『このノートに名前を書かれた人は、幸せになります。その時、その人が一番望んでいる幸せが、その人の元に訪れます。』
「―――って、書いてあるよ」
「ふぅん」
大妖精の説明を、チルノは分かっているのかいないのか、目をぱちくりぱちくりさせながら聞いていた。
そして、心の底から感心したように言う。
「大ちゃん、よくこんな難しい文字が読めるわね」
「えへへ。けいね先生に寺子屋で教わったんだ」
「ふぅん」
チルノが両手で持っているのは、真っ白な表紙のノートだった。
その中のページは白紙のままで何も書き込まれておらず、先ほど大妖精が読み上げた説明文だけが、表紙の裏側に記されていた。
チルノの手元にあるノートを見ながら、大妖精は尋ねる。
「でもチルノちゃん、こんなのどこで拾ったの?」
「森の中におちてた」
「へぇ。外の世界の物かな?」
「さぁ」
ぱらぱらとページをめくりながら、チルノは何かを考えている様子。
そして、思いついたように言った。
「ねぇ大ちゃん、何か書く物持ってない?」
「え? ああ、はい」
準備の良い大妖精は、スカートのポケットからお気に入りの鉛筆を取り出した。
寺子屋に行ったときに、けいね先生から貰った物だ。
チルノはそれを受け取ると、さらさらっと白紙のページの上に走らせた。
『だいちゃん』
お世辞にも整っているとは言えない筆致で、しかしなんとかそう読める文字がページの中央部に大きく記された。
「ち、チルノちゃん」
「えへへ」
少し頬を赤くしている大妖精。
どうやら照れているようだ。
一方のチルノは、得意気に胸を張っている。
しかし。
「…………」
「…………」
待てど暮らせど、大妖精には何の変化も訪れない。
やがて、しびれを切らせたチルノがぷぅっと頬を膨らませた。
「何よこれ。インチキなんじゃないの」
「うーん……あ。もしかして」
「?」
大妖精はチルノからノートを受け取ると、今度は自分が鉛筆を走らせた。
『大ようせい』
チルノよりは幾分かマシな字体で、そう記した。
「これならどうかな」
「おんなじじゃないの?」
未だ疑惑の目を向けているチルノ。
ところが。
「あ!」
「?」
ふいに大妖精が叫んだ。
「どうしたの、大ちゃん」
「今、急に思い出した」
「? なにを?」
「前に森の中で拾った、きれいな石の隠し場所。そうだ、あそこに隠したんだった。ずっと思い出せなかったのよね」
「ふぅん?」
一人納得顔で頷いている大妖精。
チルノは首を傾げていたが、やがて、はっとした顔つきになった。
「そうか! つまり今、大ちゃんは幸せになったのね!」
「そうだよチルノちゃん! このノートは、本名を書かないとだめだったんだよ」
「なるほど!」
手をぽんと打つチルノ。
みるみるうちに、その瞳がきらきらと輝きだした。
「よおし、そうと決まれば」
「あっ」
チルノは大妖精からノートをひったくると、そのまま一気に飛翔した。
「ちょ、ちょっとチルノちゃん。どこ行くの?」
「みんなを幸せにしてくる!」
そう叫んだチルノは、どこまでもまっすぐに飛んで行った。
「……もう。勝手なんだから」
大妖精はやれやれと溜息をつきながらも、その背中を、どこまでも優しい眼差しで見送っていた。
◇ ◇ ◇
『はくれいれいむ』
「あれ、なんかお賽銭がいっぱい入ってるわ!」
◇ ◇ ◇
『きりさめまりさ』
「ん? おお、こんなところにこのキノコが生えていたとは! レアなんだよなあ、これ」
◇ ◇ ◇
『ありす・まーがとろいど』
「やった! ようやく求めていた反応が得られたわ。この一ヶ月、休まず研究していた甲斐があったというものね」
◇ ◇ ◇
『れみりあ・すかーれっと』
「咲夜、今日も美味しい紅茶をありがとう」
◇ ◇ ◇
『いざよいさくや』
「お褒めに預かり光栄ですわ、お嬢様」
◇ ◇ ◇
