居場所とは、果たして作るものか、探すものか。
ふと、そんな言葉が思い浮かんできたので、私はそれを振り払うかのようにベンチから立ち上がった。手に持った缶コーヒーは、空となってすっかり冷えてしまっている。それを傍らのクズ籠に投じて、私は顔を上げた。
淀みながらも涼しい風には、水の匂いが混ざっている。梅雨の時期にも関わらず、雨が降らなかったのは幸いだった。
暖かな光に包まれる、建物があった。頭上の空はすっかり闇色に染まっていることからも、それが人工の光であることは分かる。柔らかな、橙色にも近いその光は、少し眩しくも感じられた。
目が自然と細まって、視界の中で光が翳る。
建物は鉄道駅だった。
格別大きいものではなく、かと言って小さく寂れたものでもない。疎らながらも、幾つかの人影がぽつりぽつりと出て来ていた。
たぶん女子高生であろう二人組が、私の傍を颯爽と横切る。それに続くように、背広姿の青年が疲れた顔で通り過ぎる。それからしばらくして、髪の白い老人がゆんなりと歩いて行った。
顔見知りは一人もいない。
気楽な一人旅からの帰路なのだから、それも当然である。同じ国の中にありながら、記憶にないものばかりのその光景は、くすぐったい憧憬となって私をほのかに酔わせてくれた。
駅は、暖かな人工の光に包まれている。
どこへとも連れて行ってくれそうなその場所が、私は気に入っていた。
大きい駅とか小さい駅とか、そんな有り触れた感想にはあまり左右されず、機会があればぶらりと足を運んだ。どこかへと出掛ける用などなく、ただ時刻表なんかを眺めて、やがて満ち足りたように立ち去ることも何度かあった。
鉄道が好きだとか、そういう趣味嗜好ではないと思う。列車の種類とかには、あまり興味が湧かなかった。どこかから誰かを乗せて、どこかへと誰かを乗せて行く、起点でもあり終点でもある駅そのものに、私は強く惹かれた。
こうして眺めて、雰囲気に身を委ねるのが好きなのだ。
ある人にははじまりであり、またある人には終わりでもある。もしかしたら、途中の人だっているかも知れないし、引き返す人などもいるだろう。
その一端に勝手に触れられることが、私をひそかに満足させてくれた。
がたんごとんと、列車が駅に入るのが見える。
私が乗る予定のものではない。まだ時間には、かなりの余裕があった。
左手で上着のポケットを確かめ、右手でキャリーバッグを引く。中途半端な大きさのバックは、ほとんどが黒一色で彩られており、御世辞にも洒落たものとは言えない。だが、値段の割に容量が大きなそのバッグを、私は気に入っていた。
駅の入り口を潜り、見上げる。
壁の、かなり天井に近いところに、時刻表は掛けられていた。色々な場所へと連れて行ってくれる列車の行き先が、事細かに刻まれている。見覚えのない地名が幾つも並んでいることに、ささやかな好奇心がゆらりと起き上がった。
いつも、こうだった。
所用もなく駅へと来た時にはほぼ必ず、言い様のないほどに些細な衝動が、私の中に去来するのだ。
どこかへと行きたい。
このまま、なにもかもを置き去りにふわりと、列車に身を委ねてみたい。そうして、未来のことなど、明日とか明後日とか一時間後とか、先のことをなあんにも考えないで、ぼうっと。何故ならその先には、知らないことが山ほども、転がっているかも知れないから。
顔には出さず、口の中だけで苦笑する。
ふわふわとした、地に足が付いていないようなその思いは、昔から変わらなかった。街の影、自然の影に隠れながらも続いている線路のその先には、果たしてどのような街があり、どのような人が暮らしているのか。どのような世界が広がっているのか。
少しだけでも、垣間見たくなるのだ。
後先など微塵も考えず、そんな逡巡すらも、置き去りにしたくなる。
ある程度の分別がつく年齢となった今でも、どうしても拭い消えるものではなかった。不意にこうして湧き立っては、身悶えしたくなるもどかしさとなって、私の視線を遠くへと泳がせるのだ。
だから今では、こんな気ままな一人旅をしている。多少なりとも、自分を満足させるために。知らなかった街や人や物事を、ちょっとでも頭に放りこむために。
一人の旅は、そういった意味でも都合が良かった。
時刻表から目を離し、券売機へと歩み寄る。誰も並んでいなかったので、切符はすぐに買うことが出来た。何事もなく改札を横切り、そのまま目的のホームへと歩いて行く。敷き詰められたタイルの模様に合わせて、バッグの車輪がかたかたと小気味よく鳴った。唯一の同行者による、可愛らしい抗議の声にも聞こえた。
誰かと旅をするのは、苦手だった。
普段の生活ではなんとも思わないことが、旅の途中ではどうにも抑えられなくなる。予定など彼方に追いやり、ふわふわと気の向くままにうろつきたくなる。旅というものの解放感がそうさせるのか、私にはそういう部分が昔からあった。自ら予定を立てるとか、或いは他人に任せるという、そんな区分に関わらず、旅の中で他人の動きに合わせることが、私には苦痛でしかなかった。
断わっておくが、私は別に人付き合いが格別苦手ではない。
誰かと語り合うこと自体に、苦痛を感じるような人間ではないのだ。むしろ、よく疎ましがられているアルコールを伴っての語らいなんかは、逆に好ましいと思うくらいである。
ただ、旅というシチュエーションが、私を肥大化させた。
自我とでも言えばいいのか、はたまた心根とでも言うべきか。そういった感じのものが、大きく膨らんで鎌首をもたげてくるのだ。
抑えも効かず敏感になったそいつは、つまらないことでも苛立ちとなって私の中で膨れ上がる。それが、同行者に不快感を与えること、なにより自分自身が軋むように束縛されてしまうことを、私はこれまでに何度も経験してきた。
だからこそ、私は一人旅を好んだ。
ある時、ふらりと日帰りでの一人旅をしてみて、自覚した。選ぶことも、それに伴う責任も、自分一人で済ませられるのが気楽であることに、気が付けたのだ。
寂しいと言われることもある。
