「ったく、毎度毎度暑苦しい弾幕だぜ……」
顎まで滴る汗をぐいっと袖で拭い、魔理沙は呟いた。
普段ならば楽しげに歪められている口元は半開きとなり、もはや体内の熱気を放出するだけの器官となっている。
しかしその瞳は引き絞られ、真っ直ぐに目前で浮かぶ灼熱の大玉を見据えていた。
大玉が、火炎を豪勢に帯びた弾幕が吐き出す。
箒の頭を大きく振り、それをいつになく大袈裟な動作で避ける。本来の霧雨魔理沙ならば着弾寸前に回避行動を起こすのだが、今回は少々事情が違った。弾が纏う炎すらも完全に避けきらなければ、乙女の柔肌が火傷を負うかもしれなかった。
「あーあ、本当に暑い……」
次々に放たれる弾幕を上下左右にゆらりゆらりと動きながらかわす。
そんな彼女の行動を弱腰と受け取ったのか、大玉の中から黒い翼を広げた人影が声を上げた。
「どうしたの魔理沙! まさか避けてるだけで、この人工太陽が堕ちるとでも思ってるの!?」
霊烏路空。旧地獄跡を仕事場とする、地獄鴉である。
その身に宿した太陽の化身、八咫烏の力を使って究極のエネルギーを自在に操る、さとりのペットだ。
さらに過激さを増す彼女の弾幕を避けながら、魔理沙は同意するように頷いた。
「まったくだな。さっさとこの暑さからも解放されたいし、そろそろ攻めるぜ!」
言うやいなや、懐から八卦炉を颯爽と抜き放った。
瞬間、灼熱の大玉が一回り大きくなった。錯覚ではない。実際に、風船の如く膨らんだのだ。
これの意味するところを、魔理沙は正確に察していた。
「ようやくその気になったのね! だったら私も手加減しないよ!」
「手を抜いて勝てると思われてたとは心外だな。この私が、火力勝負で負けるわけにはいかないんだよ!」
先ほどの二倍、いや三倍にまで密度を増した空の弾幕をすれすれのところで回避する。
もはや熱いだの何だの言ってられない。自らもレーザーや星弾を撒き散らしながら、箒にさらなる魔力を叩き込む。
相棒は魔理沙の要求に応え、その速度を彼女が望む段階まで引き上げる。
一歩間違えればすぐさま被弾という速さを保ちながら高熱を帯びた弾幕の間をすり抜け、時にこの身に当たるであろう弾をレーザーで破壊し、一気に空へ肉薄する。
博麗霊夢ですら回避に専念するしかない、という弾幕下において、魔理沙はついに空の元へ辿り着いた。
人工太陽と正面から対峙することで体中から急速に水分が飛んでいく。
汗も噴き出る傍から蒸発する、そんな状況で、魔理沙は微笑みながら八卦炉を空へと向けた。
しかし空もそれを予期していたかのように、満面の笑みで、魔理沙を迎え入れるように両手を大きく広げる。
「恋符……!」
「核熱……!」
光が収束する。周囲に黒点を内包した熱球体がいくつも浮かぶ。
――そして同時に、叫んだ。
「『マスタースパーク』!」
「『人工太陽の黒点』!」
カッと眩い閃光が灼熱地獄跡を照らし、天地がひっくり返りそうなほどの轟音が、地底全体に響いた。
「さとり様さとり様! 勝ったよ、私勝ったよ!」
地霊殿。
そこの執務室にて書類の整理をしていた主、古明地さとりに、空は力強く抱きついた。
さとりはそれを鷹揚に受け止め、彼女の健闘を称えるように、その頭を優しく撫でる。
そして空の背後にいた魔理沙にちらりと視線を向け、言った。
「そう、頑張ったのねお空。……魔理沙さんもお疲れ様でした」
「いやまあ、疲れたけどさ」
労いの言葉を貰い、魔理沙は疲れ切ったように溜め息をついた。
その手には水を湛えたコップを握っている。それを時折呷って、失われた水分を補給していた。
魔理沙の格好はボロボロだった。お気に入りの服は所々焼け焦げ、その隙間から健康的な素肌が見え隠れている。帽子も凄まじい熱風にあおられたことで大部分が変色していた。
空も同様の姿であったが、やはりそこは人間と妖怪の差か、彼女は多少汚れた程度であった。
「私ね、魔理沙の凄いレーザーに耐えて勝ったんだよ! さとり様!」
「あらそう。あれを……」
さとりが真偽を問うように魔理沙を一瞥する。
しかし魔理沙はにやりと口端を吊り上げ、ひとつ肩をすくめるだけだった。
その仕草を肯定と受け取った空はますます喜色を露わにして歓声を上げる。
さとりは心を読む第三の眼で魔理沙の心を見通し、その時のことを正確に把握していた。
勝負はどちらかといえば、引き分けに終わっていた。
あのとき――同時にスペルカードを発動していた魔理沙と空だが、まず被弾したのは空だった。
核熱『人工太陽の黒点』は、空の周囲をいくつもの赤い熱球体が回って攻撃する、円を描くスペルカードである。
対して恋符『マスタースパーク』は、標的へ一直線に伸びる極太レーザーだ。
曲線と直線。言うまでもなく、直線に進む恋符の方が先に当たった。
空は恋符をまともに食らい、為すすべなく後方へと派手に吹き飛ばされてしまった。
この時点では魔理沙の勝利だっただろう。しかし彼女の予測に反して、空のスペルカードはすぐに消えることはなかった。
ちょうど二つの熱球体は魔理沙を挟み込むようにして移動していた。それは発動者である空が吹き飛ばされたところで変わることはなく、魔理沙はそれらともろに衝突してしまったのだ。
如何な魔理沙とて恋符を撃つときは回避行動を取れない。その隙を、空は幸運にも突いたのだ。
結果、軽度の脱水症状でもあった魔理沙はその衝撃で気絶し、真っ赤に煮え滾る溶岩へと真っ逆さまに落ちていった。
あわや死亡か、というところですぐに体勢を立て直した空が魔理沙を助け、二人の弾幕ごっこは終了した。
弾幕ごっこという区切りでは魔理沙の勝利、しかし魔理沙は空に命を助けられた。
空は後者の事実から自らの勝利を宣言した。魔理沙はそれに反論せず、黙って彼女を祝福した。
ほんの少しだけ敗北したことを悔しがったが……だからといって歓喜する空に水を差す気分にはなれなかった。
なので魔理沙は、ゆっくり水を飲みながら体を椅子へ預けるに留まっている。
「……なんか疲れちゃいました。少しお昼寝してきます!」
「お空、その前にお風呂……行っちゃったか。まああとで入れればいいかしら」
一戦終えてもまだまだ元気一杯に走り去る空に、さとりが苦笑する。
そして自分と対面するように椅子に座っている魔理沙へ、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい、魔理沙さん」
「……謝られるようなことをされた覚えがないんだが」
「その、髪です。せっかく綺麗な髪だったのに……少し焦げてます」
ああ、と魔理沙は頷きながら自分の髪を持ち上げて見た。
さとりの指摘通りだった。癖の強いブロンドがあちこち火で炙られたように焦げている。
鏡がないので全体は把握できないが、少なくとも脇の髪はそのような感じだった。
そこを結わえていたリボンも焼け落ち、もはや役割を全うできないほどになっている。
最後に放たれたスペルが原因だったが、魔理沙は特段気にした様子も見せず、小さく肩をすくめた。
「別に構わないぜ。すぐに伸びてくるだろうし、リボンは家に何本も置いてあるしな」
「……そんな言葉、私が信じるとでも?」
一転、さとりの纏う雰囲気が刺々しいものへと変化した。
三つの瞳が魔理沙を見据え、自分に嘘は通じないと明確に伝えてくる。
魔理沙はしばし瞑想するように目を閉じて……やがて、頷いた。
「ああ、正直ショックだ。髪は女の命ともいうしあのリボンはお気に入りだったからな」
「最初から素直に言ってくださいよ。情けない話ですが、私には謝罪することしかできませんけれど」
そう言って、さとりが再び頭を下げる。
魔理沙は呆れたように息を吐き、さとりの顔を上げさせた。
「分かってるんだろ? 謝ってもらいたいわけじゃないって。それで元通りになるわけじゃないんだから」
「それはそうですけど……だからといって、何もしないのも――」
不意に、さとりが考え込むように口ごもった。
何事かを思案するような仕草に、魔理沙は心の中で不安に思った。
責任感の強いさとりのことだ。もしかしたら詫びのしるしに裸踊りでもしようと考えているのだろうか。
するとさとりは可愛らしく首をかしげ、唐突に聞いてきた。
「見たいですか?」
「えっ、何を?」
「だから、私の裸踊り。魔理沙さんが望むならそれくらいは……」
「いやいやいや、いいってそんなの! 単なる冗談だから!」
「ですよね。本気で言ってるのでしたら、灼熱地獄跡の溶岩に放り込むつもりでした」
よかった、とさとりがにっこり笑う。
魔理沙は乾いた笑い声を洩らしながら、背筋に冷たい汗が流れたのを感じ取っていた。
実際にそうしたかは分からないが、彼女はそうするつもりだったことが窺える。
しかし魔理沙の動揺など気にも留めず、さとりは至極真面目に言った。
「私にも出来ることがありました。その髪、切らせてもらえませんか?」
「――え? 切るって、その、散髪ってことか?」
「もちろん。ああでも、少し整えるだけですから。それにそんな格好で出歩けないでしょう」
さとりが魔理沙の全身を軽く見回し、つられたように魔理沙も見やる。
たしかにそうだった。服はボロボロ、髪は焦げていて、まさしく満身創痍という格好。
うら若き乙女としては外出を控えなくてはならないだろう。
しかしこれと同じ服なら何着か地霊殿に置いてある。それで充分ではないだろうか。
それに髪が焦げるのは実験の失敗などでざらにあることだ。知り合いに発見されたとしても問題はない。
けれどさとりは首を横に振り、説得するように言葉を続けた。
「代えの服はそれでいいかもしれませんが、それでは私の気が晴れないんです。わざわざ暇を持て余したペットの相手をしてもらって、しかも大事な髪を台無しにしてしまった。ですから、この提案は魔理沙さんのためではなく私のため、と思ってもらえたらいいです」
