「……痛い」
比那名居 天子の口を突いたのは、いつもと異なる感想だった。
幻想郷で最も高い山である妖怪の山、それよりもさらに高い天界のこれまたてっぺんの有頂天で、天子は仏頂面で桃をかじっていた。
その掌にあるのは、なんの変哲もない天界名産ただの桃。
地上の桃と違うのは、食べた者の身体が強くなるという事と、お世辞にも美味しくはないという点だろうか。
天界という場所にはこの桃くらいしかまともな食べ物がないので、天子はいつも文句を言いながら仕方なくこの桃をかじっていた。
しかし、今は状況が違う。
美味しくないだけならまだしも、あろうことかこの桃が天子に対して反抗をしてきたのだ。
反抗の内容は単純明快、天子が桃をかじるたびに、左の奥歯がずきりと痛むのである。
「これは……異変に違いないわ」
奥歯に負担をかけないよう慎重に咀嚼を重ねながら、天子は一人で大きく頷いた。
今までにない身体の変化。これを異変と呼ばずに何と呼ぶのか。
そうと決まればこうしてはいられない。
お気に入りの帽子とスカートを抑えながら、天子は雲の切れ目へ向けてぴょこんと飛び降りた。
自分の歯が痛いというのに天子が嬉しそうなのは、決して痛いのが好きなわけでなく、絶好の退屈しのぎを見付けたからである。
天界よりもちょっとだけ下にある雲の中に降りた天子は、きょろきょろと辺りを見渡した。
すると天子が頼りにしている人物――というか他に頼れる人物がいないだけだが、
とにかく幸いなことに、その目的の人物はすぐに見つかった。
「あ、いたいた。ねえ衣玖ー。ちょっと相談したいことがあるんだけど」
「申し訳ありません総領娘様。私は今羽衣のシワを数える作業に忙殺されておりまして」
「思いっきりヒマなんじゃない!」
美しき緋の衣、龍宮の遣いである永江 衣玖は、ふよふよと雲の中を徘徊しながら自分の羽衣に集中しているところだった。
「なんか、あんたにこんな相談するのも恥ずかしいんだけど……笑ったりしない?」
「鼻では」
深々と頷く衣玖を見て、天子は頬のあたりに手をやりながらぼそぼそと続きを話し始めた。
「実はね、私……痛いのよ」
「自分の存在がですか?」
「ち、違うわよ。歯が痛むのよ。その、ちょうど衣玖の電撃みたいにさ。心まで痛むような発言はやめてよね」
「ふむ、歯ですか……ちょっと失礼」
「あがが」
天子の口を親指と人差し指で押し広げて、中腰になった衣玖がその中を覗き込む。
無理やり口を開かれた天子はふがふがと声にならない悲鳴を上げていたが、たっぷり1分ほど経ってようやくその苦しみから解放された。
「ふぅむ、成る程」
「ど、どう? 何かわかった?」
「人の口の中っていうのは、思ったよりも暗いんですね」
「この役立たず!」
「しかしご安心ください総領娘様。私永江衣玖、歯が痛むという症状については一つだけ覚えがあります。
それは……虫歯です」
「むしば?」
オウム返しにそう言いながら、天子はインコのように小首をかしげた。
「虫歯というのは、口の中に入った菌によって歯の一部がダメになってしまうという症状です」
「ダメになる? 歯が使えなくなっちゃうってこと?」
「まぁ、単刀に言ってしまえばそうなりますね。例えるとするなら、そう……歯が腐ってしまうとでも言いましょうか」
「な、何よそれ。そんなのイヤよ、私」
天子は思わず自分の頬に手をやった。
そんな風に言われると、なんだか今までより痛みが増してきたような気がしないでもない。
「じゃあ、虫歯になったときはどうすればいいの? このままだと私の歯がなくなっちゃうんでしょ」
「そうですね。例えば今後歯を使わなくて済むよう、桃をすり潰す道具を用意するとか……
いわゆる流動食というものに慣れておくなんてどうでしょう」
「なんで私の歯が無くなる前提で話が進むのよ。それより先に治す方法を教えなさい!」
「そうはおっしゃいますが総領娘様。私は虫歯になんてなりませんから、どうすればいいのかなど皆目見当もつきませんよ。
というか、天人で虫歯になったのってもしかして総領娘様が初めてじゃないですか?」
「や、やめてよ縁起でもないこと言うの。もしそうなったら私、末代までの恥よ」
「このままだと総領娘様で末代ですけどね」
「そんなに重病なの虫歯って!?」
冗談に決まってるじゃないですかははは、と衣玖は乾いた笑いを見せたものの、正直なところ天子は気が気ではなかった。
何しろ物心ついた頃から強靭な身体を持っていた天子は、長らく虫歯どころか風邪さえひいた覚えがなかったのである。
「そもそもなんでこの私が虫歯? ってやつになるのよ。私、今までこんな痛みが出たことなんてなかったわよ」
「総領娘様、このあいだ博麗神社で開かれた宴会に参加されませんでしたか?」
「宴会? ああ、そういえばそうだったっけ」
「その時にお酒を呑んだり食事を取られたりしたでしょう」
「私が着いたときはもうお開きみたいな流れだったから、お酒となんか余ってた乾いた魚? みたいなのを食べただけだけど」
「それです」
「へ?」
「いいですか総領娘様。下界の食べ物は味も素っ気もない天界の桃とは違って、十分な旨みを含んでいます。
そしてバイキンというものは、それを狙って食べ物にくっついているのです」
「えぇ、な、何よそれ……気持ち悪い……」
「総領娘様がおっしゃったのは恐らく魚の干物のことですね。
アレはパサパサしていて口の中に残りやすいですから、たぶんそれが原因でバイキンが口に入ったのでしょう」
「そ、そんな……」
左のほっぺたを膨らせながら、天子は舌の先っぽで問題の歯をつっついてみた。
衣玖の言うバイキンというものの存在は分からないものの、時折鋭い痛みが走るのは確かである。
謎の生物に攻撃を仕掛けられている、そんな風に考えると、天子の心はますます焦燥する一方だった。
「とにかく! 衣玖なんかと話し合ってたって仕方がないわ。
どういう症状なのかは分かったんだし、これから下界に降りて情報収集するわよ!」
「それはいいお考えです。私も微力ながら総領娘様の留守を守るという形でお手伝いをさせていただきます」
「あんたも来るのよッ!!」
「およよ」
心の底から不思議そうな顔をする衣玖を見て、天子は思わずその胸ぐらを掴んだ。
「なんでこの流れで留守番するのがあんたの役目になるのよ! 空気を読むのがあんたの能力じゃなかったの!?」
「十六夜咲夜が常に時を止めてるとでも?」
「ぐぬぬぬぬ……」
「まあまあ、落ち着いてください総領娘様。
下界に降りて調査をするのも結構ですが、その前に天界の皆さんに話を聞くのが先ではないですか?
いくら天人が病気をしないといえども、一人くらい虫歯の治し方を存じている方もいるでしょう」
「……あのねぇ、衣玖。あんた、私を誰だと思ってるの?」
「誰と言われれば誰でしょう。比那名居家の一人娘、なんて言い方になるでしょうか」
「そこまで分かってるなら考えなさいよ。その比那名居家の令嬢が、地上の宴会に参加したせいで虫歯になった?
