1-1.
ほんの少し窓を開けると軽やかな春の風が部屋の中に新鮮な空気を送り込んでくる。極限まで水で薄めた青い絵の具を白い画用紙にぶちまけたような青空が一瞬だけ目に映ったが、東谷風早苗はその美しさに心奪われる余裕もなくすぐに元の机の前の椅子に座った。
彼女は頬杖をつき、何もかも考えるのをやめて目を瞑った。春にしては少し暑い。二十度は確実に超えているだろう。もしかしたらもっとあるかもしれない。
「これはあれかな。」
背もたれに寄りかかり思い切り伸びをしながら呟く。
「デート日和かな。」
彼女の予想通り、その日は二十五度を優に超えていた。
1-2.
「そもそもこんな良い天気の日に家に閉じこもって一人で考えごとをするなんてのが間違いなんですよね……。」
早苗は独り言を呟きながら空を仰いだ。本当に素晴らしい天気、気候。まるで恋する乙女の微熱のようだ。そんなことを考えて思わず吹き出し苦笑する。
「詩人か、私は……。」
そう思いながらも彼女は、中々悪くない表現だな、と自画自賛した。こういう表現がふっと思いつけるのだから、きっと何か良いことが起きるだろう、と、彼女は何となくの自信を纏いながら少し早足で歩き続けた。
風も思ったほど強くない。葉桜が時々さえずるのを眺めながら彼女は両手に持った籠に力を込めた。
――この前何持っていったんだっけな。
丁度一ヶ月ほど前のことを彼女は記憶から呼び戻す。
そう、確か前は桜餅。むぅ。二回も連続であんこか……。柏餅はやめといた方が良かったかな。ま、いっか。食べ物なら何でもいけるでしょあの子。
早苗は「あの子」が物を食べているところを見ているのが好きだった。「あの子」はまるで子供のように貪る。お菓子なら尚更。ある程度自分が満足したところで、『食べる?』、なんて、ちょっと口惜しげに言うのだ。まったく。あげたくなんかないくせに。
「ま、そういうとこがかわいいんですけどね。」
彼女はくすくすと笑った。今日はだめだな、春の陽気にやられているな、と思いながら。
1-3.
「ごめんください。」
軒先で早苗はほんの少しだけ声を張り上げた。どたどたと音を立てながら誰かが走ってくる。
「はいはいどうぞ――何だ君か。」
「どうもこんにちはネズミさん。足が短いとみんなより多く走らないといけないから大変ですね。」
「なるほど、今日は喧嘩を売りにきたのかな?」
「まさか。いつも通りちょっと遊びに来ただけですよ。はいどうぞ、お裾分けです。」
早苗は笑顔で戸の向こうから現れた人物――ナズーリンに籠を手渡した。
「いつも通り、ね。」
ナズーリンはフンと鼻を鳴らした。
「ぬえなら庭にいるよ。」
「そりゃまたいつも通りですね。」
早苗は相変わらずニコニコとしながら答えた。
「ああ、どうせいつも通り君が『お土産を持ってきた』なんて言って、あいつが食べたがるんだから、これはそのまま君が持っていってくれ。」
そう言ってナズーリンはぶっきらぼうに早苗に籠を返し、そのまま建物の中に戻ろうとした。早苗が思いだしたかのように言う。
「なるほど。――ところで。」
「何だ?」
ナズーリンは半眼で振り返りながら尋ねた。
「お茶ぐらい出ないんですかね?」
早苗は真顔でナズーリンを見つめた。ナズーリンは何も言わず、溜息をつきながら戻っていってしまった。
1-4.