「う~ん。そう言われると断りにくいなぁ」
「でしょう! では、これから準備に入ります。魔理沙さんはここでお待ちください!」
そう告げると、さとりは立ち上がって足早に部屋を立ち去ってしまった。
魔理沙はぽかんとしながらそれを見送る。その迅速な行動は、おそらくこれ以上ごねられるのを避けるためか。
押し切られた形だが、よく考えればそこまで拒否するようなものでもない。
水を一口含み、どっかりと椅子の背もたれに体重を預けて、呟いた。
「……ま、いっか」
さとりは十五分ほどで戻ってきた。
その手には柔らかそうな薄手の布、霧吹き、大きめの櫛、そして銀色に光るハサミがあった。
地上から流れてきた一品らしい。よくこれで長くなったペットの毛を切るとのこと。
さとりは四方に空間を作った椅子に魔理沙を座らせる。そして素早くその首に、人ひとりが包めそうなほどの大布の端と端を結わえ、あっという間に魔理沙は照る照る坊主のような姿になった。
その間に人型のペットが大鏡を壁に立てかけ、ちょうど魔理沙とさとりが映りこむように配置する。
さらに邪魔になりそうな机や椅子などを手早く片付けると、ぺこりとお辞儀をしてすぐに退室してしまった。
シンと静まる執務室。
部屋にいるのは椅子に固定された魔理沙と、嬉しそうにハサミを手にしたさとりのみ。
外からの音も閉め出され、完全に二人だけの世界となっている。
魔理沙は自然と早くなる鼓動に耳を傾けながら、ぼんやりと鏡の中のさとりを眺めていた。
さとりは試すようにカチャカチャとハサミを開閉した後、すぐにそれを脇の小机の上に置いた。
次に取ったのは霧吹きと櫛だ。
楽しそうに鼻歌を歌いながら、さとりが魔理沙の髪へ丁寧に水を吹きかける。
途中、半端に露出した耳にも吹きかかり、その冷たさに小さく呻いた。
「んっ……」
「ごめんなさいね、少し我慢してください」
謝る言葉に気負いは感じられない。どうやら相当手馴れているらしい。
まんべんなく水を被った髪に櫛が差し込まれる。癖の強い金髪を掻き分けながら、ゆっくりと引き下ろされた。
一房一房手に取られ、優しく丁寧に梳かれる。自分でやるよりも心地よかった。
これなら安心だろうと思った魔理沙は目を閉じ、頭部に広がる刺激を余すことなく味わう。
櫛の先端部分が頭皮に突き刺さり、滑るように下へ降りていく。
痛くも痒くもならない。まるで一流のマッサージを受けているかのようだ。
「そう思ってもらえると嬉しいです。ペットたちの毛づくろいや散髪は昔から得意でしたから」
「道理で慣れてるのかぁ。うん、気持ちいい」
「ふふっ、それほど気に入ったのならこれからもしてあげましょうか?」
「それは魅惑の提案だな。知恵の実を食べたアダムとイブの気持ちが分かるぜ」
「私は蛇じゃありませんから騙しはしませんよ」
などと話している間にも、さとりの手を一度も止まることなく続けられる。
やがて全体が梳き終わった。名残惜しむ間もないまま、ようやく本番に入ることを察した。
さとりがカシャカシャとハサミで音を立てながら、愉快げに聞いてくる。
「さて、魔理沙さん。ご要望の髪型はありますか?」
「んー……特にないけど、あんまり短すぎるのは勘弁願いたい」
「ふむ。では、先月人里で一緒にお茶をした妖夢さんよりかは長く?」
「そうだな、あれよりも……ってなんでそのこと知ってんだ」
「さとり妖怪を舐めてもらっては困ります。私が髪形について問いかけたときには、すでに魔理沙さんの頭の中で知り合いの顔が浮かんでいるのですよ。そこから読み取ってますので、具体的でいいでしょう?」
「……まあ、な。それじゃ妖夢よりも長く」
「それでは三週間ほど前の日曜日に良質な紅茶とクッキーをご馳走してくれたアリスさんよりも長く?」
「……長く。アレは私の好みじゃない」
「では、先週図書館でばったり会って個性と粘液溢れるケーキを食べさせようとしてきた咲夜さんよりも長く?」
「あれはケーキじゃなくて兵器だ。でなきゃレミリアが泡吹いて倒れるはずがない。もうちょっと長く」
「ならば隠されていた煎餅を食べられて怒髪天を突くほど怒り狂った霊夢さんよりも長く?」
「死ぬかと思ったな。たかだか煎餅の二十枚や三十枚で……いや、あれよりかは短くだな」
そう言うと、さとりは魔理沙の髪に触れておおよその長さを測り始めた。
魔理沙もそれを視認しながら、ふと『そこらへんだな』と思った。
大体肩よりも少し下、けれど背中には届かないところ。そこが魔理沙の理想の長さだった。
すると心を読んだらしいさとりは首肯し、最後の確認とばかりに言った。
「では、後ろ髪はこの辺りまで、髪型は今現在を少し短くした程度。これでよろしいですか?」
さとりが指で肩甲骨付近を横になぞる。
その不意打ちともいうべき刺激にぴくりと背中を震わせ、しかしそれを隠すようにコクコクと頷いた。
「あ、ああ。それで頼む」
「了解しました。ではお任せください」
朗らかに微笑んださとりが髪を一房持ち上げて、ハサミを滑り込ませ――
シャキリ、と軽やかな音を立てた。
いつしか魔理沙は目を瞑り、軽快に奏でられる散髪の音色に耳を傾けていた。
パラパラと切られた髪が布を滑っていく感触が伝わる。
本当は鏡を見ながら随時確認するべきなのだろうが、とてもそうする気にはなれなかった。
一番大きいのは、やはり信頼だった。さとりならば悪いようにはしない、そんな確信があった。
無根拠な話ではない。今までずっと一緒にいた、その果てに得た心境である。
食べ物の好みや考え方、その他諸々は相当に違う。でも傍にいて居心地がいい。波長が合うとはこのことか。
たぶん彼女が整えた髪形も自分の想像とは少し違うのだろうが、それでもきっと気に入る。
本当に確信はないのだ。ただ、そう思った。
「そこまで信頼されるのは嬉しいですけど、やはり自分でも確認してくれませんか?」
「おおう、また読まれてたのか。だけどまあ、そうかな。ちょっと見てみたい」
「分かりました、ちょっと待ってて下さい。……はい、どうぞ」
顔、特に目の付近を柔らかな布のようなもので拭われる。
チクチクとした感覚がなくなっていたので、おそらく顔面に付いた髪の毛を取ってくれたのだろう。
細かな気遣いに感謝しつつ、魔理沙はそっと眼を開けた。
――鏡の中に、驚く少女の姿があった。
「おお……」
「ど、どうですか? 今のところ大きくは変えずに焦げた部分を取り除いて少しカットしただけなんですが」
「いや、いいなぁこれ。まさしく私の望み通りじゃないか」
さとりの散髪は完璧だった。
空の弾幕によって焼き焦げた髪は綺麗に切られ、それに合わせて全体のボリュームが違和感なく減っている。
あえて言うならば……左右の釣り合いが少し取れていないように思える。
左の脇髪を少し長めにしてリボンで結んでいたのだが、そちらが燃えてしまったのだ。
それを直すためにこのようにしたのだろうが……どうも違和感を覚える。
「でもそちらは焦げた部分を切ったら結構少なくなってしまったんですよ。後ろから持ってくることも可能ですが、それよりかはいっそリボンで結ぶのを無事な方でやったほうがいいかと思いまして。一応、まだ修正は効きますが」
「なるほど……たしかにちと少なすぎだなぁ。まあこだわりというより習慣みたいなものだし、しばらくは右を結ぶか。じゃあこのままお願いするぜ」
「分かりました。あとは微調整だけですので、目を閉じていて構いませんよ」
その言葉に甘えて、魔理沙は再び目を閉じた。
シャキリシャキリという静かな音が、寡黙な室内に響いていく。
油断するとすぐに意識が刈り取られそうなほどの眠気が、ゆっくりと歩み寄ってくる。
それを反射的に拒否しながらゆったりとした時間を感じていると。
不意に、魔理沙の首にほっそりとした腕が巻きつき、温かな何かが頭頂に触れた。
何事かと瞼を開く。すると鏡には、魔理沙の首に腕を回し、その髪に顔を埋めるさとりの姿があった。
突然のことに驚き、魔理沙は身動きもとれずに慌てて聞いた。
「さ、さとり? どうしたんだ?」
「…………なんだろう」
「え?」
「……魔理沙さんの髪、いい匂いがします。ふんわりして柔らかな熱を内包した、そんな匂いが……」
「な、なんだろう。シャンプーは普通のやつだし、香水とかは付けてないけど」
「ああ、懐かしい……。これは、太陽の薫りかしら」
呟くさとりの声が、どこか震えているようだった。
もしかしたら泣いているのだろうか。心配して声をかけようとしたとき。
さとりの顔が離れ、また淡い微笑が鏡に映りこんでいた。
「……ごめんなさい、すぐに終わらせますね」
「あ、ああ……」
そう言って散髪を再開したさとりが素早く目元を拭ったのを、魔理沙は見逃さなかった。
「おいこら、お空! 暴れるな!」
「いや~! 髪洗うの嫌い! こんなの水浴びればおわりじゃない!」
「んなこたぁない。きちんとやらないと頭にカビが生えるぞ」
「本当に!?」
「当然。特にお前は風呂嫌いだからそろそろ生えてきてもおかしくはない。そんなの嫌だろ?」
「うにゅぅ……分かった、早くね」
「よし分かった」
魔理沙は、地霊殿の浴場にいた。
床は全面磨きかかった大理石で敷き詰められており、その中央には何十人も湯に浸かれそうな浴槽が鎮座している。
硫黄の匂いが強く香っている。霧雨邸も温泉を引いているが、ここはそれとは比べ物にならないほどの規模だ。
そこで魔理沙は、先ほど起こした空を連れて、風呂に入りに来ていた。
弾幕ごっこの後ということもあって少し汗っぽかったし、何より髪を切った後はチクチクするので入れるならば入りたかったのだ。そのついでに風呂嫌いの空も入れてほしい、というさとりの要望に従って彼女と一緒に来ているのである。
