―― 本当は、何でこんな奴と……と、ずっと思っていた。
―― 煩わしかった。邪魔だった。……正直、嫌いだった。
―― 真面目なだけが取り柄で、頼りないしドジだし、一緒にいたくないと何度も思った。
―― 形だけとは言え、こんな奴の下で働くとは……と、自分の境遇を呪いさえもした。
―― ……でも、そんな思いは突然変わった。
―― 頼りなくてもいい、ドジでもいい。私が傍で、この人のマイナスを支えてあげればいいんだ。そう思うようになった。
―― 一番大嫌いだった人はいつの間にか、一番大切な人になっていた。
―― あの時初めて、心の底からのあの人の笑顔を見てから……。
* * * * * *
聖が魔界から帰ってきてから数日が経った、とある日の事。
博麗霊夢や霧雨魔理沙、東風谷早苗によって封印が解かれた聖は無事に地上に戻り、そして人里近くに「命蓮寺」と言うお寺を建立しました。
それに伴って、私こと寅丸星と、部下のナズーリンも、共に命蓮寺に住まわせていただく事となりました。
1000年前、聖を救う事が出来なかった……聖が封印されるのを止める事が出来なかった私が、こうしてまた聖と共に生きていいのかは、正直判りません。
だからせめて……今度こそ、私は一人の妖怪として、聖と共に生きていこうと思いました。
さて、何はともあれ、こうして命蓮寺に住む事になった私とナズーリン。
こうなると必然的に、私達にはやらなくてはならない事が出来てしまうわけでして……。
「ナズ、準備はよろしいですね……?」
「……ああ、最初から出来ている」
何時も以上に真剣な顔つきのナズーリン。ああ、やはり頼もしいですね。
しかし、私も負けてはいられません。ナズーリンの上司として、彼女以上に頑張らなくてはいけません。
さあ、張り切っていきましょう!
「それでは、引っ越しの準備を始めますよ!」
「何をそんなに張り切っているんだ……」
……なんだかナズーリンが冷たいです……。
* * * * * *
聖が封印されてから今までの1000年間……私たちがずっと暮らしていた、この古びたお寺。
ぱっと見た感じ、屋根はボロボロだわ柱は折れそうだわで、とても人が住んでいるようには見えないでしょう。
まあ、実際に住んでいたのは私とナズーリンとナズーリンの部下の鼠くらいですけど。
とにかく、信仰があった時に比べて、今のお寺は酷い有様になっているわけです。
それでも私たちは、一応毘沙門天様から預かっているこのお寺を、ずっと守り続けていました。
……今となっては、本当に“一応”ですけどね……。
しかし、そうして1000年もの間暮らしてきたこのお寺とも、ついにお別れです。
私たちはこのお寺を離れ、新たに命蓮寺で暮らす事になります。
今日はその準備のため、こうしてナズーリンと二人でお寺の片付けに来たわけです。
「まったく、引っ越しくらいでそんなに騒ぐとは、やっぱり君は子供なのか?」
……でも、ナズーリンは相変わらずです……。
「い、いいじゃないですか。引っ越しってなんだか気分が高揚しませんか?」
「判らなくもないが、だからってそんなに態度に示すほどの事ではない」
ナズーリンのノリの悪さは、初めて出会った1100年ほど前から変わりません。
だから物凄く今更な事を言っているのは、自分でも判っているんですがね。
そんなところも可愛いのですから、もーまんたいです。
「とにかく、日が暮れる前に終わらせてしまおう。まずはご主人の部屋の物を纏めようか」
「えっ? ナズ?」
何事もないかのように、私の部屋の方角へと足を向けるナズーリン。
「どうしたんだご主人。早くしないと日が暮れてしまうぞ」
「いえ、自分の部屋くらいは自分で……」
いくらナズーリンだからって、流石に自室を見せるのはちょっと恥ずかしいのですよ。
それはまあ、何回か部屋の中を見られてしまった事は……。
「……ご主人? 君はそれを本気で言っているのかい……?」
……やばいです。ナズーリンの琴線に触れてしまったようです。
そうですね……見られてしまった事があるから……。
「ご主人の部屋の片付けを君一人に任せられるかああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
お寺の境内に響くナズーリンの怒声。
普通に考えたら『何を言っているんだお前は』と言いたくなるような台詞でしょう。
しかし、実はナズーリンの言っている事のほうが正しいのです。
それは何故かと言うと……まあ、部屋の中を見れば判るのですが……。
「ご主人!! 君の部屋の中がどうなっているのか!! この場で口に出して言ってみるんだ!!」
「え、えっと、その……」
「私は何度も何度も何度も何度も何度も何度も!! 必要ないものは処分しておけと言ったはずだろ!!
なのに君はなんだ!! 『もったいない』とか『まだ使える』とか!! 君はおばあちゃんか!! 孫がいるのか!!
それだけならまだともかく!! ご主人の能力で無駄に物が集まるから余計にガラクタが増えてるじゃないか!!
なんで1000年もの間!! この寺がガラクタで溢れかえるゴミ屋敷にならなかったと思ってるんだ!!
さあ答えてみろご主人!! 誰が何をしていたからゴミ屋敷にならなかった!!」
うううっ……。ナズーリンの怒鳴り声が心に刺さります……。
確かに私の能力は『財宝が集まる程度の能力』。
自分である程度加減出来ますが、何もしなくても、自然と財宝が集まってきてしまうような能力なのです。
しかし、いくら価値あるものと言えども、溜まりに溜まってしまえばそれは場所を取る邪魔モノになってしまうわけでして……。
散らかっている訳ではないのですが、ナズーリンが処分してくれなかったら、彼女の言うとおりゴミ屋敷と化していたことでしょう。
「だ、だって……」
「だっても何もあるかァ!! 私がこの1000年で何千回ゴミ処理に追われたと思ってるんだ!!」
「しょ、処分しなくてはならなくなったのは800年前くらいです……」
「どうでもいいわそんな事!! とにかく!! ご主人の部屋の片付けは私もやる!! 異論はないな!!」
その言葉に何も言い返せない私。
ああ、この世の中に、部下に敬語を使い部下に此処まで怒鳴られる上司ってどれだけ存在するんでしょう……。
で、でも、此処で引き下がっていてはナズーリンの上司としての面目がありません。
そんなものは1000年前に既になくなっている気がしなくもないですが、それでもです。
「じゃ、じゃあそういうナズはどうなのですか!」
ナズーリンが少しだけ目を丸くする。
どうやら、普段は黙って縮こまる私が、こうして何かを言い返してきた事が珍しいようですね。その通りですけど。
「わ、私はナズの部屋の中を一度も見たことはありませんよ!