早苗は建物の中に入らずそのまま庭へ向かった。広い日本風の庭。歩く度にじゃりじゃりと鳴る。彼女は造園に関する知識がまったくなかったので、どのような意匠が凝らされているのか皆目見当もつかなかった。ただ何となく、お金はかけられている気がした。
ナズーリンが言った通り、「あの子」は庭にいた。傘を持った少女と何か作業をしている。早苗はなるべく足音を立てないように注意して背後に回り、そっと籠を地面に置き、「あの子」を後ろから羽交い締めにした。突然の出来事に「あの子」は悲鳴を上げた。
「うおっ!?何!?」
「あ、小傘さんお久しぶり。」
「お久しぶりです。」
早苗は「あの子」を羽交い締めにしながら傘を持った少女に笑顔で挨拶した。傘を持った少女――多々良小傘はぺこりと頭を下げた。
「あれ、そういえばあなた命蓮寺の住人になったんですか?」
どうにか抜け出そうと暴れる「あの子」を押さえつけるためさらに力を加えながら早苗は会話を続けた。小傘も特に助ける気はないらしい。
「や、そういうわけじゃないんだけど、ちょっとお墓の場所を借りてて……。」
「あなた住む場所っていうか、居場所なさそうですもんね。色々。そろそろ落ち着こう……と。そういうわけですね?それでお墓ってどんだけ謙虚なんですか。」
「いや、そういうわけでも……。単にお墓で驚かした方が効率良いなって。」
「効率とか考えてたんですね。遊びでやってるのかと思ってましたよ。」
「遊びでやる余裕はないなぁ。」
小傘は苦笑いしながら答えた。――「あの子」が「ちょっと小傘!?いい加減助ける気とかないの!?」と叫ぶのを無視して。
「それでなんですか?お墓に人間が来るまでずっと一人でお墓で体育座りしてるんですか?めっちゃ可哀想な子みたいになってますけど大丈夫ですか?」
「体育座りはしたことないよ。でも確かに待ち続けるのは辛いねぇ。」
「あんたら何の話してんの!?いい加減離してよ!」
「あの子」は諦めずに抵抗を続けていた。しかし早苗はがっちりと掴んで離そうとしない。彼女は「あの子」の耳元でぶっきらぼうに言った。
「あ、ぬえっちょいたんだー。」
「そりゃいるわ!いなかったとしたらお前が羽交い締めしてるものは何なんだよ!後その呼び方やめろって言ってんだろぉ!?」
「正体不明的な何かかなーと。」
「お前なあああああ!」
早苗は「あの子」――封獣ぬえの叫びを無視して髪の毛の匂いを嗅ぎながら真剣な顔で言った。
「ぬえっちょもしかして髪伸びた?」
「お前ほど伸びてねーから!てか嗅ぐな!キモい!深呼吸やめろ!」
ぬえはどうにか振りほどこうとするが早苗はびくともしなかった。その様子を見て小傘がそっと呟く。
「ぬえっちょは早苗さんぐらいまで髪の毛伸ばしたいのかぁ……。」
「そうなんですか?ぬえっちょ健気だねー。私を憧れのお姉さんと見てるわけですかー。良いですねー。そういうのポイント高いですよー。」
早苗は表情を明るくし、頬をぬえの頭にこすりつけた。ぬえは腰を引かせて逃げようとするがどうにもならない。
「そんなん言ってねーから!何なん!?早苗はともかく何で小傘にまでそんなこと言われなきゃいかんの!?ってか今小傘さりげなく私のことぬえっちょっつったか!?殺すぞ!?」
ぬえの悲鳴はほとんど怒声に変わっていたが、小傘はお構いなしに、表情一つ変えずに言った。
「わちき知ってる。髪があなたより伸びたら結婚するってやつでしょ?」
「結婚かー!結婚はちょっとなー!色々考えなきゃいけないあれがありますからねー!でもまーありかなー!?いやー!いやーでもなー!」
「だああああああああああ!」
早苗は更に速度をあげてぬえの頭に頬をこすりつけ続けた。味方が誰もいないことを悟ったぬえはただ叫ぶことしか出来なかった。
「……あんたら何やってんの?」
全員が声の主の方向を向いた。そこにはお盆に三つのお茶を乗せた僧侶――雲居一輪があきれ顔で立っていた。ぬえは彼女に向かって必死に叫んだ。
「一輪!一輪助けて!この悪徳巫女に犯される!」
「犯しはしないですね。」
「わちき知ってる。それ和姦って言うんでしょ。」
「やめなさいよあんたたち……。」
急にテンションを下げた二人を見ながら一輪は疲れた顔で呟いた。それを見ながら早苗と小傘は思い思いに真顔で喋った。
「こんにちは雲居さん。何しにきたんですか。」
「あっ雲居だ。おい雲居、雲山だせよ雲山。」
一輪は大きな溜息をついて言った。
「もうお前ら帰れよ……。」
1-5.
