雪が降る。
「さようなら」
白く染まった公園の真ん中で、彼女は別れを告げた。
一方的に離別を突きつけられた黒い帽子をかぶったもう一人の少女は、現実を飲み込む事が出来ず、ただただうろたえ、「それってどういう……」と意味の無い問いを口にするばかり。
彼女はそれに対し、「ごめんね」と嗚咽混じりに謝ることしかできなかった。もう詳しい経緯を話す時間も、作り話みたいな自分の境遇を親友に理解させる時間も残っていなかった。
「あのね……一つだけ……お願いがあるの……」
顔は涙でくしゃくしゃに歪んでいて、震えた声は中々次の言葉を紡げない。
やっと絞り出された言葉は、彼女の最後の我儘だった。
「無理だってわかってるけど……私の事……忘れないで欲しいの」
勿論、親友は彼女の事を覚えていない。
街灯が照らす夜道をひた走る。お天道様の営業時間はとっくに終了していて、空を仰げばお月様が雲間から我が物顔で微笑んでいるのが見える。
現在時刻午後十時六分十三秒。私こと宇佐見蓮子はバイト先から自分の寮へと向けて自転車を走らせていた。
「はぁ……お、白い白い」
吐き出される息は白い煙になり、霧散する前に後ろへと流れてしまった。
今は車上かつ夜中。独りごとを聞かれる心配も無いせいで、いつもよりも私の口は緩くなっていた。
「しっかし寒いわ……」
ハンドルを握る指は寒さでかじかんでいて、感覚なんかはとっくに取り上げられていた。手を強く握りしめても、ほとんど感触が無くて、手首から先が付いていないようにさえ感じる。
手袋を持ってこなかったのは痛恨のミスだ。
代わりと言っては何だが、首にしっかりと巻かれているマフラーが風になびいている。
「あ」
雪だ。
道理で寒いわけである。
街灯の光が煌々と空から下りてくる雪を照らすが、それ以外の暗闇の中では、雪はちゃんと降っているのかどうか怪しく思えてくる。そんな不安を抱く程、照らされている部分と、そうでない部分の明るさが違った。
こんな雪の降る夜を見ると、いつも何かが頭の片隅に引っ掛かっているのを感じる。何とかそれを思い出そうとすると、すぐにそれは脳の奥の方へ引っ込んでしまう。
思い出せない自分に、僅かな苛立ちが胸をかすめる。
「まあ何でも良いや」
と口に出すことで気分を切り替える。
そんなことよりも雪が降った事の方が、今の私にとっては重要だった。
今年は特に雪が降った記憶もないので、恐らく今日が初雪だろう。それ以前に、ここ何年かは雪を見た記憶がない。前に見たのは何年前だっただろうか。
「綺麗ねー……」
また空を見上げると、沢山の雪が中空で舞っている。数年ぶりに見る光景は、どこか現実味に欠けていた。これが全て立体映像だと言われても、私は納得できてしまうかもしれない。
何だか気分が昂ぶって来た。サドルから腰を浮かせて、立ち乗りに切り替える。程よく足にかかる負担が妙に心地良い。
「~♪」
乗った気分のついでに歌の一つも追加してみる。
はっきりと覚えていない部分を、良くわからない曖昧な言語でぼかしながら歌う。
ペダルを漕ぐのを止めると、車輪が回転する音が夜道に響く。しかし歌に集中しなおすと、その音はすぐ何処かへ消えてしまう。
上機嫌で私は歌い続ける。が、途中で声が途切れた。
「……まただ」
歌い続けるのだが、Aメロより先に進めない。
Aメロの最後の辺りに差し掛かり、何とかぼんやりとした次の部分の輪郭を掴んでそれに移ろうとするのだが、結局また歌いだしのところに戻ってしまう。
「何でかねー」
サビどころか、この曲の題名すら思い出せない。恐らく、今や時代遅れになってしまった私のiPodにもこの曲は入っていないだろう。
ただいつ聞いた歌かは薄っすらと覚えている。
そう。確か友達から借りた、古いロックバンドのCDにあった曲だと思う。当時からしてみても、CDなんて珍しいものだったから、骨董品好きの私は大分興奮したのを覚えている。
ほとんど親友と言って良い部類に入る、かなり仲の良い友達だった。しかし一向にその子との記憶が出てこない。声も、顔も、名前も、性格も、何一つとして覚えていない。
「え?」
私はサドルに腰を下ろした。
何で、何でだ。
多分私はその子と一番の友達だったはずだ。何十年も昔の話、という訳でもないのにCDを借りたこと以外全てを忘れてしまっている。そんなに私は薄情な人間だったのか。
確実に「彼女」が存在していたという事だけは、確信を持って断言できる。
でも夢の内容のように、思い出そうと手を伸ばしても、その子との記憶は私の手からすり抜ける。手の平に残るのは、ほんの少しの苛立ちだけだ。
「……」
大切な事を、大切な誰かを忘れている気がする。
「ねえ」
私が持っている提灯の赤い光に照らされながら、雪がゆっくりと舞い落ちる。山道には結構に雪が積もっていて、普段とはまた違う趣のある風景が映える。
私は数歩先を進む金髪の大妖、八雲紫の背中を追って歩く。彼女は歩みを止めず、振り向きもせずに「藍」とだけ私の名前を呼んだ。
「橙、眠ちゃった?」
「ええ。いつもならとっくに寝ている時間ですから」
私の可愛い式は二つの腕と九つの尻尾とに埋もれて、幸せそうに眠っている。正確に言えば尻尾は八本で、残りの一本は提灯を持っているのだが。
今日は地底の方にお祭りがあるという事で、地霊殿への挨拶もかねて遊びに行っていた。遊び疲れた橙は私の背中におぶさった後、数分も経たずに眠ってしまった。
