「本当、初々しいわね」
渓流の穏やかなせせらぎが絶え間なく聞こえる。
将棋盤の隣で、昼寝をしてた雛が呟いた。何がって聞き返さなくても、文と早苗のことだってすぐ分かる。早咲き桜が山にもちらほら見え始めた頃に、二人は付き合い始めた。半年とちょっと掛かりの恋。私と雛と椛は、そんな両想いだった恋の仲人になれたみたい。何故って、鈍感な文以外は皆最初から気付いてたから。
確かに初々しいけど、雛が今更言うのも不思議だと思う。
「羨ましいの?」
「まさか」
応えに続いて駒が鳴る。対局している椛が無言で指してきた。
私は羨ましいけどなぁ。早苗は頬を染めていつも言ってる。
――告白する文さんかわいかったなー。もじもじして言葉に詰まって、夜の暗さがなかったら首まで真っ赤だったの見えてましたよ絶対。もったいないなー。あ、でもその後、嬉しくて泣いちゃった私を、文さんは静かに抱き締めてくれたんです。それがすっごく優しくてかっこよかったんですよ。もっと抱き締めてくれてもいいのになー。
都合十六回聞かされてるから暗誦できる。そろそろ飽きてきたかも。でも、素直に初恋を楽しんでる様子は本当に幸せそう。見てるこっちまで幸せになれる。うん、やっぱり羨ましい。
「にとり、私は厄神よ。人の恋路を祝いはしても、妬むなんてないわ」
「少々ずれてますよ、雛さん。羨ましいのですか」
濁した言葉に容赦なく聞き返した。けど、椛は鈍感でも意地悪でもない。ここしばらく雛のそぶりが変だって、きっと気付いてる。だから、こんな風に探るような言い方したんだと思う。
盤上で駒が二、三回行き交った後に、衣擦れと草の立てる音が聞こえた。雛が起き上がったみたい。
「違うわ。幸せそうなのが嬉しいだけよ。日向ぼっこは終わり。厄集めに行ってくるわね」
「うん、行ってらっしゃい、雛」
「雨の匂いがします。お気をつけて」
椛とそれぞれ声を掛けて見送る。
入梅した空は薄暗かった。
***
空から静かに水滴が落ち始めたところで、将棋の決着はお預けになった。
いい加減、夏用の屋根を組まなきゃいけない。建材は倉庫にしまったまま。少し面倒。葺くための竹は切り出してあるから大丈夫。少しづつ泥を含み始めた流れの中、工房兼住処へ向かいながら取り留めもなく考える。そこに浮かび上がる絵があった。別れ際、不安げに眉をしかめていた椛の顔だ。
二人で雨をくさしながら、将棋盤を運んだ。木陰に建てた小さな物置に仕舞う。
いつの間にか、雛へ話題が移っていた。
「雛さんの様子がおかしいことは、にとりも気付いているでしょう」
「そりゃわかってるさ。けど、何も言ってくれないんだよ」
「何か心当たりはありませんか。些細なことでも」
「特にないかなー」
リュックを取り出しながら応えた。水を吸った土の匂いがする。
あったら直接聞いてると思うよ。ほんと、どうしてだろう。
「どれ」
「ひゅい!?」
椛が私へ急に近寄り、二つ結いを掻き揚げた。
首筋に視線を感じる。慌てて後退る。リュックが倒れた。
「印も見える。悩みがあるとして、にとりへ相談しないというのも妙ですね」
「何するのさ!」
手が勝手に首を隠した。顔が熱いし、声が震えてる。だって、昨夜そこに当てられる柔らかくて温かい感触を思い出したから。
「いくら椛でもひどいよっ」
「落ち着いてください。にとり達の間に不和があるか確かめただけです」
手のひらで押さえるようにして宥めてきた。段々と火照りが冷めてくる。
けど、恥ずかしいものは恥ずかしいよ。
「それでも、そんなの」
「すみません、行き過ぎました。ただ私も心配なんです。よく考えてみてください。何も心当たりはありませんか」
椛の申し訳なさそうな、けど真剣な表情が目に入った。
痛いくらいだった脈が鎮まってきた。昨夜のことを頭から振り払う。大きく息を吐いて応える。
「うん、もういいよ。びっくりしただけだし……心当たりかー」
近頃何かあったっけ。あんまり思い出せない。でも、変だって最初に思ったのは、多分半年とちょっと前。積み重なった落ち葉を見ながら、痛みを耐えてるような顔で立っていた時のはず。「何でもないわ」って構わないで欲しそうに返されたから、気にしないようにした。結局何が理由だったのかは、ずっと訊けないまま。無理にでも訊いた方がよかったのかな。
もっと最近はどうだっけ、昨日とか。雛の家へ泊まりに行って、ご飯食べて、お風呂入って、飛ばして、起きて外を見たらくるくる回ってた。いつも通り。何か分かるような仕草はなかったはず。でも、たまに陰りが見えたのは覚えてる。やっぱり何かをこらえてるように、唇をきつく結んだ哀しげな表情。
「ないかなぁ」
「そうですか。恋人のにとりでも目星がつかないとなると、打つ手がありませんね」
「恥ずかしくなるから言わないでよ」
私達が恋仲になって五十年とちょっと。それでも、面と向かって言われると、やっぱり照れる。
しばらく難しい顔で唸っていた椛が視線を上げた。
「なんであれ、言われるまでもないでしょうが、にとりはしっかり見ていてください。信仰に依る神とはいえ、塞ぎこんでいては心で身を滅ぼしかねません。私もできる限り注意します」
「そうする。雛が元気じゃないと哀しいから」
こういう時、椛は私達のお姉さんでお母さんなんだなぁって思う。心の底から気遣ってくれてるって感じるから。
夕暮れの近いこともあり、雨雲に覆われた空が明るさを一層失っていく。
「ほんと、どうしたんだろうなぁ」
顔に当たる流れが少しづつ速くなってきた。雨脚が刻一刻と強まってきている。
椛に言われて、半年間気にしないように努めてきた件が重みを増してきた。
今日は特に変だったな。朝からずっと上の空。外に出て挨拶しても回りっぱなし。一応返してくれはしたけど、それもどこか茫洋としてた。文と早苗が来てからもっとひどくなって、何かあっても生返事。やっぱり悩んでる?
私では雛の相談にのれないんだろうか。
考え事をしている内に、工房が近付いていた。体を岸から引き上げる。重いリュックが背を引っ張る。少し寒い。
雛は私をいつも想ってくれていた。驚かそうと流れの深みに隠れても、いつだって私を見つけてくれた。お供えに胡瓜があったら、真っ先に私へ持ってきてくれた。設計図に掛かりっきりだった冬の夜、冷えた私の背中に毛布をかけてくれた。改造や発明に失敗して落ち込んでいる私の肩を、何も言わずにそっと抱いてくれた。どれも嬉しかった。雛が好きだっていつも思った。
工房の戸を引く。服を脱いで簡単に絞る。ぐるぐる巡る思い出の中、どんどん惨めな気分になってきた。
雨上がりの激流に巻き込まれた私を助けてくれたこともある。あの後、顔中をくしゃくしゃにして泣かれたっけ。
せせらぎのように穏やかな表情で、厄を集める満足感を話してくれたこともあった。本当に優しい人なんだなぁって改めて思った。
目が合えばいつでも、春の日差しみたいに暖かな笑顔を向けてくれた。その微笑みで、私はどれだけ幸せになれただろう。
足元に水溜りができる。
私は、雛に何もできないんだろうか。
***
気が付いたら朝だった。
窓から外を覗いたら、無音の中に細雨が降っていた。私達河童には嬉しいはずなのに。
「にとり、いる?」
戸を軽めに叩く音へ雛の声が続いた。慌てた。
昨日帰ってきてから、ずっと裸だったんだ。流石に恋人だからって言っても憚られる。
「いるよ、でも少し待って。今起きたばかりなの」
「そう、朝早くからごめんなさいね。急ぐわけじゃないから、ゆっくり準備して頂戴」
焦っちゃいけない。私が今するべきことは、顔を洗って服を着るだけ。そして普段通りに雛と会うだけ。
甕へ向かって、水を被る。体を拭いて、目に付いた作業用のつなぎを引っ張り出す。うん、多分大丈夫。
「お待たせ。こんな時間にどうしたの」
「おはよう、にとり。朝食はまだでしょう。昨日、山菜を秋姉妹に頂いたから一緒に食べようと思って」
蛇の目傘を差した雛が、もう片方の手で小ぶりな籠を掲げた。ウド、ゼンマイ、タラの芽。ゼンマイは干してあるみたいだし、残りはすぐ食べられる物だ。雛は優しい。
「うわ、ありがとう。とりあえず入ってよ」
「お邪魔します。お台所借りるわね」
土間に入り、緩く開いた傘を置く。山菜を流し場に積み、灰汁抜きの準備をする。
その様子を見ていたら、急にお腹が意識された。今にも鳴りそうだ。そういえば夜から何も食べてなかったっけ。
同時に、絞っただけで散らかしたままの服とほったらかしのリュックが目に入る。
「ごめん。私、片付けなきゃいけないのがあるんだ」
「別にいいわよ。こっちは手間がかかるわけでもないし。貴方は用事があるなら済ませちゃいなさいな」
割烹着に隠れつつある紅い背中へ、感謝と謝罪の言葉を返す。
改めて荷物へ向き合う。ひとまず洗濯物はまとめて洗濯籠へ。リュックの中身を検めて、染み込んだ水に濡れている工具の手入れをする。防水だからって放っておいてもいいわけじゃない。
一通り終わる頃、椎茸の出汁が香ってきた。
「ご飯がそろそろ出来るけれど、そっちは終わった?」
「今済んだところ。手洗ってから食器出すね」
鍋から上る温かい湯気と、山菜の瑞々しい彩りに空腹を刺激される。甕からタライに水を移し、汚れた手の油を落とす。やらなきゃならないことはやり終えた。そうして余裕が出た頭に蘇ったのは、雛が抱えてるかもしれない悩みだ。上品な手付きでお味噌を溶いている隣の姿を横目で覗う。
睫毛が長い。肌理が細かい。艶やかな唇。指は白魚。振り向く動きに数瞬遅れ、髪から漂う甘い香り。
「どうかした?」
「何でもないよっ」
困惑したように、でも穏やかな微笑を添えて訊ねられる。柔らかな声で我に返った。
雛から視線を剥がして、茶箪笥を開ける。何してるんだ私。悩んでるかどうか様子を確かめるんじゃないのか。見蕩れてる場合じゃないだろ。
激しく自己主張し続ける心臓を落ち着かせながらお皿を出す。よそわれた料理をちゃぶ台に並べていく。温め直したお米、タラの芽の胡麻和え、ゼンマイの煮物、山女の干物、ウドのお味噌汁。我慢してきたお腹が催促した。
「かわいい音ね。なら早く頂きましょうか」
割烹着を脱ぎながら、声を殺して笑う雛も綺麗でかわいい。恥ずかしいけど、こんな表情が見られたならお釣りが来る。鮮やかな品々の前に座る。二人合わせて食前の挨拶。箸を付けて、噛み締める。
うん、やっぱり雛が作ったご飯は美味しい。私だとこうはいかない。機械以外にはがさつで無頓着だってことは自覚してる。だから尚更、調理や他の細かい動作に出てくる、雛の繊細な気配りや心遣いがよく分かる。こういうところも大好きだ。
違う、そうじゃなくって、今は雛の悩みだ。哀しそうで、苦しそうに寄せた眉。寂しそうで、辛そうに伏せた目。せり上がる涙を、押し込めるように握り締めた手。食べる前までは覚えてたのに、どうして忘れるんだ。
箸で摘んだウドが急に色褪せた。
「どうしたの。口に合わなかった?」
「そんなことない! すっごく美味しいよ」
「そう、よかった」
首を振って否定する。
まただ。またあの表情だ。またあの哀しそうな表情が見えた。美味しいって私は言ったけど、雛がそんな顔したら味だって分からないよ。私は雛の笑顔がみたいんだ。こんなの嫌だよ。
雛は私に相談してくれないの? 私はそんなに頼りない? 私に話すのがそんなに嫌?