ようやく大人しく背中を向けた空の髪を、わしわしと力強く洗う。というより、力を込めなければいつまで経ってもおわりそうにないほどの髪の量だった。
腰まで伸びた髪。一束手に取り、泡に塗れたそれをまじまじと観察する。
「お前の髪、長くて綺麗だよな。しかも艶があるし。なにか手入れはしてるのか?」
「う~ん、私は別に。ああそういえば、お燐とかさとり様がよく変なにおいのするものべったり付けてくるなぁ。なんかすごく油っぽくて嫌いなんだけど、無理やり付けさせられるの」
「香油かな? まあたしかに、こんなに見事なものなら弄りたくなるのも分かるぜ」
魔理沙も短髪よりかは長髪の方が好きだった。
やはり自分も女の子なのだ。長く美しい髪には憧れを抱いており、一時は何とか背中まで伸ばしたこともある。
ただまあ、手入れが面倒なので肩辺りで妥協するようになったのだが。
小さな木製の椅子に座って背を向ける空の頭を、しっかりと洗う。
どうやら彼女は水が苦手なのもあるが、何よりも『洗う』行為そのものに興味がないようだ。
他人にされるのは嫌いではないけれど自分でやるのは面倒ということだろう。
現に、シャンプーや石鹸を洗い流す時以外は気持ちが落ち着いており、洗髪の快楽に甘受していた。
やがて髪にへばりついた泡をすっかり流し終わった。
魔理沙は空の髪を捻りながら一本に纏め、彼女にそのまま渡した。空は黙って受け取る。
「さとりから聞いてるぞ。髪だけじゃなくて背中も自分じゃ洗えないんだってな」
「……いいじゃない。洗わなくたって死なないんだから」
まさしく子供の言い分に、魔理沙がたまらず苦笑いする。
それはそうだ。髪や体を洗わなかったところで死亡することはありえない。不潔による発病を除けば、だが。
妖怪がそれに罹るかは知らないが、ともあれ空の言に耳を貸す気もない。
「そう言うな。あいつだって綺麗なペットから抱きつかれた方が嬉しいだろ」
「……もしかして今まで、さとり様迷惑してたのかな」
「そりゃないだろ。そういう奴にも分け隔てなく接するのがさとりの美点だよ、っと」
スポンジに石鹸をまぶして泡立て、空の背中に触れさせた。
背中のちょうど真ん中辺りで円を描くようにスポンジを動かし、泡を塗りこむように広げていく。
無言だった。それは頭の中で、幾度となく繰り返される映像が原因だった。
胸がむかむかしてくる。その違和感を吐き出すように、魔理沙は空に問いかけた。
「なあ、お空。ちょっと聞いていいか?」
「うにゅ? うん、なにかな」
「さとりなんだが……もしかして、あいつは地上には行きたいのかな」
魔理沙の脳裏には、先ほどのさとりの姿が明瞭に浮かんでいた。
さとりが魔理沙の髪に顔を埋め、何か深い感情に身を震わせている。
彼女は『太陽の薫り』と呟いて涙を零した。それはつまり、地上に何かしらの想いがあるのでは。
そう考え、さらに言葉を募らせようと口を開いた、そのときだった。
「それはないね。だってさとり様はさとり妖怪なんだし」
と、空が至極あっさりと言った。
魔理沙はわずかに瞠目する。すると彼女は振り向き、どこか儚げに微笑んだ。
「だってそうでしょ。さとり様は心を読む。だから忌み嫌われて地上を追われた。追われた先の地底でも忌み嫌われている。つまり、居場所は地霊殿だけなんだよ。あの方はここで完結してる。外が猛吹雪だっていうのに外に出る馬鹿はいないよ。一応私が出かけるときに誘ってるけど、一度だって頷いたことはないわ」
「……そうかもしれないけどさ。でもそれって寂しいんじゃないか?」
「そのために私がいる。お燐がいる。みんながいる。言ったでしょ? さとり様はここで『完結』してるって。満たされてるんだよ。地上にも外にも興味はない。寂しいのは、むしろ魔理沙の方じゃないかな」
彼女の言葉に、驚きを禁じえなかった。
空はもう少し頭が残念で子供らしい感情が目立つ妖怪だと思っていたのだが、それは単なる一面だったらしい。
そしてその推測は――正鵠を射ていた。
「……かもな。さとりがもしも地上に行きたいと思ってくれたなら、たぶん私は嬉しい。もちろん永住とかじゃなくて遊びに来てくれるだけでも……」
「だけどそのきっかけがないから出来ない。理由がないから断られるのは目に見えてる」
「だよなぁ。まあ、私は地霊殿に好きで来てるんだからいいけどな」
溜め息をついてスポンジをゆっくりと背骨をなぞるように下ろしていく。
そう、好きでここにいるんだ。ただ――自分の故郷が嫌われているのが、すこし残念なだけで。
すると空は、あっけらかんと言った。
「いいんじゃない? 断られたってまた誘えば。それで壊れるような関係じゃないでしょ」
「……そうかな。そんな関係かな、私とさとりは」
「自信持ちなって、魔理沙! この究極のエネルギーを内包した、この私と対峙したときみたいにさ。私が保証するから、魔理沙は私の次に強い奴なんだって!」
「――ふっ、お前は……私に負け越してるだろーが!」
スポンジを手放し、つるりとした肌に手を這わせて……思いっきり、空の脇腹をくすぐった。
爪を立てて皮膚の表面を軽く引っかくように。すると予想通りに、空は脇を占めて身を捩った。
「あは、あはははは! ちょ、そこは弱いから! 魔理沙、駄目だって!」
「生意気な鴉め、私のゴッドハンドで身悶えるがいいわ!」
「ははははは、ひははー! こ、降参! 降参するから、それ、やめてー!」
「……ふん、サンキューな。お空」
聞こえないように呟き、魔理沙は指の動きを止める。
空はひどく息を荒げ、がっくりと体を床に横たえてしまった。
魔理沙はスポンジに石鹸を継ぎ足しながら空に声をかける。
「おい、再開するぜ。いいかげん起きろ」
「はひー、はひー、はひー……う、うにゅぅ」
よろよろと身を起こし、再び椅子の上に座る空。振り返ったとき、彼女は少し涙目だった。
じっとりとした視線を無視して、魔理沙は彼女の背中をごしごしと擦る。
そして温めに調節したお湯を静かに背中へとかけて泡を流し、空の背中を洗い終わった。
さて次は自分の身体か、と思って空に背を向けると。
「あれ、前は洗ってくれないの?」
「洗わないぜ。それくらい自分でやれ」
「ええー、さとり様とかお燐はやってくれるのに~」
「なんて過保護な奴らだ……。ああもう仕方ないな、ほらこっち向け」
溜め息をつきながら魔理沙が再び振り向いてスポンジを準備する。
はーい、と空が元気な声を上げ、くるりと魔理沙と向かい合うように姿勢を変えた。
空の身体を真正面から見た魔理沙の眉間に、たちまち深い皺が刻まれる。
喉からせりあがってくる非難の声を何とか呑みこみ、口を一文字に引き締めて椅子を前へと寄せた。
「…………」
魔理沙は手を伸ばし、無言でスポンジを肌に当てた。
まずは首からだ。背丈に反してほっそりとした首を、優しく丹念に擦った。
なるべく痛みの出ないように。胸に渦巻く激情を表に出さないように。
それから右肩、左肩と移って鎖骨をなぞる。くすぐったいのか気持ちいいのか、空が深い息を吐く。
彼女の反応を無視してその腕を取り、内側外側と絞るように洗いこみ、もう片方の腕もおわらせる。
そしていよいよ、そこを洗うことになった。
魔理沙は厳しい表情を保ったまま手を止めて――知らずそこをじっと見つめていた。
その態度に不安を覚えたのか、空が恐る恐る声をかけてくる。
「えと、魔理沙? なんだか顔が怖いけど……どうかした?」
「……いや、神様は不公平だなと思ってな」
空の、存在感が半端ない女性の象徴に、ぎりっと歯を軋ませる。
そして自分のものと見比べ、少々、いやかなり落ち込む魔理沙であった。
しかしいつまでもこうしているわけにはいかない。
今度また山を登って神様たちをぶちのめそうと固く決意をして、洗うのを再開した。
空の肌はきめ細かく、そのためか肌に泡が吸い付いているかのようだ。
スポンジで擦っているのだが、時折押してみると、柔らかな反発によってその感触が返ってくる。
だというのに余分な脂肪が存在しない。実際、腹の肉を軽くつまんでみても、これは皮かというものしかつまめないのだ。
大人のくびれがくっきりと現れていて、女性らしいなだらかな曲線が理想のラインを描いている。
乳房は少し指に力を込めただけでふんわりともぐりこみ、離すとその弾力ですぐさま形が元に戻るほどだ。
あまりに不遇な自らの体を見比べ、頭のどこかでぶちりと何かが切れた音がしたが、目の前で心地良さそうに目を閉じる空に怒りをぶつけるわけにもいかないと自重する。
魔理沙は気晴らしになればと、努めて冷静な口調で空に話しかけた。
「な、なあお空。お前って普段何食べてるんだ?」
「ん~……別に特別なものは、何も。あえて言うなら美味しいものだけ食べてるよ。温泉卵とか」
「……それなのかなぁ。こいつがこんなにでかい理由は」
「魔理沙、もしかして……」
空が、にやりと猛獣めいた笑みを浮かべる。
そして自分の乳房を持ち上げて、たちまち険しい表情になる魔理沙を余所に、言葉を続けた。
「おっぱいが小さいこと、気にしてるんだ?」
「うるせー! 女なんだから気になるんだよ! ふん、いずれ私だって……」
「そうかな? 小さい人はいつまでも小さいと思うよ。生まれ持った素質の問題だよ」
「違う! 努力は、努力は必ず報われるんだ! 待ってろよ、温泉卵を食い尽くしてお前よりもビッグになってやる!」
そう吠える魔理沙に、空は馬鹿にするように冷笑を向ける。
「それは関係ないよ。温泉卵でどうにかなる問題じゃないし」
「うぐぐ……」
「じゃあもっと言ってあげるけど、私は基本的にさとり様やお燐と同じものを食べてるの。分かる?」
魔理沙の脳が今までにない以上に回転し、すぐさま空の言いたいことを理解した。
