もう随分長い間ご主人様の従者をしているが、今の今まで彼女の言う“つい、うっかり”の意味が分からなかった。
ある程度注意していれば失敗などしないし、仮に“うっかり”何かをしでかしてしまったとしてもすぐにそれを修正できるはずだからだ。大きな問題になるような失敗を“うっかり”してしまうのは、本人の注意不足に他ならない。ご主人様のドジを見る度に、私はそう思ってきた。
ついさっき、雨上がりの石段で“うっかり”転んでしまうまでは。
この日、午前の探索を終えた私は意気揚々と命蓮寺の石段を登っていた。中々面白いものを見つけられたし、ずっと降っていた小雨が上がったのもあって気分が良かったのだ。
無事に探し物も見つかったし、これで午後はゆっくりできそうだ。背伸びをしながらそんな事を考えていた私は、今思えばかなり気を抜いている状態だったと思う。人目も気にせず鼻歌混じりに石段を登り、足元が濡れているのを完全に忘れてしまうくらいに。
そうして境内の石畳に差し掛かった時、私の足がつるりと滑った。
命蓮寺の石段は、濡れるとものすごく滑りやすい。階段の部分と境内の中の石とでは性質が違うため、階段を登り切り境内に入る辺りで足を取られやすいのだ。
どうしてそんな当たり前の事を忘れていたのだろう、などと思う暇もなく、私の視界がぐるりと上を向く。先程まで境内を捉えていた視点が空を泳いだ後、ベチャっという嫌な感触が尻の辺りを襲った。
「あいたっ! はぁ、まいったね……」
思わず溜息を吐きつつ、腰の辺りを擦ってみる。
派手に転んでしまったかと思っていたが、どうやら尻餅をついただけで済んだらしく、少し打った所が痛む以外は特別問題ない。服の汚れもスカートだけで済んだし、この程度なら残ったりしないだろう。
汚れた部分を手で払いつつ、私は立ち上がった。
まさかあんな所で転ぶとは。これではご主人様の事を責められないな。そういう意味でも、誰も見ていなくてよかった。彼女のうっかりを指摘できないようでは従者失格だからね。
一人そんな事を考えつつ、苦笑いを浮かべる。
転んだのは、もう終わった事。戒めとして心に留めてはおくが、深く気にすることもないだろう。そう自分に言い聞かせて、私は顔を上げた。
けれども、事態はそれだけで収まる事はなかった。
見えてしまったのだ。ここにいてほしくない、口をぽかんと開けたまま固まっている山彦妖怪の姿が。
「……はっ!? み、見てないよ! ナズーリン、私何も見てないよ!」
私と目が合った瞬間、響子は手をバタバタさせながらそう弁明する。
その様子からほぼ予想はできていたが、でももしかしたら違うかもしれない。そんな淡い期待を抱きつつ、私は彼女に飛び掛かるようにして一気に間を詰めた。
「わわっ!?」
「どこからだ」
「へっ? あ、あの」
「どこから見ていた」
「ええと、ナズーリンがうれしそうに石段を登ってきて、その、境内の所で」
「もういい。それ以上言うな」
「は、はい。あの、ナズーリン」
「絶対に言うなよ、響子。特にご主人様に少しでも話したら……分かっているな?」
「い、言わないよ。私、口は固いんだから」
「騒がしい君が言っても説得力がないな。とにかく、口外しないでくれ。いいね?」
響子が黙って頷いたのを見て、私は寺へ歩き出した。
しかし、運がない。なんだって響子が掃除している所に出くわしたりするんだ。
そんな事を考えていると、後ろから響子が声をかけてきた。
「ねえ、ナズーリン」
「なんだい?」
「ナズーリンも、実はけっこう抜けてるところがあるんだね」
少し離れた所から満面の笑みでそう言ってくる響子。
彼女の意図は分かっている。嫌味でも皮肉でもなく、彼女は本心からこう言ったのだ。
おそらく、彼女の考える私はクールすぎるのかもしれない。それが少し間抜けな所を見せたから、親しみを感じたと言いたいのだろう。
純真無垢も、ここまでくると笑いがこみ上げてくるものだ。とはいえ、もう少し相手への配慮を学んだ方がいいな。
そんな事を考えつつ、笑顔を浮かべる響子に一言。
「それはどうも。尤も、君ほどではないがね」
