――東風谷早苗に関する注意点――
「壱、感情の起伏が激しい」
疑う余地もないだろう。
何せ初めて彼女を見かけた日に、無垢な笑顔と共に空へ舞う姿を見て、翌日には泣き顔を見た。その震える肩を、しばらく抱けばまた笑顔だ。”泣いた鴉がもう笑った”などと言うが、これには鴉天狗である私も顔負けだ。理性的である私が、そう感情的になるはずもないけれど。
守矢神社が幻想郷に入った当初の二ヶ月。境内の監視を続ければ、これは否応なく知れた。彼女は事あるごとに笑い、泣いた。その都度、夕日に染まる境内で涙に暮れる彼女を翼で包んだ。漏れ出る嗚咽を聞きながら慰めていた気苦労は、あまり思い出したくない。
この点については明日てこずるようなこともないだろう。いや、多少はあるかもしれないが、取材でこういった手合いをあしらうのは慣れている。彼女に関しては尚更というもの。
さて、次だ。
「弐、思い込みが激しい」
自分で書き出しておいてなんだが、壱とやや被るような。まぁ気に留めておいて損はないだろう。
思えば事の発端となった問題点だ。”想い人の有無を訊ねる”などという迂闊な質問をした私も悪かった。しかし、あそこまで過剰な反応を示すのもどうかと思う。かと言って、それが無ければ、にとり達へ相談することもなかっただろうし、彼女への思慕を自覚することもなかっただろう。人生万事塞翁が馬。告白に至れた感謝の念と、手を焼くだろうことを恨む念が半々だ。
この点は……注意するしかない。何かしら勘違いをしていると感じたら、出来る限り穏やかに諭そう。私に比べれば、赤子と言ってもいいほどの少女だ。時折稚気を見せることもある。けれども耳を貸さないほど強情ではない、はずだ。多分。そうであって欲しい。
何故、私ともあろうものが、あんな人間の小娘に一目惚れなぞ。
後悔したところで戻れるわけでもないか。現状が気に食わないわけでもない。次だ。
「参、所構わず体を寄せてくる」
どうしたものか。
どうしたものか。
何よこれどうしろっていうわけ。
落ち着こう。顔が熱いだなんて気のせいだ。心臓が早鐘を打っているように感じるのは錯覚だ。
深呼吸は実に効果的だ。効果的なはずだ。早く鎮まりなさいよ。
よろしい。
しかし、実際どうこう出来る類でもあるまい。
神社でなら、まだ自制が効いているのだろう。以前、居間で密着されている際に、折悪しく八坂様が廊下を通りかかった。その後の出来事には、長く生きてきた中でも二番目の恐怖を感じた。一番は激怒した早苗だ。片手で五本の御柱を投げてくる八坂様だ。鉄の輪を持ち出した洩矢様が、取り成していなかったらどうなったことか。早苗も理解したのだろう。爾来、間を残して寄るだけで終わるようになった。物足りなさげに見つめないで欲しい。私に出来ることは何もない。
では、外に出たらどうなるか。慣れた面々、にとり達の前ではそれこそ始終張り付いてくる。お陰で厄神様には生暖かい目付きで見られ、谷河童と白狼天狗には冷やかされる。
思い出したらまた熱くなってきた、水飲もう。
大丈夫だ。明日は人前に出る。例え常識破りの巫女だとて、大胆な行動は取れないだろう。不安だが、そう信じるしかない。お願いだから勘弁してよね、早苗。
これ以上悩んでも仕方がない。火照った頭が冷めることを願って、いい加減に寝よう。寝不足の身が重いこともある。今日こそはよく眠れるはずだ。
いつもの場所に、丁度居合わせた白狼天狗にも確認を取った。彼女の嗅覚は妙なところで重宝する。入梅はもうしばらく先だ。天気はそう簡単に崩れてはくれないはず。
明日の”デート”には問題ないだろう。何事もなく終わって欲しい。
***
「早苗に告白した時もだけど、天狗様はよく分かんない相談してくるよねぇ」
「どうして遊ぶためだけに必要なのかしらね。詰まらないことで悩んだ結果だと思うけど」
「聡明なる鴉天狗様の深慮を計ろうとは考えない方がいいですよ。拍子抜けしますから」
河沿いにある森の小さな空白へ降り立ち、三人に用を告げた。出会い頭に寝不足で疲労した顔を指摘される。幾らかでも頭を覚醒されるために河で水を被った。その私の無防備な背中に掛けられた、散々な言葉がこれだ。もっとも、ある程度言われることは覚悟の上だ。我ながら情けなくなるが仕方ない。私の命が掛かっていては躊躇う余裕もない。
鼻先から水滴を振り落としながら、にとりと椛が将棋を指している隣へ座り込む。雛さんは将棋盤を挟んだ向こうで日向ぼっこ中。
「早苗が言うには、遊びではなくデートだそうですよ。”恋人同士が睦み合うためだ”と、熱っぽく主張されました」
「あー、なんか早苗から聞いたことあるような、ないような」
「それもよく分からないわね。明日二人で里へ行くだけなんでしょう」
手番が来たらしい椛は、我関せずとばかりに盤上へ目をやっている。訂正を入れると、二人が頭を捻りだした。私だって雛さんと同意見だ。しかし思うところを述べた途端に、早苗の説教が始まった。
曰く「遊びに行くだけなんてロマンチックさの欠片もない。恋する乙女なら”デート”と呼べ」
曰く「そもそも恋人としての自覚が足りない。散歩中には腕を組むくらいしたらどうなのか」
曰く「告白以来一度として”好き”だと聞いた例がない。本当に私のことを愛しているのか」
なんとか宥めた。
最中に”好き”と言わせられそうになったが、デートへ行く約束と引き換えに、その場は免れた。口に出せるわけがないだろう。勢いや黄昏で細かい表情が見えなかったことも幸いしたのだと思う。その後押しがあってさえ、早苗に告白できたことは奇跡に近いだろう。彼女が私に奇跡を施したのかもしれない。
「えーっと、それで私達に相談って何。遊ぶだけなら、いつも通りでいいと思うんだけど」
思いに耽っていると、にとりの疑問が来た。
来訪の目的を危うく忘れるところだった。
「そうでした。少々デートに臨む際の心得を聞きたかったんです。にとりと雛さんなら知っているでしょう」
何か早苗に対して粗相を仕出かせば、今度こそ愛の言葉を告げさせられる。それは断固として避けなければならない。さもなければ、私が死ぬ。その為の心得だ。
そして、この二人は格好の手本となってくれるだろう。聞かずに済ませる理由がない。
「心得かー。あったっけ、雛」
「ないわね」
にとりが駒を指しながら応えた。空を眺める雛さんには、考えるそぶりすら見えない。頼った船は泥舟だったらしい。
有り得ない。記憶を辿れる限りで言っても、二人は連添って六十年と少しは経っているはずだ。私達の生から見れば極僅かではある。それでも気紛れな性質を抑えて、確固たる関係となるには十分な期間だ。
「待ってください! 貴方達は結構な時間を共に過ごしているはずでしょう。本当にないんですかっ」
「そんなこと言われてもなぁ」
「文さんがそこまで必死になるなんて随分珍しいですね。何か事情があるのですか」
将棋盤から目を逸らさないまま、椛が余計なことを訊いてきた。
「あやや、特にこれといったものはありませんとも。少しばかり気に掛かっただけですよ」
「なら別にいいよね」
私としたことが。
「いえ、あー、多分、本当に些細ですが、理由を思い出しました。それで何か心得はありませんか。ちょっとした忠告程度のものでも」
「些細にしては大層御執心なようですね」
狼め。また余計なことを。
河童と厄神様が顔を見合わせた。流石に息が合っている。六十年連添っているだけはあると感心できる。感心できるが、何故そうした関係で注意点の一つも出てこない。
「その理由、気になるわね」
「私も聞きたいなぁ、天狗様」
今にも二人は、にやけだしそうだ。
言えるわけがない。何か適当な理由を。
「早苗を恋人と意識して連れ立つなんて、初めてですからね。粗相があってはいけないと思いまして」
「早苗は気にしないわよ」
一蹴された。
「そう、それと、勝手が分かりませんから。やはり彼女を楽しませたく思っているんです」
「文と一緒ならなんでもいいと思うけどなぁ」
またか。
「後ですね。誇りある鴉天狗としては、無様な姿を見せられないんですよ」
「早苗さんに対しては今更ですね」
犬め。八方塞だというのか。
「分かりました。言いますとも。何かしらへまをやらかせば、早苗に”好き”だと言わざるを得なくなるかもしれないんです。恥ずかしくてそんなこと言えやしませんよ。それが為に聞きたいんです。これが理由ですよ。満足しましたか」
気付けば息が荒い。私としたことが、何故ここまで興奮しているのか。
笑い声を待ち構えていたが、代わりとして大きなため息が聞こえた。出所の厄神様を見やる。視界の端に河童も顔を向ける様が見えた。
「本当、初々しいわね。その様子じゃ口付けもまだじゃないかしら」
あからさまに生暖かい目を向けて、雛さんが問いかけてきた。
違和を感じたと思ったが気のせいだろう。しかし、口付け?
「誰とですか」
「やっぱりまだなのね。恋人に決まっているでしょう。川魚としたいとでも言うの? 何なら見せてあげましょうか」
言葉に合わせて、雛さんが身を起こす。にとりの頬へ両手を添えて顔を向けさせた。
「うぇっ!? あ、えっと、冗談だよね、雛?」
抗議を意に介した様子もなく、静かに顔を寄せていく。
その様は蝸牛が這うように遅々としている。白魚のような指で支えられた横顔が、朱へ瞬く間に染まっていく。僅かに開いた雛さんの口から吐息が漏れている。距離はあるはずなのに、それを確かに感じ取る。にとりの目に小さな煌き。涙なのだろう。頬に当てられていた両手が、二つ結いを掻き分け頭の後ろへ回る。碧の髪を脇に従えた瞳は、恋人を正面に捕らえて離さない。桜色をした唇と、小刻みに震える唇。開いていたはずの間は、既に一寸を残しているのみ。二人分の呼気だけで埋まる空隙を、粛々と詰め
「やだぁっ! こんなのやだよ雛、お願いだからやめて!」
全身が弛緩した。詰まっていた息が肺から流れ出る。
「ごめんね。冗談よ、にとり。でも、かわいかったわよ」
「雛さん、幾ら何でも悪ふざけが過ぎる。文さんが茹で上がっていますよ」
傍を流れるせせらぎが耳に入ってくる。同時に、こめかみで脈打つ血を意識する。翼の付け根が不快な温かさに湿っている。狭まっていた視野が徐々に開ける。
「文もごめんなさいね。お手本を、と思ったのだけれど。少し薬が強過ぎたようね」
熱が籠る頭に声が響いた。知らずに伏せていた視線を上げる。
にとりが胸へ顔を埋めているようだ。その背中に腕を回して、あやしている雛さんが見えた。
「でもね。あんまり奥手だと早苗に嫌われるかもしれないわよ」
「あの子は甘えたがりだから。私から忠告できるのはこれだけ」
***
「文さーん、いませんかー」
戸を打つ音と声。早苗? こんな明け方に何故。
「デートの放棄は重罪ですよー。ほんとにいませんかー」
”デート”。そんな約束もしたような。
言葉が寝惚ける頭に染み渡る。血の気が引いて、まぶたを開けた。部屋に光が満ちている。眩しい。
「います! いますとも。今、行きますっ」
そうだ、確か明け方まで眠れずにいた。まさかそこから約束の時間まで寝過ごしたというのか。私としたことが、大失敗だ。返事が聞こえたのか、音は止んだ。寝起きで襦袢のままだが構うまい。彼女を待たせたら後が怖い。
「おはようございます、早苗! 早苗?」
慌てて土間へ飛び降り、戸を引いた向こうには目を刺す朝日。逆光の中に、見知らぬ人間が立っている。
茶の革靴、若葉色のワンピース、薄卵色の帯、白藍色の上着、首の後ろで緩く束ねられた髪、銀であろう小さな星が垂れ下がっている黒い……首輪なのかしら? 駄目だ。まだ視界が霞んでるし寝惚けてる。
「おはようございます、文さん」
無邪気な笑顔と、明るく弾んだ声は早苗のものかもしれない。
「本当に早苗?」
「ひどい! 女の子がおめかししてきたんですよ。もうちょっと気の利いたこと言えないんですかっ」
この怒り方は本物だ。となると早急に宥めなければならない。会って早々へそを曲げられるのはよろしくない。
けれども今の私には少々酷な要求だ。上司へのおべっかくらいしか考えたことがない。しかも頭が半分寝てる。何だったか。「乙女心の何たるかを勉強してください」と、言われつつ彼女に渡された……少女漫画? そう、それだ。あれには確か、こうやって頬へ指先で触れて、瞳を覗き込みながら
「すみません、早苗。普段とはまた違う貴方のかわいらしさに、目を疑ってしまいました」
今、私は何を口走った?
