「ムラサー! 起きろー!」
ドアを勢い良く開け放ち、封獣ぬえは開口一番に部屋の主の名を叫んだ。
今日も変わらず幻想郷には朝がやって来た。何の変哲も無い朝である。小鳥のさえずりがよく聞こえる、澄んだ朝。
強いて言うなら、梅雨入りが近いくらいだろうか。もう少しすれば、ジメジメと嫌な季節になる。
しかしここ命蓮寺では、そんな憂いもどこ吹く風といったぬえの明るい声が響き渡っていた。
命蓮寺。最近になって聖白蓮という尼僧が開いたお寺だ。人里からそう離れていない場所に建っており、また『宝船』が変形して出来たという事もあってか、人間にも妖怪にも好評なのである。
そう、妖怪にも好評なのである。というのもこの命蓮寺。元々は妖怪を救うために開かれた寺なのである。人間が出てきたのは、先にある「宝船が変形して出来た」という経緯があったことに多くは起因している。そして何より、聖白蓮という人物の人柄が、人も妖も分け隔てなく接することの出来る器の大きさを持っていたことだ。
かくして、命蓮寺は多くの信仰を得ることに図らずも容易く成功したのである。当の本人は、そんなものに殆ど興味を示さなかったのだが。
さて、この命蓮寺。白蓮以外にも住人が何名かいる。そのいずれもが妖怪である。基本的に白蓮を慕っている者たちばかりだ。
その内の一人が、気持ち良さそうに眠りこけているムラサ。村紗水蜜だ。
彼女は命蓮寺がの前形である船の船長を務めていた。そんな彼女の部屋にはその名残なのか、部屋の中央に操舵桿が残っていた。ここは操舵室だった場所だ。ムラサにとっては最も馴染み深い部屋だ。彼女はベッドの上で簀巻きにした掛け布団に抱きつく格好で睡眠に勤しんでいる。
ムラサは寺の住人の中では寝坊助さんだ。そんな彼女を起こすのが、ぬえの朝の日課である。
ぬえは今日もしっかりお寝坊さんのムラサを見て満足そうに笑う。
「ほらほら起きろー朝だぞー」
言いながらベッドへと早歩きで寄っていく。相変わらずムラサからはうんともすんともあと5分寝かせてとも聞こえてこない。言ったところでそんな要求は飲まないぞ、とぬえは鼻を鳴らした。
いやしかし5分寝かせて、という要求なら飲んでもいいかもしれないとぬえは思い直した。そうすれば、少なくとも5分間はムラサの寝顔を眺めていられるのだから。
「こら起きろー!」
しかし残念なことにムラサからそういった要求が聞こえてこなかったので、ぬえは彼女を起こすことにした。ここで起こさなかったら、ムラサだけでなく自分も説教されてしまうのだ。それは何としても避けたかった。
ぬえはムラサへダイビングしようとしたところで固まった。ベッドで眠るムラサからあるモノが、ぬえの目に入ってしまったからである。ちなみに余談だが、ぬえがムラサを起こす時はいつもムラサに飛び付くという、ダイレクトな起こし方をするのだ。無論ムラサからは「痛いから止めろ」と注意されているのだが。
そんなぬえが思わずムラサを見て動きを止めてしまう何かとは。それはぬえの口から零れることで自然氷解する。
「おっぱい、見えてる……」
ぬえの目に飛び込んできたのはソレだった。まさかの光景に、ぬえの体は飛び上がろうとする一歩手前で固まってしまったのだった。
ムラサの寝姿はタンクトップにパンティーといういささか開放的な出で立だった。最近人里の服飾店で見つけて気に入ったらしく、寝間着として使用しているのだ。
「そう言えば昨日の宴会でかなり飲んでたしなぁ……」
ぬえは思い出したように呟く。振り返れば、もう色々億劫だったのかいつものセーラー服やブラジャーが投げ捨てられたように床に落ちていた。
視線を戻す。
やはりチラチラとムラサの白い肌から覗く、一般的な女性よりやや大きめな双丘の片割れに目が行ってしまう。
「なんか、エロイ……」
ただ素っ裸であることより数倍扇情的だ、とぬえは自らの顔の熱が抑えられないでいた。
「さ、触っても……、いいかな……?」
朝っぱらとは言え、こうも挑発的なものを見せつけられては溢れる欲望を曝け出さないわけにはいかないと、ぬえは直感した。
こうして一緒に生活を共に過ごし、そもそも地底に封印されていた頃からつるんでいた仲なのだが、こういったお戯れはしたことがなかったことをぬえはしみじみ思った。
しかし今ならば出来ると思った。たとえここでムラサが起きてどつかれようが、動き出したこの手を止める気などぬえにはさらさらなかった。
「はぁ……、はぁ……!」
ゆっくりと手を伸ばしていく。腋から滑り込ませることに成功すれば、ミッション・コンプリートだ。
どつかれても構うものか、と意気込んではいるが、無事に終わるのならその方が断然良いに決まっている。ぬえは慎重に事を進めることを選択した。その分、ぬえも気付かぬうちに呼吸が荒くなっていた。
結果的に、これが失敗の原因だった。
「んんぅ……」
「あだっ!?」
ムラサが寝返りを打ってきたのだ。その際、ムラサの右腕が裏拳となってぬえの顔面を打ち抜いた。
ぬえの悲鳴とムラサの右手に残った衝撃が、ムラサを眠りから覚醒させてしまった。
「んぁ……?」
「あ」
眠たげな目をしたムラサと涙目のぬえが目を合わせた。
寝起きで状況がまるで把握できていないムラサとぎこちない笑顔をしたぬえ。
静止すること約20秒。
ムラサの目線がぬえの腕を追い始め、そして。
自分の胸を揉みしだこうと目論むぬえの手に至る。
それからムラサは再びぬえの顔を見る。その顔は先程とは違って状況を理解していた。
ムラサはニコリと微笑む。
「おはよう、ぬえ」
ぬえは相変わらずぎこちない顔をしたまま、カタコトのような語り口で挨拶を返した。
「オハヨウゴザイマス、ムラササン……。キョウモイイテン――」
「ふんっ!!!!!」
ぬえが言い切る前に、笑顔のままのムラサの重い一撃が、ぬえの腹を打ち抜いたのだった。
大きな音と共にドアを開け閉めすると、ムラサは肩を怒らせながらズンズンと食堂へと向かって大股に歩いていく。鼻息が荒い。
すると廊下の向かい側から、住人の一人である雲居一輪が姿を現した。
一輪がムラサの姿を認めると、片手をヒラヒラと上げてムラサに声を掛けた。
「ようやく起きたわね……、あら? ぬえが喜び勇んであなたを起こしに向かったはずだけれど……」
「知らんッ!!!!」
ムラサはそう大声で言うと、相変わらず大股で一輪の横を抜けて廊下の角に消えていった。
一輪は首を傾げる。
「……何かあったのかしら?」
ムラサを起こしに行ったぬえの姿が見えなかったことも気になったので、ムラサの部屋に向かう一輪。
ゆっくりとドアを開けてみると――。
「うぉぉぉぉ……、お、お腹がぁぁ……!」
ムラサのベッドの上で悶絶しているぬえの姿がそこにあった。
「何やってるんだか……」
一輪はため息を吐いてから、静かにドアを閉めその場を後にしたのだった。
腹の痛みが収まったのはそれから一時間後の事である。朝食は完全に食いっぱぐれてしまった。
「あー……、痛かったわー……」
ぬえはムラサのベッドにぺたりと座ったまま、お腹をさする。女の子の大事なお腹を容赦なく殴るとはとんでもない奴だ。ぬえは心の中で憤慨した。
「まぁ、最初に手を出したのは私だけどね」
だから、強く言うことなど出来ない。
一人だけになったムラサの部屋で呟き、前のめりにベッドに倒れ込む。
鼻に広がるのは、ムラサの匂い。思い切り吸い込む。
「あー……、いい匂い……」
ぬえは自らの奇妙な形の羽をパタパタと動かして気が抜けたような声を上げた。
ぬえはムラサの事が大好きだ。ぬえは彼女を親友だと思っている。ムラサもきっと自分の事をそう思っている、とぬえは思っている。
しかし封印から脱し、白蓮を助け、命蓮寺で活動を始めてからというもの、あまり構ってもらえなくなったような気がしていた。ぬえの最近の悩みの種だ。
ムラサが意気込んでいるのは良く分かっているつもりで、彼女の邪魔をして嫌われてもつまらない。だからムラサと遊ぶ機会が減ってしまうのは致し方ないと、ぬえは理解していた。しかし、予想以上だった。ロクに顔を合わさない日もあったくらいだ。遊ぶ機会が減るどころか激減である。ぬえにとってこれは予想外であった。
表向きは普段通りを装っているつもりだが、不覚にも昨日の宴会でその事に関して新入りに愚痴を零してしまい、内心は焦燥感でいっぱいだった。
一応、自分に出来た初めての後輩だというのに、酒のせいもあってのっけから情けない事をぶちまけてしまった。威厳とかそんなものはもう自分には期待出来ないだろう。思い出してぬえは羽をへにゃりと倒す。
「あーあ、ムラサとイチャイチャしたいよぅ……」
結局、ぬえの願望はそこに行き着く。毎朝ムラサを起こしに行くのも、その願いを満たすためのささやかな行動だ。
仰向けになる。首だけを動かしてムラサの部屋をぐるりと見回す。
操舵桿。今では機能しないソレを、かつての雄姿を懐かしむように握っている時がある。洋服箪笥。基本的にスペアばかりで、面白味に欠ける。錨。ムラサの得物。こんなものを片手で投げ飛ばす彼女の腕力から繰り出されるパンチは、そりゃあ痛いのも当然なわけで。よくわからない小物類。人里で人間の子どもたちから貰ったらしい。本棚。海洋冒険ものばかり収まっている。机。脚が低い机で、読書する時に使っている。ベッド。枕もシーツも簀巻きな掛け布団も、ムラサの匂いでいっぱいだ。
「あんたたちはいいよねぇ、私なんかよりずっと長い時間ムラサといられるんだから」
うらめしや、と知り合いの唐傘お化けの口癖を呟く。
付喪神でもないのにこんなことを言ってしまうとは、いよいよもって末期だな、とぬえが自嘲気味に笑う。
そこでふとある妙案が頭に浮かんだ。
「ああ! そうか! そういう手があったか!」
ぬえは勢い良く起き上がる。
「なーんで今まで思い付かなかったかなあ! あははは!」
一人で喋り、一人で納得し、一人で笑うぬえ。
降って湧いた名案を早速実行に移すべく興奮気味に部屋の中を物色する。
「どれがいいかなー?」
なるべくムラサが触れることが多いものがいい。その時点で候補はいくつかに絞られるが果たしてどれが良いものか、とぬえは思案する。
そしてあるモノが目に付いた。
「お、これなら……」
ぬえはあるモノに近付く。それはまさにぬえの希望に沿った、最高のモノだった。
ニヤリ、と満足そうに悪い笑顔を浮かべたぬえは早速それに手を伸ばした――、ところで部屋中に腹の虫が鳴る音が響いた。
「あ」
かなり盛大に鳴り響いたのだが、幸いにして誰にも聞かれずに済んだことに胸を撫で下ろして、まずは腹ごしらえするべく一度部屋を後にしたぬえであった。
朝餉を終えた寺の住人たちはそれぞれのお勤めを始めていた。
基本的にこの時間は寺の掃除をする。ムラサは廊下の雑巾掛けをしていた。ドタドタと外に面した廊下を駆け抜ける。
端から端へ。辿り着いて息を吐く。
「ふぅ~……」
ムラサは振り返って自らの仕事の出来栄えを確認する。綺麗に磨かれた廊下は太陽の光を反射していて、仕事としては上等な出来だと頷いた。
「ま、デッキブラシ使った方がもっと綺麗に出来るんだけどね」
ここらへんは昔とった杵柄だ。命蓮寺の元が船なのだからそれでもいいんじゃないかと思ったが、形や名称が変わったことに呼応して掃除の道具も自然と変わっていった。
件のデッキブラシは今は蔵の中である。たまに遊びで棒術をする時に使ってみたりすることもある。今はもうそれくらいでしか日の目を浴びる機会が無くなってしまった。
「さて、と。ここは終わったし次行きますかー……、ん?」
伸びをして、まだ掃除していない場所へ向かおうとした時、境内の方にある二人の姿が目に入った。
ナズーリンと最近命蓮寺にやって来た幽谷響子だ。二人は何やら話をしていた。ムラサは少しだけ気になったので、掃除を一旦中断して二人に歩み寄ることにした。決してサボるわけではないと、心の中で言い訳して。
「ナズちゃん、ナズちゃん。どこ行くのー?」
「さてね。強いて言うならこいつが指し示す先かな」
元気な新人・響子は可愛らしい笑みをナズーリンに振りまきながら尋ねると、ナズーリンは手にしたダウジングロッドを持ち上げて答えた。
「遊びに行くの? 私も一緒に行っていい!?」
響子は尻尾をこれでもかと振ってナズーリンにお願いする、がにべもなく断られた。
「残念だが遊びじゃないよ。だから連れて行かない」
「えぇー……」
途端に響子の尻尾が力なくうなだれる。ついでに肩も落とすが、それも一瞬。すぐに次の策を思い付いたのか、縋るようにナズーリンの両肩を掴んだ。手に持っていた竹箒が石畳に倒れこむ。
「じゃあ、お仕事終わったら遊ぼう!」
「こ、こら、響子!」
「ねーいいでしょー! 一緒に遊ぼうよー!」
ぐわんぐわんとナズーリンの身体を揺らす。これ以上揺すられては敵わんと思ったのか、いつもは賢しく自分への被害を最小限にする逃げ道を模索するナズーリンが早々に折れた。
「わかった、わかった! 仕事が終わったらな! だから揺するのを止めたまえ!」
その言葉を待っていましたと、響子の尻尾が再び元気になる。
「やったぁ! ナズちゃん大好き!」
ナズーリンに抱きつく響子。その表情はとても嬉しそうだ。一方のナズーリンは少し気恥ずかしそうにしながらも、こちらもどこか嬉しそうな顔をしていた。
そうして自分に抱きついている響子の頭に手を乗せようとした――ところで、自分たちのやり取りを見て近づいて来るムラサの存在にようやく気付いた。
ナズーリンは遠目で見てもわかるくらい顔を赤くして、急いで響子を引き剥がした。響子は首を傾げる。
「?」
「じゃ、じゃあ、行ってくるよっ! 後でね!」
「? うん! 行ってらっしゃい! 気をつけてねー!」
そそくさといずこかへと飛び去ったナズーリンを、響子は持ち前の声量を手を振りながら披露して見送った。
ムラサが響子の背後に立つ。そこまで来てようやく、響子はムラサの存在に気付き後ろを振り向いた。
「あ、ムラサさん! お疲れ様です!」
「お疲れ。響ちゃんは今日も元気ねー」
ムラサが頭を撫でてあげると、響子は嬉しそうに目を細めた。
「えへへ」
響子はこうして頭を撫でられることが多い。理由は頭が撫でやすい高さにあることと、彼女がとても可愛らしいからだ。
「それにしても」
ムラサは響子の頭を撫でくり回しながら、先程のナズーリンとのやり取りで気になった事を尋ねてみた。
「響ちゃんって、ナズーリンと仲いいよね」
「えへへ、そう見えた?」
「とっても。さっきのやり取りも、見てて新婚夫婦かと思ったわよ」
「しっ、新婚!? 私とナズちゃんが……? えぇぇ、な、何だか恥ずかしいよう……、きゃーっ!」
想像してしまったのか、響子は顔を真っ赤に染めた頬を押さえるように手を当ててくねくねしている。尻尾はものすごい勢いで振れている。普段は垂れている獣の耳もぴんと立っていた。どうやら喜び絶頂のご様子だった。
響子は見たまんまだが、ナズーリンも満更そうではないこの二人の関係。一体何に起因するのかと言えば簡単で単純な話で、響子を命蓮寺に連れて来たのがナズーリンという話なだけである。
その際何かあったのだろう。ナズーリンが連れてきた時には既に彼女に懐いていた。
呼び方にしたってそうだった。命蓮寺において、ナズーリンを「ナズちゃん」などと呼ぶのは響子をおいて他にいない。一番付き合いの長いはずの星ですらそんな風に呼んだことは無い。
「(まぁ、アレは主従の関係だからかもしれないけど)」
一方のナズーリンも、響子の事を「響子」と呼び捨てにしている。他の命蓮寺の面々は「響ちゃん」と呼んでいる。
確かに、ナズーリンは誰かを愛称で呼ぶような性格の妖怪ではないが、響子に対しては何か頑なな、譲れない気持ちのようなものがあるのだ。そこには、二人の馴れ初め、もとい出会った時にあった何かが関係しているのかもしれない、とムラサは思った。
そこでムラサは思い出す。そう言えばもう一人「響子」と呼ぶ奴がいたことを。封獣ぬえである。
「ま、あいつは先輩面したいだけなんでしょうが」
「?」
「ああ、ごめんね。ぬえの事」
「ぬえさん?」
ぬえをさん付けで呼ぶ響子。ムラサは未だにその違和感に慣れない。
これは余談になるが、ナズーリンと響子が仲の良さを際立たせているのが、このナズーリン以外は皆、さん付けで呼ぶことにあった。
しかしまぁ変なものは変に感じてしまうなぁ、とムラサがしみじみ感じていると、響子が話しかけてきた。
「あ、あの、ムラサさん。ぬえさんの事なんですけれど」
「ん?」
少しだけ遠慮がちに切り出す響子。ぬえの事で自分に話すこととは一体何だろうかと考えると、一つ思い当たる節がある。というよりそれしかないとムラサは思った。
「ははぁーん、さてはぬえの奴、響ちゃんに何か意地悪したんでしょう? いいよ、大丈夫、言ってごらん。私からきつぅーくお灸を据えてきてあげるからさ」
そう言ってムラサは指を鳴らす。
