――ざんざん、ざんざん。ざんざん、ざんざん。
どしゃ降りのさんざめく雨が奏でるは憂いのメロディ。
モノクロの世界を吸い込んだ瞳は色を失って、いつもの場所で空を見上げ言葉はない。
絶望の果てに雨が降る。悲しみの果てに雨が降る。世界の果てに雨が降る。
セピア色の空から降りしきる冷たい雨は、まるで瞳から流れ落ちる涙のよう――
――物心付いた頃から、わたしは、ずっと、ずっと、ひとりぼっちだった。
姓は風見。名は幽香。そんな名前をくれた両親の記憶が何故欠落しているのか、どうしてわたしには帰る場所がないのか、今此処で何故わたしは生きているのか。
何処か知らない場所に、わたしの過去は置き去りになってしまったらしい。皮膚感覚は麻痺したまま、脳細胞は死滅寸前。野良犬みたいなくすんだ瞳から零れ落ちる涙は枯れ果てて、透明な血は流れすぎた。
もしもこの世界を6日間で作った神様が本当に存在するのならば、彼女を恨むことで少しはすっきりするのかもしれない。そう考えたこともあったけれど、抗うべき相手は何処にも見当たらなかった。
ただ、どうしようもない不安と絶望だけが漠然と渦巻く無慈悲な現実が、この色を失った瞳の前で醜悪に微笑んでいるだけで……わたしはどうすることもできず、ただぼんやりと空を見上げて今日と言う日を生きている。
やまない雨。ざんざんと降り続ける雨の中、黒い鴉と一緒に、ゴミ捨て場を漁って残飯を貪った。
道行く人々が視線を向ける。哀れんで、嘲笑って、汚らわしいと目を背けた。でも、大半は野良猫以下のわたしのことなんて興味すら示さない。
この世界では現在進行形で沢山の人々が死んでいるのに、そんな知らせを聞いても人間は目を丸くするだけ。可哀想だね、悲しいね、惨めだね、ざまあみろ、なんて上っ面の同情したらはいお終い。
結局のところ、現実なんてこんなものだよね。みんな自分のことしか考えていない。そんなやるせない事実を突き付けられたところで、わたしの首吊り台にぶら下げられたままの日々は延々と続きます。
どうせ自分のことなんて誰の記憶にも残ってないし、悲しんでくれる人なんて何処にもいない。ただ、ただ、ざあざあと降り注ぐ雨が奏でる残酷な旋律だけが、冷たくなったわたしの心に泥水を浴びせかける。
――ああ、今日も、弾けそうにないわ。
ざんざんと降り止む気配のない雨で濡れてしまわないように、大きな粗大ゴミの下に隠してあるそれを見て、わたしは小さくため息を吐いた。
この大きなギターケースに入っているアコースティックギターは――幼い頃からわたしの傍らにあって、ずっと、ずっと可愛がって来たお人形さんみたいな、とても大切なもの。
小さな頃に拾ったものだから、何時頃から持っていたのか具体的な時期は覚えてない。でも、わたしの何の価値もない絶望で満たされた命は、このギターと共にあったと言ってもいい。
帰る家のないわたしは、このゴミ捨て場でずっと寝泊りしているんだけど、ある日一見風変わりなものが捨てられていることに気付いた。
瓢箪みたいな形の丸っこい胴体の中身は空っぽで、その上に伸びる細い棒との間には金属の弦が張られている。その中央部の空洞が見える部分に浮かんだ弦を指で弾くと、シャララと綺麗な音が鳴り響いた。
全ての弦を撫でるように弾くと、きらきらとした美しい音色を奏でることができるし、左手で弦を押さえて弾くとまた違った音が鳴る。その星空が煌くような音の数々に、わたしはあっと言う間に心を奪われてしまった。
それから一度だけプリズムリバー楽団の演奏を見に行った時に、長女のヴァイオリニストから簡単な手ほどきを受けて以来――わたしは暇さえあれば、気の赴くままギターを弾くことだけに熱中していた。
ふと、花を想って、音を奏でる。やさしいメロディは風に乗ってゆらり、ゆらり。煌びやかな旋律は、宇宙の風に乗って消えていく。
それだけで、ちょっとだけ幸せかなって思えて、心が落ち着くから。ただ、ただ、わたしはわたしのためだけに、今想うことを自由に奏でる。
その音色に込められた意味は、わたしが感じることができたらそれでよくて……自分の演奏を聴いて欲しいなんてこれっぽっちも思ったことはない。
このやるせない想いが奏でるハーモニーなんて、どうせ誰にも届かない。だって、みんな、幸せだから。幸せな人は、幸せなメロディを奏で、幸せな調べで、みんなを幸せにする。
でも、わたしは幸せを知らないから、分からない。幸せを奏でる方法が、どうしても分からないの。わたしの指が爪弾く弦が奏でる音は絶望の旋律。そんな音に惹かれるのは、きっと絶望を抱える存在だけだから――
真っ黒に染まった空を覆う一面の雲から落ちる雫の雨足は留まることを知らず、徐々にその勢いを増していく。
どしゃ降りの雨が地面を叩き付ける音が響き渡るゴミ捨て場の端っこで、ふと耳を澄ましてみると――小さく息を吸って、ゆっくりと吐き出すやさしいメロディが鼓膜を揺らす。
わたしの隣では、雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ、名も無き花が凛として咲き誇っていた。美しい黄金色の花びらも蒼々とした葉も、ひどい雨風にしっかりと耐えて力強く天を見上げている。
かの花が芽吹き、自らの生を謳歌するかのように可憐な花びらを綻ばせて、緩やかに朽ちていく……その儚くも美しい様に、わたしは憧れていた。花が奏でる希望の旋律に、ずっと、ずっと、わたしは憧れていた。
ちょうど今は皐月の始め頃かしら。今年もあなたは綺麗に咲いてくれたから、その花びらを見ているだけでうれしくなるわ。
普段は誰からも見向きもされない私達だけど、うたがあれば、旋律があれば、すうっと眠りに落ちるように想像の世界に想いを馳せることができる。
花の匂い弾けた夢現。ただララララ唱えてシャララララララ奏でて目を開ければ――いつか理想の『あなた』のような可憐に咲き誇る美しい花になれる気がするから。
でも、今日はギターが弾けないわ。歌でもいいんだけど、歌も大好きなんだけど、心で感じたことをなかなか思うように言語化できないから……言葉にならない感情もちゃんと伝えられる『音』の方が好き。
ざんざんとうるさい雨音のせいで聞こえないかもしれないけれど、久しぶりに歌ってみようかな。雨のおかげで人通りもほとんどないし、思いきり大声で歌ったら空も気分も晴れるかもしれない。
――モノクロの空を見上げながら、名も無き花と紡ぐ名も無き詩。
ざんざんと降りしきる雨の中、くすんだ空気を吸い込んで想いを吐き出そうとした瞬間、わたしの目の前で美しい桜色の花が咲いた――
「……迷子の迷子の迷子犬さん。こんな雨に打たれていたら、風邪を引いてしまいますわ?」
鈴の鳴るような可憐な音色と共に、わたしの身体を叩き付ける冷たい雫が完全に遮断された。
たっぷりと雨を吸い込んだ髪の毛をかき分けて目を凝らしてみると、綺麗な花模様のモチーフが幾重にも描かれた傘がわたしを雨風から守ってくれている。
この瞳に映るモノクロの世界を淡い薄紅色に染め上げた傘は、まるで灰色の空に咲き誇る艶やかな薔薇。その水彩のような澄みきった鮮やかな紅に、わたしは思わず見惚れてしまった。
そんな優美な花を手向けている人影に恐る恐る視線を向けると、その人物はわたしの代わりに雨に打たれたまま妖艶に微笑んでいた。
紫色を基調とした見慣れない異国風の衣服。その色彩と相成って、所々から覗く肌のいつくしい白さがよりいっそう映えて見える。黄金色に輝く髪はしとどに雨に濡れて、その艶やかさは一段と増すばかり。
楚々とした品性を醸し出す凛々しい雰囲気と、薔薇のような妖しい色香がない交ぜになった美しくも惑わしい端整な顔立ちは、ぞっとするくらい情感たっぷりで何処までも艶めかしい魔性の魅力を感じさせる。
ぱっちりした大きな瞳の虹彩を満たすのは、血の赤に暗黒をほんの一滴垂らしたような色合い。その真紅は空を吸い込んで、この世界の全てを鮮やかに塗り替えてしまうような妖しい光を湛えていた。
――お情けみたいな同情なんて、されたくない。
嗚呼、いたましい、何て気の毒なのかしら、こんな不憫な――そう勝手に思われて、こんな感じで声を掛けられた経験は腐るほどあった。
でも、それは全部慈善なんて偉そうな名目を掲げているだけの上っ面だけの自己満足。そんな偽善者達はみんな知ったかぶりをして、さもわたしのことを理解しているように物事を語る。
どうしてわたしが悲しんでいるのか、あまりにもむなしくて心が張り裂けそうなのか、本当は何ひとつとして分かってないくせに、一人勝手に『自分は人助けをした』なんて悦に入って満足したらそれでお終い。
こんな汚いぼろぼろの服を着てるとか、げっそりと痩せているだとか、どうせ外見だけ見て可哀想だなんて思われているんだろう。そんなゲロ以下のやさしさなんて、その場限りの使い捨ての想いなんて要らない。
何故、人間は、神様は、口を揃えて『生きろ』と言うのか、わたしには全く理解できなかった。命と言う字は『生きろ』と言うことを『命』じているらしい。くだらない、冗談じゃない、あまりにも馬鹿馬鹿しくて反吐が出る。
そんな幸せを平等に配分しなかった下衆な存在に指図されてもがき苦しんで生きるくらいなら、いっそのこと死んでしまった方がマシ。助けなんて必要ない。透明な音を奏でる花と、旋律があれば、わたしはひとりで生きていけるから。
ううん、嘘だ。ずっと、ずっと、わたしは、そうやって自分に嘘をついて生きている。
そっと胸に手を当てて、耳を傾けると、チクタク、チクタク、ほんのかすかな音が、ゆっくりと時を刻む。
人を信じることはやめてしまった。誰かに想いを伝えようなんて行為は自己満足の産物に成り果てた。
歌にしても誰も聴いてくれないし、この虚無的な想いを込めた旋律を奏でてみても、誰もわたしの方を振り向いてすらくれないし。
そんな死んだように生きている日々を今日も奏でるけれど、まだ心の何処かで、わたしは自分が生きていることを感じたいのかもしれない。
こんなわたしのことなんてどうせ誰も分かってくれないのかもしれないけれど、きっといつかわたしの奏でが誰かの心の中で澄んだ音を鳴らすって――
「冷やかしなら、間に合ってるわ」
他者と言う存在に数年振りに発した言の葉は、凍えるような底冷えのする濁った声色だった。
そう吐き捨てて、ふっと顔を横に逸らす。心の中をたゆたう感謝の想いを押し殺して、耳の無い虫になった。
「残念だけど、そんな人をからかうような悪趣味なんて私は持ち合わせていなくてよ?」
「その喋り方からまず気に入らない。そうやって人を見下したような話し方をする人、わたし大っ嫌いなの」
「別にそんなつもりは全くないのだけど、できるだけ気をつけるようにしますわ。それにしても、酷い雨……貴女も早く帰った方が宜しいのではなくて?」
彼女は曖昧な口調で適当に相槌を打つと、そっと腕を差し出してわたしのてのひらを、むすんで、ひらいてみせる。
その雪のような穢れのない指は、わたしが触ってしまったら黒く染まるのではないかとか感じるほどに真っ白で美しかった。
神々が下々に慈悲を与えるような哀れみのような施しは要らない。無理矢理その手を跳ね除けようと拒絶反応が働く前に、突然ぎゅっと傘の柄を握り締めさせられた。
彼女のてのひらから、ゆらりたゆたうやさしいぬくもりがそっと伝わって――心の中でぱちんと、しゃぼん玉みたいに想いが音を立てて弾け飛ぶ。そして心の中に広がる純粋な感情が、甘いキャンディのように溶けて消えていった。
そのまま無言で立ち去ろうとする彼女に慌てて「待って」と声を掛けると、ぴたりと歩を進める足が止まる。その黄金色の髪の毛を颯爽と翻してわたしを見据える姿は、ぞくっと背筋に寒気が走るほど美しかった。
「……帰る場所なんて、ないわ」
そんなわたしの酷く淀んだ言葉も、ざんざんと降りしきる雨の音にかき消されてしまう。
それでもちゃんと声は届いたらしく、彼女は冷たい雫に打たれたまま憂うように空を見上げた。
どうしてそんな悲しそうな顔をするのかわたしには全く理解できなかったけれど、暫しの沈黙が何だか非常に気まずい。
この傘の取っ手を握っていると彼女が残してくれたぬくもりがふわっと感じられて、わたしの心をぐらぐらと揺さぶり続ける。
ゆらゆらと浮かんでは消えるしゃぼん玉の割れる音が、やさしい音色となってうわんうわんと心の中で輻輳して鳴り止まない。
そしてゆらり揺れる花びらのような淡い余韻が、ふんわりと身体中に広がっていく。ふいに残された想いの意味に戸惑うわたしを他所に彼女は再びゆっくりと近付いてきて、そっと隣に並んで立ち止まった。
「そう、名前は?」
「……風見、幽香」
「ずっと、此処に?」
「うん。物心付いた頃から、ずっと、ずっと、もうどれくらい経つのかも、分からない」
「そうね、私から見ると貴女は可憐な花が咲き誇る前の、つぼみくらいのお年頃かしら」
ゆっくりと背筋を伸ばして彼女にも傘が覆い被さるように並んで立つと、そっと彼女の指がわたしの傘を持つてのひらに添えられた。
こんなゴミ捨て場の片隅で、見知らぬ彼女とふたりきりで相合傘。まるで世界から取り残されたかのような錯覚が、何故か不思議と心地良かった。
優雅に咲き誇る桜色の傘の下で、ざんざんと降り止まない雨を見ながら紡ぐ言葉は何処か夢現な感じ。そっと触れるだけでも壊れてしまいそうなくらい、彼女の指は細くて綺麗だった。
わたしの汚れたてのひらにやさしく添えられた彼女の柔らかい肌――夢と現実を繋ぐ傘の取っ手を握るお互いのてのひらのぬくもりが、冷たくなった身体を温めてくれる。
今抱く感情の意味がどうしても理解できなくて、心の制御機能が失われているような錯誤に陥ってしまう。
何故わたしは彼女に構ってしまっているんだろう。普段ならば「貴女には関係ない」なんて追い返してやるところなのに……。
良いことをしたなんて思ってひとり悦に入ってるだけでしょ。善人面して恩着せがましい。余計なお世話。死ね――そんな言葉を平然と吐き出すわたしの汚れた心は、何故か不思議と落ち着いて彼女と接していた。
どうせ自分のことなんて分かって貰えるはずないんだ。こんな感情なんて声色にするだけ無駄。そう思ってきたはずの心が、わたしの意志に反するように、ぽつり、ぽつり、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……わたしは、花になることなんて、できない」
どしゃ降りの現実。ずぶ濡れの心で、わたしは震えながらまぶたを伏せた。
何処で何を間違えてしまったのかしら。そんな後悔すら思い出すこともできず、ただわたしは空の彼方に想いを馳せることしかできない。
この世界をモノクロに映し出す瞳。悲観的観測を嘆く言葉を書き散らす詩。爪弾くギターの音色は絶望の奏で――そんなわたしが、あの名も無き花のような美しい旋律を奏でることなんて……。
彼女のようなしっとりとした艶やかな色。クレヨンで書いた子供の無邪気な落書き。ゴミ捨て場の端でも淡く色付いた名も無き花のような彩り。そんな鮮やかに色付いているはずの世界で、何故かわたしだけが色を失っている。
その元と成り得る感情の諸々が、どうも致命的に欠落しているらしい。嬉しいとか、喜びとか、希望とか、幸せ。その類の感情が分からない限り、わたしは永遠にあの美しい旋律を奏でることができない。
それは、例えばの話――誰かに頭を下げて教えを請うたり、お金を払ったり、美味しいものを食べたりすれば手に入る類のものなんだろうか。
幾ら教え込んで貰ったところで、ちゃんと覚えられる保障はない。わたしのゼンマイ仕掛けの心臓は生まれつき欠陥を抱えていて、最初から希望を感じることができないようになっている可能性も無きにしもあらず。
あるいは、最初は覚えていたけれど、今はすっかり忘れてしまったとか、理由は色々考えられるけれど――ただ、ただ、わたしは、自分が壊れてしまわないように、ありとあらゆる感情の全てから心を閉ざした。
だけど絶望で満たされた心の中には現在進行形でどんどん負の感情が流れ込んできて今にも破裂しそうだから、想いを詩と旋律に変えて嗚咽を漏らすように吐き出すことで、ぎりぎりのところで何とか自我を保っている。
こんなわたしが花になることなんて、それこそ夢みたいな御伽噺。わたしは絶望を希望に変えることはできないけれど、花はどんな時だって凛とした綺麗な旋律と色を以ってこの世界を美しく彩ることができる。
そう、多分……憧れているんだ。その旋律と音色に憧れている。あの名も無き花のような、希望に満ちたやさしい音色で心を満たすことができれば、わたしは幸せを手に入れることができるかもしれない。
――絶望を歌うこと。絶望を詩として書き留めること。絶望を奏でること。
それはわたしがわたしを肯定してあげるための唯一の術だから。名も無き花が奏でる旋律が美しいと感じるのと同時に心が痛くなるのは、きっとわたしが絶望に恋焦がれているせい――
「そんなこと、ないと思うわ」
ざあざあと傘を叩き付ける音が鳴り響く雨の中でも、彼女の凛とした声は硝子のように透き通っていた。
その美貌は艶やかな色彩を帯びているのに、さり気なく紡がれる言葉は湖の深淵を覗き込んだ時に垣間見えるような蒼。深く、深く、吸い込まれるような蒼。
七色を自由に奏でる彼女の声は、とても美しく澄んだ音がする。繋いだてのひらから伝うぬくもりも、とてもやさしくて、ふんわりと包み込んでくれるような感じがする。
心の中は死んだまま生きているわたしは、何処までも美しい極彩色を帯びた旋律を奏でる彼女に惹かれているのかもしれない。
絶望で満たされた心の隙間を縫って、蒼く澄みきった音がわたしの知らない感情をなぞる。それは言葉に例えると何と言えばいいのか、よく分からなかった。
ただ、ただ、そっと瞳を閉じて、耳を澄ます。今まで想いが行き渡らなかった心の管に、純粋な想いが伝う肌触りを感じたわたしは――まだ、自分が生きていることを知った。
「まるでわたしのこと知ったような口聞かないで。わたしはあんな綺麗に咲くことなんてできないし、此処にいるのが相応しいゴミクズなんだから」
自虐でも悲劇のヒロイン気取りでも何でもない、わたしが思う素直な本音を口に出すと、彼女はうんと少しだけ考える仕草をしてみせた。
そのこと自体にはあまり関心がないとでも言いたそうな態度は、そこら辺でわたしのことをああだこうだと馬鹿にする野次馬の類と何ら変わりのない感じ。
そう言う人々の反応だってもう慣れたけれど、決して気分のいいものなんかじゃない。どうせわたしのことを面白がって話しかけてるだけなんだろうし、さっさと放って立ち去って欲しい。
そんな心の中は間違いなく拒絶反応を起こしているのに、どうしても彼女から離れることができなかった。あの可憐な声が、心に鳴り響くメロディが、不思議な心地良い余韻を残して……。
いっそのこと爆音のディスコードでわたしを壊してくれたら良かったのに、彼女の奏でる音色は何処までもやさしくて、すうっと自然な感じでふわり心の中に広がっていく。
ただ、ただ、どうしようもない現実は、ずっと、ずっと、わたしの目の前で当然のようにそびえ立っている。
空は、モノクロの空は、あんなにも広く、幾ら手を伸ばしても届かなくて、わたしはどうしたらいいのか分からない。
それが神様のいたずらだとか、自然の摂理だとか、はたまた運命だとか不条理だとか、つらつらと理由を並べてみてもわたしはどうすることもできず、また今日も空を見上げることしかできない。
死ぬ、死ねばいい。自殺すれば、全て終わる。そう考えたことだって何度もあった。でも、それは何か違うような気がする。こんなことを喋ってしまったけれど、わたしは心の何処かでまだ希望にすがりついているのかしら。
そう、それは名も無き花のように可憐に咲き誇る――そんな叶うはずのない未来を夢見ることで、わたしはわたしであることを、風見幽香であることを、この世界から認めて貰いたいだけなのかもしれない。
「さて、それはどうかしら。鏡を見ないと其処に映る自分がどんな姿をしているのか、貴女自身では分からないことと同じようなものですわ。それに貴女は貴女なりのプライドをきちんと持っているのではなくて?」
「そんなもの、とっくの昔に捨てたわ。わたしは生きるためなら何でもする、ただそれだけよ。最初に言ったでしょう? くだらない冷やかしや余計な同情は間に合っているの。分かったらさっさと消えて」
そう言って傘から手を離した瞬間――からんからんと音を立てて薄紅色の傘が地面に落ちた。
ずぶ濡れの雨の中、やさしいぬくもりが伝うてのひらが、そっと包み込むようにわたしの身体を抱き寄せる。
あっと言う間の出来事に「わたしに触るな」なんて、いつも悪態ばかり吐き出すくちびるからは声さえ出なかった。
雨で薄っすらと透けて見える肌の白さは雪みたいなのに、感じる体温は確かな熱を持ってゆらりゆらりとたゆたうようにわたしの身体に染み込んでいく。
ふいに起こった事態に頭の中が真っ白になった。ざんざんと降り注ぐ雨の中、花のような美しい旋律を奏でる人の胸の中に抱かれて、その愛おしいぬくもりをわたしは感じている。
ああ、どうして、言葉と、想いが、ばらばら、ばらばら。こんな時だけ我侭を言うのはずるいなんて分かってる。でも、今だけでもいい、もう少しだけでいいから、貴女の想いを感じていたい。
どんな言葉にも変えられない、不思議な、とても不思議な気分だった。砕け散った五感のうちの視覚――欠落して色彩を失ったはずのセピア色に彩られたわたしの瞳の中で、貴女だけは何故か美しい紫色に染まっている。
「私の言葉がそんなに信じられないのならば、咲かせてみせましょう。貴女に気付かせてあげるわ。今此処で咲き誇る風見幽香は、この世界に存在しない想像を超えるような美しい花であると言うことを……」
そうやって彼女は神に宣誓するように囁くと、わたしの身体をさらに抱き寄せてしっとりと濡れた顔をそっと近付けて来た。
くるんとカールしたまつ毛に伏せられた瞳は夢現――何処か誰も知らない遠い世界へ連れて行ってくれるような白昼夢を見せて貰える気がして、わたしの思考は完全に思考停止してしまった。
こうして近くから見ると、あまりにも美しい人だと言うことを改めて思い知らされる。雨露でしっとりと濡れた蒲公英色の髪は一段と艶やかな色彩を帯びて、雪のような肌は綺麗に透き通っていた。
光り輝くアメジストの瞳から、甘ったるく潤んだ視線が段々と細くなって、そっとまぶたが伏せられる。わたしを抱きしめる力が、ぎゅっと強くなった。私は離さないから安心して、そう言ってくれているみたい。
冷たい雨の中で抱きしめられているのに、ゆらり揺れる想いがふわり心に温かな安らぎを与えてくれる。彼女の仕草はとても妖艶かつ華やか。貴女の見せてくれる夢を、早く――心からふつふつと溢れ出す感情が、堰を切って流れ始めた。
そっと目を開いて彼女のことを見ているだけで、心臓の鼓動がどくんどくん早いビートを刻む。
期待、とか、ときめき、とか、恋の予感、とか……くすんだわたしの瞳は彼女を正視することすら間々ならなかった。
小さく首を傾げながらゆっくりと近付いて来る端整な顔立ちは、露で瑞々しく色付いた紫陽花のように艶やかで、思わず目を背けてしまう。ざあざあと延々と降り止まない雨の音が段々と小さくなっていく。
ああ、どうすればいいのか、分からない。だって、今から与えられるもの、貴女がしようとしていることの意味を、わたしは知らない。誰も教えてくれるはずもないし、一生知らないまま終わる経験だと思っていたから。
それが幸せになるための幸福論だとしても、どうせわたしにとっては無縁なこと。でも今彼女は、そんな錯綜する感情の諸々を無視しようとして――雨で湿って艶やかに色付いた吐息が、やさしくわたしの頬を撫でてくれる。
――その意味を知った瞬間に、わたしの世界は変わるのかしら?
そうやって期待して、ずっと裏切られてきた。人間なんて所詮自分のためにしか行動しなくて、私利私欲を満たすためだけの下衆な生き物だと言うことを、今までイヤになるくらい味わってきた。
でも、今こうしてわたしが感じているものは、絶望とは違う何かに満ち溢れている。もしかしたら、この人はわたしのことを分かってくれるかもしれない。わたしの夢を、叶えてくれるかもしれない。
すぐに別の『わたし』が反論し始めた。またこんな感じで騙される。何かを期待すること、それ自体が自分を傷付ける刃なんだ。最初から何もかも全部自分で背負い込んでしまえば、余計な苦しみを味わうこともないわ。
さんざめく雨の中、哀れみ、同情、不憫、憎しみ、渦巻くノイズ。戸惑う想いが交錯する。
そんなどうしようもないわたしの想いを伝えようと視線を上げると、雨に濡れた紫陽花と目が合った。
そのぱっちりとした大きな瞳には淡い碧色。ああ、それは、わたしの色。そう気付いた瞬間、美しい真紅の薔薇の吐息が重なった――
――綺麗な音がした。恋は鳴る。そんなこと、たった今初めて知った。
わたしのくちびるの上に舞い降りたアゲハチョウが奏でるメロディは、何処までも美しく澄んだ旋律を心の奥底に響かせる。
美しくも惑わしい色香と共に流れ込んで来る想いは、いつしかわたしが失くしたはずの可憐な旋律と鮮やかな色彩を帯びていた。
どこか、まだ、本能。匂い立つ、ほのかは、夢中。七色を奏でる貴女がそっとくちびるの先で唱えた魔法は、わたしの心の中に一輪の花を咲かせてみせた――
「は、ぁん……」
しっとりと濡れたアゲハチョウの羽根が、わたしのくちびるの蜜をやさしく吸い上げる。
どうしたらいいのか分からないわたしは――ただ、ただ、貴女の目の前で咲き誇る名も無き花になった。
てのひらよりはっきりと伝う想いはたまらなくスウィートで、美しい真紅の羽根を広げた蝶が運んできた色香に、ついぼうっとしてしまう。
「ん、ぁ、はぁ……」
「あんっ、は、ぁ、んっ……」
ざんざんと降り注ぐ雨の音に混じって、甘ったるい嬌声が鼻から漏れ出す。
彼女の潤んだくちびるがゆっくりと表面をなぞるたび、甘く切ない想いと同時に緩やかな快感が身体中を循環する。
ずっと長い間使われることなく錆び付いたままだった感情の管に想いが流れ込むと、心の中が段々と不思議な火照りに包まれていく。
生きたままほとんど死んでいたはずのわたしの感性を司る部分は、その機能を失うことなくしっかりと生きていた。今くちびるの先から伝う想いをわたしは確かに感じ取って、それがたまらなく愛おしく思っている。
真紅のアゲハチョウに蜜を吸い取られる感覚が、こんなにも気持ちいいなんて……うっとりと眠りに落ちていくみたいな快楽に身を委ねていると、ふと自分が本当に花になってしまったかのような錯覚に陥ってしまう。
「あ、んっ、はぁ、ん……ゆぅ、かぁ」
「ん、ぁ、は、ぁ、あぁん……は、ぁ…………」
そっと、そっと、やさしく囁いてくれたわたしの名前を呼ぶ音が、心の中に蒼い風を送り込んでくれる。
たったそれだけでも心は満たされるのに、こんな甘い口付けを交わしていたら頭がおかしくなってしまう。
されるがままにキスを受け続けるのも素敵だけど、わたしも同じようにしてあげたくて彼女の薄紅色の花びらにそっとくちびるを押し付けた。
ふわんと柔らかいクッションみたいなそれは艶やかな薔薇の花びら。重ねたくちびるの距離が近くなるにつれて、彼女との心の距離もぐっと近くなる。
もっと、もっと、貴女のことが知りたい。わたしのことも、知って欲しい。互いが紡ぐ音に込められた想いを感じていたい――そう神様にお願いしながら、無心でくちびるを貪り合った。
きっと多分、そんな想いも一緒だから。ぎゅっと抱きしめあったまま絡めたてのひらの力が強くなっていく。
壊れるほどに、抱きしめて欲しい。狂おしいほどに、貴女の全てを感じたい。風見幽香と言う名前の『花』からじんわりとにじみ出す甘い蜜を、彼女は無心で舐めしゃぶっていた。
絶望で満たされた花から吸い取る蜜はどんな味がするのかしら。少なくとも貴女と言う花から感じられる想いは、ちょっと吸い込んでしまったらもうやめられない猛毒みたいな味がするわ。
このままわたしの世界が終わってしまうのも悪くない――そう思えるくらいに甘く切なくて素敵。美しい花には鋭い棘があると言うけれど、血塗れになってこの身体が朽ちようとも、貴女を抱きしめたまま、死、ニ、タ、イ。
「あぁ、は、ゆぅ、か、ゆうか、ゆぅ、かぁ……」
「あ、はぁ、ん、ぁ、はぁん、ちゅ、るぅ、あは、ぁんっ…………」
小さなキスを何度も何度も繰り返しながらわたしの名前を途切れ途切れに囁く音色が、妖艶な色香を帯びて頭の中で反響する。
上品かつ繊細な薔薇のような芳しい匂いと、清楚な雰囲気の中に危うい妖しさを宿した甘く引きつった声が、わたしの心を徐々に犯していく。
しっとりと雨に濡れた艶やかな紫陽花が、こんな美しいハーモニーを奏でることができるなんて……言葉にはならない想いが、心の底からふつふつと湧き上がって来る。
ただ、ただ、心地良い音。恋の鳴る音が、胸の内でかん高く鳴り響く。わたしの奏でる音は酷いぎくしゃくとしたリズムなのに、彼女の奏でるメロディはしなやかな旋律を鳴らす。
深く暗く堕ちていく浮遊感と、心の中を真っ赤に染め上げられるような倒錯の色を帯びた艶めかしい快楽は何処までも夢現――そんな見目麗しき彼女に、わたしは完全に心奪われてしまっていた。
ふしだらな火照りが全身に回り始めると、吐息を口移しするたびに段々と浅い呼吸が荒くなって熱っぽさを増していく。
彼女の真っ赤に染まった薔薇の花びらを無心でしゃぶり尽くすと、甘美な快感に耐え切れない口端から甘い吐息と共に、だらだらとはしたない液体が雫となって滴り落ちる。
くちびるとくちびるの間で、くちゅ、くちゅとはしたない音を立てながら、お互いの花びらをついばんで弾力を愉しんだり、だらしくなく開いた隙間へ蜜を流し込んだり、やりたい放題にくちびるを犯す。
ああ、でもおかしいわ。わたしは、今女の子を、犯してる。欲情してる。そのくちびるの中に、舌を入れてぐちゃぐちゃにしてやりたい。どうしてそんな感情を抱いてしまうのかしら? たまらなく気持ちいいから? それとも、好き、だから?
貴女は透明な澄んだ音を奏でるのに、わたしの鳴らす旋律は不協和音。恋は鳴る。でも、奏で方が、どうしても分からない。イヤだった。悔しかった。この想いを彼女に聴かせてあげられないことが、とても苦しくてつらかった。
――わたしの心の在り処が黒だから。
絶望で満たされた心は知っている。こんな綺麗な音も、やがて空気となって空に溶けて消えてしまう。
其処に残るものって、一体何かしら。それは結局のところ、やるせない現実とか、どうしようもない不安とか、死にたくなるようなつらいこととか、そんな類のことばかり。
こんな見ず知らずのわたしとのキスだって、どうせ彼女の気休めや自己満足のそれ。ある人は言いました。幸福に、生きよ――そんな言葉は、所詮神様の世迷い事に過ぎないのだから。
本当は、否定したい。貴女の想いを、その澄んだ音に込められた想いを、信じさせて欲しいの。
それなのに、心の何処かで真っ向から貴女のことを否定する自分がいる。こんなの、ただの慰め、同情、いじめ、虐待――そうして最初だけ可愛がって手懐けておいて、用が済んだらゴミ扱い。
今までわたしにやさしくしてくれた人は全員漏れなくそうだったのに、どうして反省しないの? まだ人が持ってる思いやりとか、くだらない自己犠牲とか、性善説なんかを信じてるお馬鹿さんなの?
そんなもうひとりの『わたし』がげらげらと嘲笑う。貴女から伝う優美な旋律の中に、ずっと身を委ねていたいのに……この穢れきった心は、どうしても貴女の気持ちを素直に受け取ることができない。
心がばらばら、ばらばらで、分からない。理解できない。もしも、わたしが普通の家庭に生まれ育って貴女と出会うことができたら、幸せに、なれたの、かな。今のわたしは、信じる、とか、愛する、とか、大切な感情が抜け落ち、て……。
ああ、それでも、こんなわたしでも、貴女の心の中では想像を超えるような美しい花になれる。
恋が鳴る魔法のキスは、わたしの絶望で覆われた心の奥底に小さな息吹を生み出した。その小さな苗をちゃんと育てることができたら、貴女のことを愛せるようになるのかしら?
どうしようもない現実によって荒れ果てた日々の中で、恋のハーモニーを奏でながら貴女が蒔いた種に自分らしい水を撒いてやれば、いつか現を越えて咲き誇る夢の花になれるのかもしれない――
ふと、彼女がくちびるを離す。その瞬間、がくんと膝から自分の身体が崩れ落ちた。
冷たい雨の中、甘い吐息の残り香がゆらり心を彷徨う。しゃぼん玉が、ふわり、ふわり、空を舞って弾けて水色の風になった。
覚めてこそ尊し泡沫の夢現、恋の眩暈かしら。うっとりとしたままの頭はゆらゆらとして、夢と現の狭間から無理矢理現実に引き戻されたような感覚に吐き気がした。
恐る恐る目を開けると、其処には灰色の空。モノクロの世界。力の無き夢から目覚めたわたしに突き付けられた現実は、途方もなく残酷な『いつもの』世界でしかなかった。
彼女が見せてくれた世界は、幻想として葬られるべき想像の花の夢。貴女の瞳に映る世界がどんなに色鮮やかでも、わたしの心が奏でるは絶望の旋律。でも、彼女が心の中で残した種は、しっかりと芽吹いていた。
恋が鳴った時のような澄んだ音を聴かせ続けて、美しいハーモニーを奏でて育てたら、きっとわたしは貴女に相応しい花になれる。そっと想いを馳せると、絶望で溢れ返った心に根を下ろした小さな息吹に、どくんどくん血が巡り始めた。
――貴女は、神様なの?
そんな小さな問いかけは、ざんざんと降りしきる雨の音にかき消されてしまう。
そしてずっと抱きしめていたはずの彼女は、わたしの目の前から忽然と姿を消していた。
ほんのりと残るくちびるのやさしい感触が、淡い灯火となって心の中を照らし出している。
小さな息吹は瑞々しいエヴァーグリーン。それはあのキスを交わした瞬間の――彼女の瞳が映し出した淡い碧のように澄んだ綺麗な色をしていた。
そっと胸に手を当てると、彼女のことが感じられて、嬉しいのに、心が苦しくなる。あの恋が鳴る音、甘く切なくて大好きなのに……その美しい旋律を思い出そうとすると、きゅんと胸が締め付けられる。
あのキスに込められた、冷たい魔法が解けていく。恋なんて感情の意味が薄っすらと分かった途端、急にぬくもりが恋しくなって、自分の身体を自分でぎゅっと抱きしめてみるけれど、ただ、ただ、むなしくてどうしようもなかった。
ざんざん、ざんざん。ざんざん、ざんざん。
止め処なくさんざめく雨が奏でるは憂いのメロディ。
モノクロの世界から空を吸い込んだわたしの瞳は色を失って、いつもの場所でわたしは空を見上げ言葉はない。
セピア色に染まる景色の中で、名も無き花と彼女が置き去りにした薄桃色の傘だけが、色鮮やかに咲き誇っていた――
◆ ◆ ◆
雨降りの朝で、今日は会えないのかしら。
わたしは美しく咲き誇る傘の下で名も無き花とふたりきり、ぼんやりと空を見上げていた。
さんざめく雨が心を洗い流すような繊細なメロディを奏でる朝は常に憂いを帯びて、それが皐月の季節とも相成ると余計憂鬱になってくるから嫌い。
ざんざんと叩き付けるような雨は感情を逆撫でするようで耳を塞ぎたくなるけれど、今日みたいなしとしと、しとしと落ちてくる雨の音は何故かやさしく心に響くから、それが物憂げになる原因なのかもしれない。
こんな綺麗な花が咲いていると言うのに、道行く人々の様子は以前と変わることもなく、淡々と無常な日々は過ぎていく。今日も世界はわたしを無視し続けて、地球はくるくるくるくると回り続けている。
ちょうど季節は皐月も半ばを過ぎた頃。かの名も無き花の命は、もう風前のともし火だった。
ゆらり揺れる雨風に晒された花びらの凛とした佇まいは儚く夢現で、ただ、ただ、緩やかで、安らかな、自らが朽ちて行く時を待ち侘びている。
そっと耳を澄ますと、根から水と養分を吸い上げて循環する音は弱々しくて――名も無き花が奏でるは終末の調べ。静かに朽ちて、土へ還り、また花となる。たったそれだけのことが、とても、とても、悲しい。
次の春まで待つことなんてもうとっくに慣れたはずなのに、やっぱりどうしようもなく悲しくて、泣きたくなる。たった一言の「さよなら」も「またね」も言えないお別れって、どうしてこんなにつらいのかしら?
ああ、また残酷に季節は巡り巡って、またひとりぼっちになってしまう。
わたしの言葉を、詩を、旋律を聴いて、そっとやさしく見守ってくれていた花がいなくなってしまうとやっぱり寂しい。
ただ、わたしは、貴女が聴いてくれなくてもいいかなって思うの。このどうしようもない想いは蒲公英の綿毛みたいに宇宙の風に乗って、ゆらり、ゆらり、何処か名前の無い世界へ飛んでいく。
其処で見知らぬ誰かがふとわたしの想いに気付いてくれるかもしれない――それは、とても、とても素敵なこと。そう考えると、少しだけ幸せな気持ちで満たされるし、詩を書いて想いを奏でようって気になれるから。
――今年の春も、貴女との奏で、とても楽しかったよ。
どうもありがとう。また来年会おうね。わたし、ずっと、ずっと、貴女のこと待ってるから。
そんなささやかな想いも、ざんざんと降りしきる雨音にかき消されて――突風がひゅるりと渦巻いて、花びらがふわり舞い散った。
そして春の終わりを告げる詩のような、あの憂いのコードだけが遠く夢の彼方に鳴り響く。その花葬をわたしは『世界の終わり』と名付けた――
「こんにちは、幽香。ご機嫌如何かしら?」
ふと、感傷に濡れた想いを心に書き留めていると、彼女がすうっと暗闇の中から現れて、わたしの隣にそっとしゃがみ込んだ。
ざんざんと地面を叩き付けるノイズのような雨音の中でも、わたしが神様ですかと問いかけた人――八雲紫の声はとても透き通って聞こえる。
はらはらとモノクロの空に吸い込まれていく名も無き花に静かな祈りを捧げ終えてから、もう一輪の花、薄紅色の傘を紫の方にそっと手向けた。
「あまりよろしくないわ」
「花の命は紅く儚く消える運命と言うけれど――」
あの日、わたしの心の中に小さな息吹が生まれて以来――八雲紫は毎日欠かすことなく、このゴミ捨て場にやって来るようになった。
初めてのキスを奪った分際で今みたいに「ご機嫌如何?」なんて平然と訊いて来る辺り最初は腹が立ったけれど、あのハナノユメが忘れられるはずもなく、いつしかわたしと紫は少しずつ話を交わすようになった。
単刀直入に言ってしまえば、紫の話はややこしくて滅茶苦茶分かりにくい。でも、ふと時々紫が奏でる詩的な言の葉を聞くたび、恋が鳴る。ギターのアルペジオを丁寧にかき鳴らすような、シャラララララって綺麗な音が鳴り響く。
たまに本気で惚気みたいなことを言うから、そのたびにわたしはどきどきして、心がきゅんとしてしまうから、嫌い、嫌い、大嫌い。そんなわたしの様子を愉しんでる紫が花が咲いたように綺麗だから嫌い、もっと嫌い。
ただ、紫はいつも綺麗に恋を鳴らすけれど、それが本気かどうか疑わしく感じたりすることもある。
それは逆に言えばわたしの気持ちが――大好きの裏返しは嫌いでしかなくて、本当に嫌悪している自分も心の何処かに存在しているからだと思う。
わたしが何も食べてない日の方が多いことを知るや否や毎日お弁当を作って来てくれるし、すぐ汚くなるから必要ないって断ったのに、わしゃわしゃと髪の毛含め全身を洗浄される始末。
そうやって最初のうちに恩を売って信じさせておいてから、どうせそのうちすぐ裏切るんだ。そんな人を『信じる』ことを諦めたわたしなのに、何故かどうしてか紫だけは拒絶できなかった。
勿論キスされた時のこともあるし、それはとても素敵だったけれど、紫の想いが不明瞭で、わたしのことを本当に愛してくれているのか、分からない、分からないよ。貴女のことも、わたしのことも……。
しれっと訊こうとすると、紫はこんな感じの適当なことを言ってはぐらかす。わたしが紫に抱く感情は、きっと多分、恋なんだと思う。でも、貴女はちゃんと答えてくれないから嫌い。紫のこと、やっぱり嫌い、大嫌いなんだから。
――二回目に紫と出会った時に真っ先に用意されていたのはお弁当でもなく、それこそ異国風な感じの衣服だった。
袖にフリルが幾重にも飾り付けられた純白のブラウスの襟元には、綺麗な蒲公英色の大きなリボンが添えられている。
身体に掛けるだけのシンプルな造りの真っ赤なベストと対を成すのは、正方形の柄を基調とした薔薇のような真紅に染まったスカート。
その花のように可憐で美しい弧を描く長めの袖の先端は、真っ白な花のリボンが幾層にも折り重なっている。まるでお姫様のような煌びやかさを秘めた衣服の数々は、どう考えてもわたしなんかとは釣り合いそうもない。
やだ、絶対やだ。似合うわけない。わたしなんかこんなの似合わないってあんなに抵抗したのに、結局紫の押しの強さに根負けしたわたしは泣く泣くその衣装を身に着けた。
その時の紫のはしゃぎっぷりは、今でも忘れられないくらい鮮明に思い出せる。可愛い。超可愛いわ。私の思った通りの綺麗な花になった――そう紫は言ってたけれど、あれは絶対お世辞だと思う。
こんな西洋人形みたいな格好をさせられたせいで、以前にも増して人の目がわたしに向くようになった。ゴミを見るような目つきだった人達の視線が、何処か普通の人間を見るような感じになった気がする。
それも紫は「貴女が綺麗だから皆気になるのよ」なんて我が事のように悦ぶけれど、肝心のわたしは結構置いてけぼりっぽくて気に入らない。でも、紫が気に入ってくれるなら、それもいいかなって――
「幽香の隣ならば天国まで行けるわ、茨の道でもどうぞ悦んで受け入れましょう」
「美しい花には棘が付き物よ。だから、わたしを抱きしめてくれたら、きっと紫は痛くて痛くてすぐに離してしまうと思うけど?」
「あら、自分が美しいなんて傲慢、幽香らしくて素敵。貴女を抱いたら毒が回って頭がおかしくなりそうだけど、血塗れにはならないはずですわ。だって、貴女は優しいもの」
う、うるさい、とわたしが顔を赤らめてそっぽを向くと、くすくすと透き通った声で紫が笑う。
言葉を口にしなければ何処かの国の姫君と見紛うほどの美貌の持ち主なのに、いちいち余計なことやくどい言い回しが多いから貴女は可愛くない。
でも、そっと重ねられたてのひらから伝うぬくもりがやさしくて、やっぱりどきどきしてしまう。さり気なくわたしの肩に寄せられた紫の髪の毛の香りはフローラル・フローラル。
その妖しくも芳しい香りに、誘い惑わされそうな心を必死で押し殺す。紫の仕草は何を取っても流麗で、澄んだ音がするから……わたしは道に迷うアリスのフリをして、あちらこちらと紫の想いを求めて彷徨う。
ああ、もしかしたら、わたしと紫は両想いとか、あるかもしれないわ。そうだったらいいな、少なくともわたしは、紫のこと、好き。
ふと、貴女の隣で咲き誇る花になることを想像する時もあるけれど――私達は想いを隠して、ただ笑っていた。それでいいんだと、わたしは心に芽吹いた小さな命に言い聞かせることにしている。
今が幸せだから、今以上を望んではいけない気がするの。その幸せが壊れないように、ぎゅっと抱きしめて崩れてしまわないように、そっと想いを抱いて、確かな絆を感じることができたら、それだけで……。
紫の瞳に映るわたしは、今は花に見えているのかしら。それともただの葉っぱで、もしくはゴミ以下で、そのうち家畜扱い。そんな風にネガティヴに考えるの、やめようよ。紫のことを、その奏でる美しい音色を、信じさせて?