寄り添う影もなく、知らない土地を一人で闊歩するのは、確かに寂しいことなのかも知れない。絵として思い浮かべてみれば、なるほど確かに、これほど物悲しい情景も中々ないだろう。
だがそれでも、私は一人の旅が好きであり、今も続けている。
ふわふわとしたまま、落ち着く。
一人旅でこそ、そうした心地で居られる自分に気が付けたのは、たぶん私にとって幸運なのだろう。
そうに違いないと、思いたい。
辿り着いたプラットホームは閑散としていた。
もう終電にも近い時間なので、予想はしていた。しかし、疲れた顔の背広姿ばかりが目に入ったのは意外でもあった。名の知れた観光地にも関わらず、私のようにキャリーバックを片手に引いた観光客の姿は、一人も見当たらない。梅雨だからだと、私はあまり考えずに思った。
空いているベンチへと歩み寄り、その傍らにバッグを置く。
恐らくはコンクリートであろう灰色の床が、蛍光灯の光によって薄く漂白されている。どこまでも無機質なそいつらを尻目に、私はベンチにどっかりと腰を下ろした。安堵とも疲労ともつかない吐息が、胸の底からするりと出てくる。
まだ電車の来ていないプラットホームからは、夜に沈む街が一望できた。高架駅であるおかげで、見晴らしはそれなりに良好らしい。お世辞にも栄えているとは言い難い街並みには、輪郭のぼやけた街灯の明かりが、ぽつぽつと煌めいていた。
寂しい景色である。
今の季節にはぴったりだと、それだけを思い浮かべた。
毒にも薬にもならない吐露だ。この駅へと入る時、浮かんだ言葉となんら変わらない。旅の途中でも終えた後でも、人並み、或いはそれ以下かも知れない感想しか、私は心の中でくゆらすことしかできない。
当たり前である。
なにせ、旅に出る切欠も、たった一人で旅を行う理由も、てんでつまらなくて自己満足の域を出ていないのだ。ふわふわした気持ちを持て余し、過敏になった自分自身に振り回された、その結果でしかない。大層な、壮大で前向きな姿勢など抱かず、どこか屈折している。その癖、凡庸なところはひたすら凡庸だ。
そんな、つまらないものの塊こそが私なのだと、今ではうすぼんやりと自覚していた。
と、ここまで考えを巡らせてから、私の意識はようやく現実に戻る。
ふぅんと、鼻だけで息をつき、唇だけをかすかに歪める。
周囲の誰にも悟られることのないように、私は私自身を失笑した。
いつも、こうだった。
事あるごとに、ふと落ち着いた時に自分を見返しては、自分を嘲笑してしまう。自分はとんでもなく扁平で、つまらない人間なんだと思い耽っては、身も心もずぶずぶと沈み込んでしまう。自分で自分を、蟻地獄のような思考の坩堝に追いやってしまうのだ。
思春期じゃあるまいし。
葛藤にすらならない、出来損ないのようなものだ。
しかし、多くの人が思春期に乗り越えたであろう、そんな葛藤の出来損ないに。私は今も振り回されて、一人で悶々としている。このまま、頭の隅から無くならないような気さえしてくる。
苛まれるのは嫌だった。
堪らず、私は時間を見る。乗る予定の列車が来るのには、まだかなり余裕があった。
上着のポケットには、切符以外のものも入っている。私はその中身を確かめながら立ち上がり、ふらふらとプラットホームを歩いた。擦れ違う人の顔には、染みのような疲れが滲んでいる。
社会の歯車などという言葉があるが、言い得て妙だとも思う。部品のように、要領さえ分かれば組み立ては簡単であり、一部分さえ不具合があれば換えを用意すれば良い。時には、多少の摩耗など見過ごしても大事はないのだ。機械の稼働という大きな流れさえ行えれば、中の部品はどうなろうとも知ったことではない。時に、整備という名の甘い飴を用いてやれば、大抵は上手く収まる。
そんな意図が滲み出てくるような、社会の歯車という言葉。
言い得て妙だとは思うが、私は嫌いだった。
そういった歯車に組み込まれるのが、どうしても御免だった。
しかし、きっと世の中の大半の人はそう思いながらも、やがては色々な要因に削られ整えられて、かっちりと組み込まれてしまうのだろう。こうして、ここで疲れた顔をしている人の中にだって、そうした考えを抱きながらも組み込まれてしまった人は、居るかも知れない。親のため、子のため、愛する人のために妥協している人だって、きっと居るはずだ。
だから私が、いくら御免だと思っていても、たぶん無駄なのである。
子供のような思いを抱いているだけでは、ふわふわとしたものを抱え続けているだけでは、どうしようもないのだ。
また、苛まれる。
上手くやっていけるのか。
組み込まれるのを拒むあまり、そこから逃げ出してしまうのではないだろうか。
そもそも私は、この人たちのような歯車にすら、なれないのではないか。
歯車歯車と好き勝手に思う、私こそが出来損ないではないか。
坩堝に陥りかけた私を、鈍い銀色が現実へと引き戻す。
プラットホームの端に鎮座しているのは、こげ茶色に変色した水を湛える灰皿だった。設置型の大きなそれは、所々の塗装が剥がれており、かなりの年季を感じさせる。濡れた灰独特の、後味が悪くなるような粘つきのある臭いが、私の鼻にも届いていた。
ポケットから取り出し、一本だけ咥える。旅の途中、立ち寄った居酒屋で貰ったマッチは薄い形をしており少々使いづらかったが、それでも何回か擦るうちに火が灯った。
息を吸いながら、マッチの火を口元に寄せる。
やがて燃え移ったのを確認してから、私は用済みとなったマッチを軽く振った。すぐに火は消えて、ほのかな燐の匂いが鼻をくすぐる。
それを灰皿に投じてから、私は煙草を咥えながら、息を吐き出した。
煙草の臭いが好きだと言うと、大抵は変なものでも見るかのように返される。そしてその後には決まって、煙草が如何に人体へと悪影響を及ぼすのかというご高説を、賜ることになるのだ。それだけで済めばいいが、中にはそんな科学的根拠なんかをひとつも持ちだすことなく、半ばヒステリックに煙草は駄目だと、完全に上から目線で言われることもあった。
まあ確かに、煙草は身体に悪いのだろう。
