「はあ。つまり死にたいと言うわけ?」
「はい。そういうことです」
僕が素直に頷くと、目の前の天狗……射命丸文さんは、呆れ顔でため息を吐いた。
「……人間っていうのはどうしてこう馬鹿なことばっかり考えるのかしらね。どうせ短い人生なのに、それにも耐えきれず自分から命を絶とうだなんて、こればっかりは妖怪にもできない発想だわ」
「すみません」
「別に、謝れなんて言ってないけど」
取材中の丁寧なそれとは打って変わった、冷たい口調。
道端の岩の上に腰かけた文さんは、気だるげに足を組み、その上で頬杖を突きながら、ジロリと僕を睨んでくる。
「取材中に突然声をかけられたから何かと思えば……こんな頼まれごとは前代未聞ね」
「そうなんですか」
「何故意外そうなのよ」
「だって……生きていくって辛いことじゃないですか。僕にはむしろ、道端を辛そうに歩いているお爺さんだとか一人で寂しく生きているお婆さんだとか、ああいう人たちがどうしてあの歳になるまで平気で生きてこられたのかが分かりません」
「平気じゃないでしょうよ……ああ、その一欠けらの想像力もない視野の狭さや無駄に悲観的な思考や根本的な意気地の無さやなんかが、大したことも起きてないのに人生は辛いだのなんだの嘆かせる原因なわけね。納得したわ」
「じゃあ……」
「勘違いしない」
一瞬顔を上げかけた僕に、文さんはぴしゃりと言ってくる。
「わたしはあなたの腐った根性の原因がどこにあるのか納得したと言っただけで、あなたの頼み事を引き受けるとまでは言っていない」
「そうですか……」
僕は肩を落としてため息を吐く。
そんな僕を不快そうに見ながら、文さんは小さく鼻を鳴らした。
「大体、贅沢だとは思わない? そんないじけた根性で勝手に死のうと決意しておいて、最後ぐらいは綺麗な景色を見ながら死にたい、だなんて」
「駄目でしょうか」
「反吐が出るほど不愉快ね。死ねば? むしろ苦しみながら永遠に生きたら?」
文さんの言葉は辛辣で容赦がなく、生来気の弱い僕はまともに顔も見れずに俯くしかない。
僕が里で取材中の文さんに声をかけて、こんな人気のない里外れにまで付き合ってもらったのは、そういう理由だった。
嫌なことばかりの人生だったけれども、どうせ死ぬなら最高の景色を見て死にたい、と思ったのだ。
そして最高の景色とは何だろう、と考えていたとき、上空から軽やかに舞い降りてくる文さんを見かけた。
あんなに高いところから見下ろす地上の景色は、どんなに素晴らしいものだろう。
そういうものに包まれて死ねたら、最高に幸福なのではないだろうか。
今の僕には、それが最高の死に様に思えてならなかった。
だから、自分を思い切り高いところまで連れて行って、そこから投げ落としてくれ、と頼んだのだった。
「よくもまあそんな馬鹿なことを考えつくものだわね」
「いえ、ありきたりな発想だと思います」
「なんでそこで謙遜するの。訳が分からない」
またため息を吐き、値踏みするように僕を見つめてくる。
「聞きたいのだけど」
「なんでしょうか」
「そうすることによって、わたしには何の得があるのかしら」
「得、ですか」
僕が眉をひそめると、文さんは「ええそうよ」と言いながら、軽く体を伸ばした。
「こんな馬鹿げたことにわたしを付き合わせて不快な想いをさせた上、あなたを上空まで連れていくために消費する労力と時間。それらに対する正当な報酬ぐらいは用意してあるんでしょうね?」
「いえ、それは……」
僕が口ごもると、文さんはうんざりしたように首を振った。
「つまり、他者を便利に使って自分だけがいい想いをしようとしていたわけだ。それでどうして頼みごとを聞いてもらえると思ったのか、全く分からない」
「いえ……ええと、じゃあ、死んだ後の僕の肉を食べてもらってもいいですから」
「ほう。地面と激突してグチャグチャに潰れた上、泥に塗れた死体をわたしに喰えと。素晴らしい妙案ですこと」
皮肉たっぷりに唇をつり上げ、文さんはギロリと僕を睨む。
「何を思い上がっているのかしら。辛い辛いと嘆くばかりでろくに自分を高める努力もせず、怠惰と諦観に塗れてただ呼吸をするためだけに生きているような腐った人間の肉が美味い道理があるものですか。お前のようなクズを喰うぐらいなら蛆でも食べていた方がマシよ」
極めて論理的な正論だ。ばっさりと切り捨てられた僕は、何も言い返せずに肩を落とす。
