1-1.
朝は誰にでも平等にやってくる。
古明地こいしはそれを何となく知っていた。誰に言われたわけでもなく。
「でもなぁ。」
彼女は眠たげな目をこすりながら吐き捨てる。
「それが幸せなのか不幸せなのかは、私が決めることだからなぁ。」
ここに太陽の光が射し込むことはない。
誰も彼もを赦す優しい朝日はここまでやってこない。
不幸にも、彼女にとってそれはとてつもなく不幸なことだった。
1-2.
「おはよう。」
古明地こいしは居間に誰もいないことを確認してからぽつりと呟いた。広大な空間と大きなテーブルを持つその部屋の空気は少しだけ肌寒く、彼女が暖炉に火をつけようか逡巡していると、後ろから声が聞こえた。
「あ、こいし様。おはようございます。」
「うん。おはよう。」
こいしは声の主であるペット――火焔猫燐に向かってさっきより少しだけ明るい声で挨拶した。
「随分遅いお目覚めですね。」
「誰にとって遅いの?」
こいしはテーブルの前に座り、眠たげに質問した。唇に人差し指を当て、少しだけ考えて燐が答える。
「そうですね、さとり様とか。もうお仕事に出られましたよ。」
「私とお姉ちゃんは関係ないと思うけど。」
「……そうですね。すみません。」
まずいことをしたな、とこいしは思った。姉の名前を出されて苛ついたと思われたかもしれない。単に私は、一人でゆっくりご飯が食べたかっただけなのに。お燐は悪くないのに。ああ、やっぱり今日はあんまり良い朝とは言えないな。こいしの頭は回転し続けていたが、口には出さなかった。
「何かお食べになりますか?」
燐がばつの悪そうな顔で尋ねる。こいしは詫びるつもりで、ほんの少しだけ、心付け程度の笑顔を作って答えた。
「そうだね……お腹すいた。残り物でも何でも良いよ、適当に持ってきて。もしあったらでいいけど、パンと牛乳がいいな。」
「わかりました。すぐ持ってきます。」
そう言って燐はすぐさま走って出ていった。顔は見えなかったが、どうだろう。悲しい顔をしていただろうか。それとも救われた顔をしていただろうか。悲しんでなければいいな。私のせいで悲しんでたら、やだな。
こいしは大きく、ゆっくりと息を吸って吐いた。いつもの家の匂い。嗅ぎ慣れた匂い。好きでも嫌いでもない。
彼女は夢想し始めた。好きなだけ寝ていられて、好きな時に起きて、今日は何しよう、何処へ行こう、そんなことを考えながら朝食を作る。そして自由気ままに、好きなことだけをする生活。そう、夢想――結局夢なんだよな。私は今夢を見ていない。これが現実。それはそれで、もう、仕方がない。別に悪いことでもない。今の生活だってそこそこ自由にやれている。彼女はそう考えるようになっていた。
どたどたと大きな音を立てながら燐が居間に戻ってきた。両手にはパンが入った籠と既に半分ほど空けられた牛乳瓶、そして食器類。器用なものだな、とこいしは思ったし、あんまり優雅とは言えないな、と少しだけ悲しくなった。
「ありがと。ごめんね、もう仕事に戻って良いよ。」
悲しさを面に出さないように、そして少しでも優雅さをこの空間に取り戻すためにこいしは笑顔で言った。
「こいし様がそれを食べ終わって、片づけるまでが私の仕事ですよ。」
燐は少しだけ笑ってそう言ってこいしの近くの椅子に座った。食べるところを見ているつもりなのだろうか、頬杖をつきながらこいしのことをぼんやりと眺めている。意図は掴めなかったが、こいしは無視して朝食を摂り始めた。彼女にとってそれはどうでもいいことだった。
「こいし様、最近寺子屋に行ってるってほんとですか?」
突然燐が口を開いた。そんなことが訊きたくて私の一人の時間を邪魔するのだろうか。こいしは少しだけ嫌な気分になったが、もしかしたらそれは、お燐にとってとても大事な意味を持つのかも知れない。それなら答えてやるのが道理だろう。彼女はパンを切りながら答えた。
「行ってるよ。」
「楽しいですか?」
こいしは燐の方をちらっと見た。相変わらず頬杖をついている。もう一度視線をパンに戻し、答える。
「楽しいこともあるし、楽しくないこともあるよ。」
「勉強の方は?」
「楽しいこともあるし、楽しくないこともあるわね。」
こいしはパンをかじり始めた。焼いてから大分時間が立っているのか、中々飲み込むことが出来ない。牛乳をコップに注ぎ、無理矢理飲み込んだ。
「……さとり様は喜んでおられました。こいし様が外の世界で、色々な人と関わろうとしてるって。」
こいしは最早答える気力を無くしていた。無言でパンをかじり続ける。
「心を閉ざしているんじゃないかって。誰とも関わりたくなかったんじゃないかと……ずっとそれが心配だったって。こいし様が自分からそうやって関わるようになってくれて、本当に良かったって……。」
「お燐。」
こいしはようやく一つパンを食べ終えると燐の言葉を制止した。
「私はね、私のためにしか行動してないよ。いつでも。」
「……。」
いつの間にか燐は姿勢を正していた。泣きそうな目をしている。こいしは無表情で続けた。
「いつでも、今でも。」
こいしは語りかけていた。誰に語りかけているかわからなかったが、語りかけ続けた。
「私が良いと思ったの。その方が楽しそうだって思ったの。それだけ。それ以上は何にもないよ。お燐が期待しているようなことも、お姉ちゃんが期待しているようなことも、私には関係ない。その期待は合ってるかも知れないし、外れてるかも知れない。でもそれで私を責めるなんて酷いと思う。だって最初から私は私のために動いてるんだから。そうでしょう?」
燐は何も言わなかった。一瞬何かを訴えようと口を開きかけたが、結局俯き、黙り込んだ。
「……ん、もういいや。ごちそうさま。じゃあ私、行くから。」
こいしはそう言って席を立った。燐は俯いたままテーブルに残されたパンと牛乳を黙って見つめていた。
1-3.