「えっ? どういうこと?」
発言の意図が分からなかったのか、響子は首を傾げてみせる。その子供っぽさに苦笑しつつ、私は踵を返した。
彼女の無邪気さのおかげか、見られてしまった事への後悔はもう殆ど消えてしまっていた。
程なくして、昼食の時間がやって来た。
響子が加わり騒がしさの増した命蓮寺の食卓では、毎日のように様々な話題が飛び交っている。里の人々や参拝者から聞いた話がほとんどだから退屈な話も多々あるのだが、時々興味深い話が聞けることもある。そのため、私を含め仲間達は皆この時間を楽しみにしているのだ。
当然、私はこの日も面白い話を楽しみにしていた。どんな話が聞けるかは運次第だが、何か興味深いものが一つくらいはあるだろう。楽しい話の一つでも聞いて、さっきの事なんて忘れてしまおう。
そんな風に考えて、私は茶碗に手をかける。
けれども、事態はそう穏便には動いてくれなかった。
「そういえばさ、今日里ですごいの見ちゃった」
談笑の中で、ぬえが思い出したようにそう口にした。うれしそうに吊り上った口角を見るに、どうやら彼女の目撃した光景は相当面白いものだったらしい。まあ、この悪戯少女の言う「面白い」が私にとっての「面白い」になるかは分からないが。
「なによ、気になるじゃない」
「いやね、ついさっきの事なんだけどね。雨が上がったから気晴らしに里に行ったんだけど、そこでけーね先生に会ったんだ」
「ああ、寺子屋の。ところで随分親しげな呼び方ね」
「ちょっと前に色々あったから、ね……」
「ああ、そういやあんた前に言ってたわね、里で悪戯したらこっ酷く叱られたって。なんかトラウマになったとか言ってなかったっけ、確か頭突きがなんたら」
「ひぎぃ!? ちょ、やめてよムラサ、その単語聞くだけで額が痺れてきていだだっ!」
「ご、ごめん、そこまでとは思ってなかったわ。それで、慧音さんがどうかしたの?」
「うう……先生って、いつもキリっとしてて失敗とかしなさそうでしょ?」
「まあ、そうね」
「そんな人がいきなりすってんころりんしたら面白いと思わない?」
ニヤリと笑うぬえを見て、鳥肌が立った。まるで、自分の事を言われているような気がしたのだ。
皆ぬえの話に興味を持ったのだろう、私の様子には誰も気づかないまま話が続いていく。
「すってんころりん? そんな子供みたいな転び方したの、あの慧音先生が?」
「うん。丁度寺子屋の前を通りかかったら子供達とけーね先生がいてね、なんか外で授業をやるみたいだったんだ。『滑るから気をつけるんだぞー』とか言いながら子供達が外に出ていくのを見てたんだけど、その後自分が出る番になった時先生派手に転んじゃったんだよ。ぬかるみに足が取られたみたいで、足が前につるっと行って、お尻から地面に着いちゃう感じの」
「あらあら、それは……」
「けっこう、恥ずかしいわね……」
「でしょ? これが普通のおじさんとかならもうその場で大爆笑なんだけど、けーね先生だから笑うに笑えなくてね。私以外にも見た人はいたけど、咄嗟に口を押さえたり顔を背けたりしてたよ」
「それで、慧音さんはどうしたんですか?」
「それがね、少し間があってから立ち上がって、『ほらな、気をつけていないとこういうことになる。先生が悪い見本だ、皆はちゃんと気をつけるんだぞ』って言ってたんだ。子供達も返事はしてたけどなんか顔が引きつってたし、先生の顔真っ赤だったなあ」
複雑そうな表情でそう語るぬえ。周りの仲間達も皆一様に同じような顔をしていたが、私はその中で一人思索を巡らせていた。
偶然だろうが、これはかなりまずい状況だ。
慧音の一件で、しっかり者と思われている奴がうっかり失敗をするとかなり悪い印象を与えてしまうのが分かった。ご主人様のような者の“うっかり”は頻繁だから慣れが来るが、私のような者の“うっかり”はまず起こらない現象だからより強く印象に残ってしまうのかもしれない。
とにかく、やはり先程の事は誰にも知られてはいけない。仲間達に、とりわけご主人様にあんな顔をされる事態は防がなければならない。
