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淡い青で塗られた空を、入道雲が泳いでいる。
何にも染まらないで、のっそりと遊泳するその様は、心地良さそうに見えて。
あの雲みたいに空を泳げたら涼しくなれるかな、と、メディスンは思った。
空にへばりついた、真っ白な太陽から降り注ぐ光は、沢山の熱がこもっていて、風は絡みつくようだ。
かゆみにも似た、体から水分が滲み出て行くような感覚。
それが不快で服を前後にパタパタさせてみると、汗が冷えて入ってきた風が少しだけ涼しく感じた。
「空は青くて、雲は真っ白で涼しそうなのに、どうしてこんなにも暑いのかしら」
「そりゃあ夏だからに決まっているでしょう」
考えることもしないで、さも当然のように、幽香はメディスンの不満に答える。
日傘を差している彼女の頬を一滴の汗が伝って落ちた。
彼女だって暑いのだろう。けれどもメディスンのようにばてている素振りも見せず、むしろ口元に笑みを浮かべている。
「メディスンの言う通り暑いけどね。でも私は好きよ、夏は」
日傘の中へメディスンを招き入れて、幽香は言う。
傘の下に入ったことで心なしか涼しくなったような気もするが、やはり暑いのは拭えない。
夏は嫌いだ。暑さのせいで気力も体力も持っていかれて、自慢の毒も何だか威力が頼りない。
けれども、幽香の笑顔が見れるから、夏もちょっとは悪くもないかな、とメディスンは考えるのだった。
彼女達の目の前には、ヒマワリが一面に咲き乱れている。
丘一面に咲いたヒマワリは、崇拝でもしているみたいに、真上の太陽を一斉に仰ぎ見る。
花弁の鮮やかな黄色が添えられた景色を、幽香は目を細めながら見つめていた。
その黄色ばかり、見つめていた。
花の妖怪である彼女は、ありとあらゆる花が大好きだけれど、ヒマワリだけには別格の愛情を抱えている。
彼女が夏を好きでいる理由は、もしかするとそんな思慕だけで満たされているのかもしれなかった。
メディスンも、その黄色と、それから、幽香の表情とを交互に見比べていた。
無事に咲いてくれたことに対する安堵とか、やっと会えた喜びとか、幽香の色々な感情が幸せへと集約されて顔色に浮かんでいるようで、見ているこっちも幸せになりそうな、そんな表情だった。
「えへへ」
顔の綻びが抑えきれなくなって、たまらず幽香の腕に抱きつくメディスン。
「どうしたの? 急に甘えてきちゃって」困惑しながらも、幽香は彼女に向けて優しい笑みを浮かべた。
「だって幽香、ヒマワリが咲くまでずっと、私のこと厄介者扱いしてたじゃない。毒が漏れて、花が咲かなくなったらどうするのって、目をつり上げて怒ってさ」
そのときのことが思い出されて、メディスンは尚のことギュッと、幽香に体を寄せる。
彼女がヒマワリを非常に好いているということ。その為にこの時期の彼女はいささか神経質になること。それから、自分の毒が、彼女の大切な花を枯らしてしまうかもしれないということ。
事情は理解しているつもりではいるけど、それならばと気を遣って、この間ばかりは彼女と距離を置こうと考えるほどに、メディスンは大人ではなかった。
幽香の機嫌を悪くさせてしまうかもしれない、とは思いながらも、それでも彼女は幽香の元へ足繁く通って、怒られて。それでも次の日にはまた、その足は幽香の傍へと向かっていくのである。
ヒマワリの咲く季節は、メディスンにとって、いつにもなく人恋しくなる季節でもあった。
「それで、幽香に散々そんな風に言われるから、私だって色々と頑張ったのよ。毒の制御の仕方とか。その証拠にほら、私が幽香の所に来て毒を撒き散らした、なんてこと無かったでしょ?」
「それは、そうだけれども――」幽香は言葉を濁しつつ、苦笑いをした。「――心配なのよ。メディスンを信用したいのは山々だけれど、自分の力を完璧に操れるほど、あなたはまだ強くない」
そんなことはない。
喉から咄嗟に出そうになったその言葉を、メディスンは少し考えて再び体の中へ飲み下した。
自分では比べものにならない位の力を持って、何度も何度も戦いを重ねてきた彼女の言葉には、メディスンの自信をも押し潰してしまうほどの重みがあった。
幽香がそう言うのなら、そうなのかもしれない。でも完璧に毒を操るためにはあと何が足りないのか、メディスンには分からなかった。
ただ毒を制御する特訓をするだけじゃ駄目なんだろうか。それしか思いつかないことが、幽香の言う『強くない』ということなのだろうか。
「よく分からないわ」
霧を掴むような、答えの見つからない思慮を巡らすのにも飽きが来て、メディスンはそこに委ねていた意識を幽香の方へと向ける。
花のような甘い香りが、彼女から漂っていた。
まるで幽香の幸せに満たされたみたいに、その芳香が身体に入ってくると、何だか胸が一杯になるような心地がする。自然と顔が緩んでいくのが分かった。
幽香の幸せを感じて、こうして幽香に好きなだけ甘えることが出来て、メディスンの心は幸福で満ち溢れていた。この幸せを、誰かに話したくなるような、誰かに分け与えてあげたくなるような。
「もう。やっぱり、子供なんだから」
幽香はそれだけ、ため息混じりで口に出した。
自分の右腕をひしと抱くメディスンの、華奢な身体を感じながら、満面の笑みを見せる彼女に慈愛を含んだ眼差しを向ける。
不意に、アブラゼミの鳴き声が、すぐ近くに聞こえた、ような気がした。
