目の前を猫が通り過ぎた。黒い色の、何の変哲もない猫だ。毛並みはどちらかというと綺麗な方。野良猫の少ない人里の中だから、きっと誰かの飼い猫なのだろう。
細い路地へ入っていったその後ろ姿を見送って数秒。妹紅はふとその後を追おうと思い立ち、あとに続いて長屋の角を折れた。
迷いの竹林寄りの生活をしているとは言え、妹紅は人里と関わるようになってからは何やかやと細々した商売を抱えている。
例えば、永遠亭への道案内であったり。
例えば、竹細工で拵えた籠などの納入であったり。
例えば、迷いの竹林で採れる山菜や禽獣の販売であったり。
しかし今日は、特に何の予定もない。
梅雨時の晴天。あまり気温も高くはなくて、久方振りの散歩日和だった。指針もなく彷徨っていた中で見つけた、指針となりえそうなもの。追いかけなきゃいけないよなあと独り笑う。
永い夜から数年。不老不死を恐れない人間たちに混ざって、恐れられてきた千年あまりを取り戻すように、妹紅は呑気に暮らしている。呑気に過ぎるという気がしないではないが、一時期は妖怪にすら避けられていた我が身である。少しばかり長い社会復帰期間を設けたっていいだろう――そう思っている。
そうは言っても精神的なゆとりがある程度できたのはつい最近で、ゆえに人里と一括りにしてみても妹紅の知らない場所はいくらでもある。
この路地もまた、そんな場所の一つであるようだった。先を行く揺れる尻尾を追いながら、妹紅はきょろきょろと周りを見回す。
面している表通りはよく通る道だ。道なりに行けば里で最も親交のある顔馴染みの寺子屋が建っているからである。しかしまた、大抵の場合妹紅がこの道を通るのはそこへ向かう時なのだ。小径を横にそれた経験はない。
――何があるのかな。
鼻歌交じりに妹紅は歩みを進める。長屋と長屋の間の狭い道だった。この近辺に暮らしている人間以外は、立ち入る事のない道なのだろう。両端には人の頭くらいまでの塀があり、洗い桶や塵箱が置いてある。そこはかとなく生活臭が漂う道だ。雑然とした空間は、様々なモノに執着のない妹紅には新鮮な空間だった。人がいることを如実に感じられる空気というのは悪くないものだ、とそう思う。
その中に自分がこうしていることを、妹紅は幸福に感じている。妖怪という、人間には想像もつかないような永い寿命を誇る存在との共存。不死人が一人混ざっても、殆ど違和感を持たれない人の里。幻想郷は妹紅にとって、正しく望んでいた世界だった。人間にしてみれば妹紅とて妖怪のようなものかもしれないし、こんなことを考えること自体大仰なのかもしれないけれど。
数メートル先で、かくん、と黒猫が曲がり角を直角に折れた。その先はどうやら、少しばかり広い空間になっているらしい。ペースを崩さずに後を追い、妹紅もまた角を曲がる。
「……ん」
曲がって、すぐさま足を止めた。予想した通り、猫の額ほどの広場がそこにはあった。
まず目に入ったのは、井戸である。時間が時間なら近くの奥様方が井戸端会議をしているのだろう。この場所は砂地を踏み固めて均しただけの、簡単な共用庭というところか。現に物干し竿に吊るされた洗濯物が風にはためいている。日当たりはそこまで良いというわけでもないが、近在の長屋には他に干すような庭は見当たらなかった。人里の民家は大抵自前の庭など持っていない。里外れならともかく、中央に近い場所は長屋が密集したようになっているからだ。里そのものの面積が広くないのだから当然といえば当然なのだが。
視線を転じると、端の方で小さめの桜の木が青々とした葉をつけていた。その隣に、商売気のなさそうな"甘味処"の看板がかかっている。店の軒先には背もたれのない長椅子と傘が立てられていた。買ってすぐに食べられるスペースなのだろう。
傘の下では。
人里には似つかわしくない薄桃色の髪が――水無月の風に揺れている。
――あれは。
知っている顔だった。
「西行寺、幽々子?」
白玉楼の主が、従者も連れずに団子を頬張っていた。こちらには気付いていないようだ。
彼女が座っている背もたれのない長椅子の上で、先ほどの黒猫が物欲しそうに幽々子を見つめている。それをまるで意に解さず、幽々子はただ美味そうに団子を食べて茶を飲んでいた。
珍しいものを見たな、と歩み寄りながら妹紅は思う。
幽々子が顕界に現れるのは、多く宴会が催されるときだ。場所は博麗神社であったり永遠亭であったりと一定しないが、それ以外の場面で見かけたことはない。亡霊だから、冥界を長く離れるのは辛いのかもしれない。
永い夜を越えた後の肝試し。そのときにどうやら幽々子も竹林には来ていたらしいのだが、結界を使う二人組と戦っていた妹紅は、ついぞ言葉を交わすことはなかった。宴席であっても、殆ど言葉を交わした記憶はない。蓬莱人が苦手なのだそうよ、と言っていたのは永琳だったか。
幽々子の従者が時折里の中で買い出しをする姿を見かけるのだが、これにもあまり話しかけた記憶はない。つまり――見知っているだけで今まではほぼ接点のなかった相手だ。
広場の五分の一ほどが、玉砂利の敷かれた――おそらくは――店舗用の敷地になっていた。周りに比べると地面が低い。砂利を他所へ飛ばさないための工夫だろう。そうと気付いたのは、その範囲に踏み込んだ後だった。
ブーツの足が砂利を踏んで、ざくりと音を立てる。妹紅は何故か、しまった、と後悔した。別に忍び寄る意思などなかったのに。
「――あら」
そこで、幽々子はようやくこちらを認めたようだった。
「貴女は……ええと、どちら様だったかしら」
「……妹紅。藤原妹紅よ、西行寺――さん」
「私の名前を知っているのね。でもなんだか痒くなる仰々しさねえ。幽々子で構わないわよ?」
「それなら、私も妹紅で構わないよ」
「あらそう。なら妹紅、と呼ばせてもらうわね」
貴女もお団子食べる? と、白玉楼の主は家格に似合わない柔和な笑みを浮かべた。
妹紅を差し置いて、黒猫がみゃあと鳴き声をあげた。
「ここの甘味を食べに来たのよ。買い出しのついでだと、出来立てを食べられないでしょう」
「そんな理由でここへ?」
「冥界には甘味が少なくってねえ。妖夢に作ってもらうこともあるのだけれど、これがなかなか美味しくならなくて。あの子と私では味覚が違うせいなのかしらね」
食べ終えた幽々子は、そう言って笑った。その膝の上で、仰向けにされた黒猫がにゃあおと不満げに鳴く。看板猫なのだろう。妹紅はまんまと連れて来られたわけで、これを仕事と言うなら立派に果たしたことにはなるのだろうか。この人と同じものを――考えるのが面倒でそう注文した団子の皿が、妹紅の隣には置かれていた。三個刺しの串団子が三本。量はそれなりといったところか。
妖夢の菓子作りの腕は、努力は認めるしある程度のレベルには達しているのだが、最近はどうにも頭打ちであると言う。そんな折、友人がここの団子を提げて来たのだそうだ。妙に癖になる味――だったらしい。亡霊が癖になる味って、と妹紅は苦笑する。そんなものが人間に作り出せる味でいいのだろうか。
「で、来たと」
「ええ。お忍びなのよ」
ふうん、と頷いて妹紅は団子を頬張った。里の他の店よりも少しばかり固めの食感。ほんのり甘い風味が口中に広がる。不思議と懐かしい味だ。確かに――美味い。だが、どうしても食べたくなる類の味でもないようにも思う。
ちらりと後ろを振り返ると、老夫婦が狭い店内で忙しなく動いていた。あまり人が来そうにない立地だと言うのに、商品の方は団子から羊羹まで和菓子が一通り揃っている。売れているのだろうか、と妹紅は要らぬ心配をするが、おそらくは常連だけを相手にしているのだろう。そんな立地の気がした。新規の客を開拓しようという意思は殆ど感じられない。妹紅とて、黒猫に導かれなければここへたどり着くことはできなかっただろう。
里の中で流通する情報、と言えば口コミかごく少数が読む新聞くらいのものだ。甘味ともなれば娯楽なのだし、自発的に探そうと言う人間は必然的に少なくなる。細々と営むには店の規模は中途半端に大きく、商売っ気があるにしては場所が悪い。妖怪向けの店――なのかもしれない。
――隠れ家っぽいしなあ。
人を寄せる気のない雰囲気が、外の世界で彷徨っていた頃に使っていた住処の一つに似ている。もちろん清潔さ明るさはまるで違っているのだけれど、古く寂びた雰囲気が何となく感傷を呼んだのだ。あまり思い出したくない頃の記憶なのに。
茶を啜る。これもまた美味い――が、やはり何か物足りないような気もする。こういった雰囲気で楽しむにはちょうどいい味なのだろう、と無理に自分を納得させた。満足しないまま金を払うのは癪だったのである。
触れたことのある文化だとは思うのだが。
侘び寂び――とでも言うべきか。
――ううん。
ふと、慧音にも感想を聞いてみようかと思い立った。自分が理解するには知識が足りないかもしれないが、博識な彼女ならば。あまり知識の関係ない分野の話ではある上、こういう方面に詳しそうな知人――仇敵も一人いるのだが。そちらには、こちらから手土産を持って参じることに抵抗がある。
「ねえ、これの他にお勧めってどれ?」
「お土産?」
「まあね。アタマを使う仕事だから、甘いものは好きな奴だし」
にゃあお――鳴く声を無視して幽々子は少し考えてから、
「お饅頭は餡子がたっぷりで美味しかったわ」
「そう。じゃあそれにしようかな」
まだ、皿の上には二本の団子が残されている。黒猫の熱い視線に耐えかねて、妹紅は店主、と声を掛けた。
「へェ」
「この猫、団子やってもいいかな?」
「ああ、外回りちびッとだけなら良いですよ。あんまりやると腹ぁ下しますンで」
「だってさ。お前、結構甘やかされてんだね」
少しだけ噛みちぎり、目の前で振ってみる。仰向けのままで首だけをにゅうと伸ばして食いつかれた。丸呑み。妹紅は一瞬、呆気に取られる。歯には付かないかもしれないが、それでいいのかと問いたくなった。もし大きすぎて喉にでも詰まらせたらどうするつもりだったのか。
――不死じゃあるまいに。
死なれては寝覚めが悪いじゃないか。むう、と睨みつけても黒猫は嚥下してなお物欲しそうにこちらを見る。幽々子は苦笑しながらその喉をくすぐった。
「確か穀類は猫の栄養にはならなかったはずだけど」
「そうなんだ?」
「もとは肉食の動物だかららしいわ」
「飼ってるの、猫」
「白玉楼にはいないわねえ。貴女は、何か?」
「いや。私はそんなに余裕のある生活してるわけじゃないから。餌代が、ね」
妹紅は最後の一本に手を付けた。実際、こうして甘味処に入ったのも久し振りのことである。これに関してはわざわざ買うほど甘い物が好きではないという理由もあるけれど。
収入と支出は大抵いつもとんとんだ。永遠亭などへの案内は只、他の商売とて大きく儲かっているわけではない。生活に困るほど少なくもない代わりに、好き放題に贅沢ができるほど儲かっているわけでもない。とは言えこれは妹紅の主観であって、実際には里の平均的な収入と同程度である。
――使わないからどうでもいいんだけど。
千年余の人生だ。物欲はある程度枯れている。考えるまでもなく急な物入り以外で大金を使う機会はない。細々した日常の必需品は必要に応じて買っているが、購入先は妹紅が竹細工や山菜を卸す場所だ。それと引き換えにいくらか値引いてもらってもいる。
