その翼はひゅるりひゅるりと決して高くない天井を飛んだ。鯨頭の王は、今自分が座るべき玉座を探していたのだ。
かくして、地霊殿は嘴広鸛の手に落ちた。
***
橋姫は退屈していた。風も河も何もかもが穏やかすぎたのだ。おかげで旧灼熱地獄から廃棄される死体という名の燃えカスが流れてきても、やたらめったらに引っかかって黒い山ができてしまっているほどだった。
焦げた匂いと腐った水の匂いが混じると、どうしても夕飯に塩をふった山女魚で一杯やりたくなるものだ。土蜘蛛の友人はそれを聞くと「変な奴だ」とカラカラ笑う。何がどう愉快なのかなんて知ったことではないが、屈託なく口角を釣り上げる彼女に少々調子を狂わされることもしばしば。妬みや嫉みも、悩みのない空っぽ妖怪には無意味極まりない感情である。
今夜もあいつを誘って飲み屋に行こうかしら、なんてことを考えながら彼女は平たい石を手に持って、ひょいと河へ放り投げた。ちょっと投げ方が下手だったのか、三回ほど跳ねて石は河底へぽちゃり。後ろを振り返れば、突然のお客様ときたもんだ。
「おはようございます、こんにちわ、こんばんわ、おばんでございます」
どの時間帯でも対応できる挨拶を一通り試したのは、果たして意思の疎通が出来る相手なのか把握しかねたからだ。なんせその体躯は羽を広げれば六尺以上あるんじゃないかと推察される、それはもう大きな鳥だったのだ。いや、特筆すべきはそんなことではない。ただ体が大きくたって何の自慢にもなりはしない。おつむがついてこなければ無用の長物。奴さん、どっかの誰かに利用されて捨てられちまうのが関の山だ。
目だ。二つ並んだ青いめんたまは確かにはっきりと橋姫を捉えていた。それもただ見ていたわけでも、見とれていたわけでもない、当然のことだが。ぎらりと光って見えるのは、はたまた敵意かもしくは悪意か。友好的でないのはどう考えても分かる。これで私とあなたでお友達なんてことを言ってきたら橋姫ったら、さとりの妖怪とこまで押しかけてやれ読心術の極意を学びたいなんて言い出すに違いない。
「あなたの目的は、なあに?」
いつもは問答無用で追い払うか、面倒だから無視するか、そんな対応ばかりしていた橋姫も何だこいつはと聞かずにはいられなかった。そのくらい退屈だったというのは前述の通り。正直言って多少の得体の知れなさがあったのもまた事実なり。
橋姫が目的を問うたのと同時に、件の鳥はほんの少しだけ視線を逸らした。今橋姫は繁華街に背を向けた状態で立っている。つまりはそういうことだ。
そっからの橋姫の行動は素早かった。さっと手を振り上げるとどこから湧いてきたのか、白い灰がぶわわと舞い上がってきた。灰がどこへ行くかというと、鳥の周りを囲んでお椀状にそいつを閉じ込めてしまったのだ。橋姫お得意の妬みの灰は、嫉妬の炎が燃え上がれば燃え上がるほど花を咲き散らすそれは綺麗なものだった。しかしやられているほうはたまったものではない。動物にだって存在するほんの僅かな嫉妬心でさえ、橋姫の手にかかれば身を焦がすほどに膨れ上がってしまうのだ。
一分経った。たったの一分だが、嫉妬狂いにさせるには十分な時間のはずだ。だけども灰のお椀はうんともすんとも言いやしない。橋姫はもう一分待った。長い長い一分だった。まだかまだかと待ち焦がれる時間というのは不思議なもので、まるで牛の歩みみたいに遅くなってしまう。
やっとこさ時間になった。しかし反応は無い。ああなるほど、橋姫は理解した。
(欠片も無いってことかしら)
これ以上は無駄だと橋姫はぱちんと指を鳴らした。途端に囲んでいた灰は風に乗ってあちらこちらへと散っていってしまった。さらば妬みの灰。街へと流れて誰かさんの鼻に入ってしまえば、たちまち喧嘩が起こるだろうがそれはそれとて別の話だ。
取るに足らないと思っているのだろう。誇りを全身に携え余裕であることすら窺わせない。強者はわざわざ嫉妬しないものだ。見下すしかない者をどうして羨ましいと思うだろうか。
嘴広鸛は動かない。
橋姫はふかぁくため息をついた。まだ春も遠いこの時期だから、ついた息も白く濁って流れていった。別に、この鳥類と自分に圧倒的な力の差があるわけではないのだ。あるはずがなかろう、仮にも橋姫として何百年と生きてきた彼女だ。妖力だって膂力だってこんな鳥に負けるはずがない。
しかしだ、彼女の攻撃が通じなかったのも既に起こった事であり、橋姫の頭ん中にしっかりと刻まれているのだ。どうしてもこれ以上手を出す気にはなれない。さてどうしたものかと街の方へ目をやった瞬間だった。一際強い風が橋の上を翔けていった。
「あ」
そうして、気づいたときには彼女は一人。あと残っていたのは灰色の羽くらいなものか。拾い上げてまじまじと見つめると光の加減で青くも見える。綺麗、と橋姫は思わずそう呟いてしまった。全く今夜は荒れそうだとぽりぽり頭を掻いてみた。まあしかし退屈しのぎにはなっただろうか。手摺にちょいと肘を立て。顔を乗せて考える。
