霊夢は縁側に立ち大きく伸びをした。
時刻は丑三つ時、いつもは月明かりに照らされてぼんやりと浮かび上がっている境内も、新月からだろうか、暗闇に覆われている。
足元には部屋から漏れる微かな行灯の光に照らされて、薄暗い影が伸びていた。
両手を高くあげ、鏡のように同じポーズをするそれの横に、突然また別の影が現れた。
「なんか面白いことやってんじゃん?」
突然の呼びかけに、霊夢は小さく驚嘆の声を漏らす。
「ただの暇つぶしよ、魔理沙の思いつきに付き合ってるだけ」
声の方向に顔を向け、横にいる萃香の姿を確認すると、霊夢はさも興味なさげに言った。
萃香に言った通り、元々はちょっとした暇つぶしのつもりだった。しかし実際にやってみると拘束時間も長く、半分を過ぎたあたりで既に飽きてしまったのだ。
しかし、一度やると言った手前、途中でやめるのも何かしこりが残るので、こうして勝手に抜けだして休憩を入れながらも渋々続けているところだった。
途中で抜け出すことはルール違反かもしれない、とも思ったが、この退屈さを少しでも軽減できればそんなことはどうでもよかった。
「それにしても、百物語とはねぇ……中々夜が明けないのもそのせい?」
萃香は興味深々といった表情だ。それを見て、十数時間前の自分もこんな顔をしていたんだろうか、と考えてしまう。
「そうよ、咲夜も参加しているの。一晩で百の物語を語らなきゃいけないなんて、時間でも操らないと無理な話ね」
霊夢はそう言ってその場に腰を下ろす。
「仮にも博麗神社の巫女が、異変を起こすようなマネしてもいいのかねぇ?」
萃香も続いて霊夢の横に腰掛け、口元を歪ませながら皮肉っぽく鼻で笑ってみせた。
「私が異変を起こしちゃいけないなんて決まってないしね。それに、こんなのただのお遊びよ。どうせ何も起きないわ」
霊夢にとっては本当にただの暇つぶしだった。
何か異常な事態なんて起こることはなく、万が一起きたとしてもほんの些細な、幽霊やら低級の妖怪だかが出てくるとかそんな程度だろうと考えていた。
「まぁそうだろうと思うけどさ。ただ、アイツがいるとロクな事が起きないからね」
紫のことか、と霊夢は思う。
もし何か異変が起こる可能性があるとしたら、霊夢もそれがただ一つの気がかりだった。
紫は別に呼んだわけでもなく、どこから話を聞きつけたのか突然姿を現し、何食わぬ顔で話へ参加していた。
普段滅多に姿を見せない紫が現れる時は、決まって厄介ごとを持ってくるか、ただ気まぐれに神社を訪れ、不敵な笑みを浮かべながら説教混じりの茶々を入れてくるぐらいだった。
今回の場合は後者。ただの気まぐれだろうと感じていた。
別に何かの確信があったわけではない。勘がそう告げていた。普段から直感には従うことにしているのだ。
もしかしたら、博麗神社の巫女という立場でありながら、こんな馬鹿げた事に参加している自分を遠まわしに紫は批判しているのかもしれない。
「紫のことなら、大丈夫よ」
たぶん、と心の中で付け加える。
「ふうん、その根拠は?」
「別に、ただの勘よ」
「なら大丈夫か」
今の会話で何を納得したのか、萃香は満足気にゆっくりと首を縦に二回ほど振って見せた。
「さて、そろそろ物語も終盤のはずよ。参加したからには結末だけは拝んどかないと」
思わぬ訪問者のせいで、少し外に長居しすぎてしまった。
たしか部屋を出た時点で丁度九十を過ぎたあたりだっただろうか。
まだ、奥の部屋から微かに話し声が聞こえているということは終えてはいないだろうが、急いだほうがいいかもしれない。
ここまでやって百物語の最後に立ち会えないなんて間抜けもいいところだ。
「あいよ、いってらっしゃい」
そう言うと萃香は手に持っていた瓢箪を口まで運び、喉を鳴らして酒を流しこむ。そして大きく息を漏らした。
それが合図だったかのように、段々と薄い霧が萃香の周りを取り巻き始める。
霧が白さを増してきたかと思った頃には、既に萃香の姿は視認することができなかった。残った霧も風に吹かれた紫煙のようにすぐに空気に溶けて消える。
それを見送ってから、霊夢は両指を交差させ、手の平を空に向けてもう一度伸びをした。
一つため息を吐いてから、腰を上げ、振り返る。
百物語が行われているのは、今、目の前にある部屋から二つほど隣にある部屋だった。
その一帯は行灯の明かりもなく、物の造形もわからないぐらい黒く塗りつぶされている。
霊夢は手探りで歩きながら部屋まで辿りつき。襖へ手をかけた。
──────────
「それで旦那が謎の失踪を遂げたあと、残された妻は二十ヶ月以上も妊娠し続けたというの。そして真相を解明するためにその妻の姉が……」
部屋では文が話している最中だった。
視界は全て闇に覆われており、皆の姿は見えないが、気配だけが伝わってくる。
普段から慣れ親しんでいる部屋のせいか、恐怖といった類の感情は湧いてこない。
むしろ妖怪と人間が混じって楽しく語りをしているというこの空間が、とても滑稽に思えて仕方なかった。
霊夢は後ろ手で襖を閉めてから、感覚を頼りに自分の座っていた位置まで戻る。
話の参加者達は一つの輪になっており、霊夢から時計回りで紫、咲夜、魔理沙、文といった順に座っていた。
輪になって話すのに必然性はなく、談話をするのに一番自然だったためこの形をとっていただけだった。
本来ならば百物語をする際は、参加者は青い衣をまとい、帯刀せずに入室する。その他の危険物も部屋からは除去する。といった決まりがあるそうだが、あまり皆気にしている様子はなかった。
また、話の内容だがこれは妖怪や幽霊にまつわる怪談話に限らないらしい。いわゆる不思議話・因縁話などでもよいとのことだった。
先程萃香にはああ言ったが、実のところ何か異変が起きてくれるのを期待している面もあった。
最近はこれといって大きな異変も起きず、退屈しているところだったのだ。
誰かが異変を起こし、それを解決する。実際この循環は幻想郷を揺るがすような異変でない限りは、退屈な日常に刺激を与えるための戯れのようなものに近かった。
平和なのに越したことはないが、たまには何か事件が起きてほしい、というのが本音でもある。
あれこれ物思いに耽っている間に話が終わったらしく、文がその場を立ち上がり、隣の部屋へと続く襖を開けた。
百物語には三つの部屋が必要だった。三つは隣合わせになっており、一つ目が今談話を行っている部屋だ。
二つ目の部屋には何もなく、ただ三つ目の部屋へいくための通路のような役割だった。
そして一番奥にある三つ目の部屋、ここに青い紙が貼られた行灯と、上に鏡が置かれた文机が置いてある。
行灯の中には灯心が百本備えられていて、話しを終えるとその灯心一本引きぬいて消し、自分の顔を鏡で見、元の部屋へ戻る。という手順になっていた。
手順通りに文は隣の部屋を通りぬけ奥の部屋の行灯の灯心を引き抜く。
その行為を行っている間も残った者達は話しを進めて良い、というルールだったので、文が戻ってくるのを待たずに魔理沙が口を開いた。
「さて、これでついに百話目だな。鬼が出るか蛇が出るか」
どうやらこれで丁度百話目だったらしい。
声の調子から、魔理沙の意気揚々とした雰囲気が伝わってくる。
百物語を始める前から、魔理沙は百話目の語り部になることにこだわっていた。
語りは時計回りで順番に行われることになっていたが、丁度百番目に順番が回ってくるようにと最初の語り役を指定したのも魔理沙だった。
他の者は特に順番に興味はなかったのでその提案を受け入れたが、いかんせん私が途中で何度か抜けだしたことにより、その順序が狂ってしまったのだ。
長時間同じ格好で話を聞き続けることに飽き、最初に部屋を出ようとした時も、魔理沙は不機嫌そうに文句を言ってきた。
それを生返事で軽くあしらい、外で気分転換と相成ったわけだ。
しかし、暗闇で顔が見えない中でも、魔理沙が額に皺を寄せていることは明白だった。
偶然とはいえ、結果的にはこうして望みどおり百話目を語ることができたのだから、問題はないだろう。