何時も何時も『部屋には絶対に入るな!!』と頑なに拒否してくるじゃありませんか!
ナズの部屋も本当は私くらいに物で溢れかえってるんじゃありませんか!?」
この1000年間、私はナズーリンの部屋の中を一度も見た事がありません。
毎度毎度、ナズーリンに用事がある度に部屋を訪れてはいますが、絶対に部屋の中は見せてくれませんでした。
しかし、見るなと言われると見たくなるのが人の性。私は妖怪ですが。そんな事はいいんです。
勿論、何度か部屋を覗いてみようとはしました。しかし何時も鼠に妨害されたり本人に妨害されたりで、結局一度も成功はしませんでした。
つまり、ナズーリンの部屋の中は私には見せられない状態にあると言うこと……。
「……ほう、面白いことを言うなご主人」
しかし、ナズーリンは不敵に笑い返してきます。
「そうだな、折角今日が最後なんだ。特別に私の部屋の中を見せてやろうじゃないか」
まさかの返答。い、今まで一度も見せてくれなかったのに……!?
どういう事なのでしょうか。今日がこのお寺で暮らす最後の日だからって、あまりにも唐突過ぎる変化です。
ナズーリンの部屋の中がどうなっているのか、ずっと気になってはいましたが、なんだか少し気掛かりですね……。
……で、でも、ナズーリンの部屋に入れると言うのは、凄く楽しみでもあります。
だって、私はナズーリンのこと、大好きなのですから。好きな人の部屋とか、凄く気になるじゃないですか。
「いいでしょう。ではこの眼で真実を見極めさせていただきます」
口ではそう言いつつ、内心は早く見てみたいという気持ちを必死に抑える。
変に振舞ってはナズーリンの気を悪くしてしまいます。冷静に、冷静に……。
ナズーリンの部屋の中はどうなっているんだろうなーと、いろいろな想像を膨らませつつ、私はナズーリンと共に彼女の部屋へと向かった。
* * * * * *
「……ですよねー」
ナズーリンの部屋の襖を開けて、最初に出てきた言葉はそれでした。
うん、私は何を期待していたんでしょうか。数分前の自分を引っ叩きたいです。
ナズーリンの部屋の中は、既にきちんと整理整頓されていて、あとはもう纏めた荷物を運び出すだけと言う感じでした。
「私はどこぞの誰かさんと違って、物事は先に先にと片付けておくタイプなのでな。
今日でこの寺を出ると言うのであれば、当然その準備は前日からやっておいているのさ」
ものすごーく嫌味な言い回しですね。はい、何も言い返せないどこぞの誰かさんが通りますよ。
ううっ、これでも昔は真面目な妖怪だったんです……いや、今でも真面目な妖怪なんですよぅ……。
私だって整理整頓自体はちゃんとしています。だけど物が多すぎるのと、此処最近は聖が戻って来た事で浮かれていまして……。
ナズーリンのように、その辺りの事に気が回らなかっただけなんです……信じてください……。
「誰に言い訳しているんだ」
「知りませんよぅ……」
ため息が漏れた。ため息を吐くと幸せが逃げると言いますが、言いえて妙だと思いますよ本当に。
「まあ、折角です。ナズの荷物を運び出して、私の部屋の整理をしましょう」
「そうだな、ご主人にしては珍しくまともな意見だ」
気を取り直してそう意見を出したものの、正面から心を折ってくれるナズーリン。
この程度の事で、珍しくまともと言われるとは……普段の私はどれだけ信用がないのでしょうか。
今に始まった事でないのは判っていますけど……。
「……んっ?」
と、落ち込みながらも部屋の中を見回してみると、部屋の隅に置いてあった机が眼に入る。
いえ、机が出しっぱなしである事も少し不自然ではありました。
ですが、それ以上に気になったのは、その机の上に何かが出しっぱなしになっていた事なんです。
ナズーリンにしては珍しいですね。ちゃんと「片付けた」と言っているのに、こうして何かを放置しているなんて。
「あれっ、これは……」
机の上に置いてあったものを手にとってみる。
それは小さな木の札のようなもので、なんだかとても古そうですね……。
なんでしょうか、何か文字が彫ってあるようにも見えますが……全体的に擦り切れていて、読み取れませんね。
「お、おや、私とした事が……そんなところに置きっぱなしにしてしまうとは」
あれっ?
なんだかナズーリンが急にそっぽ向きながら、妙にわざとらしくそんな事を言ってきました。
ちょっと頬も赤くしていますし……どうしたのでしょうか。
「ナズ?」
「い、いや、ご主人。勘違いするなよ。
荷物を整理していたら、たまたま見つけて、たまたまそこに置き忘れただけだと言う事でだな……」
うーん、本当にナズーリンらしくありませんね。
いつもの余裕たっぷりな態度が全然見えません。いや、ある意味余裕はあるのかもしれませんが。
何か企んでいるのでしょうか。それに、この木の札はいったい……。
「ナズ? この木の札、いったいなんなのですか?」
それは本当に、判らなかったから聞いただけだったのですが……。
その事を私はすぐに後悔することになりました。
ナズーリンの態度がちょっと変だった事を考えても、少し自分で考えれば、それが軽率だったと判りそうなものを……。
「ご、ご主人……?」
今までの表情とは打って変わって、まるでこの世の終わりに直面したかのような絶望の色を見せるナズーリン。
その表情を見て、わけも判らずに私は怯んでしまう。そしてそれが、私の思考を切らす要因にもなってしまった。
「覚えて、ないのか……?」
……えっ?
「……そ、そう……だな……。
あんな事……ご主人にとってはなんでもない事だったんだな……。
……私は……ずっと……」
ナズーリンが此処まで落ち込んだ顔を見せるのは、1000年以上一緒にいた私でも、初めて見るものでした。
それ故に、私は何がなんだか完全に判らなくなる。
この木の板……私も知っているのもなのですか……?
