奇妙な格好の少女だった。
茶を基調とした色合い。
裾の長いスカートを黄色の糸で無理に纏めているせいだろう。
人の姿でありながら奇妙に丸みを帯びたシルエットだ。
なにかを期待するような、そんな笑みを浮かべる表情は、この暗い地底にはどこか似合わなかった。
しばらく行くと、遠く、地の底から光が差しているのが見える。
その光に彼女は飛び込み、長かった洞窟を抜けた。
彼女は向かう。
開けた景色の向こうに無数の光。
それは立ち並ぶ家屋。
長く伸びた橋の向こう、この暗い地底で輝き続ける灯り。
より一層目を輝かせたその少女は橋を超え、街を目指す。
街まで来ると少女は一番大きな道に降りる。
辺りを見回すとそこには、数多く、様々な妖怪の姿があった。
彼女はこの場所の名前を知らない。
この場所の名前は、『旧地獄街道』
幻想郷の最果て、忘れ去られた都の道。
「私は土蜘蛛の黒谷ヤマメ!」
街道から威勢のよい声が響く。
ざわざわと普段から騒がしいこの場所だが、張り上げた高い音のそれはよく響いた。
足を止めるもの、暖簾から顔を覗かせるもの、囲むように集まるもの。
皆が皆、黒谷ヤマメと名乗ったその少女の方に視線を向けていた。
「この地獄から人を攫いに来た!」
続けていった言葉。
その言葉には反応する者がいた。
「ちょいとごめんよ、通しておくれ」
人垣がすっと開く。
その奥には一人の女性が姿を現した。
その女性は腕に手枷を嵌め鎖を吊るし、左手に盃を携えていた。
目立つことに頭には赤い一本の角があった。
「ここは旧地獄。こんなところに人などいないよ」
一瞬目をまるくするヤマメ。
「嘘だ!」
すかさず否定の言葉をはく。
「嘘?私が嘘吐きだって?」
わずかに怒気を孕ませながら、鬼が叫ぶ。
「…この星熊勇儀が嘘などつくか!」
空気にさえ重圧を感じさせる咆哮。
「ならその自慢の角をへし折って嘘を認めさせてやる」
ヤマメはその声に引かずに吼える。
「おもしろい!やれるものならやってみろ!」
勇儀は怒気よりも、歓喜を込めた声で返す。
「言われなくても!」
言うや否やスペルカードを一枚構える。
『瘴符「フィルドミアズマ」』
ヤマメの周囲の空気が変わる。
どこか靄のかかった、紫の色へと。
辺りの人垣が後ずさる。
その空気は回りの者になにか、危険だと思わせるものがあった。
「なんだいこれは、攻撃かい?」
しかし、相手、勇儀は微塵も効いた様子がなく、その空気の中、不敵な笑みさえ浮かべている。
「次は、こっちがいかせてもらおうか」
『鬼符「怪力乱神」』
大きな爆発。
辺りの空気が一気に霧散する。
同時に弾幕がヤマメに迫る。
すかさず近くの家屋の屋根に糸を伸ばし跳び、避ける。
避けたその場所、地面にぽっかりと大穴が開いている。
威力に驚愕を覚えたが、ヤマメにはそれ以上に気になることがあった。
盃を持ったまま戦っている。
それも丁寧に中を零さぬように。
今の一撃にしたってそうだ。
強く踏み込めば、より威力は出ただろう。
それをせず、ただ、力を奮った。
それで充分だと判断されたのだ。
(私は舐められている…!)