「せっかくだから私が体験した事でも話そうか。あれは春も終わりに近づいた頃だ。家に何も物を盗まない泥棒が入ってな」
そうして、百話目の物語が始まった。
霊夢はその場のピリピリとした空気を感じる。
やはり皆何が起きるかわからないこの状況を警戒しているのだろうか。
視界が閉ざされているからこそ、場の空気がいつも以上に敏感に伝わってくる。
その空気に感化され、霊夢もあたりに神経を尖らせてみたが、数分もその緊張は続かず、結局は眠気と戦いながらぼんやりと魔理沙の話に耳を傾けることにした。
実は、魔理沙が話す事件が起きた時、その場にある程度立ち会っていたので大筋の内容は既に知っていた。
そのため、最初は話半分で聞いていたものの、思いの外魔理沙の視点から語られる話は、抱いていた印象や想像していた経緯とは違い、別の話を聞いているかのようで、段々と興味を惹かれていった。
話が進むにつれ、事件当時疑問に感じた魔理沙の言動なども思い出されてきたこともあり、終盤にはすっかり霊夢は話に引きこまれていた。
魔理沙が話を終え、その場を立ち上がった時に、ようやく霊夢は百物語の最中だったということを思い出した。
魔理沙はもう何十回と繰り返してきたように、奥の部屋へと行灯の灯心を引き抜きに向かう。
時々、床を軋ませながら、トントンという足音が遠ざかっていく。
そして、遠くの方で微かに揺らめいていた最後の灯りが消える気配を感じた。
完全な暗闇が訪れた中で、霊夢は今度ばかりはしっかりと気を引き締める。
最後の灯心が引きぬかれた瞬間に何かが起きるかもしれない、と予想していたが、その様子はないようだ。
足音だけがその場に響き、魔理沙が元の場所に戻ってきてからは誰も口を開けず、風に吹かれて木々がざわめく音と少しの虫の鳴き声だけが流れていた。
霊夢はそれを聞きながら、風流ね、なんて呑気な事を一瞬考える。
しばらくの間、何も変化がなく、沈黙が続き、そろそろ何も起きずにお開きになる頃合いかと思われた。
その時、神社が一瞬大きく振動し、同時に轟音が近くで響いた。
何か重量のある物が地面に落ちたような音、混じって木の板が割られるような音がした。
神社の一部が破壊されたのだろうか、霊夢は冷静に思う。
その場からすぐに立ち上がり、懐へ手を忍ばせ、護符を掴む。
そして、何も見えない暗がりの中でせめてもと目を凝らした。
やはりこれは百物語によって引き起こされた事なのだろうか。
実のところこれだけの面子が集まっている中で、何か異変が起きようとすぐに対処できるだろうとタカをくくっていた部分もあった。
しかしながら、予想以上に最悪の事態を招いてしまったのかもしれない。
他の者達の安否も気になるところだが、ひとまずはこの状況を打破するのが優先だ。
次にすべき行動を考えている間に、どこからか起こされた風圧によって霊夢の髪が揺れた。
それに瞬時に反応し、霊夢は風が向かってきた方向へと逆らい護符を投げる。
頭で考えた行動ではなく、体が勝手に反応した故の行動だった。
霊夢にとっては敵の気配がしたような気がしたので、目の前に護符を放り投げたに過ぎなかった。
放られた護符は何者かにぶつかり、放電したような音を出しながら青白い閃光を何度か放つ。
霊夢はその光の中にぼんやりと浮かびあがる形を目に捉えた。
そこにあったのは巨大な手。一掴みで人間を握りつぶしてしまうほどの大きさ。
それだけで腕の先にある本体の巨大さも容易に想像がついた。
指は三本しかなく、見える範囲は全て青色に塗られていた。
深く刻まれた皺に、ゴツゴツとした表面から霊夢は巨大な岩石を連想する。
護符が消滅し、あたりが再び暗くなると、光が音を連れて行ったかのように静寂が戻ってくる。
そして、何者かの気配も消えたのがわかった。
「やったのか……?」
魔理沙の声が響いた。
「どうかしらね。それよりみんな生きてる?」
そう簡単にどこぞの妖怪に倒されるような連中ではないだろうが、一応確認をしてみる。
「大丈夫そうよ。神社意外はね」
いつの間にか、奥の部屋にあった行灯を手に持っていた文が、明かりをつけて言った。
久々に視界を取り戻し、霊夢は辺りを見渡してみる。
部屋にいた面子は皆外傷を負った様子もなく、問題はなさそうだった。
紫にいたっては話をしていた時の位置から動いておらず、何事もなかったかのように座布団に座っている。
しかし、床には大きな穴が空いていた。これが最初の轟音の原因だろう。
場所は丁度、魔理沙と咲夜座っていた位置の間ぐらいだった。
他に特に破壊された場所はないようだが、無残な姿になった床を見るだけで、霊夢の気は沈んだ。
何でこうもこの神社は破壊されてばかりなんだろうか。
「で、やっぱりそこの大穴は今の奴の仕業なわけ?」
そう言って、霊夢は穴を視線で指し示す。
「たぶんな、私が灯心を抜いてそこに戻ってきて、しばらく座っていたら、急に目の前でドーン、だ。
音に気付いてから急いで飛び退いたが、少し攻撃される位置がズレていたら、今頃ペシャンコだったかもしれないな」
魔理沙は両掌をパシンと合わせて、プレスするようなジェスチャーをし、少し笑ってみせた。
一つ間違っていれば、命の危機に瀕していたかもしれないというのに、怖がっている様子は見られない。
「私もそんなところね、当たらなかったのが幸いだわ」
付け足すように咲夜が言った。
「そう、そんで一体今のは何だったのよ」
「さあ、でも十中八九この茶番が原因なのは確かよ」
言いながらパシャパシャとフラッシュを焚く文も欝陶しかったが、それ以上に霊夢には気に障るものがあった。
「ところで随分と楽しそうね?紫」
紫は先ほどから観客のように、この状況を傍観しているだけだった。
「ええ、だって楽しいんだもの。期待通りだわ」
口元に手を当て、紫はクスクスと笑う。
霊夢を見上げる目はどこか挑発的にも見えた。
「それは結構な事ね。あんたなら何か知ってるんじゃないの。今の奴が何者だったのかとか」
「今の奴の正体は……わからないわね」
何かをわかっていながら、勿体つけたような言い方。いつもの事だ。
「今の奴の正体は。ってことはわかってることもあるんじゃないの?」
霊夢は紫を睨みつけ、少しいらついた口調で詰め寄る。
「そうね。ところで、妖怪はどうやって生まれるか知ってる?」
質問には答えず、更に紫は問いで返してくる。
「それが何の関係があるって言うんだよ。いいから知ってることを話してくれ」
痺れを切らし、魔理沙が口を挟んできた。
もし魔理沙が口を開かずとも、同じようなことを紫に言ってただろう。
「あら、物事には何でも順序が必要よ。足し算がわからない子に因数分解を教えたところで理解できるはずがないわ」
霊夢は呆れ、会話の主導権を放棄することにした。
「なら、その足し算から教えてもらうとしましょうか。紫先生」
そして紫は咳払いをしてから、得意げに話し始めた。
「そもそも妖怪の成り立ちには色々あって、人が妖怪になったりする、なんてケースもあるけど、何より人が妖怪を生み出すっていうのが大部分よ。
例えば、ある男が川のほとりで小豆を洗うような音を聞いたとしましょう。しかし、周りを見渡しても誰もいない。不思議に思い、帰ってから男はその出来事を知人達に話す。
話を聞いた者達は勘違いだ、と思うかもしれない。不思議なことがあるもんだ、と驚くかもしれない。それぞれどんな感想を抱こうと知人達の頭の片隅にその話は刻まれるわ。
またある時、その知人の一人がある時同じように川べりを歩いてたとする。そこでも小豆を洗うような音がするのよ。もちろん周りには人影は見当たらない。
そこで男にされた話を思い出すわけ。ああ、これがそれなのか、ってね。
その知人も同じように起こった出来事を周りに話す。これが繰り返されてどんどん話は広まっていく。
すると誰かが言い始めたのか、自然に言われるようになったのか、人達は理解できない現象を形付けるように、それを“小豆洗い”という妖怪のせいだと呼び始める。
その後は、川で誰もいないのに小豆を洗うような音がすると、小豆洗いが出た、と人は言い。子供が川で誰もいないのに変な音がするんだよ、と興奮気味に言ってきたら、