深い絶望を伴った声が、重苦しく零れる。
「さとりと同じものを食べている。そしてさとりは……貧乳だ」
「そう、ひんにゅう。食事はなんの関係もないってことだね」
「くそぉ……さとりのやつ、私の希望を木端微塵に砕きやがって。あの貧乳め!」
「あはははは! そうよ、さとり様ってばひんにゅうだもの!」
椅子から立ち上がって高笑いする空の前で、魔理沙は膝をついて床に拳をたたきつけた。
かたや勝利を誇る地獄鴉。かたや生まれ持った素質を憎み悲しむ魔法使い。
そんな少女らがいる熱気の篭る風呂場は、この一言によって、地獄コキュートスもかくやというほどに凍りついた。
「――誰が、貧乳ですって?」
冷え冷えとした突風の如き殺気が、魔理沙と空を襲った。
がちがちがちがち。火照っていた体が瞬時に冷却され、歯が勝手に踊りだす。
目を見開いたまま動けない二人に、地霊殿の主である古明地さとりが、ゆったりとした足取りで歩み寄る。
がちがちがちがち。怖いもの見たさというものか、あるいは引き寄せられたか。
魔理沙と空の目が小刻みに振動しながら、そちらに向けられる。
修羅が、立っていた。
「二人の服を持ってくるついでに背中でも流してあげようと思ったら……素敵な会話ね」
「あ、あはははは~……。面目ない」
「いやこれはその、さとり様……ぜ、全部魔理沙が悪いんです!」
「こら、お空! お前なに人のせいにしてんだ!」
「だって私、ひんにゅうなんて言わなかったもん! 魔理沙だけだもん!」
「嘘つけぇ! お前だって貧乳貧乳連呼してたじゃないか! 絶対にお前の方が貧乳って言ってたぜ!」
「貴女たち……」
「ひんにゅうなんて言葉、知らないし! だから私は悪くないんです、さとり様!」
「嘘をつくと閻魔に舌を引っこ抜かれるぜ! なあ、さとり!」
「いいかげんに、しなさーい!」
二人して大理石の上に正座させられ、小一時間ほど説教を受けた。
「あー……温泉に浸かったのに、余計疲れが増した気がする」
タオルで乱暴に髪の水分を払い除けながら、魔理沙はぼやいた。
独り言に近いものだったが、それを聞き届けたらしい人物が、鋭い声音で糾弾してくる。
「元々魔理沙さんたちが原因じゃないですか。人の身体的特徴を揶揄するなんて人としてどうかしてます」
「だから悪かったって。……結局お空の発育の良さは何故なんだぜ」
謝罪しながら声がした方向をちらりと見る。
いまだむくれるさとりが、行儀よく座っている空の髪を丁寧にタオルで拭いていた。
ちなみにさとりはすでに服を着ている。魔理沙たちと湯船に浸かりながらも説教を続けていたさとりだが、そろそろ上がろうという前に彼女一人でさっさと更衣室へ行ってしまったのだ。
それはさとりがまだ怒っているからだと思っていたのだが、どうやら体を拭きたがらない空を自分が拭くために早く上がったらしい。たしかに濡れた体のまま空を拭こうとしたら、さとりが風邪を引いていただろう。
空は先ほどまで叱られていたことをすっかり忘れた様子で、さとりの手を気持ち良さそうに受け入れている。
その手際は素晴らしく早く、あっという間に残すは髪のみとなっていた。
さとりが唇を尖らせながら答える。
「やっぱり個人差ですよ。食べ物で劇的に変わるものでもなく、また種族で決められるものでもありません。むしろその全員が巨乳なんて種族がいるなら、地霊殿の総力をもって滅ぼします。世界の敵です」
「怖いこと言うなよ……。でもさとりも、やっぱ気になるんだな。女の子だもんな」
「胸なんて飾りです! 魔理沙さんには分かりませんか!?」
「……まあいいや。私は将来に希望があるし」
「私にはないって言いたいんですか!? 数百年生きてる私はすでにこれが最大だと!?」
「そうじゃないって。さとりの胸も可愛くていいじゃないか。ほら、にゅ」
「具体的なイメージを思い浮かべながら褒めるのはやめて! ……まあ、可愛いって言われると嬉しいですけど」
さとりは照れたように顔を背け、また空の髪を拭き始める。
ちなみに空も服を着ている。魔理沙が髪に手間取っている間に、さとりがぱぱっとやったのだ。
その早業に驚いた魔理沙は呆然と立ち尽くし、自分のくしゃみでようやく我に返ったほどである。
髪はこれでいいかと思い、魔理沙もさっと体を拭いて小さな籠を手に取った。
いつもの黒白服が入っている。さとりが用意してくれたものだ。
念のため、地霊殿に着替えを数着持ってきておいたのが功を奏した形となった。
「?」
しかしその上に、見覚えのないものが置かれていた。
魔理沙はそれを持ち上げ、しげしげと眺める。
そして合点がいったように大きく頷き、さとりに視線を向けた。
さとりは空の髪に小瓶から取り出した液体を塗布している。たぶんあれが彼女の言っていた香油だろう。
ふっと笑い、魔理沙もさっさと着替えを始める。
終了して振り返った頃には、さとりも香油を空の長い黒髪に馴染ませ終わっていた。
油っぽくて嫌いだと公言していた空は若干渋い顔をしていたが、さとりの微笑の前には何も言えないようだ。
「……ありがとうございます、さとり様」
「ううん、ごめんねお空。どうしても貴女の綺麗な髪を見ると、もっと綺麗になってほしくなるの」
「さとり様……はいっ、やっぱりありがとうございます!」
ようやく破顔した空はぺこりと頭を下げて、更衣室を飛び出していった。
仕事をするのか寝るのか、あるいは遊びに行くのか。
そのどれだとしても彼女のことだ。全力で事を成そうとするのだろう。
まるで娘が走り去ってしまったような気分だ。さとりもまた同じような心境なのかもしれない。
そんな彼女に、魔理沙は声をかけた。
「さとり」
「あら、どうしました魔理沙さん」
柔らかな笑みもそのままに、さとりは魔理沙に目線を移した。
魔理沙はいつもの格好で立っていた。だが頬には入浴後のそれとは違う赤みが差している。
その少し恥らうような姿に一瞬疑問を覚えながら、さとりは聞いた。
魔理沙が、言った。
「ど、どうかな?」
「――っ!」
気がついた。その一言は、決定的だった。
さとりは心を読むまでもなく理解し、そして彼女が望む言葉を、自らの本音として口にした。
「ええ。本当にお似合いですよ、魔理沙さん」
魔理沙の、右の脇髪を結わった一本のリボン。
それは魔法使いの金色を映えさせるようにと願って作られた、透き通る青空を模した空色のリボン。
その端のほうには『Marisa』と丁寧な刺繍がされている。
焼け落ちた魔理沙のリボンの代わりにと、古明地さとりが作ったリボンだった。
さとりの褒め言葉を聞いて、魔理沙は嬉しそうに微笑んだ。
「ああ、ありがとう。さとり」
結局、勢いよく走り去っていった空は、腹を抱えて戻ってきた。
どうやらお腹が空いていたらしく。全速力でキッチンに向かったものの、まだ夕飯の時間ではないと断られたらしい。
時計を見るとまだ三時にすらなっていない。これでは夕飯もないだろう。
しかし弾幕ごっこの後に昼寝をして、さらに風呂にまで入った空は、しくしくと泣きながら懇願してきた。
「さとり様、お腹すきました~」
「……困ったわね。まだ買い物もまだだろうから、ちょっとしたものも作れないわ」
ふぅ、とさとりが溜め息を洩らす。
魔理沙はそれを聞いているだけだったが、なるほど、と自分の腹を擦った。
たしかに空腹だった。それは彼女と同じように弾幕ごっこと風呂に入ったからであったが。
すると脳内で閃くものがあった。魔理沙はにやりと笑って空の肩を大仰に抱く。
「なあ、お空。お腹減ったよな? すごく減ったよな?」
「うん、ものすごく!」
こくこくと頷く空。
そして魔理沙の意図が分からず、さとりが目を瞬かせる。
そのさとりに心を読まれる前に、魔理沙は笑顔で提案した。
「じゃあさ、ちょっと里に行かないか?」
「ええ!? 里って、人里ですよね? あの、ちょっと、地上は……」
さとりは困ったように顔を曇らせる。
しかしその反応を予測していた魔理沙は、すかさず空に視線を送りながら言った。
「たしか前に里の天ぷら屋に連れていったよな。あそこでどうだ?」
「……ああ、思い出した! なんかおばちゃんがお芋何個かくれたんだよね!」
「お、よく覚えてるじゃないか。また、食いたくないか?」
「行きたい行きたい! さとり様、行こう!」
期待に満ちた瞳で空がさとりを見る。
空はもう完全に乗り気だ。これを抑えるのはかなり難しいだろう。
魔理沙の思ったとおり、さとりは説得の言葉を発せないでいる。
だが途端に表情をわずかに輝かせると、苦笑いをしながら後ずさりをした。
「え、ええ。でも私は空腹じゃないし、魔理沙さんとだけ……」
しかし魔理沙がすぐにその腕を掴んで逃がさないようにする。
「駄目だ。お前も行くんだよ、さとり」
「ええっと、私は……ちょっと……」
すると空も満面の笑顔で、さとりのもう片方の腕をしっかりと握った。
結果、さとりは両側から挟まれた形となる。
そして魔理沙と空が、さとりを引っ張りながら同時に走り出した。
「あ、え、ま、魔理沙さん! お空!?」
「ほらほら、時間は有限だぜ。大丈夫、地上はちと遠い。その間には胃に隙間もできるさ」
「さとり様も一緒だったら美味しさも何倍になるよ! 行こう!」
引き摺られながら、さとりは魔理沙と空の心を読み取った。
さとりのペット、霊烏路空。彼女は『さとり様と一緒にいたい』と心の底から告げていた。
さとりの友人、霧雨魔理沙。彼女は『さとりと一緒にいたいな』と心の底から願っていた。
立場も種族も違う二人は、まったく同じことを考えていた。
そのどちらも、古明地さとりと行動を共にすることを望んでいた。
やがて、さとりは心の底から微笑した。
それはまるで、太陽のようだった。