どうでもいいやと放り投げた羽がひゅるり、舞う先は何処か。
***
呑み足りない、嗚呼呑み足りない。こんな気持ちは毎夜のことだ。どこを探そうと鬼を満足させる酒量を備えた店なんて見つかりっこない。ほろ酔いになったらもうお終い。もし満足するまで呑もうものならお気に入りの店を一軒潰してしまうことになる。その方がよっぽど損というものだ。
ただし鬼以外はそうでもないのだろう。いつもこの裏通りには酔っ払いだか死体だか区別が付かないものがごろごろと横たわってるのだ。一本角の鬼はそれをひょいひょいと軽く避けていく。何故か手に持った大きな盃にはなみなみと酒が注がれているが、いやはや見事に器用なものでそれを一滴足りとも零しはしない。
動いてる影は現時点ではまだ一つであった。列になった提灯の列は少々頼りない。薄ぼんやりの自分の影が色んな角度で沈んでいて、まるで盆踊りの中央にいるみたいだ。
ちょろっと愉快になったところで、鬼は今しがた増えた自分以外の影に気づいてやった。鳥が鬼を睨んでおる。これほど珍妙で滑稽な光景もないが、両者に漂う空気はぱんぱんに膨れ上がった紙風船のようだ。
「やや、そこな鳥よ。私が鬼と知っていてなおその眼を向けるか!」
鬼は笑う、くくくと笑う。なんせその眼はこちらを試す、そんな意図を含んでいるのだから。愚行、しかし大胆とも言えよう。真っ向から喧嘩を売られたのはいつ以来か。と、思いふけってみたが案外最近にあったことだ。久しぶりに話した旧友はよろしくやっているだろうか。たまには上にも遊びに行ってみようかと考えたところで、改めて相手をじっと見つめてみる。
面構えは悪くない。矢を向けられてるような威圧感は、ぎらりと光る蒼眼から放たれているものだろう。よかろうよかろう、そこまで仰るのなら応じましょう。鬼は高く脚を振り上げた。
一歩。まずはほんの小手調べ。ぐらりと地面が揺れ動く。
二歩。ここからが本番。大小様々な弾幕が空という空を埋め尽くす。
三歩。これで終い。身動きなんてできやしない相手へ一気に距離を詰めて拳を──
──おや? 何故だ、と鬼は首をかしげる。どうしたものだか握った拳は未だに頭上で止まったままだ。不思議なことだ、この拳を振り下ろせば生意気な鳥はひっくり返って逃げるだろうに。
答えは首元にあった。大きく広いその嘴が、鬼の喉をぴたりと捉えているではないか。
嘴広鸛は動かない。
つまりこういうことだ。“貴殿の方へ少々顔を見やっただけだが何か”とただそれだけのことなのだ。嘲笑など混じらない、向けられた目線は先程と変わらぬままである。故意に侮りがあったわけではない、そこを誤解してはならない。
(してやられたな)
と、鬼は思ったのだろう。酔いは覚めてしまったが、その分気分は爽快だった。一本取られるというのは気持ちのいいものだ。長らく強者でいれば尚更そうだ。これは呑まずにはいられない、さあ一杯付き合ってもらおうか。とまあ気づいたときには影一つ。
河のほうから風がひゅるりら、裏通りを通り抜ける。手に携えた酒が波打って、これはいけねえと慌てて盃に口をつけた。今日は既に一度敗れてるんだから、自分で定めた勝負事にすら負けてちゃたまったもんじゃあない。また手合わせ願いたいものだ。こんな日はほろ酔い程度じゃあもったいないってものだろう。
さて、もう一杯。
***
「これはまいったまいった。いやあまいった」
火車が走る走る、旧灼熱地獄を急いで登る。愛用の猫車がやかましい音を立てるがそんなことには構ってられない。なんせ一大事だ、野生の勘がそう告げている。知性を得られて早数百年、いやそれ以上か。未だに野生の勘なんてものが自分に残ってたってのが驚きだがどうでもいい。
何か来る、ここに向かってる、良くないものがやって来る。一刻も早くご主人様に伝えなければ大変なことになるぞ、ということでこの火車は躓こうが転ぼうが全力疾走の真っ最中なのだ。
「大変だ大変だ」
何がどう大変なのかはさっぱりだが、ご主人様に会えれば万事解決だ。きっと心の底を汲みとって、取るべき対処を指示してくれるに違いない。そんな希望を胸に携え、ようやくお邸の中庭まで到達したが、上がってみれば最初に見えたのはでかい図体だ。火車が急いでたこともあってか派手に衝突。あわや下に逆戻りってところだったが何とか体勢を立て直した火車が叫ぶ。
「やいやい! そんな所で突っ立ってるんじゃないよ! ってあれ? お空?」
立っていた、いや縮こまっていたというのが正確だろう。そいつは自分と同じく知性を持った地獄鴉の同僚だった。可哀想なほど体を震わせて、一体全体何がどうしたというのか。火車は気付く。おそらく彼女も自分と同じ何かを感じ取ったのだろうと。
(だがここまで怯えるほどだろうか?)
