1 序文
私、パチュリー・ノーレッジは、紅魔館に起こる問題を全て解決する役割を担っている。
東に花壇に悩む門番があれば手頃な花をあつらえてやり、西で本の山が崩れれば念力で整頓してやる。
南で新人メイドが小火騒ぎを起こせばすぐさま水をかけてやり、北ではワガママな吸血鬼を薫陶育成してきた。
ただし、私は出不精なため、問題と直面すること自体があまりない。
研究室を訪れてでも解決したいという問題は赴いて解決してやるが、それ以外の事件は私が興味を持たない限り手を出さない。
そんな自分を、消極的だとは思わなかった。
2 二日目
時たま、「本の中に入り込む」という経験をすることがある。
周りの音が聴こえなくなったり、嗅覚が機能しなくなったりという、本好きには付き物の現象だ。
今日は、そういう経験はしなかった。
むしろ逆といっていい。
集中力の削ぎ落とされ方がひどかった。
戦闘機のパイロットたちの話──しかもシリーズもので十冊ほどもある──なのだけれど、これが信じられないほどつまらない。
加えて一冊一冊が無駄に分厚く、読書人のやる気を削ぐこと請け合いだった。
読んでいる最中に悪い意味で溜息を吐いた回数は、紅魔館に来てからの最大記録を更新しただろう。
そんなつまらないシリーズでも最後まで読んでしまうのは、本好きの性ではなく、ただの私の性格だ。
一度始めた事は、最後までやり通さねば気が済まない。
最終巻の一つ前を読み終えやきもきしていると、紅魔館の鐘が日の入りを知らせた。
もうこんな時間か。
この鐘の音を境に、紅魔館の一日が始まる。
給仕係は鐘が鳴る前に起きて晩餐の支度をする必要があるが、レミィや私を始めとする、いわゆる「高等遊民」の類は通常この時間に起きる。
睡眠は別に摂らなくてもいいのだが、睡眠は気持ちいい。
私は時たまそういう常識を無視して、昼を徹して本を読むことがあるため、毎日規則正しくこの時間に起きるのはレミィと小悪魔くらいだ。
それが証拠に、鐘がなった直後に小悪魔が図書館に現れた。
「おはようございます」
「おはよう、小悪魔」
小悪魔は私の姿を見て事情を察したのか、何も言わずにお湯を沸かし始めた。
この図書館には、受付に給湯器が備え付けられている。
図書館という聖域で蒸気を発するという行為は、資料の保存という観点から見ると禁忌ともいうべき暗愚な行動であるが、私にとって紅茶のない読書ほどつまらないものはない。
あれこれ試行錯誤した挙句、定期的に湿度を一定に保つ魔法を使用する事で、禁忌は禁忌でなくなった。
ヤカンが音を鳴らすと同時に、天井のスピーカーが突然大声を上げた。
『フランドール様が脱走しました。三人一組で捜索してください。繰り返します──』
新人メイドの必死な声が、静謐であるはずの図書館に響き渡る。
小悪魔は放送を気に止めず、まず火を止めた。
「扉、開けてきますね」
それから図書館の出入口に駆けていって、扉を全開にした。カランカラン、と音が鳴る。
これで、ここ閲覧席から廊下のつきあたりまでを一望できる。
フランは、少々厄介な性格をしている。
精神的に不安定になっているときは、時々周囲の物を無作為に破壊するのだ。
どうしてああいう性格になったのかは分からない。関わろうと思ったことはない。
小悪魔が扉を全開にしたのは、廊下にいるフランを視認した時、すぐさま臨戦態勢に入れるようにするためだ。
「久しぶりね」
「そうですね」
ここ半年ほど、フランの捜索が指示されることはなかった。全員の気が緩んでいなければいいのだが。
放送が終わり、身構える事もないだろうと読書して待機していると、何やら状況がおかしい事に気づいた。
数分が経過しても、弾幕ごっこ特有の爆音が聴こえない上に、フランが戻ってくる気配がないのだ。
通常、放送が入った後に、すぐ誰かがフランと遭遇して戦闘に入るか、もしくは部屋に誘導する。
しかし、今回はそれがない。十分、十五分と時間が過ぎていく。
小悪魔の顔からも不安の色が隠せなくなってきた。
紅茶を二杯作ったが、お互いに口をつけていない。
二十分が経とうかというところで、廊下のつきあたりから俄にレミィと新人メイドが現れた。
この新人メイドを目にするのは、レミィが「運命を操る程度の能力」で彼女の運命を変えて以来だ。
齢十五前後といったところか。これほど怜悧な顔はかつて見たことがない。
が、最近は激務が祟ってか少し不健康そうだ。
一方レミィは、怒りながら苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
どうやら、何か問題を解決しなければならないらしい。仕方なく本を閉じる。
レミィは図書館に入るなり、私の対面に座って本題に入った。
「パチェ、厄介なことになった」
「話して」
雰囲気から察するに、どうやらかなり面倒な事らしい。
「フランが消えた。館のどこにもいない」
「……ふぅん」
珍しいこともあるものだ。
あのひきこもりで自閉症のフランが、傲慢の権化のレミィに反旗を翻すとは。
「幻想郷に出るのは危険だと説明してあるから、外に出ているとは考え辛い。多分館内のどこかに隠れてる。今から総出で捜索する」
「そうね、それもいいけど──」
幻想郷での私たち紅魔館の知名度は、ほぼゼロといっていい。
道行く人妖に「紅魔館はどこですか」と訪ねても、誰も答えられないだろう。
当たり前だが紅魔館は「ここは紅魔館です」と宣伝活動しているわけではないし、「異変」とやらを起こしたこともないのだ。
要するに、その幻想郷で逃げまわるのはリスクが大きすぎる。
仮に紅魔館にいた者が幻想郷に出て行ったとして、誰が宿を提供してくれるだろうか?
……しかし、万が一という場合もある。
まして、相手はフランだ。
一瞬の気の迷いということも充分考えられる。
レミィもその可能性を考えて私のところにやってきたのだろう。
「レミィ、傘はある?」
「傘?」
「吸血鬼の生命線でしょう」
「……咲夜、数を確認しろ」
「はい」
言うなり、十六夜咲夜──ようやく名前を思い出した──の姿が消える。
時間を止める、もしくは進める能力。
彼女が一週間前にここを襲撃したとき、私たちが散々苦しめられた能力だ。
一秒もしないうちに咲夜は姿を現した。心なしか顔が青白い。
「お嬢様……」
咲夜はそこで言葉を詰まらせた。
……これは、まずい。
「なんだよ」
レミィの表情から苛立ちが隠せなくなっている。
レミィにとっては今、一分一秒が惜しいのだ。
私は密かに、レミィの座っている椅子の下に魔方陣を敷いた。
咲夜は今にも倒れそうな顔で、言葉を搾り出した。
「傘が、置かれている場所を、教えてください」
とたん、レミィが座っていた椅子がけたたましい音を立てて倒れた。
レミィの目が見開かれ、吸血鬼の牙が剥かれる。
その眼光が獲物を捉えると、相手は恐怖で体が硬直した。
爪が伸び、今にも相手を食いちぎらんと飛びかかった時、私は右手で指を鳴らした。
刹那、足元の魔方陣が分裂、レミィの体を貫通し、手足と首を拘束する。
空中で止まったレミィの爪は、すんでのところで咲夜に届かない。
さてその咲夜は、畏怖と驚愕で顔を引き攣らせ、その場にへたり込んでしまった。
顔は蒼白を通り越し、完全な白となっていた。
全身がガクガクと震えている。
小悪魔は、何事も無いかのように相好を崩したまま咲夜の隣に直立していた。
「──!」
レミィの首がこちらを向いた。目が紅く燃えている。怒りの矛先が私に向いている。
「レミィ、落ち着いて」
「──! ──!」
ここで怒ってはダメ。
睨みを返して、レミィを諭す。
アイコンタクトが伝わったのか、レミィの眼光が少しずつ変わっていった。
「落ち着いて。目を閉じて、深呼吸して」
「……」
レミィは言われたとおりに目をしっかりと瞑り、深呼吸を繰り返した。
伸びた爪が、毎秒数センチずつ元に戻っていく。
もう一度目を開けた時には、瞳孔の開き具合が平静のそれと同じになっていた。
魔方陣を消す。レミィの足が地についた。
「悪い」
「傘の在り処は?」
「私の部屋。クローゼットの隣」
「だそうよ、咲夜。行けそう?」
「あ……は、はい」
咲夜はゆっくりと立ち上がると、震えを消せないまま姿を消し、その後コンマ数秒で現れた。
レミィは大きく息を吐いて、倒れていない方の椅子に座り、咲夜に尋ねる。
「どうだった」
「十二本です」
「……クソ」
レミィは、僅かに牙を見せた。
……ふむ。
いつものレミィなら、まずフランに対して激怒するはずだ。
眉間に皺が寄る程度では済まない。
罵詈雑言を吐き散らし、壊さない程度にテーブルを殴る。
それがないということは、レミィとフランの間になんらかのトラブルがあり、レミィに非があったとみて間違いない。
「あまり考えたくなかったシナリオね」
レミィは答えない。額に指を当てて考えに耽り始めた。