「にしても紫様。帰るんだったらスキマを使えば良いじゃないですか」
「あれは結局、歩いて帰るのよりエネルギーがかかるのよ。時間短縮にはなるけれど」
彼女は手をひらひらと振って「私だって全知全能という訳じゃないわ」と続ける。もっとも普通の手法で空間転移なんてしようものなら、この宇宙を引き換えにしても足りない位のエネルギーが要る筈だから、常軌を逸した力を持っていることには変わりない。
何千年間と色んな事を教わり、自分でも勉学に励んできたが、このスキマの事だけはさっぱりわからない。博麗の巫女や、綿月の姉の方も同上だ。本人固有の能力だから、ただの一妖狐には理解しえないものなのかもしれない。
「それに、たまには歩いて帰るのも悪くないでしょう?」
そうやって話している間にも、足元ではシャク、シャクと雪が踏み締められる音がする。それは一定のリズムを刻んでいて、何だか耳に心地良い。
雪で白く染められた森は、提灯の光で上からほんのり赤く上塗りされている。
何処からと言う訳でもなく、梟の物憂げに鳴く声が聞こえた。
「……ええ。その通りですね」
この光景は楽をしていたら見えなかったものだ。そう思うと得をしたような気分にさえなる。
一見理解しがたい行動が多い彼女だが、ちゃんと考えがあっての事なのだろう。
ならば、と私は先程から抱えていた疑問をぶつけてみた。
「ところで、さっきから何処へ向かっているんですか?」
黙って付いて行っても良かったのだが、別に聞いても悪くないだろうと思い直して聞いた所、返答は理解しがたいものだった。
「別世界にいる私の友人関連で用があるのよ」
「はぁ……」
私をからかっているのか、それとも本当にそうなのか、はたまた頭の調子が少しよろしくないのか。流石に最後のは無いと信じたいが。
紫様なりの冗談なのだろうと私は判断を下した。
白玉楼の庭師のように、いちいちまともに相手をしているようでは、スキマ妖怪の従者は務まらない。
「ところで藍」
彼女は足を止めてトーンを下げた声で言う。私は背筋を正して答えた。橙は私の動揺に気づいたのか、「ん……」と小さく寝言をこぼす。
「はい、何でしょうか」
「今が何時だかわかるかしら?」
何を言い出すのかと少し体が硬くなったのだが、単に時刻を聞かれただけだった。
しかし私は時計を持ち歩いたりしないし、そもそも平生から時間を気にして生きていないので、すぐには答えられなかった。
一応、星を見て大まかに時間を推測する。
「大体、十時半くらいでしょうか」
私がそう答えると、彼女も夜空を仰ぐ。
そして星を掴もうとするように左手を空へと向けた。
「良い線行ってるわ。時刻は午後十時二十一分五十秒、といった所ね」
ほう、と感嘆の息が漏れる。
星を見ただけでそこまで正確な時間がわかるものなのか。やはり私と紫様ではこんな些細な所にまで雲泥の差があるようである。流石は幻想郷を代表する賢妖だ。
私は素直に賛辞の言葉を述べた。無論、わざわざ胡麻をするような間柄でも無いので世辞では無い。
ただ思った事を口に出しただけなのだが、彼女は振り返って少し目を丸くし、その後声を上げて笑った。
何が可笑しいのか分からない。私は顔を赤くして縮こまるしかなかった。
「ふふふ……私はただ時計を見ただけよ」
彼女は「まったく、藍ったら可笑しいわね」と人差指でたまった涙を拭う。
確かにその左手には、銀色の鈍い光を放つ腕時計があった。
さっき星に手を伸ばしたように見えた仕草は、単に左手に付けた時計を確認していただけらしい。
「そ、そこまで笑わなくてもいいじゃないですか」
「ごめんごめん」
笑いの余韻を残したまま、彼女は前に向き直って再び歩みを進め始めた。
「でもまあ星を見ただけで正確な時間がわかる奴はいるわよ」
「そんな妖怪、幻想郷に居ましたっけ?」
「居ないわ。外の人間の話よ」
それは先程の「別世界の私の友人」なのだろうか。
気になったが、それとはまた別の疑問が私の中で膨らむ。
「外の世界、ですか。だったら腕時計だって一般的なものでしょう。向こうの事情に噛み合っていない気がするのですが」
率直に言ってしまうが、それは不要な能力ではないだろうか。天候に左右される安定しない能力より、時計の方がよっぽど便利だ。
「確かにその通りね……どちらかと言えば幻想郷よりだったわ、彼女」
そう言って私の主は星空を見上げた。
真っ暗な空間の中、冷気を吐き出すそれだけが光を放つ。
「やば……昨日で家にある食材は全部食べちゃったんだっけ」
冷蔵庫の中は寂しくなるほど空っぽで、わさびやソースだけがお情け程度に置いてある。
私は勢いよく扉を閉じて、台所の電気を付けた。
こんなことならバイト先であるコンビニから、賞味期限切れの商品をかっぱらってくれば良かった。
「今からコンビニ戻るのもなー」
せっかく自転車で疾走してきたのに、今から踵を返しすのも癪に障る。
どうしたものか、と嘆いていると呼び鈴が小意気良く鳴った。
「あ」
玄関に向かう最中、今日が金曜日である事を思い出した。
冷蔵庫が空なのもわからなくは無かった。食材が無くても何ら問題は無い。
「はいはい」
扉を開けると、両手で鍋を抱えた隣人が唇で弧を描いて笑っていた。
「たまたま、ちょっと作りすぎちゃって」
「そうですか。偶然に私も食べるものが無くて困ってたんですよ」
