こんばんは。お元気ですか。
何故だか唐突にあなたのことを思い出してしまい、こうして慣れない筆を走らせています。
きちんとした手紙というものを書くのは初めてで、ですからどこか可笑しなところがあっても許してください。
しかたのないやつだと、笑ってもらえたらいいなと思います。
お嬢様の執務室の整理を任された咲夜は、預けられた小さな鍵を手の平に乗せてまじまじと見つめていた。光沢のある色をしているけれど手触りからして本物の金ではないと知れる。きらきらではなくちかちかしていた。鍍金だろうか。本物嗜好のある主人にしては珍しいと思いながら、小さな傷が幾つも刻まれたそれが本来彼女のものではなかったのかも知れないと気付いた。たかが人間には想像もつかないような長い永い時の中で館主は何度も代替わりしたのかも知れず、咲夜の主人もまた先代から主の座を引き継いだという可能性。そういったことは考えたこともなかったなと少しぼんやりして、案の定興味を持てなかったのですぐに忘れる。忘却と無知は得意だった。
主人は一人だ。この夜の王の城を統べるに相応しい存在はレミリア・スカーレットの他に居ない。いや、彼女が望むなら館などいつだって明け渡そう。ただ、十六夜咲夜の主が一人というだけの話。お嬢様以外には認めないし許さないし、従うことも受け入れることも無い。それだけの話。
ほう、と。疲弊したような安堵したような、自分でも何だか明瞭としないと感じる息を吐いてからニーホールデスクを見下ろした。そう大きくはないがやはり古い。素材はオークか、マホガニーか。生憎と咲夜にそこまでの審美眼は無い。ただ、こうしてじっくりと観察する機会を得たのは今日が初めてなものだからどうしても気になってしまう。幼い頃は此処で難しい顔をして何かを書き留める主人を見上げたものだ。歳を重ねるにつれてそんな光景はまったく見られくなっていった。見上げる視線が見下ろすものに変わる頃、主人はデスクを使わなくなった。当時のお嬢様が一体何をしていたか疑問に思うけれど、恐らくは咲夜になど想像もつけられないようなことをしていたのだろうと結論を出せば思考は終了。執務室そのものの掃除は終わっているのだから、後はデスクの抽斗を整理すれば言い付けられた仕事は完遂だ。躊躇いを覚えるのはきっと、お嬢様の秘密を覗くような気持ちがしているからだろう。見られて困るような物が無いからこそ咲夜に整頓を命じたのだとは理解している。すべて捨てていいと言われたし、使えそうな物があれば好きにしていいとも言われていた。小銭が入っていれば小遣いにあげるわと主人は笑ったけれど、硬貨や紙幣が幻想郷で流通しているものと同じ保証は無い。飴玉が入っていたらお食べとも言われたけれど、そんな年代物のキャンディで胃袋の強さを試しても楽しくない。どうにも、小間使いというよりも子供扱いをされている気がしてならなかった。
「…さて。」
いつまでも鍵を見つめていたって仕事は終わらないのだから、好い加減に手をつけようと意気込み鍵孔に金色を差し込んだ。左方向へ半回転させると、ガチリと小さくはない音が響く。把手に指を掛けてそっと引き出してみれば底の深い抽斗には乱雑に紙束が詰め込まれていた。誇張なくぎゅうぎゅうに。はて、整理整頓を苦手とする印象はなかったのだがと首を傾げつつ抽斗の中身を全てデスクの上へ取り出した。一度水に浸して、それから乾かしたような感触がする。ごわごわした紙の束には咲夜が一度も見たことのない文字が綴られていた。
レミリア・スカーレットというひとは、咲夜がどうでもよいと感じるようなことにばかり造詣が深い。特に言語はその最たるものだった。口頭でのコミュニケーションなど必要最低限が伝わればそれで構わないと考えるメイドと異なり、覚え違いや言い間違いこそ多いものの主人は数多の言語に精通している。ごぼうのアクの抜き方や落としブタの使い方は知らないけれども日本語を流暢に使い、バージン・オリーブオイルとエクストラ・バージン・オリーブオイルの区別になど興味も示さない癖に英語の発音にはいやらしい訛りなどない。それはお嬢様に限った話ではなく、幻想郷では当たり前のように日本語が公用語とされているのに何故か紅魔館の住人達はそれぞれがそれぞれに外の世界の国言葉に長けていた。不思議なことだ。