命蓮寺の縁側には柔らかな春の光が射し込み、時折アクセントの効いた強い風が吹き込んできた。ぬえと早苗は――彼女らがどういう関係を持っているのか二人は良く知らなかったが――小傘が雲山の上に乗って空を飛び回っているのを眺めながら座っていた。
「……で、何しにきたのあんた。」
ぬえは早苗が持ってきた柏餅をいらいらしながらかじり、一輪が持ってきたお茶を大きな音を立ててすすりながら、早苗の方を上目遣いで睨みつけつつ尋ねた。早苗はお茶を冷ましながら目を瞑って静かに答えた。
「良い天気だし、ぬえっちょに会いに。」
「……あっそ。」
ぬえは視線を早苗からそらし、下を向いて黙って柏餅を貪り続けた。早苗はそれを横目で見ながらほんの少しだけお茶に口をつけた。二つ目の柏餅を平らげ、お茶を飲みながらぬえが口を開いた。
「早苗は全然食べないよね。」
「んー……。まぁ、家に帰ればいっぱいありますから。」
早苗は柱に寄りかかりながら、ぬえっちょが食べてるところが見たい、という言葉を胸にしまいつつ、答えた。温かいお茶を飲んだせいか、春の陽気と相まって眠くなってしまったらしい。ぬえは柏餅がおかれた皿を少し早苗の方に寄せた。
「食べなよ。」
「もういいんですか?」
早苗は穏やかに、再度目を瞑りながら訊く。ぬえはかぶりを振って答えた。
「なんかな……。私あんたから貰いっぱなしじゃん。やなんだよ、そういうの。」
「気にしなくていいのに。」
「私が気にするって言ってるの。お返しとか私、出来ないし。」
早苗は片目だけ開いてぬえを見た。口をとがらせながら早苗を睨みつけている。彼女は彼女なりの信条があるのだろう。或いは、プライドか。そう考えながら、もう一度目を瞑って早苗は答える。
「返すつもりはあるんですね。」
「あんたねー……。」
「見返りを期待して持ってきてるわけじゃないですよ。そう、互酬と再分配です。」
「は?」
「幸せや富っていうのは、自分一人で独占してはいけないんです。贈与の関係になくてはならない。そうしないと社会、ひいては種としての環が閉じてしまう……。」
「……あんた、何の話してんの?」
ぬえは早苗の方に身体を向け、怪訝そうな顔で尋ねた。早苗は一種のトランス状態を感じていた。
私は何の話がしたいのか。自分でも良くわからない。単にぬえっちょの困っている顔が見たいだけかもしれない……。
早苗は喋り続けた。
「確かに権力を顕示する贈与もあります。或いは権力を維持するために……。でも私のはそういうのじゃないです。こうやって贈り物を持ってくることで、私とぬえっちょの環は繋がったんです。繋がってるんですよ。」
「……その、環?って、早苗が贈り物を持ってこなくなったらなくなっちゃうわけ?」
「かもしれませんね。でもぬえっちょが何か持ってきたらまた繋がるかもしれません。」
「それは結局見返りを求めてるんじゃないの?」
「でもぬえっちょには『お返しをしたい』って気持ちがあるんでしょう?その関係性があるという事実そのものが私にとっての贈与になりますから、きっと大丈夫でしょう。……ちょっとお腹すきましたね。お言葉に甘えて、柏餅でも戴こうかな。」
早苗は上体を起こし柏餅に手を伸ばした。ぬえは何かを考え続けている。昔呼んだ本の内容をもう一度思い出しながら早苗は黙々と柏餅を食べだした。
「結局何が言いたいか全然わからないんだけど。」
「そうですねぇ。」
ぬえが不機嫌そうにそう言うのを聞いて、早苗は少し笑って答えた。
「物凄く簡単に言うと、ぬえっちょがそう思っててくれる気持ちが嬉しいからお返しとか別にいらないってことですかね。」
「なっ――」
ぬえは顔を真っ赤にして絶句した。そして柏餅の皿に手を伸ばし、そっぽを向いて三つ目の柏餅にかじりつき始めた。
1-6.