それはね小豆洗いって妖怪のせいなのよ、と答えるようになる。
話が伝えられていくごとに、音に気を取られると川に落っことされる、縁起のいい妖怪で見ると良いことがある、背が低く目の大きい法師姿である、なんて地域ごとに尾ひれなんかを付けたりしてね。
ここまで来ると、その原因が本当はイタチの鳴き声だ、とか蛙が体を揺する音だ、とかキツネの仕業だ、とかそんな事は関係なくなるわ。
原因がどうあれ、人々の中に確実に“小豆洗い”は存在するからよ。人の認識が揺らがない限りそれは半永久的に存在し続ける。それが妖怪の成り立ちの一つ」
とりあえず一区切りと言わんばかりに紫はふぅと口から息を吐いた。
理屈は理解できるが、霊夢はどこか納得がいかない。
それは目の前で、まさにその妖怪が存在し、話しているからなのかもしれない。
どこか奇妙な矛盾した気分を感じる。
「あなたはどうなのよ、その話じゃ目の前で話し、動いてるのはおかしいんじゃないの」
「何がおかしいのかしら、あなたがいる、と思ってるんだから私はいるに決まってるじゃない」
「いや、でも……」
言いかけて霊夢はやめる。今は議論をしている場合でもない。
スキマ妖怪なんて変てこりんな妖怪の噂など聞いたことないが、他人の認識した存在を自分が視るってこともあるだろうか。あるいはそれとは別のケース……。
疑問が頭の中を渦巻くが、それを振り払い、また紫と向きあう。
「まぁいいわ、続きをお願い」
「付喪神なんかもまるで物を命ある者のように扱うことで、実際に生命が宿ったり、ぞんざいに扱った物が怨念を抱くんじゃないかという思いがその通りになったり、
それはまだ一人の小さな信仰のようなものしかなく、低級妖怪が現れるに過ぎなかったりするけど、一国ほどの大きな信仰となればそれは神となるわ。
全ては人がその存在を思うから、現れる。持ちつ持たれつね」
「大体わかったけれど、そろそろ掛け算ぐらいはできるようになってるのかしら?」
「ふふ、そうね、そろそろ本題に入りましょうか。ようは百物語は簡単な召喚の儀みたいなものなのよ」
「召喚の儀?」
「ええ、コックリさんは知ってるかしら?あれも同じね。数人で集まりコックリさんという存在を想像し信仰する。
手順や方法を限定するのもまた信仰を高める雰囲気を作るのに一役買っているわね。
そうすれば指を動かし質問に解答する程度の存在なら創りだすことができるわ。だからオカルトを全く信じない人がいると成功率はグッと低くなるわけ」
「それが百物語にも言える、と」
霊夢はぼんやりと今回の事の顛末を理解し始めていた。
確かに怪談話をすると実際に怪異が起こる、なんてよく言われていることだ。
今日もまた、多くの怪談話を聞き、様々な事を想像したものだ。
「そう、皆で集まり、百話を終えると実際に妖怪が現れる、なんて噂を前提に話を行う。
そして人は怪談話や不思議話をするにつれて、この世にいない者の存在を想像し、肯定し始めるのよ。
百物語をすると青行燈という妖怪が出てくると言われている事が多いわ。それは他でもなく、百物語をする時の青い紙が貼られた行灯の印象が強いからよ、つまり……」
「今回現れた奴の正体は、ここにいる皆、もしくはその中の誰かの強いイメージを反映し、現れた可能性が高いってわけね」
紫が言い終わる前に、霊夢が答えた。
「正解、よくできた生徒ね、満点をあげるわ」
茶化すように紫はパチパチと手を叩く。
「で、肝心の正体はわからないのか」
魔理沙は長話に飽きたのか、床に座り壁に背を預ける格好になっていた。
「そういえば、護符の光で辺りが照らされたとき、少しだけ姿が見えたわね」
霊夢はあの時の巨大な手を思い出す。明らかに異形の者の手。
記憶にはそれから連想される妖怪などはなかったが、何かしらの手がかりにはなるかもしれない。
「何?それを早く言えよ、どんなのだったんだ?」
「そうね、私が見えた部分は手だけだったんだけど、人一人は軽く握りつぶせそうなほど巨大で、指は三本、そして気色悪い青色をしていたわ」
「青い腕か、それだけじゃなんのことかさっぱりだぜ」
魔理沙は腕を組み、首を上げ、後頭部をコツンと壁にぶつけた。
「それは、鬼だね」
聞き慣れた声。また厄介なのが増えたか、霊夢は思う。
「萃香、帰ったんじゃなかったの」
「何となく面白そうでね、つい」
萃香はそう言って歯を見せて笑う。
「まぁいいわ、それで鬼っていうのは?」
「おに、の由来はおぬ(隠)、姿の見えないもの、この世ならざるものを意味していたんだよ。
人が何か見えないものに恐怖する時、理解を超えた現象が起きた時、それはすべておぬものの仕業とした。
だからこそ鬼に纏わる伝承は多く、また縊鬼、吸血鬼、疫鬼など、その他にも鬼と名のつく妖怪は数えきれないほどいる。
今回もここにいた皆が漠然と存在しないはずのものが出てくるんじゃないだろうか、という思いでもあったんだろうね。
指が三本ってのがまさに一部の鬼の特徴さ。奴らは慈愛と知恵を持たない、だから指が三本しかない、残るは貪欲、嫉妬、愚痴だけ。まぁ私とは格が違うってこったね」
「なるほどね……」
まさか萃香から鬼の説明をされるとは思っていなかった。
確かに、誰かが青くて巨大な鬼を強く想像した、というよりは、皆が抱いていた見えないものへの不安感が、おぬものである鬼という形で現れた、といったほうが納得はいく。
色はやはり青い行灯の印象のせいなんだろうか。
しかし、正体が鬼だとわかったからといって、どうすべきなのだろうか。
また襲ってくるのを想定して、炒った豆でも用意しとくべきか。
「あいつはもう消えてからしばらくたったし、もしかしてもう問題ないのかしら?」
「いえ、あの鬼はまたくるわよ、ねぇ萃香?」
相変わらず紫は楽しそうな表情のまま、萃香を真っ直ぐ見つめる。
「…………ああ、たぶんね」
すると萃香はなぜかバツが悪いような表情になり、少し間を置いてから答えた。
「噂をすればなんとやら、かしら」
紫が言った直後に、霊夢はまた奴の姿を目に捉えた。
予兆も音なく、気付いた時にはそこに鬼はいた。
高さのある天井でもその巨体は収まりきらず、少し背中を丸めている。
全身は青く、頭には角が二本。凹凸のある顔面にギョロリとした目。焦点はあっておらず、更に不気味さが増している。
口からは牙が何本もはみ出しており、下顎をほぼ覆っていた。
やはり指は三本。どれも異常に長く、先にナイフのような尖った爪を付けていた。
全身が肉がなく骨張った印象を受けるが、細さはなく、先程連想したように、ゴツゴツとした岩を繋ぎあわせたような体だった。
「また表れたか、今度は返り討ちにしてやるぜ」
魔理沙は立ち上がり、箒の柄を床へ叩きつける。
他の者達も紫を除き、いつでも攻撃ができるよう身構えた。
「あまり鬼の品格を落とさないで欲しいね。こんなのが同じ種族だと思われたら困るんだよ。皆、悪いけどここは私が任されるよ」
そう言って萃香は鬼の前に行き、腰に両手を当て、仁王立ちをする。そして、鬼の顔を見上げた。
「さ、かかってきなさい、零歳児のヒヨっ子ちゃん」
鬼はその巨大な手を一度大きく振り上げ、萃香を潰すように殴りにかかる。
それに対し萃香がとった行動は、右手の掌を前に突き出すだけだった。
鬼の拳がそれにぶつかったかと思うと、衝撃もなく、寸止めしたように鬼の動きが止まった。
次に萃香は一旦右手を降ろしてから、それを再度空に向かって素早く突き出す。
それだけで、巨大な鬼の腹部が風船が破裂したように吹き飛び、霧となった。
その穴から外側に広がるように鬼の体はどんどんと霧化していき、数秒も経たぬ間に鬼の姿は失くなり、後に残った霧もすぐに消えていった。
「これでとりあえず、一件落着だね」
萃香は腰に付いていた瓢箪をとり、酒を目一杯飲み込んだ。
まさにこれが勝利の美酒というやつか。
「これで本当に終わったのかしら、お手柄じゃない萃香。今回だけは感謝しとくわ」
それにしても案外呆気無く終わったものだ。