そんな話が天界で広まったらどうしてくれるのよ。比那名居家の名折れもいいところよ」
普段から天人くずれだの不良天人だと揶揄されているだけに、天子は自分の評判というものに何より敏感だった。
評判うんぬんの話より前に、まず天界の連中に頼りたくないという気持ちがあったのも確かだが。
「だから、衣玖。あんたと私の二人だけで、虫歯ってやつの治し方を探すのよ。
天界の奴らにも、もちろん地上の奴らにも勘付かれないよう、慎重にね」
「そういうことならお任せください総領娘様。私永江衣玖、慎重さには定評がありますから。
『石橋を叩いても決して渡らない女』とはこの私のことですよ」
「じゃあ何のために石橋を叩くのよ。とにかく、この私が頼ってあげるって言ってるんだから、意気に感じて頑張りなさいよ」
「はい。総領娘様の助けとなるよう、尽力致します」
何がそんなに楽しいのか、衣玖は妙に張り切っていると言うか鼻息が荒い。
まぁ他に頼るやつもいないし、という天子の呆れた様なつぶやきは、手伝ってくれることに素直にお礼を言えない気恥ずかしさと、
本当に頼りにして大丈夫かしらという不安が半分ずつ入り混じったものだった。
「うぅ……もっと厚着してくればよかったわ、ここいらは冷えるわね……」
天界を後にした天子と衣玖は、特別なあてもなく妖怪の山上空あたりをふよふよと仲良くフライトしていた。
いくら春を迎えたとはいえ、高度千メートル単位の空というのは否応なしに寒風が吹きすさぶ。
比較的もこもことした衣玖の姿を見て、天子はそれを羨ましく思った。比べて自らの服装はあまりにも軽装である。
寒いのなら一気に高度を落とせば済むはずの話なのだが、これまた天狗やらに見つかりたくないという天子の我が儘が原因で、
二人はほとんど雲と同じ高さのところを泳いでいた。
「寒い、寒いわ……なんかますます歯も痛くなってきた気がするし」
「総領娘様は『長袖』というものをご存知でしょうか」
「う、うるさいわね。知ってるわよ。上があれだけ暖かかったから油断したのよ」
「まぁ、そういう性格でないと虫歯にはなりませんよね」
「穏やかな笑顔で毒吐くの止めなさい。……そうよ衣玖、その羽衣寄越しなさいよ」
「寄越すのはちょっと。それではマフラー代わりにこんなのはどうでしょう、ほら」
「ん。あったかい……」
衣玖は天子の背中のほうに回って、長い羽衣を優しく天子の首元に巻きつけた。
ふわふわの羽衣は文句のつけようもないほど暖かい。ついでに言うと背中にぴったり密着している衣玖の体温も暖かかった。
「……こんな姿見られたら、私たち、誤解されちゃうかもね」
「首絞めてるみたいですもんね」
「台無しだわ!」
「しかし総領娘様、本当に寒そうですね。そろそろどこかへ降りましょうよ」
「どこかって言ったって。当てもなく山道を歩くなんて御免被りたいわ、中途半端な高さだと天狗に見つかっちゃうし」
「それはそうですけども。それでは総領娘様、こういうのはどうです? 下をご覧ください」
「言われなくても見てるって。あれは……ああ、あの神社ね」
「ええ。まずは神頼みということで、ついでに暖を取っていきましょうよ」
二人の眼下にあったのは、山々の一部にぽつんと存在した赤い鳥居の姿だった。
どう見ても山の中心と言わんばかりの木々の並びの中に、不自然なほど立派な神社が聳え立っている。
まるで元々あった山の上に神社だけを置いたかのような景観は、天子も一応は存在を知っている、守矢の神社だった。
「あれって早苗の神社でしょ。健康にご利益なんてあるのかしら?」
「それは存じ上げておりませんが、とりあえずミラクルは起こるみたいですよ。まさに今の総領娘様に打ってつけ」
「奇跡だなんて大げさねぇ。……虫歯って、ホントはそんなに重大な病気じゃないんでしょ?」
「いやはやそれにしても今日は、寒いとはいえ良いお天気ですね」
「なんで話を逸らすのよ!」
暖かな衣玖を装着したまま、天子は神社の本殿を飛び越えながらゆっくりと高度を落とし、きれいに掃除された境内へふわりと着地した。
今のところ天子たちの他に参拝客はおらず、いるのは立派な蛇と蛙の石像のみである。
人の目線が気になる天子からすれば、鋭い眼光を持った二体の石像が居るだけで、なんとなく気分が落ち着かない。
今にも動き出しそうな蛇と蛙は、威圧感たっぷりに天子と衣玖を見下ろしていた。
「二対二……ですか」
「置物相手に何を争う必要があるのよ。……い、いく、肩の力抜いて。しまってる、私のくびしまってるから」
「ああ、これはすみません、つい。そろそろ私も離れましょうか、お寒くはないですか総領娘様」
「ううん、さすがに雲の中よりはマシだけど、意外と下も冷えるわね。じっとしてると辛いくらいだわ」
「それでは私の羽衣で長縄跳びでもしましょうか。跳ぶ人がいませんが」
「なんで延々二人で回す練習をしなくちゃならないのよ。とにかく、とっととお賽銭入れましょ」
ほう、と白い息を吐き出しながら、天子は博麗神社よりは幾分きれいなお賽銭箱へと歩み寄った。
実際、神社といっても博麗神社ばかりを訪れている天子は、お参り=お賽銭と思い込んでいる節があった。
これは日ごろの霊夢の口酸っぱい教えの賜物である。ライバル神社にお賽銭が投下されたあたり、今回は完全に裏目に出たが。
「やはりここは『むしば』にちなんで六四八円が相場でしょうか」
「好きにしなさいよ。逆に不吉だからやめてほしい気もするけど……」
じゃらじゃらと小銭を取り出す衣玖を片目に、天子は財布の中を見繕って、いちばん数字の大きそうなお札をぱさりと投入した。
二度手を打って、天子なりに精いっぱい真剣に祈願のポーズをとる。
よくわからない神様に見ず知らずの病気の治癒を願うというなんとも締まらない望みではあったが、
早くこの痛みから解放されたい、というのは天子の偽らざる思いだった。
「ふむ、なかなか幸先のいいスタートになりましたね総領娘様」
「お参りしたくらいで何を言ってるの。まだご利益があるとは限らないじゃない。
……それより衣玖、早苗に見つからないうちに早くここを出るわよ」
「およよ、せっかくなのにご挨拶していかないんですか?
こちらの神社の巫女ならいろいろと顔が利きそうですし、何か解決策が見つかるかもしれませんよ」
「ばか、衣玖。さっきも言ったけど、私はなるたけ隠密に虫歯を治したいの!
天人であるこの私が虫歯になったなんて知れたらどうするのよ。ウワサになったりしたら一生の恥よ」
「基本的に死ねないから永遠の恥になりますしね」
「そういう補足はしなくていいから。とにかく、どこか別の場所に行きましょ」
「分かりました、急ぎましょうか。というわけで総領娘様、何も言わずに三円ほど貸していただけませんか」
「なんで六百四十五円しか手持ちがないのよ。もう、モタモタしてるとあいつに見つかっちゃうから……」
「誰に見つかるんですか?」
「うひゃあっ!?」
背中から急に聞き覚えのある声が飛んできて、天子は思わずその場で飛び跳ねた。
声の主は言うまでもなく、守矢神社の巫女、東風谷 早苗。
案の定すぎる展開に天子は思い切り狼狽したが、対照的に衣玖は落ち着いた様子で天子からもらった小銭を自分の手持ちと合流させ、
お賽銭を投下したのちぱん、ぱんと二度ほど手を打ってみせた。
「幸先のいいスタートになりましたね総領娘様」
「な、なんで二回言うのよ。……えーと、久しぶりね、早苗」
「はい、お久しゅうございます、天子さん衣玖さん。
お二人が守矢神社に来られるなんて珍しいですね。何をお願いしたんですか?」
「え、えーとね、その……そう、無病息災、なんかを、願っちゃったりして」
「総領娘様は『手遅れ』という言葉をご存知でしょうか」
「しーーーっ! あんたは黙ってなさい!」
「無病息災ですか。ふぅん、丈夫な天人様でも健康に気を遣うんですねぇ」
「そ、そりゃそうよ。いくら天人の体が強いからって、その名の上に胡坐をかいてるだけじゃ健康ではいられないのよ。ねぇ衣玖?」
「おっしゃる通りです総領娘様。見事な戒めですね」
衣玖の言葉は核心から見事にグレイズを取り続けていたが、どうにか被弾だけは避けることができた。
天子は変わり者の早苗が苦手だったが、その変わり方と純真さが相まっていい方向に転んだ結果らしい。
「そ、それじゃ衣玖。そろそろ行きましょうか」
「あれっ、もう帰っちゃうんですか? せっかくお茶を準備しようと思ったのに」