単調な手作業は考え事に向いている。かぴかぴの紙束はどうやら便箋のようで、数枚単位でくっついてしまっていた。一枚一枚を破いてしまわぬよう丁寧に剥がしていくと、それらは全部で九十六枚にもなった。日焼けでもしたのか赤いインクで綴られたスペルは褪せて黒味を帯びた赤黄に色を変えているが、手触りからしてそれほど古い紙質とも思えなかった。書き出しの一行目が宛名らしきものに見えるから、恐らくは手紙だと思うのに一体どれだけぞんざいに扱ったのやら。
およそ百枚近い便箋を改めて纏めてから大判の茶封筒に入れた。捨てていいとは言われていたけれど、主人の所有する何かを勝手に処分するという選択肢を持っていない。その所有物には自分自身も含まれるのだと咲夜は頑なに信じていた。
「お掃除しゅうりょー」
茶封筒をデスクの右端に置き、抽斗を仕舞う。と、内側でカタリと何かの落ちる音が響いた。おや、中身はすべて出したと思ったのに。小さく首を傾げて、もう一度抽斗を引く。空っぽだった。天板と抽斗の間に隙き間でもあったのだろう。物音の正体は真っ赤な絨毯に落ちた便箋の束。屈んで拾い上げれば、それは折り目もしわもない真っ白な未使用品だった。たった今片付けた便箋に比べて遥かに手触りが良い。購入したは良いものの、使う機会を逸したのだろうかと予測した。
何となくその場に正座して、咲夜は真新しい便箋を観察した。お嬢様からはすべて捨てていいと言われたし、使えそうな物があれば好きにしていいとも言われている。それならこれは貰っても構わないかしらと考えて、貰ったところで使い道が無いことに思い至った。それはとても惜しい気がする。真っ白な便箋は至ってシンプルなデザインだったが、咲夜の趣味にとても合っていたから棚晒しにして埃を被せたくなかった。
打開策など考えるまでもない。便箋に役目を全うさせたいのなら手紙を書けばいいのだ。しかし問題は咲夜には手紙を出すような相手がいないこと。理由をこじつけて書いても良いけれど、それでは本末転倒だし尚更に勿体ない気がした。右手に便箋を持ち、左手を頬に添え、うんうん唸りながら知恵を絞る。何かいいアイデアは無いものかと室内を見渡しても何も見つからない。せいぜい、抽斗に挿したままの鍵を右方向へ半回転させてガチリと施錠したくらいだった。あとは真っ赤な絨毯は毛足が長くて座り心地が抜群だ、とか。
「……無駄に時間を殺した気がする」
独り言ちて、溜め息は深く。我が家の知識人か、地下で暇を持て余す妹御に渡した方が少なくとも咲夜よりは上手に使って貰える筈。ぐ、と膝に力を入れて立ち上がる時には既に便箋の有効活用を諦めていた。何の気なしにニーホールデスクの天板へ手を掛けて体を起こした咲夜は、指先に触れた紙の感触に視線を投げた。
「あ、」
天啓など信じてはいないから、純粋に閃いたのだと思いたい。間の抜けた声を洩らした咲夜は茶封筒の斜め上に置かれたインク瓶へ指を伸ばした。蓋を開けてみるとどうやら乾いてはいない様子で、つがいのごとくその横に立て掛けられた羽根ペンを手に取る。紙帯を解き、束ねられた便箋の一番上をデスクの中央に乗せた。主人の椅子に腰を降ろすことはどうしても憚られ、膝立ちの体勢でペン先をインクに浸す。普段の咲夜は何かを書き付ける時にはもっぱら鉛筆を使っていた。それは館の住人の誰かが使い古してちびた鉛筆を譲って貰ったもので、だからインクをつけてペンで文字を書くのは初めてだった。