「……すまない、ご主人。ちょっと急用を思い出した。
荷物の片付けは後でやるから……自分の部屋の整理でもしておいてくれ」
「な、ナズ!?」
呼び止める間もなく、部屋を飛び出し何処かへ飛んでいくナズーリン。
後を追う事も出来たのですが、その時の私は不思議と、後を追ってはいけないと感じていました。
「ナズ……」
本当に、どうしたのでしょうか。
あまりに展開が急すぎて、思考が全然追いつきません。
……でも、これだけは判ります。
私の軽率な発言が、ナズーリンを深く傷付けてしまったという、その事だけは……。
「……………」
私は何か、大切な事を忘れているのでしょうか。
そしてその事が、ナズーリンを傷付けてしまった。
私は、手に握られた木の札に目を落とす。
この木の札……ナズーリンの態度からして、これがなんであるのかを私は、知っているはずだった。
でも、どうにも思い出せない。いったいこれは、なんなのでしょうか……。
……この木の札が何であるのかを思い出すまで、ナズーリンには顔向け出来そうもありませんね……。
「……ごめんなさい、ナズ……」
まだこれがなんなのかは思い出せないけれど、自然とそんな言葉が口から漏れ出た……。
* * * * * *
「はぁ? ナズーリンと喧嘩した? んな事報告して、嫌味のつもり?」
「ち、違います。それに喧嘩でもありません。なにか、私がナズを傷付けてしまったみたいで……」
「……マジでノロケ話もいい加減にしろよあんた」
場所は変わって、此処は人里近くに出来た新しいお寺『命蓮寺』。
例の木の札の謎を知るべく、私は1000年前からの付き合いである、この村紗水蜜に相談を持ちかけたのですが……。
ちょっと、相談するべき相手を間違えたかもしれません。
「の、惚気とはなんですか!」
「あんたら二人の話なんて1000年前から惚気にしか聞こえないのよ!!
嫌味か!! 恋人出来る前に死んで男も仲のいい友達もロクにいなかった私に対する当て付けかチクショウ!!」
ムラサは命蓮寺の中では一番気性が荒いと言うか、良くも悪くも真っ直ぐですからね。
基本的に思った事をちゃんと口に出してくれるので、何か相談する相手としては確かにもってこいなんですが……。
その分地雷を踏んでしまった時の反動が凄まじいのです。それが今のこの状況です。
一輪辺りならもうちょっと静かに対応してくれるのですが、今は出掛けているらしいです。
「と、とにかくですね、ムラサはこれに見覚えはありませんか?」
今にも噛み付いてきそうな表情を浮かべるムラサに対して、とりあえず強引に話を進めてみる。
「んっ? なにこの木の板。飛倉の破片じゃないわよね」
まだ若干目の端は釣りあがっているものの、少しは落ち着いてくれたようです。
「って、これって確か……」
おや、知っているのですかムラ……
「死にさらせこんチクショウがああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
ドゴッ!!
と、凄まじく鈍い音を立てて宙を舞う私の身体。そして主に顔面を襲う激痛。
ああ、ムラサに錨で殴られたのも1000年ぶりですね……とか、もはや場違いな事を一瞬考えた後、私の身体は地面に叩きつけられた。
「な、何をするのですか!?」
「喧しい!! あんたどんだけ人をおちょくれば気が済むのよ!!
なに!? 1000年の間にそこまで性格捻じ曲がったのかあんたは!!」
「お、おちょくってなどいません!! 私は真剣に聞いているのです!!」
「ああっ!? あんたがそれの事忘れてるわけが……ッ!!」
と、そこでムラサの言葉がいったん止まる。
ど、どうしたのでしょうか急に……。
「……あんた、まさか本当に覚えてないの?」
そして、今までの怒りの表情から一変、驚いているような、呆れているような、なんとも言えない顔をしました。
「だから、最初からそう言ってるじゃないですか」
「うっわ……それは流石にナズーリンに同情するわ……私ですら覚えてるのに……」
今度こそ、明確に呆れたという表情を浮かべる。
「だ、だからなんなのですかさっきから!! これがなんなのか早く教えてくださいよ!!」
「これって言っていいのかな……」
何故か目を逸らされました。
ううっ、意地悪しないで教えてくださいよぅ。
「あら、星にムラサ。どうしたのですか?」
唐突に私達の耳に届く、とても柔らかくて暖かな声。
それは1000年の封印から解放された我らが主、聖白蓮のものだった。
「聖、今日は人間の里を見回ってくるのでは?」
「ちょっと忘れ物を……。それより、二人とも、決闘をするならちゃんと日時と場所を決めなきゃ駄目ですよ?
こんな白昼堂々、境内で殴り合いをするようではただの喧嘩ですから」
この人はいったい何を言っているんだろう。
たぶん、私の顔に錨で殴られた痕が残っているから、決闘でもしてたのかと思ったんでしょうが……。
突っ込みどころはそこなのかとか、言いたい事はいろいろとあるのですが、聖にそんな事を言ってしまえば、多分2時間ぐらい話がこじれる事でしょう。
「いえ、そうじゃなくて……そう言えば、聖はこの木の札について、何か知りませんか?」
突っ込みを飲み込む意味でも、私は聖に木の札の事を聞いてみる。
ムラサはこの木の札について知っているようですし、聖もひょっとしたら……。
「あら、これは……なんでこれをあなたが?」
どうやら、聖も知っているようですね。
「星の奴、これがなんだか忘れたみたいですよ」
「えっ?」
ムラサがそう説明すると、唖然とする聖。
聖ですらこんな反応をするくらいに意外なものなのでしょうか。
「あらあら、駄目よ星。そんな事では何時まで経っても女の子に好かれませんよ」
「私は女です」
つい突っ込んでしまった。
「……本当に覚えていないようですね。ふふっ、なんだか逆に微笑ましいわ」
「ホント、嫌がらせもいい加減にして欲しいですよ」
うううっ……だから、早くこれがなんなのか教えてくださいって言ってるじゃないですかぁ。
「それにしても、ナズーリンもナズーリンですね。ちゃんと1000年もの間、失くさずにとっておいたなんて」
「ある意味ナズーリンらしいんじゃないですか? 律儀で真面目な奴ですし」
「そうですね。あの時も凄く喜んでいましたから」
えっ?