顎まで滴る汗をぐいっと袖で拭い、魔理沙は呟いた。
普段ならば楽しげに歪められている口元は半開きとなり、もはや体内の熱気を放出するだけの器官となっている。
しかしその瞳は引き絞られ、真っ直ぐに目前で浮かぶ灼熱の大玉を見据えていた。
大玉が、火炎を豪勢に帯びた弾幕が吐き出す。
箒の頭を大きく振り、それをいつになく大袈裟な動作で避ける。本来の霧雨魔理沙ならば着弾寸前に回避行動を起こすのだが、今回は少々事情が違った。弾が纏う炎すらも完全に避けきらなければ、乙女の柔肌が火傷を負うかもしれなかった。
「あーあ、本当に暑い……」
次々に放たれる弾幕を上下左右にゆらりゆらりと動きながらかわす。
そんな彼女の行動を弱腰と受け取ったのか、大玉の中から黒い翼を広げた人影が声を上げた。
「どうしたの魔理沙! まさか避けてるだけで、この人工太陽が堕ちるとでも思ってるの!?」
霊烏路空。旧地獄跡を仕事場とする、地獄鴉である。
その身に宿した太陽の化身、八咫烏の力を使って究極のエネルギーを自在に操る、さとりのペットだ。
さらに過激さを増す彼女の弾幕を避けながら、魔理沙は同意するように頷いた。
「まったくだな。さっさとこの暑さからも解放されたいし、そろそろ攻めるぜ!」
言うやいなや、懐から八卦炉を颯爽と抜き放った。
瞬間、灼熱の大玉が一回り大きくなった。錯覚ではない。実際に、風船の如く膨らんだのだ。
これの意味するところを、魔理沙は正確に察していた。
「ようやくその気になったのね! だったら私も手加減しないよ!」
「手を抜いて勝てると思われてたとは心外だな。この私が、火力勝負で負けるわけにはいかないんだよ!」
先ほどの二倍、いや三倍にまで密度を増した空の弾幕をすれすれのところで回避する。
もはや熱いだの何だの言ってられない。自らもレーザーや星弾を撒き散らしながら、箒にさらなる魔力を叩き込む。
相棒は魔理沙の要求に応え、その速度を彼女が望む段階まで引き上げる。
一歩間違えればすぐさま被弾という速さを保ちながら高熱を帯びた弾幕の間をすり抜け、時にこの身に当たるであろう弾をレーザーで破壊し、一気に空へ肉薄する。
博麗霊夢ですら回避に専念するしかない、という弾幕下において、魔理沙はついに空の元へ辿り着いた。
人工太陽と正面から対峙することで体中から急速に水分が飛んでいく。
汗も噴き出る傍から蒸発する、そんな状況で、魔理沙は微笑みながら八卦炉を空へと向けた。
しかし空もそれを予期していたかのように、満面の笑みで、魔理沙を迎え入れるように両手を大きく広げる。
「恋符……!」
「核熱……!」
光が収束する。周囲に黒点を内包した熱球体がいくつも浮かぶ。
――そして同時に、叫んだ。
「『マスタースパーク』!」
「『人工太陽の黒点』!」
カッと眩い閃光が灼熱地獄跡を照らし、天地がひっくり返りそうなほどの轟音が、地底全体に響いた。
「さとり様さとり様! 勝ったよ、私勝ったよ!」
地霊殿。
そこの執務室にて書類の整理をしていた主、古明地さとりに、空は力強く抱きついた。
さとりはそれを鷹揚に受け止め、彼女の健闘を称えるように、その頭を優しく撫でる。
そして空の背後にいた魔理沙にちらりと視線を向け、言った。
「そう、頑張ったのねお空。……魔理沙さんもお疲れ様でした」
「いやまあ、疲れたけどさ」
労いの言葉を貰い、魔理沙は疲れ切ったように溜め息をついた。
その手には水を湛えたコップを握っている。それを時折呷って、失われた水分を補給していた。
魔理沙の格好はボロボロだった。お気に入りの服は所々焼け焦げ、その隙間から健康的な素肌が見え隠れている。帽子も凄まじい熱風にあおられたことで大部分が変色していた。
空も同様の姿であったが、やはりそこは人間と妖怪の差か、彼女は多少汚れた程度であった。
「私ね、魔理沙の凄いレーザーに耐えて勝ったんだよ! さとり様!」
「あらそう。あれを……」
さとりが真偽を問うように魔理沙を一瞥する。
しかし魔理沙はにやりと口端を吊り上げ、ひとつ肩をすくめるだけだった。
その仕草を肯定と受け取った空はますます喜色を露わにして歓声を上げる。
さとりは心を読む第三の眼で魔理沙の心を見通し、その時のことを正確に把握していた。
勝負はどちらかといえば、引き分けに終わっていた。
あのとき――同時にスペルカードを発動していた魔理沙と空だが、まず被弾したのは空だった。
核熱『人工太陽の黒点』は、空の周囲をいくつもの赤い熱球体が回って攻撃する、円を描くスペルカードである。
対して恋符『マスタースパーク』は、標的へ一直線に伸びる極太レーザーだ。
曲線と直線。言うまでもなく、直線に進む恋符の方が先に当たった。
空は恋符をまともに食らい、為すすべなく後方へと派手に吹き飛ばされてしまった。
この時点では魔理沙の勝利だっただろう。しかし彼女の予測に反して、空のスペルカードはすぐに消えることはなかった。
ちょうど二つの熱球体は魔理沙を挟み込むようにして移動していた。それは発動者である空が吹き飛ばされたところで変わることはなく、魔理沙はそれらともろに衝突してしまったのだ。
如何な魔理沙とて恋符を撃つときは回避行動を取れない。その隙を、空は幸運にも突いたのだ。
結果、軽度の脱水症状でもあった魔理沙はその衝撃で気絶し、真っ赤に煮え滾る溶岩へと真っ逆さまに落ちていった。
あわや死亡か、というところですぐに体勢を立て直した空が魔理沙を助け、二人の弾幕ごっこは終了した。
弾幕ごっこという区切りでは魔理沙の勝利、しかし魔理沙は空に命を助けられた。
空は後者の事実から自らの勝利を宣言した。魔理沙はそれに反論せず、黙って彼女を祝福した。
ほんの少しだけ敗北したことを悔しがったが……だからといって歓喜する空に水を差す気分にはなれなかった。
なので魔理沙は、ゆっくり水を飲みながら体を椅子へ預けるに留まっている。
「……なんか疲れちゃいました。少しお昼寝してきます!」
「お空、その前にお風呂……行っちゃったか。まああとで入れればいいかしら」
一戦終えてもまだまだ元気一杯に走り去る空に、さとりが苦笑する。
そして自分と対面するように椅子に座っている魔理沙へ、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい、魔理沙さん」
「……謝られるようなことをされた覚えがないんだが」
「その、髪です。せっかく綺麗な髪だったのに……少し焦げてます」
ああ、と魔理沙は頷きながら自分の髪を持ち上げて見た。
さとりの指摘通りだった。癖の強いブロンドがあちこち火で炙られたように焦げている。
鏡がないので全体は把握できないが、少なくとも脇の髪はそのような感じだった。
そこを結わえていたリボンも焼け落ち、もはや役割を全うできないほどになっている。
最後に放たれたスペルが原因だったが、魔理沙は特段気にした様子も見せず、小さく肩をすくめた。
「別に構わないぜ。すぐに伸びてくるだろうし、リボンは家に何本も置いてあるしな」
「……そんな言葉、私が信じるとでも?」
一転、さとりの纏う雰囲気が刺々しいものへと変化した。
三つの瞳が魔理沙を見据え、自分に嘘は通じないと明確に伝えてくる。
魔理沙はしばし瞑想するように目を閉じて……やがて、頷いた。
「ああ、正直ショックだ。髪は女の命ともいうしあのリボンはお気に入りだったからな」
「最初から素直に言ってくださいよ。情けない話ですが、私には謝罪することしかできませんけれど」
そう言って、さとりが再び頭を下げる。
魔理沙は呆れたように息を吐き、さとりの顔を上げさせた。
「分かってるんだろ? 謝ってもらいたいわけじゃないって。それで元通りになるわけじゃないんだから」
「それはそうですけど……だからといって、何もしないのも――」
不意に、さとりが考え込むように口ごもった。
何事かを思案するような仕草に、魔理沙は心の中で不安に思った。
責任感の強いさとりのことだ。もしかしたら詫びのしるしに裸踊りでもしようと考えているのだろうか。
するとさとりは可愛らしく首をかしげ、唐突に聞いてきた。
「見たいですか?」
「えっ、何を?」
「だから、私の裸踊り。魔理沙さんが望むならそれくらいは……」
「いやいやいや、いいってそんなの! 単なる冗談だから!」
「ですよね。本気で言ってるのでしたら、灼熱地獄跡の溶岩に放り込むつもりでした」
よかった、とさとりがにっこり笑う。
魔理沙は乾いた笑い声を洩らしながら、背筋に冷たい汗が流れたのを感じ取っていた。
実際にそうしたかは分からないが、彼女はそうするつもりだったことが窺える。
しかし魔理沙の動揺など気にも留めず、さとりは至極真面目に言った。
「私にも出来ることがありました。その髪、切らせてもらえませんか?」
「――え? 切るって、その、散髪ってことか?」
「もちろん。ああでも、少し整えるだけですから。それにそんな格好で出歩けないでしょう」
さとりが魔理沙の全身を軽く見回し、つられたように魔理沙も見やる。
たしかにそうだった。服はボロボロ、髪は焦げていて、まさしく満身創痍という格好。
うら若き乙女としては外出を控えなくてはならないだろう。
しかしこれと同じ服なら何着か地霊殿に置いてある。それで充分ではないだろうか。
それに髪が焦げるのは実験の失敗などでざらにあることだ。知り合いに発見されたとしても問題はない。
けれどさとりは首を横に振り、説得するように言葉を続けた。
「代えの服はそれでいいかもしれませんが、それでは私の気が晴れないんです。わざわざ暇を持て余したペットの相手をしてもらって、しかも大事な髪を台無しにしてしまった。ですから、この提案は魔理沙さんのためではなく私のため、と思ってもらえたらいいです」