――モノクロームの世界に咲いた薄桃色の傘の下で、私達は何も言わず寄り添い合っていた。
どしゃ降りの雨が降りしきる景色が静止したような空間の中で、繋いだてのひらの上で重ね合った『好き』の言葉が鮮やかに色付き始める。
その美しい旋律を夢の花に変えることができたら、わたしは幸せになれるのかな。そうして出来上がった幻想の花束を抱えて待っていたら、貴女は微笑んで受け取ってくれるのかしら。
たった一言、好きって言えたら、きっとわたしの世界は変わるはずなのに、センチメンタルな恋はどうしようもなくもどかしくて、どんな感じで紫と接したらいいのか未だよく分からない。
こうして身体を寄せ合っているだけで恋人同士だよねって空気があって、何となく幸せだねって笑い合うことができて、愛してるって告白して――いきなりそんな幸せなんて手に入るわけないって思ってる自分が大嫌い。
どうして、どうして、わたしは信じると言うことを忘れてしまったの? 今が幸せだと思い込んだまま、最低な気分を抱いて、幸せになるための方法論だけを磨いて、ただ、ただ、わたしは紫に憧れている。
さんざめく雨の中、ぼんやりと空を見上げていると、花葬したはずの名も無き花が、ゆらり、ゆらり、舞い降りてきた。
わたしはその花びらをてのひらの上に編んで、一枚ずつ数えてみる。好き、嫌い、好き、嫌い、好き、嫌い、すき、きらい、すき、きらい、すき、きらい。
その次に舞い降りた天使の羽根のような花片を、すうっと細い指が挟み取った。淡く色付いた花びらをそっとかざして、紫はまるで独り言のように言葉を紡ぐ――
「どうしてこの花は此処に咲いていたのか、幽香には分かる?」
ふるふると首を横に振ってから、わたしはてのひらに集まった花びらを再び空にぱっと解き放った。
淡い想いを折り重ねた花言葉が、今度は空に吸い込まれることもなく、ゆったりと雨風に乗って散らばっていく。
モノクロの世界に咲き乱れる淡い黄金色。美しい残像を描きながら舞い散る花びらに馳せたわたしの想いは、いつもの『花葬』とは違う恋のおまじない。
ふと、思う。わたしは変わったのかな。かの花より恋に憧れているなんておかしな話だし、恋に恋焦がれるわたしが花占いなんて頭がどうかしてる。
「貴女が、望んだから。貴女が『此処にいて欲しい』と望んだから、この花はずっと此処で咲き誇ることができたのでしょうね。貴女が望む限り、ずっと、ずっと、永遠に……」
「紫の言ってること、全然意味が分からないわ。花は土に還り、春になれば息吹が生まれる。それは自然の理でしかなくて、わたしが望む望まぬには関わらず、かの花は此処で咲き続けるはずよ」
「それは半分正解で、半分外れ。幽香。貴女は、こんな劣悪な環境の中で、花と言うものが毎年のように根付くと思うのかしら。自然の理に従って淘汰されるはずの名も無き花の運命を変えたのは、貴女自身に他ならないわ」
紫の物言いは相変わらずで、彼女が何を言わんとしているのか、分かるような、分からないような……そんな微妙にかみ合わない会話に軽く眩暈がしてきた。
花は人間よりも、ずっと精神的に強い生き物だ。こんなゴミ捨て場のようなひどい環境だったとしても、自分の生を謳歌しようと、美しい花びらを咲かせようと、彼女達は必死に今を生きている。
その理由は子孫を残すためとか、色々と難しい理由があるのかもしれないけれど、こんな残酷な世界でも名も無き花々は咲き続ける。そんな奇跡を間近で見てきたからこそ、その一縷の希望を信じてわたしは今日と言う日まで生き抜いてきた。
ただ、紫の言うことだって必ずしも間違ってはいないのだと思う。こんなひどく汚い場所で、こんな美しい花が毎年のように咲く。
雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ、可憐に咲き誇る。それはかの花自身が持つ力だとわたしは信じていた。でも、それこそ、花の命は紅く儚く、自然の猛威によって舞い散った花も、きっと沢山存在している。
この場所にはわたしがいるせいで誰も近付かないけれど、もしもわたしがいなかったとしたら、誰かに足蹴にされたりゴミの下敷きになったりして、この名も無き花も、咲き誇ることなく朽ちた花々と同様の運命を辿っていたのかもしれない。
それは、わたしが運命を変えた。そう言い換えてもおかしくないけれど――わたしが望んだから、かの花は此処で咲き続けている。こんなわたしの旋律が、祈りが、名も無き花を生かすことになっていたとでも言うのかしら?
「はっきり教えてよ。それは要するに、どういうことなの?」
そんな言葉を聞くと紫はやんわりと微笑みながら、わたしのてのひらに最後の花びらを置いた。
ゆかりのことが、すき。だいすき。そう告げた花びらはセピア色の世界で美しく色付いて、淡い光を湛えながらわたしを照らし出す。
「貴女の能力が、かの花をずっと此処で生き永らえさせて来た。きっと恐らく、貴女が望むことがあれば、枯れた花だろうと再び息吹を取り戻し、美しく咲き誇る花として元通りになるはずですわ」
「そんな能力なんて、あるはずがない。わたしは、普通の人間だもの。わたしは、わたしは……ただ、この花に自分の奏でる音を聴いて欲しかっただけなの。この花の奏でる美しい音色に、希望を感じていただけ……」
「花が音を奏でる。少なくとも私は、幽香と出会うまでそんな事実を見聞きしたことはないわ。私は貴女が話してくれた夢のような素敵な話を鑑みた上で、事実を話している。貴女は人間ではなく、間違いなく妖怪よ」
紫の美しい言葉を咀嚼すること数秒、このわたしが、こんなわたしが、妖怪、妖怪、花の旋律を感じ取ることができる、よ、う、か、い?
自分が虫けら以下のゴミクズだと言う自覚はあったけれど、よりによって誰からも忌み嫌われる存在である妖怪なんてわたしにお似合い過ぎて面白いわ。
わたしの望み、それを紫は能力だと言ったけれど、あの美しい花々の可憐な旋律を聴くことは、この風見幽香だけに許された特権。それはわたし自身が花になると言う夢を繋ぐ手助けになるかもしれない。
もしも花になることは叶わなくても、彼女達の澄んだ音を聴いているだけでわたしは幸せだから。その美しい音色を集めて、そっと胸に仕舞い込んでおいたら、この絶望に塗れた心も浄化されるような気がする。
それに、あの人間から畏怖の対象として恐れ崇められる妖怪なんて、こんなどうしようもないわたしにぴったりね。
今の紫みたいに最初だけやさしくして手懐けておいて、尻尾振るようになった途端、欲望を満たす対象として奴隷みたいに扱うゴミみたいな輩を、わたしはこの目で何度も見てきた。
その感情は、同情、哀れみ、お情け、労わり、不憫、思いやり、その類、様々な想いでわたしを救済しようとしてくれたみたいだけど、もたらされた結末なんてどれもひどいものばかり。
暴力なんて当たり前、虐待、奴隷、娼○、便×扱いなんて当たり前。どうせ人間なんて利己的で自分のことしか考えてないから、どうせ何もかも全ては自己満足のためで、わたしを庇うようなフリをしているだけに過ぎなかった。
そんなクズをわたしは殺しては、信じ続けてきた。今度こそ信じてるから、信じよう、信じさせて――そう思いたいのに、人は幾度となくわたしのことを裏切り続ける。何度でも、信じては、裏切る。何度でも、何度でも、何度でも……。
だからわたしも殺し続けた。裏切った人間は容赦なく殺した。何人も、何人も、何人も……数えることを諦めてしまうくらいに、わたしは人を殺し続けた。そのことはあっと言う間に噂になって、わたしは正真正銘のひとりぼっちになった。
勿論誰からも相手にされなくなったし、されたくもなかった。どうせなら徹底的に放っておいてくれたらいいのに、あいつらは汚いから、遠くからわたしのことを心底うざったそうな目つきで眺めながら、ひそひそ、ひそひそと噂話を繰り返す。
――あのゴミ捨て場に転がってる可愛い子さ、声を掛けてちょっとやさしくするとすぐ心を許すから、すぐヤらせてくれるぜ。
ああ、臭いからちゃんと風呂に入れてからやんないと駄目だけどさ、ちょっとツンとしてるくせに裸になったら恥ずかしそうにするのが萌えるんだよな。
元が滅茶苦茶可愛いからセッ○×してる時は花みたいなんだよ。しかもそれで淫○でどうしようもないビッ×だから最高なんだぜ。献身的なのが可愛いよなあ、自分から求めて来てあんあん鳴くのが超そそるって言うか。
ただ、犯した後は漏れなく天国行きだけどな。童貞捨てたい奴とか人生終わらせたい奴には滅茶苦茶お勧めだぜ。
当人どころか家族まで皆殺し。ひでえ話だよな、全く無関係な奴まで全員殺す。この世界で生きてる意味のない哀れな子羊に肉○×って価値を与えてやってるのによお。
あの風見幽香こそ正真正銘の『ゴミ』なんだろうな。あんなクズ女そうそういないからな。ああ、おいやめろって、今は冗談でもあいつに手を出したら容赦なく殺されるから――
ニンゲンはカナシイ。ニンゲンはハカナイ。ニンゲンはミニクイ。ニンゲンはコワレタ。ニンゲンはキレイダナ――そうやって人々は、全ての出来事を歪曲してわたしのことを嘲笑った。
わたしに手を差し伸べてくれた人間を信じたことも、その人のことを信じる一心で頑張ったことも、信じた人に裏切られた悲しみも、信じることをやめてしまったわたしの全てを、この世界で幸せに生きている人は否定する。
そんな人々にとっては「風見幽香が妖怪だから」なんて一言が立派な言い訳。正義の味方気取り。もしかしたら、あいつらはわたしが妖怪だと知っていたから、最初からこんな仕打ちを続けていたのかもしれない。
結局こんなわたしが妖怪だと種明かしされても、何か変わるのかと言えば……それは実のところ何もなくて、この世界は、地球は、わたしのことを無視してくるくるくるくると回り続ける。
やさしく声を掛けてくれるのは、わたしのことを分かってくれるのは、やっぱり凛として咲き誇る花々だけなのね。人間の言葉なんて聞こえてくるだけで不快になるし、あんなのただのノイズでしかない。
うざい、うざすぎる。みんな、みんな死ねばいい。もう全部、全部、壊れてしまえばいい。壊そうよ。壊してしまおうよ。こんなの全部私達の手で壊してしまえば、きっと素敵な未来が見えると思わない?
この世界の人々が全員死に絶えた後、最後に残ったわたしがそっと風に乗せて種をばら撒けば、この地球は浄化されて生まれ変わる。美しい花々で埋め尽くされた可憐な旋律だけが響き渡る幻想の楽園へと――
「ゆ、う、か?」
さんざめく雨の中、あんなに澄んでいたはずの紫の声が何故か濁って鼓膜に響いた。
さらっと笑っているつもりだったけれど、そんなわたしの表情はいびつに捻じれ曲がっていたのかもしれない。
「そう、なんだ。別に今更って感じね。いつから妖怪になったとか、不思議なこともあるけれど……わたしなんて元から嫌われてるし、何にしろ変わらないわ」
「もしかしたら、私の適当な世迷い事かもしれなくてよ? ちょっと試してみたらどうかしら。今貴女のてのひらの上にある花びらを使って、もう一度あの可憐な花の命を取り戻すことができるかどうか、ね?」
ふと、自分のてのひらに目をやると、ぼんやりと淡い花びらがわたしの瞳に映るモノクロの世界に色を添えていた。
いきなりそんなこと言われても、能力なんて自覚もなければ使い方も分かるはずがない。それ以前にわたしは思う。
その行為を以ってして生き返ったとして、かの名も無き花は、また以前と同じような美しい旋律を聴かせてくれるのかしら?
ただの予感とか、思い込みかもしれないけれど、わたしの力で再び咲き誇ったとしても、この花は生前のわたしに聴かせてくれたような旋律を奏でることはできないと思う。
それにもしも彼女に意思があったとしたら、この残酷な世界に再び生を受けることを果たして望むだろうか。かの花が奏でる旋律は最期まで美しく、その儚い音色には後悔の念なんて微塵も感じなかった。
望んでもいない命を与えられて奏でる旋律は、きっとわたしのような絶望を謳うかもしれない。そんな想いを感じて生きるのはわたしだけで十分だし、それ以前に――
「花は朽ちてゆく時こそ、美しくも儚い旋律を奏でるの。死ぬことを知った花が再び奏でるメロディなんて、わたしは聴きたくもないわ」
そっとてのひらを空へかざすと、最後の花びらが、ゆらり、ゆらり、再び空に吸い込まれて消えていく。
淡い光が闇に覆われて消えた瞬間、心の中で綺麗な音が鳴った。名も無き花が奏でる「さよなら」のメロディを、ずっとわたしは見届けてきた。
巡り巡る季節の中で、たとえ花の命は紅く儚くとあろうとも、その全てを受け止めた彼女達が奏でる旋律から伝う感情を、わたしはいつまでも大切にしたい。
――この世界に芽吹いて素晴らしい幸せを謳歌して咲き誇る花も、やがて朽ち果てることを知り、色褪せた刹那に絶望を知る。
そのありのままの運命を受け入れた彼女達のメロディは何処までも切くて胸が痛くなるけれど、それでもこの世界に咲く全ての花は最後まで美しく命を燃やし尽くす。
幸せを知ることもなければ、絶望を知ることもない。幸せを知った代償は、絶望とか死と言う形として必ず戻ってくることを、わたしは名も無き花の一生を見て知ってしまった。
それでも、絶望しか知らなかったわたしがどうして生きたいと願うのか――それはきっと絶望を受け入れた果てに、一縷の希望が存在しているのかもしれないと、その美しい最期の旋律を聴いて感じているから。
そんな花の調べを知っているからこそ、紫のくちびるの先から伝う幸せを感じると――希望と絶望の入り混じった想いが次第に強くなっていく。
また、同じことを繰り返そうとしている。希望の祈りは届くかもしれない。だけど、その分の絶望も必ず待っていて、結局全ての物事は差し引き零になることで、この世界の秩序は保たれている。
そう、例えば今までと同じように、紫が愛してくれた分の絶望を、どんな形か分からないけれど、わたしは必ず背負い込むことになってしまう。それは逃げ出すことかもしれないし、殺すことかもしれない。
もしもこんなわたしが八雲紫と言う美しい花を摘み取ることができたとして、その先に待っているものは、最高の幸せと途方もない絶望。そんな両方をわたしは背負い込んで生きることができるのかしら。
その幸せの対価に見合った幸せを感じて、甘く甘く何処までも甘い愛を貪り尽くして枯れ果ててしまったら、後はどうしようもない絶望を味わうだけ。そうしてもがき苦しんだ挙句の果て零に戻るのならば、最初から零で構わない。
でも、わたしは、可憐に咲き誇る花の最期のメロディを知っている。其処には必ず希望が存在すると力強く奏でる彼女達の音色が美しいからこそ、迷っている。貴女と恋に堕ちることが、永遠の幸せに繋がるの――?
「うふふっ、それって何かナルシスティックな浪漫家の幽香らしい物言いね」
「うるさい。ただわたしは思ってることを口にしただけよ。そもそも、枯れた花を元に戻すなんて命を操ることが、許されるはずがないわ」
「別にそんなこと、何もおかしくはないし、持っている力を行使すること自体が悪なんて考え方はあまり好きになれませんわ。枯れた花を再び咲かせることなんて、花を操る者として与えられて当然の能力だと思うのだけれど?」
「だから、わたしは神様でもないし、花になることも叶わないの。こんな無様なわたしが花を操るなんて、本当にくだらないお笑い話ね」
ざんざんと降り止まない雨の中、毎年ならばひとりぼっちのはずなのに、今年はいつもとは違う。
今わたしの隣には色鮮やかな紫陽花が、例えるならば艶やかな薔薇のような人が寄り添ってくれている。
ふと、抱きしめることも、手を繋ぐことも、キスをしてあげることも、何ひとつ紫にしてあげられない。紫に求められて、愛されるような『わたし』になれないことに、わたしはどうしようもない罪悪感に駆られてしまう。
言葉にできなくてもいい。言葉にしなくても伝えられる手段、それは音、つまり旋律。この想いを紫に伝えることができるのであれば、何だって――だけど、どうしても勇気を振り絞ることができず、ただ、ただ、わたしは天を仰いでいた。
たった一言でも、わたしの想いを口にすることができたら、この世界を変えられる気がするのに。いつも紫が一方的に恋人みたいに接してくれるから、水を与えられるだけの観葉植物みたいな気分。わたしだって本当は、しれっと惚気てみたい。
ああ、どうして、どうして……わたしの心は、こんなばらばらになってしまっていて、絶望で埋め尽くされているのかしら。
さんざめくどしゃ降りの雨が、こんな穢れきった心と魂を全て洗い流してくれたら、わたしは純粋な想いだけで紫と接することができるかもしれないのに、ただ心は硬く硬く意固地になって冷たくなっていく。
ゆっくりと目をつむってみても、そっと重ねたてのひらから伝う紫のぬくもりはずっと変わらず、冷たい雨に晒されたわたしの心を温めてくれる。その気持ちに報いることができないわたしは、本当にどうしようもないくらい最低だと思う。
そんな終わりのない自虐を心の中で繰り返していると、突然寄り添っていた紫の腕がそっとわたしの首元に回されて、ゆったりとした仕草で抱きつかれた。
しっとりと濡れた柔らかいくちびるから吐き出される艶やかな吐息が、わたしのうなじをくすぐるように撫で回す。そのまま耳元の下辺りにそっとキスを落とされた瞬間、とても綺麗な恋の音が鳴る。
紫から貰った傘を持つ手が、音もなく静かに震えていた。その想いに駆られたまま、逆にぎゅっと抱きしめ返してやりたかった。その艶めかしいくちびるを、強引に奪ってやりたかった。そんな勇気が、欲しかった――
「その花が朽ち果てた今、貴女の隣は私だけの居場所……そう考えると、とても嬉しいですわ」
耳元でそっと囁く紫の声は、何時聞いても澄んだ音がして素敵だから大好きだけど、突然そんなこと言われるとわたしだって困ってしまう。
今の自分がどんな表情をしているのか、それはもう容易に察しが付いた。きっと淡いなんて言葉では言い表せないほどに真っ赤っ赤に染まってる。
そうやってしれっと惚気られるのが、本当にずるいと思う。たったそれだけでわたしがどきどきしてしまうなんてことを承知の上で、あえて紫は誘うような素振りを見せている気がするから。
「そ、そんなこといきなり言わないでよ。わ、わたしだって、その、あの、恥ずかしいんだから、ね」
「幽香ってプライド高そうで高飛車に見えるけれど、いざ迫ってみると急に大人しくなるから可愛くて仕方ないわ」
そんなことを言いながら、紫が突然舌先でぺろりと耳たぶを舐めたと思った矢先――そのままちゅっと音を立ててうなじにキスされた。
甘く切ない恋の音がきゅんと胸の中に鳴り響いて、心臓の鼓動が大きくなる。触れ合った紫の胸元まで届いているのではないかと疑ってしまうようなわたしの奏でるメロディは、相変わらずぎくしゃくとしていた。
紫のか細い指先が首筋をすうっとなぞる感触が妙に色っぽくて、どきどきと心臓が刻むリズムは速くなるばかり。雨と汗で湿った肌の表面をそっと撫でられるだけで、緩やかな快感が静電気のように身体中を駆け巡る。
その動きを、指で、しなくても、ゆかりの、くちびるで、わたしの、くちびるの上で、続けてくれたら素敵、なのに、欲しいの、して欲しいの、知ってるんでしょう――紫はいじわる、本当にいじわるなんだから。
紫は喋ることはいちいち回りくどいくせに、いきなりこんな大胆な行動に出たりするから本当に訳が分からない。
わたしが自ら望んで自分から求められないことを逆手に取っているかのように、くすぐったい感触からいやらしい気持ちになるくらいのぎりぎりのボーダーラインで好き勝手にわたしを弄ぶから嫌い。
いっそのこと、あの時のキスみたいにわたしの全てを奪ってくれたらいいのに――嫌になるくらい、そう祈り続けていた。お気に入りのお人形さんみたいにやさしく愛してくれるのは、紫にも何らかの考えや事情があるからなんだろうけど……。
本音を言ってしまえば、あの神様のように振舞ってみせる紫が、どうしてこんなにもわたしのことを好いてくれるのか分からなくて、とても歯痒かった。その詩で、美しい旋律で、狂おしいほど甘いくちびるで、貴女の真の想いを伝えて欲しい。
ずっと、ずっと、そう願っているのに、貴女は知らぬ素振りを決め込む。私達は何処か想いを隠して笑っているような気がして仕方ないの。ただ、ただ、貴女の鳴らす恋の鳴る音は、わたしをことを惜しげもなく愛してくれている。
何となく、だけど。もしかしたら、紫も怖いのかもしれない。想いを打ち明けて、今の幸せが花のように朽ちてしまうことを……恐れている。そんなの、紫らしくない。だけどわたし、その気持ちは何となく分かる気がするわ。
「幽香、貴女に見せたい景色があるの。ちょっと私に付いて来てくれるかしら?」
緩やかに与えられた快楽にうっとりとしていると、紫は鼓膜の中までねじ込ませる勢いでわたしの耳を舐めしゃぶってから、小さく囁いた。
ただ、その音色のトーンは普段の気品高い矜持に満ち溢れた彼女の話し方とは少し違って、ちょっと遠慮しているように感じられたのはわたしの気のせい?
「……わたしに見せたい、景色?」
「ええ、是非貴女と一緒に行ってみたい場所があって。必ず気に入って貰えると思うわ」
ひどい色覚障害なわたしからしてみれば、此処から見える景色と他の場所を比べたところで、それは結局のところ何の意味もない。
この瞳が映し出す世界は、どうせ何処から見渡したところでモノクロに過ぎなくて、淡い紫陽花を感じさせる貴女と言う花以外の色を、わたしは感じ取ることすら間々ならないのだから。
色とりどりの世界なんかより、紫と交わしたキスの時のような――わたしが花になる世界を見せたいのなら、今すぐにでもキスしてくれるだけでいいのに、どうしてそんな面倒なことをするのかわたしにはさっぱり理解できなかった。
それは相変わらず回りくどい方法を選ぶ紫らしいと言えば紫らしいやり方だと思うし、後ろに現れた漆黒の隙間を見る限り、どうも最初から選択権なんて与えられてもいないらしい。
名も無き花も散ってしまったし、彼女とは来年まで会えないのだから、此処に無理矢理留まる必要性は皆無。どうせ帰る場所なんて何処にもないし、ずっと此処でうずくまっているよりはマシかもしれない。
こんなわたしでも知ってる大賢者にして、この幻想郷と言う世界の創造者――八雲紫のお遊びに付き合ってみるのも一興かな。そう思い立ってうんと頷いたわたしは紫に傘を預けて、物陰に置いておいたギターを持ち出した。
その様子を見ていた紫が、きょとんとした顔でわたしのことを見ていたのがちょっと可愛かった。音を奏でる妖怪と言うのは珍しくないと思うけれど、そんなにわたしがギターを弾くことが意外だったのかしら。
「あら、アコースティックギターなんて随分面白い物を持っていたのね。ちゃんと弾いたりすることはできるの?」
「独学だけど、それなりならね。それともあれかしら、その、わたしには似合わないとか、その類のことを言いたいわけ?」
「うふふっ、そんなことはありませんわ。口下手でどうしようもない貴女が想いを伝えるための手段として、アコースティックギターを奏でると言うのはとても理に叶っていて宜しいのではなくて?」
その言葉に思わず反論しようとしたけれど、正論と言うか少なからず図星っぽい部分もあって、結局わたしは黙って俯くしかなかった。
あの日紫と出会って、ああわたしはこの人のことが大好きなんだと分かってから――いつしかわたしは捨てられたノートにひたすら詩を書き綴るようになった。
紫が毎日来てくれると分かってからは、紫が「またね」って笑って帰っていくところを見送った後で、詩を書いてはギターを弾いて、ああでもないこうでもないと試行錯誤を繰り返す日々。
わたしの心はどうしようもなく絶望で満たされているから、そんな想いで紡ぐ旋律なんて結局絶望の調べにしかならない。それでもわたしは、紫に捧げる曲を書き綴ることだけは絶対に諦めたくなかった。
ああ、言葉にならない想いは募るばかりなのに、どうして上手く弾けないのかしら。こんな詩と演奏なんて、あの美しい紫には相応しくない。
花が奏でる澄んだ音や、紫が紡ぐあの恋の鳴るメロディのような、優雅で美しいハーモニーを奏でられないことが、どうしようもなく悔しくてたまらなかった。
自分の無力さを心から恨むわ。この瞳は色を失って、見える世界は何処までも残酷でしかなくて、絶望に打ちひしがれてばかり。この心は希望の調べを紡ぐことはできないのかもしれない。
でもわたしは、貴女が鳴らす美しい旋律を知っている。恋は鳴る、そう教えてくれたのも貴女だ。あの艶やかな紫陽花の奏でる旋律に憧れて、わたしは確かに希望を覚えた。
そうして親愛なる貴女への想いだけが延々と書き綴られていくわたしの日記帳は、現在進行形で更新され続けている。もしも美しい貴女に相応しい調べを奏でることができたら、風見幽香と言う花も必ず可憐に咲き誇ることができるはずだから。
そんな淡い夢を見続けながら、わたしは詩を、旋律を紡ぐ。この世界で一番美しい花、八雲紫と言う幻想の花に捧げるための恋のメロディを、わたしはずっと探し続けていた。
ぷいっとそっぽを向いているわたしが余程面白いのだろうか、くすくすと笑い続ける紫の後ろから、空間を切り裂いて出来上がった漆黒の暗闇が迫って来る。
あの先には何が待っているのか分からないけれど、絶望と言う概念に色があったとしたら、きっとあんな感じなのかもしれないと思った。里のゴミ捨て場の真ん中でぱっくりと口を開けた絶望が、私達を飲み込んでいく。
そして現実と完全に切り離された異世界は、まさにゴミ捨て場の延長みたいな空間だった。見たことも聞いたこともない意味不明な物体があちらこちらに無造作に散乱してぐちゃぐちゃ、しかも山のようにありとあらゆる物が積み上がっている。
そんな理解のしようがない暗闇に浮かぶ感覚は、ゆらゆら、ゆらゆら――終わりのない絶望の奈落へと堕ちていく感じがして、とても心地良かった。不思議な無重力の遊泳が暫し続いた後、ふとやさしい声が静かに鼓膜を揺らす。
――ゆっくりと、瞳を閉じて。私が「いい」と言うまで、開けてはいけませんわ。
何処か眠りに誘うような妖しくも美しい旋律と共に、そっとわたしのてのひらに紫の指が添えられる。
絡めた指先から伝うぬくもりがとてもやさしくて、ついうっとりしてしまう。そのまま紫に抱き寄せられて、ぎゅっとされたら意識が飛んでしまいそうだった。
ふと、思う。此処は確かに絶望なのかもしれないけれど、その先に続くのは希望に満ち溢れた世界なのかもしれない。
ああ、名も無き花が謳う旋律の意味を、ようやくわたしは確信を以って理解することができた。どうして美しい花は絶望を目の前にしても、あんな可憐に咲き誇って、澄んだ旋律を奏でることができるのか。
それは彼女達が絶望の果てに必ず希望が存在することを知っているから。そう、つまりは、そういうことだったのね。八雲紫と言う花に抱きしめられて、キスされた瞬間、わたしは天国へ突き落とされたんだ――
◆ ◆ ◆
すうっと緩やかに地面に足が付く感触と共に、とても爽やかな風がさらさらとやさしくわたしの髪を撫でた。
水色の風を受けて覗いた額に、紫がそっと口付けを落とす。そのくちびるから伝う想いは雨に濡れたしとやかな紫陽花の色っぽさと言うよりは、深い真紅に染められた薔薇のような艶やかな色合いを醸し出していた。
そのセクシャルな吐息から感じられる愛しい想いが、心なしか揺れて緊張していることに気付く。あの清楚な品性を感じさせる紫が、恋を想って、あるいはわたしのことを感じてくれているから、その可憐なくちびるは鮮やかに色付いているの?
あの梅雨の季節と無縁な澄んだ空気のせいか、恋に恋焦がれた心が余計に熱っぽく感じられた。ああ、ひどい恋の病。軽い眩暈もあるし、どうやら熱もあるらしい。もうどうしようもないわって、わたしは心の中でくすっと笑った。
ふと、紫がくちびるが離して、繋いだてのひらを軸にしてダンスのようにくるりと踵を返す。
ゆらり身体の気配がわたしの左側の方へ移動すると、つむったままの眼前から何処までも蒼い、蒼い風が身体を透き通るように流れていく。
わたしはそっとギターケースを置いて、その澄んだ空気を全身で受け止める。春の風がそっと頬や髪の毛を撫でてくれる感じは、まるで花になったような気分だった。
そんな素敵な感触を味わっていると、紫の鈴の鳴るような声色が耳元で告げる。『さあ、御覧なさい。この美しい世界は風見幽香のために存在する――』そんな甘い誘惑と同時に、わたしはゆっくりと目を開いた。
――わたしの目の前には、鮮やかに色付いた花々が可憐に咲き誇る色とりどりの世界が広がっていた。
夢、これは夢、だよね。そう独り言を囁いて小さくぱちり瞬きをすると、七色を奏でる綺麗な音が鳴った。そして瞳の色は空を吸い込んで、蒼く透き通っていく。
またひとつ、ゆっくりと瞬きを繰り返すと、今度は向日葵の色に染まる。もうひとつ、またひとつ、瞬きを繰り返すたび、モノクロの世界にぽつりぽつりと色が浮かび上がった。
あの灰色の世界が織り成すセピア色に慣れきってしまっているわたしには、そのあまりにも美しい光景はきらきらと眩しすぎて――思わず瞳をぎゅっと閉じてしまう。
そっと耳を澄ましてみると、様々な種類の花達が紡ぎ出す旋律があちらこちらから鼓膜の中に鳴り響いて、心の中にふわりと広がっていく。
凛とした力強い調べ、可憐で煌びやかなメロディ、生を謳歌する華やかな弾奏、朽ち果てる刹那の感情をかき鳴らすグランドフィナーレ。それぞれが奏でる純粋で美しいハーモニーが見事な調和を織り成している。
身体中の血管を綺麗な水が循環し始めて、いつか過去に置いて来てしまった行方不明になったはずの、何処か懐かしい、それでいて儚くて、切なくて、やさしい……あの日のノスタルジアが絶望の奥底から甦る――
「……此処は、天国なの?」
くすくす、くすくす、喉を鳴ら紫の艶やかな声が、花の奏でるメロティに混じって聞こえてくる。
恐る恐る目を開いてみると、すぐ傍には自分と同じ背丈ほどの向日葵が一面に広がっていて、その真っ直ぐに伸びた花弁が一本のあぜ道を作り出していた。
土がむき出しになっている訳でもなく、いつか遠い過去に誰かが通るために作ったような跡――それは小さな迷路の入り口のようにも見える。
「それは、貴女自身が決めることですわ。さあ、確かめに行きましょう。あの樹のところまで行けば、この世界の全てが見渡せるの――」
そう言うや否や、紫が突然わたしとてのひらを繋いだまま、あの地平線の彼方まで広がっている向日葵の迷路に向かって走り出した。
黄金色の長い髪が軽やかに踊る横顔は、あの大人びた紫が見せる妖艶な美貌とは打って変わって、何処か幼く少女のようなあどけなさを感じさせる。
それはずっと憧れていた願いや祈り、夢見ていたことが叶った小さな子供みたいにも見えるし、これからの未来を祝福するために咲き誇る可憐な花にも感じられた。
その繋いだ手に導かれた先は、本当に天国かもしれない――そんな期待を胸に秘めて、ギターケースと傘を抱えたまま必死に後を追う。
向日葵のレイルロードに彩られた迷路に足を踏み入れると、まるで夢の世界に飛び込んだような気がして自然と心が弾んだ。ずっとわたしが夢見た楽園が、この幻想郷に存在していたなんて……。
幼き頃からわたしが夢に見ていた、色とりどりの花々が敷き詰められた楽園。ああ、美しい花が奏でるハーモニーを聴いているだけで、その演奏に合わせてくちびるが自然とメロディを口ずさんでしまう。
――走って、走って、走って、走って、息が切れても走り続けて、私達は向日葵の迷路を駆け巡った。
晴れ渡る空は群青。地図は左脳に、誘い出すは花の匂い弾けた夢現。紫の黄金色の髪の毛がさらさらとなびいて、美しい金色のカペラを作り出す。
浅い呼吸を繰り返して、瞬きを繰り返すたび、わたしの瞳に映る世界が色を取り戻し始めた。ひどい色覚障害に陥っていたはずの瞳が、ゆっくりと色を吸収して、映し出した景色を鮮やかに染めていく。
可憐な花々が織り成す虹色ノートの旋律に合わせて、赤、橙、黄、緑、青、藍、そして――その次の艶やかな色だけは、貴女と出会った時から思い出していた。それは今見ても、自惚れてしまうほどに美しい。
風見幽香がずっと愛してやまない色――それは何処までも美しくも惑わしい紫。雨露に濡れた紫陽花に僅かな紅を混ぜ込んだ妖艶なアメジストの美しさに、わたしはあの日からずっと、ずっと恋焦がれている。
色褪せた日々を繰り返して忘れてしまった最初のメモリーズ。色を失った世界で奏でることができなくなった最初のメロディ。
この風見幽香と言う全ては、あのゴミ捨て場で咲き誇る名も無き花と共にあった。もしかしたら、わたしはあの名も無き花が残した想いから生まれた妖怪なのかもしれない。
ひとりは、寂しいから。ひとりは、寂しいよね。そんな花の想いから、わたしはこの世に生を受けて、ふたりで眠り続けて、深く沈む夢の中でずっと、ずっと、揺れて、揺れて、ただ、静かに季節は過ぎ去っていった。
後悔がないと言えば嘘になってしまうけれど、かの花と過ごした時間は唯一の安らぎだった。そうしてようやく全てを取り戻したわたしが、貴女の未来を追い越すことができたら、未だ見ぬ日々に出会えるのかしら。
優美に咲き乱れる花々が何処までも広がる世界は、わたしの瞳に鮮やかな色と、透明な旋律を思い出させてくれた。百花繚乱の春を彩る花達が奏でる虹色のメロディが、この世界を美しく彩り始めたわたしの心と共鳴する――
――そうそう天の蒼蒼たるは其れ正色なるか?
向日葵の迷路を抜けた先には、名も無き花が咲き誇る丘が広がっていた。
蒼く、何処までも蒼く蒼く透き通った空を支えるのは、虹色の花をつけた世界樹。
小鳥のさえずりだけが響く世界の中心で、わたしと紫は寄り添うように幹にもたれ掛かった。
ああ、此処が、あの夢に見た空の彼方。絶望の果て。あるいは、世界の終わり。
貴女と笑う世界のほとりで、色を取り戻したわたしの瞳は、この世界を美しく彩ることができるのかしら。
もう引き返せないような、遠い遥か遥か遥か彼方まで来てしまったけれど……一体わたしは、どうしたいのかな?
ゆらり、ゆらり、舞い落ちる虹色の花びらを受け止めると、すぐに祈りは見つかった。花に、なりたい。そう、わたしは、花になりたい――
ただ、永遠とも思えるような長い時間――わたしと紫は一言も交わすことなく、此処から見える世界の全てをぼんやりと眺めていた。
花は揺れ、風模様。ゆらり舞い散る花びらは、何処か儚く夢模様。わたしは蒼い空にそっと想いを馳せて、素敵な夢を叶えてくれた紫に捧げるための詩を、言葉を、旋律を、紡ごうと思った。
もうわたしは花になったような気分。きっと今まで思い浮かばなかった素敵なメロディが浮かんで来るような気がしたのに、わたしの心は浄化されることなく、相変わらずひどい不協和音をかき鳴らす。
それどころかよく耳を澄ましてみると、此処に集った花々は何処か憂いを帯びた旋律を奏でている。それは絶望に憧れるなんて倒錯した想いを秘めた、わたしと同じ絶望のハーモニーだと言うことに気付いた。
この丘で咲き誇る彼女達は嘆きの花で、それが美しく咲いていると言うことは――此処は悲しみの果て。あの残酷な現実の証明を、此処で咲き誇る名も無き花々は誰にも知られることなく奏で続けている。
わたしは、美しい花に憧れた。そして、紫陽花をまとった貴女の艶やかな旋律が、百合を射ったあの真紅のくちびるが奏でる詩が、あまりにも美しいと気付いた。
親愛なる貴女は、わたしの心が絶望で満ち溢れていることを知っているのかしら。貴女へと奏でるための詩、そして旋律――その溢れ出す想いにはどうしてもこの世界に対する絶望が、ざらついたノイズとして混じってしまう。
こんな素敵な景色を見せてくれたのに、どうしてもわたしは紫のことを心の底から信じることができなかった。わたしは、風見幽香は、美しい詩と旋律で彩ってくれる紫のことを、こんなにも、狂おしくて張り裂けそうなほど愛している。
その想いさえ――嘘よ、どうせまやかし、ニセモノ、所詮その類。なんて心の中のもうひとりのわたしが、げらげらげらげらと醜悪にほくそ笑む。こんなどうしようもない現実がわたしの全てなの、世界なんてどうせこんなものでしょう?
紫の想いを信じたい、そう祈っているのに、信じさせて欲しいのに、このばらばらになった心と身体は希望も絶望も必要ないと零を望む。ああ、どんなに美しい花の旋律を聴いても、わたしの心からは絶望だけがだらだらと流れ続けている。
「ゆ、う、か」
ゆらり、ゆらり、揺れる花びらが舞う虚空をぼんやりと見つめたまま、紫が綺麗な音色を奏でた。
その艶やかな声が、何処までもわたしを誘い惑わす。此処が夢なのか、現実なのか――夢現を見せるようなやり方は、やっぱりずるいと思うわ。
ああ、わたしは、結局どんな世界でも花になることなんて叶わないのかしら。
紫の言葉は確かに届いているのに、蒼く透き通る空を見上げたところで返す言葉なんて浮かんで来ない。
折角こんな素敵な夢を叶えてくれた紫に、恩返しどころか「ありがとう」も言えないなんて、やっぱりわたし、ダメみたい。
もしも貴女のために咲く花になれたら、弾き語りしてあげるのが夢だった。だけど、もう……そんな淡い祈りも叶わぬ泡沫の夢。
このギターケースの中には春が、詩が、旋律が、溢れ出した紫への想いが詰まっていたのに、それはわたしが全て黒く塗り潰してしまった。
「此処から見える世界は、貴女に相応しいと思わない?」
肩が軽く触れるくらいにくっついていた身体を、紫がゆったりとした感じでわたしの方に寄せて来た。
繋いだままのてのひらからゆらりたゆたうぬくもりが、艶やかな熱を帯び始める。それ以上に紫の心臓の音があまりにも大きくて、とくんとくん、と伝わってくることに内心驚きを隠せなかった。
それはわたしが紫と触れている時に感じる、あの病んだ恋のメロディ。眩暈がして、熱もあって、心がどうしようもなくときめいて、どうしたらいいのか分からなくなる、あの恋の病と同じ症状だったから。
丘に敷き詰められた名も無き花に視線を向けて無言を貫くわたしを他所に、紫はわたしの肩に寄りかかったまま夢を見るように空を見上げている。
これから一体わたしに何を語るつもりなのかしら。またいつもの胡散臭い話かな。わたしは、答え合わせがいいな。風見幽香は何処で何を間違ってしまったのか、紫がちゃんと教えてよ。
この世界で一番神様に近い貴女なら、わたしが何故こんなどうしようもなく惨めで無様な感情しか抱けないのか、そのくらい簡単に推測して解説できるでしょう?