地上の光はいつでも眩しい。こいしのような地下に住む妖怪にとって、それは尚更だった。
「うーん……。」
いい天気だった。柔らかそうな雲がいくつか浮いている。こいしは目を細めて空を見ながら独り言を呟き続けた。
「寺子屋で真面目にお勉強!って気分じゃないなぁ。もっと楽しいことないかな。すぱーっと、さっぱりした感じの……。スカっとサワヤカな。ないかなぁ。」
口ではそう言うものの、こいしの足は自然と寺子屋の方へ向かっていた。
「ま、他にすることも思いつかないしね。」
太陽の位置から、既に自分が遅刻していることにこいしは気づいていたが、彼女にとってそれは些細な問題であった。自分が受けたい授業だけ受ければいい、彼女はそう考えていた。ゆっくりと歩きながら思い出す。
「今日の授業……今日の時間割は何だっけな。国語があって……歴史があって……?あー、今の時間だと歴史か。歴史はやだなぁ……つまんないしなぁ……あっ、その次数学だったかも。よし、そっから行こう。」
その瞬間から彼女の思考は、数学の時間まで何をして暇を潰すか、と言うものにシフトしていた。
1-4.
こいしは人里で時間を潰すことに決めた。彼女は寺子屋に一月近く通い続けていたが、それでもやはり妖怪より人間の方が多い場所は新鮮であったし、色々な場所に行ってみたいと考えていた。
彼女は人里に着く直前にサードアイを取り外して鞄に仕舞った。妖怪は人間に忌み嫌われているが、こちらから何もしなければそもそもほとんど気づかれない。特に彼女の場合は、サードアイを除けば見た目で妖怪だと判断される要素はほとんど無かった。
適当な、繁華街というよりは商店街に近い街並みを歩きながら、彼女は店を物色し始めた。ふと、一組のカップルが彼女の目にとまった。若いが、美男とも言えないし、美女とも言えない二人。しかし二人はとても幸せそうに話していた。
彼女は二人の後をつけ始めた。どちらにせよ時間が潰せればいい。大した理由はなかった。
「うーん……。前から気にはなっていたけど、此処のお団子、こんなに美味しいとは……。いやーやっぱり私そういうの見る目あるのかなー。店先から美味しそうオーラ出てたからなー。絶対また来よう。」
こいしはほくほくとしながら人里の、寺子屋からそう遠くない茶屋の店内で団子をかじり、時々渋いお茶を啜っていた。勿論カップルがその店に入ったからである。以前から寺子屋の帰りに寄ってみたいと思っていた店だったので、彼女は何も考えずに飛び込んだ。
「恋愛ねぇ……。」
彼女は最後の団子を惜しんで少しずつ食べながら二人をこっそりと眺めていた。偶然にも近くの席に座ることが出来たので会話も聞こえてきた。一切大したことは話していない。昨日何を食べただとか、最近誰それがこんなことを話していただとか、今度あの店に行ってみようだとか。
こいしにとってそれは退屈極まりないものであったが、二人にとってはそうではないようだった。男が喋る、女が笑う。女が喋る、男が笑う。団子を食べて二人が笑う。
こいしは素直に羨ましいと感じた。二人には世界がある。二人の間で完結した幸せな世界がある。自分も、誰も彼も、そこに入り込むことは出来ない。その世界を持っていることが羨ましかった。
「私も。」
カップルはとっくに店から出ていってしまっていた。こいしは団子とお茶をお代わりし、一人で店の中にいた。そして呟く。
「私もあんな風に誰かと幸せになれるのかな?」
誰も答えはしなかった。彼女は答えを求めていなかった。団子をかじる。
「あれが幸せなのかな。あれを幸せっていうのかな。」
美味しい。
「誰かと一緒に此処に来て、一緒に美味しいって、笑って。此処じゃなくても……何処でも。」
お茶を飲む。少しだけ熱い。
「それはとっても素敵なことかも知れないね。」
彼女は満たされていた。穏やかな顔で座っていた。この空間にいつまでもいたいと感じていた。
1-5.