それはあの鬼が所詮百物語によって創られた取るに足らない存在だからなのか、萃香の鬼としての圧倒的な強さによるものなのかはわからなかった。
今回の件について、霊夢は妙なことはするべきではないな、と反省した。
魔理沙の思い付きなど、ロクでもないことはわかりきっていたはずだったのに、あまりの暇さについ興味を惹かれてしまった自分に嫌気がさす。
「感謝するぐらいなら、パーっと宴会でも開いて欲しいもんだね、ぜひ」
口から流れた酒を手で拭いながら萃香はこちらに視線を向けてくる。
「おっいいじゃないか。座って辛気臭い話ばかりするのにも飽き飽きしたしな。鬼退治祝いってことで派手にやろうぜ」
魔理沙がそれに賛同する。
「今からやるつもり?いい加減疲れたし、もう私は寝たいんだけど」
口元を手で覆い霊夢は大きく欠伸をする。
「なんたって今回のヒーロー様のご所望だぞ、恩を無視するって言うのか?恩知らず巫女なのか?」
魔理沙が囃し立ててくる、宴会と聞いた瞬間、本当調子のいいことだ。
「わかった。わかったわよ。準備するからそこで待ってなさい」
萃香があの鬼を退治してくれたことは事実だ。
霊夢は渋々ながらも宴会を開くことにした。
「宴会の準備するなら私も手伝うわ。鬼を退治してくれて私も助かったしね」
部屋を出ようとしたところを、咲夜がついてきた。
扉を閉める前に横目で部屋を見ると、魔理沙は座布団を枕にして既に寝入っており、軽い怒りが沸いてくる。
「いやー、萃香さん素晴らしい活躍でしたね、勝算はあったんですか?」
文は相手が萃香ということで少し葛藤があったようだが、すぐに記者モードに入り、勝利者インタビューのようなものを行っていた。
それを耳の端で聞きながら、霊夢はすっかり明るくなった外を眺める。
そういえば最近宴会もあまり開いていなかった。暇な時だからこそ、皆で騒ぐのも悪くないかもしれない。
そんなことを思いながら、霊夢は部屋を出て襖を閉じた。
──────────
萃香は宴会の用意ができるのを待つ間、縁側へ座り、景色を肴に酒を呷っていた。
久々に見た太陽はやけに眩しく、その白さをもって辺りを朝に変えていた。
「大活躍だったじゃない」
萃香が振り返ると、紫が立っていた。
正直、今は萃香にとって紫はあまり話したくない相手だった。
先程、霊夢達には百物語によって鬼が出てきた理由についてああ説明したが、もしや、という程度で別の理由にも心当たりがあった。
たぶん紫なら、その可能性に気付いているだろうからだ。
「……まぁね」
できるだけ淡白に返事を返す。
「ねぇ、ところであなたは人が妖怪を創りだすように、妖怪が妖怪を創る、なんてあると思う?」
紫は隣に座り、こちらの様子を伺うように顔を覗き込んできた。
「どうだろうね、そんな話は聞いたこと無いけど、実際にそんな話しでもあるの?」
「私にもわからないわ。あるかもしれないし、ないかもしれない。ただ、今日の事件を見てちょっとね……」
紫が何を言わんとしているかは、既に萃香はわかっていた。
妖怪が妖怪を、そんなこと果たしてあるんだろうか。
完全にないとは言い切れないが、到底信じられるような話でもなかった。
「実は、ずっとあの場にいたんでしょ、萃香」
「あまりに珍しいことをしてたんでね、見物してたのよ」
「やっぱり、霧となって飛散していたあなたの意識が、知らずに人間たちの意識に影響を与えた、って線のほうが濃厚なのかしら」
紫はこちらに話すのではなく、独り言のように呟いた。
しかし、その言葉が自分に向けられていたわけでなかったとしても、胸を刺すものがあった。
「ところで、さっき鬼の由来はおぬ、つまり見えない物への恐怖心から鬼というものができた、って言ってたじゃない」
「それが何か?」
「人が存在しないはずのものに抱いていたのは、本当に恐怖だけだったのかしら?」
「つまり、何がいいたいのさ」
「人は存在しないものに恐怖を抱く一方で、期待や希望も抱いていたと思わない?人は自分じゃどうしようもない状況に直面した時、何かに祈ったりするものよ。
昔から鬼は人を襲い、喰らう恐怖の対象として描かれてきたけど、なぜ鬼は人を攫っていくと言われていたのか。
もちろん、とって喰うため、というのもあるけれど、中には若い娘を嫁にするために攫っていく、なんて話も多いわよね。
もしかしたら、恐怖の象徴とされる鬼は、その一方で、人々の希望という思いも馳せもって生まれたことで、人間に焦がれている部分もあるんじゃないかしら。」
「ふうん、面白い説ね」
「でも、もしそうだとしたら……皮肉なものよね。人々の恐怖の対象でありながら、希望でありたい、という思いも持っている。
それはまるで永遠に叶わない片思いみたいなものだわ。
歩み寄りたくても、逃げられ。歩み寄ってきたとしても、それを拒み、恐怖であり続けなければいけない。
だからこそ、鬼は気に入った人間を見つけると、勝負事を仕掛け、負けると人を攫っていく、なんてことをしてたのかもしれないわね。
それが唯一、人の恐怖の対象でありながらも、人と関わり合い、楽しむことができる方法だから。
まぁそれも今となっては失われてしまっているけれど……」
実のところ自身ですら自分が人に対しどういった思いを抱いているか、なんてはっきりと説明することはできない。
しかし、紫の言うことを否定することもできなかった。
「…………ねぇ、あなたは泣かないのかしら?赤鬼さん」
紫は立ち上がり、去り際にそう一言残して、歩いて行った。
──────────
宴会の準備が一通り終わったので、霊夢は萃香に声をかけることにした。
萃香は一人縁側に座り呆けており、宴会前に既に酔いつぶれてるんじゃないだろうか、と霊夢は思う。
しかし直ぐに、酒を飲んでいるのも、酔っ払っているのもいつものことか、と思い直した。
「萃香、もう宴会始めるわよ」
霊夢は後ろ姿に呼びかける。
「そう、今行くよ」
そう言って振り返った萃香の表情は何かいつものヘラヘラとした表情とは少し違って見えた。
口角は上がっているのだが、目にはどこか憂いを帯びた雰囲気を感じる。
「ねぇ、霊夢」
萃香はその場から腰を上げ、こちらを真っ直ぐに見た。
「何よ」
萃香のいつもと違う雰囲気に気圧され、少し間をから置いて答える。
「今日の宴会中に、お前を攫って食ってやろうかー!」
声を張り上げると同時に、締まりのないニヤケ顔へと表情が変わる。
何てことはない、いつもの萃香だ。何か想わしげな表情をしているから何かと思えば、言うに事欠いてこれか。
もしかしたら一杯食わされてしまったかもしれない。
「なーに言ってんのよ、例え本気だとしても、あんたみたいなちんちくりんな鬼なんか怖くないわよ」
霊夢は呆れながら萃香の頭をぽんぽんと叩く。
「鬼が怖くないって?」
「ええ、これぽっちもね、やるってんならいつでも相手になってあげるわ」
そう霊夢が言った瞬間、萃香は楽しそうに声を上げて大笑いし始めた。
何がそんなに可笑しいのだろうか。訳が分からない。
さっきの感じといいやはり酒の飲み過ぎで宴会前から悪酔いをしているようだ。
「そうか、霊夢は鬼が怖くないのかー」
萃香は腹に手を当て、一頻り笑った後、まだ笑い足りないかのごとく、息を時たま吐き出しながら言った。
「さて、こんなとこにいつまで居てもしょうがない、久々の宴会だし楽しんでこようかね」
笑いが完全に収まると、萃香は宴会会場の部屋へと駆けていった。
鬼の考えてることは全くわからないわね、と霊夢は首を傾げる。
しかし、あの様子だとまた宴会が長くなりそうだ。日が沈む前に寝れるといいけど。
そんなことを考えながら霊夢は萃香の後に続き、部屋へと向かった。
「こうして、赤鬼さんは人間と仲良くくらしましたとさ、めでたしめでたし。ってやつかしら。これで青鬼さんも浮かばれるわね」
どこかで紫がポツリと呟く声が聞こえた。
時刻は丑三つ時、いつもは月明かりに照らされてぼんやりと浮かび上がっている境内も、新月からだろうか、暗闇に覆われている。
足元には部屋から漏れる微かな行灯の光に照らされて、薄暗い影が伸びていた。