ねぇ教えてよ、雛
***
そこで会話が終わった。
雨も降っていたはずなのに、陶器の立てる音だけが居間に響き続けた。私はただ黙々と箸を動かす。何か悩んでいるのか訊きたくて何度も声を出そうとした。でも、私が頼られてないって分かるかもしれないって思ったら、怖くて無理だった。それでも、たまに視線を上げて雛の様子を見たけど、昨日と変わらず上の空。食物を機械的に口へ押し込んでいる姿しかなかった。昨日よりもっとひどいかもしれない。そんな顔、見たくないのに。
タライに食器を載せ、家の傍を流れる河まで運ぶ。
頬に伝う雫も拭わないまま、無心に洗う私の後ろから声がした。
「にとり。終わったら散歩に行かない?」
細雨で静かに煙る森の中、私は雛の右を歩いている。
出かける前に待ってもらって、髪を整えワンピースに着替えた。継ぎだらけな上に、油で真っ黒なつなぎなんて着てられない。雛は綺麗でかわいくて、そんな横に汚れた姿じゃ並べない。大切な雛まで汚してしまう気がするから。誰が見てるんだって言われても、私が見てるだけで十分だ。これが私なりの精一杯な乙女心。雛に届かないのは分かってる。だから、せめて好きな人の価値を、私が隣で歩いても下げないため。力一杯の抵抗だ。
雨粒に打たれながら一人で散歩するのは好き。木々が生きる匂いを嗅いで、草が喜ぶ音を聞きながら歩くのは好き。何か嬉しいことがあった時、哀しいことがあった時、なんでもない普通の日、合間合間を縫って雨の中へ散歩に出る。
それでも、雛と一緒の方がずっと嬉しい。もし、これがいつもと変わらない日常なら、綺麗でかわいくて大好きな雛の隣で、浮かれた私は頬が痛くなるくらい笑ってるだろう。でも、そんな綺麗でかわいい雛は、今とても哀しそうだ。何かを我慢するように、固く唇を結んでる。眉の間に皺が寄ってる。握ったこぶしが痛そうだ。雛と並んで聞く、蛇の目に跳ねる軽快な音が大好きなのに、これじゃ全然楽しくない。ほんと、どうしたのさ。
「あの杉」
唐突に立ち止まった。伸ばされた指先を追う。戸惑いつつ先を促す。
「綺麗ね」
「本当、青に吸い込まれそうなくらい綺麗」
樹高十五間はあるだろう堂々とした杉だ。神木になっていてもおかしくないと思う。
また重い沈黙が降り、傘の立てる拍子を耳にしながら歩き出す。
「あの岩」
立ち止まった。さっきと同じように指先を追う。先を促す。
「変わらないわね」
「そうだね。でも苔は随分育ってるみたい」
厳しい顔をして、地面から突き出ている大岩。周りも気圧されるのか、上には枝もかからず雨雲が見渡せる。
沈黙が降りる。歩き出す。
「あの菫」
立ち止まる。指先を追う。促す。
「今年も咲いたわね」
「うん、見るたびに安心する。変わらずに咲く薄紫が好き」
小さく開けた沼だ。睡蓮の姿もあった。夏には山百合、秋には野菊や竜胆が咲くだろう。
歩き出す。
それからも度々立ち止まり、何かしらを指差した。
雨宿りもせず笹を食む鹿、窪地に生える緑も新しい若木、岩の間から落ち葉を連れて流れる湧き水。
そうしている内に気が付いた。雛は何かを指差すたびに、哀しそうな顔がもっと哀しそうになる。それを見るたびに、私の胸が締め付けられた。苦しくて涙が出そうになるけど、泣いたらきっと止まらなくなるって分かってる。息を詰めてこらえながら言葉を返す。ただ相槌を打ち、隣を歩き続けた。晴れた日なら、そこかしこで音がするのに、今日の天気は雨。水音ばかりが満ちる薄暗い森の静けさを恨んだ。
幅二間程の沢に出た。立ち止まる。でも、今度は何も差さなかった。
昨日から降り始めたせいで、水量を増した流れが岸を削っている。どこか遠くから、鳥の飛び立つ羽ばたきが聞こえた。雨脚は強くも弱くもならず、淡々と降り続ける。
隣から幽かなため息。雛を見ると、丁度こちらに向き直るところだった。多分散歩に出てから、初めて正面で見られた表情。いつか河で拾った能面を思い出す。そこには白い無表情が貼りついていた。怖い。さっきまでの哀しそうな顔は、それでも雛だった。何もかも抜け落ちたようなこれは、違う。雛の紅い服を着た、白くて硬い人形が一歩下がる。そして残された私は、傘の外。
「雛、一体どうし
「退屈ね」
何が?
「退屈だわ。貴方は退屈」
どうして?
「いつも機械を弄ってばかり。私のことなんかどうでもいいって態度」
そうかも
「ここに来るまでの間もそう。話しかけない限り黙りっぱなし」
「貴方は私を見ていない。私は貴方をもう見ない」
「私は貴方に飽きたのよ」
視界がぼやけた。耳鳴りがする。口中が乾ききる。心臓が押し潰される。
「待って! ごめんなさいっ、謝るから、これからもっと大切にするから、もっともっと雛のこと大切にするから、そんなこと言わないで!」
白い顔は動かない。口から響く凍える音。
「まだ分からないの? 私は、河城にとりが嫌いなのよ」
***
気付いたら私は土間に転がっていた。あれから随分経った気がする。
三日? 一週間? 一ヶ月? どうでもいいか。寝よう。
何も食べなくても、結構平気なんだなぁ。お手水行って、水飲んで、寝て、それだけ。
これぞ妖怪ってものだ。機械弄りに掛かりっきりで食事を忘れたこともあるけど、これはきっと新記録だ。
丈夫だってちょっとは自惚れてもいいのかな。死なないのは別に嬉しくないけど。
そうだった。機械弄りばっかりだから雛に嫌われたんだった。
こんな状態でも、まず機械のことを考えるような私だ。
機械馬鹿で一番大切って思ってた恋人もろくに構わない私だ。
嫌われても当然だよなぁ。ほんと、当然だ。
ごめんね、雛。
そういえば以前、魔理沙が”外の世界から来た”って触れ込みで、ぼろぼろの本を持ってきたっけ。
表紙がところどころ剥げてて、日焼けで黄ばんでて、虫食いがあるそんな本。
内容は過去や未来に行き来できる乗り物について。人間ってすごいなぁ。
あれ、作れたらいいな。作れないかな。作ってみようか。完成したら昔の雛に会うんだ。
「にとりはひどい奴だから付き合っちゃダメだよ」って教えてあげるんだ。
雛なんて大嫌いだ。
くるくる一日中回って、私のこと構わないじゃないか。お相子だ。
いつも静かでおとなしくて、目が合ったら微笑むだけ。退屈なのはどっちだ。
驚かそうと深みに隠れても、いつだって先に私を見つける。意味ないじゃないか。
徹夜してる私を無理やり休ませようとする、お姉さんぶった態度が嫌いだ。
「体を壊したら元も子もないわよ」って、心配そうに歪ませる顔が嫌いだ。そうとも大嫌いだ。
でも、やっぱり大好きなんだよ、雛
***
音がしてる。うるさい。
「にとり。いるんでしょう、にとり」
いないよ。にとりなんてひどい奴いないから帰って。
「ああもう、焦れったい。勝手に入りますが、後で怒らないでくださいね」
うるさくしないで。
「光が無い上に淀んでいる。締め切った窓のせいか。私の鼻を拷問にかける罠だと見做しますよ」
だからうるさい。
「これは新手の蓑虫妖怪ですか。どこぞの物書きが興味を示しそうですね。どれ」
まぶしい。さむい。
「また見事に腐っているものだ。泥で固まった服を見て何事かと思ったが、これなら合点もいく。目のやり場に困る……ような間柄でもありませんね。今更などと言うまでもない。さぁ、立って。まずは河で汚れを洗い流しましょう」
ふさふさした尻尾が動いてる。
「まったく。来てみれば案の定。将棋相手が減るなんて事態は御免蒙りたい。まだ決着のついていない勝負も残っているんですよ」
尻尾がなにか言ってる。
「手土産に山菜を選んでおいて僥倖だ。もうしばらくかかりますから、寝てなさい」
地面が揺れてる。
「ほら、起きて。おじやができましたよ」
肩にごつごつしてて柔らかいもの。私が揺れてたみたい。お味噌とお米の香りがする。お腹が鳴ってる。眩しい。椛の顔。なんで? 背中に手の感触。起こされる。木匙を握らされた。私の腕、襦袢着てる。
「その音なら生きるつもりはあるようですね。一人で食べられますか」
食べる? そういえば”おじや”って聞こえた気がする。多分大丈夫かな?
