咲夜のブラック紅魔館
私の一番初めの記憶は、背中から羽を生やした綺麗な女の子だった。
歳は私と同じくらいか、月の光を織り込んだような艶やかな銀色の髪にピンクの洋服、背中からはコウモリの羽が生え、子どもっぽい笑みからは小さな牙がのぞく。
不敵に微笑む彼女からは歳不相応の自信と経験と、歳相応の無邪気さやあどけなさのようなものが滲み出ていて、そこらを歩いていてすれ違うことがあったらとても無視などできない大きな存在感をいっぱいに広げていた。
場所はどこかの部屋らしいけれどとても薄暗い。
所々の壁に備え付けられているロウソクはどこで買ってきた品なのか赤い光を発しており、しかもそれが随分と弱いから部屋の隅は全くの暗闇になってしまっている。
人間には辛く、夜目の効く異形にとっては易しい環境だ。
壁もまた暗い色彩で模様の一つも無くどこが角なのか判別がつかないため、とても広大な空間なのかこぢんまりとしているのかあやふやになる。
それでも目の前の少女の容姿がそれなりに分かるのは、少々の暗さでも自分の姿を理解して当然という彼女の自分勝手な我侭に、私の視神経が限界を超えて従おうとしているのかもしれない。
私は誰で、この人外はいったい誰なのか。
まさか私の姉妹だとかいうことは無いだろう。私が人間だという理解はある。
辛うじて足元が見えるくらいの明るさの中、私は恐怖というより絶望の方がより強く丁度臍の奥のあたりでふくれあがっているのを感じていた。
暗闇への恐怖ではなく、天敵を前にした子うさぎのような感覚だ。
それは間違いなくこの目の前にいる少女のせいだろう。
吸血鬼、なんだろうか。容姿を見ればそれっぽいけど。
どうやら部屋の中央らしい場所に立つこの吸血鬼の少女は不適で自信の塊のような笑みを絶やさないでいた。
この子とはろくに喋ったことが無いのに、きっと誰にだって遠慮とかしないんだろうという性格は一目で分かった。
部屋の中央らしい、というのは別にこの空間をある程度把握できているわけではなく、この吸血鬼の少女が醸しだす人柄を見るに、やたらと何でもかんでも中心に立とうとするだろういう予感があったからだ。
それはどうやら間違いではなかったらしく、彼女が私の背後に手を差し向けて人差し指をくいと動かすと、暗くてそこにあったのか分からなかった扉がひとりでに開き、光が――それでもかなり弱い光だ、それも日光ではなくやはりロウソクの灯りである――差し込んできて部屋の内部がかろうじて見渡せるくらいになると、二人の立ち位置を知ることができた。
「咲夜」
背後の吸血鬼が初めて声を上げる。
それはあどけなく、しかし万物を知り尽くしたように淀みなく、天上人の名を読み上げるように厳かで、それでいてとてもいけない事のように思えた。
こんな風に呼ばれるのは一体誰だろう、と辺りを見渡してもしかし部屋の中には他の誰かがいる気配もなく、かといって誰か来る様子もなかった。
振り返ってみると吸血鬼の双眸はどうやら私を捉えており、もしかするとだけど、どうやら先の咲夜という呼びかけは私に向けられたもののようだ。
私の名前は咲夜と言うんだろうか。
何故か以前の記憶は全く無い。
咲夜と呼ばれた私は、赤子がこれから歩いて行くための準備運動を始めるようにただ現状にぼんやりと佇んでいた。
何があるのか分からないので何かしようという気が起きない。
これから与えられていくことにより自分の全てが動き出す。そんな奇妙な感覚がする。
初めてやるスポーツのルールを覚え始める前、と言ったら近いだろうか。見る人によってはゾンビか人形のように映るかもしれない。
それくらい今の私は自分の意志に縛られていなかった。
何をするでもなくぼんやりしている私に向かい、吸血鬼の娘は淡々と、それでいて少し楽しそうに語りかけた。
自分の台詞に、否自分自身と世界が織り成す物語に酔っているような雰囲気だ。私はこの子とは友達になれないと思った。
「あなたは私の奴隷であり下僕よ。何の自由も無く選択も無い下等な従者よ。死ぬまで働きなさい」
友達どころじゃなかった。
そうして口をだらしなく半開きにして何も言えないでいる私の目の前で扉は動き始め、何か言う間も無くあっけなく閉まりきってしまった。
私はその大きな扉の前で立ち尽くしていた。
部屋の中から一歩も動いてないはずだったのにいつの間にか廊下に立っている。魔法か何かを使われたのか、それとも無意識のうちに扉の外へと歩み出ていたのか。
いや扉が開いている間はとても短かったし歩いた記憶も無い。
しかし記憶など何のアテにもならないと分かっている。
他に分かったことといえば、ここがどこで自分は誰で何が起きてこうなったのか、問いかけてもまともに答えてくれないだろうということだ。
「ええと…………」
私はぼけっと扉を見つめていた。
何故自分がここにいるのか分からない。自分が今まで何をしていてどんな人間で家族はどこだとか家族は存在しているのだろうかとかいう記憶が一切無い。
気づいたら何の記憶もなく今の部屋の中に立っていて、下僕だとか奴隷だとか言われていた。
こんな理不尽があるだろうか?
しかし生まれたての赤子というわけではなく、今まで何らかの方法で生きてきたということは分かる。
空白の大地に足あとを残しながら歩いてきたけれど、大嵐が吹いた所為で周囲の何も分からなくなったかのように、過去が全く思い出せないのだ。
これまで歩いてきた道を振り返ると対岸の無い崖しか見えないような感覚だ。自分にあるのはこの現在と未来だけだ。
そしてさっきの吸血鬼のことなどを覚えているのを考えるに、どうやらもう過去が消え去ってはいないようだ。
いや記憶が消えていないとどうして断言できるだろうか。実は私は記憶が消えがちな体質であり、今この瞬間も記憶は消え続けているかもしれないではないか。部屋を出たところで誰かがいて仕事について教えてくれていたのかもしれない。
だとすると忘れてしまっているのはとても具合が悪い。
何しろ働かないとひどいことになりそうなのだ。見た目は幼い少女でも、あの吸血鬼の放つプレッシャーは凄まじかった。
しかしなんとなくだけれど、自分に記憶の欠落があるのはあの名乗りもしなかった吸血鬼の仕業のように思えてならないのだ。
だったら色々忘れていて仕事ができなくても自分に非は無いわけで、後から文句を言われても言い訳を返すことが…………果たして可能だろうか? あの吸血鬼に理屈が通じるだろうか。
まあつっ立っていてもどうにもならない。状況を探るために、咲夜と言われた私はてくてく廊下を歩き出した。名前が無いのは不都合なので取り敢えず咲夜でいいや。
さっきの吸血鬼は全ての事情を知ってそうだけど、少しでも気分を害しただけで首を飛ばされそう――比喩的表現ではなく――なのであまり近寄りたくなかった。
とにかくまずはここがどこなのか探らないといけない。
使用人として働くことになっているみたいなので館内をうろついていても咎められることはないだろう。およそ自由に探索できるのは都合が良いと言えるかもしれない。
普通だったらこんな異常な状況下で混乱するのかもしれないけど、私の場合はそんな頭が一杯になって混乱するだけの情報をそもそも持ってなかった。だから歩きまわって情報を獲得しようとするのは自然な動作なのかもしれない。
しかしこの館の廊下というのが遥か彼方まで続くかのような長大さである。
私はどうやら目が悪いわけではないようだけど、それでも廊下の突き当たりが見当たらない。
高級感を隠そうともしない下品で豪奢で派手な赤い絨毯がどこまでも敷かれており、継ぎ目が見つからないのはこの長いのがたった一枚の絨毯なのだろうか。
まさかそんなと思い直し、私はアテもなく歩き続ける。
部屋と反対側の壁は外に面しているはずなのに窓は異様に少なく、昼間だというのにロウソクが点けられている。
なんて無駄な作りなんだろう。床も天井も全体的に赤っぽくて落ち着かない。