やはり、無理な願いなのだろうか。いや、そんなことはないはずだ。
要するに、文さんは報酬に魅力がないから引き受けられないと言っているのだ。
この仕事をするに値する報酬を僕が用意できれば、引き受けてくれるはず。
(何か。何かないか。僕が今この場で用意できて、文さんを喜ばせられるものは……)
僕は必死に頭を働かせた。ただぼんやりと生きてきた人生の内で、これほどまでに頭を使ったのは初めてじゃないだろうかと思うぐらい、必死に考えた。
そしてふと、一つの案が浮かぶ。
「……話はお終いかしら。忙しいから、そろそろ終わりに」
「待って下さい」
立ち上がって去ろうとした文さんを、僕は必死に引きとめた。
「一つ、あります。あなたにあげられるものが」
「何かしら。下らないことを言ったら手足を切り落として自殺もできないようにするわよ」
刃のように鋭い視線に怖気ながらも、僕はつっかえつっかえ説明する。
「文さんは、新聞記者ですよね。じゃあ、僕のことを記事にして下さい」
「記事に? あなたのことを」
「そうです」
僕が頷くと、文さんは少し考える素振りを見せた。
そして、三秒も経たない内に納得したように頷いた。
「なるほど。あなたみたいな変な人間のこと、記事にすれば妖怪の受けは取れるかもしれないわね。インタビューして物語仕立てにすれば、まあ午後の暇つぶしぐらいには使えるでしょう」
「じゃあ」
「いいわ」
と、文さんはここで初めて、少しだけ柔らかい笑顔を見せてくれた。
「あなたのいじけた願望に、ほんの少しだけ付き合ってあげましょう」
「ありがとうございます」
「別に感謝の言葉なんか要らないわ。労力と時間に見合った対価は頂けそうだものね」
文さんはそう言ってクスリと笑う。
その笑顔は背の翼と相まってとても美しく、まるで地上に堕ちてきた悪徳の天使を思わせる。
そうだ、文さんは天使だ。
僕は彼女の微笑にクラクラしながら、そんな馬鹿らしいことを考えていた。
そうして一刻ほどの後、文さんのインタビューに答え終わった僕は、彼女に抱えられて風の吹きすさぶ上空に来ていた。
幻想郷の空は今日も晴れ渡っている。底が見えない青色を見ていると、どんよりと胸に溜まっていた何かが浄化されていくような気すらする。
不思議と、僕らの周囲に妖怪の影は見当たらなかった。
「人払いの結界を張ったわ。わたしもこういうことをしているのを見られるのはあまり良くないからね。まあ、ほんの数分ほどなら賢者殿に見咎められることもないでしょう」
僕の視線に気づいたらしく、文さんが簡単に解説してくれる。なんて親切なんだろう。やっぱり彼女は優しい天狗だ。
「さあ、この世の見納めよ。普通の人間には決して見ることの出来ない景色、存分に堪能なさいな」
「はい、分かりました」
僕は文さんに抱えられたまま、周囲を見回す。
遥か遠くに、僕が暮らしていた里が小さく見える。視線を滑らせれば鬱蒼とした魔法の森が広がり、その少し向こうには霧に包まれた小さな湖と、血のように紅く彩られた館がある。博麗神社のある小山は鎮守の森に守られて静かな佇まいを見せ、高く険しい妖怪の山は、天に向かって突き立つ牙のように聳えている。
あの向こうには三途の河があって、さらにその向こう側には彼岸があるという話だった。
こんな風に死んでいく僕は、きっと地獄行きだろう。
今後も生きていくのに比べたら、大した苦しみでもないだろうが。
「……気は変わらないかしら」
ふと、背後で文さんが囁いた。柔らかい声音だった。
「こんな素晴らしい景色を見れば、あなたの底が浅い悩みなんて吹き飛んでしまうのではないかと思ったのだけれど」
「それは……少しは、気が晴れましたけど」
「決意は変わらないと?」
「はい」
「そう。残念ね」
僕が頷くと、文さんは残念そうにため息を吐いた。
あんなに冷たかったのに、今は僕の身を案じてくれているらしい。
なんだか少しばかり死ぬのが惜しくなってきたような気がした。
もう少しぐらいなら、先延ばしにしてもいいのではないか。
そう考えた途端、
「じゃ、さよなら」
ごくごくあっさりと言って、文さんがパッと手を離した。
予想外のタイミングで始まった自由落下に、僕は酷く焦って悲鳴を上げる。
空気の抵抗があるせいか、落下は思ったよりもゆっくりしたものだった。それ故に、なおさら恐怖が募る。