そう、思うと、ヤマメは目標が変わった。
『罠符「キャプチャーウェブ」』
勇儀とは少し距離を取ったまま、辺りに糸をばら撒く。
地面に、家屋に、灯籠に、次々と糸が結ばれていく。
辺りが白に染まる。
それは勇儀とて例外ではない。
「面白い技を使うねえ」
張られた網の中から余裕の声が聞こえる。
「ちょいと邪魔だねえ」
『力業「大江山颪」』
辺りに張られた糸が次々と、圧倒的な質量に潰されていく。
荒い粗いスペルカード。
いくつか糸が残り、勇儀に絡まったままだが、本人は気にした様子もなく、前に進むたびにその怪力でぶちぶちと千切れていく。
『細縄「カンダタロープ」』
ヤマメの手から一本の糸が放たれる。
放たれた糸は残った糸に紛れて近くの石灯籠に一周絡みつき、その先、勇儀の足に絡む。
勇儀は気にした様子もなく、歩みに変化はない。
その一本の糸が引かれ伸び、張る。
そこで勇儀は初めて気づく、その一本が他の糸と違うことを。
切れないのだ。
勇儀の前に進むという意思にただ一本抗い、抵抗を見せている。
勇儀はにやりと笑うと、前に勢い良く一歩踏み出した。
それでも糸が切れることは無い。
続けて二歩目。
糸にかかっていた力がついに抜ける。
切れたと思った、確かに勇儀に抵抗する力は無くなった。
だがそれは、糸が切れたものではなく、糸の絡んでいた石灯篭が勢い良く空を舞ったためだ。
勇儀の後頭部に勢い良く直撃する石灯籠。
砕けたのは頭のほうではなく灯籠のほうだった。
どうやら鬼の頭は石より堅いらしい。
だが、自分の怪力で叩きつけられた岩塊がまったく効いていないわけではないらしく。
前によろける。
ヤマメはその隙を見逃さなかった。
左手からすかさずもう一本の糸を伸ばす。
その一本の糸は盃に張り付き、一気にヤマメの手元まで引かれた。
空を舞う己の盃を見て、勇儀は思わず見事という言葉を口から漏らしそうになる。
だが、勇儀はその言葉を飲んだ。
ヤマメは盃を左手で盃を受け止めると、そのまま掲げ、中ほどまで注がれたその酒を一杯あおり。右手の人差し指をクイクイと挑発するように勇儀に向けた。
「ハンデが必要なのはどっちか、教えてやる!」
勇儀はこみ上げる笑みを押さえながら叫び返した。
「面白い!教えてもらおうか!」
開いた左手をゆっくり、大きく後ろに引き。
張り詰めた弓を連想させるその動きで、放たれる。
一気に前に大きく振ると同時に一歩踏み込む。
目にも止まらぬ速さでわずかに、ただ大きな一歩。
ヤマメの目の前で停まる。
「歯ぁ食いしばんな」
その右手には一枚のスペルカード。
『四天王奥義「三歩必殺」』
大きな音が三度、衝撃として辺りに響いた。
「わかっただろ?そろそろ認めなよ。私が嘘を吐いてないってことを」
仰向けに倒れ、ボロ雑巾のように転がり、それでもヤマメは左手の盃だけは離していなかった。
「私は…負けて、ない…負けてない、から、認めない…」
勇儀はその胸に腰掛け、盃を取る。
ヤマメの手はそれでも離れなかったが勇儀は気にした様子もなく、その空っぽの盃を口元まで運び露をなめた。
「嘘だと、いってよ…」
ヤマメの口からかすれた声が出る。
「鬼は嘘を吐かないんだ」
懇願するようなヤマメの言葉に勇儀はどこか遠くを見ながら答える。
ヤマメの手が盃から離れ、地に落ちた。
右腕で顔を隠すように目元までもっていく。
「ぅく…っく…」
隠れていない口元が大きく歪む。
腕の隙間から雫が零れ落ちる。
わずか一滴に始まったそれは、一度流れ落ちると、溢れるように止め処なく流れ始める。
辺りには小さく嗚咽のような音だけが響いた。