どうやらこの館は来客等のことを無視し、完全に主人の趣味だけで作られているようだ。
下手をすると私はこんな所で暮らしていかないといけないのかな、と考えるとどうしても憂鬱にならずにいられなかった。
いや住み込みと決まったわけじゃない。外に家族の待つ家があるかもしれない、というのは何となく可能性が低いように思えたんだけど。
とりあえず脱出方法は探っておくのが懸命だ。
それに気になることといえば、なんで私がここにいるのかということより、死ぬまで働けとかいうさっきの吸血鬼の台詞は別に脅したり厳しくしたりといったものではなく、ただ予定を話しただけのようだということだ。
それを考慮すると何か仕事をしなくては本当に自分の身が危なそうだ
しかし何をしたらいいのかを全く聞かされていない。ただ働けと言われても困る。
掃除のフリでもしながらここの状況を探るにしても、掃除道具はどこにあるんだろう。
とにかく状況を探るため、仕方なく人を探しに行くことにした。この広い館だ、使用人の数もさぞかし多いに違いない。
しかし私の思いとは裏腹に、残念ながら人は誰一人として見つからなかった。
別に使用人が私一人しかいないということではなく、人間の使用人がいないのだ。
廊下をしばらく歩くと出会ったのはメイド服に身を包んだ妖精達だった。
どういう仕組みなのかメイド服から半透明の羽がいくつも生えていて、それが服を破いている様子もなければ羽用の切れ目があるわけでもない。まるで服を着た後に羽を取り付けたかのようだ。
まあそのような疑問は些細なことなのだろう。
重要なのは、六、七名ほどの彼女たちが床に立ち、モップを両手に握って上に突き出し、えっちらおっちら天井を掃除しているということだ。
私は最初自分の瞳の焦点が狂って上下を逆に感知してしまっているのかと思った。
しかしよくよく考えて見れば天地逆さまに見えていたとしても同じこと。その場合彼女らは天井に立って床を掃除していることになる。
ともかく妖精メイド達は一般常識を基準にすると実に不可思議な行為を働いているらしいのだ。
それがおかしいという証拠に、彼女たちのモップの先からはボタボタ水が滴り落ち、モップの持ち手から水が伝って腕から頭から肩からずぶ濡れになってしまっている。
もしかしてさっきの吸血鬼が天井をこうして掃除するよう意地悪を言い、仕方なくこんな阿呆らしい拭き方をしているのだろうか。
だとしたら私もこれをやれと言われるのは辛い。そもそも意味が分からない。天井なんて普段汚れるものでもなし。
第一その羽根はなんだというんだ。雑巾でも手に持って飛びながら拭けばいいではないか。あんなに濡れて洗濯が大変そうなのに。
私が憤慨しつつも――別に洗濯するのは私じゃないんだけど、とにかく気になるのだ――果たしてどう声をかけたらいいのか躊躇っていると、モップから滴り落ちる水滴は益々その量を増していった。
どんどん妖精メイド達は濡れていき、服はもう乾いている箇所が見当たらない程だ。吸収しきれなくなった水が服から零れ始める。それでもメイド達は拭くのをやめない。
モップから滴る水滴はいよいよ勢いを強めており、もう雨のように廊下に降り注ぎ始めた。
私が唖然と見上げる中、雨雲の代わりに水たまりが天井をじわじわと這って行くと、そこからまた水滴が降り注ぎ、どんどん廊下の雨の範囲は広まっていく。
「わ、わ、わ」
私はついつい妙な声を上げてしまった。
水の量からしてあり得ないとか考えたことには考えたけど、それよりも思ったのはさっさと天井を拭くのをやめてほしいという事だった。
しかしとうとう天井の水たまりが自分の足先、いや頭先まで達し、雨が目前まで迫ってくると、水滴が私の顔やら足元にかかり始めた。
とにかく濡れるのは御免だったので、私は踵を返して一目散にかけ出すことにする。
ちらりと背後を振り返ると、どしゃ降りの中、あのメイド達はまだ天井を掃除しているようだった。
妖精は濡れても大丈夫なのかしら。風邪とか引かないのかもしれない。だとしたら羨ましいなあ、などということを無駄にあれこれ考えていた。
「はあ……はあ……」
脇目もふらず全速力で走り過ぎてしまった。突き当たりというものが見あたらないこの広大な館では目安を付けにくい。
ついつい必要以上に走ってしまったらしく、背後を振り返るともう雨もメイド達もどこにも発見できなくなっていた。
「はあ…………はあ」
それにしてもなんなんだこの館は。あんな掃除はめちゃくちゃだ。
責任者か何かに出会ったらやんわりと苦情を言っておくことにした。
上司には逆らわずにいるのがスムーズに生きるコツだ、などとこの歳で考えている自分が不憫になる。一体これまで私はどういった人生を送ってきたんだろう。
まあ考えていても仕方がない。
アテもなくふらふら廊下を歩いていると、自分のことについて考えるよりも次第に頭が痛くなってきた。というのも、この館の管理体制の不備が嫌でも目に入ってくるのだ。
バケツか何かをひっくり返したのかもしくはさっきみたいな雨でも降ったのか、絨毯や壁のあちこちが濡れているしカビが生えている所もある。
廊下に点々と存在している元々は荘厳に見えていたであろう壺や絵画などの調度品も、割れたり罅が入ったり破れたりシミが付いたりしており、館全体に漂う――おそらくさっきの吸血鬼のものと思われる――異様なプレッシャーが無ければ廃館と思われても仕方がない状態だ。
こんな所で生活していけるのか、と思うほどこの館には生活性が無かった。まあ妖精や吸血鬼の生活がどんなものか私は知らないのだけど。
生活と言えば妖精は大丈夫としてもあの吸血鬼が私を襲ってきたりしないだろうか。吸血鬼は普通人間の血を吸うものだ。
もしかしてこれまでも人間の使用人は何人もいたけれど、あの吸血鬼に食われてみんな死んだのかもしれない。
そんなわけで一応逃げ道を探しておくことにした。
まあいざとなれば窓から飛んで逃げればいいんだけど、それでは些か目立ちすぎる。まだこの館の警備体制も分からないのだ。とはいえこの荒れようからしてどうせ全てがいい加減なんだろうけど。
そうしてしばらくの間下への階段を探して――階段が一向に見当たらないんだけど――歩いて行く最中のことだった。ふと誰かの楽しそうな声が聞こえてきた。
耳を澄ますと、確かにきゃあきゃあといった楽しげな笑い声が聞こえてくる。
また妖精メイド達だろうか、と辺りを見渡してみるのだけど、しかし誰も見つからない。空耳とも思ったけどやはり聞こえる。5、6人が追いかけっこで遊んでいるような足音も届いてくる。
今度は話が通じるだろうかと声のする方に歩いて行くのだけど、声は大きくなれど姿は見えず。
しかしもう直ぐ側で聞こえるのだ。
廊下は相変わらず汚く、壁には直径3メートルほどの巨大な絵画が掛けられている。
部屋の中かと思って手近な部屋の扉を開けてみるのだけど、子どもが遊び散らかしてそのままにしたようなぐちゃぐちゃな無人の使用人部屋があるだけだった。
メイド服やら下着やら布団やらがひどく散乱している。しかもそれらはかなり汚れており、さっきは詳しく見てなかったけれど、妖精メイド達が来ている服も相当汚れていたような気がした。洗濯とか全然してないか、もしくはとてもいい加減そうだ。
とにかく人の姿は確認できない。
しかし声は聞こえる。
しかも部屋の中より廊下の方が近いようだ。
改めて辺りを見渡してみると、ちらりと動く人影が見えた。
あっとその方向を見やると、見えたのは絵画の中に描かれた妖精の姿だった。
巨大な絵画には小麦色の草原の中で月夜の下、妖精メイド達が追いかけっこをしている姿が描かれている。耳をすますと声はどうやらこの中から聞こえてくるようにも感じる。
蓄音機でもあるのかと辺りを見渡してみたのだけど――それだけの文明機器があるのか疑問だったけれど――それらしき物は見当たらなかった。
うーん、と思案して辺りに目を向け、再び絵画に視線を戻すと私は思わず首をかしげていた。