「よろしい。それでは、どうぞ」
ちゃぶ台に土鍋が載ってる。椀によそって渡してくれた。温かい。
「汁物も拵えました。喉が渇いているでしょう」
お味噌汁。薄緑が浮かんでる。なんだろう、山菜? ウド? そうだ、あの日の朝ご飯だ。手が震えてるけど、おじやはなんとか置けた。私ってすごいかも。
「急にどうしたんです。ウドは嫌いでしたか」
違うの、嫌いじゃないよ、ごめんね。
包まれた
「涙がまだ残っていたなんて。いいでしょう、にとりの気が済むまで抱いていますよ」
やっぱり私達のお姉さんでお母さんなんだなぁ。ありがとう、椛。
***
「まったく。私は狼ですけどね、犬だって後足で砂をかける類の話だと断言できます。心配した私が馬鹿だった。文さんも大概鈍感だが、こんな身近にもう一人いたなんて聞いていませんよ」
あの日から一週間が経っていたそうだ。もう少し長いと思ってたけど、案外勘は当てにならない。霊夢ならぴったり当てられるのかな。河沿いにあるいつもの場所に、私も雛も顔を見せないから心配して見に来てくれたらしい。どっちか一人ならともかく、二人揃ってだと何かあったってすぐ気付くだろう。
おじやを食べ終えた後で、所々つっかえながら事情を説明する。途中で喉が詰まって続けられなくなったりした。その度に、私を抱き締めて、タコが出来てるけど柔らかくて優しい手で頭を撫でてくれた。椛は暖かくてふかふかで干したての布団みたいな匂いがして落ち着く。
まだ小さかった私にとって、その腕の中は誰にも渡せない特等席だった。暖かな日差しを受けて昼寝をする時や、心細くてたまらなくなった時に潜り込む大好きなお布団だった。そうした思い出は、今でも私の大事な大事な宝物だ。
話し終わり、日も暮れて月明かりが差す居間の中。
私の大好きなお布団だった椛が、呆れ返った様子で言葉を連ねる。
「それとも”恋は盲目”とやらですかね。夜雀の唄をひがな一日聴き通した経験でもあるんですか。いえ、答えなくとも構いません。その両方が混ざり合った結果だと言われれば辛うじて納得できる。付き合わされて振り回されるこっちの身にもなって欲しい」
「でも」
「”でも”じゃありません。”でも”じゃないんです。考えてもみなさい。にとり達が一体何年連添ってきたかくらい、分かっているでしょう」
「えーっと」
よく回らない頭で必死に考える。
「大体、五十と、ちょっと、くらい?」
「六十と三年」
今にも噛み付きそうな勢いで訂正された。冗談にならないからやめて欲しい。
「もう干支が一巡りしているんです。何故、部外者の私は覚えているというのに、当事者の貴方が忘れるんですか。貴方達にとって大切な、記念すべき事柄でしょうに。そう、貴方は少し心情の機微に疎すぎる。それが、機械に惚れこむあまりに、身の周りを見渡す余裕がなかなか持てないからだということは知っています。貴方がまだ幼い頃から成長を見続けてきましたからね」
いつの間にか、お説教になっていたようだ。私を”貴方”と呼ぶことがその証拠。こうなったら椛は止まらないって分かってる。真面目で一直線って性分も大変だと思う。主に私の被害が。
「けれども、ここまでとは思わなかった。だから『機械を弄ってばかり』だなんて雛さんから指摘を受けるのですよ。別にそれが悪いことだとは言いません。生き甲斐と呼べる物に精々打ち込む、大いに結構。しかし、それ以外に対しても余裕を持って接せるようになりなさい。畢竟、それは貴方の糧となり、ひいては生き甲斐へ活かせるような経験ともなるでしょう。それが友人関係なり、色恋なり、世に溢れる万の物事なんです」
小さい頃、いたずらが見つかったら、いつもこんな風に叱られたっけなぁ。あまり嬉しくない懐かしさが、私の胸を無理やり満たす。久しぶりなせいもあって身体に応える。半刻ほどで済めばいいけど。
「雛さんを連れ、『恋人ができたよ!』と声を上げつつ貴方が満面の笑みで駆けて来る姿は、あたかも昨日見た光景のように思い出せます。それはそれは幸せそうに二人で笑みを交わし合って、その様を見ているだけで私の頬も自然と綻んだものです。これは覚えていますよね。覚えていないとは言わせませんよ。……うむ、流石に月明かりだけでは、顔を見るにも心許ない。少々来るのが遅かったか。灯りを点けましょう」
黙って頷く。雛に告白した日のことなら、天気から何を話したり食べたりしたかまで全部覚えてる。でも迂闊に何か口走れば、お説教が三割り増しになることだって分かってる。
椛がマッチを擦り、ランプに火を灯す。
「失念していました。そういえば、にとりは病み上がりでしたね」
私を照らして覗き込んできた。夜の暗さに慣れきった目には眩しい。
言われてみれば、だるさがあるし頭も重い。
「言うべきことは山ほど残っていますが、ここまでにしておきましょう。今夜は泊まっていきます。にとりは心身どちらも万全とは言い難い。これで放っておいて、夜泣きでもされたら寝覚めが悪いですからね。休んでなさい。今、寝床を整えます」
横のちゃぶ台に腕を投げ出し、もたれかかる。押入れから布団を出している背中を眺める。淡い光の中に、白銀の尻尾が浮かび上がってる。気になって目で追いかける。右に左に忙しなくて、軽く頭痛がしてきた。
「できましたよ。こちらに入って寝てなさい。私は寝巻きに着替えてきますから」
「うん、ありがとう、椛」
潜り込む。
我が家には椛のために襦袢が置いてある。尻尾用の穴を開けたものだ。雛の分もちゃんとある。早苗の分も増えそうだけど、神様達が許さないんだろうなぁ。文がいるから大丈夫だと思うんだけど、親心って物なんだろうな。
昔と比べて、椛が泊まっていく回数は随分減ったと思う。一番最近だと二ヶ月前くらい? 雛に遠慮してくれてるんだろうか。
なぜだか眠る気にはなれなかった。灯りが届かない天井を、何とはなしに見続ける。
「まだ起きていたのですか」
「ちょっと、ね」
隣から布団が捲られる音。
「消しますよ。ゆっくり休みなさい」
それには応えず、宵闇を待つ。ランプと月光が交代した。脈に指を当て、二十数える。
「あのさ」
「なんです。早く寝なさい。疲れているでしょう」
気付かれないよう深呼吸。ありったけの平静さをかき集めて搾り出す、明日の天気を話題にするような声音。
「そっちに行ってもいい?」
月夜の静けさが耳に痛い。傍のせせらぎを遠くに聞く。自分の鼓動を意識する。
「今日だけですよ」
「うん」
枕を抱えて滑り込む。
「どうしてそんなに元気なんですか」
「私はすっごく疲れてるよ。おやすみなさい」
「そうは見えませんでしたけどね。おやすみ」
胸に顔を埋める。緩く、抱いてくれた。
私の布団は暖かい。
***
起きたら椛はいなかった。
替わりのように、書置きがちゃぶ台に載っていた。繊細な細身の達筆。
「哨戒任務は早番なので、八つ時頃にいつもの場所へ行きます。家にいては気も塞ぐでしょうから顔を出すこと」
「追伸、釜と鍋に、飯と汁物が残っています」
「二伸、洗濯物は外に干しておきました。忘れず取り込むこと」
「三伸、説教の続きがあるので必ず来ること」
「四伸、来なければ尻叩き」
最後の一行で運命が決まった。
お説教のほうがどれだけましか分からない。椛の手がどれだけ痛いか、子供の私が嫌ってほど経験してる。それに万が一、文にでも見かけられたら、立ち直れなくなるくらいの傷を負う予感がする。でも、きっとこれは椛の優しさだ。私を引っ張り出すための方便だ。
そう考えた途端、小さく笑い声が漏れた。耳に届いたのは幽かだったけど、声に驚いて口を噤む。そんな自分が妙におかしくなって、今度は大きく笑い出す。
なんだ、私ってこんなに単純な奴だったんだなぁ。もう気が晴れてる。昔からそうだとは薄々思ってたけど、こんなに能天気だなんて初めて知った。見てみなよ。お腹を抱えて、大口開けて、畳の上を転げ回ってる。一人で泣いて、自分に笑って、勝手に立ち直って。馬鹿みたい。ほんと、単純。それでも、椛ならきっと、私がそんな奴だって知ってたんだろうな。ずっと昔から、私を見守ってきてくれたんだから。いつもありがとう、椛。もう大丈夫だよ。心配かけてごめんね。私はもう大丈夫。そして
絶対雛を諦めないって決めた
笑い過ぎて、へとへとになった。おまけに腹ペコだ。干物を三枚焼いて、余りのご飯と一緒に掻きこむ。食べながら今日の予定を考える。
食べ終わっても、時間まで半日は余裕がある。機械弄りは? それもいいけど、今は外に出たい気分。何か用事あったっけ。雛のこと……は、今は無理。諦めないって決めたばかりだけども、どうしたらいいのかじっくり考えないと。何をしたらいいのか全然分からない。何か他のこと。じゃあ、早苗達に会いに行くとか。でも、文はいつも取材で飛び回ってるからちょっと難しい。早苗は神社にいるだろうけど、神様達が怖いし、特に八坂様が怖いし、あと洩矢様も怖い。うん、これもない。何かないかな。そういえば夏用の屋根がまだだったかも。皆には結構待たせてるし。丁度いいから、これ。