ここは知識人として助言してやろう。
「大丈夫。なんとかなるわよ」
「そうなる運命なのは分かる」
「一応、幻想郷にも警察みたいな自治組織があるって書いてあったわ」
「……何に?」
「三十年くらい前の文献」
「役に立つのか、そんなもん」
「ないよりましでしょう。とにかくあなたはこの紅魔館の代表なんだから、出向いておいたら?」
「……そうだな」
私は幻想郷の古い資料からおおよその住所を割り出し、レミィに渡した。
「多分ここにあるはずよ」
「なかったらどうする」
「誰か適当な人に聞きなさい。くれぐれも襲っちゃダメよ」
「腹が減ってるわけじゃない」
「ジョークよ」
「ジョークと分からない冗談はジョークじゃない」
「念のため画材道具一式、持っていったら?」
絵画に関する技術ならレミィはそこいらの画家には負けない。
似顔絵を作るのに役立つだろう。
「そうしよう。咲夜」
「は、はい」
「画材道具は私の部屋の隣。アトリエ」
「かしこまりました」
途端、咲夜の姿が消え、あっと言う間もなく現れた時には画材道具がその腕に抱えられていた。
今度は粗相をしなかったようで、私は心の中で安堵の息を吐いた。
画材道具を受け取りながら、レミィが言う。
「私ひとりで行く。咲夜はここに残ってろ」
「かしこまりました」
「それとパチェ、フランの足取りを頼む」
「分かったわ」
「期待してるよ、二人とも」
レミィの拳が、咲夜と私の胸を突いた。咲夜は、少しだけよろめいた。
ひとしきり準備を終えると、レミィは館のメイドたち、及び門番に見送られて人里へと赴いていった。
レミィの姿が見えなくなったとたん、メイドたちの緊張の糸がぷっつりと切れ、陽気な声がラウンジを支配する。
「疲れたー」「まだご飯食べてないよー」「休もう休もう」「ジュース飲みたーい」
などの声が上がる中、咲夜が弱々しい声で一喝した。
「み、みなさん、お二人はいつ帰ってくるか分かりません。特にフラン様は、憔悴して、帰ってくるということも考えられます。ですので、その、いつでも受け入れられるように、気を緩めないで下さい」
とたんに妖精メイドたちからブーイングが上がる。
「えー」「やだー」「フラン様の世話したくなーい」と批難の声が方々から発せられ、雰囲気は一気に倦怠感一色になった。
無理もない。
フランの世話は、普通の感覚を持っている者なら御免被りたいだろう。
心を閉ざしているせいで何を話せばいいか分からないし、近くにいるだけで空気が重くなる。
咲夜は依然として説得を続けているが、ブーイングの嵐はやまない。
やれやれ。「メイド長」という肩書きは、まだ咲夜には重いらしい。
ここは一言力添えしてやろう。
「はいはい、みんな」
私は手を何度か叩き、全員の注目を集めた。
ブーイングが止まる。
「あと少しの辛抱だから。
具体的に言うと、そうねえ……今日中には終わると思うわ。
それに普段と違うことをするわけじゃないんだから、我慢しなさい」
「ど、どうかお願いします」
咲夜が深々と頭を下げる。
私の説得と咲夜の懇願の甲斐あってか、妖精メイドたちはぶうぶう言いながら持ち場に戻っていった。
「パチュリー様、その」
「礼ならいらないわ」
「……はい」
咲夜はまだ、紅魔館のメンバーから信頼というものを得ていない。
むしろ、疎ましく思われている節すらある。
なにせ突然紅魔館を襲撃した癖に「メイド長」という称号を得ているのだ。
昔からこの館に使えている連中が嫉妬心を抱いても不思議はない。
また、たとえその能力がどんなに優れていても、器が小さければ意味はない。
その点、「ヴァンパイアハンター」という肩書きはよく似合っていたが、もう関係ない。
今あるのは、「この館の唯一の人間として生き残れるのかどうか」だ。
レミィがぶつけた怒りも、手を差し伸べようとしなかった小悪魔も、不平ばかり並び立てる妖精メイドたちも、全て咲夜にとっての試練に他ならない。
「メイド長」という肩書きが本当に似つかわしいかどうかを、紅魔館のメンバーがストレスを与えることによって確かめているのだ。
私は……どうだろう。
相談を持ちかけられたら力になってやろう、とは思っている。
……さて。心なしか、沈黙が気まずい。
そろそろ行こうかと踵を返しかけたところで、咲夜に声をかけられた。
「あの、パチュリー様」
「何?」
「……どうして、今日中に終わると分かるんですか」
……ふふふ。
馬鹿ね。
「レミィが寝たら話すわ。あなたも持ち場に戻りなさい」
「……はい」
咲夜は目を伏せた後、姿を消した。時間を止めたのだろう。
この感覚に慣れるにはもう少し時間が必要だ。
メイドたちが働いているのを確認して、玄関から図書館に戻ると、紅茶が飲みかけのまま放置されていた。
すっかり忘れていた。
触ってみると、完全に冷めている。
躊躇なく捨てた。
3 二日目
まず、フランの足取りを追わなければならない。
その手掛かりを掴むため、私と小悪魔は地下一階の踊り場の前に立っていた。
秘密の扉の側ではない。
ブリキの缶を開け、紅い絨毯に銀色の粉を振り撒いた。
一部粉が積もってやや山なりになってしまったが、まあいい。
次に、魔方陣を敷く。
左手をかざして念じると、五芒星を環状に囲んだ魔方陣が、踊り場の縁ぎりぎりまで広がった。
準備は整った。
唱える。
「Mercury,Track」
途端、魔方陣がビリヤードの玉のように四散した。
小さな魔方陣が押しつ押されつを繰り返し、ほとんどは残り、いくつかは消滅する。
残った魔方陣の上に、銀色の粉が尺取虫のように踊り歩いて行く。
それらが無事に足跡をかたどると、魔方陣は役目を終えて消えていった。
足跡型の銀色だけが残る。
一見繁雑としていてよく分からないが、目を凝らしてしっかりと把握しようとすると、その行程が整然としてきた。
革靴の足跡が一往復半と、ハイヒールの足跡が三往復。
革靴の足跡はフランのもので、ハイヒールの足跡は咲夜のものだろう。
「Mercury,Track」は、足跡や掌紋、応用すれば指紋を浮かび上がらせる事ができる魔法だ。
魔法の力加減によってはえらい数の跡が浮かび上がるため、今は半日程度前までのものが浮かび上がるようにしている。
「何らかの物質に反応して浮かび上がる」という魔法ではなく、「物と物が触れ合った」という概念に対して発動する魔法なので、指紋と足跡、足跡と掌紋といった、あらゆる組み合わせの痕跡を同時に浮かび上がらせる事ができる。
足取りを追えるため、失くし物等を思い出す際に重宝している。
「こんなものでしょう」
ブリキの缶を叩くと、底に設置された翡翠色の石がきらめいた。
銀色の足跡が浮いていき、しだいに一筋の帯となって缶の中に収まっていく。
絨毯から痕跡がなくなったのを確認して、私は缶の蓋を閉じた。
「じゃ、部屋を調べましょう」
「えっ」
「何?」
「玄関の方向じゃないんですか?」
妥当な意見だ。
いつもの私なら、部屋の前から玄関、ひいては門まで「Mercury,Track」を使うだろう。
だが、今回は例外だ。
「小悪魔、今日の事件は『いつも』の範疇に入るような事件じゃないわ」
「なら、なおさらじゃ」
「首を突っ込まない方がいいこともあるの。これ以上の質問は禁止」
「はぁ。分かりました」
素直であることはいいことだ。調査を進める。
私たちは地下二階に降り、ワインレッドの廊下を進んでいった。
進むにつれて、壁の傷跡が現れていく。ワインレッドが剥がされ、コンクリートがむきだしになったいる。
情緒不安定になったフランが残した、古傷の数々だ。
数十秒は歩いたところで、私たちは歩みを止めた。
ぼろぼろになった唐草模様の扉の前に立ち、ノブを回す。
手応えがある。ありすぎる。
「鍵、閉まってるわ」
「……」
咲夜は毎晩、寝起きのフランに夕食を運ぶ係、らしい。
見聞きしたわけではないが、おおよその見当はつく。
夕食を運ぶ際、部屋の鍵を開け、夕食を置いた後、退室する。その際に外側から鍵を掛ける。
今晩、フランがいないのを確認した後、つい癖で鍵を掛けてしまったのだろう。
フランの部屋に設置されている扉は、鍵が壊れていて外側からしか開閉ができないようになっている。
つまり、フランの部屋の鍵をかけておくためには、外側から鍵を掛ける必要があるのだ。
「悪いけど、咲夜を呼んでもらえる?」
小悪魔が、一瞬だけ顔をしかめた。
避けていた人にばったりと出会ってしまったような、そんな顔だ。
「……念力を使えば、開けられると思うのですが」
「『Sun,Visible』を使うからダメよ。
それに咲夜は『秘密の扉』のことを知ってても、見たことはないでしょう。
いい機会だわ、見せてあげましょう。聞きたいこともあるし」
「……分かりました。呼んできます」
やや重い足取りで、小悪魔は去っていった。
手持ち無沙汰になり、フランの部屋の扉と向きあう。