「文さんってずるいなぁ」
「あやややや」
紅潮する顔が見えた後に、首へ勢いよく縋り付かれた。一歩よろめいたところで、慌てて踏み止まる。髪が鼻をくすぐり、甘い香りが頭を貫く。
「百点しかあげられないじゃないですか。こんな時だけじゃなくって、もっと日頃から言ってください」
耳に直接囁かれる声と、全身で感じる彼女の体温。
本当に勘弁してよね、早苗。眠気が覚めるどころじゃないわよ。
***
一先ず家の中へ招き入れた。手早く顔を洗って髪に櫛を入れ、着替えを済ませる。
ようやく頭も覚醒して、寝不足とはいえ体調も悪くはない程度になった。八つ当たりと分かってはいるが、こうなった原因の雛さんを恨みたい。ついでに、目も離さず見ていた昨日の自分へ水を掛けたい。口付けから一晩中、早苗の唇が思い浮かび続けた結果がこの様だ。挙句、不安に思う材料が一つ増えた。
まさか、このデートで早苗は口付けを期待しているのではないか? にとりが言うには、雛さんへ告白したその場で唇を交わしたとのことだ。私にそれをやれと? 無理に決まっている。たった一言を口に出すことさえ躊躇うというのに。先程だってそうだ。抱きつかれ、彼女の香りが届いた瞬間、頭が空になった。腰が砕けたかと思ったが、なんとか持ち直せた。予め覚悟ができているならともかく、不意に来られたなら耐えられはしない。そんな私なんかにできるはずがない。
首を振りつつ、居間で茶を飲んでいるだろう早苗の元に向かう。
「あれ、文さん着替えてきたんじゃないんですか」
慌てて身を捩って確かめる。寝巻きではない。
「何かおかしいところがありましたかね。着替えたつもりですが」
「それ、仕事着ですよね」
白のシャツとミニスカート。いつも通りだ。肌を切る寒さがようやくなくなり、先日衣替えをしたばかりの春秋用だ。山の冬は長く厳しい。秋の神々が憂鬱になる理由も、これだけで十分納得できる。
「そうとも言いますね」
守矢神社まで連行された。
道中で延々と愚痴られた。
曰く「記念すべき初デートを何と心得ているのか」
曰く「気合を入れた私が馬鹿に思えて仕方ない」
曰く「次からは許す。ただし今日は飾り立てさせろ」
”心得はない”と言い切った厄神様が恨めしい。ただ、愛の言葉について忘れている様子なのは救いか。
早苗に言わせれば、私には乙女心が徹底的に不足しているらしい。しかし、先程の咄嗟に出た誉め言葉は、少女漫画で勉強した成果だ。足りないとは思えない。加えて、私にだって言い分はある。
取材においては、まず見た目で僅かなりとでも、相手の警戒心を解く必要がある。その狙いと共に、「清く正しい射命丸」を掲げる私にとって、清潔感溢れる白のシャツはうってつけだ。翼の黒と合わせたスカートだって気に入っている。もっとも、これ以外に寝巻きしか揃えていなかった件は、片手落ちだと認めざるを得ない。
気に入らなかったらしい早苗は箪笥を漁っている最中だ。ベッドに腰掛けて、忙しなく動いている背中を眺める。
手持ち無沙汰になり、枕元で暇そうにしている綿の詰まった人形を抱きかかえてみた。”ワニ”というそうだ。二尺余りほどもあって、それが大中小の三体並んでいる。愛嬌のある顔がなければ、それなりに威圧感が出ることだろう。和邇と言えば、幻想郷が閉じられる前に外の世界で見たはずだが、これは緑色で姿も記憶しているものとは違う。同名の別物なのだろうか。
「文さんってスタイルいいし、何でも合いそうなんですよね。妬ましい」
「妬まれる程とも思えません。貴方の方が綺麗ですよ」
「もう、何でそういう言葉は出る癖に」
手を止めて何事か呟き始めた。いつものことだろう。
ワニを腕に納めたまま仰向けになる。なかなか抱き心地がいい。ついでに、持ち運べる綿入れとして冬場には活躍してくれそうだ。座って作業をする場合、背面は布団なりで覆えばいいが前面はどうしても手薄になる。貴重な戦力になるかもしれない。人形遣いに一体作ってもらえないか頼んでみようか。
「そういえば、八坂様と洩矢様はどうしたんですか」
「神奈子様は用事がおありとのことで、夜までお出掛けになっていますね。遅くはならないと仰ってましたが、諏訪子様も御用事だそうです。御自身だけでお出掛けした場合だと、お帰りの際には森を散策なさることも多いですし。やっぱり夜までになるでしょうね。合わせて私がお休みを頂けました。だから今日がデートなんですよ」
休み一つ取るだけでも難儀をするようだ。けれども、神社を空けておいていいのだろうか。普段の二柱を考えれば、案外適当なものなのかもしれない。声が止んだところで箪笥に目を向けてみる。横になった視界の中で、大きな背伸びが見えた。
「うん、こんなもんかな」
お眼鏡に適わなかったらしい外来の服が、傍らで山になっている。これで解放されるのか。もう八つ時が近いはずだ。里へ下りた頃には正午にもなっているだろうか。朝食も取れなかったせいで、昼が少し待ち遠しい。
「雛さんのドレスとか、特に合いそうなんですよね。肌も白いし、アップにして薄くシャドウ入れたりしたら、御令嬢って言っても通りそう。もったいない。もったいないけど、家にはありません。私は持っていません。持てるわけがありません。ならば持っている服から合うものを探すしかありません。さぁ、試着の時間ですよ、文さん」
苦労を掛けたようだ。背伸びの後に、手足も伸ばしている。”次からは許す”とは言ってくれたが、これほど思ってくれると罪悪感も出てくる。
仕事着以外の服もそれなりに揃えたものか。今まで新聞へかまけて、この道には記事とする以外では興味を持てなかった。常々”恋人としての自覚が足りない”と責められるが、こういった点も恐らく理由の一つだろう。
「分かりました。里へ出るついでに、今後のためにも一着買ってもいいかもしれませんね。それで私はどれを着ればいいんでしょうか」
「これです」
指差された先には、打ち捨てられた山が見える。
「どれでしょうか。見当たりませんが」
「これなんです。四の五の言わずに始めましょう。一日は短いんです」
早苗が迫ってくる。胸に抱えたワニは、軽くて頼りなかった。
羞恥を味わった。私ともあろうものが、たかが人間に抗えもしないとは。
首周りがむずむずする。胸から腰まで締め付けられている。きついと言うわけでもないが、私はこれまで緩いシャツとスカートで過ごしてきたのだ。慣れない閉塞感があって落ち着かない。
「やっぱりこれが一番かな。かっこいいし、かわいいし。どうですか」
姿見の前に立たされた。これは誰だ。
彼女と同じ黒い首輪、どうやら皮ではない何か柔らかいものだったようだ。白の上着、黒白の横縞柄が入ったシャツ、腰にはやや厚手の青い生地、足が
「うわっ、どうしたんですか。急に座りこんで」
こんなもの無理に決まってる。どうして早苗こんなもの。
「あのですね、早苗。これは少しばかり、そう、丈が短すぎやしませんか」
「ああ、パンツ。そんなに細くて綺麗な足、出さないでどうするんですか。そもそも文さんって普段ミニスカートでしょう」
「全然違いますよ! これって足の付け根から切り落としたようなものじゃないですかっ」
「そこまで恥ずかしがらなくてもいいと思うんですけど。でも、涙目で真っ赤になってる文さんもかわいいなぁ。うん、すごくかわいい」
顔が火照ってる。顔どころじゃない。全身が燃えているようだ。
一刻も早く脱ぎ捨てたい。けど、立つのは嫌だ。
「そうですね。私としては非常に残念なんですが、断腸の思いでこっちにしましょうか。これなら膝下までありますから、文さんも安心して着られると思いますよ」
逡巡していると、頭上から優しい声音。押さえたシャツから足が出ないように、注意しながら視線を上げる。
フリルがついた濃紺のワンピース。必死の抵抗で拒否した服だ。
厄神様を恨んだ罰なのだろうか。今日は厄日だ。
***
協議が続いた。
”足を出せることは、歳をとっても姿形がそう簡単には変わらない妖怪の特権”と主張する声に押され、一時は初期案に傾きかけたことがあった。肩はもちろん胸元から背中までを露出する、下着と見紛うような服の提案に対し、”それならば濃紺のワンピースを選ぶ”という消極的な意見が出たこともあった。交渉は難航を極める。
しかし、最終的には初期案から横縞柄のシャツを黒へ、パンツを赤と黒の格子が入ったスカートへ差し替えるならば良しとする譲歩を引きずり出せた。ワニを人質に取れたことが決め手になったのだろう。よく分からない生物へ感謝をしなくてはならない。
「どうしましょうか。やっぱり翼用の穴ってあった方がいいですよね」
「そうですね。無ければ無いで構いませんが、あれば落ち着きます」
早苗が鋏とシャツを構えて訊ねてきた。ベッドに寄り掛かり、窮地を救ってくれた恩人を撫でつつ答える。
柔らかい人形もいいものかもしれない。やはり一体頼んでみよう。
「ミシンは動かないから……とりあえず穴開けて、かがり縫いは帰ってからにしましょう。一日くらいなら平気だろうし」
「でも、いいんですか。借りるだけなのに申し訳なくなります」
空を飛ぶことは好きだ。新聞で行き詰った時は、よく頭を空にして飛び回る。生き甲斐と言ってもいい。
そうしたことには使う一方で、全力で羽ばたかなければならない事態は早々訪れない。詰まるところ、気晴らしくらいにしか必要としない。もちろん力を使う使わないに関わらず、翼を出せるならばそれに越したことはない。けれども、そのためだけで一着駄目にするのは気が引ける。
「はい、よければ文さんに上下貰って欲しいなって思ってますから」
「デート用を買う手間が省けるのはありがたいですが、貴方はもう着ないんですか」
「私には合わなくって。友達と見てまわってる時に、つい衝動買いしちゃった服なんです」
巻尺を引き出していた手が止まった。
「そっか、これってあの時のなんだ」
――東風谷早苗に関する注意点。壱、感情の起伏が激しい。
こういった手合いをあしらうのは慣れている。彼女に関しては尚更というもの。徒に半年以上見続けてきたわけではない。この静かで感情が薄い声は、一種の合図だと知っている。
「ちょっとお手洗いに行ってきますね」
そして、彼女に余裕が僅かでも残っていれば、合図をどうにかして隠そうとすることも知っている。けれども、私に比べれば赤子と言ってもいい少女だ。私が見過ごすほど巧みに隠せはしない。いい加減、諦めてくれないかしら。
「待ちなさい、早苗」
「文さん、デリカシーがないですよ」
震える言葉に構わず、掴んだ腕を引き寄せる。勢いをそのままに胸へ納めて抱き締める。
幸い仕事着へ一旦着替えた後だ。翼を広げるには支障がない。
「こういう時は特に意地っ張りなんだから。私に甘えなさい。貴方の恋人なのよ」
滑らかな羽で体を包む。朝晩かかさず手入れをする自慢の一対だ。彼女も気に入っているらしい。出会って間もない頃は少々手荒にされ乱れもしたが、最近になると扱いに慣れたようで優しく触れてくれる。
背中を撫でながら、しばらく二人で過ごした。
***
「もう大丈夫だと思ったんですけど。油断しました」
「それだけ大切に思えているということですよ。焦る必要はありません」
縁側で下駄を履きながら応える。
スカートの調子は悪くない。襞があるため重いかと身構えたが、普段のものと丈が余り変わらないこともあって、特に足を動かしづらいわけでもない。シャツには穴を開けてもらったから、こちらでも不都合を感じるようなことはないだろう。
軽く足踏みして具合を確かめる。よろしい。次いで、首を捻り太陽を見る。中天にさしかかろうとしていた。里へ下りる頃には、昼も大分過ぎているだろう。
「少々遅くなりましたね。手間を取らせました」
「いえ、私の我侭ですから。聞いてくれてありがとうございます」
明るく微笑みながら礼を言われた。
そうだ、私はこの無邪気に輝く笑顔へ惚れたんだ。その歳には不釣合いなほどに、幼く無垢な笑顔。笑いかけられたら、素直に笑い返してしまいそうになる。ただ、今はどこか大人びている気もするが。ああ、そうか。緩く束ねた髪で、余裕を持っているように感じるのか。改めて観察したならば、なるほどこれも似合っている。本来より少し齢を重ね、成長した未来がここに垣間見える。若草が芽吹く春を思わせるワンピース。落ち着いた白藍色でその華を静め、背伸びをした彼女。それでも、所々にあどけない少女が映っている姿。穏やかな春日を浴びて煌く早苗は、いつにも増して
「そしたら行きましょうか……どうかしましたか、文さん」
「綺麗」
今、私は何を口走った?