お昼は魚を獲ればいいだろう。リュックに必要な工具や、必要になるかもしれないその他諸々を詰め込む。倉庫から建材と、しっかり乾燥している竹を出し、筏に積み上げた。縁に手をあて岸から離し、水底に櫂を突きこむ。下流へ向けて、静かに流れ出る。
いい天気だ。透き通る青に照り返る、白い日差しが眩しい。静かに河を波立たせる、山から吹き降ろしてきた風が涼しい。新緑が萌える木々と、雪解け水の清々しい香り。筏が通り過ぎる背後で、水面を叩く魚の音がした。どこまでも広がる空を背景にして、鳶が気だるげな声を上げた。初夏を感じる。
流れの先、小さく木立に切れ目が入る。日当たりはよく、川筋を下る風が穏やかに脇をよぎる空白。いつもの場所だ。岸に筏を着け、荷物を運び上げる。久しぶりに体を動かせる。やる気は十分だ。
穴を掘り、柱を立てる。支柱で固定し、斜交いに木材を合わせ補強する。梁を渡した天井に板を敷き、組んだ竹を縛り付ける。いつもここで使ってる長椅子を四方に配置。完成。
予定より早く済んだかも。手を額にかざして太陽を見る。中天にさしかかろうとしていた。夢中で気が付かなかったけど、お腹がすごく減ってる。魚獲ってこよう。
河の中は気持ちいい。やっぱり私達は水に潜ってこそだと思う。一週間もよく我慢できたものだ。雛への愛が私を生き残らせた? うん、恥ずかしいからやめよう。リュックから火口箱を取り出す。集めた松葉や枯葉に火をつける。小枝に移す。流木を矢倉に組む。今日の成果は山女が三尾に岩魚が二尾。枝に刺して、塩を振る。早く焼けないかな。
「ねぇ、あんた」
「ひゅい!?」
体が跳ね上がった。飛び退って振り返る。目線より上に、大きな黒い翼と長い二つ結い。
何度か会ったことがある。はたてさんだ。
「にとりって言ったわよね。こんなところで何してんの。実験?」
口ごもりながら、組んだばかりの屋根を指す。私はこの人がちょっと苦手だ。物怖じしない態度とか、明け透けな物言いとか、そういうところ。文も似たような性格だと思うけど、あっちは慣れたから平気。
「なにこれ。屋根? なんで?」
魚が気になって少し目を離している間に、竹の作る影へ入っていた。こういうところも怖い。文は見ていて気持ちよくなる程の勢いで飛ぶ。だから、近付いてくるのもすぐ分かる。逆に、はたてさんは静かにゆったり飛ぶ。優雅って言うのかな。綺麗だとは思うけど、気配が感じられなくてびっくりする。さっき声を掛けられた時も、全然気付けなかった。
「あ、えっと、梅雨の雨とか、真夏の日差しとか、そういうの、遮るために」
「河童の癖に、ただの屋根? 飛んだり爆発したりしないの?」
柱を撫でたり、長椅子を踏み台に天井を突付いたりしながら訊いてくる。
私達はどういう目で見られてるんだろう。何の変哲もないものだと説明する。
「なんか面白いことしてんのかなーって見に来たんだけどなぁ。まぁこれはこれでいいか。少し休ませて」
言うなり椅子に寝転んだ。すごい人だと思う。じゃなくって魚は、よかった焦げてない。
僅かに聞こえる寝息を気にしないようにして、遅れた昼食を済ませた。日向ぼっこしながら椛を待つ。
軽く寝ていたみたいだ。
目が覚めたのは、羽ばたきが聞こえたから。今度は誰か来たのが分かった。
「おや、天狗様。しばらくのお見限りだったね」
「お見限りだったのは貴方でしょう。にとり」
目元を擦りながら背を起こす。文と早苗が降り立った。
「にとりさん、こんにちは。お久しぶりですね」
「やぁ早苗。ちょっと忙しかったから」
いいなぁ。二人の間は半歩も離れてない。私と雛も一週間前まではこうだったのに。
もう一度目元を擦る。これは欠伸のせい。
「あれ、文じゃない」
「はたて!? あんたがどうしてここにいるのよっ」
背後から眠そうな声。文が嫌そうに顔をしかめて下がった。
「ご挨拶ねぇ。丁度いい休憩所があったから昼寝してたの」
うららかな午後が、あっという間に騒がしくなった。
振り返ってみれば、目一杯に両腕を上げた背伸び。
「もしかして、そっちは山の巫女? 一度取材してみたかったのよ。いいところに来てくれたわね」
屋根の影から、はたてさんが出てきた。右手には特徴的な写真機を持っている。
文が大股で近付いていく。両腕を広げて通せん坊の構え。
「駄目よ。早苗は駄目。あんたは他を当たりなさい」
「なんで? 別にいいじゃない。その子かわいいし、写真映りもいいと思うわよ」
「駄目なものは駄目なのっ」
「文とは関係ないでしょ。どうして邪魔すんのよ」
言い争いが始まった。私と早苗は蚊帳の外だ。
「はたてさん……でしたっけ。文さんと仲が悪いんでしょうか」
「どうだろう。”腐れ縁だ”って聞いたことはあるけど」
よく分からないまま、二人がますます過熱していく。
「はたて、ちょっとこっち来なさい。早苗に聞かせるような話じゃないから」
「何よ、どういうこと」
文が口喧嘩相手を引いて木立に消えていく。
「早苗。岩魚食べない? なんか時間かかりそうだし」
「へ? あー、お昼まだだし、随分遅くなっちゃいましたし。そうですね。頂きます」
ちょっと寝たら、またお腹が空いてきた。椛とのお八つに残しておいた二尾だけれど、後で獲り直せばいいだろう。
消えかけている焚き火の底から、熾っている流木を掻き出す。枝を加えて、火勢を煽る。
「弾幕ごっこ始まった」
その言葉に釣られて視線の先を追う。離れた森の上空で、天狗の大きな黒い翼が二対やりあっていた。
火にかざし、炙り直す。早苗に串を手渡す。二人で魚を噛りながら観戦する。
遠目でよく分からないけど、はたてさんが多分優勢。文の弾幕を踊るようにかわしつつ、要所要所で反撃してる。あ、幻想風靡……やっぱり避けた。
どうやら決着がついたらしい。そろそろ食べ終わるという頃に、文が降りてきた。
「腹立たしい。私としたことが、はたて如きに。早苗、すみませんが急用です。また今度」
「急用ってちょっと文さん!?」
嵐が巻き起こった。思わず目を瞑る。顔に当たる砂粒を感じた。勢いが弱まったところで、まぶたを開ける。
遠くの空に小さな人影が見える。黒い羽根が一本、風に舞っていた。何しに来たんだろう。
「頭に血が昇ってる文なんてどうってことないわね。あんな感情的になってるの久しぶりに見たかも」
頭の上から楽しげな声と含み笑い。
「にとり、場所貸してくれてありがとね。山の巫女、その内取材させてよ。じゃあね」
文が向かった方へ音もなく飛び去っていく、はたてさんの後姿があった。
ほんと、何しに来たんだろう。
***
早苗の口から次々と、文に関する愚痴が零れ出る。
曰く「私を放り出して消え失せるなんて許せない。埋め合わせとして終日翼を撫でさせろ。当然膝枕つきだ」
曰く「里で評判の茶店を巡る予定だった。私には菓子折りと花束を要求する権利がある。薔薇が望ましい」
曰く「かわいい泣き顔になるまで恋人としての自覚を教え込んでやる。デートを放棄するとはどういう了見だ」
「”デート”?」
聞き慣れない言葉が出てきた。早苗との会話ではよくある。
「えー、なんだろう、逢引……でしょうか。でも、なんか違うような。前にも説明しませんでしたっけ。ほら、好きな人と食事したり、散歩したり、遊びに行ったり、ホテルに行ったり……ホテル? ホテルはどうだろうベッドインまで含むことになるけどでもベッドイン文さんと夜景の見えるホテルでベッドインいいじゃないですか大変結構」
頭を振ったり、顔を赤らめたり、両手で覆ったり。何か呟きながら百面相を始めた。これもよくある。
そう言われると聞いた気がするかも。いつも雛と一緒にしてることへ、わざわざ名前をつける理由が分からなかったんだっけ。それで覚えてなかったんだろう。食事に散歩、あの日のこともデートになるのかな。
思い出した途端、視界がぼやけたけど我慢する。絶対諦めないって決めたから。
「にとりさん、どうしました。大丈夫ですか」
「なんでもないよ、大丈夫」
袖で両目を押さえつける。私は平気。私は大丈夫。
視線を上げると、心配げな顔で早苗が私を見つめていた。
「こんなこと、聞いてもいいのか分かりませんけど」
言い淀む。躊躇ったように目を逸らす。
思ったより平気には見えなかったみたい。失敗だ。
「やっぱり、雛さんと何かあったんですか? 椛さんが”二人揃って顔を見せないのは珍しい”とか、色々」
「えーっと」
喉は震えてない。汗ばんだ手を握り締める。しっかり笑顔に出来てるかな。
「うん。でも、ちょっと喧嘩しちゃっただけだよ」
「そう、ですか」
早苗が顔を伏せた。なんでもない風に答えられたと思ったけど。これも失敗?