絵の構図が変わっている気がする。
さっきと比べて妖精メイド達の位置が違うのだ。
思わず怪訝に眉を潜めた私がじいっと見つめるけれど、別に絵の中の妖精たちが動き回る様子もない。相変わらず声は聞こえる。
何だか不気味なので絵画から離れ、廊下の彼方を見つめ、再び絵画に視線を移すとまた妖精メイド達の位置が変わっている。
まるでだるまさんが転んだみたいだ。今度は見間違いではない。
私はこれを悪魔の絵画と名付けることにした。絵が動くなんて古典的な。
しかし怪談にしてはこれから何の悪意も恐怖も感じられない。まるで恐ろしい妖怪達のほのぼのした日常を眺めているような感覚を覚えるのだ。
ここにいる限りこれが日常で私が異常なのかもしれない。
絵の中に妖精がいるなんて、元々こういう変な絵なのかそれとも外の妖精達を取り込んだのか。こいつらの絵の中の活動っぷりからして何となく後者な気がした。
どうにかして外に出して話を聞けないかと考えたけど、壊したりして何が起きるか分からないので放っておくことにした。
どうなってるんだろうこの館は。
まだ半日の半分も経ってないのにかなり疲れる。
階下への階段を探して彷徨う私は次第に足取りが重たくなってくるのを感じていた。
ここは人間の住む所ではない。怪奇現象の巣窟だ。本当に足が重い。
それは気のせいではないらしく、重たい私の足――重いのは私の足であって私自身ではない――がズブズブと流砂のように絨毯に埋まっていく。
鬱陶しいので構わず歩いて行くと次第に身動きが取れなくなる。
仕方なく飛行術で空に浮くと、廊下の先では妖精メイド達が何事もないかのように廊下をモップで拭いていた。
とにかく歩くのは危険なのでそのまますいっと一人の妖精メイドの側で滞空する。
「あの、階段はどこにあるか知りませんか?」
一応年齢が上っぽいので敬語で聞いてみると、その妖精メイドはこちらが自己紹介もしなかった――だって紹介できるほど自分を知らないし――のに気分を害した様子も無く、きょとんとした様子で首をかしげ、うーん、と思案してから「分かんない」といい笑顔で答えた。
ここで生活してるんじゃないのか。
というかさっきから分かってきたことだけど、どうやら妖精メイド共は頭がよろしくないらしい。
何か聞き出すのは徒労に終わる可能性が高いのでさっさと階段を探すことにした。
でもこうして廊下を飛んでいくと、そこらの窓から飛んでいける気がする。
でも逃げるとあの吸血鬼にどんな仕返しをされるか分からないのでやめておこう。
まあこれだけメイドがいるなら一人くらいいなくなったって分からなそうだけど。
でも人間は今のところ私しかいないけどどうなんだろう、他は妖精メイドだけなんだろうか。この館に私以外人間がいるんだろうか。
なんてことを聞いてもこの妖精共は答えられないんだろうなあ。
隣で働いてる妖精の名前を知ってるんだろうか。そもそもこの妖精達にちゃんと名前が付いてるんだろうか。なんて考えても何の意味も無い。
そうしてしばらく進むとようやく階段を発見できた。
そのまま飛びながら降りていくんだけど、いい加減飛んでるのも霊力の消費で疲れてきた。
下のフロアにたどり着いてから恐る恐る床に足をつけてみると、どうやら埋まりはしないみたいだった。
ひとまずは安心。この館では迂闊に廊下も歩けないから困る。
そのまま更に下のフロアに行ってもいいんだけど、ちょっとこの階の様子を見てみよう、としたのが間違いだった。
この階もまた上のとほとんど違いはなかったんだけど、それじゃあ改めて一階まで降りるか、と振り返ってみると階段が忽然と無くなっている。
予想はできていただろうに、迂闊だった。
ため息ひとつ吐いた後、私は仕方なくどこかにある階段を探しに廊下へ繰り出した。
今度は両側に部屋のある通路であり、ただでさえ少ない窓が無いので非常に薄暗い。
足元を助ける気の全く無い弱い光のロウソクが点々と壁にかけられており、しかもかなりの数がもう尽きてしまっている。ロウソクの取り替えなども全然手が回ってないらしい。
散乱している壺の欠片などに気をつけながら歩いていき、次第に暗さに目も慣れてきた。
妖精メイド達は役割分担とか指揮命令とかが存在しないらしく、思い思いにばらばらの掃除を行い、さっき掃除した所を別の者が同じ掃除をする。そして高い確率でサボっている者がいる。
館がめちゃくちゃになるのも無理はなかった。
とにかくそのまま先へ歩いて行くと、廊下の所で妖精メイド二名が台座の上に乗った何とか両手に収まるくらいの大きさの壺を掃除している所だった。
館の主――さっきの吸血鬼が主かしら?――はよっぽど赤色が好きなのか、壺も真っ赤で文様も精緻な造りであり、とにかく無駄に派手だった。
「あ」
私が見ている中、それを妖精メイドの一人がこてんと倒した。
高そうな壺をまたそんな乱暴に扱ってる。この館の主は激怒して八つ裂きにしたりしないのだろうか。いやもう何を言っても無駄だと悟っているんだろうか。だったらこんな使えないメイド達はクビにすればいいのに。いやクビにしたらそれで館は風化していくか。
お化けのように静かに廃れる館よりも、活気があってどんどん壊れていく館のほうが主にとって好みなのかもしれない。
などと考えている内に視界の中では倒れた壺から水がざばあと流れ出ていた。こうしてまた高そうな絨毯が汚れていく。
見ると壺から出る水はどんどん増えていき、滝のようにざあざあ流れては私の足元を水浸しにする。
更にそれでは収まらず、ごぼっごぼっと爆発するように水が噴出し、あっという間に側にいた妖精メイド二人を押し流した。
水流は廊下全体に広まり、床に散乱していた破片やモップ、バケツなどを巻き込んでこちらに迫ってくる。
驚くよりも前に私は一目散に逃げ出していた。
背後でガスが爆発でもしたかのような猛烈な噴出音が響いてくる。
妖精メイドの悲鳴は無視してとにかく私は全力で走る。
背後がどうなってるのか振り返るのも危険だけど、どうやら廊下にあるものを根こそぎ攫っているらしい。
こんな時に限って部屋の扉は全てしまっていて水流が逸れることもないし。
轟音と共に水しぶきが私の背中にかかる。もうすぐ後ろまで濁流が迫ってる。
また水難か。
気づけば人目も気にせず叫んでいた。
「どうなってんのよこの館はあああ!」
見えた、分かれ道だ。十字路がある。
体力を振り絞って私はそこまで駆けると、一気に横っ飛びして壁に背を張り付けた。
「はあ、はあ、はあ……」
いきなり全速力で走ったので心臓の鼓動がすごいことになってる。気づけば震えてるし。
誰だって命の危険を感じたら怖くなるわよ。
というかそんな危険がさっきから多すぎる。何より目覚めて一番に吸血鬼が目の前にいたし。
とそこでふと気づくと、廊下を吹き飛ばさんばかりの水流が全くやって来ないのに気づいた。
あんなに強い流れだったのに、と思わず首をかしげていると、廊下の先からちょろちょろと水が流れてきた。
角から顔を出して恐る恐るさっきの廊下を覗き込んでみると、倒れた壺から流れる水はもうほとんど止まっており、さっきまでのすごい水流はさっぱり消え去っていた。
しかし絨毯はめくれてるし絵画は散乱してるしで廊下の至る所がめちゃくちゃになって濡れており、さっきの出来事が幻ではないとは分かる。
そしてきゃあきゃあした悲鳴が耳に入ってきたのでそちらに目を向けると、ちょろちょろ流れる小さい水の中でさっきの妖精メイド達が随分と小さくなってじたばたもがいていた。
助けてーとか聞こえる。
私は一気に疲れが襲ってきたのを感じた。
「はあ……」
さっきから何度ため息をついただろう。ようやく階段を見つけた私は一気に一階まで降りていた。
逃げよう。
考えるのはそればかりである。
こんな悪魔の館で働いていけるはずがない。ここから出て人里を探して保護してもらおう。そして家族の元に帰れば記憶も戻るかもしれない。
覚えてもいない温かい家庭を思い浮かべ、私の足取りは自然と早くなっていた。