両手を高くあげ、鏡のように同じポーズをするそれの横に、突然また別の影が現れた。
「なんか面白いことやってんじゃん?」
突然の呼びかけに、霊夢は小さく驚嘆の声を漏らす。
「ただの暇つぶしよ、魔理沙の思いつきに付き合ってるだけ」
声の方向に顔を向け、横にいる萃香の姿を確認すると、霊夢はさも興味なさげに言った。
萃香に言った通り、元々はちょっとした暇つぶしのつもりだった。しかし実際にやってみると拘束時間も長く、半分を過ぎたあたりで既に飽きてしまったのだ。
しかし、一度やると言った手前、途中でやめるのも何かしこりが残るので、こうして勝手に抜けだして休憩を入れながらも渋々続けているところだった。
途中で抜け出すことはルール違反かもしれない、とも思ったが、この退屈さを少しでも軽減できればそんなことはどうでもよかった。
「それにしても、百物語とはねぇ……中々夜が明けないのもそのせい?」
萃香は興味深々といった表情だ。それを見て、十数時間前の自分もこんな顔をしていたんだろうか、と考えてしまう。
「そうよ、咲夜も参加しているの。一晩で百の物語を語らなきゃいけないなんて、時間でも操らないと無理な話ね」
霊夢はそう言ってその場に腰を下ろす。
「仮にも博麗神社の巫女が、異変を起こすようなマネしてもいいのかねぇ?」
萃香も続いて霊夢の横に腰掛け、口元を歪ませながら皮肉っぽく鼻で笑ってみせた。
「私が異変を起こしちゃいけないなんて決まってないしね。それに、こんなのただのお遊びよ。どうせ何も起きないわ」
霊夢にとっては本当にただの暇つぶしだった。
何か異常な事態なんて起こることはなく、万が一起きたとしてもほんの些細な、幽霊やら低級の妖怪だかが出てくるとかそんな程度だろうと考えていた。
「まぁそうだろうと思うけどさ。ただ、アイツがいるとロクな事が起きないからね」
紫のことか、と霊夢は思う。
もし何か異変が起こる可能性があるとしたら、霊夢もそれがただ一つの気がかりだった。
紫は別に呼んだわけでもなく、どこから話を聞きつけたのか突然姿を現し、何食わぬ顔で話へ参加していた。
普段滅多に姿を見せない紫が現れる時は、決まって厄介ごとを持ってくるか、ただ気まぐれに神社を訪れ、不敵な笑みを浮かべながら説教混じりの茶々を入れてくるぐらいだった。
今回の場合は後者。ただの気まぐれだろうと感じていた。
別に何かの確信があったわけではない。勘がそう告げていた。普段から直感には従うことにしているのだ。
もしかしたら、博麗神社の巫女という立場でありながら、こんな馬鹿げた事に参加している自分を遠まわしに紫は批判しているのかもしれない。
「紫のことなら、大丈夫よ」
たぶん、と心の中で付け加える。
「ふうん、その根拠は?」
「別に、ただの勘よ」
「なら大丈夫か」
今の会話で何を納得したのか、萃香は満足気にゆっくりと首を縦に二回ほど振って見せた。
「さて、そろそろ物語も終盤のはずよ。参加したからには結末だけは拝んどかないと」
思わぬ訪問者のせいで、少し外に長居しすぎてしまった。
たしか部屋を出た時点で丁度九十を過ぎたあたりだっただろうか。
まだ、奥の部屋から微かに話し声が聞こえているということは終えてはいないだろうが、急いだほうがいいかもしれない。
ここまでやって百物語の最後に立ち会えないなんて間抜けもいいところだ。
「あいよ、いってらっしゃい」
そう言うと萃香は手に持っていた瓢箪を口まで運び、喉を鳴らして酒を流しこむ。そして大きく息を漏らした。
それが合図だったかのように、段々と薄い霧が萃香の周りを取り巻き始める。
霧が白さを増してきたかと思った頃には、既に萃香の姿は視認することができなかった。残った霧も風に吹かれた紫煙のようにすぐに空気に溶けて消える。
それを見送ってから、霊夢は両指を交差させ、手の平を空に向けてもう一度伸びをした。
一つため息を吐いてから、腰を上げ、振り返る。
百物語が行われているのは、今、目の前にある部屋から二つほど隣にある部屋だった。
その一帯は行灯の明かりもなく、物の造形もわからないぐらい黒く塗りつぶされている。
霊夢は手探りで歩きながら部屋まで辿りつき。襖へ手をかけた。
──────────
「それで旦那が謎の失踪を遂げたあと、残された妻は二十ヶ月以上も妊娠し続けたというの。そして真相を解明するためにその妻の姉が……」
部屋では文が話している最中だった。
視界は全て闇に覆われており、皆の姿は見えないが、気配だけが伝わってくる。
普段から慣れ親しんでいる部屋のせいか、恐怖といった類の感情は湧いてこない。
むしろ妖怪と人間が混じって楽しく語りをしているというこの空間が、とても滑稽に思えて仕方なかった。
霊夢は後ろ手で襖を閉めてから、感覚を頼りに自分の座っていた位置まで戻る。
話の参加者達は一つの輪になっており、霊夢から時計回りで紫、咲夜、魔理沙、文といった順に座っていた。
輪になって話すのに必然性はなく、談話をするのに一番自然だったためこの形をとっていただけだった。
本来ならば百物語をする際は、参加者は青い衣をまとい、帯刀せずに入室する。その他の危険物も部屋からは除去する。といった決まりがあるそうだが、あまり皆気にしている様子はなかった。
また、話の内容だがこれは妖怪や幽霊にまつわる怪談話に限らないらしい。いわゆる不思議話・因縁話などでもよいとのことだった。
先程萃香にはああ言ったが、実のところ何か異変が起きてくれるのを期待している面もあった。
最近はこれといって大きな異変も起きず、退屈しているところだったのだ。
誰かが異変を起こし、それを解決する。実際この循環は幻想郷を揺るがすような異変でない限りは、退屈な日常に刺激を与えるための戯れのようなものに近かった。
平和なのに越したことはないが、たまには何か事件が起きてほしい、というのが本音でもある。
あれこれ物思いに耽っている間に話が終わったらしく、文がその場を立ち上がり、隣の部屋へと続く襖を開けた。
百物語には三つの部屋が必要だった。三つは隣合わせになっており、一つ目が今談話を行っている部屋だ。
二つ目の部屋には何もなく、ただ三つ目の部屋へいくための通路のような役割だった。
そして一番奥にある三つ目の部屋、ここに青い紙が貼られた行灯と、上に鏡が置かれた文机が置いてある。
行灯の中には灯心が百本備えられていて、話しを終えるとその灯心一本引きぬいて消し、自分の顔を鏡で見、元の部屋へ戻る。という手順になっていた。
手順通りに文は隣の部屋を通りぬけ奥の部屋の行灯の灯心を引き抜く。
その行為を行っている間も残った者達は話しを進めて良い、というルールだったので、文が戻ってくるのを待たずに魔理沙が口を開いた。
「さて、これでついに百話目だな。鬼が出るか蛇が出るか」
どうやらこれで丁度百話目だったらしい。
声の調子から、魔理沙の意気揚々とした雰囲気が伝わってくる。
百物語を始める前から、魔理沙は百話目の語り部になることにこだわっていた。
語りは時計回りで順番に行われることになっていたが、丁度百番目に順番が回ってくるようにと最初の語り役を指定したのも魔理沙だった。
他の者は特に順番に興味はなかったのでその提案を受け入れたが、いかんせん私が途中で何度か抜けだしたことにより、その順序が狂ってしまったのだ。
長時間同じ格好で話を聞き続けることに飽き、最初に部屋を出ようとした時も、魔理沙は不機嫌そうに文句を言ってきた。
それを生返事で軽くあしらい、外で気分転換と相成ったわけだ。
しかし、暗闇で顔が見えない中でも、魔理沙が額に皺を寄せていることは明白だった。
偶然とはいえ、結果的にはこうして望みどおり百話目を語ることができたのだから、問題はないだろう。
「せっかくだから私が体験した事でも話そうか。あれは春も終わりに近づいた頃だ。家に何も物を盗まない泥棒が入ってな」
そうして、百話目の物語が始まった。
霊夢はその場のピリピリとした空気を感じる。
やはり皆何が起きるかわからないこの状況を警戒しているのだろうか。