『ぱちゅりー・のーれっじ』
「む……今日はなんだか喘息の調子が良いわね」
◇ ◇ ◇
『こあくま』
「それは良かったですね、パチュリー様」
◇ ◇ ◇
『ほんめいりん』
「今日は良い天気ねぇ。湿気も無いし、風も涼しくて最高だわ」
◇ ◇ ◇
『ふらんどーる・すかーれっと』
「うおおお! 一人ジェンガ成功ぅぅぅ!」
◇ ◇ ◇
『るーみあ』
「え? これわたしにくれるの? わーいありがとう。はぐはぐはぐはぐ」
◇ ◇ ◇
「えへへ……皆幸せになったわね!」
通りすがりの妖怪から鶏の足を分けてもらったルーミアを遠巻きに見ながら、チルノは満足そうに頷いた。
「後は誰がいたかなー。うーんうーん」
白いノートを両手で掲げながら、空中でくるくると回転するチルノ。
「そうだ! 確か、竹林の中におうちがあったわね」
チルノは思いつくがままに、一気に速度を付けて飛んで行った。
◇ ◇ ◇
「……名前?」
「そう、あなたの名前」
竹林の中に、ひっそりと佇む純和風の邸宅。
名を、永遠亭。
そのすぐ傍に降り立ったチルノは、早速、近くにいた一羽のウサギに声を掛けた。
「……因幡てゐ」
「いなばてい、ね」
その名を聞くや、持っていたノートに鉛筆を走らせようとする、チルノ。
しかし。
「ちょっと待て」
「うん?」
その途中で、鉛筆を持った手をてゐに掴まれた。
何事かと、ノートから顔を上げるチルノ。
「あんた、何しようとしてんの」
「なにって、あんたを幸せにしてあげようと思っただけよ」
「はあ?」
途端に胡乱な目つきになったてゐは、チルノの手元からノートを取り上げた。
「あっ」
「何これ。……『このノートに名前を書かれた人は、幸せになります。その時、その人が一番望んでいる幸せが、その人の元に訪れます。』……?」
表紙裏の説明文を読み上げたてゐは、眉間に深く皺を寄せた。
片やチルノは、ノートを奪われて不満げな表情。
「…………」
しかしてゐは構うことなく、ノートのページをぱらぱらとめくる。
そこには、拙い文字で書かれた、幾人かの名前があった。
「…………」
てゐはノートをぱたんと閉じると、チルノを鋭い視線で見据えた。
反射的に、たじろぐチルノ。
「な、何よ」
「…………」
てゐは無言のまま、はああ、と大きく息を吐いた。
「……そういうこと、だったのね」
「?」
首をひねるチルノに、てゐは冷めたような口調で言う。
「……今日は、なんだかいつも以上に、ここに来る患者さんが多いと思ってたのよね」
「? 何の話?」
チルノにはまったく分からない。
それでもてゐは淡々と続ける。
「……それも、今まで調子が悪かった人でなく、『今日』になって急に具合が悪くなった人とか、『今日』思わぬ事故で怪我をした人とか。なんだか妙だなとは思ってたんだけど」
「何、言って」
チルノの声を切るようにして、てゐはきっぱりとした口調で言った。
「それは全部、このノートの所為だったってこと」
「……は?」
チルノは耳を疑った。
このウサギは、一体何を言っているのか。
「……いい? このノートは、紛れもなく本物のマジックアイテムだわ。どういう経緯でこんな力を帯びたのかは知らないけど、ここに書かれてある内容は本当の事」
「そ、そうよ! だって、あたいが名前を書いたみんなは、ちゃんと幸せになってたもの」
強調するようなチルノの声とは対照的に、てゐは冷静な口調で言った。
「―――幸せの絶対量は決まっている」
「?」
突然難しいことを言い出したてゐを前に、チルノの思考はフリーズする。
てゐは溜息混じりに続けた。
「要するに、誰かが幸せになるってことは、別の誰かが不幸せになるってこと。幸せと不幸せは、全体でプラマイゼロなのよ」
「……え?」
ここでようやく、チルノにも、てゐの言わんとしていることの意味が分かってきた。