「いえ、何でもありません! 忘れてくだ
「もう」
勢いよく飛び込んできた。朝にあった光景の繰り返し。
寝惚けた頭ではない。今度は我を失うこともなく受け止められた。
「分かっちゃいますよ。私のこと”綺麗”って言ってくれたんですよね。嬉しいなぁ」
耳の横から声。僅かに震えている。
「今朝、顔を合わせた時は何も言ってくれなくて。その後に言ってくれた言葉もお世辞だって分かってて。ほんとは挫けそうになっちゃったんですよ」
喉から搾り出されるような音が、湿り気を帯びてきた。
「でも、今度は本心で言ってくれたんですよね。忘れろって言われても、絶対忘れてあげられませんよ」
体全体に彼女の震えが伝わってくる。
腕を背中に回し、抱き締める。
「ほんと、嬉しいなぁ」
***
普段、カメラに関して細かい部分の点検は河童へ頼んでいる。いつぞや預けた際に、妙な改造を施されていたことがある。訊いてみれば”ゼンマイ式のセルフタイマーだ”と大威張りで説明された。その時は”一体、何時必要になるのか”と腹も立ったが、今は感謝しなくてはなるまい。
写真を一枚撮り、デートを始めた。
早苗は”風景を楽しみながら飛びたい”らしい。私としては何かしらを早く腹に入れたいものだが仕方ない。
神社を出て間もなく、はたてが大きな麻袋をぶら提げているところを見かけた。恐らく買出しの帰りだろう。からかわれるかと焦ったが、何故か遠くを素通りしていった。顔を合わせれば、何かしらちょっかいを出してくる癖に珍しい。
彼女を見て思いついた。いつ会っても変わらない、悠長な翼の動かし方を参考にする。真似しきれているとは言えないが、速さを抑えながらでも少し楽に飛べるようになった。時には役に立つ事もあるものだ。
上着を腕に掛け、大きく緩やかに羽ばたく。思えば、こうして落ち着いた飛び方をするのも久しぶりかもしれない。
少々気の早い初夏が、風を使って前髪を掻き揚げていく。眼下には、九天の滝を源にする涼しげな清流。そうした流れる幾筋かの青を、幾多もの若葉を抱えた木々が青で取り囲んでいる。南の高くには、長閑に山を照らす太陽。絶え間なく囀る鳥の声が幽かに聞こえる。隣には心地よさげに目を細めている早苗の顔。安らぎを感じる。
「すみません。少し寄りたい場所があるんですけど、いいですか」
不意に視線が向けられた。
何故私は目を逸らせたのだろうか。騒ぎ立てる鼓動を抑えつつ訊ねる。
「ええ、それは構いませんが。どちらへ」
「ありがとうございます。秋の二柱へ御挨拶に伺いたくて」
「暇だわ」
お社に早苗が入ってから幾らも経っていないはずだが、暇なものは暇だ。周囲は刺激の欠片もない森というためもある。亡霊の姫君なぞは、目を楽しませる新緑が云々と趣を味わうのかもしれない。それでも限界というものがある。そもそも毎日見続けて飽きないほうがおかしい。早く戻って来ないだろうか。
「おや、外来人」
入り口を睨んでいると、背後から声がした。
「なんだ、文じゃない」
「”なんだ”というのも御挨拶な。御無沙汰して居ります、穣子様」
振り向いた先には豊穣の神がいた。腰に提げた籠の中には、ウドやゼンマイなどが見て取れる。山菜採りの帰りだろうか。それはともかく外来人? そういえば私は着替えさせられていたか。見間違っても無理ないことだ。
「その格好も気になるけど、私達に何か用」
「用というわけではございません。今、守矢の風祝が中にいまして、そちらの付き添いです」
訝しげにひそめられていた眉が、一転して明るく開かれた。どうやら早苗のことで合点がいったらしい。彼女は秋の二柱と親しくしていると言っていたはずだ。そうでなければ挨拶に寄らないだろう。
「あー、そうなんだ。今日だったのね」
今日だった? 楽しげに顔を綻ばせているが、何かあるというのか。
「うん、なるほどねー。ちょっと動かないでよ」
「そう仰るなら否やは申せませんが、どうかなさいましたか。それに”今日”とは」
「どうかって。早苗とデートするための服なんでしょ、これ」
何で私達のこと言いふらしてるのよ。顔熱い。
「変わるものねー。結構似合ってるわよ。特に首の飾り気に入ったわ。やっぱり早苗から借りたの?」
「はい、着たきり雀では駄目だとお冠でした。散々な目に会いましたよ」
「あの子らしいわね」
声を上げて笑う様子を見る限り、大層心安くしているようだ。しかし、何故だろうか。どうにも落ち着かない。
悪くはないと言われて安心はしたが、観察するならともかく逆の立場は慣れていない。矯めつ眇めつ周囲を巡りつつ眺められるなど初めてだ。あちらこちらに注がれる目が気になる。
「あら、出てきたみたいね。お姉も一緒か」
頭越しに向けられた視線を追えば、戸の前で静葉様と早苗が何事か話している。
ようやくこの退屈も終わるのか。
「あの子泣かせたら承知しないわよ。そのうち惚気聞かせなさいよね」
耳元に小さな声。振り向けば、お社へ駆けて行く穣子様の後姿が見えた。
勝手なことを言ってくれるものだ。私の方が既に泣かされているというのに。
遠くに里が見えてきた。
これで空腹が満たされるというのに気が晴れない。
「文さん。さっきから膨れたままで、どうかしたんですか」
「いえ、何もありませんよ」
「そうとも見えませんけど」
何故、私はここまで苛立っているのか。
早苗には申し訳ないと思う。けれども、口調から棘を抜くことができない。何故。
「どうして穣子様が私達のことを知っているんですか」
口から勝手に言葉が飛び出た。
違う。それは別段不満に思っていない。確かに少々気恥ずかしくは感じた。しかし、にとり達に日頃から何度と無く冷やかされているのだ。今更誰かが加わったところで大した違いはない。
「そのことでしたか。私達について以前から相談へ乗って頂いていたんです。それでこの間報告にも上がって、恋仲ということを御存知なんです。すみません」
間を隔てて彼女の消沈しているような答えが聞こえた。
顔を向けられない。まるで癇癪を起こした幼子ではないか。
「それに」
私はまだ何か言い足りないのか?
「私達のデートなんでしょう。恋人同士で遊ぶんだって」
私は何を言おうとしている?
「何で二柱を訪ねないといけないんですか」
そうだ。胸のつかえが下りた。言いたかったのは確かにこれだ。
しかし、私はそんなことを気に掛けていたのか? 何故それが苛立ちに繋がる?
「文さんって、ほんとにかわいいなぁ」
「あややっ」
背中に重み。
「早苗落ちます! 退いてくださいっ」
上手く羽ばたけない。
「落ち着いて。風で運んであげますから」
囁き。彼女の風。包まれる。胴へ両腕が回った。胸に当てられる。恥ずかしい。きっと悟られる。慌てふためく心臓をきっと知られる。大体翼が動かせなくとも飛べるじゃないか。私としたことが、こんなことで動転するとは。
「文さん、嫉妬してくれたんですよね」
私が? 何故そんなことを感じる必要がある。
「私は嫉妬なんてしていません」
「嫉妬なんですよ。嬉しいなぁ」
胸に当てられていた腕が上がった。
指先で口を噤まされる。
「今日は嬉しいことばっかり。拗ねないでください。大丈夫ですよ。私は文さんの恋人なんですから」
頭に声が染み渡る。
体温を背中に感じる。
荒ぶる心が鎮まっていく。
私はどうだったろうか。
お社の外で待っている間、募った退屈は何だったのか。彼女がいないことに物足りなさを感じたせいではないか?
何故、私は始終入り口を睨み続けていた。私を置いて、一人で行った彼女が恨めしいと感じたせいではないか?