それでもなお、経済状況がとんとんなのは――十中八九、宴会に持っていく差し入れのせいである。一度気まぐれで持って行ったとき、やたらと喜ばれたのが嬉しかったのだ。以来、誘われればそのとき出せる範囲で何かしら持参することが習慣になってしまった。それまで支度を手伝えなかった分、どこかしら気後れする部分もあったから。
元貴族とは思い難いメンタリティかもしれないが、蓬莱の薬を飲んでから最初の三百年の間に形成された習性のようなものだった。できるだけ波風を立てないように生きなければならなかった――全ては必要性に駆られてのことである。
そんな気遣いは全て従者に任せているであろう白玉楼のお嬢様は、そう言えば、と言って妹紅を見た。
「貴女は普通にお団子食べるのねえ」
「なにが?」
「死なないのに物を食べられる、って不思議よね」
「……団子食べてた亡霊にそれを言われてもね」
最後の一口を咀嚼しながら、妹紅は横目で幽々子を睨む。
「でしょ?」
「あらあら、痛いところを突いてくるわね」
「それに宴会で顔合わせたときだって、私は普通に食べてたじゃない」
そうだったかしら――と、幽々子は惚ける。
「私も食べるのに夢中だから見ていなかったわ」
「呑気なのね」
「顕界の食べ物なんて娯楽みたいな物だもの。食べるのって楽しいわよね」
「……普段は何食べてるの?」
「魂――とか」
「え」
ほぼ無意識に上半身を引いた。揺れた髪が湯呑みを倒しそうになって、慌てて支える。ほっと息を吐いたところで、冗談よ――と笑われた。
「本当にぃ?」
「本当に冗談よぅ。最近は食べてないんだから。こわーい閻魔様が怒鳴り込んでくるもの。成仏させられちゃうわ、私」
「……昔は食べてたのね。最近って言われてもいまいち信用ならないなあ」
到底冗談には思えなかったのだけれど。妹紅はため息を吐いて仕切り直す。
「私の身体はいくらでも代えが利くこと以外は普通の人間と変わらないからね。お腹は空くし、出すものは出す。垢も浮けば、食べなきゃ死ぬ。まだ私がイキモノだっていう証かもね。死んでも別に支障はないけど、死なないに越したことはないでしょ。人に関わらないで生きてた頃ならともかく、こんな所で飢え死になんてのはちょっと御免蒙るし。死んだら死んだで嘲笑う奴もいるし――叱ってくれる奴もいるし」
「お友達?」
「……まあね」
僅かに頬を染めて、妹紅は湯呑みに残っていた茶を飲み干した。友達、なんて言葉が自分の口から出ることには抵抗がある。心配され、叱られてしまうことが多いから尚更だ。
とは言っても、基本的に自分の身体を省みることが少ないこと自体はあまり変わっていない。経済状況に関係なく、数日程度食事を摂らない程度のことは平気でやってしまう。
長く生きてきた中で、いつの間にか瀕死だった――などという笑えない状況に陥ったことは両手の指でも遠く足りない。死んだところで生き返るのだから、自分の身体には注意を払わなくなっている。不死性にかまけた良くない癖だと分かってはいるけれど、妹紅にはあまり直そうという気はない。
死に際の瞬間が最も生を感じられるから――である。
そう感じてしまうことは、どれだけ心配されようと変わらないだろう。我ながら呆れてしまうが、妹紅は既に諦めている。その程度で精神的な変化が留まっているのなら御の字だとすら思うのだ。そして。
――多分、あいつも。
嘲りをくれるであろう仇敵の顔を思い出す。殺されると感じたときに見せる歪みきった微笑。悦楽と安堵に満ちたそれ。
きっと自分も殺されるときには、似たような顔をしているに違いない、と妹紅は自らを嗤う。
するりと頬を撫でた。傷一つない滑らかな皮膚。こんな器はまがい物だ。そんな思いが、白子のように色味の抜け落ちた身体を確認するたびに湧き上がる。自らを人間である、生きているのだ――と定義している限りは付き纏う違和感だと、主治医からは聞かされている。その思いを捨てるつもりはない。心配してくれる友人に幾ら感謝していても、だ。
隣に座るモノが何なのか、妹紅は強く意識した。亡霊。生を再び感じることなどできない存在。
「あんたは」
妹紅は幽々子にちらりと視線を向けた。彼女はなあに? と小首を傾げて見つめ返してくる。
「死んでいる――んだよね」
「死んで千年の健康体よ」
「まあ亡霊だものね」
「無論亡霊ですから」
「死ぬ――ってさ。どういう感覚なの?」
「はて。質問の意味が能く分からないのだけれど」
何度も死んだことがあるんでしょう――と、困惑したように眉をひそめられて、妹紅は額に指を当てる。
「いや、うぅん。何と言うか、言葉にはし辛いんだけどね。無理に言うなら死に続ける感覚、って言うのかな。永遠に生きていることと永遠に死んでいることに差はあるのかと思ったのよ。どう答えられても私には経験できないことなんだけど。訊くだけ訊いてみたくって」
「ああ、そういうこと。私にだってよく分からないわ。生前の記憶がないから――生きてることと死んでることの違いなんてね」
言いながら、幽々子は両手を上げた。妹紅は戸惑いに目を瞠る。
「生きていた頃を覚えていないの?」
「覚えていないわねえ。死ぬ前のことも、死んだときのことも。亡霊である為には須らく忘れているべきことなのでしょう、多分。気になったこともあるけれど、少なくとも今は気にしていないから」
そんなの気にしなくても今は楽しいからいいの――と微笑んだ幽々子は、黒猫を妹紅へ向けて捧げ持った。不満げな視線を温く受け止める。意を決して喉元をくすぐってやると、嫌そうに喉を鳴らされた。
――猫のくせに。
妹紅はむう、と目を細める。猫には今一つ好かれない性質だった。群れない者同士の同族嫌悪なのだろうか。この黒猫にそんな意識があるのかは不明だが。
しばらく黒猫の反応を楽しんでから、幽々子はようやく解放した。脱兎の勢いで逃げて行く後ろ姿を、彼女はひらひらと手を振って見送る。また誰か自分のような客を連れてくるのだろうか、と妹紅は思う。いい加減席を離れた方がいいのかもしれない――とも。さっきから後頭部に刺さる視線が痛くなってきているような。
しかしこの機会を逃すのは惜しいような気がしていることも事実である。次に顔を合わせるのはおそらく何処かの宴会場だろう。ともすれば湿っぽくなりそうな話を、そんな場で振るつもりはない。悪いね、と内心で店主に詫びる。後で包んでもらうものリストに羊羹が上乗せされた。
妹紅の心境を気にする風もなく、幽々子は言う。
「全てを解っているなんてツマラナイわ。分からないことがあるくらいが丁度いいの」
「分からないこと――ねえ。自分のことなのに?」
「誰のことでも、よ」
猫を弄びながら考えたような、適当で曖昧な台詞だ――と、妹紅は頭を掻く。
「例えば?」
「例えば、そうねえ。私が食べたものはどこに行っているのか――とか?」
「……確かに、直接の栄養にはならなそうね」
「でしょう。これもやっぱり、私にはよく分からないの」
こうなってからずいぶん長いけどね、と幽々子は笑う。口に入れた傍から消えるのだとか。腹でも捌いてみる? と尋ねられて妹紅は顔を歪めた。
亡霊にとって食事というものがどういう概念なのか、それは今ひとつよく分からない。ただ、
「戻らない肉体を、魂が求めているのかもしれないわね」
と、幽々子は言う。顕界にいた頃の名残かもしれないそうだ。以前は人を取り殺すことで満たされようとしていたものが、いつからか代替手段として食事を選択するようになったのだ――と彼女は片付けているらしい。
自分が輝夜と殺し合いをしていたようなものかな、と妹紅は軽く考えた。あれもまた、一種の飢餓感が齎す衝動的なものだったと自分では思っている。かつては捨て鉢になって放棄しかけた"感情"を、"憎悪"をきっかけにどうにか取り戻そうとしていたのだ。最近はスペルカードルールに則って戦っていることが何よりの証拠だろう。
踏み止まることが――可能になった。
肉体を求める亡霊と。
感情を求める蓬莱人と。
「……意外と似たようなものかな」
死者と不死者に共通項を見出せるなんて。確かに、死んだような心地になっていた時期があるのは認めざるを得ないけれど。
――何て言うか。
亡霊と同じ心理状態というのは――至極不自然であり、考えてはいけないことかもしれない。死なないからこそ訪れた、生死の理解の間隙だろう。
幽々子が何処か妖艶に微笑む。
「――なにか言った?」
「何でもない。他にはないの」
「他? 他、ねえ……」
ううん、としばらく唸ったあと、幽々子はぽん、と手を打った。
「じゃあ、亡霊(わたし)は本当に死んでいるのか、なんて言うのはどうかしら」
「あん?」
束の間考えて、妹紅は不可解さに眉をひそめた。
「謎じゃないでしょう、それ。死んでいるから亡霊って言うんじゃない。と言うかさっき自分でも死ん」
「貴女は亡霊と幽霊の違いを知ってる?」
全て言わせず、幽々子は遮った。まあ付き合ってやるか暇だし、と妹紅はため息を吐く。
「亡霊は死んだ人間からしか生まれない。幽霊は――確か何からでも生まれるんじゃなかったっけ。亡霊が生まれる、って言うのも変な感じだけど」
「じゃあ、幻想郷には死して幽霊になるのではなく、初めから幽霊として命を得るものもいると言うことはご存知?」
「一応は。ここで暮らし始めてから長いしね」
幽霊は割合どこにでもいて、夏の間は捕まえると冷たくて重宝するのだ。冬場はなるべく離れておきたい存在だが、彼らにも好みの場所というものがある。習性を理解して誘導してやれば利用できないことはない。妹紅もいくらかの仕掛けを作って捕らえたり遠ざけたりする。
ここで問題です、と幽々子は人差し指を立てた。
「あれらは生き物と呼べる存在なのかしら?」
「ええと……待った、聞いたことがある。確か幽霊は妖精とは別の形を持った自然の発露、だったっけ。だから生き物と言っても差し支えはないんじゃないの。小難しいことはよく分からないけど、確かあんたの従者も幽霊よね」
宴会の場をふよふよと飛び回る幽霊の姿を思い浮かべる。人間体を伴ったあれが、厳密に幽霊と呼べるかどうかは分からないが。
――それが何だ。
意図が解らないからだろうか。妹紅は何故か、首を真綿で締められるような圧迫感を感じ始めている。
幽々子はそうねと頷いて、
「妖夢は半人半霊だから、三角をつけてあげましょう」
と、こちらが考えていたことを言った。妹紅は複雑な気分で苦笑する。
「そりゃどうも」
「あの子は貴女の目から見ても生きているのね。死んではいないと」
「死んでいたら人の方も霊の方ももう少し儚いんじゃないの。生気がないっていうかさ。幽々子みたいに」
「あらあら、妹紅だってあまり生気があるようには見えないわよ? 白いからかしらね」
「これは薬の副作用だ。放っといてくれ」
「私だって霊体なだけよ。放っておいて頂戴」
互いに笑い交わす。しかし。
「ならもう一つ。生きている幽霊と死んでいる幽霊の境は何なのかしらね」
そう問われて、妹紅は言葉に詰まった。そんなものを見分けられるのか。幽霊は――どちらも同じ幽霊ではないのか?