予想以上に時間が経ってしまっていた。ほとんど夕方といって良い時間である。
こいしは幸せな気分を維持したまま帰ることにした。寺子屋に行ったところで、この時間では意味がない。そう判断したためである。
燐のために団子をいくつか包んでもらった。今朝は冷たくし過ぎてしまった。帰ったら謝ろう。一緒に食べてもいいかもしれない。単に私が食べたいだけかも知れないけど。
彼女は少しだけ興奮していた。自分がこんな気持ちになるとは、珍しいこともあるんだな、と感動すら覚えていた。足取りが少し軽くなる。早足になる、いつの間にか駆け出していた。
「ただいま!」
結局こいしは家まで休まず走り続けた。ぺたんと地面に座り込み呼吸を整える。汗、熱、呼吸。何と楽しいんだろう。何と楽しいんだろうこの世界は。彼女は思わず叫び出しそうになった。
「あ、こいし様。お帰りなさい。」
慌ただしそうに燐が玄関までやってくる。こいしは思わず飛びついた。
「お燐!ただいま!今朝はごめん!これお土産!お団子!お燐にあげるね!」
「え、えっと、こいし様?どうしたんですか?」
燐はよろけながらもしっかりとこいしと団子を抱きかかえた。こいしが満面の笑みを浮かべて言う。
「言ったじゃん!ごめんねって!それとお土産だってば!これすっごい美味しいよ!悪くなる前に食べようよ!今なら私がお茶を淹れるサービスもついてくるよ!」
お燐は一瞬目を大きく見開き驚いたが、すぐに暗い表情になった。
「ごめんなさいこいし様……今ちょっと立て込んでて……。どうもお空のいる施設で何かあったらしくて……。大したことはないと思うんですけどね。ええ。これまでも何度かありましたし。兎に角、それをどうにかしに行かなくちゃいけないんです。お団子、頂いて行きますね。有り難うございます。必ず、ちゃんと、食べますから。」
燐はそう申し訳なさそうに答えると団子の入った袋を火車の荷台に放り投げ、真剣な表情で飛び出して行った。
「そうだよね。」
一人玄関に取り残されたこいしは独語した。
「みんな何かしら大変なんだよね。」
スカートの裾を手で払う。
「私だって、心が読めない私だって、そんぐらいわかってるよ。」
彼女は無表情で自室に戻っていった。
2-1.
「おはよう。」
こいしはいつもよりも早く目を覚ました。理由は単純である。一時間目に数学があるのだ。
今日も居間には誰もいない。昨日よりも寒い。仄暗い。彼女は迷わず暖炉に火をつけた。部屋が暖かくなるまでには時間がかかる。彼女はその間に食堂へ食料を取りに行くことにした。
彼女の家――地霊殿はいつもよりその静けさを讃えていた。彼女は今此処に誰もいないのではないかと思った。事実、そこには誰もいなかった。
のそのそと適当な食料を手に持ち、彼女は居間に戻った。ぱちぱちと暖炉の薪が音を立てて燃えている。それ以外には彼女の静脈を流れる血の音しかしなかった。とても静かであった。
彼女にとって静けさは幸せの象徴の一つであった。
しかし、その日に限っては、その静けさは何の効力も持たなかった。
2-2.
