広い庭、黒々とした池にかかる橋の欄干に、綱と萃香が座っていた。
綱は腕を組んで、東北東の端にかかる二十五夜の細い月を見つめていた。
萃香は綱の隣に座り、ぼう、と白く光っている。
萃香の長い髪をまとめている髪留めが、朱色の欄干に当たってこつりと音をたてた。萃香から発せられていた淡い光が消え、入れ替わりに衣ずれの音がすぐそばに現れた。
「終わりましたか」
と、綱が闇に向かって言った。
「はい……」
力ない声が返ってきた。鼻をすする音がした。
「父上は最後まで、わたしにすまぬとも、行くなとも、申しませんでした……」
「……そうですか」
なにか言葉をかけてやらねば哀れに過ぎると思って、綱は言葉を探した。
「姫は鬼でなく、人であると思いますよ」
ややあって、池田の姫がくすくすと笑った。
「綱様は、お優しい方ですね」
響きに嫌味はなかった。上品で優しい頬笑みを綱は見た気がした。
「もう少し気の利いたことを言えないものかねえ……それで、どうするね、池田の娘。これも縁だ。どこへなり、好きな所へ連れていってあげるよ。後のことは知らないけれど」
少しの沈黙の後、姫は短くはっきりと言った。ふっきれた口ぶりであった。
「海を、見とうございます」
「へえ、海を?」
「わたくしは、今日まで京を出たことがございません。様々に海というものの話を聞き、一度は目にしたいものだと思うておりました」
「いいね。じゃあ、わたしが知る一番いい海を見せてやろう」
萃香の両手がほのかに、蛍一匹ぶんほどの光を帯びる。
「よしと言うまで手を離すなよ。そうでないと本当の鬼になってしまうからね……おい綱、あんたも早くわたしの手を握りなよ」
「あ、ああ。すまない」
綱は萃香の左手を取る。
「少し時間がかかるから、大人しくしていなよ。わたしの手に集中しておけば間違いはないさ」
言い終わらないうちに目眩が訪れ、天地がめちゃくちゃになった。
「……っ!」
姫は驚いて息を呑んだが、声は漏らさなかった。大したものだと綱は感心しつつ、ぐるぐるという感覚に耐える。
萃香の言葉通り、かなり長い時間を要してようやく目眩が収まった。
まず綱が感覚したのは風だった。次に、やけに開放的な周囲の雑音。遥か下方からも、木の葉が風に吹かれてさわさわと鳴る音が聞こえてくる。
山の上に立っているのだと気づくまでに、そう時間はかからなかった。
「さあ、もう手を離していいぞ。あァ、足元には気をつけておくれよ」
海と思しき眼下の平面は未だ灰色をしており、無数の黒い影が点在していた。
「萃香、あれは何の海だ?」
「瀬戸内だよ。恩賀島(おんがのしま)は弥山(みさん)の頂上さね」
「恩賀島だと」
恩賀の島といえば、現在の厳島である。当時から風光明媚で知られ、かの在原業平はこの地に蓬莱山を見た。
「しかし、恩賀島は……」
恩賀島は極端なまでに穢れを忌避することでも知られている。
「まァ、固いことを言うなよ。あの娘の穢れはとっくに落ちているさ。わたしは嘘を吐かないから信用して」
それはここを祀る神主に言うべきことである。
「あれが、海でございますか……あのように、よくわからないものなのでしょうか」
姫の声は少しがっかりした風である。
「まァ、待ちなよ。しばらくすれば日の出だ。あっちを見るといい」
一際大きく横たわる影を、光を灯した指が示した。江田島である。
綱は手ごろな岩に腰かけた。池田姫はそれを見てから、綱から離れた前方にしずしずと歩いて座る。
顔を見られたくないのだろう、と綱は思い、そこで初めて、萃香が土蔵に入ったときに光を消した理由を悟った。
