鬼退治
一
ことごとく皆殺しであった。
およそ、今の大江山に血の臭いがしないところはあるまい。草に、木に、撫で斬りにされた山賊たちの血塊が散り、黒い土にぼたぼたと滴っている。
血に黒く濡れた腐葉土に伏す山賊たちの顔は、大抵が醜いあばたに覆われていた。カッと目を見開いた世にも怖ろしい今際の形相を、木の葉から漏れた真夏の強い日差しが焼いている。そのうち蠅にたかられ蛆が湧くか、餓えた山犬の餌になるかするに違いない。
また一つ、断末魔が上がった。
がちゃがちゃと鳴る鎧の音に混じり、血肉の匂いを嗅ぎつけた獣の黒い気配が藪の隙間に見え隠れする。
山中の空き地に張られた陣幕の中で、源頼光(みなもとのよりみつ)は落ちつきなく口髭を撫で、手を揉んでいた。面長の顔には不安の影が落ち、細い目はきょろきょろと動いている。周囲の武者が胴丸姿であるのに対し、頼光は普段着の狩衣を着て折烏帽子を被り太刀だけを佩いている。
「綱よ、鬼の頭領はまだ見つからんのか」
兵からの報告を聞いていた若い男が振り返る。背は高く、顔立ちは端正だが少し無骨で、濃い眉が意思の強さを示すようだ。
源綱(みなもとのつな)。弱冠二十歳にして頼光率いる武士団の筆頭を務める剛勇の者である。
「親父、棟梁は落ちつくものだ。蟻の這い出る隙もないのだから、いずれ見つかるさ」
頼光が大江山の盗賊討伐に用意した兵は八百超。それも日頃より武芸の腕を磨く精鋭揃いである。女子供を合わせても二百に満たない山賊を討伐するには明らかに過剰な数であった。
だがそれも、討伐の相手がかの酒呑童子とあれば致し方ないことである。
「そうは言っても綱よ。蟻は出られぬやもしれぬが、霧ならほれ、するりと指の間を抜けていく。聞けば酒呑童子とやらは姿を霧に変え、風に乗り、雷を呼び、火を吐き、幾多にも増え、身の丈を変え、更には千里先まで祟るというではないか」
「安倍晴明様がそれを防ぐために山の周囲に《式》を放ち結界を張ったと仰っただろう。賀茂忠行様亡き今、晴明様が京随一の陰陽師。加えてこちらには住吉神に八幡神、熊野神の加護がある。親父は座って待っていればよい」
「しかしだな、綱よ……」
頼光がなおも何かを言いかけたとき、陣幕に鎧姿の武者が駆け込んできた。
「頼光様、鬼の頭領を捕えました!」
「おお、まことか!」
頼光は膝を打って勢いよく立ち上がる。急に生き生きとし始めた頼光の様子に、綱は心中で苦笑した。見栄っ張りで子供のような頼光だが、どこか憎めない。
やがて、じゃらりじゃらりと鎖の触れあう音が近づき、陣幕の入口が開いた。
兵士たちの誰もが息を呑んだ。汗がすっと引いた。
引っ立てられてきたのは、醜い大男であった。襤褸を纏った身の丈は六尺をゆうに超え、鎖をかけられた腕や脚は丸太のように太い。艶のない髪は結わず、肩口で乱雑に切って禿(かむろ)のようにしている。厚い唇はうねるように歪み、並びの悪い歯が見え隠れしている。
そして何よりも、広い赤ら顔にびっしりと隆起したあばたがこの男を異形たらしめていた。よく見れば、袖口から覗く手首や襟から覗く首にもあばたが浮いているのだった。
その不気味な外見に、取り囲む一同に不安と緊張が満ちたが、頼光だけは違っていた。先ほどまで散々に弱音を吐いていたというのに、緊縛された頭領の姿を見た途端に背筋を伸ばして尊大な表情になる。
「貴様が鬼の頭領、酒呑童子か。我こそは清和源氏の嫡流、多田満仲(ただのみつなか)が一子、摂津守(せっつのかみ)源頼光朝臣(あそん)なるぞ。勅宣を蒙り追討に参った。謹んで覚悟いたせ」
朗々たる声で名乗りを上げ、頼光は不敵に笑う。本名を言ってはならぬと安倍晴明に言い含められていたのに、仕方のない親父だ、と綱は心中で溜息をつく。
頭領は泰然として土の上に胡坐をかき、不気味な光を放つ暗い目で頼光を睨むでもなく、ただ、見ていた。その様子にうそ寒いものを覚えた綱は、腰に佩いた髭切の柄に手をかける。
そういったことに鈍感な頼光は高慢な態度を崩さず、更に口上を続ける。
「これは勅である。土も木も、我が大君の国である。貴様ら鬼に住むところなぞ、ありはせぬ。謹んで覚悟いたせ。だが、残す言葉があれば聞こう。何ぞ、言い残すことはあるか」
「あァ……」
頭領はあくびのようなしわがれた声を漏らす。誰もが命乞いを、あるいは罵倒を予想した。散々に狼藉を働いた大悪党の末路だ。無様な姿を見て溜飲を下げたいのは誰もが同じである。
だが、歪んだ唇は静かに、楽しんでいるような調子で言葉を紡いだ。
「おれを、鬼と言うたな。なれば横道を行うわけだ。毒入りの酒とは手の込んだことをする。さしものおれも気づかなんだ」
昨日、盗賊たちは老ノ坂峠を通る荷を襲撃し、大量の酒樽を奪った。だがその酒は、ハシリドコロを煎じた汁が少量混ぜられた毒酒だったのだ。微量であったため盗賊たちは毒と気づかずに飲み明かした。
ハシリドコロを煎じて飲むと意識は朦朧とし、瞳孔は散大する。山賊たちの目に、朝日はさぞ眩しく映ったことだろう。そこを頼光率いる討伐軍が襲撃したのだ。うまく働かない頭、眩しすぎて開けられない目蓋。なすすべがあろうはずもなかった。
「相手が鬼であれば、横道を行い皆殺しにしても構わないと、おまえたちはそう言うのだな。ははは、なんとも勝手なことだ」
山賊たちは皆、背から心臓を刺され、その後に頭を割られていた。屈服させるためではない。根絶するための討伐である。従って、女子供にも容赦はなかった。横道というよりは、もはや外道であった。