前述した科学的根拠なんかでも一定の証明はされており、心臓病だとか脳卒中だとか不整脈に至るまで、煙草が関わると発症率が高くなると言われている。こういうのは、煙草を購入する際にはその周りで幾つも掲示されているので、意外と喫煙する側のほうが詳しかったりするのだ。さらにご丁寧なことに、今こうして私が持っている煙草の箱にも、そういった旨の警告文はしっかりと記されていたりする。
加えて、喫煙者のマナーが取り上げられることも少なくない。
歩き煙草、場所を考えない喫煙、ポイ捨て、挙げればキリがないくらいである。ただでさえ、喫煙=マナー違反と見られることも多いのだから、これらに目を向けないことは良識を疑われるのだ。事実、これらのマナー違反による弊害を、喫煙者である私も幾度となく体験している。特にポイ捨てによる吸い殻の散乱は、ほとほと嫌になったくらいだ。水を吸ったり、踏んで潰れたりした吸い殻は、取り除く際に灰や葉が飛び散って、余計に散らかることもある。そういったものの処理が、これまた面倒で難儀だった。
たぶん、今こうして私の傍にある灰皿も、その処理は大変なことなのだろう。
事実、誰かの親切心であろうこの灰皿があるにも関わらず、何故かその周囲には吸い殻がちらほらと散らばっている。そこに灰皿があるのに、わざわざその周りに吸い殻を捨てているのは、面倒だったのか、それともなにか意図があってのことなのか。どちらにしろ、捨てた人の心情を疑う光景である。
ただ、とも私は思う。
咥えた煙草を指ではさみ、灰皿へと灰を落とす。
喫煙は嗜好だ。それも周りから、あまり歓迎されない類の嗜好である。そんな嗜好を嗜んでしまっている私は、どうしても変わっているのだと自分でも感じる。わざわざ金銭を浪費してまで、身体を蝕むものに手を付けているのだから、どうしても負い目のようなものは拭い切れない。
ただ、やはり疑問を感じるところはある。
全面禁煙などと謳う施設は多々あるが、その施設の一角が煙草の灰で黒く汚れているのを目にし、私は頭を捻るばかりであった。確かに、そこはマナーや我慢の問題であり、だからこそ全面禁煙の内側でこっそりと喫煙している人々は、糾弾されるべきことは間違いではない。
しかし、全面禁煙という言葉の虚しさが、どうしても先行してならないのだ。
いっそ空港などである、ガラス張りの喫煙スペースをもっと普及させてほしいとも願う。我慢すればいいと言われるかも知れない。そんな贅沢な代物を、喫煙者などの愚かしい者に用意するのは勿体ないと言われればそれまでだ。
しかし、現実に全面禁煙という言葉がただの建前に成り下がっていることを、私は何度もこの目を通して見てきていた。路上喫煙禁止と記された看板の傍に、吸い殻が山となっている光景など、掃いて捨てるほどに見てきたつもりだ。
だからこそ、分煙するなら分煙を。禁煙させたいなら禁煙を。
もっと徹底的に流布してしまえば、いいとも思う。
いっそ値上げの幅も、もっと過剰にしてしまえばいい。
或いは、歩き煙草やポイ捨てなどの罰則を強化してしまえばいいのだ。警察の、ねずみ捕りならぬ、火ねずみ捕り。そう称して、マナー違反する喫煙者を監視し、捕えれば手当てという制度を設けてもいいのではないか。でなければ、他人への思いやりや気遣いを忘れず、マナーを守っている喫煙者がどうしても不利になる。
と、ここまで、でらでらと考えていた。
我に返った時には、私の煙草は根元近くにまで焼け落ちていた。
指に届きそうになっている火を見とめて、慌てて灰皿へと投じる。じゅっと、火の消える音が聞こえた。
分かっている。
分かってはいるつもりだ。
煙草は健康に害を成し、臭いも悪い。
おまけに喫煙者の中には、これだけマナー違反が叫ばれる世の中でも素知らぬ顔の輩がいる。分煙スペースを設けていても、まったく違う場所で平気で吸う。さも満足げに煙を吐いて、凶器となる煙草の火を持ちながら、悠々と肩を振って練り歩く。路上がゴミ箱であるかのように吸い殻を放り投げ、火だけは念入りに靴裏ですり潰して、去っていく。
そんな煙草だからこそ、どうしようもない喫煙者が大勢いるからこそ、疎まれるのは当然だった。煙草など、嗜好品としての価値など、おおよそ無いような代物であることなど、分かり切ってはいる。そのつもりだった。
二本目を取り出し、咥える。
今度は、中々マッチに火が灯らない。折れそうになるのを懸命に指でつまみながら、擦り続けた。
ようやく点いた時には、かなり時間が経っていた。
吸い切る頃には列車が来るだろうと目論んで、私はじっくりと含む。
煙草の臭いは好きだ。
草臥れたようなこの煙たさが、父を思い起こさせる。
父の背広には、煙草の臭いが染み付いていた。
幼い頃からその臭いに慣れ親しんだ私にとって、そんな煙草臭さは父の姿とすぐに結び付いた。だから、どうしても煙草の臭いは嫌いになれなかった。仕事から帰り、たぶん社会の歯車として酷使されていたであろう父の横顔が、マッチ売りの少女みたく浮かんでくるような気がしたのだ。
そんな父も、今は煙草を止めている。
実家に帰るたびに、目ざとく私から煙草の臭いを嗅ぎつけては、止めろと頻りに言ってくる。喫煙者のほとんどは、自分が吸っている癖に他人の喫煙には人一倍うるさくなる。たぶん私もそうするだろうから、自分も吸っていた癖に、と反論したことは一度もなかった。
胸に含み、少しの間を置いて、吐き出す。
さして気持ちよくもない充足感が、纏わりついてくる。
煙草が、美味いだとか不味いだとかの区別は、未だによく分からない。安物なんかは確かに喉がひりつくような感覚を覚えるのだが、それとて何本も吸い続けていれば、どんな銘柄でも感じるようになる。薬臭いだとか、煙っぽいなどは理解できたが、それ以上の詳しい味の区別などはてんで分からなかった。
適当なのだ。
決まって吸う銘柄はあるが、それも気分によって変えている。
ただ吸い始めて、気が付けばこうして嗜んでいるようになった。