何が不思議って、彼女は強いのだ、とてつもなく。神様を食っちまったってことで少しばかり前に一悶着あって、自分も巻き込まれたり巻き込んだりしたものだが、今じゃすっかり落ち着いてる。得られた力はそのままだ。そんな彼女がどうしてこんなに怯える必要があるのだろうか。
「おいおいお空、お前さん一体どうしちまったんだい」
「お燐、聞いてくれ! あれは私と同じだ、羽持ちだよ!」
なるほど、ようやく理解した。同類だからこそ敏感に感じ取ったのだ。恐怖か、脅威か、絶望か。こんな大袈裟なものではないかもしれないが、それはこの場から動けなくなるには十分なのだろう。火車はごくりと唾を飲んだ。
思ったよりも事態は深刻か、これはぼさっとしていられない。お空をこのままにしておくのは不安が残るがまずは報告だ。よっこらせと猫車を持ち直して走りだす。
「お、お燐」
「さとり様に報告してくる! すぐ戻るよ!」
なんといじらしいことか、こんな状況じゃなければ傍らに立って不安に震える彼女を延々と慰めてやるのに。嗚呼悔しいと歯噛みしながら火車は廊下を走る。主はどこか、広間か、食堂か、いや自室か。ノックなんてそんなものはもう無視だ。ドアノブ回すのも面倒臭いから猫車で思い切りぶち破って、
「さとり様ああああああああああああ!!!」
見知らぬ大きな鳥に主が頭を噛み付かれてたらそりゃ叫ぶってものだろう。
***
「お燐、落ち着きなさい」
無理だ。だって食われてるんだもの。頭をぱっくりやられてるのに何故この御方はこんなに冷静なのだ。表情だって見えやしない。上に立つ者はいかなる時も動揺せず、堂々と立ち振るわなければならないのは確かだが、だからといってこんな状況で堂々とされてもその、なんだ。困るだろう。
しかし大きな嘴だ。人の頭を咥えられるというのが恐ろしい。と、感心している場合ではない。すぐにご主人様を助けなければ。忠誠心を見せるなら今ここにおいて他はない。
「ええいそこな大怪鳥! さとり様から離れやがれ!」
ぎょろり、目が合う。
「ごめんなさい!」
この眼はヤバい、殺しを経験したことのある眼だ。なんてことを思ったが、当然この火車にはそんな鑑定眼は備わっちゃいない。普段接してる怨霊の眼にあるのは恨みだけだし、可愛らしいゾンビの妖精にはお腹が空いただとか何か面白いことはないかとかえてしてそんなものばかりだ。
「いいのよお燐」
「いや、どう見ても良くはなさそうなのですが怖いのでその言葉に従います。了解しましたマスター」
依然状況は変わらない。今気づいたが奥の窓が開いているではないか。件の侵入者はおそらくここから入ってきたのだろう。して、何がどうなって今この状況になったのかはさっぱりだ。
「私が彼を受け入れたのですよ。なんら問題はありません」
「問題だらけに見えますが」
「いえ、彼の眼の奥に僅かばかりの寂寞が見えました。彼が元いた世界にはおそらくもう居場所なんてものは無かったのでしょう。だからこそ、ここに来たのです。お燐、新しい家族が増えますよ」
「え」
あくまで主の声は優しい。火車にはどう見てもかの大怪鳥から敵意だとか殺意だとかそんなものしか感じられないのだが。家族になるということはつまり寝食を共にするということで、四六時中とまではいかないまでもこの目線に晒されなきゃいけないのかい。そいつはご勘弁願いたいと火車は心の中で訴える。
しかし主はにっこりと、顔が嘴に挟まれてるもんだからよく分からなかったが、笑った。吊り上がる口の端が見えたから多分そうだ。なんと大人な対応だろう。火車は忘れていたのだ。自分たちがこの寛大な心によって今こうして生かされているということに。
なんて慈悲深いお方なのだろう。火車は思わず目から雫が落ちそうになった。嗚呼思い出すあの日々を。路傍でただ空腹に怯えながらゆっくりと死に向かうだけだった自分を、暖かい暖炉に導いてくれたあの雪の日を。初めて言葉を発せるようになり、喉を振り絞って「ありがとう」と伝えたあの桜舞う日を。
「不肖火焔猫燐、あなた様の心遣いにいたく感激いたしました。やあ兄弟、これから仲良くしようじゃあないか」
と、火車は先輩らしく柔らかな口調で話しかける。だがしかし。
嘴広鸛は動かない。
おかしいな、と火車は首をかしげた。これにて一件落着、地霊殿にまた新しいペットが増えましためでたしめでたし、という話じゃないのかい。主もどうやら予想外だったようで何やら焦った様子で嘴に手をかける。
「んーっ」
抜けない。主の万力の力なんてものはたかが知れているが、これは困ったことだ。何だ、何が不満なのだこの鳥は。主から「何とかしてください」というオーラが出ているのが分かる。分かるが火車にはどうしようもない。