「さァて……おまえたち、あれは晴明の入れ知恵だろう。うまくやったものだ。あの爺、最近こそこそとなにやら動いているかと思えば、こういうことだったのだな」
「なに?」
「いやはや。十日ほど前か。丑の刻あたりにそこな坂田公時が晴明の邸宅に行ったろう。何のお使いかと思いきや、今日のことであったか。前日になるまで集結の気配すら見せぬ……いや、今日の明け方まで知らせなかったということだな。だというのにこの数と手際。よい部下を持っているなァ、頼光公よ」
鬼の頭領の言葉に、頼光が顔色を青く変えた。
「貴様……なぜそのことを知っている。わしと晴明殿と公時、あとは帝しか知らぬことぞ」
「なァに、この国のいたるところにな、おれの《識》を遣っているのよ。そいつらが逐一、おれに人の情けや物の報せを教えてくれるのさ」
「《式》だと!?」
取り囲む武者たちに動揺が走る。《式》とは陰陽師の使役する《式神》のことに相違ない。いかに武芸の腕が立とうと、呪術には無力である。呪殺の恐怖に怯え、幾つもの兜がふらふらと揺れた。頼光もおろおろと周囲に助けを求めて視線をさまよわせるばかり。
「臆すな!」
綱の雷光のような一喝に打たれ、武者たちが背筋をばしりと伸ばす。
「我らには住吉神、八幡神、熊野神の加護があり、晴明様の御力添えもある。臆せばその隙に着け入られるぞ。丹田に力を込めて気を張れ」
はっとした武者たちはかちゃかちゃと鎧の音を立て、綱の言葉の通りにする。
頭領はくつくつと喉の奥で笑うだけだ。それが尚更に不気味で、夜更けの羅城門に放り出されたような気分になった武者たちはぞっとして冷や汗をかく。
綱が一歩前に踏み出て、不気味な雰囲気を発している鬼の頭領を睥睨する。いつでも首を斬れるよう、左側に立った。
「池田中納言様の娘御をかどわかしたのも貴様だな。姫はどこにいる」
頭領は首をぐるりと回して綱を見やる。
「あァ、そういうことになっているのだったな。あれは、ここにはおらぬ」
「おらぬ、だと……貴様、もしや食って……」
「いやいや、おれは人など食わぬ。不味いからな。あれはこれから救ってやろうとは思っていたが、娘を隠したのは他でもない、当の池田よ」
「なんだと」
「娘は離れか土蔵にでも幽閉されているのだろうな。哀れなことだ。今頃は、ほれ、このおれと同じような顔になっていることだろうさ。京に戻り、娘の加減はどうかと池田に訊いてみるがいい。面白い顔をするだろうよ」
「馬鹿なことを言うな。なぜ中納言様がそのようなことをせねばならん」
「易しいことよ。あの男はな、娘が流行り病に伏したと巷に知られたくないのだ。それをおれが攫ったことにして世を欺こうというのだ」
「……世迷言を抜かすようであれば、そのそっ首、禿ごと断ち落とすぞ」
綱は腰に佩いた髭切を抜き、頭領の鼻先に突きつけた。元服に際し頼光より与えられた名刀であり、罪人を試し切りにした際、首どころか伸びた髭まで斬れたことからその名がある。
ぎらりと光る切っ先を目の当たりにしてなお、頭領は眉一つ動かさず、ふふんと鼻で笑う。
「世迷言なものかよ。あの男だけではない、他の者どももよ。おまえたちはおれが娘を攫うのだと思っているが、違うぞ。順序が逆だ。おれはな、飯と酒を頂くかわりに、病になって閉じ込められた者たちを引き受けているのよ」
「何を白々しい。元はと言えば、京に崇りをもたらしているのは貴様ではないか」
奈良平城京の時代から、疱瘡という病がたびたび猛威をふるっていた。時の陰陽師たちは四角四堺祭などの儀式を繰り返し行い京城に侵入する穢鬼、すなわち疱瘡を祓おうとしていた。
無論、儀式などで病魔を払えるわけがなく、当時の京の劣悪な衛生環境が主な流行の原因だったのだが。
「おれが? 崇りを? ははは、はっはっはっはっ!」
「何がおかしい……」
「ははははは……いやはや。おれを殺したところで、おまえたちの言う《崇り》は収まらぬよ。おれとあの《崇り》は何ら関わりがないのだからな」
「命乞いであればもう少し上手くやるのだな」
「今さらなにを乞うものかよ。崇りをもたらしているのはな、他の誰でもない、懐仁よ。あァ、藤原のものどももか。おれが鬼ならあれらも鬼」
「なんということを……!」
帝を諱で呼び、あまつさえ太政官を含めて鬼であるとまで言う。不敬も甚だしい。
「鬼は人を食うのだろう? ほれ、業平は高子を食われたではないか。地位を求めんとして娘を入内させる、これが人身御供でなければ何だ。その贄を食らうのは何だ」
伊勢物語に、禁忌の恋に落ちた男は女を連れだして匿うもその女を鬼に食われた、とある。在原業平は皇后候補の藤原高子と恋に落ち高子を匿ったが、結局高子は連れ戻されて帝の后とされた。
「鬼の勅で鬼討つおまえたちも、また鬼よ。蛙は蛇には勝てぬ。人の身では鬼を討てぬ」
にたり、と醜い唇が大きな笑みを形作る。あばたの奥の双眸が鬼火のように怪しく光り、その尋常ならざる気配を感じ取った綱はさっと髭切を八双に構えた。
「なァ、そうであろう? 綱よ。おまえの母――」
言い終わらないうちに頭領の首が山の土に落ち、禿の後れ毛がはらりと散る。
髭切がその名に違わぬ切れ味を発揮し、頭領の首を断ち落としたのだ。
おお、とどよめきが上がった。鬼の身体が後ろに倒れた。「あなや」と頼光が叫んだ。
