今夜は空が荒れている。ごうごうとうなりを上げる風のせいで、家全体がはぎしぎしときしみ、時折雲間に光る稲妻は黒々とぬれた山を照らし出す。それはだいだらぼっちが何体も並んでいるような光景だった。
時計がないので正確な時間は分からないが、いつもより早めの夕飯と、その後片付けが終わったばかりだから、20時にはならないくらいの頃合いだろう。全く眠くならず、かといってすることもない。本来なら境内の掃除だとかなんだとかいった明日の準備をしているはずの時間が、突然訪れた大風のせいですべて暇になってしまったのだ。
早苗は、落ちないよう慎重に階段を上りながら、不服な表情で唇をとがらせた。この分だと、日付が変わるまでは収まらないだろう。明日の境内の様子が、自由時間をすっかり奪ってくれることは考えるまでもなく分かる。こんな時に『時間貯金箱』があったらどれほど助かるだろうかと、とりとめのないことに思いをはせながら、重い足を引きずって自室へと戻った。
峠に家が建っているのは、なるほど朝の目覚めだとか、薄明の景色だとかいった人生の精神的側面に大きな利点を与えてくれる分にはいいのかもしれないが、日々の身体的側面から見れば辛いことこの上なかった。たとえば、買い物に行くたび、行きは空身で下ればよいのに、帰りが大荷物抱えての上りになる。そのうえ、毎日のように風が強くて天候不順と、洗濯物も気軽に干せないし、息抜きついでの散歩さえ、タイミングが悪ければ命がけになる。もちろん、早苗は空も飛べるし、そういった強い風への慣れも多分にあるから、一般の人間に比べれば、多少なりとも楽をできるのは間違いないのだが、それでも辛いものは辛いのだ。単純にばかばかしい労力である。だからといって、神社を麓に移すわけにはいかなかった。博麗神社の勢力範囲にかぶるし(時々早苗は、そんなものがたしかにあるのかを疑問に思うのだけれど、まあ、あるんでしょと思うことにしている。突き詰めると霊夢がかわいそうに思えるからだ)、せっかく築きあげた良好な足場を今更手放す気にはなれない。そんなこんなで、早苗は日常の不便も茶飯事と思いきり、毎日を送っているのだった。
寝間着に着替えながら、早苗は暇をつぶす手段を探して頭を悩ませる。この幻想郷では、外が荒れるとなんにもできなくなるのだ。その昔、まだここに移って間もないころの話だ。日々感じる不便につまずきながらも、なんとかやり過ごしていた秋の日に、今のような暴風豪雨とでくわしたことがあった。住宅自体は外の世界からそのまんま持ちこんできた築10年くらいの一軒家だったし、台風にぶつかった経験もあったから、屋根を吹き飛ばされたりするようなことへの心配はなかった。だが、雨戸を閉めて回ってから、今と同じようにはたと困ってしまったのだ。できることが何もなかった。まず、ここでは電気がない。照明は油を燃やしてできるだけで、文字どおり『一寸先は闇』になってしまう。電話なんぞあるわけもなく、DSだとか、ナショナルだとかは一切動かない。ここでは任天堂は花札だけ、松下電器はせいぜい年代物のトランジスタラジオくらいしかまともに使えないのだ。
着替え終わったところで、早苗は、勉強机の上に放置してあったそのトランジスタラジオを手に取り、イヤフォンをはめて寝転がった。目を凝らして電源のスイッチを入れると、ぽちっと小さな明かりがともる。それと同時に、懐かしい雑音が耳を打ち、思わず頬が緩むのを感じた。今日のような嵐の日に、気が狂いそうなほど余りある暇をつぶしてくれるのは、やはり文明の利器であった。
このラジオだが、もちろん早苗が買ったものではない。たまたま、掃除をしていたらひょっこり出てきて、使い方がわからず河童のところに持ち込んだら動くようにしてくれたというのが両者のなれそめである。ちなみに、この年になるまで、つまり幻想郷に引っ越してくるまで、早苗は実物を見たことがなかった。ラジオ自体は聞いたことがある。というより、積極的に聞いていた。例えばNHKに合わせて真面目に英語の勉強をしてみたり、車の中で親が聞いている渋滞情報に耳を澄ませたり、FMではやりの曲を聞いてみたりと、なんだかんだで活用していた。手に入れたこれは大分薄汚れていて、ラベルがところどころ読めなくなっていたうえ、自分の知っているラジオとあまりにもかけ離れていたので、何物であるのか分からなかった。一応、アンテナはついていたし、kHzだとかMHzだとか書いてあるから、ひょっとしたらとは思っていた。河童の協力で、とりあえず電源を用意し、あれこれといじっているうちにたまたま聴き慣れた英会話を拾ってくれたから確信が得られただけのことだ。そして、これは早苗のあずかり知らないことだが、彼女がいじったことのあるラジオはすべてICで動いていたし、大体はCDとかカセットテープとセットになっていた。トランジスタなんぞというものは、物理の時間でちょろっと聞いたくらいなものだ。それでも、早苗はラジオを手に入れたし、幸いなことに守矢神社とその周辺ではちゃんと電波を拾ってくれる。これは、早苗の生活における精神的な充足と大きく関わる点であった。