「……世界と言うものは、思考によって規定される。その思考が対象とするもの全て――言葉・旋律・視覚、その類、五感に関することでなくても、ある命が『感じる』分だけ世界は存在する」
相変わらず脈絡もなく訳の分からないことを語る紫だけど、残念ながら今のわたしはそんな戯言に付き合うような気分にはなれなかった。
ただ、ただ、その言葉だけが脳内を駆け巡る。今わたしが感じているものが『世界』だとすれば、それは随分と救いようのない作りになっているように思う。
この目の前に広がっている、幻想の花の群れが何処までも敷き詰められた世界。
あのゴミ捨て場のような、どうしようもない現実がぶらさげられているだけのモノクロの世界。
遥か遥か遥か彼方、地平線から真っ直ぐに伸びた蒼の世界。その蒼の世界を包み込む漆黒の宇宙と呼ばれる世界。
布団も何もなく、地べたに這いつくばって見る夢の世界。紫とキスを交わした瞬間に垣間見えた、自分が花になったような錯覚を感じる世界。
どうしようもなく理不尽な絶望と、溢れ出して止まらない恋心の両方がせめぎ合う世界。信じる、と言う概念が葬り去られた世界。紫のことを愛してやまないわたしが苦悩するだけの世界。
わたしの感じる『世界』だけでも、ざっと数えたらこんなに存在するのだから、命の分だけ世界が存在するとしたら膨大な数になってしまう。
ただ、幾ら感じることができたとしても、私達には『世界』を選択する権限がない。幸せだけを感じられる世界で生きたいなんてムシのいい方法は選択できないように、いじわるな神様が作ってしまったから。
でも結局のところ、それは哲学みたいな概念的な話でしかなくて現実的だとは到底思えなかった。その理論だったら、世界なんて生み出そうと思えば、でっち上げた御伽噺みたいに好き勝手に作ることができる。
「でも、私達はある共通の『世界』の存在を感じて生きているわ。確かに平行軸や時間軸がずれていたりする違う『世界』も存在するけれど、基本的には同じ時間軸で私達は生きているの。
そうやって私も色々な世界を見てきたけれど、何時の時代も悲しみは絶えなかった。過去も、現在も、そして未来も、変わらないでしょうね。そんな負の輪廻の中で、命と言う存在は幸せになろうと必死にもがき苦しんでいる」
くだらない。くだらないし、つまらない。そんなの当たり前のことだし、それ以前にその物言いは当事者のことなんてこれっぽっちも考えてないように思えた。
要するに風見幽香みたいな不幸な子は、この世界中に沢山います――だから我慢しなさい、這いつくばってでも生きなさい、もしくはさっさと諦めて死になさい、なんて説教でも言いたいのかしら。
わたしだって、きっと他の人だって、悲劇のヒロインを演じたくて苦しんでるわけじゃない。ただ、産まれた時から、運命とか神様のいたずらとか、その類の意味不明な後付の理由が『命』を苦しめている。
今こうして呼吸をしてる間にも、わたしの知らない何処かの世界では悲しみは絶えることなく続いていて、わたしと同じかそれ以上の苦しみを味わっている人が山のように存在している。
でも、そんな俯瞰して物事を見るのは、それこそ神様だけでいい。わたしはわたしの苦しみを抱えてうずくまって、わたしはわたしでいることだけで精一杯。わたしはわたしを愛することすらできないわ。
どうすれば、自分を愛することができるのか、わたしは知らない。分からないの。ああ、そっか……だから、わたし、紫のこと、ちゃんと愛せないのかもしれない。自分さえ愛せずに、人を愛せるはずがない。
「だけど、そんな不条理を解決したいなんて正義感から、この幻想郷と言う世界を創造したわけではないわ。ただ私は、この瞳が映し出す世界を美しく彩ることができればそれでよかったの」
そんな言葉と同時に繋いだてのひらがすうっと離れて、わたしの首にゆっくりと紫の腕が絡まって、そっと抱き付かれる。
何の遠慮もなく身体の全体重を預けるような形で、端整な顔立ちが陶然とした面持ちでわたしの横顔をうっとりと見つめていた。
世界樹の木漏れ日に照らされてきらきらと輝く真紅の瞳が、美しい碧を映し出して妖しく輝いている。今にも触れそうなくちびるが紡ぐ吐息は、恋の病に犯されて艶やかに色付いていた。
その美しくも惑わしい雰囲気は何処か儚く煌いて、普段の紫とは違う雰囲気を醸し出す。ふわりと蒼い風になびく向日葵色の髪の毛から伝う色香に鼻孔をくすぐられるだけで、頭がおかしくなりそうだった。
――その真紅の瞳が映し出す世界を美しく彩っていたのは、本当にわたしなのだろうか。
きっと多分紫は今日と言う日を、あの名も無き花が枯れる日を、ずっと待ちわびていたのかもしれない。
自分がその代わりに手向けられる美しい薔薇になると誓うために、わたしを此処に連れてきた。その妖艶な薔薇に相応しい荘厳な矜持と美しい旋律を心に秘めて、わたしだけをじっと見つめてくれている。
紫がこんなにもわたしのことを愛してくれているのに、風見幽香の心の中は死んでいた。ああ、あまりにも素敵な思い出なのに、取っておけない。どうしようもなく貴女のことが愛しくて、もうわたしだって紫がいないと生きていけない。
そんな想いを素直に受け取ったら必ず幸せになれるのに、心が軋んで過去の記憶が邪魔をする。どうせまた騙されるんだよ。ちやほやされるのは今だけで、どうせすぐ飽きられたらお終い。使い捨て。奴隷。便○。娼×、その類だから。
嘘、そんなの絶対嘘なんだから。もうやめて。紫のこと悪く言うのやめてよ。絶対に紫はそんな扱いなんてしない。わたしは信じたい。この美しい花と音色を教えてくれた人を信じたいのに、どうして、どうして紫を信じることができないの?
もしも、わたしが紫と付き合うことになって幸せで心が満ち溢れても、それはいつか花のように朽ち果ててしまう。
こんなどうしようもない運命に傷付けられてきた存在だからこそ、一瞬だけでも美しく咲き誇ることができたら十分すぎるほどに幸せ。
それもまた花となりたいわたしの本能だし、かの名も無き花と同じように最期まで希望に想いを馳せて死ぬことができたら、それもきっと幸せなことだと思う。
でも、どうして、わたしは怖いと感じてしまうのかしら。きっと、ただの我侭なんだ。紫が与えてくれる幸せをずっと感じていたい。だけど、貴女が朽ちて絶望と変わった瞬間、奈落へ堕ちていくのはイヤ……。
ああ、わたしが花になることができたら、散り行くとも再び咲き誇って、紫に全てを捧げることができるのに。ただ、ただ、そうやって咲いたわたしの隣に、そっと紫が寄り添ってくれていたら、わたしは永遠に幸せだから。
「ようやく、私は答えを見つけたと思った。幽香とふたりだけの世界を作りたいの。この真紅の薔薇に織り交ぜた、貴女の鮮やかな色付いた淡いエヴァーグリーンがあれば、この世界を美しく彩ることができる。
恋に堕ちるなんて、生まれて初めて。風見幽香と言う花を見つけた時の私は、完全に心奪われていた。貴女を一目見た時にすぐ感じたもの。嗚呼、私、貴女のこと、好きになってしまう。きっとそれは必然がもたらした宿命なんだって……」
小さな恋のメロディが蒼い風に乗って、絶望で満たされたわたしの心の中を駆け巡る。
わたしも、紫も、同じだったんだ。その笑顔を初めて見た瞬間にときめいたんだ。わたし、貴女のこと、好きになるんだって……そんな恋歌みたいな一目惚れなんて考えられないわ。
そんな夢のような御伽噺を平然と語ってくれるのも、貴女らしくて大好き。でも、心が痛いの。貴女を見てしまったら涙が零れそうで、その美しい言葉を紡ぐ美貌を正視することすら間々ならない。
「ゆ、う、か」
一文字ずつ手繰るようにわたしの名前を呼ぶ紫の声は、何処までも艶やかに色付いていた。
その熱っぽい呼吸を繰り返すくちびるが、そっとわたしの頬に触れる。その瑞々しい口先から伝う純粋な感情が、心の中の絶望とない交ぜになって余計に胸が苦しくなった。
ようやく手に入れかけた幸せを掴もうとすると、その先に見える絶望が口を開けて醜悪に微笑んでいる。どうしようもなく怖かった。紫に愛されなくなった自分が、紫に捨てられる未来が、怖くて、怖くて震えが止まらない。
嘆きの旋律を奏でる花の音色に混じって、紫の奏でる恋の音が、ずっと、ずっと、わたしの鼓膜を揺らし続けている。
もうやめて、わたしは、わたしは――両手で耳を塞ぎたくなった。たった一言の美しい旋律を紫が奏でた瞬間、わたしは咲き誇ることもなく朽ち果てるだけの花となってしまう。
ああ、この色鮮やかな世界から見る貴女を、詩を、旋律を、永遠に愛していたい。わたしの胸に秘めた想いの全てを伝えられることができたら、きっと私達は幸せになれるはずなのに、わたしの心の在り処は黒――
「愛してる、幽香」
恋の、鳴る音がした。そして真っ白なイノセンスがひび割れるいびつな音と同時に、紫が告げた世界の終わりが響き渡る――奏でる詩を、旋律を持たないわたしはどうすることもできない。
この胸に抱く想いを音にしてしまったら、紫を傷付けてしまうような気がした。今は自分の気持ちが分からないの。貴女の気持ちに報いることができない。そんな風に曖昧に答えておけば、今の幸せはこれからも続くのかしら。
そんな言葉で自分に嘘をついても、適当に誤魔化しても、ただむなしくなるだけだから。そう、今のわたしは『紫を愛しいている自分』を肯定することができないから、貴女の告白に対して何も答えられない。
偽りの自分で紫のことを愛して、紫にそれがばれてしまったら……きっと、今までのわたしと同じように、飽きて捨てられてしまう。
そんな刹那の幸せの対価として支払う途方もない絶望を飲み込んでしまったら、今にも溢れ出しそうな絶望で心が破裂してしまうかもしれない。
そうやってわたしが壊れてしまうことも含めて、紫は『美しい』と思っているのかしら。花が枯れ行く刹那が最も美しいことと同じように、風見幽香と言う花が咲いて散り行く姿が見たい。
それは今までわたしにずっとやさしくして付きまとって、最後にはあざむいてきた下衆な連中のやり方と大した変わらない。わたしとふたりっきりの世界なんて作れるはずもないのに、紫は恋を夢物語のように話す。
ううん、違う。そんなの、間違ってる。分かってるの。紫はわたしのことを愛してくれているから、素直に思いの丈を口にしてくれた。そんな気持ちを踏み躙ることの方が、ずっと最低だ。最低。本当に最低のゴミクズ。
そう、最低。わたしは、最低だ。わたしは、最低なの。ああそう、最低なわたしを曝け出すために、紫は告ってくれたのね。最低で結構。そもそも、うざいわ。そうやって付きまとわれると、心がずきんと痛くなるから。
――ああ、希望の詩が、紫の奏でてくれた美しい旋律が、蒼い風に流されていく。
わたしの心の在り処は黒。それはどんな世界にわたしが存在しようとも抗うことのできない宿命で、きっと死ぬまでこの絶望を抱えて生きることになる。
そんなわたしに愛して貰ったって、きっと紫だって嬉しくないよね。刹那で終わる恋なんて、その場凌ぎの快楽だけで終わる恋なんて、そもそも最初から望んでいない。
私達に相応しい恋の物語は、永久に続く御伽噺。種を撒いて、花が咲き誇り、緩やかに朽ち果てて、土と還り、再び芽吹く。そんな花のような儚くも美しい永遠の輪廻に、わたしと紫は恋焦がれているのだから。
貴女はそれが叶うと信じているようだけど、わたしは残念ながらその御伽噺が夢だと知ってしまった。
花が咲き朽ち果てる時の美しいハーモニーは、ありもしない永遠を願って鳴らされる一縷の希望と途方もない絶望をまとっている。
季節は過ぎ去り、一見同じ花が咲いているように見えるけれど、その命は以前其処にあったものとは全く別の命が佇んでいるに過ぎない。
永遠の輪廻なんてものはなく、全ては、終わる。そう、世界は、必ず終わる。今も、もう貴女が告白した瞬間に、世界は終わってしまった。
暗く深く沈んだ絶望の旋律を奏でることで、紫が悲しんでいる表情なんて絶対に見たくない。だけど、もう救いようのないわたしには、希望の調べを奏でることなんて叶わぬ夢。
そんなわたしを見て、憂い、悲しむ紫を見るくらいなら、こんな世界なんて消えてしまった方がマシ。親愛なる貴女が愛してくれたわたしが微笑む世界は、此処で終わりにしましょう。
そして紫がいなくなってしまったら、貴女の愛してくれたわたしも消えてしまう。だってわたしは、あのエヴァーグリーンな風見幽香は、紫の瞳に映る世界の中でしか、色鮮やかに輝くことができないのだから――
「真紅をはめ込んだ瞳に添えられた美しいエメラルド――とても、似合う。その花にキスを交わした時から、ずっと私は幽香のことを愛――」
うっとりとした声色で囁く紫の声は何処までも艶やかに染まって、あのキスを交わした時と同じようにわたしを夢の世界に誘う。
これから始まる素晴らしき日々の幸せに、紫の美貌は完全に陶酔しきっていた。鮮やかに色付いた旋律は、儚く舞い散る虹色の花びらよりも遥かに美しい。
「自惚れるのもいい加減にしてくれないかしら?」
そんな紫の美しい声を遮ってわたしが言葉を紡いだ瞬間――ピアノの鍵盤を滅茶苦茶に叩き付けたような甲高い音と共に、周囲の空気が凍てついて固まった。
ゆらり、ゆらり舞い散る花びらがスローモーションのように宙を舞い、やがて時は完全に停止する。嘆きの旋律を奏でる花々の美しい演奏だけが、硝子の微風に流されて遠ざかっていく。
かすかに触れた紫のくちびるが、わなわなと震えていた。百万回コイントスを繰り返したとしても答えは表、その言葉の全てを受け入れた風見幽香は紫の最愛の人に――そんなありえなかった夢を、紫は見ていたのかもしれない。
「ち、違う。違うわ、幽香。私は自惚れてなんかいない。私は、私は、本当に、心の底から幽香のことを愛して――」
「色々な世界を見渡して、わたしみたいな存在をずっと見捨ててきたくせに、今更救おうなんてとんだお笑い草ね。貴女みたいな幸せな傍観者の、自己満足のために与えられる愛情なんてゲロ以下でしかないわ」
「私は、私は、幽香のことが、好きで、好きで、どうしてもなく、好きで、想うだけで幸せが溢れて、考えるだけで胸が切なくて……そんな吐いて捨てるような想いで、貴女のことを愛してなんかいない!」
わたしの頬に停まった美しいアゲハチョウは、その羽根を怯えるようにわななかせながら必死に言葉を続けた。
その綺麗な羽根が奏でる音色は純粋な想いで溢れているのに、わたしのばらばらになった心が響かせる旋律は絶望の調べ。
どうしようもなくわたしは愚か者で最低だ。紫の想いを踏み躙るような言葉を吐く喉元を締め付けて、風見幽香と言う存在を殺してやりたい。
ずっと想いを隠していたわたしへの罰が、親愛なる紫を傷付けることなんて――心の中で渦巻いているどす黒い絶望が、純真無垢な紫の想いにひびを入れる。
貴女の言葉、詩、旋律、そのわたしに手向けられた全てに偽りなんて何ひとつ存在しない。それなのに、わたしの言葉が、詩が、旋律が、紫のまっさらな想いを真っ向から否定してしまう。
この心に満ち溢れた絶望を吐き出せたら楽になれるのに、今ゲロっているのは紫がくれた大切なかけがえのない想い。自分が傷付くだけなら自己責任だけど、今のわたしは紫の心に嘘のナイフを突き刺して、その心をえぐるように傷付けている。
紫を愛していると言う自覚がはっきりあるからこそ、心が痛くてちぎれそうだった。何もかも全ては手遅れ、もう私の言葉は届かない。今更愛してるとか口にしたところで、そんな戯言はむなしく響くだけ。
「わたしを飼い慣らそうとする連中は、餌を与えて、手懐けて、安心させたらぐちゃぐちゃに犯して、貪り尽くしたらゴミクズ扱い。貴女の与えてくれた愛も、所詮そんなものに過ぎないわ」
「この愛は、この心に秘められた幽香への想いは、そんな下衆な手合いとは絶対に違うわ。この甘く切なくて素敵な恋のメロディは、やさしく幽香が教えてくれたのに……どうして、どうして、私を信じてくれないの?」
「さっき貴女は、わたしみたいに悲しんでいる人がこの世界には溢れてると言ってたわね? それなら、どうしてわたしなの? わたしは神様に選ばれたの? どうせ本当は気まぐれ、特別でも何でもないんでしょう?
いつの時代も貴女のような幸せな存在は、悲しみ絶望する人々を全部平等にゴミクズとして扱って見捨ててきたくせに今更『愛してる』とか、ふざけるのも大概にして欲しいものね。その手の綺麗事は吐き気がするし、もううんざりなの」
そう言い放ってくちびるから逃れた瞬間に垣間見た紫の表情は、悲しみと絶望に満ちて今にも朽ちてしまいそうな薔薇みたいだった。
あの美しいアメジストの瞳から音も立てずに頬を伝って流れ落ちて、きらり輝く大粒の涙。終わりを迎えた世界で恋路の迷宮を彷徨い始めた紫からは、あの凛とした面影は微塵も感じられなかった。
そのしなやかな肢体はもうわたしの首に絡めた腕を振り解けば、今にも崩れ落ちてしまいそうなほどに弱々しい。何かに怯える子供のように震えながら、嗚咽を飲み込んで紡ぐ紫の旋律が緩やかな絶望に染められていく。
ただ寄り添って、そっと笑い合っているだけで、きっと幸せってこんな気持ちなんだねって、ちゃんと分かり合っていたはずなのに――わたしは親愛なる人の詩を、旋律を真っ向から拒絶してる。
自分の心に嘘をつく言葉を吐き出すたび、今にも溢れ出しそうな絶望で胸が張り裂けそうだった。それを必死に食い止めようとすると、どす黒い何かが喉に詰まって完全に呼吸困難。このままいっそのこと心肺停止して死んでしまいたい。
それでも小指に結った私達を繋ぐ運命の紅い糸から感じる絆は確か。其処から伝う想いがはっきり伝わるからこそ、どうしようもない悲しみに包まれて……紫は心の底から泣いている。その真紅の瞳から零れる涙は、蒼く透き通っていた。
「私は幽香のことが大好きで、嗚呼、貴女のことを愛してしまう、それは運命だと思った。それはとても素敵なことだし、その気持ちも間違いなく幽香に伝わってて、私達は、愛し合っているんだって……」
「ええ、勿論伝わっていたわ。自分の幸せのために無力な人間を飼い慣らして、好き放題犯してして飽きたらゴミ箱にポイしてお終い。そんなクズみたいな大人と同じ想いを、うんざりしてしまうほど感じていたわ」
「そんな……私は、私は、幽香を、愛してる、こんなにも愛してる。この感情も、幽香から伝わる素敵な『アイシテル』も、全部、全部、偽りに満ちた下衆な卑しい想いでしかなくて、ただの、ニセモノ、な、の?」
紫はわたしの身体にもたれ掛かったまま、肩に顔をくっつけて声にならない嗚咽を何度も何度も吐き出しながらさめざめと泣いていた。
涙を拭き取って微笑んであげることも、そっと抱き寄せて慰めてあげることも、やさしいキスで「貴女の想いは嘘じゃないわ」と教えてあげることも――その美しい薔薇に触れることは、もう二度と叶わない。
ふと、自分の瞳からも涙が流れていることに気付いた。でも、このやるせない想いをどうしろと神様は言うのだろう。いつかわたしもこうして紫と笑って、散々泣いたことも忘れて、最愛の人のいない上辺だけの世界で歩いていくのかしら。
そんなことの繰り返しが人生とか、ふざけてるにも程がある。こんなことが許されるはずがないと分かってはいても、わたしは瞳を閉じて涙を堪えることしかできない。あまりにも無力な自分に、どうしようもなく腹が立った。
もう今のわたしが何を口にしたところで、紫にとっては何の慰めにもならない。
そんなことは最初から知っていたはず――わたしが紡ぐ言葉は絶望の旋律、それは人を幸せにすることなんて絶対にできないから。
それも全て織り込み済みだったのに、あえて紫の想いを受け取って、とても幸せな気持ちになって、今悲しみが訪れるからと、それを投げ捨てようとしている。
わたしをゴミクズ同然に扱った、あの人間達と同じように……わたしのような生き物に限らず、感情を持って生きている存在なんて、所詮全員同じ穴の狢なのかもしれない。
誰かを騙して、騙されて、そうやって幸せを奪って、絶望を押し付けて生きていく。この残酷な世界を作った神様がいるとしたら、そいつは絶対に悪人だ。こんな負の連鎖を螺旋状にして世界を作った罪は万死に値する。
――全部自分のせいなのに、神様のせいにするの?
げらげらげらげらと、心の中で絶望が嘲笑う。そう、これはわたしが犯した過ちで、これから一生を以って償わなければならない罪だから。
八雲紫と言う花を摘んで抱きしめたことは、何の後悔もしていない。ただ、ただ、わたしは紫を幸せに導くに足る資格を持ち合わせていなくて、これ以上紫を傷付けたくないから、紫を拒絶した。
そんな綺麗事じゃない、ただのエゴだってことも知ってる。でも、わたしは、幸せになることが怖かった。また人を信じて、あのゴミクズ同然に捨てられる瞬間の途方もない絶望を味わうのは、もうイヤだから。
ああ、この世界はどんなに美しい花が咲いていようとも、自分の心に咲いた花が美しくない限り代わり映えしないわ。
ずっと、ずっと、わたしは、やさしさに弱い者同士で傷を舐め合うフリをして、ただ傷付け合っている夢を見ていたのかもしれない。
移ろう季節の中で、全てがモノクロに映った世界は終わりを告げた。そして新しく始まるこの世界は、何か大切なものが欠けた、結局は途方もない悲しみに包まれた世界――
「ええ、そうよ。適当に取り繕った愛をばらまいて悦に入ってる最低な貴女は、そうやって悲しんでいる人々に絶望を押し付けて、朽ちて行く花々を、数々の世界の終わりを、繰り返し見てきたのでしょう?」
幻想の花々が織り成す賛美歌と共に、紫がさんざめく雨のように奏でる絶望の旋律がコバルトブルーの空に消えていく。
もう言葉にすらなっていない、聞き取ることも間々ならない単語を、ぽつり、ぽつり……ゆうか、ゆう、か、そう呟いては絶望に押し潰されて泣き続ける紫を見ているだけで、わたしの瞳からも透明な雫が流れ落ちた。
くちびるをぎゅっとかみ締めても自分の無力さには成す術もなく、ただこうして抱き合っていてもむなしくなるだけ――もう、さよならしないといけないの。わたしと貴女の世界は、もう終わってしまったから。
八雲紫と言う花はわたしにとってあまりにも可憐で美しくて、とても大事なもので、どうしようもなく大好きなものだから、愛しくてたまらないから、こうやって壊してしまうしかなかったの。壊してしまうしか、なかった、の。
これ以上、紫が悲しんでいる姿なんて見たくない――そう思ってわたしが無造作に立ち上がると、絡まった腕が蔦のようにしゅるしゅると力なく解けていく。
蒼く、何処までも蒼く続く空。ゆらり、ゆらり、世界樹の花びらが舞い散る幻想の花の群れの中心で、紫はうな垂れたままその場に手を付いて涙を流し続けていた。
心の奥で嗚咽を漏らしながら、必死に運命の糸を繋ぎとめようと紫は旋律をかき鳴らすけれど、その美しい音色は幻想の花々が奏でるメロディと調和してかき消されてしまう。
それでも、紫は最期まで希望を手放そうとはしなかった。そのままギターケースを持って立ち去ろうとするわたしに向かって、許しを請うような憂いを帯びた誓いの言葉を吐き出す。
「私の心の中で風見幽香と言う花は、可憐に咲き乱れている。それは永久に咲き誇る、永遠に枯れることのない想像を超える幻想の花。それが幽香なの。そんな貴女を愛する権利を、どうか、この私に、与えて――」
――花は朽ちてゆく時こそ、美しくも儚い旋律を奏でるの。死ぬことを知った花が再び奏でるメロディなんて、わたしは聴きたくもないわ。
そうわたしはきちんと貴女に説明したはずなのに……紫、貴女は今日話したことも覚えていないのね。花は朽ち果て、土に還り、また芽吹くのは新たな命で、再び同じ調べを奏でることは決してない。
散り行く花々は幸せを謳歌したからこそ、最期に美しい音色を奏でることができるけれど、幾ら永遠に近い長寿であったとしても私達妖怪はいずれ朽ち果てる。其処には永遠なんて、決して存在しないのだから。
少なくともわたしは……自分が醜く朽ち果てていく姿なんて、決して紫に見せたいとは思わないし、紫が朽ちていく姿だって見たくもない。
それが幸せの代価で底知れぬ絶望に見合う価値があるものだとしても、絶望で塗れた心で紫のことを愛してやまない自分を保つことなんて到底できる気がしなかった。
ああ、花になることができれば、わたしと紫もあの美しい円環の理に組み込まれて、此処で永遠に咲き誇ることもできたのかもしれないわ――
「そんなプライドも全てかなぐり捨てた紫なんて、貴女らしくないし大嫌い。わたしの愛した八雲紫と言う存在はたった今死んでしまったのかしら?」
「私は、私は……幽香が愛してくれるのだったら、この世界を滅ぼすことになっても、例え神と言う存在を殺すことになっても後悔なんてしない。だから、だから、貴女と、幽香と、ふたりだけの世界を――」
その紫らしくない立ち振る舞いや、言葉から感じられる媚びるような態度が、わたしを余計に苛立たせた。
そっと後ろを振り返ると、紫は大きな瞳に一杯の涙を溜めてぽろぽろと零したまま、この世界の不条理を悲しむような視線でわたしを見つめている。
あの美しい向日葵色の髪の毛はくしゃくしゃに乱れてしまって、きちんと表情は伺うことはできなかったけれど、わたしのことをひたすらに求める今の紫には、あの矜持に満ちた妖艶で美しい薔薇の面影は全く残されていない。
全部、全部、わたしのせいだ。わたしが、こんなわたしが、八雲紫と言う美しい花を抱くなんて夢を見てしまったから、その儚くも美しい優雅な花は、ゆらり、ゆらり、舞い散ってしまった。
そして今、わたしは……貴女のことを恨んでいる。紫が「好き」なんて言わなければ、私達はずっと幸せな日々を続けることができたのに、どうして貴女はわたしの全てを望んでしまったの?
ああやって何となくふたりっきりで寄り添って何かいいねって空気があって、ただ笑い合うことができていたら、それ以上のことを望まなければ――わたしと紫の緩やかな幸せは痛みもなく続いていた。
幸せと絶望は差し引き零。そんな簡単な幸福論を幻想郷の大賢者である貴女が知らないまま、盲目的にわたしみたいなどうしようもない存在に恋をするなんて、正直頭がどうかしてるとしか思えない。
小さな幸せで満足して、それ以上もそれ以下もない境界線上でわたしは十分だったのに、貴女は強欲でわたしの全てを求めてしまったから……わたしと紫の世界は音を立てて崩れ去ってしまった。
「ふざけないで」
「……幽香、私、そんな――」
これ以上絶望に満ちた貴女の泣き叫ぶ表情なんて、もう見たくもない。
悲鳴に近い紫の絶望の旋律を遮って、わたしはずっと想いを馳せていた世界を終わらせた。
「――わたしは、ひとりで生きていける。紫にあれこれされるの、正直うざくてうざくてたまらないわ。だから、さっさと消えなさい」
ああ、わたしと紫を繋いでいた運命の糸が、綻び、解けて、空に溶けて消えていく。
恋は鳴る。壊れた恋のメロディが、延々と泣きじゃくる紫の悲しみの旋律と共に世界樹の下に響き渡った。
真紅の瞳から流れ落ちる透明な涙は透き通るように蒼く、何処までも蒼く――遥か遥か遥か彼方、世界の限界まで広がる空に吸い込まれて、その色を限りなく透明に近い群青に染め上げる。
ゆらり、ゆらり、虹色の花びらが舞い落ちる世界樹の下で、ただ、ただ、紫は泣いていた。その涙のカケラと舞い散った花弁を拾い集めたところで、もう私達の世界が巻き戻って再生することは絶対ありえないにも関わらず……。
わたしと紫だけが見ていた世界が、てのひらの上で迎えた小さな死。貴女には分からないかもしれないけれど、わたしと紫の痛みを最小限に和らげるためには、こんなつらいやり方しか残っていなかったの。
緩やかに朽ちていくこの世界に残る必要なんて、もう何処にもないわ。わたしと紫を重ねていた運命のいたずらは、儚くも美しく、そして残酷にちぎれて、ばらばらになってしまったのだから。
――わたしの親愛なる人、どうか、どうか、もう泣かないで。こんな残酷な世界が続いていくとしても、私達は歩き出すしかないの。
涙で潤んだ瞳をそっと閉じると、今もはっきりと思い出せる。風見幽香と言う花を咲かせてくれた魔法のキス、ふたりきりただ寄り添った雨の日。お弁当をあーんしてくれて恥ずかしがったあの日のこと。
ずっと、ずっと、わたしは忘れない。此処からわたしと貴女は別々の道を歩くことになるけれど、八雲紫と言う美しい花と共に過ごした素晴らしき日々を、わたしは絶対に忘れないから。
でも、もしも、神様が願いを叶えてくれるのならば、風見幽香と言う花が咲いていたことは貴女の記憶から消し去って欲しい。
あの世界を再びやり直すことができたとしても、きっとわたしは今と同じ選択を繰り返すことになる。紫の奏でる詩と旋律に憧れて、貴女に恋に恋焦がれて叶わぬ夢だと絶望する世界を何度も何度も作り直す。
小さな幸せを知ってしまったわたしは、絶望に憧れる。絶望に片想いする――それは幸せが長く続かないと知ってしまったが故に起こる倒錯した感情。八雲紫と言う花が咲いていなければ、風見幽香はもうまともに生きていけないわ。
貴女がいない世界で生きるなんて強がってみせたけれど、貴女が与えてくれた美しい詩を、旋律を、わたしは絶対に忘れない。忘れられるはずがない。このまま貴女を想い慕ったまま絶望にもがき苦しむくらいなら、死んだ方がマシ――
「幽香、行かないで。幽香、お願い、お願い、だから……ゆうか、ゆうか、ゆう、か――」
そっと背を向けて歩き出すと、紫が絶望の奏でと共に声を枯らしながら、何度も、何度も……わたしの名前を叫び続けた。
だけど、もうわたしは絶対に振り向かない。嘆きの調べを奏でる世界樹の花びらと共に号泣する紫を置き去りにして、可憐に咲き誇る花々で敷き詰められた丘をゆっくりと下っていく。
何処までも蒼く澄んだ風が、わたしの瞳に溜まった涙を拭いてくれて、きらきらと輝く雫は蒼い空に舞い上がって弾け飛ぶ。ああ、このまま、名も無き幻想の花の群れに埋もれて死んでしまうのも悪くないと思った。
あの名も無き花よりも可憐で美しい、八雲紫と言う花の詩と旋律を失ったわたしに生きる価値なんてない。この世界は随分と沢山あるらしいけれど、貴女と言う花ほど可憐で美しい花が咲き誇る世界なんて絶対に存在しないから。
その場に崩れ落ちて泣きじゃくっている紫の姿が見えなくなるところまで歩いてから、わたしは言葉もなくじっと天を仰いだ。
何のことはない、今さっきまで見ていたことが夢だっただけで、これが現実。あの名も無き花を見ていた頃と、何もかも変わっていない。
そう思い込もうとしても心は納得するどころか、止め処なく涙がぽろぽろと零れ落ちる。あれは夢なんかじゃなくて、本当に存在したはずの夢のような幸せで、手を伸ばせば掴めたかもしれないのに、わたしは最低のやり方で紫を拒絶した。
自分を愛せないなんてどうしようもないエゴと、やがて朽ち果てて捨てられる時の恐怖――紫に飽きられて愛されなくなることが、怖くて怖くてどうしようもなかったわたしって、本当に、本当に最低だ。
ふと、ギターケースと一緒に持ち去ってしまった傘をぱっと開いてみると、とても美しい薄桃色の花が群青の空に咲いた。
その澄んだ桜色は何処かあの妖艶な真紅を感じさせる素敵な彩りを青空に添えるけれど、それはあまりにも透明で、あの紫が醸し出す美しくも惑わしい紅を混ぜ込んだ雰囲気とは程遠い。
この傘も置き去ってくれば良かったと、後悔の念が浮かぶ。最愛の人から貰った思い出の品、きっと使えば想いが宿ってしまうから……この傘を見るたびに、わたしは紫を思い出すことになってしまう。
彼女のような艶やかさには遠く及ばなくても、あの八雲紫がわたしのために残してくれたこの世界で唯一の枯れない花――今日犯した償いきれない罪と、永遠の愛しさを感じながら、この花と余生を過ごすこと。
それがわたしに残された、この世界で生き続ける唯一の理由なのかもしれない。そう思い直して、日傘を差しながら花々の群れの中を歩く。それでも、涙が止まらなかった。ぽろぽろ、ぽろぽろと、大きな雫が頬を伝って流れ落ちていく。
――ごめんね。こんなにも愛してくれたのに、貴女のことを傷付けてばかりで、幸せにしてあげられなくて、ごめんね。
鮮やかな世界を取り戻したわたしの瞳は、その代償として八雲紫と言う花の色だけを失ってしまった。このままわたしは、何も知らないことばかりの世界で、貴女の見せてくれた夢を忘れてしまうのかしら。
ああ、わたしは何て言えば、貴女の夢の中にいることができたの? わたしはどう答えたら、夢に溺れた貴女に恋のメロディを届けることができたの? わたしは、わたしは、どうすれば……よかったのかしら?
紫に愛されないわたしは死んでいるも同然。貴女と言う美しい花が凛として咲き誇っていてくれたからこそ、わたしと言う花も貴女の美しい真紅に彩りを添える、真っ白な花になることができたのだから。
そんな親愛なる貴女を失ってしまっても、この世界は何事もなかったかのようにくるくると回り続けている。
いつか貴女は今日と言う日を追い越して、きっと他の人をさっきまでのわたしと同じように深く、深く愛して幸せになるのでしょう。
そっと想いを馳せると、まだ貴女に届く気がするの。つらいよ、凄く、つらいよ。だって、大好きなんだもの。紫のこと、こんなにも、こんなにも、大好きで……それなのに、わたしは嘘をついて紫を傷付けた。
それでも貴女が生きて欲しいと願うなら、わたしは貴女に愛された記憶を絶対に忘れずに生きていくわ。この残酷な世界で、貴女と言う美しい花を失ったまま、この貴女が欠けた空っぽの世界を生きていく――
――美しく咲き誇る幻想の花々の群れの中を、ひとり貴女の幻を抱えて歩く。
越えてゆく遥か夢も、過ぎ去っていく春の蒼い風が吹く季節も、ただ私達は寄り添って笑っていた。
プリズムを通した彩りを取り戻した世界で見る夢は、モノクロの景色の中で鮮やかに色付いた紫が微笑む夢。
貴女の夢の中でしか咲き誇ることができない風見幽香と言う名の花は、今此処で舞い散った。そして夢の花が咲き乱れる景色にわたしの花びらは葬られて、美しい世界は終わりを告げる――
W o r l d s E n d G i r l f r i e n d
かたん、かたん。かたん、かたん。かたん、かたん。かたん、かたん。
太陽の畑の蒼い風を受けて時を刻む大きな風車の音と共に、カーテンの隙間から差し込む春の日差しがきらきらと眩しく輝いて、ゆっくりと私は眠りから覚めた。
ぼんやりとした頭をかきむしりながら柱時計の方へ目を向けると、もう時間は9時半を過ぎている。朝が一番花々が美しく咲き誇る時間帯なのに、最近の私はいかんぜん目覚めが悪くてどうしようもない。
ああ、このまま毛布を被って星のない夜空に逃げ込みたいの、もう少しだけ、もうちょっとだけ、意識を失っていたい――そんな惰眠を貪りたい気持ちをぐっと押し殺して、ベッドから身体を起こす。
大きなクローゼットの中に並んだ様々な衣装の中から、花柄のフリルが幾重にも施された純白のブラウスと真紅のフリルスカートを取り出して、さっと身嗜みを整えて化粧を終えた。
とりあえず多少遅い食事にしようと思い立って、ブランチの用意をすることに。私の場合、家事の類は全て一階で行って、読書等々の日常は二階の自室で過ごすサイクルが生活習慣として身に染みている。
真っ白な花を咲かせたシルクジャスミンや真紅のポインセチア等々の色とりどりの観葉植物と、壁沿いの棚に隙間なく並んだオリーブの小瓶達を横目に、ぼんやりとした思考のまま階段を下っていく。
二階と比べてしまうと大分素っ気ない感じの雰囲気で統一された一階のリビングは、基本的に来客もないせいか余計殺風景に見えてしまう。
古びた大きなソファーを横目にキッチンへ向かうと、ふと――アンティークなテーブルの上に真っ赤なリボンで包装された綺麗な箱が置いてあった。
そっと結ったリボンを紐解いて開けてみると、ふわふわなスポンジと生クリームを交互に挟んだ生地の上に大きな苺が乗ったショートケーキが2つ入っている。
四隅に編みこまれた刺繍が彩りを添える小さな桜色の便箋には、ささっと賞味期限だけが彼女らしい流麗な英単語でしたためられていて、それ以外の箇所はまっさらで名前すら記されていない。
この自分勝手に押し付けられる、あの日から一度も会ったことのないスキマ妖怪から届けられるプレゼントは、寝起きの気分が壊滅的に悪いことを認めざるを得ない私の気分をさらに不快にさせる。
彼女からの無言の想いが伝うプレゼントが増えていくたび、わたしの『世界の終わり』を迎えたあの場所で置き去りになったままの想いが今も生々しく甦って、ずきんずきんと心が音を立てて軋み出す。
*****
――もう、数えるのもうんざりしてしまうほどに……あの『世界の終わり』から幾年の月日が流れ過ぎた。
鮮やかな色彩を取り戻した世界と引き換えに八雲紫と言う美しい花を失った私は、その代わりとなるような深遠のアメジストに色付いた可憐な花を求めて幻想郷のあちこちを飛び回った。
正確に言えば、それは半分嘘で半分本当の話。もしかしたら紫と会えるかもしれないなんて図々しい気持ちも最初は持ち合わせていたし、紫よりも美しい想像を超えるような花が存在するはずがないことだって勿論分かっていた。
ひとりで生きていけることを証明しなければ、紫に合わせる顔がない。そう考えて自分とその化身である花を守るなんて大義名分を掲げて残酷な行為も続けてきたし、四季折々の花々を熱心に鑑賞することで花の知識も自然と身に付いた。
幻想郷で唯一枯れない花を片手に携えて、そっと咲き誇る花の旋律に耳を傾ける。その音色の違いは数あれど、奏でる旋律から感じ取れる感情は、皆あのゴミ捨て場の片隅に咲いていた名も無き花と同じようなものばかりだった。
この世界に生まれ落ちた生を謳歌する希望のメロディと、朽ち果てる刹那の幸せを謳う詩、そして存在しない輪廻に憧れる絶望の旋律。優美に咲き誇る花々の想いは、たとえ何処に咲いていても決して変わることはない。
結局、私は最初から醒めてしまっていた。そう、あの時紫は「世界と言うものは、思考によって規定される」と言ったけれど、私の思考が規定する世界において、この心が望む『世界』は何処にも無かった。
あの妖艶な真紅の薔薇は、この世界でたった一輪しか存在しない夢の花。その花を抱きしめることができない上辺だけの世界を生きていくなんてことは絶望でしかなくて、私の生はあの時に背負った罰を受け続けるだけの日々。
わたしは、ひとりでも生きていける――ただ、自分は、あの日の言葉を守り続ける。誰かを思い遣ることや、心の底から笑ったり弱音を吐いたり、そんな一切の感情を全て押し殺して弱みを見せず、強くなると心に決めた。
本当は誰かに伝えたかったし、分かって欲しかったけれど、そんな気持ちすら私は心の奥に閉じ込める。勿論、紫に隠していた本当の想いを告げたい気持ちだけは、ずっと、ずっと、消えなかったけれど……。
紫に対する感情を全て心の内に秘めておくこともひとりで生きるためには必要で、その想いを押し殺すさえ強さだと思っていたから。この気持ちは、私だけが知っていればいい。私だけが分かっていれば、それでいいんだよ。
花のように朽ち果てたいと言う想いが心の中に深く根を張るようになっても、私は心を許すと言うことを拒み続けて来た。朽ちた花々の旋律に耳を傾けると、そっと想いが伝う。絶望は憧れ。絶望は片想い――
そう早々に悟ることになってから徐々に太陽の畑に引き篭もるようになった私の元に、姿を一切見せることなく紫がひっそりとプレゼントを置いていくようになったのは大分昔の時代まで遡る。
ただ紫は幻想郷では絶対に手に入らないような品々を手元に残していく。言葉も、手紙も、何も無く、残されるのは品物だけ――それはまるで想いを残すことがないようにと、逆に紫の方が気遣っているみたいだった。
拒否するなんてことは紫だって予想通りだろうし、私もわざと服を切り裂いたり断固拒絶したのだけど、それでも紫は諦めることなく、何も言わず黙って物品を私の傍に置いていくと言う無駄な行為を延々と続ける。
そして抵抗しても無駄だと私が放置するや否や、この一階の便利な道具も、二階のアンティークな家具一式も、クローゼットに一杯になった綺麗なお洋服の数々も、この風見小屋も――全て紫が勝手に揃えてしまった。
相変わらず一方的で高圧的な紫らしいやり方はどうしても気に食わないものの、当事者である私は正直紫の真意を掴みあぐねていた。
恩を売っておくなんて姑息な真似を、あの美しい矜持と品性を兼ね備えた紫がやらかすはずもないし、私をラヴドールの類にしたいのならば、もっと強引なやり方は幾らでもあると思う。
そうやって屈服させて欲しいものを自分の思い通りにすることこそ、彼女のような存在にのみ与えられた特権。だけど、紫は何もしないどころか私にプレゼントを贈り続けるだけで、自分の気持ちを一切伝えようとしなかった。
かと言ってそのことを周りに言いふらしてる素振りは全く感じられないし、寧ろ感じられるのは淡い恋心。あの日の想いは何も変わらない――そう無言で紫が語りかけてくれているような気がして、ばらばらになった心がずきんと疼く。
紫は今も私のことを大切に想ってくれていることだけがしっかりと伝わって来て、心の中に澄んだ恋の音が鳴る。そしてひどい恋の病の後遺症と共に直感が静かに告げる――八雲紫の中で、風見幽香と言う花はまだ咲き誇っている。
――ああ、それなら、何故、何故……私から「会いたい」と言えないことだって貴女は知っているはずなのに、どうして会いに来てくれないのかしら。
紫の噂自体は、その評判の善し悪しに関わらずあちこちで耳にするし、きっと貴女のことだから、私がどう過ごしているかなんて当然のように監視しているんでしょうね。
勿論、今こうして紫が用意してくれた場所に住んで、紫が選んでくれた服を着たりしていること自体には滅茶苦茶抵抗があるけれど、それは私からしてみれば最大限の譲歩しているつもりなのに。
それでも構わないの。寧ろ自慢したいくらいなの。紫が選んでくれたお洋服「似合うかな?」って惚気たい。また、キスも、ハグも、一杯一杯したいの。あの初めてキスを交わした時のように、また私を奪って見せて?