吸っていれば父のように、草臥れながらも誰かのために働けている人に、ほんの少しだけ近付けた気になった。
それだけなのだ。
私が煙草を吸っているのは、たぶんそれだけの理由である。
だから銘柄も適当であり、気分によってひょこひょこと変える。特に疲れを感じている訳でもないのに何本も吸い続けていたり、逆に一本だけで止めてしまう時もある。そうして適当に吸っては、充足感のようなものの幻想に抱かれて、ふわふわと視線を横切らせる。
私にとっての煙草とは、たぶんそれだけ。
喫煙者と、それを取り巻く世界の環境について思索するなど、なんておこがましい。
短くなった煙草を口に寄せ、一際大きく吸い込む。吐き出した煙は、備え付けのスピーカーへと重なって、頼りなくかき消えた。そのスピーカーから、列車の来訪を告げるアナウンスが流れる。
吸い終わった煙草を灰皿へと投じて、私はキャリーバックの元へと駆け寄った。
取っ手を取り出すと同時に、プラットホームへと列車がやって来る。
列車は徐々にその速度を緩めていく。
窓に映った私の顔は、分別のついていない子供のようにも見えた。
思わず視線を外し、下を向く。周りに訝しがられないように、居住まいを直したかのように振る舞う。
やがて止まった列車から、降りてくる人はいなかった。乗り込む人も、あまり多くはないようである。
列車に乗り、空いている席を探す。
あまり乗っている人もおらず、空席は幾つもあったのだが、やはり旅の帰りなのだから、なるべくゆったりとできる席に座りたかった。バックを引きながら、車両から車両へと移る。移る際に、段差でバックの車輪が一際大きな音を立てる。
程なくして、人のいない車両へと辿り着いた。
長い席の、わざと真ん中あたりに腰を下ろす。列車はまだ動き出してはいなかった。アナウンスで特急に連絡を入れると言っていたから、たぶんそれだろう。両足でバッグを挟み込み、背もたれへと身体を預ける。
私が座ったのは、丁度プラットホームに背を向けている席だった。プラットホームには、私が乗っている列車の線路とは反対側に、もうひとつ線路がある。
がたんがたんと、遠くから列車の通る音が聞こえてきた。
恐らく、特急が来ているのだろう。他に見るものもない私は、その特急が来るのを見届けることにした。
身体を捻って、背後の窓へと振り返る。
目が合った。
ぶつかり合った、と言ったほうが正しいかも知れない。
視線の先にいた女性は、こちらへと顔だけ振り返った姿勢で立っていた。
蛍光灯の光で照らされた豪奢な金髪は、味気ない床のコンクリートとはどこまでも対照的だった。その金髪と同じ色の瞳が、私をじっと覗き込んでいる。私は、思わず目の合ってしまったその女性から、中々目が離せなかった。有事の際、とも呼べないものだが、そんな時の人間はこのように固まってしまうものなのだろう。もしかしたら、彼女も同じ気持ちなのかも知れない。
束の間、私と彼女は目を合わせていた。
大きな姦しい音が入り込んでくる。反対側の線路に、特急列車がやって来たのだ。私は彼女からゆっくりと視線を外し、元の楽な姿勢へと戻る。
動悸は少しもない。
むしろ、ひどく落ち着いていた。そのことが逆に不思議だった。
彼女は、私とは反対側を向いていた。私の身体も、元々は彼女の反対側を向いている。
それがたまたま、お互いに振り返って視線が合った、それだけなのだ。
偶然が重ねた、日常の些細なハプニングである。不意に目線が重なることなど、誰にでも経験があるだろう。
それが起こっただけだ。
彼女の身体は反対側の、今さっき特急列車がやって来た線路を向いていた。たぶん、彼女はその特急に乗るのだろう。この時間帯、この列車に乗っていないのならば、十中八九、その予想は当たっているはずである。
ならば、これで終わりだ。
はじまりではなく、折り返しなどでもない。
ここまで考えて私は、私自身がその金髪の女性をひどく気にかけていることに、ようやく気が付いた。
なにか既視感のような、それでいて新しいものに巡り合えたような、そんな感覚だった。
女性が、誰か著名な人物だっただろうかとも考えてみるが、思い至る人物はいなかった。それに、彼女がその著名な誰かであるならば、私がこれほど普段通りに心湧き立たないはずはない。程度はあれ、多少は動悸が起こるなどの興奮があるはずだろう。
そんな興奮などは微塵もなく、むしろ不思議なほどに落ち着いていた。
ようやく、という達成感。
強いて言うならば、そんな感覚が私の中に湧き立っていた。
しかし、それも無駄である。意味もない、と言ったほうが正しいかも知れない。
後ろで特急列車の動き始める音がする。
私は振り返ることもせずに、小さく息をついた。
なんにせよ、この不可思議な感覚の如何に関わらず、金髪の女性との邂逅はこれで終わりだ。追いたいという類の衝動は無く、後悔のような情念も溢れ出てこない。ならば、旅の帰りでくたくたに疲れたこの身体を、少しでも労わってやるほうが賢明だろう。ふわふわした心持で、私は再び背もたれへと身体を預ける。
時間を見て、そろそろ出発だと確認してから、目を閉じた。
古めかしいベルのような電子音が鳴り、扉の閉まる音がする。
なにか奥底から漏れ出るような重低音とともに、私の身体は引っ張られるかのように、かすかに揺れ動いた。
列車は動き始めた。
当たり前のその事実に、何故か私は満足げに口元を綻ばせながら、目を開く。
目が合った。
私が座るのとは反対側の席に、先ほどの金髪の女性は座っていた。
猫のような微笑みを悪戯っぽく浮かべながら、私とは相対するかたちで座っている。
ああ、やっぱり。
驚愕や興奮よりも前に、私はそれだけを思い浮かべた。
女性は口を開く。
「時計をしてないのね、気持ち悪いわ」
それが、メリーことマエリベリー・ハーンが私に向けて言った、最初の言葉だった。
ふと、そんな言葉が思い浮かんできたので、私はそれを振り払うかのようにベンチから立ち上がった。手に持った缶コーヒーは、空となってすっかり冷えてしまっている。それを傍らのクズ籠に投じて、私は顔を上げた。