「ほら、思い出せないのですか? 1000年前、あなたとナズーリンがこのお寺に来てから、一月ぐらい経った時だったかしら」
このお寺に来てから、すぐの頃ですかね。
……確かあの時のナズーリンは、なんと言うか、全然私に対して心を開いてくれませんでした。
ナズーリンは私よりもずっと昔から毘沙門天様に仕えていたのに、ぽっと出の私の部下になるなんて、プライドが許さなかったのでしょう。
……あれ? そう言えば、どうしてナズーリンは私に、少しは心を開いてくれるようになったんでしたっけ。
「ナズーリンと何とか仲良くなりたいと、私に泣きついてきましたよね」
そんな事もあった気がしますね……。
「で、その時私はなんて言ったのかしら?」
ああ、それは覚えていますとも。と言うか、一緒に思い出しましたよ。
確かあの時、聖は……。
「あっ……」
そう言えば、あの時……。
「思い出しましたか?」
……そうだ、聖にその時言われた事を思い出して、やっと全部繋がりました。
そういう、事ですか……。
これは確かに、ムラサに呆れられても仕方ないかもしれませんね。
なんで、この木の札の……いえ、この“お守り”の事を忘れていたんでしょうか。
「ナズ……」
先ほどのナズーリンの、あの悲しそうな顔を思い出す。
ごめんなさい、ナズーリン。本当に、私はあなたの上司として失格です。
確かに、とても小さな事だったから、といいわけは出来ます。ですが小さくても、とても大切な思い出のはずでした。
そんな事を忘れていただなんて、顔向け出来ないなんてレベルの話ではありませんね。
だけど……。
……だけど、ありがとうございます……。
こんなものを、1000年もの間、ずっと持っていてくれたなんて……本当に、嬉しいです。泣きたくなるくらいに。
私ですら忘れるほどに小さな事を、このお守りに刻んだ文字が消えてしまうくらいに長く、ずっとずっと……。
そうだ、このお守りは……。
* * * * * *
あれは、今から1000年以上昔、夏の暑さが始まる少し前の事。
あの時の私は、はっきり言ってご主人の事が大嫌いだった。
虎の妖怪だと言うくせに全然頼りなくて、せいぜい真面目なだけが取り柄としか思えない、そんな程度の奴だとしか思っていなかった。
……少なくとも、ご主人の事を本当に「上司」などとは思っていなかった。
「あ、あの、ナズーリン……」
……ああ、まただ。
妙におどおどした態度で私に話しかけてくる、一応私の主人である寅丸星。
何で虎が鼠に対してそんな態度を取るんだか。全くわけが判らない。
「なんでしょうか、ご主人様」
当時は上司と部下以外の意識を持っていなかったから、そんな風に形だけ敬意を払ったような言葉遣いをしていた。
「よ、よければ一緒に散歩でもどうですか? ほら、いい天気で「すみませんが、忙しいのでお断りさせていただきます」
ご主人の言葉をぶった切る。
そんなの、私にとってはどうでもいい事だ。散歩したいなら一人で行ってくればいい。
仕事以外で、私に絡んでくるのは止めてくれ。
……尤も、ご主人は特別嫌いだったが、何もご主人にばかりこんな態度を取っていたわけではなかった。
聖も、船長も、一輪も……あの時は、正直に言って他人以外の何者でもなかった。
聖の平等主義も全然理解出来ないし、そんな聖を慕う船長と一輪の事も、理解する気にもならない。
何より……聖達の馴れ合いというか、そういうのを見ているのが嫌いだった。
あんなふうに仲良さそうにしていて、何の意味があるんだか。
私は……そんなものは必要ない。私には、仲間なんていなくていい。
私は、一人でいいんだ。
ずっとずっと、そうして生きていくんだって思っていたのに……。
……いや、そう思っていたからこそ……。
「……ナズーリン。そんなに片意地にならなくても大丈夫ですよ」
私はご主人に惹かれたのかもしれない……。
こんな風に、お節介なくらいに私を気に掛けてくれたのは、ご主人が初めてだったから……。
「……何の事です?」
普段はこう言う態度を取れば大人しく引き下がるのだが、今日は珍しく食って掛かってくる。
その事に、少なからず興味が湧いてしまった。まあ、少しくらいなら話してやろうか。
「あなたはとても優秀な子です。だから、私なんかの下に就くのが煩わしいのは判ります」
意外と鋭いんだな。自分が優秀だから、というわけではないが。
「だからと言って、私はあなたに一人になっていて欲しくないのです。
聖も何時も仰っている通り、人も妖怪も、全ては等しく同じ命。みんなみんな、手を取り合う事が出来るんです。
あなたが今の自分の立ち位置に不満を感じるのは判りますが……」
「余計なお世話です」
「知っていますよ」
「……………」
まさか、そんな風にあっさりと返されるとは思わず、言葉が続かなくなってしまった。
「余計なお世話である事は百も承知です。
承知なのですが、それでも私は、あなたの傍にもう少し近付きたいんです。
これから何時まで一緒にいるかは判りません。だからこそ、あなたが私の部下でいるこの時間を、大切にしたいんですよ」
……本当に、目の前にいるのは虎の妖怪なのだろうか。
確か虎って、群れも作らずに単独で生活する動物じゃなかったか?
尤も、ネズミなのに単独でいる私が言えることではないと思うがな……。
「あっ、そうでしたナズーリン。よければこれを……」
私が何も言えずに押し黙っていると、急に何かを思い出したように懐を探るご主人。
取り出したのは、なんだか真新しい小さな木の札のようなもので、その真ん中には『子』と言う漢字が彫られていた。
「……これは?」
「私が作ったお守りですよ。あなたに、と思いまして」
……はぁ?
「何のつもりですか?」
「深い意味はありません。ただ、何時も傍に私の心を置いていてくれれば、と」
「なっ……!!」
妙に気恥ずかしい事をさらりと言ってくれたもんだ。
「何を言っているんだ君は!! だ、大体私が信仰するのは毘沙門天様だ!! 君なんかのお守りで私が喜ぶと思っているのか!!」
「私はその毘沙門天様の代理ですよ」
「だ、だからって!!」
「……ふふっ」
不意に、小さく笑うご主人。
な、何がおかしいんだ……って、十分今の私の姿は滑稽であるが……。
「やっと、普通に話してくれましたね」
……えっ?