しかし響子は慌てて手と首を振ってそうではないことをムラサに告げる。
「あ、違います違います。ぬえさんには何もされてなくて……」
「あら、そうなの」
あの生来の悪戯好きが、こんなにイジりがいがありそうな後輩を前に何もしていないことに少々驚きつつ、手を下ろした。
では一体何だろうかとムラサが響子に先を促すと、あまりに予想外な言葉が返ってきたのだ。
「ぬえさん、最近ムラサさんに構ってもらえなくて寂しがっているみたいなんです」
「え?」
「昨日の宴会で、ぬえさん言ってました」
「ええぇ?」
ムラサにとって、まさかの展開である。問題はぬえにあるのではなく、自分の方であったこと。仲介を買って出ようと思ったら、その相手がむしろ仲介人だったのだ。
それよりも、何よりも、ぬえが寂しがっているという言葉にムラサは驚いたのだった。
そして、響子は言った。
「私やぬえさんみたいな妖怪は、構ってもらえなくなるのが、忘れられるのが、否定されるのが一番つらいんですよ。ぬえさん、ムラサさんの事が本当に大好きなんです。だから――」
『だから――大事にしてあげてください』
自分が綺麗に掃除した廊下を歩きながら、ムラサは腕組みして先程の響子の言葉を反芻していた。
まさか響子にあんな事を言われるとは、ムラサはまったく思っていなかったのだ。
しかし言われて思い出したのは、響子自らが言っていたように、響子もまた山彦としてその存在を否定されていた事。それがナズーリンに連れられてここにやって来た理由だった事だ。
「普段はあんなに可愛らしいからついつい忘れちゃうけど、あの子も苦労してたのよねぇ……」
ならば、ぬえはどうなのか。
彼女の場合は大昔に悪さして退治されて地底に封印され。
ぬえとムラサが出会ったのは封印された先の地底でだ。特にウマが合っていたわけでもなかったが、気付けば一緒に暮らしていた。
封印から脱してからも、結局命蓮寺で一緒に暮らして適度に人里で人間を恐怖に陥れて、その度に満足顔で帰ってくる。
それが自分に構ってもらえないくらいでどうにかなってしまうタマだろうか。
「まぁ、確かに最近構ってあげてないかもしれないけれど……」
それだけは確かにそのとおりだと思ったムラサは、一先ずぬえと話でもしようと思ったのだった。そして彼女は自分の部屋の前に立っている。
寝起きの出来事以来ぬえの姿を見ていないので、まだここにいると思ったらからだ。
少しだけ強く殴りすぎたかも、と今更ながら思っていたし、そのせいでまだ悶絶していたとしたらさすがに罪悪感の一つも覚える。
謝罪のついでに事の真相を本人から聞いてみよう、そう心に決めてドアを開けた。
「ぬえー、いるー?」
自分の部屋だというのに、ムラサは遠慮がちに顔だけ覗かせて言った。
返事は無い。気配も無い。完全に誰もいない部屋だった。
「ふむ、いないわね」
どうやら立ち直ってはいるらしい。となると次はどこを探そうか。
「腹の痛みから立ち直って、むしろお腹が減ったパターンか? 結局朝ごはん食べてないだろうし」
そうぬえの行動を分析したムラサは、台所へと向かうことにした。
「ぬえ? ああ、さっき来たわよ」
「やっぱり」
台所に入ると、昼食を準備していた一輪がいた。
ぬえについて聞いてみると、案の定ここに来ていたとのこと。
「あなたのせいで食いっぱぐれた朝ごはんを食べてたわ」
「いや、あれは……、はぁ、そうですね。私が悪うございましたよ」
一輪はけらけらと笑う。
ぬえが既にいないとなると、ここにこれ以上長居することは即ち一輪にからかわれ続けることになると判断したムラサは、聞くことだけ聞いて早々に退散することを選択した。
「で、ぬえがどこ行ったか知らない?」
「んー知らないわねぇ。昼の支度を手伝わせようとしたら逃げられちゃったから」
「……そう」
早くも足取りが掴めなくなってしまった。次は一体どこへ向かったのだろうか。ムラサは額に手を当て、大げさに唸りながら台所を後にしようとした。
「うーん……、だとするとぬえは一体どこへ行ったのかしら。難問だわ。あ、一輪、ありがとね。じゃあ、私はぬえを探すのに忙しいからここらで失礼する、わっ!?」
極めて自然に台所から出ようとしたところを、一輪に首根っこを掴まれる格好で阻止された。
振り返ると素敵な笑顔をムラサに向ける一輪が立っていた。
「ム・ラ・サちゃん?」
「はいはいわかったわよ……」
一輪は怒らせると後が怖いことを、ムラサはよく知っているので抵抗することなく彼女の手伝いをすることにした。
ちなみに、一輪にちゃん付けで呼ばれたのは初めてのことであった。
それから昼食を終え――ぬえは姿を見せなかった――、ムラサはぬえを探し回った。しかし一向に見つかる気配がなかった。
「こんなところに……、いるわけないか」
と、言いながらも厠にまで来てしまったムラサ。すぐさま反転して出ると、ナズーリンと鉢合わせた。
「おや、珍しいね。君が用を足すなんて」
「ナズーリン、ぬえ見なかった?」
「? いや、見ていないが」
ナズーリンもやはりぬえの所在は知らないようだ。あと寺内で探していない所となると、蔵くらいしか思いつかなかった。
「何? ぬえを探しているのかい? そういえば朝から見てないね」
「そうなのよ。ったくあいつ、どこに行ったのやら……、あ!」
「!? ど、どうしたんだい、いきなり」
話している最中にいきなり大声を上げたムラサに、ナズーリンは思わずびっくりした。
ムラサの視線はナズーリンが手に持つ道具へと注がれている。
「ナズーリン、お願い! ちょっとぬえを探してくれない?」
ナズーリンのダウジングロッド。そして能力。これを使えばぬえを容易く捜し当てることが出来ると思ったのだ。
ムラサは手を合わせて懇願する。
しかし。
「残念だが、無理だね」
返ってきたのは探し物を探すのが得意な賢将の言葉とは思えない答え。
「どうして!?」
よもやナズーリンがそんなことを言うとは思わず、ムラサは詰め寄った。
「ぬえだからさ。彼女が『正体不明』故に、探し出すことが出来ないんだ」
「そんな……」
「ぬえに関してだけは、地道に探す他ないね」
「そう……」
「まぁ、どうせいつもみたく誰かを怖がらせているんだろう。私が探さなくてもその内自分から戻ってくるだろうさ」
「失礼」とナズーリンはムラサの横をすり抜けて厠へと入っていった。
ムラサもここに立ったままでいるのは無粋だろうと、とりあえずぬえの捜索に戻ることにした。
「あとはここくらいなのよねぇ……」
ムラサは蔵の前に立っている。命蓮寺を一通り探し回って最後に残ったのがここである。
「正直、あんまり期待できないんだけれどね……」
厠の後に来る程である。それくらい、ぬえがここへ来る頻度は低い。
とは言え、可能性としては捨て切れないものがあるのでやって来た次第である。
しかしここでようやく当たりを引いたのか、何やら中に誰かがいるような気配をムラサは察知していた。
「ぬえ?」
とにかく中に入ろうと、ムラサは重そうな観音扉を軽々と、勢いよく開けてみせる。
蔵はそれなりに広いが、命蓮寺を開いてからまだそれほど時間も立っていないのでそれほどごちゃごちゃはしていない、はずだったが今はごちゃごちゃしていた。
肝心のぬえだが、やはりここにもいなかった。
その代わりに、なるのかは定かではないが、蔵の中をひっくり返して何かを探している毘沙門天の代理にして弟子である寅丸星がいた。
「あぁ……、ここにも無い……、おや? ムラサじゃないですか。どうかしましたか?」
「何だ、星か……」
「えぇ!?」
「はぁ……、どこ行ったのよ本当……」
「話が見えないですよー!」
ムラサは事情を話した。その上でぬえの所在について知らないか、星に尋ねてみる。
しかし、返ってきた答えは案の定――。
「う~ん……、すみません。私も今日一日彼女を見てないですね」
「だよね……」
ムラサは頭をガリガリ掻いた。いよいよ八方塞りである。
「後は……、外に行ったとしか思えないわね……」
「外ですか」
ムラサは蔵の入り口を振り返りながら言った。
釣られて外を覗き込んだ星が、何気なく言った。
「ひょっとして家出しちゃったり……、あ!」
星は慌てて口を押さえる。
だが時すでに遅し。ムラサの耳にはもう届いている。
「家出……」
ムラサは星へ振り返らず、目線を足元に下げてポツリと呟いた。
星はうっかり滑った己の口を呪いながら、ムラサにフォローを入れる。
「いっ、いや、ムラサ、今のは違うんです! 忘れてください! 思ったことを口にしちゃっただけで……、ってあー今のもなしです! 思ってないですから! そんなこと! あとぬえも家出なんてしてないですってきっと!」
フォローを入れるつもりがただただ墓穴を掘るだけの結果になってしまった。
そんな星の言葉もムラサの耳にはもう届かないのか、ふらふらとした足取りで蔵から出ようとする。
「ム、ムラサ? 聞こえてますかー?」
「……」
ムラサの顔前で手を振って注意を引こうとするも効果なし。
幽霊の如き空気感を放ち、星にはそれ以上何も言えず、彼女を見送ることしか出来なかった。
ところが。
「……?」
「あら?」
蔵の入り口でムラサがある人物とぶつかる。
正確にはムラサが相手の胸に顔をぶつけた格好だ。その際、相手の胸の弾力によりムラサの顔が押し戻された。
命蓮寺にそのような豊かな胸を持っているものは唯一人しかいなかった。
「蔵の方に二人もいるなんて珍しいわね」
「聖」
おっとりとした口調の、見るからに穏やかそうな女性。命蓮寺を開いた尼僧こと聖白蓮だ。
白蓮はムラサとぶつかった際に落ちてしまったムラサの帽子を拾い上げて、埃を払ってから彼女の頭に戻してやった。同時にムラサを気遣う。
「ごめんなさいねムラサ。大丈夫だった?」
「はい……、すみません」
ムラサは暗い表情のまま、俯きがちに謝罪する。
そんなムラサの態度に白蓮は少し首を傾げるも、すぐに別の事を思い出したのか、そこには言及せず思い出したことをムラサに伝える。
「ああ、そうそう。今日の夕餉の当番はムラサで合っているわよね?」
「あぁ……、そうだった……」
「そろそろ準備を始めないと、危ないわよ?」
「はい……。では行ってきます……」
「よろしくね」
ムラサは重い足取りで、台所へと向かっていった。
白蓮はその牛歩を角で見えなくなるまで見送ってあげると、蔵の中にいる星を見て再度首を傾げた。
「ムラサ、元気無いみたいだけれど、何かあったのかしら?」
「まぁ……、あれはしょうがないかと……」
せめてそれを最初に聞いてあげて欲しかったなぁ、と心の中で呟いた星は、ムラサを気の毒に思った。
「?」
「いえ……、何でもありません」
しかし、ムラサがああも気落ちしてしまった原因は自分の失言にあるのだと思うと、何も言えなかった。
「ところで、星はどうしたの? 蔵をこんなにひっくり返して……」
「あぁ……、実はですね、宝と――ってうわあ何でもありません!」
「? 何かしら?」
「いえ! 蔵の整理でもしようかなーと思いましてね!」
「もう星ったら、これじゃあ逆に散らかっちゃっているわよ」
口に手を当てて苦笑する白蓮。
「あははは……、そ、そうですよねー。おっかしいなー、ははは!」
一方の星は乾いた声で笑う。背中から流れる嫌な汗がとても気持ち悪い。
「手伝った方がいいかしら?」
「えっ!? いえ、いえいえ大丈夫です! 聖の手を煩わせる程じゃありませんから!」
聖の申し出を、星は両手を突き出して大げさなほど振って遮った。
『宝塔を(また、うっかり)失くしました』などとは、口が裂けようが言うわけにはいかなかった。ましてや聖などには絶対に言えるはずが無い。
「そう……、わかったわ。じゃあ頑張ってね」
あまりにも必死な星の拒否の態度に、少しだけ残念そうな顔を見せた白蓮はそう言い残して歩いていった。
そして一人残った星は、大きく息を吐いたのであった。
「はぁ……」
台所に来て既に何度目かの溜め息である。さっきから口から出るのはそればかり。
原因はもちろん、ぬえの事である。
相変わらずぬえは行方知らずのまま。命蓮寺全体を捜索しても見つからないのだから、いよいよ外にいる可能性が高い。
そこに星の口から出た家出の可能性だ。彼女は冗談半分で言ったのだろうが、思い当たる節がムラサにはあった。
まず、朝の出来事だ。目が覚めたらいきなり胸を触ろうとしていたぬえに、渾身の力を込めて腹にパンチをお見舞いしてしまった事だ。
確かに、あそこまでする必要は無かったのだが、いかんせん寝起きだったこともあって、ムラサには力の加減が全く出来なかったのだ。
食事を食べるまでは怒り心頭だったが、朝餉を食べながら少しずつ冷静になっていき、流石にやりすぎたなとムラサも自省してはいた。ぬえのセクハラ未遂を許すわけではないのだが。
そしてもう一つ。これは今日に限ったことではなく、日々の生活で蓄積していった事なのだが、ぬえと遊ぶ時間が確実に減っていたことだ。
『大事にしてあげてください』
響子の言った言葉が再び頭をよぎった。まさか言われたその日にぬえがいなくなるとはムラサは思いもしなかったが。
料理なんて作っている場合ではないのかもしれない。ムラサはそう思っている。本当ならば今すぐにでも外に探しに行きたいのだ。
では何故彼女は料理の支度をしているのだろうか。答えは簡単だ。ムラサにとってのぬえは間違いなく親友であり、家族だということは自他共に認めるところである。そして同時にぬえ以外の命蓮寺の皆もまた、ムラサにとって大切な仲間であり、家族なのだ。どちらも大事な存在なのだ。
ムラサは今のこの事態を、何処ぞにいるかわからないぬえとの個人的な問題であると認識している。故に、それを理由にして皆の夕餉の支度を投げ出すわけにはいかないと考えているのだ。
腹が減っては戦はできぬと言う言葉に従い、まずは腹ごしらえをするべきだ。
だから、焦る必要も、動揺する必要も無い。落ち着き払って、ムラサは今日の夕餉のカレー作りに専念していた。
もうすぐ出来上がりは近い。ムラサの作るカレーは幻想郷の中でも一番だとされる程の絶品であると誉れ高い。
そして、完成。立ち込める匂いがムラサの嗅覚を刺激し、空腹感を煽った。今日の出来も完璧であるとムラサは頷いた。今後の考えも概ねまとまり、何も問題無いと思っていると――。
「あ……」
思わず声を上げたムラサだったが、自分の声がこれほど間抜けに聞こえたのは初めてだった。周囲を見回し、誰にも聞かれていないことを確認する。
ムラサはせわしなく右へ左へと動かした首を正面に戻す。
ムラサは唾を飲んで目の前に鎮座するカレーを見た。自分のカレーの出来具合に生唾を飲む、のであったのならば幸せだったのだが、実際は固唾を飲んだという表現の方が近い。
いや、カレーの出来自体には一切何ら問題無かったのだが、彼女が注目したいのはそのカレーを納めている容器の方である。
「でかっ……!」
大きいのだ。大き過ぎたのだ。ムラサがカレー作りに用いた鍋は、大人数での宴会を催す際に使用する寸胴鍋で、気付かぬ内にそれを使ってしまっていたのだ。
そのくせ、お米の方はいつもと変わらない分量で用意しているのが、ムラサにはとても恨めしく思えた。
一体、何が問題無いというのだろうか。
結局のところ、ムラサはとても焦っていた。とても動揺していた。落ち着きなんて微塵もなかったのだ。
「はぁ……」
その事を思い知らされたムラサは、途端に肩の力が抜けてしまったような気がして、また大きな溜め息を吐いたのだった。
食堂は異様な雰囲気に包まれていた。
次々と具を乗せた食器を運ぶムラサに、皆が一様に目を見開き驚いた。
「カレーです……」
「まあおいしそう」
その中でもマイペースを維持しているのは、白蓮である。
ムラサも席に座り、やはりいないぬえを除いて座席が埋まる。
「……」
ムラサは自分の隣、本来ぬえの座っている空席をしばらく凝視してから、号令をかける。
「では皆さん……、いただき――」
「ちょっと待ちなさい」
遮ったのは一輪だ。眉間にシワがよっている。
「ムラサ、これは何かしら?」
「カレーです……」
「そんなことは見れば判るわ。私が聞いているのはそんなことではなくて、この皿に盛られたカレーの量について聞いているのよ」
一輪が自らに用意されたカレーを指さす。
そこにはこんもりと盛られたカレーが食欲をそそる匂いが、湯気と共に各々の鼻を刺激していた。
ナズーリンが一輪の言葉に呼応するように頷いた。
一輪が声を荒げる。
「このカレー、ルーの量に対してお米の量が少なすぎるのよ! 9.5:0.5くらいでほぼルーだけじゃない!」
「そこかい!?」
「そこかい!?」
ナズーリンと響子が盛大に突っ込みを入れた。響子もこれには山彦せずにはいられなかったようだ。
「ごめん……、ぼーっとしてたらルーだけいっぱい作ってた……」
「しっかりしてよ、ここ結構重要よ?」