そう返して、二人で目を合わせてにっと笑う。
金曜は一緒に食べる決まりなんてのは、お互いわかりきっている話である。だからこれは一種のジョークだ。
「ええ。偶然に、ね」
それがマエリベリー・ハーンことメリーと私の、いつも通りのやり取りだった。
メリーと私は同じ大学の寮に住んでおり、壁を叩けば向こうに音が届いてしまうお隣さんだ。ひょんなことから意気投合し、オカルトサークル「秘封倶楽部」を作るのだが、そこは長いので割愛しておく。
彼女が鍋を持って現れたのは週に二回、一緒に夕食を食べるのが日課になっているからだ。ちなみに金曜はメリーの、土曜は私の部屋で食べている。
先程のやり取りはどっちかの気分が良い時に交わされる、定例のネタみたいなものだ。
「……でね、あの魔力どうこう言ってた行方不明の教授が戻ってきたらしくてね……って蓮子。聞いてるの?」
「ん、ああ、ごめんごめん。鍋の蟹がおいしそうでさ」
完全に嘘と言う訳でもない。もはやアンティークとなった炬燵の上で、ぐつぐつと音を立てる鍋は見るものの食欲をそそる。
四畳半の中心に陣取る蟹鍋は、自らがこの世の覇者だと言わんとばかりに良いにおいを漂わせる。もうもうと上がる白い湯気は、もしかすると彼のオーラなのかもしれない。まあ食べられるんだけど。
「どんだけ食い意地はってるのよ。あ、そう言えばその蟹は同じく行方知れずになってたその教授の助手からもらったものよ」
「へー、そういや助手さん仲良かったんだっけ」
会話の片手間に蟹を殻から引きずり出そうとするのだが、どうにも上手く行かない。しかしだからと言って箸で中身をほじくるのは私の美学に反する。
「中々音楽の趣味があってね」と彼女は助手との話を続けるが、メリーの趣味は流行りのアイドル曲と、私の趣味とは逆を行くので微妙な心境だ。
話も節目になり、音楽と言えば、と先程の事を思い出してメリーに聞いてみる事にする。
「そういやメリー」
「何かしら」
「こんな歌知らない?」
「どんな歌か言ってくれないとわからないわよ。私だって心が読める訳じゃないんだから」
「そりゃそうよね……んーと」
思い悩みながら蟹をいじるうちに、身が途中で切れてしまった。仕方なく美学を放棄して、足の甲殻から中身を掘り出す作業に切り替える。
「なんというか……こう乾いた感じのロックっていうか……ダサカッコイイって表現が似合うような、妙に味があるスルメみたいな歌なんだけど」
「さっぱり伝わらないわ」
「私もそう思う」
現実の風景ですら正確に言葉で伝えるのが難しいのに、自分の心の中の感覚なんてもっての外だ。
とか言っている間に、蟹の中身を掻き出し終える。口に入れると美味いんだかどうなんだか微妙な味がした。
こういうのはたまにしか食べられないという補正がついて、ようやくおいしいと感じるものだ。プリンだってバケツ級の質量で来られたら、流石に辟易する。
「そんなこと言ってるより、実際に歌ってみる方が早くないかしら?」
「あー……うん。そうね」
私だってそれ位わかっている。ただ歌うのが恥ずかしくて、できるなら避けたかっただけだ。
今さら恥ずかしがるような付き合いでもないか、と諦め羞恥を脇に置いて、私は歌い始めた。とりあえずは覚えている部分だけ。
「――――で、以上なんだけど」
「……」
メリーは呆けたような表情で、宙空を見つめていた。なんだか亡霊でも取り憑いたみたいだ。
私は彼女の顔の前で手を振って呼びかける。
「あの、メリーさん?」
「……あっ。ごめん、ちょっとぼーっとしてたわ」
彼女は指名された居眠り生徒よろしく、あわてて居住まいを整えた。境界が見えるメリーのことだし、三途の対岸に誘われてなければ良いが。
「やっぱり私にもわからないわ」
「うん……とにかくありがと」
彼女は白菜をつつきながら、私に問いかけた。
「でもなんでそんな気になってるのよ?」
「それがさ……」
私は思い出せない友達の事について話した。CDを貸してくれた事は覚えていて、その他は彼女に関する何一つを覚えていない事。その彼女と私は、かなり仲の良かった部類に入る事。まるで、彼女が夢の中に消えて行ってしまったかのように思い出せない事。
全てを話し終えた後、メリーは一刀のもとに私を切り捨てた。
「蓮子。貴女って意外と薄情者ね」
「いや、そうじゃなくってさ……なんかこう、魔法でもかけられたみたいな感じなのよね」
「んー……あの教授と関係してるのかしら」
「それは無いと思う」
二つ目の蟹に手をかけるが、やはり中々出てきてくれない。
「でもまあ」
彼女は思い出せないその子の方角を見やるかのように、遠い目をして言った。
「親友は自分の全てを忘れてしまったはずなのに、教えた歌だけでも覚えていてくれたら……その子は嬉しがると思うけど」
そんなものかな、と思って私は蟹をいじくる手に力を入れる。
するとしぶとかった蟹の身は、気が抜ける位にすんなり抜け出した。
雪は止んでしまって、代わりに満月が夜空で輝く。庭に積もった雪は、月光でほんのりと照らされていた。勿論昼間ほど明るいと訳が無いが、月明かりがこれだけあれば照明はいらないだろう。
星空を仰いでいる顔はそのままに、私は隣で同じように縁側に腰かけている少女に語りかけた。
「ねえ、綺麗な月だと思わない?」
「……そうですね、紫さん」
明らかに警戒の色を含んだ声で彼女は相槌をうつ。
