――この命令は、いつも唐突だ。
廊下を歩きながら思う。私への命令ではない、私はただの伝令。意味深なお嬢様の笑みを思い出したところで、目的の場所に着いた。今日の天気は曇り、洗濯物が乾かなくて困る。
命令を下される当人は、如雨露で花に水をやっていた。そういえば、門番以外に庭師の仕事も任せていたわね。忘れてたわ。
「美鈴」
庭師兼門番の美鈴は、如雨露を置いてから振り返った。鮮やかな紅の髪が靡いた。
「あ、咲夜さん。どうかしました?」
「お嬢様からの命令よ」
私はいつも、お嬢様の意図を理解せずに言を伝える。
「休暇が下りたわ。今回は三日」
伝えるとき、美鈴が浮かべる儚い微笑の理由も、理解しないまま。
お嬢様は、美鈴が風邪を引こうが腕をもがれようが、休暇を与えることはない。それは私も同じようなものだが、それでも私は人間で脆いので、美鈴よりはマシといえるだろう。が、それでも今回のように休暇を与えることがある。期間は短くて三日、長ければ一か月以上。
お嬢様はこの命令の意図を教えてくださらない。美鈴も答えようとはしなかった。私もあまり気にしてはいなかった。……けれど、美鈴の儚い微笑が頭に残ってしまったのか。伝えた後、紅魔館を離れる美鈴の後ろ姿に好奇心を抑えきれなくなって。
――その後を、尾行してしまった。
――幻想郷で『山』という呼称が出された時、それは妖怪の山を表す。普段は縁遠いその場所に、美鈴は躊躇いなく入っていった。哨戒役の白狼天狗が飛んでくるが、美鈴の姿を見ると、少し怯えたような色を見せて飛び去る。……普通じゃない。白狼天狗はたとえ力が及ばないとわかっていても侵入を阻むはずだ。
美鈴は最初から道を成している所を通る気はないようだ。最早獣道ですらない鬱蒼とした茂みを、掻き分けることすらせずに進んでいく。歩みは無人の野を行くがごとく早い。時間操作をしないと追いつけないくらいに。
やがて、剥き出しの岩肌に至った。美鈴は飛び出した岩の上を軽やかに跳び、ある岩の間に降りていく。少ししてから後を追うと、そこには目立たないながら洞窟があった。影から中を覗きこんでみても、闇は濃密で何も見えない。明かりを灯して、足音を立てないように気を付けながら内部に入り込んだ。
内部は湾曲しているが、それほどの深さはないようだった。やがて光は終着点を示し――
――背には、紅い滝が流れていた。
服装が普段のものから変わっている。まるで襤褸切れかというように擦り切れ、薄汚れた、元が何の服だったのかもわからない布。それは辛うじて胸や、下半身を隠しているくらいで、その布が服として機能しているとは言い難い。
いつも温和な表情で、時折はにかんで笑う顔に、表情はない。優しげで、人の良さそうな光を湛えていた瞳に宿るのは、獣のそれだ。そこで、ようやく気付く。背を向けていたはずの美鈴の瞳を視認していることを。
私が、捕食者に狙われた獲物になっているということを――。
そうと認識した瞬間には、美鈴の姿は目の前にあった。時を止めようと懐中時計を取り出し――その一動作が、大きすぎて。
次の瞬間には、激しい鈍痛と共に身体が後方に吹き飛んだ。痛みと衝撃で意識がブラックアウトする。気付けば私は、崩れた岩に埋まって曇り空を見上げていた。岩を砕きながら外まで吹き飛んだということだろうか。馬鹿正直に受けていたら、おそらく死んでいただろう。
時間停止は間に合わなかった。が、ぎりぎりで時を遅くすることだけはできた。ほんの一瞬ではあるけれど、その一瞬で完全な直撃を避けられたからこそ、何とか私は生きている。けれど、それもほんの悪あがきのようなもの。
右腕と、肋骨も何本か折れているだろう。左足は折れてはいないだろうが、それでもヒビくらいは入っているはずだ。全身はひどい打撲、左の瞼は切れて視界が利かない。目も当てられないほどの満身創痍、加えて吹き飛んだ時に懐中時計を落としたらしく、時間操作もできない。
瀕死の獲物を仕留めようと、捕食者が私に影を差した。今は下げられている腕が私に振り下ろされれば、いとも容易く死ぬだろう。この場合は、見知った顔に殺されるということをせめてもの救いにすべき? それともそれを呪うべき?