ごろごろと寝床に横になりながら、適当にチューニング用のつまみを回して、とりあえず一番近い局に合わせてみると、ハザードが小さくなるにつれて聴きなれたアナウンサーの声が飛びこんできた。鮮明とはいかないが、それでも十分聞きとれる声である。外の世界では政権交代が騒がれているらしい。自民敗色濃厚だとアナウンサーがしゃべっていた。NHKの標準語に郷愁の念を喚起され、しばらく目を細めて聞き入った。さらに回すと、次は懐かしの基礎英語だ。よく分からないが、女の子が何かに腹を立てているらしいことは分かった。もっと回すと、お次は定番の野球中継。スポーツ熱心な方ではないから、せいぜいチーム名くらいしか分からないけれど、興奮気味の実況が叫んでいる声に、思わずクスリと笑みがこぼれてしまった。
あれやこれやの騒ぎに耳を済ませながら、最後まで回しきってしまえば、ザアザアとがなりたてるハザードだけがあった。じっと聞きいりながら、耳が痛くならない程度に音量を小さくしてから、機械を胸の上に置き、眼を閉じてじいっと聞き入る。ただの無意味な雑音でしかないそれが、何故か今は懐かしかった。ラジオのハザード、テレビの2ch、学祭で使ったトランシーバー……
早苗の青春を彩ってきた外界での生活で、いつも隅の方でぽつんとうずくまっていたその雑音が、心の空白を埋めていく。
自然に鼻をすすりあげて、気がつけば、早苗は涙を流していた。体を起こしてイヤフォンを外し、ラジオを放りだしてから涙をぬぐう。それでも止まらず、枕につっぷした。あふれる涙は暖かかった。外はまだ荒れていた。風は音を変えずにごうごうとうなりを上げて家を試み、それに応えるように家はきしむ。柱がミシミシと悲鳴を上げ、それでも必死に立っていた。それは早苗の心の音でもあった。雑音がより大きな声を上げて脳内を駆け巡り、早苗の心をたたいて涙を降らせる。心は揺れた。向こうにいるはずの友だちだとか、親戚だとかの顔が浮かんでは消え、また思いだされてはどこかへと散っていく。いつしか部屋の明かりは消えていて、ただ深い暗闇のなかで、孤独の寂しさを味わいながら、かよわい心はぬれている。今はどうしようもなく、ただ涙を流すことしかできない。泣きに泣きぬいて、嵐が過ぎ去るのをただ待つ。風は音を立てて通り過ぎ、思い出が走馬灯のように駆けぬけて、柱はきしみ、心は揺れる。
息の詰まるような瞬間をこらえていると、どこからともなくラッパの音が聞こえてくる。トテトテ、トテトテ、トテチテタ……とつながるその音に聞き入ると、しだいに心が落ち着いてくる。嵐の声がしだいに遠ざかり、雑音に変わってラッパの音が脳内に反響していく。あふれていた涙も止まり、早苗は思い切って顔を上げた。
ぼやけた視界の中で、雨戸の隙間から入り込む薄暗い光が天井をうっすらと染めていた。ラッパの音は聞こえない。あの音楽はなんだったろうかとまとまらない思考を追っていく。のろのろと起きあがるうちに、やっと思い出した。テングが鳴らす、夜明けの号令だった。眠い目をこすりながらよろよろと立ち上がり、カーテンをめくる。欄間から挿し込む光は弱かったが、確かに夜明けの到来を告げていた。おぼつかない手で暗闇をまさぐり、雨戸を開けていく。しだいに広がる隙間から明けの太陽が顔をのぞかせ始める。
嵐は過ぎ去り、夜は明けた。ラジオひとつであんなにおセンチな気分になるとは思いもしなかった。だれもいない部屋の中で、早苗の頬はちょっと赤くなった。思い直すように首を振り、大きく息を吸う。
これからするべきことは決まっているのだ。ラジオを片付け、寝間着を脱いで正服に着替える。フトンをたたんで押し入れにしまいこむ。ドラえもんはいなかった。『時間貯金箱』はないから、早く掃除を始めないと日暮れまでに終わるか分からない。
まずは顔を洗おうと、寝室をあとに階段を降りていく。