その通りだ。そして退屈の影には、孤独が潜んでいた。恨みを返せば、不安があった。お社から出てきた彼女を見た瞬間、期待と安堵が胸に満ちた。それまでは孤独と不安を感じていたというのに。
情けない。
穣子様が楽しげに笑った時、心の奥底でざわめきを感じた。あれは何だったのか。
今なら分かる。私が知らない早苗の一面を、穣子様は知っているのだと妬んだのだろう。
浅ましい。
唇に当てられた指を、その手ごと両手で包み込む。柔らかくて暖かい。
「貴方の言う通りですね。私は嫉妬をしていたようです」
「やっと気付きましたか。文さんって本当に初心ですね」
声音に揶揄するような調子は見当たらない。それどころか、穏やかで赤子を慈しむような響きがある。少しばかり照れくさくなるが悪くはない。
私は言う通りに初心だ。彼女へ一目惚れしていたというのに、自分の恋心に気付かないまま半年を過ごした。ようやく自覚出来た時に、私は幼稚で愚鈍だと自省した。そのはずだったが、早々変わるようなものでもないらしい。この程度のことすら指摘されるまで分からないとは相当に愚鈍だ。精進しなければならない。私のためにも、彼女のためにも。
でも、ちょっとだけ甘えさせてね。
「早苗。私を一人にして置いていかないでくださいね。貴方は私の恋人なんですから」
「離れろって言われても離れません。文さんもですよ。貴方は私の恋人なんですから」
恋人の優しい風を感じる。
***
球が眼前に浮かんでいる。
何故。
一体全体これは何事なのか。正体は分かっている。そんなことは始めから知っている。そのためにここへ来た。団子だ。鼻先にも程近いため間違えようもない。青々しい蓬の香りがする草団子。上には餡が今にも零れ落ちそうに載っている。団子の萌葱色と、餡の深い小豆色。綺麗だと本心から言える。
甘味では、早苗の焼いたクッキーが一番好きだ。けれども、草団子を食すにも吝かではない。嫌いなわけではないし、むしろ好きな部類だ。更に私は朝から何も腹に入れていない。今すぐにでも噛り付きたい。しかし、それが顔の前で浮かんでいる理由に皆目検討が付かない。
何故。
「どうしたんですか。あんこ落ちちゃいますよ」
「このままでは近い将来そうなるでしょうね。気兼ねなくどうぞ」
「これ、文さんの分ですよ。私はその後で頂きます」
理解できない様を装っては見たものの、全く通じないようだ。相手は常識破りの巫女だ。とぼけていると、無理にでも口へ突き込まれる予感がする。そのうち諦めてくれるだろうなぞ、甘いことを考えたのが不覚だ。そんな考え、端から捨てていなければならなかった。
「私、文さんに『はい、あーん』ってするのが夢だったんです」
にこやかに言い放たれた。確かに、この笑顔は好きだ。好きだが時と場合を選んで欲しい。微笑みと共に緑色の刃物で脅されている気分になってくる。
分かっている。河童と厄神様が時折やっている。幾度も見かけてきたし、その意味も知っている。しかし、
「お姐さん達、お待ちどおさま。葛饅頭二皿ね」
「あ、どうも……わぁ、こっちも美味しそう」
「やっぱり綺麗なおべべねぇ。ゆっくり召し上がって頂戴な」
「はい、ありがとうございます」
ここは茶店だ。
八つ時を直に迎えるとあって、なかなかに繁盛している。手習いが引けたのだろう、年頃の娘達が嬌声を上げている。店先に置かれた縁台には丁稚らしき風体の童が二人。幾許かの小遣い銭でも頂戴したか。家事炊事に一段落つけたと思われる、妙齢の御婦人方が世間話に花を咲かせている。座敷の奥まった席には変り種として、双方朱で染まった半獣人と蓬莱人……それなりのネタね。『胸の餡中、隠し切れぬ甘い恋。伝統の技に、燃える想いを込めて』ってところかしら。とりあえず写真を一枚……って、そんなこと考えてる場合じゃない。大体、この状況で無闇に突っついたら薮蛇になりかねない。後ろ髪は引かれるけど見なかったことにしよう。
そう、客だけならまだいい。しかし、この席は少し目を遣るだけでも、往来から十分見えるだろう場所だ。尚且つ、昼下がりという人影がまばらになる時間ではあっても、行き来が途絶える気配は一向にない。
事程左様に人目がある、今、ここで、「はい、あーん」。
無理に決まってる。お願いだから勘弁してよね、早苗。
「どうしました。きょろきょろしたりして」
「何でもないわよ」
地が出た。あー、どうすんのよこれ。
「そうですか? では、気を取り直して」
饅頭が載った皿を受け取るために、一旦は蓬と小豆で成り立つ山へ戻され、束の間の休息を謳歌していた爪楊枝。白く、細い指で摘み上げられ、再び宙へ。団子越しに見える早苗の笑顔が眩しい。
「文さん。はい、あー
「少しだけ待ってください、早苗」
「何かありましたか」
この窮地を、どう脱するか。先刻、私を救ってくれたワニはもういない。奥で燃え上がっている二人は当てにできない。そもそも対面に座る相手へお互い精一杯で、こちらには恐らく気付いていない。考えるのよ、文。貴方は誇りある鴉天狗。これしきのことで音を上げるなんてらしくない。
「そう、あれです。私が貴方に食べさせてあげましょう。どうですか」
「してくれるんですか!? 文さんってすっごく照れ屋さんですし私の方は諦めてたんですどうしよう」
頬に両手を当てて頭を振って。見ているだけで幸せになれる喜びようだ。我ながら素晴らしい代案を出せた。彼女が喜び、私は助かる。多少は気恥ずかしいだろう。けれども、される側よりする側に回った方が、随分と気楽になれるはずだ。このくらいならば命の代償だと十分飲み込める。底値と言ってもいい。
そろそろ落ち着いただろうか。余り時間をかけては、折角の団子や饅頭が乾いてしまう。そのような事態は歓迎できない。
「では、早苗。こちらをどうぞ」
「あ、はい、えっと、文さん」
私を散々苦しめてくれた丸い疫病神を差し出しはしたものの、腕が重い上に震えだしそうだ。予想以上にこそばゆい。辛うじて耐えられる程度だ。そして、それを知らぬげに彼女は何か躊躇っているように見える。焦らさないで欲しい。まさか試着をしていた時のように、「文さんのかわいい泣き顔がもっと見たいんです」などと言い出すのか。それは私が耐えられない。本当に勘弁してよね、早苗。
待って、落ち着いて。大丈夫。あれはちょっとした激情に駆られた暴走のはず。彼女にはよくあることだ。そう信じたい。先程のはしゃいでいた様子も純粋なものだと言い切れる。それに私はまだ泣いていないはずだ。取材で培ってきた技術がある。表情を作ることは私の十八番だ。僅かに汗を感じるが、今も柔らかく微笑んでいると思う。ならば、私にも彼女にも問題はないと言える。
どうしたというのか。
「その、『はい、あーん』って言ってくれませんか。やっぱり雰囲気って大事だと思うんです」
どうしろというのだ。
いや、分かっている。彼女の言うことはもっともだと思う。真名や呪、言霊などを鑑みてもそうだ。想いを込め、発せられた音には力が宿る。それに依って生まれた神もいるし、妖怪だっている。世に溢れかえる恋人同士が、日々口にしているであろう文句ならば言わずもがなだ。雰囲気が出るのは間違いないし、彼女がそうしたものに憧れているということも知っている。言葉を要求することも自然の成り行きだろう。さて、それを私が言えるかどうかだが。
無理に決まってる。どうすんのよ本当に。
「駄目でしょうか」
「いえ、構いませんよ。なら、改めて」
”こうなるのだろうな”という気はしていた。仕方があるまい。羞恥に悶えるより、早苗の泣き顔を見る方が辛いだろうことは確かだ。泣きはせずとも、諦観と共に落ち込む姿も見たくはない。惚れた弱みということなのだろう。”泣いた鴉がもう笑った”。諾と応じた傍から、輝くような笑顔を浮かべる彼女のためだ。大したことではない。全然大したことではない。全くだ。
腹を決めよう。
「はい、あーん」
嬉々とした表情で身を乗り出してきた。
黒い首輪の映える白い首が伸ばされる。無意識にだろう、やや見開いた目が私の指先を捉えている。団子の先に迫る唇。その瑞々しい桜色に、どうしても視線が吸い寄せられる。喉の奥から間延びした音。見慣れないワンピースに身を包む姿は綺麗だと思った。けれども、この普段とは何も変わらない声は、かわいいのだと思う。いつも聞き続けて、それでも飽きることはない。整った頤が持ち上げられ、口が甘味を納める。閉じられる。指へ感じる僅かな手答え。楊枝を引くのが遅れた。
「ん、おいひい」
顔が熱い。動機が激しい。背中に汗が浮いている。
”する側に回ったほうが気楽だ”などと考えた自分が馬鹿に思えて仕方ない。差し出してから終わるまで、早苗の唇を意識され続けた。ここまで緊張するとは思ってもみなかった。
しかも、おまけまで付いてきた。口付けだ。昨日の厄神様達が否応なく脳裏に蘇った。何も似通ったところはないというのに。このままでは身が持たない。なんとしても脈を鎮めなければならない。
「どうしたんですか」
「ああ、いえ、何でもありません。それはそれとして、満足できましたか」
「それはもう大満足です。私の心にばっちり刻み込みました。ありがとうございます」
よかった。
「じゃあ、次は文さんの番ですね」
何と言った?