広場の隅、低めの壁が作り出した陰に目を向ける。数体の幽霊が折り重なるようにたむろしていた。夏本番になれば生鮮食品の保存に使われるのかもしれない。特別な仕掛けを施さずとも、協力的な幽霊はいるものだ。
――幽霊、か。
妹紅にとっては近くに当然としてあるもので、深く考えたことはなかった。生きているのか死んでいるのかなど、
「……よく分からないわね」
「だったらもう少し簡単な問にしましょうか。幽霊と亡霊の境は何だと思う?」
幽々子が妹紅の瞳を覗き込んでくる。弓の形に細められた紅い眼が。
先から感じる体温は人のものとそう変わらない。冷たい幽霊よりも"生きている"ような錯覚に襲われる。幽霊と亡霊の境、と言われてもよく分からないような心持ちになってきた。
――何を考えてるんだ?
まるで理解できない。だが解らないなりに頭を捻る。息苦しい。軽く頭を振って、感じていることをそのまま口に出す。
「幽霊はそれと分かるから避けられるけど、亡霊は普通の人間に混じって暮らしても違和感がないから危ないんじゃ」
なかったっけ――と呟いた妹紅のこめかみを、不意に汗が一筋伝った。暑くなどないはずなのに。困惑を抱えたまま、幽々子の眼を見つめ返す。
「あんた――みたいにさ」
「私――みたいに、ねえ」
くすくす。
西行寺幽々子は、
得体の知れない笑みを浮かべている。
宴会での柔和なそれとは一線を画すような、妖しい笑みを。
「危なさを基準に考えると、そういう分け方もできるかもしれないわね。正解正解。けれど、もっと分かりやすい判別法はないのかしら。貴女の言う通り、外見からだと生者と死者の区別がつきにくいのよねえ、幻想郷は」
さらさらと桜の葉が擦れあって音を立てる。
――あれ。
ふと妹紅は気付く。
視界の中心には幽々子が収まっている。
それは何も変わらない。
しかし、その端で――何か動くモノがいる。
「私が生きているのか死んでいるのかは、私の記憶に依る所が大きいでしょう? でも私に生前の記憶はないし、生まれた――死んだ瞬間の記憶もない。ならば私が亡霊と言う確証は何処にあるのかしら。千年間生き続けている幽霊なのかもしれないわよね?」
いつの間にか。
亡霊の話は幽々子の話に摩り替わっている。
店内の暗がりから湧き出た反魂蝶が舞う。
動いていたのはこれなのだろうか。
ふわり、ふわり。
飛来した蝶は、ゆったりと伸ばされた幽々子の指先に停まった。
婆さん、と呼びかける店主の声が聞こえる。
――確かに。
こんな所で見られる蝶じゃないものね――と、頭の冷静な部分が共感する。
けれど何故だか。
妹紅の口は開いてくれない。
幽々子はただ微笑んでいる。
「ああ、幽霊はカタチを持たないはずだなんて野暮は言わないで頂戴な。この蝶だって、私が生んだ幽霊の一形態に過ぎないわ。つまり顕界でのカタチなんてものは、研鑽次第でどうにでもなるのよ。人のカタチを取る幽霊がいる程度のことは、不思議でも何でもないでしょう?」
聞くな、と囁く声を聞いた。
そんな気が――するけれど。
「あるいは――」
ことのはがするりとはいりこむ。
周囲の音が消えていく。
甘いような。
柔いような。
爛れるような。
這い回るような。
心の隙間を突く声だけが、頭の中身を撫で回す。
吐き気がする。
思わず妹紅は口を押さえる。
それでも。
視線は縫い付けられたように幽々子から離れない。
紅色の瞳がすうと細められる。
「――貴女の方こそ死んでいるのではないかしら」
妹紅は。
紅の内に自らの映し身を見る。
籠だ。
虫籠だ。
――私は。
捕らえられて――しまったのか。
「幾度となく死んだ記憶を持っているのでしょう。幾度となく断絶を経験したのでしょう。生き返った自分と死んだ自分が地続きだと、誰が証明してくれるの? 蓬莱人は不死であると誰が言ったのかしら。もともと永遠に近い生を持った誰かの言葉でしょう。それは全て錯覚で、貴女の方こそ亡霊なのかもしれないわね? 貴女はもはや藤原妹紅なんて人間ではなくて、怨念を持ち続けた亡霊の成れの果てかもしれないわ。いいえ、蓬莱山輝夜を千年以上も追い続けた妄執は」
私なんかよりよほど恐ろしいものだわ――そう結んで、幽々子は極上の笑みを浮かべた。
幽々子の肩に反魂蝶は舞い移る。
籠の――瞳の中に未だ妹紅は捕らわれている。
紅い瞳の中。
映る自分の赤い瞳。
その中で反魂蝶が、翅を――開いて。
閉じる。
とてつもなく小さな像の、緩慢な動作に目を奪われる。
見る者を吸い寄せる、蠱惑的な光沢の蟲。
光の角度で翅の艶が色を変える。
魂の色だと何の根拠もなく直感する。
他のことを考えられない。
きらり。
煌めきが――誘う。
目眩。
くらくらと焦点が定まらない。
だと言うのに、不思議と目を離す気になれない。
くすくす。
笑い声が聞こえる。
どこかで店主の声がする。
受け答えをしたいのに。
眠い。
眠気に抗う気力が湧いてこない。
そのことが何故だかひどく恐ろしい。
死ぬはずなど――ないのに。
寒い。
昏い。
――ああ。
そうか。
これは。
がくりと頚が落ちる。
首筋が疼痛を訴える。
持ち上げる力がない。
瞼が重い。
胡乱な目で妹紅は膝を見つめている。
赤色が滲む。
符の文字が歪む。
――うう。
目を瞑る。
躰が傾く。
自分の重みに逆らえない。
どさり。
躰の倒れる音を聞く。
――私は。
妹紅の意識は暗転した。
ゆっくりと瞼を持ち上げる。いつの間にか曇った空を、潤んだ瞳が捉えた。ぼやけている。頭を打ったときに涙が浮かんだのだろう。掌で乱暴に拭うと、ようやく明瞭な視界が戻ってきた。
その中央を反魂蝶が二匹、横切って行く。もう、先に感じた衝動は感じなかった。それを疑問に思ううちに、
「起きたのね」
と、頭上から声が降ってきた。眼だけでその方向を伺う。幽々子がいつもの温和な笑顔で、こちらを覗き込んでいた。茫、とその紅い瞳を見つめ返す。蝶と同じく、誘惑は感じない。何故――なのだろう。
――……う?