淀みながらも涼しい風には、水の匂いが混ざっている。梅雨の時期にも関わらず、雨が降らなかったのは幸いだった。
暖かな光に包まれる、建物があった。頭上の空はすっかり闇色に染まっていることからも、それが人工の光であることは分かる。柔らかな、橙色にも近いその光は、少し眩しくも感じられた。
目が自然と細まって、視界の中で光が翳る。
建物は鉄道駅だった。
格別大きいものではなく、かと言って小さく寂れたものでもない。疎らながらも、幾つかの人影がぽつりぽつりと出て来ていた。
たぶん女子高生であろう二人組が、私の傍を颯爽と横切る。それに続くように、背広姿の青年が疲れた顔で通り過ぎる。それからしばらくして、髪の白い老人がゆんなりと歩いて行った。
顔見知りは一人もいない。
気楽な一人旅からの帰路なのだから、それも当然である。同じ国の中にありながら、記憶にないものばかりのその光景は、くすぐったい憧憬となって私をほのかに酔わせてくれた。
駅は、暖かな人工の光に包まれている。
どこへとも連れて行ってくれそうなその場所が、私は気に入っていた。
大きい駅とか小さい駅とか、そんな有り触れた感想にはあまり左右されず、機会があればぶらりと足を運んだ。どこかへと出掛ける用などなく、ただ時刻表なんかを眺めて、やがて満ち足りたように立ち去ることも何度かあった。
鉄道が好きだとか、そういう趣味嗜好ではないと思う。列車の種類とかには、あまり興味が湧かなかった。どこかから誰かを乗せて、どこかへと誰かを乗せて行く、起点でもあり終点でもある駅そのものに、私は強く惹かれた。
こうして眺めて、雰囲気に身を委ねるのが好きなのだ。
ある人にははじまりであり、またある人には終わりでもある。もしかしたら、途中の人だっているかも知れないし、引き返す人などもいるだろう。
その一端に勝手に触れられることが、私をひそかに満足させてくれた。
がたんごとんと、列車が駅に入るのが見える。
私が乗る予定のものではない。まだ時間には、かなりの余裕があった。
左手で上着のポケットを確かめ、右手でキャリーバッグを引く。中途半端な大きさのバックは、ほとんどが黒一色で彩られており、御世辞にも洒落たものとは言えない。だが、値段の割に容量が大きなそのバッグを、私は気に入っていた。
駅の入り口を潜り、見上げる。
壁の、かなり天井に近いところに、時刻表は掛けられていた。色々な場所へと連れて行ってくれる列車の行き先が、事細かに刻まれている。見覚えのない地名が幾つも並んでいることに、ささやかな好奇心がゆらりと起き上がった。
いつも、こうだった。
所用もなく駅へと来た時にはほぼ必ず、言い様のないほどに些細な衝動が、私の中に去来するのだ。
どこかへと行きたい。
このまま、なにもかもを置き去りにふわりと、列車に身を委ねてみたい。そうして、未来のことなど、明日とか明後日とか一時間後とか、先のことをなあんにも考えないで、ぼうっと。何故ならその先には、知らないことが山ほども、転がっているかも知れないから。
顔には出さず、口の中だけで苦笑する。
ふわふわとした、地に足が付いていないようなその思いは、昔から変わらなかった。街の影、自然の影に隠れながらも続いている線路のその先には、果たしてどのような街があり、どのような人が暮らしているのか。どのような世界が広がっているのか。
少しだけでも、垣間見たくなるのだ。
後先など微塵も考えず、そんな逡巡すらも、置き去りにしたくなる。
ある程度の分別がつく年齢となった今でも、どうしても拭い消えるものではなかった。不意にこうして湧き立っては、身悶えしたくなるもどかしさとなって、私の視線を遠くへと泳がせるのだ。
だから今では、こんな気ままな一人旅をしている。多少なりとも、自分を満足させるために。知らなかった街や人や物事を、ちょっとでも頭に放りこむために。
一人の旅は、そういった意味でも都合が良かった。
時刻表から目を離し、券売機へと歩み寄る。誰も並んでいなかったので、切符はすぐに買うことが出来た。何事もなく改札を横切り、そのまま目的のホームへと歩いて行く。敷き詰められたタイルの模様に合わせて、バッグの車輪がかたかたと小気味よく鳴った。唯一の同行者による、可愛らしい抗議の声にも聞こえた。
誰かと旅をするのは、苦手だった。
普段の生活ではなんとも思わないことが、旅の途中ではどうにも抑えられなくなる。予定など彼方に追いやり、ふわふわと気の向くままにうろつきたくなる。旅というものの解放感がそうさせるのか、私にはそういう部分が昔からあった。自ら予定を立てるとか、或いは他人に任せるという、そんな区分に関わらず、旅の中で他人の動きに合わせることが、私には苦痛でしかなかった。
断わっておくが、私は別に人付き合いが格別苦手ではない。
誰かと語り合うこと自体に、苦痛を感じるような人間ではないのだ。むしろ、よく疎ましがられているアルコールを伴っての語らいなんかは、逆に好ましいと思うくらいである。
ただ、旅というシチュエーションが、私を肥大化させた。
自我とでも言えばいいのか、はたまた心根とでも言うべきか。そういった感じのものが、大きく膨らんで鎌首をもたげてくるのだ。
抑えも効かず敏感になったそいつは、つまらないことでも苛立ちとなって私の中で膨れ上がる。それが、同行者に不快感を与えること、なにより自分自身が軋むように束縛されてしまうことを、私はこれまでに何度も経験してきた。
だからこそ、私は一人旅を好んだ。
ある時、ふらりと日帰りでの一人旅をしてみて、自覚した。選ぶことも、それに伴う責任も、自分一人で済ませられるのが気楽であることに、気が付けたのだ。
寂しいと言われることもある。
寄り添う影もなく、知らない土地を一人で闊歩するのは、確かに寂しいことなのかも知れない。絵として思い浮かべてみれば、なるほど確かに、これほど物悲しい情景も中々ないだろう。
だがそれでも、私は一人の旅が好きであり、今も続けている。