土に落ちた首はまだ意思を持っていた。黄色く濁った眼球がぎょろりと動き綱を捉える。
歪んだ醜い唇が何事かを呟くように動いた。何を言っているのか読み取れたのは綱だけだった。頭領の目は、ほどなくして輝きを失った。
綱は髭切を振って頭領の目を斬り潰した。邪視による崇りを防ぐためである。
「首桶をこれに。持ち帰り、討伐の証とする」
綱の指示を受け、数人の武者たちがおそるおそる頭領の首に近づく。
二人がかりで禿を掴んで持ち上げ、首桶にそっと納める。
首桶に鉄の蓋がはめられ、安倍晴明より渡された札で厳重に封印されたのを見て、ようやく頼光は安堵の息をついた。
「さあものども。引き続き日が落ちるまで残党を討て。土の怪しく盛り上がるはこれを突け。藪に音を聞けばこれを斬れ。小屋を見ればこれを焼け。女子供も化生なれば、一切の情けは無用なるぞ」
取り巻きの武者たちは「応」と言って山中に散っていく。
綱は髭切に付着した血を拭って鞘に納めた。髭切は刃こぼれ一つしていない。
鎖でがんじがらめにされた首なしの巨躯を見下ろす。首の断面からは大量の血液が零れ、土を汚している。この場で骸を八つ裂きにした後、陣を張りなおさねばなるまい。
綱は部下に遺骸の処理と陣の移動を命じ、自らもその作業にあたった。
夏の日差しが僅かな隙間を見つけて強く照り、血塊を焼いてぱりぱりに乾かしていた。
二
その夜、綱は寝つけなかった。
暑く、しかし寒気のする夜だった。
誰もが目を瞑って寝たふりをしている。暗闇の奥に何ものかが立ってじっとこちらを見ているような気がするのだ。鎧兜を着けたまま寝ている者もあった。太刀を抱いて寝ている者もあった。
綱は敷き詰めた杉の葉の上に麻布をかけて横になっていた。寝心地は悪くない。
ううん、と唸って寝返りを打つ。
あの鬼の頭領のしわがれた声が何度も何度も頭の中で反響していた。底の知れぬ不気味な双眸も目を閉じた闇の中でぎらぎらと光ってこちらを見返している。
忘れようとすればするほど、意識せまいとすればするほど、鬼の頭領は綱の脳髄に深く噛みついて離れないのだった。
ふと、土と血の臭いにすっかり慣れ切った鼻の先に、そっと触れるものがあった。
すん、と綱は鼻を鳴らす。
果実のような甘い芳香と炊いたばかりの米から立ち上る香り。酒の匂いだ。
場違いな香りに、綱は一瞬ではあったが鬼の頭領のことを忘れた。
綱は身を起こして陣中を見渡す。酒を飲んでいる者はいない。酒好きと伝わる酒呑童子の怨霊が寄ってくることを怖れ、誰もが酒を持たなかったのだ。
綱は立ち上がって凝りをほぐし、形の良い鼻を揉んでから、もう一度鼻から息を吸う。
やはり、酒の匂いがした。気のせいではない。
「むう……」
小さく唸る。理由もなく気になった。綱は若い。鬼や怨霊、物の怪といった類を信じこそすれ、怖れず、また分からぬことは確かめねば気が済まぬたちである。
綱は軽く身支度し、髭切を腰に佩く。
うるさくならぬようそっと歩いて陣幕の入口に向かった。
幕を開くと、外は霧に満たされていた。なるほど、寒気の原因はこれかもしれない。
「これは綱殿。どちらに」
「小便だ」
「霧が深うございます。どうか、あまり遠くには行かれませぬよう」
「ああ」
不寝番に短く答え、綱はかがり火から松明に火を取り、夜更けの大江山に分け入った。松明の黄色い明かりが、ぼう、と霧に拡がった。
虫も梟も鳴かぬ夜だった。風も吹かず、綱が土を踏む音の他にはこそりとも音がしない。山の全てが物忌をしているかのような、不気味な静けさだった。霧が音を吸い取っている。
綱が陣を出てから霧は一層深くなった。いくばくも歩かぬうちに鎧直垂が湿り気を帯びて重くなり、じじ、と身じろぎする松明の火も心なしか小さく見える。
夜闇に黒く染まった樹木の幹の間に、濃い霧が溜まっている。足元よりも頭上の枝葉の方がよく見えることに気づき、綱は濃い眉の根を寄せた。
すん、と綱は鼻を鳴らす。
奇妙な香りだった。ある一方向に顔を向けたときだけ、酒の匂いがする。
それはどうやら大江山の頂上の方向であるらしかった。
振り返れば、黒い枝葉の間に二重の暈を被った望月。かつての長岡京の北西に大江山はある。
綱は霧中を歩きながら此度の出征のことを考えていた。綱たちが帝から拝受した勅命は盗賊(おに)の討伐であり疫病(おに)の根絶であった。
大江山の鬼たちは京を荒らし祟るだけではなく、すぐ傍の山陰道を通る者たちをも襲い、あるいは祟るとされていた。少なくとも京ではそれが常識であった。
だが、あの鬼の頭領は祟ってなどいないと言った。
命乞いではあるまい。略奪は認め、帝を指して鬼だと言った。見た目とは裏腹に教養深いあの頭領のこと、自らの利にならぬ発言はすまい。命乞いであればもっと上手くやる。
で、あるならば。
鬼の頭領の言葉には、いくばくかの真実が含まれているのではないか。
帝が鬼であるという戯言は捨て置くにせよ――
「……ふん。馬鹿馬鹿しい」
綱は首を振った。京の疫病が鬼の崇りでないとすれば、京の陰陽師は皆、無意味な追儺を行っていることになるではないか。あの鬼の頭領が最期に綱を誑かし、破滅の道に袖を引こうとしているに違いない。
そう自分に言い聞かせることで、揺らぐ常識を繋ぎとめた。
そうせざるを得ないほど、あの鬼の頭領の言葉には聞き流しがたい説得力があった。
否、それは綱の願望だったのだ。
松明の火が音もなく消えた。