見上げたままで考え込んでしまっていた。どうやら彼女に膝枕をされているらしいと理解するまでに、妹紅は優に十秒を要した。
「……ッ」
ぞわり、と背筋に悪寒を感じて一気に身体を起こす。背後でくすくすと笑う声が怖い。
――今のは。
妹紅はゆっくりと振り返る。
「……一回死んだわよ」
「あら、気付かなかったわ」
幽々子は驚いたように両手で口を覆う。妹紅はきっと眦を決して、彼女を睨む。
「恨めしや、とでも言ってあげましょうか」
「貴女が鈍いのがいけないのよ。ついついお誘いしたくなっちゃったの」
亡霊に取り殺されたのは初めてだった。気が緩んでいたのか。まさか人里で、という思いがあったことは事実だ。ただ眠りに就くような感覚だったけれど、全身を包む倦怠感が死んだことを如実に表している。今まで幾度となく経験したが故に理解できる、普通の人間には理解できるはずのない感覚だった。
ただ――何というか。
死に方が静かすぎて今一つ実感が湧かないのだ。同じ死ならもう少し派手な方がいい。妹紅は常ならば平穏な生活を望んでいる。しかし生死となると話は別だ。こんな、畳の上で死ぬが如き静かな死に様では――生きていることを実感するも何も無い。
詰まるところ。
二度と体験したくない死に方だった、と深いため息を吐く。
「あんたは……蓬莱人を殺せないって聞いてたのに」
「前に薬師さんを誘ったときには何も起きなかったわ」
「あいつが規格外なだけなんじゃ……そういうものなの?」
「強いひとは誘っても付いてきてくれないのよ。隙でもない限りはね」
「私が悪いっての?」
「まあまあ。どうせ生き返ったんだし、構わないじゃない」
悪びれもせずに幽々子は言う。なんだか不毛な気がして、妹紅は長椅子の上で仰向けになった。言われた通り、一度死ぬくらいは気を失った程度のことだ。結局死に誘う術程度では、完全に殺されることなどないのだ。これと同じ結果を欲するなら、こんな面倒なことをせずとも首でも刎ねてしまえばいい。その方がよほど手っ取り早い。
どこからが幽々子の術中だったのだろう。どこから虚言を弄されていたのだろう。まさかここらで人を殺していないだろうな、と訝る。
「幽々子は――実際何しに来たわけ?」
「初めに言った通りよ。甘味を食べに来ただけ」
何が甘味だかと呆れて、再びため息を吐いた。亡霊の基準で何処までを甘味と呼ぶのかも分からないのに、所詮は無益な問いだったのだ。理解したいとも思わないし、理解できたらそっちの方が怖い――と妹紅はぼんやり思う。里の中で人を殺せば、妖怪の賢者が出張って来るはずだ。その一線は信じたいところである。
心なしか、寝転んで見上げた雲は厚さを増しているように見えた。
何が隙だったのだろうと、そればかりを考えてしまう。
――まさか。
初めに路地へ入ったときではないだろうな、と妹紅は頭の下で手を組んだ。
淡い水色の着物を身に付けた背を見やる。訊いたところで答えは得られそうにない。けれどいきなり死へと誘(いざな)われても、顕界に縛り付けられた蓬莱人を一度たりとて取り殺すことなどできない――はずだ。思い出せそうにはないが、やはり何処かに隙はあったのだ。それをこじ開けられて、命を奪われたのだろう。やり方自体は妹紅には理解できないけれど。
――と言うか。
妹紅は幽々子との会話を思い出しながら、微かな怒りを胸に抱く。
「あの、さ。輝夜を追いかけてた――って、あいつに聞いたの?」
「そうよ。とっても楽しそうに教えてくれたわ」
「鬱陶しそうに、の間違いじゃない?」
「でもあの瞬間がやっぱり、一番揺れてくれたわね」
当たり前でしょう――と、妹紅は勢いを付けて上体を起こした。長い間、憎悪に依存してきたのだ。人の中で暮らすようになったとはいえ、そう簡単に動揺しなくなるはずがない。しなくなるのはおそらく、憎悪をも消しされたときのはずだ。
――やれやれ。
大きく伸びをする。身体のだるさは大部分が解消された。だが精神的な疲弊感は、幽々子と話している限り取れそうにない。最後に一つ確認をして立ち去ろう、と妹紅は心に決める。
「あんた本当に亡霊?」
それとも。
「蓬莱人だったりしないわよね?」
「いやあね、少しばかりひとを殺すことが好きな、ただの亡霊よ」
「危ない奴ね」
「珍しくもないわ。むしろ"らしい"と言ってほしいわね」
「私は個人の嗜好で殺されたの?」
「亡霊と会話したらダメってよく言うでしょう?」
亡霊のあんたがよく言うよ、と妹紅はまた大きくため息を吐いた。幽々子はくすくすと口許を隠して笑った。
とどのつまり、彼女はずっと死んでいて、自分はずっと生きている。在り方の違いを改めて思い知らされただけだったのかもしれない。
「……そろそろ行くわ。何か疲れちゃったし」
「そう? じゃあ、また」
「ああ、またどこかの宴会で」
妹紅は苦笑しながら言った。その辺で行き遭ってまた取り殺されては敵わない――という思惑は、すっかり見通されているだろう。それでも予防線を張っておきたくなるくらい、西行寺幽々子は苦手なものとして刷り込まれてしまったのだ。
幽々子は立ち上がる妹紅にひらひらと手を振って、挨拶に代えた。猫と同列に扱われることには思うところがないわけでもないが、こうして見る限り害はなさそうなのに、と妹紅は改めてうそ寒い気分になる。
この場は私が持つわね、と幽々子は言った。妹紅は断ろうとは露程にも考えなかった。一度殺された分、それくらいは払ってもらっても悪くないだろう。
じゃあ頼む、ともう一度伸びをして、そのまま広場を後にする。曲がり角を折れる瞬間に見えた幽々子は、まだひらひらと手を振っていた。その姿が見えなくなってから、妹紅は気が抜けたように笑う。
――あの猫、どこに行ったかな。
取り留めもないことを考えながら歩く。何故だか後ろ髪を引かれるような感覚に幾度か振り返りはしたものの、狭い路地からでは店の様子を伺うことはできない。路地を抜けて通りに出る頃には、そんな感覚も忘れてしまっていた。
最後に一度、振り返る。
無論。薄暗い路地の奥、曲がり角の向こう側は見通せない。
――ま、いっか。
雑踏の音をやけに賑やかに感じつつ、妹紅は少し迷ったあと、寺子屋への道を歩き始める。
ただ。
「……本当に団子食べに来ただけだったのかな」
胡蝶の夢を見たような、狐につままれたような――言い知れない感傷だけが、暫くの間妹紅の中に残留していた。
◆
反魂蝶が二匹、狭い広場で舞い踊っている。その様を具に眺めながら、幽々子はほうと息を吐いた。
そうして、
「紫」
小さく呟く。
「はぁい」
空間の軋む耳障りな音を響かせながら、古い友人が顔を出した。八雲紫。妖怪の賢者であり、里には滅多に顔を出さない大妖。顕界を穏便に訪れる為に、少しばかり力を借りたのだ。移動方法、人払いの結界。お忍びで動くにはうってつけの能力を持つ友だから、ちょっとした用があるときには頼りがいがあると幽々子は思っている。長い付き合いの中で、紫もその扱いには半ば慣れてしまっているらしい。決まって苦笑しながらも助力してくれる。好きな場所へ扇を一振り――昔は二人してよく遊び歩いたものだ。近頃はあまり機会がないけれど。
亡霊と妖怪――それも普段は冥界にいる亡霊と、得体の知れないことで有名な妖怪の二人。いつかの半獣さんが見たら卒倒するかも知れないわね、と幽々子は含み笑いする。
「今日は色々と楽しめたようね」
作り出したスキマにしなだれかかって、紫は幽々子に視線を注ぐ。
「亡霊を蒐めに来ただけだったのに、なかなか美味しいものを頂けたわ。此方の甘味っていうのも馬鹿にはできないわね」
食いしん坊ね、と紫は笑い、
そうでもないわ、と何故か幽々子は胸を張る。
「それにしても、小さな未練だったわね」
「あの人達には大事なことだったのよ。二回しか食べられなかったけれど、信念は感じられたわ。それに大きな未練だったら、私は妖夢に任せただろうし」
「あらら、そんなに美味しかったのなら私も食べていれば良かったわねえ」
「私好みの味だっただけよ」
貴女の好みには合わないはずだわ、と幽々子は言った。生きているか否かは感覚に大きく作用する。亡霊が美味しいと感じたものを美味いと感じられるかは、個人の好みでは超えられないほどの断絶がある。紫はそれを分かった上で言っているのだろうが、
――彼女は分かってないようだったわね。
つい先程まで隣にいた、亡霊に負けず劣らず薄い色合いの人物を思い出す。今までに見たどんな生命よりも、危うげに見えた姿を。
時間つぶしのつもりで火遊びしていたらつい本気になってしまった。生きているくせに死んでいる者の心地を理解した気になる、などという甘美すぎる隙を垣間見せたりするからだ。本能的に取り殺してしまったじゃない――と、幽々子は自分の所業を棚に上げて憤る。何だか興奮しているようね、と紫に笑われた。大きなお世話よ、と幽々子は返す。
顕界との結びつきが強過ぎて、魂の表面を舐めることしかできなかった。死んで剥き出しになっていたはずなのに。口にできたのは――僅かな時間の記憶だけだった。あれが不老不死と言うことなのだろうか。試せる相手が少なすぎて分からない。元月人にはまるで効かなかったから、素地の違いもあるのかもしれない。妹紅は元人間だから、他の蓬莱人に比して若干弱かった――とか。
――……ま、どうでもいいわね。
いずれにせよ二度と同じことをするつもりはないのだし。だいいち次に会ったとき、妹紅が亡霊にとって隙になりうる思考を再びするとも思えない。
幽々子は首を左右に振った。紫はその心中を見透かしたように薄く笑う。
――二度と味わえない甘味、ねえ。
何百年か昔なら、あれに匹敵するモノを求めてひとの魂を食い散らかしただろうか。有り得たかも、と幽々子は頷いて、帯に挟んでいた扇を広げる。
「ああ、蓬莱人は怖いわね。でも今は熱いお茶が一杯怖いわあ」
「それは冥界に帰って妖夢に頼んで頂戴」
「分かってるわよう。さ、帰りましょうか」
二匹の反魂蝶を従えて、幽々子はゆらりと立ち上がった。紫がスキマを大きく開く。足音もなく、二人と二匹はその中へ飲み込まれていった。
スキマの閉じる音が、人のいない広場に響く。
後には。
寂れた甘味処の看板だけが揺れている。その真下で、いつの間にか戻って来ていた黒猫が、悲しげににゃあお――と鳴いた。
細い路地へ入っていったその後ろ姿を見送って数秒。妹紅はふとその後を追おうと思い立ち、あとに続いて長屋の角を折れた。
迷いの竹林寄りの生活をしているとは言え、妹紅は人里と関わるようになってからは何やかやと細々した商売を抱えている。
例えば、永遠亭への道案内であったり。
例えば、竹細工で拵えた籠などの納入であったり。
例えば、迷いの竹林で採れる山菜や禽獣の販売であったり。
しかし今日は、特に何の予定もない。
