その日、十六夜咲夜はすこぶる調子が悪かった。
体調が悪いわけではない。
仕事で大きな失敗をしたわけでもない。
しかし、今日はどうもリズムに乗れなかった。
例えば、靴下を裏返しに履いていた。
昼ごろになって、妖精メイドに指摘されるまで全く気付かなかった。
例えば、自分用の紅茶に入れる砂糖の分量を間違えた。
甘ったるくて、胸焼けしそうになった。
例えば、ナイフの扱いをしくじってメイド服を少し切り裂いてしまった。
新調したばかりでピカピカだったのに。
朝からやることなすこと、上手くいかないのだ。
お嬢様や他のメイドに迷惑をかけるようなミスがなかったのは、不幸中の幸いではあるが。
そして今、咲夜はまたしてもどうでもいい失敗をした。
「もう!」
思わず声をあげる。
ティータイムを終えて、おゆはんの材料をメモをしている時だった。
今夜のメニューはカレーである。
にんじん、たまねぎ、じゃがいも……スラスラと材料を書き連ねていたのだが、最後の最後で失敗した。
”カーレルー”
見事に誤字っている。
「しょうもないっ……!」
自分用のメモなので、内容が分かれば問題ないのだがとても情けなかった。
溜息を吐き、それでも気持ちを切り替えて買い出しのために立ち上がる。
カレーはお嬢様のリクエストだ。
「おいしく作らないとね」
気合を入れて、紅魔館を出る。
しかし、何をやってもダメな日というのはあるもので、買い出しも順風満帆とはいかなかった。
意気揚々と館を出たものの、じめっとした雨模様の天気にいきなり出鼻をくじかれた。
ここ数日はずっと天気が良く、今日も先ほどまでは晴れていたというのに。
咲夜の外出を見計らったかのように悪化していた。
美鈴は花が喜ぶとニコニコしていたが、咲夜はとてもそんな気分になれなかった。
「お気をつけて、カレー楽しみにしてますよ」
それでも美鈴の明るい声に背中を押されて、傘を片手に人里の食品店に向かう。
あんな笑顔で期待されたら、腐ってなどいられない。
食品店に到着してからも、咲夜は絶不調だった。
とはいえ正確に言うと、咲夜の行動に問題があったわけではない。
材料が揃わなかったのだ。
およそ必要なものは手に入ったのだが、玉ネギ、福神漬け、そして肝心のカレールーが売り切れで手に入らなかった。
時刻は十五時、普段はこの時間に食材が売り切れるということはあまりない。
そもそもカレールーなど売り切れているところ事態、見たことがない。
今日に限ってどこもカレーだとでもいうのか。
どうやら今日は自身の不調に加えて、ツキにも見放されているようだ。
恨みがましくガランとした棚を眺めるが、いつまでもそうしていても仕方がない。
里にはもう一店同じような食品店がある。
ここからは若干距離があり、手間だがそちらに向かうしかない。
「とことんダメね……」
はぁ、とメモを眺めて溜息を吐く。
”カーレルー”の文字が目に付き、なんだか馬鹿にされている気がして、咲夜はメモをくしゃくしゃに丸めた。
「ああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~~~l!」
咲夜は頭をガリガリと掻きまわすと、思わず絶叫した。
驚いた妖精メイドが、何事かと様子を伺いに来る。
それを半ば涙目になりながら、何でもないと追い返す。
紅魔館に帰宅後、咲夜は買ってきた材料をキッチンに並べていた。
最初の店で買えなかった、玉ねぎと福神漬けも無事手に入った。
しかし……
「何故ルーを忘れているのよぉぉぉぉぉぉぉ~~~!!」
メモを丸めてしまったのが悪かったのか。
はたまた誤字の件があったせいで、無意識にルーのことを考えないようにしていたのか。
とにかく今、紅魔館のキッチンにカレールーは存在しなかった。
「どうなっているのよ、今日は……」
ぐったりとテーブルに突っ伏す。
直前まで覚えていたというのに、もっとも肝心なものを忘れてくるとは。
普段の自分では考えられないことだ。
「……どうしようかしら」
うつろな目で、主役不在の材料達を眺める。
当然のことながらカレーにするためには、もう一度ルーを買いにいかなければならない。
しかし外は咲夜が戻ってきてから、本格的な土砂降りになっている。
買い出し中に振り出さなかったのは、はたして幸か不幸か。
「シチューではダメかしら……」
一瞬だけ、邪悪な思考がよぎる。
材料はほぼ同じ、牛乳も丁度使い切らないといけないのが残っている。
こんな土砂降りの中、もう一度外に出るのはとても憂鬱だった。
ズガァァァンと雷の音が響き渡る。
「……何を言っているの?」
雷の音にハッと我に返った咲夜は、己の思考に茫然とする。
お嬢様は何と言った?