強固な扉。大の大人が数人掛かりで体当たりしても、壊れることはないだろう。
まるでその扉が、私たちとフランとの距離を象徴しているかに思える。
私は、フランと会話したことはあまりない。
だが、フランとレミィには、昔から何か引っかかるところがあった。
今回の事件は、その引っかかりが鍵を握っているような、そんな気がする。
何しろ、あの姉妹間の問題に突っ込むのは初めてなのだ。
出会ったときの事を思い出せば、何か手掛かりがあるかもしれない。
その正体を探るべく、私は思考を深く潜らせた──。
4 十年前 三月
十年ほど前のことになる。
私は当時、魔法使い界隈で最上位の成績を収めていた。
最近少数派になってきた生粋の魔女ということもあってか、その能力と知識は種族内としては申し分なかったと自負している。
戦闘演習では百戦錬磨の腕を持ち、研究や医療といった分野でも群を抜いていた。
確か、一段下の魔法使いと、かなりの差を付けていたと思う。
そんな力を持っておきながら、私には魔法を使って新たな魔法使いを育成しようという、崇高な精神などはなかった。
私にあったのは、知識欲と、問題を解決する快感のみだった。
ひたすら本を買い、読み、売り、読み、借り、読み、時には捨て、また手に入れる。
そうして誰にも邪魔されずに読んでいった、膨大な活字の中で、気に入った知識の数々。
それを紙という媒体に、再び書き留めていき、誰かが問題を持ってくればその知識をもって解決してやる。その快感が、好きだった。
本の傍に在る者こそ自分。そんな標榜を誰に見せるでもなく掲げ始めた、ある年のことだ。
暑くもなく、寒くもない春の夜だったと記憶している。
私はいつもそうしているように紅茶を淹れ、蒸気を除去する魔法を放ち、読書に没頭していた。
冷め切った紅茶を飲み干し、二杯目を注ごうと立ち上がった時に、玄関のベルが鳴った。
誰だろう。
時々本を借りに来たり、貸しに来たりする人物は、大抵アポイントメントを入れてから来る。
突然郵便を送ってくるような友人はいなかった。何かを注文した覚えもない。
強盗でも来たのだろうか。過去に何度かそういう事があった。
扉の前に無音で移動し、そっとレンズを覗く。
どんな巨漢が待ち構えているのかと思えば、映っているのは小さな、蒼紫をした頭髪と、それを包む薄紅の帽子だった。
疑惑の念は膨らんでいく。強盗ではなさそうだが、暗殺者でないという証拠はない。
私を殺そうとするような、酔狂な輩はいないだろうが。
もう一度、ベルが鳴らされる。
私は、ひらりと扉の低位値を撫でた。
撫でた部分が、雨の日に曇ったガラスが一度撫でれば透けるように、黒から透明になっていく。
その部分に向かい合うように腰を屈める。
布の擦れる小さな音が、玄関に響いた。
立っているのは、齢十にも満たないような見かけをした少女だった。
眉間に皺を寄せていて、きりりとした紅い瞳をしている。珍しい色もあるものだ。
「おい、そこにいるんだろう」
少女の口から放たれるには相応しくない、粗雑な言葉が発せられた。
「答えろよ。待たされるのは嫌いなんだ。ここを開けろ」
……うわあ。
私はコミュニケーションという物を排除してきたとはいえ、数々の人間──またはそれに近い何か──に会ってきた。
その経験からして、この少女は、稀に見る高慢稚気な性格だ。
たったふた言と外見でそこまで悟ることになるとは思わなかった。
ともあれ、このように話しかけてくるという事は、敵意はないらしい。
姿勢を元に戻し、ゆっくりと扉を開ける。
必然的に、こちらが見下ろすことになる。少女はこちらをキッと睨んだ。
私は極力微笑を崩さないように話しかける。
「どちら様? 迷子なら街まで届けてあげるけど」
私はジョークのつもりで言ったのだが、少女はそうは取らなかったらしい。
数瞬の間歯ぎしりをして、睨みをいっそう強くした。
少女の目線より、随分大きな犬歯が気になった。
その口が開く。
「迷子じゃない」
「ジョークよ」
少女の呼吸を遮り、私はにやりと笑ってみせた。
少女は一拍、呆けた顔をしたが、すぐに苛立った表情に戻り、その後意外な行動に出た。
羽を広げたのだ。
これには少しだけ驚いた。私は隠すことなく表情を変えたと思う。
人外である予感がしていたとはいえ。
「ジョークと分からない冗談はジョークじゃない」
少女の声は、明らかに感情的になっていた。
さっさと本題に入らせろ、ということらしい。
「ごめんなさいね。本題に入るより、まずは中に入って頂戴」
「ふん」
通れるように私が脇に寄ると、少女はコウモリのような羽を器用に折り畳み、傘立てに持ち前の傘を立てかけ、ずかずかと侵入した後、リビングの椅子にどっかりと腰掛けた。
紅茶を準備する間、時計のカチカチという音が双方を支配する。
紅茶が出来上がって目の前に出してやると、私が座るのも待たずに口につけた。
特に顔をしかめたわけでもないが、満足したという表情でもない。次第点といったところか。
「私はレミリア・スカーレット」
朴訥と告げられる。
「吸血鬼だ」
「……吸血鬼? あなたが?」
「ああ。なんなら血を吸ってやってもいい。魔女の血はどんな味がするんだ?」
「お断りするわ、貧血気味だし。それに、きっと美味しくない」
レミリアは、先程の短い折衝がなかったように、諧謔的に笑った。
自分のジョークに関しては寛容らしい。私も微笑を返す。
この少女が、吸血鬼。ねえ。
面白いこともあるものだ。
紹介してきたからには、こちらも自己紹介せねばなるまい。
「私は、パチュリー・ノーレッジ。わざわざ訪ねてきてくれたのなら、紹介するまでもないかもしれないけど、よろしくね」
「よろしく。お前とは仲良くなれそうな気がするよ。ジョーク以外に関しては」
それは少々残念だ。
レミリアが手を差し出してくる。
爪が長かったので握ったら大変なことになるんじゃないかと思ったが、その爪はすぐに縮んだ。
よく見ると、人差し指に一筋の小さな古傷がある。吸血鬼でも傷跡は残るらしい。
手を握り返すと、意外と少し熱かった。
「それで、何の用かしら?」
「提案をしに来た」
「提案? 交渉じゃなくて?」
「そう、提案だ。パチュリー。パチュリー・ノーレッジ。私の館に住まないか」
二、三度瞬きをしたことをよく覚えている。
何を言っているんだこいつは、と思ったこともよく覚えている。
「えーと」
「無論、お前の噂も聞いている。本の虫だそうだな。安心しろ、うちには図書館がある!」
「……それは、愉快ね」
なんとか苦笑を作る。
そうそう信じ込める話ではなかった。
書斎がある館というのは聞いたことがあるが、図書館がある館というのは聞いたことがない。
しかし、嘘を言っているとは思えない。
レミリアの熱弁は続く。
「だろう!? 世界各国の小説や文学作品を取り揃えているんだ! 評論や魔術書の数は、期待に答えられそうにないかもしれない。だが! 小説の数ならザンクト・ガレン修道院にも負けない蔵書数だ! 有能な司書もいる! 欲しい本があったら何でも取り寄せよう! 本棚の拡張だってする!」
吸血鬼が軽々と「修道院」という言葉を口にするのはどうかと思ったが、それはそれ。
ザンクト・ガレン修道院は、世界でも有数の蔵書数を誇る。確か十六万冊だ。
その名を本の虫である私に対して口にするということは──いくらか誇張が入っているとはいえ──、相当蔵書数に自信があるのだろう。
一つ、聞いていないことがある。
「……どうして私を?」
「理由が必要か?」
「いいえ」
……まあ、いいか。
もう肝は座っていた。
なぜだかは分からないが、私はレミリアに、星を、えにしを、運命を感じていたのだ。
図書館の蔵書も、有能な司書とやらも関係ない。
その後数日の間に、魔法使い界隈で送別会が開かれたが、もはや誰の顔も覚えていない。
5 十年前 四月
その後のある日のことだ。
正確な日付ははっきりしないが、紅魔館に移ってから、一ヶ月ほどが経過していたと思う。
レミリアに貰った図書館は、なかなか快適だった。
正確には、次から次へと快適になっていった。
「紅茶が欲しい」と言えば翌日には給湯器が備え付けられ、「閲覧席の椅子を替えて」と言えば二日後にはどこかの社長が座りそうな椅子になった。「稀覯本が欲しい」と言えば三日で仕入れられ、「研究室が欲しい」と言えば一週間で図書館の隣に建てられた。
家にあった蔵書は、全て図書館に移した。
自分で揃えた本を全て本棚に入れても、なお容量に余裕がある。
加えて、図書館にある小説は読んでいないものの方が多かった。
もっと読まねば。この図書館にある本を全て読まねば。
そうした得体のしれない焦燥感のようなものにかられ、私はその日も読書に耽っていた。
「パチュリー様、お昼ですけど、どうなさいますか」
日本に来たことだからとニンジャの話を読んでいると、図書館の司書、小悪魔が聞いてきた。