ふわふわとしたまま、落ち着く。
一人旅でこそ、そうした心地で居られる自分に気が付けたのは、たぶん私にとって幸運なのだろう。
そうに違いないと、思いたい。
辿り着いたプラットホームは閑散としていた。
もう終電にも近い時間なので、予想はしていた。しかし、疲れた顔の背広姿ばかりが目に入ったのは意外でもあった。名の知れた観光地にも関わらず、私のようにキャリーバックを片手に引いた観光客の姿は、一人も見当たらない。梅雨だからだと、私はあまり考えずに思った。
空いているベンチへと歩み寄り、その傍らにバッグを置く。
恐らくはコンクリートであろう灰色の床が、蛍光灯の光によって薄く漂白されている。どこまでも無機質なそいつらを尻目に、私はベンチにどっかりと腰を下ろした。安堵とも疲労ともつかない吐息が、胸の底からするりと出てくる。
まだ電車の来ていないプラットホームからは、夜に沈む街が一望できた。高架駅であるおかげで、見晴らしはそれなりに良好らしい。お世辞にも栄えているとは言い難い街並みには、輪郭のぼやけた街灯の明かりが、ぽつぽつと煌めいていた。
寂しい景色である。
今の季節にはぴったりだと、それだけを思い浮かべた。
毒にも薬にもならない吐露だ。この駅へと入る時、浮かんだ言葉となんら変わらない。旅の途中でも終えた後でも、人並み、或いはそれ以下かも知れない感想しか、私は心の中でくゆらすことしかできない。
当たり前である。
なにせ、旅に出る切欠も、たった一人で旅を行う理由も、てんでつまらなくて自己満足の域を出ていないのだ。ふわふわした気持ちを持て余し、過敏になった自分自身に振り回された、その結果でしかない。大層な、壮大で前向きな姿勢など抱かず、どこか屈折している。その癖、凡庸なところはひたすら凡庸だ。
そんな、つまらないものの塊こそが私なのだと、今ではうすぼんやりと自覚していた。
と、ここまで考えを巡らせてから、私の意識はようやく現実に戻る。
ふぅんと、鼻だけで息をつき、唇だけをかすかに歪める。
周囲の誰にも悟られることのないように、私は私自身を失笑した。
いつも、こうだった。
事あるごとに、ふと落ち着いた時に自分を見返しては、自分を嘲笑してしまう。自分はとんでもなく扁平で、つまらない人間なんだと思い耽っては、身も心もずぶずぶと沈み込んでしまう。自分で自分を、蟻地獄のような思考の坩堝に追いやってしまうのだ。
思春期じゃあるまいし。
葛藤にすらならない、出来損ないのようなものだ。
しかし、多くの人が思春期に乗り越えたであろう、そんな葛藤の出来損ないに。私は今も振り回されて、一人で悶々としている。このまま、頭の隅から無くならないような気さえしてくる。
苛まれるのは嫌だった。
堪らず、私は時間を見る。乗る予定の列車が来るのには、まだかなり余裕があった。
上着のポケットには、切符以外のものも入っている。私はその中身を確かめながら立ち上がり、ふらふらとプラットホームを歩いた。擦れ違う人の顔には、染みのような疲れが滲んでいる。
社会の歯車などという言葉があるが、言い得て妙だとも思う。部品のように、要領さえ分かれば組み立ては簡単であり、一部分さえ不具合があれば換えを用意すれば良い。時には、多少の摩耗など見過ごしても大事はないのだ。機械の稼働という大きな流れさえ行えれば、中の部品はどうなろうとも知ったことではない。時に、整備という名の甘い飴を用いてやれば、大抵は上手く収まる。
そんな意図が滲み出てくるような、社会の歯車という言葉。
言い得て妙だとは思うが、私は嫌いだった。
そういった歯車に組み込まれるのが、どうしても御免だった。
しかし、きっと世の中の大半の人はそう思いながらも、やがては色々な要因に削られ整えられて、かっちりと組み込まれてしまうのだろう。こうして、ここで疲れた顔をしている人の中にだって、そうした考えを抱きながらも組み込まれてしまった人は、居るかも知れない。親のため、子のため、愛する人のために妥協している人だって、きっと居るはずだ。
だから私が、いくら御免だと思っていても、たぶん無駄なのである。
子供のような思いを抱いているだけでは、ふわふわとしたものを抱え続けているだけでは、どうしようもないのだ。
また、苛まれる。
上手くやっていけるのか。
組み込まれるのを拒むあまり、そこから逃げ出してしまうのではないだろうか。
そもそも私は、この人たちのような歯車にすら、なれないのではないか。
歯車歯車と好き勝手に思う、私こそが出来損ないではないか。
坩堝に陥りかけた私を、鈍い銀色が現実へと引き戻す。
プラットホームの端に鎮座しているのは、こげ茶色に変色した水を湛える灰皿だった。設置型の大きなそれは、所々の塗装が剥がれており、かなりの年季を感じさせる。濡れた灰独特の、後味が悪くなるような粘つきのある臭いが、私の鼻にも届いていた。
ポケットから取り出し、一本だけ咥える。旅の途中、立ち寄った居酒屋で貰ったマッチは薄い形をしており少々使いづらかったが、それでも何回か擦るうちに火が灯った。
息を吸いながら、マッチの火を口元に寄せる。
やがて燃え移ったのを確認してから、私は用済みとなったマッチを軽く振った。すぐに火は消えて、ほのかな燐の匂いが鼻をくすぐる。
それを灰皿に投じてから、私は煙草を咥えながら、息を吐き出した。
煙草の臭いが好きだと言うと、大抵は変なものでも見るかのように返される。そしてその後には決まって、煙草が如何に人体へと悪影響を及ぼすのかというご高説を、賜ることになるのだ。それだけで済めばいいが、中にはそんな科学的根拠なんかをひとつも持ちだすことなく、半ばヒステリックに煙草は駄目だと、完全に上から目線で言われることもあった。
まあ確かに、煙草は身体に悪いのだろう。
前述した科学的根拠なんかでも一定の証明はされており、心臓病だとか脳卒中だとか不整脈に至るまで、煙草が関わると発症率が高くなると言われている。こういうのは、煙草を購入する際にはその周りで幾つも掲示されているので、意外と喫煙する側のほうが詳しかったりするのだ。さらにご丁寧なことに、今こうして私が持っている煙草の箱にも、そういった旨の警告文はしっかりと記されていたりする。