お嬢様はカレーが食べたいと言ったのだ。
お嬢様がそう言った以上、今日のおゆはんは何があろうと、絶対にカレーなのだ。
何を情けないこと言っているのだ、十六夜咲夜!!
時計を見ると、時刻は十七時。
時間を止めるまでもなく、まだまだおゆはんの時間まで余裕がある
ピシャン、と両手で顔を張って気合を入れ直すと、傘を片手に紅魔館を飛び出す。
「あれれ。咲夜さん、またお出かけですか?」
何やら鬼気迫る表情で館を飛びだしてきた咲夜に、美鈴が声をかける。
「美鈴、雨の中お疲れ様。カレー楽しみにしててね」
「え?は、はぁ……」
ポカンとする美鈴を後目に、咲夜は人里に向けて飛び立った。
「~~~~~~~~~~~~~~~~~っ!!」
がっくりと膝をつき、絶句する。
豪雨の中たどり着いた食品店。
玉ねぎと福神漬けを買いに寄った、二店目のお店だ。
真っ先に向かった、カレールー置き場。
しかしまたしても、ルーは売り切れていた。
先ほど寄った時にはすでに無かったのか、一度紅魔館に戻っている最中に売り切れたのか。
いずれにせよ、棚はからっぽだった。
「う……ぐすっ………」
じわりと涙が溢れてくる。
ルーが買えなかったことが、そこまで悲しかった訳ではない。
ただ、それがきっかけで今日一日溜まっていたものが、一気に溢れてしまったのだ。
悔しくて、ポロポロと涙が止まらない。
「……ごめんなさい。お嬢様、美鈴。」
それに何より、自分の料理を楽しみに待っている人達をがっかりさせてしまうのが辛かった。
その場で座り込み、ぐしぐしと目を擦る。
「あら、どうかしましたの?」
と、そこへ咲夜の肩を叩く者がいた。
緑色の髪を派手なリボンでまとめ、紅い豪奢なドレスを纏った女性。
あまりはっきりと覚えていないが、宴会の席で何度か見かけたことがある。
「確か、厄神……様?」
「ええ厄神の鍵山雛です。紅魔のメイド長さん。一体どうされました?」
そう言って、雛は優しくほほ笑んだ。
「なるほど、そういう事ですか」
「恥ずかしいところをお見せしました」
落ち着きを取り戻し、事情を説明した咲夜は若干赤くなる。
随分と情けない姿を見られたものだ。
「ふふ、誰にでもそういう時はありますわ」
しかし雛はそんな咲夜を馬鹿にするでもなく、軽く励ましてくれた。
「それにしても、ルーが軒並み売り切れだなんて……全く世知辛いわね。カレーだけに」
カレーだけに、と何故かもう一度同じことを言ってクスクスと笑う。
「……本当に困りましたわ。今日のおゆはん。どうしましょう」
一瞬反応に困った咲夜だったが、あまりおもしろくないギャグはとりあえず無視して溜息を吐く。
「あら、あまり溜息を吐くと厄が溜まりますよ。ちょっと待ってて下さいな」
渾身のギャグを無視された雛であったが、特に気にする風でもなく、ごそごそと自分の買い物籠を漁りだす。
「……?」
はて、なんだろうか。
雛の行動に首を傾げるが、何も言わずにそのまま待つ。
しばらくすると、雛はあったあったと呟き、籠の中から何やら四角い箱を昨夜に向けて差し出してきた。
「はい、これ」
雛が差し出したもの。
それは、散々自分を振り回してくれたカレールーだった。
「私も今日、カレーをするつもりで買い物に来たのだけれど、会計を済ます直前で急にオムライスが食べたくなってね」
ルーを棚に戻しケチャップを探そうとしたところで、咲夜を見かけたのだという。