やっぱり無理やりさっきの吸血鬼に攫われて記憶を抜かれ、ここで働かされることになったんだろうか。まああの吸血鬼を見るにそんな経緯でも不思議はない。
家族は無事なんだろうか。分からないけど、今はとにかくここから脱出するのが先決だった。
そしてとうとう私は正面玄関へ辿り着く。
半径20メートルはあろうかという広い玄関であり、天井も5、6メートルはある。
豪奢なシャンデリアがぶら下がっているんだけど当然のように汚れてるし、灯りの半分は付いていなくてかなりみすぼらしい。
玄関の床も泥で随分と汚れており、来客への失礼とかまるで考慮されてないみたいだった、今更だけど。
わざわざ外から泥を持ち込んで遊んでいる妖精メイド達を無視し、私は大きな両開きの扉を少しだけ開けてするりと体を滑り込ませた。
陽の光がこんなに心地良いとは思わなかった。
館内とは打って変わって外はよく晴れて明るい。これなら吸血鬼が寄ってくることも無いだろう。
扉を閉めて立つ私は遠くを眺めながら思わず大きく伸びをしていた。
さっき窓から見たときは明け方のようだったけど、今はもう昼を過ぎている頃らしい。季節は秋口なのか少し肌寒いけど、日光の暖かさがじんわりと汚れたメイド服の上から染みこんでくる。
「……よし」
少し元気出た。
見ると、500メートル程先に高さ5メートルもあろうかという塀が館を取り囲むようにそびえ立っている。やはり赤い。
その上空には十名ほどの妖精メイド達が滞空しており、どうやら門番か何からしい、遠目なので分かりづらいけど棒やら剣やらの武器を所持しているようだ。
でも見るからにぼけっとしていて頼りなさそうであり、ああしてちゃんと配置についているのが不思議なくらいだ。あれなら隙を見て逃げ出しても大丈夫そうだ。もしくは買い物に行くとか簡単に言いくるめられるかもしれない。
私は正面の大きな鉄格子の扉に向けて歩き出した。
ぽかぽかした陽気がとても心地良い。遙か西の空では少しだけ白い雲が漂っており、太陽の光を浴びて眩しいくらいに輝いている。
門から館までは大きな庭園になっており、噴水やフラワーゲートが並び、花の名前とかは分からないけど綺麗に揃えられている。館の中とは大違いだ。
この花の道を楽しんでから館にたどり着いた客人は詐欺か何かと思い引き返したくなるに違いない。いやそもそもこの館を積極的に訪れたがる人がいるのかという疑問はあるけれど。
さっきまでとは打って変わって足取り軽やかな私は、館から正門へ一直線に続く広い石畳の道の両脇に、何やら細長い花の塊がいくつも直立しているのに今度は目を奪われた。
高さは二メートル弱だろうか、赤や黄色といった色とりどりの花とそのツルが重なったような物で、一つのオブジェを作り上げていた。
中に円柱の木の枠でも仕込んで型を取っているんだろうか。見たこともない――記憶は無いけどそう感じた――綺麗な花の造形に思わず見惚れてしまった。
こんな物を作るこの庭の管理者というのはとてもセンスがあって素敵な人――もしくは妖怪?――なんだろう。
これを作ったのがあの吸血鬼ではないのは明らかだった。下仕事なんてしないだろうし、館内をあんなボロボロにして放っておいている感覚の持ち主がこんな整然とした庭を作り出せるはずがない。
これを作っている人がいたら会ってみたい。きっと話も通じることだろう。
それともまさか魔法か何かで自動的にこの広大な庭が整備されているんだろうか? いやそれなら館内も綺麗にするはず。
となれば庭を別に管理している責任者がいるはずなのだ。
そうして庭で足を止めて景色を眺めながら思案している時のこと、不思議な出来事がまたもや起きた。
「お水をください」
声がした。しかも私のすぐ目の前で。きょろきょろしながら花のオブジェの向こう側を見てみても誰もいない。
「お水をください」
聞こえるのは確かにこのオブジェからだ。
もしかしてだけど、花が喋ってる。
まさか自動で水やりの時間を知らせてくれる不思議なオブジェなんだろうか。
私は今日はじめて感心していた。これは良い物だと思う。
私だって十歳程の――記憶はないけど多分それくらいの年齢――女の子なのだ。花が喋るなんて素敵。
やっぱりこの庭はとても素晴らしいんだ。
思わずうきうきしながら辺りを見渡す。
どこかに水やりの道具は無いだろうか。庭の中程に噴水があるけどあそこから汲んできていいんだろうか。でもジョウロか何かが必要だし。
そんなメルヘンチックな感傷に浸っていた時のこと、びゅう、と大きな風が吹き、私のスカートを大きくはためかせたので思わず裾を握って抑えこんだ。
まあ見る人なんていないけど、いやむしろ人なら誰かいてほしいけど。
風は草木をざあっと揺らし、枯れ始めた花びらや葉っぱをいくらか曇り始めた空へ舞い上げてしまう。
そして目の前の花のオブジェもばたばたと波打ち、ツルの何本かがめくれ上がる。
オブジェの中には何やら灰色の物体が型として入っていた。
地面から生えた二本の棒切れのようなものが中心まで続き、そこでくっついて更に上まで伸びている。頂上付近になると今度は三本に分かれ、二本は下からの棒にくっ付くような形で中間まで垂れ下がり、残りの一本は丸く膨らんで頂上を飾っている。その丸い球体の頂上にはいくつかの切れ目やとんがりがあり、切れ目の内の二つからは血走ったぎょろぎょろした球体が動いている。
オブジェの中に入っているのは灰色に干からびた人間だった。
声にならない悲鳴、というのを上げるのは初めてだと思う。
尻餅をついて後ずさり、道の反対側まで行ってオブジェがそこにもあるのでそれからも這うようにして逃げ、通りの真ん中で必死に左右を見渡して私はようやく止まった。
「ひ、ひい、い、はあ、はあ」
呼吸をなんとか取り戻したとき、一緒になって情けない悲鳴が出てくる。
何あの悪趣味なオブジェは。
いや悪魔の館には相応しいのかもしれないけど。
ゾンビ? 血を吸い尽くした残りカスだろうか。
「はあ……はあ……」
まだ心臓が破れそうなほど鼓動してる。
あのオブジェはゾンビを苗床に生い茂っているのだ。
私もいずれああなってしまうのだろうか。
「お水をください」
また花が、いや中の死んだ人間が喋っている。中身を知ってからだと異様に不気味に感じられた。
気づけばぜいぜい苦しそうなあえぎもゾンビから聞こえてくる。水をもらえないのが苦しくて仕方ないようだ。
しかし構っている暇はない。大事なのは自分の命だ。
こうなったら一刻も早くここから逃げないといけない。こんな所にいたらいつか必ず殺される。
このゾンビの道を進むのは御免なので四の五の言っていられない、今すぐ飛び立って逃げようとしたその時のこと、陽気な声が道の先から聞こえてきた。
「はいはいはい今お水をあげるからねー」
そうしてジョウロを手にやって来たのはやけに背の高い女性だった。
年齢は二十にもいかないくらいか、妖怪みたいなので外見年齢はアテにできないけど。
何やら、チャイナ服? いや違うかもしれないけど中国っぽい緑色の服装をしており、赤い髪をすらっと長く伸ばしている。
一目見た印象で、温和で人懐こそうな女の人だと思った。
「あら?」
その人――いや妖怪か――は私を発見してきょとんとした様子で首をかしげ、ジョウロを置いてこちらに歩いてきた。
「あ、あの」
どう反応したら良いかと私がしどろもどろになっていると、女の人はぱあっと朗らかな笑顔を輝かせた。
「おや、人間だね。もしかしてご飯を届けてきてくれたのかな。いやーもうお腹減っちゃって」
「え、いやあの」
もしかしてこの人がこの庭園の管理者なんだろうか。確かに妖精とは格が違う知的な雰囲気がした。
性格もマメそうで私と気が合うかも、なんて色々混乱気味の私は感覚だけで考えを巡らせる。
でもそんなご飯なんて持ってないんですけど。それに他にも色々と聞きたいことが沢山あるのに。
あのゾンビは何? 吸血鬼の命令であんな物の世話してるの?