少し考え、答える。
「読み終えたら食べるわ」
そう答えると、小悪魔はぷっと吹き出した。
当たり前だ。五百ページあるうちの、まだ半分も読んでいない。
読み終えるのにはあと三、四時間かかる。
「パチュリー様、本当に本が好きなんですね。私より本好きな方、初めて見ました」
「『本の傍に在る者こそ私』よ。異論は認めないわ」
「ふふっ、そうですね。でも、もう少し二つ名のランクを上げてもいいと思います」
「例えば?」
「うーん、そうですねえ……司書よりも上ですから、『図書館』そのものが含まれてるといい、ですね」
「ふぅん」
「ですから……えーと……『動かない大図書館』、なんてどうでしょう?」
「お好きにどうぞ」
「もー、もうちょっとリアクションしてくださいよー」
小悪魔が肩をゆする。ええい、読書に集中できない。
お互い本好きということもあってか、こういうやりとりを繰り返しているうちに、ギクシャクしていた空気はだいぶほぐれてきていた。
「わかった、わかったから」
「感想! 感想!」
「お昼、食べに行くから」
「ええっ!? 『動かない大図書館』へのアンチテーゼですか!?」
「私なりのジョークよ」
そういうと、小悪魔は口元をひくつかせた。
……うーん、まだまだユーモアセンスを磨く必要がありそうだ。
と、一人反省していたら、よく見るとその笑いは私に向けられていたものではなかった。
視線の先を辿ってみると、私の後ろ、遠く離れた本棚の前で、見知らぬ顔が呆然とこちらを見ている。
目を向けられた少女は、やがてパクパクと口を動かし始めた。
「……だ、あ、あ」
華奢な体の小刻みな震えに合わせて、黄金色の髪と羽が輝く。それらはまるで宝石のよう。
「あなた、誰っ!?」
長い爪。小さな背。薄紅の帽子。そして、紅い瞳。
彼女が、フランドールか。
私はフランドールに、小悪魔のそれよりはいくらか自然な笑みを投げかけた。
「はじめまして。私はパチュリー・ノーレッジ。
一ヶ月ほど前からここに住むことになったの」
フランドールに関してのおおまかな情報や噂は聞いていた。
レミリアの妹。ひきこもりで、他者を寄せ付けない崩れかけの精神を持つ。
気分が荒れると「ありとあらゆるものを破壊する程度の能力」を行使し、周りの物質及び建造物を破壊する。何が引き金になるか分からない。
故に、館の誰もが彼女を忌避している。
「え……? あ、えと……」
フランドールは両手を自らの胸の前に持ってきて、視線を彷徨わせた。
「よ、よろしく……」
その声はか弱く、耳まで届かなかったと記憶している。
だが、私にはなんと言っているか理解できた。
本を置いて立ち上がり、私はフランドールに歩み寄る。
椅子が動く音がしたせいか、フランドールは私が迫っているのに気づいたようだ。
畏怖と驚愕で顔を引き攣らせ、私と目を合わせる。
一歩、二歩と近づいていくうちに、フランドールも後退していく。やがてフランドールの背に本棚が迫り、密着した。
私が手を伸ばしても、僅かに届かない距離。
そんな近そうで遠い距離で、私は手を差し出した。
「握手」
「──え?」
「握手しましょう」
「あ、う、うん……」
フランドールも、恐る恐る手を差し出してきた。伸びていた爪が縮む。
その時、私は確かに見た。
フランドールの人差し指にも、一筋の古傷があった。
私は特に驚きもしなかった。
まるで別物の髪。共通点の欠片もない羽。そして、人差し指に共通する一筋の古傷。
レミリアとフランドールは、義姉妹だ。
6 二日目
どこの地域かは忘れたが、お互いに人差し指を傷つけた後、その傷口同士を擦り合わせて、「血を混ぜた」、つまり「きょうだいになった」ということにする風習がある。
「レミリアに妹がいる」ということを聞いたときにまさかとは思ったが、そのまさかとみて間違いなさそうだった。なにしろ、似ている要素があまりない。
それから、私とフランは何度か図書館で顔を合わせた。
とはいえ、フランは十冊前後の本をまとめて部屋に持っていく癖がある。
それらを自室で読むせいか、めったに図書館に顔を出さず、顔を合わせても交わす言葉は少ない。「秘密の扉」を使っているせいで、一度も顔を合わせないことすらある。
最後に見たのは二、三日前だったか。
何を話したかな。確か、太陽の光はどんなものなのか、という話だったような。
とにかく、あの姉妹に何らかの確執があったのは間違いない。
所詮は義姉妹、その程度の仲だ。
血の繋がっていない近親者の仲が良い事など、ありはしない。
それに、時の流れは全てを解きほぐす。
それは魔力をも凌駕する神秘的な力であり、魔女である私すら干渉できない絶対の真理だ。
この問題も、時が解決する類のもの。
今更私が介入する必要はないだろう。
それにしても、レミィはどうして、私を紅魔館に誘ったんだろうか?
ぼかしたというわけではなさそうだったが、どうも釈然としないものがある。
それに、レミィがフランの事を私に説明しなかったのも変だ。
あれこれ思考を巡らせていたが、そのさなかに小悪魔が咲夜を引き連れて戻ってきた。
結局明確な答えは出ずじまいだ。
「パチュリー様、お待たせしました」
咲夜の手には、しっかり鍵の束が握られていた。
実を言えば、鍵なんて必要ないのだけれど。
「どうもね。それじゃ、踏み込みましょうか。
でも、その前に、調べておくことは調べておかないとね」
返事を待たずに、私は左手を振り開き、その宙に炎を生んだ。
次に、右手からポコポコと黒い魔方陣を出す。
次々と現れるそれらは、生まれたての水蒸気のごとく大きくなっていき、光を遮っていくように炎を覆っていった。
やがて光の漏れがなくなると、もはや炎の面影はなく、ツヤを消した黒い石のようになっていた。
唱える。
「Sun,Visible」
魔方陣の塊の方は、何の変化もない。
その代わり、扉の鍵穴とその周辺が、ぼんやりと群青色に光った。
咲夜が疑問を呈する。
「あの、パチュリー様、これは……」
「『魔法が使われた場所と種類を視認する魔法』、いわゆる『対抗魔術』よ」
魔法と科学は、兄弟だ。
魔法を使えば、あらゆる事ができる。例えば、窃盗や殺人といった物騒なものでも。
ただし、必ず痕跡は残る。血が滴ればルミノール反応が出るように。
そして、「Sun,Visible」にかかれば、そういった痕跡を根こそぎ炙り出すことができる。
今は、二十四時間以内のものが浮き上がるように出力を調整している。
再び咲夜が疑問をぶつける。
「ということは、この鍵穴に魔法が使われたということですか」
「そう。そして使われた場所が青いということは、使われた魔法は念力とみて間違いない」
「念力……」
「そう。念力。サイコキネシス。
フランは、念力を使ってこの扉を開け、出て行ったんでしょうね。
さ、入るわよ。鍵、開けて」
「……はい」
扉が開いた。
部屋の明かりはついたままだ。
ざっと見渡してみたが、これといって荒れた様子はない。
純白のベッドがあり、化粧台がある。
古めかしい椅子とテーブルの上には、ぴかぴかのティーセットがあり、本が一冊横たわっている。ブックカバーがかけられているせいで、中身は何か分からない。
崩れかけのシャンデリアは絶妙なバランスで形を維持しており、壁には修繕された後がいくつもあった。
「手掛かりはなさそうね」
「Sun,Visible」の出力を強くしてみたが、扉以外に魔法が使われたような跡はなかった。
「あの、パチュリー様……」
「何? 咲夜」
「フラン様の足取りを、追っているんですよね」
「そうね」
「どうして、部屋を調べるんですか」
「フランの居場所を握る鍵はこの部屋にあるからよ」
「──なぜ、そう思われるのですか」
「秘密」
咲夜が口を開きかけたが、無視して部屋の奥に進む。
一つ目の扉を開く。この扉には鍵はない。
奥の扉の先はアトリエだ。
ここで描かれた絵画が館内に飾られたり、時には外の世界で売られたりする。
結構な値段になっているらしい。
アトリエにも、特に異常はなかった。
絵の具の跡が、テーブルをはじめとするあちこちにあり、石膏像がいくつか置かれている。
汚れきったエプロンがあり、デッサン人形は直立していた。
いたって普通のアトリエだ。
魔法が使われた形跡もない。
浴室は……まあ見なくてもいいだろう。
いよいよ最後の扉を開けようとしたところで、突然耳をつんざくベル音が鳴り始めた。
紅魔館の全ての部屋に設置されているスピーカーからだ。
すぐにベル音が止み、放送が入る。
門番、紅美鈴の朗らかな声が響いた。
『すみません、誤報でしたー。お騒がせしましたー』
やはりか。誤報はよくあることだ。
声を聞いて思い出したが、最近美鈴にマッサージをしてもらっていない。
あの「気を使う程度の能力」を使って色々なところを押してもらうと、全身がすっきり爽快する。この騒動が終わったら、頼んでみよう。