そう言われて、自分が今、さっきまでの形だけの敬語を使っていない事に、漸く気が付いた。
「ナズーリンみたいな子が敬語を使うなんて、似合いませんよ。
だから、今度からはちゃんと、今みたいな口調で話してください。私に敬意なんて、払わなくても大丈夫です。
私はあなたと……上司と部下としてじゃなくて、“友達”になりたいのですから」
……友……達……?
「……そんな事を自分で言ってて、恥ずかしくないのか?」
「いえ、正直結構恥ずかしいですよ。でも、隠し事をしたってしょうがないじゃないですか。
私はあなたと友達になりたいから、全てを正直に話そうと思ったんです。私の事を、もっと知ってほしいのですから」
そう言って、照れくさそうに頬を掻くご主人。まんざら、嘘と言うわけではなさそうだな。
「じゃあ、自分はどうなんだ。部下に対して敬語を使って」
「私が敬語なのは昔からですから。これが素の私なのですよ」
ぐぬぬ……。
「……本当に、お節介だな……君は……」
「知ってます」
ああもう、君はあらかじめ答えを用意でもしておいたのか! なんでそんなにあっさりと返事が出来るんだ!
もう何か言い返すタネもないじゃないか……。
「ああもう! 勝手にしてくれ!」
ご主人が持っていたお守りを半ば奪い取るようにして、そのまま踵を返す。
「いいか! そんな事を言っても、仕事は仕事でちゃんと厳しくするからな!
だ、だから……仕事以外でだけだぞ! 判ったな“ご主人”!!」
あー、言ってしまった……。
「な、ナズーリン……」
そう言ったのは自分だろうに、何故か呆気に取られたような表情を浮かべるご主人。
まったく、勢いとはいえ……ついさっきまで大嫌いだった奴にこんな事を言うとは、私もヤキが回ったものだ。
でも、何故だろうか。
そう思っておきながら、少しも悪い気がしてこない。
それどころか……。
「はい、これからもよろしくお願いしますね、ナズーリン」
ご主人のこの、心から笑っているような明るい笑顔を、もっと傍で見ていたくなってしまった。
私には到底出来ないであろう、とても気持ちのいい笑顔を……。
「まったく、本当に君は虎らしくないな」
柄にもなく、少しだけ頬が緩んでしまった。
「二人とも、どうしたのですか? そんなに嬉しそうに」
唐突に、柔らかな第三者の声が私達の耳に届く。
……この人の声も、今まではそんなに好きじゃなかったのに、今はとても優しく聞こえるような気がした。
「聖様」
「ナズーリン。私達に対しても、良ければ星と同じように接してくれると嬉しいわ」
……この人、どうしたのとか聞くわりには……ずっと前から私達の会話を盗み聞いていたんだな。
まあ、聖は何処かとぼけている節があるから、それを問いただしても頷きはしないだろう。
「……聖。それに船長も。どうして此処にいるんだ」
よく見たら船長もその後ろにいた。気付かなかった。
「偶然ですよ」
嘘吐け。
「いえ、どうもあなたの事が気になっていたものですから。
それに、星が上手くやってくれるかどうかも、ね」
「ひ、聖……!!」
……あー、なるほど。
いつもは私に邪険にされるとすごすご引き下がるご主人が、今日は食って掛かってきた理由が漸く判った。
「聖の入れ知恵だったのか……」
「星ったら、ナズーリンとどうやったら仲良く出来るかって、泣きながら私に聞いてきましたよ」
「わーっ!! 聖!! それは秘密にするって約束したじゃないですか!!」
「うっわ……星、あんたそんな事……」
「ム、ムラサ!! そんな生ゴミを見るような目で私を見ないでください!!」
「星……姐さんに甘えていいのは私だけよ」
「一輪!? 何処から出てきたのですか!? しかもなに言って……怖い!! 目が凄く怖い!!」
「本当、星はまだまだ子供ですね」
「聖いいいいぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!!」
お寺の境内に響くご主人の悲痛な叫び。
今にも泣き出しそうな表情をしている。本当に子供か、君は。
こんなのが私のご主人なのか。こんな頼りなくて、子供っぽくて、威厳のカケラもない、ただ真面目なだけの妖怪が……。
「……くくっ、あはははははっ!!」
……全く、可笑しいにも程があるだろう。
「な、ナズーリン……?」
私の笑い声を聞いて、ご主人が、聖が、ムラサが、一輪が、全員が目を丸くする。
ああ、そう言えば……私がこんな風に大声で笑ったのなんて、初めての事だったな。
「くくくっ、ご主人、君は本当に情けない奴だな」
「な、ナズーリン!?」
「毘沙門天様への報告書にはなんと書こうかな。
頼りないとか、泣き虫だとか、こんな事では書く事が多すぎて逆に困ってしまうぞ」
「わーっ!! いいです!! そんな事は報告しないでください!!」
「「「「あははははははははっ!!!!」」」」
今度は私だけでなく、聖と船長、そして一輪も同じように大声で笑う。そして顔を真っ赤にするご主人。
傍から見ればただのイジメだな。此処は本当にお寺でいいのだろうか?
