「――形状安定剤と氷の追加!右腹部に徹底的に!」
「はい!」
「てゐ、包帯の予備、有りったけ持ってきて!」
「あいさ!」
「私も行くわ!」
「助かります姫様!ウドンゲ、患者の容体は!?」
「左腕部体温上昇中です!」
「すぐに安定剤入れなさい!――」
扉の向こうで、叫ぶほどの声が聞こえる。時折、誰かが出てきては、大丈夫ですから、と声をかけてくれる。
隣には、普段ならあの広い太陽の畑にいる幽香さんが、ギュッと私の掌を握ってくれていた。その彼女の顔も、不安と後悔からか、酷く青い。
私自身、もう随分と前から泣き続けていたはずなのだが、気付けば涙もとうに枯れていて、憔悴して開きっぱなしの唇は少し乾き、口の中がいがらっぽい。
でも、今の私には、何も感じ取れなかった。
扉の向こうの喧騒も、左手に感じる温もりも、喉の渇きも…自分の存在すらも。ふわふわと浮きあがった感覚が私を支配して、見えるもの、聞こえるもの、全部が、遠く感じられて。
夢なのか現実なのかの区別もつかない位、頭の中がぐちゃぐちゃになっていて。
「チルノちゃん…」
ただただ、消え入りそうな細い声で、扉の向こうにいる親友の名を、呼ぶ事しかできなかった。
『Cold Sleeping Beauty』
…始まりがどれ位前の事だったのか、最早覚えてはいない。
あの日。『サイキョー』を目指すんだ、強くなるんだ、とチルノちゃんが意気込んで向かった先は、かの大妖怪、風見幽香さんの所だった。
当然、私は反対した。やめようよ。どんな危険な目に遭うか分からないよ、と。
強大な力を持ち、力の弱い妖精や妖怪を虐げる事が好きな妖怪である、と何処かの書物に書かれていたからだ。
ただただ、怖かった。
自分の身の安全もそうだし、何よりチルノちゃんに何かあったら…と思えてしまって。何も知らぬ者を見るほど、怖いものはないだろう。
でも、そう思う私の予想とは裏腹に、チルノちゃんの威勢のいい声に呼ばれて現れた彼女は、とても優しかった。
初めこそ、そのお願いに、困惑した様な、複雑な表情をしていたが、チルノちゃんの意志を汲んでくれたのか、とてもにこやかに、いいわよ、と笑ってくれた。
貴女が強くなる為に、私も一緒に手伝ってあげましょうと、優しく笑ってくれて、初めにあった不安は、綺麗さっぱり無くなっていた。
少し危ないからと、幽香さんが用意してくれた木製の椅子に私は腰掛け、その先で、チルノちゃんと幽香さんによる、スペルカードルールによる対決が始まった。
対決、といっても、チルノちゃんが繰り出す弾幕の応酬やスペルカードを幽香さんがひたすらに受け、時には反撃し、時にはこうすべきだ、とアドバイスを送る。言ってしまえば、特訓にも近かった。それをチルノちゃんが理解しているのかはともかく。
…いや、きっと彼女は、それを理解していなかった。幽香さんの意図なんて、きっと。
そしてそれは、幽香さんも、私にとっても同じ事が言えて。自分の攻撃が悉く避けられ、あまつさえアドバイスまで貰う事が、チルノちゃんにとってどれほど悔しい事なのか、私達は分かっていなかったのだ。
だから、油断していたのだ。
「…くっそぉぉぉぉッ!!」
太陽の畑全体に響き渡りそうな叫び声をあげて、チルノちゃんが弾幕を生成する。でもそれは、今まで見てきたどんな攻撃よりも、弾幕の濃度も規模も桁違いだった。
それは、確実にスペルカードルールの許容範囲を超えるものであった。避ける所も無いほどに。
大量の氷の弾幕が展開され、ぶるり、と身体が震える。でもそれは、冷気に充てられたものじゃなくて。
恐怖を覚えるほどのチルノちゃんの気迫に、寒気を覚えたからだった。
多分、それは幽香さんも同じだったのだろう。余裕の笑みを浮かべていた表情が凍りつき、焦りに変わるのが、まざまざと見て取れた。
そして、次の瞬間、私が目にしたものは――
「…あ…っ」
――幽香さんの掌から放たれた強大なレーザーと、それに弾幕ごと吹き飛ばされる、チルノちゃんの姿だった。
――――――――――――――――――――――――
ガチャリ、と扉が開く音に、あの出来事を思い返していた私の意識が現実に戻された。
ハッとして、俯いていた顔を扉の方に向けると、永遠亭の薬師――八意永琳先生が、私達の前に立っていた。