「うん……」
そう返事をしたものの、ムラサは上の空話し半分にしか聞いていないようだった。
今度はナズーリンが異議ありとばかりに声を大にした。
「いやいや、突っ込むべきところはそこじゃないだろう!」
全員がナズーリンを見る。
一輪は首を傾げてナズーリンに言った。
「……いや、他に突っ込むところある……?」
「大ありだろう!?」
本気でわからないといった様子の一輪。
「米とルーの比率とか、そんなことは些事でしかない。問題なのはその総量だよ! よく見ろ! この皿になみなみと盛られたカレーを! 明らかにいつもと違うだろう!」
「ナズーリン」
何故こんなにも必死にならなくてはいけないのか、ナズーリン自身も解らずに訴えていたところに、彼女の主人である星が静かに名前を呼んだ。
星は落ち着き払った様子で、静かにナズーリンの方へと顔を向ける。
神妙とも言える星の姿に、毘沙門天を幻視しかけたナズーリンは思わず押し黙った。
星が口を開く。
「ナズーリン。あなたは聞き捨てならない事を言いました。許されざる言葉です。いいですか、ナズーリン。カレーというのは、お米が6でルーが4であることが理想なのですよ」
「ご主人まで……、勘弁してくれ」
ナズーリンは冗談なくらいに肩を落とす。
大真面目な顔をして出てきた言葉がカレーの黄金比に関しての独自の見解だ。こんなことで毘沙門天様を幻視したことに、ナズーリンは己と星に対して情けない気持ちに押しつぶされそうになった。
最早何を言っても無駄だと理解したナズーリンが貝になろうと口を結ぶと、白蓮が仲裁に入った。
「皆、折角ムラサが作ってくれたカレーを前にして、そんな言い争いをしてはいけませんよ。何より、ムラサに対して失礼です」
全員が聖を見る。何時でもどんな時でも、柔らかな笑みを絶やさない慈愛の象徴を。
「確かに、カレーというものは、もう少しお米とルーのバランスが取れているものかもしれません。しかし、こうは考えられないでしょうか? お米はここにいる誰もが同じように炊くことが出来ますが、このカレールーはムラサにしか作れないカレールーです。私たちはそんな絶品と評して幻想郷中に轟かせても良いくらい美味しいムラサの作ったカレールーを、贅沢にもこんなに食べることが出来るのだ、と。それはとても幸せなのではないか、と」
両手を胸の前で合わせ、さながら菩薩のような白蓮の言葉を受け、星と一輪は何かに気付かされたようなハッとした表情になった。
「た、確かにそう考えると、これはむしろ至上の御馳走……!」
「まさに逆転の発想……! さすがは姐さんだわ!」
「いや、だから、私が問題にしているのは、そもそもの量の話であって……」
うんうん、と何度も頷きながら星と一輪は居ずまいを正す。
結局ナズーリンの訴えは届くことなく、聖の「私のお腹はもう空腹の限界点なんですよ」の一言がダメ押しとなって、ナズーリンが力技で折られることになった。
「ナズちゃん食べ切れる? 無理なら残りは私が食べるよ? ナズちゃん食が細いもんね」
ナズーリンの前には未だ半分も食べ終えていないほぼルーだけのカレーがそびえていた。
見るからに苦悶の表情を浮かべ、汗をだらだらと流している――単純に辛いせいかもしれないが――ナズーリンを心配そうに覗き込むのは、既に3分の1ほど食べ終えている響子だ。
「いや……、大丈夫だよ。この程度の量……」
ナズーリンは苦い笑みを響子に向けながらそう言って、コップの水を流し込んだ。
息を吐いてコップをテーブルの上に置くと、同時に白蓮、星、一輪の3名がムラサにおかわりを要求した。
いかにも余裕綽々といった3人の顔を、忌々しげにナズーリンは睨みつける。
ムラサは差し出された3枚の皿を持って立ち上がる。おかわりをよそう為、台所へと入ろうとしたところで振り向いた。
「……おかわり、どれくらい欲しいですか?」
ムラサが振り向き尋ねた時、3人は水をぐいと飲み込んでいた。
そして同時に手元にコップを置き、一拍の間の後に3人は答えた。
「超人盛りでお願いするわ」
「ハングリータイガー盛りでお願いします」
「入道盛りで頼むわね」
「わけがわからん……」
3人は平然と、さも当たり前の事のように言ってのけたが、こんなふざけた盛り方を要求された事などただの一度も無かったはずだと、ナズーリンは頭の中で確認した。
それはムラサも同じはずだったろうが、彼女は特に逡巡することなく頷いて台所へと消えていった。
今日はこの空間がとにかくおかしく思えてしょうがないナズーリンは、目の前に残ったカレーを食べ終えてしまって部屋に戻ることに決めた。
「……よしっ!」
気合を一つ入れて、スプーンに掬っては口の中に運ぶ。それを繰り返した。
「ナ、ナズちゃん、あまり無理しないでね……?」
横から心配そうな瞳を向ける響子の言葉を、2回頷いて応える。
量はともかく、白蓮の言葉通りにムラサの作るカレーは格別の味であることには違いなかった。彼女以外が作っていたのなら、ナズーリンがここまで頑張って食べることもなかった。しかし、命蓮寺は食事のお残しが許されないので、結局は食べなければならないのだが。
そうして、ムラサが3人分のおかわりを運び終えた頃に、ナズーリンはどうにか自分の分を消化することに成功したのだった。
ちなみに、おかわりの量は超人盛り、入道盛り、ハングリータイガー盛りの順で量に違いがあった。
「うっぷ……! ダメだ、もう食えん」
ナズーリンはそのまま仰向けに寝転がる。それを響子が軽く諌める。
「あ、ナズちゃんダメだよ。食べた後すぐ横になるなんて」
「響子……、今日ばかりは許してくれないか?」
「ダーメ。ほら起きて起きてー」
響子は投げ出されたナズーリンの腕を両手で掴み取ると、有無を言わせず力ずくで引っ張り上げた。
「君はひどい奴だなぁ」
「食べた後すぐ横になると太っちゃうよ? それに――」
響子はナズーリンの肩に両手を乗せる。そして一気に顔を近づけた。
「えっ?」
あまりにも唐突過ぎた響子の行動に、ナズーリンが発せた言葉はただそれだけで、迫り来る響子の顔を、唇を、為すがままに見つめるしか出来ずに――。
「ぺろぺろ~」
「うひゃ!?」
――唇のすぐ横あたりをぺろぺろ舐められた。
そしてそこでようやく、為すがままにされていたナズーリンは響子を引き剥がした。
「なななな! いきなり何するんだ!」
今度はナズーリンが響子の両肩を掴んで問い質した。
響子はポカンとした表情をした後、悪戯っぽく笑って答えてみせた。
「だって、ナズちゃんたらほっぺにカレー付けてたんだもの。だから舐め取ってあげたんだよ」
「……」
「ナズちゃんかわいい」
「……!」
ナズーリンはそのまま再び畳の上に倒れるように寝転がった。顔を両手で覆い隠している。十中八九、赤面していることであろう。
「あ、ナズちゃん! 横になっちゃダメだよー!」
響子はナズーリンを起こそうとするが、今度は何が何でも起き上がるまいと、必死に抵抗していた。
そんな二人の様子を、他の全員が眺めていた。
星がスプーンを掬う手を止める。
「何か、こう……、とてつもなく甘ったるいですね」
「そうね。辛口のカレーが甘口に早変わりしてしまう程に、甘ったるい光景ね」
一輪が続く。
「仲が良いのはいい事よ。これだけ微笑ましく思えるのなら、仲が良過ぎても何ら問題ないわね」
白蓮の言葉に星と一輪が大きく頷いて、3人は食事を再開した。
「……」
ムラサだけがじっと二人の様子を眺めているた。
二人がじゃれあっている姿を見て――響子が一方的に、な気がしなくも無いが――思い起こすのは、やはりぬえの事。
あそこまでではないにしろ、地底で一緒に暮らしていた時はスキンシップも多かった事を思い出したのだ。
自分の隣の空席。いつもぬえが座っている場所。最近は構ってあげることも少なくなってきたけれど、ムラサにとってぬえという存在はやはり――。
「一輪」
「んぁ?」
ムラサは平らげた自分の皿を持って立ち上がった。
「悪い。私の代わりに洗い物やっといてくれない? やらなきゃいけない事があるの」
「えー。あー、いやまぁ、別にいいか……」
「ありがと。今度何か奢るわ」
一輪に食後の後片付けを代わってもらったムラサは、急ぎ足で食堂を後にした。
その後姿を、ナズーリンと響子がじゃれ合いを止めて見つめていた。
「……ムラサさん」
自分の分の食器を洗い終え、外に出ようとしたムラサに後ろから声がかかる。
「ナズーリン、響ちゃん……」
「ぬえを捜しに行くのかい? こんな時間から」
「何よ、行くなって言うつもり?」
ナズーリンに鋭い視線を送る。ムラサの機嫌は少しだけ斜め方向に傾いているようだった。
二人に悪気など微塵も無かったのだが、先程の二人の睦まじき光景はムラサに焦りと苛立ちを与えるには充分だった。
ナズーリンの言い方が、普段から小馬鹿にしたようなものであることも一つの要因だったのかもしれない。
ムラサの中に込み上がってきた熱は、しかし響子の言葉ですぐに冷めることとなる。
「わ、私たちも一緒にぬえさんを捜します!」
「へっ?」
ナズーリンに向けていた鋭い視線が緩んだ。
ナズーリンが続ける。
「ほら、言うだろ。一人より二人、二人より三人って。寄れば文殊の知恵、ってね」
「あと、姦しくなるよ!」
「それは響子だけだろう?」
肩を竦めて呆れるナズーリンを見て、ふくれっ面になる響子。
「むー、そんなことないもん! ナズちゃんの意地悪!」
「えーと……」
ムラサは状況が良く飲み込めていなかった。二人が協力を申し出てくれた。それはわかるのだが、何故協力してくれるのか、その理由がわからなかったのだ。
ナズーリンがムラサの前まで歩み寄り、顔を見上げる。
「とにかく、そういうわけだ。さぁ、行こうか」
「え、ちょ……」
ナズーリンは不敵な笑みを浮かべると、ムラサをすり抜けてさっさと玄関口へと向かっていく。
「大丈夫です! きっと見つかりますよ!」
響子にそう言葉を掛けられ、彼女もまたナズーリンを追うようにムラサを置いて歩き去っていく。
ムラサはその場から動けずにいたが、響子が一度振り向いたところでとにかく外に出なくては始まらないことに気付いて歩き出した。
外に出ると、月明かりの下で三つの人影がムラサたちを待ち構えるように仁王立ちしていた。
「遅かったわね」
「聖!? それに、星と一輪まで……!」
人影の正体は、尋常じゃない量のカレー――ほぼルーのみ――を食していた筈の三人だった。
「あんなバカみたいな量を、もう完食したのかい?」
ナズーリンは驚きつつも、溜め息を交えて呆れたように言った。
口に爪楊枝を咥えた一輪が、腕組みしたまま得意顔で返す。
「ふふん、私たちにとっちゃあわけないわ。尤も、少食の鼠さんには到底無理な芸当でしょうけどね」
「何だそれは? 自慢のつもりかい? 後々体重計の上で顔面蒼白になっている君を想像すれば、少食で良かったと心から思っているのだが」
「何ですって!?」
睨み合うナズーリンと一輪。この二人は本当に相変わらずだと、その場にいた全員が苦笑していた。
「はいはい、そこまで。喧嘩している場合じゃないでしょう?」
二人の間に白蓮が入り、諌める。白蓮の言うとおり、そんなことをしている場合でない事を理解している二人は特に不平を口にすることも無くその場を収めた。
白蓮がムラサへと顔を向ける。
「それにしても、水臭いわねあなたたち。三人だけでぬえを捜しに行くつもりだったの?」
「えっ!? あ、いや、ナズーリンと響ちゃんは――」
「そうなんだよ、聖。ムラサのやつ、水臭い事に始めは一人で捜しに行こうとしていたんだよ」
ムラサの言葉を遮るように、今度はナズーリンが白蓮とムラサの間に滑り込んで白蓮に言った。
「あら、水臭いのはムラサ一人だったということかしら」
「ちょっ、ナズーリン!」
まるで自分だけが責められているような気がしたムラサは薄情者なナズーリンを睨んだ、が――。
「おや、何か不満そうな顔をしているね。でも実際一人で行くつもりだったんだろう?」
「うぐっ……!」
実際そのとおりだった。反論の余地などどこにも無い。いや、そもそも――。
ムラサは視線をナズーリンから白蓮へと移す。白蓮は少し呆れたように溜め息を吐いた。
「こんな夜に一人で、どこにいるとも知れないぬえを捜すつもりだったの? ムラサも随分と無茶な事を思い付くのね」
「……」
「まぁ、いいわ。こうして一人で行かれる前に捕まえることが出来たのだから。それじゃあ、私たちもぬえの捜索に加わることにするわね」
白蓮はムラサの返事を待たず、ムラサに背を向け歩き始めた。他の者も追従して彼女の後に続く。ムラサだけが動かない。
疑問符ばかりが頭に浮かび上がる。何故みんな手伝ってくれるのか。ぬえがいなくなったこと。そもそもその原因は――。
「ま、待って!!」
ムラサの呼び止めに、みんなが立ち止まって振り返る。
「どうしてみんな、手伝ってくれるの? そ、そりゃ手伝ってくれるのは嬉しいよ。確かに全員で捜せば見つけるのも早いかもしれない。でもそもそもぬえがいなくなった原因は、どう考えても私で、個人的な話で、みんなとは関係ないんだよ? 明日だって朝早くから寺の仕事だってあるんだし、私は、こんなことでみんなに迷惑を掛けたくはないよ!!」
そう。ムラサにとってぬえの失踪は、ムラサとぬえの個人的な問題だ。少なくとも、ムラサはそう思っていた。だから、一人で捜そうとしていた。
しかし、こうしてムラサの目の前には頼まずとも命蓮寺の面々がぬえ捜索を買って出てきてくれたのだ。それは何故なのか。みんなに迷惑を掛けたくないと考えていたムラサにはそれがわからなかった。
ムラサの言葉から数瞬の後、ムラサに歩み寄る者がいた。
「ムラサ」
ナズーリンだった。
ナズーリンはムラサの前に立つと、手にしたダウジングロッドでムラサの頭を軽く叩いた。
「いたっ!」
いきなりの攻撃を、為す術無く喰らったムラサは痛みで頭を抑えた。少し涙も出てきた。
ナズーリンは大きな溜め息を吐いて、人を小馬鹿にしたような、彼女独特の呆れ顔で言った。
「……君は本当に水臭い奴だね。それとも何かい? 自分は船幽霊だから水臭いんだ、とか捻りも無い下らない事でも言うつもりなのかい?」
今度は一輪がムラサの近くまで歩み寄る。
「それにねムラサ。あんたはぬえとの個人的な問題だから私たちは関係ない、って言うけれど、関係ならちゃーんとあるわよ?」
「え? それって、どういう……」
「簡単な事です」
ナズーリン、一輪に倣ってムラサに近付いてきた星が後を引き継ぐ。
「ぬえが命蓮寺の住人だからです。そして住人である以上は、皆それぞれに仕事を与えられます。それはぬえも例外ではありません。そして彼女は今日一日姿を見せなかった。疑いようも無く、無断欠勤。つまりはサボりです」
最後に白蓮が締めくくる。
「要するにムラサ。あなたは私たちに迷惑を掛けたくない、と言っていましたが、そんなものはとうの昔に掛けられていたわけなんですよ」
「……」
ムラサは黙る他無かった。まさしくそのとおりだと思ったからだ。反論の余地無くぬえがみんなに迷惑を掛けていたこと。それは確かな真実だった。
そして今日一日ぬえが仕事をサボった原因は、自分に起因するのだということも、やはり真実だった。
その事を思うとみんなに対してただただ申し訳なくて、ムラサはみんなの顔が見れずに下を向いてしまう。
「でもですね、ムラサさん」
俯いたムラサに、響子の声が響いた。
ムラサが顔を上げると、響子の笑顔がそこにあった。いつもの、屈託のない笑顔だ。
「迷惑を掛けられた、とかそういったこと以前に、みんなぬえさんの事が心配なんですよ」
「みんな……」
ムラサは一人一人の顔をゆっくりと見る。響子だけではない。みんながムラサに向けて笑顔を向けていた。
ナズーリンはどこか余裕ありげに笑い、一輪は肩を竦めて呆れたように笑い、星は頼りがいのある爽やかな笑みを浮かべ、白蓮はいつもと変わらない慈愛に満ちたような微笑を湛えていた。
それぞれが、ムラサと視線を合わせると力強く頷いた。その度に、ムラサは彼女たちから直接力を貰っているのか、体が熱くなっていくのを感じていた。
「みんな、ごめん。それと……、ありがとう!」
ムラサにも、ようやく笑顔が戻る。それを見た全員が、安堵の溜め息を吐いた。
「妖怪が笑って過ごせるのが命蓮寺のモットー。さぁ、ムラサが笑ってくれたところで、ぬえを捜しに行きましょうか!」
白蓮が勢い良く手を合わせてパン、と大きく一つ鳴らして言った。
全員が白蓮を見て力強く頷く。
逸る気持ちを抑え切れず、いち早く一歩を踏み出したムラサ。
「あ、でもムラサはお留守番でお願いするわね」
「どぇぇぇえぇえぇえぇえぇッ!!!???」
出鼻を見事に挫く白蓮の言葉が耳に入ると、ムラサは盛大に石畳の上を転がり回った。
「い、痛そう……」
「まぁ……、痛いでしょうね」