少し傷つくが、身構えるのも無理は無いかもしれない。ただでさえ胡散臭い妖怪が、夜中にいきなり来訪したのだ。
「私は詐欺師です」というプレートを首から下げた黒スーツの男が、路地裏で話しかけてきたようなものだ。そこまで来ると逆に怪しくないか。
私がぼんやりと月を見続けていると、沈黙に耐えきれなかったのか、彼女はしばらく迷うそぶりを見せた後、ゆっくり口を開いた。
「あの月は……偽物じゃないですよね」
永夜事変の時の事を言っているのだろうか。とも考えたが、恐らく真意は別のところにあるような気もする。
下世話な勘ぐりはしない方が良いか。私は丁寧に答える事にした。
「少なくとも今は本物の月よ。幻想郷の結界は物理的なものではないから。あー……空調みたいなものは効かせてあるから、むしろ外の世界の月より美しく見えるかもしれないけど」
彼女は「そうですか」とだけ言った。
月から彼女に視線を移すと、気のせいかもしれないが、その表情が少しだけ寂しそうに見えた。
縁側に手をかけ、少しだけ体を浮かせて座りなおす。私はそろそろ頃合いか、と思いここに来た目的を果たすことにした。
「それじゃ本題に移りましょうか」
「はぁ……」
曖昧に返事をした彼女だったが、私の真剣な目をみて緊張した面持ちに変わる。
あの二柱は祭りで酒で酔い潰れて、就寝中の筈だ。
なるべく事実だけを伝えよう。そう思って私はなるべく余計な情報をそぎ落として伝えた。
「高校時代の黒い帽子の同級生は、あなたが教えた歌を覚えているみたいよ。東風谷早苗さん」
「―――――――」
目を見開く。
数秒後に風祝の彼女は、私が何を言っているのか、誰の事を指しているのかを理解して、顔をうつ向けた。
そしてか細い声で「そうですか」と無理やり声を絞り出した。
彼女の表情は良く見えず、彼女がどのような心境かはわからない。
別れを告げた故郷への寂寥か、それとも自分のことを完全に忘れいたはずの親友が、僅かかもしれないが覚えていてくれた事に対する喜びか。
「それじゃ私はこれで」
これ以上この神社に居座るのは無粋だな。そう思い私は縁側から立ちあがり、開いたスキマの中に歩いていった。
振り返ってスキマを閉じる――――が、ほとんど無意識に完全には閉じ切らない位置で手が止まった。
「……ぅ……っ…………ぁ……」
彼女が嗚咽を漏らす声が聞こえる。私はスキマを閉じ切った。
「本当……無粋ね」
自分だけが色を持っているスキマの暗闇の中で、一人毒づく。
彼女は泣く所を他人に見られたく無くて、私が帰るまで涙を堪えていたというのに。
誰にも言うまい、そう自らに言い聞かせてから、今度は宇佐見蓮子について思考する。
「それにしても、何で覚えていたのかしら」
現実と幻想の結界はそんなヤワなものではない。加えてほとんど聞く事は無い古い曲なのだから尚更だ。彼女の高校生時代の親友、宇佐見蓮子が覚えているはずは無いはずである。
マエベリー・ハーンという境界を揺るがしてしまう、外の世界のもう一人の私の近くにいたからか。それとも結界に不備があったのか。もしくは――――随分とご都合主義ではあるが――――宇佐見蓮子がそれ程までに、彼女の事を強く想っていたからなのか。
「でもまあ」
そんなことはどうでもいいか。
東風谷早苗がどう思ったのかは分からない。
けれど、皆が私を忘れてそっぽを向いているとき、少しだけでも誰かが振り返ってこっちを見てくれたら、それはきっと嬉しい事だ。
とは言え、単に忘れられていることを思い出されただけでは、むしろ余計に悲しくなるだけかもしれない。
しかし、押し入れの奥底にあるダンボールに仕舞われた人形は、大人になった女の子が家中をひっくり返して自分を探していると知ったらどう思うだろうか。
やはり「今さら……」と憎悪を更に深めるのだろうか。それとも……
「さて」
神社に続く石畳の途中で藍と橙が待っている。早く帰ろう。
私はまぶたを閉じてスキマを開いた。
わざと大仰な動作で湯船につかる。おかげで水がすこし外へ出てしまった。
「ふあー」
肩までつかると、全身の疲労が湯の中に溶けて行くのを感じた。あまり心地よさに、自然と目を瞑ってしまう。
こういう時は、シャワーしか無い外国に生まれなくて良かったと思う。
メリーは食べ終わった後、鍋を洗って帰ってしまった。人の家に水道代を負担させるとこ辺りしたたかだ。もっとも、私も同じことをしているのだが。
「にしても……」
眉間にしわを寄せ、目を半分位開いて考える。
本当に私は酷い奴だ。ずっと一緒に過ごしてきた友達の名前すら思い出せないなんて。これは誰かに呪いをかけられて忘れてしまっているだけだ、と言い訳したくなる。
自己嫌悪で身が悶え、口まで湯につかって蟹みたいにブクブクと泡を吹く。
そんな風について考えていたら、また頭の中にあのメロディーが浮かんだ。私はそれをそのまま声に乗せる。
できることなら、忘れてしまったあの子に届けばいいな、と思って馬鹿みたいに同じフレーズを何度も繰り返した。
「~♪」
「さようなら」
白く染まった公園の真ん中で、彼女は別れを告げた。
一方的に離別を突きつけられた黒い帽子をかぶったもう一人の少女は、現実を飲み込む事が出来ず、ただただうろたえ、「それってどういう……」と意味の無い問いを口にするばかり。