「地底の新しい住人、黒谷ヤマメに乾杯!」
「なによ。コレ」
両の手を己の糸で巻き固定した泥だらけのヤマメはムスッとした表情で勇儀に聞いた。
「みんな酒飲みに集まったやつらだよ」
「なにそれ、私はここに喧嘩売りにきたんだけど」
余計に顔をムスッとさせるヤマメに。
「まあ堅いこといわずに飲めよ」
勇儀はそういうと手に持った一升瓶を、両手の塞がったヤマメの口に突っ込んだ。
「!!!!!!!!」
喉の奥まで突っ込まれ吐き出すこともできない。
勇儀から逃れようと後ろに倒れるが一升瓶が口から離れることはなく、垂直にヤマメの口から生える形となった。
一切の抵抗ができず、凄まじい速度で嚥下されていく一升瓶の中身。
人間なら致死レベルであろう急な酒の大量摂取に、ヤマメの顔が見る見る赤くなっていく。
「ーッ!ーッッ!」
潤んだ瞳に涙を貯めてもがくが声はでない。
次第に息が苦しくなり鼻息が荒くなる。
「ッッッッ!!!」
耐え切れず一度むせかえる。すると、咳と一緒に吐き出されるはずの酒が、正しい出口である口を見つけることができず、一気に鼻腔に回り勢い良く鼻から噴き出した。
勇儀は中身が無くなったのを確認すると満足気にヤマメの口からポンと瓶を抜いた。
「ぷはぁ!」
ようやく全うに呼吸ができるようになり新鮮な空気がヤマメの肺に一気に満ちる。
「そ、ごふ」
何か言おうとしたが思わず咳き込む。
「そんな飲ませ方があるか~!」
思い切り睨みつけて叫んだつもりのヤマメだったが、酒の影響か、半目で間延びした温い音での一声となった。
「おいおい、鼻水出て面白い顔になってるぞ」
その声に答えるように勇儀は豪快に笑った。
「これは鼻水じゃなくて酒だ!この馬鹿!」
そういうとヤマメは頭突きの要領で勇儀の胸元に顔面から突っ込んだ。
「あ、こいつ」
両手にそれぞれ酒瓶と盃を持った勇儀は咄嗟にヤマメを抑えることができなかった、
「はっ、ざまあみろ!」
突っ込んだその姿勢のまま上目使いで言った。
「ったく、もったいない」
ヤマメの酒という言葉をそのまま鵜呑みに信じているのか。
自分の胸元の染みをつまんで見ながらそんなことをいった。
「で、そういえばなんでおまえさん地底に来たんだい?」
ヤマメは少し話すのを躊躇ったが、一拍置いて口を開いた。
「…実は、さ。地獄に、私の…片想いの相手がいるんだ」
はにかむような笑みを浮かべるヤマメ。
「けっこー昔の話なんだけど、その人に会うなら、人の形が欲しくて、妖怪として力を蓄える必要もあって時間かかっちゃった」
照れた仕草でデレデレと話を進める。
「ここは旧地獄。そのときは地獄だったかもしれないが今の地獄はここじゃあないね」
探し人が既にこの地獄にいないなら。
ヤマメには他に探さなければいけない地獄があるはずだった。
「そっか…そうだったの…」
だけど、この地底からでることはできない。
そのことは、ここに来るときに聞いていた
この地底は、今は幻想郷のバランスを崩しかねない妖怪を封じる役目を持っているらしい。
こと、人の死、それも大量のそれにかかわりの強い者は幻想郷に戻ることは許されない。
『あの人』と共にあれるなら、たとえ地獄の果てでもと思っていた。
二度と地上に戻れないという覚悟もあった。
だけど、こんなことになるとは思ってもいなかった。
「私、蜘蛛だから、土蜘蛛を目標にしたのよ」
疫病を操る能力。
望めば幻想郷の人間すべてを死に追いやることもできるであろうその力は、幻想郷に存在できるものではなかった。
地上に戻ることは、許されない。