その主だが、今度は力ではなく会話により解決を試みるようだ。
「もう、離してもいいのですよ? あなたの敵はここにはいません。これからは私のペットとしていだだだだだだだ。はぁはぁ……言い方が悪かったようね。私とあなたは対等です。そう、これからは家族としいだだだだだだだ」
「さとり様!?」
嘴に込められた思いが拒絶であることを火車は主のように心を読まずとも分かっていた。先程の感動は一体何だったのか、夢幻の類だったのかと頬をつねりたくなるが今は主の頭の安全を確保せねばなるまい。
やっとのことで火車は奴さんの嘴を抉じ開け主の頭を引っ張り出した。ベタベタだ。新しく家族になるはずだった鳥は明らかに不機嫌そうにこちらを睨んでる。怖いですご主人様、と伝えようとしたが肝心の主はとっくのとうに火車の後ろに移動していた。
「え、え、あたいはどうすればいいんですかさとり様」
「何故かすごい怒ってるので宥めてあげてください」
「無茶言わんといてください! そういうのはさとり様お得意の読心術でなんとかしてくださいよ!」
「そ、そうですね。むむむむむ」
その時だ。奴さん、くわかかかっ! と大きな音を鳴らしながら嘴を激しく叩き合わせた。当然、先程まで被害を受けていた主は途端にすくみ上がり、読心なんてする余裕なんかこれっぽっちも残りはしなかった。火車は少し漏らした。
やあやあ、このままでは大変なことになってしまう。かくして地霊殿は嘴広鸛の手に落ち、権力闘争が地底に吹き荒れることになろう。鬼は酒を片手に宴会と称してどんちゃか家を壊し、土蜘蛛は徒党を組んで区画整理にやっきになり、橋姫は隅っこで割を食う。
という物語が火車の頭の中で一瞬で展開された。言うまでもなく、まさかそんなことは起こるはずもないのだが、火車は恐怖で震え上がり、その心を読んでしまった主は何故か勇気に奮い立った。勝手に。
「あなたが頂点に立とうとするのなら、残念ながらそんなものは無いと断言しましょう。あなたの望む場所はここではない!!」
手の平返しとはこのことを言うのかもしれない。評価なぞ一つの出来事で簡単に変わってしまうものだ。迎えうるべき家族は一転して立ち向かうべき敵へと姿を変えた。
だが、主の啖呵が効いたか効かなかったのか、嘴広鸛は何か悟ったような表情を浮かべた。それは極僅かな揺らぎにすぎなかったのだが、ぱんぱんに張り詰めた緊張感の中では分り易すぎる変化であった。
すると驚くべきことに奴さん、主たちに対してお辞儀をしたのだ。首を深々と下げる姿はまるで別れの挨拶のようだ。くるり、嘴広鸛は背を向けるとその大きな羽を思い切り伸ばした。何だ、何か飛び出してくるのか、と一匹は戦闘態勢を取り、一人はその陰にしゃがみこんだ。しかし二人の予想を裏切って嘴広鸛は窓から地底の低い天井へと飛び去って行ったのだ。
あれが一体何だったのか、答えを持つものはとりあえずここはいないだろう。とまあ、ありきたりなことを言っておいてこの場は収めようじゃないか。どうせきちんと事態を把握したいと思う輩なんてこの地底にはいないのだから。
***
その日、その瞬間に外に出ていた幻想郷の住人全てが空を見上げた。何故か、と問えば何となく、と答えるしかないだろう。だが、全員が遥か上空を雄大に飛ぶ一羽の鳥を見たことは事実だ。
ある村人は奴さんを天狗か何かだと勘違いし、ある博麗の巫女は鍋にしたら美味しいかしらと思案を巡らせ、そして山をふらつくある家出妖怪はこう考えた。
「──ペットにしたい!!」
なんだあれは、超かっこいい。家にいる鴉とは比べ物にならないじゃあないか。是非ともあの嘴を思う存分撫で回したい。大きなリボンを付けて可愛がりたい。鴉とどっちが強いのか対戦させてみたい。
「待てえ!!!」
嘴広鸛は振り向かない。
家出妖怪もその後を追いかけて走る、走る、走る、飽きた。もういいや。外へ帰る輩を追っかけったってしょうがない。既に彼女の興味は別の対象に移っており、たまたま足元にいた蛙を捕まえて、それはとても良い笑顔を見せた。
***
嘴広鸛は、地上で誰が騒ごうが誰が呼び止めようが関係なしに外界へと向かって飛んでいく。忘れ去られ流れた先で否定され、彼奴はまた元の場所へと流れるしかないのか。否、否否否。鯨頭の王は嘴を高らかに鳴らす。それは矜持の雄叫びか、はたまた宣戦布告の狼煙となるか。
何、忘れられたのなら思い出させてやればいい。たった、それだけの話だ。
かくして、地霊殿は嘴広鸛の手に落ちた。
***
橋姫は退屈していた。風も河も何もかもが穏やかすぎたのだ。おかげで旧灼熱地獄から廃棄される死体という名の燃えカスが流れてきても、やたらめったらに引っかかって黒い山ができてしまっているほどだった。