なんと言ったら良いのか分からずに戸惑っていると、女の人はすぐ目の前までやって来た。私が子供なこともあるけど、近くに来られると本当に背が高い。
彼女はそのまま両手を伸ばし、私の頭を両側からがっしりと掴んできた。
「え?」
何でしょう。
それに力がかなり強い。
とても子供の私の力では、いや大人の男の人でも振り払うことはできないだろう。
いや力が強いというより、かっちり嵌っている。決して逃げられないように。
私がただ困惑していると、中国服を着た女の人は実ににこやかに口を開いた。
「じゃ、いただきまーす」
私の眼前で女の人の口があんぐりと開く。
何かの冗談だと思う私の前で口はめきめきと横に大きく裂け、縦にも広がり、顔の半分ほどが全て口になってしまった。
上下左右四カ所に鋭い牙がぬらぬらと光り、涎が糸を引いてぼたりと落ちる。
妖怪の口だ。
私が目を見開く中、大きな口が全く遠慮無くがぶりとかぶりついてきた。
がちん、と歯と歯がぶつかう音が響く。
「あがっ…………ん?」
再び上がった心拍数により必死に呼吸をする私の前で、女の人はぽかんとして数歩先にいるこちらに焦点を合わせてきた。
さっきまで私の頭を確かに掴んでいた両手の中には何も無く、口を閉じてすっかり元の顔に戻った女の人は不思議そうに手の平を見つめていた。
この妖怪にとっては私が忽然と消え去ったかのように見えただろう。
「はあ……はあ……」
妖怪がすっと立ち上がる中、私は呼吸を整えながらじりじりと後ずさる。
時間を操る。
それが私の持つ異能だ。
あんまり長い時間は止めていられないけれど、止まった時間の中で私に逆らえるものはいない。
記憶なんて持ってない私だけど、歩いたり走ったり飛んだりする方法を知ってるようにこの力についても知っている。
「あれえ?」
妖怪はじいっとこちらを見つめる。その双眸がきゅっと細まった。
さっきまでは全く感じられなかった警戒心がその全身から溢れ出したのを私は確かに感じた。
体を少し揺らしただけで、体勢を大きく変えたわけではないのに一瞬で一部の隙も無くなるのが分かる。
私は思わずぶるっと身を震わせていた。
拘束から抜けだしたばかりだというのに、まるで大きな手で包み込まれる感覚を覚えた。
さっきの吸血鬼ほどの桁外れの大きな力は感じない。
しかし吸血鬼が隕石だとしたらこの妖怪は研ぎ澄まされた剣のような鋭さがある。どちらにしても私にとって危険なことに変わりはない。
「変だなあ」
そう言って妖怪はにいっと微笑んだ。楽しそうでもあり敵意を向けられたようでもある。その両方かもしれない。
私の人としての本能が告げている。
この妖怪は危険だ。私とは全然違う。妖精達とも違う。
この妖怪は本物だ。
妖怪はじいっとこちらを見つめながら言う。
「瞬間移動の能力かと思ったけど違うみたいだねえ。君の呼吸と心臓のリズムが共に約五秒半ずつジャンプしてるみたいだ。いや抜け落ちてると言ったほうが正しいかな。となると考えられるのはもしかしてだけど、時間を止めたりしたのかな? それなら説明がつくけど」
能力のことが一瞬でバレたのもそうだけど、まさかそこまで正確にこちらの動きを読まれているとは思わなかった。
考えを巡らせる私を見て、妖怪はあははと面白そうに笑った。さっきまでの温和な笑顔がどこへやら、夜中に会ったらトラウマになりそうな暗く野蛮な笑みだった。
「心臓の鼓動で読み取るまでもなく正解だと分かったよ。子供だね、表情に出過ぎだよ」
慌てて顔を引き締めても後の祭りだった。
妖怪は直立したままへらへらした笑みを絶やさないでいる。
しかしその目は全く笑ってなくて、どうやら私のことを敵――しかも厄介な敵――と認識しているらしい。
まずい、相手の攻撃意思は明らかだ。
「君があんまり美味しそうだったから油断しちゃったなあ、体も鍛えられてないようだし。まさかそんな見たこともない能力を持ってるだなんて。いやあ幻想郷で油断なんかしちゃ駄目だって分かってたはずなのに認識が甘かったよ。君どうしてここにいるの? 忍び込んだのかな?」
ここで働くように言われたのよ。連絡くらいしといてよ、という訴えをする余裕は私にはなかった。
少しでも隙を見せたらさっきの怪力でもって一瞬で体を粉々にされそうだ。
「さっきは肝が冷えたよ、何しろ止まった時間の中で首を掻き切られていてもおかしくなかったからね。……ふむ、武器は持ってないみたいだね。それとも時間を停止させても攻撃はできないのかな? どうだろうねえ、そういう所が分かんないことが何よりの脅威だよ。いやそれにしても霊力が結構減ってるねえ。その減少量を見ると止められる時間はあと二十秒ほどかな?」
なんだこの妖怪は。こちらの状態を次々と見抜いてくる。達人という奴なんだろうか。
とにかく早く逃げないとまずい。
そしてこの時の私には妖怪を退治するという考えも力も無かった。
とにかく再び時を停止させると――
私の視界が拳で埋まった。
ぎょっとして数歩後ずさると、さっきまで直立した状態でへらへら笑っていてこちらに攻撃してくる様子も無かった妖怪が、一瞬で距離を詰めて拳をこちらに繰り出してきていた。彼女の踏み込んだ石畳が靴の形にへこんでいる。
油断させておいて一気に攻撃を仕掛けてきたのだ。あと少し時を止めるのが遅れていたら頭を粉々にされていた。
でも驚いてる時間は無い。
停止した妖怪女をそのままに、私は慌てて館へ駆けていく。
外は駄目だ。霊力が切れるまで追いかけられたらそこでお終いだ。館ならまだ身を隠す場所がある。
霊力の消費が激しくなるけど一刻も早く庭から去りたいので、私は飛行術を時間停止と合わせて使用し、館の玄関までたどり着くと、必死に押し開けてから隙間に体を滑り込ませた。
そこで再び時間が動き出す。
立ち止まること無く廊下を駆けていき、奥のほうまで行ってから背後を振り返る。
大きな玄関では妖精メイド達がモップを手に掃除を始めており、泥だらけで黒くなったバケツの水を取り替えることなく使用しているので全く綺麗になる気配がない。
というか皆モップしか使っていない。雑巾とかに役割分担するべきじゃないんだろうか、という頭は無いんだろうやっぱり。
とにかくさっきの中国妖怪が追ってくる気配はない。
一安心した私は大きくため息をつき、ほとんど足をひきずるようにして廊下を歩き出した。
死ぬかと思った。今度は流石に殺されると思った。
肩で息をしながら私は早足で廊下を進んでいく。
あれが本物の妖怪か。もしも普通の人間があんなのに襲われたなら一溜まりもない。
それにもしあれを倒したとしても吸血鬼が残ってるし、どうしようもない。
退路を絶たれた私はアテも無く廊下をふらふらと彷徨っていた。
相変わらず薄暗いロウソクがいくつも消えていて鬱陶しい。全部付けるか消すかしてほしい。
「はあ……」
こうなったら一か八かあの吸血鬼に直談判してみようか。少なくとも話はできそうだったし。
でも他人の意見を聞き入れるという思考を持ってなさそうだったなあ。
せめてあの妖怪にもう襲わないよう頼まないと死んでしまう。
あの吸血鬼がここの主であってさっきの妖怪の上司なのよね? そんなことすらはっきり分からないや。もういや。