陽気な太陽はいつの間にか沈みかけ、周囲には強い風だけが残った。
ぬえはいつの間にか早苗の膝の上で眠り込んでいた。居眠りしてしまったぬえを無理矢理早苗が膝の上に乗っけただけだが。
早苗は赤い夕焼け空をぼんやりと見ていた。こうやって毎日何も考えずに過ごせたら良いのに。いや、毎日はちょっとな……。そう、今みたいに、たまに。神社がお休みの日ぐらいは。
彼女はゆっくりと溜息をついた。そろそろ帰らないとまずい。夕食の支度をしなくては――
「あら……こんにちは。それとももうこんばんはかしら……。ごめんなさい。お客様がいたのに気づかなかったなんて。」
不意に後ろから声をかけられ、彼女は上体だけ振り返り声の主を確認した。
「……どうも、お邪魔しています。白蓮さん。」
そこには命蓮寺の主――聖白蓮がニコニコしながら立っていた。彼女は早苗の隣に腰掛け、ぬえの頭をそっと撫でた。
「ぬえにこんなことさせるなんて凄いですね。この子、凄くプライドが高いのに。」
「……や、私が勝手にやってるだけで。」
早苗は頭をかきながら答えた。早苗はこの大僧侶を何となく苦手としていた。何を考えているかいまいちわからない。人の心にずかずかと入り込んでくる。そしてものの見事に言葉を引き出す。それはある意味、彼女の仕事に最も必要な素質ではあるのだろうが――食えない女だ。そう早苗は評価していた。
「それでも凄いことです。こう見えてもこの子、大妖怪ですから。そんな妖怪を膝枕してあげようなんて、中々人間には出来ることではありません。」
「……。」
早苗は何も言わなかった。恐らく、白蓮が想像している早苗のぬえに対する接し方と、早苗のそれにはギャップがある。しかしその溝を埋める気にはなれなかった。
「ところで――早苗さん。あなた何か悩んでいますね?」
「へ?」
突然話題が変わり早苗は驚いて白蓮の方を見た。更に不味いことに、その指摘は的確であった。
「しかもそれはあなたの信ずる神には言えないような悩み事――違いますか?」
「……何でそう思ったんですか?」
早苗は平静を装いながら言った。白蓮は少しだけ自慢げに答えた。
「私は何千何百もの悩める妖怪と人間の顔を見てきたんですよ。悩み事をしているかどうかぐらい一瞬で判別出来ます。」
「それは凄いですね。……確かに、悩んでますよ。」
早苗はもう一度空を見た。そして冷たく言い放つ。
「でもそれをあなたに言う必要はありませんよね?」
「話すことで救われることはあるでしょう。」
白蓮は即答した。早苗は心の中で舌打ちをした。あんたに話したところで――
「それはきっと、私に話したところで解決し得ない問題なのでしょう。しかし誰かに話して解決するようなことなど、この世にあるのでしょうか?私はないと思います。」
「……それは、あなたの信徒にもそう言ってるんですか?」
心の中を読まれた気がして早苗は精一杯の皮肉をぶつけた。しかし白蓮はそれをものともせず、さらりと答えた。
「私の信徒ではないですよ。私の仕えている仏を信仰しているのですから。そしてこれは、仏の教えではなく、単なる私の経験則でしかありません。ですから、信徒の方々にそう尋ねられれば、そう答えるかどうかはわかりません。でもあなたは信徒ではないでしょう。」
白蓮は聖母のように早苗にほほえみかけながら続けた。
「誰かに話して解決する問題などこの世には存在しない。しかし――救われることはあります。」
「解決することと救われることの違いとは何でしょうか。」
早苗はイライラしていた。この会話を出来るだけ早く切り上げたかった。しかしきっとこの女は悩みを打ち明けられるまでやめようとはしないだろう。そんな予感がしていた。