閑話休題。さっきのベルは何か。
紅魔館は、侵入者を迎撃するための簡単なシステムを持っている。
一定の手順を踏まずに門が開けられた場合や、何者かが塀の上空を通過した場合、先ほどのようにベルが鳴るようになっている。
紅魔館が作られた当初からあるらしいが、実際に役立ったのは咲夜が襲来した夜だけだ。
紅魔館に移住した際、レミィから真っ先に聞かされたのが、ヴァンパイアハンターの知識と対策、そして先ほどの紅魔館の非常ベルだった。
さて、捜査に戻ろう。
気を取りなおして、アトリエの奥の扉に向き直る。
「咲夜、この扉の先は見た?」
「はい。木の壁で塞がれていました」
「あの行き止まりが『秘密の扉』よ」
「……は」
実感が沸かないらしい。
まあ、初見では仕方がないだろう。
「見るのが早いわ。ついてきて」
「は、はい」
「Sun,Visible」を灯しながら、三人で暗い廊下を歩いて行く。
暗闇が支配する面積に対して、点々と続く燭台の明かりは、ひどく頼りない。
やがて階段を二つ登ると、焦げ茶色の木の壁が行く手を阻んだ。
木の壁は三箇所、群青色に光っている。
すると、小悪魔が言わなくてもいいことを呟いた。
「このルートも使ったんでしょうか?」
小悪魔が有能なのは認めよう。しかしそれは司書という仕事においてのみかもしれない。
私は振り返らずに人差し指と親指で輪を作り、そのまま手を横にスライドさせた。
二人には、今の動きは見えなかっただろう。
私はこの魔法を「緘口令」と呼んでいる。
今頃、小悪魔は口元に手を当てて、声が出ない事を実感しているはずだ。
「いや、フランは二、三日前に図書館に来たでしょう。恐らくその時の跡だわ」
ここにきて、私はようやく振り返った。
小悪魔は予想通り口元に手を当てていたが、すぐに何かを察したようで平静になった。
よろしい。
咲夜はまだ状況が飲み込めていないような顔をしている。説明が必要だ。
「説明しましょう。これは『秘密の扉』。
図書館に通じていて、図書館の側から見ると本棚になっているわ。
そして、その本棚から特定の三冊を順番に抜き取ってやると──」
青く光っているところを、順番にタッチしてやる。
実はこの「タッチする」という手順がなくても──というかいくつか魔法を併用すれば超遠距離からでも──、念力は使えるのだが、今回は分かりやすくするためにタッチした。
三回本が抜き取られる音がすると、木の壁が轟音を立てて前にスライドした。
そのあまりのスピードに、咲夜が「うぇ!?」と奇妙な声を上げた。
私は思わずにやけてしまう。
この扉を高スピードに改良したのは、何を隠そう私なのだ。音は消せなかったとはいえ。
「……驚きました」
「驚いてもらえて光栄ね。
ちなみにこの扉、フランが使う分にはレミィにも黙認されてるわ。
本がない生活なんて、死と同義だもの。
じゃ、事情聴取と洒落こみましょうか」
三人で図書館に踏み込む。
「秘密の扉」を元に戻す時、さりげなく「緘口令」を解除しておいた。
「Sun,Visible」も消した。
三人して閲覧席に座る。
「咲夜の座り方、フランにそっくりね」
「え?」
不意を突かれたように、きょとんとする咲夜。
「背、座るときだけ少し丸まってるわ」
「あ……し、失礼しました」
「いいのよ、座るときくらい。楽な姿勢でいなさい」
「……はい」
結局咲夜は背を丸めたまま両肘をついた。
「じゃあ、発見当時の状況を話してもらえる?」
「……はい」
声に元気がない。
この事情聴取が終わったら、そろそろ休憩を入れてやろう。
「定刻にフラン様の部屋に夕食を運んだのですが、ノックをしても返事がなくて……そのまま鍵を使って入っても、中にはフラン様はいませんでした。
アトリエと浴室も念の為に調べたのですが、誰もいなかったので、すぐに放送を入れました」
「質問をいいかしら。行きと帰り、どちらも歩いたのよね。
途中で宙に浮いたりはしなかった?」
咲夜はわずかに逡巡した。
やがて、覚悟を決めたように呟く。
「……飛んでいません」
「そう。どうもありがとう。聞きたいことは聞いたし、もう戻っていいわ」
「はい……」
おそらく、妖精メイドたちがサボっていた分働いたのだろう。
立ち上がる様子は、さながら幽鬼のようだ。
「戻る」は、「仕事に戻る」という意味じゃないのだけれど、勘違いされたらしい。
「ああいや待って。咲夜、部屋に戻って寝なさい」
「え……」
「あなた、今にも倒れそうな顔してるわ」
「しかし、仕事が」
「私がなんとかしておくから心配いしないで。
レミィが帰ってきたら呼んであげるから、それまでしっかり寝ておきなさい」
「分かりました──」
言うなり、咲夜の姿がフッと消えた。
今頃自室のベッドに倒れこんでいることだろう。
咲夜がいなくなったとたん、小悪魔がうーんと両腕を天に伸ばした。
「はぁ」と可愛らしい声を上げて腕を下ろすと、私に問う。
「パチュリー様、これからどうなされますか」
「うーん」
私にしかできないことはあるか。
ノー。小悪魔でも代用できる。
「本でも読んでるわ」
「そうですか。メイドたちへの指示はどうします?」
「いつもどおりに働くように言っておいて。
それと、レミィが帰ってきたら知らせてもらえる?」
「分かりました」
そういうと、小悪魔はメイドたちを叱咤すべく図書館を後にした。
さて、読書に専念させてもらおう。
7 三日目
戦闘機パイロットの話の最終巻を、ようやく読み終えた。
本を閉じ、時計に目を向けると、もう暁時が迫っている。
随分レミィの帰りが遅い。迷っているんだろうか。
そう煩悶として視線を扉に向けると、おもむろに扉が開いた。
開けたのは小悪魔だ。
「パチュリー様、レミリア様が戻られました」
「ご苦労様。今どこにいる?」
「自室に」
「そう。じゃあちょっと話してくるわ」
「いってらっしゃい」
本を置き、図書館を後にする。
さて、咲夜を呼んでやろうか。
窓際の廊下を歩いていると、妖精メイドたちとすれ違った。
ほとんどが眠そうな顔をしている。あくびをしている者も何人かいた。
咲夜の部屋に着き、ノックする。
「はい」という返事が返ってきた。
「パチュリーだけど」
「はい……少々お待ちください」
毛布が擦れ、クローゼットの開く音がする。
さて、どうレミィから話を引き出そうか。
いつもと事情が違うだけに、対処の仕方が掴めない。
具体的な方策を考えようとしたが、考え始める前に扉が開いた。
「お待たせしました」
まだ咲夜の顔色はよくない。中期療養が必要そうだ。
だが、口の端をしっかりと結び、目は覚悟じみたものを帯びている。
「行きましょうか」
レミィの部屋へ向けて、私が前に立って歩いて行く。
無言。なんとも言えない沈黙。
口を開くべきか否か。
聞こう。
「ねえ、咲夜」
「はい」
「あなた、運命が変わったのよね」
「はい」
レミィは、「運命を操る程度の能力」を持っている。
他人の運命を意図的に変えるというものではなく、近くにいると偶発的に運命が変わってしまうらしい。
その際にかなりの衝撃を伴うらしいが、私はまだ経験したことがない。
一方、咲夜は経験したことがあるらしい。
なんでもレミィと戦ったその晩に運命が変わったというのだから、運命というのはよく分からない。
いや、レミィ自体がよく分からないと言うべきか。
「どんな感覚なの?」
「そうですね、運命を変えられる前のことはよく覚えていないのですが……『今までの自分』が塗り替えられた、というか……」
「ふぅん……抽象的ね」
「すみません、お役に立てなくて」
「気にしないで」
その後、しばらく無言で歩く。
外に目をやると、空が宇宙色から紺色になろうとしていた。
規則正しく寝起きするレミィのためにも、手短に済ませてやろう──。
レミィの部屋の前に着き、ノックする。
「どうぞ」という剣呑な声がした。
入ると、レミィは一瞬咲夜に怪訝な表情を向けたが、すぐに表情を元に戻した。
「遅かったわね、レミィ。どこに行ってたのよ」
「ん、ああ……幻想郷を見て回ってた」
「この非常時に?」
「『見て回る』だと語弊があるか。フランを探してた」
「へぇ?」
レミィが、ねえ。
「首尾は?」
「見つからなかった」
「そう」
「そっちは?」
「多分見つかるわ」
「そうか」
沈黙。
咲夜に紅茶でも淹れてもらうべきかと考えていると、レミィが口を開いた。
「なあ、パチェ」
「何?」
「いや……なんでもない」
……さて、どうだか。
追及する必要がありそうだ。
「レミィ」
「何」
「隠してることがあるなら言って頂戴」
「隠してることって、なんだよ」
「昨日、いやもう一昨日かしら。フランと何かあったでしょ?」
再び、沈黙。
「あなたが隠し事してるようじゃ、私は力を貸せないわ」
レミィは、額に指を当てた。
考えている、のだろう。
今にして思えば、こうして姉妹間の問題に私が首を突っ込むのは初めてだ。