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話したいことがあるときに限って、メディスンの大切な人は彼女の傍にいなかったりする。
無名の丘へと戻ってきたメディスンを、迎えてくれるものは何一つとなかった。
ただ荒涼とした大地があるだけ。当然といえば当然なのだけれど、もしかしたら、と思っていた。
つい今しがた抱いた幸福の延長線上で、何の根拠もないままにせっせと膨らませていた期待が、現実と向き合うことですっとしぼんでいく。
やがてそれらは、ため息と一緒にメディスンの唇からこぼれて消えていった。
ほんの一月くらい前までは、この丘を埋め尽くすほどのスーさんが咲いていた。
スーさん――『妖怪鈴蘭』と呼ばれている、強い毒性を持った鈴蘭。丘に草一つ生えないのも、土壌にスーさんの毒が染み渡って大抵の植物は育たないような環境になっているからだ。
メディスンはその毒から生まれた。
スーさんによって、本来人形だった彼女は妖怪となり、自由を手にした。
身体に悪影響を及ぼしかねない毒を、自在に操ることが出来るようになった。
何よりもスーさんは、持ち主から捨てられて、誰からも見向きもされないまま朽ちていく運命にあった自分のことを真っ先に見つけてくれた。自分のことを助けてくれた。
だからメディスンにとって、スーさんは一番大切な存在。
そのスーさんも今は枯れて、土の中で種子が来年の春に向けて養分を蓄えているのだろう。
分かってはいる。
花は妖怪よりもずっと繊細で、脆い。花が『花』として生まれる前に、そういう風に神様が運命づけたのかどうかは分からないけれど、それは変えることが出来ない事実だ。
だからメディスンは一年中ずっとスーさんと一緒に過ごすことは出来ない。必ず一人きりで生きなければならない時間が生まれてくる。
その時間は、メディスンにとっては辛いものだった。ひとりぼっちの悲しさを、彼女は痛いほどに分かっている。かつて自分を大切にしてくれていた人間に捨てられて、その悲しみを知ったからこそ、再びそれに陥るのがメディスンは怖かった。
ずっと一緒にいられないことは分かっているけど、でもやっぱり、スーさんがいつも傍にいてくれたらいいのに、と、彼女は思う。スーさんは一番大切な存在だから。
幽香も大切な友達だけど、もしどっちが大事かと聞かれたら、しばらく迷いながらもスーさんを取るだろう。
多分、幽香も同じなんじゃないかな、とメディスンは考える。ヒマワリと自分とで、同じ質問を投げかけてみたら。
空の青も、入道雲の白も、白く輝く太陽や、遠くに聞こえるアブラゼミの声だって。
つい先程、幽香と一緒に見ていた風景がそこには横たわっているはずなのに、ただ一色、眩しいくらいに明るいヒマワリの黄色を失っただけで、精彩を欠いてしまっているように見える。
頭の奥に、ヒマワリの黄色が映った。それを見つめる幽香の姿が映った。
丘一杯に咲くスーさんが見えた。
それから現実を見回すと、余計に周りが色褪せて見えた。
「スーさん……」
名前を呼んでみれば、来るんじゃないかと思った。ひょっこり土の中から顔を出してくれるんじゃないかと思った。
来るはずもなかった。
ちょっぴりセンチメンタルになっているみたいだった。
起きるはずもないことを考え付いては、それに本気になってすがっている。冷静になってみれば分かることなのに、もしかしたら、って思ってしまう。
何度も何度も希望を抱いて、希望の数だけ孤独を感じて、終いには疲れ果てて、メディスンはその場にへたれこんだ。
乾燥しきった土が硬くて、じん、と足に痛みが走る。
胸の奥がきゅうと締め付けられる。誰かに抱き締められたように優しくて、その優しさが余計に哀しくて、鼻がつんとなった。
次の日も、メディスンは幽香のところに行った。うんと甘えてやった。昨日の反動かもしれない。
こうして彼女と一緒に過ごして、うだるように暑い日の光を体で受けて、辺り一帯に響き渡るセミの鳴き声を聞いていると、哀しさが嬉しさで中和されていくような気がした。
夏はいつにもなく人恋しくなるけれど、そんな複雑な想いを打ち砕くくらいに喧しい。
まるで寂しさに暮れる彼女の背中を、頼もしく押してくれているようだった。
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少し強い風が吹くと、視界が鮮やかな黄色と赤に染め上げられていく。
林立した木々から紅葉がはらはらとこぼれ落ちて、華奢な躯体を空へ浮かばせる。
とがった紅葉の葉の先が、ちくりとメディスンの頬を刺す。どこを見渡しても、紅葉が踊っていた。
風が止むと、力なく紅葉は床へ落ち、灰色の岩を黄色に、そばを流れる小川を真っ赤に塗りたくった。
服についた紅葉をメディスンが振り払っていると、幽香が彼女の頭に手を伸ばした。
「まだ付いてるわよ」
そう言う幽香にも、頭に真っ赤な紅葉が乗っていた。メディスンがそれを取ってあげると、恥ずかしそうにはにかんだ。頬が周りの紅葉と同じ色になる。
「滝の方には行かないの? あっちってすっごく紅葉が綺麗なんでしょ」
「あそこは見物客が多いからね。逆に雰囲気を削がれてしまうわ」
メディスンと幽香の二人は、紅葉を見に秋の妖怪山を訪れていた。
綺麗に色づいた山の紅葉は、幻想郷の秋の風物詩でもあり、多くの人妖たちが足を運んでいる。