うまく書けないかも知れない。不安とは違い、冷静な視点から可能性を挙げた。それでも問題がないのは、この手紙は宛名こそあるものの届ける意思が端から絶無だったからだ。お嬢様だって手紙を書いたのに相手へ渡していない。あの九十六枚もの便箋に綴られた何かが誰かに宛てた手紙であるとは憶測でしかないけれど。答え合わせの予定は無いのだから問題などある筈もなかった。
こんばんは。お元気ですか。
そんな当たり障りのない書き出しは、インクが滲んでしまって少々でなく読み難い。けれど咲夜は、そんなこと気にせずに彼女への手紙を書き始めた。
お久しぶりです。
こんな風にあなたに話し掛けるのは、きっと、初めてのことですね。
手紙というのは、もらったことがありません。自分から書いた記憶もありません。
だって、みんながいっしょに住んでいるから、手紙なんか書くよりも直接話した方が早いでしょう。
走り書きのようなメモをもらったり、おつかいを頼む時に覚え書きを渡したりしたことは、あるのだけれど。
だから何だか不思議な気分です。
最初にも言ったけれど、作法とか、そういうのがなっていなくても見逃してくださいね。
あなたは気にしないと思うけど。
わたしとお嬢様が、一等さいしょに出会った夜を覚えていますか。
あなたのことを思い出すとき、いつもあの夜のことを思います。
あのときのお嬢様は、とても不思議なひとでした。
本当に変わっていて、それまでわたしが生きてきた中で見たこともないひとでした。
なんだこいつって思いました。
おそばに置いてもらって、いっしょに暮らすようになって、やっぱりへんなひとだと思いました。
わがままで、勝手で、わたしの言うことなんてひとつも聞いてくれないのに、わたしのこえをいつだって聞いてくれるひと。
そんなお嬢様だから、出来るだけ離れないでそばにいたいと思ったのでしょうね。
正直に言ったら、あなたはどんな風に思うでしょう。
さいしょは、わたしじゃなくてもいいんだろうなって、思っていました。
お嬢様はわたしの運命だったけれど、お嬢様の運命はわたしではないのだろうと。
わたしはもうずっと、お嬢様の為に生まれたような気持ちでいるけれど、お嬢様はお嬢様だけのものであって欲しかったから。
今になって思うと、わたしは拗ねていたのかも知れません。
運命だなんて、そんな、ぜんぶの成り行きが決まっているのなら、お嬢様がわたしにさしのべてくれた手や、わたしがお嬢様へ伸ばした手を軽んじられている気がした。
想像もできないでしょう。
たとえば世界というものがあるとして。
それはわたしがいなくてもあなたがいなくても回転しつづけるのに、わたしの世界はあの夜すっかり足元から壊されてしまって、一瞬でお嬢様になってしまったのです。
それがどんなに恐ろしいことかあなたは知らないでしょう。
それをわたしがどれほど喜んだのか、あなたは知らないのです。
お嬢様はいつも、知らないことなんてひとつも無いような顔で笑うけれど、わたしがお嬢様を守りたいと思っていることにも気づかない。
わたしがお嬢様を比べる相手もいないくらい大切に思っていることだって知らない。
知って欲しいと願うのに、教えたいと思わないのは頭の足りないわたしでは、どんなに言葉を尽くしたって上手に伝えられないから。
そんなことも、あなたは知らないのですよ。
それでいて、お嬢様はどうしてか自信満々にずかずかと先へ行ってしまう。
見失わないように背中を追いかけて、「おいてかないで」が言えないわたしは必死で手を伸ばして、その手が届くか届かないかギリギリの距離で思い出したように振り返っては、わたしを見て笑うのだから意地が悪いです。
わたしなんかには目もくれずに翔ける背中がまぶしくて、いつも、夜がくるたび不安になって。
だけど気まぐれにこっちを向いて、時には手を引いてくれるから、いつも、夜がふけるたび嬉しくなって。
それで、ようやく。
わたしはお嬢様をすきなのだと知りました。