「今日、あんたはこのノートに何人かの名前を書いた。その結果、その何人かは確かに幸せになった。このノートの力でね」
「…………」
チルノは、胸の奥がきゅぅっとなるのを感じた。
「でもその代償として、別の何人かが不幸せになった。思わぬ病気や、怪我によってね」
「…………」
チルノはブラウスの胸元を、右手でぎゅっと握りしめた。
胸がきりきりとして、つらい。
「別に、あんたを責めてるわけじゃないよ。あんたが名前を書いたやつらが得た幸せは、そこまで大きいものじゃなかった。だから、その代わりに不幸せになった人らの不幸せも、そんなに大層なもんじゃなかった」
「…………」
「まあ、あんたはよかれと思ってやったんだろうし、これ以上誰の名前も書かなければ……」
そこまで言いかけて、てゐは思わず口をつぐんだ。
チルノは、泣いていた。
「ちょ、何も泣くこと……」
「あたいの」
顔を上げたチルノ。
その瞳からは、ぼろぼろと雫がこぼれ落ちている。
「あたいの、せいで……」
「い、いや。だから別に、あんたの所為ってわけじゃ」
さしものてゐも、動揺を隠せない。
「あたいは、あたいは……ただ、みんなに、しあわせになってほしくて……ひっく」
ぐじぐじと目をこすり、嗚咽を漏らすチルノ。
てゐは、参ったな、とばかりに頭をかいている。
……と、そこへ。
「チルノちゃん?」
空から舞い降りるは、一匹の妖精。
「……だいちゃん……」
チルノは涙をぽろぽろ零しながら、親友の方に顔を向けた。
「ちょっ……チルノちゃん、何で泣いてるの!? まさか……」
反射的に、すぐ傍にいたてゐを睨む大妖精。
てゐはぎょっとした顔になって、ぶんぶんと手を振り、否定の意思表示。
しかし大妖精は、疑惑の目をやめない。
「……チルノちゃん? 何があったの? このウサギさんにいじめられたの?」
「してないっての」
溜息混じりに、がくりと肩を落とすてゐ。
すると、当のチルノがか細い声を発した。
「……ちがうよ、だいちゃん」
「えっ」
「……ぜんぶ、あたいのせいなの」
「それ、どういう……」
チルノの言葉に、困惑の表情を浮かべる大妖精。
てゐは、このまま濡れ衣を着せられたら堪らないとばかりに、軽く咳払いをしてから、説明を始めた。
「いや、実はこのノートはね……」
◇ ◇ ◇
てゐの説明を聞いた大妖精は、しんみりとした様子で言った。
「そう……だったんだ」
チルノはまだ泣き顔で、ぐずぐず鼻を鳴らしている。
他方、ようやく嫌疑が晴れたてゐは、安堵の表情を浮かべていた。
「……だからまあ、あんたらはこれ以上、このノートには触れない方がいいってことさ。その代わりこいつは、私が責任を持って処分しておくから」
ぱらぱらとページをめくりながら、これで落着とばかりにてゐは言った。
しかし、
「……待って」
「?」
久方ぶりのチルノの声に、てゐはきょとんと首を傾げる。
「何?」
「……もっかい、かして」
「え?」
「……その、ノート」
チルノの申し出に、てゐはぽかんと口を開ける。
「……今、私が言ったこと、聞いてなかったの?」
「いいから、かして」
先ほどまでの泣き顔が嘘のように、毅然とした口調で迫るチルノ。
てゐは、その気迫にやや気圧されながらも、
「……ダメだ。あんたはもう、これには触れない方がいい」
「いいから」
「よくない。大体、誰の名前を書く気だ」
「…………」
チルノが一瞬俯いた、その瞬間。
「あっ!」
チルノの方に注意を向けていたてゐから、ノートを奪う影があった。
言わずもがな、大妖精。
「お前!」
「チルノちゃん!」
すぐさま手を伸ばすてゐよりも速く、大妖精はチルノ目掛けてノートを投げた。
その行動を読んでいたかのごとく、バシッと両手でノートを白刃取るチルノ。
「やめろ馬鹿!」
てゐの呼び声も虚しく、チルノは素早くノートに鉛筆を走らせた。