中でも山を流れる『九天滝』と呼ばれる巨大な滝がある辺りは、絶好の行楽地として人気を集めている。
縄張りにうるさい天狗たちも、この時期は山の立ち入りには寛容な態度を取ってくれるようだ。
ただし、少しでも不穏な態度を取るようならば、文字通りあっという間に山からつまみ出されてしまうのだが。
静かな場所がいい、と、幽香は人気の無いところを好んで進む。
九天滝の轟々とした音が次第に小さくなっていくのが分かる。風に揺られた紅葉が、さわさわと、心地よい音を立ててはメディスンの耳朶を撫でた。
必ず視界には、枝から離れて地べたに舞い落ちていく紅葉の姿が映る。
それは命の亡くなった瞬間だった。美しく照り映えた赤は静かに地上に軟着陸する。そうしてゆっくりと褪せていくのだ。
綺麗なのに、どこか哀愁をはらんだその風景に、メディスンも幽香も、しばらく黙ったままでいた。
「死ぬ様を美しいと思うのは不謹慎かしら」
目の前に落ちてきた紅葉を手にとって、幽香が口を開く。紅葉の赤はまだ血が通っているかのようにみずみずしい。
「お気楽な感情ね。散ってしまっても、また来年があるからって思ってる。だからこういう風に美しいとか捉えることが出来るのでしょう」
物憂えげな彼女の横顔を、メディスンは黙って見つめている。
スーさんのことを思い出していた。
夏の初め頃に、静かに枯れていったスーさん。始めのうちは何度も悲しい気分になったけれども、数月経った今では幾分か引きつつある。
スーさんとの別れは悲しいが、来年の春になればまた、スーさんと一緒にいられる。そうやって前を向けば悲しくなかった。そんな希望が彼女の支えになっている。
「限りあるものだから命は美しい、って言うけど。結局は心のどこかで命が永続してくれることを望んでいるのかもしれないわね、私たちって。まあ、不老不死とか、それを露骨に出されると首を捻ってしまうけど」
「そうだね、そうかもしれないね」スーさんのことも、枯れるのは仕方ないって割り切ってるけど、でもやっぱりずっと一緒にいれたらいいな、って思うよ。
思わず続いて吐露しそうになった言葉をつぐんで、メディスンは小さく頷いた。弱いところを幽香に見せれば、彼女にまた子ども扱いされると思ったのである。
「ちょっとした物思いよ。私もそういう歳になってしまったのかしら」幽香は冗談混じりに苦笑する。「何も無理に返事しなくても良かったのに」
「無理なんかしてないわよ、本当にそう思ったの」
何だか幽香に子ども扱いされているように思われて、語調を強くするメディスン。幽香は、そう、と微笑みを浮かべて答えるだけだった。
「本当だってば」
「はいはい、分かったから」
そうは言うけれどまだ信じてくれない様子の幽香が、メディスンには面白くなくて、軽く地べたの紅葉を蹴り上げる。
自分の歩調と一緒に、がさがさと音を立てて、紅葉が小さく宙へ舞い上がった。少し面白い。
ふと振り返ってみると、メディスンが歩いていた場所を辿るようにして、土があらわになっていた。むすっとしていた彼女の表情が緩む。そうして再び前を向くと、小気味良く落ち葉をかき分けていった。
その様子を見た幽香が小さく笑った。「子供ね」なんて、メディスンに聞こえないようにこっそり呟く。
本人としては子供としてではなく、ある程度大人として見て欲しいと思っているのだろうが、見てるこちら側としては、このくらい幼くて毒があるうちが、可愛げがあっていいと思う。
メディスンが作った道は、間もなくしてまた紅葉の山に埋め尽くされていった。
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山中をしばらく進んでいると、二人は守矢神社へと辿り着いた。
周りの紅葉に負けじと真っ赤に塗られた鳥居が、高々と構えて二人を出迎える。整然と並べられた石畳や荘厳なしつらいを漂わせる本殿も、麓の神社のそれとは大違いである。
最近建てられた神社だと、幽香が教えてくれた。彼女も話に聞くだけで、実際に訪れるのは初めてだと言う。
「東風谷さん」
東風谷、と幽香に呼ばれた少女は、石畳に散らばった紅葉を掃く手を休めると彼女たちの方を向いた。
麓の巫女と似たような衣装を身にまとって、幽香よりちょっと深い緑色の髪。蛙の髪飾りが目に付く。
「あら、幽香さんじゃないですか」
こんにちは、と彼女は一礼をして表情に笑みを湛えた。
「珍しいですね。幽香さんがこちらに来てくれるなんて」
「紅葉狩りのついでにね。仕事の邪魔しちゃったかしら」
「いえいえ、そんなことはないですよ――それより、その子は? はじめまして、ですよね」
少女に視線を向けられて、メディスンはうめき声を漏らした。
今まで異変の騒々しい中で様々な人間や妖怪たちと出会い、そのままの流れで交流を深めていっただけに、こうして改まって初対面の挨拶を交わすというのは、彼女にとって少し気恥ずかしいところがあった。
とうとう彼女ははにかんで、幽香の背中に隠れてしまう。
「もう、こういうときだけ子供ぶって――この子はメディスン・メランコリー。毒を操る人形よ」
「メディスンですか。私は東風谷早苗、守矢神社の風祝を務めています」
「ごめんね東風谷さん。この子ちょっと人見知りで」
「し、失敬な。ちょっとびっくりしただけよ。面と向かって挨拶されるなんて初めてだったから」