視界が閉ざされているからこそ、場の空気がいつも以上に敏感に伝わってくる。
その空気に感化され、霊夢もあたりに神経を尖らせてみたが、数分もその緊張は続かず、結局は眠気と戦いながらぼんやりと魔理沙の話に耳を傾けることにした。
実は、魔理沙が話す事件が起きた時、その場にある程度立ち会っていたので大筋の内容は既に知っていた。
そのため、最初は話半分で聞いていたものの、思いの外魔理沙の視点から語られる話は、抱いていた印象や想像していた経緯とは違い、別の話を聞いているかのようで、段々と興味を惹かれていった。
話が進むにつれ、事件当時疑問に感じた魔理沙の言動なども思い出されてきたこともあり、終盤にはすっかり霊夢は話に引きこまれていた。
魔理沙が話を終え、その場を立ち上がった時に、ようやく霊夢は百物語の最中だったということを思い出した。
魔理沙はもう何十回と繰り返してきたように、奥の部屋へと行灯の灯心を引き抜きに向かう。
時々、床を軋ませながら、トントンという足音が遠ざかっていく。
そして、遠くの方で微かに揺らめいていた最後の灯りが消える気配を感じた。
完全な暗闇が訪れた中で、霊夢は今度ばかりはしっかりと気を引き締める。
最後の灯心が引きぬかれた瞬間に何かが起きるかもしれない、と予想していたが、その様子はないようだ。
足音だけがその場に響き、魔理沙が元の場所に戻ってきてからは誰も口を開けず、風に吹かれて木々がざわめく音と少しの虫の鳴き声だけが流れていた。
霊夢はそれを聞きながら、風流ね、なんて呑気な事を一瞬考える。
しばらくの間、何も変化がなく、沈黙が続き、そろそろ何も起きずにお開きになる頃合いかと思われた。
その時、神社が一瞬大きく振動し、同時に轟音が近くで響いた。
何か重量のある物が地面に落ちたような音、混じって木の板が割られるような音がした。
神社の一部が破壊されたのだろうか、霊夢は冷静に思う。
その場からすぐに立ち上がり、懐へ手を忍ばせ、護符を掴む。
そして、何も見えない暗がりの中でせめてもと目を凝らした。
やはりこれは百物語によって引き起こされた事なのだろうか。
実のところこれだけの面子が集まっている中で、何か異変が起きようとすぐに対処できるだろうとタカをくくっていた部分もあった。
しかしながら、予想以上に最悪の事態を招いてしまったのかもしれない。
他の者達の安否も気になるところだが、ひとまずはこの状況を打破するのが優先だ。
次にすべき行動を考えている間に、どこからか起こされた風圧によって霊夢の髪が揺れた。
それに瞬時に反応し、霊夢は風が向かってきた方向へと逆らい護符を投げる。
頭で考えた行動ではなく、体が勝手に反応した故の行動だった。
霊夢にとっては敵の気配がしたような気がしたので、目の前に護符を放り投げたに過ぎなかった。
放られた護符は何者かにぶつかり、放電したような音を出しながら青白い閃光を何度か放つ。
霊夢はその光の中にぼんやりと浮かびあがる形を目に捉えた。
そこにあったのは巨大な手。一掴みで人間を握りつぶしてしまうほどの大きさ。
それだけで腕の先にある本体の巨大さも容易に想像がついた。
指は三本しかなく、見える範囲は全て青色に塗られていた。
深く刻まれた皺に、ゴツゴツとした表面から霊夢は巨大な岩石を連想する。
護符が消滅し、あたりが再び暗くなると、光が音を連れて行ったかのように静寂が戻ってくる。
そして、何者かの気配も消えたのがわかった。
「やったのか……?」
魔理沙の声が響いた。
「どうかしらね。それよりみんな生きてる?」
そう簡単にどこぞの妖怪に倒されるような連中ではないだろうが、一応確認をしてみる。
「大丈夫そうよ。神社意外はね」
いつの間にか、奥の部屋にあった行灯を手に持っていた文が、明かりをつけて言った。
久々に視界を取り戻し、霊夢は辺りを見渡してみる。
部屋にいた面子は皆外傷を負った様子もなく、問題はなさそうだった。
紫にいたっては話をしていた時の位置から動いておらず、何事もなかったかのように座布団に座っている。
しかし、床には大きな穴が空いていた。これが最初の轟音の原因だろう。
場所は丁度、魔理沙と咲夜座っていた位置の間ぐらいだった。
他に特に破壊された場所はないようだが、無残な姿になった床を見るだけで、霊夢の気は沈んだ。
何でこうもこの神社は破壊されてばかりなんだろうか。
「で、やっぱりそこの大穴は今の奴の仕業なわけ?」
そう言って、霊夢は穴を視線で指し示す。
「たぶんな、私が灯心を抜いてそこに戻ってきて、しばらく座っていたら、急に目の前でドーン、だ。
音に気付いてから急いで飛び退いたが、少し攻撃される位置がズレていたら、今頃ペシャンコだったかもしれないな」
魔理沙は両掌をパシンと合わせて、プレスするようなジェスチャーをし、少し笑ってみせた。
一つ間違っていれば、命の危機に瀕していたかもしれないというのに、怖がっている様子は見られない。
「私もそんなところね、当たらなかったのが幸いだわ」
付け足すように咲夜が言った。
「そう、そんで一体今のは何だったのよ」
「さあ、でも十中八九この茶番が原因なのは確かよ」
言いながらパシャパシャとフラッシュを焚く文も欝陶しかったが、それ以上に霊夢には気に障るものがあった。
「ところで随分と楽しそうね?紫」
紫は先ほどから観客のように、この状況を傍観しているだけだった。
「ええ、だって楽しいんだもの。期待通りだわ」
口元に手を当て、紫はクスクスと笑う。
霊夢を見上げる目はどこか挑発的にも見えた。
「それは結構な事ね。あんたなら何か知ってるんじゃないの。今の奴が何者だったのかとか」
「今の奴の正体は……わからないわね」
何かをわかっていながら、勿体つけたような言い方。いつもの事だ。
「今の奴の正体は。ってことはわかってることもあるんじゃないの?」
霊夢は紫を睨みつけ、少しいらついた口調で詰め寄る。
「そうね。ところで、妖怪はどうやって生まれるか知ってる?」
質問には答えず、更に紫は問いで返してくる。
「それが何の関係があるって言うんだよ。いいから知ってることを話してくれ」
痺れを切らし、魔理沙が口を挟んできた。
もし魔理沙が口を開かずとも、同じようなことを紫に言ってただろう。
「あら、物事には何でも順序が必要よ。足し算がわからない子に因数分解を教えたところで理解できるはずがないわ」
霊夢は呆れ、会話の主導権を放棄することにした。
「なら、その足し算から教えてもらうとしましょうか。紫先生」
そして紫は咳払いをしてから、得意げに話し始めた。
「そもそも妖怪の成り立ちには色々あって、人が妖怪になったりする、なんてケースもあるけど、何より人が妖怪を生み出すっていうのが大部分よ。
例えば、ある男が川のほとりで小豆を洗うような音を聞いたとしましょう。しかし、周りを見渡しても誰もいない。不思議に思い、帰ってから男はその出来事を知人達に話す。
話を聞いた者達は勘違いだ、と思うかもしれない。不思議なことがあるもんだ、と驚くかもしれない。それぞれどんな感想を抱こうと知人達の頭の片隅にその話は刻まれるわ。
またある時、その知人の一人がある時同じように川べりを歩いてたとする。そこでも小豆を洗うような音がするのよ。もちろん周りには人影は見当たらない。
そこで男にされた話を思い出すわけ。ああ、これがそれなのか、ってね。
その知人も同じように起こった出来事を周りに話す。これが繰り返されてどんどん話は広まっていく。
すると誰かが言い始めたのか、自然に言われるようになったのか、人達は理解できない現象を形付けるように、それを“小豆洗い”という妖怪のせいだと呼び始める。
その後は、川で誰もいないのに小豆を洗うような音がすると、小豆洗いが出た、と人は言い。子供が川で誰もいないのに変な音がするんだよ、と興奮気味に言ってきたら、
それはね小豆洗いって妖怪のせいなのよ、と答えるようになる。
話が伝えられていくごとに、音に気を取られると川に落っことされる、縁起のいい妖怪で見ると良いことがある、背が低く目の大きい法師姿である、なんて地域ごとに尾ひれなんかを付けたりしてね。