こんなこと、しなけりゃ良かった。
そう後悔したとき、地面は既に石ころが見えるぐらいの距離まで近づいていて、僕はそのまま……
……気がついたときには、地面の上に寝転がっていた。
目を開けば、相変わらず馬鹿みたいに澄み渡った幻想郷の空が見える。
「気がついたみたいね」
面白がるような声。そちらに目を向けると、文さんが僕を見下ろして微笑んでいた。
「ここは……」
「里の外れ。助かった感想はいかが?」
助かった。そう、僕は助かったらしい。
そう思った瞬間、意識を失う直前に見た光景が頭に蘇ってきて、心臓がバクバクと鳴り出した。
本当に、恐ろしい光景だった。
今思うと、何故あんなことを考えたのだろうと疑問が湧いてくる。
助かって、本当に良かった。
「……ありがとうございました」
「何が?」
「助けてくれて」
それだけで、十分にこちらの意図が伝わったらしい。
文さんは肩を竦めて微笑み、「いいの?」と首を傾げた。
「わたし、報酬をもらったのにあなたのしたいことを邪魔したわけだけれど」
「邪魔だなんて。僕の方こそ、馬鹿なことをお願いしてすみませんでした」
よろよろと起き上がって頭を下げると、文さんは「よろしい」と言って小さく頷いた。
「生きてて良かった、と思っているでしょう。今の感覚を忘れずに生きていれば、まあ多少のことは我慢できるはずよ」
「そうですね。生きる気力が湧いてきました」
実際不思議なもので、今なら何でも出来そうな気がした。
ちょっと死にかけたぐらいで、我ながら虫のいい話だけれど。
逆に言えば、やっぱり僕の悩みというのはその程度で消え去ってしまうような底の浅いものだったんだろう。
つまり全く以て彼女の言うとおりというわけで、今思うと少しばかり恥ずかしかった。
「けれど、その気持ちもきっと一時的なものでしょうね」
「え?」
僕が驚いて顔を上げると、文さんは素っ気なく肩を竦めて見せた。
「だって、そうでしょう? あなたの性根まで変わったわけじゃないわ。多分その内また、辛いだの死にたいだのという気持ちが生まれてくることでしょう」
「それは……そう、かもしれませんね」
僕が弱気になって俯くと、文さんは「大丈夫よ」と優しく囁き、そっと肩に手を置いてくれた。
「もしもまた死にたいような気分になることがあったら、またわたしを呼びなさいな。今の気持ちを思い出させてあげるわ」
「それは、つまり……」
「まあ、そのときになれば、ね。これで終わりになるならそれはそれで良し。根性無しの人間が立ち直った話として、まあ酒の肴ぐらいにはなるでしょうよ」
文さんはそう言うと身を翻し、「じゃあまたね」と言い置いて軽やかに地を蹴る。
黒い翼を広げて空を飛んでいく文さんを見て、僕はどうしようもない胸の高鳴りを感じていた。
その後、僕は里に戻って人生をやり直し始めた……なんて、単に真面目に働き始めたぐらいで、大袈裟な言い方かもしれないけど。
それでも多分、他人から見れば人が変わったような感じだったんだろう。周囲の人たちからは、「お前随分明るくなったよな」なんて言われることが増えていた。
けれども、それが間違いだということは、誰よりも僕が自分でよく知っていた。
相変わらず辛いことも多い日々の中で、取り戻した生きる気力は少しずつ少しずつ削られていく。
気付けば僕は、また先が見えない絶望感の迷路に迷い込んでしまっていた。
死にたい、だとか、何故生きているんだろう、だとか感じることが多くなっていたのだ。
そうしてそろそろ限界かもしれないと思い始めたとき、僕はあの別れ際の文さんの言葉を思い出していた。
そのときちょうど里の中で文さんを見かけたので、あの日言われた通りに声をかけた。
文さんは僕を見るなり一目で状況を察してくれたようで、「ついてきなさい」と誘ってくれた。
それからはまあ大体予想した通りで、里外れから僕を抱えて飛び立った文さんは、あの日のように「じゃ、さよなら」と言って僕を突き落とし、また地面に激突する直前で救い上げてくれた。
すると不思議なもので、上空から見た景色と自由落下に伴う恐怖の感覚とが、僕にまた生きていて良かったという実感を取り戻させてくれたのだ。
「面倒かけてすみません」
「いいわよ。労力と時間に見合った対価は頂くつもりだから」
文さんはそう言って、また軽やかに地を蹴って飛び立つ。