萃香は腰にぶら下げた瓢箪を取って、酒を喉に流し込んだ。それから、ふう、と少し疲れたような息を吐いた。
空の色が灰から紫、紫から橙へと次第に変わっていく。
海は既に濃い藍色に変じ、うねりが見て取れた。
静かな期待感が心地よく満ちる。誰もが、この時ばかりは厭なことを全て忘れていた。
やがて、橙色をした十字の閃光が、山の端にすっと現れた。
「わあ……!」
姫が童のように歓声を上げた。
十字は次第に腕を太く長く伸ばしていき、ついには赤く大きな火球となる。
火球の端が山を離れた頃には、直視することができなくなっていた。
見るものはまだあった。今まで鈍い色をしていた海が、きらきらと輝き始めたのである。網の目のような白い光が絶え間なく輝きの形を変え、紺碧の海の上で踊っていた。
「海とは、かように美しいものだったのですね……」
京に居ては決して見られぬ光景である。
しかし、同時にそれは、京には決して帰れなくなったことをも意味していた。
綱は姫の後ろ姿に目を向ける。長い黒髪はもつれた麻糸のように乱れている。ずっしりと身にまとった十二単は土に汚れていたが、袖や裾からは紫や青の色が窺えた。
「わたくしは、幸せものでございます」
姫は撫で肩を震わせて、そう言った。嬉しいのか、悲しいのか、綱には分からない。両方かもしれない、と綱は思った。
「綱様」
唐突に、姫が綱を呼んだ。
「なんでしょう」
「しばし、目を閉じていただけませんでしょうか」
「はあ」
綱は言われるがまま、目を閉じた。
衣擦れの音がした。こちらを振り返ったのだ。
「ああ……綱様は、このようなお顔でいらしたのですね……」
綱はつい、目を開きそうになってしまった。瞼がなにかにつままれ、開けられなかった。
「野暮なことをするんじゃない」
少し離れた所から声が聞こえた。萃香がなにかをしたらしい。
やがてまた衣擦れの音がした。瞼を留めていた力が消え、綱が目を開けた時には、姫は先ほど見たときと同じように背を向けて座っていた。先ほどと違い、着物の裾が波うっていた。
「ありがとうございます。これでもう、思い残すことはございません」
「滅多なことを……」
「それでは、あなた様が京に戻る前に、もう一つだけお願いしてもよろしゅうございますか」
「私にできることであればなんなりと」
姫は、すう、と息を吸った。
「わたくしの名は、桔梗と申します」
強くきっぱりと言った。
「数年に一度でも数十年に一度でも構いませぬ。どうか桔梗の名を思い出してくださいませ」
「はい。ゆめ忘れませぬ」
少なくとも、当分の間は忘れそうになかった。
「桔梗、ね。それで……」
萃香が得心したように頷き、ぼそりと呟いた。
「なにがだ、萃香」
「襲(かさね)の色目さ。この季節に色目が桔梗っておかしいと思ったけど、そういうことだったのかい」
襲の色目とは着物の裾から覗く色の組み合わせのことで、季節に合わせてこれを変える。
「萃香様」
「おっと、ごめんよ」
桔梗の声には非難めいた響きがあった。萃香は尖った肩をすくめて、場を離れてしまった。
綱にはわけが分からない。
「あの、桔梗姫」
「もう、行かれませ。綱様。これからのち、お逢いすることはありません」
桔梗の言葉にははっきりとした決別の意思が込められていた。
これからこの世間知らずの姫は、どうやって生きるのだろう。
ただ、綱の差し伸べる手を取らないであろうことだけは、綱にも分かった。
「……どうか、達者であらせられますよう」
そう言って、綱は桔梗に背を向けて、山の西側へ下りるべく岩を踏む。
首筋に当たる朝日は、熱かった。