この心の中の絶望に埋もれてしまった息吹は今も紫のことを想って、その花を綻ばせる時を待っている。あの時そっと交わしてくれた口付けに込められた魔法を、貴女の薔薇のようなくちびるで、やさしく、やさしく、教えて欲しい。
だけど、もう、こうして待っていること――つまり、ひとりで生きていくと言うこと自体に心が疲れてしまって、貴女と言う花に恋焦がれるたびに心が擦り切れて悲鳴をあげるの。
自分が妖怪だと知ってから何年経ったのか、何年生きたことになるのか、数えることもやめてしまったけれど……無駄に寿命が長いなんて、私からしてみれば単なる生き地獄でしかなかった。
誰の心にも触れないで透明に生きることなんて、あのゴミ捨て場で空を見上げていた頃と何も変わらない。貴女のことは確かに感じられるのに、きっと多分傍にいるのに、触れることすら叶わない。
それでも貴女のことが僅かに感じられるから何とか自分を保つことができているけれど、やっぱり私は花のように生きたい。美しく咲き誇り希望を知って、そして緩やかに朽ちて在りし日の記憶に想いを馳せながら地へ還る。
八雲紫と言う花の奏でる詩を、旋律を、もう二度と聴くことが叶わないのならば、この生に意味なんて存在しない。もう私は、風見幽香は、貴女の作り出した世界の中でしか生きることができないのだから。
狂い咲く季節が止め処なく流れて、ひとつ季節を廻り、この瞳の映し出す貴女のいない世界の光景は音もなく過ぎ去っていく。
何処かの誰かが幸せを願って、後付けの運命によって決められた誰かがそれを壊して、それでもこの世界を美しく彩ろうと、全ての花は希望と絶望を奏でながら咲き誇る。
そうやって繰り返す季節の戯れは、ただ鮮やかさだけを残して輪廻を繰り返す。ずっと貴女のことを想い、在りし日の記憶に縋り付いてみるけれど、紫が愛してくれた風見幽香と言う花は絶望に憧れてしまう。
貴女のいない束の間に溢れ出したのは愛しさだけで、もう貴女に会えない理由を私が知りうる術もなく……花のように季節を彩り、そっと私が枯れ落ちて死んだとて、もう貴女は私を抱きしめてくれないのでしょう?
蔦は絡まり、身は朽ち果てて、思い出のカケラ土に還り、また花となるでしょう。今度会える時は、風見幽香と言う花ではなく、もっとしとやかで美しい、貴女に相応しい花になりたい――
*****
そっと綺麗な箱のフタを閉めて、小さく深呼吸。胸元に手を当てて、瞳の奥に映し出されたモノクロの花に想いを馳せる。
紫、ありがとう――そう小さな声で呟いてから、箱ごとキッチンの端っこにある風車のエネルギーで動いているらしい『冷蔵庫』に入れておく。
そのままあれこれと買い溜めてある品々の中から卵を取り出して、水の入ったお鍋とハーブティー用のポットを両方火にかける。とりあえず今日は簡単にサンドイッチで済ませてしまおう。
そう思い立って角切りパンを切り分けたり、棚から食器を取り出していると、ふと窓枠の向こう側に人影が見えた。こんな幻想郷の果てまでやって来る物好きは彼女くらいで、毎度余計なお世話だと言ってるのに……。
今度はふうっとため息をひとつ。テーブルの上に食器とティーカップをもう一人分追加して、食パンを全部切り分けた。ちょうど茹ったお湯の中に二人分の卵を放り込んでリビングへと向かう。
リビングの大きな窓を開くと、やさしい春の風が部屋の中を通り抜けて、白いレースのカーテンがぱたぱたと音を立てて揺れた。
風見小屋に面した花壇のダリアをじっと見つめているのは、この幻想郷を取り仕切る閻魔――四季映姫。右側だけ伸ばした美しい碧髪がふわりとなびいて、色とりどりの花々の中にあって凛とした風情を醸し出す。
そんな彼女の煌びやかなエメラルドグリーンを見るたび、私も髪を伸ばしてみようかと考えることがあるのだけど、出来るだけあの時の、紫の愛してくれた頃の私でいたくて、どうしても肩口辺りでさっぱり切ってしまう。
どうも気付いてないっぽいので、パンを切った包丁を投げ付けてやると「わわ」なんて可愛い声をあげながら寸でのところで避けた。地面に突き刺さった包丁を横目に、映姫は不服そうな表情で私をじっと見つめ返す。
「呼び鈴を鳴らしても出て来ないから、どうせ不貞寝か居留守かと思って律儀に待っていた客人に随分と手荒な真似をしますね、風見。そういうところから、貴女は色々となってないと毎回言っているのです」
そんなこと、つまり説教や説法の類は誰も頼んでいないわ――なんて軽くあしらったところで、彼女はもう既にやる気満々と言うか最初から引き下がる気が毛頭ないのだからたちが悪い。
ああだこうだと騒いだり無茶な不法侵入を試みない辺りは魔理沙より礼儀正しいとは思うけれど、どうでもいい自分基準の白黒を付けた説教を無理矢理押し付けられる方の身にもなって欲しい。
「散々貴女の説教を聞かされた結果がこの体たらくなんだから、いい加減諦めた方がいいと思うのだけど?」
「だからこそ貴女がちゃんと私の話を聞き入れるまで、ちゃんと言い聞かせる必要があるのです。善を積み重ねることによって、昨日より今日が素晴らしい日になることを――」
「はいはい、分かったわよ、ちゃんと分かったから。其処に突き刺さった包丁で裏からレタスを一玉持ってきて頂戴。その有難い閻魔様のお話は中でゆっくり聞いてあげるから」
むぅ、と映姫は釈然としない表情を浮かべた後、おとなしく立ち上がって包丁を引っこ抜くと、ささっと風見小屋の裏にある家庭菜園の方へ消えていった。
また訥々と語り始めそうな気配満々だったので、適当に切り上げる理由が転がっていたのは不幸中の幸い。そして普段ならば招かれざる客と言いたいところだけど、ちょうど私はどうでもいい話を聞いてくれる相手を探していた。
どうせ彼女からは聖人君子的な神の視点から世界を俯瞰したような言葉しか返って来ないから、いい加減なことでも気兼ねなく話せる。でも、あまりにも情に脆い彼女のことだから、意外と面白い受け答えをしてくれるかもしれない。
そのまま窓を開け放っておいて玄関の施錠を外してから、さっとキッチンの方へ引き返してサンドイッチの調理を始めた。
茹で上がった卵を冷水に浸して熱を吸い取ってから、中身を包丁でざく切りにしてボウルに放り込んだらフォークで細かく潰して、自家製のピクルスとタルタルソースを始めとした調味料を加えて下ごしらえを終える。
質素なサンドイッチで済ませるつもりだったけれど、客人が来ている手前それはちょっと気が引ける……そんなことをふと考えていると、玄関の方から「お邪魔します」と凛とした声がキッチンの方まで聞こえてきた。
一点の曇りも感じられない何処までも澄みきった音色は、彼女らしい美しいエメラルドを感じさせる。その凛々しいオーラを発する閻魔はゆっくりとキッチンの方へ近付いて来て、そっと新鮮なレタスをテーブルに置いた。
「あら、農作業なんてしたこともない癖に、意外と上手に切れてるじゃない」
「そうやって人を自分の価値観だけで判断するのはよくありませんね。それにしても、家庭菜園の方は食べ頃らしき実を付けている野菜が山のように連なっていましたが、どうして収穫しないのですか?」
「その言葉、貴女にそっくりそのままお返しするわ。それに別に実を付けたから、絶対に食すなんて必要性なんて何処にもないわ。ほら、もうすぐできるから、貴女は二階で待ってなさい」
「風見。せめて、私にも手伝わせてください。毎回此処を訪ねるたび、もてなして頂いてばかりで……何時もとても嬉しい反面気が引けてしまいますし、私も申し訳ない気持ちだって多少なりとも持ち合わせているのです」
「こんなことくらい独りでできるから、貴女の助けなんて必要ない。気持ちだけは有難く貰っておくから、おとなしく説教の内容でも考えておくといいわ」
後ろを振り向くこともなく素っ気なくあしらやってやると、私の気持ちを察してか渋々と言った感じで映姫の気配が遠ざかっていく。
どんな些細なことであろうとも、誰からの好意や施しの類は決して受け取らない――それがあの時私が紫に誓った「ひとりで生きる」と言う意味だから。
もう随分歳を取ったのに、あの頃から私はずっと変わっていない。ううん、それは嘘、間違ってる。八雲紫と言う花が残した想いは段々と色褪せて、私は緩やかに、確実に朽ちている。
それはあの世界が終わった瞬間から抗うことのできない罰、もしくは運命だった。そうして記憶の中でしか会うことのできない貴女に想いを馳せることは、愛しくてたまらない反面、とても切なくて心が張り裂けそうになるからつらい。
そんなどうしようもないもやもやとした想いを振り切って――折角だからもう少し豪華にしようと思い直して、燻製にしておいたベーコンを厚めにスライスして、映姫が持ってきたレタスをちぎった。
予め用意しておいた食パンの上に卵、レタス、ハムを重ねて挟み込んだら無事完成。温めておいたティーカップの中にハーブティーを炒った茶葉を適量入れて、さっと熱湯を注いでからフタをしておく。
ふんわりと香るベルガモットの匂いを楽しみながら、二人分のブランチと一緒にお盆に乗せた。量は少なめだけど、あの映姫のことだから朝食はきちんと取ってそうだし、多少物足りなくても心配ないはず。
ハーブティーを蒸らしている間にさっと片付けを済ませておいてから、朝食兼昼食を持ってキッチンを出て二階へ向かう。開け放った窓から入り込んでくる春の風が呼び起こす在りし日の面影に、五感の全てを塞ぎたくなる。
とんとんとステップを踏んで二階に上がると、中央に備え付けられたアンティークのテーブルの上に肘を付いて、地獄の最高裁判長はきらきらと光る翡翠の瞳で観葉植物の数々を見渡していた。
その純粋無垢な姿は閻魔としての威厳を誇示しているにも関わらず、何処か幼くあどけなさを残したままで、とてもアンニュイな印象を与えるから不思議。そんな彼女を横目に、そっとサンドイッチを乗せた皿を置く。
ありがとうございます。と映姫が丁寧にお辞儀をすると、ベルガモットの匂いに混じって、ふんわりと彼女の碧髪からいい香りが漂う。清楚で凛とした彼女のような美しい花を、疎ましく思ってしまうのは性かしら?
例えるならば四季映姫と言う花はアルストロメリア――『凛々しい』なんて花言葉がとても似合う。そんなことを思いながら、ゆっくりとベルガモットティーを注いで映姫に差し出して、そのまま自分も椅子に座った。
「お説教の内容は決まったのかしら、地獄の最高裁判長様?」
いつもの調子で皮肉交じりに話しかけると、映姫は何故か神妙な顔付きになって、少し物思いに耽るような仕草を見せた。
普段の彼女ならここぞとばかりに善を積むことがどうだとか、貴女は悪行を犯すことに何の罪悪感も抱かないとか等々、散々私のことを罵るように言葉を紡ぐはずなのに、どうも様子が違う。
「……そういうことは常日頃から話しているつもりですが、貴女は話し相手を求めている。勘でしかありませんけれど、そんな気がしたものですから」
「何か随分と今日はおとなしいのね。もしかして、逆かもしれないわ。映姫が私に相談とか、その類かしら。ほら、あの恋人の死神……小野塚小町に構って貰えなくて寂しいとか?」
「そ、そんなことあるわけないでしょう!? そもそも、私と小町は上司と部下でしかなくて説教や喧嘩こそしますが、ちゃんと仲はいいですし、そもそも付き合ってるとか誰から聞いたんですか!?」
「って言うかだだ漏れよ。皆知ってるから。今更誤魔化そうとしても遅すぎ以前に小町が平然と惚気てる。うふふっ、それにしても貴女は恋色沙汰でも嘘を言えないのね。ちょっと映姫のそういうところ、可愛いと思うわ」
真っ白な頬を途端に赤らめて「……小町の、馬鹿」なんて囁きながら俯く映姫の顔は、それこそアルストロメリアのような美しい薄紅色に染まっていた。
あの白黒はっきり付けると言う能力は、自分の恋愛事においてもしっかりと生かされていて非常に分かり易くて宜しい。公然と惚気ることができなくても彼女達の幸せがちゃんと伝わって来て微笑ましい反面、ほんの少しだけ妬ましかった。
それに私はからかっているつもりなんてあまりなくて、半分は本心から可愛いと言ってるのだけど……外見不相応な風格と威厳に満ちた彼女のような人を裁くべき立場の存在でも、こんな一面が垣間見えるなんてちょっと面白いわ。
それにしても、説教以外のことで私のところに来るなんて珍しいと言うか、私と映姫の接点や付き合いから考えても、ちょっと想像が付かなかった。
映姫との会話と言えば「貴女は悪行を重ね過ぎた。でも、これから善をコツコツと積み上げて行くことで――」みたいな馬の耳に念仏的な話しか交わしたことがないし、最近派手にやらかした記憶も全然残ってない。
それは当然と言えば当然の話。私はもう三ヶ月くらい余裕で太陽の畑の中に引き篭もっている。里の花屋に出かけることもなければ、四季折々の花々を観察するためにあちこちに遠出することも此処数年全くしなくなった。
そんな外界から隔離された生活を送っている私の様子を、どうして映姫は察することができたのだろう。淡々と閻魔としての仕事をこなしていく途中、これから審判を下す死者の書類に偶然私の名前があったとか、そんな感じかしら。
「わ、私は……その、風見、からかうのもいい加減にしてください! 私は今日ちゃんと思うところがあって、此処にやってきたのですから」
「ええ、分かってるわ。その『思うところ』って直感も正解。どうして導き出せたのか、気になるところではあるけれど……ちょっと誰かと話をしたいと思ってたのは事実よ」
「人に想いを伝えることは大切です。少しでも心の中に渦巻いた感情を吐露することですっきりする場合もありますし、遠慮なく話してください。風見は腐れ縁とか言うかもしれませんが、私からしてみれば貴女は大切な友人なのですから」
これと言った大した話ではないのだけど、それにしても……大切な友人、か。私が映姫にしてあげたことと言えば、こうして食事を振舞うくらいで、基本的には説教に来るだけの超うざい存在だとばかり思っていた。
そんな私のことを友達だと言ってくれた彼女は絶対に嘘をつかないから、その言葉を素直に受け止めることができるし、とても嬉しい。その感情は好意から来るものだから受け取ってはいけないと心は拒絶するけれど……。
今は自分の話を聞いて、そのことに関してどう思うのか彼女の率直な意見を聞いてみたかった。そして白黒はっきり付ける能力を持つ四季映姫ならば、私のナルシスティックなロマンチシズムを粉々にしてくれるに違いないから。
かつて映姫は「貴女は少し永く生き過ぎた」と私に言った。それはきっと、心の中で咲いた紫の想いがずっと私のことを支えてくれていたからだと今も信じている。
しかし花は朽ち果て、其処には永遠なんてものは存在しない。思い出の花は土に還り、また新たな息吹となって甦る。貴女のことを想い続けて此処まで来てみたけれど、この世界の果てには絶望しか残っていなかった。
小指に結った運命の紅い糸は解れ始めて、その狭間で膨らんだ想いは蒼い空に吸い込まれそう――あの蒼く、何処までも蒼く、限りなく青く染まる空の下で、貴女がいない季節を繰り返すことの虚しさに、私は絶望している。
貴女が迎えに来てくれる時を待ち焦がれて、貴女を拒絶した罪を償い続ける日々を、ずっと、ずっと、耐え続けてきたけれど、もう私、限界なの。せめて風見幽香と言う花が散る瞬間を、貴女に見届けて欲しい。切に私はそう願っている。
「……花は朽ち果てて、土に還り、また新たな息吹となって咲き誇る。そんな可憐な花のように、この命が終わればいい。私は最近、そんなことばかり考えているの」
「あの風見幽香らしくない弱音ですね。桜の花は、最後の一瞬まで美しくあろうと狂おしいほどに咲き乱れて、儚く舞い散るからこそ美しい。そのような生き方こそが貴女には相応しいし、私個人としてもそうあって欲しい」
「そうね。そんな桜のように、私もありたかった。でも、遅かったの。もう私は一瞬の幸せを享受した瞬間に美しく花開いてしまった、もう朽ちていくだけのしおれた花なの。舞い落ちた花びらや枯れた花なんて、誰も見向きもしないでしょう?」
「風見。幾ら貴女が花を操る妖怪とは言えど、花と妖怪は違います。貴女が希望を捨てることなく、もう一度可憐に咲き誇る――夢物語ではない奇跡を信じて生きることだってできるのではありませんか?」
ベルガモットティーを口に含みながら、私は思わず声を上げて笑いそうになってしまった。
小さな頃は泣き言を聞いてくれる相手すらいなかったけれど、こんな情けない台詞を吐き出したことは、あのセピア色の幼少時代ですらなかったような気がする。
そして返ってきた映姫の言葉も私の予想通りと言ったところかしら。あの名も無き花の奏でる旋律は、その幸せが希望に満ち溢れていて、そして二度と訪れることがないことを悟って終わりを望むからこそ美しく響くハーモニー。
幸せを知ってしまったからこそ絶望を知って、終わりに憧れる。そんな甘い死の誘惑に抗うための切ない想いも、純粋な愛しさも、淡い夢も、一縷の希望も――私の祈りの全ては、この蒼く澄んだコバルトブルーの空に吸い込まれてしまった。
花の命は紅く儚く、消える運命と言うけれど、愛失くしては死んだも同じ――そんな詩を紫がよく口ずさんでいたことを、ふと思い出す。
貴女が与えてくれた魔法が込められたキスで、風見幽香と言う花は見事に咲き誇って、今貴女の謳う詩の通りになろうとしている。それもまた運命かなと私は受け入れるしかなくて、この世界に抗う術はどうしても見当たらなかった。
映姫の言うことは確かに一理あるけれど、その希望を叶えることのできる八雲紫と言う花の色を、私は思い出すことができない。この鮮やかな景色の代償として失ったアメジストは、ただ、ただ、私の記憶の中で微笑みかけてくれる。
この蒼い空の下にいる本当の貴女は、今何をしているのかしら。そっと想いを馳せてみても、もう私の声は届かない。時間が残酷に流れて、貴女と過ごした愛しき日々すら忘れてしまうのならば、せめて美しい花のように私は朽ち果てたい。
「……私は、ずっと小さな頃から花になりたかった。ずっと、ずっと、美しく咲き誇る様に、緩やかに朽ちていく様に、憧れていたの。あの花の奏でる旋律があまりにも美しく、退廃的な絶望の調べを聴かせてくれたから」
「あの三途の川に咲き乱れる彼岸花も、詩を、旋律を、奏でていたのかもしれませんね。でも貴女は、希望と絶望を取捨選択することができる。どうして希望を知りながら、そちらを選ばないのか、正直理解に苦しみます」
「幸せな日々が続くなんて幻想。永遠なんて存在しない。希望と絶望は必ず両方を享受しなければならないの。一瞬の幸せの代価として支払うのは、底知れぬ奈落へと続く絶望。それは果たして釣り合いが取れているのかしら?」
あの紫が以前していたような胡散臭い話を、この私自身が様々な人妖を裁いている映姫に言い聞かせているみたいで、どうしても自虐気味な笑みが浮かんでしまう。
それにしても、あの白黒はっきり付ける能力の持ち主である彼女が言いよどむなんて珍しい。閻魔として数多の人妖を見てきた関わらず、絶望を選ばざるを得ない存在を諭す術を彼女は持ち合わせていないのかしら。
どんな綺麗事で惨めな行為だったとしても、幸せになる可能性が僅かでもあるのならばそれに賭けてみようではありませんか――そんな希望を説きそうなものだけど、あの四季映姫がくちびるを噛むようにぎゅっと結んでいる。
その小さな花びらはすっかりと乾いてしまって、美しいエメラルドの瞳がぼんやりと虚空を彷徨う。己の無力さを嘆くようなその憂いを帯びた表情は、凛として咲き誇る花としての可憐な彼女には相応しくない。
あの心配性で休暇もこうして善を積みなさいなんて訥々と正義を説く映姫のことだから、ああだこうだと意味不明な理由を付けて「生きろ」と言うのかなと思っていたのだけど、彼女は強い口調で諭すことを一切しなかった。
もしかしたら、映姫は予め私の心変わりを予期して今日此処にやってきたのかもしれない。そんなことを何となく思いながら立ち上がって、あっと言う間に空っぽになった映姫のティーカップにベルガモットティーをゆっくりと注ぐ。
ありがとう、とお礼を言う彼女の言葉は何処か弱々しくて、逆に心配になってしまう。ただ私は、全てを終わりにしたいだけなの。もう十分に幸せは享受したし、その対価としての絶望も存分に味わってきたつもりだから。
四季映姫、貴女には何の罪もない。寧ろお礼を言いたいのは私の方よ。こんなどうしようもない話を聞いてくれた貴女に……同じ四季を愛する者としてもそうだけど、初めて紫以外に心を許せる知り合いができた気がしてとても嬉しいわ。
そのままティーポットを置いて、そっと映姫の首に腕を回すと、ぴくんと身体全体が跳ね上がった。
美しいエメラルドグリーンに染まる髪から垣間見える真っ白な肌が花のように綻んでいるみたいで、何処か淡く夢現な雰囲気を醸し出す。
そっとさらさらな髪を手に取ってやさしくすいてみても、映姫は全く抵抗しなかった。彼女のような凛とした花を探し出して、壊れた世界を最初からやり直す――映姫の言いたいことは、要するにそういうことなんだと思う。
今の私ならば、希望と絶望を最小限の差し引きでやり取りすることは可能なのかもしれない。でも、あの時、ゴミ捨て場に野晒しになっていた私を抱きしめてくれた人の想いを忘れることなんて絶対にできなかった。
紫の何処までも甘いキスで可憐に咲き誇った私は、もう貴女以外の人を好きになるなんて出来る訳が無いの。会いたい、貴女に、会いたい。そんな叶わぬ願いと絶望だけを抱えて生きるだけなら、いっそのこと花のように枯れたい。
「……私は、思うの。美しい花は可憐に咲き誇っているうちに摘み取って、綺麗な花瓶に飾って貰って幸せを分かち合った後は、朽ち果てる前に標本にして欲しい。その美しいままの姿で、絶望を味わうことなく殺してくれたら、幸せよ」
「そんな我侭は許されません。そうして自殺を選んだ後、取り残される人のことを風見は考えましたか? その絶望や悲しみは、貴女が愛した全てに転嫁される。花のように可憐に散るなんて、いい加減無理だと言うことをわきまえなさい」
その澄んだ碧の風を運ぶ旋律は儚くも美しい――閻魔としての四季映姫ではなく、一個人としての四季映姫として語りかけてくれていると言うことが嬉しくて、ちょっとだけ愛おしくなってしまった。
確かに映姫の言う通り、風見幽香が花のように可憐に舞い散ることは叶わぬ夢となってしまったけれど、もう枯れてしまった花は『花』とは言えず、ただ子孫を残すための種子となって朽ち果てる運命を辿るしかない。
どうせ絶望や悲しみなんて、いつの時代も巡り巡って、何処かの誰かに押し付けて押し付けられて行くだけの、この世界を創造した神様の輪廻転生とか言う名のシステムが作り出した負の連鎖に過ぎないのだから。
お話はこれでお終い。最初から何を求めていたわけでもなく、ただ私は今自分の考えていることを誰かに聞いて欲しかっただけだから、映姫には余計な心配を掛けてしまった。
久しぶりに触れる生身の存在の身体は、ふんわりと温かくて……どうしても、紫のことを思い出してしまう。そっとやさしく碧の髪の毛をすきながら、その凛とした言葉を告げたくちびるをすうっと指先で撫でてやる。
不埒な真似をされるかもしれないのに、映姫は抵抗の素振りをこれっぽっちも見せなかった。ただどきどきしてる感じが伝わって来て、つい悪戯したくなってしまう。さらり流れて露になった耳元で、くすくすと笑いながら囁いてやる。
「……もしも、私が四季映姫と言う花に恋をしてしまったら、このまま貴女を絶対に離さない。そして私達の愛が散り行く花の運命だと悟った時は――貴女を殺して私も死ぬわ」
「ずっと貴女は自分勝手な妖怪だとは思っていましたが、こと色恋沙汰においてもそんな我侭を相手に押し付けるのですね。お互いを愛せなくなった時、それは風見、貴女にとって世界の終わりなのですか?」
「ええ、そうよ。自分の全てを賭してまで相手のことを愛せない恋なんて恋愛でも何でもないわ。例えば、小町が貴女のことを愛さなくなった……そんな途方もない絶望を抱えながら生きるなんて、想像するだけで恐ろしいでしょう?」
映姫の小さなくちびるが「それは……」とだけ囁いて、ありえないはずの未来予想図に想いを巡らせたのか言葉がぴたりと止まった。
恋に落ちて間もない彼女達のことだから、そんなことは微塵も考えていなかったのかもしれない。ただ、恋愛と言う概念を花として例えるのならば、そのような事態は必然として起こりえる。
そう、それは映姫の言う通り――世界の終わり。紫を失ってからの私は、ずっと美化され続ける思い出と絶望の狭間で生き続けて来た。今こうしてもがき苦しみ続けていると言うことは、花として朽ちていくことのそれと同じだと思う。
かけがえのない想いは、失ってみないと分からない。そんな当たり前のことに気付かなかった私は本当に馬鹿だ。あの世界の終わりは、例え朽ち果てるとて、幸せの始まりにも成り得たのだから……。
何処までも他人を思いやる映姫のことだから、きっと小町ともああだこうだと喧嘩もしつつ惚気あいながら上手く付き合って、それこそ永遠のような愛を紡いでいくのだろう。
こうして私が抱き付いても一切動じないのは、彼女達を繋ぎ止める絆が強い確固たる証だった。それが羨ましくもあって、悔しくもあって、どうしようもないジェラシーを抱いてしまうけれど、それでもときめいている映姫が可愛い。
その威厳と確たる矜持に満ちた雰囲気の中に子供染みた純真無垢な印象を残す彼女の横顔は、何処か不思議な美しさを醸し出していた。碧髪に隠れた耳元からゆっくりとくちびるを離して、可憐な薔薇のように紅く染まったほっぺたの方へ。
触れるか触れないか、ぎりぎりの距離まで顔を近付けると、ベルガモットの香りに混じって映姫の甘い吐息がふんわりと鼻孔をくすぐる。不埒な色香に呼応するように熱っぽくなる呼吸が生々しくて、ふと紫のことを思い出してしまう。
「……此処で、私が愛してるって映姫に告白したら、また世界は変わるのかもしれないわね」
「な、何を馬鹿なことを言っているのですか。今日の風見は色々とおかしいです、花のように散りたいとか、最愛の人を殺して私も死ぬだとか、いつもの貴女らしくありません」
「何もおかしくなんてないわ。今の私は四季映姫と言う凛とした花に恋焦がれて、ただ、ただ、美しいと思っているだけよ」
もしも四季映姫と言う花に憧れることができたら、今私は苦しみから解放されるのかもしれない。
ただ、それ以前に私は知ってしまった。この世界には彼女よりも美しい花がたった一輪だけ咲き誇っていて、かの花が見せる幻想に未だ私は惑わされている。
あの日から、現在まで、そしてこれからも、ずっと、永遠に、死ぬまで……あの真紅の薔薇に私は恋焦がれるのだから。
ああ、紫。今見ているのなら、少しは貴女もジェラシーを感じた方がいいわ。貴女の愛した風見幽香が貴女以外の存在と恋色に染まるようなことをしようとしてる。
映姫が心許すことが絶対ないってこともお見通しだから貴女は姿を現さないのだろうけれど、私は貴女の『モノ』じゃない。貴女好みのオートクチュールに仕立て上げてくれなかった貴女自身が悪い部分だってあるわ。
だけど勿論、悪いのは私。あの時ちゃんと紫のことを受け入れていたら、きっと私達は映姫達と同じように、永遠を追い求めるような恋路を歩いていたはず。そんな誓いを紛い物だと喚き散らし貴女を泣かせて貶した、全ては私のせい。
「か、風見。流石に冗談も度を越えると許されませんよ。貴女だって、私が、そ、その小町と、付き、あって……知っているはずなのに!」
「ちょうど春が見頃になるプリムラと言う黄色い花があるの。その花言葉は『運命』――たった一瞬で、運命は変わる。今からその意味を、貴女に教えてあげる」
ちょっとした悪戯のつもりだったのだけど、彼女には真実味を帯びた告白にでも聞こえたのかしら。
うろたえて思わず顔を逸らそうとする映姫よりも先に、エメラルドグリーンの髪をすいていた手をそっと逆側のほっぺたに添えて、有無を言わさず映姫の頬にくちびるを押し付けた。
真っ白な雪のような肌から伝う体温と想いが、すうっと溶けて心の中に広がっていく。四季映姫と言う花を抱きしめるあの死神が交際を隠し切れず、つい惚気てしまう気持ちがよく分かる気がした。
抵抗することもせず呆然としたままの映姫を他所に、ぼんやりとあの時のことを考えてみる。
冷たい雨の中交わしたキス、ゆらりたゆたうぬくもり、溶け出す甘く切ない想い、綻んだ心の花びら、世界の始まり。
今も覚えている。冷め切った頬に右手を添えて、重ねたくちびるにそっと願いを込めた。夢見心地な彼女の表情はあまりにも艶やかなのに、たったひとつ花開いた想いすら伝えられぬまま終わった最初で最後のキス。
瞬きをする刹那だけで世界は変わる――そう八雲紫と言う花は証明してみせた。この幻想郷を想像した神としてではなく、世界に一輪しか存在しない『花』として、抗うことができないと思い込んでいた私の運命の螺旋を捻じ曲げた。
こんな残酷な世界で生きていかなければならないと言う現実を乗り越えるための、美しい薔薇の花束を一瞬で素晴らしき日々に変えてしまうような魔法が、きっと私達のような心を持つ存在には生まれた時から備わっているのかもしれない。
ああ、こんな今だからこそ、貴女が与えてくれたような花のようなキスで、全ての運命を変えることができるかもしれないのに……ひとりで生きるなんて誓いや、くだらないプライドの類なんて、最初から全て捨ててしまうべきだった。
淡く咲き誇る紅牡丹のような頬からそっとくちびるを離すと、どうしようもなく恥ずかしくて陶酔しきった映姫の視線がなじるように私を見つめていた。
永らく久しぶりに触れた人肌の感覚は、やっぱり紫のことを思い出してしまうからいけないわ。そして結局のところ、私はどうやっても八雲紫と言う花以外を愛することができないみたい。
貴女があの時のキスで私のくちびるに込めた魔法は、今も私の心の中で淡く切ない想いを残して……絶望で埋め尽くされた土の上に芽吹いた一輪の花のつぼみを、そっとやさしく包み込むように守り続けている。
ずっと、ずっと、貴女は傍にいてくれているような気がするのに、幾ら手を伸ばしても貴女に触れることすら叶わない。でも、私は、どうしても貴女を抱きしめたいから、この心臓から真紅の薔薇のつぼみをえぐり出して眠るの。
「か、風見、正気ですか、こんな不埒なこと、ましてや私達は恋人同士でもないのに……」
「例え冗談だと分かっていても興味があったんでしょう? 嫌なら最初から拒否すればよかっただけの話なんだから」
「それは、私だって、その……風見のこと、嫌いじゃないから…………」
「あら、地獄の最高裁判長様が浮気とは、これは一大事ね。後で小町に教えておこうかしら。この前映姫とキスしたんだけど、彼女は何故か嫌がらなかったの、寧ろ私のことを愛――」
「ぜ、絶対にやめてください! どうして貴女はそうやっていつも意地悪するのですか!?」
真っ赤っ赤の顔をさらに紅色に染めて恥ずかしさを隠すことなく、必死で言い訳なのか怒りなのかよく分からない感情をぶつけてくる映姫もまた可愛い。
そっと首元に回していた腕を解いて、にっといやらしく笑ってあげるとさらにキスの余韻を感じてしまったのか、耳元まで真っ赤にして俯きながらぶつぶつと何やら呟き始めた。
いつも冷静かつ公平な立場で死者の未来を決める判決を下す立場にある彼女のような存在でも、恋とか言う病の前には存外弱いのねと考えると面白おかしくて仕方ない。
くすくすと笑いながら自分の席に戻って、映姫の肌の感触が残ったくちびるからベルガモットティーを一口たしなむ。
ふわり芳醇な香りが漂うけれど、甘い恋のほのかには叶うはずもなく、恋は麻薬だと言う戯言は結構的を得ているなと改めて再認識する。
ちょっとほっぺたにキスしてあげただけなのに、あんなに恥ずかしそうな顔をするのは彼女らしいと言えば彼女らしいけれど、私だって紫以外とキスを交わすのは初めてのこと。
お遊びの条件としては五分五分くらいかしら。でも、多分お許しは頂けそうもないので、ゆっくりとサンドイッチを口に運びながら、映姫の説教が始まるのを待つことにする。
「とにかくですね、風見。貴女はそうやっていつも上から目線で人をからかったり虐めたりするから、余計な行き違いを招くのです。ちゃんと心を開いて話をすれば、貴女の真の想いは通じるのですから」
「あら、私はいつも本気だけど、おかしな誤認をしているのは相手の方よ。ついたった今貴女だって分かったでしょう? いつも私は本気だし、映姫がくちびるで受け止めてくれるのであれば、そのまま私は続けるつもりだったわ」
「だから、私は小町と言う最愛の人がいるから、他の人となんて……とにかく、こんな破廉恥な行為は認められません! それなのに貴女と言う人は、善意を利用して悪戯したり、極端に過激な行為に走るから誤解を受けるのです!」
「キスやハグくらいで破廉恥になってしまうんだったら、恋人と寝ることなんて一体どんな表現になってしまうのかしら。お地蔵様だった閻魔様には低俗な恋愛なんて興味はなくて、身体を重ねるなんてことは――」
「もうだから、今のことは全部なしです。私が言うのですから白! もし風見が他言したら地獄に落としますからね! やはりちゃんと貴女には言い聞かせなければなりませんね。徳を積むと言うことはどういうことか――」
あまりに恥ずかしいのか、とにかく矢継ぎ早に言葉を紡いだ映姫はこくんとベルガモットティーを飲み干して、ゆっくりと深呼吸を始めた。
はいはい分かったからとりあえずサンドイッチを食べなさい、なんて言うと小動物のようにおとなしくなっていく姿は愛らしさを感じるけれど、きっと恋の病に犯された四季映姫は全く違う表情を見せるはず。
その凛とした花がどんな詩や旋律を紡ぐのか――その美しいハーモニーを聴くことが叶わなくて心惜しいわ。でも映姫がしれっと惚気てくれたりしてくれたおかげで、こんなに面白おかしいお喋りの時間を久しぶりに楽しむことができた。
この後に残ってしまった長い長い説教の時間さえなければいいのに、もう映姫は完全にスイッチが入ってしまっいる。もうこうなってしまってはどうしようもないので、サンドイッチを食べながら適当に話を聞き流すことにした。
――例えその場で見返りがなかったとしても、徳として積んだ優しさや慈愛の心は、巡り巡って必ず自分の元に返ってきます。
聖人君子の言葉は何故こんなにつまらないのかしら。今映姫が話している事実はきっと正しいのだろうけど、どうしても私にとってはリアリティのない、何処か違う世界の話のように聞こえてしまう。
この世界は大多数の共通認識が真実で、その他の少数意見は漏れなくマイノリティとして却下される。此処で言う『世界』は私達が共通認識できる『世界』のお話だけど、私と紫が夢見ていた『世界』には齟齬なんてなかった。
お互い恥ずかしがりやで、今想う気持ちも上手く打ち明けられず、何だかんだではぐらかしてばかりだったけれど……あの時の私達は、間違いなく同じ世界を共有していた。違うとすれば、それは言葉と、奏でる旋律の違いでしかない。
あの時見てたモノクロの風景、名も無き花の色、奏でられる雨の旋律――五感と心を全てを共有できなくても、重ねた想いは確か。
ずっとそんな気持ちを信じ続けることができたら、私達はたとえ世界を敵に回すことになっても、周りの冷たい視線なんて気にすることなく愛し合うことができた。
それなのに、どうしてあの時の私は……そんな簡単な事実に気付かなかったのかな。朽ち果てて行く世界に残されたのは、どうしようもない後悔と、在りし日の思い出。そんなものにすがって生きるのは、ただの拷問でしかない。
この小指に結った運命の紅い糸は、まだはっきりと繋がっている。それを引きちぎるのが、最もつらいけれど最善の選択肢。だけどそれを拒む確かな恋心と、結果自己撞着の繰り返し。いい加減、終わりに、そう、終わりにしないと――
映姫の説教なんて右から左。そんなことをぼんやりと考えていると、あっと言う間にサンドイッチはお腹の中に収まっていた。
ちょうど今日紫から届いたショートケーキが二人分冷蔵庫に入っている。随分と映姫がハイペースで飲み干してしまったのでベルガモットティーもなくなったし、デザートとして出そうかなと一瞬考えて、やめた。
あれはきっと多分、私と紫の分だから。ああ、まだ、私は夢を見てる。要らないものばかりの世界で、紫のことを忘れていく夢――薄っすらと浮かんだ涙をそっと拭き取った瞬間、12時を告げる柱時計の鐘が鳴り響いた。
「――その人達が今どんな想いをしているか……気持ちを本当に分かることができないと思い知った上でも、相手の気持ちになって考えることが大切なのです。と、もうお昼ですか、そろそろ私は失礼しないといけません」
「お説教は余計だったけれど、映姫の純真な乙女心が垣間見えて楽しかったわ。あんなの人前に晒したら閻魔としての威厳が台無しすぎるから、あまり惚気ないようにね。小町にフられたら、いつでも泣き喚きに来なさい」
よ、余計なお世話だって言うのはこちらの台詞です。なんてぽっと顔を赤らめながら席を立つ映姫にたっぷりと皮肉を込めた笑いを返しながら、綺麗に片付いた食器を乗せたお盆を持って私も椅子から離れた。
こんなお人よしで説教臭くなければ私の好みなのに……ふとそう思ったけれど、前者を無かったことにして後者を「胡散臭い台詞ばかり吐く」に変えると、そのままぴったり紫に当てはまることに気付いてしまった。
少なくとも紫と映姫が意気投合なんてことは絶対無さそうだけど、彼女達は凛として咲き誇る幻想の花。その心の中から紡がれる美しい詩と手繰るように奏でられる美しいメロディに、私はたまらない甘美と嫉妬を同時に抱いている。
とんとんと階段を下って、お盆をさっとキッチンに置いてすぐ戻ると、玄関の前で映姫が心配そうな顔をして私の方を見つめていた。
たとえ閻魔だろうと、人間が俗に言う『神様』とか呼ぶ存在であろうとも、どんな正論を以って諭したところで、もう私の考え方を変えることなんて不可能だって彼女ならば分かっているはず。
それでも何か思い悩んでいる私を何とかしたい――そうやって何処までも平等に人々を思いやれること自体が、四季映姫と言う凛とした花の魅力であり、幻想郷の民から絶大な信頼を受けながらいつまでも愛される理由なのかもしれない。
そんな美しい彼女にジェラシーを感じてしまうのは当然のこと。この絶望と言う糧で生まれ育った風見幽香と言う存在は、花になることも叶わなければ、花のように生きることもできず、花を抱きしめて眠ることもできないのだから。
「……風見」
そっとドアノブに手を掛けた映姫が、こちらを振り向くこともなく――まさに突然言葉を発したので、私は内心ちょっとだけ驚いてしまった。
碧の風に乗せて奏でられた映姫の凛とした声からは、地獄の最高裁判長として白黒のジャッジメントを下す閻魔としての威厳は微塵も感じられない。
「野に咲く蒲公英の一輪とて、詩を、旋律を奏でるのだから、その命を無碍にしてはならない。いつか、貴女はそう言いましたね」
「ええ、たかが人間や妖怪風情に花の気持ちが分かるはずもないし、其処までのモラルを求めるのも酷な話だと思うけれど。ただ、さっきも言った通り、美しい花々を綺麗に飾りたい気持ちだって理解できなくもないわ」
あらゆる場所で可憐に咲き誇る美しい花々に魅せられて、小さな部屋に美しい彩りを添えたい――そんな欲求は当たり前のこと。
勿論私だって観葉植物を育てたり家庭菜園を作ったりしているわけだし、その美しさをもっと沢山の人々に知って欲しいと思うからこそ、里に点在する花屋なんて存在を否定しない。
その花と言う言葉を『人間』に置き換えたとしても、今の私は何も不思議に思わない。その詩が、旋律が美しいと一目惚れしてしまった存在と一緒にいたいと願うことはいけないことなのかしら。
美しく咲き誇る花の奏でるメロディに酔いしれて、最高の幸せ堪能した後は緩やかに朽ちていく。だけど映姫の言う通り、私は花として生きることは叶わない。もう紫がいない限り、この心に芽吹いた息吹は絶対に成長しないのだから。
「それならば、ひとつだけ忠告しておきます」
くるりと踵を返して、エメラルドグリーンの瞳がじっと私を見据える。
その何処までも澄んだ透明な眼差しは、私の心の奥底に眠る感情すら見透かしているようで嫌な悪寒が背筋を走った。
この絶望で埋め尽くされた心を直に見られている気がして、気持ちが悪いなんて状態を通り越して吐き気すら感じてしまう。
しんと静まり返った空気の中、ほんの少しだけ思慮に耽る仕草を見せた映姫は、一度ゆっくりとまぶたを閉じた。
そして再び開いた瞳に映っていた色は、いつの日か私が見た美しいエメラルドのような鮮やかな彩りを湛えている。
その迷いや戸惑いの類が一切見当たらない真っ直ぐな視線が、絶望で満ち溢れた心に突き刺さるような気がして私は思わず顔を逸らした。
「風見。今貴女の心の中にある小さなつぼみは、貴女しか育てることのできない幻想の花の息吹です。そんな想像を超えるような花の苗を、貴女自身が穢すことは絶対にあってはならない。そのことだけは、心にしかと刻んでおきなさい」
その四季映姫らしい凛とした矜持に溢れた音色に込められた想いが、私の心に去来する全ての感傷を見事に貫いた。
甘く切ないファーストキスの魔法で紫が残した小さな息吹は、もしも花開くことがあれば――四季のフラワーマスターなんて二つ名を持つ風見幽香ですら見たこともない幻想の花を咲かせるだろう。
それは何処までも美しくも惑わしい、艶やかな色を見せる『八雲紫』と言う美しい花。恋は鳴る。そして、恋は花開く。ただの希望だと思っていた小さな息吹が芽生えた瞬間から、ずっと私は紫に恋焦がれていた。
あの日、紫が告げた想いに応えることができていたら、この絶望に塗れた心の中にあるつぼみは綺麗に綻んで、美しい恋の花が咲いていたはず。それは心の中に希望が花開き、最愛の人が可憐に咲き誇ることに他ならない。
恋に堕ちると言うことの意味を、私はあまりにも知らなさすぎた。鮮やかに色付いた真紅の薔薇を抱くことに、ずっと、ずっと、私は憧れていたのに……心の傷跡に降り続く雨に耐えてきた息吹も、いずれは時と共に緩やかに朽ちていく。
――八雲紫の心の中に、まだ風見幽香と言う花は咲いていますか?