そんな事を考えつつ、私は何気なく響子の方に視線を向けた。
少し気になったのだ。意外と小心者の彼女だから、余計な心配をしているんじゃなかろうか、と。
できれば外れてほしい予感だったのだが、こういう類の予感は得てして当たっているものだ。
私の視線の先にいたのは、あからさまに怪しい素振りを見せる間抜けな山彦妖怪だった。
ガタガタと震えながら、心配そうに視線を泳がせる響子。手にした茶碗と箸は自身の振動でやはり微かに揺れ続け、今にも落としてしまいそうだ。
いくらなんでも、酷過ぎやしないか。
確かに、緊張が表に出やすいか否かというのは人によって様々だ。皆が皆常にポーカーフェイスを保っていられるわけではないことくらい、私だって分かっている。
けれども、なんだってあそこまであからさまに怪しい動きをする必要があるんだ。あれではまるで、「どうぞ声をかけてください」と言っているようなものじゃないか。実際声をかけられてしまえば話してしまいかねないし、どうしたものか。
そんな事を考えていると、不意に響子がこちらを向いた。
小動物のように潤んだ瞳でこちらを見つめてくる響子。指示を請おうと思ったのだろうか、目が合った直後彼女の口が「どうする?」と動く。
どうするも何もない。ただ、黙っていればいいだけのことだ。こちらから話したりしなければ、決してあの件には誰も気づかないのだから。
響子の眼に鋭い視線を送りつつ、「何もするな」とだけ告げる。それを見た彼女は小さく頷くと、やっと体の震えを止めた。
響子が落ち着いたのを見届けて、私は小さく溜息を吐いた。
やはり、彼女に見つかったのはまずかった。話の分かる村紗や気を遣ってくれる一輪だったら、こんなに気を揉む必要もなかったろうに。まあ、ぬえやご主人様に見つかるよりは大分いいか。
そんな事を考えつつ、私は再び茶碗に手をかけた。
昼食後、私は自分の部屋へと向かっていた。午前中にやりたいことは終えてしまったし、午後はゆっくり部屋で休もうと考えていたからだ。
服は帰ってすぐに着替えたし、団欒の場も乗り切った。午後を自室で過ごせば、もうこの不安でいっぱいの一日も終わりだ。響子が心配だが、彼女だって馬鹿じゃない、うまくやり過ごしてくれるだろう。
そんな事を考えつつ廊下を歩く私の心からは、既に不安が消えつつあった。山場を乗り切ったという感覚からか、この時の私は珍しく楽観的だったと思う。
その直後、一番話したくなかった人に声をかけられるまでは。
「ナズーリン、ちょっといいですか?」
もう少しで私の部屋というところで、急に声をかけられた。振り向いた先に見えたのは、どこかいつもと違う表情のご主人様。普段のふわふわした雰囲気とは違って、どこか怒っているような印象を受ける。
「なんだい、ご主人様?」
「どうして、響子ちゃんに冷たくするんですか?」
何を聞かれるのかと身構えていたところに、まったく予想外の方向からキラーパスが飛んできた。
どうして響子の話になるんだ。冷たくなんてした覚えはないが。
訳が分からず答えられずにいると、ご主人様は少し悲しそうな目をして続けた。
「私、見たんです。昼食の時、ナズーリンが響子ちゃんを睨むのを。どうしてあんなひどい事をするんですか? 響子ちゃんが何か悪い事をしたとでも言うんですか?」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 誤解だよご主人様、私は響子を睨んでなんかいない」
「なら、どうしてあんな眼をしたんですか? 響子ちゃん、怯えていたじゃないですか」
「あれはその……」
「……私に話せないような事が、あるのですか」
「違う! 違う、が……しかし……」
「……あなたを、見損ないました」
そう呟くように言い残し、踵を返すご主人様。去り際に見えた彼女の瞳は、幽かに潤んでいた。
咄嗟に声をかけようとしたが、何を言ったらいいのか分からなかった。適当に言いくるめるなんて最悪のやり方だし、かといって本当の事は彼女のためにも言えない。結局、本堂への廊下を戻っていくご主人様の背中を見つめることしか、私には出来なかった。