響子と一輪が倒れ伏しているムラサを見て、自分に起こったことかのように顔を歪ませる。
しかしムラサは何事も無かったようにすぐに立ち上がってみせた。
振り向いた顔には特に目立った傷は見受けられなかった。妖怪故か、或いは幽霊故なのか、いずれにせよこの程度では大したダメージは負わない。
「ど、ど、ど、ど、ど!」
ムラサは狂ったようにその一文字を繰り返しながら、白蓮に駆け寄り彼女の両腕を掴む。
「どうしてですか!? 聖!」
「どうどう。落ち着きなさい」
暴れ牛のように興奮したムラサを白蓮は宥める。しかしまったく効果は無い。
「これが落ち着いていられますか! この流れでどうして私だけお留守番なんですか!?」
「えーい、落ち着きなさい!」
このままでは埒が明かないと判断した――若干の面倒臭さもあった――白蓮は、ムラサの脳天にチョップを入れた。
「うごぉっ!?」
「あ」
ムラサが地面に叩きつけられる。頭から墜落し、石畳にめり込んだ。
白蓮としては軽く小突く程度のつもりだったのだが、如何せん元々持っている力が強すぎたのだ。
しかしムラサを落ち着かせる、もとい沈黙させるには充分だった。
「落ち着きましたか?」
「……はい」
「いいですかムラサ。あなたに留守を頼むのは、何もあなたに意地悪したいがためにそうしているわけではないのですよ」
「はぁ……、では何故なんですか?」
「誠に単純明快な話です。全員が出払ってしまえば、もしぬえが自発的にここへ戻ってきた時に誰もお迎えがいないことになる。それでは折角戻ってきたぬえが可哀想じゃない?」
だから誰かがここに留まってぬえを待つ必要がある、と白蓮は言った。
その考えにはムラサも賛同出来たのだが、自分がその留守番役であることについては、相変わらず納得がいかないようであった。
「あなたこそが適任なのですよ、ムラサ。もし、ぬえが自分から戻ってきた時には、温かく迎えてあげなくてはいけません。家出したことを後悔したにせよ、今日仕事をサボった自覚があるにせよ……、まぁ後者はほぼ無いと考えてもいいでしょうが、自分から戻ってくるには勇気が要ります。その勇気の結果がムラサであったのなら、きっとぬえは安心することでしょう」
「……そうなんですかね?」
「そうなんですよ。ちなみに、このままぬえが自分から戻る気がないのならば、お説教してから引き摺ってでも連れ帰る所存です。こちらは私たちの方が適任でしょう」
そう言うと白蓮はムラサの両肩に手を置いて回れ右させる。
「あなたは待っているだけでいいのですよ……、待つだけが手持ち無沙汰だと言うのなら、お米でも炊き直してぬえが帰って来た時に自慢のカレーを食べさせてあげるのなんてどうでしょう?」
「あぁ……、それは、確かに」
いいかもしれない、とムラサは思った。
ぬえは人の恐怖心を喰らって満たされる類の妖怪だが、普通に食事もする。中でも、ムラサの作るカレーが大の好物なのだ。
その時のぬえの幸福そうな表情を思い起こすと、ムラサはようやく留守番役を頼んだ白蓮の案に対して、首を縦に振ったのだった。
全員が幻想郷の夜空の中に溶けて消えていく姿を見送った後、一先ず台所へと足を向けたムラサは、聖に言われたとおりご飯を炊き直している。
「……」
ここに来るまでムラサは廊下を歩いてきた。当然台所へ来るためには移動する必要があるので当たり前と言えば当たり前の話だ。捻くれた考え方をすれば、飛んでいけば歩く必要は無い。
しかし、誰かが見ているわけでもないのに、そのようなどこぞの小坊主の頓知話の真似をする必要も無い。だから普通に歩いて台所へ入った。
そこでムラサが感じたのが、何者の気配も感じられない寺内を歩くというのは存外不気味だったということだ。
畏怖されるべき妖怪が、とりわけ幽霊であるムラサという妖怪が、静けさと暗さと不気味さを感じるなんてちゃんちゃらおかしな話ではある。
だがそのムラサがそう思えるくらいに、命蓮寺はいつも賑やかで騒がしく、とても楽しいと思える場所なのだ。
廊下一つ歩くにしたってそうだ。気がつけば、ムラサの後ろをぬえがちょこちょことついてきては、構って欲しそうに騒ぎ立てる姿なんて命蓮寺ではよく見られる光景の一つだ。
いつもはうざったく、やかましく、面倒臭くムラサは思ったりしていたものだが、いざぬえがいなくなった途端に寂しく思えてしまうのは随分と勝手な話ではある。
そういう自覚はムラサにも勿論ある。と言うより、思い知った。思い知らされたというのが正しいのだろう。ぬえが消えて時間にしてみれば半日と少し程度しか経っていないのだが、とても長い時間が経っているように錯覚している。広い寺内で独りなせいか、只今寂しさの絶頂期に突入して軽く泣いてしまうんじゃないか、と危惧しているくらいである。
「というか……」
泣きそう。ムラサは自分の涙腺が緩んで決壊しようとしているのを直に感じていた。
気を紛らわすように、竈の火を止めて釜に入ったご飯の出来上がり具合を確認した。
「あー、まー、こんなもんかなー」
言葉どおりの炊き上がり。もうちょっと待っても良いくらいではあったが、彼女の涙腺がそれを許さない。釜の蓋を開けた時溢れ出た湯気の持つ熱気が涙腺をさらに融かしてしまったのだろうか。おかげさまでムラサは自分の部屋に向かって走り出していた。
泣いているところなんて、誰かに見られたくはない。ましてぬえには絶対に。ムラサはその強固な意志で以って前進する。こういう時は自分の部屋に戻るのが一番良いと、彼女は考えていた。
「あー! バカバカバカバカ! ぬえのバカ! バカぬえ!」
ムラサはぬえをバカだと叫ぶ。大バカだと叫ぶ。自分を泣かせるなんてとんでもない大バカ者だと叫ぶ。その上みんなに心配してもらって。だのに戻ってこないなんておバカの極みだと叫んだ。
ムラサは自分の部屋のノブに手を掛け勢い任せに開けて中に入った。部屋は薄暗く、星を眺めながら寝たいからという理由でベッドの真上に取り付けた天窓から差し込む月明かりだけが、部屋の光源と呼べるものだった。
ここに寝転がりながら星を見ていると、何だか海の真ん中にいるような気がするのだ。もう海原を航海することはないだろうから、でもやっぱりそれは少しだけつらいから、せめて気分だけでも船の上に居たい、そんな思いから作ったものだ。
もちろん、今は星を見上げるような気分ではない。お星様にだって、自分が泣いているところなんて見せたくないと思ったのだ。
私は迷うことなくベッドに倒れ込むようにダイブして、簀巻き布団に抱きついた。
そしてムラサが顔を簀巻き布団に深く埋めて、声が漏れないようにしのび泣こうとした時だ。
「……ん?」
違和感を覚えて布団から顔を離した。その違和感とは何かと言うと――。
「あれ……、これって……」
ムラサは違和感の正体を確かめるために、もう一度布団に顔を押し付ける。そして鼻を鳴らす。
そう。違和感とは匂いの事だ。と言うのもこの布団、匂いがいつもと違うのだ。常にこれを抱いて睡眠している彼女にとって、これは大きな違和感だった。
だが、何よりも重要なのは、彼女はこの匂いを知っている、ということにある。知らないわけが無い。間違えるわけが無い。この匂いはまさしく――。
「ぬえ!?」
ムラサは簀巻きに向かって捜し人の名を呼びかけた。どこからどう見ても変哲が無い筈の簀巻きなのだが、確信をもって叫んだ彼女には最早、どこからどう見ても変哲が無い筈の簀巻きが、親友にしか見えなかった。
そして簀巻きがムラサの呼びかけに反応してその形状を変化させ始めた。本来の白く淡く光るシルエットがぬえとしての形を形成していく。
実に半日と少しぶりの再会だ。
よもやである。まさかムラサの部屋に、それもこんなものに化けていたとはムラサは露にも思っていなかった。これぞ灯台下暗し、というやつなのだろうかと目の前の光景を凝視していた。
とにもかくにも、ぬえは家出なんてしていなかったのである。その事実がどれ程ムラサの胸を撫で下ろさせるものだったことだろうか。
ぬえが、本来のぬえとしての形に戻り、ぬえを包んでいた白い光が消えていく。そしてムラサは思わずぎょっとした。
「ぬえ……?」
ぬえが泣いているのだ。涙と鼻水でぐちゃぐちゃした顔で泣いているのだ。
「うぉぉぉぉぉ~~~ん……! ムラサのアホォ~! アホムラサァ~!」
ムラサのセーラー服を両手で鷲掴みにしてぬえは言った。睨んでいるつもりなのだろうが、崩壊した涙腺のおかげでまったくそんな気がしなかった。
それにしても第一声からいきなりのアホ呼ばわりである。一体どこがアホだと言うのだ、とムラサは怪訝な顔をする。
「これみよがしかよぉ~! 私がいない時に限ってカレーなんか作りやがってぇ~!」
ぬえがそう言うと同時に、ぬえのお腹の虫が部屋中に鳴り響いた。
「えっと……」
子どものように喚くぬえ。色々聞きたいことがあるのだが、一先ず彼女を宥めることのほうが最優先らしい。そしてムラサは宥め方を知っていた。
「カレー、食べる?」
この言葉の直後に、ぬえの顔が花のように咲いたのは言うまでもないことだろう。余談だが、その後ムラサの服をちり紙代わりとばかりに、思いっ切り鼻をかまれたことを添えておこう。
今ムラサの隣では、ぬえがものすごい勢いでカレーにがっついている。余程腹が減っていたらしい。昼食から何も食べていないのだとすれば、当然と言えば当然ではあるが。
部屋にある小さな読書机をテーブルとして使わせている。あまり汚さないで欲しいとムラサは言ったのだが、ちゃんと聞いていたのかどうかは疑わしいところだ。
おかわりを要求されると面倒だと思ったムラサは、最初から結構な量を皿に盛ってやった。幸い、ごはんは改めて炊いたものを用意してあったし、ルーはまだ大量に余っていた。
「うめぇ~! ムラサのカレーうめぇ~!」
ムラサのカレーが美味いという事実は幻想郷では当たり前の事だが、泣く程喜ばれたのはこれが初めてだった。
泣き止んだと思えば、泣きながらカレーを食べるぬえの姿にクスリとしつつ、まずムラサはぬえに言わなければならない事があったので、カレーに夢中で聞き流しやしないか心配しながらそれを口にした。
「あー……、ぬえ。今朝は……、ごめんね。やりすぎた」
「ん?」
ぬえはスプーンを持つ手を止めてムラサに顔を向けた。口の中に残っているカレーを咀嚼して、首を傾げる。
「ふぁにが?」
「とりあえず飲み込んで」
「ふぁい」
ぬえはムラサの注意を素直に聞き入れて、数回咀嚼を繰り返した後にカレーを飲み込んで一息吐いた。
「んで、何? いきなり謝っちゃって」
ぬえは一体何の事に対して自分に謝罪しているのかがわかっていない様子だった。
「や、だから、今朝ぬえの事をおもいっきり殴ったじゃん? それの事で」
「あーあー、そう言えばそんな事も。いや、あれは滅茶苦茶痛かったけど、元はと言えば私がムラサのおっぱいを――」
ようやくムラサが謝っている理由を理解したぬえはうんうんと頷きながら、固まった。不自然に固まったぬえを訝しんで目線を辿ってみると、その瞳はムラサの胸に到達していた。
「ん? どこ見て……、あ! こら! 凝視すんな!」
ムラサは腕で胸を隠すようにして、顔は正面のぬえを睨んで牽制したまま体だけを捻った。
先程ぬえの鼻水と涙でべちゃべちゃになってしまったセーラー服から寝間着代わりに使っているタンクトップに着替えていたために反応したと思われる。
サイズが大きめなのが問題なのだろうか。ここ命蓮寺は女しか基本的に住んでいないから今まであまり気にしていなかったが、ぬえがここまで過剰反応するようなら考えものだと、ムラサはぬえを警戒しながら思ったのだった。
ぬえは面目ないといった様子で軽く頭を掻いていた。
「何というか……、殴られる原因はそもそも私にあったんだし……」
「いや、だけどさ、あんなに強く殴る必要なんて無かったしさ……」
「ん~……、じゃあおあいこって事にしよ? 何だかすごい心配させちゃったみたいだから」
お互いが自分が悪い、自分が悪かった、と不毛な問答になる前に、ぬえが笑ってそう言った。
そのぬえの優しい笑顔を見たムラサは、何故だかとても安心して、仲良くお互い悪かったというぬえの提案を受け入れることにした。
ぬえがスプーンを手に取り、再びカレーを食べ始める。そしてムラサはまたその姿を眺める。もう半分以上食べ終えていた。
「ていうふぁさ……」
「ぬ~え」
「ふぁい」
また口に含んだまま喋りだそうとしたぬえを、名前を呼んで注意した。
ぬえは同じ事を注意されて一瞬しまった、という表情を見せてからカレーを飲み込む。
「ていうかムラサってばさ、ひょっとして私の事心配してくれてたの?」
それだけ言ってぬえはカレーに手を伸ばす。ムラサはぬえへ向けていた顔を真っ直ぐに戻す。
「滅茶苦茶心配したわよ」
ずっと傍にいてくれるものだと思っていた。だから、ぬえがいなくなった時、星の口から出た家出の可能性を聞いた時、ムラサは本当に焦ったのだ。何とか冷静でいようとしたが、カレーをあんなに作ってしまうなど、明らかに動揺してしまったのだ。
ぬえがいること。それがムラサにとっての当たり前だったのだ。こうして隣にぬえがいる。それがこんなにも幸せに思えるのだ。
ふと肩に重さを感じた。
ぬえが頭を乗せてきたのだ。
「へへ……、ぬぇーん」
妙な鳴き声が聞こえてきた。よく解らなかったが、トーンからして少なくとも嬉しそうであることは理解できた。
「なによ、その変な鳴き声は」
「知らないの? 鵺の鳴き声だよ」
ぬえとは結構な付き合いになるムラサなのだが、そんな事は初めて聞いた。驚きの新事実である。
肩越しに感じるぬえの体温が、何だかムラサを気恥ずかしくさせた。妖怪の癖に妙にあったかい。きっと幽霊な彼女の方が体温が低いためだろう。
このままだと間が保たなくなりそうだったので、今度はこちらから聞いてみる。
「ぬえの方こそさ、なんであんなのに化けてたのよ」
あんなの、と言ってしまっているが、あの簀巻き布団はムラサの快眠に必要不可欠な大切な物だ。
ぬえが家出していなくて一安心ではあるのだが、そうするとこの疑問が頭の中に残ることになる。晩御飯のカレーを泣きながら鼻水垂らしながら耐え忍ぶ程の理由とは果たしてどんなものなのか、是非にでも聞いてみたかったのだ。
「んーとね……、ムラサとイチャイチャしたかったから」
「え?」
ぬえはあっさりと答えた。何だかすごい事をあっさりと答えた。あまりにもあっさり答えるものだから思わずムラサは固まってしまった。
ぬえは続ける。
「だってムラサ、最近忙しそうで全然構ってくれないじゃない? だからアレに成り代わって合法的にムラサと抱き締められるという名案を思いついたのよ! 紆余曲折あったけど、一応成功したし、気分は上々よ!」
得意気に胸を張るぬえ。しかしすぐに物足りなさそうな表情を見せてずいっと顔をムラサに近づけた。
「でも、まーだ足りないんだよねぇ~。ねぇムラサ~。もっとイチャイチャしてもいい~?」
ぬえはその幼い顔立ちには似合わない妖艶な微笑を見せながらムラサに迫ってくる。
ムラサはそんな彼女に参ってしまいそうだった。あぁ、どうしてこんなに可愛いんだろうか。ムラサはぬえを可愛いと素直に思っていた。
そう――。
「ぬ、ぬえ……」
「ん~? 何かな~?」
「ほっぺにカレールーが付いてるよ」
「ふぇ?」
――頬にカレールーこびり付けて迫ってくるのだから。
とてもじゃないが、セクシーでは無かった。
「えぇぇぇぇぇえ!?」
「アハハハハ……、はぁ~、もう。ぬえってば間抜けねぇ」
ムラサの指摘に顔を真っ赤にして慌てふためくぬえの頬に手を伸ばす。
さっきも今と似たような状況に遭遇したのだけれど、ムラサは無邪気な彼女ほど大胆な行動には出れなかった。
人差し指でぬえの口元に付いたルーを拭ってやり、そしてそれを自分の口に咥え込んだ。
「あ……」
その様子を見ていたぬえはその一文字だけ口から漏らすと、真っ赤だった顔をさらに赤くして、頭からムラサの体へとしな垂れかかった。
ムラサはぬえの華奢な背中に手を回して優しく抱きとめてあげた。ぬえの体温はさっきより上がっているような気がした。
「イチャイチャするって、こんな感じでいいのかな?」
「……そんな感じでお願いします」
ぬえはムラサの胸に顔を埋めたままで言った。
そのムラサも余裕ぶって言ってみせたはしたが、正直かなり限界突破した行動で顔が熱くなるのが止まらなかった。ばれないように、片手をぬえの頭に乗せて撫でる振りをしながら顔を上げられないようにした。
でも今みたいに二人っきりでいる時なら、これくらいイチャイチャしてあげてもいいかな。そう思って、先程よりも少しだけ強くぬえを抱き締めてあげた。
すると、聞き覚えのある鳴き声が聞こえてきた。
「ぬぇ~ん」
それは先程聞いたものより、嬉しそうに聞こえたのだった。
ドアを勢い良く開け放ち、封獣ぬえは開口一番に部屋の主の名を叫んだ。
