夏は宵…とは上手く言ったものだ。あいにくと月は隠れているが、このような完全な闇夜もまた趣のあるというもの。縁側に腰掛けた妖怪少女はいつもならば、かような趣深い宵口を手元の盃を干しながら楽しんだことであろう。そう、いつもなら…である。
少女はただ瞳を閉じ、微動だにしない。はたから見れば眠っているようである。傍らには盆に載せられた徳利。肴はない。もともとこの静謐な宵闇を肴にするつもりでいたのだ。しかし、盃は酒で満たされていたが、かれこれ一刻以上干されることなく彼女の手に鎮座し続けている。
ひとつふたつ…みっつよっつと、水滴が庭の葉をはじく音を聞きゆっくりと目を見開く。その音はいつしか幾百・幾千にも増えて融合し、静謐な夜に新しいカオスを生み出す。大気に水の匂いを感じていたが、こういうことかと、少女はひとり納得する。
「闇もなほ…雨など降るもをかし…まるきりかの賢女の仰せのままね。」
苦笑しつつ、少女は独りごちた。なかなかどうして、人間の情緒の深さも侮れない。否、人間のかような底なしの情緒と想像力故に、少女ら妖怪は存在し得るのである。
この上ない夏宵の演出を楽しまないでいるのには理由がある。少女は待っているのだ、己が式の帰りを。そして、少女は感じていた。かつて経験したことのない、底知れぬ不安を。
少女は何を馬鹿な、と吐き捨てる。何世紀もの歴史を跨ぎ、妖怪の賢者とまで称せられる己が何を恐れるというのか。だが事実、少女は言い知れぬ不安を抑えられずにいた。静謐な夜は少女を圧し潰し、幾千もの雨音は少女の心を蹂躙した。
「どこをほっつき歩いているのかしら…あの式神は…」
自分で使いに出したにもかかわらず、己が式に舌打ちする。
「べ…べつに心細くなんかないんだからね!?」
誰がからかうわけでもないのに言い訳を始める始末である。ひとりごとが多いのは、こんな気分のせいだと自答する少女。ため息をひとつついて本日何度目かのひとりごと。
「早くかえってきてよ…藍…」
普段の高圧的かつ慇懃無礼な物言いではなく、まるきり少女のような言葉が口を衝いて出る。
少女は今宵、一世一代の大勝負に出る。「何かを成し遂げる時、人は往々にして孤独なものだ。」とはよく言われる。尤も、少女は人ではない。しかし、例にもれず少女は孤独を感じずにはいられなかった。こんな夜は、誰かに…生真面目なくせにどこか抜けていて、式の癖に時には主たる自分を叱りつけ、苦笑しつつもいつも自分の我侭に付き合ってくれるアイツにいて欲しい…
―――――――
「…さま?…かり様?」
いつの間にか眠っていたようだ。顔にかかった髪をかき分けると、じっとりと嫌な汗をかいていることに気づく。
「紫様、ただいま戻りました。」
傍らには道服に身を包む己が式がいた。
「ん…お帰りなさい、藍。ご苦労様。」
少女…紫はふっと息をつき、使いから戻った式を労う。雨はまだ止まないようだ。
「はい、すべて仰せのとおりに…あっ…」
「?」
報告を途切らせ、頓狂な声をあげた式を怪訝に思い首を傾げる。彼女の視線は自分の目元に注がれている。
「紫様…失礼します」
言うやいなや、藍は袂からハンケチを取り出し紫の目元を優しく、花を愛でるかのように拭った。どうやら寝ている間に涙を流していたようだ。紫は、不安におされ涙を流した己を恥じると同時に、平気な顔で…かつ優雅に…涙を拭った式に対する照れやら恥ずかしさやらで、頬をやや染めつつそっぽをむいた。
「…」
「…」
雨音は依然激しいはずなのに、静寂が二人のあいだに染み渡った。時間にしてほんの数分間であったろうが、紫には小一時間にも感ぜられた。無意識に時間感覚の境界をいじっていたかもしれない。ともあれ、その静寂を先にやぶったのは藍だった。
「…不安なのでしょうか?」
何を…と強がってみようかとしたが、すぐにやめた。今さら彼女に何を隠すことがあろうか。否…藍には隠し事など無駄などということは分かりきっていた。
「そうね…不安じゃないといったら嘘になるわね」
「…」
「…」
再び沈黙が走る。だがそれは、決して不快なものではなかった。先ほどの不安が、藍がそばにいないことへの不安が沈黙の向こうへ消えていくようであった。紫は彼女の名を呼び、目を見つめながら口を開いた。
「藍…私はこれから例の計画を始めます。それはすべての妖怪の力を一時的に脆弱にし、人妖の関係を形式のものにすらしかねない、ある種冒涜とも言える行いでしょう」
「…」
そこで言葉を区切り、紫は思い出したかのようにくいと盃の酒を一気に干す。気付けである。これから話すことへの…
「きっと数多の妖怪の反発にあい、戦争も起こるでしょう。私の望む、人妖のバランスのとれた理想郷に至るには何十年…いえ、何百年のかかることでしょう」