そう問うたところで、どうせ貴女はいい加減にはぐらかして、まともに答えてくれないのでしょうね。
何度考えてみても、私の運命の歯車は貴女のキスから回り始めた。貴女があの魔法のような口付けで風見幽香と言う花を咲かせてくれたからこそ、その花は今此処で朽ちていくだけの絶望に支配された生を過ごしている。
ただ、ただ、その鮮やかな真紅の薔薇をこの瞳に焼き付けたくて、今日と言う日まで生きてきたけれど……貴女が微笑む記憶の中でしか花になることができない私は、あの世界が終わった瞬間に枯れてしまったのかしら。
もうきっと私は朽ち果ててしまった。もう私は貴女の世界で舞い散ってしまった。
幾らそう考えようとしても、貴女がくちびるの先でそっと唱えた魔法は解けなくて、八雲紫だけを失った世界は延々と続いていく。
そんな私の世界では貴女の詩が、旋律が、蒼い風に乗って幻聴のように聞こえてくる。貴女を失ったのに、貴女から素敵なプレゼントが毎日届いて、どうしようもなく嬉しくて、たまらなく会いたくなって心が軋む。
きっと多分全く同じ痛みを背負いながら続くこの関係と、悲しいほどに変わらない淡い恋心。もしも神様が願いを叶えてくれるのならば、あの雨の中で相合傘をしながらふたり寄り添ってただ微笑んでいた頃に戻りたい。
会いたい。紫、会いたいの。そうやってどんなに声を枯らして喚き散らしても、反響、残響――ただ、あの日のように強がっているだけの風見幽香の声は虚しく響き渡るだけで、この世界は何も変わらない。
雨が降ると貴女のことを思い出して悲しくなって、あの名も無き花を見ると貴女の声が恋しくなって、貴女がいないと泣いた幾億の夜を越えて……貴女の面影を追い掛けながら、私も、きっと紫も、もう散々傷付くだけ傷付いた。
そんな残酷な日常の中で過ぎ去っていく時間は、私達の在りし日の記憶から紡いだ想いを少しずつ奪っていく。そんな緩やかに朽ちていく世界を、貴女も何処かで眺めているのかもしれない。こんなの、もう私、耐えられないわ。
この小指に結った運命の紅い糸を解いたところで、その先に映る未来には何も残されていない。もう私達の世界は終わってしまって、あの頃の私達に戻ることは絶対に叶わないのだから。さよなら、するの。だから、さよなら、しよう――
「そうね、一理あると思うし考えてあげてもいいわ。ただし、条件がある」
「……条件、ですか?」
どうして映姫が私の心を見透かしたような言葉を発したのか理解に苦しんだけれど、もう既に決定事項な考え方は変わらないし変えられない。
それよりも最後まで思いやってくれた彼女の心遣いに「ありがとう」と言えない相変わらずな自分の性格に、流石にちょっとだけうんざりしてしまう。
「ええ、その『風見』って呼び方が気に入らないからやめて欲しいの。幽香、幽香でいいわ。名字で呼ばれると上から目線っぽくて嫌い」
そんなどうでもいい要求を突き付ける私の顔を見て、妙な緊張で顔を強張らせていた映姫の表情が花が綻んだような微笑みに変わった。
自称有難いお話らしい映姫の説教を全然聞いてない私が、さり気ない忠告に従う意思を見せたこと自体が余程珍しいとでも思ったのかしら。
ただ、聖者の言葉は私なんかの心には届かないし、この終わりを迎えた世界において神様の託宣はあまりにも無力すぎた。
恐らく映姫が今日一番伝えたかった想いは、ずっと今日と言う日まで私が貫き通してきたつもりの意思。そんな祈りにも近い願いも、結局は叶わぬ夢となって舞い散った。
だけど、こんな私なんかのことを思いやってくれるだけでも、十分過ぎるほどに嬉しい。映姫、本当にありがとう。こうして貴女と話すことができたおかげで、ちゃんと心の整理が付いた気がするわ。
「貴女のことを名前で呼ぶことができるなんて、とても素敵ですね。では……幽香、また素敵なティータイムを、楽しみにしています」
鈴の鳴るような凛とした声を残して、ぺこりと礼儀正しくお辞儀をしてドアの向こう側に消えていく映姫の姿を見届けてから、ふうっとひとつ息を吐いた。
勿論誰かを思いやるなんて気の利いたことができるはずもなく、やっぱり人と接すると何処かで必ず拒絶反応が出てしまって、どうしてもぐったりしてしまう。
どうせ幼い頃のトラウマからは、もう永遠に開放されることはない。恒例のお説教は何時も通りどうでもよかったとしても、今の映姫とのティータイムは好き勝手に話すことができて本当に楽しかった。
どれくらい待たされるのか分からないけれど、そう遠くない時期に……また彼女と話すことができる。今度は地獄の最高裁判長四季映姫として――こんな業に塗れてしまった私を美しい声で断罪してくれるだろう。
ただ、貴女の忠告は受け入れられそうにないわ。緩やかに朽ちていくこの世界で足掻く私が見つけた唯一の活路は、映姫の想いも、そして紫の想いも踏み躙ることになる。
過去と未来の狭間――たった今もこの胸の中で煌く私の想いが変わることは決してないけれど、その全てを綺麗な嘘に変えても……私が決めないと、ずっと紫を傷付てしまうことになるから。
全ての痛みを受け止めて枯れ果てるまで踊り続けるダンスはもうお終い。あの満天の星空から降り注ぐ悲しみと幻想の『八雲紫』と言う花を抱きしめて、私は永遠の眠りに付く。
揺れる想い、つかの間の夢、小さな悲劇――あの在りし日の記憶と想い出が消えてしまう前に、この小指に結った紅い糸をそっと解いて、花のように朽ち果てたい。
――ずっと貴女を待ち続けた季節は、絶望の奏でと共に通り過ぎ去ってしまった。
此処がもう私の世界の果て。咲き誇るは悲しみの花。心に降るどしゃ降りの雨の中で笑う私は、初めて出会った時から何も変わっていないのに、どうして貴女は迎えに来てくれなかったの――?
◆ ◆ ◆
しんと静まり返った室内に、かたん、かたんと、春の風を受けてくるくると回る風車の音が響いて時間の流れを速める。
ふとキッチンの方に置いてある先程片付けた食器が視線に入って、家事をすぐこなす習慣で思わず身体が動きそうになった。
でも、そんな必要は、もうないんだ――そのまま私はゆっくりと二階に戻る。ゆったりとした間取りの中に配置されたアンティークな調度品の数々と、青々と生い茂る観葉植物や色鮮やかな花々。
開け放たれた窓から流れ込んで来る蒼い風を受けて、ぱたぱたと音を立ててレースのカーテンがなびいている。きらきらと差し込む木漏れ日が、柔らかい色彩で統一された部屋の中を美しく照らし出す。
私は永遠のような長い時間、この部屋で夢を見ていた。この胸に抱えた花束と同じ数だけの美しい花々で部屋を飾り付けて、紫が揃えてくれた素敵なお洋服の着こなしをあれこれと試してみるの。
艶やかな貴女の隣でさり気なく彩りを添えるように咲き誇る、白いカーネーションのようなイメージで服を選ぶ。どんな小さな花でも、かつて貴女の瞳に映し出された美しいエメラルドを湛えた花だったら、きっと喜んでくれるはず。
そんな爽やかな花の香りに誘われるように何の変哲もない朝が始まって、いつもパンを焼きながら、どきどきしながら気まぐれな貴女のことを待ち焦がれる。貴女が残した詩があれば、恋のメロディがあれば、いつまでも待てると想ってた。
そして一輪の美しい日傘を携えた貴女がふらり太陽の畑まで会いに来てくれたら、美味しいハーブティーを飲みながらくだらない話で笑って、ちょっとさり気に惚気たり、髪の毛をすいてあげて、好きって言って、ハグして、キス、して……。
昨日より今日は素晴らしい日々になる――心の何処かで、そんなありもしない希望を信じてた。貴女が愛おしく重ねてくれたくちびるの感触を、そっと囁いてくれた愛の言葉を、私は今も忘れることができず、ずっと、ずっと、信じていたから。
淡い思い出で濡れたくちびるの感傷を噛みしめて、部屋の片隅でずっと埃を被っていたギターケースを手に取って、中身をテーブルの上に静かに乗せた。
あの日から全く弾いていないアコースティックギターはすっかり弦が錆びてしまっていて、その上に添えられた詩と旋律を書き綴っていたノートは綺麗なセピア色に色褪せている。
戸棚から代えの弦を取り出して、ささっと手早く交換してしまう。そのままギターを抱えて、調律のためにそっと弦を弾いた瞬間――心がずきんと疼いた。一音、また一音、その音色に呼応するように心が痛む。
今弾いてみたところで、あの頃と何も変わらない音が、絶望の旋律が、あのモノクロの世界に溶けて消えていく。それでも必死に記憶の奥底から音感を取り戻して調律を終えたギターを、それ以上何も弾かずにケースの中に収めた。
そのまま窓際の蒼い液体が入った硝子の小瓶をポケットに閉まって、ぼろぼろになったギターケースをそっと担ぐ。テーブルに置いた色褪せたノートの上に、この風見小屋の銀色の鍵を沿えて、小さく囁いた「さよなら」の言葉がふわり――
晴れ渡る空は群青。蒼く、何処までも蒼く広がる空の下、地平線の遥か彼方まで――チューリップやパンジー等々の色とりどりの花々が可憐に咲き誇っていた。
あの時紫から貰った日傘を差して、ゆっくりと花畑へと続くあぜ道を歩く。様々な場所から花のほのかな香りを運ぶ蒼い風が、そっと髪や頬を撫でる感触はとても爽やかで心地良かった。
ひらひらと宙を舞う色鮮やかな蝶や、生まれて間もない小さな妖精の残像を横目に、風見小屋が建っている丘のくだり道を右へ。幸せな生を謳歌する花々の美しいハーモニーを聴きながら歩くこと数十分、やがて向日葵の迷路に辿り付いた。
この先へと続く道は、あの時以来ずっと怖くて足を踏み入れたことがなかったけれど、もう後戻りはできない。そう心に言い聞かせて、太陽の光を一身に浴びて燦々と咲き誇る向日葵が織り成す黄金の世界へ迷い込んだ。
――あの日、世界の果てまで続くこの道を……私と紫は息を切らしながら、必死で、必死で、必死で駆け抜けた。
浅き雲。恋の眩暈。時計仕掛け泡沫の夢。繋いだてのひらをむすんで、ひらいて。その絡めた指先に引かれて走り続けたら、あの空の彼方まで行くことができるような気がした。
何処までも続く向日葵の迷路の中で紫の後姿を追いかけながら、もうこのまま紫と迷子になってしまいたい。そして誰も知らない名前の無い世界で、永遠に咲き誇る幻想の花になりたい。
そんなありえない夢物語が、本当に叶ってしまうような予感がしたの。紫の隣で咲き誇る美しい花になることができたら、きっと私は幸せになれる。そんな貴女の見せた鮮やかな幻に、ずっと、ずっと、すがり続けてきた。
狂い咲く季節。花の匂い弾けた夢現。蒼い空の彼方で咲き誇るは貴女――走って、走って、紫と二人、何処までも走り続ると、目の前に広がる景色が鮮やかに色付いていく。
壊れかけた御伽の国で、美しい花びらのように世界がゆらり舞う。ずっとモノクロに染まっていたはずの世界が、水彩画みたいに透き通った虹色に輝く世界へと変わって、まるで自分が花になったような錯覚に陥った。
この色を失った瞳が何故か感じることができた八雲紫と言う花の色が、より美しく見えたことを今もよく覚えてる。雨露に濡れた紫陽花色のドレスも、向日葵色を編み込んだ綺麗な髪の毛も、その全てがあまりにも艶やかで、愛おしかった――
そんな小さな指で貴女のてのひらを握り返した日は、そっと短く切りそろえた前髪が風が舞う淡い春のこと――幾度もフラッシュバックする記憶を無理矢理振り切って、向日葵畑のレイルロードを通り抜けた。
その先に広がっているは、あの悲しみの旋律を奏でる名も無き花の群れと、何処までも続く蒼い空。その丘の上に続く緩やかな道を、ゆっくりと歩いていく。もう記憶の中にしか存在しない夢が、あの場所には残っているかもしれない。
道半ばで、心の中が酷く疼いた。淡い黄金色に輝いている花々が紡ぐハーモニーは、あの頃と何も変わっていない。此処では私と紫の終わったはずの世界は続いていて――それはまるでこの場所だけ時間が止まっているかのようだった。
もしかしたら、あの世界樹の下でまだ紫は泣いているのかもしれない。あの時から今日まで、此処で紫は独り私のことをずっと待っていて……そんなありえない妄想に想いを馳せながら、丘の上へ上へと歩みを進めていく。
ゆらり、ゆらり。ゆらり、ゆらり。ゆらり、ゆらり。ゆらり、ゆらり。
名も無き花の絶望の調べと何処からともなく鳴り響く青い鳥のさえずりを聴きながら、そっと身体を世界樹の根元に預けた。
この世界の空を支えている巨大な幹の遥か彼方から、あの虹色に輝く不思議な花びらが春の風に揺られて美しい弧を描きながら舞い落ちてくる。
あの時と何ひとつ変わらない景色が、あの当時のまま目の前に広がっている。ああ、此処も、何も変わらないのね。ただ、ただ、貴女がいないだけで……やっぱり私の世界からは、八雲紫と言う花だけが失われている。
貴女の存在は感じることができるのに、悪態を吐くことも、些細な喧嘩をすることも、やさしく抱きしめることも、キスすることも叶わない。そんな貴女のいない世界の何処に価値があるのか教えて頂戴、この世界を作った神様?
――そっと貴女から貰った想いを吐き出して、それでも、愛されたいの、まだ……。
絶望に蝕まれて苦しむだけの生涯だった。あの時あのゴミ捨て場で死んだとて、貴女との出会いがなかったとしても、こんな結論なんて当然の帰結だったのかもしれない。
でも、貴女がいなければ、心の棘で傷付いたりすることもなく、泣きながら眠れない夜を過ごすこともなかった。そんな心の何処かで貴女のことを恨んでいる私と、どうしようもなく貴女のことを愛している私。
ばらばらな心から、どうしようもなく感情が溢れ出す。叶わぬ夢を祈って迎える朝の光に溶けていく想いも、ふとしたことで知る無力さで途切れそうな想いも……吐き出す焦燥の否は、ただ、ただ、空の蒼さに吸い込まれて消えていく。
ああ、私は、誰のために生きているのかしら。ただ、このどうしようもなく愛しい想いは、私だけが生きていても決して満たされることはない。
私が風見幽香であり続けるために犠牲にした花は、この残酷な世界に一輪しか存在しない艶やかな真紅の薔薇。今の自分を受け入れる覚悟があれば、そっと紫を守る強さがあれば、こんなことにはならなかったはずなのに……。
貴女を失ってから朽ち果てていく世界で、言葉にならない想いの行き場を探して……あの日から変わらない私は、この太陽の畑でずっと貴女を待ち焦がれていたけれど、無力さを噛みしめて見上げる春空は、ただ残酷に夢が醒める蒼だった。
ずぶ濡れの心で、傘も差さずにキスしたあの日からの貴女と過ごした日々を、絶対に思い出になんかしたくない。そんな祈るような日々の中で、見失った夢の続きを捕まえて抱きしめてみても、其処で笑っている貴女は色褪せるだけだから。
在りし日の記憶に想いを馳せることしかできず、恋の病か夢遊病か、そんな痛みに苛まれ続けることに、もう私の心は耐えられない。だから、小さな頃ひとりぼっちで過ごしていた時の夢――叶えたかった想いの彼方へ、私は行くことにするわ。
世界と言うものは思考によって規定されると昔の貴女は話してくれたけれど、この心と身体が花のように朽ちてしまえば風見幽香の感じる『世界』は完全に終わる。
それがもう終わったはずの世界で、少しずつ朽ち果てていくだけの世界で、ずっと八雲紫と言う枷に縛られて生きてきた私に残された唯一の活路。貴女と作り出した世界から私を抹消してしまえば、全ての枷は外れるはずだから――
後悔だらけの人生だったけれど、きっと大半の人はどうせこんなもんだろう、みたいな感じで死ぬんだろうし、もう思い残すことも紫のことしかない。
そっとポケットに入った硝子の小瓶を取り出して太陽にかざしてみると、ゆらゆらと揺れる蒼い液体の彼方に広がる空がコバルトブルーに染まって見えた。
小さな香水のような瓶のフタを開けて、その中身をぐいっと飲み干す。ホワイトオランダとトリカブトを煮詰めて蜂蜜で無理矢理味付けした毒薬は、匂いこそ芳醇だったけれど口に入れた瞬間は舌がぴりっとした。
もう精神的な疲弊で妖力が完全に弱っている今の状態なら、この致死量分倍々くらいあれば余裕で死ねるはず。ゆっくりと薬が身体の中を循環する間に、ひとつだけ試してみたいことがあった。
この今にも張り裂けそうな想いを、そっと宇宙の風に浮かべて空に解き放つ。ねえ、紫……いつか貴女が言ってた、花が朽ちる時に奏でるメロディ、今から私が聴かせてあげるわ。
そう心の中で囁いて、ゆっくりとギターケースの中からアコースティックギターを取り出してベルトを肩に掛けた。
そして、あの蒼い空の遥か彼方に、世界の限界に、そっと想いを馳せる。どうか貴女に、この音が届きますように――そう祈りながら左手でコードを押さえて、右手を一弦に掛けた。
指を動かして音を鳴らす前から、心のメロディが聞こえて来る。ひび割れたイノセンスがかき鳴らすマイナーコードが直で鼓膜に伝わって来て、絶望で満たされた胸が張り裂けそうだった。
あの頃の私が奏でる旋律も、あんなにやさしかった貴女の声も、今の私には痛みにしかならない。それでも、ひとりで生きていけると誓った此処で、無様に散り行く風見幽香の最期のメロディ、奏でることはできるのかしら?
右手の小指でギターの端を叩いてカウントダウン。1,2.1234...手繰るようにかき鳴らされたE♭M7が鳴り響いた瞬間、ずきんと心に強烈な痛みが走った。
指が震えて、まともにテンポを保つどころか、ひとつの音を奏でることさえ間々ならない。Cm7、Gm、A♭m7、B♭、E♭M7とコードをなぞる前奏はぎくしゃくとして、ワンフレーズ繰り返した段階でもう心が崩壊しそうだった。
一音、一音と手繰り寄せるたび、調律をしていた時とは比べ物にならない激痛が心をかきむしる。あのモノクロの世界を見ていた時の想いを無理矢理引きずり出すような、かろうじて塞がっていた古傷をえぐるメロディが鼓膜に響き渡る。
それでも心を押し殺して、淡々と同じフレーズを繰り返す。ぐっと痛みを堪えるだけでやっとなのに、その音に詩を乗せるのが怖かった。でも、あの頃から変わらないこの愛しさを、この同じ空の下で生きている貴女のために歌いたい。
――ああ、神様。どうか、どうか、この風見幽香が朽ち果てる刹那のメロディを、紫に手向けさせてください。
一度も聴かせてあげることのできなかった、あの恋の鳴る音を、美しい花のような旋律を、貴女を愛していることを証明するための詩を、奏でさせて――
「――雨降りの朝で、今日も会えないや」
たったひとつのフレーズを歌い終わっただけで、瞳から一杯の涙が溢れ出して、頬を伝って滑り落ちる雫が雨のように流れ落ちた。
途方もない憂いを帯びた旋律に乗せた張り裂けそうな想いを謳う詩が、何処までも蒼い空の遥か遥か遥か彼方に吸い込まれていく。
あのさんざめく雨の中で紫と出会ってからすぐに書いた詩だから、その時の記憶が昨日のことのように甦ってしまう。でも、どうしても、貴女の色が思い出せない。
しっとりと濡れた貴女が艶やかな紫陽花のようだったと言うことは覚えているのだけど、それは詩と記憶の中でしか再現することができず、貴女を失い、それを確かめる術もなく、私は、独り……。
記憶の中で永遠になった貴女のことを、心底恨めしく思うわ。最愛の人から貰ったプレゼントは想いが残ると言うけれど、それは音楽も変わらない。この詩にも、あのメロディにも、この私の書いた曲には貴女への想いだけが残されている。
「恋しくて、抱きしめて欲しくて、貴女の名前を叫んで泣いた。でも虚しくて、空を見上げてみるけれど、言葉もない」
あの紫と初めて出会った日のような、どしゃ降りの雨みたいな雫がぽろぽろと瞳から零れ落ちていく。
この世界で色を取り戻した瞳から止め処なく頬を滑る涙は、紫から貰った一輪の花を差しても凌ぐことはできない。
絶望で満たされた心の奥底から吐き出すように紡ぐ言の葉は、あの当時の私の瞳が映し出していた心象風景をそのまま現していた。
この曲に込めた想いは何十年の時が経っているはずなのに全く色褪せることなく、此処から見える世界と同じように何ひとつとして変わっていない。
だからこそ心が締め付けられて、どうしようもなく苦しかった。ずっと自分の書いた歌詞通りの想いを抱き続けて、今日と言う日まで生きてきたのだから。
ああ、詩があって、旋律があれば、この想いを余すところなく伝えることができたのに、どうしてあの時、私は紫にちゃんと弾き語ってあげられなかったのかしら。
それは結局のところ、恥ずかしいとか、惨めだとか、どうせ雌豚扱いだとか、誰かが接してくれること自体に臆病になって、ただ強がっているフリをしているだけの弱虫だっただけの話。
心は要らない、もう命は必要ない。そう泣いていた私が、紫がやさしく接してくれることにある意味のむなしさを感じていたことも事実だけど、ああやって抱きしめて貰えることで、私は自分が生きていることを知った。
貴女に言いたいことなんて……詩にしなくても、旋律にしなくても、止め処なく溢れ出して来る。そう、何も言葉にしなくても、繋いだてのひらから想いは確かに伝わっていたのに、それは全部ニセモノだと決め付けて紫を拒絶してしまった。
もしも貴女のことを受け止めることができていたら、私は花になることができたのかもしれない。貴女がそっと囁いた愛の言の葉は――咲き乱れるのか、朽ち果てるのか、風見幽香と言う名の花の運命を決める託宣と同義だったから。
「貴女の胸の中で泣くことができたら、きっと雨は止むはずだから。貴女がそっと寄り添っていてくれたら、わたしの世界は、必ず、し、あ、わ、せ、に――」
もう叶わぬ夢を謳う詩が、空へ溶けて消えていく。愛しい、愛しい、何処までも愛しい紫への想いが込められた詩が響くと、心が喚き叫んで、くちびるが震えて、言の葉が喉奥で詰まって出て来なくなった。
ゆらり、ゆらり、舞い落ちる虹色の花びらに乗って、大粒の涙が弦を爪弾く指を濡らす。貴女への想いを紡ぐ言葉の果てに、止め処なく涙が流れる。さんざめく雨のように、ざんざんと音を立てて心を濡らす雨が降りしきっていた。
あのゴミ捨て場に捨てられていた頃の私が奏でる旋律なんて、結局は無様で醜い絶望塗れ。ずぶ濡れの心が流す涙は、すっかり汚れてしまっていた。その悲しみを抱いたまま、ただ、ただ、紫に想いを馳せて、そっと瞳を閉じる。
声が出なくても、絶望しか吐き出すことができなくても、この曲に込められた想いは変わらないと信じて、弦を弾く力に私の全てを込めた。
左手で弦を押さえる指が移動する時にフレットと擦れる音が一段とよく響いて、詩に添えるだけの淡々と鳴るはずのコードが段々と力強くなっていく。
ずっと、ずっと、言葉にできなかった想いを……ひとつずつ手繰るように、一音、また一音と奏でる。艶やかな紫陽花の色が込められたメロディに、少しでも私らしい音色を添えて鳴らしたいと言う想いだけで必死に弦を弾いた。
あまりにも愛しい紫への想いが先走って、ゆったりとした感じだったはずの曲がどんどん速くなってしまう。この世界から八雲紫と言う色だけを失った瞳から零れる雫は止まらないのに、鮮やかな貴女の幻だけがあまりにも美しく見えた。
一番のサビが終わった部分からいきなり間奏。好き、愛してる、会いたい――そのひとつひとつの音に紫への想いを余すことなく込めたアルペジオを、そっとかき鳴らす。その澄んだ音が鳴るたびに、木漏れ日を浴びて涙がきらり輝いた。
胸に秘めた淡い恋心を囁くような感傷的な演奏から、いきなり勝手に指が動いてしまってアドリブを交え始める。弦を支配する両手を素早く動しながら想いを込めて音を奏でると、花のような美しくも可憐な旋律が性急に紡がれていく。
そして、最後には全ての弦をかき鳴らすストロークで、強く、強く、愛しい紫のことを想いながら弦を弾いて――希望と絶望を込めたアコースティックギターでは考えられないような轟音を、この空を支える世界樹の下で鳴り響かせた。
――もう、詩も、旋律も、貴女には届かない。
あの私達の世界が終わった日から貴女を失ってしまったけれど、それからの私は……胸が張り裂けるような切ない想いを抱えながら、純粋に紫を愛することができた。
貴女と戯れた日々は、たまらなくスウィートな甘いリアリティ。今朽ち果てようとしている白いカーネーションは、あの時告白してくれた貴女のように完全に『自惚れている』のかもしれない。
その淡いくちびるで教えてくれた小さな恋の詩。そのメロディに恋焦がれた私は、その想いに報いることができなかった。そして、ようやく奏でられるようになった風見幽香の奏でる旋律は、もう貴女には聞こえない。
八雲紫と言う真紅の薔薇を抱えて眠る風見幽香は、必ず幸せになれる――ようやく私は、貴女のことを信じられるようになったみたいだけれど、此処でさよなら。ああ、今なら、きっと私の方から告白できる気がするのに……。
貴女と過ごした世界が私の全てだったから、貴女がいない世界なんてどうしても考えられない。そう想うたび、貴女と繋いだてのひらは、そっと消えていって、絡まる透明な指に祈りを込めて辿り着いたのは、この世界の終わりだった。
あの蒼い空の彼方、世界の限界を超えることができたら、また貴女に会えるような気がするわ。
私はいない。もう私はこの世界から消えてしまう。貴女はいない。もう貴女はこの世界から消えてしまう。
私がいた、私が存在した世界に還るの。貴女がいた、貴女が存在した世界に還るの。
もしもそうやって、まだ貴女の世界に『居たい』と泣きついたら、ずっと貴女の中であの頃の私は存在することができたのかしら?
また必ず貴女と会える。そんな夢を見続けてきたけれど、その夢の先のことを考えて、貴女に会えなくて泣くのはもうやめることにするわ。
鮮やかに色付いたアメジストの薔薇を手向けられた私が見る夢は、この世界の限界を超えたところにある誰も知らない美しい景色を見せてくれるはず。
今、此処で世界は終わる。会いたいよ。大好きだよ。こんなにも、貴女のことが愛しい――そんな想いも、貴女の存在も、全て忘れてしまうけれど、もう終わりにしましょう。
昨日が未来のカケラなら、明日だって思い出になってしまう。そうやって在りし日の記憶にすがり続けて、ずっと私は遠回りしてた。緩やかに朽ち果てていく世界に戸惑っていた。一縷の希望を、信じていたかったから。
そんなどうしようもなくセンチメンタルな想いも、貴女との甘く切ない記憶も――灰色の霞、遠く、雲になって、消えていく。失うものなどない無限の中で、私は笑っていた。生まれて来る時も死にゆく時も、結局は独りで笑っている。
遠のく意識の中で、小指結った運命の紅い糸を、そっと解いた。私達を繋いでいた絆が、蒼く、何処までも蒼く澄んだ空に吸い込まれていく。さよなら、私の愛した人。どうか、どうか、私の分まで、幸せになって。
――名も無き花が咲き誇る。いつもの見慣れた太陽の畑に、ああ、別れを……。
途絶えていく意識の中、アコースティックギターがかき鳴らす轟音と共に可憐に咲き誇る花々が奏でる絶望の旋律が、この世界に終わりを告げる――
もしも生まれ変わることができたら
わたしは美しく咲き誇る名も無き花になりたい
わたしは美しく咲き誇る名も無き花になりたい
深く暗く落ちていく意識は棕櫚の海の中――もがく指から空を零れて彷徨う想いを掴もうと必死に瞳をこじ開けると、其処は辺り一面火の海に覆われた真紅の世界だった。
漆黒に染まる空の真下で轟々と燃え上がる炎が、この世界の全てを焼き尽くそうとしている。その地獄の業火に吹き付ける風が、何処か懐かしい花の芳しい香りに乗って、むせ返るような熱を以って肌を撫でた。
ばち、ばち、と音を立てて何かが崩れ去る音が、ばきんと根元から折れてしまうような音が、あちこちから聞こえてくる。その花が太陽の畑の象徴である向日葵であると知った瞬間、朦朧としていた意識がはっきりと覚醒した。
そっと立ち上がって四方八方を見渡すと、咲き誇る花々を灰燼に帰す紅蓮の炎がオーロラのような美しい壁を為して、この瞳に映る景色の全てを紅く染めている。こんな世界の終わりを、私が、望んだ、とでも言うの――?
ずっと、ずっと、私の世界の一部だった太陽の畑が、愛すべき花達が咲き誇る故郷が、灼熱の業火で燃え上がっている――それは世界の終わりとしか言いようのない光景だった。
まるで自分の全てが朽ちていく様を見ているような気分のまま、ゆらゆらと揺らめく陽炎の向こう側の天を仰ぐと、此処から遥か遥か遥か彼方の丘で空に突き刺さるような火柱が上がっていた。
この世界の空を支えていた世界樹が、幾億の星々が輝く夜空を焦がす。紫が想いを告げてくれたあの丘には、もう叶わぬ永遠の誓いが眠っている。この太陽の畑を覆い尽くす真紅の焔は、その全てを消し去ろうとしている。
あの場所だけは、どんなことがあっても失いたくない――そんな想いだけが私の心を突き動かす。完全に気力を失っていたはずの私は、気が付けば無心であの丘の方向へ走り出していた。
――これが、私の望んだ世界の終わり、な、の?
いつか紫とまた一緒に過ごすなんて理想を夢見たけれど、それが叶わぬ夢だと知った時から、破滅の美学なんかを利用して私は死ぬつもりだった。
花のように散りたい。そんなずっと昔から私が願っていた夢や祈りは、最期の最期にようやく達成された。美しく咲き誇る花のような、希望と絶望に溢れたメロディを奏でることで……。
センチメンタルな恋はどうしようもなく果たしていくもので、安心したらさようなら。それでお終いで思い残すことも無かったのに、どうして、どうして、私の愛した世界まで灼熱の業火で焼き尽くすことになるの?
この世界を作ったとされる神様が下す『世界』の終わりは、自分の大切なものを全て焼き尽くすことから始まるのかしら。
此処で可憐に咲き誇る花々には何の罪もないのに、神様は私を咎人として裁くこともなく容赦なくその命を奪い去っていく。夢から醒めないようにしていたつもりなのに、その夢の先でも私は悲しみを背負うことなった。
ふと、思う。まず宗教のイコンとして人間が作り出した『神様』が世界を作っていると言う考え方自体が間違っているのかもしれない。主観として見える共通の『世界』は確かに存在するけれど、その世界は人それぞれで見え方が全然違う。
それこそ紫があの時に言った「世界は思考によって規定される」と言う事実が全てを物語っていた。それはつまり、この世界を作るのは命だと言うこと。この世界の総体はひとつに見えるだけで、実は幾億の命の想いだけで形作られている。
これはそんな風見幽香と言う命が望んだ『世界の終わり』の形に過ぎない。八雲紫と言う花が存在しない世界は必要ない、八雲紫と言う真紅の薔薇を抱いて眠りたいと祈り続けた、風見幽香と言う存在が作り出した世界の結末に過ぎず――
次から次と浮かぶあやふやな思考を蹴散らしながら、私は走る。とにかく走る。
焦土と化した地面に散った花々の断末魔の叫びと共に、物凄い引力が働いて空は飛べそうもなかった。
薬のせいなのか身体の重心が定まらず、よろめきながら、ふらつきながら、それでも必死に炎の間を縫うよう歩を進めていくと、炎で燃え上がったまま整然と仁王立ちする向日葵の列が、灼熱の焔の壁となって行く手を阻む。
あの世界樹の袂で死んだはずの私がどうして向日葵の迷路の中に倒れているのか不思議だったけれど、そんな意味を考えている余裕は全く無かった。今はただ、あの場所が私を呼んでいる。そう直感が確かに告げていた。
最大限の力を振り絞って、あの美しかった黄金色の道をひた走る。道に迷うアリスのように、あちら、こちら。散々右往左往した末に、ようやくあの名も無き花が咲き誇る世界樹のある丘が見渡せる場所まで辿り着いた。
黒とオレンジが混ざり合った何処までも続く幾億光年の星空の下で、遥か丘に敷き詰められた名も無き花の群れが、この世界の終わりを祝福する旋律を鳴らす。
轟々と燃え盛る業火の中にあって、この場所だけは炎の被害を免れているようだけど、あの樹齢数千年を超える世界樹だけは、この広い空を突き抜けるような紅蓮の焔で焼き尽くされていた。
この世界の終わりを望んだことは確かだけど、あの思い出の景色が消えてしまうなんてことは絶対に望んでなんかいない。ただふたり、そっと寄り添って、永遠に限りなく近い『永遠』を夢見たあの場所は、ずっと永遠であって欲しい。
そんな終わる世界で足掻いても、何もかも手遅れ。でも、私はあの場所に行かなきゃ――精神的に疲弊しきって妖力を完全に失った身体を必死に動かす。その時ふと、燃える世界樹の横で終わる世界をじっと眺めている人影が見えた。
「ゆ、か、り?」
そのむせ返るような風に揺れる美しい花を映し出した瞬間――私の瞳がこの世界で唯一忘れてしまった鮮やかな彩りが甦る。
あの向日葵を編んだ美しい髪の毛の色も、雨曝しの紫陽花のような艶やかな紫色も、雪牡丹を感じさせる真っ白な肌も、全てが鮮やかに色付いていた。
ただ、その真紅の瞳だけは憂いの色を帯びて、在りし日の面影は残されていない。この終わる世界を見届けることが、自分に科せられた罰だとでも言うかのような悲しみに歪んだ表情で、ただ燃えていく太陽の畑を見つめている。
ああ、ずっと、ずっと、待ち焦がれていた人が目の前にいるのに、たったひとつの言葉を紡ぐことすら間々ならない。
今まで貴女に会えなかった永遠のような時間の中で、淡雪のように降り積もった愛しい想いが、ふわりと宙に舞い散った。
今心の中から湧き出してくる想いは、途方もない絶望。どうしようもなく嫌な予感が頭を過ぎる。それこそ確信に近い感触があった。この世界の終わりを導いた首謀者は、私の親愛なる八雲紫と言う花に他ならないのではないか――
「……この太陽の畑に火を放ったのは、貴女なの?」
精一杯の強がりを込めて紡いだ声は、ぴんと張り詰めた空気の中で酷く震えて刺々しくなってしまった。
自らの命を絶って紫から逃げ出した後ろめたさや、私と紫だけの思い出の場所を消し去ろうとする紫へ対する憤り。心の奥底で渦巻く絶望と動揺は、幾ら取り繕ったところで隠し通せるはずもなかった。
もしもまた紫と会えた時は必ず笑って、あの時のように抱きしめて、そっと口付けを交わして、寄り添い合って幸せに過ごす――そんな自分勝手な願望を、心の何処かで夢見ていたのだから。
暫しの沈黙の後、あの風見小屋のある丘の方向をじっと見つめていた紫が、ゆっくりと踵を返して私の方へ向き直った。
その美しいアメジストをはめ込んだ瞳は、あの時此処で私達の世界が終わった時と同じ色に染まっている。今にも涙が零れそうな美しくも儚い面持ちは、あの名も無き花が朽ち果てる刹那のようだった。
在りし日の面影と遥か彼方の景色に想いを馳せるような紫の表情からは、この幻想郷を創造した賢者に相応しい矜持も感じられない。私が大好きだったあの美しくも惑わしい艶やかな微笑みも、今はすっかり闇に溶け込んでしまっている。
その全てを悟っているような態度は相変わらずだったけれど、その横顔には何処か悲壮感に近い想いが込められているような気がして、あの最期に奏でることができた旋律の余韻なんてあっと言う間に吹き飛んでしまった。
「……風見幽香亡きこの世界を、どうしようと私の勝手でしょう?」
「紫、まだ貴女は自惚れているのね。ふざけるのも大概にして!」
そんな何もかも分かったような素振りが大嫌いだとあの時から散々言っているのに、貴女は何も変わっていない。
自分の言葉の全てが空気を震わせる前に、私のてのひらは何の躊躇もなく紫の真っ白な頬を手加減なしで引っ叩いていた。
その平手打ちの反動で俯くような形で下を向いた紫は、そのまま私から目を逸らして地面に置いてある私のギターケースに視線を落とす。
私達が愛し合っていた頃、どうして弾いてくれなかったの――そう問い詰めるような表情は、今の紫にできる精一杯の私への反抗だったのかもしれない。
風見幽香亡き世界と言うことは、此処は間違いなく太陽の畑で、私の死んだ私がいないはずの世界なのかもしれない。
紫の能力なんてアンノウン過ぎてよく分からないことばかりだけど、これが紫の告白を足蹴にした挙句、この世界を終わらせた私への復讐と考えると全て納得がいく。
あの世界が終わってからの罰は、全て貴女からもたらされていた――それは紫からしてみれば当たり前の感情なのかもしれない。この世界を全て敵に回してまで愛すると決めた餓鬼に、プライドをずたずたにされた挙句散々貶されたのだから。
これが私に科せられた最期の刑か――ずっと、ずっと、愛している人から胸を切り裂かれて花を摘み取られるような感覚は、苦しいけれど何処か心地良い。
でも、この思い出の場所で貴女に会えたことを嬉しいと思っている自分も確かに存在する反面、何処までも悲しい表情を浮かべたままの貴女の横顔を見ていると、心がみしみしと音を立てて軋んで痛みが走った。
こんな最悪のエンドロール、見たくもなかったわ。此処は全て滅んでしまうし、こんなに愛した紫のことも何もかも忘れてしまう。それが私の望んだ『世界の終わり』なのね。ずっと悲しみに明け暮れて絶望に塗れたまま終わる世界、か……。
最期に貴女にさよならを言えるだけでも、十分幸せなのかもしれない。名も無き花とも紫とも、さよならばかりのひとりぼっちの生だった。ようやく此処で、この世界ともさよなら。紫に会えて、本当に幸せだった。さよなら、私の愛した人――
「自惚れているのは……幽香、貴女の方でしょう?」
ばちばちと燃え尽きる世界樹の枝が崩れ落ちる音にかき消されるようなか細い声で、紫は吐き捨てるように言った。
その『自惚れている』なんてたった一言が、あの最期に私が思ったことを見透かされているような気がして、心がずきんと疼き始める。
「幽香。貴女が死んでも、この世界は延々と続いていく。貴女の世界が全て終わっても、幽香を失った私の世界は、この命が尽きるその日まで残酷に続いていくわ」
何を今更。だって私達、共犯みたいなものでしょう?
貴女に語られるまでもなく、そんなことは私だって百も承知してるわ。
それとも、八雲紫を失った世界を延々と生きていくと言う首吊り台の上に乗せられたままの生を、今日と言う日までずっと過ごしてきた私の気持ちが貴女に分かるとでも言うのかしら?