今日も変わらず幻想郷には朝がやって来た。何の変哲も無い朝である。小鳥のさえずりがよく聞こえる、澄んだ朝。
強いて言うなら、梅雨入りが近いくらいだろうか。もう少しすれば、ジメジメと嫌な季節になる。
しかしここ命蓮寺では、そんな憂いもどこ吹く風といったぬえの明るい声が響き渡っていた。
命蓮寺。最近になって聖白蓮という尼僧が開いたお寺だ。人里からそう離れていない場所に建っており、また『宝船』が変形して出来たという事もあってか、人間にも妖怪にも好評なのである。
そう、妖怪にも好評なのである。というのもこの命蓮寺。元々は妖怪を救うために開かれた寺なのである。人間が出てきたのは、先にある「宝船が変形して出来た」という経緯があったことに多くは起因している。そして何より、聖白蓮という人物の人柄が、人も妖も分け隔てなく接することの出来る器の大きさを持っていたことだ。
かくして、命蓮寺は多くの信仰を得ることに図らずも容易く成功したのである。当の本人は、そんなものに殆ど興味を示さなかったのだが。
さて、この命蓮寺。白蓮以外にも住人が何名かいる。そのいずれもが妖怪である。基本的に白蓮を慕っている者たちばかりだ。
その内の一人が、気持ち良さそうに眠りこけているムラサ。村紗水蜜だ。
彼女は命蓮寺がの前形である船の船長を務めていた。そんな彼女の部屋にはその名残なのか、部屋の中央に操舵桿が残っていた。ここは操舵室だった場所だ。ムラサにとっては最も馴染み深い部屋だ。彼女はベッドの上で簀巻きにした掛け布団に抱きつく格好で睡眠に勤しんでいる。
ムラサは寺の住人の中では寝坊助さんだ。そんな彼女を起こすのが、ぬえの朝の日課である。
ぬえは今日もしっかりお寝坊さんのムラサを見て満足そうに笑う。
「ほらほら起きろー朝だぞー」
言いながらベッドへと早歩きで寄っていく。相変わらずムラサからはうんともすんともあと5分寝かせてとも聞こえてこない。言ったところでそんな要求は飲まないぞ、とぬえは鼻を鳴らした。
いやしかし5分寝かせて、という要求なら飲んでもいいかもしれないとぬえは思い直した。そうすれば、少なくとも5分間はムラサの寝顔を眺めていられるのだから。
「こら起きろー!」
しかし残念なことにムラサからそういった要求が聞こえてこなかったので、ぬえは彼女を起こすことにした。ここで起こさなかったら、ムラサだけでなく自分も説教されてしまうのだ。それは何としても避けたかった。
ぬえはムラサへダイビングしようとしたところで固まった。ベッドで眠るムラサからあるモノが、ぬえの目に入ってしまったからである。ちなみに余談だが、ぬえがムラサを起こす時はいつもムラサに飛び付くという、ダイレクトな起こし方をするのだ。無論ムラサからは「痛いから止めろ」と注意されているのだが。
そんなぬえが思わずムラサを見て動きを止めてしまう何かとは。それはぬえの口から零れることで自然氷解する。
「おっぱい、見えてる……」
ぬえの目に飛び込んできたのはソレだった。まさかの光景に、ぬえの体は飛び上がろうとする一歩手前で固まってしまったのだった。
ムラサの寝姿はタンクトップにパンティーといういささか開放的な出で立だった。最近人里の服飾店で見つけて気に入ったらしく、寝間着として使用しているのだ。
「そう言えば昨日の宴会でかなり飲んでたしなぁ……」
ぬえは思い出したように呟く。振り返れば、もう色々億劫だったのかいつものセーラー服やブラジャーが投げ捨てられたように床に落ちていた。
視線を戻す。
やはりチラチラとムラサの白い肌から覗く、一般的な女性よりやや大きめな双丘の片割れに目が行ってしまう。
「なんか、エロイ……」
ただ素っ裸であることより数倍扇情的だ、とぬえは自らの顔の熱が抑えられないでいた。
「さ、触っても……、いいかな……?」
朝っぱらとは言え、こうも挑発的なものを見せつけられては溢れる欲望を曝け出さないわけにはいかないと、ぬえは直感した。
こうして一緒に生活を共に過ごし、そもそも地底に封印されていた頃からつるんでいた仲なのだが、こういったお戯れはしたことがなかったことをぬえはしみじみ思った。
しかし今ならば出来ると思った。たとえここでムラサが起きてどつかれようが、動き出したこの手を止める気などぬえにはさらさらなかった。
「はぁ……、はぁ……!」
ゆっくりと手を伸ばしていく。腋から滑り込ませることに成功すれば、ミッション・コンプリートだ。
どつかれても構うものか、と意気込んではいるが、無事に終わるのならその方が断然良いに決まっている。ぬえは慎重に事を進めることを選択した。その分、ぬえも気付かぬうちに呼吸が荒くなっていた。
結果的に、これが失敗の原因だった。
「んんぅ……」
「あだっ!?」
ムラサが寝返りを打ってきたのだ。その際、ムラサの右腕が裏拳となってぬえの顔面を打ち抜いた。
ぬえの悲鳴とムラサの右手に残った衝撃が、ムラサを眠りから覚醒させてしまった。
「んぁ……?」
「あ」
眠たげな目をしたムラサと涙目のぬえが目を合わせた。
寝起きで状況がまるで把握できていないムラサとぎこちない笑顔をしたぬえ。
静止すること約20秒。
ムラサの目線がぬえの腕を追い始め、そして。
自分の胸を揉みしだこうと目論むぬえの手に至る。
それからムラサは再びぬえの顔を見る。その顔は先程とは違って状況を理解していた。
ムラサはニコリと微笑む。
「おはよう、ぬえ」
ぬえは相変わらずぎこちない顔をしたまま、カタコトのような語り口で挨拶を返した。
「オハヨウゴザイマス、ムラササン……。キョウモイイテン――」
「ふんっ!!!!!」
ぬえが言い切る前に、笑顔のままのムラサの重い一撃が、ぬえの腹を打ち抜いたのだった。
大きな音と共にドアを開け閉めすると、ムラサは肩を怒らせながらズンズンと食堂へと向かって大股に歩いていく。鼻息が荒い。
すると廊下の向かい側から、住人の一人である雲居一輪が姿を現した。
一輪がムラサの姿を認めると、片手をヒラヒラと上げてムラサに声を掛けた。
「ようやく起きたわね……、あら? ぬえが喜び勇んであなたを起こしに向かったはずだけれど……」
「知らんッ!!!!」
ムラサはそう大声で言うと、相変わらず大股で一輪の横を抜けて廊下の角に消えていった。
一輪は首を傾げる。
「……何かあったのかしら?」
ムラサを起こしに行ったぬえの姿が見えなかったことも気になったので、ムラサの部屋に向かう一輪。
ゆっくりとドアを開けてみると――。
「うぉぉぉぉ……、お、お腹がぁぁ……!」
ムラサのベッドの上で悶絶しているぬえの姿がそこにあった。
「何やってるんだか……」
一輪はため息を吐いてから、静かにドアを閉めその場を後にしたのだった。
腹の痛みが収まったのはそれから一時間後の事である。朝食は完全に食いっぱぐれてしまった。
「あー……、痛かったわー……」
ぬえはムラサのベッドにぺたりと座ったまま、お腹をさする。女の子の大事なお腹を容赦なく殴るとはとんでもない奴だ。ぬえは心の中で憤慨した。
「まぁ、最初に手を出したのは私だけどね」
だから、強く言うことなど出来ない。
一人だけになったムラサの部屋で呟き、前のめりにベッドに倒れ込む。
鼻に広がるのは、ムラサの匂い。思い切り吸い込む。
「あー……、いい匂い……」
ぬえは自らの奇妙な形の羽をパタパタと動かして気が抜けたような声を上げた。
ぬえはムラサの事が大好きだ。ぬえは彼女を親友だと思っている。ムラサもきっと自分の事をそう思っている、とぬえは思っている。
しかし封印から脱し、白蓮を助け、命蓮寺で活動を始めてからというもの、あまり構ってもらえなくなったような気がしていた。ぬえの最近の悩みの種だ。
ムラサが意気込んでいるのは良く分かっているつもりで、彼女の邪魔をして嫌われてもつまらない。だからムラサと遊ぶ機会が減ってしまうのは致し方ないと、ぬえは理解していた。しかし、予想以上だった。ロクに顔を合わさない日もあったくらいだ。遊ぶ機会が減るどころか激減である。ぬえにとってこれは予想外であった。
表向きは普段通りを装っているつもりだが、不覚にも昨日の宴会でその事に関して新入りに愚痴を零してしまい、内心は焦燥感でいっぱいだった。
一応、自分に出来た初めての後輩だというのに、酒のせいもあってのっけから情けない事をぶちまけてしまった。威厳とかそんなものはもう自分には期待出来ないだろう。思い出してぬえは羽をへにゃりと倒す。
「あーあ、ムラサとイチャイチャしたいよぅ……」
結局、ぬえの願望はそこに行き着く。毎朝ムラサを起こしに行くのも、その願いを満たすためのささやかな行動だ。
仰向けになる。首だけを動かしてムラサの部屋をぐるりと見回す。
操舵桿。今では機能しないソレを、かつての雄姿を懐かしむように握っている時がある。洋服箪笥。基本的にスペアばかりで、面白味に欠ける。錨。ムラサの得物。こんなものを片手で投げ飛ばす彼女の腕力から繰り出されるパンチは、そりゃあ痛いのも当然なわけで。よくわからない小物類。人里で人間の子どもたちから貰ったらしい。本棚。海洋冒険ものばかり収まっている。机。脚が低い机で、読書する時に使っている。ベッド。枕もシーツも簀巻きな掛け布団も、ムラサの匂いでいっぱいだ。
「あんたたちはいいよねぇ、私なんかよりずっと長い時間ムラサといられるんだから」
うらめしや、と知り合いの唐傘お化けの口癖を呟く。
付喪神でもないのにこんなことを言ってしまうとは、いよいよもって末期だな、とぬえが自嘲気味に笑う。
そこでふとある妙案が頭に浮かんだ。
「ああ! そうか! そういう手があったか!」
ぬえは勢い良く起き上がる。
「なーんで今まで思い付かなかったかなあ! あははは!」
一人で喋り、一人で納得し、一人で笑うぬえ。
降って湧いた名案を早速実行に移すべく興奮気味に部屋の中を物色する。
「どれがいいかなー?」
なるべくムラサが触れることが多いものがいい。その時点で候補はいくつかに絞られるが果たしてどれが良いものか、とぬえは思案する。
そしてあるモノが目に付いた。
「お、これなら……」
ぬえはあるモノに近付く。それはまさにぬえの希望に沿った、最高のモノだった。
ニヤリ、と満足そうに悪い笑顔を浮かべたぬえは早速それに手を伸ばした――、ところで部屋中に腹の虫が鳴る音が響いた。
「あ」
かなり盛大に鳴り響いたのだが、幸いにして誰にも聞かれずに済んだことに胸を撫で下ろして、まずは腹ごしらえするべく一度部屋を後にしたぬえであった。
朝餉を終えた寺の住人たちはそれぞれのお勤めを始めていた。
基本的にこの時間は寺の掃除をする。ムラサは廊下の雑巾掛けをしていた。ドタドタと外に面した廊下を駆け抜ける。
端から端へ。辿り着いて息を吐く。
「ふぅ~……」
ムラサは振り返って自らの仕事の出来栄えを確認する。綺麗に磨かれた廊下は太陽の光を反射していて、仕事としては上等な出来だと頷いた。
「ま、デッキブラシ使った方がもっと綺麗に出来るんだけどね」
ここらへんは昔とった杵柄だ。命蓮寺の元が船なのだからそれでもいいんじゃないかと思ったが、形や名称が変わったことに呼応して掃除の道具も自然と変わっていった。
件のデッキブラシは今は蔵の中である。たまに遊びで棒術をする時に使ってみたりすることもある。今はもうそれくらいでしか日の目を浴びる機会が無くなってしまった。
「さて、と。ここは終わったし次行きますかー……、ん?」
伸びをして、まだ掃除していない場所へ向かおうとした時、境内の方にある二人の姿が目に入った。
ナズーリンと最近命蓮寺にやって来た幽谷響子だ。二人は何やら話をしていた。ムラサは少しだけ気になったので、掃除を一旦中断して二人に歩み寄ることにした。決してサボるわけではないと、心の中で言い訳して。
「ナズちゃん、ナズちゃん。どこ行くのー?」
「さてね。強いて言うならこいつが指し示す先かな」
元気な新人・響子は可愛らしい笑みをナズーリンに振りまきながら尋ねると、ナズーリンは手にしたダウジングロッドを持ち上げて答えた。
「遊びに行くの? 私も一緒に行っていい!?」
響子は尻尾をこれでもかと振ってナズーリンにお願いする、がにべもなく断られた。
「残念だが遊びじゃないよ。だから連れて行かない」
「えぇー……」
途端に響子の尻尾が力なくうなだれる。ついでに肩も落とすが、それも一瞬。すぐに次の策を思い付いたのか、縋るようにナズーリンの両肩を掴んだ。手に持っていた竹箒が石畳に倒れこむ。
「じゃあ、お仕事終わったら遊ぼう!」
「こ、こら、響子!」
「ねーいいでしょー! 一緒に遊ぼうよー!」
ぐわんぐわんとナズーリンの身体を揺らす。これ以上揺すられては敵わんと思ったのか、いつもは賢しく自分への被害を最小限にする逃げ道を模索するナズーリンが早々に折れた。
「わかった、わかった! 仕事が終わったらな! だから揺するのを止めたまえ!」
その言葉を待っていましたと、響子の尻尾が再び元気になる。
「やったぁ! ナズちゃん大好き!」
ナズーリンに抱きつく響子。その表情はとても嬉しそうだ。一方のナズーリンは少し気恥ずかしそうにしながらも、こちらもどこか嬉しそうな顔をしていた。
そうして自分に抱きついている響子の頭に手を乗せようとした――ところで、自分たちのやり取りを見て近づいて来るムラサの存在にようやく気付いた。
ナズーリンは遠目で見てもわかるくらい顔を赤くして、急いで響子を引き剥がした。響子は首を傾げる。
「?」
「じゃ、じゃあ、行ってくるよっ! 後でね!」
「? うん! 行ってらっしゃい! 気をつけてねー!」
そそくさといずこかへと飛び去ったナズーリンを、響子は持ち前の声量を手を振りながら披露して見送った。
ムラサが響子の背後に立つ。そこまで来てようやく、響子はムラサの存在に気付き後ろを振り向いた。
「あ、ムラサさん! お疲れ様です!」
「お疲れ。響ちゃんは今日も元気ねー」
ムラサが頭を撫でてあげると、響子は嬉しそうに目を細めた。
「えへへ」
響子はこうして頭を撫でられることが多い。理由は頭が撫でやすい高さにあることと、彼女がとても可愛らしいからだ。
「それにしても」
ムラサは響子の頭を撫でくり回しながら、先程のナズーリンとのやり取りで気になった事を尋ねてみた。
「響ちゃんって、ナズーリンと仲いいよね」
「えへへ、そう見えた?」
「とっても。さっきのやり取りも、見てて新婚夫婦かと思ったわよ」
「しっ、新婚!? 私とナズちゃんが……? えぇぇ、な、何だか恥ずかしいよう……、きゃーっ!」
想像してしまったのか、響子は顔を真っ赤に染めた頬を押さえるように手を当ててくねくねしている。尻尾はものすごい勢いで振れている。普段は垂れている獣の耳もぴんと立っていた。どうやら喜び絶頂のご様子だった。
響子は見たまんまだが、ナズーリンも満更そうではないこの二人の関係。一体何に起因するのかと言えば簡単で単純な話で、響子を命蓮寺に連れて来たのがナズーリンという話なだけである。
その際何かあったのだろう。ナズーリンが連れてきた時には既に彼女に懐いていた。
呼び方にしたってそうだった。命蓮寺において、ナズーリンを「ナズちゃん」などと呼ぶのは響子をおいて他にいない。一番付き合いの長いはずの星ですらそんな風に呼んだことは無い。
「(まぁ、アレは主従の関係だからかもしれないけど)」
一方のナズーリンも、響子の事を「響子」と呼び捨てにしている。他の命蓮寺の面々は「響ちゃん」と呼んでいる。
確かに、ナズーリンは誰かを愛称で呼ぶような性格の妖怪ではないが、響子に対しては何か頑なな、譲れない気持ちのようなものがあるのだ。そこには、二人の馴れ初め、もとい出会った時にあった何かが関係しているのかもしれない、とムラサは思った。
そこでムラサは思い出す。そう言えばもう一人「響子」と呼ぶ奴がいたことを。封獣ぬえである。
「ま、あいつは先輩面したいだけなんでしょうが」
「?」
「ああ、ごめんね。ぬえの事」
「ぬえさん?」
ぬえをさん付けで呼ぶ響子。ムラサは未だにその違和感に慣れない。
これは余談になるが、ナズーリンと響子が仲の良さを際立たせているのが、このナズーリン以外は皆、さん付けで呼ぶことにあった。
しかしまぁ変なものは変に感じてしまうなぁ、とムラサがしみじみ感じていると、響子が話しかけてきた。
「あ、あの、ムラサさん。ぬえさんの事なんですけれど」
「ん?」
少しだけ遠慮がちに切り出す響子。ぬえの事で自分に話すこととは一体何だろうかと考えると、一つ思い当たる節がある。というよりそれしかないとムラサは思った。
「ははぁーん、さてはぬえの奴、響ちゃんに何か意地悪したんでしょう? いいよ、大丈夫、言ってごらん。私からきつぅーくお灸を据えてきてあげるからさ」
そう言ってムラサは指を鳴らす。
しかし響子は慌てて手と首を振ってそうではないことをムラサに告げる。