焦げた匂いと腐った水の匂いが混じると、どうしても夕飯に塩をふった山女魚で一杯やりたくなるものだ。土蜘蛛の友人はそれを聞くと「変な奴だ」とカラカラ笑う。何がどう愉快なのかなんて知ったことではないが、屈託なく口角を釣り上げる彼女に少々調子を狂わされることもしばしば。妬みや嫉みも、悩みのない空っぽ妖怪には無意味極まりない感情である。
今夜もあいつを誘って飲み屋に行こうかしら、なんてことを考えながら彼女は平たい石を手に持って、ひょいと河へ放り投げた。ちょっと投げ方が下手だったのか、三回ほど跳ねて石は河底へぽちゃり。後ろを振り返れば、突然のお客様ときたもんだ。
「おはようございます、こんにちわ、こんばんわ、おばんでございます」
どの時間帯でも対応できる挨拶を一通り試したのは、果たして意思の疎通が出来る相手なのか把握しかねたからだ。なんせその体躯は羽を広げれば六尺以上あるんじゃないかと推察される、それはもう大きな鳥だったのだ。いや、特筆すべきはそんなことではない。ただ体が大きくたって何の自慢にもなりはしない。おつむがついてこなければ無用の長物。奴さん、どっかの誰かに利用されて捨てられちまうのが関の山だ。
目だ。二つ並んだ青いめんたまは確かにはっきりと橋姫を捉えていた。それもただ見ていたわけでも、見とれていたわけでもない、当然のことだが。ぎらりと光って見えるのは、はたまた敵意かもしくは悪意か。友好的でないのはどう考えても分かる。これで私とあなたでお友達なんてことを言ってきたら橋姫ったら、さとりの妖怪とこまで押しかけてやれ読心術の極意を学びたいなんて言い出すに違いない。
「あなたの目的は、なあに?」
いつもは問答無用で追い払うか、面倒だから無視するか、そんな対応ばかりしていた橋姫も何だこいつはと聞かずにはいられなかった。そのくらい退屈だったというのは前述の通り。正直言って多少の得体の知れなさがあったのもまた事実なり。
橋姫が目的を問うたのと同時に、件の鳥はほんの少しだけ視線を逸らした。今橋姫は繁華街に背を向けた状態で立っている。つまりはそういうことだ。
そっからの橋姫の行動は素早かった。さっと手を振り上げるとどこから湧いてきたのか、白い灰がぶわわと舞い上がってきた。灰がどこへ行くかというと、鳥の周りを囲んでお椀状にそいつを閉じ込めてしまったのだ。橋姫お得意の妬みの灰は、嫉妬の炎が燃え上がれば燃え上がるほど花を咲き散らすそれは綺麗なものだった。しかしやられているほうはたまったものではない。動物にだって存在するほんの僅かな嫉妬心でさえ、橋姫の手にかかれば身を焦がすほどに膨れ上がってしまうのだ。
一分経った。たったの一分だが、嫉妬狂いにさせるには十分な時間のはずだ。だけども灰のお椀はうんともすんとも言いやしない。橋姫はもう一分待った。長い長い一分だった。まだかまだかと待ち焦がれる時間というのは不思議なもので、まるで牛の歩みみたいに遅くなってしまう。
やっとこさ時間になった。しかし反応は無い。ああなるほど、橋姫は理解した。
(欠片も無いってことかしら)
これ以上は無駄だと橋姫はぱちんと指を鳴らした。途端に囲んでいた灰は風に乗ってあちらこちらへと散っていってしまった。さらば妬みの灰。街へと流れて誰かさんの鼻に入ってしまえば、たちまち喧嘩が起こるだろうがそれはそれとて別の話だ。
取るに足らないと思っているのだろう。誇りを全身に携え余裕であることすら窺わせない。強者はわざわざ嫉妬しないものだ。見下すしかない者をどうして羨ましいと思うだろうか。
嘴広鸛は動かない。
橋姫はふかぁくため息をついた。まだ春も遠いこの時期だから、ついた息も白く濁って流れていった。別に、この鳥類と自分に圧倒的な力の差があるわけではないのだ。あるはずがなかろう、仮にも橋姫として何百年と生きてきた彼女だ。妖力だって膂力だってこんな鳥に負けるはずがない。
しかしだ、彼女の攻撃が通じなかったのも既に起こった事であり、橋姫の頭ん中にしっかりと刻まれているのだ。どうしてもこれ以上手を出す気にはなれない。さてどうしたものかと街の方へ目をやった瞬間だった。一際強い風が橋の上を翔けていった。
「あ」
そうして、気づいたときには彼女は一人。あと残っていたのは灰色の羽くらいなものか。拾い上げてまじまじと見つめると光の加減で青くも見える。綺麗、と橋姫は思わずそう呟いてしまった。全く今夜は荒れそうだとぽりぽり頭を掻いてみた。まあしかし退屈しのぎにはなっただろうか。手摺にちょいと肘を立て。顔を乗せて考える。
どうでもいいやと放り投げた羽がひゅるり、舞う先は何処か。