「待ってください。満足したんでしょう」
「はい。ですから今度は文さんの番です」
何故気付かなかったさっきの私。当たり前のことじゃないか。替わったところで”される側”にならなくて済むとでも思ったのか。馬鹿げている。私としたことが、そんな単純なことにまで考えが至らなかったというのか。単純どころの話ではない。理の当然だ。縁台へ腰掛けている年端も行かぬ丁稚にすら、今の私は劣っているだろう。誇りある鴉天狗の、この私が。
――東風谷早苗に関する注意点。弐、思い込みが激しい。
彼女のことをどうこう言えた義理ではなかった。後で訂正しておこう。
早合点して一人で浮かれていた私は大馬鹿だ。
「霊夢さんが絶賛するだけはありますね。本当に美味しいですよ」
結構なことだ。美味しいなら、それに越したことはない。
加えて私は空腹だ。今なら何でも食べられそうな気がする。
「では、文さん。はい、あーん」
――あんまり奥手だと早苗に嫌われるかもしれないわよ。
おまけのおまけで思い出された厄神様の忠告。そして早苗に借りた少女漫画。作中では、登場人物へ常に試練が降りかかっていた。むしろ、平凡な日常こそ稀だったと記憶している。
「置いていかないでくださいね」と、彼女に懇願した私だ。これしきのことに怯んでは、彼女へそんな頼み事を言う資格など得られはしない。これも試練なのだろう。ならば乗り越えなくてはなるまい。よろしい。
やってやるわよ見てなさい、早苗
***
「何か疲れてるみたいですけど。大丈夫ですか、文さん」
「ああ、何でもありません。日向に出たせいで、そう見えるだけでしょう」
出る前に茶店の娘へ頼み、写真を撮ってもらった。
勘定を済ませる頃になっても、半獣人と蓬莱人は奥で固まっていた。あれでは日が暮れると思うがいいのだろうか。といっても、他人を心配する余裕なぞ私にはないか。実際疲れた。やり遂げた達成感が少しくらいあっていいと思うが、それを感じる余裕すらない。ただ、早苗が喜んでくれたことは救いだろう。それだけで労われたという気はする。
「腹拵えも済みましたし、一息つけました。これからどうするのですか」
「そうですねー。文さんの服とか反物を見に行きましょうか。でも、どこに何があるかはあんまり知らないんですよね」
「それなら散歩ですかね。私も特に詳しいわけではありませんから。とりあえず大通りを行けば何かしらあるでしょう」
日はまだ高い。もう一月足らずで夏至を迎えるこの時期だ。里へ下りた頃には予定よりも大幅に時間が過ぎていたとはいえ、日没まで余裕は十分にある。散歩もデートの内だというから、急ぐこともないだろう。
けれども、詳しくはないと言ったが、早苗もそうだとは思わなかった。人間だからと無条件で思い込んでいたのかもしれない。言われてみればなるほど、彼女は新参だ。里はそう広くないとはいえ、短い期間で把握しきれるものではないだろう。
「でも、美味しかったなぁ。常連になっちゃいそう。文さんも結構注文してましたね」
「美味しいこともありましたが、何せ朝食を取れませんでしたからね。量を食べたくもなります」
「何ですかそれ。私のせいじゃありませんよ、それは文さんが折角の初デートだっていうのにちゃんとした服を用意してなかったせいですしそもそもですね文さんは乙女心の何たるかを
また、幻想郷に来て当初の二ヶ月間、神社を監視し続けて分かったことがある。巫女は常に忙しくしているということだ。朝方には水を汲み、甕へ移している。程なくして当番制になったのか、乾坤の二柱も井戸周りで見かけるようになった。人間には重労働だと知っているだけに、一安心したものだ。それが済んで炊事の煙も絶えた後に、洗濯物が軒先にぶら下がる。広い境内の掃除はその後だ。晩夏ならいざ知らず、秋も深まる頃には落ち葉が方々から降り続ける。掃き集められた紅葉が山になれば、また昼餉の準備だ。そして買出し、神事、来訪への対応。切りがない。
考えれば、まだ私には新聞を配りに訪れる機会が時折ある。忙しい彼女より里に詳しいとしてもおかしくはない。
「私の顔に何か付いてますか」
「餡はさっき拭き取ってあげたでしょう。何も付いてやしませんよ」
苦労しているのだと思う。こんな安っぽい同情は嫌がるだろうと分かっている。何せ彼女は意地っ張りで強がりだ。少し観察したならすぐ知れる。そして実際強い。事あるごとに泣いて、笑って、立ち直る。彼女が特別なのかもしれないが、こういったところで人間は面白い。
「茶店の人は誉めてくれたけど、里の皆さんも綺麗なんですよね。和でもないし洋でもない不思議な服」
「良し悪しは分かりませんが、奇異と感じることは時折ありますね。少し前から大きく様変わりしましたから」
「二十年ほど前ですか? 外でも昭和の。これも二十年ほど前なんですが、その頃の服を本とかで見た時に、結構変わったんだなぁって思いましたし」
「いえ、幻想郷が閉じられた頃ですから。百と幾らか前ですね」
「……やっぱり文さんって妖怪なんですね」
人間は面白いが、彼女は特に面白い。私はそうした面白い早苗も好きだ。口には到底出せないが間違いない。そして意地っ張りで強がりで強いという以外にも、好きな点は幾らでもある。一々挙げていけば日が暮れるだろう。では、長い話を短くするために考えるべきことは? そう、思慕の原点を探れば手っ取り早いだろう。
一目惚れした理由は何だったのか。初めて彼女を見た時には綺麗だと思った。ありきたりで分かり易い。けれども、それが端整な容姿から来たものか、笑顔に溢れた純粋さから来たものか判別が付かない。一体どちらだというのか? 外面なのか内面なのか、はたまた両方なのか。
「そういえば反物買ってもなぁ。和裁なんて習ったことないし」
「服は出来合いのものでいいんですよ。ところで、綿が詰まった人形は作れませんか」
「綿? ああ、ぬいぐるみ。作れないこともありませんけど。文さん、ワニ気に入ったんですか」
「手元にあれば何かと役立ってくれそうだと思いまして」
「その役立ち方が人質なんて嫌ですよ。あれ、大切なんですから」
よそう。何であれ私が彼女を好いていることは確か。何が惚れた理由かなぞ些細なことだ。こうして隣を歩いている姿を見られるならば十分だろう。
用事へ向かう頃合になった時、彼女が仕事へ戻る時、別れなければならない時間になるたびに、感じる孤独が大きくなる。胸を締め付ける苦しみが、恋をしているのだと私に告げる。けれども、その苦しみは心地良い。日々を共に過ごし、声を聞き、笑顔を向けられるたびに、感じる暖かさに救われる。心を包む温もりで、彼女が好きだと確信していく。
これが幸せというものなのだろう。
「あ、龍神様の像ですよね。初めて見ました」
「ええ、河童の胡散臭い天気予報付きです。神徳あらたかというものでしょう」
「そんなの付けていいのかなぁ。諏訪子様は”どんな形でも信仰は信仰だ”って仰るんですが、私はまだちょっと納得いかなくて。でも、便利なのは確かですね。これってどうしたら天気が分かるんでしょうか」
うろ覚えだが簡単な説明くらいならできるだろう。今日の目は青。けれども、空にはあまり雲が出ていない。的中率は七割程度とも聞いた気がする。白狼天狗の鼻も”午後は保証できないが晴れだ”と言っていた。気に掛けることもないだろう。しかし、昨日までは”雨が降れば”と願っていたというのに、こんな調子の良さには我ながら呆れ返る。今となっては、この一瞬一瞬が愛しくてたまらない。
説明へ興味深げに耳を傾けたり、目を輝かせて像を眺める姿は面白い。大人びた服で身を包んでいるとしても、少女の部分が所々で顔を覗かせる。このちぐはぐさが妙におかしい。
「急に笑ったりなんかして、どうかしましたか」
「いえ、貴方に少し跳ねている髪を見つけまして」
「うわっ、ほんとですか。湿気でもあるのかな」
慌てたように頭を撫で付ける仕草がかわいい。いつか、思うだけでなく直接口に出せる日が来るだろうか。叶うならば、なるべく早い内に訪れることを願う。私は初心だ。早苗との口付けを思っただけで赤面する。たった一言の”好き”ですら躊躇ってしまう。せめて、これくらいの些細なことでなら、”かわいい”や”綺麗”と素直に言えるよう努力しなければなるまい。面と向かって言えたなら、彼女はどういった反応をしてくれるだろうか。頬を赤らめる? 無邪気に笑う? からかわれたと怒り出す? 全てかもしれない。
その様を想像するだけでも、ここまで愉快な気分になれるとは。これならば、本物の彼女に伝えられた時には一体どうなるのだろうか。待ち遠しい。
「さて、堪能できたなら散歩を続けましょうか」
「堪能って、観光名所じゃないんですから。文さんもちゃんと拝しましょう」
「興味津々に覗き込んでいた貴方に言われるのも釈然としませんが。仕方ありませんね」
二拝二拍一拝。早苗と少しばかり親しくなれた頃に教え込まれた作法だ。信仰が篤いというわけでもないが、龍神様に今日を感謝しておこう。隣でも打ち鳴らされる拍手。彼女も礼をしているようだ。腰を折り、頭を垂れ、真摯な様子で拝む姿に、少女の面影は見えない。ただ、凛とした涼やかな美しさがある。家事による水荒れもあるだろうに、合わされた指は白く繊細だ。それに続く手の甲、手首、腕、肘。滑らかで華奢な線が捲れた袖から露になっている。
――散歩中には腕を組むくらいしたらどうなのか。
私に出来るだろうか。
「うん、これでよし。そしたら行きましょうか、文さん」
「ええ」
私なんかに出来るだろうか。
一歩離れて隣を歩く早苗。歩調に合わせて揺れる腕に、私が腕を絡ませる? 冗談じゃない。ただ”かわいい”とさえ言えないというのに。不意に抱きつかれただけで、腰が砕けそうになるというのに。そんな私が、恋人の腕を取る? 無理に決まっている。
でも、
――あの子は甘えたがりだから。
喜んでくれるだろうか。嬉しいと思ってくれるだろうか。私が抱きつかれた際に感じる幸せを、彼女も感じてくれるだろうか。もし、感じてくれるというなら、私が受けてきた幸せを彼女にも与えたい。私は彼女に笑っていて欲しい。泣き顔も、落ち込む姿も見たくはない。ささやかだろうとも笑顔にできるというなら、そうしたい。
そう思うなら何を躊躇うことがあるというのか。私は誇りある鴉天狗だというのに、何を足踏みする必要がある。彼女が喜んでくれるなら、立ち止まる理由は何もない。更には恋人としての自覚を持たねばならない。これしきのことに怯んでは、早苗の隣を歩く資格など得られはしない。これも試練なのだろう。ならば何の苦もなく乗り越えてみせる。よろしい。
やってやるわよ見てなさい、早苗
***
たった一歩が遠い。
距離を詰めなければ話にならない。しかし、腹を括った途端に、体全体で熱を感じるようになるとは。まだ近寄ってすらいないというのに、情けない。何にせよ、まずは半歩だ。それだけ近付けば腕を組むにも十分だろう。
僅かに上下する彼女の横顔が眩しい。私がここまで緊張しているのも知らずに、たわいない世間話をしている。適当な相槌を打つしかできないとは情けない。けれども、上機嫌に見えるのは幸いだ。これならば私が何かをしたとて、そうは気付くまい。
もし気付かれたなら、ありったけの平静さを掻き集めて奮い起こした、この決心も消える。それだけは勘弁して欲しい。この機会を逃せば、次は何時になるやら知れたものではない。それどころか、試みる気概も霧散する羽目になるかもしれない。もっとも、そうなったら元上司の鬼に頼めば、また萃めてくれるだろうか? いや、どうにかなるかもしれないが、こうしたものは自力でしてこそだろう。
まずは半歩だ。振り向けば、背後に残した龍神様の像が小さくなっている。一体どれだけ時間をかけたのやら。ただ歩いてきたのならともかく、あちらこちらの店先を冷やかしながらだというのが尚更哀しい。私はここまで初心だったというのか。にとり達に散々言われるのも仕方な
袖に何か
吃驚した。早苗の袖が触れただけじゃない。近寄ったんだから当たり前でしょう。
「どうしました。何か慌ててるみたいですけど」
「いえ、何でもありませんよ」
大丈夫。気付いてないようだ。また少し離れたが、さっきまで近付けてた。楽じゃないけど、私なんかにでも出来ることは保証されてる。大丈夫。もう一度、半歩だ。
よろしい。
しかし、袖? 早苗の袖と触れ合った。少しばかり驚いた。散歩を続けた。それだけだ。何か問題があるのだろうか。私は何を気に掛けている? 半歩を詰めた。その通りだ。袖が触れた。その通りだ。幸い肌には触れなかった。その通りだ。何もおかしいことはない。