などとぶつぶつ呟きながら歩いていた時のことだった。
キャーキャーなどという悲鳴のような叫び声が聞こえてきた。
妖精メイド達の遊び声という感じではなく、真に迫った印象を受けた。
今度はなんですか、ともう慣れてきた自分が怖い。
50メートルほど先のT字路のようになっている廊下の左側から、妖精メイド二人現れて全速力で駆けていく。
遠目なのでよく判別がつかないんだけど、一人はお盆の上にワインか何かが入ったグラスを乗せているようだ。そして今落として割った。
叫び声は彼女たちのものらしく、必死に後ろを気にしながら全力で走っている。
一体何から逃げてるんだろう。そもそもあの頭の弱い妖精達が本気で怖がることなんてあるんだ、と少なからず感心しているとそれは現れた。
通路の左側から出てきたのは一本の手だった。
ぷくぷくした子供の左手で、傷一つ無い透き通るような白い綺麗な手である。
それが縦横4メートルほどの通路いっぱいの大きさはあり、遠近感が狂ったように感じてしまう。
この館には巨人までいるのかと呆然と様子を伺っていると、猛烈なスピードで伸びてきたその左手は逃げ惑う妖精メイドの一人に追いつき、そのまま何の躊躇も無く握りしめると盛大に骨や肉を押し潰す不気味な音が大きく響いてきた。
え? という言葉が私の口から零れたのを数秒遅れて耳で聞き取った。あまりに呆気無かった。
そして巨大な手が開かれた時、そこからはぱらぱらとメイド服の破片が舞い落ちるだけであり、血も何も残ってはいなかった。
一体どんな現象が起きたのか詳しくは分からないけど、掴まれれば命は無いというのは確かだった。
まああくまでやられたのは妖精なので再生されるのかもしれないけど、あんな壊され方で果たしてそれが可能だろうか。
私がぽかんとしていると、巨大な手は必死に逃げていたもう一人のメイドもあっという間に握りつぶしてしまった。
手は口程に物を言い(だっけ?)とはその通りなのか、ちょっとした動きや仕草からあの巨大な手が何を考えているのか何となく分かる。
あれは単なる遊びであり暇つぶしだ。子どもが蟻を殺して遊ぶようにメイド達で遊んでいる。
逃げなければ、と後ずさると、ぴくりと巨大な手が動きを止めてこちらに向き直る。
こちらに気づいたのは明らかだった。耳なんて無いはずなのに、空気の振動とかを感知したんだろうか。とにかくまずい。
なんて考えてる間に本当に手は迫ってきた。
すごいスピードで廊下を曲がってこちらに接近してくる。
関節とか平気で無視してるみたいで、二の腕が半ばからぐにゃりと曲がっている。
「ほんとにもう……」
勘弁してほしい。
回れ右して走りだしたんだけど手の動きは素早く、みるみるうちに追いつかれてしまう。一瞬振り向いてみると、手の平に対して腕が異様に長く伸びてきていた。
このままでは逃げ切れない。しかも角を曲がったくらいだとすぐに対応してくるだろう。
などと長く考える暇も無く巨大な手は私に追いつき、アルミ缶を凹ませるようになんの躊躇も無く勢い良く握りつぶしてきた。
そうしてぎゅう、と力いっぱい巨大な手が握りしめるのを、私は少し先の廊下で息を弾ませながら見つめていた。
冷や汗が更に冷たい。もう汗を掻くのには慣れたので服が汚れるのは気にならない。ああ思いっきりシャワーを浴びたいなあ、などということをこれまでの人生(がどういうものなのか分からないけど)で一番強く思うのだった。
やがてぱっと手は開かれ、その様子からしてどうやらきょとんと不思議そうにしているようだ。
手のひらに掴んだはずのものが忽然と消えてしまった、などとこれまで体験したことが無いことなのだろう。
それもそのはず、時間を止める能力なんてそうあってはたまらない。
ほんの二秒ほど時間を止めて脱出した私は慎重に巨大な手と対峙していた。
もちろん戦おうなんて思わない。こんな化物と戦えるはずがない。どうやって逃げるか必死に頭を巡らせる。
そして今の不思議な現象は錯覚か、もしくは魔法か何かかを確かめるように巨大な手は再度こちらへ手を伸ばしてきた。
そう何度も繰り返していたら能力の正体を見破られるかもしれないし、そもそもそんなに霊力は残ってない。この時間停止で逃げ切らないといけない。
眼前に手のひらが肉薄した時、私は再び時を止める。
そして背後でも窓の外でもなく巨大な手のひらの方向へ敢えて走っていき、その脇をすり抜ける。
こんな時だけはこの無駄に多い部屋の数が助かる。
そのまま少しだけ走った所にある部屋の扉に手をかけ――ここに鍵がかかっていたら私の人生も終わっていただろう――ノブを回して中に飛び込むようにして入ると、全力で扉を閉め、そこで霊力が完全にゼロになった。
全てが動き出した時間の中、巨大な手のひらは近くにあった部屋に突入したようだ、大きな衝撃音が響き、それがいくつか続いていく。
この残忍な手のひらも馬鹿では無いらしく、さっきの回避行動で私がそう遠くへは行けないと薄々察しているらしい。それを私も予想していたからこそ、やり過ごすためにわざわざ手のひらの側の部屋へ走ったのだ。
どたんばたんがしゃんどかんと暴れてる音が響き、館全体ががたがた揺れている間は生きた心地がしなかった。
しばらく経ち、どうやら私が実は遠くへ行ったと判断したのか手はずるずると引きずりながら引っ込んでいく音がする。
私のいる部屋の前を通る時には呼吸を静めるのに必死だった。この手はどうやらさっきの中国妖怪のように鋭敏な感覚は持ってないらしい。
やがて音はしなくなり、私はぷはあと水面から上がった時のように何度も大きく呼吸を繰り返した。
「ああもう……」
もう駄目だ。霊力も切れたし、これ以上この館で活動したら生きていられない。
気づけばかなりお腹も減ってる。けど食料を求めて館を歩くのは危険過ぎて駄目だ。今は体を休めて少しでも霊力を回復させないといけない。
手のひらから逃げるために飛び込んだこの部屋を見渡すと、例のごとく使用人部屋らしく、使用人というよりまるで子供部屋のように物が散乱している。
ここが一体誰の部屋か分からないしそのうち部屋の主が帰ってくるかもしれないけど、もうどうでもいいやと考える気力も無い私は汚いベッドに潜り込んだ。
こんな非常識な館で無防備に眠るなんて危険もいいとこだけど、もう眠気も疲れも限界だった。
寝てる最中でも気配を察知して覚醒する、なんてマンガみたいな芸当できないけど、これ以上逃げて危険と遭遇しても何もできない。眠って霊力を補給しておくのが最善だ。
かび臭さが少し気になったけど疲れが勝り、気づいた時に三途の川で立っていないように祈りながら、そのまま私はすぐに眠りに落ちてしまった。
遠近感が狂ったようにぼやぼやした曖昧な思考の中、そしてふと気が付くと私は暗い夜の道にいて、雪の降る中を裸足で歩いていた。
さっきまで館の中にいたはずなのにどうしてだろう、とは深く考えなかった。米を研いだ濁り水のように思考が底まではっきりしない。
空を見上げれると雲など全く存在してないのに星が一つも無く、真っ暗闇の中で街頭と家の明かりが道を照らしている。