「ごめんね早苗、私たち急いでるから。ねえ衣玖?」
「おっしゃる通りです総領娘様。残念ながら東風谷さん、私たちはこれからの予定を立てるのに忙しくて」
「それならお茶しながらでもいいじゃないですか。折角の機会なんだし、ゆっくりしていってくださいよ」
「だ、そうですよ総領娘様」
「なんで懐柔されてんのよあんたは。……ていうか衣玖、ちょっと耳貸しなさい」
「ちゃんと返してもらえるなら」
誰が耳なんかもらうか。そんなツッコミを今回だけは心にしまって、天子は少しだけ背伸びして衣玖にぼそぼそと耳打ちを始めた。
あからさまに不自然なこの状況でも、純心な早苗は小首を傾げるだけでにこにことしている。
「あんたさ、さっきからどうしちゃったわけ? 私の虫歯を明るみに出そうとしてるんじゃないの?」
「それは誤解です総領娘様。こう見えて私には私なりの考えがあるのですよ。
そしてその作戦を実行するためには、お茶をする必要があるというわけです」
「ホントでしょうね、その話。信用していいのかしら」
「大船に乗った気分で居て下さい総領娘様。とにかくまずは、自然な流れでお誘いに応えることです」
「……分かった。じゃあ一服だけよ、一服」
謎の自信に満ち溢れている衣玖の大船オーラに根負けした形で、天子はとりあえず折れてやることにした。
二人の返事を待たずして、すでに早苗は急須とお茶請けを載せたお盆を持ってきている。
察しがいいというかなんというか、虫歯のことまで見透かされないかと天子としては少し落ち着かない気分だった。
「というわけで一泊していきます」
「一泊じゃなくて一服! なんで夜を明かすまでお茶しなくちゃならないのよ」
「あはは、本当に泊まっていってもらっても構わないくらいなんですけどね。
でも、今はお客様用の布団が一組しかないからなぁ」
「そういうことなら仕方がないですね。総領娘様に寒い思いをさせるわけにはいきませんし」
「なんであんたが優先的に布団を使うことが決まってるのよ。
……でも、こんなにでっかい神社なのに布団が一組しかないなんて、ちょっと意外ね」
「ええ、ちょっと事情があるんですよ。立ち話もなんですし、中に入ってお話しませんか?」
外が肌寒いのは事実だったので、天子は言われるがままに畳の間に案内されることにした。
これまた小ぢんまりとしたごく普通の和室は、博麗神社の霊夢の部屋と大差はない。
適当に座布団を見つけてちゃぶ台のところに陣取ると、今度は恐らく早苗本人の手作りであろうおはぎをにこにこしながら手渡される。
おはぎを口にしたことがない天子も小豆の甘い香りは悪くないと思ったが、虫歯にかかっている以上もちろんかぶりつく気分にはなれなかった。
「ここのところ、こっちのほうは気温の変化が激しいんですよ。もう春になったはずなのに、急に冷え込む日があったりして」
「天界はそんなことないんだけどね。と言っても、あそこはいつだって春みたいなもんだけど」
「これだけ暖かい日と寒い日が交互すると、その日の服の選び方なんかも難しかったりするんですよ。
特に、朝は涼しいのに昼から暑いくらいの陽気になる日なんかその典型ですね。みんな服装が落ち着かないんです」
「総領娘様、良かったですね」
「べ、別に仲間がいても嬉しくないわよ。悪かったわね半袖で。それで、その気温の上下がどうかしたわけ?」
「そうなんですよ、こういう気候なのに山の皆さんはもう衣替え済ませちゃったーなんて言って、平気で寒い格好をする人たちが居てですね。
ブン屋は速さが命だから、こんなごわごわした上着は邪魔になります! みたいな」
「あー、あの新聞記者みたいなやつのことか。文っていう名前だったわね」
「そうです、そうです。その文さんに限らず、山の天狗たち皆さんですね。
その天狗たちの間で今、風邪が大流行してるんですよ」
「風邪ぇ? 妖怪の癖に軟弱ねえ」
「薄着で少々寒くても大丈夫、ってタカをくくってたんでしょうね。私も心配していたら案の定というわけですよ」
「カラスなのにタカをくくったり、天狗が天狗になったり忙しいですね。面白い記事になりそうなのに、今度はその記事を書く天狗が居ないと」
「そういうことです。うちの布団が一組しか残ってないのはそのせいなんです。
風邪引きさんを集会所かなにかに集めるという話になったせいで、粗方貸し出す羽目になってしまって」
可笑しそうにそう話す早苗を見て、天子は内心ほっとするというか、変な部分で安心していた。
天狗ほどの力があっても病にかかるということは、自分が虫歯になったこともそう珍しい例ではなく、過剰に意識をする必要はないのかもしれない。
それでも油断して口を滑らせないようにと、戒め代わりに薄目の緑茶に口をつけたところで――天子は素敵な質問を思いついた。
「そういえば、ここの天狗たちって、病気になったらどうするのかしら。
天狗の中にも医者っているのかしらね?」
「ええ、一応腕の立つお医者様はいらっしゃるそうですよ。山の社会は縦社会ですから、いろいろと黒い話もあるみたいですけど。
どうしても治らないような病気であれば、八意先生に会う方が多いみたいですね」
「やごころ先生?」
「はい。永琳さんって呼ぶほうが普通なのかな?
とにかく先生はすごく腕の立つお医者さんなんですよ。正確に言えば、医者じゃなくて薬剤師らしいですけど。
私も以前風邪を引いてなかなか熱が下がらなかったとき、一度だけお世話になったことがあります」
「……ふぅん」
その医者はどこにいるの、と続いて質問をしたいところだったが、天子は渋々その言葉を飲み込みんだ。
そんなあからさまな質問をしてしまえば、自分が医者を求めている、すなわち何かしらの病気にかかっているのがバレてしまうからである。
ここは衣玖の作戦とやらに期待するしかないと、天子は黙ってもう一度お茶に口をつけた。
「ところで東風谷さん、そのお医者さんとやらは、どちらにお住まいなんですかね」
「ブーーーッ!!」
「きゃあ! て、天子さん、大丈夫ですか?」
「あらあら、はしゃぎすぎですよ総領娘様」
「げほ、げほ……い、衣玖、あんたね……」
「八意先生なら、迷いの竹林の中の永遠亭という場所に住んでいますけど……何かご用事があるんですか?」
「ええ、ちょっと虫歯を治してもらいたくて」
「ば、ばか衣玖……」
「虫歯、ですか?」
「そうなんですよ。私最近、歯が痛むことがあって」
「……へ?」
吹き出したお茶をぬぐうことも忘れ、天子は目をぱちくりとさせた。
それに合わせるかのように、衣玖も一度だけ天子に目配せをしてみせた。
「ここのところ、甘いものを食べ過ぎたみたいで、恥ずかしながら私虫歯にかかってしまったようなのです。
腕のいいお医者様がいるのなら、是非一度お会いしてみたいと思いまして」
「そうだったんですか。それで衣玖さん、おはぎに手をつけてなかったんですね」
「ええ、すみません。せっかく頂いたのに。包んで頂ければお土産にさせてもらいます」
「わかりました。じゃあ、包み紙か何か探してきますね」
奥に引っ込んでいく早苗を見送りながら、衣玖はしたり顔をしてみせた。
「どうですか総領娘様。私の作戦は」
「やたらと際どい発言をしてたのはそういうことだったのね……最初から教えといてくれればいいのに」
「敵をだますには味方から、ということです。決して総領娘様の慌てふためくお顔が見たかったわけではありませんよ」
「なっ、だ、誰が慌てふためいてるのよ」
「そうですその顔です。おっと総領娘様、東風谷さんが戻ってきましたよ」
早苗はぱたぱたと駆けながら戻ってきた。
その手には上品な和紙のような包み紙が載せられている。
「綺麗でしょう、この紙。お気に入りなんですよ。破れやすいのが玉にきずなんですけど」
「多少脆い素材でも構いませんよ東風谷さん。どうせすぐにまた開くんですから」
「え? 衣玖さん、虫歯じゃなかったんですか?」
「ああいえ、総領娘様が食べるだろう、という意味です」
「えっ、ああ、うん。食べる食べる。行きがけにでも」
衣玖の台詞に合わせるように、天子は慌ててうんうんと頷いた。
衣玖はしっかり者で頭も切れるがやはり抜けているところがある。頼りになるのかならないのかよくわからない。
「それでは東風谷さん、私たちはここいらで失礼させていただきます」
「はい、お気をつけて行ってらっしゃい。迷いの竹林は人里の向こうのほうにありますよ」