彼女はそれに対し、「ごめんね」と嗚咽混じりに謝ることしかできなかった。もう詳しい経緯を話す時間も、作り話みたいな自分の境遇を親友に理解させる時間も残っていなかった。
「あのね……一つだけ……お願いがあるの……」
顔は涙でくしゃくしゃに歪んでいて、震えた声は中々次の言葉を紡げない。
やっと絞り出された言葉は、彼女の最後の我儘だった。
「無理だってわかってるけど……私の事……忘れないで欲しいの」
勿論、親友は彼女の事を覚えていない。
街灯が照らす夜道をひた走る。お天道様の営業時間はとっくに終了していて、空を仰げばお月様が雲間から我が物顔で微笑んでいるのが見える。
現在時刻午後十時六分十三秒。私こと宇佐見蓮子はバイト先から自分の寮へと向けて自転車を走らせていた。
「はぁ……お、白い白い」
吐き出される息は白い煙になり、霧散する前に後ろへと流れてしまった。
今は車上かつ夜中。独りごとを聞かれる心配も無いせいで、いつもよりも私の口は緩くなっていた。
「しっかし寒いわ……」
ハンドルを握る指は寒さでかじかんでいて、感覚なんかはとっくに取り上げられていた。手を強く握りしめても、ほとんど感触が無くて、手首から先が付いていないようにさえ感じる。
手袋を持ってこなかったのは痛恨のミスだ。
代わりと言っては何だが、首にしっかりと巻かれているマフラーが風になびいている。
「あ」
雪だ。
道理で寒いわけである。
街灯の光が煌々と空から下りてくる雪を照らすが、それ以外の暗闇の中では、雪はちゃんと降っているのかどうか怪しく思えてくる。そんな不安を抱く程、照らされている部分と、そうでない部分の明るさが違った。
こんな雪の降る夜を見ると、いつも何かが頭の片隅に引っ掛かっているのを感じる。何とかそれを思い出そうとすると、すぐにそれは脳の奥の方へ引っ込んでしまう。
思い出せない自分に、僅かな苛立ちが胸をかすめる。
「まあ何でも良いや」
と口に出すことで気分を切り替える。
そんなことよりも雪が降った事の方が、今の私にとっては重要だった。
今年は特に雪が降った記憶もないので、恐らく今日が初雪だろう。それ以前に、ここ何年かは雪を見た記憶がない。前に見たのは何年前だっただろうか。
「綺麗ねー……」
また空を見上げると、沢山の雪が中空で舞っている。数年ぶりに見る光景は、どこか現実味に欠けていた。これが全て立体映像だと言われても、私は納得できてしまうかもしれない。
何だか気分が昂ぶって来た。サドルから腰を浮かせて、立ち乗りに切り替える。程よく足にかかる負担が妙に心地良い。
「~♪」
乗った気分のついでに歌の一つも追加してみる。
はっきりと覚えていない部分を、良くわからない曖昧な言語でぼかしながら歌う。
ペダルを漕ぐのを止めると、車輪が回転する音が夜道に響く。しかし歌に集中しなおすと、その音はすぐ何処かへ消えてしまう。
上機嫌で私は歌い続ける。が、途中で声が途切れた。
「……まただ」
歌い続けるのだが、Aメロより先に進めない。
Aメロの最後の辺りに差し掛かり、何とかぼんやりとした次の部分の輪郭を掴んでそれに移ろうとするのだが、結局また歌いだしのところに戻ってしまう。
「何でかねー」
サビどころか、この曲の題名すら思い出せない。恐らく、今や時代遅れになってしまった私のiPodにもこの曲は入っていないだろう。
ただいつ聞いた歌かは薄っすらと覚えている。
そう。確か友達から借りた、古いロックバンドのCDにあった曲だと思う。当時からしてみても、CDなんて珍しいものだったから、骨董品好きの私は大分興奮したのを覚えている。
ほとんど親友と言って良い部類に入る、かなり仲の良い友達だった。しかし一向にその子との記憶が出てこない。声も、顔も、名前も、性格も、何一つとして覚えていない。
「え?」
私はサドルに腰を下ろした。
何で、何でだ。
多分私はその子と一番の友達だったはずだ。何十年も昔の話、という訳でもないのにCDを借りたこと以外全てを忘れてしまっている。そんなに私は薄情な人間だったのか。
確実に「彼女」が存在していたという事だけは、確信を持って断言できる。
でも夢の内容のように、思い出そうと手を伸ばしても、その子との記憶は私の手からすり抜ける。手の平に残るのは、ほんの少しの苛立ちだけだ。
「……」
大切な事を、大切な誰かを忘れている気がする。
「ねえ」
私が持っている提灯の赤い光に照らされながら、雪がゆっくりと舞い落ちる。山道には結構に雪が積もっていて、普段とはまた違う趣のある風景が映える。
私は数歩先を進む金髪の大妖、八雲紫の背中を追って歩く。彼女は歩みを止めず、振り向きもせずに「藍」とだけ私の名前を呼んだ。
「橙、眠ちゃった?」
「ええ。いつもならとっくに寝ている時間ですから」
私の可愛い式は二つの腕と九つの尻尾とに埋もれて、幸せそうに眠っている。正確に言えば尻尾は八本で、残りの一本は提灯を持っているのだが。
今日は地底の方にお祭りがあるという事で、地霊殿への挨拶もかねて遊びに行っていた。遊び疲れた橙は私の背中におぶさった後、数分も経たずに眠ってしまった。
「にしても紫様。帰るんだったらスキマを使えば良いじゃないですか」
「あれは結局、歩いて帰るのよりエネルギーがかかるのよ。時間短縮にはなるけれど」
彼女は手をひらひらと振って「私だって全知全能という訳じゃないわ」と続ける。もっとも普通の手法で空間転移なんてしようものなら、この宇宙を引き換えにしても足りない位のエネルギーが要る筈だから、常軌を逸した力を持っていることには変わりない。