***
呑み足りない、嗚呼呑み足りない。こんな気持ちは毎夜のことだ。どこを探そうと鬼を満足させる酒量を備えた店なんて見つかりっこない。ほろ酔いになったらもうお終い。もし満足するまで呑もうものならお気に入りの店を一軒潰してしまうことになる。その方がよっぽど損というものだ。
ただし鬼以外はそうでもないのだろう。いつもこの裏通りには酔っ払いだか死体だか区別が付かないものがごろごろと横たわってるのだ。一本角の鬼はそれをひょいひょいと軽く避けていく。何故か手に持った大きな盃にはなみなみと酒が注がれているが、いやはや見事に器用なものでそれを一滴足りとも零しはしない。
動いてる影は現時点ではまだ一つであった。列になった提灯の列は少々頼りない。薄ぼんやりの自分の影が色んな角度で沈んでいて、まるで盆踊りの中央にいるみたいだ。
ちょろっと愉快になったところで、鬼は今しがた増えた自分以外の影に気づいてやった。鳥が鬼を睨んでおる。これほど珍妙で滑稽な光景もないが、両者に漂う空気はぱんぱんに膨れ上がった紙風船のようだ。
「やや、そこな鳥よ。私が鬼と知っていてなおその眼を向けるか!」
鬼は笑う、くくくと笑う。なんせその眼はこちらを試す、そんな意図を含んでいるのだから。愚行、しかし大胆とも言えよう。真っ向から喧嘩を売られたのはいつ以来か。と、思いふけってみたが案外最近にあったことだ。久しぶりに話した旧友はよろしくやっているだろうか。たまには上にも遊びに行ってみようかと考えたところで、改めて相手をじっと見つめてみる。
面構えは悪くない。矢を向けられてるような威圧感は、ぎらりと光る蒼眼から放たれているものだろう。よかろうよかろう、そこまで仰るのなら応じましょう。鬼は高く脚を振り上げた。
一歩。まずはほんの小手調べ。ぐらりと地面が揺れ動く。
二歩。ここからが本番。大小様々な弾幕が空という空を埋め尽くす。
三歩。これで終い。身動きなんてできやしない相手へ一気に距離を詰めて拳を──
──おや? 何故だ、と鬼は首をかしげる。どうしたものだか握った拳は未だに頭上で止まったままだ。不思議なことだ、この拳を振り下ろせば生意気な鳥はひっくり返って逃げるだろうに。
答えは首元にあった。大きく広いその嘴が、鬼の喉をぴたりと捉えているではないか。
嘴広鸛は動かない。
つまりこういうことだ。“貴殿の方へ少々顔を見やっただけだが何か”とただそれだけのことなのだ。嘲笑など混じらない、向けられた目線は先程と変わらぬままである。故意に侮りがあったわけではない、そこを誤解してはならない。
(してやられたな)
と、鬼は思ったのだろう。酔いは覚めてしまったが、その分気分は爽快だった。一本取られるというのは気持ちのいいものだ。長らく強者でいれば尚更そうだ。これは呑まずにはいられない、さあ一杯付き合ってもらおうか。とまあ気づいたときには影一つ。
河のほうから風がひゅるりら、裏通りを通り抜ける。手に携えた酒が波打って、これはいけねえと慌てて盃に口をつけた。今日は既に一度敗れてるんだから、自分で定めた勝負事にすら負けてちゃたまったもんじゃあない。また手合わせ願いたいものだ。こんな日はほろ酔い程度じゃあもったいないってものだろう。
さて、もう一杯。
***
「これはまいったまいった。いやあまいった」
火車が走る走る、旧灼熱地獄を急いで登る。愛用の猫車がやかましい音を立てるがそんなことには構ってられない。なんせ一大事だ、野生の勘がそう告げている。知性を得られて早数百年、いやそれ以上か。未だに野生の勘なんてものが自分に残ってたってのが驚きだがどうでもいい。
何か来る、ここに向かってる、良くないものがやって来る。一刻も早くご主人様に伝えなければ大変なことになるぞ、ということでこの火車は躓こうが転ぼうが全力疾走の真っ最中なのだ。
「大変だ大変だ」
何がどう大変なのかはさっぱりだが、ご主人様に会えれば万事解決だ。きっと心の底を汲みとって、取るべき対処を指示してくれるに違いない。そんな希望を胸に携え、ようやくお邸の中庭まで到達したが、上がってみれば最初に見えたのはでかい図体だ。火車が急いでたこともあってか派手に衝突。あわや下に逆戻りってところだったが何とか体勢を立て直した火車が叫ぶ。
「やいやい! そんな所で突っ立ってるんじゃないよ! ってあれ? お空?」
立っていた、いや縮こまっていたというのが正確だろう。そいつは自分と同じく知性を持った地獄鴉の同僚だった。可哀想なほど体を震わせて、一体全体何がどうしたというのか。火車は気付く。おそらく彼女も自分と同じ何かを感じ取ったのだろうと。
(だがここまで怯えるほどだろうか?)