青い空を飛んでいくその背中を見た僕は、やっぱり文さんは天使だ、と愚にもつかないことを考えては胸をときめかせていた。
それから数回ほど、同じことがあった。
自分でも実感していたのだが、そのたび僕の心は少しずつ強靭になっていくようだった。
そうして、もう二度と死にたいなどとは思わないだろう、と、何とはなしに確信できた日。
僕は再び、文さんに声をかけていた。
「そう。今日でお終いなのね」
僕を一目見て、文さんは優しい声でそう言ってくれた。
「まさか、あの無気力な瞳がこうも明るく輝くようになるとはね。人間、変われば変わるものだわ」
「ありがとうございます。ご面倒おかけしてすみませんでした」
「いいわよ。労力と時間に見合った対価は頂くつもりだから」
文さんはまた優しい、労わるような声音でそう言ったあと、いつものように僕を抱えてゆっくりと空に舞い上がった。
多分、この景色を見ることも今日で最後になるだろう。最初のときとは、随分違って見える。この幻想郷に存在する何もかもが、途方もなく明るく輝いているように見えた。
「さあ、この世の見納めよ。普通の人間には決して見ることの出来ない景色、存分に堪能なさいな」
文さんが、いつものようにそう囁く。
この声を聞くのも、これが最後になるだろう。
そう思うと、胸がじわりと熱くなった。
「僕は、幸せな男です」
「何が?」
「こんな景色を見ることができたんですから」
素直に気持ちを吐き出すと、文さんは小さく笑ったようだった。
「じゃ、さよなら」
またいつものように素っ気なく言って、文さんがぱっと手を離す。
最後の自由落下が始まった。見る見る内に、地面が近づいてくる。
この感覚も今や慣れたもので、恐怖など全く感じない。落下しながら物を考えることだってできた。
多分、文さんはこの日々をまとめた記事を書くことだろう。どんな記事になるのだろう。下らない絶望から立ち直った弱い人間の記録が、少しでも多くの妖怪を楽しませてくれればいいのだが。
いや、きっと大丈夫だろう。
だって、文さんはいつも言っていた。「労力と時間に見合った報酬は頂くつもりだ」と。
それはつまり、これがいい記事になると確信できているという意味でもある。
良かった、本当に……そう思ったとき、僕はふと奇妙なことに気がついた。
おかしい。地面が近づき過ぎている。
いつもならば、文さんはこの辺りでぱっと僕をさらって上空に舞い戻ってくれるはずなのだ。
このままだと、間に合わなくなるのでは……?
「文さん」
小さく呟き、僕は地面に向かって落ちながら必死に身を捩る。
ようやく顔半分だけ振り向いたとき、遥か上空を飛んでいる文さんが見えた。
今やずっと遠いはずなのに、どうしてか僕には、彼女がどんな表情をしているのかがはっきりと分かった。
薄らと、微笑んでいる。
「ああ、そうか」
僕はすぐに文さんの意図を察して、この上ない幸福感に包まれた。
文さんは、僕の人生を最高の瞬間で終わらせようとしてくれているのだ。
もはや迷うことも絶望することもなく生きていけると言う確信を得られた、今日、このとき。
今の一瞬が僕の人生の最高潮であり、後は下り坂なのだ。これ以上の幸福はあり得ないのだ。
ならば今この瞬間に死ぬことが、最高の締めくくりでもあるということだった。
「なんて優しいんだろう」
感動のままに、僕は小さく呟く。
「やっぱり、文さんは天使だ」
そして僕は地面に激突し、見るも無残にグシャリと潰れた。
数秒もすると文さんが軽やかに降りてきて、ぐちゃぐちゃになっている僕の残骸を見下ろして満足げに笑った。
「いいわね。とても美味しそう。いい記事も書けそうだし」
文さんはそう呟くと、キョロキョロと周囲を見回し、お目当ての品を見つけたようだった。
それは、ばらばらに砕けた僕の顔の一部。
幸せに彩られた微笑みを浮かべる、僕の口元だった。
「ありがとう。労力と時間に見合った対価、確かに頂いたわ」
文さんは呟き、顔を近づける。
天使の口づけをもらって、僕はたまらなく嬉しくなった。
「はい。そういうことです」
僕が素直に頷くと、目の前の天狗……射命丸文さんは、呆れ顔でため息を吐いた。
「……人間っていうのはどうしてこう馬鹿なことばっかり考えるのかしらね。どうせ短い人生なのに、それにも耐えきれず自分から命を絶とうだなんて、こればっかりは妖怪にもできない発想だわ」
「すみません」