綱はさっと松明を棄てて腰を落とし、髭切の柄に手をかける。油断なく周囲に気を配り、霧の僅かな揺らぎや甲高い静寂に混じる僅かな音、更には大気の微かな肌触りといったものを感覚する。
気配は、ある。酒の匂いと共に、すぐ前方から発せられている。
綱はすり足で進んだ。
小さな広場があった。中央には大きな切り株がある。
その切り株に、白い水干を着た女児が座っていた。齢は十に満たない。月に照らされて輝く亜麻色の髪は流れるように長い。傍らには青紫色に塗った瓢箪を置いている。
何より、頭の両側から長く伸びる捻じれた角が目を引いた。長さは綱の前腕ほどもある。
袖無しの奇妙な水干から飛び出した棒のように細い腕が、頭ほどの大きさの瓢箪をひょいと持ち上げて口に運ぶ。白い喉が大きく動いて酒を嚥下し、心地よさそうに長く息を吐く。酒の強い匂いが綱の鼻腔に届く。
霧は月明かりに青く光り、女児の細い腕と白い肌が冴えている。
綱は絵に見る神仙境を連想した。女児が口にしているのは霞ではなく酒だが。
不意に、大きな瞳が綱を捉えた。
綱は丹田に力を込めて短く強く息を吐き、心を惑わされぬようにする。
「何者か」
問う声が僅かにうわずった。
「さァて、名を答えればいいのか、人であるか妖であるかを答えればいいのか」
舌足らずの童女の声が、綱よりも遥かに年齢を感じさせる落ちついた口調で反問した。綱は間髪を入れずに答える。
「両方だ」
「あっはっは、贅沢な奴だ。正直でいいけどね」
角の生えた女児は酒を一口あおり、口元を腕で拭う。二本の細い腕には鉄の輪が嵌められ、そこから伸びる鎖の先には球と三角錐の分銅がそれぞれくっついている。
「わたしの名は萃香。伊吹山の萃香。我らは鬼。あんたたちの怖れる鬼だ」
「我ら、だと!?」
綱は周囲に素早く視線を走らせる。
「あァ、ここにはわたしとあんただけだよ」
「我らと言ったではないか」
「我らはわたしさ。わたしとあんたの他には誰もいないからそう心配するな」
意味をはかりかね、綱は萃香と名乗った鬼を睨みつける。
「おのれ、誑かすかよ」
「我ら鬼が嘘などつくものか。言葉の通りだよ……やれやれ、この霧もわたしだ、といえば分かるかい。霧じゃなくてわたしの分け身だから、この言い方はおかしいんだけどねえ」
「この霧が……?」
綱は押し黙って鬼の姿をじっと見る。
長い角を除けば貧相な体つきをした童女でしかない。立ち居振る舞いはまるで無防備だ。
つくりものの角を頭に着けた童女が綱をからかっているのだとしたほうがよほど信じられる。
「鬼……か」
「信じられんかね。まあ、確かにこんななりだけど、見た目で判断すると痛い目に遭うよ」
「ふん……鬼というならば、今ここで姿を霧に変え――」
鬼の全身から怪しげな霧が噴き出して姿が隠れ、気配だけが残った。
綱は一瞬言葉を失い、それから頼光の言葉を思い出した。言ってみることにした。
「風に乗り――」
突風が吹いて霧が舞い上がり、上空から鬼が落ちてきた。
「雷を呼び――」
鬼が指で天を突くと、突如として数条の雷が大江山の各所に落ちて耳を聾する爆音を上げた。
「火を吐き――」
鬼は口に酒を含んで猛烈な火を噴き、霧に濡れた土をたちまちに乾かした。
「幾多にも増え――」
鬼が髪を抜いてふっと息を吹きかけると小さな鬼がわらわらと子蜘蛛のように現れた。
「身の丈を変え――」
鬼が両手を突き上げて巨大化し、雲を殴って跡を残すとまた元の大きさに戻った。
綱の言葉に先回りするかのように、鬼は次々と怪異を引き起こしてみせた。
あまりの荒唐無稽ぶりに、綱は驚きが半分、呆れが半分といった心地になる。僅かなりとも怖れを覚えなかったのは、鬼が実に楽しそうな笑顔でそれらをやってのけ、加えて綱に対する殺気がまるでなかったためだ。
下の方から騒ぐ声が聞こえてきた。仲間の武者たちが異変に驚いているのだろう。
「……千里先まで祟るのか」
また酒をぐいとあおる鬼に、綱は一番気がかりなことを尋ねた。
「それもできないことはないね」
「では、京の崇りは――」
「早とちりをするんじゃないよ。できないことはない、とは言ったけれど、わたしがやったとは言ってない。それとも、やってみせようか?」
「それは困る」
「そうだろうそうだろう。これだけ見せてやったんだ。少しは我慢をするんだね」
「随分と易く技能をひけらかすのだな」
「そうでもないさ」
と、そこで話が横道に逸れたと気づいて綱は咳払いをした。
「……あの鬼が崇るでもなく、おまえが崇るのでもないのだとすれば、いったい何の因果で京にあのような惨い疫病が流行るのだ」
「んー。それは話すと長くなるな。まァ、立ち話も何だ。こっちに来て座りなよ」
鬼は小さな手でぽんぽんと切り株を叩く。
綱が髭切に手をかけたまま歩み寄ろうとすると、鬼は片手を突き出して綱を制止した。
「おっと。その太刀はそこに置くか、抜かぬと誓っておくれよ」
「ふん。鬼もこの髭切は怖れるか」
「うん。こわい」
「む……」
あっさりと認めた鬼に綱は面食らう。
「ただの刀じゃわたしを斬ることなんてできないけれど、あんた、それで鬼を斬ったろう。曰くのついた鬼斬りの刀だから、わたしも斬れる」
「ふむ……あれはやはり鬼であったのか」
「鬼といえば鬼、人といえば人さ。それで、どうする。抜くのであれば、ここでお別れだ。二度と会うこともないだろう。あんたの知りたい流行り病のことも分からないままだろうがね」