諦観が意識を支配し、私は目を閉じた。瞼に広がる暗闇は、ともすれば眠ってしまいそうなほど優しい。それに浸りながら来たるべき死を待っていても、その瞬間は一向に訪れない。開けない左目を閉じたまま右目を開く。
――美鈴の瞳に、雫が浮かんでいた。
その身体は震えている。抑えているから? 抑えられているから? 他人の目ではわからない。張り詰めた空間、そんな場所に、
「そこまでにしなさい、美鈴」
蝙蝠の翼をはためかせ、岩の一つにお嬢様が降り立つ。美鈴の眼が私からお嬢様に移った。爛々と燃える瞳に睨まれながら、それでもお嬢様は、美鈴を鼻で笑う。
「遊びたいなら、私が遊んであげるわ。そんなに壊れやすい従者(オモチャ)、乱暴者にあげると思って?」
――美鈴の身体が弾け、お嬢様が立っていた岩が砕け散った。
そうして始まった『遊び』は、弱った私が見ていられるようなものではなかった。弾幕勝負のように鮮やかで美しいものではない。純粋に殺し合い、喰らい合いだ。岩を砕き、地を割りながらの『遊び』は、他者から傍観者になる以外の選択肢を剥奪する。
……不意に、砂利を踏み締める音が聞こえた。
「咲夜さん、大丈夫ですか?」
「小、悪魔……?」
なぜ小悪魔がここに? と思っていると、その後ろにまた一人の影。
「……好奇心猫をも殺す。猫が死ぬなら、犬も死ぬわね」
口元に手を遣ったパチュリー様は、目を細めて面倒臭そうに『遊び』の様子を眺めた。
「……ここは空気が悪いわね。小悪魔、早く掘り出しなさい」
「はい!」
身体を埋めていた岩が少しずつ除けられる。
「……ああ、貴女は寝てていいわ」
パチュリー様が無造作にそう言った。それがスイッチにでもなったか、意識が瞬く間に暗転する。
――儚い微笑と、獣の瞳が、浮かび上がって消えていった。
◆ ◆ ◆
――肉と骨をもいだ感覚で意識が戻った。私の手には誰かの左腕。子供のもの? 小さくて細い、爪には紅いマニキュアが――
「えっ!?」
これはまさか、お嬢様の――?
「ああ、やっと正気に戻った?」
目の前から、少し疲れたような声が聞こえてきた。
「あんたとの『遊び』は楽しいけど、殺しちゃいけないから難儀ね」
左腕がない、だって私の手の中にあるから。右目が潰れて、右腕もあり得ない方向に捻じ曲がっている。飛び出した肋骨は針山のようだ。あれを、私が……。
「美鈴、あんた何か勘違いしてる?」
不意に、お嬢様がそう聞いてきた。
「勘、違い?」
「帰るわよ、美鈴。申し訳なさは、私以外の奴に抱きなさい」
お嬢様以外の人……?
ふと視線を巡らせて、岩の隙間から反射している光を見たとき、知らないはずの、獣の記憶が蘇った。
「咲夜さん!」
「うっさいわよ」
走る勢いのままに部屋に飛び込むと、パチュリー様が迷惑そうに本を閉じた。その言葉も耳に入らないで、私はベッドに駆け寄り――力が抜けて、膝をついた。
左目に包帯が巻かれている。白い肌が、より白い包帯に侵食されている。何にも覆われていない右目は、微動だにもせず閉じていた。
「さく、や……さん……」
当然ながら、返事はなかった。
「あらレミィ、二日間お疲れ様」
「ん? まあ、楽しかったよ。咲夜は?」
「一回も目を覚ましてないわ。命に別状はないだろうけどね」
二人の会話が遠い。かちゃ、と部屋の戸の開く音がして、
「あ、ああ……あああああっ!」
シーツに顔を埋めて、叫んだ。
――お嬢様が最初に休暇をくれたのは、咲夜さんが来るより遥か前だった。その時の私は、自分のことだって言うのに理解できていなかったようで。運命を見るお嬢様だからこそわかったのだろう。
私には少々不定期的に、それでも安定的に、破壊衝動が満ちる時があるらしい。お嬢様はその時の私を指して『獣』と呼んだ。そして、面白いオモチャだけど扱いが面倒だと。私のこれのせいで、今まで何度も館が壊されメイドが殺されたのだという。だから休暇と銘打って、その期間中に紅魔館から遠ざける。隠されていた理由はそれだ。
咲夜さんはそれを知らず、私の跡を尾行してしまったらしい。私はそれを知らない。私は『獣』になると、その時の記憶が残ってないのだ。だから、私は咲夜さんを攻撃したことを覚えてないし、お嬢様との戦いも覚えていない。
なのに、なぜか思い出してしまって。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