「あ、違います違います。ぬえさんには何もされてなくて……」
「あら、そうなの」
あの生来の悪戯好きが、こんなにイジりがいがありそうな後輩を前に何もしていないことに少々驚きつつ、手を下ろした。
では一体何だろうかとムラサが響子に先を促すと、あまりに予想外な言葉が返ってきたのだ。
「ぬえさん、最近ムラサさんに構ってもらえなくて寂しがっているみたいなんです」
「え?」
「昨日の宴会で、ぬえさん言ってました」
「ええぇ?」
ムラサにとって、まさかの展開である。問題はぬえにあるのではなく、自分の方であったこと。仲介を買って出ようと思ったら、その相手がむしろ仲介人だったのだ。
それよりも、何よりも、ぬえが寂しがっているという言葉にムラサは驚いたのだった。
そして、響子は言った。
「私やぬえさんみたいな妖怪は、構ってもらえなくなるのが、忘れられるのが、否定されるのが一番つらいんですよ。ぬえさん、ムラサさんの事が本当に大好きなんです。だから――」
『だから――大事にしてあげてください』
自分が綺麗に掃除した廊下を歩きながら、ムラサは腕組みして先程の響子の言葉を反芻していた。
まさか響子にあんな事を言われるとは、ムラサはまったく思っていなかったのだ。
しかし言われて思い出したのは、響子自らが言っていたように、響子もまた山彦としてその存在を否定されていた事。それがナズーリンに連れられてここにやって来た理由だった事だ。
「普段はあんなに可愛らしいからついつい忘れちゃうけど、あの子も苦労してたのよねぇ……」
ならば、ぬえはどうなのか。
彼女の場合は大昔に悪さして退治されて地底に封印され。
ぬえとムラサが出会ったのは封印された先の地底でだ。特にウマが合っていたわけでもなかったが、気付けば一緒に暮らしていた。
封印から脱してからも、結局命蓮寺で一緒に暮らして適度に人里で人間を恐怖に陥れて、その度に満足顔で帰ってくる。
それが自分に構ってもらえないくらいでどうにかなってしまうタマだろうか。
「まぁ、確かに最近構ってあげてないかもしれないけれど……」
それだけは確かにそのとおりだと思ったムラサは、一先ずぬえと話でもしようと思ったのだった。そして彼女は自分の部屋の前に立っている。
寝起きの出来事以来ぬえの姿を見ていないので、まだここにいると思ったらからだ。
少しだけ強く殴りすぎたかも、と今更ながら思っていたし、そのせいでまだ悶絶していたとしたらさすがに罪悪感の一つも覚える。
謝罪のついでに事の真相を本人から聞いてみよう、そう心に決めてドアを開けた。
「ぬえー、いるー?」
自分の部屋だというのに、ムラサは遠慮がちに顔だけ覗かせて言った。
返事は無い。気配も無い。完全に誰もいない部屋だった。
「ふむ、いないわね」
どうやら立ち直ってはいるらしい。となると次はどこを探そうか。
「腹の痛みから立ち直って、むしろお腹が減ったパターンか? 結局朝ごはん食べてないだろうし」
そうぬえの行動を分析したムラサは、台所へと向かうことにした。
「ぬえ? ああ、さっき来たわよ」
「やっぱり」
台所に入ると、昼食を準備していた一輪がいた。
ぬえについて聞いてみると、案の定ここに来ていたとのこと。
「あなたのせいで食いっぱぐれた朝ごはんを食べてたわ」
「いや、あれは……、はぁ、そうですね。私が悪うございましたよ」
一輪はけらけらと笑う。
ぬえが既にいないとなると、ここにこれ以上長居することは即ち一輪にからかわれ続けることになると判断したムラサは、聞くことだけ聞いて早々に退散することを選択した。
「で、ぬえがどこ行ったか知らない?」
「んー知らないわねぇ。昼の支度を手伝わせようとしたら逃げられちゃったから」
「……そう」
早くも足取りが掴めなくなってしまった。次は一体どこへ向かったのだろうか。ムラサは額に手を当て、大げさに唸りながら台所を後にしようとした。
「うーん……、だとするとぬえは一体どこへ行ったのかしら。難問だわ。あ、一輪、ありがとね。じゃあ、私はぬえを探すのに忙しいからここらで失礼する、わっ!?」
極めて自然に台所から出ようとしたところを、一輪に首根っこを掴まれる格好で阻止された。
振り返ると素敵な笑顔をムラサに向ける一輪が立っていた。
「ム・ラ・サちゃん?」
「はいはいわかったわよ……」
一輪は怒らせると後が怖いことを、ムラサはよく知っているので抵抗することなく彼女の手伝いをすることにした。
ちなみに、一輪にちゃん付けで呼ばれたのは初めてのことであった。
それから昼食を終え――ぬえは姿を見せなかった――、ムラサはぬえを探し回った。しかし一向に見つかる気配がなかった。
「こんなところに……、いるわけないか」
と、言いながらも厠にまで来てしまったムラサ。すぐさま反転して出ると、ナズーリンと鉢合わせた。
「おや、珍しいね。君が用を足すなんて」
「ナズーリン、ぬえ見なかった?」
「? いや、見ていないが」
ナズーリンもやはりぬえの所在は知らないようだ。あと寺内で探していない所となると、蔵くらいしか思いつかなかった。
「何? ぬえを探しているのかい? そういえば朝から見てないね」
「そうなのよ。ったくあいつ、どこに行ったのやら……、あ!」
「!? ど、どうしたんだい、いきなり」
話している最中にいきなり大声を上げたムラサに、ナズーリンは思わずびっくりした。
ムラサの視線はナズーリンが手に持つ道具へと注がれている。
「ナズーリン、お願い! ちょっとぬえを探してくれない?」
ナズーリンのダウジングロッド。そして能力。これを使えばぬえを容易く捜し当てることが出来ると思ったのだ。
ムラサは手を合わせて懇願する。
しかし。
「残念だが、無理だね」
返ってきたのは探し物を探すのが得意な賢将の言葉とは思えない答え。
「どうして!?」
よもやナズーリンがそんなことを言うとは思わず、ムラサは詰め寄った。
「ぬえだからさ。彼女が『正体不明』故に、探し出すことが出来ないんだ」
「そんな……」
「ぬえに関してだけは、地道に探す他ないね」
「そう……」
「まぁ、どうせいつもみたく誰かを怖がらせているんだろう。私が探さなくてもその内自分から戻ってくるだろうさ」
「失礼」とナズーリンはムラサの横をすり抜けて厠へと入っていった。
ムラサもここに立ったままでいるのは無粋だろうと、とりあえずぬえの捜索に戻ることにした。
「あとはここくらいなのよねぇ……」
ムラサは蔵の前に立っている。命蓮寺を一通り探し回って最後に残ったのがここである。
「正直、あんまり期待できないんだけれどね……」
厠の後に来る程である。それくらい、ぬえがここへ来る頻度は低い。
とは言え、可能性としては捨て切れないものがあるのでやって来た次第である。
しかしここでようやく当たりを引いたのか、何やら中に誰かがいるような気配をムラサは察知していた。
「ぬえ?」
とにかく中に入ろうと、ムラサは重そうな観音扉を軽々と、勢いよく開けてみせる。
蔵はそれなりに広いが、命蓮寺を開いてからまだそれほど時間も立っていないのでそれほどごちゃごちゃはしていない、はずだったが今はごちゃごちゃしていた。
肝心のぬえだが、やはりここにもいなかった。
その代わりに、なるのかは定かではないが、蔵の中をひっくり返して何かを探している毘沙門天の代理にして弟子である寅丸星がいた。
「あぁ……、ここにも無い……、おや? ムラサじゃないですか。どうかしましたか?」
「何だ、星か……」
「えぇ!?」
「はぁ……、どこ行ったのよ本当……」
「話が見えないですよー!」
ムラサは事情を話した。その上でぬえの所在について知らないか、星に尋ねてみる。
しかし、返ってきた答えは案の定――。
「う~ん……、すみません。私も今日一日彼女を見てないですね」
「だよね……」
ムラサは頭をガリガリ掻いた。いよいよ八方塞りである。
「後は……、外に行ったとしか思えないわね……」
「外ですか」
ムラサは蔵の入り口を振り返りながら言った。
釣られて外を覗き込んだ星が、何気なく言った。
「ひょっとして家出しちゃったり……、あ!」
星は慌てて口を押さえる。
だが時すでに遅し。ムラサの耳にはもう届いている。
「家出……」
ムラサは星へ振り返らず、目線を足元に下げてポツリと呟いた。
星はうっかり滑った己の口を呪いながら、ムラサにフォローを入れる。
「いっ、いや、ムラサ、今のは違うんです! 忘れてください! 思ったことを口にしちゃっただけで……、ってあー今のもなしです! 思ってないですから! そんなこと! あとぬえも家出なんてしてないですってきっと!」
フォローを入れるつもりがただただ墓穴を掘るだけの結果になってしまった。
そんな星の言葉もムラサの耳にはもう届かないのか、ふらふらとした足取りで蔵から出ようとする。
「ム、ムラサ? 聞こえてますかー?」
「……」
ムラサの顔前で手を振って注意を引こうとするも効果なし。
幽霊の如き空気感を放ち、星にはそれ以上何も言えず、彼女を見送ることしか出来なかった。
ところが。
「……?」
「あら?」
蔵の入り口でムラサがある人物とぶつかる。
正確にはムラサが相手の胸に顔をぶつけた格好だ。その際、相手の胸の弾力によりムラサの顔が押し戻された。
命蓮寺にそのような豊かな胸を持っているものは唯一人しかいなかった。
「蔵の方に二人もいるなんて珍しいわね」
「聖」
おっとりとした口調の、見るからに穏やかそうな女性。命蓮寺を開いた尼僧こと聖白蓮だ。
白蓮はムラサとぶつかった際に落ちてしまったムラサの帽子を拾い上げて、埃を払ってから彼女の頭に戻してやった。同時にムラサを気遣う。
「ごめんなさいねムラサ。大丈夫だった?」
「はい……、すみません」
ムラサは暗い表情のまま、俯きがちに謝罪する。
そんなムラサの態度に白蓮は少し首を傾げるも、すぐに別の事を思い出したのか、そこには言及せず思い出したことをムラサに伝える。
「ああ、そうそう。今日の夕餉の当番はムラサで合っているわよね?」
「あぁ……、そうだった……」
「そろそろ準備を始めないと、危ないわよ?」
「はい……。では行ってきます……」
「よろしくね」
ムラサは重い足取りで、台所へと向かっていった。
白蓮はその牛歩を角で見えなくなるまで見送ってあげると、蔵の中にいる星を見て再度首を傾げた。
「ムラサ、元気無いみたいだけれど、何かあったのかしら?」
「まぁ……、あれはしょうがないかと……」
せめてそれを最初に聞いてあげて欲しかったなぁ、と心の中で呟いた星は、ムラサを気の毒に思った。
「?」
「いえ……、何でもありません」
しかし、ムラサがああも気落ちしてしまった原因は自分の失言にあるのだと思うと、何も言えなかった。
「ところで、星はどうしたの? 蔵をこんなにひっくり返して……」
「あぁ……、実はですね、宝と――ってうわあ何でもありません!」
「? 何かしら?」
「いえ! 蔵の整理でもしようかなーと思いましてね!」
「もう星ったら、これじゃあ逆に散らかっちゃっているわよ」
口に手を当てて苦笑する白蓮。
「あははは……、そ、そうですよねー。おっかしいなー、ははは!」
一方の星は乾いた声で笑う。背中から流れる嫌な汗がとても気持ち悪い。
「手伝った方がいいかしら?」
「えっ!? いえ、いえいえ大丈夫です! 聖の手を煩わせる程じゃありませんから!」
聖の申し出を、星は両手を突き出して大げさなほど振って遮った。
『宝塔を(また、うっかり)失くしました』などとは、口が裂けようが言うわけにはいかなかった。ましてや聖などには絶対に言えるはずが無い。
「そう……、わかったわ。じゃあ頑張ってね」
あまりにも必死な星の拒否の態度に、少しだけ残念そうな顔を見せた白蓮はそう言い残して歩いていった。
そして一人残った星は、大きく息を吐いたのであった。
「はぁ……」
台所に来て既に何度目かの溜め息である。さっきから口から出るのはそればかり。
原因はもちろん、ぬえの事である。
相変わらずぬえは行方知らずのまま。命蓮寺全体を捜索しても見つからないのだから、いよいよ外にいる可能性が高い。
そこに星の口から出た家出の可能性だ。彼女は冗談半分で言ったのだろうが、思い当たる節がムラサにはあった。
まず、朝の出来事だ。目が覚めたらいきなり胸を触ろうとしていたぬえに、渾身の力を込めて腹にパンチをお見舞いしてしまった事だ。
確かに、あそこまでする必要は無かったのだが、いかんせん寝起きだったこともあって、ムラサには力の加減が全く出来なかったのだ。
食事を食べるまでは怒り心頭だったが、朝餉を食べながら少しずつ冷静になっていき、流石にやりすぎたなとムラサも自省してはいた。ぬえのセクハラ未遂を許すわけではないのだが。
そしてもう一つ。これは今日に限ったことではなく、日々の生活で蓄積していった事なのだが、ぬえと遊ぶ時間が確実に減っていたことだ。
『大事にしてあげてください』
響子の言った言葉が再び頭をよぎった。まさか言われたその日にぬえがいなくなるとはムラサは思いもしなかったが。
料理なんて作っている場合ではないのかもしれない。ムラサはそう思っている。本当ならば今すぐにでも外に探しに行きたいのだ。
では何故彼女は料理の支度をしているのだろうか。答えは簡単だ。ムラサにとってのぬえは間違いなく親友であり、家族だということは自他共に認めるところである。そして同時にぬえ以外の命蓮寺の皆もまた、ムラサにとって大切な仲間であり、家族なのだ。どちらも大事な存在なのだ。
ムラサは今のこの事態を、何処ぞにいるかわからないぬえとの個人的な問題であると認識している。故に、それを理由にして皆の夕餉の支度を投げ出すわけにはいかないと考えているのだ。
腹が減っては戦はできぬと言う言葉に従い、まずは腹ごしらえをするべきだ。
だから、焦る必要も、動揺する必要も無い。落ち着き払って、ムラサは今日の夕餉のカレー作りに専念していた。
もうすぐ出来上がりは近い。ムラサの作るカレーは幻想郷の中でも一番だとされる程の絶品であると誉れ高い。
そして、完成。立ち込める匂いがムラサの嗅覚を刺激し、空腹感を煽った。今日の出来も完璧であるとムラサは頷いた。今後の考えも概ねまとまり、何も問題無いと思っていると――。
「あ……」
思わず声を上げたムラサだったが、自分の声がこれほど間抜けに聞こえたのは初めてだった。周囲を見回し、誰にも聞かれていないことを確認する。
ムラサはせわしなく右へ左へと動かした首を正面に戻す。
ムラサは唾を飲んで目の前に鎮座するカレーを見た。自分のカレーの出来具合に生唾を飲む、のであったのならば幸せだったのだが、実際は固唾を飲んだという表現の方が近い。
いや、カレーの出来自体には一切何ら問題無かったのだが、彼女が注目したいのはそのカレーを納めている容器の方である。
「でかっ……!」
大きいのだ。大き過ぎたのだ。ムラサがカレー作りに用いた鍋は、大人数での宴会を催す際に使用する寸胴鍋で、気付かぬ内にそれを使ってしまっていたのだ。
そのくせ、お米の方はいつもと変わらない分量で用意しているのが、ムラサにはとても恨めしく思えた。
一体、何が問題無いというのだろうか。
結局のところ、ムラサはとても焦っていた。とても動揺していた。落ち着きなんて微塵もなかったのだ。
「はぁ……」
その事を思い知らされたムラサは、途端に肩の力が抜けてしまったような気がして、また大きな溜め息を吐いたのだった。
食堂は異様な雰囲気に包まれていた。
次々と具を乗せた食器を運ぶムラサに、皆が一様に目を見開き驚いた。
「カレーです……」
「まあおいしそう」
その中でもマイペースを維持しているのは、白蓮である。
ムラサも席に座り、やはりいないぬえを除いて座席が埋まる。
「……」
ムラサは自分の隣、本来ぬえの座っている空席をしばらく凝視してから、号令をかける。
「では皆さん……、いただき――」
「ちょっと待ちなさい」
遮ったのは一輪だ。眉間にシワがよっている。
「ムラサ、これは何かしら?」
「カレーです……」
「そんなことは見れば判るわ。私が聞いているのはそんなことではなくて、この皿に盛られたカレーの量について聞いているのよ」
一輪が自らに用意されたカレーを指さす。
そこにはこんもりと盛られたカレーが食欲をそそる匂いが、湯気と共に各々の鼻を刺激していた。
ナズーリンが一輪の言葉に呼応するように頷いた。
一輪が声を荒げる。
「このカレー、ルーの量に対してお米の量が少なすぎるのよ! 9.5:0.5くらいでほぼルーだけじゃない!」
「そこかい!?」
「そこかい!?」
ナズーリンと響子が盛大に突っ込みを入れた。響子もこれには山彦せずにはいられなかったようだ。
「ごめん……、ぼーっとしてたらルーだけいっぱい作ってた……」
「しっかりしてよ、ここ結構重要よ?」
「うん……」
そう返事をしたものの、ムラサは上の空話し半分にしか聞いていないようだった。