「すべての問題は、結局自分で解決しなくてはなりません。仮に誰かの手によって解決したとしても、それ以上先に進むことは出来ません。あなたの道ではなく、解決した人物の道になってしまうからです。前に進むためには自分で考えなくてはならない。どの道に進むかを決めなくてはならない。しかし誰かに相談すれば、『こんな道もある』と照らしてくれることもあるでしょう。そしてそれは自分一人では思いつかなかったかもしれない。それが私の言う『救い』です。」
白蓮は早苗の質問にゆっくりと答えた。早苗は半ば諦めかけていた。この人物はいけ好かないが、誰かに相談事を漏らすような人間ではない。それはわかっている。そして自分が想像することの出来ないような壮絶な人生を歩んでいることも知っている。彼女自身が言ったように、多くの悩み事を、間接的に解決に導いたりもしただろう。確かに相談する相手としてはこれ以上ない人物ではあるかもしれない。しかし――
「……そもそも私は悩んでいるのかどうかすらわからないんですよ。」
「それもまた悩みと言えるのでは?」
白蓮はにっこりと答えた。本当におせっかいな女だ。これぐらいおせっかい焼きな方が、信仰は集まるのかもしれない――そう考えながら早苗は悩みを打ち明けることを決心した。
1-7.
「どうも私は、結婚しなきゃいけないみたいなんですよね……。」
早苗は話が長くなりそうだからと判断した白蓮が新たに煎れたお茶に口をつけながらそう言った。ぬえは隣の部屋で眠っている。
「家を絶やさないためにですか。」
「そうです。」
「あの二柱が勝手に決めた相手なんですね?」
「ええ、そうです。」
きっとこういった悩み事も多く聞いてきたのだろう、白蓮はすんなりと早苗の言いたいことを代弁した。
「それが気に食わない、と?」
「……どうなんでしょうね。」
「どうなんでしょうね、とは?」
早苗は湯呑みを縁側の床に置き、手を組んで俯きながら喋った。
「私はあのお二方に感謝していますし、あのお二方の言うことなら何でも聞きたい。家を絶やしてはいけないということも理解しています。大事なことです。私のわがままで絶やしてはいけない。というより、そもそも反発しようと思ってません。あのお二方の決めた相手なのですから、きっと素敵な方なんでしょう。私一人では出会えなかったかもしれない。勝手に決められたと言っても、私はあのお二方に仕える身。いわば所有物と言っても良い。ですから、そもそも反対する権限がないし、反対する理由もない。そう思っています。」
「……しかし、何か気がかりなことがある。」
「そう、ですね……。」
それが何なのか。
早苗はそれを知りたかった。
「結婚するとしたら、籍を入れるのではなく婿養子という形になるんですよね?」
白蓮は早苗に向かって優しく質問した。彼女が悩み事を聞くときはこういうスタイルなのだろう。
「そうですね。」
「と言うことは、妖怪の山にそのまま住むんですか?」
早苗は黙った。それは違う。きっと人里に降りなければならないだろう。相手は恐らく信徒なのだろうが、結局はただの人間だ。妖怪の山にただの人間が一人住む。そんな危険なことをする理由がない。目的は家を絶やさないことなのだから、婿が死んでしまっては意味がない。しかし――
早苗はゆっくりと口を開いた。
「人里に降りざるを得ないでしょうね。」
「……そのことに関してはどう思っているのですか?」
白蓮は真剣な眼差しで早苗を見つめた。きっと彼女も感づき始めているのだろう。早苗はじっくりと考え、答えた。
「仕方ないと思います。仕方ない。です。」
「……。」
白蓮は何も言わずに早苗を見つめ続けた。発言の続きを待っているようにも見えた。早苗はぽつりと呟いた。
「家を守らなくてはいけない。」
呟き続けた。
「危険な妖怪と出会わないようにしなくてはならない。守らなくてはいけない。」
言葉が止まらなかった。
「それが私の新しいお役目。」
そしてそれがきっと――私の悩み事。
1-8.