そう言ってメディスンは強がってみせる。再び幽香から子ども扱いされた彼女の心境は余りよいものではなかった。
ただ、こうして自分が初対面の相手にどぎまぎしてしまったのも事実だった。
今回は自分にも反省すべきところがあったわね、と、彼女は自省する。
そして、照れ紛らしに二、三咳払いをすると、前に出て早苗に深々とお辞儀をした。
「はじめましてよろしくお願いします」
「はい、こちらこそよろしくね」
少しぎこちないのが自分でも良く分かって、顔を上げたメディスンは照れ臭くなって笑った。
紅潮した頬に当たる秋の風が、こころなしか冷たく感じられる。
「で、いつの間に二人とも知り合いになったのよ」
「人里の花屋でね。どの花を選ぼうか迷っていた東風谷さんに私が色々アドバイスしたのよ」
「花があれば、部屋の雰囲気も明るくなるかな、って思ったんです。でもそういうのってやったことなかったから、どれを選べばいいのか分からなくて……ちょうどそこへ幽香さんが話しかけてくれたんですよね」
「同じ緑髪のよしみ、ってやつね」自分の髪を指先でくるくると弄りながら、幽香は言った。「そういえばあのときのダリア、そろそろ咲いている頃じゃないかしら」
「あ、そうなんですよ。つい数日前に咲いたんです、綺麗な赤色でしたよ。これも幽香さんの助言のお陰ですね」
ありがとうございます、と礼を言う早苗。
「別に大したことはやってないわよ」と突っ返そうとする割に、幽香はまんざらでもないようだった。
「また何か花を育てたい気でいるなら、遠慮なく聞いてちょうだい。例えばそうね、スイートピーとかいいんじゃないかしら。ダリアほど華やかじゃないけど、とってもいい香りがするのよ」
はたから聞いても分かるくらいに、彼女の声が弾んでいるのが分かる。自分の好きな話題を共有できる知り合いが出来たのが嬉しいのだろう。
メディスンは、花の談議に、それこそ花を咲かせている二人を交互に見ながら、早苗にスーさんをプレゼントしたら喜ぶかしら、と考えた。もちろん、毒の気はあらかじめ除いてあげて。
花弁の形が可愛いし、甘い香りが優しく漂うし。花に対してこれだけ興味を示してくれているのだから、気に入ってもらえそうな気がする。
今度こっちに来るときはスーさんと一緒に来よう――そこまで計画を立てて、メディスンははっとした。そうなると、守矢神社に来るのは来年のことになってしまう。半年くらい間が空くじゃないか。
すぐに、なんて思っていたけれど――やっぱり肝心なときに限って、スーさんはいない。不意にそれが突きつけられて、彼女は少し気持ちを曇らせてしまった。
「それにしても大変ねえ、これだけの落ち葉を一人で、なんて」
早苗の隣では、かき集められた落ち葉がこんもりと山をなしていた。今も掃いたばかりの石畳に、紅葉がちらちらと舞い落ちている。
「別に少しくらい紅葉があったって、趣深くていいと思うけど」
「それもそうなんですけどね。でもここは神社の玄関ですから、綺麗にしておかないと。それに、色鮮やかな落ち葉を集めるのは楽しいですし」
「殊勝なことね」少しの苦も見せない、明るい笑みを浮かべた早苗に、幽香は息を吐いた。「掃いても掃いてもきりが無いじゃない」
「でも、早苗の気持ちは分からなくもないわね」そう言ってメディスンは紅葉の山に腰を下ろした。柔らかくて、ちくちくとした感触に包まれる。「こうやって山作って、寝そべってみたり、落ち葉のかけあいっこしたりするのって、楽しいよね」
「ふふふ、分かってますねメディスンは。たまに年甲斐もなくやっちゃうんだよね、神奈子様や諏訪子様と一緒に……」
「随分と陽気な神様方ですこと」そう呟く幽香をよそに、早苗ははっと何かを思い出したような表情を浮かべた。そうだ、と言って両手を合わせ、幽香とメディスンに柔らかな笑みを向ける。
「ところで二人とも、麓からここまで来るのも大変だったでしょう。もし良かったら、家で少し休んでいきませんか? 神奈子様と諏訪子様にも、二人を紹介したいし」
早苗の申し出に、幽香は何も言わないままでメディスンを見た。少し困ったような笑顔を向けている。
どうする? と、そんな言葉が投げかけられているようにメディスンには見えた。彼女はこくんと首を縦に振る。折角の早苗の誘いを断る理由なんてなかった。
変に感づかれない程度の、ほんの僅かな合間を挟む。「いいわよ」と幽香は早苗の方を向いて答えた。途端に早苗の表情が明るくなる。「了解です! それじゃあ早速案内して――」
早苗がそう言葉を紡ごうとした、その瞬間だった。
ごうっ、と強い風が、神社一帯に吹き荒れる。
つい最前まで早苗が掃き集めていた落ち葉が、風の軌道に沿って散り散りになって舞い上がってゆく。
風の勢いが薄れていくのと同時に、落ち葉はその浮力を失って地べたへと落ちる。風景に紛れて溶けていく。
強風にあおられ乱れた髪を直そうと、メディスンは首をぶんぶんと振った。幽香の髪も、早苗の髪も、風の流れた方向と同じ、微かに右によれている。
「これが風祝流、落ち葉の掃き方ってやつなのかしら」
手先で髪を整えて、幽香は口元を緩めた。
「まさか。奇跡はこんなことの為に濫用するものじゃありません」
早苗は口を尖らせて、それからふふと笑う。「行きましょうか」と、踵を返して、境内の方へと歩を進めていく。
こつ、こつ、と硬質な音が鳴る。早苗に付いていくようにして、メディスンと幽香も歩き出した。