人間は強くなった。無論膂力や霊力の事ではない。稀に妖怪と張り合うことのできる霊験あらたかな人間が現れるが、ごく少数である。この場合の強さとは、「自立」である。人間は科学の道を大いに広げ、縦横無尽に闊歩するようになった。その結果人は信仰をしなくなった。決して信仰そのものが無くなったわけではない。ただ、人間という種は一人歩きできるようになると、それまでの拠り所をいとも簡単に切り捨てられる。そういう存在なのである。人間たちの妄想から妖怪たちが消え去るのも時間の問題であった。紫は許せなかった。愛したこの地が、妖怪たちが幻想の彼方へ儚く消え去っていくことが耐えられなかった。しかし…
「あなたは誇り高き九尾の妖狐。一時的とはいえ、妖怪の力が脆弱な世界で暮らすのはこの上ない屈辱でしょう…準備は整いました。あなたの役目は終わりました。今からあなたの式を外します…自由になさい…」
藍は仮にも九尾の妖狐。その伝説は未だ多く語り継がれる。この地にとどまったとしてもその名と伝説は語り継がれ、彼女は生き長らえるであろう。自らの術に懐疑的である紫は、せめて彼女は自由にさせてやりたかった。一時的とはいえ、長きにわたって脆弱な妖怪になるよりは、誇り高き九尾の妖狐でいたいはずだ。言いながら紫は藍に手をかざし、式を外した。しかし、その声もかざす手も小刻みに震えていた。
「さあ…もうあなたは八雲藍ではありません。自由になさい…」
毅然と言い放った…つもりだった。紫の意に反して、声はかすれ震えていた。
「嫌ですよ?」
目の前の妖狐が発した声は、空気が読めないのではないかと思えるほどどこか抜けていた。その間の抜けた調子と意外な言葉に紫は目を丸くした。
「何を…」
「私は八雲藍です…これまでも…そしてこれからも…」
即答である。今度はどこまでも真面目な声色と表情。
「八雲紫ごときの世話も出来ずに、どうして誇り高き九尾の妖狐を名乗れましょう?」
紫は九尾の目を見据えた。およそ冗談をぬかしている目付きではない。まして、彼女は主に向かって軽口はたたけど、たちの悪い冗談を吐くような者ではないということは誰よりも紫が知ることであった。
「ふ…ふふっ…あっははははっははははは!」
抱腹絶倒。盛大に笑い声あげた。かように笑うのはひさしぶりだった。対する九尾は表情を崩さず、依然真面目な顔をしていた。
「式がついていないとはいえ…随分な口を叩くようになったとみえるわ」
「鬼の居ぬ間に洗濯…無礼をはたらくのは式のつかぬ時にかぎります」
ニヤリと狐らしい笑みを浮かべた彼女と再び笑いあった。
「いいでしょう…あなたの覚悟しかと受け取りました。今一度、あなたに八雲藍の名を与え存在を縛ります」
「御意」
初めて藍に式をつけたときのことを…思い出せなかった。気づいた時には絶えずそばにいさせて、雑用をさせていた気がする。しかし、誇り高き九尾に家事をやらせるとは…とぼやいていたのはよく覚えている。九尾の妖狐が式神にされたのだから当然の文句であろう。
「藍…」
「なんでしょう」
呼び慣れた名を口にする…なにやら懐かしさすら感じたが、気のせいということにしておいた。
「もっとこっちに寄りなさい」
「はい」
紫のそばに寄り酌をする。紫はそれをくいとあおると藍に盃を渡した。
「前祝いよ」
いつもの高圧的物言いではなく、出会ったばかりの少女紫の口調で藍に酌をする。
「いいですね」
いつもなら文句のひとつやふたつたれるところだが、今日は特別であった。そう考えた藍も主に習い一気に盃を干した。静寂…しかしこの静寂はいまだかつて味わったいずれよりも心地良かった。
「四天の鬼共や風見の大妖はどう出るかしら…」
「あれほどの格を備えた者たちが安々動くとは考えられません。むしろ、より下位の者共が気になります」
「そうなったら、あの巫女の出番ね」
「人妖の関係の原点への回帰…」
「たいそうな茶番ね」
そういってくつくつ笑った紫を見て、藍が思い出したように報告を重ねた。
「その巫女ですが、結界の準備は出来ています。あとは対局の紫様の術の発動を待つのみです。」
「ふふ…なかなかやるようね、あの娘」
「あの巫女…どこから拾ってきたのですか?どう見てもまだ子供…それがあれほどの結界術を扱うとは…」
「内緒」
「だと思いました」
ひとしきり笑い終えると、紫は頭を自分より一回り大きい藍の肩へもたれさせた。藍はそっとその頭を愛でるように撫でた。
「生意気よ。藍」
「おやおや、小さい頃はこうしないとお眠りにならなかったのはお忘れですか」
「…生意気よ」
頬を赤らめながらも、紫は藍のそれを享受した。願わくはもっと永くこうしていたかった。しかし、その願いを阻害するかのように遠くで霊力の乱れを感じた。
「紫様…」
「わかってるわ。博麗の巫女がしびれを切らしているようね」
「博麗?」
「今付けたわ」
「良い名ですね」
「当然よ」
紫は縁側から立ち上がるとスキマへ入り、藍も続いた。スキマはすべての結界の中心地点上空に抜ける。いつしか雨は降り止んでいた。
「さて、博麗の巫女にどやされる前にやりましょう。覚悟はいいわね、藍」
「はい」
「いざ、幻想郷へ」
「幻想郷?」
「今付けたわ」
「良い名ですね」
「当然よ」
もう迷いはない。
ただ、話自体が短かったことが個人的には残念です。
この風情ある世界観をもっと堪能したいので、次回作に期待させてもらいます。
2人のやり取りが特に好きです。