そんな事を思いながらも、私の心はとても清々しかった。
こんな風に大声で、心の底から笑う事が出来たのは、どれだけ振りの事だろうか。
でも、笑い方を忘れていなくて良かった。でなければ、今の私の安らぎはなかっただろう。
……少し視界が滲んでいるのは、笑いすぎたせいなのかな……。
「……ありがとう、ご主人……」
聖達が笑い続ける中、誰にも聞こえないように、そう呟いた。
本当にありがとう、ご主人。
君のお陰で、漸く私は自分の間違いに気付く事が出来たよ。
私は君の事が嫌いだった。それはきっと、ご主人が私が持っていないものを持っていた故の、嫉妬心だったんだろうな。
誰かを慕い、愛する心。私が君達を好きになれなかったのは、私にその心がなかったから。
私は独りだったんじゃない。ただ勝手に、独りになっていただけだった。
でも、もう大丈夫だ。
ご主人、君がその心を……このお守りに乗せてくれたから。
ぎゅっとお守りを、ご主人の心を強く握り締める。
今日この日、この瞬間から、私のこのお寺での本当の人生が始まるんだろう。
だから、私は今のこの心を……この思い出を、大事にしていこう。
ご主人、もう一度だけ言わせてくれ……。
ありがとう……。
* * * * * *
「……ふふっ、本当に、懐かしい事だな……」
お寺の縁側に腰掛けて、ずっとあの時の事を思い出していた。
ご主人が何か判らないと言ったあの木の札は、1000年前にご主人がくれた、あの時のお守りだ。
全く、あれだけ恥ずかしい思いをしただろうに、なんだってその時の事を忘れるかな。
……でも、思えばご主人は、忘れていても仕方がないことなんだ。
だって、ご主人にとって、あんな事は出来て当たり前の事だから。
聖と同じく、ご主人は誰とでも対等に接する事が出来る。まあ聖と違って、積極性は全然ないけどな。
とにかくご主人にとっては、誰かと対等に接したい、そのために気持ちを真っ直ぐ伝えたりする事は、割と当たり前の事だ。
その程度の事が出来ないようで、毘沙門天様の代理が務まるはずもない。
真っ直ぐな性格でなければ、仏の御心を代弁し、誰かに判ってもらう事など出来ないから。
だから、忘れていても仕方がなかった。私も少しオーバーリアクションだったと、今は反省している。
忘れられていた事がショックだったのは、本当の事だけどな。
さて、ご主人は今何をしている事やら。
お寺を飛び出したのはいいものを、今のような事を思い返してすぐに引き返したのだが、その時既にご主人の姿はなかった。
部屋を片付けていた形跡はなかったし、大方命蓮寺の誰かに、あのお守りの事を訊きに行っているのだろう。
聖辺りにその事を聞けば、すぐにでも返事が返ってくるはず。
命蓮寺とこのお寺との距離を考えれば、そろそろ戻ってくるはずだと思うが……。
「あ、ナ、ナズ……」
……噂をすればなんとやら、かな。
「ごめんなさい、私……」
どうやら、ちゃんと思い出してくれたみたいだな。
「言い訳がましいかもしれませんが……これだけは聴いてください。
私はあの時の事がどうでも良かったとか、そう思っているわけじゃないんです。ただ……」
「ご主人」
ご主人の言葉を制する。
そんな言い訳は聞きたくないさ。私自身で、その事はもう結論付いている。
君に悪意も何も無い事は判っているんだ。だから、自分を責めるような事は言わなくていい。
……それよりも……。
「私には、ずっと『仲間』と呼べる存在がいなかったんだ」
「えっ?」
急にそんな話をし始めたのに戸惑ったのか、ご主人は目を丸くする。
まあ、確かにこんな急にでは変だろうな。でも、ご主人にこの事を聞いて欲しい。
どうしてあの時の私が、誰にも心を開こうとしなかったのか。
そして、どうしてご主人に惹かれたのかも、な……。
「私は、この国の生まれの妖怪じゃない。
この国に来る船にたまたま潜り込んでいて、そしてたまたまこの国に来て、妖怪になったんだ」
「え、ええ……そんな話を昔聞いた気がします」
そうだったかな。
仮に話していたとして、何でその事は覚えてるのに……。
「毘沙門天様に仕え始めてからも、何処かいつも寂しかった。
私だけは、この国の妖怪じゃない。私だけは、なんだか他の者たちとは違う。ずっとそんな思いが、心の片隅に燻ってた」
あの時は、そんな事には気付かなかったけどな。
ただただ、一人である事を無理やり肯定し、誰かと馴れ合う事を避けていた。
他の者達とは違う、そんな自分勝手な思いから……。
「ご主人、正直に言うと、あの時は君の事が大嫌いだったよ」
「……えっ!?」
ご主人の反応に、思わず笑いそうになってしまった。
「ドジで頼りなくて、真面目なだけでしかもやる気も空回りしやすくて、全くなんだってこんなのが上司なんだと、何度毘沙門天様に文句を言ってやろうと思ったか判らないな」
「ナ、ナズぅ……」
涙目になるご主人。
そういうところが嫌いだったんだと言っているだろうに。今でもあまり好きではないが
まあ、そろそろからかうのも止めにしておこうか。話が進まないしな。
「……でも、そんな君が、凄く羨ましかった」
ふふっ、と鼻で笑う。自分で自分の事を。
本当に、馬鹿な話だ。それほどまでにご主人の事を嫌悪しておきながら、本当はご主人に憧れていたというのだから。
誰とでも平等に接する事の出来るご主人を、私は嫉んだ。だから、ご主人の事を嫌いなんだと思っていた。
でも、それは違う。嫉むと言う事は、同時に憧れるという事でもあるんだからな。
自分に無いものを持っているから、それを持っている誰かを嫉ましく感じるんだ。
自分に無いものだと判っているからこそ、それを持っている誰かに憧れるんだ。
「でも私には、それを憧れと認める事は出来なかった。私には、誰かと共に在る事を幸せに感じる心が、無かったのだから。
だから、君を嫉んだ。君の事が嫌いだった。聖の事も船長の事も、一輪の事も、みんなみんなどうでも良かった。
……そんな私に、君は大切なものをくれたんだ。ご主人……」
すっと立ち上がり、あまりに私が変な事を言うからか、固まっているご主人の傍に歩み寄る。
そして、ご主人の右手……ずっと何かを握り締めている、その手を取った。
「君は私に、その心をくれた。このお守りに乗せてな。
あの時は言えなかったが、今度こそ、ちゃんと言わせてくれ」
驚いた表情のまま、ご主人は握り締めていた右手をそっと開く。
ご主人の手の中にあった、1000年前のお守り。
それは私とご主人の、一番最初にして一番大切な絆。