ここつこつこつ、こつこつここつ。
三人の不揃いな歩調に合わせて、足音が不規則な合唱を奏でる。
少し、胸が苦しいのはどうしてだろう。ちょっと羨ましいのかもしれない。大事な人がいつでもそばにいる早苗のことが。
メディスンは二人に感づかれないように、そっと胸元を撫でた。薄れつつあるスーさんの残り香を離さまいと抱きしめるようにして。
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その年の冬を、メディスンは永遠亭で過ごすことになった。
新薬調合の為にとスーさんの毒を永遠亭に提供しているメディスンに、そこの薬師、八意永琳が誘いを持ちかけたのである。
こうして誰かの下に居候をするのは、メディスンにとっては初めての経験だった。
前日は期待と緊張が入り混じってなかなか寝付けず、翌朝迎えに来た永琳に笑われてしまう。霜月の中旬、その日は肌寒く、昼過ぎにはちらちらと初雪が降り始めていた。
何も知らないまま踏み入ったら迷い込んでしまいそうな、鬱蒼と並び立つ竹林の合間を掻い潜って、その中に静寂として佇む永遠亭。
そこで過ごす日々は、周囲の雰囲気とは割に合わず騒がしいものとなった。
日中は永琳の手伝いか、小難しい教本を片手に薬学の勉強。
少しでも永琳の役に立ちたかったし、薬の知識が、能力の応用に利かせることが出来るかもしれない、と思ったのである。
分からないことが出るたびに永琳か、あるいは鈴仙に質問をして、ゆっくりと、だが着実に知識を身に付けていく。数週間もすれば、永琳の指導の中ではあるが、簡単な薬を調合できるようになっていた。
「この調子で勉強すれば、きっと立派な薬師になれるわ」なんて永琳におだてられて、薬師になるのも悪くないかも、なんて思ったメディスンだったが、ふと我に返ってぶんぶんと首を振る。
人形解放という、一世一代の使命を抱えているのに、寄り道なんてできない――でも、きちんと人形解放を達成した後だったら、なってもいいかも、と考えるのだった。
それから時々、妖怪兎、因幡てゐと一緒に幻想郷の各地を回って悪戯をしかけたりした。「私は誰かにかまってもらいたい性分なの。知ってる? 兎は寂しくなると死んじゃうんだよ」と言っては、悪戯を「私なりの愛情表現」と称するてゐになるほどと頷きつつ、メディスンもメディスンで好奇心旺盛だから、喜んでてゐに付き従っていった。
悪戯は、なるほどスリルがあって面白い。てゐの手回しは手際が良く、だが時々ばれて追いかけられて、ごくまれに捕まって説教されて。
誰も本気で怒っているというよりは、軽くたしなめられる程度のものだった。何もこれが初めてじゃないから怒る気にもなれない、というのもあるらしいのだが、てゐがちょっと小細工を加えているらしい。
「悪戯は悪戯でも、私のそれは”幸運をもたらす”悪戯なのさ。後々に訪れるプラスと、騙されたことによるマイナスでおあいこってわけ。騙してばっかであっちに損させるのはちょっと嫌だからね」
永遠亭に帰る道すがら、てゐはそうメディスンに言った。
悪戯、とだけ聞けばあまりいいものじゃないけれど、てゐは色々考えて配慮した上で悪戯をやっている。すごいなあと感心しつつ、メディスンは彼女の小さな背中を追った。
悪戯はもちろん楽しいけれど、時折てゐが見せる仕草が外見に似合わず大人びていて、知らず知らずのうちに尊敬の眼差しを向けるようになっている。
夕方になればぬくぬくと暖かい炬燵に入って食事を囲む。メディスンはこの時間がとても気に入っていた。
食事が美味しいというのもある、皆と一緒に食べるというのもある、が、何よりも一番の理由は、輝夜の話を聞けるということだった。
空に浮かんで煌々と金色の輝きを放つ、どれだけ手を伸ばしても、飛んで行っても届かないくらいに遠い場所にある、月。そこのお姫様だった輝夜の話というのはどこを掻い摘んでも新鮮で、夕食の時間になる度にその話をメディスンが彼女にせがむのが、いつの間にか通例となっていた。
その中でも特にメディスンが気に入っているのが、輝夜に五人の貴族が求婚してきた所の件である。
婚約の条件として彼女が提示した『難題』に彼らが手をこまねいて、結局惨めな結果に終わっていく様は、人間嫌いなメディスンにとっては痛快な話だった。
ただ、全てが全て楽しい話ばかりではない。
姫という身分ゆえに、幽閉されているかのように自由を奪われた生活を長きに渡って余儀なくされたこと。不老不死になると言われる禁断の秘薬”蓬莱の薬”を永琳に作らせそれを飲み、自ら罪を被って地上へ堕ちたこと。永琳が輝夜の自由の為に、彼女を連れ戻しに来た月の死者を一人残らず殺したこと。故郷、家族、身分、ありとあらゆるものを捨ててまでも自らの身の解放を願った二人の覚悟。
それらを輝夜は、幼いころの思い出を掻い摘むかのように、ひょうひょうとした語り口で喋っていた。
「……月に未練? 無いわ。不自由ってこと以外は別に不便じゃなかったし、皆も優しくしてくれたけど、どうせ上面だけの愛情よ。誰もかれも、姫とかいう私の肩書きばっかり見つめていた。両親は……どうだったのかしら、今となっては何とも言えないしね」輝夜は肩を竦めると、永琳、鈴仙、てゐ、そしてメディスンと、ゆっくりと視線を順番に投げかける。
「何よりもここは自由で、楽しいわ。永琳がいて、皆がいて。そもそも私は、月での退屈な生活に飽き飽きしたから地上に行きたい、って自分の意思で望んだの。それなのに月に対して未練があるなんて、そんなわけ無いじゃない?」