いつもよりも寒い日だった。もしかしたら雪が降るかも知れない。こいしは少しだけ気分が良くなった。
四季と言うものを彼女は外に出てから初めて知った。暖かい季節、暑い季節、涼しい季節、寒い季節。地下には何もない。じめじめしているだけ。旧地獄に行けば暑い。それ以外は、寒い。彼女は寒い季節が好きだった。冷たい空気が優しく感じられた。すべての人を突き放しているが故に優しいと、彼女はそう思っていた。
突き放してくれた方が良い。誰にも触れないことは、時に優しさになるのだ。それに気づける人が少ないだけなのだ。
こいしはかじかむ手に息を吹きかけこすり合わせた。マフラーをしてくれば良かったと思う。お気に入りのマフラー。彼女は世界すべてをお気に入りのもので埋め尽くしたかった。しかしそれは出来ない。彼女にそんな力はない。だから彼女は手始めに自分の世界をお気に入りのもので埋めることに尽力した。その一つ。お気に入りの毛糸のマフラー。パステルカラーのブルーのマフラー。何処で買ったのか、幾らしたのかも鮮明に覚えている。それをしてくれば良かったと彼女は後悔した。
寺子屋のことを考える。数学は好きだ。誰にでも平等に接してくれる。接する人間が平等かどうかは定かではない。一つの難しい問題に取り組む時間はとても綺麗だとこいしは評価していた。思考が飛翔し、答えにたどり着く道筋を見つけると鳥肌が立った。そしてその答えが正しいことを知ると、何かを征服した気分になれた。弾幕ごっこと似たようなものだ。
彼女は世界が数学で埋まれば良いとは思っていなかった。アクセント、スパイス程度にあれば良い。彼女を取り巻く世界の一環としてあれば良い。
数学の先生も好きだった。誰よりも冷たくて優しい、まさに、数学みたいな人だと彼女は思っていた。彼が出した問題をいかに綺麗に解くことが出来るかが最近の彼女の命題だった。問題が解けたとしても、先生は一度たりとも誉めてくれなかった。出来て当たり前という顔をした。周りの生徒はそれが不満らしいが、こいしはそれが良いのだと常々思っていた。あの人はもっと遠くを見ている。それは一体どんな風景なのだろうか。このまま問題を解き続けていけば、私もそれを見れるのだろうか――
こいしは思考を中断した。小さな寺子屋が見えてきた。彼女はほんの少しだけ歩調を早めた。
2-3.
授業が始まる前の寺子屋はいつも騒然としていた。こいしは誰にも話しかけず、話しかけられず、小さくため息をついていつもの席に座る。窓際、一番前の席。そして楽しそうに騒ぐ皆を眺める。
本当に皆楽しそうだな、と彼女はぼんやり思う。一体何が楽しいのかは皆目見当がつかない。それでも、と彼女は椅子を引いて姿勢を正した。
「皆が楽しく暮らしてるってことは、良いことだね。素晴らしいことだ。」
彼女は心の底からそう思っていた。ただ、自分がその輪に入ることに違和感があった。入ってしまえばつまらないだろう。知ってしまえば嫌いになるだろう。彼女は出来るだけ嫌いなものを少なくしたかった。
始業の鐘が鳴り、騒いでいた皆が慌ただしく席に着く。初めてこいしがいることに気づいて驚いた表情をするものもいた。こいしには、すべていつものことだった。頬杖をついて窓の外を眺める。一瞬雪が降っているのが見えた気がしたが、気のせいだった。ドアを勢い良く開けて上白沢慧音先生が教室に入ってくる。
「はい、起立。礼。着席。」
全員がきびきびと規則正しく動く中、こいしだけがすべてワンテンポ遅れて行動した。
「じゃあ出席をとるぞ。」
慧音は出席を取り始めた。一人一人名前を読み上げ、皆が勢い良く返事をする。古明地こいし、と自分の名前が読み上げられたので、こいしはそれなりの声量で返事をした。慧音がこいしの方を向いて話しかけ始めた。
「古明地の、久しぶりだな。」
「そうでもないです。三日前に来ました。」
「そうかそうか。今日は何で来る気になったんだ?」
「来たかったからです。」
「昨日は?」
「来たくなかったんです。」
「そうか……。毎日来てくれると嬉しいんだがな。まぁお前にも事情があるだろう。」
慧音はしたり顔で次の生徒の名前を読み上げた。こいしは特に何も感じなかった。自分は極めて正当な、本音を語った。そして、慧音先生を喜ばせる理由と言うのは別段見つからない。そう考えた。ただ、早く数学の時間が来て欲しかった。
「よし、今日は連絡事項はなし。数学からだ。みんな頑張れよ。」
出席を取り終えた慧音はそう言い残すと、笑顔で教室から出て行った。
こいしは素直に凄いと思った。毎日毎日あの笑顔を、皆思い思いのことを始めて、誰も見てなんかいない笑顔を作ることが出来るのだろうか。
あるいは、あの笑顔をいつでも作れるのが大人なんだろうか。そんなことを考えながら、こいしは慧音の評価をほんの少しだけ上げた。そして鞄の中から数学の教科書とノート、そして筆箱を取り出した。
2-4.