「う~ん。そう言われると断りにくいなぁ」
「でしょう! では、これから準備に入ります。魔理沙さんはここでお待ちください!」
そう告げると、さとりは立ち上がって足早に部屋を立ち去ってしまった。
魔理沙はぽかんとしながらそれを見送る。その迅速な行動は、おそらくこれ以上ごねられるのを避けるためか。
押し切られた形だが、よく考えればそこまで拒否するようなものでもない。
水を一口含み、どっかりと椅子の背もたれに体重を預けて、呟いた。
「……ま、いっか」
さとりは十五分ほどで戻ってきた。
その手には柔らかそうな薄手の布、霧吹き、大きめの櫛、そして銀色に光るハサミがあった。
地上から流れてきた一品らしい。よくこれで長くなったペットの毛を切るとのこと。
さとりは四方に空間を作った椅子に魔理沙を座らせる。そして素早くその首に、人ひとりが包めそうなほどの大布の端と端を結わえ、あっという間に魔理沙は照る照る坊主のような姿になった。
その間に人型のペットが大鏡を壁に立てかけ、ちょうど魔理沙とさとりが映りこむように配置する。
さらに邪魔になりそうな机や椅子などを手早く片付けると、ぺこりとお辞儀をしてすぐに退室してしまった。
シンと静まる執務室。
部屋にいるのは椅子に固定された魔理沙と、嬉しそうにハサミを手にしたさとりのみ。
外からの音も閉め出され、完全に二人だけの世界となっている。
魔理沙は自然と早くなる鼓動に耳を傾けながら、ぼんやりと鏡の中のさとりを眺めていた。
さとりは試すようにカチャカチャとハサミを開閉した後、すぐにそれを脇の小机の上に置いた。
次に取ったのは霧吹きと櫛だ。
楽しそうに鼻歌を歌いながら、さとりが魔理沙の髪へ丁寧に水を吹きかける。
途中、半端に露出した耳にも吹きかかり、その冷たさに小さく呻いた。
「んっ……」
「ごめんなさいね、少し我慢してください」
謝る言葉に気負いは感じられない。どうやら相当手馴れているらしい。
まんべんなく水を被った髪に櫛が差し込まれる。癖の強い金髪を掻き分けながら、ゆっくりと引き下ろされた。
一房一房手に取られ、優しく丁寧に梳かれる。自分でやるよりも心地よかった。
これなら安心だろうと思った魔理沙は目を閉じ、頭部に広がる刺激を余すことなく味わう。
櫛の先端部分が頭皮に突き刺さり、滑るように下へ降りていく。
痛くも痒くもならない。まるで一流のマッサージを受けているかのようだ。
「そう思ってもらえると嬉しいです。ペットたちの毛づくろいや散髪は昔から得意でしたから」
「道理で慣れてるのかぁ。うん、気持ちいい」
「ふふっ、それほど気に入ったのならこれからもしてあげましょうか?」
「それは魅惑の提案だな。知恵の実を食べたアダムとイブの気持ちが分かるぜ」
「私は蛇じゃありませんから騙しはしませんよ」
などと話している間にも、さとりの手を一度も止まることなく続けられる。
やがて全体が梳き終わった。名残惜しむ間もないまま、ようやく本番に入ることを察した。
さとりがカシャカシャとハサミで音を立てながら、愉快げに聞いてくる。
「さて、魔理沙さん。ご要望の髪型はありますか?」
「んー……特にないけど、あんまり短すぎるのは勘弁願いたい」
「ふむ。では、先月人里で一緒にお茶をした妖夢さんよりかは長く?」
「そうだな、あれよりも……ってなんでそのこと知ってんだ」
「さとり妖怪を舐めてもらっては困ります。私が髪形について問いかけたときには、すでに魔理沙さんの頭の中で知り合いの顔が浮かんでいるのですよ。そこから読み取ってますので、具体的でいいでしょう?」
「……まあ、な。それじゃ妖夢よりも長く」
「それでは三週間ほど前の日曜日に良質な紅茶とクッキーをご馳走してくれたアリスさんよりも長く?」
「……長く。アレは私の好みじゃない」
「では、先週図書館でばったり会って個性と粘液溢れるケーキを食べさせようとしてきた咲夜さんよりも長く?」
「あれはケーキじゃなくて兵器だ。でなきゃレミリアが泡吹いて倒れるはずがない。もうちょっと長く」
「ならば隠されていた煎餅を食べられて怒髪天を突くほど怒り狂った霊夢さんよりも長く?」
「死ぬかと思ったな。たかだか煎餅の二十枚や三十枚で……いや、あれよりかは短くだな」
そう言うと、さとりは魔理沙の髪に触れておおよその長さを測り始めた。
魔理沙もそれを視認しながら、ふと『そこらへんだな』と思った。
大体肩よりも少し下、けれど背中には届かないところ。そこが魔理沙の理想の長さだった。
すると心を読んだらしいさとりは首肯し、最後の確認とばかりに言った。
「では、後ろ髪はこの辺りまで、髪型は今現在を少し短くした程度。これでよろしいですか?」
さとりが指で肩甲骨付近を横になぞる。
その不意打ちともいうべき刺激にぴくりと背中を震わせ、しかしそれを隠すようにコクコクと頷いた。
「あ、ああ。それで頼む」
「了解しました。ではお任せください」
朗らかに微笑んださとりが髪を一房持ち上げて、ハサミを滑り込ませ――
シャキリ、と軽やかな音を立てた。
いつしか魔理沙は目を瞑り、軽快に奏でられる散髪の音色に耳を傾けていた。
パラパラと切られた髪が布を滑っていく感触が伝わる。
本当は鏡を見ながら随時確認するべきなのだろうが、とてもそうする気にはなれなかった。
一番大きいのは、やはり信頼だった。さとりならば悪いようにはしない、そんな確信があった。
無根拠な話ではない。今までずっと一緒にいた、その果てに得た心境である。
食べ物の好みや考え方、その他諸々は相当に違う。でも傍にいて居心地がいい。波長が合うとはこのことか。
たぶん彼女が整えた髪形も自分の想像とは少し違うのだろうが、それでもきっと気に入る。
本当に確信はないのだ。ただ、そう思った。
「そこまで信頼されるのは嬉しいですけど、やはり自分でも確認してくれませんか?」
「おおう、また読まれてたのか。だけどまあ、そうかな。ちょっと見てみたい」
「分かりました、ちょっと待ってて下さい。……はい、どうぞ」
顔、特に目の付近を柔らかな布のようなもので拭われる。
チクチクとした感覚がなくなっていたので、おそらく顔面に付いた髪の毛を取ってくれたのだろう。
細かな気遣いに感謝しつつ、魔理沙はそっと眼を開けた。
――鏡の中に、驚く少女の姿があった。
「おお……」
「ど、どうですか? 今のところ大きくは変えずに焦げた部分を取り除いて少しカットしただけなんですが」
「いや、いいなぁこれ。まさしく私の望み通りじゃないか」
さとりの散髪は完璧だった。
空の弾幕によって焼き焦げた髪は綺麗に切られ、それに合わせて全体のボリュームが違和感なく減っている。
あえて言うならば……左右の釣り合いが少し取れていないように思える。
左の脇髪を少し長めにしてリボンで結んでいたのだが、そちらが燃えてしまったのだ。
それを直すためにこのようにしたのだろうが……どうも違和感を覚える。
「でもそちらは焦げた部分を切ったら結構少なくなってしまったんですよ。後ろから持ってくることも可能ですが、それよりかはいっそリボンで結ぶのを無事な方でやったほうがいいかと思いまして。一応、まだ修正は効きますが」
「なるほど……たしかにちと少なすぎだなぁ。まあこだわりというより習慣みたいなものだし、しばらくは右を結ぶか。じゃあこのままお願いするぜ」
「分かりました。あとは微調整だけですので、目を閉じていて構いませんよ」
その言葉に甘えて、魔理沙は再び目を閉じた。
シャキリシャキリという静かな音が、寡黙な室内に響いていく。
油断するとすぐに意識が刈り取られそうなほどの眠気が、ゆっくりと歩み寄ってくる。
それを反射的に拒否しながらゆったりとした時間を感じていると。
不意に、魔理沙の首にほっそりとした腕が巻きつき、温かな何かが頭頂に触れた。
何事かと瞼を開く。すると鏡には、魔理沙の首に腕を回し、その髪に顔を埋めるさとりの姿があった。
突然のことに驚き、魔理沙は身動きもとれずに慌てて聞いた。
「さ、さとり? どうしたんだ?」
「…………なんだろう」
「え?」
「……魔理沙さんの髪、いい匂いがします。ふんわりして柔らかな熱を内包した、そんな匂いが……」
「な、なんだろう。シャンプーは普通のやつだし、香水とかは付けてないけど」
「ああ、懐かしい……。これは、太陽の薫りかしら」
呟くさとりの声が、どこか震えているようだった。
もしかしたら泣いているのだろうか。心配して声をかけようとしたとき。
さとりの顔が離れ、また淡い微笑が鏡に映りこんでいた。
「……ごめんなさい、すぐに終わらせますね」
「あ、ああ……」
そう言って散髪を再開したさとりが素早く目元を拭ったのを、魔理沙は見逃さなかった。
「おいこら、お空! 暴れるな!」
「いや~! 髪洗うの嫌い! こんなの水浴びればおわりじゃない!」
「んなこたぁない。きちんとやらないと頭にカビが生えるぞ」
「本当に!?」
「当然。特にお前は風呂嫌いだからそろそろ生えてきてもおかしくはない。そんなの嫌だろ?」
「うにゅぅ……分かった、早くね」
「よし分かった」
魔理沙は、地霊殿の浴場にいた。
床は全面磨きかかった大理石で敷き詰められており、その中央には何十人も湯に浸かれそうな浴槽が鎮座している。
硫黄の匂いが強く香っている。霧雨邸も温泉を引いているが、ここはそれとは比べ物にならないほどの規模だ。
そこで魔理沙は、先ほど起こした空を連れて、風呂に入りに来ていた。
弾幕ごっこの後ということもあって少し汗っぽかったし、何より髪を切った後はチクチクするので入れるならば入りたかったのだ。そのついでに風呂嫌いの空も入れてほしい、というさとりの要望に従って彼女と一緒に来ているのである。