目の前にあるつむじを眺めていたら、突然それが勢いよく上がった。どこか不自然な明るい笑顔。
「早く仲直りできるといいですね! 私、にとりさん達の仲睦まじさを見るたびに『羨ましいな』って思ってたんですっ」
早口に言い募る。やや前のめり。その勢いに押されて、少し仰け反る。
「なんたって恋の大先輩で、妬けちゃうくらいにお二人はいつも一緒で、見てるだけでもこっちまで幸せになっちゃいそうなほどラブラブなんですから。それに後から聞いたんです。文さんが私に告白してくれたのって、にとりさん達が背中を押してくれたからだって。だから『恩返しできればいいな』ってずっと思ってたんです。私に仲直りのお手伝いできるようなことって何かありませんかっ」
「あ、や? うん、ありがとう」
気圧されて混乱したまま考える。
音が口から転がり出た。
「方法」
「方法?」
「えっと、仲直りする方法って、どんなのがあるかな」
「ああ、その方法ですか。そうですね」
視界を占めていた早苗の顔が遠ざかる。腕組みして頭を捻っている。
そういえば、まだ考えてなかった。雛とはたまに喧嘩もする。けれど、長くても二、三日経てばどっちかが謝って、謝り返して元通りだ。こんなことになったのなんて初めてだし、本当にどうしたらいいのか分からない。
「定番としては……贈り物でしょうか。例えば花束やアクセサリーとか。それに手紙を添えて、なんかだとロマンチックですね」
そっか、贈り物。殆どしたことなかったかも。私達の物は二人の物って思ってたし。
「それと。そう、ドラマや小説では、思い出の場所をデートする、なんてことも」
***
それからも色々と話を聞いた。
早苗は私達を”恋の大先輩”だなんて言ってくれたけど。全然そんなことはないって分かる。知らなかったことばっかりだ。雛と一緒にいる日常が当たり前で、恋を忘れてたからかもしれない。
帰り際に私を励まして、応援してくれた。嬉しいし暖かい。早苗は優しいって思う。椛もそうだし、雛もそう。皆優しい。
お気に入りの平たい岩へ寝転び、日が傾き始めた空を眺める。
「デートかぁ」
初めて雛とデートしたのっていつだろう。ずっと昔、椛が言う六十と三年よりもっと前になる。そもそも雛と最初に会ったのってどんな時だっけ。確か、ずっとずっと昔、まだ私が小さくて何も知らなかった頃。今みたいな入梅の時期。
雨で煙る森に取り囲まれる中、流れを背に受け泳ぎ続ける。
常々、椛から”危ないから遠出をするな”と言われている。私だって分かっている。乱暴な妖怪や、空腹から気が立っている妖獣に襲われるかもしれない。子供の私は、何も抵抗できないまま食べられてしまうだろう。
しかし、雨の日なら別だ。獲物が茂みに雨宿りをするか巣穴に篭もる中で、危険な妖怪や妖獣は、わざわざ出歩かない。非力な私にとって絶好の冒険日和だ。天気を見て朝食を済ませた後、すぐに家を出た。
――今日は行ったことないほど遠いところに行ってみたい。時間はたっぷりある。もしかしたら、椛がいつも話してくれる人里にだって行けるかも。後で、うんと叱られるかもしれないけど、行ってみないと絶対損。
目標を下流へ定め、未見の流域まで泳ぎ着く。高まる好奇心と募る心細さが、ない交ぜになり、逸る心を抑えつつ先へ進む。
――人里ってそろそろかな。人間ってどんなのかな。
水上に黒い霧。
身体が勝手に水底まで潜り込んだ。
――なんでっ、なんであんな怖そうなのがいるの!?
息が続かなくなるまで河の底を戻り、家まで逃げ帰った。けれど、そんなことで思い止まるような私じゃなかった。椛のお説教を聞き流しつつ、”次こそは”と固く誓う。
次の日も雨だった。二度はないだろうと、念じながら冒険へ出る。
――あれは運が悪かっただけ。たまたまの偶然。
いた。
結局また逃げ帰った。冒険心からの意地と、僅かな好奇心があったのだろう。別の流れを選ぶということも考えず、見ては帰ってを二度、三度と繰り返す。けれども、霧が私に気付いた様子はなく、何事も起きなかった。
――怖い奴じゃないのかな? もしかしたら怖くないかも? きっと怖くないはず。うん、怖くない。黒いもやもやが何なのか絶対確かめる。
そうなると、僅かだったはずの好奇心が頭をもたげた。暴れる心臓を抑えつけながら、霧が見える場所まで辿りつく。子供の私が身を隠すには、丁度いい大きさの岩を岸辺に見つけた。岩陰まで水面下を進み、恐る恐る端へと顔をずらしていく。
「そこに誰かいるの?」
声が聞こえた瞬間、何も分からなくなった。どう家に戻ったかは覚えていない。
――すっごく怖かったけど、とっても綺麗な声だったな。”鈴を転がすような”って、きっとあんな声。私って物知りさんだ。
その声によって霧への興味は膨れ上がり、雨雲が出れば通い続けた。
「誰かいるの?」から「いつも来てる子?」へ。「いつも来てる子?」から「また来たの?」へ。それに合わせて岩影はその役目を、霧に対してより近い葦の茂みへ渡し、葦はさらに近くの流木と交代する。また、彼我の距離が短くなるに連れて、”黒いもやもや”の中に”紅いちらちら”が混ざるようになる。最後には身を隠せる場所が見当たらなくなり、決心して体を震わせながら直接霧を覗き込んだ。
降り頻る雨滴越しに、透き通るような白が見えた。
梅雨が明ける。
雨がなければ、危なくて遠くへは行けない。加えて椛からお説教をもらい、金輪際遠出しないことを約束させられた。
”黒いもやもや”の正体は、椛に聞けば教えてくれたはずだ。しかし、幼い私は雨に霞む冒険の思い出と、そこで出会った自分だけの秘密を、大切に胸へ仕舞った。
対象を失った冒険心が機械に目を留める。
生活は、ごく狭い河童の共同体に終始する。人間を観察しに行ける程度まで成長した頃、”危険だから”と言い含められ、人里へは別の流れを教わった。それと共に”厄神”という言葉を聞いたけれど、伝えられるものは勝手な噂でしかなく、”黒いもやもや”とは結びつけられないままに日々を過ごした。
自分だけの秘密は、胸から少しづつ零れ落ちていった。
何十年かの歳月が流れる。
雨を見ながら考える。
そういえば、こんな日だっけ。結局あれってなんだったんだろう。ちょっと行ってみようか。今なら危ない奴がいても、水と機械で追っ払えるし。それに、あの人は怖くない。よく覚えてないけど、優しそうな声だった気がする。うん、気になったら即実行。背嚢に必要な機械や、必要になるかもしれないその他諸々を詰め込む。下流へ向けて静かに泳ぎだす。
でも、今でもいるんだろうか。いなかったらいなかった時か。湧いた疑問を投げ捨てる。流れを下り、順調に近付く。
思えば、子供だった私はかなり失礼なことをした気がする。毎日のように物陰から覗き見るってどうなんだろう。まだいたなら今度は陸からにして、それで話せたなら謝ろう。霧が見えた場所まで、多分あと少し。
いた。
岸に上がる。普段より心持ち遅めに歩いて近寄っていく。記憶とは何も変わらないような、河の中ほどにある黒い霧。怖くないって思ってても、やっぱり緊張する。ほんとに大丈夫なんだろうか。
「あらあら、少し前によく来てた子? 随分大きくなったのね」
気付かれた。いや、気付いて欲しかったんだけど。でも、”よく来てた子”って私?