先生はいつも通り淡々と授業を始めた。以前の復習だったので、こいしは退屈そうに先生を眺めながら、ノートの白紙のページに先生の絵を描き始めた。輪郭、髪の毛、目、鼻、口、耳、首。先生が普段ほとんど動かずに授業を進めていることをこいしは知っていた。彼女の目線が一瞬先生と交差した。
気づかれただろうか。気づかれたら、叱られるかな。どうせなら叱ってくれた方が嬉しいな。そして授業が終わったらこっそりこの絵を見せるんだ。どんな顔をするだろうか。びっくりするだろうか。それともいつものように、数学の問題を見せた時のように、冷たく一瞥して、何も言わずに、職員室に戻っていくだろうか。
こいしはこっそりと、気づかれないように絵を描いたページを綺麗に切り取り、机の下でくしゃくしゃに丸めて机の中に入れた。自身の子供っぽい発想に呆れかえった。もし気づかれたのであれば、それは恥じるべきことだと考えた。先生が見ている場所から遠くなった気がして、悲しくなった。そして少しでも近づこうと、真剣に授業を聴き始めた。
2-5.
終業の鐘が鳴った。こいしは大きく深呼吸した。問題に集中しているうちにいつの間にか呼吸の仕方すら忘れていた気がした。
「古明地。」
こいしは不意に先生に話しかけられた。
「はい?」
声が裏返ってしまった。こいしは心の中で舌打ちした。
「後で……。いや、放課後、職員室に来い。」
「はい。」
こいしは冷静さを取り戻しながら答えた。
先生が自分の名前を覚えていてくれた。彼女は嬉しい気持ちになった。先生はいつも生徒に問題を出す際、席の場所で指定した。こいしに関しても例外ではなかった。
一体何の話をされるのだろうか。こいしは先生が普段どういう話をするのかよく知らなかった。そもそも、私用では呼ばないだろう。あまり期待してもしょうがないな。そう判断した彼女は、放課後まで何処か適当なところで眠ることを決意し、荷物をまとめて教室から出て行った。
2-6.
「失礼しまーす。」
寝起きの目をこすり、あくびをしながらこいしは職員室に入った。
「古明地か。こっちだ。」
先生に呼ばれてこいしは眠たげに歩いていった。先生の机には採点中の答案用紙や筆記用具、難しそうな本、あまりセンスが良いとは思えない湯呑みが雑然と置いてあった。
「先生何の用?」
こいしはその辺に置いてあった椅子に座るといきなり切り出した。
「慧音先生に頼まれたんだ。『古明地はあなたが一番お気に入りだから。』とかなんとか言われてな。」
先生は動じることもなく無表情に答えた。こいしは驚いた。
「えっ?」
「出席簿を見れば数学がある日しか出席してないとわかるだろう。授業が終われば早退する。そこから判断したんじゃないか。」
先生は無表情のまま続けた。こいしは唇から舌をほんの少し出した。恥ずかしかったが、何となく嬉しかった。彼女は素直な気持ちを伝えることにした。
「うん。私、先生のこと好きだよ。」
「『もっとちゃんと学校に来るように指導してくれ。』だそうだ。ちゃんと来い。以上。」
先生はこいしの発言を無視して伝達事項だけを事務的に伝え、採点用紙に取りかかり始めた。
「慧音先生に呼ばれたらきっと無視したよ。」
こいしが真顔で続ける。
「数学が好きだし、数学を教える先生も好きだよ。」
先生は何も言わない。
「ねえ先生?」
先生は何も言わない。
「どうして慧音先生に断らなかったの?『そんなことはない』って。『ただ数学が好きなだけでしょう』って。」
「古明地。」
先生はこいしの発言を遮り睨みつけた。しかしこいしにとっては何でもなかった。寧ろ反応してくれたことが嬉しかった。先生はゆっくりと発声した。
「もう帰れ。」
「先生の家って何処にあるの?」
「古明地!」
さっきよりも声の勢いが強くなる。こいしは無視を続けた。
「家帰っても誰もいないんだよね。私寂しいんだよ。そもそも遠いんだもん。先生の家に泊まりこんだら、毎日学校来れる気がする。」
「いい加減にしろと言ってるんだ。」
「そんなこと一回も言ってないよ。」
「いい加減にしろ。」
「帰りたくないの。……あんなとこ、いたくないんだよ。もう。」
こいしはじっと先生の目を見つめた。先生はそれでも無表情に、即座に答えた。
「俺の知ったことじゃない。」
「……そうだね。その通り。私も同じ立場ならきっとそう言うと思う。……ごめんなさい先生。」
こいしは一言謝って立ち上がった。そうだよ。それでこそ先生だよ。そう言ってくれなきゃ私の憧れた先生じゃない。その言葉を胸に秘めながら、足早に職員室から出て行った。
2-7.
こいしはそれでもやはり帰る気にはなれなかった。外は雪が降り出してきていたし、傘も持っていなかった。びしょ濡れになって帰っても、誰も迎えてはくれないだろう。それを考えると帰りたくなかった。彼女はとりあえず、げた箱の前に座り込み、雪がやむのを待つことにした。
夕方の寺子屋は朝の喧噪が嘘のように静かだった。彼女の心はそれだけで多少救われた。降りしきる雪が全ての音を吸い込んでいく様をこいしは眺め続けていた。
「積もるかな。」
試しに音を発してみる。ほんの少しだけ反響してすぐ消えた。
「積もるよね。」
反響。
「積もっちゃえ。」
こいしは俯いて目を閉じた。自分が雪の中に埋もれていく感覚を覚えた。それは、中々心地良いものだった。
2-8.