綱は濃い眉の根を寄せて一呼吸の間だけ考えた。どうせ、髭切を抜いたところでこの鬼にはとうてい敵いそうもない。抜かぬだけで話を聞けるのであれば安いものである。
「分かった。抜かぬ。だがこれはおれが元服に際し賜ったもの。手放すわけにはいかぬ」
「それでいい。さあ座れ。呑もう呑もう」
女児の姿をした鬼は喜色を満面に浮かべて両手を上げた。仕草はまるで子供のようである。
綱は鬼の左隣にどっかりと座り、差し出された大瓢箪を受け取る。ずしりと重い。
怯えていると思われるのも癪なので、綱は飲み口にいきなり口をあててぐびりと酒を呑みくだした。喉が鉄の湯を飲んだかのようにカッと熱くなった。
「ごほっ、ごほごほっ!」
「ありゃありゃ。無理して一気に呑むからだよ」
「な……なんだ、この酒は」
鼻がツンとして、視界がくらくらと揺れた。綱は目を何度かしばたたかせて頭を振る。
「我らが呑む酒はね、人が呑むそれより遥かに強いのさ。だけど、うまいだろう」
「む……うむ、確かにうまい」
吐息を鼻に抜くと、果物と米の芳醇な香りが濃く残っていた。舌には旨みがしっかりと残っていた。次のひと口は少量を味わい、綱は瓢箪を鬼に返す。
「さて、わたしが名乗ったんだ。まずはあんたも名乗るのが正道というものだろう」
「橘正成だ」
綱はとっさに偽りの名を答えた。安倍晴明から、名を問われたら嘘の名を言え、と言い含められていた。真の名を知られると呪をかけられるから、と。
「わたしは嘘が嫌いだぞ、綱」
「な……」
間髪すら入れずに嘘を看破された綱は動揺してしまった。生じた心の隙に着け入り、萃香が呪をかける。
「動くな、源綱」
途端に綱の体が動かなくなった。全身が鉄の塊になったかのようだ。呼吸すらできない。
鬼は切り株の上に立ち、綱の頬に手を添えて横を向かせた。鼻が触れるほどに顔を近づけ、眼と歯を剥いて、しゅう、と熱い呼気を漏らした。
あの鬼の頭領すら矮小に思えるほどの圧倒的な重圧感が綱の心胆を押し潰した。
「いいか。わたしは嘘が大嫌いだ。次に偽りを言ってみろ。心の臓を握り潰してやるぞ」
小さな拳が綱の左胸をとんと突いた。それで綱にかかっていた呪が解け、綱は止まっていた息を大きく吐いた。冷や汗をどっさりかいている。
「……呪術も、修めているのか」
「妖物ならこれくらいは息をするのと同じさね。わたし自身が巨大な呪のようなものだから」
「なぜ、おれの名を」
「なァに、昼からあんたたちのことを見聞きしていただけさ」
「《式》……か」
さァて、と鬼はうそぶいて酒を煽る。
「こわいな、おまえは」
綱は素直にそう言った。
「鬼はこわいものさ」
違いなかった。
「……おれの名は源綱だ」
「うん、知ってた。わたしは萃香だ」
「知っている。もう聞いた」
むすっとする綱を見て萃香は愉快そうに笑った。綱はますます不機嫌になる。
「早く流行り病のことを話せ」
「やれやれ。急く男は嫌われるよ、綱坊」
まるで子供扱いである。
萃香はぶらぶらと足を遊ばせながら話し始めた。綱は瓢箪を取って酒を一口含む。
「あの流行り病、疱瘡はね、あんたたちの目には見えない毒のせいで起きるものだよ」
「毒?」
「そう。疱瘡に罹った者の唾や鼻水、疱疹には毒がある。あとは瘡蓋にも。飛び散った毒を吸ったり、傷口から毒が入ったりすると、そいつも疱瘡になる。そうして拡がっていくんだな」
綱は顎に手を当てて萃香の言ったことを咀嚼しつつ、続く説明を待つ。
待っていたが、萃香は綱から受け取った酒をぐびりと呑んだきりで口を開かない。
「……うん? それだけか?」
「それだけだよ。それで全て辻褄は合うだろう。崇りなどではないよ」
「崇りではなかったとして、なぜ追儺や四角四堺祭で祓えない」
「効果が無いからさ。空に雨をよこせと言って降るかい? 降らないだろう」
「だが陰陽師が祈祷すれば雨は降るし、止まる」
「雨が降らないことなどないし、止まないことなどもないさ。陰陽師は雨が降るときや止むときを見計らってそれらしく祭を行うだけさね」
「そんなことがあるか。それでは騙りではないか」
「そうでもないさ。あんたたちはそれで安心する。結構なことじゃないか。病を怖れて仕事にならぬ、では世が立ち行かないよ。それに、毒で穢れた者を京に入れないという点では間違っていないしね」
「むう……」
綱は腕を組み、唸った。
病が毒によるものだ、という話は理解できぬでもない。誰にも呪われる云われのない者が疱瘡に罹って命を落とす一方、誰からでも呪われるような嫌われ者がぴんぴんとしている。
だが陰陽師の祭祀に実質的な効果がないということがとても信じられなかった。
平安京の時代、陰陽師は牛車のようにごく当たり前に存在し、かつ生活において必要欠くべからざる存在だった。それを覆して認識を改めるというのは、普通の人間にはできない。
「……どうも、おれはおまえの言うことを信じることができん」
「やれやれ……せっかく教えてやっているのに、信じないのでは話にならないじゃないか」
「目に見えぬ毒を信じろと言う方が無理だ」
「見たこともない神を信じるくせに。相変わらず人間はよく分からないねえ……」
萃香は拗ねたように瓢箪を両手で抱えて酒を口に含んだが、すぐに何事か思いついたらしく小さな膝をぺしりと打って立ち上がった。
「よし分かった。なら見せてやろう」
「見せる? その毒とやらをか」
「もちろん。他に何があるんだい」