「ええ、存じております。総領娘様、お付き合いさせてすみませんね」
「ああいや、私はいいのよ。気にしないでちょうだい。どうせ暇してるんだし」
おはぎの袋を大事そうに抱えた衣玖につられる形で、天子はそそくさと畳の間を出た。
衣玖のぶんだけでなく天子のぶんのおはぎまで包んでもらったおかげか、衣玖はほくほく顔をしている。
一方天子は少し冴えない表情だった。
「なんかごめんね、衣玖。嘘までつかせちゃって」
「お気になさらないでください総領娘様。私が甘い物が大好きなのは事実ですから、おおむね本当ということで」
「そう? まぁ、衣玖がそう言うなら……」
「はい、張り切っていきましょう。次なる目標竹林に向けていざ出発です」
「うん、そっちは博麗大結界のほうだけどね」
幻想郷の端っこへ飛び立とうとする衣玖の襟首をがっしりと掴む。
やっぱり頼りきりにするには不安だなぁなんて思いながら、天子はそのまま石畳を蹴って宙へと舞った。
その後は変わった誰かに遭遇することもなく、天子と衣玖はあっさりと問題の竹林へと辿り着いた。
しかしこの竹林は辿り着くという表現がいささかおかしいくらいに巨大である。
むしろ一面の緑を視界に捉えないほうが難しいくらいだった。
「これが迷いの竹林ねぇ……見かけはただの竹やぶじゃない。
百歩譲って道が分かりにくそうってのは認めるけどさ、こんなの真っ直ぐ歩いてれば最悪いつかは出口にぶちあたるでしょ」
「『比那名居家の令嬢、俗世の病気を治す道中迷いの竹林で行き倒れ!』明日の新聞の一面はもらいましたね」
「……ま、まぁ、だからってやみくもに突撃するほど、私は単細胞じゃないけどさ」
今にも竹林に飛び込まんばかりだった天子の勢いは衣玖の一言で見事に鎮火した。
確かに地平線の向こうまで竹の緑が埋め尽くしている視界は、なかなかに迫力というか威圧感がある。
「迷いの竹林、なんて大仰な名前がついていますが、私が人里の方達から聞いた話によると、
それほど迷子になったという報告は聞かないらしいですよ」
「へぇ、そんなもんなの?」
「はい。勇んで竹林に飛び込んだ方は、誰ひとり帰って来なかったそうで」
「……それって帰らぬ人になってるだけじゃないの?」
「とはいえご安心ください総領娘様。私、きちんと対策を考えましたから」
衣玖は自信ありげにそう言って、懐からなにやら巾着のような小袋を取り出した。
「総領娘様はヘンゼルとグレーテルという童話をご存知でしょうか」
「知らないけど?」
「簡単にお話するとですね、彼らは帰り道に困らないよう、自分の歩いた道に目印をぼたぼた落としながら進んだのです」
「表現。ぼたぼた言わないの」
「結果、目印を辿ることによってもと来た道を帰ることができました」
「ふうん。で、それを私たちもやろうってのね?」
「察しがよろしいですね総領娘様。しかし、一つだけ大きな問題があります」
衣玖は神妙な面持ちをしながら小袋の口を開けると、中からなにやら見覚えのある綺麗な包み紙――早苗のおはぎを取り出した。
「それは、肝心の目印にするためのばらまくモノがないということです。もぐもぐ」
「……え? その巾着の中身は?」
「おはぎしか入ってないです」
「なんでこのタイミングでおやつにするのよ。中身に期待した私のときめきを返して!」
「半分食べますか?」
「いらない。まさかおはぎをちぎって撒いていくわけにもいかないし……」
「そもそもあと三個半しかないですからね。質量的にも無理があります」
言っているそばから三つになったおはぎ作戦を諦め、天子は竹やぶの入り口をしげしげと見つめた。
目印になるかどうかは分からないが、とりあえず辺り一面にそびえているのはこれでもかという数の立派な竹である。
もはやこの竹をなぎ倒しながら進めばいいのではないかと天子は緋想の剣を抜こうとしたが、
衣玖がぼそりと「朝刊の一面」と呟いたのでこれまた踏みとどまった。
一体どうしたもんかしら、とため息交じりに高い竹のてっぺんを見上げたところで――天子はふと閃いた。
「わかったわ衣玖。上よ、上!」
「私から見てですか?」
「いつ私が逆立ちしたのよ。上って言ったら上しかないでしょ!
竹林に入ると迷っちゃうんだったら、初めから竹林に入らなければいいじゃない。空から医者の住処を探すのよ」
「成る程総領娘様、それは妙案です」
人が迷うのはあくまでも同じ風景ばかりが続く地上を歩くせいであって、空から竹林を見下ろせば迷う道理などあるはずがない。
我ながらいい思い付きだと気分を良くしながら、天子は背高の竹たちよりもさらに上空へと舞い上がった。
……が、しかし。
「ふむ、これはなかなか素敵な眺めですね総領娘様。綺麗な緑の葉っぱが一面に見えますよ」
「……想定外だわ、空からの視界がこんなに悪いなんて」
辺り一面を埋め尽くす竹林からは立派な枝葉がありとあらゆる方向に伸びており、空から地表を見ることなど到底不可能な有様だった。
どこかに隙間のある場所はないものか、としばらく上空を飛び回ってみたものの、若干密集の程度が薄い箇所がある程度で事情はほとんど変わらない。
むしろ飛び回った分だけ竹林の広さを身を持って体感することになってしまい、天子はげんなりとしたため息をついた。
「ううん、どうすればいいのかしら。地上から攻めても駄目、空から見下ろすのも無理となると……」
「地底から攻めるしかないということですね」
「どうやったらそういう発想が出てくるのよ。……と言いたいところだけど、この場合案外そういうのもアリだったりして。
参考までに聞くけど、地底の入り口ってどこにあるのかしら?」
「この竹林の中だそうです」
「あんた分かってて私のミスリード誘ってるでしょ! 微かな希望まで絶望に変えないでよ。
もう腹を括って地表に降りて、この足で探すしかないのかしら。
でもこんなところで迷ったら洒落にならないわよ、水も食料も持ってないのに……」
「おはぎが二つあるだけですからね」
「……なんで順調に数が減ってるのよ。あ、こら衣玖、ほっぺにあんこがついてるわよ」
つまみ食い犯のほっぺたの餡を拭いながら、天子は改めて広すぎる竹林を見渡した。
新聞の一面になるほどの下手は踏まない自信はあるが、この面積から幸運にも目的地を見つけ出す、という自信はさすがの天子も持ち合わせていない。
しかし、このままじっとしていても進展がないのは確かである。天子は覚悟を決め、一枚のスペルカードを取り出した。
「もう、考えるのも面倒になってきたわ。
とりあえず下に降りてみましょ、適当に歩いてたら何かしらヒントが見つかるかもしれないし。
いざとなったら空に逃げちゃえばいいんだからさ」
「確かにそうですね。私、実に総領娘様らしい発想で安心しました」
「う、うるさいわね。とにかく行くわよ、要石『天地開闢プレス』!」
衣玖の羽衣を引っつかむなり、天子は強引にスペルを宣言した。
頑丈な要石は生い茂った竹やぶなどものともせず、ばきばきと景気のよい音を立てながら地面へと突き進んでいく。
程なくしてずどん! という轟音とともに大地へ要石が突き刺さり、遅れて衣玖も天子の頭の上にふわりと着地した。
「ふむ、着地成功ですね」
「どこに着地してるのよあんたは。降りなさい」
「いえ、ここは三段重ねになる流れかと思いまして……およよ? 総領娘様、あそこにあるのは」
「ん、何あれ。小屋? ひょっとするとあれが永遠亭……な訳ないか。あんなボロ小屋」
衣玖の指差す先にあるのは、見るからにボロい年季の入った掘っ立て小屋だった。
天子が派手に着地した余韻が残っているのか、小屋全体がみしみしと音を立てながらわずかに揺れ動いている。
と、小屋の入り口が乱暴に開かれ、中から白い長髪にもんぺ姿の女性――藤原 妹紅が飛び出してきた。
「おい、お前ら!」
「誰よ、あんた」
「お前達だな? 派手に竹林を揺らしてくれやがった奴らは。
おかげで夕餉の味噌汁が台無しだ」
「何よ、味噌汁がこぼれたくらいで文句言うんじゃないわよ。不可抗力なんだから仕方ないでしょ」
「そうですよお嬢さん。高いところから失礼しますが、『お前ら』ではなく『お前』の間違いでしょう」
「開口一番保身に走るな! あと早く私から降りなさい!」
「ばか、私は味噌汁の話をしに来たんじゃないんだよ。お前見たところ、何がどうしたのかは知らんが竹林の上から降ってきたんだろ?