まだ遠い。声の主もこちらに来てくれるみたいだ。周りを取り巻いている黒が薄らいでいく。それを透かして紅が見え始めた。気安げな調子に安心して、距離を詰めながら挨拶する。
「えーっと、あの、こんにちは。私のこと、覚えてるんですか」
雨粒で紗がかかった向こうから幽かな笑い声。”鈴を転がすような”って、多分こういうものを指すんだと思う。
顔がやっと見えてきた。こんな時だけは雨がちょっと鬱陶しく感じる。足を動かし続ける。
「初めて返事をしてくれたわね。こんにちは。それは覚えてるわよ。ここに誰かが来るなんて、とても珍しいんだから」
「そうなんですか?」
特に避けられるような、変わった場所でもないと思う。
三歩の間を空けて立ち止まる。子供の頃に見た記憶はおぼろげだけど、綺麗だって思ったことは覚えてる。やっぱり、綺麗な人。
「厄にあてられたりしないよう、人払いを山にお願いしているのよ。厄神って聞いたことないかしら。ここへ近寄らないように言われてない?」
思い出した。確かに年嵩の河童からしつこいくらい念を押された。
それと一緒に、厄を巻き取ってくれる有難い神様のことも聞いた気がする。
「一応、知ってます。貴方がそうなんですか?」
「ええ、厄神の鍵山雛。よろしくね」
「あ、えっと、私、河童の河城にとりって言います。それで、あの時は貴方のこと覗き見したりして、ごめんなさい」
頭を下げる。小さく音が聞こえた。
姿勢を戻してみれば、口にこぶしを当てて喉の奥で笑ってる。何かおかしなこと言っただろうか。
「そんなこと、別にいいわよ。貴方が恐々と顔を覗かせてる姿って、とてもかわいかったんだから」
「うぇっ!? うん、あの、ありがとうございます?」
「どういたしまして。そういう風に戸惑ってる顔もかわいいわよ」
何て返せばいいのか分からなくて、足元に視線を落とす。
私はきっと真っ赤になってるだろう。耳まで余さずだ。
「河城にとりさん、ね。ようやく名前が聞けた。それに名乗るなんて本当、久しぶり」
ささやくような声が届いた。
顔を上げてみると、少し俯いた厄神様がいた。微笑みながらもどこか寂しげだった。
夏が来た。手土産を持って、たまに鍵山様へ会いに行く。いつも喜んでくれて、ちょっと話をしてから帰る。
秋が来た。何もなくとも会いに行けるようになった。顔を合わせたら挨拶と一緒に笑いかけてくれる。
冬が来た。砕けた調子で話せるようになり、お互いに下の名前で呼び合うようになった。嬉しい。”雛”って、一人で呟いて、そのたびに一人で照れてる。自分が気持ち悪い。
春が来た。家へ遊びに来るよう誘われた。教わった場所には、小さな拝殿だけのお社があった。そりゃ雛は神様なんだしなぁ。裏手に回り、気後れしながら挨拶。中に招き入れられたら、私の家とそんなに変わらなかった。安心。
梅雨が来た。雛と話すようになってから一年だ。椛に、友達だと紹介する。厄神様のことは知ってたみたい。山を警備してるんだから当然か。驚いてたけど、私に河童以外の友人が出来たことを喜んでくれた。椛と普段将棋を指してる場所へ、雛も来るようになった。気分転換だと言いつつ、文が乱入してくることもある。
一年が過ぎる。それぞれの家に、よく泊まり合う。訪ねた時に出してくれる雛の料理は美味しくて、楽しみの一つになった。お風呂にも一緒に入ることがあるけど、雛の身体は綺麗だし整ってる。羨ましい。
十年が過ぎる。時間が合えば、隣にいるのが日常になった。雛の声が聞こえないと、ちょっと寂しい。
何年かが過ぎる。桜が散り、入梅して間もない頃。
「なんだろ」
人影が二つ見えた。里がすぐ傍に見える川岸だ。その近さから、晴れた日にはよく水遊びをする人間の子供達がいる。見かけた時には、同じ年頃の童に変化して混じったりもする。今日も一緒に遊ぼうかと思って、ここに来た。でも、
「雨なのに」
来る途中までは雲一つない晴天だったけど、里へ近付くに連れ暗くなり、仕舞いには降り始めた。人間は天気が崩れると、出歩きたがらなくなるのは分かってる。それでも、期待を捨てきれずに河を下った。
そこで見つけたのが、蛇の目傘を差して並び歩く二人。期待外れだった埋め合わせと、暇潰しついでの好奇心があって、水に隠れながら追いかけた。目を凝らすと、若い男女の一組だって分かった。何をするでもなく体を寄せ合って歩いている。
うん、あれはきっと恋人って奴だ。ちゃんと知ってる。お互い大好きになって、想いあって、いつも一緒にいたくなったら恋人になるって知ってる。河童の中にだっている。もっとも、大抵は気恥ずかしがって、滅多に人前じゃ見られない。
俄然、興味が湧いてきた。珍しいし、何より人間だ。何か面白いことが見られるかもしれない。
里から随分離れてきたせいで、人間達が心配になってきた。雨が降ってるとはいえ、危険な妖怪や妖獣がいないとも限らない。何かあったら私が出ようかな。二人には引き返すようなそぶりも見えず、迷いながら泳ぎ続ける。
河原の先に多くの花をつけた鬼胡桃が一本見えてきた。何か危ない奴が隠れていてもおかしくない。先回りして確かめることにする。背負った背嚢から、天狗の隠れ蓑を取り出す。文のお古を改良した試作品だけど、持ってきておいてよかったと思う。羽織って河原を横切り、木によじ登る。何もいないかな? 何もいなさそう? 多分大丈夫。
枝や葉の陰を探っている内に、二人がこちらへ向かってきた。雨宿り? 傘があるから、それはないと思う。木陰に座り込んだ。休憩かな。結構長い間歩いてきたし、それはありそう。でも、これじゃ降りられない。私の姿は隠れ蓑で見えなくなっていても、音まで消せるわけじゃない。少し木肌を擦るだけでも、きっと怖がらせてしまうだろう。下に戻ることを諦めた。なるべく揺らさないようにして枝へ腰掛け、静かに見守る。
話し声が聞こえてきた。
半刻ほども経って、ようやく降りられた。
日が落ちて真っ黒になった河をさかのぼり家に戻った。濡れて重くなった服と背嚢を土間へ脱ぎ捨てる。のぼせ上がった頭を抱え、布団を引っ張り出して潜り込む。目に焼きついた光景が、まぶたの裏に蘇った。
口付けだ。そうだ。聞いたことがある。あれもちゃんと知ってる。でも、ほんとに恋人ってあんなことするんだ。
寝床が作る暗闇の中、紅差指で唇をなぞる。
どういう感じなんだろう。柔らかい? 温かい? 湿ってる?
どういう味なんだろう。何もしない? 汗の味? 塩辛い? 唇は
「雛は」
何? なんて? 雛? なんで?
どうして雛? 雛の唇が気になるの? 私は
「私は雛と口付けしてみたい?」
自分に問いかけ、先刻見た光景を脳裏で繰り返す。二人を私と雛に置き換える。
互いに片手を腰へ回し、もう片手を頬に添える。見つめ合ったまま、短く二言、三言を取り交わす。無言からくる静寂が降り、雨音を背景に数瞬が過ぎる。焦れたように、けれども時間を掛けて、どちらからともなく顔を寄せていく。私を映す雛の瞳が、静かに閉じるまぶたで遮られる。薄暗い木陰にあってなお、仄かに輝く白磁の肌。指先に触れる、滑らかな雛の頬が熱を帯びる。花の蜜に似た幽かな香り。私は目を瞑る。何も見えない中で、私の唇に、雛の柔らかな
我に返った。
熱い。顔が熱い。頭が熱い。体が熱い。胸に当てた手を離されそうなくらい、心臓が飛び跳ねてる。
想像した中の雛は綺麗でかわいかった。口付けする最初から最後まで、そんな雛に緊張し続けてた。でも、ほんとは比べ物にならないくらい綺麗でかわいいって分かってる。もう、十と幾年もずっと雛を見てきた。胸を張って断言できる。ほんとの雛は、とても綺麗でかわいいって言い切れる。
本当の雛としたい。
「私は、雛と、口付けがしたい」
口に出して確かめる。
震えた声で確信する。
私は雛に恋をしている
飛び跳ね続ける心臓に、大きな重石がのしかかった。無理やり押さえつけられたせいで胸が苦しい。熱さにぼやける頭で、恋人になる条件を考える。
私は雛が大好きで、雛を想ってて、雛といつも一緒にいたいって考えてる。たった今、気付いたばかりだけれど、雛と恋人になりたいって、はっきり言える。
じゃあ、雛は? 雛は私が大好きで、私を想ってくれてて、私といつも一緒にいたいって考えてくれてるだろうか。雛は、私と恋人になりたい、って思ってくれてるだろうか。多分私のことを、雛は好きだって思ってくれてる。嫌いなら私の家へ泊まりになんか来ないだろうし、いつも楽しそうに笑いかけてくれる。それなら私達は恋人になれるってことだ。
けど、
得体の知れない不安を感じて目を開ければ、雨夜と布団を重ね合わせた暗闇。私の心に黒が滲み込む。
私を、ただの友達として好きだって思ってたら? むしろ、そっちの方が普通だと思う。何年も一緒に過ごして、遊びに行って、ご飯を食べて、お風呂に入って。私と椛の関係と同じ、仲のいい友達だって思ってるだろう。恋人じゃないって思ってるだろう。
だったら私は友達のままでいなくちゃいけない。勘違いして恋人のつもりでなんていたら、きっと雛に鬱陶しがられて嫌われる。だけど、私は友達のままで我慢できるだろうか。今だってこんなに苦しいのに。雛の顔を思い浮かべるだけで、胸が締め付けられるのに。雛に今すぐ会いたいって、泣き叫びたくなってるのに。せめて。
せめて、”友達”としてじゃない”好き”を伝えようか。もしかしたら、雛も恋人になりたいって想ってくれるようになるかも。
でも、雛が私とは恋人になりたくないって思ったら?
それどころか、私を嫌いになって友達もやめようって思ったら?
目尻からこめかみが濡れる感触。熱い。
雛の顔が見たい。見たくない。
雛に会いたい。会いたくない。
寂しい。苦しい。痛い。
大好きなのに。
***
あの後、心配して見に来てくれた椛に叱られたっけ。
ご飯も食べずに布団へ籠りっきりだったから、当たり前かもしれない。昨日までの一週間にそっくりだと思う。今も昔も、私はあんまり変わってないんじゃないだろうか。ちょっと情けなくなるなぁ。でも、僅かだけど背は伸びたし、天狗の隠れ蓑だって曲がりなりにも実用化できた。ささやかにでも成長出来てると思いたい。
そして、お説教の後で椛が思い悩む私の背中を、ほんの少しだけど押してくれた。冒険心はある癖に、最後の一歩で逃げ帰る臆病な私だ。踏切をつけられた後はしっかり飛べた。
決心できた私は準備を整え、雛に告白した。あの時のことなら、天気から何を食べたり話したりしたかまで全部覚えてる。
突然で雛は驚いてたみたい。でも、その場で私の想いに応えてくれた。
応えてくれたんだけど。どこか気になる。何か引っかかってる。
それなら、あの時、雛も思ってくれていた?
始めから大切に思ってくれていた?