喧騒を聞いたことはあったが、私はことごとく無視してきた。
解決しろと頼まれなかったからだ。
「分かった。話すよ。少し長い話になる」
レミィはやがて、意を決したように強く目をつぶると、私に向き直った。
8 レミリアの独白
二百年ほど前になるか。
当時、ヨーロッパのヴァンパイアハンターに英雄ともいうべき強大な力を持つ奴がいた。
超能力を持っていたんだ。咲夜以上に強力な、対ヴァンパイア専用の能力を。
今はその能力を知るすべがない。何しろ、そいつに会った吸血鬼はみんな殺された。
おかしいよな。
世界をも征する力よりも、そっちの力を持っている方が、吸血鬼にとっては危険なんだ。
やがて、仲間が次々と消息を絶っていった。
焦ったよ。まだ幼い私ですら、ヨーロッパ中の吸血鬼は駆逐される運命だと分かった。
もう、ヨーロッパは駄目だった。
何がなんでも、吸血鬼は世界に散る必要があったんだ。
そうして、荷物をまとめて出て行こうとしたある日のことだ。
どの広場だったか、あるいは市場だったかは忘れたが……とにかく私はそこを通ろうとしていた。
そこで競りが行われていたんだ。
最初は流し目で、さっさと過ぎ去ろうとしたんだが……私は足を止めざるを得なかった。
売られていたのは、フランだったんだから。
ボロボロの服を着て、首輪を付けられて、商人が必死に何かを叫んでいた。
この綺麗な羽を持つ少女は吸血鬼なのですとか、この首輪がつけられている限りあなたの奴隷ですとか、そういうことを言っていた。
あの時は我が目を疑ったよ。しばらく呆然として、何の反応もできなかった。
深呼吸してもう一度よく見ると、本当に吸血鬼だということが分かった。
恐らく、どのヴァンパイアハンターかは分からないが、商売道具に使えると考えたんだろう。フランは綺麗だからな。下劣な奴らだよ、全く。
一瞬だけ、あの商人を殺してフランを奪おうとも思ったが、知っての通り私には吸血じゃあ人を殺せる程度の力を備えていない。
それに、たとえ他の手段を使ったとしても、下手に吸血鬼の痕跡を残せば、いつあのヴァンパイアハンターが追って来るか分からないからな。
あの時冷静な判断ができたのは、一生神に感謝してもしきれない。
私はすぐさま競りに全財産を投入して、フランを手に入れた。そうなる運命を選択した。
最高額を入札して首輪の鍵を奪い取ったら、すぐにその場を去った。
夢中で駆けて、森の中で野宿した。
宿代くらいは残しておくべきだったかとも思ったが、フランの顔を見てその考えは吹き飛んだ。
表情が、競りの時からまるで変わっていなかった。
目の焦点が合ってなくて、私が話しかけても何一つ答えなかった。
首輪を外していないことを思い出して、急いで外して、私が吸血鬼であることを説明しても、返事はなかった。
私が、この子を守らなきゃいけない。
質問を繰り返すうちに、そんな義務感がどこからともなく湧いてきた。
何を聞いても黙ってたんだが、「名前は?」と聞いたら一言、「フランドール」と返してくれた。
嬉しかったよ。まだ答える元気がある。そのことが分かっただけで、私はすごく安心できた。
その日はそのまま寝て、翌日から逃避行が始まった。
最初は不安で一杯だったんだが、少しづつヨーロッパから遠ざかり、そこいらで出会った旅人たちと酒を酌み交わしていくうちに、フランは少しづつ喋れるようになっていった。
色々な状況と接するうちに、笑顔も見せるようになってきた。
フランが笑ってると思うと、不思議と何でもできた。
私が笑うと、フランも笑った。フランが笑うと、私も笑った。
いつ吸血鬼とバレるかビクビクもしていたけど、あの時代は楽しかった。心の底から。
だが、平和は永遠じゃなかった。
不安が具現化しやがった。
モンゴルでのある夜のことだ。
さっき言ったのとは別のヴァンパイアハンターが、突然襲ってきた。
強かったよ。
近づけば剣が振るわれて、距離を取れば弾丸が襲ってきた。
プレートメイルには、爪も牙も無力化された。
最終的には拳銃を蹴飛ばしてから、右手で剣を握って、左手で首を締めた。
首が折れて、血が流れ始めてからも、私は首を絞めるのをやめなかった。
首と体が分離してから、ようやく膝をついた。
それから、フランの方を振り返った。
目が合ったとき、まずいと思ったよ。
フランの目は、初めて合った時とは違えど、すごく怯えていた。
怖かったんだろうな。
もし負けたら、また売り物にされるんじゃないか、そんな恐怖が蘇ったんだろう。
私は四つん這いで、右手に剣を握ったままフランに近づいた。
一歩一歩が、すごく長かった。
フランに手が届くようになったら、フランの右手を取って、剣で人差し指に軽い傷をつけて……私の手の傷口と合わせた。
「大丈夫。これから、私たちは姉妹だ。私が姉で、フランが妹。どんな奴が来ても、私が守ってみせる。安心しろ」
息は切れ切れで、しかもクサい台詞だったが、フランは頷いてくれたよ。
それから、日陰に移動して、フランを抱きしめたまま眠った。
体制を整えた後、このままじゃまずいと思った。
フランの怯えは止まらなかったんだ。
外出もままならなくなって、一日に一つの町を移動するのがやっとだった。
とにかく、フランを安心させなきゃいけない。
そのためには、襲撃者を跳ね返す戦力と、語り合える仲間を増やす必要があった。
中国に入って、使えそうな奴を探したよ。
結果、集まったのが、美鈴と小悪魔だ。
美鈴は有力な護衛として、小悪魔は本の話で気を紛らわせる相手として、仲間に誘った。
それから、ヴァンパイアハンターにも見つからないような場所を探して、幻想郷の存在に行き当たった。
必死で日本を彷徨っていると、いつの間にか幻想郷に入ってた。
お前が来る少し前、つい最近のことだ。
ここは恐らく世界一安全な場所だ、そう直感したよ。
定住することを決めて、紅魔館を建設した。
フランが退屈しないように、図書館も作った。
万が一誰かが侵入したりしないように、外壁と門を設置した。
いつでも快適に過ごせるように、メイドたちも雇った。
パチェをここに招いたのも、フランの話し相手を増やすため。
小悪魔相手じゃ、話ができないらしいと耳に挟んだからな。
それに、いざという時の戦闘力としても、フランが病気にかかった時に対処できる存在としても、パチェは申し分なかった。
最初に出会ったあの夜、ちゃんと説明しておけばよかったかもしれない。ごめんよ。
──そうかい、ありがと。
とにかく、必要な面子は揃った。
これで、みんな安心できる。そう思ってた。
でも、フランはそう簡単に元には戻らなかった。
部屋から出るのも億劫になって、精神はどんどん不安定になっていった。
ものを破壊するようにもなった。
私は、そんなフランを見て、次第に苛立っていった。
喧嘩もするようになった。
いつしか、姉妹の絆は形だけの物になっていったんだ。
そんな中、咲夜が襲来した。
まさか、来るはずないと思った。でも、よくよく考えれば自然なことだ。
吸血鬼を駆逐し、最後に残ったヴァンパイアハンターは、外の世界で存在意義を失う。
そうして幻想と化したヴァンパイアハンターが流れつく場所は、幻想郷だ。
こいつを倒せばフランの不安の元がなくなるかもしれない──そんな一抹の希望を胸に、咲夜と戦った。
まさか運命が変わって紅魔館のメイドになるとは思わなかったが、とにかくヴァンパイアハンターがいなくなったのは事実だ。襲撃された後、フランにヴァンパイアハンターがいなくなったことを説明した。
でも、一週間経ってもフランは変わらなかった。
それで、一昨日だ。
私は、咲夜にフランを呼びに行かせて、紅茶を飲みながら話し合った。
部屋に入ってきたときの目はどこかぼんやりしていて、顔には覇気がなかった。
座ると、身長は一緒のはずなのに、背は丸まっていて、随分と小さく見えた。
「どうして怯えるんだ、もう怖がるものはないじゃないか」
私はそう問い詰めた。
阿呆な質問だったよ。
すると、こう返されたんだ。
「お姉様、もう、無理だよ。
この紅魔館に私の味方はいないでしょ。
このままじゃ、元の性格には戻れない」
不意打ちだった。
私はそれまで、紅魔館はフランの味方だと思っていた。
気づかなかったんだ。
フランのためにと作った紅魔館が、集めた仲間が、フランにとっては障害にしかならなかったなんて。
皮肉だよ。盛大な皮肉だ。
それから、私は言葉を失った。
打ちのめされて自失している間に、フランはいなくなっていた。
そのあと、咲夜に促されて惰眠を貪って、起きたらこれだ。
なあ、今フランはどうしてるんだ?
このまま朝日に焼かれて死ぬのか?
答えてくれ、フランは──
9 三日目
それ以上の言葉は聴こえない。
泣いていたわけではない。耳を塞いだわけでもない。
私はただ、自らの行いを悔いていた。
私は、私はなんと愚かしかったのだろう!