「見えぬものをどうやって見せる」
「ふふん。我ら鬼の力でな。特別だぞ」
萃香は口をすぼめて周囲に漂う霧を吸いこみ始めた。周囲の霧を吸い、更に山肌にかかった霧までも吸いこんでいく。胸も腹も膨らまず、ただ白い霧が萃香に吸収されていく。
すっかり霧を吸い尽くしてしまうと、後には寝苦しい夏の暑さだけが残った。月にかかった暈もすっきりと取れている。
「なんとも……また……」
眼前で繰り広げられたでたらめな光景に呆れている綱に、萃香が片手を突き出した。意図をはかりかねて綱が首を傾げると、萃香は口を尖らせた。
「なにをぼんやりしてるんだい。早くわたしの手を握れよ、綱」
「なぜだ」
「あんたの手は大きすぎるから、わたしじゃ握れないだろう。あ、角には気をつけなよ」
綱がそういう意味でなぜだと訊いたわけではもちろんない。
渋々ながら綱は萃香の小さな手を片手で包む。猫のように熱い手だった。
「いいかい、綱。絶対に手を離すなよ。離したら、あんたの魂が飛んでしまって、わたしでも萃められなくなるからね」
「なんだと。それはどういう――」
萃香はぐっと身をかがめて力を溜め、先ほど巨大化してみせたときのように両手を突き上げた。
ずうっ、と体が持ち上がる奇妙な感じを綱は覚えた。逆さに吊られたときの血が頭に上るような感覚に似ていた。ひどい目眩がし、綱は気を失わぬように歯を食いしばる。
「そら、気を張れよ、綱。手が離れるぞ」
萃香の声を聞き、綱は慌てて右手の感触を確認する。上も下も明暗も分からぬ中、確かなのは萃香の高い体温だけだった。
目眩が収まった頃、綱は黒々とした海の上にいた。
「な……」
「やあ。気は確かかい、綱」
「さっきまでは確かだったが、今は怪しい。なぜおれは海の上にいるのだ」
怪しいといえば、潮騒が聞こえないのも変だった。凍りついたかのように、盛り上がった黒い波が形を変えていない。
「海? ……あっはっは! なるほどね、海か」
右耳の下で上がった笑い声に、綱は怪訝な顔をする。
「これはね、綱。山だよ。雲の高さにわたしたちの顔があるのさ」
「なに!?」
言われて月明かりに目を凝らせば、海原かと思っていた暗い盛り上がりには無数の樹が生えていた。指でつまめそうなほどに小さな樹だ。
「ほら。あれが京の灯だ」
隣の萃香が示した方角を見やると、遥か遠くに幾つかの黄色い光がちらちらと瞬いているのが窺えた。
先ほどの萃香の仕草、逆さ吊りの感覚、そして今見ている光景。
ぴんときた綱は足元を見下ろした。
足首から下が樹に隠れて見えなかった。
「これは……おれが大きくなっているのか?」
「まァ、それが一番分かりやすいだろうね」
そう言われてまず綱が心配したのは、陣で大騒ぎしているであろう頼光たちのことだった。
「親父たちは無事か。踏み潰してなどいないだろうな」
「いまのわたしたちは霧のようなものさ。触れても指の隙間からすり抜けてしまうし、声も届かない。おそろしく大きな影を見た、くらいには思うかもしれないけどね」
「ははあ」
言われてみれば、耳目は利いているが、体の感覚がふわふわと頼りない。右手に握った萃香の手の熱さだけが確かだ。起きたまま夢を見ているような気分だった。
もう一度、京の方を見やる。
「……こうして見ると、京といえど小さいものなのだな」
綱は京がこの日の本の国で一番大きい都市なのだと信じていた。それは間違いではなかったが、周囲を囲う山々の重厚感に比すれば、京の灯など少し息を吹いただけで消えそうな火の粉にしか見えなかった。
「そうとも。でも、あんたに見せたいのはあれじゃない」
「ではなにを見せたいのだ」
「これはただの慣らしさ。さあ、綱。こんどは小さくなるぞ」
「なにっ、ちょっと待て――」
「待たない!」
笑顔で萃香が叫び、再び綱をぐるぐるとした目眩が襲った。先ほどと違うことといえば、今度は落下していく感じであった。夢であればどこかで目が覚めるが、そうはならなかった。
目眩が収まったとき、綱は赤い洞窟の中にいた。生温かい壁面に触れると、強い弾力で押し返された。
不気味な光景ではあったが不思議なことに不安はなく、ただ自分がどこにいるのか見当がつかず、綱は萃香に尋ねた。
「ここはどこだ」
「あんたの体の中だよ、綱」
「おれの!?」
「血が通う管の中だね。あんたのは普通の人間に比べてかなり丈夫でしなやかだ」
「そんなことより、おれの体は今どうなっているんだ」
「座ったまま寝ている感じだな。ちゃんと別のわたしが見ているから心配するな」
「むむ……」
「そう難しい顔をしないでよ、綱。自分の体の中を詳しく見たことのある人間は、きっとあんたが初めてさ」
「喜んでいいのか分からないな……」
真ん中が窪んだ円盤状の物体に綱は触った。女の乳房のように柔らかく、よく形を変える。周囲にはこの赤い物体がいくつも漂い、ゆっくりと流れている。
「これはなんだ。こんなものがおれの血に流れているのか」
「いやいや綱。それこそがあんたの血だよ」
「これが、血?」
「そうとも。それがおまえの気息を全身に運んでいるのさ。おまえが肺腑に息を吸うとき外から良い気を取り入れ、肺腑から息を吐くとき内の悪い気を捨てる」
「息が止まれば苦しいのはそういうことだったのか」
「ああ、そういうことさ」
「ふむ……おれは、血というのはどろりとした赤い水だとばかり思っていた」
「これも小さすぎて目には見えないからね。遠くから山を見るとき、木の葉までは見えないのと同じさ。さて――」