後ろ髪を引かれて、もう一度だけ振り返った。桔梗は岩の上で人形のようにじっとして動かなかった。まるで綱がそうすると知っていたかのようだった。
今度こそ綱は頂上を離れた。
萃香は弥山の中腹にある岩の上に座り、ぶらぶらと足を遊ばせていた。
降りてきた綱の姿を認めると、萃香は岩から身軽に飛び降りた。両腕の鉄枷から伸びる鎖がじゃらりと鳴り、分銅が跳ねた。
「せっかくだ。少し見物していこう」
と、萃香は言って綱を先導して歩く。
あちこちにころころとした鹿の糞が見られた。草木は自然のままに生えて、人が踏み入った形跡はない。
山は狭く、並んで歩くと綱のあばらに萃香の角が刺さりそうだった。萃香の髪止めには四角の分銅が鎖で繋がれている。
「なあ」
と綱が呼びかけた。
「なんだい」
「おれは、恵まれているな、萃香」
萃香は瓢箪を傾けながら綱を横目に見上げ、続きを顎で促す。
「今でこそ源を名乗っているが、おれはみなし児でな。母が死んだところを、羅城門の外で親父に拾われた」
「へえ」
「親父は出自や年齢にはこだわらない人でな。おれのことを実の息子のように可愛がってくれている。公時の兄者も同じようにして今がある」
公時は幼少を足柄山で育ち、熊と相撲を取っていたという。碓井貞光がたまたま見出し、頼光がこれを認めて配下に加えたのである。
「片や、実の父親に遠ざけられ、片や、義理の父親に重んじられている。ままならないな」
「まァ、そういうものさ」
妙なほど感じ入った様子で、萃香が言った。
「あんたにはあんたを大事にしてくれる親がいて、あんたがいなくなれば探してくれる仲間がいた。あの娘にはいなかった。それだけのことさ。どこでもあることだよ。あんたが気に病むようなことじゃない」
「それは、分かる。分かるが……」
綱は夏の色になりつつある空を見上げる。
「やるせないな」
「好いやつだな、綱は」
萃香はほんの少しだけ、羨ましげにそう言った。
ふと、引っかかった。
「なあ、萃香。おまえに親や仲間はいるのか」
「あァ、仲間ならいたよ。茨木、星熊あたりは特に良くしてくれた。懐かしいな。昔はよく力比べをしたり、術比べをしたり、呑み比べをしたりして遊んだものさ。単に力を比べるとわたし、術は華仙、持った杯の酒を零さぬと決めれば勇儀。もう二百年は前のことさ」
「今はいないのか」
「他の鬼は大抵、陸奥(みちのく)のいずこかへ行ったよ」
「ふむ。おまえは、行かなかったのか」
そう綱が尋ねたとき、萃香は瓢箪に口を着けていた。
「んっぷう……色々あってね。こっちに残ろうと思ったんだよ」
「喧嘩であれば、今からでも仲直りをした方がいいぞ」
「あはは、違う違う。むしろ一緒に来いと言われたよ。まァ、思うところがあったのさ」
言わないということは、言いたくないということなのだろう、と綱は判断してそれ以上を尋ねなかった。
「それで、親はいるのか」
代わりに、萃香が言及していないことを尋ねることにした。
萃香は振り返り、華奢な腰に手を当てて鼻から息を吹いた。
「ふむん……綱、あんたは尋ねてばかりだな」
「すまん。気に障ったか」
「いや。そういうわけではないけれど。なんだかわたしばかり話している気がするよ」
違いなかった。
萃香は手近な木に寄りかかって瓢箪を傾けた。もう酒が残っていなかったようで、萃香は紫色のそれを高く掲げて最後の一滴を口に落とした。
口元を細い腕で拭って、萃香は言った。
「わたしの親は、人だよ」
と聞いて、綱は言葉の意味をすぐに理解することができなかった。
「人、なのか……いったい誰が」
「だから、人さ。わたしは人の怖れそのものが萃まってできた鬼(もの)なんだよ」
霧に変じる萃香の姿を綱は思い浮かべた。