十年近くもそばに居ながら私は、この姉の、妹に向けた深淵な愛情の機微を察してやることができなかった。いや、察しようともしなかったのだ──。
その事実に気づいた途端、私は自分が自分でなくなるのを感じた。
自分の境涯が、レミィという性格が、紅魔館という集団が崩れていく。
ああ、感じる。星が廻り、えにしが結ばれ、運命が始動するのを感じる。
これが、レミィの能力、『運命を操る程度の能力』の真髄か。
なんという激動、なんという心動。
こんな衝撃を現した言葉は、どんな本にも載っていなかった。
形容できない。当てはまる動詞がない。一致する名詞がない。
だが、はっきり分かることがある。
今まさに、荒唐無稽で、それでいて燦然と輝く未来が構築されている。
この紅魔館の為に、私は今変わっているのだ──。
「おい」
ようやく、私の耳にレミィの声が届いた。
「お前、今、運命が」
「大丈夫よ」
そう、大丈夫だ。
これからは、きっとうまくやれる。
レミィの見据え、私は力強く答えた。
「ありがとう、レミィ。あなたが打ち明けてくれたおかげで、フランを元に戻すことができそうよ」
「そう、か」
「元に戻す」というのは、もちろんダブルミーニングだ。
さて、これからはレミィがいてもらっては困る。
「もう寝なさい。夜が明けるわ」
「え、でも」
「いいから」
「……分かったよ、おやすみ」
「おやすみ」
「おやすみなさいませ」
席を立ち、咲夜と共に退室する。
窓に目をやると、もう朝焼けが美しい。
咲夜の方を向かずに聞く。
「じゃあ、フランのもとへ行きましょうか」
言いながら、足を階段へ運ぶ。
一瞬遅れて、咲夜はついてきた。
「……パチュリー様は」
歩きながら、咲夜が答える。
声は震えていない。その代わり、か細い声だった。
「どうして、分かったんですか」
「だって、動機を持ってるのがあなたしかいないもの」
フランと咲夜はよく似ている。
フランは、紅魔館のほぼ全員に忌避されている。
そして咲夜もまた、紅魔館のメンバーとまだ信頼関係を築けていない。
そのストレスは相当のものだったはずだ。
すぐ怒り、襲いかかろうとしたレミィ。
レミィが怒った際に助けようとせず、会うのも避けていた小悪魔。
従わない妖精メイドたち。
咲夜も、フランも、追い詰められていたのだ。
その証拠に、フランと咲夜の座るときの姿勢はよく似ている。それも、猫背。
自律神経が弱っている証拠だ。
そうえば、引き攣った顔もよく似ていた。
だから、レミィがフランを呼んだあの話し合いがきっかけで、咲夜がフランの心境を初めて知ったのがきっかけで、咲夜がシンパシーを感じたとしてもなんら不思議はない。
「積もる話は、あなたの部屋に着いてからにしましょう」
まず初めに耳を疑ったのは、傘の話だ。
あの時、咲夜は「十二本です」と言ってフランが傘を持って外に脱走したということを確立させた。
だが、本当に傘は盗まれたのだろうか?
あの時「傘が盗まれた」という事実を聞いた時のレミィの顔で、私はあの姉妹の溝が深まったのは分かっていた。
その溝が深まった話し合いの直後に「フランがレミィの部屋に侵入して傘を盗む」というのは、おかしくないだろうか。
仮にも喧嘩した相手が眠っている部屋から、わざわざ傘を盗み出す。
レミィが眠っていなかったらどうする? 寝ていたとしても、起きる可能性もあるのでは?
そう、フランの側に立ってみると、「姉の部屋に侵入して傘を盗む」というのは不自然すぎるのだ。
つまり、「傘を盗まれた」ということを疑って事件を捜査しなければならない。
そこで、「誰かが紅魔館内でフランをかくまっている」と仮定して捜査を進めた。
まず、フランの部屋の前の踊り場での足跡。
咲夜の足跡が三往復分、フランの足跡が一往復半分あった。
フランの足跡が一往復半分というのは頷ける。
フランがレミィに呼ばれ、部屋に戻ったことで一往復分。脱走したことで半往復分。
合計一往復半分。計算が合う。
咲夜の方はどうだろうか。
話し合いの際、フランを呼びに行くので一往復分。夜、フランを呼びに行き、戻るのに一往復分。
合計二往復分。
そして、実際に見つかったのは三往復分。
さて、残りの一往復分はどこにいったのだろうか?
前後のつながりから考えて、「フランの脱走を促しに行った」というのは、無理のない推論だろう。
本来ならば夜の鐘が鳴った際にフランの部屋の前に行く必要はないのだが、フランの部屋に行かなかった場合、タイムラグが生じて疑われる可能性がある。フランの部屋の前に行ったのは、妥当な判断だった。
フランを誘う際にどんな駆け引きがあったかは置いておくとして、この時点であれ以上足跡を追う必要はなくなった。
さて、ここで疑問が残る。
なぜ、扉の鍵と「秘密の扉」に念力の痕跡が残っていたのか、というものだ。
私たちが「秘密の扉」に相対した際、小悪魔が「このルートも使ったんでしょうか?」と疑問を発した。
その問いかけに対して、私は嘘を吐いた。「Sun,Visible」が炙り出せる効果時間は二十四時間前までのものなのに対して、「フランは二、三日前に図書館に来たでしょう。恐らくその時の跡だわ」と答えたのだ。我ながら下手くそな演技だった。
なぜ嘘を吐き、「緘口令」を使ってまで嘘が露呈するのを避けたのか。
当時、まだ全てが明らかになっていなかったというのもある。
だがそれ以上に、「パチュリー・ノーレッジしか知りえない事実」があったから隠したのだ。
事実は全て口にしない方がいい時もある。あの時は、そういう時だった。
私は昨日の昼は、ずっと図書館の閲覧席で本を読んでいた。
私は読書にそれほど集中していなかったから、誰かが「秘密の扉」を開ければすぐに分かったはずだ。「秘密の扉」は、開いたときに音が鳴る。
それに、図書館の扉も、誰かが開けるとカランカランと音が鳴るようになっている。
つまり、私は「誰かが『秘密の扉』、又は図書館の扉を開けた場合、絶対に気づいていた」はずなのだ。
図書館の見取り図を見れば、一目瞭然だろう。
扉類は全て、閲覧席からなら音が届く範囲内にある。
ところが、私は誰かが通った事に気づいていない。
これはどういうことか。
フランは、扉を開けるために念力を使ったのではない。
扉が開かないように念力を使ったのだ。
だって、そうだろう?
フランは当夜、レミィと喧嘩して別れ、部屋に戻った。
だが、別れ方が別れ方だっただけに、いつレミィが来てもおかしくない。
でもフランは、一人の時間を作る必要があったのだ。
何を思ったのかは分からない。だが、推し量る必要はない。
そういうときだって、あるものだ。
だから、鍵となる部分を念力で固定した。
いくつか魔法を組み合わせれば、離れていても念力は使える。そうして二箇所の扉を塞いだ。
これで、誰かが鍵を持ってきても入れない。
咲夜が来たのはレミィが眠った後から、レミィが目を覚ますまでの間だ。
咲夜はフランを説得──もしくは誘惑──して、自室に連れていった。
なぜ自室なのか?
まず、捕まりにくいというのがある。
いくら妖精メイドたちが反抗的とはいえ、立場上自分たちより上の咲夜の部屋には入りにくい。たとえ「捜索してください」という放送が入った後でも。
それに、私やレミィを含め、誰もが「咲夜は真面目だし、自分の部屋も捜索しただろう」と思ったはずだ。
まだある。
咲夜が「傘が盗まれた」と報告した点だ。
咲夜が「傘を盗まれた」という報告をしないとどうなるか?