梅雨時の晴天。あまり気温も高くはなくて、久方振りの散歩日和だった。指針もなく彷徨っていた中で見つけた、指針となりえそうなもの。追いかけなきゃいけないよなあと独り笑う。
永い夜から数年。不老不死を恐れない人間たちに混ざって、恐れられてきた千年あまりを取り戻すように、妹紅は呑気に暮らしている。呑気に過ぎるという気がしないではないが、一時期は妖怪にすら避けられていた我が身である。少しばかり長い社会復帰期間を設けたっていいだろう――そう思っている。
そうは言っても精神的なゆとりがある程度できたのはつい最近で、ゆえに人里と一括りにしてみても妹紅の知らない場所はいくらでもある。
この路地もまた、そんな場所の一つであるようだった。先を行く揺れる尻尾を追いながら、妹紅はきょろきょろと周りを見回す。
面している表通りはよく通る道だ。道なりに行けば里で最も親交のある顔馴染みの寺子屋が建っているからである。しかしまた、大抵の場合妹紅がこの道を通るのはそこへ向かう時なのだ。小径を横にそれた経験はない。
――何があるのかな。
鼻歌交じりに妹紅は歩みを進める。長屋と長屋の間の狭い道だった。この近辺に暮らしている人間以外は、立ち入る事のない道なのだろう。両端には人の頭くらいまでの塀があり、洗い桶や塵箱が置いてある。そこはかとなく生活臭が漂う道だ。雑然とした空間は、様々なモノに執着のない妹紅には新鮮な空間だった。人がいることを如実に感じられる空気というのは悪くないものだ、とそう思う。
その中に自分がこうしていることを、妹紅は幸福に感じている。妖怪という、人間には想像もつかないような永い寿命を誇る存在との共存。不死人が一人混ざっても、殆ど違和感を持たれない人の里。幻想郷は妹紅にとって、正しく望んでいた世界だった。人間にしてみれば妹紅とて妖怪のようなものかもしれないし、こんなことを考えること自体大仰なのかもしれないけれど。
数メートル先で、かくん、と黒猫が曲がり角を直角に折れた。その先はどうやら、少しばかり広い空間になっているらしい。ペースを崩さずに後を追い、妹紅もまた角を曲がる。
「……ん」
曲がって、すぐさま足を止めた。予想した通り、猫の額ほどの広場がそこにはあった。
まず目に入ったのは、井戸である。時間が時間なら近くの奥様方が井戸端会議をしているのだろう。この場所は砂地を踏み固めて均しただけの、簡単な共用庭というところか。現に物干し竿に吊るされた洗濯物が風にはためいている。日当たりはそこまで良いというわけでもないが、近在の長屋には他に干すような庭は見当たらなかった。人里の民家は大抵自前の庭など持っていない。里外れならともかく、中央に近い場所は長屋が密集したようになっているからだ。里そのものの面積が広くないのだから当然といえば当然なのだが。
視線を転じると、端の方で小さめの桜の木が青々とした葉をつけていた。その隣に、商売気のなさそうな"甘味処"の看板がかかっている。店の軒先には背もたれのない長椅子と傘が立てられていた。買ってすぐに食べられるスペースなのだろう。
傘の下では。
人里には似つかわしくない薄桃色の髪が――水無月の風に揺れている。
――あれは。
知っている顔だった。
「西行寺、幽々子?」
白玉楼の主が、従者も連れずに団子を頬張っていた。こちらには気付いていないようだ。
彼女が座っている背もたれのない長椅子の上で、先ほどの黒猫が物欲しそうに幽々子を見つめている。それをまるで意に解さず、幽々子はただ美味そうに団子を食べて茶を飲んでいた。
珍しいものを見たな、と歩み寄りながら妹紅は思う。
幽々子が顕界に現れるのは、多く宴会が催されるときだ。場所は博麗神社であったり永遠亭であったりと一定しないが、それ以外の場面で見かけたことはない。亡霊だから、冥界を長く離れるのは辛いのかもしれない。
永い夜を越えた後の肝試し。そのときにどうやら幽々子も竹林には来ていたらしいのだが、結界を使う二人組と戦っていた妹紅は、ついぞ言葉を交わすことはなかった。宴席であっても、殆ど言葉を交わした記憶はない。蓬莱人が苦手なのだそうよ、と言っていたのは永琳だったか。
幽々子の従者が時折里の中で買い出しをする姿を見かけるのだが、これにもあまり話しかけた記憶はない。つまり――見知っているだけで今まではほぼ接点のなかった相手だ。
広場の五分の一ほどが、玉砂利の敷かれた――おそらくは――店舗用の敷地になっていた。周りに比べると地面が低い。砂利を他所へ飛ばさないための工夫だろう。そうと気付いたのは、その範囲に踏み込んだ後だった。
ブーツの足が砂利を踏んで、ざくりと音を立てる。妹紅は何故か、しまった、と後悔した。別に忍び寄る意思などなかったのに。
「――あら」
そこで、幽々子はようやくこちらを認めたようだった。
「貴女は……ええと、どちら様だったかしら」
「……妹紅。藤原妹紅よ、西行寺――さん」
「私の名前を知っているのね。でもなんだか痒くなる仰々しさねえ。幽々子で構わないわよ?」
「それなら、私も妹紅で構わないよ」
「あらそう。なら妹紅、と呼ばせてもらうわね」
貴女もお団子食べる? と、白玉楼の主は家格に似合わない柔和な笑みを浮かべた。
妹紅を差し置いて、黒猫がみゃあと鳴き声をあげた。
「ここの甘味を食べに来たのよ。買い出しのついでだと、出来立てを食べられないでしょう」
「そんな理由でここへ?」
「冥界には甘味が少なくってねえ。妖夢に作ってもらうこともあるのだけれど、これがなかなか美味しくならなくて。あの子と私では味覚が違うせいなのかしらね」
食べ終えた幽々子は、そう言って笑った。その膝の上で、仰向けにされた黒猫がにゃあおと不満げに鳴く。看板猫なのだろう。妹紅はまんまと連れて来られたわけで、これを仕事と言うなら立派に果たしたことにはなるのだろうか。この人と同じものを――考えるのが面倒でそう注文した団子の皿が、妹紅の隣には置かれていた。三個刺しの串団子が三本。量はそれなりといったところか。
妖夢の菓子作りの腕は、努力は認めるしある程度のレベルには達しているのだが、最近はどうにも頭打ちであると言う。そんな折、友人がここの団子を提げて来たのだそうだ。妙に癖になる味――だったらしい。亡霊が癖になる味って、と妹紅は苦笑する。そんなものが人間に作り出せる味でいいのだろうか。
「で、来たと」
「ええ。お忍びなのよ」
ふうん、と頷いて妹紅は団子を頬張った。里の他の店よりも少しばかり固めの食感。ほんのり甘い風味が口中に広がる。不思議と懐かしい味だ。確かに――美味い。だが、どうしても食べたくなる類の味でもないようにも思う。
ちらりと後ろを振り返ると、老夫婦が狭い店内で忙しなく動いていた。あまり人が来そうにない立地だと言うのに、商品の方は団子から羊羹まで和菓子が一通り揃っている。売れているのだろうか、と妹紅は要らぬ心配をするが、おそらくは常連だけを相手にしているのだろう。そんな立地の気がした。新規の客を開拓しようという意思は殆ど感じられない。妹紅とて、黒猫に導かれなければここへたどり着くことはできなかっただろう。
里の中で流通する情報、と言えば口コミかごく少数が読む新聞くらいのものだ。甘味ともなれば娯楽なのだし、自発的に探そうと言う人間は必然的に少なくなる。細々と営むには店の規模は中途半端に大きく、商売っ気があるにしては場所が悪い。妖怪向けの店――なのかもしれない。
――隠れ家っぽいしなあ。
人を寄せる気のない雰囲気が、外の世界で彷徨っていた頃に使っていた住処の一つに似ている。もちろん清潔さ明るさはまるで違っているのだけれど、古く寂びた雰囲気が何となく感傷を呼んだのだ。あまり思い出したくない頃の記憶なのに。
茶を啜る。これもまた美味い――が、やはり何か物足りないような気もする。こういった雰囲気で楽しむにはちょうどいい味なのだろう、と無理に自分を納得させた。満足しないまま金を払うのは癪だったのである。
触れたことのある文化だとは思うのだが。
侘び寂び――とでも言うべきか。
――ううん。
ふと、慧音にも感想を聞いてみようかと思い立った。自分が理解するには知識が足りないかもしれないが、博識な彼女ならば。あまり知識の関係ない分野の話ではある上、こういう方面に詳しそうな知人――仇敵も一人いるのだが。そちらには、こちらから手土産を持って参じることに抵抗がある。
「ねえ、これの他にお勧めってどれ?」
「お土産?」
「まあね。アタマを使う仕事だから、甘いものは好きな奴だし」
にゃあお――鳴く声を無視して幽々子は少し考えてから、
「お饅頭は餡子がたっぷりで美味しかったわ」
「そう。じゃあそれにしようかな」
まだ、皿の上には二本の団子が残されている。黒猫の熱い視線に耐えかねて、妹紅は店主、と声を掛けた。
「へェ」
「この猫、団子やってもいいかな?」
「ああ、外回りちびッとだけなら良いですよ。あんまりやると腹ぁ下しますンで」
「だってさ。お前、結構甘やかされてんだね」
少しだけ噛みちぎり、目の前で振ってみる。仰向けのままで首だけをにゅうと伸ばして食いつかれた。丸呑み。妹紅は一瞬、呆気に取られる。歯には付かないかもしれないが、それでいいのかと問いたくなった。もし大きすぎて喉にでも詰まらせたらどうするつもりだったのか。
――不死じゃあるまいに。
死なれては寝覚めが悪いじゃないか。むう、と睨みつけても黒猫は嚥下してなお物欲しそうにこちらを見る。幽々子は苦笑しながらその喉をくすぐった。
「確か穀類は猫の栄養にはならなかったはずだけど」
「そうなんだ?」
「もとは肉食の動物だかららしいわ」
「飼ってるの、猫」
「白玉楼にはいないわねえ。貴女は、何か?」
「いや。私はそんなに余裕のある生活してるわけじゃないから。餌代が、ね」
妹紅は最後の一本に手を付けた。実際、こうして甘味処に入ったのも久し振りのことである。これに関してはわざわざ買うほど甘い物が好きではないという理由もあるけれど。
収入と支出は大抵いつもとんとんだ。永遠亭などへの案内は只、他の商売とて大きく儲かっているわけではない。生活に困るほど少なくもない代わりに、好き放題に贅沢ができるほど儲かっているわけでもない。とは言えこれは妹紅の主観であって、実際には里の平均的な収入と同程度である。
――使わないからどうでもいいんだけど。
千年余の人生だ。物欲はある程度枯れている。考えるまでもなく急な物入り以外で大金を使う機会はない。細々した日常の必需品は必要に応じて買っているが、購入先は妹紅が竹細工や山菜を卸す場所だ。それと引き換えにいくらか値引いてもらってもいる。
それでもなお、経済状況がとんとんなのは――十中八九、宴会に持っていく差し入れのせいである。一度気まぐれで持って行ったとき、やたらと喜ばれたのが嬉しかったのだ。以来、誘われればそのとき出せる範囲で何かしら持参することが習慣になってしまった。それまで支度を手伝えなかった分、どこかしら気後れする部分もあったから。