刻まれた文字が擦り切れ、見えなくなってしまうほどに古く……でも、その意味は今でもずっと残っている。
『子』、それは調和の意。
ネズミなのに、誰にも心を開かずに孤独だった私。とてもじゃないけど、私はネズミらしい心を持っているとは言えなかった。
このお守りに刻まれた文字は、ただ単に私に渡すものだったから、と言うわけじゃない。
調和する事を知らなかった私に当てた、メッセージだったのだろう……。
私の勝手な想像だけどな、それは。でも、きっと間違っていないだろう。
だって、このお守りのお陰で……私は一人じゃなくなったんだから……。
「ありがとう、ご主人」
あの時のような、小さな声じゃない。
私の精一杯の気持ちを乗せた、ご主人への感謝の言葉と笑顔。
あの時ご主人がこのお守りをくれたからこそ、私はこうして笑う事が出来るんだ。
頼りなく思っているのも本当だし、時々君のドジっぷりに嫌気が差す事もある。
でも、君は私にとって、何よりも大事な存在なんだ。
だから、ずっと忘れなかったんだ。あの時の事を。君が忘れていようとも……。
「ナズ……」
ご主人の目に、涙が浮かぶ。
「ごめんなさい、ごめんなさい……!!」
そしてそのまま、私の身体を強く抱きしめる。
全く……違うだろう、ご主人。私は謝って欲しいわけじゃない。
ただ、今日と言う日を忘れないで欲しいだけだ。
私にとって、ご主人と過ごすこの時間は、何にも変えがたいとても大切な思い出。
あの時の事も、聖が封印された後の事も、そして今も……。
初めての友達である君と生きてきた人生は、きっと私が今まで見つけた宝物の中で、一番価値があるものだ。
だからご主人にも、私と共に在るこの一瞬を、ずっと覚えていて欲しい。
身勝手な願いであるのは判ってる。
でも、そうすれば……私達はきっと、今以上に判り合えると思う。
1000年前は、とても遠かったご主人との距離が、今はこんなに近いところにある。
だから、もっともっと、私はご主人の傍に近付きたい。
聖よりも、誰よりも、君に近いところに寄り添っていたいんだ。
私を抱きしめる、君のこの暖かい優しさを……これからもずっと、君に一番近いところで感じていたいから……。
* * * * * *
「では、出発しましょうか」
「そうだな」
時間は大分進み、今は夕暮れ時。
長々と続いた私の部屋の整理も終わり、ついにこのお寺ともお別れの時。
荷物はもう命蓮寺の方に全て運んであります。ただ、最後にもう一度、ナズーリンと共にこのお寺を見ておきたかったので。
「で、どうするんだご主人。このお寺は」
どうすると言いますと?
「どうせこのお寺はもう使わないんだろう?
こういう時は、新たな生活のため、後腐れないよう燃やしてしまうのがセオリーだと思うが」
「いやいやいや、このお寺を燃やしたら山火事になっちゃいますよ」
と言うか何のセオリーですか。何か変な書物でも読んだのでしょうか。
「それに、折角私達が1000年以上も過ごした場所なのですから」
「まあ、それもそうだな」
……本当に、この場所で1000年以上も過ごしたのですね。
「初めてこのお寺に来た時は、何だが凄く緊張していた気がしますね」
「そうだな、日本語を覚えたばかりの外国人のようなしゃべり方だった。
着慣れないその服の裾を踏んで、何度も何度も転んでいたしな」
ううっ……そんな事まで覚えておかないでくださいよぅ。
「今思えば、本当に聖は優しかったな。
そんな君のドジを笑顔でフォローしていて、私には何をしているのかすら理解出来なかったよ」
「本当ですね。聖はあの時から素晴らしい方でした」
「今なら、聖が封印された後、君がお寺の奥で一人泣いていた気持ちもよく判る」
「み、見てたんですか……?」
「でも、人前ではちゃんと気丈に振舞っていたな。お寺の正面……ちょうど、そこに立って」
「そうですね。あの時は本当に、自分を偽るのに疲れました。
そこの角を曲がって、みんなの眼に触れなくなったら……すぐに倒れていましたね」
「ああ、奥の君の部屋にいちいち運ぶのも、凄く疲れたよ」
「ははは……ごめんなさい」
「……でも、君が本当に後悔しているのを知ってしまった以上は、仕方ないと諦めたさ。
毘沙門天様の代理を、身を削ってでも務める君を、止める事も出来なかったしな」
「聖が私を信じて、与えてくださったものですからね。それがせめてもの、私に出来る償いでしたから」
「でも結局、最終的にはこのお寺を訪れる人間はいなくなったけどな」
「……まあ、仕方ありませんよ。人の命は限られているのですから。
私達を信じてくださった人々も、少しずつ、いなくなっていってしまって……」
「確か宝塔を失くしたのもその辺りだったんだよな」
「それが原因で信者がいなくなったんじゃないかって気もします」
「しかもその話を聞いたのはついこの間ときたもんだ
信者が少なくなって、宝塔を使う機会も減ったから気付かなかった私も私だが」
「……100年くらい黙っていてすみませんでした」
「……まあ、その話を聞いた直後だったな。船長と一輪が、突然居間に殴り込んできて……」
「あの時のムラサの剣幕ときたら、わりと本気で死を覚悟しましたね」
「だけど、こうして全ては上手くいった。巫女と魔法使いの横槍はあったけど、聖は1000年ぶりに私達の元に戻って来た」
「そうですね、そして……」
ナズーリンと共に語る、このお寺で過ごした数々の思い出。
聖達と過ごした数十年、ナズーリンと過ごした1000年以上もの時間が、私達の中に蘇ってくる。
「……そして、今日でお別れなんだな……」
何処か寂しげな目で、お寺を見つめるナズーリン。
「本当に、いろいろありましたね……」
私も、今になって少し寂しくなってくる。
おかしいな、最初はどちらかと言うと楽しみだったのに。
「ご主人。やっぱり私にはよく判らない。引っ越しの何がどう楽しいのか。
私達の思い出は、このお寺にたくさん残っている。それを此処に置いて行く事を、どうして君は喜べるんだ……?」
そんな質問が、チクリと胸に刺さる。
確かに、そうかもしれませんね。このお寺を離れる事は、同時にこのお寺に残った思い出を、置き去りにしていくと言う事。
そう考えると、とても寂しい事だと……ナズーリンの言うとおりだと思います。
だけど……。
「……そうですね。それはきっと、前に進む事が出来るからだと思いますよ」
ちょっと、私らしくない言葉ですけどね。
「私は今までずっと、過去に縛られ続けてきました。
ですが、聖がこの世界に戻ってきて、そしてまた一緒に生きられるようになって……。