ふと目を覚ますと外は真っ暗だった。積もった雪が月の光を反射している。雪は、やんでいなかった。
こいしはしばらくぼんやりしていた。このまま此処に泊まってしまおうか。今から家に帰るのも――帰っても。
彼女はゆっくりと立ち上がり、どうやって此処で一夜を過ごすかの算段を立て始めた。
食料はまぁ、一日ぐらい食べなくてもなんとかなる。水はある。後は布団かな。なくてもいいけど。トイレもあるし。大丈夫でしょ。そんなことを考えながら月の光を頼りに教室まで向かう。夜の寺子屋はまるで自分を受け入れてくれてるかのようで、いつもよりもずっと不思議で、優しかった。
教室まで後一歩というところで不意に顔に鋭い光を差し込まれた。目を細めて光源を探すと、そこには懐中電灯を持った人間がいた。見覚えがある。あれは――
「――あれ、先生?」
「古明地?まさかお前、本当に帰らなかったのか?」
こいしは簡単に事情を説明した。といっても、うっかりげた箱の前で眠り込んでしまっただけなので、さほど時間はかからなかった。
先生は何か考え込んでいた。何かを考え込んでいる先生は予想以上に素敵だな、と彼女はのんびり思った。
「別に先生に迷惑はかけないよ。明日の朝になったらすぐ帰るし。」
「そういう問題じゃないだろう。」
先生は考えながらこいしの方を見ずに即答した。そして一瞬何かを諦めた表情をした後、こう言った。
「仕方ない。今日はうちに泊まれ。」
こいしはその発言が信じられなかった。無理矢理帰らされると思っていた。百歩譲って、一日ぐらい此処に泊まってもいいだろう、と言うかもしれないと思っていたからだ。
「いいの?」
彼女は念のため確認した。先生は頭を掻きながら答えた。
「今日だけだ。寺子屋に泊まられるよりは面倒がないだろう。発見してしまったしな。仕方がない。」
「先生やっぱり、優しい人だね。」
こいしは笑顔でそう言った。先生は何の反応も見せなかった。それが彼女にとっては何よりも嬉しかった。
2-9.
先生の家は歩いて四、五分といったところで、そう遠くなかった。こいしは家の軒先で「先生との相合傘、もう終わりかぁ。」と呟いてみた。相変わらず先生は何も言わなかった。彼女も別段何か返答を求めていたわけではなかったので、二人は黙って家の中に入った。
先生の家は狭かった。もしかすると地霊殿の一部屋にも満たないかもしれない程度の広さしかなく、その上至る所に様々な本が雑多に転がっていた。ほとんど本が家主と言っても良かった。
「片づけなよ先生……。」
こいしはそう言って足下にある本を一つ拾い上げると、先生はそれを取り上げた。
「これで片づいてるんだ。どれが何処にあるか覚えているから、下手に動かされると困る。」
相変わらずの仏頂面で、本を大事そうに、慎重に置く姿を見てこいしは思わず吹き出した。
「そっかそっか。それは失礼。で、この状態で私は何処に寝ればいいのかな?布団がもう一個敷けるの?あ、一緒に寝るのか。確かにその方が暖かくて合理的だね。」
彼女が無邪気にそう言うのを後目に先生はキッチンの前に布団を敷き始めた。手際よく布団を敷き終えると、先生は真顔でこう言った。
「古明地。お前、そことキッチンの前のどっちで寝たい?」
「先生がいるとこが良いな。」
こいしが楽しそうに答える。先生は表情を崩さない。
「俺は此処にいるぞ。」
「じゃ、私はお客人なので、しずしずとキッチンの方で寝ます……。先生はどうぞそちらの素敵な環境でお休み下さいませ。」
こいしは相変わらず楽しそうな表情で続けた。先生は何も言わず布団に入り込んだ。
「先生ご飯は?」
「食べた。」
「お風呂は?」
「明日朝一番に銭湯に行けばいい。」
「今の恋人みたいじゃない?」
「いいや。」
先生は何も言わずに電気を消した。中々酷い仕打ちだな、と思いながらも、こいしはのそのそと布団に入った。知らない家の匂いがした。知らない先生の匂いがした。こんなに楽しい気分なのに、先に寝てしまったら勿体ない。彼女はそう考えながら、先生の寝息が聞こえるまでは起きていようと思った。
2-10.