何が不思議って、彼女は強いのだ、とてつもなく。神様を食っちまったってことで少しばかり前に一悶着あって、自分も巻き込まれたり巻き込んだりしたものだが、今じゃすっかり落ち着いてる。得られた力はそのままだ。そんな彼女がどうしてこんなに怯える必要があるのだろうか。
「おいおいお空、お前さん一体どうしちまったんだい」
「お燐、聞いてくれ! あれは私と同じだ、羽持ちだよ!」
なるほど、ようやく理解した。同類だからこそ敏感に感じ取ったのだ。恐怖か、脅威か、絶望か。こんな大袈裟なものではないかもしれないが、それはこの場から動けなくなるには十分なのだろう。火車はごくりと唾を飲んだ。
思ったよりも事態は深刻か、これはぼさっとしていられない。お空をこのままにしておくのは不安が残るがまずは報告だ。よっこらせと猫車を持ち直して走りだす。
「お、お燐」
「さとり様に報告してくる! すぐ戻るよ!」
なんといじらしいことか、こんな状況じゃなければ傍らに立って不安に震える彼女を延々と慰めてやるのに。嗚呼悔しいと歯噛みしながら火車は廊下を走る。主はどこか、広間か、食堂か、いや自室か。ノックなんてそんなものはもう無視だ。ドアノブ回すのも面倒臭いから猫車で思い切りぶち破って、
「さとり様ああああああああああああ!!!」
見知らぬ大きな鳥に主が頭を噛み付かれてたらそりゃ叫ぶってものだろう。
***
「お燐、落ち着きなさい」
無理だ。だって食われてるんだもの。頭をぱっくりやられてるのに何故この御方はこんなに冷静なのだ。表情だって見えやしない。上に立つ者はいかなる時も動揺せず、堂々と立ち振るわなければならないのは確かだが、だからといってこんな状況で堂々とされてもその、なんだ。困るだろう。
しかし大きな嘴だ。人の頭を咥えられるというのが恐ろしい。と、感心している場合ではない。すぐにご主人様を助けなければ。忠誠心を見せるなら今ここにおいて他はない。
「ええいそこな大怪鳥! さとり様から離れやがれ!」
ぎょろり、目が合う。
「ごめんなさい!」
この眼はヤバい、殺しを経験したことのある眼だ。なんてことを思ったが、当然この火車にはそんな鑑定眼は備わっちゃいない。普段接してる怨霊の眼にあるのは恨みだけだし、可愛らしいゾンビの妖精にはお腹が空いただとか何か面白いことはないかとかえてしてそんなものばかりだ。
「いいのよお燐」
「いや、どう見ても良くはなさそうなのですが怖いのでその言葉に従います。了解しましたマスター」
依然状況は変わらない。今気づいたが奥の窓が開いているではないか。件の侵入者はおそらくここから入ってきたのだろう。して、何がどうなって今この状況になったのかはさっぱりだ。
「私が彼を受け入れたのですよ。なんら問題はありません」
「問題だらけに見えますが」
「いえ、彼の眼の奥に僅かばかりの寂寞が見えました。彼が元いた世界にはおそらくもう居場所なんてものは無かったのでしょう。だからこそ、ここに来たのです。お燐、新しい家族が増えますよ」
「え」
あくまで主の声は優しい。火車にはどう見てもかの大怪鳥から敵意だとか殺意だとかそんなものしか感じられないのだが。家族になるということはつまり寝食を共にするということで、四六時中とまではいかないまでもこの目線に晒されなきゃいけないのかい。そいつはご勘弁願いたいと火車は心の中で訴える。
しかし主はにっこりと、顔が嘴に挟まれてるもんだからよく分からなかったが、笑った。吊り上がる口の端が見えたから多分そうだ。なんと大人な対応だろう。火車は忘れていたのだ。自分たちがこの寛大な心によって今こうして生かされているということに。
なんて慈悲深いお方なのだろう。火車は思わず目から雫が落ちそうになった。嗚呼思い出すあの日々を。路傍でただ空腹に怯えながらゆっくりと死に向かうだけだった自分を、暖かい暖炉に導いてくれたあの雪の日を。初めて言葉を発せるようになり、喉を振り絞って「ありがとう」と伝えたあの桜舞う日を。
「不肖火焔猫燐、あなた様の心遣いにいたく感激いたしました。やあ兄弟、これから仲良くしようじゃあないか」
と、火車は先輩らしく柔らかな口調で話しかける。だがしかし。
嘴広鸛は動かない。
おかしいな、と火車は首をかしげた。これにて一件落着、地霊殿にまた新しいペットが増えましためでたしめでたし、という話じゃないのかい。主もどうやら予想外だったようで何やら焦った様子で嘴に手をかける。
「んーっ」
抜けない。主の万力の力なんてものはたかが知れているが、これは困ったことだ。何だ、何が不満なのだこの鳥は。主から「何とかしてください」というオーラが出ているのが分かる。分かるが火車にはどうしようもない。