そう言って輝夜は屈託なく笑った。
メディスンも表情を緩める。
大好きな人と一緒にいられるのはとっても嬉しいことで、幸せなことだということを知っているから。
だから、素直に笑顔を浮かべることが出来なかった。心の奥底の寂しさを覆うような、笑顔。少し隙を見せれば、スーさんのことを思い出してしまう。
どうしたって覆ることのない現実を割り切っているようで、割り切ることができないでいる自分に、そろそろさすがにメディスンも嫌悪感を抱かずにはいられなかった。
どうしたらいいのか、よく分からなかった。
大切な人といつまでもいっしょにいられない、という事実を、寂しさを受け入れればいい話なのに、それができない。誰かに相談しようにも幼い自尊心が邪魔をして、もやもやを抱え込んだままでいる。
――ああ。どうして、こんなに楽しいときに、こういうことを考えちゃうんだろう。
雪のように冷たい思いを適当な色で塗りたくりたくて、メディスンは笑った。けれども、いくら笑顔で塗りつぶしたとしても、雪は変わらず冷たいまま、彼女の心を締め付けている。
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波のように、引いては押し寄せてを交互に繰り返す寂しさに襲われたせいで、すっかりメディスンは眠れなくなっていた。
ここへ来て毎夜彼女に安眠を提供してくれた、快い温かさと柔らかさに包んでくれる布団も今日ばかりはどうしてか意味をなさず、目を瞑ってみても一向にまぶたは重くならない。
何十分経って――本当は数分にも満たないのかもしれない――メディスンはなんの造作もなく瞳を晒し、身体は天井を仰視したまま、頭を横へごろり、と倒した。
眩い月の白光が、障子越しに部屋に差し込んでいる。周囲を確認できるくらいに明るい。
メディスンのすぐ隣で眠る、永琳の寝顔も確認することが出来た。光に照らされた肌は一層にその白さを増し、三つ編みをほどいた銀色の髪の毛も、輝きに反射してつややかに映えている。
そんな永琳の姿をメディスンはじいっと見つめて、はぁとため息を吐いた。
永琳の姿がとてもきれいで、それから、ちょっぴり寂しくて。
「永琳……? まだ、起きてる?」
例えば永琳が眠っていたとして、無理やり起こすのも気が引けて、かと言って彼女に起きて欲しくて。
どっちつかずな気持ちを抱えたまま、メディスンは永琳の名前をささやく。
「……どうかした、メディスン?」
返事はすぐに返ってきた。
一抹の眠気を感じさせないほどに明瞭な永琳の声に、メディスンはちょっと驚く。眠っていると思っていたから。
「えっとね」メディスンは次の言葉を紡ぎあぐねる。
寂しくなって、永琳に甘えたくなった。けれどもいざ彼女に話を投げかけようとすると何だかこそばゆい。
もしかすると永琳は笑うかもしれない。日頃子供扱いされるのを嫌っていたのに、急に甘えたさんになった自分のことを。
けれどもメディスンは人恋しい気持ちを抑えることが出来なかった。誰かに聞いてほしかった。情けない話だけれど、この、よく分からないまま引きずってきた寂しさを消す方法を永琳に教えてもらいたかった。
「そっち、行っても、いい?」
「ふふ、どうしたの? 急に」一切の嘲りも無く、永琳は優しく笑って、布団をめくってメディスンを招きよせる。「どうぞ、私の隣で良ければ」
黙ってメディスンは彼女の布団の中に潜り込んだ。
石鹸の優しい香りと暖かさに包まれて、自分の体をを永琳に預ける。永琳がメディスンを抱き寄せる。
「ねえ、永琳?」
「ん?」
「私、分かってるの」
「スーさんとはいつまでも一緒にはいられない」
「スーさんは花だから。一年中ずっと咲いていられない、いつかきっと必ず枯れる」
「スーさんのことは大好き。でも、それはきっと私のわがままでしかない」
「私だけじゃない、幽香だって、大好きなヒマワリとはずっと一緒になれないんだから」
「分かってるの」
自分に言い聞かせるように、メディスンは呟く。
永琳は何も言わなかった。胸元に顔を埋めたままでいるから、永琳が自分の話をどんな顔で聞いているのか分からない。
「でも、でもね。やっぱり羨ましいんだ」
「どんなときでも大切な人がそばにいてね」
「楽しいこととか、悲しいこととかを一緒に経験するのが」
「今だってそう、スーさんがいればいいなって思っちゃう」
「スーさんがいれば、ずっとずっと楽しいって思えるんだろうなって思っちゃう」
「無理だって分かってるのに、でもやっぱり寂しくて、どうしたらいいか分からなくて」
言葉にのせて思いを吐露してみれば、一緒に胸の内に溜まっていた寂しさも幾らか流れ出ていった。
それでも整理のつかない、マーブル色の感情が静かにぐるぐるとメディスンの中で渦を巻いている。
永琳は彼女の頭をそっと撫でた。
二人の間に寂が降りる。
笹の葉の音色がそっとメディスンの耳朶をくすぐる。「メディスン」と、しばらくして永琳が口を開いた。静かな夜に紛れるように穏やかに、メディスンの気持ちを抱きとめるように。
「私にはメディスンの寂しさを完全に取り除いてあげることは出来ない。だってあなたにとって鈴蘭は、本当に大切な存在なのでしょう? 寂しいと思うのは自然なこと、もちろん、ずっと一緒にいたいと願う気持ちもね。情けないことじゃないわ」