今度はナズーリンが異議ありとばかりに声を大にした。
「いやいや、突っ込むべきところはそこじゃないだろう!」
全員がナズーリンを見る。
一輪は首を傾げてナズーリンに言った。
「……いや、他に突っ込むところある……?」
「大ありだろう!?」
本気でわからないといった様子の一輪。
「米とルーの比率とか、そんなことは些事でしかない。問題なのはその総量だよ! よく見ろ! この皿になみなみと盛られたカレーを! 明らかにいつもと違うだろう!」
「ナズーリン」
何故こんなにも必死にならなくてはいけないのか、ナズーリン自身も解らずに訴えていたところに、彼女の主人である星が静かに名前を呼んだ。
星は落ち着き払った様子で、静かにナズーリンの方へと顔を向ける。
神妙とも言える星の姿に、毘沙門天を幻視しかけたナズーリンは思わず押し黙った。
星が口を開く。
「ナズーリン。あなたは聞き捨てならない事を言いました。許されざる言葉です。いいですか、ナズーリン。カレーというのは、お米が6でルーが4であることが理想なのですよ」
「ご主人まで……、勘弁してくれ」
ナズーリンは冗談なくらいに肩を落とす。
大真面目な顔をして出てきた言葉がカレーの黄金比に関しての独自の見解だ。こんなことで毘沙門天様を幻視したことに、ナズーリンは己と星に対して情けない気持ちに押しつぶされそうになった。
最早何を言っても無駄だと理解したナズーリンが貝になろうと口を結ぶと、白蓮が仲裁に入った。
「皆、折角ムラサが作ってくれたカレーを前にして、そんな言い争いをしてはいけませんよ。何より、ムラサに対して失礼です」
全員が聖を見る。何時でもどんな時でも、柔らかな笑みを絶やさない慈愛の象徴を。
「確かに、カレーというものは、もう少しお米とルーのバランスが取れているものかもしれません。しかし、こうは考えられないでしょうか? お米はここにいる誰もが同じように炊くことが出来ますが、このカレールーはムラサにしか作れないカレールーです。私たちはそんな絶品と評して幻想郷中に轟かせても良いくらい美味しいムラサの作ったカレールーを、贅沢にもこんなに食べることが出来るのだ、と。それはとても幸せなのではないか、と」
両手を胸の前で合わせ、さながら菩薩のような白蓮の言葉を受け、星と一輪は何かに気付かされたようなハッとした表情になった。
「た、確かにそう考えると、これはむしろ至上の御馳走……!」
「まさに逆転の発想……! さすがは姐さんだわ!」
「いや、だから、私が問題にしているのは、そもそもの量の話であって……」
うんうん、と何度も頷きながら星と一輪は居ずまいを正す。
結局ナズーリンの訴えは届くことなく、聖の「私のお腹はもう空腹の限界点なんですよ」の一言がダメ押しとなって、ナズーリンが力技で折られることになった。
「ナズちゃん食べ切れる? 無理なら残りは私が食べるよ? ナズちゃん食が細いもんね」
ナズーリンの前には未だ半分も食べ終えていないほぼルーだけのカレーがそびえていた。
見るからに苦悶の表情を浮かべ、汗をだらだらと流している――単純に辛いせいかもしれないが――ナズーリンを心配そうに覗き込むのは、既に3分の1ほど食べ終えている響子だ。
「いや……、大丈夫だよ。この程度の量……」
ナズーリンは苦い笑みを響子に向けながらそう言って、コップの水を流し込んだ。
息を吐いてコップをテーブルの上に置くと、同時に白蓮、星、一輪の3名がムラサにおかわりを要求した。
いかにも余裕綽々といった3人の顔を、忌々しげにナズーリンは睨みつける。
ムラサは差し出された3枚の皿を持って立ち上がる。おかわりをよそう為、台所へと入ろうとしたところで振り向いた。
「……おかわり、どれくらい欲しいですか?」
ムラサが振り向き尋ねた時、3人は水をぐいと飲み込んでいた。
そして同時に手元にコップを置き、一拍の間の後に3人は答えた。
「超人盛りでお願いするわ」
「ハングリータイガー盛りでお願いします」
「入道盛りで頼むわね」
「わけがわからん……」
3人は平然と、さも当たり前の事のように言ってのけたが、こんなふざけた盛り方を要求された事などただの一度も無かったはずだと、ナズーリンは頭の中で確認した。
それはムラサも同じはずだったろうが、彼女は特に逡巡することなく頷いて台所へと消えていった。
今日はこの空間がとにかくおかしく思えてしょうがないナズーリンは、目の前に残ったカレーを食べ終えてしまって部屋に戻ることに決めた。
「……よしっ!」
気合を一つ入れて、スプーンに掬っては口の中に運ぶ。それを繰り返した。
「ナ、ナズちゃん、あまり無理しないでね……?」
横から心配そうな瞳を向ける響子の言葉を、2回頷いて応える。
量はともかく、白蓮の言葉通りにムラサの作るカレーは格別の味であることには違いなかった。彼女以外が作っていたのなら、ナズーリンがここまで頑張って食べることもなかった。しかし、命蓮寺は食事のお残しが許されないので、結局は食べなければならないのだが。
そうして、ムラサが3人分のおかわりを運び終えた頃に、ナズーリンはどうにか自分の分を消化することに成功したのだった。
ちなみに、おかわりの量は超人盛り、入道盛り、ハングリータイガー盛りの順で量に違いがあった。
「うっぷ……! ダメだ、もう食えん」
ナズーリンはそのまま仰向けに寝転がる。それを響子が軽く諌める。
「あ、ナズちゃんダメだよ。食べた後すぐ横になるなんて」
「響子……、今日ばかりは許してくれないか?」
「ダーメ。ほら起きて起きてー」
響子は投げ出されたナズーリンの腕を両手で掴み取ると、有無を言わせず力ずくで引っ張り上げた。
「君はひどい奴だなぁ」
「食べた後すぐ横になると太っちゃうよ? それに――」
響子はナズーリンの肩に両手を乗せる。そして一気に顔を近づけた。
「えっ?」
あまりにも唐突過ぎた響子の行動に、ナズーリンが発せた言葉はただそれだけで、迫り来る響子の顔を、唇を、為すがままに見つめるしか出来ずに――。
「ぺろぺろ~」
「うひゃ!?」
――唇のすぐ横あたりをぺろぺろ舐められた。
そしてそこでようやく、為すがままにされていたナズーリンは響子を引き剥がした。
「なななな! いきなり何するんだ!」
今度はナズーリンが響子の両肩を掴んで問い質した。
響子はポカンとした表情をした後、悪戯っぽく笑って答えてみせた。
「だって、ナズちゃんたらほっぺにカレー付けてたんだもの。だから舐め取ってあげたんだよ」
「……」
「ナズちゃんかわいい」
「……!」
ナズーリンはそのまま再び畳の上に倒れるように寝転がった。顔を両手で覆い隠している。十中八九、赤面していることであろう。
「あ、ナズちゃん! 横になっちゃダメだよー!」
響子はナズーリンを起こそうとするが、今度は何が何でも起き上がるまいと、必死に抵抗していた。
そんな二人の様子を、他の全員が眺めていた。
星がスプーンを掬う手を止める。
「何か、こう……、とてつもなく甘ったるいですね」
「そうね。辛口のカレーが甘口に早変わりしてしまう程に、甘ったるい光景ね」
一輪が続く。
「仲が良いのはいい事よ。これだけ微笑ましく思えるのなら、仲が良過ぎても何ら問題ないわね」
白蓮の言葉に星と一輪が大きく頷いて、3人は食事を再開した。
「……」
ムラサだけがじっと二人の様子を眺めているた。
二人がじゃれあっている姿を見て――響子が一方的に、な気がしなくも無いが――思い起こすのは、やはりぬえの事。
あそこまでではないにしろ、地底で一緒に暮らしていた時はスキンシップも多かった事を思い出したのだ。
自分の隣の空席。いつもぬえが座っている場所。最近は構ってあげることも少なくなってきたけれど、ムラサにとってぬえという存在はやはり――。
「一輪」
「んぁ?」
ムラサは平らげた自分の皿を持って立ち上がった。
「悪い。私の代わりに洗い物やっといてくれない? やらなきゃいけない事があるの」
「えー。あー、いやまぁ、別にいいか……」
「ありがと。今度何か奢るわ」
一輪に食後の後片付けを代わってもらったムラサは、急ぎ足で食堂を後にした。
その後姿を、ナズーリンと響子がじゃれ合いを止めて見つめていた。
「……ムラサさん」
自分の分の食器を洗い終え、外に出ようとしたムラサに後ろから声がかかる。
「ナズーリン、響ちゃん……」
「ぬえを捜しに行くのかい? こんな時間から」
「何よ、行くなって言うつもり?」
ナズーリンに鋭い視線を送る。ムラサの機嫌は少しだけ斜め方向に傾いているようだった。
二人に悪気など微塵も無かったのだが、先程の二人の睦まじき光景はムラサに焦りと苛立ちを与えるには充分だった。
ナズーリンの言い方が、普段から小馬鹿にしたようなものであることも一つの要因だったのかもしれない。
ムラサの中に込み上がってきた熱は、しかし響子の言葉ですぐに冷めることとなる。
「わ、私たちも一緒にぬえさんを捜します!」
「へっ?」
ナズーリンに向けていた鋭い視線が緩んだ。
ナズーリンが続ける。
「ほら、言うだろ。一人より二人、二人より三人って。寄れば文殊の知恵、ってね」
「あと、姦しくなるよ!」
「それは響子だけだろう?」
肩を竦めて呆れるナズーリンを見て、ふくれっ面になる響子。
「むー、そんなことないもん! ナズちゃんの意地悪!」
「えーと……」
ムラサは状況が良く飲み込めていなかった。二人が協力を申し出てくれた。それはわかるのだが、何故協力してくれるのか、その理由がわからなかったのだ。
ナズーリンがムラサの前まで歩み寄り、顔を見上げる。
「とにかく、そういうわけだ。さぁ、行こうか」
「え、ちょ……」
ナズーリンは不敵な笑みを浮かべると、ムラサをすり抜けてさっさと玄関口へと向かっていく。
「大丈夫です! きっと見つかりますよ!」
響子にそう言葉を掛けられ、彼女もまたナズーリンを追うようにムラサを置いて歩き去っていく。
ムラサはその場から動けずにいたが、響子が一度振り向いたところでとにかく外に出なくては始まらないことに気付いて歩き出した。
外に出ると、月明かりの下で三つの人影がムラサたちを待ち構えるように仁王立ちしていた。
「遅かったわね」
「聖!? それに、星と一輪まで……!」
人影の正体は、尋常じゃない量のカレー――ほぼルーのみ――を食していた筈の三人だった。
「あんなバカみたいな量を、もう完食したのかい?」
ナズーリンは驚きつつも、溜め息を交えて呆れたように言った。
口に爪楊枝を咥えた一輪が、腕組みしたまま得意顔で返す。
「ふふん、私たちにとっちゃあわけないわ。尤も、少食の鼠さんには到底無理な芸当でしょうけどね」
「何だそれは? 自慢のつもりかい? 後々体重計の上で顔面蒼白になっている君を想像すれば、少食で良かったと心から思っているのだが」
「何ですって!?」
睨み合うナズーリンと一輪。この二人は本当に相変わらずだと、その場にいた全員が苦笑していた。
「はいはい、そこまで。喧嘩している場合じゃないでしょう?」
二人の間に白蓮が入り、諌める。白蓮の言うとおり、そんなことをしている場合でない事を理解している二人は特に不平を口にすることも無くその場を収めた。
白蓮がムラサへと顔を向ける。
「それにしても、水臭いわねあなたたち。三人だけでぬえを捜しに行くつもりだったの?」
「えっ!? あ、いや、ナズーリンと響ちゃんは――」
「そうなんだよ、聖。ムラサのやつ、水臭い事に始めは一人で捜しに行こうとしていたんだよ」
ムラサの言葉を遮るように、今度はナズーリンが白蓮とムラサの間に滑り込んで白蓮に言った。
「あら、水臭いのはムラサ一人だったということかしら」
「ちょっ、ナズーリン!」
まるで自分だけが責められているような気がしたムラサは薄情者なナズーリンを睨んだ、が――。
「おや、何か不満そうな顔をしているね。でも実際一人で行くつもりだったんだろう?」
「うぐっ……!」
実際そのとおりだった。反論の余地などどこにも無い。いや、そもそも――。
ムラサは視線をナズーリンから白蓮へと移す。白蓮は少し呆れたように溜め息を吐いた。
「こんな夜に一人で、どこにいるとも知れないぬえを捜すつもりだったの? ムラサも随分と無茶な事を思い付くのね」
「……」
「まぁ、いいわ。こうして一人で行かれる前に捕まえることが出来たのだから。それじゃあ、私たちもぬえの捜索に加わることにするわね」
白蓮はムラサの返事を待たず、ムラサに背を向け歩き始めた。他の者も追従して彼女の後に続く。ムラサだけが動かない。
疑問符ばかりが頭に浮かび上がる。何故みんな手伝ってくれるのか。ぬえがいなくなったこと。そもそもその原因は――。
「ま、待って!!」
ムラサの呼び止めに、みんなが立ち止まって振り返る。
「どうしてみんな、手伝ってくれるの? そ、そりゃ手伝ってくれるのは嬉しいよ。確かに全員で捜せば見つけるのも早いかもしれない。でもそもそもぬえがいなくなった原因は、どう考えても私で、個人的な話で、みんなとは関係ないんだよ? 明日だって朝早くから寺の仕事だってあるんだし、私は、こんなことでみんなに迷惑を掛けたくはないよ!!」
そう。ムラサにとってぬえの失踪は、ムラサとぬえの個人的な問題だ。少なくとも、ムラサはそう思っていた。だから、一人で捜そうとしていた。
しかし、こうしてムラサの目の前には頼まずとも命蓮寺の面々がぬえ捜索を買って出てきてくれたのだ。それは何故なのか。みんなに迷惑を掛けたくないと考えていたムラサにはそれがわからなかった。
ムラサの言葉から数瞬の後、ムラサに歩み寄る者がいた。
「ムラサ」
ナズーリンだった。
ナズーリンはムラサの前に立つと、手にしたダウジングロッドでムラサの頭を軽く叩いた。
「いたっ!」
いきなりの攻撃を、為す術無く喰らったムラサは痛みで頭を抑えた。少し涙も出てきた。
ナズーリンは大きな溜め息を吐いて、人を小馬鹿にしたような、彼女独特の呆れ顔で言った。
「……君は本当に水臭い奴だね。それとも何かい? 自分は船幽霊だから水臭いんだ、とか捻りも無い下らない事でも言うつもりなのかい?」
今度は一輪がムラサの近くまで歩み寄る。
「それにねムラサ。あんたはぬえとの個人的な問題だから私たちは関係ない、って言うけれど、関係ならちゃーんとあるわよ?」
「え? それって、どういう……」
「簡単な事です」
ナズーリン、一輪に倣ってムラサに近付いてきた星が後を引き継ぐ。
「ぬえが命蓮寺の住人だからです。そして住人である以上は、皆それぞれに仕事を与えられます。それはぬえも例外ではありません。そして彼女は今日一日姿を見せなかった。疑いようも無く、無断欠勤。つまりはサボりです」
最後に白蓮が締めくくる。
「要するにムラサ。あなたは私たちに迷惑を掛けたくない、と言っていましたが、そんなものはとうの昔に掛けられていたわけなんですよ」
「……」
ムラサは黙る他無かった。まさしくそのとおりだと思ったからだ。反論の余地無くぬえがみんなに迷惑を掛けていたこと。それは確かな真実だった。
そして今日一日ぬえが仕事をサボった原因は、自分に起因するのだということも、やはり真実だった。
その事を思うとみんなに対してただただ申し訳なくて、ムラサはみんなの顔が見れずに下を向いてしまう。
「でもですね、ムラサさん」
俯いたムラサに、響子の声が響いた。
ムラサが顔を上げると、響子の笑顔がそこにあった。いつもの、屈託のない笑顔だ。
「迷惑を掛けられた、とかそういったこと以前に、みんなぬえさんの事が心配なんですよ」
「みんな……」
ムラサは一人一人の顔をゆっくりと見る。響子だけではない。みんながムラサに向けて笑顔を向けていた。
ナズーリンはどこか余裕ありげに笑い、一輪は肩を竦めて呆れたように笑い、星は頼りがいのある爽やかな笑みを浮かべ、白蓮はいつもと変わらない慈愛に満ちたような微笑を湛えていた。
それぞれが、ムラサと視線を合わせると力強く頷いた。その度に、ムラサは彼女たちから直接力を貰っているのか、体が熱くなっていくのを感じていた。
「みんな、ごめん。それと……、ありがとう!」
ムラサにも、ようやく笑顔が戻る。それを見た全員が、安堵の溜め息を吐いた。
「妖怪が笑って過ごせるのが命蓮寺のモットー。さぁ、ムラサが笑ってくれたところで、ぬえを捜しに行きましょうか!」
白蓮が勢い良く手を合わせてパン、と大きく一つ鳴らして言った。
全員が白蓮を見て力強く頷く。
逸る気持ちを抑え切れず、いち早く一歩を踏み出したムラサ。
「あ、でもムラサはお留守番でお願いするわね」
「どぇぇぇえぇえぇえぇえぇッ!!!???」
出鼻を見事に挫く白蓮の言葉が耳に入ると、ムラサは盛大に石畳の上を転がり回った。
「い、痛そう……」
「まぁ……、痛いでしょうね」
響子と一輪が倒れ伏しているムラサを見て、自分に起こったことかのように顔を歪ませる。