時計がないので正確な時間は分からないが、いつもより早めの夕飯と、その後片付けが終わったばかりだから、20時にはならないくらいの頃合いだろう。全く眠くならず、かといってすることもない。本来なら境内の掃除だとかなんだとかいった明日の準備をしているはずの時間が、突然訪れた大風のせいですべて暇になってしまったのだ。
早苗は、落ちないよう慎重に階段を上りながら、不服な表情で唇をとがらせた。この分だと、日付が変わるまでは収まらないだろう。明日の境内の様子が、自由時間をすっかり奪ってくれることは考えるまでもなく分かる。こんな時に『時間貯金箱』があったらどれほど助かるだろうかと、とりとめのないことに思いをはせながら、重い足を引きずって自室へと戻った。
峠に家が建っているのは、なるほど朝の目覚めだとか、薄明の景色だとかいった人生の精神的側面に大きな利点を与えてくれる分にはいいのかもしれないが、日々の身体的側面から見れば辛いことこの上なかった。たとえば、買い物に行くたび、行きは空身で下ればよいのに、帰りが大荷物抱えての上りになる。そのうえ、毎日のように風が強くて天候不順と、洗濯物も気軽に干せないし、息抜きついでの散歩さえ、タイミングが悪ければ命がけになる。もちろん、早苗は空も飛べるし、そういった強い風への慣れも多分にあるから、一般の人間に比べれば、多少なりとも楽をできるのは間違いないのだが、それでも辛いものは辛いのだ。単純にばかばかしい労力である。だからといって、神社を麓に移すわけにはいかなかった。博麗神社の勢力範囲にかぶるし(時々早苗は、そんなものがたしかにあるのかを疑問に思うのだけれど、まあ、あるんでしょと思うことにしている。突き詰めると霊夢がかわいそうに思えるからだ)、せっかく築きあげた良好な足場を今更手放す気にはなれない。そんなこんなで、早苗は日常の不便も茶飯事と思いきり、毎日を送っているのだった。
寝間着に着替えながら、早苗は暇をつぶす手段を探して頭を悩ませる。この幻想郷では、外が荒れるとなんにもできなくなるのだ。その昔、まだここに移って間もないころの話だ。日々感じる不便につまずきながらも、なんとかやり過ごしていた秋の日に、今のような暴風豪雨とでくわしたことがあった。住宅自体は外の世界からそのまんま持ちこんできた築10年くらいの一軒家だったし、台風にぶつかった経験もあったから、屋根を吹き飛ばされたりするようなことへの心配はなかった。だが、雨戸を閉めて回ってから、今と同じようにはたと困ってしまったのだ。できることが何もなかった。まず、ここでは電気がない。照明は油を燃やしてできるだけで、文字どおり『一寸先は闇』になってしまう。電話なんぞあるわけもなく、DSだとか、ナショナルだとかは一切動かない。ここでは任天堂は花札だけ、松下電器はせいぜい年代物のトランジスタラジオくらいしかまともに使えないのだ。
着替え終わったところで、早苗は、勉強机の上に放置してあったそのトランジスタラジオを手に取り、イヤフォンをはめて寝転がった。目を凝らして電源のスイッチを入れると、ぽちっと小さな明かりがともる。それと同時に、懐かしい雑音が耳を打ち、思わず頬が緩むのを感じた。今日のような嵐の日に、気が狂いそうなほど余りある暇をつぶしてくれるのは、やはり文明の利器であった。
このラジオだが、もちろん早苗が買ったものではない。たまたま、掃除をしていたらひょっこり出てきて、使い方がわからず河童のところに持ち込んだら動くようにしてくれたというのが両者のなれそめである。ちなみに、この年になるまで、つまり幻想郷に引っ越してくるまで、早苗は実物を見たことがなかった。ラジオ自体は聞いたことがある。というより、積極的に聞いていた。例えばNHKに合わせて真面目に英語の勉強をしてみたり、車の中で親が聞いている渋滞情報に耳を澄ませたり、FMではやりの曲を聞いてみたりと、なんだかんだで活用していた。手に入れたこれは大分薄汚れていて、ラベルがところどころ読めなくなっていたうえ、自分の知っているラジオとあまりにもかけ離れていたので、何物であるのか分からなかった。一応、アンテナはついていたし、kHzだとかMHzだとか書いてあるから、ひょっとしたらとは思っていた。河童の協力で、とりあえず電源を用意し、あれこれといじっているうちにたまたま聴き慣れた英会話を拾ってくれたから確信が得られただけのことだ。そして、これは早苗のあずかり知らないことだが、彼女がいじったことのあるラジオはすべてICで動いていたし、大体はCDとかカセットテープとセットになっていた。トランジスタなんぞというものは、物理の時間でちょろっと聞いたくらいなものだ。それでも、早苗はラジオを手に入れたし、幸いなことに守矢神社とその周辺ではちゃんと電波を拾ってくれる。これは、早苗の生活における精神的な充足と大きく関わる点であった。