もう何時間も休まずに治療を続けていたからだろう、その顔には、少しばかり疲れが見えた。
「…出来得る事は、全てやらせて頂いたわ」
出来得る事は。
その言葉に、言い様のない不安が募る。
「…チルノちゃんは…どうなったんですか」
「命に別状は無いわ。妖精用の形状安定剤も投与して、やれる事は全てやった。…後は、あの子次第よ」
生きている。その事実に、身体の緊張が一気に抜けた気がした。
一先ずはよかったと、安堵した。
それは幽香さんも同じだった様で、緊張を解すかの様な深い深い溜息を吐いた後、ギリッと自分の唇を噛んだ。
「ごめんなさい…私が油断してなければ…いや、あの子の実力を、もっとよく分かってれば…」
「幽香さん…幽香さんは悪くないです!私がもっとしっかりしてれば…」
「いや、私は…」
「はい、そこまで。今回の件に関してはどちらも悪くない。今はそれより、あの子の事を案じてあげる事の方が重要でしょう?」
「…はい」
先生に諭され、私も幽香さんも静かに頷く。
そうだ。こんな事を言っていたって、チルノちゃんが目を覚ます訳じゃない。
自分が悪い。いや自分が。そんな事を言い合う事は、不安を煽る事にしかならないんだから。
「…ただ一つ、悪いお知らせがあるわ」
「え」
一応の安堵感に包まれていた空気が、また凍るのが感じられた。
「…あの子――チルノちゃんが、妖怪に近い存在になっているのは知ってるかしら?」
こくりと頷く。
少し前、六十年周期の結界異変が起きた時、何処かの偉い人にそう言われたと、チルノちゃんが言っていた。
妖精としてはあまりにも力を持ち過ぎたチルノちゃんは、妖精という概念、その枠を超えた存在になりつつある、と。
そして同時にそれは、消滅する事=自然に還る事というである定義が、崩れ去っている事を示していた。
即ち、チルノちゃんにとっての消滅は、妖精にとっては有り得ない、“死”を意味するものであると。
「あの子の存在定義は今、かなり不明確になっているわ。妖精なのか、或いは妖怪なのか、その境界があやふやになっている。…ただ、今の状態であっても、消滅してしまったら再び戻れるかどうかは微妙な所だわ」
「そんな…だってさっきは生きてるって…っ!」
「落ち着いて。今すぐにあの子が消滅してしまう事は無いわ。それは私が保証する。…問題は、あの子が意識を取り戻すかどうか」
「…どういう事、かしら?」
震えた声で、幽香さんが尋ねる。
「妖怪は、人間と違って肉体的に大幅に頑丈に出来ているわ。もし、それなりに力のある妖怪が、風見さん、貴女の攻撃をまとも受けて同じ様になったとしても、早くて数時間…長くても数日で意識が戻るでしょう」
「…それが何を示すの?あの子が妖怪に近しい存在になっているというのなら、それ位で目を覚ますのではないの?」
「…いいえ。確かにチルノちゃんは、妖怪ともとれる存在ではあるわ。けれど、その本質は、やはり妖怪よりも力の劣る妖精なの。…もし、普通の妖精が風見さんの攻撃を受けたとしたら、どうなると思う?」
「それは…」
紛れも無く消滅し、自然に還るだろう。
そして再び、自然から生まれ出でる。妖精としてはある意味で当然の摂理だ。
そこで、漸く私は気が付いた。先生が、何を言いたいのかを。
「もしかして…」
「…そう。妖怪に近しい身体であったが故に、あの子は消滅せずに此処にいる。けれども、あの子の中に本来内包する妖精としての側面は、それ程の負荷に耐えられなかった…そう考えられる」
「じゃあ…」
「…このままずっと、あの子が意識を取り戻さない可能性も、ゼロでは無い」
ずるりと。
身体の力が抜けていって。
気付いたら、幽香さんに身体を支えられていて。
何かを語りかける幽香さんの声は、また聞こえなくなって。
とうに枯れたはずの涙が、またぽろぽろと。
頬を伝っていく感触だけが、生々しく感じられた。
………
……
…
あれから一週間が経った。
今日も、私は永遠亭に足を運んでいる。勿論目的は、チルノちゃんの見舞いだ。
意識が戻らない事以外はそれなりに安定し、今は診療所内に置かれたベッドの上で、チルノちゃんは眠り続けている。
私はこうして毎日永遠亭を訪れては、チルノちゃんの様子を見に行っている。昼前に此処に来て、目を閉じたままの彼女を看病し、ただただ眺め続け、日が落ちる半刻くらい前に、湖へと戻る。此処一週間、私はそんな生活をずっと続けていた。