何千年間と色んな事を教わり、自分でも勉学に励んできたが、このスキマの事だけはさっぱりわからない。博麗の巫女や、綿月の姉の方も同上だ。本人固有の能力だから、ただの一妖狐には理解しえないものなのかもしれない。
「それに、たまには歩いて帰るのも悪くないでしょう?」
そうやって話している間にも、足元ではシャク、シャクと雪が踏み締められる音がする。それは一定のリズムを刻んでいて、何だか耳に心地良い。
雪で白く染められた森は、提灯の光で上からほんのり赤く上塗りされている。
何処からと言う訳でもなく、梟の物憂げに鳴く声が聞こえた。
「……ええ。その通りですね」
この光景は楽をしていたら見えなかったものだ。そう思うと得をしたような気分にさえなる。
一見理解しがたい行動が多い彼女だが、ちゃんと考えがあっての事なのだろう。
ならば、と私は先程から抱えていた疑問をぶつけてみた。
「ところで、さっきから何処へ向かっているんですか?」
黙って付いて行っても良かったのだが、別に聞いても悪くないだろうと思い直して聞いた所、返答は理解しがたいものだった。
「別世界にいる私の友人関連で用があるのよ」
「はぁ……」
私をからかっているのか、それとも本当にそうなのか、はたまた頭の調子が少しよろしくないのか。流石に最後のは無いと信じたいが。
紫様なりの冗談なのだろうと私は判断を下した。
白玉楼の庭師のように、いちいちまともに相手をしているようでは、スキマ妖怪の従者は務まらない。
「ところで藍」
彼女は足を止めてトーンを下げた声で言う。私は背筋を正して答えた。橙は私の動揺に気づいたのか、「ん……」と小さく寝言をこぼす。
「はい、何でしょうか」
「今が何時だかわかるかしら?」
何を言い出すのかと少し体が硬くなったのだが、単に時刻を聞かれただけだった。
しかし私は時計を持ち歩いたりしないし、そもそも平生から時間を気にして生きていないので、すぐには答えられなかった。
一応、星を見て大まかに時間を推測する。
「大体、十時半くらいでしょうか」
私がそう答えると、彼女も夜空を仰ぐ。
そして星を掴もうとするように左手を空へと向けた。
「良い線行ってるわ。時刻は午後十時二十一分五十秒、といった所ね」
ほう、と感嘆の息が漏れる。
星を見ただけでそこまで正確な時間がわかるものなのか。やはり私と紫様ではこんな些細な所にまで雲泥の差があるようである。流石は幻想郷を代表する賢妖だ。
私は素直に賛辞の言葉を述べた。無論、わざわざ胡麻をするような間柄でも無いので世辞では無い。
ただ思った事を口に出しただけなのだが、彼女は振り返って少し目を丸くし、その後声を上げて笑った。
何が可笑しいのか分からない。私は顔を赤くして縮こまるしかなかった。
「ふふふ……私はただ時計を見ただけよ」
彼女は「まったく、藍ったら可笑しいわね」と人差指でたまった涙を拭う。
確かにその左手には、銀色の鈍い光を放つ腕時計があった。
さっき星に手を伸ばしたように見えた仕草は、単に左手に付けた時計を確認していただけらしい。
「そ、そこまで笑わなくてもいいじゃないですか」
「ごめんごめん」
笑いの余韻を残したまま、彼女は前に向き直って再び歩みを進め始めた。
「でもまあ星を見ただけで正確な時間がわかる奴はいるわよ」
「そんな妖怪、幻想郷に居ましたっけ?」
「居ないわ。外の人間の話よ」
それは先程の「別世界の私の友人」なのだろうか。
気になったが、それとはまた別の疑問が私の中で膨らむ。
「外の世界、ですか。だったら腕時計だって一般的なものでしょう。向こうの事情に噛み合っていない気がするのですが」
率直に言ってしまうが、それは不要な能力ではないだろうか。天候に左右される安定しない能力より、時計の方がよっぽど便利だ。
「確かにその通りね……どちらかと言えば幻想郷よりだったわ、彼女」
そう言って私の主は星空を見上げた。
真っ暗な空間の中、冷気を吐き出すそれだけが光を放つ。
「やば……昨日で家にある食材は全部食べちゃったんだっけ」
冷蔵庫の中は寂しくなるほど空っぽで、わさびやソースだけがお情け程度に置いてある。
私は勢いよく扉を閉じて、台所の電気を付けた。
こんなことならバイト先であるコンビニから、賞味期限切れの商品をかっぱらってくれば良かった。
「今からコンビニ戻るのもなー」
せっかく自転車で疾走してきたのに、今から踵を返しすのも癪に障る。
どうしたものか、と嘆いていると呼び鈴が小意気良く鳴った。
「あ」
玄関に向かう最中、今日が金曜日である事を思い出した。
冷蔵庫が空なのもわからなくは無かった。食材が無くても何ら問題は無い。
「はいはい」
扉を開けると、両手で鍋を抱えた隣人が唇で弧を描いて笑っていた。
「たまたま、ちょっと作りすぎちゃって」
「そうですか。偶然に私も食べるものが無くて困ってたんですよ」
そう返して、二人で目を合わせてにっと笑う。
金曜は一緒に食べる決まりなんてのは、お互いわかりきっている話である。だからこれは一種のジョークだ。
「ええ。偶然に、ね」
それがマエリベリー・ハーンことメリーと私の、いつも通りのやり取りだった。
メリーと私は同じ大学の寮に住んでおり、壁を叩けば向こうに音が届いてしまうお隣さんだ。ひょんなことから意気投合し、オカルトサークル「秘封倶楽部」を作るのだが、そこは長いので割愛しておく。