ごろごろと寝床に横になりながら、適当にチューニング用のつまみを回して、とりあえず一番近い局に合わせてみると、ハザードが小さくなるにつれて聴きなれたアナウンサーの声が飛びこんできた。鮮明とはいかないが、それでも十分聞きとれる声である。外の世界では政権交代が騒がれているらしい。自民敗色濃厚だとアナウンサーがしゃべっていた。NHKの標準語に郷愁の念を喚起され、しばらく目を細めて聞き入った。さらに回すと、次は懐かしの基礎英語だ。よく分からないが、女の子が何かに腹を立てているらしいことは分かった。もっと回すと、お次は定番の野球中継。スポーツ熱心な方ではないから、せいぜいチーム名くらいしか分からないけれど、興奮気味の実況が叫んでいる声に、思わずクスリと笑みがこぼれてしまった。
あれやこれやの騒ぎに耳を済ませながら、最後まで回しきってしまえば、ザアザアとがなりたてるハザードだけがあった。じっと聞きいりながら、耳が痛くならない程度に音量を小さくしてから、機械を胸の上に置き、眼を閉じてじいっと聞き入る。ただの無意味な雑音でしかないそれが、何故か今は懐かしかった。ラジオのハザード、テレビの2ch、学祭で使ったトランシーバー……
早苗の青春を彩ってきた外界での生活で、いつも隅の方でぽつんとうずくまっていたその雑音が、心の空白を埋めていく。
自然に鼻をすすりあげて、気がつけば、早苗は涙を流していた。体を起こしてイヤフォンを外し、ラジオを放りだしてから涙をぬぐう。それでも止まらず、枕につっぷした。あふれる涙は暖かかった。外はまだ荒れていた。風は音を変えずにごうごうとうなりを上げて家を試み、それに応えるように家はきしむ。柱がミシミシと悲鳴を上げ、それでも必死に立っていた。それは早苗の心の音でもあった。雑音がより大きな声を上げて脳内を駆け巡り、早苗の心をたたいて涙を降らせる。心は揺れた。向こうにいるはずの友だちだとか、親戚だとかの顔が浮かんでは消え、また思いだされてはどこかへと散っていく。いつしか部屋の明かりは消えていて、ただ深い暗闇のなかで、孤独の寂しさを味わいながら、かよわい心はぬれている。今はどうしようもなく、ただ涙を流すことしかできない。泣きに泣きぬいて、嵐が過ぎ去るのをただ待つ。風は音を立てて通り過ぎ、思い出が走馬灯のように駆けぬけて、柱はきしみ、心は揺れる。
息の詰まるような瞬間をこらえていると、どこからともなくラッパの音が聞こえてくる。トテトテ、トテトテ、トテチテタ……とつながるその音に聞き入ると、しだいに心が落ち着いてくる。嵐の声がしだいに遠ざかり、雑音に変わってラッパの音が脳内に反響していく。あふれていた涙も止まり、早苗は思い切って顔を上げた。
ぼやけた視界の中で、雨戸の隙間から入り込む薄暗い光が天井をうっすらと染めていた。ラッパの音は聞こえない。あの音楽はなんだったろうかとまとまらない思考を追っていく。のろのろと起きあがるうちに、やっと思い出した。テングが鳴らす、夜明けの号令だった。眠い目をこすりながらよろよろと立ち上がり、カーテンをめくる。欄間から挿し込む光は弱かったが、確かに夜明けの到来を告げていた。おぼつかない手で暗闇をまさぐり、雨戸を開けていく。しだいに広がる隙間から明けの太陽が顔をのぞかせ始める。
嵐は過ぎ去り、夜は明けた。ラジオひとつであんなにおセンチな気分になるとは思いもしなかった。だれもいない部屋の中で、早苗の頬はちょっと赤くなった。思い直すように首を振り、大きく息を吸う。
これからするべきことは決まっているのだ。ラジオを片付け、寝間着を脱いで正服に着替える。フトンをたたんで押し入れにしまいこむ。ドラえもんはいなかった。『時間貯金箱』はないから、早く掃除を始めないと日暮れまでに終わるか分からない。
まずは顔を洗おうと、寝室をあとに階段を降りていく。
あの雑音、不思議な魅力がありますよね。
そのぐらいの年齢に電子ブロックにハマっていました。
はんだごて要らずで組み替え自由。
アンテナを工夫するとそのレベルでも結構聞こえるみたいです。
電源コードにアンテナになる導線を巻き付けて、コードの方をコンセントに差し込むと、家全体がアンテナになって、よく拾ってくれるとか。
任天堂の花札とは渋いものもってますね。
早苗と一緒に、涙腺が緩みました。
とても良い雰囲気で、面白かったです!