「霧が渦を巻いて集まって血肉になるというような、そういったことか。そんなことが……」
「子を成すのは人の想い。まぐわいはその方法の一つというだけさ」
「……他の鬼も、そうなのか」
「ううん。大概は、なにかに憑く。まァ、似たようなものさ。言ったろう。人と思えば人、鬼と思えば鬼だと。ようはものの見方さ。人ももの、鬼ももの。犬ももの。妖ももの、さ」
高野山の僧と問答をしているようであった。
「まあ、というわけさ。わたしは人の怖れ。我らは怖れられるのが役目」
「だから、残ったのか」
「まァ、親が怖がらせてくれと頼むんだ。そうしてやるのが子の務めさね」
そう言って、萃香はおどけるように肩をすくめた。
「そうか」
仲間について語る、郷愁の響きと優しげな目元。
親について語る、諦念の響きと悲しげな目元。
綱はひとつ、分かった気がした。
「萃香は、寂しかったのだな」
「なぁ!?」
萃香が跳ねて木から離れ、すっとんきょうな声を上げた。
「な、なんでそうなる!」
「なんだ、違ったのか」
「ち、ちが……」
鬼は嘘を嫌う。
頬は常に酒で上気しているが、今の萃香は耳まで真っ赤にしていた。
萃香は口をへの字に曲げ、それから震わせながら口を開いた。
「ちがわ、ない……ちがわ、ない、けど、それを、それをっ……!」
がつがつと萃香が地団太を踏むたび、土に亀裂が入る。
分かってみれば簡単なことであった。酒の香りで誘い、親しげに話しかけ、技能を遊芸のように披露し、呼んで来なければ自ら赴く。すべて、人が寂しいと思った時にやることである。
萃香は長く、孤独であったに違いない。仲間は既に遠く離れている。
喧騒を好む萃香にとって、それはどれほどつまらぬ日々であったことだろう。
せめて山賊の酒宴を眺め、慰めを得ていた。綱たちが来るまでは。
「おい、あまり壊すなよ」
綱がたしなめると、萃香はぴたりと動きを止めてその場に座り込んだ。紫色の瓢箪をがしがしと殴るが、どうやらこれは鬼の力で殴っても壊れないらしい。貼られた呪符の力であろうか、と綱は推測した。
「……こんな恥辱は初めてだ。わたしは今ここであんたを叩き殺してやりたい」
「ここで殺生はよせ」
綱はあくまでも落ち着いている。
それが気に食わないようで、萃香は歯を剥いて更に怒った。
「おのれ……人は鬼を怖れねばならないのに……」
「怖いさ」
綱はあっさりと言った。髭切を指して怖いと言った萃香のように。
萃香は怪訝そうに細い眉をひそめ、綱を下から行儀悪くねめつける。
「おまえの膂力、技能はとても怖い。初めて会った時から、それは変わらぬ。むしろ怖くなる一方だ」
「であれば――」
「しかしな、萃香は怖くない。おれはむしろ、萃香のことが好きだぞ。きちがいが刃物を持てば怖ろしいが、庖丁が刃物を持ったところで怖ろしくはない。そういうことではないか」
綱は若く、ひどく直情的だが、故に柔軟でもあった。正しいと知ればそれを素直に認めるという意味でも、直情的なのだ。
萃香は頭を掻き毟り、やがて諦めたようにうなだれた。
「……おまえは変だ」
「なぜかよく言われる」
「なぜかもなにもない。おまえは変だ。ばかだ。おおばかだ」
「自分では分からぬものだな……」
散々に罵られても気が悪くならなかったのは、萃香が必死で笑顔を噛み殺そうとしているのだということが、綱の目にも明らかだったからだ。
その表情は見た目の歳に相応で、可愛らしいなと綱は思った。
「そうだな。おまえの慌てる様は、見ていて可愛らしかったと思う。そんな恰好でなくて、もう少し着飾ってみてはどうだ。もっと人当たりがよくなるかもしれんぞ」