紫のことだけを想って胸が張り裂けそうな日々を、少なくとも私は100年以上過ごしてきた。それでは足りないから、もっと八雲紫のことを想って生きなさいとでも言いたそうね。
ただ、ただ、貴女の残してくれた想いが……こんなにも、こんなにも素敵で、どうしようもなく大切で、たまらなく愛おしいからこそ、私はもう耐えきれなくなってしまって自殺を選んだ。
たったそれだけの話なんだから、貴女にとやかく言われる筋合いは何も無いわ。少なくとも紫には、そのことを責める権利なんてない。勿論貴女のせいにするつもりなんて全くないし、これは全部私の意志で行ったことだから。
この咲き誇る花々に囲われた世界と、貴女と言う花に想いを馳せたまま、花のように朽ち果てること自体が自惚れだと言うのならば、それは正しいのかもしれない。
でも、貴女のことが好きで、愛しくて、愛し過ぎて、もう私には選択肢が残されていなかった――そんなことだって察していたはずなのに、貴女は何故か傍観者を決め込んでいた。
それなのに自分が失ってしまったものが二度と帰って来ないことを悟った途端、私達が紡いできた思い出を全て消してしまうなんて行為は絶対に許せない。此処には、この丘の世界樹の下には、あの日の私達の想いが確かに眠っているから。
太陽の畑に咲き誇る花々を焼き払ったところで、心に刻まれた想いや絆、そして傷は決して消えることはない。ああそう、紫も、一緒に私と死んでしまえばいいと思うの。たとえ茨の道でもどうぞ悦んで、貴女の傍なら地獄まで行けるわ。
「そして、私の中で咲き誇る幻想の花となった風見幽香が見せる世界は、この瞳に映る全てを今も美しく彩り続けている。その美しく綻んだ白い花は、永遠に限りなく近い永遠の中で、淡い碧を湛えた深淵の世界を私に与えてくれた」
その声色は、とても澄んだ、美しい音がした。漆黒の闇の中、真っ赤に燃え上がる紅蓮の焔を背に、凛とした緋色の瞳が私をじっと見据えている。
ああ、貴女は何処までも艶やかに咲き誇る真紅の薔薇。ずっと憧れ続けていた美しい花が、あの頃と変わらず、今も、今も、私のことを想っていてくれていることが心から嬉しかった。
あの時から、私も、きっと紫も、何も変わっていない。でも、たった今そんな答え合わせをしても、もうあの頃の私達に戻ることは、やっぱり叶わなくて……時間は残酷に貴女との決別を迫ってきた。
醜い私は、どうしようもなく紫のことが愛しいけれど、やっぱり何処かで貴女のことを恨んでいたりする。貴女の心に咲いた風見幽香と言う花のように、私の心の中にも八雲紫と言う花が咲き誇っていたら、幸せになれたのかもしれないわ。
でも、あの時、残酷な運命が私を掴んで……絶望に埋もれた貴女と言う花のつぼみは緩やかな想いをにじませて、その実を綻ばせる時を待ち焦がれていたけれど、もうその想いも祈りも届かないと思ったから、花のように散りたいと私は願った。
紫の中で咲き誇ることができた自分を、心から誇りに思う。でも、どうして、この場所を焼き尽くさなければならないのか、そのことに関してだけは紫の心中がどうしても理解できなかった。
この太陽の畑で過ごした日々は――泣きながら眠って、独り目覚めて。そんな繰り返す季節の中で、ずっと、ずっと、貴女を探して、それはつらいことばかりだったけれど、貴女を想うだけで幸せだったりもしたから。
此処は、私の世界の全てだった。花は芽吹き、可憐に咲き誇って、やがて朽ち果てて土に還る。そんな花のように朽ち果てることを願っていた風見幽香が愛した太陽の畑を、せめて守って欲しいと願うのは我侭になってしまうのかしら。
貴女の告白を受け取ったこの場所で、最期の最期に貴女へ手向ける旋律を奏でることができて、私は心の底からとても嬉しかった。そんな貴女への想いと私の想いが永遠に眠る世界が、こんな灼熱の炎で燃やし尽くされてしまうなんて……。
死ぬことなんて所詮ロマンチシズムでしかなくて、這いつくばってでも生きろと幸せを謳歌する人間は知ったかぶりで語るけれど、紫がそんな凡人と同じ考え方をするとは思えなかった。ただ、その言葉が、心の中の息吹と共鳴してきらり光る。
「……でも、どうして、どうしてなの? 貴女のことを想いながらずっと生きてきた私の世界の全てを、どうして紫は消し去ってしまおうとするの?」
「ずっと貴女が想いを馳せてきた世界は、例え貴女の心と身体が朽ちても決して消えることはない。風見幽香と言う美しい花が咲き誇っていたと言う証明は、この八雲紫の胸を切り裂いて心臓を取り出せばすぐに分かることだから。
幽香のことを愛していると言う私の想いが永遠だと言う証明も、お望みとあらば幾らでもしてあげるわ。こんな世界にすがる必要は何処にもないの。貴女が存在しない世界が『存在』する意味が私には全然分からないし、分かりたくもないわ」
狂おしい矜持を感じさせる紫の声が、綺麗な音を奏でながら凛として響き渡った。その気がふれてしまったような常軌を逸した告白が、私の脳内を背徳的なカタルシスで満たしていく。
心が、震えていた。ぞくぞくと快楽が絶望の奥底から湧き上がって来る。あの時の告白を受けた時とは違う、狂気に近い愛情がたまらなく嬉しくて……その言の葉のひとつひとつが、麻薬のように心を蝕んでいく。
この世界の様々な『世界』を渡り歩いて、幻想郷と言う世界まで創造してしまった八雲紫と言う存在が見ているのは、太陽の畑から見る世界しか知らない私のことだけ。あのゴミ捨て場に捨てられていた私のことだけを、愛してくれている。
あの時から紫が本気だったことくらいは流石に分かっていたけれど、今の彼女は私が言えば本当に神を殺すし、この世界を本気で破壊してしまうような頭のおかしくなった紅蓮の薔薇。ああ、その深く染まった艶やかな真紅が、とても美しい。
紫が狂ってしまうほどに愛してくれていると言うことが、永遠の愛しさを感じさせてくれる。だけど、もう死んでしまった私は、抱いて貰うことも、キスして貰うことも叶わず……貴女の心の中に咲いている『わたし』を覗くことすらできない。
――私は、私は、あの時から、とっくに花になっていた。紫の心の中で咲く、美しい花として可憐に咲き誇っていた。
それなのに、どうして私は気付かずに……後悔と絶望が心の奥底でどす黒く渦巻いて、身体に全く力が入らなくなってしまう。
その場にひれ伏すようにうずくまった私の方に、慌てて紫が駆け寄って来てくれる。もう忘れようと誓ったはずのてのひらのぬくもりがあまりにも優しくて、涙が零れてしまいそうだった。
あの時ちゃんと届けられなかった想いを今言わなきゃいけないのに、どうしても口が震えてしまって言葉にならない。ああ、此処に来る前は、美しい旋律を奏でることも、綺麗な声で歌うことも、できたはずなのに……。
声が出ないなら、奏でよう。あの紫に捧げた曲を、もう一度――紫の隣に転がっているギターケースに手を伸ばそうとしても、腕の感覚は完全になくなっていた。このまま、私は、消えてなくなって、しまうのかしら。
この丘一面に敷き詰められた名も無き花が、荘厳な賛美歌のような美しい絶望の旋律を奏で始める。
もしも本当に私があの花から生まれたのならば、この絶望はある意味当然の感情だと納得していたけれど、紫のおかげでそれは違うと今は確信することができた。
たった一言でいい。たった、一言、囁くことができたら、そう言えたら、私も、きっと紫も、幸せになれる。あの時からずっとこの瞬間を待っていたと言うのに、大切な言葉すら最愛の人に伝えられず、この世界が終わってしまうなんて嫌――
「……あいし、て、る」
あの時は隠していた想いが、ずっと心の中に仕舞い込んでいた言葉が、ふるふると震えるくちびるから漏れた。
その今にも消えてしまいそうな声を聴いて、そっと抱きしめてくれた紫が嬉しそうに頬を緩ませて笑ってくれる。
ちゃんと貴女の心まで、届いたみたいで嬉しい。ずっと我慢していた涙が、空から落ちてくるさんざめく雨のように、ぽろぽろと零れ落ちた。
「ごめんね、あの日、言えなくて……でも、ずっと、ずっと、好きだったの。それなのに、わたし、わたし……あのね、紫と同じだったんだよ。ああ、わたし、この人のこと好きになるんだって、何となく、分かってた」
喉の奥で引っかかっていた何かが外れた途端――あの日から心の奥に溜め込んでいた紫への想いが、堰を切ったように溢れ出す。
その言葉のひとつひとつが空気に触れて紫の鼓膜に響くと、絡めた指先から伝う優しいぬくもりと在りし日の記憶がゆっくりと甦ってくる。
毎晩カーテンの隙間から覗く星空を眺めながら、貴女と同じ景色を再び見ることができるあの日に帰りたいと祈るたび、そんな淡い願いを朝は延々と裏切り続けてきたけれど、あの日から私も、紫も、何も変わっていない。
ああ、まだ、全然、全然言い足りないわ。もっと、好き、大好き、愛しいって、その美しい薔薇に語りかけたいのに……もう、私の声も、届かなくなって、しまう。
風見幽香が世界の終わりに夢見た物語――繰り返す無常の日々に殺された想いは、その幕は閉じたとしても、瞳の中に零れ落ちていく夢は紫の心に受け継がれていく。
最期に私が犯した罪は、何処までも自分勝手で人のことを何も考えていない愚行だった。いずれ時が流れて、誰もが私のことを忘れていくのだろうけれど、紫の心の中で咲き誇る私は永遠に生き続ける。
きっと今までも私のことを想って苦しんでいた紫は、この世界で死ぬまで私のことを感じて日々を過ごすことになってしまう。それでも紫は、そんな運命すら受け入れて、私のことを愛すると誓ってくれた。
紫のことが愛し過ぎて、その想いに耐え切れず逃げてしまったのは、他ならぬ私だ。こんな終わる世界で後悔してもどうしようもないし免罪符は必要ないけれど、たったひとつだけ聞いておきたいことがふと口から零れた。
「……私は、あの日のことを今でも後悔しているし、この想いを伝えられなくて……今日紫と会えるまで、本当につらかった。どうして貴女は其処まで私のことを想っていてくれていたのに、私を奪って抱きしめてくれなかったの?」
その言葉が暗闇に溶けていく瞬間――ぎゅっと私を抱きしめている紫がさらに身体を引き寄せて、その桜色のくちびるがそっとうなじに添えられた。
絶望の丘から吹き付けるむせ返るよう熱風に晒された首筋に、きらり光り輝くシューティングスター。紫の瞳から零れ落ちる空想の流星群が、冷たい雫となって私の首元を流れ落ちていく。
この世界から私が消えてなくなってしまう。そう紫が悲しくて泣いているのかと想うと、心がずきんと疼いた。ぎゅっと抱きしめてあげたかったけれど、どうしても身体に力が入らない。
紫、お願いだから涙を拭いて。貴女を泣かせるために聞いたわけではないし、そのことを責めているわけでもないの。そんな理由さえ今はもう結果論に過ぎないわ。結局は全て紫の優しい心遣いと、私の途方もない絶望のせいだから。
こんなに気丈に振舞っている紫だって、ずっと愛しくて、会いたくて、胸が張り裂けそうな気持ちになっていたことだって、きっと同じだったはず。
でも、だからこそ、尚更気になってしまう。どうして今日と言う日まで私と会うことを拒み続けていたのか……プレゼントだけを残して、わざと想いを残さないように振舞っていた紫の想いだけが、どうしても理解できなかった。
何となくだけど、その理由は今となれば察しが付く。だからこそ、ちゃんと最期に懺悔させて欲しかった。今更赦して貰おうなんて思わないわ。ただ、最期に、その貴女の想いさえ知ることができたら、もう私は十分過ぎるほど幸せ。
雨に濡れた貴女は紫陽花のような麗しき色を帯びて艶やかだったけれど、悲しみの雨に打たれている貴女の姿は見たくない。私の親愛なる八雲紫と言う美しい花は、何処までも深く染まる艶やかな真紅の薔薇であって欲しいから。
「……もう、幽香は絶対に私のことを愛してくれないと、あの時以来ずっと思っていたから」
「それは、私が悪いの。全部全部、私が悪いの。初めて出会った瞬間からはっきりと私は紫のことを愛していたのに、その想いにずっと知らないフリをして、それは紛い物だと思い込もうとした私の罪よ」
そんなことは絶対にないわ――そう嗚咽を漏らしながら応えてくれる紫の深く悲しい旋律が鼓膜に届くと、私の瞳からも自然と涙が浮かんで来て、ぽつり、ぽつりと、音を立てて零れ落ちた。
悪いのは、全部私よ。あの時の紫は何も飾らず、心に秘めた想いの全てを打ち明けてくれたのに……その純粋な気持ちに素直に応えることができていたら、こんなことには絶対ならなかったはず。
後悔しても仕方ないことばかりだけど、とにかく絶望なんて感情が私の邪魔をする。絶望なんて感情が私を苛立たせていた。その感情はいずれ悲しみへと変わって、今こうして私と紫を奈落に突き落としている。
もしも過去に戻ってやり直すことができるのならば、あの日の貴女に会いに行って、思いきり抱きしめて――そして何処までも美しくも惑わしい貴女へと捧ぐ、可憐に咲き誇る風見幽香として紡ぐ詩と、凛とした旋律を奏でたい。
「怖かった。ずっと、怖かったの。また、あの時と同じように貴女に嫌われてしまうことが……それでも、どうしても諦めきれなかった。諦められるはずがなかったの。だって、私の心の中では、貴女が可憐に咲き誇っているのだから」
「私だって、あれからも紫のことが好きでたまらなくて、貴女のいない世界なんて考えられなかった。ただ、貴女に『愛してる』って伝えたくて生きてきた。でも、貴女には会えなくて、貴女のことを想いながら生きる日々がつらくて……」
「幽香の隣にいることは叶わないけれど、私達は同じ世界で生きている。それだけでも満足しないといけないんだって、自分に言い聞かせてたの。でも、今なら分かる。それは言い訳で、ただ私は、また幽香に拒絶されることを怖がってた。
そう、だから……ちゃんと伝わるまで、何度でも告白すべきだったの。こんなにも貴女のことを愛してる、胸が苦しくなるほど愛していると、可憐な花の棘で血塗れになろうとも抱きしめて想いを伝える勇気が、ずっと私には足りていなかった」
あの日見失った八雲紫と言う花と再会するまでの永遠のような長い時間の意味を理解した瞬間、瞳から零れる涙が止め処なく溢れ出して頬を伝って流れ落ちていく。
私と紫の想いは、あの世界が終わった日から何も変わっていなかったのに……ただどうしようもなくお互いのことが好き過ぎて、愛し合っている臆病者同士で傷を付けあってる、そんな切なく悲しい夢を私達は見続けていた。
紫のことがあまりにも愛し過ぎて、自分だけが苦しいと心の何処かで思っていたのかもしれない。その紫の悲壮な決意を優しさと履き違えて、今日と言う日まで私は我が物顔で自分だけが傷付いているなんて自己中心的な錯覚に陥っていた。
風見幽香はどうしようもない腑抜けだ。会いたいけれど、会えない。触れることすらできず、想いを告げることも叶わず――そんなどうしようもないセンチメンタルな片想いに恋焦がれて、愛されたいだけだったの、ずっと、ずっと……。
雨の中、相合傘でふたり寄り添って、ただ空を見上げているだけで幸せだった私達の世界が終わったあの日から、愛しい人に話しかけることも間々ならない発狂しそうな日々を、紫は一人孤独の中、心の中に咲いた私だけを頼りに生きてきた。
プライドが高くて見栄っ張りな紫も、私と同じように親愛なる人を想うたび心が酷く軋んで苦痛に苛まれていたことは容易に察しが付く。それでも私との想いを大切に心に仕舞い込んで、あんな形でも大切な絆を必死で繋ぎ止めてくれていた。
ひとりでも、生きていけるわ――こんな見栄を張っておいてこの結末。どれだけ私は無様な人生を晒していたのか考えるだけで吐き気がする。
もうあの時から私は紫に依存しきっていて、紫が傍にいない世界なんて考えられなくなっていたのに、くだらないプライドが惨めな最期を招いた。
この世界は終わる。紫が必死に繋いでくれていた世界が、紅蓮の焔に焼き尽くされて消えてしまう。小指に結った運命の紅い糸はしゅるりと解けて、貴女との大切な想いも全て消えてしまうなんて……。
こんな我侭は許されないし、叶わぬ夢になってしまったことなんて分かってる。それでも願わずにはいられなかった。この残酷な世界を作った神を殺してでも、私のことを心から愛してくれると言ってくれた紫を、必ず幸せにしてあげたい。
未完成描く夢は叶わぬ御伽噺。もはや決意など口にしても儚くて意味も無く、誰のせいと怒りを吐き捨てる相手は何処にもいない。最期に紫と会えて嬉しかったわ――そんな『さよなら』しかできない無力さを、私は心の底から呪った。
――私って、本当に馬鹿。どうしようもないくらいにゴミクズで、独りよがりで、最低だ。
こんな私が貴女の心の中で美しく咲き誇っているなんて信じられない。八雲紫と言う美しい花に彩りを添える存在として、風見幽香は失格としか言いようが無い。
ああ、この世界でもう一度、私は生まれ変わりたい。今度こそ純真無垢な白いカーネーションのような貴女に相応しい花として生きて、必ず貴女を幸せにしてみせるから。
蔦は絡まり、身は朽ち果てて、思い出の花は土に還る。また紫の目の前で美しい花を咲かせることができるよう、この瞳に貴女の全てを焼き付けたい。
八雲紫の中で咲き誇っている風見幽香と言う花のように、今この胸の中で眠っている貴女と言う花のつぼみを花開かせることができたら、また必ず会える気がするから。
きっと多分花が朽ちる時って、こんな気持ちなのかもしれないわ。四季が繰り返す小さな世界の終わりの中で何度も芽吹く命のごとく、この太陽の畑でもう一度咲き誇りたい――
「ゆ、かり」
遠のく意識の中で最愛の人の名前を呼ぶと、とても澄んだ綺麗な音が鳴った。
覆い被さるようになっていた身体をそっと離して、紫の端整な顔立ちをまぶたの裏に焼き付ける。
その涙の跡には、美しい幻想の花が咲く――風見幽香と言う花が永遠に咲き誇る花であると言う証明を、貴女のくちびるの先から心の中に残してみせるわ。
「……キス、したい」
紫は何も言わず、黄金色に染まる長髪を幻想的に翻して、そっと口付けを求めるように瞳を閉じた。
ゆっくり首をかしげてくちびるの位置を合わせると、甘く切ない熱を帯びた吐息の香りがふんわりと鼻孔を掠める。
妖しくも叙情的な薔薇の誘惑に心臓がばくばくと変則的なリズムを刻むけれど、貴女の世界で永遠に咲き誇る花になれたと想うだけで本当に幸せ。
誰も知らない名前のない世界の果てで貴女とふたり、そっと寄り添い合う花になることを、ずっと、ずっと私は夢見てたから。
――花の命は紅く儚く、消える運命と言うけれど、愛無くしては死んだも同じ。小指の先に灯した夢は永遠の契り。
たとえ茨の道でもどうぞ喜んで、貴女の傍なら地獄も行けるわ。くちびるの先から骨の髄までも愛されて、愛し愛し愛し貫いてあげる。
もしも今夜が最後の夜と謂うなら、夜が明けぬように朝陽を落墜させておくわ。そしてふたりに明日は無いと謂うなら、このくちびるの先に添えた魔法が解けないように、甘い吐息を絡ませましょう――?
「貴女の心に咲き誇るは想像を超える幻想の花。それは決して朽ち果てることのない永遠……美しい奏でを覚えた今の、貴女を心から愛している私は、もう一度、紫の心で美しく狂い咲いてみせるわ」
満天の星空にきらり光る今宵、煌びやかに駆け抜けるシューティングスターに祈りを捧げて、そっと私は世界の終わりを祈った。
名も無き花々の奏でる絶望の旋律さえも、今は物語の始めを告げるプレリュードのように美しく響き渡る。美しく燃える太陽の畑と共に朽ち果てる風見幽香と言う花の最期を看取ってくれた貴女に「またね」のさよなら。
貴女に手向ける花になることができて、本当に嬉しいわ。紅蓮の焔に包まれた樹齢何千年を越える世界樹がへし折れて、その身をゆっくりと横たえようとしているのに、今の私達は逃げるつもりなんてこれっぽっちもなかった。
ただ、ただ、私達は終わる世界の中心で、その最期を見守っている。ずっと紫が繋ぎ止めてくれていた運命の紅い糸を結い直しながら、その先から伝う甘く切ない花のほのかに想いを馳せた。
そっと添えたてのひらで、震える背中の愛しさを感じた。傍に行くことも叶わず、季節は容赦なく走り出して、蒼い空とか細い小指、解けてく運命の紅い糸、そして貴女も、また同じ……。
何処か知らない世界で患った夢遊病。言葉にならない想いの行き場を探して、あの日から私も貴女も何も変わることなく、誰も居ない場所で、ただ終わりのない夢を見続けたまま、またこうして出会える日をずっと待っていた。
そしてたった今、私達の夢は叶う。凛とした貴女の声に誘われながら、その絡めた細い指に導かれて辿り着いた世界の果て。永遠の夢から醒めてしまわないような魔法をくちびるに閉じ込めて、そっと真紅の薔薇と甘い口付けを交わす。
「あ、はぁ……んっ」
真紅のルージュで彩られた桜色のくちびるに優しく触れると、たまらず紫が甘ったるい声で鳴いた。
からからに乾いた花びらに、舌で沢山水分を与えてやると、段々と潤み始める口先からゆらりと快楽が伝わって来た。
上唇と下唇をねぶるように挟み込んで、ちゅっちゅっと音を立てて吸い尽くすと、花の匂いがふわんと広がって恋の色香が私達をいけない遊びに誘い込もうとする。
それがたまらなく心地良くて、たまらずお互いを積極的に求め合ってしまう。重ねたくちびるの先がふしだらな熱を帯びて、キャンディみたいにとろけてしまいそうだった。
ああ、身体が疼く。心がぞくぞくと快感が欲しいとおねだりして、絡め合っているくちびるから蜜を吸い尽くそうと無意識に舌を動かしてしまう。
紫のことを、少し、また少し、ゆっくりと犯していくような感覚がたまらなく素敵で頭がおかしくなりそうだった。くちびるから伝う想いが、ゆっくりと心の中で弾けては消える。
今は貴女のことを感じていたい。そう願ってくちびるをねっとりと絡ませると、紫も呼応するように私を求めてくれる。ずっと待ち焦がれていた甘く切ないキスは、在りし日の面影をまぶたの裏に映し出す。
浅き雲。
恋の眩暈。
時計仕掛け泡沫の夢。
鮮やかに色付いた艶やかな真紅の薔薇。
そっとくちびるを重ねた瞬間小さな恋の詩。切なく憂いを帯びた瞳から零れ落ちた涙は、未来を想って此処に光る。
鮮やかな幻。花の匂い弾けた夢現。この世界の限界、青空の彼方で咲き誇るは貴女――絶望に塗れた私の心の中のつぼみが、美しい真紅の薔薇となって優雅に花びらを広げた。
その薔薇の棘に突き刺さる想いから伝う貴女が抱えてきた孤独と寂しさが、憂いを帯びた旋律となって鳴り響く。その悲しみに包まれた涙が降り止んだ雨上がりに未来を重ねたら、素晴らしき日々が見えるような気がした。
ただ、ただ、貴女に想いを馳せるだけで募る、この純粋な愛しさを水として撒いて、この美しい真紅の薔薇を抱えて生きることができたら、必ず私は幸せになれる。永遠に咲き誇る薔薇が奏でるメロディは何処か夢現で儚い。
今にも枯れそうになっていた桜色のくちびるは、その甘く切ない想いでゆっくりと愛でてやると、あっと言う間に瑞々しさを取り戻す。
しっとりと水気を含んだ口先から伝う心の中には、確かに私が咲き誇っている。さんざめく雨に晒されて紫陽花が伝えてくれたある証明――憂いを帯びて、悲しみを抱いて、風見幽香と花は確かに此処で咲き誇っていた。
その絶望に満ちた碧は、貴女には似合わない。今の風見幽香が感じる愛しさや切なさ、未来や希望、貴女と見る白昼夢……色褪せない未来を語り、美しい旋律を奏でる百花繚乱の幻想の花を、貴女に相応しい可憐な純白の花を咲かせてあげる。
その美しいエメラルドさえあれば、貴女は一生私のことを忘れることもない。そして、また道に迷うことがあっても、交差する運命が私達を引き裂いても――お互いの心に咲いた美しい花を掲げることで、必ずまた私達は巡り合えるから。
――涙でかすんだ先に見える空想の流星群から響き渡る星のメロディ。
貴女から貰った花の色を吸い込んで虹色を取り戻した私の瞳は、この残酷な世界を幾らでも鮮やかに彩ることができる。
その世界を美しく彩る術を知った瞳で、最期にもう一度だけ……私が愛し続けた太陽の畑から、あの美しい花々を見てみたかった。
何処までも見目麗しい八雲紫と言う艶やかな花に抱かれて迎える世界の終わり。
真紅の薔薇で彩られた花葬――とても、素敵。そのやさしいぬくもりが伝う胸の中で、美しいエメラルドの花となった風見幽香は朽ち果てて、硝子の風に浮かんだ花びらは漆黒の空を舞う――
-The "End" is the beginning is the "End"-
終わりの"始まり"
終わりの"始まり"
かたん、かたん。かたん、かたん。かたん、かたん。かたん、かたん。
何処か聞き覚えのある懐かしい音。肌を撫でる蒼い風。ぱたぱたと揺れるカーテンから差し込む木漏れ日の優しい暖かさを感じて、そっと目を開けると其処は私の部屋だった。
ゆっくりと窓の外に視線を向けると、色とりどりの花々が咲き誇る景色が地平線の彼方まで続いている。遥か遠くから春風が運んでくる芳しい花の匂いが、ふんわりと室内を駆け巡ってほのかな香りを残していく。
ひとつ息を吐いて、錯綜する記憶を整理してみる。もう耐え切れなくなった私は映姫と話した後、あの世界樹の下でギターを爆音でかき鳴らして自殺。その後、紅蓮の焔を放たれた太陽の畑で紫と再会して、キスを交わして――?
あの紫の消し去ろうとした世界で、私はいつものように息をしてる。確実な致死量分を飲み込んだのに、何故……まとまらない思考を整理するために視線を元に戻すと、ベッドの傍らに美しい真紅の薔薇が咲いていた。
――ゆ、か、り?
ちょうど私の胸の辺りで組んだ両手の上に顔を乗せて、くるんと丸い大きな瞳を閉じた紫が恍惚の表情を浮かべて眠っていた。
優美な黄金色の長髪がベッドの上にさらりと流れて、あの向日葵のレイルロードを感じさせる美しい流れを織り成している。その何処までも艶やかな姿は、深遠の国の姫君のような清楚な雰囲気を醸し出す。
その美しい名前に相応しい紫を基調にした品のあるドレスから垣間見える白い肌が、春の日差しに煌いて絹のような輝きを放っている。天国へ堕ちる夢を見せる魔性の瞳は、遠い幻に想いを馳せる少女のようにまどろんでいた。
これは単なる素敵な夢なのかもしれない。今までのことも、全て悪い夢だったのかもしれない。
もう二度と抱きしめることができなくなってしまったはずの最愛の人が、今私の目の前ですうすうと安らかな寝息を立てている。こんな間近で甘い紫の吐息を感じられるなんて、どう考えたって信じられない。信じられるはずがなかった。
ずっと憧れていた美しい真紅の薔薇を目の前にして、心臓の鼓動が止まらない。ただ、ただ、貴女に触れたくて……綺麗に手入れされた髪の毛にそっと触れようとした瞬間、大きな瞳が突然開いて、口端を釣り上げながら妖艶に微笑んだ――
「……眠りから覚めることのない姫君の扱い方を、幽香は童話で習わなかったのかしら。冷め切った頬に右手を添えて、そっとくちびるに祈りを込める。夢の中でまどろむ最愛のフィアンセを起こす方法は接吻と決まっているのではなくて?」
よく聴き馴染んだ相変わらずの戯言を聞くことさえ、何処か懐かしくて……そんな感傷に浸っている間もなく、紫に見つめられているだけで自分の顔が真っ赤に染まっていく様子が手に取るように分かってしまった。
滅茶苦茶恥ずかしくて顔を背けたくても、時既に遅し。やり場のなくなった手を慌てて引っ込めようとすると、いきなりぎゅっと引き寄せられた。そしてそのまま私の指をそっと動かして、桜色に染まった紫のくちびるをゆっくりなぞらせる。
そんな色っぽい仕草を見せられると、否が応でも在りし日の記憶と、あの最期の瞬間を思い出してしまう。これは一体どうなっているのか、あれこれと思索を巡らせてみるけれど、頭の中でぐるぐるぐるぐると回るだけで全く答えは出て来ない。
これで何もかもお終いだと思っていたからこそ、全ての想いを打ち明けて、愛してるの言葉も伝えることできたのに……こんなありふれた日常の風景が戻って来て、しかもしれっと惚気られると、私はつんとそっぽを向くことしかできなかった。
「そんな決まりは何処にも無いわ。それ以前に何時から私は貴女のフィアンセになったのか全然理解できないのだけど」
「あら、つれないのね。三日三晩、不眠不休で貴女を看病してあげたのに……そのことは許してあげるから、早く、キス、して?」
さり気なくとんでもないことを言いながら、私の指をぺろりと舐め上げてくすくすと笑う紫が色っぽくて、まともに正視できなかった。
紫の言っていることが嘘でなければ、あの毒薬を口に含んで気を失った時から……私は三日三晩昏々と眠り続けていたと言うことになる。
そしてあの終わる世界から助けて出してくれたのは紛れもなく、今目の前で悪戯っぽく私の指をくちびるの上で弄んでいる八雲紫に他ならない。
あの私の行動自体が紫にとって想定の範囲内だったのか、それは本人に直接聞いてみないと分からないけれど、あの夢を見せた張本人は間違いなく彼女だと言うことは容易に予想が付いた。
精神状態は確かに限界だったけれど、それは紫も同じだったのかもしれない。こんなにも愛し合っているのに、もう気が遠くなるほど会うことすらできず、私達は、ただお互いのことを想うことしかできなくて……。
其処から先に逃げ出そうと自殺を図った私をどうしても許すことができず、憤りを覚えた紫があの世界を作り出したと考えると全て辻褄が合う。あの世界で全ての感情は解き放たれて、最愛の人に想いを馳せるだけの日々は終わりを告げた。
「……どうして、あの場所に私がいるって分かったの?」
その言葉を聞くと、紫はゆっくりと私の腕を開放してしどけなく横座りしていた長い脚を移動させて、そっと顔を私の枕元の方へ近付けて来た。
ふわっと美しい長髪を翻す姿は何処までも艶やかで、その些細の仕草のひとつひとつに優美な品性を醸し出す姿は、在りし日の紫の面影と全く変わっていない。
ずっと私も記憶が錯綜したまま落ち着かないのに、何故か紫もちょっと恥ずかしそうな素振りを見せてくれる辺り、あの夢のことはやっぱり真実で、紫も感情論で動いてしまった結末と言う感じがする。
今はしれっとしてる紫だって顔に出さないだけで、心の中を逡巡する想いは多分一緒。私だって今あの火の海となった太陽の畑のことを思い返すと諸々の感情が渦巻くけれど、ずっと伝えたかった想いが絡まった蔦はもう存在しない。
「ふと、あの場所からの景色を眺めたくなるの。そうやって在りし日の貴女に想いを馳せることで自分を慰める、そんなセンチメンタルな思慕を抱えていたのかもしれない」
「私は、怖くて、ううん、後悔してたから……逃げていたんだと思う。あの日からずっと、あの場所に行くことを躊躇ってた。紫のことを想うと、どうしようもなく胸が張り裂けそうになるに決まってるから」
「あの世界樹の丘で吹き荒ぶ蒼い風を受け止めていると、不思議と幽香への想いは永遠だと感じることができた。それに、ずっと夢見てたの。あの場所で幽香を待っていたら、いつか必ず来てくれるような気がして……」
そう囁く紫の声は何処か自嘲気味で、心なしかあのやり方をほんの少しだけ後悔しているようにも感じられた。
ずっと押さえ込んでいた感情を押し殺して、私と同じように怖がっていた部分が多少なりともあったのかもしれない。そんなところまで一緒だと思うと、今日までのすれ違いは一体何だったのかと神様を恨みたくなってしまう。
心の中に咲いた風見幽香と言う花は永遠だから、こんな場所で感傷に浸るなんて行為をしなくても自分は風見幽香が永遠となった世界で生きていける。そんな紫の悲壮な覚悟が込められた誓いが、たまらなく愛しいのは恋の病のせいかしら。
その後の事情は大体察しが付く。その後薬の作用で気絶した私は、その一部始終を見ていた紫に介抱されて、きちんとした処置を行って貰った上で数日間ずっと眠っていた。
勿論焼け野が原になった太陽の畑は紫の作り出した夢で、この世界は何も変わることなく回り続けている。そして私と紫の世界も終わりを迎えていたわけではなくて、実は紫の告白をフったあの日からも延々と続いていたのかもしれない。
あるいは破壊された世界は、私と紫によって再構築されたと考えてもいい。どんな結末であっても、この世界は延々と続く。たとえ風見幽香の命が尽きても、ある人の記憶から完全に抹消されるまでは、緩やかに、そして柔らかに続いていく。
あの超どうでもいいと思ってた映姫の説教が身に染みる。ずっと私を愛してくれていた紫を残して私の世界が終わっていたとしたら、紫は途方もない絶望と永遠に咲く風見幽香と言う花を抱えたまま、もがき苦しんで生きることになっていた。
そんな残酷な現実さえ全て受け止めると紫は悲痛な声をあげて誓ってくれたけれど、その痛みは貴女のことが誰よりも愛しい私が一番よく理解できる。そんな純粋な想いで咲き誇る真紅の薔薇に愛されている私は、幸せで頭がおかしくなりそう。
「その、ゆか、り」
身体の調子は紫のおかげで全く問題ないのに、何を今更、あんなことも言ってしまったのに……何故か後ろめたさと羞恥で声がどうしても震えてしまう。
そんな様子を感じ取って心底おかしそうに笑う紫が恨めしいのに、愛しくて、たまらなく愛しくて、ああ、壊れるほどに抱きしめて欲しくて、もう私の心はどうしようもなかった。
「あんな馬鹿な真似して、本当にごめんなさい。でも、貴女は傍にいるはずのに、何故か会いに来てくれなくて、凄く嬉しいけど、寂しかった。ずっと、ずっと、そうだったから……でも、紫の気持ちも考えずに私はあんなことを……」
「そんな言葉、貴女らしくないわ。あの凛として咲き誇る高貴な花に私は憧れた。そんな風見幽香が後悔するような台詞なんて聞きたくもない。もう私達の中に咲き誇る花は永遠になった。たったそれだけの真実で、私は幸せだから」
「そうかもしれないけれど、それはただの結果論で、私は、私は、取り返しの付かないことをして、貴女を奈落の底へ突き落とそうとした。それは絶対にやってはいけないことで、あの時から私のことを愛し続けてくれた貴女の想いを無駄に――」
――そう言いながらがばっとベッドの中から起き上がろうとした瞬間、時がゆっくりと流れて、視界に映るもの全てがスローモーションに見え始めた。
いきなり起き上がろうとした身体を紫のやさしいてのひらがゆっくりと制し、もう片方の手で背中を支えながら、ゆらり、ゆらり、花びらが舞い散るように紫の端整な横顔が近付いて来る。
金色を編み込んださらさらの髪の毛が、蒼い風に乗って流麗になびく。その金色のカペラの美しい流れを翻して夢見る少女のようにおどけてみせる美しい真紅の薔薇に見惚れてしまった途端、いきなり息ができなくなった。
ふんわりと芳しい花の香りがする、綺麗な恋の音が鳴るキス――すっかり乾いてしまった私のくちびるに、瑞々しい紅蓮の薔薇が潤いを与えてくれる。
ただくちびるを重ね合わせる、想いを伝えるための口付けもとても素敵。びっくりして受け止めることだけで精一杯だったけれど、触れ合った口先から伝う想いが何処までも優しくて、とても嬉しい。
紫の心の中に咲いた私が見せる世界は、きっと永遠に限りなく近い永遠。そしてあの終わる世界で紫と交わしたキスで花開いた、私の心の中に咲く真紅の薔薇も貴女と同じ永遠だから。くちびるの先から見える世界は、鮮やかに色付いていた。
ゆかり、ゆかり、ゆか、り……その美しい名前を呼んでみても、その美しい旋律は鼻から甘い嬌声となって抜けてしまう。ただ私のふしだらな熱を帯びた呼吸と紫の艶やかな吐息が混ざり合って、愛しい想いだけで心の中が満たされていく。
八雲紫と言う真紅の薔薇は、夢と現実を繋ぐ美しくも惑わしい魔性の魅力を持っている。その虜になってしまった私は、貴女に想いを馳せることしかできない白いカーネーション。麗しき貴女の隣で咲き誇ることができて、ああ、とても幸せ――
「美しく咲き誇る風見幽香は、何も変わる必要なんてない。貴女が貴女らしくあってくれるだけで、私は幸せよ」
そっと優しく私の身体を支える紫の手が、と言うよりは、くちびるに押し付けられるような形で、ゆったりと再びベッドに寝かされてしまう。
そのまま離れていく真紅の薔薇が愛しくてちょっとだけ寂しかったけれど、もう紫と離れ離れになることなんて絶対にないから……そう想うと安心してしまって、涙が零れてきそうだった。
どうして私は紫のことになるとすぐに泣いてしまうのかしら。花が朽ちるように枯れ果てたと思っていた涙が目尻に溜まっているところを見せないように、残されたくちびるのぬくもりをそっと噛みしめた。
そんな照れ隠しみたいな感じの仕草を、美しい微笑みを湛えて紫がじっと見つめている。そうやって優しい笑顔を向けられるだけで、私は目を合わせることすらできなくなる。
ああ、在りし日の面影を思い出すわ。ずっと隣にいてくれるだけでとても恥ずかしくて、手を繋いでくれると本当に嬉しくて、そのぬくもりが消えてしまうと思うと切なくて、結局何も言えなかったあの日々は、私と紫だけの幸せな記憶だった。
そしてこれから続く道は、未来へと続く道――それは貴女と共にあると想うだけで、とぐろを巻いていた絶望が塵となって消えていく。きっと今の私ならば、澄みきった真っ白な心で鮮やかな貴女を彩ることができる。
「……私も、貴女と言う花が美しく心の中に在ってくれる限り、永遠に幸せよ」
「美しい翡翠で彩られた真紅の隣で咲き誇る権利を与えられたことを、心から光栄に思うわ。淡いエメラルドに包まれた深遠の世界を支配する私の愛しき人――」
そう凛とした声で誓うように告げると、そのまま紫は私を開放してくるりと踵を返した。
もう彼女の後姿を見て切なくなることなんてない。この小指に結った運命の紅い糸が、しっかりと私達の想いを繋いでいてくれるから。
「……何処へ?」
「ちょっとキッチンで軽く食事でも作ろうかなと思うの。随分と寝ていたことだし、お腹も空いたでしょう?」
正直お腹の方はあまり空いていないと言うか、紫のキスから伝う想いで心が一杯になってしまって、そちらの方が嬉しい悩みかしら。
久しぶりに紫の手料理が食べられる――その今にも大はしゃぎしてしまいそうな喜びは隠せるはずもなかったけれど、もう身体は何ともなさそうだし、折角だから一緒に作るのも悪くない。
でもさっき想いきり紫に押さえ込まれたし、多分まだ安静にしてなさいってことなんだろう。その心遣いが嬉しい反面、大丈夫だからってついむきになって言ってしまいそうなところは相変わらず悪い癖だと、我ながら反省することしきり。
ずっと、愛しくて、恋しくて、どうしようもなかった紫の想い――今の私は遠慮なく感じているだけでいいのかもしれない。
もうちょっとだけ甘えさせて貰ってもいいのかしら。そうは思うものの、あれから大分経って私だって色々できるようになったんだから、紫に何かしてあげたいと想うのは当然の乙女心でしょう?
そんなことをあれこれ考えているうちに、私の変事も待たずに紫は軽快な足取りで階段をとんとんと下って行ってしまう。相変わらず自分の好き勝手にやるところも、昔と変わらない紫らしくて大好き。
たゆたう灯り、感じる脳に、訊ねるは白昼夢。風見幽香と言う花は朽ち果てて、季節は巡り、最愛の人と出会い、再び花となって咲き誇っている。ゆらりゆらり不思議な気分。此処は太陽の畑、それとも、夢、ううん、天国、ヘヴン?
ひとりしんとした世界に取り残されたまま、ぼんやりと辺りを見渡してみると、もうあれだけ見慣れた部屋のはずなのに、まるで違うものを見ているかのように全てが新しく色鮮やかに見えた。
――I love you, I love you, I love you...
鮮やかに色付いた真紅の薔薇に想いを馳せながら、その気持ちを素直に声に出して歌ってみると、とても綺麗な澄んだ音が鳴った。
絶望から開放された真っ白な心に残された八雲紫と言う花を見つめてメロディを口ずさむだけで、その旋律は儚くも美しい華やかな声色に変わっていく。
あの時はずっと奏でることができなかった私の心が紡ぐ旋律を、心からの想いを込めて紫に聞かせてあげたい。あの花が朽ち果てる時に鳴る憂いの音とは違う、花が咲き誇る時に奏でる希望と未来を祝福するハーモニー。
物凄く口下手な私だけど、アコースティックギターのかき鳴らす音色を共鳴させることで、このどうしようもなく愛しくて言葉にならない紫への想いを美しく彩って伝えることができるかもしれない。
私と紫の新しい世界を祝福するためのプレリュード。今なら花のように可憐に、そしてあの蒼い空を支える世界樹のように力強く奏でることができる気がするわ。貴女の心臓に突き刺さる轟音と優しい言の葉で、今想う私の全てを奏でたい。
そう考え始めると、もう居ても立ってもいられず、紫に制止されたことも忘れてさっとベッドから飛び起きてしまう。
部屋の片隅にはちゃんとギターケースが置いてあって一安心。あの毒薬を飲む前に弾いたのだって何十年単位振りくらいだったけれど、あの演奏だって自分なりに満足できる範囲の出来だった。
小さな頃からずっと触っていたから、ギターを弾くことを身体がしっかりと覚えている。ぶっつけ本番でもきっと問題ない。寧ろ今の私は紫の想いを煽り立てて狂わせるような、サディスティックな演奏だって自在にできるような気がした。
アンティークのテーブルの上にはあの時のまま、詩を書き綴ったノートと風見小屋の鍵が置いてあった。其処に書き溜めた曲は全て暗記しているからページをめくることもなく、そのまま銀色の鍵だけを持って隣の部屋へ向かう。
微妙に寝癖っぽい癖が付いた髪の手入れと化粧を手早く終わらせてから、紫とデートに行く時のために取っておいたお気に入りの服一式をクローゼットから取り出す。
真紅の薔薇を引き立たせるような白を基調とした、気持ち装飾が控えめな感じのブラウス。淡い緋色のベストとスカートは私らしさを失わない程度にエレガントな感じで統一して、最後に蒲公英色の細いリボンを襟元で結ぶ。
私の勝手な想像だけで貴女のプレゼントからチョイスした品々だけど、気に入って頂けるかしら――期待と不安が交差する胸の中はどきどきしているのに、くちびるには小さな恋の詩。そっと口ずさむと透明で綺麗な音が鳴った。
ずっと爪先立ちで片想いな恋をしていた私も、少し背伸びをした大人の恋をするお年頃になったわ。ああ、初めて会った時から、この碧色の髪の毛を撫でてくれるてのひらが恋しくてたまらなかったこと、貴女は覚えていてくれるかしら――?
デートの準備は万事OK.たたっと足早に階段を下りてリビングにギターケースを置くと、レースのカーテンから垣間見える景色がとても美しく見えた。
その鮮やかな色彩に、小さな頃の記憶がフラッシュバックし始める。あのモノクロで何処までも残酷だと思っていた世界が、紫と出会ったことで色を取り戻し、そして再会したことで最後の色となる虹のひとひらを、詩を、旋律を取り戻した。
今は、ただ、ただ、この世界が美しく思える。それは紫がずっと昔に話してくれた『世界を鮮やかに彩る術』を身に付けることができた証かもしれない。世界は想いで形作られていて――瞬きひとつで、それは幾らでも変わるし、変えられる。
紫っぽく言うと、こんな感じかしら。その言葉も今だからこそ、真実味を帯びた聖者の言葉として理解できる。貴女と言う花と運命の出会いを果たすことがなかったら、この世界が美しいなんて戯言は決して吐くことができなかったはずだから。
そのままの軽快な足取りでそっとキッチンに向かうと、河童製冷蔵庫の中身を見て紫が何やら真剣な顔付きで思案に明け暮れていた。
とりあえず、と言った感じでお湯が沸かしてあるだけで、何を作ろうか迷っているご様子。ずっと最近は太陽の畑に引き篭もっていたから、食料の類は底を付いてしまっているので仕方ないと言えば仕方ない。
紫ならスキマを使ってしまえば食材なんて自由に調達できると思うのだけど、それをしない辺りどうしても私に手料理を食べさせたいみたいで、その心遣いがとても嬉しい。
ちょっとした間があって、ふと紫が振り向いた。どうせ幽香のことだから起き上がって来るに違いない――そんな全てを見透かしたような真紅の瞳が、ゆったりとした優しい視線で私を見つめている。
「さて、いざ作ろうと思ったのだけど、全然食材がなくて困っていたところなの」
私のことを咎める素振りなんてこれっぽっちも見せず、さらっと目下の悩みを紫が話してくれた。
残念ながら、紫が思うような料理を作る材料がないことについては諦めて貰うしかない。その代わりにデートなんてどうかしら?