「女郎蜘蛛じゃ駄目だったのかい?そっちの方が力を蓄えるのは楽そうだけど」
その言葉に、もともと大量の酒で顔を赤くしてるヤマメだが、その赤の意味が少し違って見える。
「いや、えっと、まあ、女郎蜘蛛でもよかったんだけど、その…」
なにか、歯にものの挟まったような物言い。
「なんだい、言ってみなよ」
気になり勇儀が聞くと、ヤマメは口を開く。
「ほら、女郎蜘蛛って、騙して、男の人と、ね」
もじもじとするヤマメ。
「あ~」
合点いったといわんばかりに納得の表情の勇儀
「で、さ…私は、その…人の形ができるなら…あの人と…いろいろ、したいなあって…」
恥ずかしさに、言い切ってから目を廻すヤマメ。
「乙女だねえ」
勇儀は肩肘を卓につき、暖かい目でヤマメを見た。
「うるさい!」
ヤマメは顔を茹でタコのように真っ赤に染め、目尻を吊り上げて怒り出した。
「いいじゃない!初めての人ぐらい好きな人とって思って何が悪いのさ!」
彼女は勢いよく立ち上がり、それに合わせて一気に捲くし立てた。
「まあ落ち着けよ。誰も悪いなんていってないさ」
勇儀は気にした様子もなく酒を煽って言った
「そういや土蜘蛛は流行り病、どうにもならない被害、そういう象徴だったね。そういう意味では恋っていうのも土蜘蛛らしいといえばらしいねえ。周りのことなんか気にせず暴れまわる辺り、なるほどこいつは土蜘蛛だなってつくづく思うよ」
手を使わず器用にすとんと座るヤマメ。
「なに?馬鹿にしてるの」
既に完全に酒が回っているのか半眼で勇儀を睨みながら言った。
「いんや、納得しただけさ」
その話に割り込む声があった。
「恋にのめり込み過ぎるのも考え物よ」
その言葉はヤマメの前に立った、金髪緑眼の妖怪だった。
「なんだよ。人のこと好きになっちゃいけないっていうの?」
思わず反論の言葉を口にするヤマメ
「そこまでいわないけど。ほどほどにしなさいっていってるの」
「ほどほどってなによ。私は好きなんだから、そう思う気持ちに、ほどほどなんてないよ!」
目の前の少女のいいたいことがわからず語気を荒げる。
「裏切られたらどうするのよ」
好きな人が、自分を好いてくれなかったら。どうするのかと問う少女。
それは己を悔いる気持ちだったのだろうか。
言葉には重みがあった。
「この気持ちは裏切らない。その人が私のことを好きになってくれなくても。私があの人を好きな気持ちに嘘なんてない!」
それでも、ヤマメは自分の心を言い切った。
「…」
ボソっとなにかを呟いたように見えたその妖怪は、踵を返し部屋の隅の方に場所を取り、ちびちびと酒を呑み始めた。
「お前、パルスィに気に入られたな」
「気に入ってなんか無い」
すぐさま反論の言葉が短く鋭く跳ぶ。
「お前も部屋の隅にいないでこっちで呑めよ」
パルスィと呼ばれたその妖怪はツンと目を背けた。
「で、ヤマメ、お前、そいつのどんなところが気に入ったんだい」
慣れているのか、パルスィの態度に対して特に気にした様子もない勇儀。
「ふふふ、話すと長くなるよ?」
そういいつつも、ヤマメの顔は話をしたそうにしていた。
「聞こうじゃないか」
ヤマメはこほんとひとつ咳をすると、話を始めた。
「その日、私は蜘蛛の巣を作ってたんだ。あと少しで完成する、そんなときに、あの人は現れたんだ」
遠く、昔を懐かしむように語る。
「その人はゆっくりと私の巣の方に歩いてきたんだ。私はもう駄目だと思った。きっと巣はあっさり壊されてしまうと、そう思ったんだ。だけど違った。その人は私の巣に気がつくと、払うなんてこともしないで、わざわざ迂回してくれたんだ」
それは人にとってはただの気まぐれに過ぎないかもしれない。