わたしに怖い思いをさせるのはお嬢様だけで、だからわたしをしあわせにさせるのもお嬢様だけなのだと、きっとあなたは知らないだろうけれど、わたしはきちんと知っています。
人間とか、悪魔とか。有限とか、無限とか。
あなたはあまり深く考えていないのでしょう。
どうしてそんなことがわかるのと言われたら、それは勿論わたしだからわかるのよと答えてあげる。
あなたには絶対にわからない。
わたしの心の中で、お嬢様を思うばしょだけが胸を張って人間だと誇れるぶぶんなのです。
それがどんな気持ちなのか、あなたは知らないのよ。
それはね、たとえようもなく恐ろしい癖に、途方もないくらいに幸せで、ふとした瞬間に頭がくらくらするような不思議な気持ち。
それをあなたはまだ知らない。
でも、すぐに思い知ることになるから楽しみにしていて…――
「なにしてんの?」
「っ!」
自分の内側にばかり意識を向けていた咲夜は急に声を掛けられて弾かれたように立ち上がり背筋を伸ばした。その拍子に膝の裏の所でお嬢様の椅子を突きやってしまって、ガタンと瀟洒ではない音が響いた。それでも脊髄反射とはよく言ったもので、これは間違いなくお嬢様の躾の成果なのだと思う。思わず投げ出したペンと書き途中の手紙を見たお嬢様は、不思議そうな顔をして便箋を手に取った。あまりに自然な仕種に反応が遅れてしまう。エプロンに提げる懐中時計に触れて時間を止め、お嬢様の目に手紙の文面が触れる前に彼女の手から便箋を奪った。とりあえず高く掲げてみると、何だかいじめっ子のような体勢になる。
逃げ出すのは上手くないし、お嬢様を納得させずに処分してはエレガントなメイド長でいられない。瞬き一つで時計の針を動かせば手向かう姿勢の使用人にご主人様が眉根を寄せた。その眉間の皺さえ慕わしいなんて現実逃避。緩やかに動かす表情筋で微笑みを作り、前頭葉に気合いを入れる。
「…こら。何の真似?」
「ノックをなさらなかったことについて話し合いたいな、と」
「なんで自分の部屋に入るのにノックしなきゃなんないの」
「気配も消されていましたよね?」
「バレたか」
「私がいるのはわかっていらした筈ですわ。確かにここはお嬢様の執務室ですが、ノックくらいしてくださっても」
「気配を消したのはドアの前からよ。いつもの咲夜なら気づくのに、何に熱中してたんだか気づかないんだもん。ちょっと脅かしたくなったの」
「では、驚かされた仕返しを」
「遠慮するわ。それより、なに書いてたの?見せてよ」
お嬢様は爪先立ちになり背伸びをして、それでも足りずにめいっぱい腕を伸ばしながら言う。咲夜も背伸びして、便箋を彼女の手の届かない位置へと逃がすから状況は進展しない。メイドの徹底抗戦にお嬢様が、む、と眉を寄せた。羽根を使うなり床を蹴って跳び上がるなりすれば勝敗は一瞬で決するのに、そうしないのは戯れを許してくれたからではないか。日頃から退屈を嘆く吸血鬼は日常の些細な出来事を楽しもうとするから。それならばここはお嬢様のメイドの腕の見せどころ。完全かつ瀟洒に、自らの思惑も主人の要望もスマートに叶えなくてはなるまい。底の浅い目論見を、さも楽しげなマジックであるかのように工夫して。
「お掃除は終わりました。デスクの中にあったものはそちらにまとめてありますので、出来ればお目通し願います」
「後で見る。だから先にそっちを見せて」
「承れません」
「なんで」
「手紙ですから」
「手紙?咲夜が?…手品の間違いじゃなくて?」
「あら酷い。私だって女の子ですもの、想いをしたためたい相手くらいおりますわ」
涼しい顔をした咲夜がしれっと言ってのければ、お嬢様はきょときょと瞬きをして、それから露骨に不機嫌な顔をした。ほんの少し眼差しが鋭くなって、本人は気づいていないのだろうけれど便箋へ伸ばした右手の爪が鋭く尖りを増している。そういう無意識の割にわかりやすい、彼女自身が自覚していない感情の発露を好ましく思う。それを見つけられるのが咲夜だけ、という優越感も含めて。