「力になれましたか?」
白蓮は命蓮寺の入り口まで早苗を送っていた。早苗は少しだけ考えてから答えた。
「うーん。何一つ解決はしてませんね。」
「それはさっき私が言ったように――」
早苗は白蓮の発言を遮って言った。
「ま、でもどういう方向に悩めばいいかはわかりました。多分――私は受け入れるんだと思いますが。」
早苗は出口の方へ振り返った。白蓮は心配そうに早苗に尋ねる。
「ぬえに会って行かなくていいんですか?」
早苗は何てことないように、軽やかに答えた。
「まだ会う機会はありますからね。そうですねぇ。また来月あたりに。枇杷でも持ってきますよ。」
「そうですか。それではまた。」
「ええ、どうも遅くまで居座っちゃって申し訳ありませんでした。それでは。」
早苗は振り返らずにそのまま命蓮寺から出ていった。太陽は月に取って代わられ、気温は下がり、強い風だけが肌に冷たく当たり続けた。
1-9.
「うーん……。」
早苗は布団の上でごろごろ転がりながら考え続けていた。
――結局、私が出来ることなんか何もないんだよなぁ……。
彼女はむくりと、めんどくさそうに起き上がり、動かす度にからからと音を立てる窓を開け、月を見ながら別のことを考え始めた。
ぬえは何をしてるだろうか。寝顔かわいかったなぁ。あんな子供なら欲しいなぁ。子供かぁ……。
私があの子のことを考えるのは、きっと逃避でしかない。何故逃避するのだろう。受け入れたはずなのに。
受け入れきれないのはあの子がいるから?
そんな……。そんなに私は子供じゃないぜ。
でも会えなくなるのかな。
それは寂しい。
彼女は窓を閉めた。風がこうこうと窓を叩いた。これ以上は今日考えても仕方ない。明日も仕事があるのだ。まだまだ考える時間はある。いつかちゃんと決着をつけよう。
なるほど。前に進む、ね。
早苗は白蓮に言われたことを思い出しながら静かに眠りに就いた。
2-1.
ぬえは真っ暗な部屋の片隅に座り込み、親指の爪を噛み続けていた。ふと目を覚ました時に聞こえてきた会話が彼女の頭の中をぐるぐると回転し続けていた。
「なんだよそれ……。」
彼女は呻くように呟いた。
「結婚?すりゃいいじゃんか。すりゃいいじゃんかよ……。」
爪を噛む力が強くなる。
「すりゃいいけどさ……。」
親指の爪がぐにゃりとしなった。
「私に一言ぐらいあってもいいじゃん……。悩んでるなら私に言えばいいじゃん……。」
彼女は悔しかった。早苗が悩んでいることに気づけなかったことも、その悩み打ち明けて貰えなかったことも。
「あの馬鹿……いつもいつも!自分のことは隠し続けて!私の正体は暴こうとするのに!それで何!?今度は良く知らない男と結婚するからもう来れない!?何なの!?いい加減にしろよ……!」
彼女は爪を噛み続けた。爪を噛んでいないと叫び出しそうだった。
「なめるなよ……。」
彼女は爪から口を離し立ち上がった。
「この大妖怪ぬえ様をなめるなよ……!」
戸を思い切り開けて外へ飛び出す。
「このままやられっぱなしじゃ終われないんだよ!」
彼女は誰もいない闇の中を飛び回り、叫び続けた。彼女は自分が何をしているのか、何をしたいのかわからなかった。ただ今は自分の中で整理しきれない感情をそこら中にぶちまけることしか出来なかった。
<以下後編>
さて、さらうかくらうかはたまたさとすか