その主だが、今度は力ではなく会話により解決を試みるようだ。
「もう、離してもいいのですよ? あなたの敵はここにはいません。これからは私のペットとしていだだだだだだだ。はぁはぁ……言い方が悪かったようね。私とあなたは対等です。そう、これからは家族としいだだだだだだだ」
「さとり様!?」
嘴に込められた思いが拒絶であることを火車は主のように心を読まずとも分かっていた。先程の感動は一体何だったのか、夢幻の類だったのかと頬をつねりたくなるが今は主の頭の安全を確保せねばなるまい。
やっとのことで火車は奴さんの嘴を抉じ開け主の頭を引っ張り出した。ベタベタだ。新しく家族になるはずだった鳥は明らかに不機嫌そうにこちらを睨んでる。怖いですご主人様、と伝えようとしたが肝心の主はとっくのとうに火車の後ろに移動していた。
「え、え、あたいはどうすればいいんですかさとり様」
「何故かすごい怒ってるので宥めてあげてください」
「無茶言わんといてください! そういうのはさとり様お得意の読心術でなんとかしてくださいよ!」
「そ、そうですね。むむむむむ」
その時だ。奴さん、くわかかかっ! と大きな音を鳴らしながら嘴を激しく叩き合わせた。当然、先程まで被害を受けていた主は途端にすくみ上がり、読心なんてする余裕なんかこれっぽっちも残りはしなかった。火車は少し漏らした。
やあやあ、このままでは大変なことになってしまう。かくして地霊殿は嘴広鸛の手に落ち、権力闘争が地底に吹き荒れることになろう。鬼は酒を片手に宴会と称してどんちゃか家を壊し、土蜘蛛は徒党を組んで区画整理にやっきになり、橋姫は隅っこで割を食う。
という物語が火車の頭の中で一瞬で展開された。言うまでもなく、まさかそんなことは起こるはずもないのだが、火車は恐怖で震え上がり、その心を読んでしまった主は何故か勇気に奮い立った。勝手に。
「あなたが頂点に立とうとするのなら、残念ながらそんなものは無いと断言しましょう。あなたの望む場所はここではない!!」
手の平返しとはこのことを言うのかもしれない。評価なぞ一つの出来事で簡単に変わってしまうものだ。迎えうるべき家族は一転して立ち向かうべき敵へと姿を変えた。
だが、主の啖呵が効いたか効かなかったのか、嘴広鸛は何か悟ったような表情を浮かべた。それは極僅かな揺らぎにすぎなかったのだが、ぱんぱんに張り詰めた緊張感の中では分り易すぎる変化であった。
すると驚くべきことに奴さん、主たちに対してお辞儀をしたのだ。首を深々と下げる姿はまるで別れの挨拶のようだ。くるり、嘴広鸛は背を向けるとその大きな羽を思い切り伸ばした。何だ、何か飛び出してくるのか、と一匹は戦闘態勢を取り、一人はその陰にしゃがみこんだ。しかし二人の予想を裏切って嘴広鸛は窓から地底の低い天井へと飛び去って行ったのだ。
あれが一体何だったのか、答えを持つものはとりあえずここはいないだろう。とまあ、ありきたりなことを言っておいてこの場は収めようじゃないか。どうせきちんと事態を把握したいと思う輩なんてこの地底にはいないのだから。
***
その日、その瞬間に外に出ていた幻想郷の住人全てが空を見上げた。何故か、と問えば何となく、と答えるしかないだろう。だが、全員が遥か上空を雄大に飛ぶ一羽の鳥を見たことは事実だ。
ある村人は奴さんを天狗か何かだと勘違いし、ある博麗の巫女は鍋にしたら美味しいかしらと思案を巡らせ、そして山をふらつくある家出妖怪はこう考えた。
「──ペットにしたい!!」
なんだあれは、超かっこいい。家にいる鴉とは比べ物にならないじゃあないか。是非ともあの嘴を思う存分撫で回したい。大きなリボンを付けて可愛がりたい。鴉とどっちが強いのか対戦させてみたい。
「待てえ!!!」
嘴広鸛は振り向かない。
家出妖怪もその後を追いかけて走る、走る、走る、飽きた。もういいや。外へ帰る輩を追っかけったってしょうがない。既に彼女の興味は別の対象に移っており、たまたま足元にいた蛙を捕まえて、それはとても良い笑顔を見せた。
***
嘴広鸛は、地上で誰が騒ごうが誰が呼び止めようが関係なしに外界へと向かって飛んでいく。忘れ去られ流れた先で否定され、彼奴はまた元の場所へと流れるしかないのか。否、否否否。鯨頭の王は嘴を高らかに鳴らす。それは矜持の雄叫びか、はたまた宣戦布告の狼煙となるか。
何、忘れられたのなら思い出させてやればいい。たった、それだけの話だ。
まあハシビロコウさんはそんな狭い場所に収まる器ではなかったか
もうそれ以外のコメントができないよ……。
なんと男前なハシビロコウ。