「…だれ。相手」
「お嬢様のよく知る者ですよ」
「私は誰だと聞いた」
「ではクイズです。解答権は三回まで。パスはなし。ヒントはありです」
「よし乗った」
掛かった。けれど餌はたかだか数ミリリットルのインク、釣れたのは狡猾で偉大なる夜の王だ。気を緩める訳にはいかないと咲夜は笑みを深めた。
「ヒントそのいち、お嬢様が毎日顔を合わせている者です」
「……パチェ?やめとけば。活字中毒相手じゃ報われないよ」
「ヒントそのに、この館の住人です」
「あんまり情報増えてない。……ちょっと、まさかフランとか言わないでしょうね?」
「最大のヒントです。今この部屋の中にいます」
大きな羽根を苛々と忙しなく動かしていたお嬢様が急に頬を緩めて目を輝かせた。小さく肩を震わせて、くふふ、と上機嫌に笑う。どうやら相当な自信があるようだと感じた咲夜は降参するように肩を竦めた。
「ひっかけ問題ね。あんまり簡単だから逆に悩んでしまったわ」
「あらあら、ヒントを出し過ぎてしまったかしら」
大きな瞳を細め、小さな口に裂けてしまいそうなほど大きな曲線を描かせ、両手を腰に当てた彼女は胸を張って堂々と答えを口にする。
「答えは私ね!違う?」
「はい、違います。残念ながらお嬢様の負けですね」
「はァ!!?」
ご機嫌な主人の鼻っ柱を右ストレートで叩き折ると、中々に爽快な気分を味わえた。意味がわからないと地団駄を踏んだお嬢様が咲夜の手から便箋を引ったくるけれど、時は既に遅い。お嬢様の手に渡ったのは真っ白な便箋であり、咲夜の書いた手紙ではなかった。先程、時を止めて彼女の手から手紙を取り上げた折にすり替えたのだ。主人が頭の上にインタロゲーションマークを大量発生させている内に、壁に掛けた燭台のろうそくへ書き途中の手紙をかざす。瞬き三回分ほどの時間で手紙は灰へ姿を変えた。
「あっ!ちょっと!」
「賞品は勝者のものでしょう?」
「納得のいく説明を寄越しなさい。この部屋にいるのは私と咲夜だけじゃない」
大きな声を遮って勝てば官軍の理屈を引用。お嬢様は理解が追い付かない様子で種明かしと答え合わせを求めてにじり寄ってきた。気まぐれかと思いきや、それなりに強い興味をあの手紙に抱いていたらしいと知らされるけれど焼却した以上どうとも出来ない。もとい、どうともする気がなかったので咲夜の意識は既に燃やした便箋の後始末に向いており、お嬢様の文句よりも部屋の隅に置いておいた箒とちり取りを手に取るタイミングの方が気になっていた。
「ですから、そういうことですわ」
「はぁ?…自分宛ての手紙を書いてたって言うつもり?」
「そうなりますね」
「…ナルシストめ」
「なんとでも」
笑みを絶やすことなく、ふん、と鼻息を荒くした主人へ会釈してデスクの前から退ける。自己陶酔よりは懐古の思いの方が表現としては適切なのだけれど、わざわざ訂正することもないと判断した。咲夜が書いていたのは、お嬢様と出会った日の幼い自分へ宛てた手紙だったから。詳細を明かすのはやはり気恥ずかしい。本当はお嬢様に宛てて書ければ良かったのだけれど、背後で頬を膨らませるこのひとに何かを伝えることが咲夜にはとてもむつかしい。もう背中を追い掛けるだけで必死な子どもではないのに、今でも「おいてかないで」なんて言える気がしなかった。
箒とちり取りを手に咲夜が振り返ると、膝を曲げ腰を落として低い姿勢になったお嬢様が貴族らしからぬ様相で床に落ちた灰を指でつついていた。気品がどうのとこだわる割に、気を抜いていると最悪に柄が悪くなるのは何故なのだろう。指摘は薮をつついて蛇を出すこととなるので、敢えて黙殺してデスクの上の茶封筒を示した。
「どなたかに宛てたお手紙のようですが、本当に処分してよろしいのでしょうか。こちらは私が片付けますので確認をお願いします」
「あー?なんて書いてあるやつ?」