「は……はァ?」
笑顔が消えた。
「そうだ。親父から唐の絹をもろうたのだった。女にやれと言われたが、あてもない。おまえにやろう」
萃香は口をぱくぱくと動かして、綱を指差した。指先が何度か綱を差しなおし、ようやく萃香が言葉を思いついた。
「あ、あんた、あの後でよくそんなことが言えるな……」
「なにがだ」
「いや、だから桔梗のことを考えろと」
「なぜ姫君が出てくる」
「……」
萃香はあんぐりと口を開け、まじまじと綱を見つめた。信じられない、という顔をしていた。
「まさか……あんた、歌を貰ったことくらいはあるだろう」
「ある。月に一つか二つ貰うが……いかんせんおれは歌の機微が分からん」
「返事はしているんだろうな」
「意味を解さぬまま返事をするのも失礼かと思って、ついぞ返したことがない」
なお、歌の返事はすぐに返すのが常識である。
「誰かに解いてもらえよ……」
「そうもいかぬ。おれに宛てた歌を他人に見せるのは失礼であろう」
妙な所で律義な綱である。
萃香はうなだれて頭を抱えた。
「おい萃香。いったい何だ。なぜ桔梗姫が関係する」
「言えるわけがない。わたしが呪い殺される」
「おまえが呪殺などされるものかよ」
「うるさい黙れ。ばか綱。あんたが呪殺されればいいんだ」
むちゃくちゃである。
「まったく……桔梗はあんな境遇だというのに、あんたはへらへらと笑いやがって。痛む良心がないのか」
萃香の言はまったく言いがかりであったが、綱は真面目な顔になる。
「ああ。親父の庭に桔梗を植えようと思う。おれが家を持てば、その庭にも」
池田中納言邸の庭に桔梗が多く植わっていたのも、娘を愛するあまりであったのではないかと綱は思う。しかし、国賢は自らが内心に飼う鬼の肥大に負け、娘をも鬼に変じさせたのだ。そして娘が鬼にかどわかされたという嘘までもが、萃香と綱の働きによって真となった。
「忘れようがないよ。人もまた、鬼なのだと知った」
ふん、と萃香は鼻を鳴らした。立ち上がって、白い水干の裾を払う。
「……京に帰るぞ、綱」
「ああ。早くしないとまた公時の兄者に文句を言われてしまうからな。疾く、頼む」
「ちぇっ。自分は何もしないからっていい気なもんだよ」
そう言いながら萃香は小さな手を差し出した。
左手を包むようにして右手で握ると、やはり猫のように熱かった。
その熱さに綱は今までにない親しみを覚えた。
萃香と綱の姿は霧となり、京へ向かう風に乗って、消えた。
日は更に昇り、瀬戸内の海はいよいよ輝きを増す。
ざぶん、と小さな水音がしたことに、気づいたものはいなかった。
ピクッ
この時代物!って感じが堪らなく好きです
後、後書きのレッツパーリィ!にめっちゃ吹いたw
一つ一つの言葉を噛み締めながら場面を追うのが非常に面白かったです。
鈍感な男主人公とは時代のよらずいいものですね。
タイトルを匂わす展開になってきて続きが楽しみです。
ではまた次回に。
続きを楽しみにしております。
こういう歴史物はもっと増えてもいいと思う。
こんな文章を書きたいと思えるような作品ですわ、いとわろす。
そしてスイカとツナがいい絡みだ。今度一緒に食べてみよう。
BASARAは歴史物と言うのは良くない気がしますねw
ようやっと恋らしくなってまいりました。続きも待ってます。
ところで、タイトルは「こいおにいぶん」でよろしいんでしょうか。
次回にも期待
誤字報告もありがとうございます
腕云々の箇所を訂正しました
いい意味で東方を離れた独自性がありますね
そうかと思えば萃香の出生の解釈はすごく東方的で
見せ方の違いなんでしょうね
分からずモヤモヤっと。