光を受けた私の影が四方に伸びてぐるぐる踊り、雲が無いのにしんしんと振り続ける雪の所為か物音一つ聞こえてこなかった。
周囲にはいくつものレンガ造りの家が立ち並び暖かそうな灯りがついている。
それにつられて窓から中を覗いてみると、屋内では幸せそうな親子が棒切れのような人間を暖炉にくべて火を保っていた。
私は慌てて窓から離れて冷たい通りに戻った。
周囲が地獄の中、人間を燃料に灯された明かりを頼りに、私はただ凍える寒さの中を歩いていかないといけなかった。
そんな時、目の前に雪がごっそり円形に無くなっている空間が現れた。
半径10メートル程だろうか、地面の石畳がむき出しになっており、そこでは雪が降り積もる前にすっと消えてしまい、ぼおっと地面が淡く赤色に光っているそれはとても暖かそうだ。
円の中には誰もいない。しかし誰かの手によってこのような場が保たれているのは明らかだ。
ここは縄張りだ、という圧力をひしひしと感じる。ジャングルの中で虎の巣を見つけた時のようだ。
避けたほうがいいだろうか。しかしこのまま歩いて行くのは辛い。家の中はもっと辛い。
見ると、通りの先から後まで全ての暖かそうな家のドアと窓から人々が顔を出して私を見つめ、子供から大人まで皆が皆にっこり笑みを浮かべながらこちらに手招きをしている。
私は意を決して円の中へ足を踏み入れた。
すると予想に反してビチャ、と液体を踏む感覚と音がして、地面にゆらゆら波紋が伝わる。それは次第に大きくなり、円形の空間から赤い液体が溢れ出すと周囲の雪を一気に染めていく。
それはすぐに家々にまで到達し、家全体が赤く染まってからぐずぐずとゼリーのように崩れ落ちていった。
街全体が赤く地面に埋没していく光景を、私はその場につっ立ったままぼんやりと眺めていた。
そこで起きたのは、体をゆさゆさ揺らされたからだ。
誰か襲ってきたんだろうかと慌てて体を起こして私を揺さぶる者から離れると、僅かなロウソクの灯りの中、むすっと不満そうに頬を膨らませているのは一人の妖精メイドだった。
どうやらこの部屋の持ち主であり仕事――もしくは遊び――から戻ってきたらしい。化粧台の上には懐中時計が置いてあり、見るに六時間は寝ていたらしい。
もうすっかり夜中に入ってるみたいだし疲れもまだまだ残っているのでもっと寝ていたかったけど、このメイドに騒がれたら厄介だ。
霊力もある程度は回復したし、寝ている間にあの中国妖怪や巨大な手に見つかったらそこで人生が終わってしまう、という不安でこれ以上は眠れなさそうだった。
「ああ、ごめんなさいベッド借りてたわ」
ここまで来るともう妖精の一人や二人怖くもなんともない。使えそうなので懐中時計をさりげなく拝借し、私はそそくさとメイド部屋を後にした。
夜中になるとこの館は一層不気味になるのか、淡い赤色を湛えるロウソクがただでさえ赤みがかった館内をまるで血を塗りたくられたように照らし出す。
元々足元が暗いのに加えて絨毯が汚れて所々がさがさになっており、何度もつまづきそうになったので私はそこらのメイド部屋に入り込み、ロウソクを漁って使い始めた。
もう遠慮も何も無い。どうせ勝手に使うだとかどこに何をしまうだとかいったルールなんてこの館には無いのだ。
そしてなんとなくこの館に慣れてしまったのか、至る所で日常のように発生する数々の理不尽な異常――詳述は避ける。一言では言い表せないので――を越え、私は順調に館を登っていく。
この館にこちらに害を為してやろうなんて悪意は無いのだ。ただこれが日常なだけであり存在するだけだ。それに適合できないなら脱落するだけなんだろう。
私は適合も何もさっさと抜け出したいんだけど。
そしてとうとう最初の場所であるあの吸血鬼の部屋の前までたどり着いたのだった。
こんなことなら最初から色々と聞いておけば良かった。
夜になるとこの扉の前は雰囲気が異なり、自然と頭が重たく感じる。
そこらの妖精メイド達も近寄ろうとはしないらしい。
しかしここだけは扉も床も綺麗になっていることからして、管理者の目の届く範囲ではあのメイド達は仕事をそこそこするようだ。まあ下手な仕事をしたら問答無用で殺されそうだから必死になるのも当然か。
とにかく両開きの大きな扉を、いきなり開け放つ勇気は無かったので取り敢えずノックをしてみた。
まさかいきなり殺されたりしないだろうか、とノックをした後で心配が込み上げてくる。
しかしそんな心配は杞憂だったのか、中から「入りなさい」とあの吸血鬼の声が聞こえた。
誰? とか聞いてこないんだろうか。いや誰であっても問題ないと思ってるんだろう。
流石に緊張した私は――作法とか全然知らないんだけど――粗相の無いよう恐る恐る扉を開いてみた。
ここを出た時は気にならなかったけど、ぎいい、と大きな音が響くのは心臓に悪い。
そういう扉なのか単にサビついてるだけなのか。出来れば油を差してやりたかった。
吸血鬼は部屋の中央にある白い丸テーブルの椅子に腰掛けていた。
暗さは相変わらずだけど、意外と廊下よりは明るい。いや廊下の暗さは単にロウソクの入れ替えがいい加減なためか。
少なくとも部屋全体を見渡せる明度の中、私は生唾を飲み込んでから声をかけた。
「こ、こんばんは」
言ってからこの挨拶が果たして正しかったのか不安になる。
すると吸血鬼はこちらを見つめてきて、ただ見られただけなのに私は思わず体がぎょっと竦んでしまう。
「あら生きてたの?」
なんだと。
思わず半目になるのを私は抑えられなかった。
まあ確かに生きてるのが自分でも不思議なくらいだけど。普通の人間なら耐えられない。
「美鈴から聞いたわよ」
吸血鬼は今まで何度その動作を繰り返しているのか、作法の教習のように優雅な仕草で音を立てずに紅茶を一口飲んだ。
「時間を止める力を持ってるみたいね」
美鈴、とはもしかしてさっきの中国妖怪の名前だろうか。
というかこの吸血鬼の名前すら知らない。そこらの妖精メイドに聞いておけば良かったか。流石に主人の名前くらい知ってるだろう、多分。
それにしても、あの中国妖怪が追ってこなかったのはまずは主人に報告するためだったのかもしれない。この吸血鬼はもう攻撃しないように言ってくれたんだろうか。
「は、はあ……」
それはともかく、能力のことについて私は曖昧な返事をした。あんまり自分の手の内を晒したくなかった。
というか記憶が無いから分からないけど、この吸血鬼はそもそも私の能力について知っててここに雇ったんじゃなかったのか。なんて適当な吸血鬼だ。
「人間がそんな力を持ってるなんてね。これも運命かしら」
「はあ……」
服の着方や空の飛び方を知ってるように時間操作の方法も知ってる私だけど、この力をどうして持ってるのかは分からない。
「それにフランからも逃げおおせたらしいじゃない」
「フラン?」
「私の妹よ。あんまり危険だから地下に封印してるんだけど、最近左手だけ封印を破ってきてねえ。館内に手を伸ばしては手当たり次第に壊して回る困った奴よ。食事を運びに行くメイドをよく潰すし。潰すならせめて食事をもらってからにしろって言ってるのに。まあ学習能力のまるで無い妖精メイド達は何度命令しても素直に食事を運びに行くんだけど」