時々、幽香さんも此処に訪れて一緒にチルノちゃんを見守る事もある。不安げな顔をしている私を更に不安にさせまいと、あの人は笑顔を取り繕って、何度も優しく語り掛けてくれる。
「…大丈夫かしら?少し、休んだらどう?」
「…大丈夫、です。だって、私がしっかりしなきゃ…いけないから」
嘘だ。
本当は全然大丈夫じゃない。
チルノちゃんが目を覚まさない事に、焦りと、不安と、哀しみが混ざり合う。怖くて怖くて、堪らない。
考えた事も無かった。目の前にいる親友が、いなくなる事を。当たり前の存在が、当たり前ではなくなってしまう事を。
そう思うと、また、涙が溢れてきて。
また、幽香さんに優しく抱きしめられていた。
………
……
…
刻々と、日は重なっていく。
一日、三日、一週間…チルノちゃんは、目を覚まさない。
正直な所、私の心も、限界が近かった。大丈夫、大丈夫と唱えていた精神も摩耗し、先生や鈴仙さん達に逆に心配される始末だった。
それでもどうにかやっていけているのは、チルノちゃんが目を覚ますかもしれないという、ほんの小さな希望が、まだあったから。
縋るものがあるから、私はまだ折れずにやっていけた。
諦めなければ、まだ奇跡は起きるのだと。
そんなある日の事。
「…あ、お花の水、換えなきゃ…」
チルノちゃんの近くにある棚の上に置かれていた花瓶に手を伸ばす。幽香さんが此処に来る度に置いていってくれる花達だ。
自然から生まれた私達妖精は、同じく自然の象徴である花を特に好む。私も、その清々しい香りに、擦り切れた心を何度も癒してもらっていた。
一度部屋を出て、此処に暮らす兎さんの一人に話し掛け、花瓶の水を取り換える。水を取り換えてあげた花達は、また一段と生き生きとした様に見えた。
そうして改めて、花瓶に挿された花達を眺める。今は色取り取りの薔薇の花が、目にも鮮やかに咲き誇っている。その茎には、本来ならば美しい花弁とは対照的な鋭い茨が無数に付いているものなのだが、見舞い用にと幽香さんが気を遣ってくれたのだろう、それらは全て切り落とされていた。
…茨、か。そういえば…。
ふと、私はある事を思い出して、早足で部屋へと戻る。そして、花瓶を置いてある棚の中から、一冊の本を取り出した。
綺麗なお姫様が描かれた、一冊の絵本。その題名は『眠れる森の美女』。原題を『茨姫』とする、随分昔のお伽話だ。
かなり前、チルノちゃんと一緒にこの本を偶然見つけて、二人で一緒になって読んだ事があるのだ。
本当に子供が読む様な、そんな可愛らしい絵とストーリーに、私もチルノちゃんもこの本を痛く気に入り、それ以来、時々一緒に読めるようにと、私の手元に大切に保管していた。今こうして此処にあるのは、いつかチルノちゃんが目を覚ました時に、また一緒に読めたらと思い、持ち込んだからだ。
ページを捲る。ほんの少しだけ色褪せていたが、読めないほどではない。私は、眠り続けるチルノちゃんに、母が眠れぬ子に語りかける様に、絵本を読み聞かせ始めた。
――――――――――――――――――――――――
むかし、むかし。
あるところに、こどもにめぐまれない、おうさまとおきさきさまがいました。
あるひ、ふたりのあいだにようやくおんなのこがうまれ、くにじゅうの12にんのまほうつかいをよんで、パーティーをひらきました。
まほうつかいたちはひとりひとり、おひめさまにしゅくふくのまほうをかけてあげます。
しかし、パーティーによばれなかったことをおこった13にんめのまほうつかいが、11にんめのしゅくふくのあとに、『おひめさまはいとつむぎのはりがささってしぬ』というのろいをかけてしまいました。
それにきづいた12にんめのまほうつかいが、『おひめさまははりがささってもねむってしまうだけ』とのろいのないようをかえましたが、のろいをとくことはできませんでした。
おひめさまがしんぱいになったおうさまは、くにじゅうのはずみぐるまをもやしてしまいました。
そんなしんぱいをよそに、おひめさまはすくすくとそだっていきます。
しかし、15さいとなったあるひ、おひめさまはおしろにくらすおばあさんがつかっていた、いとつむぎのはりでゆびをさしてしまい、ねむりにおちてしまいました。