ここまで来ると、その原因が本当はイタチの鳴き声だ、とか蛙が体を揺する音だ、とかキツネの仕業だ、とかそんな事は関係なくなるわ。
原因がどうあれ、人々の中に確実に“小豆洗い”は存在するからよ。人の認識が揺らがない限りそれは半永久的に存在し続ける。それが妖怪の成り立ちの一つ」
とりあえず一区切りと言わんばかりに紫はふぅと口から息を吐いた。
理屈は理解できるが、霊夢はどこか納得がいかない。
それは目の前で、まさにその妖怪が存在し、話しているからなのかもしれない。
どこか奇妙な矛盾した気分を感じる。
「あなたはどうなのよ、その話じゃ目の前で話し、動いてるのはおかしいんじゃないの」
「何がおかしいのかしら、あなたがいる、と思ってるんだから私はいるに決まってるじゃない」
「いや、でも……」
言いかけて霊夢はやめる。今は議論をしている場合でもない。
スキマ妖怪なんて変てこりんな妖怪の噂など聞いたことないが、他人の認識した存在を自分が視るってこともあるだろうか。あるいはそれとは別のケース……。
疑問が頭の中を渦巻くが、それを振り払い、また紫と向きあう。
「まぁいいわ、続きをお願い」
「付喪神なんかもまるで物を命ある者のように扱うことで、実際に生命が宿ったり、ぞんざいに扱った物が怨念を抱くんじゃないかという思いがその通りになったり、
それはまだ一人の小さな信仰のようなものしかなく、低級妖怪が現れるに過ぎなかったりするけど、一国ほどの大きな信仰となればそれは神となるわ。
全ては人がその存在を思うから、現れる。持ちつ持たれつね」
「大体わかったけれど、そろそろ掛け算ぐらいはできるようになってるのかしら?」
「ふふ、そうね、そろそろ本題に入りましょうか。ようは百物語は簡単な召喚の儀みたいなものなのよ」
「召喚の儀?」
「ええ、コックリさんは知ってるかしら?あれも同じね。数人で集まりコックリさんという存在を想像し信仰する。
手順や方法を限定するのもまた信仰を高める雰囲気を作るのに一役買っているわね。
そうすれば指を動かし質問に解答する程度の存在なら創りだすことができるわ。だからオカルトを全く信じない人がいると成功率はグッと低くなるわけ」
「それが百物語にも言える、と」
霊夢はぼんやりと今回の事の顛末を理解し始めていた。
確かに怪談話をすると実際に怪異が起こる、なんてよく言われていることだ。
今日もまた、多くの怪談話を聞き、様々な事を想像したものだ。
「そう、皆で集まり、百話を終えると実際に妖怪が現れる、なんて噂を前提に話を行う。
そして人は怪談話や不思議話をするにつれて、この世にいない者の存在を想像し、肯定し始めるのよ。
百物語をすると青行燈という妖怪が出てくると言われている事が多いわ。それは他でもなく、百物語をする時の青い紙が貼られた行灯の印象が強いからよ、つまり……」
「今回現れた奴の正体は、ここにいる皆、もしくはその中の誰かの強いイメージを反映し、現れた可能性が高いってわけね」
紫が言い終わる前に、霊夢が答えた。
「正解、よくできた生徒ね、満点をあげるわ」
茶化すように紫はパチパチと手を叩く。
「で、肝心の正体はわからないのか」
魔理沙は長話に飽きたのか、床に座り壁に背を預ける格好になっていた。
「そういえば、護符の光で辺りが照らされたとき、少しだけ姿が見えたわね」
霊夢はあの時の巨大な手を思い出す。明らかに異形の者の手。
記憶にはそれから連想される妖怪などはなかったが、何かしらの手がかりにはなるかもしれない。
「何?それを早く言えよ、どんなのだったんだ?」
「そうね、私が見えた部分は手だけだったんだけど、人一人は軽く握りつぶせそうなほど巨大で、指は三本、そして気色悪い青色をしていたわ」
「青い腕か、それだけじゃなんのことかさっぱりだぜ」
魔理沙は腕を組み、首を上げ、後頭部をコツンと壁にぶつけた。
「それは、鬼だね」
聞き慣れた声。また厄介なのが増えたか、霊夢は思う。
「萃香、帰ったんじゃなかったの」
「何となく面白そうでね、つい」
萃香はそう言って歯を見せて笑う。
「まぁいいわ、それで鬼っていうのは?」
「おに、の由来はおぬ(隠)、姿の見えないもの、この世ならざるものを意味していたんだよ。
人が何か見えないものに恐怖する時、理解を超えた現象が起きた時、それはすべておぬものの仕業とした。
だからこそ鬼に纏わる伝承は多く、また縊鬼、吸血鬼、疫鬼など、その他にも鬼と名のつく妖怪は数えきれないほどいる。
今回もここにいた皆が漠然と存在しないはずのものが出てくるんじゃないだろうか、という思いでもあったんだろうね。
指が三本ってのがまさに一部の鬼の特徴さ。奴らは慈愛と知恵を持たない、だから指が三本しかない、残るは貪欲、嫉妬、愚痴だけ。まぁ私とは格が違うってこったね」
「なるほどね……」
まさか萃香から鬼の説明をされるとは思っていなかった。
確かに、誰かが青くて巨大な鬼を強く想像した、というよりは、皆が抱いていた見えないものへの不安感が、おぬものである鬼という形で現れた、といったほうが納得はいく。
色はやはり青い行灯の印象のせいなんだろうか。
しかし、正体が鬼だとわかったからといって、どうすべきなのだろうか。
また襲ってくるのを想定して、炒った豆でも用意しとくべきか。
「あいつはもう消えてからしばらくたったし、もしかしてもう問題ないのかしら?」
「いえ、あの鬼はまたくるわよ、ねぇ萃香?」
相変わらず紫は楽しそうな表情のまま、萃香を真っ直ぐ見つめる。
「…………ああ、たぶんね」
すると萃香はなぜかバツが悪いような表情になり、少し間を置いてから答えた。
「噂をすればなんとやら、かしら」
紫が言った直後に、霊夢はまた奴の姿を目に捉えた。
予兆も音なく、気付いた時にはそこに鬼はいた。
高さのある天井でもその巨体は収まりきらず、少し背中を丸めている。
全身は青く、頭には角が二本。凹凸のある顔面にギョロリとした目。焦点はあっておらず、更に不気味さが増している。
口からは牙が何本もはみ出しており、下顎をほぼ覆っていた。
やはり指は三本。どれも異常に長く、先にナイフのような尖った爪を付けていた。
全身が肉がなく骨張った印象を受けるが、細さはなく、先程連想したように、ゴツゴツとした岩を繋ぎあわせたような体だった。
「また表れたか、今度は返り討ちにしてやるぜ」
魔理沙は立ち上がり、箒の柄を床へ叩きつける。
他の者達も紫を除き、いつでも攻撃ができるよう身構えた。
「あまり鬼の品格を落とさないで欲しいね。こんなのが同じ種族だと思われたら困るんだよ。皆、悪いけどここは私が任されるよ」
そう言って萃香は鬼の前に行き、腰に両手を当て、仁王立ちをする。そして、鬼の顔を見上げた。
「さ、かかってきなさい、零歳児のヒヨっ子ちゃん」
鬼はその巨大な手を一度大きく振り上げ、萃香を潰すように殴りにかかる。
それに対し萃香がとった行動は、右手の掌を前に突き出すだけだった。
鬼の拳がそれにぶつかったかと思うと、衝撃もなく、寸止めしたように鬼の動きが止まった。
次に萃香は一旦右手を降ろしてから、それを再度空に向かって素早く突き出す。
それだけで、巨大な鬼の腹部が風船が破裂したように吹き飛び、霧となった。
その穴から外側に広がるように鬼の体はどんどんと霧化していき、数秒も経たぬ間に鬼の姿は失くなり、後に残った霧もすぐに消えていった。
「これでとりあえず、一件落着だね」
萃香は腰に付いていた瓢箪をとり、酒を目一杯飲み込んだ。
まさにこれが勝利の美酒というやつか。
「これで本当に終わったのかしら、お手柄じゃない萃香。今回だけは感謝しとくわ」
それにしても案外呆気無く終わったものだ。
それはあの鬼が所詮百物語によって創られた取るに足らない存在だからなのか、萃香の鬼としての圧倒的な強さによるものなのかはわからなかった。
今回の件について、霊夢は妙なことはするべきではないな、と反省した。