「別に、謝れなんて言ってないけど」
取材中の丁寧なそれとは打って変わった、冷たい口調。
道端の岩の上に腰かけた文さんは、気だるげに足を組み、その上で頬杖を突きながら、ジロリと僕を睨んでくる。
「取材中に突然声をかけられたから何かと思えば……こんな頼まれごとは前代未聞ね」
「そうなんですか」
「何故意外そうなのよ」
「だって……生きていくって辛いことじゃないですか。僕にはむしろ、道端を辛そうに歩いているお爺さんだとか一人で寂しく生きているお婆さんだとか、ああいう人たちがどうしてあの歳になるまで平気で生きてこられたのかが分かりません」
「平気じゃないでしょうよ……ああ、その一欠けらの想像力もない視野の狭さや無駄に悲観的な思考や根本的な意気地の無さやなんかが、大したことも起きてないのに人生は辛いだのなんだの嘆かせる原因なわけね。納得したわ」
「じゃあ……」
「勘違いしない」
一瞬顔を上げかけた僕に、文さんはぴしゃりと言ってくる。
「わたしはあなたの腐った根性の原因がどこにあるのか納得したと言っただけで、あなたの頼み事を引き受けるとまでは言っていない」
「そうですか……」
僕は肩を落としてため息を吐く。
そんな僕を不快そうに見ながら、文さんは小さく鼻を鳴らした。
「大体、贅沢だとは思わない? そんないじけた根性で勝手に死のうと決意しておいて、最後ぐらいは綺麗な景色を見ながら死にたい、だなんて」
「駄目でしょうか」
「反吐が出るほど不愉快ね。死ねば? むしろ苦しみながら永遠に生きたら?」
文さんの言葉は辛辣で容赦がなく、生来気の弱い僕はまともに顔も見れずに俯くしかない。
僕が里で取材中の文さんに声をかけて、こんな人気のない里外れにまで付き合ってもらったのは、そういう理由だった。
嫌なことばかりの人生だったけれども、どうせ死ぬなら最高の景色を見て死にたい、と思ったのだ。
そして最高の景色とは何だろう、と考えていたとき、上空から軽やかに舞い降りてくる文さんを見かけた。
あんなに高いところから見下ろす地上の景色は、どんなに素晴らしいものだろう。
そういうものに包まれて死ねたら、最高に幸福なのではないだろうか。
今の僕には、それが最高の死に様に思えてならなかった。
だから、自分を思い切り高いところまで連れて行って、そこから投げ落としてくれ、と頼んだのだった。
「よくもまあそんな馬鹿なことを考えつくものだわね」
「いえ、ありきたりな発想だと思います」
「なんでそこで謙遜するの。訳が分からない」
またため息を吐き、値踏みするように僕を見つめてくる。
「聞きたいのだけど」
「なんでしょうか」
「そうすることによって、わたしには何の得があるのかしら」
「得、ですか」
僕が眉をひそめると、文さんは「ええそうよ」と言いながら、軽く体を伸ばした。
「こんな馬鹿げたことにわたしを付き合わせて不快な想いをさせた上、あなたを上空まで連れていくために消費する労力と時間。それらに対する正当な報酬ぐらいは用意してあるんでしょうね?」
「いえ、それは……」
僕が口ごもると、文さんはうんざりしたように首を振った。
「つまり、他者を便利に使って自分だけがいい想いをしようとしていたわけだ。それでどうして頼みごとを聞いてもらえると思ったのか、全く分からない」
「いえ……ええと、じゃあ、死んだ後の僕の肉を食べてもらってもいいですから」
「ほう。地面と激突してグチャグチャに潰れた上、泥に塗れた死体をわたしに喰えと。素晴らしい妙案ですこと」
皮肉たっぷりに唇をつり上げ、文さんはギロリと僕を睨む。
「何を思い上がっているのかしら。辛い辛いと嘆くばかりでろくに自分を高める努力もせず、怠惰と諦観に塗れてただ呼吸をするためだけに生きているような腐った人間の肉が美味い道理があるものですか。お前のようなクズを喰うぐらいなら蛆でも食べていた方がマシよ」
極めて論理的な正論だ。ばっさりと切り捨てられた僕は、何も言い返せずに肩を落とす。
やはり、無理な願いなのだろうか。いや、そんなことはないはずだ。
要するに、文さんは報酬に魅力がないから引き受けられないと言っているのだ。
この仕事をするに値する報酬を僕が用意できれば、引き受けてくれるはず。
(何か。何かないか。僕が今この場で用意できて、文さんを喜ばせられるものは……)