こいしはのそりと起きあがった。知らない天井、壁。この狭い部屋はどこだろう?私は今どこにいるんだろう。
思い出す。そう、先生の……。先生の家?どうして私は先生の家にいるんだろう。ああ、朝日。良いな。朝起きた時に朝日が見れるなんて。羨ましい。本当に。
彼女は頭を振った。どこかの回路にスイッチが入る。起きあがって昨日先生が寝ていた場所を確認しに行くと既にもぬけのからだった。もしかしてもう寺子屋が始まっている時間なのだろうか?だとしたらおかしい。先生は私を起こしてくれるはず……。
「銭湯、かな。」
そういえば昨夜先生がそんなことを言っていたかもしれない。彼女は鞄の中から小銭をいくらか取り出し、そっとドアを開けて家を出た。鍵は不用心にも扉に刺しっぱなしであった。
銭湯の場所は、大きな煙突が立っていたため、すぐに見つかった。お金が足りるか心配だったが、大した値段ではなかった。石鹸やタオルなどを買っても余るほどであった。
うちの温泉より広いか、同じぐらいだな。浴槽は流石に小さいけど。彼女は初めて入る銭湯をそう評価した。客は誰もいなかった。まだ時間が早いのかもしれない。
別段何も起こらず、彼女はのんびりと風呂を楽しんだ。今まで入ったお風呂の中で一番気持ちが良いものだった。昨日から幸せ続きである。もしかしたらそろそろ死ぬのかもしれない。
「死ぬのはやだなぁ。」
彼女はそう呟いて銭湯から出た。
銭湯の前には先生が立っていた。
「ん、古明地、お前もう入ったのか?」
「うん。先生どこ行ってたの?」
「ん、ちょっとな。」
そう言って先生は銭湯の中に入ろうとした。
「先生ご飯食べた?」
こいしが訊く。
「まだだ。」
「つくって、待ってる。」
「え?」
先生が振り向いた。こいしには、ほんの少しだけ驚いてるように見えた。
「ご飯ぐらいつくれるから。私にも。それで昨日のことはチャラ。だめかな?」
「……ああ。良いよ。」
こいしは先生の姿が銭湯の中に消えていくまで立ち止まっていた。そして、ゆっくりときびすを返し、何ならすぐに作れるか考え歩いた。
思った以上に上手に出来た。幸い食材はあったのですぐさま火をおこし、米を炊き、かすかな記憶を頼りに卵焼きや味噌汁、焼き魚などを作った。味噌汁は多少塩っ辛いかもしれない。卵焼きには自信があった。昔良く姉と二人で作った。どうやって美味しくなるか互いに研究して――
「中々に甲斐甲斐しいじゃないか、私。」
家のことを考えるのをやめ、再度この状況を楽しもうと彼女は努力した。しかしそれでも様々な記憶が甦ってくる。
姉のこと、ペットのこと。私のこと、心配しているだろうか。そもそも私がいなくなったことに気づいているだろうか?別にどっちだって良い。今までだってそうだ。そんなことはどうでも良いんだ。私は一人で生きたい。誰にも縛られないで、一人で。
「先生早く帰ってこないかな。」
いつかはみんないなくなる。私が一番最初に抜けただけ。順番なんて関係ない。いつかは別れなくちゃならない。
「ご飯冷めちゃうよ。」
みんなが幸せに暮らせれば良い。
私はそこだと幸せになれないの。
だから、私がそこにいる必要はないでしょ?
「ああ見えて長風呂なのかな?ちょっと意外。」
私の幸せはこれなんだよ。
今この時が、私の幸せなの。お姉ちゃん。
「お腹すいたなぁ……。先に食べちゃおうかな。」
お姉ちゃんの幸せと私の幸せは違うんだよ。
「でもそれじゃ借りを返したことにはならない……かな?そんなことないかな。」
そう、
だからお姉ちゃん。みんな。
「早く帰ってきておいで。」
どうかお幸せに。
2-11.