「でもね、メディスン。それじゃあメディスンも納得がいかないと思うから、少しだけアドバイスをしてあげる」
「アドバイス?」
そこでメディスンは顔を上げて、永琳の表情を見た。
柔らかな笑みをたたえて、慈愛を含んだ双眸の暗がりの奥に、今にも泣きだしそうな自分の顔が微かに映っている。
「それはね――”楽しさ”を見つけること。そしてそれを心の中に閉まっておくこと。今のメディスンは大切な人がいない、ってことばっかりに目が行っている。ちょっと見る場所を変えてみれば沢山の素敵なことがあるのに……ほら、思い返してみて? 鈴蘭とお別れして、それからどんなことがあったか……」
言われるままに、メディスンはスーさんがいなくなってからのことを思い出してみた。残してきた足跡を一歩一歩、辿るように。
満開のヒマワリの中で幽香と遊んだこと。
紅葉を見に妖怪の山へ行って、早苗たちと知り合いになったこと。
それから今、永琳たちと一緒に生活しているということ……
メディスンが経験したどれもがその事柄のみを見れば、楽しくて、嬉しくて、素敵な事のように見えた。
思い返すだけで、純然と心が躍るような気になった。
まるでスーさんがいないということばかりに目が行って、それらが靄に包まれ、本来の輝きを失ってしまっていたかのようだった。
「花を摘んで、束ねるように、”楽しさ”を見つけて、いつか鈴蘭と再会した時にそれを渡すの。メディスンの”楽しさ”で両手いっぱいになった花束を、ね。『ずっとあなたのことを想い続けてました』って言われるのも嬉しいかもしれないけど、でもやっぱり鈴蘭が一番に見たいのは、メディスンの嬉しそうな顔だと思うわ」
「少なくとも私はそうだった」永琳は続ける。「まだ輝夜が月の姫だった頃。彼女は箱庭みたいな部屋に閉じ込められているなりに、楽しみを見つけては私に話してくれたわ。彼女の嬉しそうに話す顔を見ているとね、こっちも嬉しくなってくるの。やっぱり大切な人ですものね」
「だから永琳は家族も故郷も捨てて、輝夜を追いかけてきたんだ」
寸時メディスンを見つめて、静かに頷いた永琳に、彼女は「そっかー」と言って更に永琳に身を寄せた。
「いいなあ、永琳は。私だってできることならスーさんとずっと一緒にいたいよ」今までずっと抱えていた不満を漏らす。しかし、その声色は弾むように明るく、最前の寂しさは薄れつつあった。
寂しさを消すことばかりに固執していたのかもしれない。それが強くなることだと思っている節があった。けれども大切な人が大切な人であり続ける限り、離れ離れになったそのときの悲しみは、決して拭うことは出来ないのだろう。
「”楽しみ”を見つける。花を摘んで、花束にして、スーさんに手渡す……かぁ」永琳の言葉を繰り返して、それもまた強さ、なのかな、とメディスンは思った。
寂しさを消すことが出来ないのなら出来ないなりに、それと上手く付き合っていこうとすることが。今はまだ、漠然としたままだけれど、いつかきっとそれは確固として自分のことを支えてくれるように彼女は感じた。
どんな些細な出来事でも色彩を帯び、輝きを放ってはメディスンの頭の中に浮かぶ。
それを一つ一つ手にとっては、箱の中に閉まっておくのである。
スーさんのことが思われた。やっぱり寂しくて、でもそれだけじゃなくて、ワクワクしていた。
話したいことがいっぱいある。
これからだってきっとスーさんに聞かせたくなるような出来事がきっとやってくる。箱の中が色鮮やかになっていく、思い出で増えていく。
それらをスーさんにいつかきっと伝えるんだ、と思うと、ちょっぴり楽しくなった。
「ありがと、永琳。そう言われて、ちょっと分かってきたかも……」
「そう。それなら良かった」そう言って永琳は笑った。
「えーりん」
包み込まれたような柔らかい眠気が、不意にメディスンを襲う。寂しさが引いて、安心してきたみたいだった。意図せずともまぶたが閉じてくる。
「このままでいても、いいかしら?」
こくり、と永琳が頷いたのを見て、再びメディスンは彼女にすり寄った。別にもう甘える必要もなかったのだけれど、永琳と身を寄せ合ってると心地良くて離れたくない。
今まで張りつめていた線が緩む。
浮遊しているような眠りの感覚に身を浸して、メディスンは意識を遠くへとやるのだった。
♯
雪も解け、桜も散り始め木々は青々とした若葉を身に付けていた。暖かな薫風が鼻腔をくすぐり、閑静としていた風景にも色が戻りつつある。
無名の丘へ続く道のりを、メディスンは幽香と一緒に歩いていた。
卯月も下旬、そろそろ丘にスーさんが咲き始める。数日前からメディスンは幽香を丘へと引き連れていたのだった。幽香に一番に、スーさんを見てもらいたくて。
「別に咲いた後にゆっくり見るわよ」なんて何度目かの誘いをした際にそう幽香は言って呆れていたけれど、何だかんだ言って付いてきてくれているあたり、本当に幽香は優しい、とメディスンは思った。
「――それからね、元旦にはお餅と、初飴を作ったの。それが凄いのよ。臼と杵が廊下にずーっと並んでいて、大勢の兎たちがお餅をつくの。私もやってみたんだけど、かなり重たくて数回で交代させられちゃって。でもその代わり永琳と鈴仙とで初飴を作ったわ。人里に住んでる人間に分けるんだって。健康にいられるようにって、特別な薬を混ぜているとか……よく分からなかったけど。そうそう、その飴を里へ渡しにも行ったのよ」