「文さん、あそこの露店見てください。魔法なのかな? 何か変な六角形が浮かんでます」
「詐欺が多いらしいですから、見るだけにしてくださいね」
おかしいに決まってるわよ。
私は腕を絡めるために近寄ったんだ。肌も触れ合わない距離で、一体何をしようとしていたというのか。見通しが甘いどころの話ではない。どうしよう。もう半歩詰める? 無理に決まってる。この近さで早苗の髪からいい匂いしてるし、これ以上近寄るとか無理。あー、どうすんのよこれ。挫けそうだわ。
「文さん、さっきからぼーっとしてませんか」
「いえ、そんなことはありませんよ」
とりあえず少し落ち着こう。
腕を組むことは、私には大それた行動だということは分かった。強行しても構わないが、そうすると私は緊張からか、羞恥からかどちらにしろ死ぬ。これは明らかだ。自惚れではないと思うが、私が死ねば彼女は泣くだろう。それは避けたい。しかし、私は彼女に幸せを感じて欲しい。これも明らかだ。では、どうするべきか。何か別案を考える? それしかあるまい。けれども、他に何をしたら喜んでくれるだろうか。
「文さん?」
よろしい。困った時のにとりと雛さんだ。伊達に六十年以上見続けてきたわけではない。昨日も口付けを見せ付けられ……考えないようにしよう。これ以上、頭に血が昇れば倒れかねない。他の何かだ。そう、あの二人は腕を組んでいたことがあっただろうか? あったような気がする。けれども、記憶が霞むほどには昔のことだ。もしかすると、私が見ていない場所でしているのかもしれないが、それは置いておこう。必要とはしていないほどに想い合っている? ありそうだが、むしろ確実にそうだが、いつぞや「いつも触れ合っていたくなるのが恋人なんだよ、天狗様」などと、したり顔で言われた記憶がある。当人がそう言うならば、見掛けた覚えがないというのもおかしな話だ。では、別の何かがある? にとりが将棋を指している横で、雛さんは日向
「文さん!」
「あやっ!?」
近い早苗近いやめて
「もう、考え事して返事もしてくれないし。寂しいじゃないですか」
「あやややや、いえ、ちょっとですね、とりあえず離れて頂けませんかお願いします」
「いじわるなこと言うなぁ。照れ屋さんなのは分かりますけど」
心臓に悪いわね。倒れなかっただけましかしら。
「いいですか。文さんは新聞でもそうですけど、何か”これ”って決めたら周りが見えなくなっちゃってます。椛さんもそう仰ってますし、半年以上ずっと文さんを見てきた私だって同感です。もうちょっと気楽に構えても罰は当たりません。少なくとも私は当てません。今はデート中なんですから、もっと楽しんでください。そもそもですね
早苗の言う通りだ。これでは本末転倒も甚だしい。思い詰めた結果、今日を御破算にしかねないところだった。彼女が本格的にへそを曲げる前だったことだけは僥倖か。指を立てて”私は怒っているんですよ”の格好は、見せ掛けだと知っている。本気になれば、この程度では済まされない。眼前でちらつく指の白さが眩しい。反省しなければなるまい。
何れにせよ、にとりと雛さんのことは一旦お預け……いや、どこかで引っ掛っている。どこだ。私は先程どこまで考えた? 将棋か。二人の定位置についてだ。それがどうしたというのか。何が引っ掛っている。早苗の指? 指か。それに手だ。にとりが駒を扱っている片方で、もう片手は他のもので埋まっている。雛さんの手だ。大抵私は将棋盤を挟んで雛さんの逆に腰を据える。影になって見えないなら、記憶に残らないのも当然だ。確かに、二人が指を絡め合っている様を見掛けたことがある。簡単な話じゃないか。こんな単純な考えにまで至らないとは、今日の私は愚鈍にも程がある。
「すみません、早苗。少し先程の茶店で半獣人と蓬莱人が、デートをしているところを見かけまして。記事にできないか悩んでしまいました。許してください」
「慧音さんと妹紅さんですか? 気が付きませんでした。ちょっと見たかったかも。お二人のラブラブさは見てて幸せになれるんですよね。でも、見世物だなんて考えたら悪いしなぁ」
説教に割り込めた。私から気も逸らせた。更に今回は随分説教が軽いようだから、もう一押しだけで十分だろう。伊達に半年以上見続けてきたわけではない。彼女の性格を知り尽くしているとは言えないが、それでも十分だ。
「ええ、この件は後日考えることにします。ですから機嫌を直してもらえませんか」
「うん、反省しているようですから許してあげます。けど、もっと気楽に楽しむってこと、ちゃんと覚えておいてくださいね」
二人を出汁にしたことは、まぁ当人達は隠しているつもりだろうが、広く知れ渡っているから問題ない。我が身の方が大切だ。何より、早苗に幸せを与えられるかもしれない瀬戸際にあって、気にしてはいられない。
「もちろんです、早苗。デートに専念して楽しみますよ」
「その力の入れ方がよくないんです。でも、それが文さんだから仕方ないかもしれませんね。そしたら行きましょうか」
一先ずは元に戻れた。後は考えを実行に移すだけだ。
にとりと雛さんのお墨付きならば、早苗も多少は満足してくれるだろう。腕と比べて物足りないかもしれないが、今は勘弁して欲しい。これが私の精一杯だ。もう半歩詰められるようになるまで、しばらく我慢してくれるように願う他ない。そう時間は掛からないはずだ。この四半刻にも満たないだろう時間で、一歩の間を半分に詰められた。もう半分とて、直に無くしてみせる。
「そんなに見つめられると照れちゃいますよ。また考え事してませんか」
「ああ、すみません。なかなか頭の切り替えができませんね。注意します」
さて、私が彼女の手を握れるかどうかだが。どうしても買出しの手伝いで、早苗から荷物を受け取る場面が思い出される。折々に彼女と手が重なったか。あの時はまだ告白もしていなかった上に、彼女への恋心さえ自覚していなかった。それでも赤面した。わけも分からずに緊張する自分へ戸惑って、彼女を茶化して誤魔化し続けたことを覚えている。今思えば顔を隠したことは、むしろ私自身を誤魔化すためだったのかもしれない。
そんな私が彼女を、いざ恋人と意識して手を握る。果たして出来るのだろうか。いや、迷っても仕方がない。既に譲歩を一度してしまった。これ以上後に退けば、情けなさと後悔から彼女に顔を向けられなくなる。ならば後はやるだけだ。
「文さん、”気楽に”ですよ。忘れないでください」
「ええ、もちろんです。分かっていますよ」
半歩の隣で揺れる、白く繊細な指。握れたなら、早苗に幸せを与えられるかもしれない。受けてきた幸せに、僅かなりとも報いるためだ。誇りある鴉天狗であるこの私が、これしきのことに怯むはずがない。正念場だ。
大丈夫。この距離なら自制が効く。”これ以上は寄る必要がない”と、考えれば余裕が出来た。横顔のままなら近くても、そこまで気恥ずかしくならずに直視が出来る。深呼吸だ。よろしい、始めよう。早苗も気楽にと言っている。肩の力を抜いて、さりげなく手を伸ばせばいいだけだ。彼女が露店を見ながら何か話しかけてきてる。これを無視するのは気が引ける。でも、早苗のためだ。腕が震えだし掛けているが、これくらいならば押さえ込める。彼女は気付いていない。顔は熱いが気にすることじゃない。早鐘を打つ心臓も放っておけばいい。もう一度、深呼吸。落ち着いて。腕を押し出せ。指が近い。揺れている。踏み出して
触れた
無理だった。
何だというのだ。触れるだけで精一杯だなんて、何が誇りある鴉天狗だ。意気込んでいた私はどこに消えた。情けない。心底情けない。腕を諦めたというのに、指まで諦めるというのか。早苗に幸せを与えるどころじゃなかった。彼女に報いられなかった。ただ、恋人の手を握ることさえしてあげられないなんて。なんでこんなに、視界が滲んでる。止まりなさいよ。私なんかにそんな資格なんてないのに。泣いていいわけない。ごめんなさい、早苗。
「文さん」
彼女は気付いたのだろう。当然だ。
返事がしたいのに、喉が詰まってる。
でも、顔なんて向けられない。これも当然。
「もっと気楽にって言ったのに。でも、照れ屋さんなのに頑張ってくれたんですよね。嬉しいなぁ」
早苗の香り。早苗の体温。早苗に抱かれた?
「分かっちゃいますよ。いつもよりずっと近くで、もじもじしてるんですから」
気付いてた?
「知ってたのに、いじわるしてすみません。それと」
謝らないで。私が悪いんだ。
「私のために泣いてくれて嬉しいって思ったこと、許してください」
ごめんなさい。嬉しいって言ってくれてありがとう、早苗。
***
半歩の間に寄り、歩き続ける。
「やはり照れますね」
「大丈夫です。文さんは頑張れたんですから、そのうち慣れますよ」
「そういうものでしょうか」
「そういうものなんです」
早苗の声が普段より少し弾んでいる。機嫌がいいのだろう。
「しかし、何たる不覚を取ったことか。私としたことが、あんな醜態を晒そうとは」
「それも大丈夫です。誰かなんて分かりませんよ。文さん、ずっと私の胸に顔埋めてたでしょう」
「それは言わないでください」
人目があろうとなかろうと、情けないことには変わりない。
「でも、嬉しいなぁ。こんなに文さんが積極的になってくれるなんて思いませんでした」
「これだけで我慢してくださいね。腕を組むとなると、まだ恥ずかしくて無理です」
「大満足ですよ。それに、腕には憧れますけど、こっちの方が嬉しいかもしれません」
私の指と絡んだ彼女の指に、小さく力が込められた。
「そういうものでしょうか」
「そういうものなんです」
デートが続く。
***
呉服屋を回る。
色とりどりの反物に早苗は目を輝かせていたが、私に針仕事は出来ない。では、あちこちと見て回っている早苗はどうなのかと言えば、”和裁はもとより、洋裁すらミシンが動かないから無理だ”と突っぱねられた。何のために生地を検分しているというのか。残る手立ては人形遣いだが、流石に私服の仕立てなぞを頼めるほど親しくない。反物には用事がないという結論に落ち着いた。
ならば、出来合いの服はどうか。二軒、三軒と巡りはしたものの、女物に限らず動き易そうな類は見つからない。それもそうか。何かあったとなれば、襷で絡げるなり帯に挟むなりしたら済むことだ。見繕っている最中、早苗には様々な服を、取っ替え引っ替え体に当てられた。朝の試着でも感じたが、私を着せ替えさせて遊べる人形だと勘違いしていないだろうか。飛ぶにも駆けるにも邪魔とならないだろう私好みには、結局行き当たらなかった。こちらも没。
甘味に舌鼓を打ち、露店を冷やかし、服を見て回る。
その間、手が空きさえしたなら、どちらからともなく指を絡めた。繋いでいない間はどうなのかと言えば、早苗の温もりを経験した掌が、空を掴む物足りなさに不平を並べて私を責め続ける。照れがあったところで耐えられはしなかった。思った以上に慣れが早いものだ。逡巡して、終いには無様を見せた私は一体何だったのか。
私達の間を繋ぐたびに、彼女は嬉しげな様子を見せながらも、少しばかり頬を染めてはにかむ。普段から遠慮会釈なしで抱きついてくるというのに、羞恥を感じるものなのだろうか。疑問を覚えて訊ねれば、”それとこれは別物だ”と返された。分からないものだ。
帰途につきながら考える。
私達は幸せなのだろう。私だけではなく、彼女もまた感じていると思う。言葉を交わせば笑い合い、視線を合わせたなら互いに微笑みが浮かぶ。そうした中で、指は絡めあったままだ。力を僅かに込めたなら、向こうから幽かに応えが来る。弱めれば、離すまいとするように強く握られる。私も離したくはない。弱まったなら、強く握る。幾度か繰り返したところで、道理もまだ分からぬ幼子のように遊んでいる自分がおかしくなった。私は何をしているのだろうか。小さく笑い声が漏れると、応えるように隣からくぐもった音が聞こえた。
私達は幸せだ。
山腹に入り、しばらく飛び続ける。
湖面が照り返す夕日が目に入った。早苗が言うには、”デートを締めるには美景が必要”らしい。散歩も範疇だというから納得もいくが、最後に据える必要はあるのだろうか。また、これは守矢神社と共に移ってきた湖だ。麓にある霧の湖でも構わないのではないかと考えたが、一帯を縄張りにしている氷精を思い出した。ネタを提供してくれる飽きの来ない妖精ではある。評価はしているし好感を持てるが、あの性格だ。好奇心の塊となって邪魔をされては敵わない。