ようやく大人しく背中を向けた空の髪を、わしわしと力強く洗う。というより、力を込めなければいつまで経ってもおわりそうにないほどの髪の量だった。
腰まで伸びた髪。一束手に取り、泡に塗れたそれをまじまじと観察する。
「お前の髪、長くて綺麗だよな。しかも艶があるし。なにか手入れはしてるのか?」
「う~ん、私は別に。ああそういえば、お燐とかさとり様がよく変なにおいのするものべったり付けてくるなぁ。なんかすごく油っぽくて嫌いなんだけど、無理やり付けさせられるの」
「香油かな? まあたしかに、こんなに見事なものなら弄りたくなるのも分かるぜ」
魔理沙も短髪よりかは長髪の方が好きだった。
やはり自分も女の子なのだ。長く美しい髪には憧れを抱いており、一時は何とか背中まで伸ばしたこともある。
ただまあ、手入れが面倒なので肩辺りで妥協するようになったのだが。
小さな木製の椅子に座って背を向ける空の頭を、しっかりと洗う。
どうやら彼女は水が苦手なのもあるが、何よりも『洗う』行為そのものに興味がないようだ。
他人にされるのは嫌いではないけれど自分でやるのは面倒ということだろう。
現に、シャンプーや石鹸を洗い流す時以外は気持ちが落ち着いており、洗髪の快楽に甘受していた。
やがて髪にへばりついた泡をすっかり流し終わった。
魔理沙は空の髪を捻りながら一本に纏め、彼女にそのまま渡した。空は黙って受け取る。
「さとりから聞いてるぞ。髪だけじゃなくて背中も自分じゃ洗えないんだってな」
「……いいじゃない。洗わなくたって死なないんだから」
まさしく子供の言い分に、魔理沙がたまらず苦笑いする。
それはそうだ。髪や体を洗わなかったところで死亡することはありえない。不潔による発病を除けば、だが。
妖怪がそれに罹るかは知らないが、ともあれ空の言に耳を貸す気もない。
「そう言うな。あいつだって綺麗なペットから抱きつかれた方が嬉しいだろ」
「……もしかして今まで、さとり様迷惑してたのかな」
「そりゃないだろ。そういう奴にも分け隔てなく接するのがさとりの美点だよ、っと」
スポンジに石鹸をまぶして泡立て、空の背中に触れさせた。
背中のちょうど真ん中辺りで円を描くようにスポンジを動かし、泡を塗りこむように広げていく。
無言だった。それは頭の中で、幾度となく繰り返される映像が原因だった。
胸がむかむかしてくる。その違和感を吐き出すように、魔理沙は空に問いかけた。
「なあ、お空。ちょっと聞いていいか?」
「うにゅ? うん、なにかな」
「さとりなんだが……もしかして、あいつは地上には行きたいのかな」
魔理沙の脳裏には、先ほどのさとりの姿が明瞭に浮かんでいた。
さとりが魔理沙の髪に顔を埋め、何か深い感情に身を震わせている。
彼女は『太陽の薫り』と呟いて涙を零した。それはつまり、地上に何かしらの想いがあるのでは。
そう考え、さらに言葉を募らせようと口を開いた、そのときだった。
「それはないね。だってさとり様はさとり妖怪なんだし」
と、空が至極あっさりと言った。
魔理沙はわずかに瞠目する。すると彼女は振り向き、どこか儚げに微笑んだ。
「だってそうでしょ。さとり様は心を読む。だから忌み嫌われて地上を追われた。追われた先の地底でも忌み嫌われている。つまり、居場所は地霊殿だけなんだよ。あの方はここで完結してる。外が猛吹雪だっていうのに外に出る馬鹿はいないよ。一応私が出かけるときに誘ってるけど、一度だって頷いたことはないわ」
「……そうかもしれないけどさ。でもそれって寂しいんじゃないか?」
「そのために私がいる。お燐がいる。みんながいる。言ったでしょ? さとり様はここで『完結』してるって。満たされてるんだよ。地上にも外にも興味はない。寂しいのは、むしろ魔理沙の方じゃないかな」
彼女の言葉に、驚きを禁じえなかった。
空はもう少し頭が残念で子供らしい感情が目立つ妖怪だと思っていたのだが、それは単なる一面だったらしい。
そしてその推測は――正鵠を射ていた。
「……かもな。さとりがもしも地上に行きたいと思ってくれたなら、たぶん私は嬉しい。もちろん永住とかじゃなくて遊びに来てくれるだけでも……」
「だけどそのきっかけがないから出来ない。理由がないから断られるのは目に見えてる」
「だよなぁ。まあ、私は地霊殿に好きで来てるんだからいいけどな」
溜め息をついてスポンジをゆっくりと背骨をなぞるように下ろしていく。
そう、好きでここにいるんだ。ただ――自分の故郷が嫌われているのが、すこし残念なだけで。
すると空は、あっけらかんと言った。
「いいんじゃない? 断られたってまた誘えば。それで壊れるような関係じゃないでしょ」
「……そうかな。そんな関係かな、私とさとりは」
「自信持ちなって、魔理沙! この究極のエネルギーを内包した、この私と対峙したときみたいにさ。私が保証するから、魔理沙は私の次に強い奴なんだって!」
「――ふっ、お前は……私に負け越してるだろーが!」
スポンジを手放し、つるりとした肌に手を這わせて……思いっきり、空の脇腹をくすぐった。
爪を立てて皮膚の表面を軽く引っかくように。すると予想通りに、空は脇を占めて身を捩った。
「あは、あはははは! ちょ、そこは弱いから! 魔理沙、駄目だって!」
「生意気な鴉め、私のゴッドハンドで身悶えるがいいわ!」
「ははははは、ひははー! こ、降参! 降参するから、それ、やめてー!」
「……ふん、サンキューな。お空」
聞こえないように呟き、魔理沙は指の動きを止める。
空はひどく息を荒げ、がっくりと体を床に横たえてしまった。
魔理沙はスポンジに石鹸を継ぎ足しながら空に声をかける。
「おい、再開するぜ。いいかげん起きろ」
「はひー、はひー、はひー……う、うにゅぅ」
よろよろと身を起こし、再び椅子の上に座る空。振り返ったとき、彼女は少し涙目だった。
じっとりとした視線を無視して、魔理沙は彼女の背中をごしごしと擦る。
そして温めに調節したお湯を静かに背中へとかけて泡を流し、空の背中を洗い終わった。
さて次は自分の身体か、と思って空に背を向けると。
「あれ、前は洗ってくれないの?」
「洗わないぜ。それくらい自分でやれ」
「ええー、さとり様とかお燐はやってくれるのに~」
「なんて過保護な奴らだ……。ああもう仕方ないな、ほらこっち向け」
溜め息をつきながら魔理沙が再び振り向いてスポンジを準備する。
はーい、と空が元気な声を上げ、くるりと魔理沙と向かい合うように姿勢を変えた。
空の身体を真正面から見た魔理沙の眉間に、たちまち深い皺が刻まれる。
喉からせりあがってくる非難の声を何とか呑みこみ、口を一文字に引き締めて椅子を前へと寄せた。
「…………」
魔理沙は手を伸ばし、無言でスポンジを肌に当てた。
まずは首からだ。背丈に反してほっそりとした首を、優しく丹念に擦った。
なるべく痛みの出ないように。胸に渦巻く激情を表に出さないように。
それから右肩、左肩と移って鎖骨をなぞる。くすぐったいのか気持ちいいのか、空が深い息を吐く。
彼女の反応を無視してその腕を取り、内側外側と絞るように洗いこみ、もう片方の腕もおわらせる。
そしていよいよ、そこを洗うことになった。
魔理沙は厳しい表情を保ったまま手を止めて――知らずそこをじっと見つめていた。
その態度に不安を覚えたのか、空が恐る恐る声をかけてくる。
「えと、魔理沙? なんだか顔が怖いけど……どうかした?」
「……いや、神様は不公平だなと思ってな」
空の、存在感が半端ない女性の象徴に、ぎりっと歯を軋ませる。
そして自分のものと見比べ、少々、いやかなり落ち込む魔理沙であった。
しかしいつまでもこうしているわけにはいかない。
今度また山を登って神様たちをぶちのめそうと固く決意をして、洗うのを再開した。
空の肌はきめ細かく、そのためか肌に泡が吸い付いているかのようだ。
スポンジで擦っているのだが、時折押してみると、柔らかな反発によってその感触が返ってくる。
だというのに余分な脂肪が存在しない。実際、腹の肉を軽くつまんでみても、これは皮かというものしかつまめないのだ。
大人のくびれがくっきりと現れていて、女性らしいなだらかな曲線が理想のラインを描いている。
乳房は少し指に力を込めただけでふんわりともぐりこみ、離すとその弾力ですぐさま形が元に戻るほどだ。
あまりに不遇な自らの体を見比べ、頭のどこかでぶちりと何かが切れた音がしたが、目の前で心地良さそうに目を閉じる空に怒りをぶつけるわけにもいかないと自重する。
魔理沙は気晴らしになればと、努めて冷静な口調で空に話しかけた。
「な、なあお空。お前って普段何食べてるんだ?」
「ん~……別に特別なものは、何も。あえて言うなら美味しいものだけ食べてるよ。温泉卵とか」
「……それなのかなぁ。こいつがこんなにでかい理由は」
「魔理沙、もしかして……」
空が、にやりと猛獣めいた笑みを浮かべる。
そして自分の乳房を持ち上げて、たちまち険しい表情になる魔理沙を余所に、言葉を続けた。
「おっぱいが小さいこと、気にしてるんだ?」
「うるせー! 女なんだから気になるんだよ! ふん、いずれ私だって……」
「そうかな? 小さい人はいつまでも小さいと思うよ。生まれ持った素質の問題だよ」
「違う! 努力は、努力は必ず報われるんだ! 待ってろよ、温泉卵を食い尽くしてお前よりもビッグになってやる!」
そう吠える魔理沙に、空は馬鹿にするように冷笑を向ける。
「それは関係ないよ。温泉卵でどうにかなる問題じゃないし」
「うぐぐ……」
「じゃあもっと言ってあげるけど、私は基本的にさとり様やお燐と同じものを食べてるの。分かる?」
魔理沙の脳が今までにない以上に回転し、すぐさま空の言いたいことを理解した。
深い絶望を伴った声が、重苦しく零れる。