もしお前の落下地点がもう十メートルずれてたら私の家は大変なことになってたんだぞ」
「確かにこの勢いが激突したら、たぶん小屋の三分の六が半壊しますね」
「そこは素直に全壊って言いなさいよ。でも別にいいじゃないの、実際誰にも当たらなかったんだから」
「なんだと?」
悪びれるそぶりすら見せない天子の態度に、妹紅はわざとらしく肩を竦めてみせた。
「かー、最近のガキはここまで常識がなくなったのか。
慧音が苦労してんのも無理ないなこりゃ。ここは一つ、私がその性根を叩き直してやるとするか」
「な、誰がガキですって……! 衣玖、手出しは無用よ。あんたはそこで見てなさい」
「言われずとももちろんそのつもりです総領娘様」
そそくさと竹薮の中に隠れる衣玖を尻目に、臨戦モードとなった二人が互いに自分の間合いを取る。
食事中だった妹紅の左手がしっかりとお箸を握り締めているのがシュールで仕方なかったが、天子は雑念を捨て目の前の相手に集中した。
「後悔すんなよお嬢ちゃん。泣いて謝るまで許してやらないからな!」
「ふん。泣くのはあんたのほうよ!」
宣戦布告を試合開始のゴングと受け取り、天子は大胆に妹紅の間合いへ踏み込むと間髪いれずに一太刀を浴びせた。
緋想の剣が深々と妹紅の肩口を捉える。天子は勝利を確信しニヤリと笑った。誰がどう見てもフラグだった。
「ふん、口ほどにもないわね! その程度の実力でよくこの私に……」
「リザレクション! 不滅『フェニックスの尾』!」
「あら? ちょっと手加減しすぎたかしら。今度は本気よ、天符『天道是非の剣』!」
「リザレクション! 滅罪『正直者の死』!」
「!? や、やるじゃないまだ立ってられるなんて。地震『先憂後楽の剣』!」
「リザレクション! 『パゼストバイフェニックス』!」
「……ふふ、つ、ついに本気の本気を見せるときが来たみたいね! 剣技『気炎万丈の剣』!!」
「リザレ(ry! 『インペリシャブルシューティング』!」
「あんたの体はどうなってんのよー!!」
得意の剣技をいくらお見舞いしても、妹紅は疲れる様子すら見せなかった。
それどころか復活するたびにスペルを放ってくるので、まるで倒されることをプラスにしているようにも見える。
事情を知らない天子は不気味で仕方なかったが、ノーガードとはいえ妹紅を一撃で仕留める天子も実はまたすごかった。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
「どうしたお嬢ちゃん。さっきの威勢はどこに行った? 疲れたからちょっと休憩ってところかい」
掌にぼうと炎を浮かべ、余裕の笑みを湛えたまま妹紅が皮肉を投げかけてくる。
天子は剣を構えたままじりじりと後ずさりした。一対一の戦い、いわゆるタイマンで遅れを取るのは博麗の巫女に喧嘩を売ったとき以来である。
「来ないなら、今度はこっちから行かせてもらおうかな」
「う、うぅ……」
たじろぐ天子の元へと妹紅が歩み寄り、それに気圧されて天子も後退していく。
未知の相手に怯える天子へ向けて、妹紅がわざとらしく右腕を振り上げたとき――鋭い雷鳴が二人の間を切り裂いた。
「きゃあっ!」
「うわっと」
飛びのく妹紅と驚く天子、交わる二人の視線が捉えたのは、我らが永江の衣玖さんだった。
二人の視線、特に妹紅の鋭い眼光を浴びながら、ふ、と不敵な笑みを浮かべつつ衣玖は静かに言い放った。
「次は、当てます」
「……へぇ」
やれるもんなら、そう妹紅が口にしかけたにも関わらず、空気を読まない雷が再び妹紅目掛けて降り注ぐ。
しかしこれまたひらりとした妹紅のステップに雷は空振りとなったが、
ぐっと拳を握り締めつつ、衣玖は常識にとらわれない感じの笑みを天子に向けて見せた。
「次こそは、当てます!」
「最初のはただの意気込みだったんかい!」
間髪入れずに竹林の間を縫って雨あられと無数の雷鳴が降り注ぐ。
連なる雷から追われるようにして天子が逃げ場を求めていると、上手い具合いに衣玖の懐に飛び込むことができた。
「総領娘様、私あの難敵を退けつつ目的を達成する素晴らしい方法を思いついてしまいました」
「ほんと? 私は何をすればいい?」
「今まで通り彼女に向かって行ってください。その隙をついて私が仕掛けますから」
「……わかった。信用してあげるから頑張りなさい」
「ご協力ありがとうございます。それでは総領娘様、できるだけいい声で哭いてくださいね」
「任せときなさい! ……って今なんて――」
愚直に妹紅へと飛び込んだ天子が気付いたときには時既に遅く、美しく一際大きな雷鳴が竹林の中を蹂躙する。
一筋の巨大な雷鳴は凄まじい速さで大地へと迫り、飛び掛かった天子の緋想の剣を避雷針代わりにして――豪快に天子の全身を貫いた。
「おびたるっ!?」
「うわっと、なんだ!?」
「ああ、なんということでしょう。総領娘様に流れ弾が」
「な、流れ弾? 今の雷鳴ってどう見ても一本だったような……」
「このままでは総領娘様が大変ですお嬢さん。この近くに総領娘様を診てくれるような親切なお医者様は居ないでしょうか」
「……まぁ、今ので十分バチは当たったかな。医者なら知り合いがいるから、近くまでなら案内してあげるよ」
「そうして頂けると助かります。ああ、総領娘様、しっかりしてくださいー」
突然の出来事に目をぱちくりとさせる妹紅からしっかり言質を取りつつ、ばったりと倒れた天子にいそいそと衣玖が近寄る。
衣玖は妹紅に背を向ける形でしゃがみ込み、天子の耳元でそっと囁いた。
「そのままやられたふりを続けてください。抱っこしてあげますから」
「……なるほど、そういう作戦だったのね……で、でもさ、もう少し加減できなかったの?」
「弱すぎましたか」
「強すぎたのよ!」
頑強な天子の体を持ってすれば、雷一つ浴びる程度では傷一つ負うことすらない。
とはいえ全身がびりびりと痺れているのは事実なので、天子は衣玖の好意に素直に甘えることにした。
倒れた天子の身体は衣玖におもむろに持ち上げられ、そのままうつぶせの体勢で肩に担ぎ上げられる。
想像していた抱っことは大分何かが違ったが、当然文句を言えるような状況ではなかった。
「じゃ、私についてきてくれ」
妹紅はもんぺのポケットに手を突っ込んだまま、歩くというより跳ぶような足取りで竹林を進み始めた。
流石に竹林の構造にも慣れているのか、その動きには全く無駄がない。
一方衣玖はいつもの安全運転でふよふよと妹紅についていった。
衣玖の背中しか見えない天子からすると、だんだん妹紅に引き離されているかもしれないと想像するとやきもきして仕方がない。
「ちょっと衣玖、もう少し速度出ないの? このままだと見失いそうよ」
「確かにおっしゃる通りです。ここは一つ、重石になっている総領娘様を捨てて」
「じょ、冗談よ冗談。ゆっくりでいいから。あんたは本気でやりかねないから怖いのよ。
……それにしても一体なんだったのかしらあいつ。斬っても斬っても平気な顔してるなんて反則だわ」
「まるで金太郎飴みたいな方でしたね」
「それは絶対違う。ああ、こんなこてんぱんにやられるなんていつ以来かしら……」
ぶつくさとぶーたれる天子を担いだまま、衣玖はふよふよと竹と竹の間を飛んでいく。
するとそのまま同じような景色がしばらく続いた後、突然和風の大きな建物が出現した。
「ほら、あそこが永遠亭ってとこだよ。病院とは少し違うけど、腕の立つ医者はいる」
「ええ。お心遣い感謝致します」
「じゃ、私はこれで。そっちのお嬢ちゃんにも、これからはお痛しないようよろしく言っといてな」
ひらひらと後ろ手を振って去っていく妹紅に向けて、衣玖は九十度腰を折って丁寧かつ素早くお辞儀をした。
要するに一本背負いの要領で天子の身体が投げ出される。
天子はブリッジのような体勢で両手を大地につきなんとか踏ん張ったが、衣玖が急に足から手を離したのでやっぱり地面に崩れ落ちた。
「ついに辿り着きましたね。ここが永遠亭という建物のようですよ総領娘様」
「……少なくとも柔道をやる場所じゃないと思ってたんだけど、私の思い違いだったかしら」
「さぁ。それは中に入ってみなければなんとも」
やっとの思いで辿り着いた永遠亭という建物は、天子の想像していたものよりはいくらか大きな建造物だった。
空から見下ろして見つからなかったのが信じられないくらいのサイズである。
入り口らしき場所、というかそのまんま玄関にも門番とかそういう類の人物は配備されていないようだったが、そこにタイミングよく一匹の兎が現れた。
「あら? 誰かと思えばあなた、いつぞやの天人くずれじゃない。何しに来たのよ」
「ふん、出会い頭に随分なご挨拶ね。今日は喧嘩を売りに来たわけじゃない、とだけ言っておいてあげるわ」