どうして、こうなってしまったんだろう。
自室に戻る気にもなれず、ふらりとやってきた僧房の縁側に腰掛けた私は小さく溜息を吐いた。
私はただ、ご主人様の事を思っていただけなのに。彼女を支える者として、失敗する姿を彼女に見せたくなかっただけなのに。
ご主人様の仕事、生活、その全てを支えるのが私の役目だ。その私が、彼女に情けない姿を見せるわけにはいかない。時に主を諫めなければならない従者として、失敗を露呈することは許されない。
もちろん、私の個人的なプライドが許さなかったというのも理由の一つではある。けれども、何より私は従者として、少なくともご主人様にだけは失敗を見せまいと思ったのだ。
しかしながら、その想いが結果としてご主人様を傷つけた。想定外の事とはいえ、私のせいでご主人様が嫌な思いをしたのは紛れもない事実なのだ。
やはり、本当の事を言うべきなのかもしれない。事実を隠して互いに嫌な思いをするくらいなら、全てを明らかにした方がいい。それで不都合があるならば、そこから二人で修正していけばいいのではないか。
心の中にそんな思いが湧き上がった直後、ふとどこからか妙な声が聞こえてきた。
『あー、あー、てすてす、ぎゃーてーぎゃーてー。 ……ナズーリン、聞こえてる? ちょっと相談したいことがあるので、本堂に来て。なるべく急いでね!』
頭の中に声が直接響いてくるような、妙な感覚に苛まれる。これは響子の能力で、何でも音の波長をうまく調節すると少し離れた場所にピンポイントで声を届けられるのだそうだ。内緒話等に打ってつけらしいが、あまり遠くへ飛ばしたり聞こえる音量を大きくしたりというのは無理なのだという。便利なのか不便なのかよく分からないが、こういう内密の話をしたい時にはとても重宝する能力だと言っていいだろう。
何にせよ、こうして呼ばれては行くしかあるまい。どうして縁側にいると気づいたのか等は会って聞けばいいし、待たせるのも悪い。そう考えて、私は立ち上がった。くるりと向きを変え、本堂へと向かう。
後にあんなにも響子に感謝することになるとは、この時は微塵も考えていなかった。
私が到着した時、本堂は静まり返っていた。
参拝者が入って来ないようにするためなのか、入口の戸は閉められているらしく中は少し暗い。まったく見えないというわけではないが、作業をここでするのはやめたほうがよさそうだ。
何故わざわざここにしたのだろうと思いつつも、脇から中に入って響子に声をかける。
「来たぞ、響子。しかし、なんだって本堂なんだ。薄暗い中で相談などしなくてもいいだろうに」
「いや、ここじゃないとダメだったんだよ」
「しかし、参拝者が困るだろう。それに、ご主人様の仕事だって……あっ」
そこまで言いかけて、やっと響子の意図を理解した。私に相談したい事があったのではない。彼女は、私とご主人様を会わせようとしたのだ。
どういう経緯か知らないが、響子は私とご主人様の関係がこじれたのを知り、私達のためにこの場を作ってくれたのだろう。となると、私の居場所を知っていたのはご主人様に聞いたからか。こういう時に私がどこへ行くかは、ご主人様なら知っているだろうから。
「気づきましたか。さあナズーリン、ちゃんと話してもらいますよ」
声のする方を見ると、静かに座しているご主人様の姿が見えた。微かに窺えるその表情は笑顔でこそないものの、先程の怒りや悲しみに染まってはいなかった。
それに安心していると、響子が真剣な声色で声を上げた。
「ナズーリン! あのね、私思ったの。ナズーリンは色々考えて隠そうとしたんだろうけど、やっぱり内緒にしておくのはよくないよ。ちゃんと星様に話して、仲直りしたほうがいいよ」
泣きそうな声でそう言う響子。きっと、本気で私達を心配してくれているのだろう。それをありがたいと思いつつも、若干煩く感じてしまうのは私の性分だから仕方ない。
とにかく、今は響子に甘えてしまおう。私としても今の状況は不本意だし、せっかく彼女が用意してくれたこの場を無碍にするのは悪い。