「申し訳ございません。私には読めない文字で綴られておりまして」
「貸して」
相変わらず床の灰とにらめっこしているお嬢様は咲夜には見向きもせずに片手を伸ばしてきた。私の両手は塞がっているのが見えませんか、などとは言えない。掃除用具を床に置き、再度デスクの側へ。お嬢様の小さな手の平に封筒から取り出した便箋九十六枚を乗せると、よく見ることもせず殆ど流し読むだけで突っ返されてしまう。やはり要らない物だったのだろうかと考える咲夜を振り返り、お嬢様は意地悪くにたりと笑った。
「………なんですか、気味の悪い」
「あげる」
「ルビを振ってからの再提出を希望します」
「だめ。頑張って解読しなさい?」
「パチュリーさまのお力を借りても構いませんか」
「いいけどパチェも知らないと思うよ。それ、スカーレット文字だから」
「……は。」
すかーれっともじ。
なにそれ新しい。戦慄する咲夜を余所にお嬢様は床に落ちた灰を両手に集め、何故か口許へ運んだ。制止を予想していたのか素早い行動だった為に口を挟む隙もなかった。口の回りを灰色に煤けさせた姿はかまど猫を思わせるが、主人は吸血鬼で猫ではないのだ。更に質が悪いことに高貴がモットーのお貴族様であるのだから手が付けられない。便箋の束と封筒をデスクに置き、木綿のハンカチを取り出した咲夜だが間に合わなかった。お嬢様は灰まみれの唇を真っ赤な舌でぺろりとやって得意げに笑っている。呆れたような、惚れ直したような、感心したような、とにかくお嬢様らしいという気持ちになってハンカチをしまった。
「…おいしかったですか」
「びみょう。体にはいいかもね」
「さようでございますか。じゃあ、今夜のおゆはんは木炭ね」
「やだよ」
悪戯好きな吸血鬼がこねくり回してくれたお陰で、真っ赤な絨毯は一部の色を変えていた。毛足が長いことが災いしてしまったのだ。これでは箒は役に立たない。バケツと雑巾を持って来て水拭きしようか。しかし、何を意図しているのか皆目見当もつかないお嬢様の遊びが終了したのか継続中なのかわからないことには迂闊に動けない。仕事が増えてしまった。元をただせば咲夜の自業自得なのだが、手間を増やしてくれたのはお嬢様だ。謎掛けに勝って勝負に負けた気分だった。
「何だったかしら。アルパカ?違うね、リャマ?」
やれやれとため息を飲み込んだ咲夜に予告なくクイズの続きが持ち掛けられた。今度はお嬢様が出題する番のようなので挑戦しない、という選択肢は無い。
「お話が見えません」
「何かそんな歌があるじゃない。読まずに食べたってやつ」
「…たぶん、やぎです」
「そうそれ。咲夜が読ませてくれなかったから食べてみた」
「素敵ですわ」
「褒めてる?」
「いいえ」
明け透けな物言いを受けてもお嬢様は怒らなかった。吸血鬼、ことレミリア・スカーレットというひとについては本当に理解が追い付かないから楽しい。駆け引きめいたやり取りの最中に意識して作り上げたものとは異なる種類の笑顔で咲夜は自らの心に素直な感想を述べた。
「よくよく考えたら咲夜は私のメイドでしょ?つまり、咲夜の物は私の物」
「ええ。お嬢様の物はお嬢様の物ですね」
「ね?だから咲夜宛ての手紙だって私のものだと思うのよ。なのに燃やしちゃうから読めなかったじゃない」
「ああ、それは考えが至りませんで。申し訳ございません」
「いいよ。書き直させてもお前は適当を書くだろうしね。さっきのは私が食べちゃったから、私が受け取ったってことにしておく」
「ありがとうございます」
独自の理論を展開したお嬢様はメイドの謝意に擽ったそうに肩を揺らし、癖のある絹糸のように柔らかな髪を震わせて咲夜の横を通り過ぎる。それからデスクの上に無造作に置かれた便箋の束をまとめて封筒に入れ、皺でも伸ばすように表面を撫でてから咲夜に差し出した。彼女に与えられるものは何だって嬉しいけれど、犬のように飛びつくのは無粋である。両手を伸ばし恭しく受け取れば、そのわざとらしさを叱責するでもなしお嬢様は笑みの形に歪んだ唇を開いた。