萃香はきょろきょろと周囲を見回し、卵型をしたぶよぶよの何かを見つけた。
「ふうん……あんた、一度疱瘡に罹っているね」
「なに? 覚えがないが……」
萃香はぶよぶよをつつく。ぶよぶよは身じろぎもせずじっとしていたが、綱はそのぶよぶよに言いようのない嫌悪感を覚えた。
「赤子の頃だろう。あるいは母親の胎の中で抵抗ができたのかな。これが疱瘡の毒だよ」
「なんだと!」
「おっと、危ないな。手を離すんじゃないよ」
「こうしていられるか。おれの血に毒が入っているのだろう。陰陽師に祓ってもらわねば」
「だからそれは効果がないとさっき言ったろう。綱は本当に人の話を聞かないな」
「しかし……なら、どうすればいい」
「あんた自身がちゃんと毒を追い出してくれるよ。そら、お出ましだ」
半透明のところてんに似た何かが、壁面からぬるりと姿を現した。不定形のそれはみるみる巨大化し、赤い円盤の倍ほども大きくなる。
綱が驚きのあまり言葉を失っている間にところてんは更に形を変え、腕のように突起を伸ばして疱瘡の毒を飲み込んだ。ところてんが蠢き、卵型のぶよぶよは奥へと運ばれていく。
「なんだ……これは……」
「あんたの体に入った毒を食ってくれるありがたい奴さ。疱瘡に罹って運よく生き延びると、体が疱瘡の毒を覚えてくれるんだな。次に疱瘡の毒を見つけると、今度は症状が現れる前にとっとと食ってくれるというわけさ」
「ははあ。検非違使のようなものか」
「そんなものかな。一度疱瘡に罹ったら二度は罹らないのさ」
「なるほど……しかし二人に一人は死ぬからな。おれは運がよかったのだな」
「まあね。ちょっとしたこと、例えばくしゃみや咳で唾が飛ぶだろう。それを少し吸うだけでこの毒は体の中でどんどん増える。一度覚えれば増える前に食べてくれるんだけど――」
などと萃香が綱に免疫の仕組みを説明していると、綱の左手を何かが引いた。
「うん? 誰だ」
ところてんが腕を伸ばして綱の手を飲みこもうとしていた。
「あー、それは異物を見つけたらとりあえず食べるんだよね」
「あえて訊くが……今のおれがこれに食われるとどうなる」
「さァて、どうなると思うかね」
と言っている間にところてんの腕は綱の肩口まで飲み込んだ。萃香はくつくつと笑うばかり。
「よし。今帰ろう。すぐ帰ろう」
「まあまあ。急く男は嫌われるぞ、綱。一度食われてみるのもいい経験だよ。たぶん人の身で初のことさ」
「自分に食われることのどこがいい経験だ! おいちょっと待――」
「じゃあねー」
萃香がぱっと手を離した瞬間、綱はところてんに全身を飲みこまれた。伸ばした右手の先で萃香の姿が霧になって消え、ぎりりと奥歯を噛んだところで綱の視界が暗くなった。
「――はっ」
次に綱が気づいた時、大江山は相変わらず静かで、生き物の気配はしなかった。
月の姿は既に見えず、夜空に僅かながら白が混じり始めていた。
隣で上がるくつくつという笑い声を聞いて、綱は初めてかつがれたのだと実感した。
じろりと横目に睨む。萃香は片手を後ろに着いて瓢箪の酒を喉に流し込んでいるところだった。白い水干から細い足が覗いてぶらぶらと愉快げに揺れている。
「……萃香、おれを騙したな」
「いやいや、我ら鬼が嘘などつくものか。どうなると思う、と言っただけさ。外れて何よりだ」
はっはっは、と白々しく笑う萃香の瓢箪を奪ったが、傾けても酒が出てこない。指で小突くと中で音が響いた。
「おい。酒が切れたぞ」
「あんたが起きるまでずっと呑んでいたからね……どれ、水を萃めるとするかな」
「あつめる?」
萃香は小さな右手を前に突き出し、握る。
「疾ッ!」
縄でも引くかのような動作をすると、どこからともなく透明な水が出現して綱が持つ瓢箪の口へと飛び込んでいく。夢や幻でないことは、徐々に増していく瓢箪の重みから明らかだった。
「ふふん。どうだ、凄いだろう」
飲み口の際まで水を入れた萃香は得意げに胸を反らせた。立て続けに不思議を体験させられた綱は、早くもこのくらいのことでは驚かなくなっていた。
「凄いことは凄いが……この水はいったいどこから持ってきた」
「ここの周りにある水を少しずつ萃めた。わたしは集めることと散らすことが得意なのさ」
「ほう。それは鬼の術か」
「鬼というか、わたしの術だね。鬼にも色々いるから。わたしは水でも砂でも、病でも崇りでも、人でも霊でも集められる」
「人でも……? おれたちがここに集ったことには関係があるのか?」
「いや、あんたたちの事情なんて知らないよ。わたしは長く人の里に下りていないしね。あんたたちがここに来たのも、あの山賊たちが皆殺しにされたのも、あたしから見れば偶然さ」
「そうか……」
綱は再び重くなった瓢箪に口をつける。水が酒に変じていた。
萃香は綱が驚くことを期待してか、にやにやしながら綱を見上げていた。
綱は浮かない顔のまま表情を変えなかった。
「あれ……どうした、綱」
「なあ、萃香。あ奴らは、人であったのか?」
ふふん、と萃香は何かを見透かしたように小さな鼻を鳴らした。
「さっきも言ったろう。あんたらが人といえば人、鬼といえば鬼だよ」
「晴明殿のようなことを言う……おまえは鬼なのだろう」
「まあね」
「であれば、おれはやはり、あ奴らは人であったと思う」
「であれば、あ奴らは人なんだろうさ」
萃香は瓢箪にくくりつけられた紐を引いた。綱は瓢箪を萃香に渡した。