「は、はあ……」
あの手はこの吸血鬼の妹だったのか。私はもう相槌を打つしかない。
「人間に殺されるかもしれないと思ったのは久しぶりだと美鈴が言ってたわ」
「え? いえ、私は逃げてただけで……」
「美鈴の攻撃も仕掛けられた途端に避けてみせたみたいね」
「い、いえ、ですからぎりぎり逃げただけです」
吸血鬼は面白そうに笑顔を浮かべる。カブトムシとクワガタの一騎打ちを見下ろして楽しんでいるような笑みだった。
とにかく私に対して怒ってる様子は無いので少し安心する。
「そうかしら? 攻撃の気配を感じ取って能力を発動させたんじゃないかしら」
「そんな……」
買いかぶりです、と言いかけて我に返る。何を悠長に会話してるんだ。私はここから出ていきたいのだ。
「お願いがあります。家に帰らせてください」
すると吸血鬼はきょとんとした様子をした。なんだか意外そうだ。
「記憶も戻してください」
吸血鬼は黙ったままだった。
じいっとこちらを見つめ、若干首をかしげて目を細めると、やがてティーカップをソーサーに置いてから俯き、小刻みに体を震わせる。
怒ったんだろうか。辞めたいなどと許さないつもりなのだろうか。
そうなった場合のことなんて考えもしないでとにかくここに来たのだ。
しかし私の予想とは裏腹に、吸血鬼はくっくっく、とどうやら笑っているようだった。
「帰る。帰るねえ……ふふ」
「な、何ですか」
不気味だ。人外は総じてイカレてる、というのが今日一日で嫌というほど理解できた。
吸血鬼は顔を上げ、足を潰されてもがいているバッタを鑑賞して笑っているような目を向けてくる。
「お前に帰る家なんてないよ」
「え?」
「お前は外の世界で乞食のように薄汚れて行き倒れてるのを私が拾ってやったんだ。そんなお前に帰る家なんてあるはずがないだろう?」
呆然としている私に向け、吸血鬼はケタケタおかしそうな笑みを浮かべる。
「私はお前に新しい名前を与えた。名前はすなわちその人自身を表す。変えられればお前の人生も変わるのさ。なあにどうせ捨てられた命だ、拾って使って何が悪い。ゴミみたいに死に行く人生と最高の館で働ける人生、どっちが良いかはガキでも分かる。それでも死にたいと言うなら死ねばいい、止めないさ」
最高の館という部分には激しく意義を覚えたけど、私は驚くとともにどこかで納得していた。
何となく分かっていたのかもしれない。
覚えてもいない家族のことを考えると、どうにもしっくりこないのだ。
そんなもの存在しないとする方が自然だと感じてしまう。
確かに私には記憶が無いけれど、癖や習慣などはそのまま残ってる。
そうした記憶以外のものが、私に家族など無いのだと告げている気がしてならなかったのだ。
そしてどこかで行き倒れていたということは、私には親戚――いるのかどうか分からないけど――を含めて居場所などどこにも無かったということなんだろう。
「分かったらさっさと働きなさい。この館はひどく汚れてるわ、いいようにしなさい。美鈴が管理する庭とパチェがいる図書館はちゃんとしてるんだけどね。いないよりマシと思って捕まえてきて働かせてる妖精達が本当にいないよりマシなレベルなのよ」
などとかなり適当なことを言う。
そして吸血鬼はもう飽きたように、美鈴には食い物じゃないわって伝えといたから、と言った後は他に何か言うことも無くさっさと私を追いだしてしまった。
扉が閉まり、廊下にぽつんと立ち尽くす私は、パチェとかまだ変な住人がいるのかとかいうことも頭に入らず、意味も無く自分の手のひらをじっと見つめていた。
考えるのはこれからどうすればいいんだろうという事だった。いや、どうすれば良かったんだろう。
吸血鬼の言ったことはおそらく本当なんだろう。
何も無い私は、人生を書き換えられる前も何も無かった。
暗い廊下のその先ではロウソクから炎はそのままに周りの光だけがぽろりと零れ落ち、絨毯の上に落ちてぱあっと炎が広がる。
それに気づいた近くの妖精メイドが慌てて手持ちのバケツの水をぶちまけると、汚れた水は一気に廊下全体に湖のように広がり、私の足首の高さまで水浸しにする。
光を失ったロウソクの炎からまた次々と光が生まれてはぽろぽろと落ち続け、水面に触れるとじゅう、と音を立てて蒸気が立ち昇った。
ぼけっとその様子を眺めていた私は、流れてきたモップをおもむろに拾い上げた。手入れのされていない保管場所もいい加減であろうぼさぼさのモップだった。
ぼろぼろなのは私も一緒か。
乞食のように行き倒れていた以前の私の人生を今の私は知らない。
以前の私は今の私を見て羨ましいと思うか分からない。
でも今の私はそんな以前の人生が良いとは思えない。いやよく分かんなくなってきた。
私に帰る家なんて無いんだろう。
かといって赤の他人を受け入れてくれる場所なんて外に無いんだろう。
濃い蒸気の上がる暗い廊下を見つめ、私はモップをじっと見つめる。
ここから出て暮らせるアテも無い。
かといってここで無事に暮らせていけるアテも全く無いし、そもそもこの館で明日私が生き延びてるかも分からない。
なんてひどい職場だ。
気まぐれ一つで命を落とす非常識な館であり、命がいくつあっても足りないとはこのことだ。
でもなんとか今日一日生き延びてはいるわけで。
時間を操る異能を理解しながら私にここで働けとあの吸血鬼は言った。いや私の異能が掠れるくらいこの館が異常なだけか。
以前の私が人生に絶望していたのかどうかは分からないけど、しかし私の人生はもう変えられてしまったのでありそんな以前のことなんて知らない。
では今の私がこれから一体どうしようと思っているかというと、まあ他に選択肢があるかというとそうではないし。
「はあ……」
非常に不安で疲れもまるで取れてないし理不尽でしょうがないんだけど、どうしても漏れてしまった締まらないため息をつき、私は足元がまるでおぼつかない中、濛々と先の見えない闇の中へ向かってみることにした。
了
気づいた時にはもう読み終えていました。
こういう感じの紅魔館も良いですね
妖しいパチュリー様も見たかったです。
咲夜さんがこの異常な館に馴染んでいく過程とかも読んでみたいかも。
どこかナンセンス文学的な雰囲気があって、独特の世界観がいいと思います。
面白かったです。続くなら期待しています。
またあなたの作品が読めて嬉しいです。
誤字です
>それでも死にたいと言うなら死ねばいい、止めないさ」
最高の館という部分には激しく意義を覚えたけど、
意義→異議
それと、あとがきの内容はきっとありとあらゆるジャンルに置ける悩み事じゃないかなって思います。創作だけに限らず仕事なんかにも似た悩みは付き纏うのではと。持論ながらそんな風に考えちゃったら「自分の好きな事に他人を巻き込むだけの技術がないんだ」って考えるようにしてます。そしたら読者に読ませる為の(書いてて面白くない)物も技術向上の為と割り切れないかしらん。
偉そうにすいません、老婆心が出てしまいました。
自分が楽しめないモノを自分が欲っしないモノを書くのは苦痛では?
今までと同じく(勝手に思っているだけですが)作者様含め皆が楽しめる作品を待たせて頂きます。