「今より少し若い頃かな。気まぐれを起こして、未来の自分に手紙を書いたの」
「お嬢様が」
「そうよ。確か…美鈴を拾って来て、小悪魔に仕事を覚えさせて、パチェを図書館に放り込んだ辺りかな」
瞼を伏せて、数え唄でも歌うようにお嬢様は過去を紡ぐ。出会う前の主人を知る機会など僅少なのだから聴覚に全神経を傾けたいのに、視覚は穏やかな表情を眼に焼き付けたいと訴えていた。基本的にも応用的にも咲夜は欲張りな人間なのだ。誇りこそしないけれど、恥じる気も改めるつもりもなかった。そうでなければ夜の王の城にて完全で瀟洒なメイドなど名乗れないし、吸血鬼の従者は務まらないし、何より一生死ぬ人間でいられない。誰に何を説かれようと咲夜はこの性分を変えようとは思わない。
だから欲求には抗わず、幼子に絵本を読み聞かせするようなお嬢様の表情を、声色を、余すところなく見つめながら耳を澄ませた。
「咲夜とね、出会うことは知っていた。でも、それがいつになるかは知らなかった。それが咲夜だってこともわからなかった」
「矛盾していませんか?」
「してないよ。私には私だけの運命がいるって知っていたんだから、それで十分だ」
「はぁ」
「しかしね、まぁ…私も若かった。咲夜と出会っただろう未来の自分が羨ましかった。だからさ、手紙をね、うん、書いてみたのよ」
「……はい」
「そしたら、ほとんど咲夜について聞いてるのよね。名前は?性別は?髪の色は瞳の色はって。読み返すのが恥ずかしいくらいに咲夜のことしか書いてない」
「……」
「だから、咲夜にあげる。読めなくてもいい」
そっと、お嬢様から視線を外した咲夜は腕の中の封筒を抱きしめてしまっていると今更になって気がつく。ぐしゃぐしゃにしてしまうから力を抜かなければいけないのに、そんな簡単なことがとても難しい。目を逸らしたところでお嬢様に向けた意識を遠くへ逃がすことも出来ない。見つめた彼女の笑みが、瞳ではない何処かに焼き付いてしまって酷く熱かった。耳朶を打った言葉の数々は、たかが口頭でのコミュニケーションに過ぎないなどとは絶対に言えない情報量を伴って頭の中を駆け巡っていた。
「まるで恋文だよ」
そうして、とどめが突き刺さる。咲夜は固く目をつむった。声を出さずにお嬢様が笑った気配がした。
「片付けが終わったら紅茶を淹れて頂戴」
「…はい」
「ん。二人分用意してね。私のお茶に付き合うのもお前の大事な仕事よ」
「勿論です。最高の紅茶を淹れましょう」
耳を塞ぎたい。大声で叫んでしまいたい。今すぐここから逃げ出したい。そんな衝動を力任せに抑え込み、咲夜は極めて静かに返答した。足音の聞こえない内にドアが開き、閉まる音を耳に確かめる。細く長く、肺の中に溜めていた空気を一度ぜんぶ吐き出して、浅く息を吸った。血液が全身を循環する音がやけに大きく聞こえる。固く抱きしめていた封筒を可能な限り平らに伸ばしてから、咲夜はエプロンに提げる懐中時計に指を伸ばした。ひんやりとした金属の冷たさを肌に確かめつつ顎を引き、左手に収めた時計の蓋を開け狂いなく時を刻む針を見つめて、そのリズムに心音が重なるよう意識する。平静を取り戻すまでには幾らか時間が掛かったけれど、自らの能力で操作することはしなかった。
仕事はまだ残っている。汚れた絨毯を綺麗にしなくてはいけないし、お嬢様の紅茶を用意して、ご相伴に預かった後には洗濯物を取り込んで、夕餉の支度。時間でも操らなければやっていられない過密スケジュールだ。しかし咲夜は箒を拾うこともなく、バケツに水を汲みに行くこともせず、お湯を沸かしに厨房へ走ることもしなかった。
あなたに宛てた手紙なのに、お嬢様のことばかり書いていましたね。
お嬢様から彼女のむかしの話を聞くまで、ちっとも気づかなかったけれど。なんだか可笑しい。
お嬢様もわたしと同じことをしていたんですって。