それでも。
「うれしかったぁ」
深く溜め込むようにその言葉を吐き出し、うっとりとした表情を見せた。
「このスカートね、そのとき守ってもらった巣の糸で縫ってあるんだ。ちょっと長くなり過ぎたから、網で無理矢理まとめてるんだけど。ほら、どっかの誰かさんのおかげで腕は動かないけど、足はぴんぴんしてるよ。あの時に壊されるはずだった巣は、あの時に壊されなかったから。今も壊れずに私を守ってくれてるんだ」
溜め込んでいた話が堰を切ったかのように次々とあふれ出した。
「ほら、あんたの足止めたスペルあるじゃん?あれはあの人を助けるためにつくったんだ」
「へえ、あの妙に頑丈な糸かい?」
「あれは糸じゃなくて縄。糸は一本。すぐ切れちゃう。絶対に切られたくないから。もう二度と切られないように時間をかけて編んだの」
ヤマメの話しは、尽きることなくいつまでも続いた。
昔のことを思い出していた。
夢として、あの日の自分の言葉だけが何度も繰り返される。
『どうかお願いします!あの盗賊にどうかご慈悲を!』
『私が支えます!この糸は絶対に切れません!あなたが昇りきるまでは!』
『何故です!何故、私の糸を切ったのですか!』
『自分一人が助かろうとして何が悪い!自分が一番大切でなにが悪い!』
『あなたは酷い方だ。最初からあの人を救う気なんてなかった!』
『あの人の魂を、私の心を、弄んだ!』
『私は、あなたを、恨みます…』
ヤマメは目を覚ました。
酒の席でそのまま眠っていたらしい。
もぞもぞと起き上がる。
「起きた?」
その姿に声を掛ける者がいた。
「あんたは?」
それはセーラー服に身を包み、傍らに巨大な錨を携えた少女だった。
騒いでる最中にも何度か目はあったが、直接は話さなかった相手だ。
横にはなっているが、寝てはいないらしい。
「私は村紗水蜜、船幽霊さ。…ちょっと話を聞いてもらっていい?」
その少女は上体を起こし言葉を続けた。
「話…?」
「私の大切な人、いなくなったんだ」
ヤマメはどきりとした、自分と同じ心を持つ者がいると。
「その人は、死してなお沈んでいた私の心を、救ってくれたんだ」
懐かしむように、愛おしむように。
「私は、あの人のことを思うよ。あの人の言葉を信じて、あの人の生き方を思うよ」
ムラサは穏やかな笑みを浮かべ話した。
「今、私にできるのはそれぐらいだからね」
その言葉を、ただ羨ましいと思った。
ヤマメはあの人のことをほとんど知らなかったから。
(あの人の生き方ってなんだろう…盗賊?私が盗賊になる?)
(なんか違うなあ。盗賊を助ける?盗賊を助けたら私は満足できるんだろうか?)
(それもなにか違う気がする。でも、気晴らしぐらいにはなるかも)
「私はいつだって前に進もうとしている。いつでも帆を広げて、強い風が吹くのを待ってる。きっといつか、あの人を救い出せる。そう信じてるから」
その表情に、暗澹としたものはなかった。
「それだけ。あなたも早く前に進めるといいね」
言い切るとムラサは横になった。
ヤマメは自分が励まされてることに気がついた。
「ありがと、ムラサ」
ムラサはにこっと笑みを浮かべると、静かに目を閉じ、やがて寝息を立て始めた。
辺りには同じように眠りこけた妖怪の姿がちらほらとあった。
ヤマメも寝るかと思い、横になる。
そこで気づく。
自分が寝ている場所に、いるべき者がいないことを。
(勇儀が、居ない…?)
ずっと隣で呑んでいた勇儀の姿が見当たらなかった。
ヤマメは再び起き上がり、外にでることにした。
外には白い粒がはらはらと、降っていた。
(…雪?)