加えて、喫煙者のマナーが取り上げられることも少なくない。
歩き煙草、場所を考えない喫煙、ポイ捨て、挙げればキリがないくらいである。ただでさえ、喫煙=マナー違反と見られることも多いのだから、これらに目を向けないことは良識を疑われるのだ。事実、これらのマナー違反による弊害を、喫煙者である私も幾度となく体験している。特にポイ捨てによる吸い殻の散乱は、ほとほと嫌になったくらいだ。水を吸ったり、踏んで潰れたりした吸い殻は、取り除く際に灰や葉が飛び散って、余計に散らかることもある。そういったものの処理が、これまた面倒で難儀だった。
たぶん、今こうして私の傍にある灰皿も、その処理は大変なことなのだろう。
事実、誰かの親切心であろうこの灰皿があるにも関わらず、何故かその周囲には吸い殻がちらほらと散らばっている。そこに灰皿があるのに、わざわざその周りに吸い殻を捨てているのは、面倒だったのか、それともなにか意図があってのことなのか。どちらにしろ、捨てた人の心情を疑う光景である。
ただ、とも私は思う。
咥えた煙草を指ではさみ、灰皿へと灰を落とす。
喫煙は嗜好だ。それも周りから、あまり歓迎されない類の嗜好である。そんな嗜好を嗜んでしまっている私は、どうしても変わっているのだと自分でも感じる。わざわざ金銭を浪費してまで、身体を蝕むものに手を付けているのだから、どうしても負い目のようなものは拭い切れない。
ただ、やはり疑問を感じるところはある。
全面禁煙などと謳う施設は多々あるが、その施設の一角が煙草の灰で黒く汚れているのを目にし、私は頭を捻るばかりであった。確かに、そこはマナーや我慢の問題であり、だからこそ全面禁煙の内側でこっそりと喫煙している人々は、糾弾されるべきことは間違いではない。
しかし、全面禁煙という言葉の虚しさが、どうしても先行してならないのだ。
いっそ空港などである、ガラス張りの喫煙スペースをもっと普及させてほしいとも願う。我慢すればいいと言われるかも知れない。そんな贅沢な代物を、喫煙者などの愚かしい者に用意するのは勿体ないと言われればそれまでだ。
しかし、現実に全面禁煙という言葉がただの建前に成り下がっていることを、私は何度もこの目を通して見てきていた。路上喫煙禁止と記された看板の傍に、吸い殻が山となっている光景など、掃いて捨てるほどに見てきたつもりだ。
だからこそ、分煙するなら分煙を。禁煙させたいなら禁煙を。
もっと徹底的に流布してしまえば、いいとも思う。
いっそ値上げの幅も、もっと過剰にしてしまえばいい。
或いは、歩き煙草やポイ捨てなどの罰則を強化してしまえばいいのだ。警察の、ねずみ捕りならぬ、火ねずみ捕り。そう称して、マナー違反する喫煙者を監視し、捕えれば手当てという制度を設けてもいいのではないか。でなければ、他人への思いやりや気遣いを忘れず、マナーを守っている喫煙者がどうしても不利になる。
と、ここまで、でらでらと考えていた。
我に返った時には、私の煙草は根元近くにまで焼け落ちていた。
指に届きそうになっている火を見とめて、慌てて灰皿へと投じる。じゅっと、火の消える音が聞こえた。
分かっている。
分かってはいるつもりだ。
煙草は健康に害を成し、臭いも悪い。
おまけに喫煙者の中には、これだけマナー違反が叫ばれる世の中でも素知らぬ顔の輩がいる。分煙スペースを設けていても、まったく違う場所で平気で吸う。さも満足げに煙を吐いて、凶器となる煙草の火を持ちながら、悠々と肩を振って練り歩く。路上がゴミ箱であるかのように吸い殻を放り投げ、火だけは念入りに靴裏ですり潰して、去っていく。
そんな煙草だからこそ、どうしようもない喫煙者が大勢いるからこそ、疎まれるのは当然だった。煙草など、嗜好品としての価値など、おおよそ無いような代物であることなど、分かり切ってはいる。そのつもりだった。
二本目を取り出し、咥える。
今度は、中々マッチに火が灯らない。折れそうになるのを懸命に指でつまみながら、擦り続けた。
ようやく点いた時には、かなり時間が経っていた。
吸い切る頃には列車が来るだろうと目論んで、私はじっくりと含む。
煙草の臭いは好きだ。
草臥れたようなこの煙たさが、父を思い起こさせる。
父の背広には、煙草の臭いが染み付いていた。
幼い頃からその臭いに慣れ親しんだ私にとって、そんな煙草臭さは父の姿とすぐに結び付いた。だから、どうしても煙草の臭いは嫌いになれなかった。仕事から帰り、たぶん社会の歯車として酷使されていたであろう父の横顔が、マッチ売りの少女みたく浮かんでくるような気がしたのだ。
そんな父も、今は煙草を止めている。
実家に帰るたびに、目ざとく私から煙草の臭いを嗅ぎつけては、止めろと頻りに言ってくる。喫煙者のほとんどは、自分が吸っている癖に他人の喫煙には人一倍うるさくなる。たぶん私もそうするだろうから、自分も吸っていた癖に、と反論したことは一度もなかった。
胸に含み、少しの間を置いて、吐き出す。
さして気持ちよくもない充足感が、纏わりついてくる。
煙草が、美味いだとか不味いだとかの区別は、未だによく分からない。安物なんかは確かに喉がひりつくような感覚を覚えるのだが、それとて何本も吸い続けていれば、どんな銘柄でも感じるようになる。薬臭いだとか、煙っぽいなどは理解できたが、それ以上の詳しい味の区別などはてんで分からなかった。
適当なのだ。
決まって吸う銘柄はあるが、それも気分によって変えている。
ただ吸い始めて、気が付けばこうして嗜んでいるようになった。
吸っていれば父のように、草臥れながらも誰かのために働けている人に、ほんの少しだけ近付けた気になった。
それだけなのだ。
私が煙草を吸っているのは、たぶんそれだけの理由である。