そんな事を考えつつ、私は口を開いた。
「ああ、そうだね。ではご主人様、隠していた事を話そう。実は……まあ、なんてことはない、ただ私が転んだというだけの話だ」
「……はい?」
「昼前に寺へ帰ってくる時、石段で足を滑らせてね。少しスカートを濡らしてしまったのさ。それを響子に見られてしまったから、彼女に口外しないよう言っていたんだよ」
「そうなんです、星様。そしたらお昼にぬえちゃんが慧音先生の転んだ話をしたから、私ドキドキしちゃって。星様が見たのは、それをナズーリンが注意するところだったんじゃないかと思います」
「もちろん、内緒にしていたのは訳がある。あなたを律する立場にある私が惨めな姿を見せるわけにはいかなかったんだ。たとえ嘘を吐いても、そんな姿は表に出せない。そう考えてしまっていたから、あなたに問い詰められても答えられなかった。まあ、結局は全て私が悪いというわけだね。すまなかった、ご主人様。響子も、巻き込んで悪かったな」
「いや、私は別に」
少し照れながらそう言う響子。ご主人様のほうはというと、口をポカンと開けたまま反応を示そうとしない。
もっと深刻な事を想像していたのかもしれないし、説明も少し早口だったから事態を呑み込み切れていないのかもしれない。どちらにせよ、悪い事をしたな。
そんな事を考えた瞬間、呟くようにご主人様が言った。
「怪我は、ないですか?」
またもや飛んできた、死角からのキラーパス。今回は身構えてすらいなかっただけに、尚更意味が分からない。しかし返事をしないのはまずいかと思い、とりあえず反応を示す。
「え? 怪我って、何の?」
「転んだ時のですよ! 擦り傷くらい、と思って油断するのはいけませんよ、ばい菌が入ったりしたら大変です!」
「いや、ただ尻餅をついただけだから怪我はしてないよ」
「そうですか。ああ、よかった……」
そう言うとご主人様はいつもの温かい微笑みを浮かべた。
どうしてそんな風に笑うんだろう。ご主人様にとっては、転んだ事を黙っていた事なんてどうでもいいのだろうか。
心に浮かんだそんな思いを、私はぶつけてみることにした。本当の事を話した後の展開はある程度予想していたが、まさかこんな反応をするとは思っていなかったのだ。
「なあご主人様、怒らないのか? どんな理由があれ、私はあなたに隠し事をした。今冷静になって考えてみれば、それは従者としてあるまじき行為のはずだ。なのに、どうしてあなたは私を責めないんだ?」
「何を言ってるんですか、あなたを責める理由なんてないでしょう」
「けれど、確かに私は」
「もちろん、隠し事をされたのは少しショックでしたよ。でも、それはあなたなりの考えがあっての事だった。なら、私はあなたを責めたりはしません。それに、私はナズーリンが無事で本当にうれしいんですよ」
ご主人様はそう言ってまた微笑んでみせる。
彼女にとっては、私が隠し事をした事などどうでもいい事らしい。それよりも彼女が気にかけたのは転んでしまった私自身の事であり、私が無事なら後は全て些細な事、と考えたようだ。
なんだか、色々と考えていた自分が馬鹿らしく思えてきた。ご主人様のためにと思い事態を重く考えていたが、どうやら私は肝心な所を見落としていたようだ。
寅丸星。私の大事なご主人様。彼女は、いつだって私を想ってくれる心優しい人だ。そんな彼女に転んだ事を話したらどうなるかなんて、深く考え込むような事じゃなかったんだ。
まず私を心配して、次に自分も気をつけなければと言う。初めから素直に話していれば、きっとそんな展開になっていたことだろう。余計な事を考えて響子を口止めした時点で、私の考え過ぎだった。結局、全て私のせいだという事は変わっていないか。
「すまなかった、ご主人様。私の余計な考えで、あなたに余計な心配をさせた。しなくてもいい嫌な思いをさせた。本当にすまなかった」
何を言おうか考えるよりも早く、自然と言葉が出た。けれど、ご主人様はそれを聞いても表情を変えようとはしない。寧ろ先程よりもにっこりと笑って、彼女は言う。