そののろいはおしろをつつみこみ、おしろはいばらにおおわれて、だれもはいれなくなってしまいました。
うつくしいおひめさまのはなしをきいたひとびとは、どうにかおしろにはいろうとしましたが、おしろをおおういばらによって、だれひとり、おしろにはいることはできませんでした。
それから100ねんがたち、とあるくにのおうじさまが、おひめさまのうわさをきいて、おしろへとやってきました。
いばらのもりをぬけてたどりついたさきには、100ねんまえとかわらないすがたでねむるおひめさまがいました。
そのすがたにこころうたれたおうじさまが、おひめさまにキスをすると、ねむりつづけていたおひめさまは、めをさましたのです。
ふたりはすぐにけっこんし、しあわせにくらしましたとさ。
――――――――――――――――――――――――
「…おしまい」
ぱたんと、静かに本を閉じる。何度読んでも変わらない、その結末。ハッピーエンドに終わる、物語。
いつもなら、ここで二人であれこれ語り合うはずなのに、今はただ、静かな時だけが、刻々と流れていた。
「…ねぇ、チルノちゃん」
ぽつり、ぽつりと、私は眠り続けるチルノちゃんに語りかける。
「最初にこの本を読んだ時、チルノちゃん、言ってくれたよね」
あれは、初めてこの本を読んだ時。感動に浸る私に、チルノちゃんが言ってくれた言葉が、脳裏に思い出される。
――――――――――――――――――――――――
『――あたい、決めた!』
『――何を?』
『もし大ちゃんが同じ風になっちゃったら、あたいが起こしてあげる!!』
『え、えぇっ!?』
『だって大ちゃんはあたいの大切な友達だもん!だから…』
――――――――――――――――――――――――
「『あたいが王子様になって、眠りから覚ましてあげる』って」
本当に、子供っぽい、ささやかな約束。でも、私にとってそれは、本当に本当に嬉しい言葉だった。なのに…。
なのに今、眠りから覚めないのは、チルノちゃんの方で。
「…これじゃ…これじゃ立場が逆だよ…」
もう何度流したかも分からない涙が、また溢れる。
枯れたと思っても尽きる事は無く、自然を流れる川の様に、止め処なく零れた。
「お願い…目を覚ましてよ…」
ゆっくりと、チルノちゃんの元に寄る。
「王子様が眠ってちゃ、誰がお姫様を起こしてくれるの…?」
左手をチルノちゃんの頬に、右手を胸の辺りに添えて、顔を覗き込む。目元から零れた涙が、チルノちゃんの頬に落ちて流れる。
「私の…王子様…」
目を閉じて、顔を少しずつ寄せていく。鼓動が速まっている気もするが、気にしてなんて、いられなかった。
今はただ、縋りたかっただけ。
この絵本の様な…そう、お伽話の様な奇跡に、縋りたかっただけ。
だから…。
「ん…」
願いを込めて、唇を重ねる。
目を覚まして、と。もう一度、私の前で笑って、と。
王子様を愛するお姫様は、哀しみを乗せて、キスをした。
氷の妖精であるチルノちゃんの唇は、ひんやりと冷たくて、けれど、とても柔らかくて、温かく感じた。
彼女は生きているのだと、実感出来る温もり。
それが、唇を通じて感じられる。
その心地良さと、一抹の寂しさから、私はずっと離れる事が出来なかった。
チルノちゃんの唇を。その感触を、離したくなくて。
その時だった。
「…!」
右手に、何かが触れる感覚がした。ハッとして、私は慌てて身体を起こし、そちらを見やった。
その右手には、チルノちゃんの右手が、優しく添えられていた。
「…約束、したもんね」
「ぇ…」
声がした。
二週間ほどのはずなのに、もう何年、何十年と聞いていない様な、懐かしい声が。
氷の様に透き通った、可愛らしい声が。
その声に、もう一度チルノちゃんの方を振り向くと。
「…王子様になって…起こしてあげるって…約束したから」
うすらと開かれた蒼い瞳が、私の姿を捉えていて。
さっきまで触れ合っていた唇には、薄く笑みが宿っていた。
「…でもこれじゃ…あたいが、お姫様みたいだね…」
にひひと、チルノちゃんが笑う。まだ少し覇気が無いけれど、それはいつもの、明るい笑顔で。
その笑顔のまま、右手に添えられた手が、ゆっくりと握り締められて。
「…おはよう、大ちゃん」
「…うん」
二人で、信じ続けた奇跡を噛み締め合った。
「はい!」
「てゐ、包帯の予備、有りったけ持ってきて!」
「あいさ!」