「感心感心。忘れずに来ていますね」
絶対そうだ。
「昼寝中? 私も一休みしましょうかね」
「椛!」
「起きてたんですか。返事くらいしてください」
椛が目を白黒させている。岩から急に身を起こしたせいか、びっくりさせちゃったかも。ちょっと申し訳ない気になるけど、今の私は止まれない。
「昨日、私達のことはなんでもない風に言ってたよね。今でもそう?」
「藪から棒ですね。にとり達が一体何年連添ってきたかくらい、分かっているでしょう」
「六十と三年」
躊躇いなく言い切る。
あの時から、椛には助けてもらいっぱなしだなぁ。でも、ごめんなさい。もう一度だけ。
「御名答。もう干支が一巡りしているんです。その関係に陰りが出たとしても、一時の曇りに過ぎません」
最後の一押しをもらえた。本当にありがとう、椛。
「じゃあ、もう一つ。椛の鼻で明日雨が降るかどうか分からないかな」
「どうも脈絡がない。少し落ち着きなさい。私を里にある龍神様の像と勘違いしていませんか」
「ごめん。でも、どうしても知りたいんだ」
これも大切なこと。焦る気持ちを抑え付けて、答えを待つ。
空を仰いだり、鼻をうごめかせたり。難しい顔で一頻り唸った後、口を開いた。
「そうですね。風に湿り気が匂うし、今日は暖かい。暑いと言ってもいいくらいだ。夜までには雲が出て、明け方前には降り出すでしょうね」
「よかった。ありがとう」
「八割程度に見てくださいよ。山の天気は移ろい易い。けれど、なんだってそんなことを気に掛けるのですか」
息を整え、力を込める。真っ直ぐに顔を向ける。
「雛と仲直りしに行こうと思うんだ」
見つめられる。呆れたような目。けれども優しい目。いつも私を見守り続けてくれた目。
この暖かさを、私の宝物としてずっと大事にしていこうと思う。
「雨との繋がりが見えません。まったく。説教の続きをしようと思ったのですが、仕方ないでしょう」
大きくため息をついてから、柔らかく微笑んでくれた。
「行ってらっしゃい」
「うん、行って来る」
私は平気。私は大丈夫。私は絶対諦めない。
***
午後を目一杯準備に当てた。
秋の神様達には無理を言ってしまったと思う。事情を話したら”礼はいらない”って言われたけど、近いうちに色々手土産と一緒にお社の補修へ行く予定。見れば冬の間に、あちこち傷んだようだった。
雲が出てきたのを確かめて、日暮れ過ぎに雛を訪ねる。戸を静かに開けて出てきた雛は、無言のまま私を見るだけで怖かった。怯みそうになりながら、早朝に私の家へ来てくれるようお願いした。聞いてくれたかどうかは分からない。でも、やれるだけのことはやったと思う。
今朝は椛の言った通りに、音もなく細雨が降っている。私達河童には嬉しい天気だ。
そろそろ味噌を溶いて仕上げてもよさそう。
「河城さん、来たわよ」
河城さん? 誰?
ああ、私のことじゃないか。なんで忘れるんだ。会うようになってから、しばらくはそう呼ばれてたのに。
板を叩く音に続いた、平板な声。
頭がその言葉に追いついた途端、目の前が暗くなった。
震えそうになる喉を叱りつけて、戸の向こうへ応える。
「ごめん。今、火を使ってるからちょっと待って」
うん、大丈夫だ。いつも通りに出来たはず。
返事はなかった。呆れて帰ってしまわないことを願いながら、鍋を竈から下ろす。魚の焼け具合を確かめてから、戸の前に立つ。笑い出しそうになる膝を押さえつけ、大きく深呼吸。
今日の私は役者だ。思い出をもう一度繰り返し、演じる役者。それでも、あの日とは違う思い出を作り、また雛と新しく積み重ねていくための芝居。
いつか木陰から盗み聞いた、大道芸人の啖呵を真似る。
「サァサァ、とくとご覧じろ」
これより始めまするは谷カッパたるこの私、この河城にとりが演じまする一世一代の大舞台。この芸一つで天下が取れる。冥土で演れば花が咲く。サァ、お立会い。老いも若きも来て見て惚れろ。聞いて驚け、触れて泣け。現も忘れ、酔い騒げ。寿命が延びて、閻魔様のお叱り頂戴請け合いだ。されど涙よ、お客は一人。イヤイヤ、そんなことはない。一人が笑えば悔いはない。お捻りもらえりゃ往生だ。当たるも八卦と申します。臆しはしません、この舞台。笑顔と涙をこの方に、夢と極楽お約束。サァ、この私、河城にとりが演じまする一世一代の大舞台。このお方に捧げましょ。
「サァ、ご覧あれ」
締めをささやく。絶対諦めないって決めたんだ。
「おはよう、雛! 待たせてごめんね」
戸を引いた向こう。蛇の目傘を差した雛の顔には、白い無表情が貼りついていた。あの時と同じだ。
挫けそうになる心を奮い立たせて、言葉を継ぐ。
「来てくれないかと思っちゃった。ありがとう」
「用事は何」
やっぱり、あの時と同じ凍えるような音。
喉から声を搾り出す。
「うん、ちょっと雛に見てもらいたいものがあって。とりあえず入ってよ。ご飯まだでしょ。すぐ用意するから」
早口に言い切ってしまいたくなる心を宥める。雛の表情に変化は見えない。
横に一歩退いて、道を開ける。入ってくれるだろうか。握りこんだ手に汗を感じる。どこかから短く雨蛙の鳴き声が聞こえた。水滴が庇から傘へ、間隔を開けて落ち続ける。
「早く済ませて頂戴」
雛が入り口を潜る。安堵から崩れ落ちそうになった。
声は冷たいままだけど、まずは一歩進んだ。浮かれてしまいそうだけど我慢。足に力を入れ直し、竈に向かいながら声を上げる。
「居間で待ってて。ご飯持ってくから」
返事はない。でも、土間に傘を広げて、上がり框に足を掛けてくれた。大丈夫。
除けておいた鍋を竈に戻す。煮立たせないよう注意しながら、他の料理をよそってちゃぶ台へ運ぶ。炊きたてのお米、タラの芽の胡麻和え、ゼンマイの煮物、岩魚の塩焼き、ウドのお味噌汁。
秋の神様達に頂いた、採れたての山菜と干したゼンマイ。岩魚は起きてすぐに河へ潜り、獲って桶に入れておいた活きのいい奴。
「これ」
俯いたきりだった雛から、呟きが聞こえた。横目で覗えば、少し上げた無表情に僅かな歪みが見える。
あの朝と同じだって、多分気付いてくれた。自信が湧くのを感じる。割烹着を脱いで、対面に座る。
「お待たせ。じゃあ、食べようか」
食前の挨拶。声は二つ。片方はやっと聞こえるかどうかくらいに幽かだったけど、それだけで嬉しくなる。雛は目を伏せたままでも、箸をつけてくれた。それを見て安心し、魚の身をほぐしにかかる。私のしてることは間違ってない。続けて役を演じよう。
口はご飯を噛むより、別の大事なことに使う。
小さかった頃以来のお説教を、椛からたっぷりともらってくたくたになったこと。
口喧嘩の末、はたてさんと文が空に描いた色鮮やかな弾幕の綺麗な模様。
秋の神様達を訪ねた帰り道。雛のように見えた、薄い雲がかかる紅い夕日。
益体もない日常の話題を、途切らせることなく出していく。きっと椛は行儀が悪いって叱るだろうけど、今は許して欲しい。私の話に雛は黙ったきりだけど、お皿は順調に空いていく。
「雛、散歩に行こう! 見てもらいたいものって、森の奥にあるんだ」
朝食が済み、タライに食器を沈めたところで呼びかける。
雛は応えずに、靴を履き始めた。来てくれるみたい。
土間に降り、雛の手が乾かしていた傘に伸びる。
「よかったら私の傘に入ってくれないかな。雛と一緒に歩きたいの」
ありったけの平静さをかき集めて搾り出す、工具を取ってくれるようにお願いする時の声音。
私の手にも蛇の目傘。数年前に張って昨夜油を引き直したばかりな、谷カッパのにとり印だ。竹から作った骨以外の材料は、他の河童と交換してもらったものだけど、そこは気の持ちようだ。
あの日を繰り返す芝居は、ここまで順調に進んだ。そして、山場に片足を踏み出した。雛は無言で見つめてきている。でも、白い無表情の影に、何かをこらえているように哀しそうな表情が見えた。きっと大丈夫。
傘の柄を握り締める指が痛い。背中に冷や汗を感じながら、笑顔を保ち続ける。
「いいわよ。付き合ってあげる」
言葉を投げて無愛想に外へ出て行った。
冷淡さを装ってたけど、声が少し震えていた。隠そうとしてる本当に僅かな違い。それでも、私には分かる。何故って、告白する前まで含めれば、七十か八十年ちょっとを一緒に過ごしてきたから。
全身から力が抜けそうになり、慌てて気を引き締める。山を一つ越えただけ。まだ先は長い。
軒下に立ち、雛へ傘を差し掛ける。
「ありがとう。じゃあ、行こっか」
心からの笑顔になれた。
***
細雨で静かに煙る森の中、私は雛の左を歩いている。
魚を獲った後で、髪を梳いて二つ結いにし、ワンピースへ着替えておいた。紅も差そうかと迷ったけど、慣れてないから止めておいた。でも、これが普段通りの私で、雛と一緒にいるために力一杯な自分。
綺麗でかわいくて大好きな雛の隣に並んで歩くため。私なりの精一杯な乙女心だ。
霧と言ってもいいくらい細かな雨の中で、私は隣に話しかけ続ける。雛は俯き、黙ったまま。私の声は、水を含んだ木々へ吸い込まれていく。でも、別にめげるようなことじゃない。芝居はまだ終わっていない。大切な私の観客はここにいる。なら、私は信じて演じ続けるだけ。
「あの杉」
傘を少し持ち上げる。あの時、雛が見上げた大木を私が指差す。
「綺麗だよね。私が生まれる前から立ってるんだって」
返事はない。静かに歩き出す。
雛は隣についてきてくれてる。途切れた話題を続ける。
「あの岩」
苔むした大岩が、以前と変わらず地中からそびえている。
「小さい頃、調子に乗って上までいったら滑って転げ落ちちゃったんだ。椛に散々叱られたっけ」
静かなまま。歩き出す。
話し始めた私の声は、木立の奥へ消えていく。
「あの菫」