いつかの自分に手紙を書く。
そんなこと、わたしぐらいしかやらないんじゃないかって思っていたのにね。
わたしの書いた手紙は燃やしてしまったから、もう絶対届かないはずなのにお嬢様に食べられてしまいました。
かわりにお嬢様が書いた手紙をもらったけれど、これはきっとお嬢様にしか読めないのだと思う。
お互い、手紙の中身は一文字だって読めていません。
お揃いというか、あべこべというか、あなたが見たら意味がないことをしていると思うでしょう。
でも、伝わるものがあるのです。
なんとなく、でしかないけれど。それはしかたがありません。
だって、お嬢様はわたしの手紙を勝手に受け取ったのだから、わたしもお嬢様の手紙を勝手に受け取ればいいのです。
あなたにはまだわからないだろうけど、これってとても楽しいことなのよ。
あの夜、あなたのちっぽけで狭い世界を容赦なく壊したあのひとは、わたしにとってかけがえのない存在になりました。
今だから言えるけれど、それはきっとあの夜出会った瞬間からそうなのだと思います。
あなたはなにもかも奪われるけれど、それまで知らずにいたなにもかもを与えられる。
死ぬまで一緒にいたい、なんて欲張りになってしまうくらい満たされるなんて考えもできないでしょう。
もちろん、楽しいことばかりではありません。
苦しくて、つらくて、泣きたくなるようなものも、怖くて、不安で、逃げてしまいたくなるようなものも、お嬢様はぜんぶをくれる。
そんなことさえ嬉しいと感じる、大切にしたいと思える、それをあなたはまだ知らないけれど。今、わたしは知っているのです。
あの夜、あのときのわたし。
まだお嬢様を知らないあなた。
名前もなかったあなたが、お嬢様の咲夜になる瞬間まで、どうかお元気で。
最後に署名を入れて羽ペンを置いた咲夜は、インクを乾かしてから便箋を三つ折りにしてポケットにしまった。それから箒とちり取りを拾い上げ、時間を止めて仕事の消化を急ぐ。お嬢様に、早くとびきりの紅茶を淹れたかった。
うまく言えないのですが、死ぬまでしか居てあげないあるいは居られないのではなく、
死ぬまで一緒に居たいと思ってしまう程の欲張りという捉え方、
終わりを悲観した上での表現ではなくその先へ広がる明るさを感じました。
96といえばパチュリー曰く満点、お嬢様はきっとまだ見ぬ咲夜へ
それだけたくさんの気持ちをこめてお手紙を書いたのでしょうね。
ふたりしてすきなひとへの気持ちを書いているのにそろって自分宛てで、
すっかり似たもの主従になってるあたりがとてもレミ咲らしくて素敵でした。
素敵なお話をありがとうございます!
未来と過去の自分宛て、それも互いに読ませることを前提としていない手紙。
そのくせお互いを思っている手紙。
なんとなくレミリアと咲夜らしいなと思わせてくれる内容でした。
素晴らしいお話をありがとうございました。
そして、やられました。見事にミスリードにひっかかりました。お手紙を気にかけながら再読すると、一度目とはまた違った楽しさがありました。
紅魔館の日常の情景と、特別な出来事を綺麗に切り取った、素敵なお話でした!
つかの間に過ぎない、ともに在れる時間。
伝わらないことのほうが多いのだろうけど、それでも確かに伝わる物を積み重ねていって欲しいな。
たまりにたまった、手紙みたいに。
本当にとても、とても、素敵な作品でした。
読み終わった後に、ふうと一つはいた息が、物凄く満足感に満ちていて、いい時間を貰ったなあと、また嬉しくなりました。
文句なしに100点を贈らせていただきます。
読まさせて頂いて、本当にありがとうございました。
どうかその幸せが重なってゆきますように。
運命の出逢いがこんなにも美しく表現されていて、素晴らしかったです。
この二人の寿命差は考えると悲観的になってしまうので、こういう幸せそうな話は読んでいて嬉しくなれる。
いいレミ咲でした。