僕は必死に頭を働かせた。ただぼんやりと生きてきた人生の内で、これほどまでに頭を使ったのは初めてじゃないだろうかと思うぐらい、必死に考えた。
そしてふと、一つの案が浮かぶ。
「……話はお終いかしら。忙しいから、そろそろ終わりに」
「待って下さい」
立ち上がって去ろうとした文さんを、僕は必死に引きとめた。
「一つ、あります。あなたにあげられるものが」
「何かしら。下らないことを言ったら手足を切り落として自殺もできないようにするわよ」
刃のように鋭い視線に怖気ながらも、僕はつっかえつっかえ説明する。
「文さんは、新聞記者ですよね。じゃあ、僕のことを記事にして下さい」
「記事に? あなたのことを」
「そうです」
僕が頷くと、文さんは少し考える素振りを見せた。
そして、三秒も経たない内に納得したように頷いた。
「なるほど。あなたみたいな変な人間のこと、記事にすれば妖怪の受けは取れるかもしれないわね。インタビューして物語仕立てにすれば、まあ午後の暇つぶしぐらいには使えるでしょう」
「じゃあ」
「いいわ」
と、文さんはここで初めて、少しだけ柔らかい笑顔を見せてくれた。
「あなたのいじけた願望に、ほんの少しだけ付き合ってあげましょう」
「ありがとうございます」
「別に感謝の言葉なんか要らないわ。労力と時間に見合った対価は頂けそうだものね」
文さんはそう言ってクスリと笑う。
その笑顔は背の翼と相まってとても美しく、まるで地上に堕ちてきた悪徳の天使を思わせる。
そうだ、文さんは天使だ。
僕は彼女の微笑にクラクラしながら、そんな馬鹿らしいことを考えていた。
そうして一刻ほどの後、文さんのインタビューに答え終わった僕は、彼女に抱えられて風の吹きすさぶ上空に来ていた。
幻想郷の空は今日も晴れ渡っている。底が見えない青色を見ていると、どんよりと胸に溜まっていた何かが浄化されていくような気すらする。
不思議と、僕らの周囲に妖怪の影は見当たらなかった。
「人払いの結界を張ったわ。わたしもこういうことをしているのを見られるのはあまり良くないからね。まあ、ほんの数分ほどなら賢者殿に見咎められることもないでしょう」
僕の視線に気づいたらしく、文さんが簡単に解説してくれる。なんて親切なんだろう。やっぱり彼女は優しい天狗だ。
「さあ、この世の見納めよ。普通の人間には決して見ることの出来ない景色、存分に堪能なさいな」
「はい、分かりました」
僕は文さんに抱えられたまま、周囲を見回す。
遥か遠くに、僕が暮らしていた里が小さく見える。視線を滑らせれば鬱蒼とした魔法の森が広がり、その少し向こうには霧に包まれた小さな湖と、血のように紅く彩られた館がある。博麗神社のある小山は鎮守の森に守られて静かな佇まいを見せ、高く険しい妖怪の山は、天に向かって突き立つ牙のように聳えている。
あの向こうには三途の河があって、さらにその向こう側には彼岸があるという話だった。
こんな風に死んでいく僕は、きっと地獄行きだろう。
今後も生きていくのに比べたら、大した苦しみでもないだろうが。
「……気は変わらないかしら」
ふと、背後で文さんが囁いた。柔らかい声音だった。
「こんな素晴らしい景色を見れば、あなたの底が浅い悩みなんて吹き飛んでしまうのではないかと思ったのだけれど」
「それは……少しは、気が晴れましたけど」
「決意は変わらないと?」
「はい」
「そう。残念ね」
僕が頷くと、文さんは残念そうにため息を吐いた。
あんなに冷たかったのに、今は僕の身を案じてくれているらしい。
なんだか少しばかり死ぬのが惜しくなってきたような気がした。
もう少しぐらいなら、先延ばしにしてもいいのではないか。
そう考えた途端、
「じゃ、さよなら」
ごくごくあっさりと言って、文さんがパッと手を離した。
予想外のタイミングで始まった自由落下に、僕は酷く焦って悲鳴を上げる。
空気の抵抗があるせいか、落下は思ったよりもゆっくりしたものだった。それ故に、なおさら恐怖が募る。
こんなこと、しなけりゃ良かった。
そう後悔したとき、地面は既に石ころが見えるぐらいの距離まで近づいていて、僕はそのまま……
……気がついたときには、地面の上に寝転がっていた。
目を開けば、相変わらず馬鹿みたいに澄み渡った幻想郷の空が見える。
「気がついたみたいね」
面白がるような声。そちらに目を向けると、文さんが僕を見下ろして微笑んでいた。