「あら。メディスンって、人間嫌いじゃなかった?」
「そうなんだけどね。ほら、敵を知ることも大事じゃない? 一人だったらそりゃあ気が引けるけど、そのときは永琳が一緒だったから安心できたし。人間たち、呑気に私のこと可愛いって言ってたわよ。ふふ、人間をだますなんてちょろいものね」
そう言ってメディスンはふふん、と鼻を鳴らす。
「まったく、人形解放のこととなると一丁前に考えが回るのね」
「あ、馬鹿にしてるでしょ幽香。何度も言ってるけど本気なんだからね私。この前だって永琳たちと初詣に行ったとき、『今年は人形解放を達成できますように』ってお願いしたんだから。ちゃんとお賽銭も入れてね――そうだ、初詣と言えば、初めて着物をきたんだ。永琳が準備してくれて……」
メディスンの口からは、言葉が止め処なく溢れ出していた。それでも足りないくらい、感情が、思い出が、言葉に乗って世界に飛び出るのを今か今かと待ちわびている。
しかしそれ以上に、彼女がこれまで大切にしまってきた箱の中には、無数の色鮮やかな記憶が輝きを放っていた。
スーさんに聞いてほしくて、スーさんがいない間、メディスンが摘んだ両手いっぱいの花束。今にもそれら全てを空へ舞いあがらせたくなるような。そんな胸の弾みに、思わずメディスンの足取りも軽くなる。
「鈴蘭と再会したら、メディスンは何をするつもりなのかしら」
「そうね、まずは今まで会えなかったぶん、スーさんの毒を一杯に吸って――」メディスンは幽香の数歩前に出ると、踵を返して彼女の方を向いた。「――それからお話をするわ。話したいことが山ほどあるの。スーさんがいない間のこと」そう言って満面の笑みを浮かべるメディスンに、幽香も目を細める。嬉しさが身体から空気を伝って、自分の方へ流れてきているようだった。
「あれだけ寂しがっていたものねえ、甘えちゃって」
少し、悪戯心が芽生えて、メディスンのことをちょっとからかってみる幽香。どうせメディスンのことだ、恥ずかしくて、子供じゃあるまいし……なんて言って誤魔化すだろう、と高をくくっていたけれど、反してメディスンは笑みを崩さないまま「そうね」と言った。
予想外の返事に、え、と幽香は声を漏らす。「……意外ね。否定しないの?」
「まあね。寂しいのは当然よ。私はスーさんのことが大好きなんだから、いないのはやっぱり寂しい」それからメディスンは手を腰に当てて胸を張ってみせた。「でも、寂しくないの。幽香のいない内に私も大人になったのです」
「何それ」苦笑して、幽香はメディスンの胸を小突く。「寂しいのに、寂しくない? なんだか矛盾してないかしら」
「ふふ、それはね、幽香――」そこまで言いかけて、ふと、懐かしい芳香が漂ってくるのをメディスンの感覚が捉えた。甘くて、吸い込めばすっと体に染み込んでいって、満たされていくような。
その正体が何であるかということは、メディスンにはすぐにわかった。
そして分かったときにはもう、幽香との会話を放って走り出していた。
「……スーさん!」
「あ、ちょっと、メディスン――」
一歩一歩前へ進むたびに、その匂いは強くなってくる。
丘が顔をのぞかせる。草一つ生えないはずの荒涼とした土地。
そこに緑が生い茂っていた。微風にすら揺らめく、純白の小さな花弁があった。
「久しぶり、スーさん!」
メディスンはスーさんに向かって飛び込んでいった。
ざわっ、とスーさんが揺れる。
葉の切っ先が彼女の頬をつついたり、撫でたりした。それから一つ、深呼吸をする。体の中がスーさんの毒で満たされていくのが分かる。
「うん、夢なんかじゃないんだよね、本当にスーさんだ」一つ息を吐いて、メディスンは相好を崩す。
「私ね、スーさんに話したいことがいっぱいあるんだ」
「本当に、たくさんのことがあったのよ。色んな人とも知り合いになったわ」
花束をまとめて言葉に乗せることが出来ないように、嬉しさばかりが前に出る。
どれから話そうか、メディスンは迷った。どれを話したっていい。
時間はたっぷりあるんだ、遅かれ早かれちゃんと伝えることは出来る。
焦らないで、一つずつ、一つずつ。差し出すように――けれども、無理である。
嬉しくて嬉しくて仕方がない。一つずつ差し出してなんかいられない。
丁寧に束ねておいた花も、大切にしまっておいた思い出も、勢いよく流れ出す感情に乗って体裁を忘れてどっと溢れていった。
メディスンは口を開く。
言葉は洪水のように。
とっておいた記憶はたくさんあるようで、でも、あっという間に無くなってしまうのだろう。
「あのね、スーさん――」
えーりん、幽香がええ感じ
可愛いと言うより和む。
健やかに元気に成長して欲しいなぁ。
メディスンの幼さがよく伝わってきたのもそうですが、物語の中でちょっぴり成長したのがまた良いですね。それでもまだ、幼さが残っているのもまた可愛らしいなぁと。
ほんわかぬくぬくと、温かいお話ありがとうございました。
最後に誤字らしきものの報告を一つさせていただきます。
>>何もこれが初めてじゃないから起こる気にもなれない
怒る気、でしょうか。
特に印象的だったのは八意先生の処方した抗鬱薬ですかね。
今ある楽しみを切り取って、やがてまみえる相手に届ける、かぁ。
メディスンが可愛くて、優しい人妖に囲まれて大人になって欲しいが今の子供らしい所も忘れて欲しくない。
そして読み終えた後のタイトルの暖かさときたら。