沼に浮かぶ睡蓮の紅と、それに寄り添うような岸辺の淡い紫。
大好きな雛の隣で、私はああいう風に咲けているだろうか。
「毎年咲くのが待ちきれなくて、梅雨になったらいつも見に来るの」
沈黙。
私の話し声と水音だけが、森の静寂を乱す。
奥へ進み何かを見かけるたびに、一つ一つを指差して、一つ一つに思い出を語る。
隣を歩く雛の顔に、もう白い無表情は見えない。あるのは何かへ耐えているように辛そうな表情。胸が苦しくなる一方で、大好きな雛へ変わってきていると喜んでもいる。これが罪悪感なんだろうなって思う。でも哀しく思うより、何も感じていないような顔でいる方が、もっと辛いはずだと思う。私の勝手な思い込みだとしても、こっちの方がずっとましだ。
幅二間程の沢に出た。立ち止まる。でも、今度は何も差さなかった。
見渡せば、流れは穏やかなままで安心する。細雨は夜明け前に降り出したから、ここに水を足せるほどの時間はなかったみたい。細かな雨を通して、せせらぎが幽かに聞こえる。静かに咲き誇る菫が、川縁を所々彩る私のお気に入り。小さい頃に見つけて、暇があれば散歩に来る大事な宝物。
雛に贈った、あの時と同じだ。
山は全て越えた。何事もなく終幕だ。観客を楽しませられたかどうかは分からない。でも、雛は覚えてるし気付いてる。きっと、この思い出を大切に思ってくれている。雛は私を捨てきっていない。そう雛を信じる。神様なんだから、こういう信仰があってもいいよね、雛。
幕は降りた。これからは私の即興劇。私達にとって、新しい思い出を作るための大一番だ。
「お待たせ。ここが見て欲しかった場所だよ。私が告白して、雛が応えてくれた、大事な思い出の場所」
隣に向き直る。雛は傘の中で静かに立っているだけ。俯かせた表情は前髪に隠れて覗えない。
逃げ出したくなる足を踏みしめる。正面を真っ直ぐに見据える。息を努めて緩やかに吐き出す。
「雛は私が嫌いって言ったけど」
にとり、しっかりしろ。私は諦めないって決めただろ。
「私は雛が好き。大好き。許してくれるなら、いつも雛と一緒にいたいんだ」
俯いたきりの雛を見つめる。
傍に聞こえていたせせらぎが消えた。
傘の柄に指が張り付いて離れなくなったように感じる。
「どうして」
幽かな呟き。静寂が壊れた。
「どうしてこんなことするのよ」
雛が下がる。
そして、残された私は傘の中。
「私を諦めてよ。嫌いになってよ」
言葉が継がれる。声が震えている。
「貴方はいつも、早苗と文を見て羨ましそうだった」
肩も揺れ始めた。雛は伏せたたまま。
私は近寄ることも出来ず、動かない足の上に立つ。
「私が気付かないとでも思った? 貴方のことは何でも分かるのに」
顔が上がった。濡れている。
散歩に出てから、初めて正面から見る雛の表情。苦しそうに歪んだ笑顔。そんな顔、見たくないのに。
「私は早苗のようにかわいく甘えられない」
「私は文のようにかわいく照れたりできない」
違う。雛はいつも綺麗でかわいい。
「貴方は積極的で明るくて綺麗でかわいくて」
「でも私は引っ込み思案で根暗で無愛想で」
「そんな、かわいくない私が貴方と一緒にいていいわけない」
違う。私は雛と一緒にいたいんだ。
「貴方は私と付き合わない方がいいの」
「私と別れたら、貴方は幸せになれるの」
「かわいくない私じゃない、かわいい誰かと付き合えば幸せになれるの」
違う。私は雛と幸せになりたいんだ。
「だから私はにとりが嫌いになったのよ」
雛がくずおれた。顔を両手で覆っている。
蛇の目傘を捨てた。震える雛を片手だけじゃ抱き締められないから。声を上げて抗うけれど、私の力には敵わない。普段、重たいリュックを持ち運んでいるのは伊達じゃない。私が河童でよかったと思う。
こんな願い事は厄神様の司ることじゃないって分かってる。でも、これだけ近くにいるんだから、ちょっとは聞いてくれてもいいよね。
どうか、雛へ私の”好き”が伝わりますように。
肩に重みを感じる。雛の重さだ。段々と染みてくる細雨は冷たいけれど、雛の暖かさでどうってことない。少しずつ動きが小さくなってきた。でも、頭の横から聞こえる嗚咽は止まらない。そろそろ落ち着いてくれそうかな。もうちょっとかかりそう。腕は緩めないでおこう。でも、背中を撫でたほうがいいのかな。うん、そうしたほうがよさそうだ。
しゃくり上げる声だけになってきた。もう大丈夫かな。
雛は心を打ち明けてくれた。そして、今度は私の番だ。相談してくれないなんて、いじけてた私はほんと馬鹿だと思う。椛が言うように鈍感だ。文のことを何も言えない。
静かに深呼吸。伝えなきゃいけない私の心。どうか、雛へ届きますように。
「雛。私は怒ってるんだよ」
雛の体が小さく跳ねる。腕に力を込めて、言葉を継ぐ。
「私は、雛に告白してからずっと雛を見てきたの。だから、雛が綺麗でかわいいってことは、誰よりも知ってる」
右手で背中を撫でながら続ける。
「そんな雛を、かわいくないだなんて誰にも言わせない。雛は誰よりもかわいいんだ」
収まっていた震えが、また大きくなってきた。出来るだけ柔らかく撫でる。
「けど、ごめんね。雛が言った通り、早苗と文が羨ましいって思ったのは本当」
私の胴へ回された両腕が、きつく締まる。
左手で強く抱き返す。
「でもね。それは昔の初々しかった私達が少し懐かしくなっただけ。雛と一緒にいられる今が一番幸せなの」
どうか、私の心が雛と通じますように。
「そして、もし雛が私を許してくれるなら。機械馬鹿で、雛の悩みに気付けなかったほど鈍感な私だけど、雛が一緒にいてくれるなら」
息を整える。
「もっと二人で幸せになれるって信じてる」
苦しくなるほど、しがみつかれた。出来るだけ雛と一つになれるよう、体をずらす。
私が伝えなきゃいけなかった言葉はこれでお終い。
一人で演じるだけって、ほんと寂しいことだってよく分かった。こんな芝居、もうこりごりだ。
「ごめんなさい。ありがとう。貴方にひどいこと言った私だけど。我侭で、自分勝手で、貴方のこと全然分かってなかった私だけど。許してくれるなら、貴方と一緒にいたい」
雛の胸が大きく膨らむ。私達の心臓がくっついちゃいそう。
「にとりと、一緒にいたい」
鼻声だから少し聞き取りにくいけど、私には十分だ。
心は向こうに通じたし、心がこちらに届いたから。
「私も、雛と一緒にいたいよ。これで仲直りだね」
冷たい雨だけれど、私には嬉しい天気だ。何故って、雛の暖かさがよく分かるから。
私達って似たもの同士って言うのかなぁ。私は雛が綺麗でかわいくて眩しいって思って、雛は私を積極的で明るくてかわいいって思って。ちょっと面白い。でも、雛が私と同じようなことで悩んでたって知れて、何だか嬉しい。
ほんとに私は成長してないみたい。臆病だった子供の私と、鈍感だった告白する昔の私と、雛のことが分かってなかった今の私。全然変わってない。雛を幸せにするために、もっとがんばらなくちゃいけない。そして、自分勝手だけれど、私も幸せになるために。雛が幸せになれたなら、私も幸せになれるから。
だから、お願いします。
どうか、これからもずっと大好きな雛と一緒にいられますように。私の大好きな厄神様。
「にとり、あのね」
大体落ち着いた雛が、座り心地悪そうに腰を動かした。
無言のまま、柔らかく抱き寄せて言葉を促す。
「もう一度、かわいいって言ってくれる?」
頭の真横から蕩けるような声。直に響いてくるような甘い音に、顔が熱くなる。
私はきっと、真っ赤になってるだろう。耳まで余さずだ。
でも、言ってあげたい。雛に何度でも伝えたい。
「うん、雛はかわいい。誰よりも一番かわいい」
応えると、雛の腕に力がこもった。
火照ったまま、雛へお願いする。
「雛、私にもかわいいって言ってくれる?」
両腕が背中の上まで動いて、胸へ押し付けられる。
暖かい雛の体温が、熱く感じられるほどになった。
「にとりはかわいい。小さい頃からずっと。でも、今のにとりはもっとかわいい」
二人分の熱で、焼けてしまいそうだと思う。
私はこのまま、茹で河童になるんじゃないだろうか。それもいいかも。
かわいいって雛に言ってあげられること。
かわいいって雛に言ってもらえること。
失ったと思った幸せ。
隙間もなく合わさっていた体が、静かに離れる。そのまま数瞬が過ぎる。
焦れたように、けれども時間を掛けて、どちらからともなく顔を寄せていく。
いつか鬼胡桃に腰掛けて見た、人間の恋人達みたいだと思う。でも、これはほんとの雛。想像じゃくて、柔らかい、体温がある、香りがする本当の雛。
でも、何かおかしい。どこか変。
何度も繰り返してきたはずなのに。雛と恋人同士ですること数え切れないくらいしてきたのに。心臓が口から飛び出しそうなくらい跳ね回ってる。体が石のように強張ってる。背中が雨じゃない濡れ方してる。なんで? 久しぶりだから? うん、一週間ぶりだからかな……って言ってもやっぱり変。初めて口付けした時でもこんなに緊張しなかったはず。って近い、顔近いっ。やっぱり睫毛長い。瞳が潤んでる。上気した頬、桜色の唇、雛の香り、近い、近い近い近
クァッ
音。
右側。
葉っぱの影。
雨蛙、鳴いた?
雨宿りしてるのかな。
そういえば雨降ってたんだっけ。
驚きっぱなしの心臓に手を置いて宥める。
向き直ってみれば、雛も両手を胸に当てて、大きく息を吐いていた。
視線が交わり、お互いに苦笑を零す。
「本当、初々しいわね」
濡れた帽子を右手に取り、私達の顔を隠した。
壮年夫婦ばりの安定感を持つにと雛に隙はなかった。
ごちそうさまでした。おいしかったです。
二人とも可愛い
とても良かったです
これは結婚してた