「ここは……」
「里の外れ。助かった感想はいかが?」
助かった。そう、僕は助かったらしい。
そう思った瞬間、意識を失う直前に見た光景が頭に蘇ってきて、心臓がバクバクと鳴り出した。
本当に、恐ろしい光景だった。
今思うと、何故あんなことを考えたのだろうと疑問が湧いてくる。
助かって、本当に良かった。
「……ありがとうございました」
「何が?」
「助けてくれて」
それだけで、十分にこちらの意図が伝わったらしい。
文さんは肩を竦めて微笑み、「いいの?」と首を傾げた。
「わたし、報酬をもらったのにあなたのしたいことを邪魔したわけだけれど」
「邪魔だなんて。僕の方こそ、馬鹿なことをお願いしてすみませんでした」
よろよろと起き上がって頭を下げると、文さんは「よろしい」と言って小さく頷いた。
「生きてて良かった、と思っているでしょう。今の感覚を忘れずに生きていれば、まあ多少のことは我慢できるはずよ」
「そうですね。生きる気力が湧いてきました」
実際不思議なもので、今なら何でも出来そうな気がした。
ちょっと死にかけたぐらいで、我ながら虫のいい話だけれど。
逆に言えば、やっぱり僕の悩みというのはその程度で消え去ってしまうような底の浅いものだったんだろう。
つまり全く以て彼女の言うとおりというわけで、今思うと少しばかり恥ずかしかった。
「けれど、その気持ちもきっと一時的なものでしょうね」
「え?」
僕が驚いて顔を上げると、文さんは素っ気なく肩を竦めて見せた。
「だって、そうでしょう? あなたの性根まで変わったわけじゃないわ。多分その内また、辛いだの死にたいだのという気持ちが生まれてくることでしょう」
「それは……そう、かもしれませんね」
僕が弱気になって俯くと、文さんは「大丈夫よ」と優しく囁き、そっと肩に手を置いてくれた。
「もしもまた死にたいような気分になることがあったら、またわたしを呼びなさいな。今の気持ちを思い出させてあげるわ」
「それは、つまり……」
「まあ、そのときになれば、ね。これで終わりになるならそれはそれで良し。根性無しの人間が立ち直った話として、まあ酒の肴ぐらいにはなるでしょうよ」
文さんはそう言うと身を翻し、「じゃあまたね」と言い置いて軽やかに地を蹴る。
黒い翼を広げて空を飛んでいく文さんを見て、僕はどうしようもない胸の高鳴りを感じていた。
その後、僕は里に戻って人生をやり直し始めた……なんて、単に真面目に働き始めたぐらいで、大袈裟な言い方かもしれないけど。
それでも多分、他人から見れば人が変わったような感じだったんだろう。周囲の人たちからは、「お前随分明るくなったよな」なんて言われることが増えていた。
けれども、それが間違いだということは、誰よりも僕が自分でよく知っていた。
相変わらず辛いことも多い日々の中で、取り戻した生きる気力は少しずつ少しずつ削られていく。
気付けば僕は、また先が見えない絶望感の迷路に迷い込んでしまっていた。
死にたい、だとか、何故生きているんだろう、だとか感じることが多くなっていたのだ。
そうしてそろそろ限界かもしれないと思い始めたとき、僕はあの別れ際の文さんの言葉を思い出していた。
そのときちょうど里の中で文さんを見かけたので、あの日言われた通りに声をかけた。
文さんは僕を見るなり一目で状況を察してくれたようで、「ついてきなさい」と誘ってくれた。
それからはまあ大体予想した通りで、里外れから僕を抱えて飛び立った文さんは、あの日のように「じゃ、さよなら」と言って僕を突き落とし、また地面に激突する直前で救い上げてくれた。
すると不思議なもので、上空から見た景色と自由落下に伴う恐怖の感覚とが、僕にまた生きていて良かったという実感を取り戻させてくれたのだ。
「面倒かけてすみません」
「いいわよ。労力と時間に見合った対価は頂くつもりだから」
文さんはそう言って、また軽やかに地を蹴って飛び立つ。
青い空を飛んでいくその背中を見た僕は、やっぱり文さんは天使だ、と愚にもつかないことを考えては胸をときめかせていた。
それから数回ほど、同じことがあった。
自分でも実感していたのだが、そのたび僕の心は少しずつ強靭になっていくようだった。
そうして、もう二度と死にたいなどとは思わないだろう、と、何とはなしに確信できた日。
僕は再び、文さんに声をかけていた。