「気にしていませんよ。それより、気をつけてくださいね。ナズーリンに何かあったら、私困りますから」
「ああ、肝に銘じておくよ。しかし変な気分だな、ご主人様に忠告されるのは」
「ふふ、私だって偶には諭す側になったっていいでしょう」
「あのー、お取り込み中申し訳ありませんがそろそろ本堂を開けないとー」
今まで静かに事態を見守っていた響子が唐突にそう言ってくる。彼女の存在を忘れていたのだろうか、ご主人様は一瞬ビクッと体を震わせてから響子に返事をした。
「そ、そうですね。それでは戸を開けましょう」
「手伝うよ、ご主人様」
「私もお手伝いします!」
三人で戸を開けると、雲間から差す光が私達を迎えた。梅雨の晴れ間というやつだろうか、午前中よりも雲が少なくなっているような気がする。
「では、私達はこれで。行こう、ナズーリン」
「え? あ、ああ。それじゃご主人様、また」
「ええ。響子ちゃんも、ありがとうね」
微笑むご主人様にうれしそうに手を振る響子とともに、私は本堂を後にした。
「デレデレしすぎじゃない?」
廊下を歩きながら、響子がそう言ってくる。
デレデレしていたつもりはないが、ご主人様の気持ちがとてもうれしかったのは事実だ。もしかしたら、いつものポーカーフェイスが乱れてしまっていたかもしれない。
「そうか? 浮かれているつもりはないが」
「別に、私には関係ないけどさー」
そう言ってそっぽを向く響子はどこか不満そうだ。彼女はご主人様を慕っているから、私に焼き餅を焼いているのかもしれない。
拗ねた時のご主人様のように頬を膨らませる彼女を見て危うく吹き出しそうになったが、直後にある疑問が心に浮かんだ。
響子は何故私とご主人様を仲直りさせてくれたのだろう。
私は転んだ事が他言されるのを恐れ、響子を半ば脅すように説得した。昼食に注意した時だって、第三者であったご主人様から見れば睨んでいるように見えるほど鋭い目つきをしてしまった。
もしも私が響子の立場ならば、そんな高圧的な態度を取った相手の仲を取り持ってやろうなどとは考えないだろう。私とご主人様の関係に焼き餅を焼いているとすれば尚更だ。
けれど、彼女は違った。私が無理なく全てを話せる環境を作り、泣き出しそうになるくらいに私達を心配してくれた。どうして、彼女は私にここまでしてくれたのだろう。
「どうかしたの?」
響子の声に横を向くと、不思議そうに覗き込む彼女の顔が見えた。
幼さの残るその表情にますます困惑した私は、思わず言葉を発していた。
「なあ響子、どうして君は私を助けてくれたんだ?」
「え? うんと、そうだなあ……なんでだろ?」
本日三度目のキラーパス。もし私がサッカーを嗜んでいたら、これでハットトリック達成だろうか。まあ、こちらに来る前に少し見た程度だからルールさえも詳しくは知らないのだが。
頭の片隅でそんな戯言を吐きつつも、納得のいかない私は響子を問い詰めた。
「聞きたいのは、いや聞いているのはこっちだよ。じゃあなにか、君は特別な意図もなく私達に力を貸してくれたというのか」
「まあ、そうなるかな。だって、私はただ二人がギクシャクしてるのを見たくなかっただけだもん」
そう言って微笑む響子。その微笑みは一点の曇りもなく、太陽のように明るく温かい。
まるでご主人様のようなその笑顔を見た瞬間、全てを理解できたような気がした。
響子は、ご主人様に近い性格をしているらしい。彼女達は、自身の行動に見返りを一切求めないのだ。
何かを成さなければならない時、私はいつもその意義について考える。その行動で生じる利益と自身の負担とを比較し、明らかに負担が勝るような行動は差し控えるようにしている。もちろんご主人様についての行動ならば例外はあるが、それ以外で私がこの判断を欠かしたことはない。
けれども、ご主人様や響子はそうではない。あの二人は、自分が正しい、或いはやりたいと思った行動をまったく躊躇することなく実行できるのだ。
ギクシャクしているのが嫌だから、関係を修復させようと尽力する。それにかかる自身の労力も、焼き餅を焼いている自身の気持ちも、私から受けた仕打ちも何もかも考慮せずに、響子は自分の思いに従って行動したのだ。