「私も行くわ!」
「助かります姫様!ウドンゲ、患者の容体は!?」
「左腕部体温上昇中です!」
「すぐに安定剤入れなさい!――」
扉の向こうで、叫ぶほどの声が聞こえる。時折、誰かが出てきては、大丈夫ですから、と声をかけてくれる。
隣には、普段ならあの広い太陽の畑にいる幽香さんが、ギュッと私の掌を握ってくれていた。その彼女の顔も、不安と後悔からか、酷く青い。
私自身、もう随分と前から泣き続けていたはずなのだが、気付けば涙もとうに枯れていて、憔悴して開きっぱなしの唇は少し乾き、口の中がいがらっぽい。
でも、今の私には、何も感じ取れなかった。
扉の向こうの喧騒も、左手に感じる温もりも、喉の渇きも…自分の存在すらも。ふわふわと浮きあがった感覚が私を支配して、見えるもの、聞こえるもの、全部が、遠く感じられて。
夢なのか現実なのかの区別もつかない位、頭の中がぐちゃぐちゃになっていて。
「チルノちゃん…」
ただただ、消え入りそうな細い声で、扉の向こうにいる親友の名を、呼ぶ事しかできなかった。
『Cold Sleeping Beauty』
…始まりがどれ位前の事だったのか、最早覚えてはいない。
あの日。『サイキョー』を目指すんだ、強くなるんだ、とチルノちゃんが意気込んで向かった先は、かの大妖怪、風見幽香さんの所だった。
当然、私は反対した。やめようよ。どんな危険な目に遭うか分からないよ、と。
強大な力を持ち、力の弱い妖精や妖怪を虐げる事が好きな妖怪である、と何処かの書物に書かれていたからだ。
ただただ、怖かった。
自分の身の安全もそうだし、何よりチルノちゃんに何かあったら…と思えてしまって。何も知らぬ者を見るほど、怖いものはないだろう。
でも、そう思う私の予想とは裏腹に、チルノちゃんの威勢のいい声に呼ばれて現れた彼女は、とても優しかった。
初めこそ、そのお願いに、困惑した様な、複雑な表情をしていたが、チルノちゃんの意志を汲んでくれたのか、とてもにこやかに、いいわよ、と笑ってくれた。
貴女が強くなる為に、私も一緒に手伝ってあげましょうと、優しく笑ってくれて、初めにあった不安は、綺麗さっぱり無くなっていた。
少し危ないからと、幽香さんが用意してくれた木製の椅子に私は腰掛け、その先で、チルノちゃんと幽香さんによる、スペルカードルールによる対決が始まった。
対決、といっても、チルノちゃんが繰り出す弾幕の応酬やスペルカードを幽香さんがひたすらに受け、時には反撃し、時にはこうすべきだ、とアドバイスを送る。言ってしまえば、特訓にも近かった。それをチルノちゃんが理解しているのかはともかく。
…いや、きっと彼女は、それを理解していなかった。幽香さんの意図なんて、きっと。
そしてそれは、幽香さんも、私にとっても同じ事が言えて。自分の攻撃が悉く避けられ、あまつさえアドバイスまで貰う事が、チルノちゃんにとってどれほど悔しい事なのか、私達は分かっていなかったのだ。
だから、油断していたのだ。
「…くっそぉぉぉぉッ!!」
太陽の畑全体に響き渡りそうな叫び声をあげて、チルノちゃんが弾幕を生成する。でもそれは、今まで見てきたどんな攻撃よりも、弾幕の濃度も規模も桁違いだった。
それは、確実にスペルカードルールの許容範囲を超えるものであった。避ける所も無いほどに。
大量の氷の弾幕が展開され、ぶるり、と身体が震える。でもそれは、冷気に充てられたものじゃなくて。
恐怖を覚えるほどのチルノちゃんの気迫に、寒気を覚えたからだった。
多分、それは幽香さんも同じだったのだろう。余裕の笑みを浮かべていた表情が凍りつき、焦りに変わるのが、まざまざと見て取れた。
そして、次の瞬間、私が目にしたものは――
「…あ…っ」
――幽香さんの掌から放たれた強大なレーザーと、それに弾幕ごと吹き飛ばされる、チルノちゃんの姿だった。
――――――――――――――――――――――――
ガチャリ、と扉が開く音に、あの出来事を思い返していた私の意識が現実に戻された。
ハッとして、俯いていた顔を扉の方に向けると、永遠亭の薬師――八意永琳先生が、私達の前に立っていた。
もう何時間も休まずに治療を続けていたからだろう、その顔には、少しばかり疲れが見えた。
「…出来得る事は、全てやらせて頂いたわ」
出来得る事は。