「そう。今日でお終いなのね」
僕を一目見て、文さんは優しい声でそう言ってくれた。
「まさか、あの無気力な瞳がこうも明るく輝くようになるとはね。人間、変われば変わるものだわ」
「ありがとうございます。ご面倒おかけしてすみませんでした」
「いいわよ。労力と時間に見合った対価は頂くつもりだから」
文さんはまた優しい、労わるような声音でそう言ったあと、いつものように僕を抱えてゆっくりと空に舞い上がった。
多分、この景色を見ることも今日で最後になるだろう。最初のときとは、随分違って見える。この幻想郷に存在する何もかもが、途方もなく明るく輝いているように見えた。
「さあ、この世の見納めよ。普通の人間には決して見ることの出来ない景色、存分に堪能なさいな」
文さんが、いつものようにそう囁く。
この声を聞くのも、これが最後になるだろう。
そう思うと、胸がじわりと熱くなった。
「僕は、幸せな男です」
「何が?」
「こんな景色を見ることができたんですから」
素直に気持ちを吐き出すと、文さんは小さく笑ったようだった。
「じゃ、さよなら」
またいつものように素っ気なく言って、文さんがぱっと手を離す。
最後の自由落下が始まった。見る見る内に、地面が近づいてくる。
この感覚も今や慣れたもので、恐怖など全く感じない。落下しながら物を考えることだってできた。
多分、文さんはこの日々をまとめた記事を書くことだろう。どんな記事になるのだろう。下らない絶望から立ち直った弱い人間の記録が、少しでも多くの妖怪を楽しませてくれればいいのだが。
いや、きっと大丈夫だろう。
だって、文さんはいつも言っていた。「労力と時間に見合った報酬は頂くつもりだ」と。
それはつまり、これがいい記事になると確信できているという意味でもある。
良かった、本当に……そう思ったとき、僕はふと奇妙なことに気がついた。
おかしい。地面が近づき過ぎている。
いつもならば、文さんはこの辺りでぱっと僕をさらって上空に舞い戻ってくれるはずなのだ。
このままだと、間に合わなくなるのでは……?
「文さん」
小さく呟き、僕は地面に向かって落ちながら必死に身を捩る。
ようやく顔半分だけ振り向いたとき、遥か上空を飛んでいる文さんが見えた。
今やずっと遠いはずなのに、どうしてか僕には、彼女がどんな表情をしているのかがはっきりと分かった。
薄らと、微笑んでいる。
「ああ、そうか」
僕はすぐに文さんの意図を察して、この上ない幸福感に包まれた。
文さんは、僕の人生を最高の瞬間で終わらせようとしてくれているのだ。
もはや迷うことも絶望することもなく生きていけると言う確信を得られた、今日、このとき。
今の一瞬が僕の人生の最高潮であり、後は下り坂なのだ。これ以上の幸福はあり得ないのだ。
ならば今この瞬間に死ぬことが、最高の締めくくりでもあるということだった。
「なんて優しいんだろう」
感動のままに、僕は小さく呟く。
「やっぱり、文さんは天使だ」
そして僕は地面に激突し、見るも無残にグシャリと潰れた。
数秒もすると文さんが軽やかに降りてきて、ぐちゃぐちゃになっている僕の残骸を見下ろして満足げに笑った。
「いいわね。とても美味しそう。いい記事も書けそうだし」
文さんはそう呟くと、キョロキョロと周囲を見回し、お目当ての品を見つけたようだった。
それは、ばらばらに砕けた僕の顔の一部。
幸せに彩られた微笑みを浮かべる、僕の口元だった。
「ありがとう。労力と時間に見合った対価、確かに頂いたわ」
文さんは呟き、顔を近づける。
天使の口づけをもらって、僕はたまらなく嬉しくなった。
文さんは優しいなぁ
文さん本当優しいわぁ
それとも主人公は人形か何かなのか。
すこしでいいから文の内心を語ってほしかった
たまらんなぁ
何だか幸福の振りをしていたようで、最後の最後で首を傾げてしまう。
文さんマジ天使。
甘ったるい人情モノもいいけど、妖怪はこうでなきゃ
ギャグじゃないんだからその辺きっちりしておかないと。
外界の人間を食べたりもしているようですし、
気に入った相手ならまだしも行きずりの相手にはこんなものなのかもしれません。
人間とは、道徳も感性も違うのでしょう。
素晴らしいです。
人間どうやっても最後は死んでしまうわけで
不死性があるとその辺の価値観が違ってくるだろうなあと思います
僕ポジティブすぎんだろ