では、山の湖はどうなのか。仮にも神性が宿っているものだろうに、色恋へ持ち出すには都合がいいとは思えない。訊けば、”八坂様が留守にしているから構わない”という答えが来た。案外適当なものらしい。それとも、別段気に掛けることではないが、八坂様がいたなら悠長に散歩は出来ないということだろうか。確かに御柱が降り注ぐ中で歩き続けることは至難だと思う。至難以前に私はやりたくない。
あれこれ考えていても、私はこれから迎える時間を待ち望んでいるようだ。翼を畳み、早く手を繋ぎたいと焦れている。早苗と見る日没は、どう目に映るのだろうか。二人で静かに入日を眺めれば、さぞ心が安らぐことだろう。水面を渡る風を受けたなら、彼女は心地良さそうに目を細めるのだと思う。そうして私は彼女の横顔に幸せを感じるだろう。降りたら何を話そうか。茶屋での出来事? 露店のガラクタ? 服の品評? 今日を始めから振り返ってもいいかもしれない。夕焼けを浴びながら微笑む彼女は、どれほど綺麗だろうか。待ち遠しい。
湖畔が見える。
***
散歩ではないらしい。乾いた草地に二人並んで腰を下ろした。
緩やかに吹く山風が、湖に小波を立てている。鏡面とも見えた青は風に崩されて、夕日の紅を細切れにして跳ね返す。雨蛙だろう鳴き声が、山間で幽かに響いている。その中で、彼女と指を絡めた。先刻と変わらない感触に、空を切ってやや昂ぶっていた心が鎮まっていく。気恥ずかしく思うはずの欲求へ反発することもなく、素直に手を繋げた自分に驚いた。
「御神渡は知ってますよね」
「ええ、正月明けに八坂様が執り行った神宣ですね」
静かな声音に、記憶を探りながら応える。大寒が近いという頃だ。天狗に依頼して、大々的に宣伝をしていたから覚えている。里へ触れ回るために、私の新聞も駆り出された。入山の許可も下り、それなりに人間も集まっていたはずだ。もっとも、妖怪を含めて大半は娯楽と考えていたようだが。
「小学校に上がったかその前辺りかな。初めて御神渡を拝見したんです」
朝も早いうちから起こされて、かじかむ手に息を吐きかけながら湖へ向かったこと。
亀裂が入って隆起する凍った湖面に、眠気も醒め息を呑んだ小さい頃の早苗。
集まった神主一同を空高くで見下ろし、誇らしげに胸を張っていた八坂様の姿。
時折何かの拍子で漏らすことはある。けれども外にいた頃の彼女を、ここまで具体的に話されたことは初めてだ。興味をそそられ訊ねはしても、大抵は言葉を濁らせるか話を逸らされる。幾度か試した後、”聞かれたくないのだろう”と納得して諦めていた。彼女に何があったのだろうか。
止め処なく昔語りが続く。物心もついていない頃の朧げな記憶。幻想郷へ入る直前に、友人と益体もないことで笑いあった変哲のない日常。過ごした時の流れに縛られることもないまま、話題はあちらこちらへと渡り歩く。一つ一つの思い出を振り返るたび、楽しげに笑い、懐旧に遠くを眺め、寂しげに口を歪ませた。
耳を傾けている内に、気付いたことがある。顔や目と同様に、手もまた感情が豊かだということだ。時には怯えたように強張り、縋るように強く握り締められ、安堵したかのように力が抜ける。
恐らく彼女は、自身に何かを強いている。口には出そうとしなかった過去を、詳らかにしていることでも分かる。微細な強弱で表される心に、出来る限り応えたい。安心してくれるよう、また私が隣にいると伝わるように願い、変化があるたびに指へ力を込めた。彼女は強いはずだ。
いつしか、話し続ける頬に涙が伝わっていた。
彼女も気付いたのだろう。空いている片手を使って拭い始めた。けれども緩慢ではあるが、途絶えることはないようだ。それにも関わらず、口は過去を紡ぎ続けている。翼を使い慰めようかとも考えたが、この様子では望まないだろうと思い直した。目では泣いているが、顔は様々な表情を浮かべ続けている。ただ静かに響く、芯の通った声を聞き続けた。
彼女は強い。
***
終わりも近いのだろう。
思い出が途切れ途切れになってきた。拭うたびに訪れる沈黙も、次第に減ってきている。いつの間にか日没が近くなっていた。そろそろ落ち着いてきただろうか。緊張し続けたせいか、やや疲れた。胸に溜まっていた息を、気取られぬように吐き出す。ここまで体が強張っているとは、思った以上に余裕がなかったようだ。知らず知らずに込めていた力を肩から抜き、改めて様子を覗う。
綺麗だ。
夕日の紅が潤んだ瞳に煌いている。
前を見据える顔は気高く凛々しい。
語る唇は湿り気を帯びて艶やかだ。
唇?
唇って、こんな時に何考えてんのよ、ああもう、また思い出した。
――あんまり奥手だと早苗に嫌われるかもしれないわよ。
厄神様には順序というものを考えて欲しい。奥手だろうと何だろうと、無理なものは無理だ。確かに手は繋げた。「はい、あーん」とて死ぬ気でやり遂げた。けれども、唇はない。あの二人は口付けなど言うにも及ばぬ、深い仲だということは知っている。にとりの首筋に雛さんが理由であろう印が見えたこともある。
「今朝、文さんは言ってくれましたよね。”焦る必要はない”って。それで考えたんです」
けれども、私達は違う。そのことを忘れているのか。それとも知りつつ、からかっているのか? ……確実にこっちでしょうね。恨めしい。恨んだことに罰を当てるなら、今すぐしてくれた方がましだ。そうなれば火照った顔も少しは冷めるだろう。
「外に残してきた思い出はやっぱり大切なもので、私は忘れたくないんだって」
指を絡めて分かった。私は早苗と触れ合いたい。腕を組みたいし、抱きつきたいとも思っている。彼女の柔らかそうな唇に、私の唇を合わせられたなら、どんなにか幸せだろうとも考えた。そうは言っても、今ではない。少なくとも今ではない。デート中にあった出来事だけで、今日の私は精一杯だ。
「それに、今日のデートも大切な思い出になるんだろうなぁって思いました」
悩み抜いて寝不足になった原因まで思い出した。もし、早苗が口付けを望んでいるとしたら、私にはお手上げだ。哀しい思いをさせるだろうが、何と言われようともこれ以上の譲歩はできない。そもそも愛の言葉すら、口に出せる気が微塵もしない。情けないが、もう半歩詰められるようになるには時間も掛からないはずだ。彼女には我慢してもらいたい。
「それなら、私は昔を捨てるんじゃなくって。両方大事にしながら、ここで生きていこうって決めたんです」
しかし、どちらかでも求められた時にはどうしたものか。話を逸らす? 無難に切り上げる? 私に出来るだろうか。いや、取材で培ってきた技術もある。そうしたことには慣れているはずだ。多分大丈夫。
「文さん?」
「ああ、はい、それがいいと思います」
危ない。恐らくこの応えで合っているはずだ。
「もう。人が一大決心を話してるっていうのに。また何か考え事してませんでしたか」
「いえ、そのようなことはありません。貴方も良く決心しました。何事かを決めるということには少なからず胆力を必要としますからね。それが一大ともなれば推して知るべしですよ。見事です」
「ほんとかなぁ」
眇められた視線が痛い。大丈夫。表情を作ることは私の十八番だ。翼の付け根に汗を感じるが、今も柔らかく微笑んでいると思う。落ち着いて目を逸らさなければ誤魔化しきれる、はずだ。多分。どうだろう。早苗って妙に鋭いところがあるわよね。期待できないか。
「本当に聞いてましたよね」
「はい、もちろんです」
「私を誉めてくれたのも本当ですよね」
「ええ、見事ですよ」
向けられた目付きは鋭いままだ。座り心地が悪い。非常に悪い。一体この詰問の意図は何処にあるのか。
いや、分かっている。伊達に半年以上見続けてきたわけではない。彼女の性格を知り尽くしているとは言えないが、それでも十分だ。この後、何が来るかはよく分かる。そして、誤魔化した手前では避けられない。
「じゃあ、御褒美ください」
「御褒美? 私に出来る範囲でなら、あげることも吝かではありませんが」
無邪気な笑みが零れた。確かに、この笑顔は好きだ。好きだが時と場合を選んで欲しい。奥底に凄みを感じるのは気のせいか。しかも、唇には否応なく意識させられ続けている。視線を剥がしたいが、顔を逸らせば火に油を注ぐことになりかねない。この緊張が続けば、身が持たないだろうことは分かっているというのにもどかしい。
「大丈夫ですよ。一度は出来た事ですから」
「なるべく軽めなものなら、ありがたいですね」
一度は出来た事? 嫌な予感が迫ってきている。背中どころか繋いだ手にまで湿り気を感じてきた。私はまだ微笑んでいるだろうか? 強張っているどころではないかもしれない。早苗は気付いているのかいないのか。黄昏の闇さえあれば、細かい表情は覗えないだろうとは思う。けれども、今は生憎半分ほど没しているだけだ。もっとも、この距離だと見えないかどうかも分からないか。
「”好き”って私に言ってください、文さん」
”こうなるのだろうな”という気はしていた。と言っても、口付けを求められるよりはましか? いや、どちらにしろ無理には変わりないだろう。ましも何もあったものではない。
「なるほど、確かに一度は出来た事ですね。少し考えさせてください」
「どうして考える必要があるんですか。照れ屋さんだから仕方ないのかもしれませんけど」
幸い待ってくれるようだ。さて、この窮地をどう脱するか。朝方、私を救ってくれたワニはもういない。妨害してくれるであろう八坂様は出払っている。ならば洩矢様は? こちらも留守だろう。それに私達のことには、大分寛容……むしろ歓迎する様子があるように思う。見掛けられたところで、暖かく見守られるだけかもしれない。大体、八坂様が湖を管轄しているはずだ。用事もなしに来るとは思えない。
「まだですか」
「はい、あと少しばかり」
では、単身で抜けなければならないことになるが。早苗の目を見る限り、これは本気だ。デートと引き換えにした時のように、そう簡単には免除してくれそうにない。こうと決めたら一途にひた走る彼女だ。今の気分も合わせて、丸め込むような真似は通用しないだろう。これどうすんのよ本当に。誇りを投げ捨てて平身低頭許しを乞うか? それしかないような気がしてきた。
「そう、ちょっとだけ負かりませんか」
「何で値切ろうなんて考えが出てくるんですか」
欲目を見たのが悪かった。彼女の眦が上がっているのが怖い。
「今日はもう遅いですから、明日以降に回すというのは」
「駄目です。今も明日も変わりません」
頭が回っていない。ここまで稚拙な提案は聞かれなくて当然だろうに。
「あー、どうしても駄目でしょうか」
「駄目なんです。もう、一度は出来たのに、どうして言ってくれないんですか。文さんの愛を疑っちゃいそうですよ。手だって頑張って握ってくれたじゃないですか。それに昼だって”綺麗”だって言ってくれたでしょう。あれ本当に嬉しかったんですよ、もうちょっと日頃から言ってくれても罰は当たりません、少なくとも私は当てません、そもそもですね
お説教が始まったようだ。確かに、私も自分の初心さ加減には呆れ返る。彼女が怒っても当然だろう。そもそも私が話をよく聞いていなかったことに発端がある。それも一大決心だ。台無しに仕掛けたのならば、仕方がないことだろう。
といっても、愛の言葉は少々足元を見られた気がする。私だって今日は決心をしてきたはずだ。少しくらいは鑑みてくれてもいいのではないか。茶屋では「はい、あーん」をやり遂げた。往来では手も握れた。醜態を晒しつつもだ。言う通りに”綺麗”だとも言えた。無意識にとはいえ我ながら良くやったと思う。そこで満足してくれないのか。
普段だってそうだ。私が恥ずかしがることを半ば面白がって抱きついてきている節がある。それでも耐えてきているのだ。慣れはしてきたものの、まだまだ体が燃える思いをする。それでも満足してくれないのか? 私は彼女が好きだ。どこが好きかと問われれば、いくらでも上げられる。新聞に書き連ねていけば、何部発行しても足りないだろう。だからって何でも聞けるわけがない。ここまで言わなくてもいいと思う。私だって”かわいい”とか”綺麗”だって言ってあげたいし、”好き”って早苗に伝えたい。でも無理なものは無理なのよ。それも早苗だって分かってる癖に、なんでそういうこと言うのよ。早苗は好きだけど、全部好きってわけじゃないし、嫌いなところだってあるわよ、こういう時は特に意地っ張りで大人ぶって感情をぶつけてきてそういう
「早苗が嫌いなのよ」
今、私は何を口走った?