その言葉に、言い様のない不安が募る。
「…チルノちゃんは…どうなったんですか」
「命に別状は無いわ。妖精用の形状安定剤も投与して、やれる事は全てやった。…後は、あの子次第よ」
生きている。その事実に、身体の緊張が一気に抜けた気がした。
一先ずはよかったと、安堵した。
それは幽香さんも同じだった様で、緊張を解すかの様な深い深い溜息を吐いた後、ギリッと自分の唇を噛んだ。
「ごめんなさい…私が油断してなければ…いや、あの子の実力を、もっとよく分かってれば…」
「幽香さん…幽香さんは悪くないです!私がもっとしっかりしてれば…」
「いや、私は…」
「はい、そこまで。今回の件に関してはどちらも悪くない。今はそれより、あの子の事を案じてあげる事の方が重要でしょう?」
「…はい」
先生に諭され、私も幽香さんも静かに頷く。
そうだ。こんな事を言っていたって、チルノちゃんが目を覚ます訳じゃない。
自分が悪い。いや自分が。そんな事を言い合う事は、不安を煽る事にしかならないんだから。
「…ただ一つ、悪いお知らせがあるわ」
「え」
一応の安堵感に包まれていた空気が、また凍るのが感じられた。
「…あの子――チルノちゃんが、妖怪に近い存在になっているのは知ってるかしら?」
こくりと頷く。
少し前、六十年周期の結界異変が起きた時、何処かの偉い人にそう言われたと、チルノちゃんが言っていた。
妖精としてはあまりにも力を持ち過ぎたチルノちゃんは、妖精という概念、その枠を超えた存在になりつつある、と。
そして同時にそれは、消滅する事=自然に還る事というである定義が、崩れ去っている事を示していた。
即ち、チルノちゃんにとっての消滅は、妖精にとっては有り得ない、“死”を意味するものであると。
「あの子の存在定義は今、かなり不明確になっているわ。妖精なのか、或いは妖怪なのか、その境界があやふやになっている。…ただ、今の状態であっても、消滅してしまったら再び戻れるかどうかは微妙な所だわ」
「そんな…だってさっきは生きてるって…っ!」
「落ち着いて。今すぐにあの子が消滅してしまう事は無いわ。それは私が保証する。…問題は、あの子が意識を取り戻すかどうか」
「…どういう事、かしら?」
震えた声で、幽香さんが尋ねる。
「妖怪は、人間と違って肉体的に大幅に頑丈に出来ているわ。もし、それなりに力のある妖怪が、風見さん、貴女の攻撃をまとも受けて同じ様になったとしても、早くて数時間…長くても数日で意識が戻るでしょう」
「…それが何を示すの?あの子が妖怪に近しい存在になっているというのなら、それ位で目を覚ますのではないの?」
「…いいえ。確かにチルノちゃんは、妖怪ともとれる存在ではあるわ。けれど、その本質は、やはり妖怪よりも力の劣る妖精なの。…もし、普通の妖精が風見さんの攻撃を受けたとしたら、どうなると思う?」
「それは…」
紛れも無く消滅し、自然に還るだろう。
そして再び、自然から生まれ出でる。妖精としてはある意味で当然の摂理だ。
そこで、漸く私は気が付いた。先生が、何を言いたいのかを。
「もしかして…」
「…そう。妖怪に近しい身体であったが故に、あの子は消滅せずに此処にいる。けれども、あの子の中に本来内包する妖精としての側面は、それ程の負荷に耐えられなかった…そう考えられる」
「じゃあ…」
「…このままずっと、あの子が意識を取り戻さない可能性も、ゼロでは無い」
ずるりと。
身体の力が抜けていって。
気付いたら、幽香さんに身体を支えられていて。
何かを語りかける幽香さんの声は、また聞こえなくなって。
とうに枯れたはずの涙が、またぽろぽろと。
頬を伝っていく感触だけが、生々しく感じられた。
………
……
…
あれから一週間が経った。
今日も、私は永遠亭に足を運んでいる。勿論目的は、チルノちゃんの見舞いだ。
意識が戻らない事以外はそれなりに安定し、今は診療所内に置かれたベッドの上で、チルノちゃんは眠り続けている。
私はこうして毎日永遠亭を訪れては、チルノちゃんの様子を見に行っている。昼前に此処に来て、目を閉じたままの彼女を看病し、ただただ眺め続け、日が落ちる半刻くらい前に、湖へと戻る。此処一週間、私はそんな生活をずっと続けていた。