上を見上げると雪の粒が降ってきているその様が見えるが、その奥、遠くに見えるのは岩肌の天井だった。
気にはなったが、気にしても仕方が無いと思い視線を戻す。
すると、少し離れた岩の上。
座り込んで盃を仰ぐ勇儀の姿が見えた。
ヤマメはその隣まで歩いていった。
「どうしたんだい?寝てたんじゃなかったのかい?」
背中に気配を感じたのか、後ろ向きのまま声を放つ勇儀。
「目が覚めたの」
勇儀はその言葉にただ短く、そうかい、と答えた。
ヤマメはそっと勇儀の横に腰掛けた。
しばしの沈黙。
「ねえ、私はどうしたらいいの?」
燦燦と、雪の降る中、先に口を開いたのはヤマメだった。
「私にとって、あの人が全てだった。あの人に会うため。あの人に尽くすため。あの人を救うため。生きてきた。あの人がいないと意味がない!」
「ヤマメ、見てごらん。雪が降ってるだろ。どういう理屈か知らないけど。この旧都にも雪が降るんだ」
ほうっと白い息を吐く。
「雪が降るのに意味なんて無い。でも、ただ降るんだ。いろんなものを白く染めながら」
すっとヤマメの手のひらに雪が落ちる。
「私は、寒いのは、嫌い。だって、辛いじゃないか…」
ヤマメはその雪の結晶を握った。
「その雪だってすぐに水になって消えるんだ」
雪はただ雫だけ残して消えた。
「…忘れろっていうの?どうせ水になって消えるから、寒かったことなんて、忘れろって!」
手のひらにはなにものこっていない。ヤマメはそのことが少し悲しかった。
「そんなこといわないさ。忘れるってのは人間の特権だよ」
首を振り否定する勇儀
「ただ、ありのままに、今を受け入れて。在るように在れってことさ」
続けざまにヤマメの瞳をしっかりと見て言葉を伝える。
「ここの住人はみんなそうさ。弾かれ者たちがありのままに生きて、いつの間にか、こんなところに集まってた。それでいいんだよ」
ヤマメは、ずっとあの人のために生きていた。
「私には、わかんないよ…」
それを失った自分が今、生きてることの方が不思議なぐらいだと思うほどに。
「お前はずっと走ってたから、つまずいたときに起き上がる方法を知らないだけ。少し考えてみな。自分の立ち上がり方を」
どうしてそんなことを言えるのか。気になってヤマメは声をかける。
「じゃあ、勇儀…あんたは、大切なものをなくしたらどうするんだい?」
表情は変わらなかったが、一度息を呑む勇儀。
「大切なものがなくても、ここには酒がある。旧都に月はないけれど、雪が降るなら雪見酒は楽しめる。一緒に酒を呑む仲間も居る。昔の記憶は決して忘れはしないけど。私は空っぽなんかじゃないさ」
勇儀は弱音を吐くようなことはなく、少しだけ寂しそうな目をして笑った。
それは強くあろうとした鬼として正しいのだろうけど、その姿を見たヤマメは、涙の方が似合ってると思ってしまった。
「ほら、部屋に戻りな。ジメジメした話は嫌いだよ」
「あんたは?」
「もう少し、呑んでから戻るさ」
そう、とヤマメは呑んでいた部屋に戻ろうと岩を降りる。
すこし歩いて戸に手をかける。
ふと振り返り、見やると鬼の背中があった。
力強い鬼の背中。
それが、雪の中、一人寂しく酒を仰いでいた。
ヤマメが、勇儀にかける言葉はない。
勇儀が自身を語らないから。
それでもヤマメは、勇儀の隣に戻った。
「なんだい。部屋に戻れっていっただろう?」
「私も呑みなおしたくなったの」
そんなことじゃない。
「部屋で呑めばいいじゃないか」
本当に大切なのは。
「あんたがそれを言う?」
と、糸で固定した両の腕を上げて見せた。
「どこかの誰かさんのせいで一人じゃ呑めないんだから、それぐらい手伝いなさいよ」
どかっと勢い良く勇儀の隣に腰掛ける。
「寂しそうな顔して一人で呑んでんじゃないの、似合わない」
その言葉に一瞬、目を丸くした勇儀は、酒の席に似合う豪快な笑みを浮かべた。
前に進む。
ムラサはそういった。
今を受け入れる。
勇儀はそういった。
だけどヤマメはどうやって進めばいいのか、何を受け入れたらいいのかわからずにいた。
ただ悲しくて、辛くて、それだけで胸がいっぱいだった。
それ以外考えられない。
その事しか考えられない。