そう、館が徹底的に捜索されるのだ。
その場合、レミィや私が同伴して、咲夜の部屋を捜索するおそれがある。
咲夜は、なんとしてもそれを避ける必要があった。
だから、「傘が盗まれた」と嘘を吐いたのだ。
そうすれば、注意は紅魔館の外に向き、館内の捜索はされなくなる。
今、咲夜の部屋に傘が立てかけられているはずだ。
そして、何よりも決定的だったのは、私が咲夜の部屋を訪れた時だ。
あの時、咲夜は確かに「少々お待ちください」と言い、クローゼットが開く音がした。
これはどう考えてもおかしい。
レミィに傘の数を確認しろと言われた時。
レミィが画材道具をもってこいと言った時。
私が「休みなさい」と言い、咲夜が自室に帰った時。
咲夜は全て時間を止めて行動していた。
消えてから現れるまでに一秒とかからず、画材道具を抱えていた時もあったことから、咲夜の「時間を操る程度の能力」は、「時間を止めている間も物質を動かせる」と考えていい。
そう、時間を止めて着替えることができたはずなのだ。
なのに、あの時だけ時間を止めて着替えるということをしなかったのだ。
そして、「時間を止めずに着替えている」としたらおかしいことがある。
あの時咲夜は「少々お待ちください」と言ってクローゼットを開き、それからすぐに部屋の扉を開けた。
あの間は、あまりにも短すぎた。あの時の私が、思考に耽る暇がなかったほどに。
それは、「咲夜は着替えていない」ということにならないだろうか。
この際、「『少々お待ちください』と言ってクローゼットを開け、その後時間を止めて着替えた」という可能性は放棄する。時間を止めて行動するのが癖である咲夜が、あの時だけ時間を止め忘れるというのは考えづらい。
さて、他の可能性を消去し、「咲夜は着替えていなかった」と仮定した場合、別の疑問が生じる。
なぜ、咲夜は時間を止めずにクローゼットを開けたのか。
先程の「フランは咲夜の部屋にいる」という推論から派生させると、その全貌が見えてくる。
咲夜とフランが同じ部屋にいた状態で、ドアがノックされたとする。
咲夜は、フランを見られたくない。しかし、ドアを開ける必要がある。
つまり、フランをどこかに隠す必要がある。
この時、咲夜は部屋を見回す。どこかにフランを隠すことはできないだろうか。
パッと見て目に入り、実行が可能そうなものは二つ。
クローゼットの中か、ベッドの下だ。
そして今回は、偶然クローゼットが選ばれた。
ここで、時間を止めてフランをクローゼットの中に動かすと、時間を動かしたときにフランが驚いて声を上げる可能性がある。
部屋の中は明るく、クローゼットは暗い。突然停電すると驚きの声を上げるように、人間、又はそれに準じる存在が突然光を失うと必ずと言っていいほど驚きが伴う。
だから、時間を動かしたまま、フランを誘導する必要があったのだ。
さて、ここまでで
「犯人のおおよその動機」
「犯行時刻」
「失踪人の居場所」
が分かった。やるべき事はもう僅かだ。
分かっていないことは、あの姉妹の間にどんなやりとりがあったのか。
その内容を知れば、最良の解決策を導きだす事ができるだろう──そう踏んだ。
だから、私はレミィからどんな話し合いだったかを聞き出した。
まさかあの姉妹の馴れ初め話まで聞くことになるとは思わなかったが、聞くことができてよかったと思う。
さて、残る事情聴取はあと一つ。
咲夜は、どうしてフランを誘いだしたのか。
これからじっくり聞かせてもらうとしよう。
10 三日目
咲夜の部屋の前に着き、扉を開ける。
案の定、フランが眠っていた。
「かわいい寝顔ね」
「ええ──」
すう、すうと寝息を立てて、眠っている。
とても普段の奇行からは想像できない、聴いていて落ち着く寝息だった。
咲夜はフランのすぐ脇に座ると、やさしく髪を避け、頬を撫でた。
「メイドたちの噂話を聞いてから、フラン様の側にいてあげなきゃって……そう思ったんです」
そう語る咲夜の表情は、我が子の寝顔を見守る母親のようだ。
「私は、一週間ですら、この館にいるのは辛かった。
なのに、フラン様が何年もこんな仕打ちを受けていると思うと、いてもたってもいられなくなって──」
私も、咲夜の隣に座る。
「あの話し合いが終わって、お嬢様が眠った後、フラン様の部屋の前に行きました。
扉の前に立って、『開けてもらえませんか』と話しかけると、しばらくして、ゆっくり扉が開いて……フラン様は『怖くないの』と聞いてきました。
私は、何も答えずにフラン様を抱きしめました。
それが、最良の答えだと思いました」
そうだろう。
言葉というものは、いらない時もある。
「それから、私の部屋に招いて、色々な事を話して……フラン様は就寝なされました。
今回の計画は、私一人で練りました。
館にいるみんなの、フラン様への愛情を確かめたかったんです」
実際は、誰も心配していなかった。
「パチュリー様がいてよかった。
おかげで、お嬢様の愛情だけでも確かめることができました」
咲夜、それは、強がりよ。
思っても、口に出せない。
代わりに、私も精一杯の強がりをさせてもらう。
「大丈夫よ」
咲夜がこちらに眼を向ける。
「私が、なんとかしてみせる。今のみんなはただ、扉の開け方が分からないだけ」
「……はい」
私は、頼まれた問題しか解決しなかった。今回もそうだった。
しかし、これからは、今日からは違う。
私の運命は、咲夜の優しい行動力を見て、レミィの隠された愛情を見て、変わったのだ。
いや、もしかしたらこの変化は、レミィが私を尋ねた時から運命づけられていたのかもしれない。
問題があれば、解決してみせよう。
問題がなければ、問題点を探そう。
そして、ここ紅魔館での問題点は簡単に見つかった。
この館の連中は、いささかフランと距離を置きすぎている。
これから何年間かは、この問題の解決に尽力することになるだろう。
長い道のりになるだろうが、私は解決してみせる。
幸い、咲夜という力強い同志もいる。
「時間を操る程度の能力」は、世界をも征する力だ。これほど心強いことはない。
それに、時の流れは全てを解きほぐす。
それは魔力をも凌駕する神秘的な力であり、魔女である私すら干渉できない絶対の真理だ。
この問題も、時が解決する類のもの。
咲夜がいれば、きっと解決に向かうだろう。
さて、どう解決してくれようか。
諸悪の根源は、捻じ曲がってしまったフランの性格、それから紅魔館メンバーのフランへの恐れだ。それを矯正してやろう。
効果的な解決策はなんだろう。
おそらく会話をすることだ。
レミィも言っていたではないか。「そこいらで出会った旅人たちと酒を酌み交わしていくうちに、フランは少しづつ喋れるようになっていった。色々な状況と接するうちに、笑顔も見せるようになってきた」と。
まずはフランの読書を図書館でのみ行えるようにしてやろう。本をフランの部屋で読ませると、自分だけの世界に閉じこもりがちだ。図書館で読み始めれば、最初は小悪魔と多少のもつれはあるだろうが、会話も増えるはず。一応趣味は共通している。それに、私もいる。
それから咲夜とフランの姿勢の矯正。姿勢を矯正すると、自立神経の働きもよくなる。たしか美鈴の「気を使う程度の能力」のマッサージでそんなことができたはず。できなくてもやらせる。それに、美鈴は誰に対しても明るいから、その過程できっといい関係が築けるはずだ。
そうだ、レミィとフランのアトリエも統合してやろう。腐っても姉妹だ、一緒に絵でも描いていれば会話の一つや二つは生まれるだろう。合作させるのもいいかもしれない。
「じゃあ、おやすみ。明日の夜にはフランを部屋に戻しておいてね」
「はい、おやすみなさい」
咲夜の顔はよく見えなかったが、多分はにかんでいたと思う。
彼女に関しては、心配するまでもないだろう。
試練の一つや二つを乗り切れなければ、この館を襲いはしなかったはずだ。
部屋を後にし、図書館へと歩く。
皆が寝静まった紅魔館は、音一つ立っていない。
コツ、コツという足音が響いていく。
やがて、窓際の廊下に出た。
朝日が、まっすぐ差し込んでいる。
窓の前に立ち、光源を見てみる。思わず目を細めた。
完全に顔を出した太陽は、とても眩しい。
やがて目が慣れても、やはり直視には耐えられない。
しかし、ああ、なんて温かい。
窓を開け、半身を乗り出す。
その光は、ぬくもりは、まるで紅魔館のこれからのようだった。
<終>
普段ミステリーを読まない私でもすんなり読む事ができ、とても面白い作品でした(^^♪
読み終えた時には清々しい気持ちで一杯でした!
おもしろかったですよ
一気に読んでしまいました。爽やかな読後感。
咲夜の語りでは目頭が熱くなりました。
面白かったです。
味方が居ないことと、紅魔館の体制が障害にしからなかったことをイコールで結びつける説明が足りないように思えます。
レミリアの集めた仲間=レミリアの味方であって、フランの味方じゃないということでしょうか?
それと、図を使う必要はあったでしょうか?
複雑な間取りではないですし、文章の説明で事足ります。
建物の内部構造を図解しないと解き明かせないほどの謎なのだと期待する分、がっかり感で悪印象を持他ざるを得ない、残念な作品になってしまったと思います。
>フランの独白について
あー、確かに説明足りませんでしたね。迂闊でした。
その見解で合っています。
あの部分はアドリブで書いたので、ちょっと詰めが甘かったようです。
>図について
実は図を使ったトリックもあったのですが、一度書き終えた段階で「このトリックを使うと余韻を壊しかねない」という理由で削除しました。
かといって一度作ってしまった見取り図を破棄してしまうのももったいなく、「文章より図の方が見ていて分かりやすい」等の理由もあったため、今回挿入する運びとなりました。
一応図がないと解けない部分を書いておいたのですが、少々分かりづらかったようなので修正します。
貴重なご意見、ありがとうございました。
紅魔館の過去話がなかなか興味深かったです
それともただの小ネタ?
ただの小ネタです。
色々と考えたのですが、あの場面に一致するような作品が浮かびませんでした。
第一印象は『気合入ってるな』でした。というのも気合を入れる場所が個人的にすごく相性の良いところにある。東方の設定自体いくらでも拡大解釈ができる上、魔法(!)図書館で物語ろうとしたらかなり気を使わなければミステリが成立しません。前例もあるのかもしれませんが、良くぞ挑戦されたものです。
明らかにした点と、読者側が持ってるかどうかギリギリの知識でキッチリとトリックを成立させている。サボっていない。さらに、物語もしている。共感できる、良い話でもある。ミステリ。難しいですね。参考にします。
読めてよかった!
もっとそそわにもミステリ風味の作品が増えてほしいです。