彼女が鍋を持って現れたのは週に二回、一緒に夕食を食べるのが日課になっているからだ。ちなみに金曜はメリーの、土曜は私の部屋で食べている。
先程のやり取りはどっちかの気分が良い時に交わされる、定例のネタみたいなものだ。
「……でね、あの魔力どうこう言ってた行方不明の教授が戻ってきたらしくてね……って蓮子。聞いてるの?」
「ん、ああ、ごめんごめん。鍋の蟹がおいしそうでさ」
完全に嘘と言う訳でもない。もはやアンティークとなった炬燵の上で、ぐつぐつと音を立てる鍋は見るものの食欲をそそる。
四畳半の中心に陣取る蟹鍋は、自らがこの世の覇者だと言わんとばかりに良いにおいを漂わせる。もうもうと上がる白い湯気は、もしかすると彼のオーラなのかもしれない。まあ食べられるんだけど。
「どんだけ食い意地はってるのよ。あ、そう言えばその蟹は同じく行方知れずになってたその教授の助手からもらったものよ」
「へー、そういや助手さん仲良かったんだっけ」
会話の片手間に蟹を殻から引きずり出そうとするのだが、どうにも上手く行かない。しかしだからと言って箸で中身をほじくるのは私の美学に反する。
「中々音楽の趣味があってね」と彼女は助手との話を続けるが、メリーの趣味は流行りのアイドル曲と、私の趣味とは逆を行くので微妙な心境だ。
話も節目になり、音楽と言えば、と先程の事を思い出してメリーに聞いてみる事にする。
「そういやメリー」
「何かしら」
「こんな歌知らない?」
「どんな歌か言ってくれないとわからないわよ。私だって心が読める訳じゃないんだから」
「そりゃそうよね……んーと」
思い悩みながら蟹をいじるうちに、身が途中で切れてしまった。仕方なく美学を放棄して、足の甲殻から中身を掘り出す作業に切り替える。
「なんというか……こう乾いた感じのロックっていうか……ダサカッコイイって表現が似合うような、妙に味があるスルメみたいな歌なんだけど」
「さっぱり伝わらないわ」
「私もそう思う」
現実の風景ですら正確に言葉で伝えるのが難しいのに、自分の心の中の感覚なんてもっての外だ。
とか言っている間に、蟹の中身を掻き出し終える。口に入れると美味いんだかどうなんだか微妙な味がした。
こういうのはたまにしか食べられないという補正がついて、ようやくおいしいと感じるものだ。プリンだってバケツ級の質量で来られたら、流石に辟易する。
「そんなこと言ってるより、実際に歌ってみる方が早くないかしら?」
「あー……うん。そうね」
私だってそれ位わかっている。ただ歌うのが恥ずかしくて、できるなら避けたかっただけだ。
今さら恥ずかしがるような付き合いでもないか、と諦め羞恥を脇に置いて、私は歌い始めた。とりあえずは覚えている部分だけ。
「――――で、以上なんだけど」
「……」
メリーは呆けたような表情で、宙空を見つめていた。なんだか亡霊でも取り憑いたみたいだ。
私は彼女の顔の前で手を振って呼びかける。
「あの、メリーさん?」
「……あっ。ごめん、ちょっとぼーっとしてたわ」
彼女は指名された居眠り生徒よろしく、あわてて居住まいを整えた。境界が見えるメリーのことだし、三途の対岸に誘われてなければ良いが。
「やっぱり私にもわからないわ」
「うん……とにかくありがと」
彼女は白菜をつつきながら、私に問いかけた。
「でもなんでそんな気になってるのよ?」
「それがさ……」
私は思い出せない友達の事について話した。CDを貸してくれた事は覚えていて、その他は彼女に関する何一つを覚えていない事。その彼女と私は、かなり仲の良かった部類に入る事。まるで、彼女が夢の中に消えて行ってしまったかのように思い出せない事。
全てを話し終えた後、メリーは一刀のもとに私を切り捨てた。
「蓮子。貴女って意外と薄情者ね」
「いや、そうじゃなくってさ……なんかこう、魔法でもかけられたみたいな感じなのよね」
「んー……あの教授と関係してるのかしら」
「それは無いと思う」
二つ目の蟹に手をかけるが、やはり中々出てきてくれない。
「でもまあ」
彼女は思い出せないその子の方角を見やるかのように、遠い目をして言った。
「親友は自分の全てを忘れてしまったはずなのに、教えた歌だけでも覚えていてくれたら……その子は嬉しがると思うけど」
そんなものかな、と思って私は蟹をいじくる手に力を入れる。
するとしぶとかった蟹の身は、気が抜ける位にすんなり抜け出した。
雪は止んでしまって、代わりに満月が夜空で輝く。庭に積もった雪は、月光でほんのりと照らされていた。勿論昼間ほど明るいと訳が無いが、月明かりがこれだけあれば照明はいらないだろう。
星空を仰いでいる顔はそのままに、私は隣で同じように縁側に腰かけている少女に語りかけた。
「ねえ、綺麗な月だと思わない?」
「……そうですね、紫さん」
明らかに警戒の色を含んだ声で彼女は相槌をうつ。
少し傷つくが、身構えるのも無理は無いかもしれない。ただでさえ胡散臭い妖怪が、夜中にいきなり来訪したのだ。
「私は詐欺師です」というプレートを首から下げた黒スーツの男が、路地裏で話しかけてきたようなものだ。そこまで来ると逆に怪しくないか。
私がぼんやりと月を見続けていると、沈黙に耐えきれなかったのか、彼女はしばらく迷うそぶりを見せた後、ゆっくり口を開いた。