元貴族とは思い難いメンタリティかもしれないが、蓬莱の薬を飲んでから最初の三百年の間に形成された習性のようなものだった。できるだけ波風を立てないように生きなければならなかった――全ては必要性に駆られてのことである。
そんな気遣いは全て従者に任せているであろう白玉楼のお嬢様は、そう言えば、と言って妹紅を見た。
「貴女は普通にお団子食べるのねえ」
「なにが?」
「死なないのに物を食べられる、って不思議よね」
「……団子食べてた亡霊にそれを言われてもね」
最後の一口を咀嚼しながら、妹紅は横目で幽々子を睨む。
「でしょ?」
「あらあら、痛いところを突いてくるわね」
「それに宴会で顔合わせたときだって、私は普通に食べてたじゃない」
そうだったかしら――と、幽々子は惚ける。
「私も食べるのに夢中だから見ていなかったわ」
「呑気なのね」
「顕界の食べ物なんて娯楽みたいな物だもの。食べるのって楽しいわよね」
「……普段は何食べてるの?」
「魂――とか」
「え」
ほぼ無意識に上半身を引いた。揺れた髪が湯呑みを倒しそうになって、慌てて支える。ほっと息を吐いたところで、冗談よ――と笑われた。
「本当にぃ?」
「本当に冗談よぅ。最近は食べてないんだから。こわーい閻魔様が怒鳴り込んでくるもの。成仏させられちゃうわ、私」
「……昔は食べてたのね。最近って言われてもいまいち信用ならないなあ」
到底冗談には思えなかったのだけれど。妹紅はため息を吐いて仕切り直す。
「私の身体はいくらでも代えが利くこと以外は普通の人間と変わらないからね。お腹は空くし、出すものは出す。垢も浮けば、食べなきゃ死ぬ。まだ私がイキモノだっていう証かもね。死んでも別に支障はないけど、死なないに越したことはないでしょ。人に関わらないで生きてた頃ならともかく、こんな所で飢え死になんてのはちょっと御免蒙るし。死んだら死んだで嘲笑う奴もいるし――叱ってくれる奴もいるし」
「お友達?」
「……まあね」
僅かに頬を染めて、妹紅は湯呑みに残っていた茶を飲み干した。友達、なんて言葉が自分の口から出ることには抵抗がある。心配され、叱られてしまうことが多いから尚更だ。
とは言っても、基本的に自分の身体を省みることが少ないこと自体はあまり変わっていない。経済状況に関係なく、数日程度食事を摂らない程度のことは平気でやってしまう。
長く生きてきた中で、いつの間にか瀕死だった――などという笑えない状況に陥ったことは両手の指でも遠く足りない。死んだところで生き返るのだから、自分の身体には注意を払わなくなっている。不死性にかまけた良くない癖だと分かってはいるけれど、妹紅にはあまり直そうという気はない。
死に際の瞬間が最も生を感じられるから――である。
そう感じてしまうことは、どれだけ心配されようと変わらないだろう。我ながら呆れてしまうが、妹紅は既に諦めている。その程度で精神的な変化が留まっているのなら御の字だとすら思うのだ。そして。
――多分、あいつも。
嘲りをくれるであろう仇敵の顔を思い出す。殺されると感じたときに見せる歪みきった微笑。悦楽と安堵に満ちたそれ。
きっと自分も殺されるときには、似たような顔をしているに違いない、と妹紅は自らを嗤う。
するりと頬を撫でた。傷一つない滑らかな皮膚。こんな器はまがい物だ。そんな思いが、白子のように色味の抜け落ちた身体を確認するたびに湧き上がる。自らを人間である、生きているのだ――と定義している限りは付き纏う違和感だと、主治医からは聞かされている。その思いを捨てるつもりはない。心配してくれる友人に幾ら感謝していても、だ。
隣に座るモノが何なのか、妹紅は強く意識した。亡霊。生を再び感じることなどできない存在。
「あんたは」
妹紅は幽々子にちらりと視線を向けた。彼女はなあに? と小首を傾げて見つめ返してくる。
「死んでいる――んだよね」
「死んで千年の健康体よ」
「まあ亡霊だものね」
「無論亡霊ですから」
「死ぬ――ってさ。どういう感覚なの?」
「はて。質問の意味が能く分からないのだけれど」
何度も死んだことがあるんでしょう――と、困惑したように眉をひそめられて、妹紅は額に指を当てる。
「いや、うぅん。何と言うか、言葉にはし辛いんだけどね。無理に言うなら死に続ける感覚、って言うのかな。永遠に生きていることと永遠に死んでいることに差はあるのかと思ったのよ。どう答えられても私には経験できないことなんだけど。訊くだけ訊いてみたくって」
「ああ、そういうこと。私にだってよく分からないわ。生前の記憶がないから――生きてることと死んでることの違いなんてね」
言いながら、幽々子は両手を上げた。妹紅は戸惑いに目を瞠る。
「生きていた頃を覚えていないの?」
「覚えていないわねえ。死ぬ前のことも、死んだときのことも。亡霊である為には須らく忘れているべきことなのでしょう、多分。気になったこともあるけれど、少なくとも今は気にしていないから」
そんなの気にしなくても今は楽しいからいいの――と微笑んだ幽々子は、黒猫を妹紅へ向けて捧げ持った。不満げな視線を温く受け止める。意を決して喉元をくすぐってやると、嫌そうに喉を鳴らされた。
――猫のくせに。
妹紅はむう、と目を細める。猫には今一つ好かれない性質だった。群れない者同士の同族嫌悪なのだろうか。この黒猫にそんな意識があるのかは不明だが。
しばらく黒猫の反応を楽しんでから、幽々子はようやく解放した。脱兎の勢いで逃げて行く後ろ姿を、彼女はひらひらと手を振って見送る。また誰か自分のような客を連れてくるのだろうか、と妹紅は思う。いい加減席を離れた方がいいのかもしれない――とも。さっきから後頭部に刺さる視線が痛くなってきているような。
しかしこの機会を逃すのは惜しいような気がしていることも事実である。次に顔を合わせるのはおそらく何処かの宴会場だろう。ともすれば湿っぽくなりそうな話を、そんな場で振るつもりはない。悪いね、と内心で店主に詫びる。後で包んでもらうものリストに羊羹が上乗せされた。
妹紅の心境を気にする風もなく、幽々子は言う。
「全てを解っているなんてツマラナイわ。分からないことがあるくらいが丁度いいの」
「分からないこと――ねえ。自分のことなのに?」
「誰のことでも、よ」
猫を弄びながら考えたような、適当で曖昧な台詞だ――と、妹紅は頭を掻く。
「例えば?」
「例えば、そうねえ。私が食べたものはどこに行っているのか――とか?」
「……確かに、直接の栄養にはならなそうね」
「でしょう。これもやっぱり、私にはよく分からないの」
こうなってからずいぶん長いけどね、と幽々子は笑う。口に入れた傍から消えるのだとか。腹でも捌いてみる? と尋ねられて妹紅は顔を歪めた。
亡霊にとって食事というものがどういう概念なのか、それは今ひとつよく分からない。ただ、
「戻らない肉体を、魂が求めているのかもしれないわね」
と、幽々子は言う。顕界にいた頃の名残かもしれないそうだ。以前は人を取り殺すことで満たされようとしていたものが、いつからか代替手段として食事を選択するようになったのだ――と彼女は片付けているらしい。
自分が輝夜と殺し合いをしていたようなものかな、と妹紅は軽く考えた。あれもまた、一種の飢餓感が齎す衝動的なものだったと自分では思っている。かつては捨て鉢になって放棄しかけた"感情"を、"憎悪"をきっかけにどうにか取り戻そうとしていたのだ。最近はスペルカードルールに則って戦っていることが何よりの証拠だろう。
踏み止まることが――可能になった。
肉体を求める亡霊と。
感情を求める蓬莱人と。
「……意外と似たようなものかな」
死者と不死者に共通項を見出せるなんて。確かに、死んだような心地になっていた時期があるのは認めざるを得ないけれど。
――何て言うか。
亡霊と同じ心理状態というのは――至極不自然であり、考えてはいけないことかもしれない。死なないからこそ訪れた、生死の理解の間隙だろう。
幽々子が何処か妖艶に微笑む。
「――なにか言った?」
「何でもない。他にはないの」
「他? 他、ねえ……」
ううん、としばらく唸ったあと、幽々子はぽん、と手を打った。
「じゃあ、亡霊(わたし)は本当に死んでいるのか、なんて言うのはどうかしら」
「あん?」
束の間考えて、妹紅は不可解さに眉をひそめた。
「謎じゃないでしょう、それ。死んでいるから亡霊って言うんじゃない。と言うかさっき自分でも死ん」
「貴女は亡霊と幽霊の違いを知ってる?」
全て言わせず、幽々子は遮った。まあ付き合ってやるか暇だし、と妹紅はため息を吐く。
「亡霊は死んだ人間からしか生まれない。幽霊は――確か何からでも生まれるんじゃなかったっけ。亡霊が生まれる、って言うのも変な感じだけど」
「じゃあ、幻想郷には死して幽霊になるのではなく、初めから幽霊として命を得るものもいると言うことはご存知?」
「一応は。ここで暮らし始めてから長いしね」
幽霊は割合どこにでもいて、夏の間は捕まえると冷たくて重宝するのだ。冬場はなるべく離れておきたい存在だが、彼らにも好みの場所というものがある。習性を理解して誘導してやれば利用できないことはない。妹紅もいくらかの仕掛けを作って捕らえたり遠ざけたりする。
ここで問題です、と幽々子は人差し指を立てた。
「あれらは生き物と呼べる存在なのかしら?」
「ええと……待った、聞いたことがある。確か幽霊は妖精とは別の形を持った自然の発露、だったっけ。だから生き物と言っても差し支えはないんじゃないの。小難しいことはよく分からないけど、確かあんたの従者も幽霊よね」
宴会の場をふよふよと飛び回る幽霊の姿を思い浮かべる。人間体を伴ったあれが、厳密に幽霊と呼べるかどうかは分からないが。
――それが何だ。
意図が解らないからだろうか。妹紅は何故か、首を真綿で締められるような圧迫感を感じ始めている。
幽々子はそうねと頷いて、
「妖夢は半人半霊だから、三角をつけてあげましょう」
と、こちらが考えていたことを言った。妹紅は複雑な気分で苦笑する。
「そりゃどうも」
「あの子は貴女の目から見ても生きているのね。死んではいないと」
「死んでいたら人の方も霊の方ももう少し儚いんじゃないの。生気がないっていうかさ。幽々子みたいに」
「あらあら、妹紅だってあまり生気があるようには見えないわよ? 白いからかしらね」
「これは薬の副作用だ。放っといてくれ」
「私だって霊体なだけよ。放っておいて頂戴」
互いに笑い交わす。しかし。
「ならもう一つ。生きている幽霊と死んでいる幽霊の境は何なのかしらね」
そう問われて、妹紅は言葉に詰まった。そんなものを見分けられるのか。幽霊は――どちらも同じ幽霊ではないのか?