「そうでしたか」
――あんまり奥手だと早苗に嫌われるかもしれないわよ。
静かな声。
風が吹いている。
「今日は楽しかったです」
――あの子は甘えたがりだから。
深く、一礼。
会って間もない頃しか、私には向けなかったのに。
「ありがとうございました」
私の好きな笑顔が、濡れている。
「射命丸さん」
彼女の風が消えた。
***
服が重い。濡れる髪が冷たい。雨蛙が鳴いている。
龍神様の予報は当たっていたようだ。雨雲と夜の暗さで何も見えない。見る必要もない。周りには何もないと分かっている。湖と木々と雨蛙だ。それに、この雨。激しいわけでもないが、ここに好き好んで来るものもいないだろう。傷心を嘆くには、お誂えの場所だということだ。
傷心? 私なんかが? 馬鹿げている。恋人を傷つけたのは私だろう。いや、恋人ではない。東風谷さんだ。間違わないようにしなければならない。大切なことだ。とても大切。
早苗って呼びたい。
どうやって服返そう。濡れたし泥もついてる気がする。とりあえず洗うのが先よね。でも、神社は行きたくない。早苗に会う前から耐えられなくなると思う。境内を見てだけで、早苗を思い出すのは間違いないはず。嫌だ。
手の中は暖かかったはずなのに、今は空っぽだ。柔らかかったはずなのに、何も掴んでいない。指の間に幸せが詰まっていたはずなのに、全て抜け落ちてしまっている。何もかも、手放したのは私だ。それなのに、恋しがっている。なんとも自分勝手なものだ。馬鹿馬鹿しい。
早苗が私を呼ぶ声が、頭に響き続けている。幻聴如きで満足できるわけがないだろう。それなのに、聞きたがっている。幻を求めるとは、落ちぶれたものだ。雨蛙にはもっと鳴いて欲しい。私を鳴き声で埋め尽くしてくれれば、何も聞こえなくなるだろう。あの優しい声を求め続けようとする私なんてもう嫌だ。
閉じたまぶたの裏には、早苗の笑顔が浮かび上がる。開ければ、暗い水上に姿が見える。何だというのだ。焼きついているのか? 気が狂ったか? 両方に決まっている。詰まらない誇りなんていらない。替わりに本物の早苗が目の前にいたなら、どれだけ幸せだろうか。ああ、誇りなんかと彼女を並べてはいけない。露店のガラクタ同然だというのに彼女へ失礼だ。
早苗の強情さが好きだった。決めたならどこまでも飛び続ける姿は綺麗だ。
背伸びをする彼女が好きだ。届かないと決め付ける前に、まず試す気概は見上げたもの。
嬉しければ笑い、哀しければ泣く。羨ましい。私には出来ない相談だ。
これは何だ。さっき私が嫌いだって思ったことばかりじゃないか。望み通りに嫌いになって、彼女も私を嫌いになっただろう。満足したらいい。その通りだ。清々する。にとり達に冷やかされることはなくなるだろう。乙女心がどうこうと言われもしない。抱きつかれて恥ずかしいと思うこともなくなる。これからの平穏な日常を歓迎しなさい、文。
嫌いになるなんて、無理に決まってる。
あの時、”好き”と言えていたらなんて下らない幻想だ。為るべくして為ったのだろう。それでも、日没前に戻れたなら、私はあらん限りの声で叫ぶのだろう。”好き”と何度でも言い続ける。喉が枯れたところで止められはしない。それでも、馬鹿な私を見て彼女は困惑しながらも、笑顔を向けてくれるのだと思う。私の好きな笑顔だ。愛しくてたまらなくなった私は彼女を抱き締めるのだろう。そして、耳元にもう一度愛の言葉を囁く。
下らない幻想だ。
風?
彼女の風?
有り得ない。ついに幻聴どころか幻覚まで感じるようになったか。
「射命丸さん」
なんだというのだ。静かにしていたいというのに。
「あの、ここにいるって諏訪子様が仰ってて」
早苗の声?
「すみません。でも、どうしても訊きたいんです」
淡い光の中に、早苗の姿が映ってる。風は本物だった?
「私は、射命丸さんが好きです」
確かに早苗の声が聞こえる。風は本物だった。
「せめて、嫌いな理由を教えて頂けませんか。諦められないんです」
早苗の涙が見える。私のところへ戻ってきてくれた。
彼女の悲鳴が聞こえたが、構うものか。
「ごめんなさい。私は早苗が好き」
私としたことが、なんという醜態だ。むずがる幼子のように抱きつくなんて。
「私を一人にしないで」
誇りある鴉天狗だというのに。恥も外聞もなしに泣くというのか。
「私を置いていかないで」
でも、
「私を嫌いにならないで早苗、お願い」
涙を止めるなんて、無理に決まってる。
***
「告白してくれた時と、逆になっちゃいましたね」
「そうね」
あの時は泣きじゃくる早苗を、黄昏の中でずっと抱き締めていた。でも、今は雨雲のせいで暗い。傍に置かれた頼りないランプの光では、この暗さを払えないだろう。私の濡れた顔はよく見えないだろうと思えば少し気楽だ。
「文さんって結構甘えん坊だったんでしょうか」
「そうかもね」
顔を埋めている胸は暖かい。これも逆。あの時は彼女も、こういう風に幸せを感じてくれたのだろうか。そうならいいと思う。縋っている胴は華奢で細いけれど頼もしい。体温を感じるだけで気持ちが安らぐ。幸せだ。
「嬉しいなぁ。普段からこんな風に甘えてくれてもいいのに」
「それは無理よ」
言ってはみたけれど、本当に無理だろうか。指と同じだ。すぐに慣れるのかもしれない。でも、やっぱり恥ずかしい。幾らか時間を掛けたいところだ。
「かわいくないなぁ。後、好きって言ってくれましたよね。そっちも嬉しかったです」
「うん、早苗が好き」
今の顔は見られたくない。赤く茹で上がっていると断言できる。でも、伝えたいと思ったから伝えた。こちらは案外早く慣れるかもしれない。”かわいい”とか”綺麗”も、そう遠くない内に言ってあげられるかもしれない。
「今度は素直でよろしい。かわいいなぁ」
頭を撫でてくれる手が心地良い。夢現の中で、思い浮かんだ考えがある。下らないと決め付けた幻想の中、抱き締めて愛の言葉を囁いた先で想像したこと。
「そういえば、ちょっとしたいことがあるのよ」
「何でしょうか」
私なんかでも、今なら出来る気がする。
「口付けよ」
視線を上げて覗き込むと、彼女の顔が赤く染まっていくのが見える。面白いかもしれない。普段から遠慮会釈なしで抱きついてくるというのに、やはり羞恥は感じるようだ。日頃の意趣返しが出来ただろうか。
彼女は暴れながら”キス”がどうの”雰囲気”がどうのと騒いでいるが構いはしない。天狗の力を侮ってもらいたくはないものだ。肩を手で押さえれば、たかが人間如きに抜け出されはしない。これは明らかだ。そして、私は彼女と口付けがしたい。心臓が破れそうに跳ね回っていても、熱を持った頭が朦朧と仕掛けていても私を止められはしない。これも明らかだ。ならば行き着く先は決まっている。
しかし、今感じている緊張も試練なのだろうか? 馬鹿らしい。一跨ぎで越えられる壁が、試練に為り得るわけがないだろうに。詰まらないことを考えたものだ。今日の私は愚鈍にも程がある。
「観念なさい。私は早苗の言う”キス”がしたいのよ」
「もう、分かりました。おとなしくします。なんでそんなに強情なんですか」
「なんでって。”好き”を迫られたんだから、お相子」
少々強引に持ち込んだものの、雰囲気を求める早苗は尊重したい。折りよく、格好の手本を昨日見た。多分あれを真似たなら、彼女も満足してくれるだろう。にとりと雛さんの口付けから、視線を逸らせずに見ていた私だ。よく覚えているから、上手く出来ると思う。
周囲は夜と雨雲で暗いが、辛うじてランプが暗闇に抵抗してくれているようだ。目鼻を見ることさえおぼつかない中では、真似も何もあったものではない。淡い光の中に、まぶたを閉じている彼女が見える。あの二人は直前まで互いに見詰め合っていたと思うが、これで構わないのだろうか? まぁ気にすることでもないわね。
唇を寄せる。
***
どうやら通り雨だったようだ。山の天気は移ろい易い。
どうしたものか。やはり服に少々泥が付いている。借り物だというのに、へまをやらかしたものだ。とりあえず、一晩水に浸けておけばいいだろうか。多分それで大丈夫だ。私の仕事着と勝手がそう違うとも思えない。
デート中、身に着けていた首輪には月の飾り。彼女の星と対になるよう、私へ持たせたのだろうか? だとするならば、月と星のように私は寄り添っていけるだろうか? 愚問だ。既に私は彼女で埋め尽くされている。離れろと言われたところで離れはできないだろう。私は彼女の恋人なのだから。
幾分か雲ってはいるものの、窓からは月夜が見える。この調子なら夜半を過ぎれば、雲は風に吹き散らされるだろう。陰りのない星空を見たい気分だが、今は少々寝不足だ。待ってはいられないだろう。
さて、落ち着いたところで、早苗に関する注意点に訂正を入れなければなるまい。記憶が鮮明な内に、今日のデートについて文章にしておきたい。撮った写真の現像は後回しだ。神社へ向かう前に、焼き上げておけばいい。
まずは予定通り、”弐”の思い込みが激しい云々。これには補足として私自身を併記しておく。戒めとしては、これ以上にない格好の事例だ。思えば随分と錯乱していたものだと思う。情けない。次は、
――東風谷早苗に関する注意点。参、所構わず体を寄せてくる。
これも早苗のことは言えなくなるかもしれないわね。
遠からず、私は早苗と常に触れ合っていなければ、満足できなくなる予感がする。その頃には、”かわいい”も”綺麗”も言えるし、”好き”だって素直に伝えられるようになっているのだと思う。そして、彼女は無邪気な笑顔を浮かべてくれるだろう。私の好きな笑顔だ。待ち遠しい。
訂正を入れたところで、一日の出来事を書き連ねていく。早苗の言う通り。大切な思い出になるだろうことだ。細大漏らさず、書き留めておきたい。もっとも、幾ら月日が経ったところで、忘れられはしないだろうけれど。
大体は記録したはずだが、何か落ち着かない。
私は何が気に掛かっている? 恐らく一番大切な場面でのことだ。
しばらく悩み、思い出した。
鼻の頭をさすり、覚書に追記。
――キスの際、顔は少し傾けること。
でもそれが良い。爆発しろ
文は初心ですが周りからはラブラブにしか見えません。
二人を通して目に映るすべてが眩しいですね、輝いてますね。
まさに初恋だと思います。そしてあの二人の続きが読めて嬉しいことこの上ない。