時々、幽香さんも此処に訪れて一緒にチルノちゃんを見守る事もある。不安げな顔をしている私を更に不安にさせまいと、あの人は笑顔を取り繕って、何度も優しく語り掛けてくれる。
「…大丈夫かしら?少し、休んだらどう?」
「…大丈夫、です。だって、私がしっかりしなきゃ…いけないから」
嘘だ。
本当は全然大丈夫じゃない。
チルノちゃんが目を覚まさない事に、焦りと、不安と、哀しみが混ざり合う。怖くて怖くて、堪らない。
考えた事も無かった。目の前にいる親友が、いなくなる事を。当たり前の存在が、当たり前ではなくなってしまう事を。
そう思うと、また、涙が溢れてきて。
また、幽香さんに優しく抱きしめられていた。
………
……
…
刻々と、日は重なっていく。
一日、三日、一週間…チルノちゃんは、目を覚まさない。
正直な所、私の心も、限界が近かった。大丈夫、大丈夫と唱えていた精神も摩耗し、先生や鈴仙さん達に逆に心配される始末だった。
それでもどうにかやっていけているのは、チルノちゃんが目を覚ますかもしれないという、ほんの小さな希望が、まだあったから。
縋るものがあるから、私はまだ折れずにやっていけた。
諦めなければ、まだ奇跡は起きるのだと。
そんなある日の事。
「…あ、お花の水、換えなきゃ…」
チルノちゃんの近くにある棚の上に置かれていた花瓶に手を伸ばす。幽香さんが此処に来る度に置いていってくれる花達だ。
自然から生まれた私達妖精は、同じく自然の象徴である花を特に好む。私も、その清々しい香りに、擦り切れた心を何度も癒してもらっていた。
一度部屋を出て、此処に暮らす兎さんの一人に話し掛け、花瓶の水を取り換える。水を取り換えてあげた花達は、また一段と生き生きとした様に見えた。
そうして改めて、花瓶に挿された花達を眺める。今は色取り取りの薔薇の花が、目にも鮮やかに咲き誇っている。その茎には、本来ならば美しい花弁とは対照的な鋭い茨が無数に付いているものなのだが、見舞い用にと幽香さんが気を遣ってくれたのだろう、それらは全て切り落とされていた。
…茨、か。そういえば…。
ふと、私はある事を思い出して、早足で部屋へと戻る。そして、花瓶を置いてある棚の中から、一冊の本を取り出した。
綺麗なお姫様が描かれた、一冊の絵本。その題名は『眠れる森の美女』。原題を『茨姫』とする、随分昔のお伽話だ。
かなり前、チルノちゃんと一緒にこの本を偶然見つけて、二人で一緒になって読んだ事があるのだ。
本当に子供が読む様な、そんな可愛らしい絵とストーリーに、私もチルノちゃんもこの本を痛く気に入り、それ以来、時々一緒に読めるようにと、私の手元に大切に保管していた。今こうして此処にあるのは、いつかチルノちゃんが目を覚ました時に、また一緒に読めたらと思い、持ち込んだからだ。
ページを捲る。ほんの少しだけ色褪せていたが、読めないほどではない。私は、眠り続けるチルノちゃんに、母が眠れぬ子に語りかける様に、絵本を読み聞かせ始めた。
――――――――――――――――――――――――
むかし、むかし。
あるところに、こどもにめぐまれない、おうさまとおきさきさまがいました。
あるひ、ふたりのあいだにようやくおんなのこがうまれ、くにじゅうの12にんのまほうつかいをよんで、パーティーをひらきました。
まほうつかいたちはひとりひとり、おひめさまにしゅくふくのまほうをかけてあげます。
しかし、パーティーによばれなかったことをおこった13にんめのまほうつかいが、11にんめのしゅくふくのあとに、『おひめさまはいとつむぎのはりがささってしぬ』というのろいをかけてしまいました。
それにきづいた12にんめのまほうつかいが、『おひめさまははりがささってもねむってしまうだけ』とのろいのないようをかえましたが、のろいをとくことはできませんでした。
おひめさまがしんぱいになったおうさまは、くにじゅうのはずみぐるまをもやしてしまいました。
そんなしんぱいをよそに、おひめさまはすくすくとそだっていきます。
しかし、15さいとなったあるひ、おひめさまはおしろにくらすおばあさんがつかっていた、いとつむぎのはりでゆびをさしてしまい、ねむりにおちてしまいました。
そののろいはおしろをつつみこみ、おしろはいばらにおおわれて、だれもはいれなくなってしまいました。