しかしムラサは何事も無かったようにすぐに立ち上がってみせた。
振り向いた顔には特に目立った傷は見受けられなかった。妖怪故か、或いは幽霊故なのか、いずれにせよこの程度では大したダメージは負わない。
「ど、ど、ど、ど、ど!」
ムラサは狂ったようにその一文字を繰り返しながら、白蓮に駆け寄り彼女の両腕を掴む。
「どうしてですか!? 聖!」
「どうどう。落ち着きなさい」
暴れ牛のように興奮したムラサを白蓮は宥める。しかしまったく効果は無い。
「これが落ち着いていられますか! この流れでどうして私だけお留守番なんですか!?」
「えーい、落ち着きなさい!」
このままでは埒が明かないと判断した――若干の面倒臭さもあった――白蓮は、ムラサの脳天にチョップを入れた。
「うごぉっ!?」
「あ」
ムラサが地面に叩きつけられる。頭から墜落し、石畳にめり込んだ。
白蓮としては軽く小突く程度のつもりだったのだが、如何せん元々持っている力が強すぎたのだ。
しかしムラサを落ち着かせる、もとい沈黙させるには充分だった。
「落ち着きましたか?」
「……はい」
「いいですかムラサ。あなたに留守を頼むのは、何もあなたに意地悪したいがためにそうしているわけではないのですよ」
「はぁ……、では何故なんですか?」
「誠に単純明快な話です。全員が出払ってしまえば、もしぬえが自発的にここへ戻ってきた時に誰もお迎えがいないことになる。それでは折角戻ってきたぬえが可哀想じゃない?」
だから誰かがここに留まってぬえを待つ必要がある、と白蓮は言った。
その考えにはムラサも賛同出来たのだが、自分がその留守番役であることについては、相変わらず納得がいかないようであった。
「あなたこそが適任なのですよ、ムラサ。もし、ぬえが自分から戻ってきた時には、温かく迎えてあげなくてはいけません。家出したことを後悔したにせよ、今日仕事をサボった自覚があるにせよ……、まぁ後者はほぼ無いと考えてもいいでしょうが、自分から戻ってくるには勇気が要ります。その勇気の結果がムラサであったのなら、きっとぬえは安心することでしょう」
「……そうなんですかね?」
「そうなんですよ。ちなみに、このままぬえが自分から戻る気がないのならば、お説教してから引き摺ってでも連れ帰る所存です。こちらは私たちの方が適任でしょう」
そう言うと白蓮はムラサの両肩に手を置いて回れ右させる。
「あなたは待っているだけでいいのですよ……、待つだけが手持ち無沙汰だと言うのなら、お米でも炊き直してぬえが帰って来た時に自慢のカレーを食べさせてあげるのなんてどうでしょう?」
「あぁ……、それは、確かに」
いいかもしれない、とムラサは思った。
ぬえは人の恐怖心を喰らって満たされる類の妖怪だが、普通に食事もする。中でも、ムラサの作るカレーが大の好物なのだ。
その時のぬえの幸福そうな表情を思い起こすと、ムラサはようやく留守番役を頼んだ白蓮の案に対して、首を縦に振ったのだった。
全員が幻想郷の夜空の中に溶けて消えていく姿を見送った後、一先ず台所へと足を向けたムラサは、聖に言われたとおりご飯を炊き直している。
「……」
ここに来るまでムラサは廊下を歩いてきた。当然台所へ来るためには移動する必要があるので当たり前と言えば当たり前の話だ。捻くれた考え方をすれば、飛んでいけば歩く必要は無い。
しかし、誰かが見ているわけでもないのに、そのようなどこぞの小坊主の頓知話の真似をする必要も無い。だから普通に歩いて台所へ入った。
そこでムラサが感じたのが、何者の気配も感じられない寺内を歩くというのは存外不気味だったということだ。
畏怖されるべき妖怪が、とりわけ幽霊であるムラサという妖怪が、静けさと暗さと不気味さを感じるなんてちゃんちゃらおかしな話ではある。
だがそのムラサがそう思えるくらいに、命蓮寺はいつも賑やかで騒がしく、とても楽しいと思える場所なのだ。
廊下一つ歩くにしたってそうだ。気がつけば、ムラサの後ろをぬえがちょこちょことついてきては、構って欲しそうに騒ぎ立てる姿なんて命蓮寺ではよく見られる光景の一つだ。
いつもはうざったく、やかましく、面倒臭くムラサは思ったりしていたものだが、いざぬえがいなくなった途端に寂しく思えてしまうのは随分と勝手な話ではある。
そういう自覚はムラサにも勿論ある。と言うより、思い知った。思い知らされたというのが正しいのだろう。ぬえが消えて時間にしてみれば半日と少し程度しか経っていないのだが、とても長い時間が経っているように錯覚している。広い寺内で独りなせいか、只今寂しさの絶頂期に突入して軽く泣いてしまうんじゃないか、と危惧しているくらいである。
「というか……」
泣きそう。ムラサは自分の涙腺が緩んで決壊しようとしているのを直に感じていた。
気を紛らわすように、竈の火を止めて釜に入ったご飯の出来上がり具合を確認した。
「あー、まー、こんなもんかなー」
言葉どおりの炊き上がり。もうちょっと待っても良いくらいではあったが、彼女の涙腺がそれを許さない。釜の蓋を開けた時溢れ出た湯気の持つ熱気が涙腺をさらに融かしてしまったのだろうか。おかげさまでムラサは自分の部屋に向かって走り出していた。
泣いているところなんて、誰かに見られたくはない。ましてぬえには絶対に。ムラサはその強固な意志で以って前進する。こういう時は自分の部屋に戻るのが一番良いと、彼女は考えていた。
「あー! バカバカバカバカ! ぬえのバカ! バカぬえ!」
ムラサはぬえをバカだと叫ぶ。大バカだと叫ぶ。自分を泣かせるなんてとんでもない大バカ者だと叫ぶ。その上みんなに心配してもらって。だのに戻ってこないなんておバカの極みだと叫んだ。
ムラサは自分の部屋のノブに手を掛け勢い任せに開けて中に入った。部屋は薄暗く、星を眺めながら寝たいからという理由でベッドの真上に取り付けた天窓から差し込む月明かりだけが、部屋の光源と呼べるものだった。
ここに寝転がりながら星を見ていると、何だか海の真ん中にいるような気がするのだ。もう海原を航海することはないだろうから、でもやっぱりそれは少しだけつらいから、せめて気分だけでも船の上に居たい、そんな思いから作ったものだ。
もちろん、今は星を見上げるような気分ではない。お星様にだって、自分が泣いているところなんて見せたくないと思ったのだ。
私は迷うことなくベッドに倒れ込むようにダイブして、簀巻き布団に抱きついた。
そしてムラサが顔を簀巻き布団に深く埋めて、声が漏れないようにしのび泣こうとした時だ。
「……ん?」
違和感を覚えて布団から顔を離した。その違和感とは何かと言うと――。
「あれ……、これって……」
ムラサは違和感の正体を確かめるために、もう一度布団に顔を押し付ける。そして鼻を鳴らす。
そう。違和感とは匂いの事だ。と言うのもこの布団、匂いがいつもと違うのだ。常にこれを抱いて睡眠している彼女にとって、これは大きな違和感だった。
だが、何よりも重要なのは、彼女はこの匂いを知っている、ということにある。知らないわけが無い。間違えるわけが無い。この匂いはまさしく――。
「ぬえ!?」
ムラサは簀巻きに向かって捜し人の名を呼びかけた。どこからどう見ても変哲が無い筈の簀巻きなのだが、確信をもって叫んだ彼女には最早、どこからどう見ても変哲が無い筈の簀巻きが、親友にしか見えなかった。
そして簀巻きがムラサの呼びかけに反応してその形状を変化させ始めた。本来の白く淡く光るシルエットがぬえとしての形を形成していく。
実に半日と少しぶりの再会だ。
よもやである。まさかムラサの部屋に、それもこんなものに化けていたとはムラサは露にも思っていなかった。これぞ灯台下暗し、というやつなのだろうかと目の前の光景を凝視していた。
とにもかくにも、ぬえは家出なんてしていなかったのである。その事実がどれ程ムラサの胸を撫で下ろさせるものだったことだろうか。
ぬえが、本来のぬえとしての形に戻り、ぬえを包んでいた白い光が消えていく。そしてムラサは思わずぎょっとした。
「ぬえ……?」
ぬえが泣いているのだ。涙と鼻水でぐちゃぐちゃした顔で泣いているのだ。
「うぉぉぉぉぉ~~~ん……! ムラサのアホォ~! アホムラサァ~!」
ムラサのセーラー服を両手で鷲掴みにしてぬえは言った。睨んでいるつもりなのだろうが、崩壊した涙腺のおかげでまったくそんな気がしなかった。
それにしても第一声からいきなりのアホ呼ばわりである。一体どこがアホだと言うのだ、とムラサは怪訝な顔をする。
「これみよがしかよぉ~! 私がいない時に限ってカレーなんか作りやがってぇ~!」
ぬえがそう言うと同時に、ぬえのお腹の虫が部屋中に鳴り響いた。
「えっと……」
子どものように喚くぬえ。色々聞きたいことがあるのだが、一先ず彼女を宥めることのほうが最優先らしい。そしてムラサは宥め方を知っていた。
「カレー、食べる?」
この言葉の直後に、ぬえの顔が花のように咲いたのは言うまでもないことだろう。余談だが、その後ムラサの服をちり紙代わりとばかりに、思いっ切り鼻をかまれたことを添えておこう。
今ムラサの隣では、ぬえがものすごい勢いでカレーにがっついている。余程腹が減っていたらしい。昼食から何も食べていないのだとすれば、当然と言えば当然ではあるが。
部屋にある小さな読書机をテーブルとして使わせている。あまり汚さないで欲しいとムラサは言ったのだが、ちゃんと聞いていたのかどうかは疑わしいところだ。
おかわりを要求されると面倒だと思ったムラサは、最初から結構な量を皿に盛ってやった。幸い、ごはんは改めて炊いたものを用意してあったし、ルーはまだ大量に余っていた。
「うめぇ~! ムラサのカレーうめぇ~!」
ムラサのカレーが美味いという事実は幻想郷では当たり前の事だが、泣く程喜ばれたのはこれが初めてだった。
泣き止んだと思えば、泣きながらカレーを食べるぬえの姿にクスリとしつつ、まずムラサはぬえに言わなければならない事があったので、カレーに夢中で聞き流しやしないか心配しながらそれを口にした。
「あー……、ぬえ。今朝は……、ごめんね。やりすぎた」
「ん?」
ぬえはスプーンを持つ手を止めてムラサに顔を向けた。口の中に残っているカレーを咀嚼して、首を傾げる。
「ふぁにが?」
「とりあえず飲み込んで」
「ふぁい」
ぬえはムラサの注意を素直に聞き入れて、数回咀嚼を繰り返した後にカレーを飲み込んで一息吐いた。
「んで、何? いきなり謝っちゃって」
ぬえは一体何の事に対して自分に謝罪しているのかがわかっていない様子だった。
「や、だから、今朝ぬえの事をおもいっきり殴ったじゃん? それの事で」
「あーあー、そう言えばそんな事も。いや、あれは滅茶苦茶痛かったけど、元はと言えば私がムラサのおっぱいを――」
ようやくムラサが謝っている理由を理解したぬえはうんうんと頷きながら、固まった。不自然に固まったぬえを訝しんで目線を辿ってみると、その瞳はムラサの胸に到達していた。
「ん? どこ見て……、あ! こら! 凝視すんな!」
ムラサは腕で胸を隠すようにして、顔は正面のぬえを睨んで牽制したまま体だけを捻った。
先程ぬえの鼻水と涙でべちゃべちゃになってしまったセーラー服から寝間着代わりに使っているタンクトップに着替えていたために反応したと思われる。
サイズが大きめなのが問題なのだろうか。ここ命蓮寺は女しか基本的に住んでいないから今まであまり気にしていなかったが、ぬえがここまで過剰反応するようなら考えものだと、ムラサはぬえを警戒しながら思ったのだった。
ぬえは面目ないといった様子で軽く頭を掻いていた。
「何というか……、殴られる原因はそもそも私にあったんだし……」
「いや、だけどさ、あんなに強く殴る必要なんて無かったしさ……」
「ん~……、じゃあおあいこって事にしよ? 何だかすごい心配させちゃったみたいだから」
お互いが自分が悪い、自分が悪かった、と不毛な問答になる前に、ぬえが笑ってそう言った。
そのぬえの優しい笑顔を見たムラサは、何故だかとても安心して、仲良くお互い悪かったというぬえの提案を受け入れることにした。
ぬえがスプーンを手に取り、再びカレーを食べ始める。そしてムラサはまたその姿を眺める。もう半分以上食べ終えていた。
「ていうふぁさ……」
「ぬ~え」
「ふぁい」
また口に含んだまま喋りだそうとしたぬえを、名前を呼んで注意した。
ぬえは同じ事を注意されて一瞬しまった、という表情を見せてからカレーを飲み込む。
「ていうかムラサってばさ、ひょっとして私の事心配してくれてたの?」
それだけ言ってぬえはカレーに手を伸ばす。ムラサはぬえへ向けていた顔を真っ直ぐに戻す。
「滅茶苦茶心配したわよ」
ずっと傍にいてくれるものだと思っていた。だから、ぬえがいなくなった時、星の口から出た家出の可能性を聞いた時、ムラサは本当に焦ったのだ。何とか冷静でいようとしたが、カレーをあんなに作ってしまうなど、明らかに動揺してしまったのだ。
ぬえがいること。それがムラサにとっての当たり前だったのだ。こうして隣にぬえがいる。それがこんなにも幸せに思えるのだ。
ふと肩に重さを感じた。
ぬえが頭を乗せてきたのだ。
「へへ……、ぬぇーん」
妙な鳴き声が聞こえてきた。よく解らなかったが、トーンからして少なくとも嬉しそうであることは理解できた。
「なによ、その変な鳴き声は」
「知らないの? 鵺の鳴き声だよ」
ぬえとは結構な付き合いになるムラサなのだが、そんな事は初めて聞いた。驚きの新事実である。
肩越しに感じるぬえの体温が、何だかムラサを気恥ずかしくさせた。妖怪の癖に妙にあったかい。きっと幽霊な彼女の方が体温が低いためだろう。
このままだと間が保たなくなりそうだったので、今度はこちらから聞いてみる。
「ぬえの方こそさ、なんであんなのに化けてたのよ」
あんなの、と言ってしまっているが、あの簀巻き布団はムラサの快眠に必要不可欠な大切な物だ。
ぬえが家出していなくて一安心ではあるのだが、そうするとこの疑問が頭の中に残ることになる。晩御飯のカレーを泣きながら鼻水垂らしながら耐え忍ぶ程の理由とは果たしてどんなものなのか、是非にでも聞いてみたかったのだ。
「んーとね……、ムラサとイチャイチャしたかったから」
「え?」
ぬえはあっさりと答えた。何だかすごい事をあっさりと答えた。あまりにもあっさり答えるものだから思わずムラサは固まってしまった。
ぬえは続ける。
「だってムラサ、最近忙しそうで全然構ってくれないじゃない? だからアレに成り代わって合法的にムラサと抱き締められるという名案を思いついたのよ! 紆余曲折あったけど、一応成功したし、気分は上々よ!」
得意気に胸を張るぬえ。しかしすぐに物足りなさそうな表情を見せてずいっと顔をムラサに近づけた。
「でも、まーだ足りないんだよねぇ~。ねぇムラサ~。もっとイチャイチャしてもいい~?」
ぬえはその幼い顔立ちには似合わない妖艶な微笑を見せながらムラサに迫ってくる。
ムラサはそんな彼女に参ってしまいそうだった。あぁ、どうしてこんなに可愛いんだろうか。ムラサはぬえを可愛いと素直に思っていた。
そう――。
「ぬ、ぬえ……」
「ん~? 何かな~?」
「ほっぺにカレールーが付いてるよ」
「ふぇ?」
――頬にカレールーこびり付けて迫ってくるのだから。
とてもじゃないが、セクシーでは無かった。
「えぇぇぇぇぇえ!?」
「アハハハハ……、はぁ~、もう。ぬえってば間抜けねぇ」
ムラサの指摘に顔を真っ赤にして慌てふためくぬえの頬に手を伸ばす。
さっきも今と似たような状況に遭遇したのだけれど、ムラサは無邪気な彼女ほど大胆な行動には出れなかった。
人差し指でぬえの口元に付いたルーを拭ってやり、そしてそれを自分の口に咥え込んだ。
「あ……」
その様子を見ていたぬえはその一文字だけ口から漏らすと、真っ赤だった顔をさらに赤くして、頭からムラサの体へとしな垂れかかった。
ムラサはぬえの華奢な背中に手を回して優しく抱きとめてあげた。ぬえの体温はさっきより上がっているような気がした。
「イチャイチャするって、こんな感じでいいのかな?」
「……そんな感じでお願いします」
ぬえはムラサの胸に顔を埋めたままで言った。
そのムラサも余裕ぶって言ってみせたはしたが、正直かなり限界突破した行動で顔が熱くなるのが止まらなかった。ばれないように、片手をぬえの頭に乗せて撫でる振りをしながら顔を上げられないようにした。
でも今みたいに二人っきりでいる時なら、これくらいイチャイチャしてあげてもいいかな。そう思って、先程よりも少しだけ強くぬえを抱き締めてあげた。
すると、聞き覚えのある鳴き声が聞こえてきた。
「ぬぇ~ん」
それは先程聞いたものより、嬉しそうに聞こえたのだった。
まったく人騒がせで愛らしい子たちです
そして、ムラぬえきた。これで今夜は枕を高くして眠れる。
素敵な命蓮寺をありがとうございました。