そう告げようと勇気を振り絞ってやってきたのに、いざ目の前に来てみると滅茶苦茶恥ずかしくて、どうしても言葉にすることができなかった。
とくんとくんと心臓の鼓動がやたらとうるさい。そんな誰かを誘ったりとかしたことなんてないし、それがデートなんて思ってる行為なら尚更……止め処なくときめく感情を必死に押し殺して、とりあえずの言葉を紡ぐ。
「ちょうど昨日紫が届けてくれたケーキが残っているわ」
「えっと、これね。うん、これは本当に美味しかったから、是非幽香にも食べて欲しくて買ってしまったの」
「とりあえずハーブティーを淹れるから、貴女は大人しく座ってなさい。どうせ紫のことだから、雑事の類は全部式神にやらせているんでしょう?」
「あら、それはちょっと心外ですわ? 少なくともあの頃は、まだ藍はいなかったから、貴女へ届けたお弁当は全て私の手作りよ」
そんなことを言いながらくすくすと笑う紫を他所に、早いビートを刻む心のときめきを、ちょっとした愛の言葉を紡ぐだけで震えそうな声の調子をゆっくり整える。
と言うか、正直な想いとして……食事なんかどうでもよくて、ただ、ただ、愛しい貴女を抱きしめたかった。ぎゅっと優しくハグしてあげて、さっきの甘いキスの続きを楽しみたかった。
でも、それは全部デートの後のお楽しみで、今は我慢しないと。そう考えるだけでもどかしくてたまらない。ひとりで生きるとか言ってた頃は心の中であれだけ惚気てた癖に、それが現実になってしまった途端この様なんて情けない。
紫と一緒にいる時間は、ただ、ただ嬉しくて、でも「さよなら」「またね」って言う時はちょっとだけ切なくて――そんな気持ちをずっと抱いていたあの頃と、今の私は何も変わってない。
貴女が隣にいてくれるだけで、とても幸せなの。紫から伝う想いは触れると粉々になってしまうような気がして、ぎゅっと抱きしめることすら叶わなかったけれど、もう大丈夫。その花は朽ち果てることなく、永遠に咲き誇るから。
ティーカップやカモミールティーの茶葉を用意しながら、小さな幸せを噛みしめるとふわっと魔法のように心が安らいだ。そんな感傷に浸っている暇はないのに、紫と過ごす時間は何処までも夢現。恋の眩暈、ちょっと微熱もあるみたい。
もう私は自惚れていいのかもしれない。紫のことを愛している自分に自惚れたら、きっと紫だって喜んでくれる。風見幽香らしくサディスティックに振舞っても、今の紫だったら何をしたって笑って受け止めてくれるはずだから、とても嬉しい。
「……あの、ゆか、り?」
とりあえずショートケーキを取り出して皿に乗せたっきり、まだ冷蔵庫を見て考え込んでいた紫が「ん?」と小さく言葉を返してくれた。
奏でるは恋に犯されたメロディ。恋と言う病は随分と甘く切なく酷いものだと思うけれど、恋に恋焦がれて頭がぼうっとしてしまう感覚は何処か心地良い。
「ちょうど春に咲く花も見頃を迎えているから、きっと色鮮やかな景色が見えると思うの。そんな折角の群青日和だし、外でランチを頂くと言うのはどうかしら?」
「それはとても素敵ね。いい案だと思うわ。ただ、ランチ分の食材があるかと言えばちょっと厳しいと思うのだけど、もしかして幽香が手作り料理を振舞ってくれるなんて期待してもいいの?」
「ええ、サンドイッチくらいしか作れなさそうだけど、それでも良ければ……私も、紫に食べて貰いたいし。ずっと作って貰ってばかりだったから、それが、ちょっと、夢だったの……」
ああ、言ってしまった。そのまま、しれっと惚気を言ってしまった。最初の台詞はともかく、最後の一言はどう考えても余計過ぎた。
真っ赤になっていく顔は背ける前からもうばっちり見られてるし最悪。超恥ずかしいんだけど――それを聞いた紫が面白おかしそうに笑ってる姿を見るとこう苛々っとする。
さり気なく惚気るなんて芸当ができるはずもないのに、あれこれと私が葛藤した末に口から出した言葉だと知った上で紫は微笑んでいるのだから、尚更たちが悪い。いじわる。いじわる。本当に紫ったらいじわるなんだから!
ずっと紫の方に主導権がある気がして仕方ないのだけど、そんなこともあの頃と変わらないのかしら。ちょっとくすぐったくて、もどかしいような、とても不思議な感じ。そんな些細なやり取りも楽しくて、どうしても憎めないから嫌い。
そんな私の言葉を聞いた紫は心底おかしかったのか、くすくすと喉を鳴らしたままそれ以上何も言わず、ゆっくりと冷蔵庫から離れた。
そのままショートケーキを乗せた皿をお盆に乗せて、リビングの方へ向かっていく。うん、分かった。幽香に任せるわ――そんな無言のやり取りを交わして、紫の後姿をそっと見送った。
ただ紫と一緒にいるだけで、いちいちこんなに胸がどきどきしてたら頭がおかしくなってしまう。そんなことを考えながら茶葉を入れたティーポットにお湯を注いでいると、キッチンとリビングの中間辺りから凛とした声が鳴り響いた。
「まさか幽香がデートに誘ってくれるなんて思いもしなかったわ。凄く嬉しくて心がきゅんとしちゃった」
「で、デートなんて私一言も言ってないわよ! ただ外でランチを食べるだけで、べ、別にそんなデートとか、そんなこと、考えてた訳じゃ……もう、からかうのやめてよね紫ったら!」
あらそう、それは失礼、なんて全然悪びれる素振りなんて見せずにリビングの方に消えていく紫に向かって慌てふためいて叫ぶものの、私の声なんて今の紫には届かない上の空でどうしようもない。
恋路の中を訳も分からず彷徨う不思議の国のアリスになってしまった気分。こんなさり気ないやり取り、恋の駆け引きのうちにも入らないはずなのに、何故こんなにどきどきしてしまうのか全然意味が分からなかった。
思慕とか、乙女心とか、その類の感情はもうたまらなく甘くて切なくて、恋は麻薬なんて言葉が真実のように思えてしまう。こんなに頑張って声を振り絞って誘ったんだから、紫だって惚気てくれたら素敵なのに、たったその一言しかないの?
勇気を出して私が惚気てみても、いつも貴女は今みたいに素っ気ない態度だから……もっと喜んで欲しいとか、惚気てくれたら嬉しいのにって言いたくなるけれど、その笑顔を見てると全部許せてしまうから、紫は本当にずるいと思うわ。
――それにしても酷い恋の病。こんな秘め事、誰にも相談できるはずがないし、処方箋は時間の経過くらいかしら。
その真紅の薔薇の醸し出す妖しい恋の色香を吸い込めば吸い込むほど私は狂ってしまって、貴女を独り占めしたくなってしまう。
ただ私のことを感じたいなら、大切にしたいのならば、もういっそのこと閉じ込めて。そしたらいつでも望み通りに、いつまでも惜しげもなく、幾らでも何度でも私と言う花の詩と旋律を聴かせてあげる。
あの「ひとりで、生きていける」と誓った日々は、悲観的観測で満ち溢れた絶望の日々だったけれど、あの絶望が美しい花に変わる瞬間が訪れるなんて思いもしなかった。
これは悪い夢だと、早く覚めて欲しいと願いながら瞳を閉じた真夜中に捧げる祈りは――誰も知らない世界でふたり眠り続けて、深く沈む夢の中でずっと、ずっと、揺れて、揺れて、揺れて、気付いたら私達は幻想の花となって咲き誇る。
そんな叶わぬ夢は憧れに過ぎなかったはずなのに、今の私は艶やかな真紅の薔薇に添える真っ白なカーネーションになれたような素敵な気分。鮮やかに色付いた貴女は何処までも美しく、そして惑わしい――
何だかおかしな妄想に入り浸っているうちに、カモミールの茶葉を蒸らす時間が気持ち長めになってしまった。
紫のことを意識し始めるとあれこれ止まらなくなるのは昔からで、詩を書いたりギターを弾いてる時は特に酷かったけれど、そんな悪い癖まで変わってないらしい。
どうしようもないわ、と私はひとつため息を吐いて、硝子のティーカップにカモミールティーを注ぐ。ハーブティーは花のように様々な色を楽しませてくれるので、紅茶や珈琲よりずっと素敵な飲み物だと私は思っている。
このカモミールティーは透き通った向日葵のような綺麗な黄色に、ほんの少しエメラルドを足したような不思議な彩り。ちょっと私と紫みたい、なんてお馬鹿なことを考えながら、お好みで入れる蜂蜜の瓶を添えてリビングへ向かう。
林檎のようなカモミールティーの芳香と遥か丘から蒼い風に乗って来る花のほのかに混じって、リビングの中はお花畑の中みたいな香りで満たされていた。
紫は中央のテーブルサイドに置いてある二人掛けのソファーに座って、何処か儚く夢現な表情でぼんやりと外の景色を眺めている。もしかしたら私と同じく、まだ何となく夢みたいな、この現実が本当の物語なのか戸惑っているのかもしれない。
ふとそんなことを思いながら、お揃いのショートケーキの隣にカモミールティーを並べた。後は紫の隣に座るだけなのに、身体が鉛のように固まってしまってびくとも動かない。心臓の鼓動が、少しずつ、少しずつ、早くなっていく。
ずっと、ずっと、この瞬間を待ちわびていた。幾千の夜を越えて――そんな遠き日の感傷に浸る間も無く、いきなり手を引っ張られて強制着席。そのまま躊躇なく身体を寄せて来る紫に、私は成す術無くほんのりと顔を赤らめるしかなかった。
よくすいた黄金色の髪の毛から匂い立つシャンプーのいい香り。頬を撫でる甘い吐息。重ねたてのひらから伝う体温――その全てがたまらなく愛しくて、私だけの『モノ』にしたくて、紫を奪って何処か遠い世界に連れ去りたくなってしまう。
「うん、折角幽香が淹れてくれたハーブティーなのだから、冷めないうちに頂かないといけませんわ」
そんなものはどうでもいいの、こうして貴女と寄り添っている方が、ずっと、ずっと、幸せなのに……永遠のような時間を打ち破るような、凛とした紫の声が鼓膜に響き渡った。
薄い桜色のくちびるが、優雅な仕草でハーブティーをすする。うん、美味しい、と一人我が意を得たりと頷く紫を他所に、ぼんやりとしたままの思考。紫と過ごす時間は何故か非現実的で、何処か眠れる森のお姫様のような気分だった。
そう言えば、さっき起きた時……紫、最愛のフィアンセを起こす方法はキスがとかおどけてみせたけれど、このまま私が眠りに落ちてしまったら、口付けで起こしてくれるのかしら。ああ、私も色々と夢現みたい。貴女とお揃いで嬉しいわ。
「もしかして、まだやっぱり幽香、眠い?」
「いえ、そんなことはないんだけど、何か、夢みたいなの。素敵な白昼夢。おかしい、かしら……」
「永遠の夢の続きは始まったばかりだから、何もおかしくなんかないわ。幽香も一緒に楽しみましょう?」
そう、結局のところ、答えなんてたったひとつしかない。現実でも、夢でも、違う世界でも、隣に紫がいてくれたら、それだけで私は幸せ。
貴女の言う通りかもしれないわ、なんて言葉には出さなかったけれど、静かに相槌を打ってソファーに沈んだ身体を起こす。そのままカモミールティーを口に含むと、フルーティーな香りがふわんと広がった。
その花の奏でる旋律のような優しい味が、今日は何だかちょっと物足りない。それは何故かと言えば簡単なことで、あの美しい真紅の薔薇のくちびるが紡ぐ愛の言の葉と、妖艶な恋の色香とは程遠いから。
ふと紫がフォークを持ってショートケーキを切り分け始めたので、私もそれに習って同じようにすると、何故か紫がこちらを向いて花が零れるように笑った。
その優雅な所作で洋菓子を咀嚼する姿も何処か艶めかしくて、御伽の国の姫君のような魔性の美しさを秘めている。私も四季のフラワーマスターと称される程度には沢山の花々を見てきたけれど、紫以上に魅惑的な花なんて見たことがない。
そんな幻想の花が私の最愛の人だと想うだけで、小さな幸せがふわり心の中に広がっていく。ナルシスティックな優越感に浸りながら、紫と同じようにショートケーキを頬張る。すっきりと口当たりのよいほのかな甘さで、とても美味しい。
紫が贈ってくれた食べ物はお菓子に限らずどれも美味しかったけれど、こうしてふたりで食べるから尚更格別なのかしら、なんて考えながらフォークを入れようとした瞬間――いきなり私の目の前に、ケーキの欠片がそっと突き付けられた。
「ほら、幽香、あーん?」
くるんとカールしたまつ毛に伏せられた紫の大きな瞳がきらきらと煌く。その嬉しそうな表情を見つめていると、あの日思い描いた未来がフラッシュバックしてしまう。
最初の頃は犬猫のように飼い慣らされているのかと思ったけれど、渋々口に入れると想いがふわっと広がってとても嬉しかった。今も忘れない大切な記憶は、私の知らない心の引き出しにきちんと収まっているみたい。
で、でも、今は私達、対等だから、あの頃だって、少なくとも、15、6だったと思うし……もう私だって大人なんだから、こんな恥ずかしいこと、その、できるはず、ないわ。
勿論紫だっていちゃつきたい一心なんだろうけれど、こんな時だって素直になれないことも何も変わらない。ぷいっとそっぽを向いて拒否すると、そんな私の態度が面白いのか、また紫がくすくすと喉を鳴らして笑った。
「もう私だって大人なんだから、いい加減子供扱いするのやめてよ。今だって本当に恥ずかしいんだから!」
「あら、別に恋人同士なら普通だと思うのだけど、何がお気に召さないのか見当も付きませんわ。嗚呼、それとも幽香は甘い甘い甘いケーキよりも、スウィートなキスをご所望なのかしら?」
「そ、そんなこと私、一言も言ってないでしょ!? 分かった、分かったわよ、食べたらいいんでしょう? ちょっとでもフォークの先端刺さったらただじゃおかないんだから……」
しれっととんでもないことを言う紫の言葉に、かっと火が付いたように身体が熱くなって、あっと言う間にほっぺたが真っ赤っ赤になってしまう。
全てを見透かしたような相変わらずな物言いが、やっぱりどうしても気に入らない。まるで私がキスを求めていることを知ってて、わざと焦らしているような気さえしてくる。
きっと紫は紫なりのマイペースなんだろうけれど、その「恋人同士だから当たり前」って概念が私には分からないし、それは紫の個人的な考え方で……あれこれと思考が混乱するけれど、残念ながら逃げ道は残されていなかった。
その真紅の瞳をとろんとさせたまま、うっとりとした惚気たような笑みを浮かべる紫の端整な顔立ちを見ているだけで恥ずかしくて、思わず瞳をぎゅっと閉じてしまう。
あーんして、なんて歯の浮くような台詞を平然と吐く紫の言う通りに、精一杯口を広げる。何となく、このままキスの方がいいな……そんな煩悩が頭の中を過ぎっては消えていく。
その想いもむなしく、そっと口の中に柔らかい物体が入り込んでくる。ふわっと広がる甘さは間違いなくケーキの甘さに違いないのだけど、もっと甘くて優しく、淡雪のようにゆらりたゆたう感触は紫の想い。
こんな些細なやり取りでも、甘くスウィートな想いで私の心は満たされる。あの頃は何もかもぎこちなくて、恋をしているのかどうかも不明瞭だった。でも今の私達はこんな感じで少しずつ、でも確実にお互いの絆を深めていくことができる。
「ん、美味、し……」
「そう言って貰えると、何だか私が手作りしたみたいな気分になってしまうわ。まだ残ってるし、ゆっくり楽しみましょう?」
そんな言葉を優しい声色で囁きながら再びテーブルの方に手を伸ばす紫を他所に、ささっと自分の皿に乗せられたケーキをちぎってフォークで拾い上げた。
その様子を見て多少不思議に思ったらしい紫の可憐なくちびるの前に、ゆっくりとケーキの欠片を突き付けてにやっと笑ってみせる。やられたらやり返す、紫がお子様扱いする私でも知ってる理論よ?
残念ながら私の性格、あの時から何も変わってみたいなの。勿論異論は無いのだろうし、最初から異議申し立ては認められない。すぐに意味を察した紫も「何かそれ、幽香らしいわ」なんてくすくすと笑っている。
そっと身体を寄せてくれた紫の口元にゆっくりとケーキを運ぶと、くるんとカールしたまつ毛と共にゆったりと真紅の瞳を閉じた。
こんなべたべたな惚気が恥ずかしいのは貴女だって一緒なのね――そう想うとサディスティックな本性がくつくつと心の中で煮えくり返って、想いきり仕返しをしてやろうと言う気持ちをさらにかき立てる。
ああ、貴女を、抱きしめたい。壊れるほどに強く抱きしめて、私だけの『モノ』だと感じさせて欲しい。そんな欲望に塗れた想いを少しだけ開放して、本能の赴くまま自分のやりたいようにやらせて貰うことにした。
遊びも弾幕も殺し合いも、恋も……死ぬ覚悟で望んで本気で求めるからこそ面白い。こんな悪戯も、そんな一環。ケーキを口に放り込む素振りだけを見せて、片手だけで紫を抱き寄せる。そしてそのまま、そっとくちびるを重ねた。
「あ、はぁん……」
くちびるにまとわり付いたケーキの甘さなんて比べ物にならない、恋の甘く切ない吐息が僅かに開いた口の隙間からすうっと抜けて私の頬を撫でる。
勿論びっくりしたような反応はあったけれど、何の躊躇もなく紫は受け入れてくれる。口端の周りに僅かにくっついたケーキの残滓を舐めしゃぶりながら、しっとりと濡れたくちびるの感触を愉しむ。
そっと押せばたおやかに凹んで、ゆっくり離すと上質なクッションのようにやさしく押し返してくる。そんなくちびるの感触はたまらなく素敵で、頭がおかしくなるいけないクスリみたいだった。
もっと欲しいと紫が求めるように、抱き寄せた身体の全体重を私に預けて覆い被さって来る。
そのままソファーに押し倒される格好になったところで愛撫を止めるつもりなんて毛頭なくて、そっと口付けた薔薇の上から溢れ出す蜜を舌ですくい取った。
あのファーストキスの頃とは全く違う感触に、サディスティックな感情と紫への愛しさがない交ぜになった不思議な感情が心の中を支配する。一方的に犯すことはやめない、でも、それは何処までも優しく、甘くとろけるようなキスに……。
紫のくちびるは少し舌で弄んでやるだけで、すぐに噛み合わせが緩んでふしだらな熱を帯びた吐息がだらしなく漏れた。抱きしめた肢体の服越しから感じられるぬくもりを遮るたった一枚の薄い生地が、今だけは憎たらしく思えて仕方ない。
その艶やかな色香が、ずっと私達を狂わせている。あの時から今日と言う日まで、ずっとたったひとりのことを想い続けるなんて狂おしい強迫観念のような感情が、この世界が貴女と言う花で形作られているなんて極論に近い妄想を生み出した。
「ん、はぁ、ゆう、か、ゆうか、ゆうか、ゆう、かぁ……」
甘ったるい声で私を求めてくる紫の声には、幻想郷を想像した賢者としての面影も無ければ、あの傲慢で気位が恐ろしく高い八雲紫でもない。
その鼻から抜けていくような嬌声は、もう生の感覚の垂れ流しだった。何処までも一方的な、威圧的なやり方でくちびるを虐めてやっても、紫は心底嬉しそうな声で淫らな吐息を漏らす。
あの時からずっとこんな風にされたいと紫が考えていたと想うだけで、倒錯的な色を帯びた快楽が背筋からぞくぞくと全身を駆け抜けていく。最愛の人を好き勝手に蹂躙できる悦びが、心の中に満ち溢れてくちびるの先から漏れ出した。
ぬめりを帯びた舌の上で絡み付いた蜜を転がして、紫のくちびるに潤いを与えてやると、真紅の薔薇がより艶やかに映えて見える。その鮮やかに色付いた花弁を弄んでいるだけで、狂おしいほどのエクスタシーが心と脳内を犯していく。
その真っ赤に熟れたくちびるの中に空気の代わりに、止め処なく溢れ出す蜜とふしだらに火照った吐息を延々と紫の胸に送り込んでやる。
私の髪の毛をさらさらと手櫛ですきながら快楽に興じる紫は、寧ろ一方的に犯されることに背徳的な悦びを感じているようだった。うっとりと酩酊したような惚気た笑みを浮かべて快楽に身を任せる紫の姿は、あまりに美しくも惑わしい。
くちびるとくちびるの間がとろけてしまいそうで、お互いの境界線が分からなくなってしまう。情を交わせば交わすほどお互いに依存してしまうような隷従のキスが大層気に入ったらしく、紫は絶え絶えの呼吸の中で私の名前を呼び続ける。
舌っ足らずな甘い媚声は留まることを知らず、あの気高い矜持やプライドの類が消え失せた白い世界に、紫は完全に酔いしれていた。マゾヒスティックな貴女を犯すのはとても楽しいわ。ぐにゃり歪にねじれ曲がる心が、悦びに軋んでいた。
――あまりにも狂おしいほどに貴女を愛することができて、風見幽香は本当に幸せ。
その真紅の薔薇を抱いた時に感じる棘の痛みさえ、今の私にとっては至福の快楽。貴女を彩るべき白い花が美しい緋色に染まる様も、きっと華やかで素敵だと思うわ。
この心と身体は、風見幽香と言う花は、八雲紫の『モノ』だから、私もどんなことだって受け入れるわ。どうか貴女の愛する素敵なオートクチュールに仕立て上げて見せて?
くちびるの先から覗き込んだ貴女の心の中で花開いた風見幽香と言う花は――あの夢の中で朽ち果てて、永遠に咲き誇る花として生まれ変わった。
今なら、貴女を必ず幸せにできるような気がするの。淡く儚いエヴァーグリーンの世界で、鮮やかに色付いた真紅の薔薇が奏でる声。どうか、私だけに届いて、永遠に――
いけない恋の麻薬に酔いしれながら、このまま紫と一線を越えてしまうまで続けてしまうのも悪くないと思ったけれど、それ以上に今は、ただ、ただ……この心が奏でる美しい旋律を聴いて欲しい。
今は我侭を許して欲しい――そっとくちびるを離すと、口端から彗星の尾を引くような糸を引いて、ぷつんと切れた。くちびるの端から垂れた唾液の後を指ですくって、あーんと飲み込んで見せる紫の姿は、あまりにも艶めかしい。
夢から覚めた時のようなおぼろげな視線で私を見つめている表情は完全に陶酔しきっていて、歪曲的な妖しい雰囲気を漂わせている。その黄金色の長い髪を颯爽と翻して、紫が頬ずりするような近い距離までぐいっと顔を近付けて来た。
そのまま夢中で抱き寄せた身体をさらに密着させて、すうっとか細い指がふわり私の髪を大切に愛でるように撫で続ける。途中でキスを止めたことを、紫は一切咎めようとはしなかった。ただ、私をじっと見つめて、妖艶に微笑み掛ける。
「透明なエメラルドに美しい白い花、とても似合うわ」
ふしだらな熱が冷めやらぬまま囁く紫の声は、あまりにも惑わしく艶やかに色付いていた。
紫らしい含みのある物言いで意味はよく分からなかったけれど、私の髪の毛のことを褒めてくれているのかしら。
それは貴女のおかげよ。昔からとにかく紫が気に入ってくれていたと言うこともあるし、貴女から贈られてくるシャンプーのおかげで自分でも気に入る程度には美しく仕上がってると思ってるから。
「……髪は紫が、ずっと好きだって言ってくれてたから、今も一番気を使っているの」
「勿論今も素敵だと思うし、昔よりもずっと綺麗になった。それもあるけれど……服のコーディネートとか、とにかく私を想って考えて着こなしてることが分かるから、それが一番嬉しいの」
「そ、それは、別に貴女のことなんて……そ、その、何か考えてた訳じゃないし、ただ、貴女と歩く時は白が似合うかなとか、その、所詮それくらいなんだから!」
「うふふっ、残念ながらばればれ。髪型とか服とか化粧まで全て、物凄く私のこと意識してたでしょう? ずっと幽香は、今日と言う日を、再会する日をずっと夢見てくれていた。それだけで、私、心から幸せだと思えるわ」
そう甘ったるい声で囁くや否や、紫が突然私の襟元のリボンをしゅるしゅると解いて、綺麗な花の形になるように結び直してくれた。
美しい五芒星が煌びやかな薔薇のように見えて、素敵な恋の音が鳴る。ちゃんと紫のために用意してた服を着てることに気付いてくれたことが凄く嬉しい反面、もう恥ずかしくてどうしようもなかった。
ねえ、似合うかしら――そう訊ねたくて喉まで声を出しかけて、無理矢理引っ込める。どうしても恥ずかしくてちゃんと言葉になりそうもなかったけれど、とりあえず気に入って貰えたみたいで本当に嬉しいわ。
だけど、こんな至近距離で見つめられたら頭がおかしくなってしまう。その、紫……そんなきらきらした大きな瞳でじいっと見つめられたら、もう幸せで心が破裂しそうで、どうしようもないから、やめて、くれない、かしら?
その艶やかな吐息がふわり頬を撫でるたび、もう一度紫とくちびるを重ねたくなってしまう。そっと振り向けば、すぐ隣には紫がいるのだから……心も身体も紫の何もかも全てを私の『モノ』にしてしまいたくて心が疼く。
彼女に性的な魅力を感じていることは分かりきっていたけれど、こんな間近で見つめていたら求めたくなってしまうのは当たり前だと思う。紫のしなやかな肢体がやさしく私を抱きしめているから、余計欲情してしまうのかもしれない。
こうして抱き合っているだけでも凄く幸せなのに、甘ったるい言葉でしれっと惚気られたら私の心がおかしくなってしまう。上手く私も惚気返せたら良かったのかもしれないけれど、紫みたいに上手く言葉で伝えることもできず……。
そうなると残された手段は、やっぱりくちびるに直接行使くらいしか考えられなかった。と言うか、もう紫が完全に私達の世界に入っちゃってる気がする。恋に酔いしれているのはお互い様だけど、やっぱり初恋は人を狂わせるみたい。
それから永遠のような長い時間、開け放たれた窓から吹き込んでくる蒼い風を受けながら、特に言葉を交わす訳でもなく、再びくちびるを重ねる訳でもなく……ただ、ただ、私達は抱きしめ合っていた。
ふたりの呼吸が直で触れる距離で、たまに見つめ合って笑ったり、お互いの髪をすいてやったり……この世界には私達しかいない、そんな錯覚に襲われてしまうような夢現。もう何も言わなくても、ちゃんと想いが伝わる気さえしてくる。
こうしてずっとだらだらと過ごしているだけでも幸せなんだけど、私はどうしてもあの場所で紫にもう一度伝えたい詩が、旋律が、そして告白が――完全に悦に入っちゃってる紫だって、私がデートしたいんだってきっと分かってくれるはず。
そう信じて、そっと紫の身体を抱きしめたまま身体を起こした。ん、と夢現な感じの紫の髪をかき分けて、額に軽く口付けを落とす。ぽっと頬が赤らんだ紫の顔を意地悪く笑ってあげてから、ゆっくりと残りのケーキに口をつけた。
「ほ、褒めてくれて、ありがと……そ、その私、ケーキを頂いた後、すぐランチ用のサンドイッチ作ってくるわ」
「このままいちゃついて過ごしてるのもとても素敵だと思うけれど、初めてのデートだからそちらを満喫するのも悪くありませんわ。さっと食べてしまってお出かけしましょう」
柱時計の針はちょうど11時を回る直前。本当はもっとゆったりとした優雅なひとときを楽しみたい……ふとそんなことを考えていると、紫が再びくちびるの先にケーキを近付けて来た。
紫の大きな瞳がきらきら太陽の光を浴びて宝石のように煌いて、やんわりと微笑まれるだけで私はもうお手上げ状態と言うか、こんなこと恥ずかしいに決まってる。もう私は半分自棄になって、紫に甘えてしまうことに決めた。
おずおずと口を開くと、そっとケーキのカケラを口の中に運んでくれる。ケーキの程良い甘さなんてお話にならないような、紫の甘い想いがふわり口の中で広がっていく。こんな小さな幸せが、今はこんなにも嬉しくて、あまりにも愛しい。
そんな紫に好き勝手にされてたまるもんか――私も負けじと可憐な口先にゆっくりとケーキを突き付けると、紫も嬉しそうに私の想いを受け止めてくれる。紡がれた絆が強くなっていく感触が、何処までも心地良い緩い快楽を与えてくれる。
最後にふたりであーんした大きな苺の甘くて瑞々しい感じが、心の中できゅんと弾けて素敵なスイーツの時間はお終い。紫のティーカップにカモミールティーを注いでから、てきぱきと食器を片付けて、そっとソファーから身体を持ち上げた。
「……私も、手伝おうか?」
「ううん、大丈夫。ずっと紫に手料理を振舞うのが夢だったのに、手伝って貰ったら元も子もないでしょう? 一緒に料理を作ってみるのも楽しいとは思うけれど……今日は私に任せて、うたた寝でもしてたら?」
思った通りの言葉をそのまま口にすると、それでも紫はおかしいのかくすくすと笑いながら「うん、分かった」と言ってひらひらと手を振った。
残念ながら手料理なんて言えるほど大層な料理を今は振舞ってあげられないことが凄く残念……ちゃんと明日は里の方まで出掛けて食材を買い込んで来よう。
此処数ヶ月は本当に引き篭もりのような状態で、ほとんど外に出掛けなかったから冷蔵庫は空っぽ。焼き置きのライ麦パンで作るサンドイッチくらいしかお出しできないのは悔しいけれど、想いが伝わればきっと大丈夫。
心が正解だよ。そう信じて、とりあえず玄関から裏の家庭菜園へ向かう。暫く放置したままだったから、熟れきった実がぽろぽろと地面に転がっていた。その中からちょうど食べ頃のトマトとレタスを選んで、さっと家の中へ舞い戻る。
その途中で覗き見した紫の横顔は、窓の向こう側に想いを馳せて――何処か遠い世界を夢見ているようだった。鮮やかな幻の中に咲く真紅の薔薇も、また妖艶で美しい。くすっと心の中で笑いながら、ささっとキッチンへ向かう。
さっと食材をキッチンテーブルの上に並べて、早速調理開始。燻製のベーコンを厚切りにして、ライ麦パンにナイフを入れる――よく考えると、ついこの前も映姫にサンドイッチを振舞ったことをすっかり忘れていた。
かと言って何か他の選択肢を選ぶ余地もないから、ちょっと今はどうしようもない。再びお湯を沸かしながら、パンをトースターに入れて焼き目を付ける。ふんわりと香るライ麦の香りの中で、新鮮な野菜を次々と切り分けていく。
レタスは食べやすい感じにちぎって、大きなトマトを半分にスライスして中心の一番丸い部分だけ残す。そのままこんがりと焼きあがったライ麦パンの上にタルタルソースを塗って、切り分けた野菜を順々に乗せて挟み込んだら出来上がり。
柳で編んだバスケットにBLTサンドイッチを詰め込む間に、ローズマリーの茶葉に沸騰したお湯を注いで蒸らす。時間通り出来上がったら河童製の保冷ポットに入れたら準備万端。結構食べ応えだけはあると思うし、紫が喜んでくれたらいいな。
「紫、待たせてしまってごめんなさい。軽いものしか用意できなかったけれど、多分お腹は膨れると思うわ」
「うん、ちょうどケーキも食べたことだし、そんな量も必要ありませんわ。あの丘の向こう側から吹き込んで来る風は、とても優しくて素敵ね」
リビングに戻って声を掛けると、紫はソファーからちょっと気だるそうな身体をゆっくりと起こして、玄関の方へゆっくりと歩き出した。
昏々と眠り続けていた三日三晩ずっと私のことを看病してくれていたのだから、本当は大分無理してて実は眠くてたまらなかったのかもしれない。
そんな素振りを見せないところも紫らしいけれど、ちゃんと悩み事があったり悲しかったりする時は遠慮せずに相談して欲しいし、甘えて欲しいと切に願う。
もう貴女の悲しい顔や泣き崩れた姿なんて、絶対に見たくない。私は、美しくも妖しく惑わしく、それでいて揺らぐことのない矜持を以って優しく微笑んでいる貴女が好きだから。
これから初めてのデートだと考えるだけで、自然と心が躍る。メロンソーダのように甘く溶けていく淡い想いが心地良い。
ランチが入ったバスケットと部屋の片隅に立て掛けてあったギターケースを持って、ゆったりとした足取りで玄関の方へ向かう。
すっかり両手が塞がってしまっているから、これだと手を繋いで歩くことはできそうもなかった。後から紫に頼んでバスケットの方は持って貰えばいいかしら。
そう思って玄関の方に目をやると、もう紫の姿はなかった。あの春の風を全身で感じていたら余計眠くなってしまいそうだけど、私の親愛なる夢現なシンデレラは随分と気が早い。
紫も内心楽しみで仕方ないかしら。そう考えると嬉しくて、とても幸せ。ああ、私は完全に惚気てる。もう少し紫の前でしれっと甘えられたら、もっと素敵で幸せなのに――そんなどうしようもないことを考えながら、そっと玄関の扉を開けた。
――花の匂い弾けた夢現。時計仕掛けの泡沫の夢が、懐かしい記憶を呼び起こす。
どこか、まだ、本能。匂い立つ、ほのかは、夢中。あの美しい真紅の薔薇に誘われて、いつか見た夢の中に帰る――そんな花のような儚く切ない想いが、きゅんと胸を締め付ける。
想像を超えるような色に染まる花びらがふわり舞い散って、ゆらり誘うの。もう此処には戻って来ることはできないかもしれない。紫が誰も知らない名前の無い、ふたりだけの世界に私を連れ去ってくれるから。
青天の霹靂に夢見た貴女の御伽噺。そのプロローグに名を連ねるヒロインになれるようにと願いながら、貴女のくちびるから伝う想いで動き出した心臓は時を刻み、花のように可憐な旋律を紡ぎ始めた。
あの日世界が終わったと思い込んでいた私は此処に残る理由をずっと探していたけれど、未完成想い描く想像の地図は完成した。彩雲の切れ間から眺めていた遥か遥か遥か彼方まで、貴女と一緒なら何処までも行ける――
◆ ◆ ◆
かたん、かたん、とゆったりとしたテンポで風車を回す蒼い風が流れる。チューリップやパンジー等々、色とりどりの花々が咲き乱れる丘を一望することができる、この風見小屋から見る世界はとても色鮮やかに染まっていた。
美しい花が敷き詰められた世界のあちらこちらから可憐なメロディが聞こえてきて、大地から水と養分を吸い上げる綺麗な音が鳴る。希望に満ちた花々の奏でるハーモニーは、何処までも優しくすうっと心の中に溶け込んでいく。
太陽の光を浴びながら目を細めて彼方を見渡せば、其処にはエメラルドに近い澄んだ蒼が地平線の彼方まで広がっている。そっと手を伸ばせば、蒼く、何処までも蒼く透き通った空の彼方――この世界の限界まで行けるようなな気がした。
とても遠い夢を見ているみたい。まだ鮮やかに咲き誇る私達は、どんな花になることもできる。紫が素敵だと抱きしめてくれるような美しい花に生まれ変わるなんて、今の私なら容易いこと。どんな花がお好みか、是非教えて頂けないかしら?
ふわんと素敵な香りを運ぶビロードの風が吹き抜ける丘の真上で、紫は向日葵色の髪をさらさらとなびかせながら、何処か儚くも夢現な視線で無限に広がる空の彼方をじっと見つめていた。
その頭上には薄桃色の日傘が咲いている。あの私の世界の運命が動き出した日――紫が始めて私に手向けてくれた花、幻想郷で唯一枯れることのない幻の花は、今も可憐に蒼い空に淡い彩りを添えていた。
ただ、そんな綺麗な花を以ってしても、その花の真下で咲き誇る妖艶な真紅の薔薇の美しさを覆すことはできない。この世界に咲き誇る花の全ては、八雲紫と言う美しい花を彩るために存在していると言っても過言ではない。
貴女の隣に添えられた風見幽香と言う名の白いカーネーションも、そんな何処までも艶やかな貴女のために咲き誇る。白い薔薇なんか私には似合わないし、ただ、ただ、私は……貴女の隣にいることができたら、それだけで幸せだから。
「……あの、ゆか、り?」
「準備もできたみたいだし、行きましょうか。勿論幽香がエスコートしてくれるのよね?」
「ええ、それは当然。ただ、ちょっとお願いがあるの」
ん、と不思議そうな顔をして紫が首を軽く傾げて、くるんとした大きな瞳で私を見つめる。
そんな大したお願いではないのだけど、また笑われるような気がして、つい顔がぽっと赤らんでしまう。
「二人で日傘って言うのも何かちょっとおかしいかなって思うし、折角だから相合傘なんて、ど、どうかしら? この通り私は手が塞がってて持てないから、紫に持って貰うことになるけれど……」
その言葉を聞いた瞬間、案の定と言うべきか……紫はくすくすと喉を鳴らしながら、太陽の光を浴びてきらきらと光る大きな瞳をそっと伏せて笑った。
突飛な発想で余程おかしかったのか、それとも嬉しかったのか、なかなか紫が喋らないので余計に恥ずかしくなってくる。ちょっとした我侭のつもりだったのに、幾ら何でもそんなに笑わなくてもいいと思うんだけど!
もう私達は新しい世界から踏み出している訳だし、過去の記憶に囚われてばかりじゃいけないことなんて分かってる。でも、どうしても、モノクロの世界で貴女と過ごした幸せな記憶を忘れることなんて不可能だった。
紫と相合傘しながら寄り添い合って、ぼんやりと空を見上げた僅かな日々は、私にとって物凄く特別な時間だったから……もう一度だけ在りし日の夢を見せて欲しい。きっと今ならそんな過去の記憶も、幸せな思い出に変えることができる。
「幽香と手を繋いで歩くことをとても楽しみにしていたのだけど、それもなかなか赴きがあって素敵ですわ」
「……ありがとう。今日はどうしてもギターは持っていきたいから、どうしても手が開かなくて。そ、それ以前に手を繋ぐ方が恥ずかしいと思うんだけど」
「まあ言い訳は後から、その甘いくちびるから問いただしてあげる。それよりもこんないい天気なのだから、早く行きましょう?」
そう言いながら紫が日傘をスキマの中に放り込んだので、あの時からずっと大切にしている紫から貰った思い出の傘を差し出す。
静かにそれを受け取った紫は、何やら感慨深そうにじっと私の傘を見つめている。その私の想いの全てを知っている傘を持って、紫は一体何を感じ取っているのかしら。
そして意を決したかのようにぱっと開くと、あのセピア色の空でも美しい色を見せてくれた素敵な花が青空に咲き誇った。ずっと私を冷たい雨から守り続けてくれた凛とした花は、今でも色褪せることなくその淡い桜色を保ち続けている。
さんざめく雨に打ちひしがれたり、傘から伝う紫の想いを感じて悲しくて泣くことはもう絶対にないけれど、あの時からずっと感じていた想いが此処まで私を導いてくれた。だから私は、その傘に秘められた想いを絶対に忘れたくない。
本日は晴天也。くちびるにはメロディ。左脳には未来予想図。花々が奏でる希望のハーモニーが素晴らしき日々の始まりを告げるプレリュードを紡ぐ。
貴女から手向けられた初めての花が、今は太陽の日差しを燦々と浴びて咲いている。そっと寄り添うように紫の傍に近付くと、ちょうどふたり分きっちり日光を遮るように左手で日傘を持ってくれた。
ゆっくり歩を進めると、呼吸を合わせて紫も歩き始める。身体をぴったりくっつけるようにしているから歩き難いけれど、こうして貴女と相合傘をしているだけで甦るあの日のノスタルジアが、淡い想い出に変わっていく。
蒼い風になびく蒲公英色の髪の毛からシャンプーの匂いがふわんと香って、さらさらと私の肌も撫でるからくすぐったくて仕方ない。ずっと夢の中で探していたひとひらの花が、今私の隣で凛として咲き誇っていることがとても嬉しかった。
――百花繚乱に咲き乱れる花々を楽しみながら、何処までも続くあぜ道を歩く天国へ向かうデート。
四季折々の雄大な景色を見せてくれる太陽の畑は、春と夏が群を抜いて美しい。ちょうどその境目に当たる今頃の季節は春と夏に咲く花々の両方を楽しむことができる。
ああ、あの頃はあんなに遠くに思えた貴女が、すぐ私の隣で花のように微笑んでいてくれるだけで幸せ。ただ、言葉もなく、そっとふたり寄り添っていると、あの頃を思い出すわ。
貴女と出会ってからの毎日は楽しかったけれど、何処か切なくて、悲しかった。あの名も無き花のように、いつか別れが訪れることを私は知ってしまっていた……でも、貴女は、愛してると、私達の絆は永遠だと言ってくれた。
その言葉を聞いた時、確かに嬉しいと思う自分だって間違いなくいたはずなのに、どうしてあんなにつらかったのかしら。きっと多分、怖かった。怖がってたの。恋は何処かで、花のように散ってしまうんだと思い込んでいたから……。
そして世界は終わりを迎えた。ずっと紫が護りたいと誓ってくれた世界を拒絶したのは私。それ以来、ずっと私達は同じ痛みを抱えて生きてきた。愛しい想いを抱えて過ごす胸が張り裂けそうな日々は、どうしようもなく苦しくてつらかった。
ゆらりゆらりと彷徨うように辿り着いた向日葵の迷路。ごめんね、と心の中で謝って、全ての向日葵を開花させた。
碧の茎から金色の絨毯が広がっていく様子を見て、紫が大きな瞳をぱちくりとさせている。紫は覚えていないかもしれないけれど、此処は本当に私にとって大切な場所なの。
そう紫の傍で優しく謳うように、私は突然訥々と語り始めた。貴女が此処に連れて来てくれた時のこと、私は今でも鮮明に思い出せるわ。この太陽の畑に辿り着いてから、色彩感覚を完全に失っていたはずの瞳が少しずつ色を取り戻し始めた。
美しい貴女の髪の毛を感じさせる向日葵のレイルロードを必死で駆け巡ると、段々と水彩画みたいに風景が色付いて行く。赤、橙、黄、緑、青、藍、そして貴女の色……虹色を取り戻したこの瞳が映し出した世界は、とても美しく見えたわ。
紫の手を必死に掴んで、走って、走って、息が切れるまで走ったら、違う世界に行ける気がしたの。私に希望を教えてくれたのは、八雲紫と言う美しい花に他ならない。それなのに、どうしてあの時の私は、貴女を拒絶してしまったかしら?