うつくしいおひめさまのはなしをきいたひとびとは、どうにかおしろにはいろうとしましたが、おしろをおおういばらによって、だれひとり、おしろにはいることはできませんでした。
それから100ねんがたち、とあるくにのおうじさまが、おひめさまのうわさをきいて、おしろへとやってきました。
いばらのもりをぬけてたどりついたさきには、100ねんまえとかわらないすがたでねむるおひめさまがいました。
そのすがたにこころうたれたおうじさまが、おひめさまにキスをすると、ねむりつづけていたおひめさまは、めをさましたのです。
ふたりはすぐにけっこんし、しあわせにくらしましたとさ。
――――――――――――――――――――――――
「…おしまい」
ぱたんと、静かに本を閉じる。何度読んでも変わらない、その結末。ハッピーエンドに終わる、物語。
いつもなら、ここで二人であれこれ語り合うはずなのに、今はただ、静かな時だけが、刻々と流れていた。
「…ねぇ、チルノちゃん」
ぽつり、ぽつりと、私は眠り続けるチルノちゃんに語りかける。
「最初にこの本を読んだ時、チルノちゃん、言ってくれたよね」
あれは、初めてこの本を読んだ時。感動に浸る私に、チルノちゃんが言ってくれた言葉が、脳裏に思い出される。
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『――あたい、決めた!』
『――何を?』
『もし大ちゃんが同じ風になっちゃったら、あたいが起こしてあげる!!』
『え、えぇっ!?』
『だって大ちゃんはあたいの大切な友達だもん!だから…』
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「『あたいが王子様になって、眠りから覚ましてあげる』って」
本当に、子供っぽい、ささやかな約束。でも、私にとってそれは、本当に本当に嬉しい言葉だった。なのに…。
なのに今、眠りから覚めないのは、チルノちゃんの方で。
「…これじゃ…これじゃ立場が逆だよ…」
もう何度流したかも分からない涙が、また溢れる。
枯れたと思っても尽きる事は無く、自然を流れる川の様に、止め処なく零れた。
「お願い…目を覚ましてよ…」
ゆっくりと、チルノちゃんの元に寄る。
「王子様が眠ってちゃ、誰がお姫様を起こしてくれるの…?」
左手をチルノちゃんの頬に、右手を胸の辺りに添えて、顔を覗き込む。目元から零れた涙が、チルノちゃんの頬に落ちて流れる。
「私の…王子様…」
目を閉じて、顔を少しずつ寄せていく。鼓動が速まっている気もするが、気にしてなんて、いられなかった。
今はただ、縋りたかっただけ。
この絵本の様な…そう、お伽話の様な奇跡に、縋りたかっただけ。
だから…。
「ん…」
願いを込めて、唇を重ねる。
目を覚まして、と。もう一度、私の前で笑って、と。
王子様を愛するお姫様は、哀しみを乗せて、キスをした。
氷の妖精であるチルノちゃんの唇は、ひんやりと冷たくて、けれど、とても柔らかくて、温かく感じた。
彼女は生きているのだと、実感出来る温もり。
それが、唇を通じて感じられる。
その心地良さと、一抹の寂しさから、私はずっと離れる事が出来なかった。
チルノちゃんの唇を。その感触を、離したくなくて。
その時だった。
「…!」
右手に、何かが触れる感覚がした。ハッとして、私は慌てて身体を起こし、そちらを見やった。
その右手には、チルノちゃんの右手が、優しく添えられていた。
「…約束、したもんね」
「ぇ…」
声がした。
二週間ほどのはずなのに、もう何年、何十年と聞いていない様な、懐かしい声が。
氷の様に透き通った、可愛らしい声が。
その声に、もう一度チルノちゃんの方を振り向くと。
「…王子様になって…起こしてあげるって…約束したから」
うすらと開かれた蒼い瞳が、私の姿を捉えていて。
さっきまで触れ合っていた唇には、薄く笑みが宿っていた。
「…でもこれじゃ…あたいが、お姫様みたいだね…」
にひひと、チルノちゃんが笑う。まだ少し覇気が無いけれど、それはいつもの、明るい笑顔で。
その笑顔のまま、右手に添えられた手が、ゆっくりと握り締められて。
「…おはよう、大ちゃん」
「…うん」
二人で、信じ続けた奇跡を噛み締め合った。
いつかチルノが強くなって、本当に大ちゃんの王子様になれる日が来たらいいね。