寺に来た時から純真だとは思っていたが、まさかこれほどとは。こういうのはご主人様だけで十分だと思っていたが、そういう者にばかり救われるというのは不思議なものだな。
そんな事を思いつつ、私は苦笑いを浮かべた。それが気になったのだろうか、響子が少し不安そうに訊ねてくる。
「わ、私変な事言ったかな?」
「いいや、何も変じゃないさ。ご主人様と同じで、私の理解を超えているというだけだよ」
「星様と同じ? じゃあ、私も星様みたいになれるかな?」
「それは知らないが、理想は高い方がいいんじゃないか? ご主人様を超える、くらいに思っているといい」
あんなに手のかかる者を目標にするなと言いたかったが、目をキラキラと輝かせる響子の夢を叩き潰すようなことはできない。軽くオブラートに包んで伝えたつもりだが、響子には理解できないかもしれないな。そんな事を思いつつ、響子に向けて笑みを浮かべる。
しかし、今日は色々なことがあった。ふとしたきっかけでご主人様の想いを確認できたし、響子の純真さにも改めて気づかされた。“うっかり”というのも、存外馬鹿にできないものだな。
そんな事を考えていると、何かを思い出したのか響子が「あっ」と声を上げた。思わず彼女の方を見るのとほぼ同時に、響子が訊ねてくる。
「そういえばナズーリン、転んじゃった時何考えてたの?」
「……は?」
「ほら、なんだかうれしそうだったでしょ。いつもは冷静なナズーリンが転んじゃうくらいだから、よっぽど楽しい事考えてたんだろうなあと思って」
まったく邪気の感じられない笑顔でそう聞いてくる響子。普通そんな事をわざわざ聞きはしないと思うが、それを彼女に言っても無駄か。礼儀などは関係なく、彼女は自分が疑問に思ったことを素直に聞いているだけだ。それを納得させるには、こちらも包み隠さず話すより他にない。
しかし、困った。転んだ理由なんて、いくら理屈をつけても“アレ”しかない。けれど、それを言ってしまったらご主人様と同レベルだと宣言するのと同じではないか。
あんな事、私は絶対しないと思っていた。あんな過ちをするのは油断しているからだと考えていた。
けれど、実際私はその過ちを犯してしまった。どう言い逃れを続けたって、それが事実だ。
ならば、正直にそう言うしかないか。やれやれ、やっぱり“アレ”が運んでくるのは嫌な感情ばかりだよ。存外馬鹿にできない、などと感じた自分が情けないね、まったく。
一人そんな事を考えつつ、大きく溜息を吐く。それでどうにか覚悟を決めて、隣でこちらを不思議そうに眺める響子に言う。
「特別な事でもないさ。午前中に探索を終えられたのと、雨が上がっていたのとで気分が良かっただけだよ」
「そうなの? じゃあ、なんで転んだの?」
「誰にでもよくあることだよ。そう――
――“つい、うっかり”というやつはね」
「ふぅん、そうなんだ」
響子はそう言って不満そうにそっぽを向いた。
どんな反応をするのかと内心びくついていた私に返ってきた言葉は、「ふぅん、そうなんだ」の一言だけ。しかも、とても不満そうな表情のおまけつきだ。
きっと彼女は何か楽しい事を想像していたのだろう。まあ、ご主人様の“うっかり”を知らなければ、こんな反応が返ってくるのも当然か。結局、散々繰り返した私の考察もそれが元で生まれた不安も、何もかも無意味だったわけだ。ここまで空回りすると、もう笑いも出ないよ。
外を眺めると、既に空は晴れ渡りつつあった。普段なら気分の踊る光景だが、今はとてもそんな気分にはなれない。
恨めしげに空を見上げ、私は大きく溜息を吐いた。
やっぱり、“うっかり”なんて大嫌いだ。
最後の‘うっかり’の言葉にとてもスカッとしました。精一杯生きてりゃすっころびもするさ!
とても読み応えがあり面白かったです!
まじデジャブw
私のようなイケメンが転ぶと身体も痛いけど心が痛いですね。
いやあうっかりうっかり。
星のうっかり者だけどナズーリンのことにはちゃんと気付くという所が好きです。