「あの月は……偽物じゃないですよね」
永夜事変の時の事を言っているのだろうか。とも考えたが、恐らく真意は別のところにあるような気もする。
下世話な勘ぐりはしない方が良いか。私は丁寧に答える事にした。
「少なくとも今は本物の月よ。幻想郷の結界は物理的なものではないから。あー……空調みたいなものは効かせてあるから、むしろ外の世界の月より美しく見えるかもしれないけど」
彼女は「そうですか」とだけ言った。
月から彼女に視線を移すと、気のせいかもしれないが、その表情が少しだけ寂しそうに見えた。
縁側に手をかけ、少しだけ体を浮かせて座りなおす。私はそろそろ頃合いか、と思いここに来た目的を果たすことにした。
「それじゃ本題に移りましょうか」
「はぁ……」
曖昧に返事をした彼女だったが、私の真剣な目をみて緊張した面持ちに変わる。
あの二柱は祭りで酒で酔い潰れて、就寝中の筈だ。
なるべく事実だけを伝えよう。そう思って私はなるべく余計な情報をそぎ落として伝えた。
「高校時代の黒い帽子の同級生は、あなたが教えた歌を覚えているみたいよ。東風谷早苗さん」
「―――――――」
目を見開く。
数秒後に風祝の彼女は、私が何を言っているのか、誰の事を指しているのかを理解して、顔をうつ向けた。
そしてか細い声で「そうですか」と無理やり声を絞り出した。
彼女の表情は良く見えず、彼女がどのような心境かはわからない。
別れを告げた故郷への寂寥か、それとも自分のことを完全に忘れいたはずの親友が、僅かかもしれないが覚えていてくれた事に対する喜びか。
「それじゃ私はこれで」
これ以上この神社に居座るのは無粋だな。そう思い私は縁側から立ちあがり、開いたスキマの中に歩いていった。
振り返ってスキマを閉じる――――が、ほとんど無意識に完全には閉じ切らない位置で手が止まった。
「……ぅ……っ…………ぁ……」
彼女が嗚咽を漏らす声が聞こえる。私はスキマを閉じ切った。
「本当……無粋ね」
自分だけが色を持っているスキマの暗闇の中で、一人毒づく。
彼女は泣く所を他人に見られたく無くて、私が帰るまで涙を堪えていたというのに。
誰にも言うまい、そう自らに言い聞かせてから、今度は宇佐見蓮子について思考する。
「それにしても、何で覚えていたのかしら」
現実と幻想の結界はそんなヤワなものではない。加えてほとんど聞く事は無い古い曲なのだから尚更だ。彼女の高校生時代の親友、宇佐見蓮子が覚えているはずは無いはずである。
マエベリー・ハーンという境界を揺るがしてしまう、外の世界のもう一人の私の近くにいたからか。それとも結界に不備があったのか。もしくは――――随分とご都合主義ではあるが――――宇佐見蓮子がそれ程までに、彼女の事を強く想っていたからなのか。
「でもまあ」
そんなことはどうでもいいか。
東風谷早苗がどう思ったのかは分からない。
けれど、皆が私を忘れてそっぽを向いているとき、少しだけでも誰かが振り返ってこっちを見てくれたら、それはきっと嬉しい事だ。
とは言え、単に忘れられていることを思い出されただけでは、むしろ余計に悲しくなるだけかもしれない。
しかし、押し入れの奥底にあるダンボールに仕舞われた人形は、大人になった女の子が家中をひっくり返して自分を探していると知ったらどう思うだろうか。
やはり「今さら……」と憎悪を更に深めるのだろうか。それとも……
「さて」
神社に続く石畳の途中で藍と橙が待っている。早く帰ろう。
私はまぶたを閉じてスキマを開いた。
わざと大仰な動作で湯船につかる。おかげで水がすこし外へ出てしまった。
「ふあー」
肩までつかると、全身の疲労が湯の中に溶けて行くのを感じた。あまり心地よさに、自然と目を瞑ってしまう。
こういう時は、シャワーしか無い外国に生まれなくて良かったと思う。
メリーは食べ終わった後、鍋を洗って帰ってしまった。人の家に水道代を負担させるとこ辺りしたたかだ。もっとも、私も同じことをしているのだが。
「にしても……」
眉間にしわを寄せ、目を半分位開いて考える。
本当に私は酷い奴だ。ずっと一緒に過ごしてきた友達の名前すら思い出せないなんて。これは誰かに呪いをかけられて忘れてしまっているだけだ、と言い訳したくなる。
自己嫌悪で身が悶え、口まで湯につかって蟹みたいにブクブクと泡を吹く。
そんな風について考えていたら、また頭の中にあのメロディーが浮かんだ。私はそれをそのまま声に乗せる。
できることなら、忘れてしまったあの子に届けばいいな、と思って馬鹿みたいに同じフレーズを何度も繰り返した。
「~♪」
秘封倶楽部がいるのは未来世界らしいけど、早苗も本当に現代日本人かとツッコミ入れたくなる髪の色してるからなー。
次はざっくり省いたと言う、紫とメリーの関係辺りの話を読んでみたいと思いました。
でも、騙されたというよりも感心の方が強かったですね。
また、何か今一つ物足りないけれど、逆に想像を喚起する終わり方が非常に秀逸でした。
なるほど、こんなリンクの仕方もあるのか!と感心してしまいました。
面白かったです。
ipodの固有名詞に今更ながら納得できた気がする。時代が繋がってる感がある~……。
凄え
雪の使い方とかが私好みでした。
蓮子と早苗、こんな関係もあるんですねぇ。
蓮子が覚えていたのは、きっと早苗の奇跡の力なのかなー。センチメンタルッ!