「総領娘様、いくら恰好をつけても病人は病人ということをお忘れなく」
「わ、分かってるわよ。なんとなく流れに乗ってあげただけだって」
天子と衣玖を出迎えたのは、ちょうど人里にでも出るところであったのだろう、大きな袋を抱えた鈴仙・優曇華院・イナバだった。
ビニールのような袋の中にはカプセルに入った薬のビンがこれまたいくつも入っている。
どぎつい赤カプセルがたっぷり入った小瓶のラベルに軒並み『業務用』と書かれているのがちょっと気後れさせられる感じだった。
「今日はあなたたち二人だけ? 何の案内もなしによくここまで辿り着けたわね」
「いえ、金太郎飴のような方に近くまで先導してもらったので」
「なんだ、妹紅に会ったの。いずれにしてもラッキーだったわね」
「なんで金太郎飴で話が通じるのよ。とにかく邪魔しないでよ、私は病人なんだから」
「ま、患者として来るんなら拒みはしないけど……。せめて師匠に無礼を働かないようにしてよね」
「流石は竹林、かぐや姫。さしずめ難題と言ったところですか」
「ば、馬鹿にしないでよ。私だって敬語くらい使えますよーだ」
「ところで診察室なんかは、どちらに?」
「突き当たりの廊下を右よ。長椅子があるからそこに座って待ってて」
「なるほど、突き当たりを右、ですね。それでは行きましょうか、総領娘様」
鈴仙と別れて玄関をくぐると、ひんやりとした冷気のような何かが二人を出迎えてくれた。
まるで旅館か何かのように広いお屋敷だというのに、玄関には一足も靴が置かれていない。
ここの人たちはみんな浮いて過ごしてるんですかね、という言葉は、衣玖が言うと妙に説得力があった。
「なんだか不気味なところね、人の気配もあんまりしないし。妙に寒気がすると思わない?」
「私は長袖ですのであまり」
「そういう体感の話をしてるわけじゃないんだけど。というか話を蒸し返すのもうやめてよ」
鈴仙に言われたとおり廊下の突き当たりを右に曲がると、殺風景な廊下にぽつんと長椅子が設置してあった。
そのすぐそばには『診察室』というネームプレートがついたドアがあり、中から誰かの話し声が聞こえてくる。
これは順番待ちですね、と衣玖が長椅子に腰を下ろすと、天子はその膝を枕に長椅子に寝そべった。
「あーもー。私、ただ何もせずに待つのって大嫌いなのよね。
衣玖、何か面白いものでも持ってきてないの?」
「それなら私の羽衣を使って電車ごっこでもしてみたらどうですか。車掌しかいませんが」
「なんで私一人で羽衣をずるずる引きずらなきゃならないのよ。せめて衣玖も参加しなさいよ」
結局ヒマを潰す手段がないので、天子は衣玖の膝を借りたまま首だけを動かした。
良く言えば趣のある、悪くいえば年季が入った木目の天井はいかにも古臭く、お世辞にも天子好みの内装とは言えない。
と、天子は椅子に腰かける衣玖と診察室の扉のあいだに、何やら小さな机と紙が置いてあるのを発見した。
「ねえ衣玖、そこに置いてある紙はなに?」
「ふむ、これは……診察の前にご記入くださいと書いてありますね。
成る程、事前の質問みたいなものでしょう」
「医者にはそんなものがあるのね。仕方ないわ、答えてあげるから衣玖書いてよ」
「しかしこんな薄っぺらい紙が相手では、なにか下敷きのようなものがないと困りますね。
総領娘様のまな板お借りしてもいいですか?」
「誰がまな板か!」
天子のまな板は取り外しがきかないとわかると、衣玖は仕方なしに上体を九十度捻って、壁に件の紙――問診表をぺったりと押し付けた。
「ええと、まずは名前からですね」
「比那名居 天子に決まってるでしょ。那と名を逆に書かないでね」
「はい、続いてどのような症状が出ているか」
「歯が痛い。それだけ」
「身長・体重」
「ええ、計ったことないわよそんなの。私ってどのくらいなのかしら、見当もつかないわ」
「では私の目測で書いておきましょう。180・30で」
「……正確なんでしょうね、それ」
「この調子でどんどん行きましょう。年齢」
「覚えてないわよいちいち。3ケタって書いといて」
「はい、精神年齢」
「なんでそんな項目があるのよ! 知らないわよそんなの」
「1ケタにしました」
「今すぐに消しなさい!」
「万年筆で書いてしまったので一万年待ってください。好きな食べ物」
「普段の食生活を教えろってわけね。でも特になしでいいわ」
「嫌いな食べ物」
「天界の桃に決まってるでしょ。まずいったらありゃしない」
「一番よく食べるもの。同上ですね」
「……ちょっと。それだと嫌いなもの食べまくってる私が変態みたいになるじゃない」
「趣味、ですって」
「なんか質問の主旨変わってきてない? ……うーん、私趣味なんてあったかなぁ」
「空欄にするのもさみしいですから『一人しりとり』にしておきましょうか。特技」
「私そんな残念な趣味持ってないわよ! 勝手に次に行かないで!」
「同上でいいですね。ふう、私も手首が疲れてきました」
「ていうかまだ質問終わらないの? どんだけ細かい書類なのよ」
「堪えてください総領娘様、私も必死で手を動かしてはいるんですがなかなか最後の項目が埋まらなくて……
この『その他、ご自由にお書きください』の欄の広いこと広いこと」
「途中からあんたが作った質問だったんかい!」
なんだかんだで用意された問診表が埋まったとき、ちょうどいいタイミングで診察室の扉が開かれた。
ありがとうございました、という丁寧なお辞儀とともに、頭巾を被った尼さんのような女性が部屋の中から現れる。
やっと私の出番かと鼻息を荒くした天子が衣玖の膝から跳び起きる。すると、尼さんに続いて現れた大きな赤い雲にぼふんとぶつかった。
「はぶっ」
「知らなかったわ雲山、あなたみたいな妖怪でも病気になることがあるだなんて……
入道しか掛からない病気があるなんてね。『雲真っ赤出血』なんて初めて聞いたわ」
天子にぶつかったことには気付かないまま、尼さんと入道はもくもくとどこかへ行ってしまった。
またしても仰向けに倒される天子。木目の廊下があまり硬くなかったのは幸いだった。
「流石は幻想郷……わけのわからない病気もあるのね」
「アレは一度発症すると長引くんですよ総領娘様」
「……流石は龍宮の遣いってところかしら。雲には詳しいのね」
「次の方どうぞー?」
「ああ、では行って参ります」
「いや意味がわからないから。あんたは健康体でしょ」
何故か率先して腰を浮かせる衣玖をたしなめながら、天子は恐る恐る診察室に足を踏み込んだ。
すると即座に薬品っぽい臭い、つまるところ天子には経験のない香りがつんと鼻を突く。
おもわず顔をしかめた天子とは対照的に、部屋の中では早苗の言っていた医者、八意 永琳が穏やかに微笑んでいた。
「こんにちは。あら、これは可愛らしいお嬢さんね」
「ふぅん……。あんたが永琳ってやつなのね」
天子は鼻をつまんだまま、品定めをするように椅子に座った永琳の姿をじろじろと眺めた。
青と赤のツートンに身を包んだ目の前の女性は、いかにも落ち着いているといった大人の女性らしい雰囲気を醸し出している。
どことなく衣玖に似てるんじゃないかな、という第一印象が持てたことで、懐疑心に包まれていた天子の心はいくらか落ち着いた。
「あんた、すごく腕のいいお医者さんなんだってね。私、虫歯っていう病気なんだけど、治せる?」
「ええ、もちろんです。私の治療に専門分野はありませんから。
病気の治療から怪我の手当て、心の病でも相談に乗ります。
他にもお望みなら整形手術だってするし、胸を大きくしてあげることもできるのよ?」
「む、胸を大きく?」
「豊胸娘様……」
「不名誉な名前を予約しないの! べ、別にそんなの興味ないわよ。ただ、そういう技もあるんだな、と思っただけで」
「お悩みなら、相談に乗りますよ?」
「いいったらいいの! それよりさ、私、これ書いたから。見てちょうだい」
先ほど書いたばかりの問診表を半ば押し付けるように渡しつつ、天子は今度は不自然でない程度に部屋の中を見回した。
それほど広くはないこの診察室には、事務的な机と薬瓶がぎっしり並べられた棚が一つあるくらいで、特別変わった様子は見られない。
とりあえず用意されていた丸椅子に座ろうとすると、すでに衣玖が当たり前のように鎮座していたので、天子は立ちぼうけする羽目になった。
「それでは簡単な質問から始めさせてもらいます。えー、ひなない てんこさん」
「……てんこじゃないわよ。てんし、よ」
「あら? でも問診表にはてんこ、って読み仮名が振ってあるわね」
「これはうっかり」
「衣玖……あとで覚えてなさいよ……!」
「それでは改めて、比那名居 天子さん。
今日は歯痛でいらっしゃったということですが、痛みを感じるようになったのはいつ頃からですか?」