「だから、これはあなたに」
雛はポカンとしている咲夜の手を取り、箱をにぎらせる。
「……え、えと。本当に良いのですか?」
「ええ、もう気分は完全にオムライスなの。カレールーよりケチャップを買わないとですわ」
そういうと雛は、パチリとウィンクをして見せた。
……もしかすると気を遣わせてしまっただろうか。
そんな思いが頭をよぎり、このまますんなり受け取ってしまって良いのかと考える。
しかし雛の優しい笑顔を見ていると、変に遠慮するのはかえって無粋な感じがする。
ここは素直に受け取るべきだと思った。
「ありがとう」
咲夜は心の底から感謝し、受け取った箱を愛おしそうに抱きしめた。
「さぁ、早く会計を済ませて帰った方が良いですわ」
「はい。本当にありがとうございました」
咲夜はあらためて礼を言い、軽く会釈をしてからレジに向う。
「あ、ちょっとだけ待って」
と、数歩進んだところで雛に呼び止められた。
不思議そうに振り向いた咲夜の前で、雛はくるくるっと回転し始めた。
突然の、しかし素晴らしく優雅で美しいその姿に咲夜は息を飲む。
しばし呆然とその光景に魅入っていたが、回転が止まると同時に我に返る。
「……今のは?」
「あなたに溜まっていた厄を、取り除いたわ。今日が良い日でありますように。まぁ、あと数時間しかないけれどね」
いたずらっぽく舌を出してそう言うと、雛はそのまま店の外へと消えた。
店の出口から見えた空は、いつの間にか晴れていた。
「うん。おいしい。ありがとう咲夜」
おいしい、ありがとう。
レミリアの言葉を聞いて、咲夜は今日一日の疲れが全て吹き飛ぶのを感じた。
その言葉は何よりのご褒美だった。
「ありがとうございます」
泣きそうになるのを堪え、頭を下げる。
「お腹を空かせておいて良かったです!すごくおいしいです!」
「んまんま」
「はあ~ん、おいしい。咲夜さんお嫁さんになって下さい」
「何馬鹿なことを言っているの」
美鈴、フランドール、小悪魔、パチュリーもそれぞれ喜んでくれているようだ。
今日一日色々と散々な目にあったが、咲夜は今とても幸せな気分で夕飯の時間を過ごしている。
これも厄神様のおかげかしら、感謝しないとね。
「ところで咲夜。ケチャップはあるかしら?」
「は、ケチャップですか?」
心の中で厄神様に感謝していた咲夜に、レミリアがそんなことを言ってきた。
「ちょっとかけると、結構おいしいのだよ」
「それは知りませんでしたわ。少々お待ち下さい、まだ使いきってないのがあったは……ず…?」
そう言って席を立とうとした咲夜の脳裏に、ふと何か引っかかるものがあった。
何か重大なことのような、それでいて別にどうでもいいことのような。
カレーにケチャップ…ケチャップ……ケチャップ………?
「あぁぁぁぁ!!」
「うお、ど、どうしたのかね?」
いきなり大声を上げた咲夜に驚くレミリア。
申し訳ありません、と頭を下げた咲夜はそそくさとキッチンへと向かう。
その顔は、何ともやりきれない。複雑な表情をしていた。
……厄神様、結局ケチャップ買ってない!!
ご愁傷様。
何もかも全部ダメ。そんな日もたまにはあるよね…
許せん、もっとその描写を詳しく書くんだ!!
好きなお話でした♪
(ノ∀`)つ[ナゲットソース]
とにかく厄に負けた厄神様の涙がおいしいですハイ