だから銘柄も適当であり、気分によってひょこひょこと変える。特に疲れを感じている訳でもないのに何本も吸い続けていたり、逆に一本だけで止めてしまう時もある。そうして適当に吸っては、充足感のようなものの幻想に抱かれて、ふわふわと視線を横切らせる。
私にとっての煙草とは、たぶんそれだけ。
喫煙者と、それを取り巻く世界の環境について思索するなど、なんておこがましい。
短くなった煙草を口に寄せ、一際大きく吸い込む。吐き出した煙は、備え付けのスピーカーへと重なって、頼りなくかき消えた。そのスピーカーから、列車の来訪を告げるアナウンスが流れる。
吸い終わった煙草を灰皿へと投じて、私はキャリーバックの元へと駆け寄った。
取っ手を取り出すと同時に、プラットホームへと列車がやって来る。
列車は徐々にその速度を緩めていく。
窓に映った私の顔は、分別のついていない子供のようにも見えた。
思わず視線を外し、下を向く。周りに訝しがられないように、居住まいを直したかのように振る舞う。
やがて止まった列車から、降りてくる人はいなかった。乗り込む人も、あまり多くはないようである。
列車に乗り、空いている席を探す。
あまり乗っている人もおらず、空席は幾つもあったのだが、やはり旅の帰りなのだから、なるべくゆったりとできる席に座りたかった。バックを引きながら、車両から車両へと移る。移る際に、段差でバックの車輪が一際大きな音を立てる。
程なくして、人のいない車両へと辿り着いた。
長い席の、わざと真ん中あたりに腰を下ろす。列車はまだ動き出してはいなかった。アナウンスで特急に連絡を入れると言っていたから、たぶんそれだろう。両足でバッグを挟み込み、背もたれへと身体を預ける。
私が座ったのは、丁度プラットホームに背を向けている席だった。プラットホームには、私が乗っている列車の線路とは反対側に、もうひとつ線路がある。
がたんがたんと、遠くから列車の通る音が聞こえてきた。
恐らく、特急が来ているのだろう。他に見るものもない私は、その特急が来るのを見届けることにした。
身体を捻って、背後の窓へと振り返る。
目が合った。
ぶつかり合った、と言ったほうが正しいかも知れない。
視線の先にいた女性は、こちらへと顔だけ振り返った姿勢で立っていた。
蛍光灯の光で照らされた豪奢な金髪は、味気ない床のコンクリートとはどこまでも対照的だった。その金髪と同じ色の瞳が、私をじっと覗き込んでいる。私は、思わず目の合ってしまったその女性から、中々目が離せなかった。有事の際、とも呼べないものだが、そんな時の人間はこのように固まってしまうものなのだろう。もしかしたら、彼女も同じ気持ちなのかも知れない。
束の間、私と彼女は目を合わせていた。
大きな姦しい音が入り込んでくる。反対側の線路に、特急列車がやって来たのだ。私は彼女からゆっくりと視線を外し、元の楽な姿勢へと戻る。
動悸は少しもない。
むしろ、ひどく落ち着いていた。そのことが逆に不思議だった。
彼女は、私とは反対側を向いていた。私の身体も、元々は彼女の反対側を向いている。
それがたまたま、お互いに振り返って視線が合った、それだけなのだ。
偶然が重ねた、日常の些細なハプニングである。不意に目線が重なることなど、誰にでも経験があるだろう。
それが起こっただけだ。
彼女の身体は反対側の、今さっき特急列車がやって来た線路を向いていた。たぶん、彼女はその特急に乗るのだろう。この時間帯、この列車に乗っていないのならば、十中八九、その予想は当たっているはずである。
ならば、これで終わりだ。
はじまりではなく、折り返しなどでもない。
ここまで考えて私は、私自身がその金髪の女性をひどく気にかけていることに、ようやく気が付いた。
なにか既視感のような、それでいて新しいものに巡り合えたような、そんな感覚だった。
女性が、誰か著名な人物だっただろうかとも考えてみるが、思い至る人物はいなかった。それに、彼女がその著名な誰かであるならば、私がこれほど普段通りに心湧き立たないはずはない。程度はあれ、多少は動悸が起こるなどの興奮があるはずだろう。
そんな興奮などは微塵もなく、むしろ不思議なほどに落ち着いていた。
ようやく、という達成感。
強いて言うならば、そんな感覚が私の中に湧き立っていた。
しかし、それも無駄である。意味もない、と言ったほうが正しいかも知れない。
後ろで特急列車の動き始める音がする。
私は振り返ることもせずに、小さく息をついた。
なんにせよ、この不可思議な感覚の如何に関わらず、金髪の女性との邂逅はこれで終わりだ。追いたいという類の衝動は無く、後悔のような情念も溢れ出てこない。ならば、旅の帰りでくたくたに疲れたこの身体を、少しでも労わってやるほうが賢明だろう。ふわふわした心持で、私は再び背もたれへと身体を預ける。
時間を見て、そろそろ出発だと確認してから、目を閉じた。
古めかしいベルのような電子音が鳴り、扉の閉まる音がする。
なにか奥底から漏れ出るような重低音とともに、私の身体は引っ張られるかのように、かすかに揺れ動いた。
列車は動き始めた。
当たり前のその事実に、何故か私は満足げに口元を綻ばせながら、目を開く。
目が合った。
私が座るのとは反対側の席に、先ほどの金髪の女性は座っていた。
猫のような微笑みを悪戯っぽく浮かべながら、私とは相対するかたちで座っている。
ああ、やっぱり。
驚愕や興奮よりも前に、私はそれだけを思い浮かべた。
女性は口を開く。
「時計をしてないのね、気持ち悪いわ」
それが、メリーことマエリベリー・ハーンが私に向けて言った、最初の言葉だった。
いや、そもそもに蓮子なのか。もうちょっとその後が見てみたい。
個人的には叙述トリックを伴った大どんでん返しを喰らった印象です。
だって紫様だと思ったんだもの、金髪の女性が!
今まで読んできたなかで最高の出来だと思ったんだもの、幻想入りを扱った作品群で!
以上の理由により、作者様に一ミリの罪もないにも拘らず減点してしまう俺であった。
いや、このラストでも十分好きな作品なんですけどね。