「ちょうど三日前ですね」
「そうそう、三日前から……ってなんで衣玖が答えるのよ」
「三日前から突然、ですか?」
「うん。博麗神社の宴会に参加して、それからかなぁ」
「では、痛みが出てから歯に負担をかけたりはしてないですか?」
「桃なら少しかじったけど……」
他にも痛みの具合や痛む場所など、天子はいくつかの質問を永琳から受けた。
そのうち半分くらいは何故か衣玖が答えたが、答え自体は正しい内容だったので、天子にとっては楽というか瑣末な問題だった。
「ふむ。やっぱり、虫歯みたいな症状が出てるわね」
「だから最初からそう言ってるじゃない。治せるんなら早く治してよ」
「そう焦らないでください、ご心配なく。
本格的な治療はここでは出来ないから、こちらの部屋まで来ていただけますか」
「こちらの部屋?」
永琳はカルテらしきものをバインダーにまとめると、天子たちが入ってきたのとは別の扉、自身の背中にあったほうの扉の向こうへと進んでいった。
天子と衣玖もその背中についていく。扉の向こう側は真っ暗な廊下で、木目だった床はいつのまにか石のようなものに変わっていた。
「なんなのよこの通路。真っ暗で何も見えないじゃない」
「足元が不安なので私は浮いて移動してます」
「あんたはいつもそうやってるでしょ。危機管理のできる女みたいなアピールしないの」
それほど広くないのであろう通路はやたらと声が反響するので、天子も知らず知らずのうちに小声になっていた。
手探りというわけではないが、転ぶのが怖いので逐一壁に手をつきながら歩みを進める。壁は石に似た素材でできていてひんやりと冷たい。
十数メートルほど進んだところで、先を行く永琳のかつんかつんという足音がふと止まった。
「こちらです。どうぞ」
「何よここ、真っ暗じゃ……きゃっ!」
部屋の入り口らしき場所に佇む永琳にそう促され、天子が文句を言いながらその部屋に足を踏み入れる。
するとその瞬間、何の前触れもなく暗かった部屋に照明が灯った。
電気というものを知っているものなら何の不思議もない場面なのだが、天界育ちの天子には少々刺激が強かった。
「び、びっくりした。急に明るくしないでよ」
「そうね、ゆっくり明るくできたらいいんだけどね。驚かせてしまってごめんなさい。
ここが幻想郷の最先端技術を用いた、永遠亭自慢の治療室です」
その治療室とやらの中を見渡して、天子は感嘆とちょっぴり恐怖心の混じった溜め息を漏らした。
博麗神社の客間くらいにそこそこ大きな空間にはそこかしこに治療をする専用の機械が設置してあり、
河童が乱入したらそれこそ縦横無尽にスパナを振り回しそうなほどメカニカルな造りになっている。
「す、すごい……下の世界にこんなものがあったなんて」
「まだ試作段階のものも多いんだけどね。天子さんの治療には、こちらの装置を使います」
永琳は一つの椅子の背中側に回ると、そこで何やらボタンを押すような仕草を見せた。
すると椅子の背もたれが勝手に動いたり、椅子そのものの高さが変わったりといろいろなアクションが起こる。
挙句の果てには椅子の隣の蛇口からうがい用の水まで出てきた。
「これは本当にすごいです。私、実際にカラクリが動くのを見たのは初めてかもしれません」
「……確かにすごいのはすごいけど、これってわざわざ自動にする必要ないんじゃないの?」
「おっしゃる通り、ここまではおまけというかオプションみたいなものね。
大事なのは歯を削るためのタービンなんかを動かす動力ですから」
「タービン?」
永琳がコードつきの極小ドリルのようなものを手に取ると、その先端がちゅいいいんと高音を出しながら高速に動き始める。
急に大きな音が出たのに驚いて、天子はびくりと身を竦めた。
「実際に歯を削ったりするかどうかはわかりませんが、とにかく、道具等の備えだけは十分ということです。
あとは私に任せていただければ、悪いようにはしませんよ」
「よかったですね総領娘様。この装置ならきっと虫歯を治すことができますよ。俗に言うハイテクというやつです」
「そ、そうね……」
「総領娘様?」
珍しい動きをする機械に興味津々な衣玖とは対照的に、天子は青い顔をして衣玖のスカートの裾をじっと掴んでいた。
「それでは、問題がなければ早速治療を始めようかと思いますが」
「ちょ、ちょっと待って! 私、なんか催してきちゃったから、お手洗い貸してちょうだい」
「あら、そうですか。お手洗いなら診察室を出て左手に見えますよ」
「わかった。……衣玖、ほら、いこ」
「およよ、私もですか」
呆ける衣玖を半ば引きずるような形で、天子は足早に治療室を出た。
先ほど通ったばかりの暗い廊下に、二人分の足音が短い間隔で響き渡る。
「急にどうなさったのですか総領娘様。いくら迷いの竹林といえども、お手洗いまでなら一人でも行けると思いますよ」
「分かってるわよそれぐらい。何も道案内を期待してるわけじゃなくてさ……衣玖も見たでしょ? さっきの装置」
「ええ、この目でしっかりと」
「……なんかさ、思うところがなかったの?」
「と、言われますと?」
不思議そうに小首を傾げる衣玖の前で、天子は歩みを止め何やら恥ずかしそうに俯いた。
「医者に治療を任せるってことはさ、私、さっきの奴にされるがままになるってことでしょ。
私、騙されてたりしないわよね。例えば……なんか変な薬を飲まされたり、実験台にされたり」
「生かさない程度に殺されたり」
「それは完全に死んでるじゃないの!
……なんか、妙に謙虚というかいい奴だから、かえってその辺が鼻につくのよ」
「つまり総領娘様は、彼女が偽善者ぶっているのが気になると」
「偽善者ぶるってどういう日本語なのよ。それじゃ二重否定で結局いい人でしょ。
まぁ、あいつの本性とかそういう話もあるけど、そもそも治療を受けるのも不安というか……」
「総領娘様、無礼を承知でお聞きいたします。率直に言って、治療を受けるのが怖いのですか?」
単刀直入に衣玖にそう言われ、天子は頬を染めながら黙り込んでしまった。
実質のイエス表現である。天子は観念したように口を開いた。
「……そうよ。私、怖じけづいてるのよ。
あんなので歯をガリガリされたら、絶対痛いに決まってるじゃない」
「総領娘様……」
「私だって怖いものは怖いのよ。いくら歳とったって言っても、私、心はまだ子供だもん……」
「1ケタですからね……」
「分かってもらえて嬉しいんだけどその表現はやめて!」
箱入り娘の比那名居 天子は、幻想郷で初めて見るお医者さんというものに怯えていた。
「総領娘様、心中お察しします。
ですがもう一つ聞かせてください。今痛い思いをするのと今後も痛い思いをするのと、二つに一つならどちらを取りますか?」
「そ、それは……」
「せっかくこんな僻地まで辿り着いて、さらにお医者様も総領娘様を待ってくださっているのです。
今こそ勇気を出すときです総領娘様。私永江衣玖も総領娘様のそばに居てあげますから、頑張りましょう」
「……うん、そうよね」
優しく衣玖に諭されて、天子は一つ大きく頷いた。
なんだかんだ衣玖もここまでついて来てくれたのだ。わがままお嬢様の天子も、人の好意を無碍にするほどナンセンスではなかった。
「ていうか、いつ私がこのまま帰るなんて言ったのよ。ちょっと心の準備がしたかっただけよ!」
「それはそれは。して、今度は準備のほうは如何ですか」
「もちろん、バッチリに決まってるじゃない」
被りっぱなしだった帽子を衣玖に預け、百八十度踵を返す。
そしてどかどかと治療室へと入り込むと、天子はブーツも脱がないまま治療用の椅子へどっかりと座った。
「ほら、私はいつでも準備OKよ。煮るなり焼くなり好きにしなさい!」
「あらあら、急に元気になったみたいね。それではお言葉に甘えさせていただきます」
急に引き返してきた天子を見てくすくすと笑いながら、永琳は椅子の背中のボタンを操作した。
するとモーター音とともに背もたれが百八十度へと近づいていく。
背中越しに伝わってくる機械音がさっきのタービンを彷彿とさせるのがちょっと恐ろしくて、天子は生唾を飲み下し、ぎゅっと目をつぶった。
「それでは早速ですが、治療を始めたいと思います。
痛み止めのために麻酔を打つかもしれないんだけど……肌が丈夫すぎて針が刺さりそうにないわね」
「ス、スペカでなんとかするからいい」
「あら、そうですか?」
「心頭滅却よ、心頭滅却……心頭滅却すれば……」
「氷もまた熱し」
「雑念やめて!」
天子は気符『無念無想の境地』を握り締めた。
だがはっきり言ってこの体勢でスペルカード宣言などできる気がしない。
第一さっきのタービンみたいなものを相手に効果があるかは全く持って未知数である。