先生はこいしが作った料理に素直に驚いていた。こいしは料理を誉めてもらうよりもそのことの方が嬉しかった。
食事中は一切会話がなかった。多少不安が残った味噌汁も、先生は何も言わずに食べた。食器のこすれる音だけがその場を支配していた。
「古明地。」
食事を摂り終えた先生がゆっくりと口を開いた。こいしと目を合わせようとはしなかった。
「はい。」
こいしは真面目に正座して、成績の良い子供のようにはっきりと答えた。
「今日は学校に行くよな。」
「はい。」
「じゃあお前、先行け。一緒にいるところを見られたらまずいだろう。」
「はい。」
「……随分聞き分けが良いな。」
先生は初めて彼女と目を合わせた。こいしは真っ直ぐ先生を見つめながらこう答えた。
「……先生、もう少し……。いや、もう一日だけ此処に居させて下さい。」
「だめだ。」
「お願いします。一日で良いんです。」
「だめだ。」
「明日になったら、私、寺子屋をやめます。もう家にも戻らないつもりです。」
「……。」
先生は何も言わずにこいしのことを見つめ続けた。こいしは短く息を吸って、続けた。
「明日までに自分の身の振り方を考えたいんです。私はもうあそこには戻らない。誰も私のことを知らないところに行きたい。私は……。私は、幸せに、なりたいんです。」
先生は何も言わなかった。こいしも何も言わなかった。雪がまた降り始め、世界は静寂に包まれた。
「古明地。」
先生が重たげに口を開いた。
「はい。」
「帰る場所がないのは辛いぞ。」
「わかってます。でも、私の帰る場所はあそこじゃないんです。」
先生はゆっくりと立ち上がり、愛用している鞄を持ち上げた。
「……一日だけだ。慧音先生には俺がどうにか言っておく。……寺子屋も来なくて良い。荷物をまとめとけ。もし、心残りがあるなら……。いや、なくとも……。家に一回、戻っておけ。」
「ありがとうございます。」
こいしは深々と頭を下げた。
「俺が言えるのはそれだけだ。」
「はい。」
2-12.
先生に言われてもこいしは地霊殿に戻る気はなかった。
動く気もしなかった。一人残されたこいしは先生の家の窓から外を眺め続けていた。
「もっと早くからこうしていれば良かったんだ。」
こいしは窓を開けた。冷たい風と雪が部屋に入り込みそうになり、急いで本を安全な場所に移動させた。
「もっと先生のこと知りたかったな。」
雪も風も、昨日よりも強かった。ありとあらゆるものを吹き飛ばしてくれればいいと彼女は願った。ありとあらゆるものを白く塗りつぶしてくれればいいと彼女は願った。
「最後にもう一回、謝ってから行こう。」
彼女は何処に行くか決めていなかった。それでもどうにかなる、どうにかする。柱に寄りかかり、風と雪にいたぶられながら、彼女はそう考えていた。
2-13.
先生は夜遅くに戻ってきた。こいしはいつの間にか眠ってしまっていたが、しっかりと窓は閉めていた。ゆっくりと伸びをし、尋ねる。
「先生お帰り。また見回りだったの?」
「ああ。」
「雪、やんだ?」
「ああ。」
先生は玄関から動こうとしなかった。こいしが続ける。
「先生ごめんなさい。ありがとう。」
「家には戻ったのか?」
「戻ったよ。何にも持ってこなかったけど。」
彼女は先生に対して最後に嘘をつかなければならないのが心苦しかった。悟られぬようにする努力が恥ずかしかった。
「古明地。」
「はいな。」
最後は笑顔で別れよう。そう決めていたこいしはおどけて言った。
「お前、此処に残るつもりはないか?」
――え?
「先生?」
「何処かへ行く必要はない。此処にいればいい。」
「先生……?」
こいしは後ずさりした。何か様子がおかしい。
「此処で俺と暮らせば済む話じゃないか?」
「先生何言ってるの?」
先生がゆっくりとこいしに近づく。彼女は壁を背にし、様子を伺い続けている。
「そうだろう?――最初からそのつもりだったんだろう?」
先生が手を伸ばす。こいしの頬に触れる。
「やめて!」
とっさに手を払いのける。先生の目が大きく開く。拒絶されたことが理解出来ていないようである。
「違う、違うよ先生。私は先生のこと好きだよ。でも違うの。私は先生のこと愛してないの。」
こいしは一息で言い切った。彼女は一度深呼吸をし、続ける。先生は微動だりもせず彼女を睨み続けていた。
「ごめんね……。ごめんね先生。本当に、あなたのこと大好きだったよ。でも、でも私はあなたのことを愛してないの。それじゃあ――さよなら。」
一瞬の虚を突き、こいしは思いっきり床を蹴りあげ、最大速度で家から飛び出した。先生の言っていた通り、雪はもうやんでいた。月の光を浴びながらこいしはそのまま何処かへ飛んでいった。
2-14.
「ごめんね先生。」
先生が悪いんだよ。
「ごめんね先生。」
先生が悪いんだ。だって私は先生を愛してないもの。
「ごめんね先生。」
私が愛してるのは私だけ。
「ごめんね先生。」
勝手に勘違いされても困るわ。
「ごめんね先生。」
さよなら先生。
「ごめんね先生。」
また会えたら良いね。
3-1.
朝は誰にでも平等にやってくる。
それは良いことなのか。悪いことなのか。
「おはよう、先生。」
マジでラブリーだわ
先生は最後、どんな心境でこいしに接していたのか。
あまり下卑た理由じゃないといいなあ。
こいしちゃんは少女ですなぁ。
後書きもSSにするべき
彼女は、彼女だけのもの。
お見事でした。
こいしちゃん…