止め処なく溢れ出す在りし日の記憶を語る私の声は、蒼く、何処までも蒼く透き通った空の彼方へ吸い込まれて消えていく。
その言葉を紫は何も言わず、静かに聞いてくれた。あの時の紫が一体何を想い、何を考えていたのか、それは今の私が一番良く知っているつもりだから。
八雲紫の想いは、この向日葵の迷路を駆け抜けて私が色を取り戻した瞬間から今に至るまで全く変わっていない。抗うことのできない絶望を吐き出していた風見幽香と言う花は、そんな貴女の想いによって幸せを謳う花に生まれ変わった。
その心に芽吹いた風見幽香と言う花は永遠に咲き誇る幻想の花。たとえ舞い散ったとて、再び形を変えて、何度でも貴女を想う詩を、旋律を奏でるわ。そして、この先に続く道は、あの時のような絶望とは違う……そう、未来へと続く道――
道に迷うフリのアリスを演じながら向日葵の迷路を抜けると、ようやく今回の目的地が見えてきた。
美しい名も無き花々が散りばめられた丘、私達の世界の終わりを迎えた場所――その頂上へと続く道を、ゆっくりと登っていく。
此処に集まるのは悲しみの花。この世界のあらゆる悲しみを糧にして育った儚い旋律を奏でる花が、美しいコバルトブルーの空を支える大きな世界樹を中心に、辺り一面を淡い金色を織り込んだ花びらで美しく彩っている。
ふたりで寄り添いながら歩いて来たから時間は掛かってしまったけれど、紫と一緒に太陽の畑を散策なんて……もう叶わぬ夢だと思っていたから本当に嬉しい。そして辿り着いた虹色の花びらが舞う世界樹の下で、そっと私達は立ち止まった。
世界樹の幹に身体を預けられる位置で真っ白な絹の敷物をぱっと広げて、そのまま風で飛ばされないようにさっと座って固定してしまう。
純白の織物の上に虹色の不思議な花びらが美しい残像を残しながら、ゆらり、ゆらり、儚くも美しく舞い落ちる。あの頃以来近付くことさえ避けていたけれど、この場所に来るとやっぱり感傷的になってしまう。
それは紫もどうやら同じらしく、世界樹にもたれ掛かったまま、ただじっと何かを見つめていた。その真紅の瞳に映る景色は、色とりどりの花々が咲き乱れる太陽の畑と、その彼方に広がる蒼い空の彼方、そして在りし日の記憶の残像……。
そんなノスタルジアに浸るために連れてきた訳ではないのだけど、此処はやっぱり私達にとって特別な場所だから、色々と思い出してしまうのは仕方ないことだと思う。そっとギターケースを置いた瞬間、紫がゆったりと言葉を紡ぐ。
「永遠に近いような時が過ぎ去ったけれど、此処は何も変わらないのね。ねえ、幽香。私達はあの日から、どのくらい変わることができたのかしら?」
あの世界が終わった日から、私達は別々の道を歩いて……自分が気付かないうちに変わってしまったことも沢山あるのかもしれないけれど、この太陽の畑から見える世界と、紫を愛する気持ちは全く変わっていない。
心を持つ存在は緩やかに変わってしまうもの、変わり続けていくものだとよく耳にするけれど、貴女を愛したいと想う意志は全く揺らぐことはなかった。艶やかな真紅の薔薇に魅せられた風見幽香は、もう完全に貴女の虜になってしまったから。
きっと多分変わったことと言えば、今こうしてお互いの想いをちゃんと伝えられるようになったことくらいかしら。瞬きひとつで世界は変わる――そんな簡単な『世界』のロジックを、貴女はくちびるの先だけで簡単に証明してみせた。
「……世界は変わったのかもしれない。でも、私と紫がいる世界は、何も変わっていないわ。それは過去も、今も、そしてこれからも、そんな永遠の存在を教えてくれたのは貴女でしょう?」
「少なくとも今私達がこうして見ている世界は、耐えず変化し続けている。その中において唯一、私の心の中に咲いた風見幽香と言う花だけは、美しい碧を湛えて凛として咲き誇っている。その花こそが、永遠と呼ぶに相応しい唯だと思うわ」
「そうね、変わらないもの、それは紫への愛しい想いだけ――貴女の心に芽吹いた私と言う花は可憐に咲き誇り、やがて朽ち果てる。それは永遠の輪廻――紫が抱きしめてくれる幻想の花として、私は儚くも美しい生死を永遠に繰り返すから」
八雲紫が様々な時間軸を渡り歩いて見つめてきた世界は、毎日人が死んで悲しみが耐えることのない残酷な悲劇を繰り返す歴史。
風見幽香がずっと見つめてきた世界は、あのモノクロに染まった景色と、色とりどりの花が咲き乱れる太陽の畑から見たランドスケープ。
私達が見てきた世界は全然違うし、ずっと変わり続けているのに、お互いの小指に結った運命の紅い糸が繋ぐ世界は、あの日から全く変わっていない。
私と紫の想いで彩られた美しい世界は、誰も干渉することのできないふたりだけの聖域。そんな世界のほとりで紫と寄り添うことができるだけで、私は心の底から幸せだと思えるわ。
この世界において変わらないものなんて存在しない。確かにそれはその通りかもしれないけれど、根本的な部分さえ変わらなければ、その想いは永遠になる。花の種子さえあれば、永遠に花が咲き誇るように……。
世界と言うものは、思考によって規定される。その思考が対象とするもの全て――あの幼い頃のモノクロの世界は、私の思考が作り出す現実の投影に過ぎず、それはちょっと見方を変えてやるだけで、あっと言う間に世界は変わる。
紫はそんな世界の理をくちびるだけで教えてくれたのに、その意味をあの頃の私は理解できなかった。この世界は変わる。たった一瞬で変わってしまう。その世界を規定するロジックには、物理的な制約も精神的束縛の一切が存在しない。
ありえない妄想も、決して叶わぬ夢も、ある命の思考がそれを世界と認知した瞬間――全ては世界と成り得る。そして思考なんて、常に変化する。そんな自分が感じる世界が万華鏡のように色とりどりに見えるなんて、極当たり前のことだから。
「……それは要するに、私の心に咲いている風見幽香と言う花は一度散ってしまった幻の花で、今私が抱きしめている幽香は再び咲き誇った新しい花、と言うことかしら?」
「ええ、その通りよ。今の紫の心の中で咲き誇っている風見幽香は、貴女と言う花を心に宿した新しい息吹なの。そんなある証明を、今から貴女にはっきりと教えてあげる」
ん、とぱっちりとした瞳を瞬かせて不思議そうな顔をする紫を他所に、そっとギターケースの中からアコースティックギターを取り出した。
全ての証明は、詩と旋律で。そう心に決めていたから。あの自殺する間際に弾くことができた音に、より繊細に、時に艶やかに、静と動を織り交ぜて、そして轟音をかき鳴らし激情を訴える感情を爆発させた弾き語り。
あの日から世界は少しずつ変わっている。それは何故かと言えば、要するにこの私、風見幽香自身が変わったからに他ならない。八雲紫と言う真紅の薔薇の虜になった風見幽香の奏でる旋律には、もはや何の迷いも残されていない。
この心と身体の全てを貴女のために手向けさせて――そんな誓いを詩として歌い、美しく奏でる。あの日届けることができなかった想いの全てと、愛しくてたまらない気持ちだけを込めた貴女のための調べ。紫には必ず届くと、今は信じられる。
ずっと、ずっと、紫に伝えられなかった詩、そして旋律。あの日から貴女のためを想って紡いできた音が、そっとくちびるに乗せるだけでふわり淡い想いとなって宇宙の風に浮かぶ。
私は貴女と違って器用じゃないから、この張り裂けそうな心に降り積もった想いをちゃんと言葉にして伝えることができない。だから、音の力を借りて貴女に届けたい。あの頃からずっとそう考えて詩を、曲を書き溜めて来た。
どうせ私が音を鳴らしたところで、花のような美しい旋律を奏でることは叶わぬ夢、私が奏でるは絶望の調べ。そんな後ろめたい想いから、ずっと貴女に聴かせてあげることができなかったけれど、今の私ならば間違いなく綺麗な音で弾ける。
もう私は花になったのだから、どんな旋律だって思いのまま。一度朽ち果てて貴女の想いで再び咲き誇った風見幽香と言う花は、必ず希望に満ちた素敵なメロディを鳴らすことができるはず。この私の想いの全てを、貴女の心に届けてあげるわ。
愛しさ、切なさ、思慕、悲しみ、憂い、その他の言葉にならない感情の全てを、この旋律に乗せて奏でる。そしてあの日の私とはさよならするの。全てを美しい記憶に変えて、さよなら。そして新しい道へ、未来へと続く道へ歩き出す。
そっと肩からベルトを回してネックに手をかけると、その先に何処からともなく現れた紫色のアゲハチョウがギターの先に停まった。
適当なメジャーコードを押さえながら軽く弦を撫でると、とても綺麗な澄んだ音が鳴り響く。そのアゲハチョウは小さなメロディに動じることもなく、ギターに手向けられた花のように美しい羽根を広げてじっとしている。
ふと、名も無き花の奏でる旋律が段々と小さくなって、その音は段々と聞こえなくなっていった。凍て付くような静寂に包まれた世界樹から、ゆらり、ゆらり、虹色の花びら。幻想的な景色の中で奏でる音色は美しい、それは必然だと思った。
アコースティックギターが優しい調べを奏でるためのものなんて考え方は発想が古い。この風見幽香の全身全霊を以ってして、この太陽の畑から幻想郷全体まで響くような轟音のハーモニクスで、この世界を埋め尽くしてみせる。
「……幽香、もし曲名があるのならば、教えて頂きたいですわ」
自分のために弾いてくれる曲だと察してくれた紫が、ほんの少しだけ惚気たような声で訊ねてきた。
まさか私が作曲までしているとは流石に気付かないだろうけれど、正直そのタイトルを告げることは滅茶苦茶恥ずかしかった。
もう遥か昔に自分が付けたタイトルだし、勿論『今』の私と紫を繋ぐ絆とはリンクしていないし……でも今更誤魔化す訳にも行かず、渋々告げる。
「"loveless"」
ああ、案の定紫がくすくす笑ってる。それもそのはず、だってloveless――愛のないとか、愛されないとか、そんな感じで訳される言葉。
あのさんざめく雨の中で思い浮かぶ単語は、大体ネガティヴな感じの語呂ばかりだったけれど、それでも必死に愛の言葉を紡ごうとしていた。
タイトルが指し示すような曲になっているかどうか、それは自分でも分からないし、紫に聴いて貰うしかない。何にしろ私の書いた曲の全ては紫に手向けるためのもの。
心配は要らない。あの頃だって、今も現在進行形で、そしてこれからも、私はずっと紫のことを愛している。その気持ちが変わらないのならば、この曲に込めた想いも色褪せることなく輝いているはずだから。
蒼い風から空気を吸って、ゆっくりと吐き出す。心の奥底まで想いは行き渡ってる。左脳に収まったセピア色のノートに書き綴られた歌詞、右脳で鳴る恋の調べは夢現――もう一度深呼吸をして、ゆっくりと弦に指を掛けた。
そっと目を伏せる。フラッシュバックする記憶に想いを馳せながら、ゆっくりと心を澄まして可憐な旋律を奏でる自分を想像する。あの頃の私とは違う、美しく咲き誇る花になることができた私が奏でる調べは必ず美しい音を鳴らす。
たまらなく愛しくて張り裂けそうなこの身体の火照りも、心の中で咲き誇る真紅の薔薇の艶やかな美しさも、この私と紫の描いた世界が永遠であることも、今この胸に秘めた諸々の想いの全てを、この曲を演奏することだけで証明してみせる。
あの時に紫の告白を蹴った自分の罪は決して許されることではないけれど、こんな私でも紫を幸せにしてあげることができるかもしれない。そう信じて、紫のことを信じて、何よりも私自身を信じて、ゆっくりと左手でコードを握り締めた。
――ゆらり、ゆらり、虹色の花びらが舞い散る世界樹の下、流れるはずのない涙が貴女の瞳から零れ落ちた。
愛されてるなんて、考える余裕もなかった。ずっと、片想いだと思っていたから……てのひらで顔を覆って泣いていた貴女の顔は、今も忘れられない。
でも、貴女と過ごした日々の記憶を忘れることができず、交わることのない平行線をひとり歩いていたけれど、ずっと、ずっと私達の運命は共鳴し合っていた。
ありきたりな甘い囁きなんて要らない。心を傷付けるような強い想いで、貴女の心臓をえぐるの。紫の心の中に咲いた風見幽香と言う花を永遠にするために――
一弦を叩くように弾く。
うねるような低い音をベースラインの如く紡ぎながら心の中でカウントダウン。
1.2.1.2.3.4...
感情を押し殺すようにリフをかき鳴らす。
絶望から這い上がろうとする様を屈服させるように抑えるメロディライン。
そして奈落の底から、振り絞るような途切れ途切れの声で歌う。
「I love you, I love you, I love you...」
その言葉を押し潰すコードが鳴り響く。
貴女さえいなければこんな想いをすることもなかったと、心の何処かでわたしは貴女と恋に堕ちたことを恨んでいた。
そして止まる奏で。僅かに響き渡る残響の中、欲しくもなかった希望を与えてくれた親愛なる人に吐き散らす。
「and I hate you」
凍り付くような静寂。そして時は動き出す。
吐き出した心情を突き刺すようなリフを再び奏でる。
低い音で繰り返す憂いを帯びたフレーズ。
鋭く言葉を切り裂いていく。
ゆらり、ゆらり。ゆらり、ゆらり。
虹色の花びらが舞い散る世界の空気を振るわせる音の塊。
その織り成すフレーズの一番高い音を叩くように弾き、弦の振動を押さえて再び寂静を作り出す。
紡ぐ言葉はモノクロの世界で感じた貴女への想い。
「会いたくて」
澄んだ声。
そして空気を震わす一瞬の轟音。
すぐに途切れ、再び訪れた静寂に言葉を繋げる。
「触れたくて」
そっと囁く切ない祈り。
刹那の音が一瞬だけ響いて、虹色の花びらを揺らす。
そしてしんとした世界を切り裂くコードが、絶望の丘に鳴り響く。
「すぐ隣に居るのに」
矢継ぎ早に繰り出す2つの大きな音塊。
貴女の想いを求めたいけれど、嫌われるんじゃないかと思うと怖かった。
「ずっとこうして、寄り添い合ってても、your eyes off on me」
耳をつんざくような短いリフを二連奏。
再び静まり返る世界。感情を、理性を、全て音で押さえ込む。
野良犬を抱きしめるような素振り。
貴女は私のことなんて興味がないと思ってた。
「わたしを見て。わたしだけを見て。気付けば、今日もまた含み笑い――」
その胡散臭い笑い方が嫌いだった。
大好きって言ってくれたのに、どうしてそんな顔するの?
その美しい真紅の瞳が、何処か遠くを見ているような気がした。
そのもどかしい想いとシンクロするように、徐々にギターをかき鳴らして詩に重ねる。
さんざめく雨のような繊細かつ一音一音手繰るようなリフから、少しずつ、少しずつ感情を開放していく。
それでも抑えきれない感情が先走りして、段々とテンポが速くなってしまう。
「Where are you, Where are you, Where are you, Where is your heart?」
貴女は何処?
貴女は何処を見ているの?
貴女の心の在り処は何処?
ゆっくりと手繰るように紡ぐ言葉から想いが空へ溶け込んでいく。
「Where are you, Where are you, Where are you, Where is your heart?」
貴女は何処で何を考えているの?
貴女は何処かでわたしのことを想ってくれているの?
貴女は何処かでわたしのことをじっと見つめているだけ?
こんなにも、こんなにも、愛しくてたまらない貴女は、今何処で何をしているの?
「Where are you, Where are you, Where are you, Where is your heart?」
全ての想いを押さえ込んだ声。
後ろめたい感情を振り払って、溢れ出す想いをかき消す轟音を奏でる。
貴女が何処にいるのか分からない。
貴女に会いたいのに、どうしようもなく会いたいのに、貴女は何処かへ行ってしまう。
貴女の心の在り処が分からないの。貴女がわたしのことを愛しているのか、それともやっぱり野良犬扱いなのか、はっきり教えてよ?
「どうしてすぐ傍にいるのに――」
吐き捨てるように囁いた、もどかしくてたまらない想い。
想い想いにコードを自在に操って、感情を爆発させるようなメロディを奏でる。
憂いと悲しみ。不安と焦燥感。貴女の心の在り処。
貴女の全てを知りたいと絶叫するような旋律を紡ぐ。
その願いは叶わない。
止まる演奏。紡ぐ言葉は私の絶望。
何もかもがむなしくなってくるどうしようもない気持ちを言葉に綴る二番へ。
「苦しくて」
貴女のことを想うだけで、どうしようもなく切ない。
だから必死で奏でるの。貴女のことを愛してる――だけど私が奏でるは絶望の旋律。
そんな感傷を思いきり振り切るためにかき鳴らした音は、ただ残響となって心の中でうわんうわんと輻輳を繰り返す。
「愛しくて」
心がきゅんとするの。
苦しいのに、ほんのりと甘い。
どうしたらいいのか分からなくて、わたしは途方にくれるしかなかった。
だから。
自分の想い。貴女の想い。
両方とも見えないフリをして、ほとんど隠してしまった。
「心が疼くだけなのに」
押し殺す。轟音をかき鳴らして押し殺す。
それなのに、心が悲鳴を上げる。音に引きちぎられて、血を流しているようだった。
片想いなんて苦しいものを背負い込ませた貴女のことを、あの時のわたしは心から愛して、そして恨んでいた。
その感情の処理の仕方を知る術も無く、どしゃ降りの雨が降りしきる。
この絶望も、淡い恋心も、余計な感情の一切を全て洗い流してくれたらよかった。
「ねえ、どうして、why my lip quivers like this?」
貴女の愛が欲しかった。
貴女に愛して貰えたらきっと幸せになれると思ってた。
だから、キスして欲しかった。あのファーストキスは突然過ぎて、くちびるは震えていたけれど、とても素敵だったから。
そんな想いを貴女が残さなければ、わたしは何も感じずに済んだ。
ただの野良犬のわたしに悪戯したかっただけなの? それとも、本当にわたしのことを愛してくれていたの?
分からない。分からないの。貴女が何を考えて、わたしとキスをしてくれるのか、全然分からない。
「抱きしめて、軽くキスして、お終い」
そのくちびるから伝う感情の意味が分からない。
愛しているって、たったそれだけのことに過ぎなかったのかしら?
こんなに胸がきゅんと苦しくて、切なくて、愛しくて……愛って幸せになれる魔法だと思っていたのに、貴女がいないだけで死んでしまいそう。
もっと欲しい。キスして、ハグして、欲しい。そんな風に告げる勇気がないことだって貴女は知っているくせに、本当にいじわるなんだから。
「ああ、顔も見たくないくらい、愛してる」
貴女を見ていると、嬉しいのに、とてもつらい。
こんなにも愛しいのに、求められない。恋人として愛し合いたいのに、貴女は今以上を望まない。
愛してくれるのならば、無理矢理わたしを何処か遠くへ連れ去ってくれたらよかった。
愛なんて感情を植え付けた貴女のことを心底憎むわ。
そんな感情を昂ぶらせながら再びかき鳴らされるリフは、物凄い残響を残して空に吸い込まれていく。
空を駆け巡るシューティングスターのような美しい余韻を残して。
「I love you, I love you, I love you, and I hate you」
凛とした声を抑えて淡々と歌う。
飲み込んでいた感情。I love youなんてありふれた言葉。
心が正解だよ。そう、あの時から私は知っていたのに、どうしてその一言が出なかったのかしら。
「I love you, I love you, I love you, and I hate you」
無理矢理押さえ付けた感情が紡ぐ言の葉。
はっきりと耳元に残るフィードバックノイズを残す轟音のリフを刻む。
愛してる。
言葉にすると儚くて。
愛し過ぎて苦しいから憎んでる。
きっと両方とも正解。貴女のことがたまらなく愛しいのに、野良犬のように飼い慣らされている気がするから憎たらしい。
「I love you, I love you, I love you, and I hate you」
何処までも押し殺した声で紡ぐ愛の言葉。
メロディラインをなぞるだけの最低限の抑揚を付けただけの声色が、この世界の空を支える世界樹の下に凛としたメロディを紡ぐ。
昂ぶる感情が、愛を叫ぼうとする。
どうしようもない絶望が、貴女のことを嫌いになろうとする。
どうせわたしがどんな感情を抱いたところで、これ以上の関係になることを望むことは叶わないのだから。
「もう貴女には届かない」
嘘。嘘だ。いつか必ずこの想いは届くはず。
そう信じて必死に歌う。リフをかき鳴らす指にぐっと力が入る。
全身全霊を込めたストロークで奏でる轟音に負けない声を張り上げて、自分の心に想いを刻み付けるように奏で続ける。
そのフレーズを歌い上げた瞬間、心の中に溜め込んでいた感情の全てが弾け飛んだ。
それでも構わない。紫のことを愛してる――ただそれだけを伝えるために、この詩は存在するのだから。
「I love you, I love you, I love you, and I hate you」
感情的になった私の声のトーンが少しずつうわずっていく。
愛してる。紫のことを愛してる。ただそれだけを伝えることができたら、きっとわたしは幸せになれる。
ずっとそう想っていたのに奏でられなかった詩。もしも「if」があったら、わたしの運命は変わっていたのかしら?
「I love you, I love you, I love you, and I hate you」
震える喉から必死に紫への想いを言の葉に乗せる。
どうしようもなく恋しくて、愛しくて、きらり一粒の涙が零れ落ちた。
「I love you」なんて一言さえ伝えられないわたしの弱さが、心の底から大嫌いだった。
押し殺すことのできなくなった感情が止め処なく溢れ出して、ただのどうしようもない惨めな言の葉に変わっていく。
もっと綺麗な音で奏でることができたら、きっと紫を幸せにすることができるかもしれない。でも、わたしが奏でる旋律は……。
「I love you, I love you, I love you, and I hate you」
抑えきれない感情が爆発して、わたしは必死に声を張り上げた。
感傷的になった音色は何処までも憂いと切なさだけを残して、澄んだ蒼い風を吹き飛ばすような爆音で空気を振動させる。
この曲を書いた頃のわたしが鮮明に告げる。貴女の想いは何も変わっていない――それでも、わたしは泣かずにはいられなかった。
あの時に此処で下した決断を、今も後悔している。それはどんな爆音のディスコードをかき鳴らしたところで、決して消えることのない罪だから。
あの時奏でることのできなかった音が、在りし日のわたしを思い出させてくれる。
愛しさや憎しみ、怒り、もどかしさ、不甲斐なさ、ずっとちっぽけなプライドが何かと邪魔をしてた。
この詩に込められた感情は今も変わらない。八雲紫を愛したいと言う想いだって絶対に変わらない。たとえわたしが死んだとしても、この詩に残された想いは永遠だから。
ずっと想いを隠していた自分への罰だったこの詩も、こうして奏でることで美しい思い出に変わる。
「もう貴女には聞こえない」
声も、詩も、旋律も、貴女に届けることは遠い夢物語。
わたしのことなんて誰も分かってくれない。この心の叫びは誰にも聞こえない。
あの頃の自分はそのことがとても悔しくて、どうしようもなく悲しかった。
大好きな貴女にさえ、わたしの想いは届かない気がしたから。
制御不能になった溢れ出す想いが、音の塊から弾けて空に吸い込まれていく。
延々と続いていたリフの繰り返しから一転、言葉にすることのできない感情的な轟音をかき鳴らす。
どうしようもなくセンチメンタルな音から、心の底から吐き出される絶望を憂いを帯びた残響に変えて、ひたすらに暗くネガティヴな音色を紡ぐ。
其処にはアコースティックギター特有の優しい音色なんて微塵も感じられない。泣き叫ぶような感情を抑えるような低い音を出しても、それは昂ぶった感情によって無理矢理押し上げられた。
性急なテンポは留まることを知らず、どしゃ降りの雨のような轟音の中で美しいノイズを残す演奏は、わたしの心の中の絶望を全て吐き出すまで延々と続く。
そして、突然ぷつんと心の糸が切れた。
ギターの残響が鳴り止まない世界で吐き捨てる最期の詩は『ウソ』
「もう貴女には届かない」
全ての弦を指で押さえて振動を止めると、アコースティックギターの壮絶な残響が、蒼く、何処までも蒼く広がる空の彼方へかき消されていく。
しんと静まり返った静謐な空気が流れる絶望の丘。其処でじっと私の詩を聴いていた咲き誇る名も無き花々が、まるで拍手喝采と言わんばかりに綺麗な音を奏で始めた。
黄金の花々が織り成す軽やかで可憐なハーモニーが再び蒼い風に吹かれて空へ浮かぶ。その美しい旋律が、何処か夢現に聞こえてくる。息は絶え絶え、弦を押さえていた指は赤くなって、弾いていた指からは血が流れていた。
花のような美しい旋律だって、今の私ならきっと奏でることができる。でも、今は、ただ……在りし日の想いの全てをぶつけたかった。どんなに無様でも、醜かろうと、蔑まれようと、あの頃の私を自分で肯定してあげたかったから。
自己のアイデンティティとか、生きる意味だとか、愛してる、だとか。あのモノクロの世界で紫が証明してくれたことを、ようやく私は自分でも認めることができた。そんな今だからこそ、貴女に伝えられる想いが未来を想って此処に光る。
アコースティックギターの上にずっと止まっていた紫色のアゲハチョウが、ゆらり、ゆらり、空の色に溶けるように消えていった。
もう泣く必要なんて無いのに、どうして涙が零れ落ちそうなのかしら。目尻に溜まった雫をそっと拭おうとした瞬間――そっと紫がその涙をすくい取った。
その真紅の瞳が陽光を浴びて宝石のように煌いて、つい見惚れてしまいそうになる。何処か深く沈んでいくような夢に誘う美しくも惑わしい視線に、つい顔を逸らしてギターをケースに戻す。
そっと寄せられる紫のしなやかな肢体に、私もゆったりと身体を寄せる。ただ紫のぬくもりを感じているだけで、自然と浅く熱っぽかった呼吸が緩やかに凪いだ。昂ぶっていた心の温度が、少しずつ、少しずつ、紫に奪われて消えていく。
「……この曲を聴くために、私は幾奥の夜を越えて生きてきた。在りし日の幽香の想いが刻まれた詩、しかとこの心に留めておきますわ」
夢現な声色で言葉を紡ぐ紫は、あのモノクロの世界で出会った時のことに想いを馳せているような陶然とした面持ちで、ゆらり揺れる虹色の花びらを見つめていた。
あの日から少しずつずれていたお互いの想いが、機械仕掛けの歯車が噛み合うようにかちっと同期する。この詩は終わりの詩。そして終わりの始まりを告げる詩。そう、私達の世界は此処から始まる。
ずっと、ずっと、永遠のような時間の中で、死んだような生き方をしてきた。だからやり直す。世界をやり直すの。花のような幸せを繰り返す永遠の輪廻に組み込まれた私と紫の運命は、もう神様の力を以ってしても振り解けない。
「あれ以来、ずっと私はギターも弾けなかったし、詩だって一切書けなかった。でも、貴女のおかげで咲き誇った私は詩を、旋律を取り戻した。だから今度は、紫を謳う歌を、幸せを謳う詩を、書こうと思うの」
また、ふらっと何処かに出掛けてひとりギターを弾きながら、詩を書きたい。貴女へと手向ける素敵なラブソングを今度は優しいアルペジオに乗せて、しれっと惚気てあげられたらきっと幸せ。
今の生まれ変わった私なら、希望に満ち溢れた美しい旋律を奏でられるような気がするの。あのセピア色に染まったノートに書き綴ったような憂いの詩は、そっと引き出しの隅に閉まっておくことにするわ。
こうして寄り添い合っているだけでも、くちびるには小さな恋の詩が浮かぶ。これから続く未来へ向けた詩、貴女と言う艶やかな花のための可憐な旋律――どんな花よりも綺麗で澄んだメロディで、貴女を喜ばせてあげたい。
あの日は怖くて触れることすら危うかった、愛でるべき花が見せてくれる夢。今その美しい花は、木漏れ日の中で小さく首を傾げて私の肩に顔を乗せて、そっとぬくもりを感じてくれている。
ふわり頬を撫でる花の香りをまとった蒼い風と、紫から伝うぬくもりが何処までも心地良かった。あの日夢見た追憶の未来は絶望に包まれていたけれど、今の私はどうしようもないくらいに幸せ。
もうこれ以上の幸せを望むこともないし、途方もない絶望に打ちひしがれることもない。こんな『現在』以上の幸せなんてあるはずもないけれど、八雲紫と言う真紅の薔薇が咲き誇ってくれている限り、この愛しき世界は永遠に続く。
そして貴女の心の中に咲いた風見幽香と言う花は語りかける。幸せの悦び。胸が張り裂けそうなほどの愛しい想い。喜びも悲しみを分かち合うためのメロディ――貴女との想いを繋ぎ止めるために、幻想の花として私は永遠に咲き誇る。
「それは楽しみですわ。先程の詩も幽香らしいラブソングだったけれど、今の幽香はどんな詩を聴かせてくれるのかしら」
「きっとそれはもう、素敵なものになるに決まってるわ。今はそれだけしか言えないけれど、もう旋律が心の中から溢れ出すみたいで、ふっと口ずさみそうなくらいよ」
「言葉にならない想いを音にして伝える。それは素敵なことだと思うわ。でも考えてみて欲しいの、私達の想いは繋がっているのだから、さり気ない言葉だけでも幽香がさらっと惚気てくれるのなら私は幸せよ?」
ふっと気の抜けたあどけない表情でくすくすと笑う紫の笑顔はあまりにも艶やか過ぎて、目を合わせることすら躊躇われるような凛とした美しさを醸し出す。
横一線に揃えられたふわっとカールした蒲公英色の前髪の下には、長いまつげが伏せられている。その綺麗な輪郭を描くまつ毛から覗く大きな瞳は強い光を湛えて、惚気たような微笑みを浮かべてやんわりと私を見つめていた。
心から素直に、紫は綺麗だと思う。勿論、あの時からずっと見目麗しいとは思っていたけれど、在りし日の記憶の面影の中で笑ってくれる紫より、今目の前で向日葵のように微笑む紫の方が、ずっと可憐で美しい。
絶えず言葉にできない想いを抱えてきた私は、どうしても恥ずかしかったし、後ろめたい想いもあったし、偽善だとか思ってたから……口で言うことができず、音楽にして伝えるしかないとあの時は思っていた。
少なくとも、あの時は……でも、今はどうだろう。しれっと惚気てしまっても恥ずかしいだけで、意外と大丈夫そうな気もする。自分は性格的にそんなタイプじゃないことなんて分かりきっているけれど、今は紫を愛したくてたまらない。
紫の美貌に思わず見惚れてしまって正視することもできない辺りは相変わらず『変わっていない』のかもしれないけれど、今の紫なら私の我侭なんて何でも聞いてくれるような気がする。それこそ紫は『誘っている』のだから。
貴女のてのひらの上で弄ばれてるフリをしてみるのも悪くないわ。結局のところ、私達は素直に本音が言えないだけで、本当はお互いの愛を貪りあいたくて、惚気合いたくて仕方ない。ねえ、紫。貴女も同じこと考えているのでしょう?
――ゆらり、ゆらり。ゆらり、ゆらり。
虹色の花びらが美しい弧を描いて舞い散る景色は何処までも夢現。
そんな幻想的な景色が広がる太陽の畑と蒼い空の彼方を見ていると、この世界には私と紫だけしか存在しないような気がしてしまう。
始まりも、終わりも、何も無い永遠の『始まり』は手を伸ばせばすぐ其処にある。その美しい真紅の薔薇を独り占めすることができるなんて、もう叶わぬ夢だと思っていたのに……。
何かの本で「未来は知らない方がいい」と読んだことを今でも覚えているのだけど、これから紫と歩む未来を、私は今はっきり想像することができる。失くしたはずの貴女に手向けるための詩が、旋律が、心の中で凛と鳴っているから。
あのモノクロの世界で貴女と出会って、美しい幻想の花が咲いた瞬間――恋に堕ちた。それが私の全てだった。
その美しい赤を射った瞳が映し出すこの世界の全てを、美しいエメラルドで彩ってあげる。この私達の物語には英雄やお姫様なんて必要ないわ。
深い祈りの果て、揺らいだ真紅の薔薇と白いカーネーション。紫と私は花になるの。何処か遠くあの空の彼方、世界の限界を超えた名も無き世界で――
「残念ね、惚気るのはお断り。貴女の言いたいことは、そのくちびるから直接問いただしてあげるわ」
ツンとした声で囁く私の声に、紫は何かあれこれと言おうとしたみたいだったけれど、それは華麗に無視して差し上げる。
寄り添い合っていた紫の身体を優しく抱き寄せて、そのままゆっくりと地面に押し倒す。真っ白な帽子に結った紅いリボン、その間々から流星のように溢れ出す向日葵色の長髪がさらりと緑の芝生に流れた。
なじるように見上げる大きな瞳は妖しい光を宿して、夢見心地で私を見つめている。叙情的な紅を帯びた艶めかしい真紅の薔薇の美しさに酔いしれながらそっと髪をすいてやると、紫がうっとりとした表情のまま幻想的に髪の毛を翻した。
そして驕慢そうに見える顔立ちは、惚気た笑みを浮かべながら「そうじゃないでしょう?」なんて無言の催促。ふっと私も笑って桜色のくちびるをなぞると、紫がおねだりするような鼻に掛かった声を漏らしながら、その指をぺろりと舐めった。
「……焦らすのは、イヤ。でも、幽香らしいから、許してあげる」
「あらそう。欲しいなら言えばいいのに、貴女は素直じゃないから」
「して。って言ったら、してくれるの?」
くすっと悪魔のように笑う紫。そのまま長いまつ毛をそっと伏せて、キスを求めるように瞳を閉じた。
壊れるほどに激しく犯して欲しい。そう私を挑発するかのように、夢現なお姫様は何処までも美しくも惑わしい。甘く芳しい吐息がゆらりと妖しい色香を漂わせて、あられもなくふしだらな雰囲気を醸し出す。
その凛々しく引き締まった美貌は倒錯の色を帯びて、情感たっぷりに俯く紫の姿はたまらなく愛おしい。よくすいた羊毛のように心地良い柔らかな髪をかき上げながら、そっと真紅の薔薇にくちびるを近付けた。
ああ、ようやく、夢が叶うわ。そっと瞳を閉じて小指に結った運命の紅い糸に想いを馳せると、美しいエメラルドの中に咲く凛とした真紅の薔薇が見えた。
夢と現実を繋ぐ貴女との絆は決して途切れることのない永遠。此処から全てが始まる。私と紫の世界の始まり。貴女のことが好き過ぎてどうしようもなくて、もう今では正気さえ保てない。
紫が隣にいてくれたら、私はどんな世界でも生きていけるわ。貴女が夢見る世界に連れ去って欲しい。あのさんざめく雨の日、この太陽の畑に私を連れ去った時のような――この瞳が虹色に染まるような素敵な夢を見せて?
「愛してる、ゆ、か、り」
たったふたりだけの世界で重ねたくちびる。触れた瞬間、凛とした音が鳴って、苺みたいな甘く切ない味が口の中に広がっていく。
そっと差し出した舌から蜜を吸って瑞々しい桜色に染まるリップがたまらなく愛しい。しっとりとした感触の向こう側から、不規則なリズムで甘い吐息が漏れる。
綻んだ花びらから伝う低めの体温。何処までも艶かしい吐息。永遠を誓ったあの日の契り――この幻想郷で一番美しい花を抱きしめる幸せを、ぎゅっと噛みしめた。
ふんわりと香る芳しい薔薇の匂いが鼻孔をかすめると、段々と頭がおかしくなってくる。いけない、いけない、そう理性がたしなめるのに、心が、身体が、紫のことを欲して止まない。
ゆらり香る花びらの匂いに誘われて触れ合ったくちびるの先はたまらなくスウィートなキャンディ。
押し当てたくちびるからとろけた蜜を、心の中に咲いた花が吸い取ってしまう。水分を吸って艶々と光る八雲紫と言う花は、何処までも可憐で美しかった。
そして花になりたいと願い、流した涙の跡から再び芽吹いた風見幽香も、幻想の花として凛として咲き誇る。狂おしいほどに、壊れてしまうほどに、紫のことを求めて……。
その美しい真紅の薔薇から感じるぬくもりが麻酔のように、私の理性だけを的確に奪う。色彩感覚を失った瞳をそっと閉じると、くちびるから伝う引力で再び天国へ突き落とされた。
止められない。もう、誰にも止められない。その美しい薔薇の棘でどんなに血塗れになろうとも、私は絶対に貴女を離さない。
貴女の喜び、愛しさ、切なさ、憂い、悲しみ、私を想って生きてくれた過去、これからの私を想う未来――貴女の全て、そう、八雲紫の全てを抱きしめさせて欲しい。
激しく、狂おしいほどに、心が壊れても、たとえ貴女が壊れてしまっても構わない。白い絹を抱きしめながら重ねたくちびるから美しく舞い散った真紅の花びらは、あの空の彼方にある世界の果てへ私達を誘う。
――咲き誇る。咲き誇る。この世界が花となって咲き誇る。
もしも叶うなら、ゴミ捨て場の端でふたり、ゆらり揺れる花になりたい――
この独自の世界観に引っ張り出すことから始まってまさかのworldend、そこから美しい世界を取り戻す様はお見事でした
幽香を中心とした描写が(特に心情描写)が緻密で感情豊かなのが素晴らしい
文章から彩りや香りが感じられるような色っぽい文章でした。正直参りましたとしか言いようがありません
この量なのにあっという間に物語にのめり込んで気づいたら読み終えていました
世界観も綺麗で素晴らしかったです
たまに、こういう書き手がいるからここは侮れない。
物凄い鬼気迫る勢いの描写でついのめり込んでしまいましたね
短編ばかりがもてはやされる中こんなとんでも作品を出して来た勇気に敬服します
荒廃した灰色の世界と戻ってきた彩色の世界、そういうイメージを描き立てるのがとても上手いし、世界を一片からしか見る事ができない幽香と、多様的に世界を見る事ができるようになった幽香、そして心変りが丁寧に書かれていると感じました。
特に一人称である幽香の視点、最初のゴミ捨て場での視界の狭さは余裕の無さを示し、後の恋焦がれる幽香は紫を探す如く、風景描写が増える。細かい所にまで気を配ってくるのが読んでいる方にも伝わりました。
しかし、気になった点もあります。
・キャラの位置付け
キャラが合わない、その一言で済ませてしまうには惜しいのですが、どうしてもキャラの考え方の部分が強調され過ぎている為、合う合わないの二択を迫られてしまう、のではないかと。灰汁が強い作品が悪、とまでは言いませんが、私にとって幽香があまりに都合の良いキャラ、紫が愚直すぎるまでに真っ直ぐで違和感を覚える事がありました。
・長さ
当然長編と位置付けられると思いますが、話自体にそこまで動きがありませんので、悠長に感じる部分がありました。一つのシーンに対して詳細に書き込むのが上手いのは理解できていますが、ずっと心象の詳細な描写が続くと、読むほうもアップアップになってしまうかと思います。あくまで個人的なものでしかありませんが、息抜き部分があっても良かったんじゃないかなぁ、と。
ともあれ、こういう作者さんの強い個性が出ている作品は読み応えがあるし、楽しく読ませて頂きました。
素晴らしい作品に対し、真摯に評価したいと思いましたので、この得点で。
一人称視点の上情景を書き込む以上は仕方がない部分なのですが、読んでいて若干悠長かな、と。
しかし長編にも関わらず読み切ってしまえたこともまた事実。
得点、置いていきます。
眼を背けたくなるような幽香の出自から始まりましたが、紫の登場からはまさに百合。恋に付き物の、どぎついほどの感情に赤面しました。
というか正直に申し上げまして、ちょっと恥ずかしいくらいでした。恋焦がれたときの心情を余すところなく文章で表わすと、ここまで恥ずかしいものだと思いませんでした。そう思ってしまうくらい、恋愛時の高揚や熱に浮かされた様子が描写されていました。
そういった恋の描写だけでなく、人間不信に陥っている幽香の心情の書きだしも秀逸です。過去が非常に非業でした(ここまで書くかと驚きました)が、幽香を真正面から見つめると自然なように思います。汚さをがっつり読まされたことで、人間不信を持つひとりの女性という幽香に説得力が出たのでしょう。作者さんの姿勢に拍手を送りたいです。
恋破れて死んでしまおうとする幽香は超女の子ですごく可愛いと思います。っていうか幽香にギターは似合うし、恋を歌っちゃうのも可愛いし、でも最後に歌ったのが甘ったるい恋愛ソングじゃないことに感服です。しっかり立った幽香と紫のこれからを感じました。
200kbもの長編の執筆、お疲れさまでした。ありがとうございました。セカイ系ってやっぱり素敵ですね!
ああ、あと、色彩の描写が素敵でした。文章というツールで鮮やかさをここまで表現出来る腕を羨みます。それと食事が美味しそうでした。サンドイッチとハーブティを食べたいです。
幽香と紫のお話ですが閻魔様もまた良い。
長い文章のハズなのにスラスラと読むことが出来ました。
この作品に会えてよかったです。ありがとうございました。
もう少し動きが欲しかったかも。
結局殆どの場面でゆうかは1人で葛藤してる感じだったし。
あと幾らなんでも妖怪を人里の人間が肉◯◯扱いするかなぁ?
それに経緯がどうあれ人死になればゆうかの責任も問われるだろうし。
また幻想郷っていう箱庭の中のさらに小さな人里で誰にもかえりみられない
孤児って状況が相当な違和感を覚えてしまう。
最初はゆうかが外の世界の街角にいるもんだと勘違いしてたから、
実は人里のゴミ捨て場って分かって凄く違和感を感じた。
むしろ外の世界から紫によって幻想郷に連れてこられた方がしっくりこないかな。
土砂降りの中ひとり佇む幽香に傘を差し出すシーンから世界観の構築がとにかく凄くて度肝を抜かれました
あなたの書く作品は百合としての一面の他に、抗うことのできない世界から救われるための手段としての恋愛要素が感じられますね
その部分がぎゅっと濃縮されたこの作品は色々ぶっとんでると思います。すばらしい作品をありがとうございました
言葉が出ない…
たぶん。
上手すぎて東方分が死んでるじゃないかなぁ。
100点では足りません!
なんて言っていいかわからんぐらいすげぇ
八雲紫が、最初から恋の対象として少女と接していたから、というのはわかるものも、一人の人間として
認めてもらったからといって、いきなり恋慕の対象になるというのはおかしいな、と思います。
さらにそれが八雲紫であることにまた違和感。
他の二次創作とかけ離れた設定をしているのであれば、幽香のように彼女の立場についても説明が欲しかった。
「援助交際」では彼女側の理由も想像できたのですが、今作のように一目惚れで済まされてしまうと、置いてけぼりです。
そのため作品の中の八雲紫は、幽香の心象風景に描かれたとおりの、きまぐれで不平等な神様に見えてしまいました。
少なくとも私にとっての八雲紫は神様ではないので、この部分への突っかかりは最後まで消えませんでした。
恋慕の対象を世界そのものとして見るのが「セカイ系」であるのならば、私に「セカイ系」は合わない、というだけの話ですが。
それから色彩を連想させる表現は、もっと小出しに使ってもらうか、一つ一つ丁寧に描いてくれた方が、私の好みです。
と、腐してしまいましたが、理解できないが凄まじいものを認めたくない、という気持ちからの酷評です。
今作が素晴らしい作品であることに変わりはありません。
心象描写への強いこだわりには畏怖すら覚えます。
頭痛がする程に濃い作品を読ませて頂いたことに、ただただ感謝します。
鮮やかで、豊かで、綺麗で、美しい作品だと感じました。
ありがとうございました。
100点までつけられないのが残念です
紫と映姫のキャラクターもとても良かったと思います。
パラノイアの思考を延々と読ませるという実験的な意味では、ある程度の成功なのではないかと思いました。
個人的には自己中心的なゆうかりんの支離滅裂な思考をまったく理解することができず、残念です。
たくさんの色に溢れたお話しを、ありがとうございます。
世界は認識
だったら最後の結論はいつだってシンプル
あえて言うなら
少し言葉を削ったら
伝わり易くなることもあるかなと
ゆかゆうか
ごちそうさまでした
マジで貴方が神ですか。
豊富な語彙からの繊細なタッチな心情描写も素晴らしく、耽美な印象と恋に病んだ少女のパラノイアが絶妙ですね
文章のヴォリューム以上に読ませて貰ったような印象を受けました。ここまでセカイ系を貫いた作品は見たことがない
恋愛において恋人にふられたら世界が終わる。それはありきたりのようで、そこまで紫を愛そうとした故の自殺の美学は幸福の極地なのかもしれません
それでも作者様が救いを与えるのはなぜだろう。そう思えて仕方ないのです
散り行く花に捧げる詩を、紫の言葉で聴いて見たかった