てゐの顔が苦渋に満ちる。
「くそっ、なんで……」
苛立たしげに、拳を握り締めるてゐ。
「……あんた、自分が何をしたか、わかってるのか」
「わかってる」
真剣な眼差しで、てゐを見据えて言うチルノ。
「だったらどうして……」
言いかけたてゐの肩を、何者かがとんとんと叩いた。
「?」
てゐが振り返ると、薄く微笑んだ大妖精が、何かを指差していた。
「……え?」
するとそこには、一羽のウサギによる先導の下、永遠亭の玄関から、続々と姿を現す人妖達がいた。
「いやあ、一体なんだったんだろうな、今日は」
「不思議なこともあるもんだ」
「もうすっかり痛くないんだよなあ」
「病は気から、とも言うしねぇ」
そんなことを言いながら、ぞろぞろと歩いてくる人妖達。
その先頭に立っていたウサギに向けて、てゐは声を掛けた。
「れ、鈴仙? どしたの、一体」
「ああ、うん。それがね……」
鈴仙・優曇華院・イナバは、自分でも未だ理解しかねるといった表情をしながら、答えた。
「……今日来た患者さん、皆、良くなったのよ」
「え?」
その言葉の意味が分からず、間の抜けた声を発するてゐ。
「いや、だから、なぜか皆、急に具合が良くなったのよ。風邪の人も、怪我の人も」
「は……はあ?」
まるで意味が分からない。
しかし鈴仙に先導された者達は、確かに皆、一様に健康そうに見える。
「私も正直全然分からないんだけど、でも診察の必要がなくなったのは事実だから、とりあえず皆まとめて竹林の入り口まで送ってくるわ」
「あ、ああ……うん」
呆然とするてゐを尻目に、ぞろぞろと元患者御一行を従えつつ、鈴仙は竹藪の奥へと消えて行った。
やがてふと、てゐは我に返ったような表情になり、
「あ、あんた」
「ん?」
チルノに向けて手を伸ばす。
「それ、貸して」
「はい」
何の未練もないような仕草で、チルノはぽいっとノートを放った。
慌てて、それをキャッチするてゐ。
「一体、誰の……」
ぱらぱらとページをめくり、その一番新しい部分に目をやる。
そこには、拙いながらも堂々とした筆致で、こう書かれていた。
『ちるの』
「…………?」
てゐは折れそうなくらいに首をひねり、やがてはっと顔を閃かせた。
ぱらぱらとページをめくり、表紙裏の説明文をもう一度読む。
『このノートに名前を書かれた人は、幸せになります。その時、その人が一番望んでいる幸せが、その人の元に訪れます。』
―――その日、幻想郷中が幸せな報せで満ち溢れたことは言うまでもない。
了
チルノの優しさに触れて思わず涙腺が緩みかけました。
とても幸せな気持ちになれました!
それはそれとして純粋なチルノが可愛いですね
各キャラの一番望むしあわせにほっこりして、
チルノが純粋な妖精だから具合が良くなる願いがかなったのかなと思うと…!
100点じゃたりない!
ありがとうございます。
うへえ。
この話はここで切ってはいけないと思います。大事なところをぼかされた様に感じました。
まあそれは置いておくとして、良かったです。
たしかスティール・ボール・ランで、遺体をそろえた大統領がこんな感じの能力だったな。世界は相対で成り立っているとか。
チルノっぽいと言うのであれば、ひらがなでいいと思う。
27氏が言っているように、肝心なところが抜けてしまっている感が・・・
ただ、最後に書いた名前によって生まれた幸せに対する不幸せまで描写されなかったのが残念。
チルノ本人が不幸になるか、それとも一日が終わった後に幻想郷住人全員不幸になるか、それとも……と、色々考えてしまいます。
こういったハッピーエンドでやられると、読後感がスッキリしません。
純粋無垢な小さな氷精が自分のしたことに胸をきゅんと痛めてぼろぼろと涙を流した
それだけで幻想郷中が幸せになるには十分だったのさ