魔理沙の思い付きなど、ロクでもないことはわかりきっていたはずだったのに、あまりの暇さについ興味を惹かれてしまった自分に嫌気がさす。
「感謝するぐらいなら、パーっと宴会でも開いて欲しいもんだね、ぜひ」
口から流れた酒を手で拭いながら萃香はこちらに視線を向けてくる。
「おっいいじゃないか。座って辛気臭い話ばかりするのにも飽き飽きしたしな。鬼退治祝いってことで派手にやろうぜ」
魔理沙がそれに賛同する。
「今からやるつもり?いい加減疲れたし、もう私は寝たいんだけど」
口元を手で覆い霊夢は大きく欠伸をする。
「なんたって今回のヒーロー様のご所望だぞ、恩を無視するって言うのか?恩知らず巫女なのか?」
魔理沙が囃し立ててくる、宴会と聞いた瞬間、本当調子のいいことだ。
「わかった。わかったわよ。準備するからそこで待ってなさい」
萃香があの鬼を退治してくれたことは事実だ。
霊夢は渋々ながらも宴会を開くことにした。
「宴会の準備するなら私も手伝うわ。鬼を退治してくれて私も助かったしね」
部屋を出ようとしたところを、咲夜がついてきた。
扉を閉める前に横目で部屋を見ると、魔理沙は座布団を枕にして既に寝入っており、軽い怒りが沸いてくる。
「いやー、萃香さん素晴らしい活躍でしたね、勝算はあったんですか?」
文は相手が萃香ということで少し葛藤があったようだが、すぐに記者モードに入り、勝利者インタビューのようなものを行っていた。
それを耳の端で聞きながら、霊夢はすっかり明るくなった外を眺める。
そういえば最近宴会もあまり開いていなかった。暇な時だからこそ、皆で騒ぐのも悪くないかもしれない。
そんなことを思いながら、霊夢は部屋を出て襖を閉じた。
──────────
萃香は宴会の用意ができるのを待つ間、縁側へ座り、景色を肴に酒を呷っていた。
久々に見た太陽はやけに眩しく、その白さをもって辺りを朝に変えていた。
「大活躍だったじゃない」
萃香が振り返ると、紫が立っていた。
正直、今は萃香にとって紫はあまり話したくない相手だった。
先程、霊夢達には百物語によって鬼が出てきた理由についてああ説明したが、もしや、という程度で別の理由にも心当たりがあった。
たぶん紫なら、その可能性に気付いているだろうからだ。
「……まぁね」
できるだけ淡白に返事を返す。
「ねぇ、ところであなたは人が妖怪を創りだすように、妖怪が妖怪を創る、なんてあると思う?」
紫は隣に座り、こちらの様子を伺うように顔を覗き込んできた。
「どうだろうね、そんな話は聞いたこと無いけど、実際にそんな話しでもあるの?」
「私にもわからないわ。あるかもしれないし、ないかもしれない。ただ、今日の事件を見てちょっとね……」
紫が何を言わんとしているかは、既に萃香はわかっていた。
妖怪が妖怪を、そんなこと果たしてあるんだろうか。
完全にないとは言い切れないが、到底信じられるような話でもなかった。
「実は、ずっとあの場にいたんでしょ、萃香」
「あまりに珍しいことをしてたんでね、見物してたのよ」
「やっぱり、霧となって飛散していたあなたの意識が、知らずに人間たちの意識に影響を与えた、って線のほうが濃厚なのかしら」
紫はこちらに話すのではなく、独り言のように呟いた。
しかし、その言葉が自分に向けられていたわけでなかったとしても、胸を刺すものがあった。
「ところで、さっき鬼の由来はおぬ、つまり見えない物への恐怖心から鬼というものができた、って言ってたじゃない」
「それが何か?」
「人が存在しないはずのものに抱いていたのは、本当に恐怖だけだったのかしら?」
「つまり、何がいいたいのさ」
「人は存在しないものに恐怖を抱く一方で、期待や希望も抱いていたと思わない?人は自分じゃどうしようもない状況に直面した時、何かに祈ったりするものよ。
昔から鬼は人を襲い、喰らう恐怖の対象として描かれてきたけど、なぜ鬼は人を攫っていくと言われていたのか。
もちろん、とって喰うため、というのもあるけれど、中には若い娘を嫁にするために攫っていく、なんて話も多いわよね。
もしかしたら、恐怖の象徴とされる鬼は、その一方で、人々の希望という思いも馳せもって生まれたことで、人間に焦がれている部分もあるんじゃないかしら。」
「ふうん、面白い説ね」
「でも、もしそうだとしたら……皮肉なものよね。人々の恐怖の対象でありながら、希望でありたい、という思いも持っている。
それはまるで永遠に叶わない片思いみたいなものだわ。
歩み寄りたくても、逃げられ。歩み寄ってきたとしても、それを拒み、恐怖であり続けなければいけない。
だからこそ、鬼は気に入った人間を見つけると、勝負事を仕掛け、負けると人を攫っていく、なんてことをしてたのかもしれないわね。
それが唯一、人の恐怖の対象でありながらも、人と関わり合い、楽しむことができる方法だから。
まぁそれも今となっては失われてしまっているけれど……」
実のところ自身ですら自分が人に対しどういった思いを抱いているか、なんてはっきりと説明することはできない。
しかし、紫の言うことを否定することもできなかった。
「…………ねぇ、あなたは泣かないのかしら?赤鬼さん」
紫は立ち上がり、去り際にそう一言残して、歩いて行った。
──────────
宴会の準備が一通り終わったので、霊夢は萃香に声をかけることにした。
萃香は一人縁側に座り呆けており、宴会前に既に酔いつぶれてるんじゃないだろうか、と霊夢は思う。
しかし直ぐに、酒を飲んでいるのも、酔っ払っているのもいつものことか、と思い直した。
「萃香、もう宴会始めるわよ」
霊夢は後ろ姿に呼びかける。
「そう、今行くよ」
そう言って振り返った萃香の表情は何かいつものヘラヘラとした表情とは少し違って見えた。
口角は上がっているのだが、目にはどこか憂いを帯びた雰囲気を感じる。
「ねぇ、霊夢」
萃香はその場から腰を上げ、こちらを真っ直ぐに見た。
「何よ」
萃香のいつもと違う雰囲気に気圧され、少し間をから置いて答える。
「今日の宴会中に、お前を攫って食ってやろうかー!」
声を張り上げると同時に、締まりのないニヤケ顔へと表情が変わる。
何てことはない、いつもの萃香だ。何か想わしげな表情をしているから何かと思えば、言うに事欠いてこれか。
もしかしたら一杯食わされてしまったかもしれない。
「なーに言ってんのよ、例え本気だとしても、あんたみたいなちんちくりんな鬼なんか怖くないわよ」
霊夢は呆れながら萃香の頭をぽんぽんと叩く。
「鬼が怖くないって?」
「ええ、これぽっちもね、やるってんならいつでも相手になってあげるわ」
そう霊夢が言った瞬間、萃香は楽しそうに声を上げて大笑いし始めた。
何がそんなに可笑しいのだろうか。訳が分からない。
さっきの感じといいやはり酒の飲み過ぎで宴会前から悪酔いをしているようだ。
「そうか、霊夢は鬼が怖くないのかー」
萃香は腹に手を当て、一頻り笑った後、まだ笑い足りないかのごとく、息を時たま吐き出しながら言った。
「さて、こんなとこにいつまで居てもしょうがない、久々の宴会だし楽しんでこようかね」
笑いが完全に収まると、萃香は宴会会場の部屋へと駆けていった。
鬼の考えてることは全くわからないわね、と霊夢は首を傾げる。
しかし、あの様子だとまた宴会が長くなりそうだ。日が沈む前に寝れるといいけど。
そんなことを考えながら霊夢は萃香の後に続き、部屋へと向かった。
「こうして、赤鬼さんは人間と仲良くくらしましたとさ、めでたしめでたし。ってやつかしら。これで青鬼さんも浮かばれるわね」
どこかで紫がポツリと呟く声が聞こえた。
どきどきわくわくさせてもらいました。
ちんちくりんな赤鬼さん、切ないね。
何を受け取るべきだったんだろうか
惜しむらくは、全体通しての展開がやや単調であった事と、紫の蘊蓄が少し興を削ぐ形になっていた事の二点。
もう少しストーリー的なメリハリとテンポがあればと残念に思います。
ともあれ、霊夢と萃香のほんのり切なくて素敵な絆は堪能できたので、すいれいむ好きとしては満足です。
ありがとうございました。
そういうところが妖怪に好かれるのかもねー