漸く、私を縛り付けていた『罪』と言う名の鎖から、解放された気がするんです」
勿論、私の罪は許される事ではありません。聖が許してくださっても、私自身が許せないのですから。
恐らく今の私には、どうやっても自分の罪から逃れる事は出来ないでしょう。
だけど、今はほんの少しだけ、肩の荷が下りたような気がします。
「このお寺にいる限りは、私は前に進む事は出来ません。
このお寺を離れ、もう一度聖のために……今度は一人の“妖怪”として共に生きる事。それこそが私が罪を償う方法であり、前に進むための手段なんだと思うんです」
「……どうやら、本当に成長したみたいだな、ほんの少しだけ」
「少し、は余計ですよ」
くすりと、私とナズーリンは同時に軽く笑う。
「私は、過去を捨てる気はありません。でも、もう過去に縛られたくもありません。
二度と聖を、仲間を失わないために。そして私自身の心に嘘を吐かないために。
それが、今まで自分を偽り続けてきた私の、毘沙門天の代理の妖怪『寅丸星』としての意思。
私は漸く、自分の足で立って進む事が、出来るようになったんですよ……」
「……なるほど、ね」
何処か呆れた様子で笑うナズーリン。
心の中で『君は本当に馬鹿だな』とか考えているんでしょう。
でも、馬鹿で構いません。自分に嘘を吐くよりは、よっぽどマシな事です。
「ナズ。もし私達がこれから、何かに行き詰る事があれば、また二人でこの場所に来ましょう。
此処は、私達が今まで二人で生きてきた思い出そのもので、そして私達のスタートラインなのですから」
「まあ、行き詰るのは主に君の方だろうがな」
ううっ、空気読んでくださいよぅ。
「だけど、それもいいかもな。過去から解き放たれる事も大事だが、過去を背負うのもまた大事な事だ。
私達の始まりは、此処に置いていこう。私達が過去を見つめ直すために、そして未来へ進むためにもな」
「らしくないですね、ナズ」
「煩い。言わせたのは君だ」
そっぽ向かれました。でも、ナズーリンが頬を赤くしているのが、なんだか新鮮に感じますね。
「……では、行きましょうか」
「……ああ、そうだな」
最後に、もう一度だけお寺のほうに向き直る。
1000年以上もの間暮らし続けた、私とナズーリンの家。
これからは、妖怪や動物達の憩いの場となるか、はたまた幽霊の溜まり場となるか。どちらもあまり変わらない気はしますが。
しかし、このお寺が今後どうなろうとも、私達の思い出は残り続けます。
『ま、待ってくださいよナズーリン! そんなに急かさないでください!』
『煩い、時間は待ちはしないんだぞご主人』
『あらあら、本当に仲良しですね星とナズーリンは』
『そうですね姐さん。デコボココンビって気もしますが、案外お似合いなんじゃないですか?』
『最初は仲悪そーだったのに、ウザったいったらありゃしないわね』
遠い遠い昔の、そんな私達の日常。それが一瞬だけ、目に映ったような気がしました。
「……ありがとう、ございました」
頭を下げるわけでもなく、それだけが自然と言葉に出る。
やっぱり、寂しいものですね。ナズーリンにあんな事を言っておきながら、本当は心の何処かで、もうちょっとこの家にいたいと思っているのかもしれません。
でも、それでは駄目なんです。
私は前に進みたい。聖やムラサ、一輪と、そしてナズーリンと一緒に。
私はお寺に背を向ける。同時にナズーリンも。
あとはただ、無言で歩く。一度も振り返る事なく、二人で同じスピードで。
私はもう、振り返らない。少なくとも、自分の歩く道が行き詰まらない限り。
過去の罪だけは背負い、思い出は置いていく。普通に考えれば、酔狂極まりない事だと思いますよ。
……それでいいんです。馬鹿だのなんだの、そんなのは普段からしょっちゅうナズーリンに言われていますから。
私はただ、これが正しいと思っているからそうするだけ。正解かどうかなんて、そんなのは知りません。
それは、これからの人生で証明すればいい。正しくなかったのであれば、正しくしてしまえばいい。
……いつか、聖を見捨てた罪、そしてナズーリンとの思い出を忘れていた罪、それも正しかったと言う事が出来るようになるのでしょうか。
もし、もしもそんな日が来るならば……私は自分を、許す事が出来るのでしょうか。
それを知るためにも、私は前に進まなくちゃいけませんね。
もう二度と……後悔なんて、したくありませんから……。
「ナズ」
ちょっと不意打ち気味に、私はナズーリンの手をぎゅっと握る。
ナズーリンの体温が、手のひらを通してじんわりと、私に伝わってきた。
「なっ、ご、ご主人!? なにをするんだ!!」
突然の事に戸惑ったのか、顔を真っ赤にするナズーリン。可愛らしいですね、本当に。
「今だけでいいです。手を繋いでいてください……」
振り解かれないよう、しっかりとナズーリンの手を握る。
ナズーリンも、若干不満そうに俯いたものの、それ以上は何も言わずに一緒に歩いてくれました。
ナズーリン、あなたによく言われる事ですが、私はどうにも紛失癖があるようなんですよね。
宝塔を失くしたり、それ以外にもいろいろ失くしたり、挙句今度はあなたとの大切な思い出すら失くしていました。
でも、私にとって一番大事なものだけは、今まで一度も失くした事が無い、そう言えると思うんです。
だって、私の一番大事なものは、どんなにすれ違う事があっても、それでも私の傍にいてくれるんです。
何度失くしてしまいそうになったかは判りません。
それでもずっと、ずっと……1000年以上も私を支えてくれた、大切な宝物。
今はその宝物の暖かさを、直接感じていたい。
私の何より大好きな、ナズーリンのこの手を、握り締めていたい。
これからも、あなたは一緒に歩いていてくれますか?
きっと私は、これからもあなたに支えてもらわなくてはいけないと思います。
それでも、あなたは私の傍にいてくれますか……?
ふふっ、こんな事を聞いてしまえば、きっと私はまた馬鹿呼ばわりされるでしょうね。
ナズーリンは、ずっと私の傍にいてくれたんです。大切な思い出を忘れてしまっていた私の傍に、こうして寄り添ってくれているんです。
私の元から去るチャンスなんて幾らでもあったはずなのに、それでも……。
だから、信じましょう。
これからもずっと、私の傍にいてくれるという事を。
そして、私はこの手を決して離さないようにしましょう。
もう二度と、ナズーリンを傷付けないためにも……。
ナズーリン。
これからも、ずっと一緒にいてくださいね。
一輪さんにも明日がありますように