ベッドの中に閉じ籠もりながら、譫言のようにひたすらに言葉を繰り返す。それしかできない、それしかできない。他に何ができる? 獣のように暴力を振るった私に、自分の力すら満足に御せない私に、咲夜さんを傷つけた、私に――。
「ごめんなさい、咲夜さん、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
言葉に沈んでいくように、意識が闇へと落ちていく。
夢の中で私を責め立てる咲夜さんの姿が、今の私にはひどく嬉しかった。
――何か軽いものが当たる音で目が覚めた。シーツが涙と汗でぐしょぐしょになっていて、気持ち悪い。
「あら、起きた? モーニングティーが入ってるわよ」
「……え?」
布団を跳ね除けて声のほうを見る。そして、思わず目を見開いた。
「さ……」
「たしか貴女、朝食は中華派よね? 悪いけど、今回は洋風の朝食よ。トーストとマフィン、スクランブルエッグにハムとレタス、スープはポトフ。ジャムは何種類かあるし、そのままでも十分に美味しいと思うから、好きに食べなさい」
「咲夜さん!?」
左目には包帯が巻かれたままだし、右腕は固定されてる。全身から痛々しさが漂ってくるけど、それは間違いなく、完全で瀟洒な咲夜さんだった。
なんで、咲夜さんが私の部屋にいるの? 怪我してて、目も覚ましてなくて、それに……私の、部屋に……。
――目の前に、ティーカップが差し出された。
「ジャスミンティーよ。飲みなさい、落ち着くから」
抵抗できずに受け取る。嗅ぎ慣れた香りが鼻の奥をくすぐった。身体の強張りが取れた気がする。
そのまま咲夜さんに勧められるまま朝食を取り終えて、私は食後の紅茶を飲んでいた。これはアールグレイで、ブランデーを少し垂らしたのだという。少し風味の大人っぽいそれを飲みながら、私は食器をワゴンに載せている咲夜さんを見た。片手でしかできないということもあり、その所作は少しぎこちない。それでもやっぱり、咲夜さんだった。
「……咲夜さん」
「なに?」
振り返ることなく問い返してくる。水面を見つめて、私はぽつりと呟いた。
「……なんで、咲夜さんはそんなに、優しいんですか?」
手を止めて、咲夜さんが振り返った。
「……詰ってくださいよ。謗ってくださいよ。糾弾して責め立てて、『美鈴が悪い』って言ってくださいよ」
「…………」
「辛いです、私。徹底的に叩きのめされるほうが嬉しいです。咲夜さんは優しすぎて、今の私には、辛いです」
頬を、涙が伝った。拭うこともできない。紅茶が入っていたカップが手から滑り落ちて、割れた。
……咲夜さんは無言でカップの欠片を拾った。手伝わないと、そうは思っても、身体が動こうとしなかった。
やがて、咲夜さんは立ち上がると、
「……貴女って、大分身勝手なのね」
そう、呟いて、ワゴンを押して部屋を出ていった。
「その紅茶、飲み終わったら厨房に置いておいてね」
紅くくゆる紅茶を、テーブルの上に置いてから。
◆ ◆ ◆
――手が止まったのは、クッションが原型をなくしてからだった。
苛立ちにナイフを突き立ててからどれくらいだろうか。そのナイフは床に横たわり、クッションの中の綿は部屋中に散らばっている。苛立ちはまだ収まらない。ナイフで身を抉ろうかとすら思ったが、流石にそれはやめた。乱暴にベッドに横になる。身体はまだ痛い。
片目だけの視界は違和感が強い。普段は両目でする目を閉じるという動作を右目だけでする。暗闇は好きではないが、瞼の裏の暗闇は心地いい。なんでだろう。幻影を、幻想を見れるからだろうか。
ぼんやりとした意識が景色に至る。空想だろうか、夢想だろうか。遥か昔、ここに来た当初、初めて会って、それからの記憶が蘇る。
美鈴は優しかった。失敗しても、投げ出しても、肉体的に、精神的に傷つけても、それを笑って許してくれて、優しく、温かく抱きしめてくれた。今になって思えば、だからこういった時期があるんだろう。いっぱいになった器に新たなものを入れようと思えば、入っていた中身を出すしかないのだから。
優しかった。だから、私も、優しくしたかった。美鈴が私を傷つけても、それを許して、温かくしてあげたかった。なのに……
「……身勝手。辛い、なんて、なんて……」
閉じたままの目から雫が伝った。その雫に溶けたかのように、空想か夢想かわからないそれが流れていく。なんだか、ひどく悲しい。それを夢見ることすら、できないのだろうか。