広場の隅、低めの壁が作り出した陰に目を向ける。数体の幽霊が折り重なるようにたむろしていた。夏本番になれば生鮮食品の保存に使われるのかもしれない。特別な仕掛けを施さずとも、協力的な幽霊はいるものだ。
――幽霊、か。
妹紅にとっては近くに当然としてあるもので、深く考えたことはなかった。生きているのか死んでいるのかなど、
「……よく分からないわね」
「だったらもう少し簡単な問にしましょうか。幽霊と亡霊の境は何だと思う?」
幽々子が妹紅の瞳を覗き込んでくる。弓の形に細められた紅い眼が。
先から感じる体温は人のものとそう変わらない。冷たい幽霊よりも"生きている"ような錯覚に襲われる。幽霊と亡霊の境、と言われてもよく分からないような心持ちになってきた。
――何を考えてるんだ?
まるで理解できない。だが解らないなりに頭を捻る。息苦しい。軽く頭を振って、感じていることをそのまま口に出す。
「幽霊はそれと分かるから避けられるけど、亡霊は普通の人間に混じって暮らしても違和感がないから危ないんじゃ」
なかったっけ――と呟いた妹紅のこめかみを、不意に汗が一筋伝った。暑くなどないはずなのに。困惑を抱えたまま、幽々子の眼を見つめ返す。
「あんた――みたいにさ」
「私――みたいに、ねえ」
くすくす。
西行寺幽々子は、
得体の知れない笑みを浮かべている。
宴会での柔和なそれとは一線を画すような、妖しい笑みを。
「危なさを基準に考えると、そういう分け方もできるかもしれないわね。正解正解。けれど、もっと分かりやすい判別法はないのかしら。貴女の言う通り、外見からだと生者と死者の区別がつきにくいのよねえ、幻想郷は」
さらさらと桜の葉が擦れあって音を立てる。
――あれ。
ふと妹紅は気付く。
視界の中心には幽々子が収まっている。
それは何も変わらない。
しかし、その端で――何か動くモノがいる。
「私が生きているのか死んでいるのかは、私の記憶に依る所が大きいでしょう? でも私に生前の記憶はないし、生まれた――死んだ瞬間の記憶もない。ならば私が亡霊と言う確証は何処にあるのかしら。千年間生き続けている幽霊なのかもしれないわよね?」
いつの間にか。
亡霊の話は幽々子の話に摩り替わっている。
店内の暗がりから湧き出た反魂蝶が舞う。
動いていたのはこれなのだろうか。
ふわり、ふわり。
飛来した蝶は、ゆったりと伸ばされた幽々子の指先に停まった。
婆さん、と呼びかける店主の声が聞こえる。
――確かに。
こんな所で見られる蝶じゃないものね――と、頭の冷静な部分が共感する。
けれど何故だか。
妹紅の口は開いてくれない。
幽々子はただ微笑んでいる。
「ああ、幽霊はカタチを持たないはずだなんて野暮は言わないで頂戴な。この蝶だって、私が生んだ幽霊の一形態に過ぎないわ。つまり顕界でのカタチなんてものは、研鑽次第でどうにでもなるのよ。人のカタチを取る幽霊がいる程度のことは、不思議でも何でもないでしょう?」
聞くな、と囁く声を聞いた。
そんな気が――するけれど。
「あるいは――」
ことのはがするりとはいりこむ。
周囲の音が消えていく。
甘いような。
柔いような。
爛れるような。
這い回るような。
心の隙間を突く声だけが、頭の中身を撫で回す。
吐き気がする。
思わず妹紅は口を押さえる。
それでも。
視線は縫い付けられたように幽々子から離れない。
紅色の瞳がすうと細められる。
「――貴女の方こそ死んでいるのではないかしら」
妹紅は。
紅の内に自らの映し身を見る。
籠だ。
虫籠だ。
――私は。
捕らえられて――しまったのか。
「幾度となく死んだ記憶を持っているのでしょう。幾度となく断絶を経験したのでしょう。生き返った自分と死んだ自分が地続きだと、誰が証明してくれるの? 蓬莱人は不死であると誰が言ったのかしら。もともと永遠に近い生を持った誰かの言葉でしょう。それは全て錯覚で、貴女の方こそ亡霊なのかもしれないわね? 貴女はもはや藤原妹紅なんて人間ではなくて、怨念を持ち続けた亡霊の成れの果てかもしれないわ。いいえ、蓬莱山輝夜を千年以上も追い続けた妄執は」
私なんかよりよほど恐ろしいものだわ――そう結んで、幽々子は極上の笑みを浮かべた。
幽々子の肩に反魂蝶は舞い移る。
籠の――瞳の中に未だ妹紅は捕らわれている。
紅い瞳の中。
映る自分の赤い瞳。
その中で反魂蝶が、翅を――開いて。
閉じる。
とてつもなく小さな像の、緩慢な動作に目を奪われる。
見る者を吸い寄せる、蠱惑的な光沢の蟲。
光の角度で翅の艶が色を変える。
魂の色だと何の根拠もなく直感する。
他のことを考えられない。
きらり。
煌めきが――誘う。
目眩。
くらくらと焦点が定まらない。
だと言うのに、不思議と目を離す気になれない。
くすくす。
笑い声が聞こえる。
どこかで店主の声がする。
受け答えをしたいのに。
眠い。
眠気に抗う気力が湧いてこない。
そのことが何故だかひどく恐ろしい。
死ぬはずなど――ないのに。
寒い。
昏い。
――ああ。
そうか。
これは。
がくりと頚が落ちる。
首筋が疼痛を訴える。
持ち上げる力がない。
瞼が重い。
胡乱な目で妹紅は膝を見つめている。
赤色が滲む。
符の文字が歪む。
――うう。
目を瞑る。
躰が傾く。
自分の重みに逆らえない。
どさり。
躰の倒れる音を聞く。
――私は。
妹紅の意識は暗転した。
ゆっくりと瞼を持ち上げる。いつの間にか曇った空を、潤んだ瞳が捉えた。ぼやけている。頭を打ったときに涙が浮かんだのだろう。掌で乱暴に拭うと、ようやく明瞭な視界が戻ってきた。
その中央を反魂蝶が二匹、横切って行く。もう、先に感じた衝動は感じなかった。それを疑問に思ううちに、
「起きたのね」
と、頭上から声が降ってきた。眼だけでその方向を伺う。幽々子がいつもの温和な笑顔で、こちらを覗き込んでいた。茫、とその紅い瞳を見つめ返す。蝶と同じく、誘惑は感じない。何故――なのだろう。
――……う?