綱は白み始めた空の一点をじっと見つめ、黙りこんだ。
綱が斬ったのは盗賊の頭領である酒呑童子のみである。だが、盗賊の側からすれば誰も彼も同じ襲撃者であることに違いはない。そして盗賊たちは、綱たちのことを鬼だと思ったろう。
京を俯瞰することで新たな視点を知った綱は、鬼の頭領が今際に残した言葉について一部なりとも頷かないわけにはいかなかった。
「……女子供まで皆殺しにすることはなかったのだな」
「まったくだよ。よくもまァ、人の縄張りで殺しに殺してくれたもんだ」
「む……あ奴らはおまえの知り合いだったのか」
「いいや。あっちはわたしがいることも知らないよ。ただ、あの連中は賑やかだったから退屈しなかった。わたしは賑やかで楽しいのが好きなんだ」
「そうか」
綱は一呼吸置いてから言った。
「すまなかった」
萃香は綱を横目に見ながら酒を傾け、ふふんと小さな鼻を鳴らして応じた。
空に青が混じり、すっかり夜が明けた。
昨日の鏖殺が嘘のように静かで、やはり鳥獣の気配はなりを潜めている。
もしやそれも萃香の仕業だろうか、と綱は思い、隣に座る女児の姿をした鬼を見やった。
萃香は涼しい顔をして頬を酒に火照らせ、気持ち良さそうに瓢箪を傾けていた。
「綱ぁー! どこだぁ、綱ぁー!」
不意に、鐘の音のようによく通る声が山の下から聞こえてきた。坂田公時の声だ。朝になっても綱の姿がないのを不審に思い、更に不寝番から夜更けのことを聞いて探しているのだろう。
「呼ばれているぞ」
と萃香が言った。
「呼ばれているな」
と綱は答えた。
立ち上がり、大きく伸びをする。五感は確かだ。未明のことが夢のように思えたが、そうでないことは振り返った先の萃香の姿と酒の香りが示していた。
「よい酒とためになる話を馳走になった。感謝する」
「なに、暇潰しさ。わたしも楽しかったよ」
そう言って、萃香はひらひらと手を振った。
綱は萃香に背を向けて藪に分け入る。
背筋に心地よい感覚があった。酒のせいかもしれない。
綱は明るくなった山の中を、呼ぶ声のする方へと歩いた。公時の声は馬鹿でかいのですぐに見つけることができた。
「おい、綱――」
「ここだよ。兄者の声は耳が痛くなるな」
鉞を担いだ腹の太い男が振り返った。公時は身の丈こそ綱よりも低いが、怪力でならす偉丈夫である。
「おお、こんなところにいたか。夜更けに外に出たきりと聞いて心配したぞ」
公時は笑顔になり、肉付きのよい顔面にたっぷりかいた汗を直垂の袖で拭った。
「おれは子供か」
「うむ? 顔が赤いな。ふふん、女と睦みおうていたか」
「いいや、酒を呑んでいたのさ」
からかおうとする公時に、綱は逆にやり返す。案の定、公時は血相を変えた。
「なに、酒だと。おまえ、酒呑童子の怨霊を呼ぶから酒はやめろと晴明殿に言われていたろう」
「一晩呑んだが、ついぞ怨霊には遭わなかったな」
「確かに酒臭いな。まったく、おまえも少しは怖れというものを覚えたらどうだ。勇者と命知らずは違うのだぞ」
「いやいや。俺にも怖いものはあるよ、兄者。今しがた、会うてきたばかりさ」
「ほう。なんだそれは」
「酒よ」
公時はあんぐりと大きな口を開け、どんぐり眼を大きく見開いた。
そして腹を叩いて笑った。
「はっはっは! 騙されぬぞ、綱よ。おまえ、そう言えば俺が酒を持ってくると思っているだろう。その手には乗らぬさ」
勘違いしている公時に、綱は肩をすくめてみせた。
あれだけ酒を呑んでいるのだから、萃香の体の半分は酒でできているに違いない。
綱はそう考えて、酒と言ったのであった。
なんとも怖ろしげで、しかし親しみのある鬼だった。可愛らしくもあった。あの人を食ったような性格でなければ娘に欲しいとさえ思えた。あの鬼は鬼らしからず、どこまでも無邪気だったのだ。
などと綱が思い出していると、耳元にふうと息を吹きかけられた。
「――また来いよ」
囁かれ、綱の背から首にかけて鳥肌が立った。
袖を鳴らして振り返ったが、藪と幹があるばかりで誰もいない。
ただ、酒の匂いが鼻先でほどけた。
「どうした、綱」
「いや……なんでもない。さあ京に帰ろう、兄者」
「なにを偉そうに。おまえを探していて出立が遅れたのだぞ」
「はは、すまんすまん」
先導する公時を追う途中で綱はもう一度だけ振り返った。
すん、と綱は鼻を鳴らした。
土と、僅かな血の臭いしかしなかった。
続編を楽しみに待たせてもらいます。
綱と萃香のやり取りが面白かったです
最初に思った感想です。
綿密に織り込みつつもすっきりした地の文や、綱と萃香の会話が楽しくて、ぐいぐい引き込まれました。
酒呑童子の残した言葉も気になります。続きが物凄く楽しみです。
続き待ってます
これからどう持っていくのか興味津々
貴方の書く文が私の中で抵抗なく再現して、とても幻想的で綺麗な風に見えたのです。
次回、楽しみにしていますね。
すらすらと引き込まれていく感触がたまりませんね。
妖しげな萃香も魅力的です。
誤字等と思しきものを。
>>棟梁
頭領
>>識
式?
>>分け身
分身か、それともこれであっているのか。
>>と言っている間に腕は綱の肩口まで飲み込んだ。
腕→ところてん?
続きが楽しみです。
ただ目にうるさい背景色だけは不満に思えました
もっと落ち着いた、読み易い色にして欲しいです
とは言っても、シリーズ中は共通のがいいんでしょうけど
完結まで追っかけたいと思います。