夢を見たいな、そう思いながら、私は微睡に浸る。
――全身がひどく痛い。ただでさえひどい状態の身体なのに、変な姿勢で寝たからだろうか。なんとか寝返りを打って上を向く。部屋の戸が開いた。寝る前の夢想、空想のせいか、どうしてか妙に期待してしまう。
「……咲夜さん」
まさしく期待したとおり、部屋に入ってきたのは美鈴だった。しかし、期待とは言ったものの、私は何に期待していたのだろう。
「美鈴、どうしたの?」
その問いかけは、自分に向けたもののようにも思えた。美鈴は赤く腫らした目で私を見る。痛い。身体を起こそうとする私を、美鈴は止めた。
「少し、いいですか?」
頷く。美鈴は部屋の戸を閉めて、椅子に座った。そういえば、クッションを片付けていなかった。それにこの部屋にあるクッションはあれだけだったので、美鈴は固い椅子にそのまま座っている。痛くならなければいいけど。美鈴だから大丈夫、なんて、今の私には言えなかった。
美鈴は俯き気味で何も言わない。私は、何も言えない。もしかしたら美鈴もそうなのかもしれないけど、そう考えたところで何も変わらない。口が渇く、紅茶でも用意できたらよかったのに。
「……昔のこと、思い出してました」
不意に、美鈴がそう言った。
「咲夜さんが、紅魔館に来た頃のこと」
私もよ、と言おうとして、やめた。美鈴の言葉の続きを待つ。
「その頃の私を、思い出しました」
美鈴が顔を上げた。腫れぼったい目を見るのは辛いけれど、目は逸らさなかった。
「……私、身勝手でしたね。咲夜さんがしてくれたようなこと、みんな私もやってましたもんね」
「……ええ、貴女は身勝手。やっと気付いた?」
「はい、気付きました。ごめんなさい。身勝手で、咲夜さんのことも傷つけちゃって」
そんな言葉が欲しいんじゃない。謝ってなんてもらいたくない。そんな泣き笑いを浮かべないで。私は、ただ――
「……ありがとうございます、咲夜さん。身勝手な私にまで、優しくしてくれて」
――言葉が、出ない。
美鈴の頬を涙が伝った。
「……こんな私の、身勝手なお願い。……また、聞いてくれますか?」
頷く。それがどんな願いかわからないけど、どんなものでも受け入れられる気がしたから。
美鈴が立った。静かな足取りでベッドの横に立つ。今更ながら、美鈴の背が高いことに気付いた。けれど、今のそれは陽炎のように儚い。揺れる陽炎が、小さく口を開いた。
「……泣いて、いいですか? 子供みたいに、思い切り」
頷く。美鈴は泣きながら、けれど泣き笑いとは違う微笑みを浮かべて、私の胸に顔を埋めた。嗚咽が聞こえて、胸元が冷たく濡れた。本当は両腕で抱き締めたかったけれど、右腕は動かせないので左腕だけで。
「泣きなさい。力いっぱい、悲しい気持ちが消えるまで」
雨が上がれば太陽が顔を出すように。
泣き止んだ後の美鈴は、きっと今までと同じような、優しい笑顔を浮かべてくれるだろうから――。
◆ ◆ ◆
――パチュリー様と永遠亭のお医者さんによる治療のおかげで、怪我をしてからそう経たないうちに、咲夜さんは仕事に戻った。怪我する前から変わることなく、完璧に仕事をこなしている。
私は今、守衛室みたいな門番の待機場所で紅茶を飲んでいる。ジャスミンティーはわりと飲み慣れているけど、なんだかその頃のものより美味しい気がした。やっぱり気分っていう要素は重要なのかもしれない。
あれ以来、咲夜さんは時折何とはなしにここに来て、ジャスミンティーを淹れていってくれるようになった。ジャスミンにはリラックス効果や精神安定効果がある。きっと、気を使ってくれているんだろう。今のこれは全然辛くない。むしろ嬉しい。
休暇をもらうのは相変わらずだけど、その感覚は少し長くなった気がする。ストレスの捌け口を求めてのことだったのに、その行為にストレスを感じていたんだから、感覚が短いのは当然だったと、今なら思う。
今はと言えば、私が休暇から帰ると、守衛室で咲夜さんが紅茶を淹れて待っている。そこで私は、あの時のように思い切り泣く。それでようやく、溜まっていたものがすべて出ていくのだ。ストレス発散に咲夜さんを使うのは後ろめたいというか、何というかがないでもないけど、そこは咲夜さんの優しさに甘えることにした。私は身勝手だから、というのが逃げ文句。
今の私は、咲夜さんが「好き」と言ってくれた笑顔を浮かべられているだろうか。
こちらに向かってくる咲夜さんに笑いかけながら、そうであったらいいなと思った。