見上げたままで考え込んでしまっていた。どうやら彼女に膝枕をされているらしいと理解するまでに、妹紅は優に十秒を要した。
「……ッ」
ぞわり、と背筋に悪寒を感じて一気に身体を起こす。背後でくすくすと笑う声が怖い。
――今のは。
妹紅はゆっくりと振り返る。
「……一回死んだわよ」
「あら、気付かなかったわ」
幽々子は驚いたように両手で口を覆う。妹紅はきっと眦を決して、彼女を睨む。
「恨めしや、とでも言ってあげましょうか」
「貴女が鈍いのがいけないのよ。ついついお誘いしたくなっちゃったの」
亡霊に取り殺されたのは初めてだった。気が緩んでいたのか。まさか人里で、という思いがあったことは事実だ。ただ眠りに就くような感覚だったけれど、全身を包む倦怠感が死んだことを如実に表している。今まで幾度となく経験したが故に理解できる、普通の人間には理解できるはずのない感覚だった。
ただ――何というか。
死に方が静かすぎて今一つ実感が湧かないのだ。同じ死ならもう少し派手な方がいい。妹紅は常ならば平穏な生活を望んでいる。しかし生死となると話は別だ。こんな、畳の上で死ぬが如き静かな死に様では――生きていることを実感するも何も無い。
詰まるところ。
二度と体験したくない死に方だった、と深いため息を吐く。
「あんたは……蓬莱人を殺せないって聞いてたのに」
「前に薬師さんを誘ったときには何も起きなかったわ」
「あいつが規格外なだけなんじゃ……そういうものなの?」
「強いひとは誘っても付いてきてくれないのよ。隙でもない限りはね」
「私が悪いっての?」
「まあまあ。どうせ生き返ったんだし、構わないじゃない」
悪びれもせずに幽々子は言う。なんだか不毛な気がして、妹紅は長椅子の上で仰向けになった。言われた通り、一度死ぬくらいは気を失った程度のことだ。結局死に誘う術程度では、完全に殺されることなどないのだ。これと同じ結果を欲するなら、こんな面倒なことをせずとも首でも刎ねてしまえばいい。その方がよほど手っ取り早い。
どこからが幽々子の術中だったのだろう。どこから虚言を弄されていたのだろう。まさかここらで人を殺していないだろうな、と訝る。
「幽々子は――実際何しに来たわけ?」
「初めに言った通りよ。甘味を食べに来ただけ」
何が甘味だかと呆れて、再びため息を吐いた。亡霊の基準で何処までを甘味と呼ぶのかも分からないのに、所詮は無益な問いだったのだ。理解したいとも思わないし、理解できたらそっちの方が怖い――と妹紅はぼんやり思う。里の中で人を殺せば、妖怪の賢者が出張って来るはずだ。その一線は信じたいところである。
心なしか、寝転んで見上げた雲は厚さを増しているように見えた。
何が隙だったのだろうと、そればかりを考えてしまう。
――まさか。
初めに路地へ入ったときではないだろうな、と妹紅は頭の下で手を組んだ。
淡い水色の着物を身に付けた背を見やる。訊いたところで答えは得られそうにない。けれどいきなり死へと誘(いざな)われても、顕界に縛り付けられた蓬莱人を一度たりとて取り殺すことなどできない――はずだ。思い出せそうにはないが、やはり何処かに隙はあったのだ。それをこじ開けられて、命を奪われたのだろう。やり方自体は妹紅には理解できないけれど。
――と言うか。
妹紅は幽々子との会話を思い出しながら、微かな怒りを胸に抱く。
「あの、さ。輝夜を追いかけてた――って、あいつに聞いたの?」
「そうよ。とっても楽しそうに教えてくれたわ」
「鬱陶しそうに、の間違いじゃない?」
「でもあの瞬間がやっぱり、一番揺れてくれたわね」
当たり前でしょう――と、妹紅は勢いを付けて上体を起こした。長い間、憎悪に依存してきたのだ。人の中で暮らすようになったとはいえ、そう簡単に動揺しなくなるはずがない。しなくなるのはおそらく、憎悪をも消しされたときのはずだ。
――やれやれ。
大きく伸びをする。身体のだるさは大部分が解消された。だが精神的な疲弊感は、幽々子と話している限り取れそうにない。最後に一つ確認をして立ち去ろう、と妹紅は心に決める。
「あんた本当に亡霊?」
それとも。
「蓬莱人だったりしないわよね?」
「いやあね、少しばかりひとを殺すことが好きな、ただの亡霊よ」
「危ない奴ね」
「珍しくもないわ。むしろ"らしい"と言ってほしいわね」
「私は個人の嗜好で殺されたの?」
「亡霊と会話したらダメってよく言うでしょう?」
亡霊のあんたがよく言うよ、と妹紅はまた大きくため息を吐いた。幽々子はくすくすと口許を隠して笑った。
とどのつまり、彼女はずっと死んでいて、自分はずっと生きている。在り方の違いを改めて思い知らされただけだったのかもしれない。
「……そろそろ行くわ。何か疲れちゃったし」
「そう? じゃあ、また」
「ああ、またどこかの宴会で」
妹紅は苦笑しながら言った。その辺で行き遭ってまた取り殺されては敵わない――という思惑は、すっかり見通されているだろう。それでも予防線を張っておきたくなるくらい、西行寺幽々子は苦手なものとして刷り込まれてしまったのだ。
幽々子は立ち上がる妹紅にひらひらと手を振って、挨拶に代えた。猫と同列に扱われることには思うところがないわけでもないが、こうして見る限り害はなさそうなのに、と妹紅は改めてうそ寒い気分になる。
この場は私が持つわね、と幽々子は言った。妹紅は断ろうとは露程にも考えなかった。一度殺された分、それくらいは払ってもらっても悪くないだろう。
じゃあ頼む、ともう一度伸びをして、そのまま広場を後にする。曲がり角を折れる瞬間に見えた幽々子は、まだひらひらと手を振っていた。その姿が見えなくなってから、妹紅は気が抜けたように笑う。
――あの猫、どこに行ったかな。
取り留めもないことを考えながら歩く。何故だか後ろ髪を引かれるような感覚に幾度か振り返りはしたものの、狭い路地からでは店の様子を伺うことはできない。路地を抜けて通りに出る頃には、そんな感覚も忘れてしまっていた。
最後に一度、振り返る。
無論。薄暗い路地の奥、曲がり角の向こう側は見通せない。
――ま、いっか。
雑踏の音をやけに賑やかに感じつつ、妹紅は少し迷ったあと、寺子屋への道を歩き始める。
ただ。
「……本当に団子食べに来ただけだったのかな」
胡蝶の夢を見たような、狐につままれたような――言い知れない感傷だけが、暫くの間妹紅の中に残留していた。
◆
反魂蝶が二匹、狭い広場で舞い踊っている。その様を具に眺めながら、幽々子はほうと息を吐いた。
そうして、
「紫」
小さく呟く。
「はぁい」
空間の軋む耳障りな音を響かせながら、古い友人が顔を出した。八雲紫。妖怪の賢者であり、里には滅多に顔を出さない大妖。顕界を穏便に訪れる為に、少しばかり力を借りたのだ。移動方法、人払いの結界。お忍びで動くにはうってつけの能力を持つ友だから、ちょっとした用があるときには頼りがいがあると幽々子は思っている。長い付き合いの中で、紫もその扱いには半ば慣れてしまっているらしい。決まって苦笑しながらも助力してくれる。好きな場所へ扇を一振り――昔は二人してよく遊び歩いたものだ。近頃はあまり機会がないけれど。
亡霊と妖怪――それも普段は冥界にいる亡霊と、得体の知れないことで有名な妖怪の二人。いつかの半獣さんが見たら卒倒するかも知れないわね、と幽々子は含み笑いする。
「今日は色々と楽しめたようね」
作り出したスキマにしなだれかかって、紫は幽々子に視線を注ぐ。
「亡霊を蒐めに来ただけだったのに、なかなか美味しいものを頂けたわ。此方の甘味っていうのも馬鹿にはできないわね」
食いしん坊ね、と紫は笑い、
そうでもないわ、と何故か幽々子は胸を張る。
「それにしても、小さな未練だったわね」
「あの人達には大事なことだったのよ。二回しか食べられなかったけれど、信念は感じられたわ。それに大きな未練だったら、私は妖夢に任せただろうし」
「あらら、そんなに美味しかったのなら私も食べていれば良かったわねえ」
「私好みの味だっただけよ」
貴女の好みには合わないはずだわ、と幽々子は言った。生きているか否かは感覚に大きく作用する。亡霊が美味しいと感じたものを美味いと感じられるかは、個人の好みでは超えられないほどの断絶がある。紫はそれを分かった上で言っているのだろうが、
――彼女は分かってないようだったわね。
つい先程まで隣にいた、亡霊に負けず劣らず薄い色合いの人物を思い出す。今までに見たどんな生命よりも、危うげに見えた姿を。
時間つぶしのつもりで火遊びしていたらつい本気になってしまった。生きているくせに死んでいる者の心地を理解した気になる、などという甘美すぎる隙を垣間見せたりするからだ。本能的に取り殺してしまったじゃない――と、幽々子は自分の所業を棚に上げて憤る。何だか興奮しているようね、と紫に笑われた。大きなお世話よ、と幽々子は返す。
顕界との結びつきが強過ぎて、魂の表面を舐めることしかできなかった。死んで剥き出しになっていたはずなのに。口にできたのは――僅かな時間の記憶だけだった。あれが不老不死と言うことなのだろうか。試せる相手が少なすぎて分からない。元月人にはまるで効かなかったから、素地の違いもあるのかもしれない。妹紅は元人間だから、他の蓬莱人に比して若干弱かった――とか。
――……ま、どうでもいいわね。
いずれにせよ二度と同じことをするつもりはないのだし。だいいち次に会ったとき、妹紅が亡霊にとって隙になりうる思考を再びするとも思えない。
幽々子は首を左右に振った。紫はその心中を見透かしたように薄く笑う。
――二度と味わえない甘味、ねえ。
何百年か昔なら、あれに匹敵するモノを求めてひとの魂を食い散らかしただろうか。有り得たかも、と幽々子は頷いて、帯に挟んでいた扇を広げる。
「ああ、蓬莱人は怖いわね。でも今は熱いお茶が一杯怖いわあ」
「それは冥界に帰って妖夢に頼んで頂戴」
「分かってるわよう。さ、帰りましょうか」
二匹の反魂蝶を従えて、幽々子はゆらりと立ち上がった。紫がスキマを大きく開く。足音もなく、二人と二匹はその中へ飲み込まれていった。
スキマの閉じる音が、人のいない広場に響く。
後には。
寂れた甘味処の看板だけが揺れている。その真下で、いつの間にか戻って来ていた黒猫が、悲しげににゃあお――と鳴いた。
かぐや姫の昇天は死の隠喩とする説もあるそうで。だとすると、蓬莱人は皆死んでいることになりますね。
幽々子も、亡霊というよりか、或る意味では死神なんでしょう。
不死と既死の線引きは難しい。
確かに亡霊と不死人の境界は曖昧。どっちも永遠に存在するわけだし
何とも奇妙で静かで心地好い、存分に楽しませて頂きました
妹紅の話のはずが、最後を幽々子に持って行かれまして。上手くまとめられていたでしょうか。
>不死と既死/亡霊と不死人
境界に曖昧さを持っていても、流れのどこかには存在していられる。
そんな世界だといいと思うのです。感じて頂ければ幸いです。
>和菓子と半霊
食欲は幽々子にとって重要なものだと個人的には思っています。
亡霊なのに食べることが好きそうですし。共感して何かを食べたくなっても、食べ過ぎには注意してください。
>電車を乗り過ごした
ええと、大丈夫だったでしょうか。
それだけ入り込んで頂けたということなら私は嬉しいのですが。お気をつけ下さい。
人間、大なり小なりそういうのを求めて魅せられているのかなーと思いました
文章のすらすらっとした滑らかさがなんとも。
面白かったです。
寂れた路地裏の甘味処で出会う。
二人のやり取りと相まって、何かとても幻惑的で、ふわふわとした
読後感がありました。素晴らしい。
妹紅は不老不死ながら若い(子供の)まま時が止まり、精神が未熟でみずみずしいイメージ、
幽々子は死んでから長い時間をかけてゆっくりと諦観を学び、精神的にはかなり成熟しているイメージがあります。
静かながら深い二人のやり取りが自分の持つイメージにぴったりでした。
あと、自分の読解力不足を晒すようで恥ずかしいのですが、甘味処のご主人と奥さんは亡くなったと解釈していいんでしょうか。
妹紅と幽々子の二人の会話はとても興味深くて、こちらも考えさせられるものです。