「さとりと同じものを食べている。そしてさとりは……貧乳だ」
「そう、ひんにゅう。食事はなんの関係もないってことだね」
「くそぉ……さとりのやつ、私の希望を木端微塵に砕きやがって。あの貧乳め!」
「あはははは! そうよ、さとり様ってばひんにゅうだもの!」
椅子から立ち上がって高笑いする空の前で、魔理沙は膝をついて床に拳をたたきつけた。
かたや勝利を誇る地獄鴉。かたや生まれ持った素質を憎み悲しむ魔法使い。
そんな少女らがいる熱気の篭る風呂場は、この一言によって、地獄コキュートスもかくやというほどに凍りついた。
「――誰が、貧乳ですって?」
冷え冷えとした突風の如き殺気が、魔理沙と空を襲った。
がちがちがちがち。火照っていた体が瞬時に冷却され、歯が勝手に踊りだす。
目を見開いたまま動けない二人に、地霊殿の主である古明地さとりが、ゆったりとした足取りで歩み寄る。
がちがちがちがち。怖いもの見たさというものか、あるいは引き寄せられたか。
魔理沙と空の目が小刻みに振動しながら、そちらに向けられる。
修羅が、立っていた。
「二人の服を持ってくるついでに背中でも流してあげようと思ったら……素敵な会話ね」
「あ、あはははは~……。面目ない」
「いやこれはその、さとり様……ぜ、全部魔理沙が悪いんです!」
「こら、お空! お前なに人のせいにしてんだ!」
「だって私、ひんにゅうなんて言わなかったもん! 魔理沙だけだもん!」
「嘘つけぇ! お前だって貧乳貧乳連呼してたじゃないか! 絶対にお前の方が貧乳って言ってたぜ!」
「貴女たち……」
「ひんにゅうなんて言葉、知らないし! だから私は悪くないんです、さとり様!」
「嘘をつくと閻魔に舌を引っこ抜かれるぜ! なあ、さとり!」
「いいかげんに、しなさーい!」
二人して大理石の上に正座させられ、小一時間ほど説教を受けた。
「あー……温泉に浸かったのに、余計疲れが増した気がする」
タオルで乱暴に髪の水分を払い除けながら、魔理沙はぼやいた。
独り言に近いものだったが、それを聞き届けたらしい人物が、鋭い声音で糾弾してくる。
「元々魔理沙さんたちが原因じゃないですか。人の身体的特徴を揶揄するなんて人としてどうかしてます」
「だから悪かったって。……結局お空の発育の良さは何故なんだぜ」
謝罪しながら声がした方向をちらりと見る。
いまだむくれるさとりが、行儀よく座っている空の髪を丁寧にタオルで拭いていた。
ちなみにさとりはすでに服を着ている。魔理沙たちと湯船に浸かりながらも説教を続けていたさとりだが、そろそろ上がろうという前に彼女一人でさっさと更衣室へ行ってしまったのだ。
それはさとりがまだ怒っているからだと思っていたのだが、どうやら体を拭きたがらない空を自分が拭くために早く上がったらしい。たしかに濡れた体のまま空を拭こうとしたら、さとりが風邪を引いていただろう。
空は先ほどまで叱られていたことをすっかり忘れた様子で、さとりの手を気持ち良さそうに受け入れている。
その手際は素晴らしく早く、あっという間に残すは髪のみとなっていた。
さとりが唇を尖らせながら答える。
「やっぱり個人差ですよ。食べ物で劇的に変わるものでもなく、また種族で決められるものでもありません。むしろその全員が巨乳なんて種族がいるなら、地霊殿の総力をもって滅ぼします。世界の敵です」
「怖いこと言うなよ……。でもさとりも、やっぱ気になるんだな。女の子だもんな」
「胸なんて飾りです! 魔理沙さんには分かりませんか!?」
「……まあいいや。私は将来に希望があるし」
「私にはないって言いたいんですか!? 数百年生きてる私はすでにこれが最大だと!?」
「そうじゃないって。さとりの胸も可愛くていいじゃないか。ほら、にゅ」
「具体的なイメージを思い浮かべながら褒めるのはやめて! ……まあ、可愛いって言われると嬉しいですけど」
さとりは照れたように顔を背け、また空の髪を拭き始める。
ちなみに空も服を着ている。魔理沙が髪に手間取っている間に、さとりがぱぱっとやったのだ。
その早業に驚いた魔理沙は呆然と立ち尽くし、自分のくしゃみでようやく我に返ったほどである。
髪はこれでいいかと思い、魔理沙もさっと体を拭いて小さな籠を手に取った。
いつもの黒白服が入っている。さとりが用意してくれたものだ。
念のため、地霊殿に着替えを数着持ってきておいたのが功を奏した形となった。
「?」
しかしその上に、見覚えのないものが置かれていた。
魔理沙はそれを持ち上げ、しげしげと眺める。
そして合点がいったように大きく頷き、さとりに視線を向けた。
さとりは空の髪に小瓶から取り出した液体を塗布している。たぶんあれが彼女の言っていた香油だろう。
ふっと笑い、魔理沙もさっさと着替えを始める。
終了して振り返った頃には、さとりも香油を空の長い黒髪に馴染ませ終わっていた。
油っぽくて嫌いだと公言していた空は若干渋い顔をしていたが、さとりの微笑の前には何も言えないようだ。
「……ありがとうございます、さとり様」
「ううん、ごめんねお空。どうしても貴女の綺麗な髪を見ると、もっと綺麗になってほしくなるの」
「さとり様……はいっ、やっぱりありがとうございます!」
ようやく破顔した空はぺこりと頭を下げて、更衣室を飛び出していった。
仕事をするのか寝るのか、あるいは遊びに行くのか。
そのどれだとしても彼女のことだ。全力で事を成そうとするのだろう。
まるで娘が走り去ってしまったような気分だ。さとりもまた同じような心境なのかもしれない。
そんな彼女に、魔理沙は声をかけた。
「さとり」
「あら、どうしました魔理沙さん」
柔らかな笑みもそのままに、さとりは魔理沙に目線を移した。
魔理沙はいつもの格好で立っていた。だが頬には入浴後のそれとは違う赤みが差している。
その少し恥らうような姿に一瞬疑問を覚えながら、さとりは聞いた。
魔理沙が、言った。
「ど、どうかな?」
「――っ!」
気がついた。その一言は、決定的だった。
さとりは心を読むまでもなく理解し、そして彼女が望む言葉を、自らの本音として口にした。
「ええ。本当にお似合いですよ、魔理沙さん」
魔理沙の、右の脇髪を結わった一本のリボン。
それは魔法使いの金色を映えさせるようにと願って作られた、透き通る青空を模した空色のリボン。
その端のほうには『Marisa』と丁寧な刺繍がされている。
焼け落ちた魔理沙のリボンの代わりにと、古明地さとりが作ったリボンだった。
さとりの褒め言葉を聞いて、魔理沙は嬉しそうに微笑んだ。
「ああ、ありがとう。さとり」
結局、勢いよく走り去っていった空は、腹を抱えて戻ってきた。
どうやらお腹が空いていたらしく。全速力でキッチンに向かったものの、まだ夕飯の時間ではないと断られたらしい。
時計を見るとまだ三時にすらなっていない。これでは夕飯もないだろう。
しかし弾幕ごっこの後に昼寝をして、さらに風呂にまで入った空は、しくしくと泣きながら懇願してきた。
「さとり様、お腹すきました~」
「……困ったわね。まだ買い物もまだだろうから、ちょっとしたものも作れないわ」
ふぅ、とさとりが溜め息を洩らす。
魔理沙はそれを聞いているだけだったが、なるほど、と自分の腹を擦った。
たしかに空腹だった。それは彼女と同じように弾幕ごっこと風呂に入ったからであったが。
すると脳内で閃くものがあった。魔理沙はにやりと笑って空の肩を大仰に抱く。
「なあ、お空。お腹減ったよな? すごく減ったよな?」
「うん、ものすごく!」
こくこくと頷く空。
そして魔理沙の意図が分からず、さとりが目を瞬かせる。
そのさとりに心を読まれる前に、魔理沙は笑顔で提案した。
「じゃあさ、ちょっと里に行かないか?」
「ええ!? 里って、人里ですよね? あの、ちょっと、地上は……」
さとりは困ったように顔を曇らせる。
しかしその反応を予測していた魔理沙は、すかさず空に視線を送りながら言った。
「たしか前に里の天ぷら屋に連れていったよな。あそこでどうだ?」
「……ああ、思い出した! なんかおばちゃんがお芋何個かくれたんだよね!」
「お、よく覚えてるじゃないか。また、食いたくないか?」
「行きたい行きたい! さとり様、行こう!」
期待に満ちた瞳で空がさとりを見る。
空はもう完全に乗り気だ。これを抑えるのはかなり難しいだろう。
魔理沙の思ったとおり、さとりは説得の言葉を発せないでいる。
だが途端に表情をわずかに輝かせると、苦笑いをしながら後ずさりをした。
「え、ええ。でも私は空腹じゃないし、魔理沙さんとだけ……」
しかし魔理沙がすぐにその腕を掴んで逃がさないようにする。
「駄目だ。お前も行くんだよ、さとり」
「ええっと、私は……ちょっと……」
すると空も満面の笑顔で、さとりのもう片方の腕をしっかりと握った。
結果、さとりは両側から挟まれた形となる。
そして魔理沙と空が、さとりを引っ張りながら同時に走り出した。
「あ、え、ま、魔理沙さん! お空!?」
「ほらほら、時間は有限だぜ。大丈夫、地上はちと遠い。その間には胃に隙間もできるさ」
「さとり様も一緒だったら美味しさも何倍になるよ! 行こう!」
引き摺られながら、さとりは魔理沙と空の心を読み取った。
さとりのペット、霊烏路空。彼女は『さとり様と一緒にいたい』と心の底から告げていた。
さとりの友人、霧雨魔理沙。彼女は『さとりと一緒にいたいな』と心の底から願っていた。
立場も種族も違う二人は、まったく同じことを考えていた。
そのどちらも、古明地さとりと行動を共にすることを望んでいた。
やがて、さとりは心の底から微笑した。
それはまるで、太陽のようだった。
……あいつめルパンだったのかー
皆が太陽みたいに輝いていて欲しいですね