どうしていいのかなんて、わからなかった。
それからしばらく、月日がたった。
地底の入り口。
旧都と違い、整備の行き届いていないその場所は、ごつごつとした岩肌がいたる所から覗いていた。
旧都は、暖かくヤマメのことを迎え入れたけど。
ヤマメは度々この場所に来るようになっていた。
力を蓄え、人の形を手に入れ、あの人を救いに来た。
そのはずだったのに。
今は土蜘蛛としての力を手にしたばかりに進む道をなくしてしまった。
見上げれば、遠く、遥か遠くに、わずかに光がある。
あの光からヤマメは糸を伸ばした。
この暗い場所から光を求めて、糸を手に取った。
どんな気持ちだっただろうか。
なにもできないヤマメは、いつもここに来てはぼんやりとそんなことを考えていた。
けど、その日は違った。
光の方から何かが降りてくるのが見えた。
それが何か確認できるや、ヤマメは思わず声を出した。
「おお?人間とは珍しい」
自分を倒した人間の後ろ姿を見送りながら、ヤマメは思った。
(あの時、私が地獄に下りていけばよかったんだ)
人間が、地獄に自ら降りてくその姿を見て気がついた。
そうすれば、たとえ力のないただの蜘蛛でも、あの人の隣にいることはできた。
そうしなかったから、少し、悲しい思いをしている。
『細網「カンダタロープ」』
冷たい岩肌に倒れたその姿勢のまま、勢い良く一本の糸が伸びる。
ヤマメは自分のもっとも信頼するその糸を、裂いて撒いた。
その糸ははじめからいらないものだった。
救いの糸を伸ばす必要なんてなかった。
今ならヤマメは自ら歩んでいくことができるから。
「ここはあなたのいた場所だよ」
虚空に言葉を投げる。
「ずいぶん時間がかかっちゃったけど」
聞くものは誰もいない。
「私はようやくあなたに会いに行くことができたんだよ」
ヤマメは後悔した。
「今はまだ、会えないけど」
後悔したことでようやくそのことと向き合うことができた。
会えなかった悲しみは消えない。忘れもしない。自分とあの人を弄んだアイツは恨んだまま。
それでも、これで前に進める。
過去を糧に生きていける。
「かならず会いに行くよ」
たとえ無力な蜘蛛になろうとも。
あの人に会うことはあきらめない。
胸の内には新たな決意。
「たとえ地獄の果てまででも」
ヤマメは笑みを浮かべ歩を進める。
彼女は帰る。
かつての地獄跡。
仄暗い地の底。
その場所はかつてと違う賑わいを見せている。
変わり果てたこの場所のわずかに残る面影を見る。
この場所はかつてのあの場所ではない。
始めてここに来たとき、彼女はこの場所の名前を知らなかった。
この場所の名前は、『旧地獄街道』
今を生きる、弾かれ者が行く道。
「やっほー勇儀!」
旧都に戻ったヤマメはすぐに勇儀の姿を見つけた。
「さっき旧都を人間が通らなかった?独り言の多い奴なんだけど」
勇儀は少し焦げていたのでまず会っただろうと思い確認の声をかけた。
「ああ、通ったよ。間欠泉がどうのって。商人…いや、盗賊とかいってたよ」
「!」
ヤマメは、『盗賊』という言葉に目を丸くした。
「盗賊…そっか、あの人間、盗賊だったんだ」
意味を確かめるように言葉を口の中で反芻した。
自然と頬がにやけた。
「面白いこともあるもんだ」
なにが面白いのか全くわからず、きょとんとする勇儀を余所に。
少しは気晴らしができそうだなと。
そんなことを思いながら。
ヤマメは目尻に涙を浮かべ声を押し殺すようにして笑った。
~fin~
何だか言葉で表せない切なさがあり良かったです
あの物語に腑に落ちないなにかを感じてまして、こんな風になりました。
どんなに前向きでも思いを馳せてる『あの人』が、既に死者というのは切ないですね。
また、今回は「有りのままに生きる」という意味を込めて『旧地獄街道を行く』というタイトルにしましたが、その裏にはみんな辛い過去を抱えていると思い、やっぱりジメジメした話になりました。
切なさ、は胸が苦しくて、ツライことだけ残ってしまうことがあるので。
切なさがあって、良かったといってもらえると、すごく嬉しいです。
コメント返信遅れてごめんなさい。
ありがとうございます!