がちがちに緊張している天子をよそに、寝そべる天子の頭のあたりで永琳がかちゃかちゃと何かをいじっている音が聞こえてくる。
治療の道具を見繕っているのだろう。
そんなほんのわずかな待ち時間が気の遠くなるほど長く感じられ、悪い想像ばかりが膨らんでいく。
とにかく天子は、ただじっとしているのに耐えられなかった。
「ねえ衣玖。……手、握っててよ」
「ほーら犬さんの影絵ですよー」
「誰が自分の手を握れって言ったのよ! そうじゃなくて、その、私の手をさ」
目を閉じたまま適当に宙をまさぐって、天子は無理矢理衣玖の手を掴んだ。
すると掌がじっとりと湿る。自分でも気がつかないうちに手汗をかいていたらしい。
「終わるまで絶対離さないでよね。もし離したら私、衣玖のこと嫌いになっちゃうんだから」
「おやおやそれは困りますね。そういうことなら左手もサービスしましょう」
「……ありがと」
衣玖の両手は大人っぽい独特の冷やっこさがあって、掌を包み込まれるとほてった気持ちがいくらか落ち着いた。
「はい、あーんして」
「あー」
いよいよ治療がスタートし、出さなくてもいい声を出しながら、天子も素直に大きく口を開く。
舌の先に何か鉄みたいなひんやりしたものが触れたのに驚いて反射的に口を閉じそうになったが、
そこは代わりに衣玖の手を強く握りしめることでなんとか堪えた。
そのまま舌を押さえつけられたまま、もう一本の金具が左の奥歯の辺りをつっつく。
治療にはどのくらい時間がかかるんだろう、急に痛くなったらどうしよう、などと天子の頭には多大な心配が浮かび上がり始めたが、
ものの30秒足らずで永琳はあっさりと治療を終えてしまった。
「はい、終わりです」
「…………あ、あれ? もう?」
「虫歯ではなかったみたいですね。ほら」
永琳が持っているピンセットの先で、なにか透明な針のようなものが照明を浴びて光っている。
「短い魚の骨が歯茎と奥歯の間に刺さっていたんですね。
それが口を動かすたびに歯茎の奥に食い込んで、だんだんと痛みが増してきたのでしょう」
「何それ、私、虫歯じゃなかったの? 歯が痛いと思ってたのに」
「虫歯にかかったことがなかったから、歯の痛みと歯茎の痛みの区別がつかなかったのね。
お疲れ様でした、治療はもうおしまいよ」
確かに時折痛んでいた左のほっぺからは、違和感なるものがきれいさっぱりなくなっていた。
まさしく拍子抜け、と言ったところである。一生懸命に気を張っていた天子は、あまりの落差にちょっと頭がぼうっとするくらいだった。
「申し訳ありません……総領娘様」
「急に何を謝ってるのよ」
「六百四十八円……全然関係なかったですね」
「覚えてなかったわよそんなの。いいってば、無事に治ったんだから。
……あっ、そういえばお金で思い出したけど、治療費ってどのくらいになるのかしら」
「お代なら気にしなくていいですよ。慈善事業みたいなものだから、お金は取ってないんです」
「そうなの? いろいろと診てもらったりしたのに、悪いわね」
「いえいえ、どういたしまして」
「いずれにしろ、これで一件落着というわけですね。総領娘様が元気になって本当に良かったです」
「そうそう、あとは、衣玖にも……」
「およよ、お呼びですか?」
こほん、とわざとらしく天子が咳払いをする。
診察台の近くに置いてあった自分の帽子を深めに被り直しながら、天子は蚊の鳴くような声でつぶやいた。
「衣玖、今日はずっと一緒に居てくれて……ありがとう」
「これは丁寧にどういたしまして。できればもう少しお顔を見せてくれると嬉しいのですが」
「い、いいじゃない別に。顔くらいいつでも見てるでしょ」
「天子さん、ほっぺが真っ赤みたいですけど、お薬出しましょうか?」
「もう、からかわないでよ!」
「うふふ、ごめんなさいね。あんまり可愛らしかったものだからつい」
天子の顔がいよいよトマトのように真っ赤に染まる。
大人な二人に囲まれたまま、天子はしばらくの間顔から火が出るのを感じながら俯くことしかできなかった。
「それでは、そろそろお暇させていただきましょうか」
「うん、そうね。いろいろとお世話してくれてありがとう、先生。また会いましょう」
「はい、お元気で。……でも、私に会うってことは、また何かしら病気をするってことになるわよ?」
「確かに言うとおりです。総領娘様、ここは二度と顔を見ることはないでしょう、くらい言っておいたほうが」
「冗談言わないの。別に遊びに来たっていいんだからさ」
「ふふ、次も二人で一緒に来てくれるのかしら?」
「も、もう、からかわないでってば! 衣玖、帰るわよ」
これ以上ここにいたら何を言われるか分からない、とばかりに天子は早足に診療室を出て行った。
さりげなく、というよりも無意識のうちに衣玖の手を取りながら。
二人の足音が遠ざかっていくと、まるで嵐が過ぎ去った後のように、永琳一人の診療室には静寂が戻ってくる。
若いっていいわねえ、なんて言葉を天人の天子に使えるのは、恐らく幻想郷広しといえどもこの人を含めほんの数人くらいのものだった。
「うーん、なんだか久しぶりに陽の光を浴びるような気分だわ」
永遠亭の玄関を出たばかりの二人を出迎えてくれたのは、いつの間にか橙色に染まった太陽の光だった。
竹林の緑と夕焼けの橙色が混じった景色は、さながらお伽話の世界のように幻想的な雰囲気を醸し出している。
「なんだかロマンチックね……」
「ええ、本当に……もぐもぐ……」
「なんでここでおはぎ三つ目に手を出すのよ。いいムードがぶち壊しじゃない」
「まぁまぁ、そう言わずに。総領娘様もお一つどうです?」
「というか、もともと二つは私のでしょ。ま、一つはここまで協力してくれた駄賃ってことにしといてあげるわ」
早苗お手製の小ぶりなおはぎに、今度ばかりは天子も遠慮なくかぶりついた。
すぐに優しい甘さが口いっぱいに広がる。歯のほうも全く気にならなかったので、天子はひさびさに食事というものを楽しんだ。
「ああ、美味しかった。また今度早苗にお礼しに行かなくちゃね、衣玖」
「ええ、もちろんですとも」
「でも今日のところは真っ直ぐ帰りましょうか。空はまだ、冷えるのかしらね?」
「さて、どうでしょうか。風が出てくると寒くなるかもしれませんね」
「私、寒いのって嫌いなのよね。だからさ、衣玖。……ほら、朝来たときみたいにさ」
「ああ、かしこまりました。鈍くてすみません」
行きに守矢神社の辺りでそうしたように、衣玖は天子の背中のほうに回って、一回り小さな身体を優しく抱きしめた。
「それでは、私たちの家へと帰りましょうか」
「うん、帰ろう。永江衣玖号、発進!」
「動力:総領娘様!」
「……え? 私が飛ぶの?」
「私はあくまでも装甲に過ぎませんので」
「体よく楽しようとしてるだけじゃないの。全く、調子がいいんだから」
ふわりと二人が天を目指すと、周りに竹がなくなった辺りで随分と冷たい風が吹く。
それでも天子は衣玖のおかげでぽかぽかとあったかいくらいだった。
はるか彼方の天界までは、まだまだ到着までにたっぷり時間がかかりそうである。
今日はできるだけゆっくり帰りたい気分、そんな願望を天子が口にしなかったのは、
衣玖も同じことを考えてたら素敵だな、という随分乙女な想像のせいだった。
おはぎ食って歯磨き忘れて
今度こそ虫歯になるてんこが見える…!
……コホン、いやーギャグがまたテンポ良すぎてたまりませんなぁ 実に、実に素晴らしい。ホント良いコンビだ。
この衣玖さん、やりおるわ!
良い関係だなあ
キャラ崩壊しない程度にギャグのバランスと、
小ネタのセンスが半端ないっす。
なぜに一輪?と思った所に雲真っ赤出血で盛大に吹いたw
楽しませて頂きました
尊大ながらかわらしい天子、ボケながらもしっかりサポートする衣玖さん、みんなみんな個性溢れて、いいキャラでした!文句なしの百点を受け取ってくだされ!
ふむ、今日はいつもより長めに歯を磨きましょうかね。
金太郎飴もかわいい
クスクスとニヤニヤがいいテンポで襲ってきて顔が痛くなる素敵な作品でした
次回作も期待させてくださいな
じっくり一つ一つ噛みしめニヤけさせて頂きました。なんて自然体でボケと突っ込みな方々かッ!(笑
>「じゃ、私はこれで。そっちのお嬢ちゃんにも、これからはお痛しないようよろしく言っといてな」
「お痛」は本来は「お悪戯」の意味らしいので、もしかすると「おいた」かもです(但し天子ならあるいは……!
色々とセンスがすごかったです。
それも三回も。信じられん。
ボケとツッコミのお手本みたいなお話でした。
面白かったです。
面白かったです。
なんだかんだ優しい衣玖さんが大好き!!
次回作も待ってます!
衣玖と天子の会話がとてもテンポがよくて、すらすら読めました。
この後おはぎで虫歯オチですねわかります