ぽろろん、ぽろろん。
髪に、屋根に、雫が落ちます。
しとしと。
肩に靴に、染みこんで。
さらさらら。
やがて雨だれが、わたしとむらさを隔てます。
「降ってきた」
縁側に座っていたむらさが、さめざめと言いました。
「うんっ」
さらさらさら。雨音がたくさん増えて、やがてひとつの長い音に変わります。
春風は、強くありません。少し温かい気もする雨でした。
わたしは庭を掃く箒を止めて、曇り空を見上げました。昼下がりだというのに薄暗くなった空気が、雨音で揺れていました。
降り注ぐ雫は音も光も反射して、わたし達に小さな虹を見せてくれました。雫のなかひとつひとつに虹があって、雫が落ちる音もまた、すべて虹になります。
紫陽花も桔梗も茄子の花も、みんな虹のおめかし。みんなで一緒に、雨の歌を歌いたい気分です。
思わず踏み出した靴音が、雨で濡れた土に揉まれてぴちゃぴちゃと歌いました。わたしは楽しくなって、空を仰ぎながら、くるくると変な踊りをして遊んでみました。
わたしの髪や耳、服が、どんどん雨を吸っていきます。こんなに綺麗な雨に濡れたら、きっとお色気ムンムンです。
むらさは、そんなわたしをじっと見ていました。
きっと、仄暗くもキラキラ光る世界のなか、綺麗な雨に濡れたわたしにメロメロなのです。
雨の庭の歌姫にだって、選んでくれるだろうと思っていました。
けれど、庭ではしゃぐわたしを尻目に、むらさはあまり機嫌がよくありませんでした。雨の入らない縁側で、面白くなさそうな顔をしてあぐらを掻きました。
わたしはぺたぺた走り回るのをやめて、むらさを見つめました。そのとき、むらさの顔がなぜか悲しそうだったことに気づきました。
「むらさ、どうしたの? 気分悪い?」
「……んなとこいると、風邪引くよ」
「かぜひく」
何だか不自然な感じがしました。どうしてむらさがそう答えるのか、わたしにはよくわかりませんでした。だから山彦のわたしは、ただ反響しました。
「風邪なんか引かないよ」
やっぱり変だと思いました。
服に染みる雫から温かさが伝わるほどに、雨の歌は穏やかでした。それぞれの雫の歌声が、庭中に反響してわたしの大きな耳へと伝わります。
わたしの力なんて必要ないくらい、雨の歌は広がっていて。それなのに、とても淑やかに囁き続けていて。
「こんなに優しい雨だもん」
わたしは言いました。
けれどもむらさは納得してくれなかったようで、ますます不機嫌な様子になりました。
「優しくなんかない」
「やさしくなんか、……」
雨の声が少し大きくなったように思いました。それとも、むらさの声が小さくなったのか。
わたしは反響を紡ぐことができませんでした。何か悪いことをしてしまったのだと思いました。
肩で飛び跳ねる音符たちは、依然楽しそうに歌っていました。わたしは歌声に囲まれたまま、むらさをぼうっと見ていました。彼女は黙って空を仰いでいました。
わたしがお風呂から上がっても、雨はしとしと歌をやめませんでした。いつしか雲の上で陽の光が傾いたのか、薄暗い寺は闇の帳を少し多くしていました。
木造の壁越しに聞こえるさみだれの楽譜は、少しづつ音符を増やしていきます。きっと今がサビの部分なんでしょうと、わたしは悠長に構えていました。
廊下へ出たそのとき。
一閃、雷光が走りました。
龍の声でした。幻想郷中が、一瞬で凄まじい光と音に包まれたことでしょう。この強烈な声は、わたしには反響させることができません。辺りの山すべての山彦を集めてようやく、この声を天にかえすことができます。
一拍遅れて、寺のどこかから「きゃー」という叫び声が飛んできます。怖がっているような、ちょっとだけ愉しんでいるような声。たぶん、一輪かな。わたしはそれに向かって、小さく「きゃー」を返しました。
ようやく、雨が怒りだしているのだとわかりました。
むらさは船長室という、自分専用の部屋を持っています。わたしは不機嫌だったむらさに謝ろうと思って、そこへ行きました。
木のドアを叩いて、小さな声でむらさを呼びます。返事はありませんでした。でも、いないはずはありません。なぜなら、むらさはいつもわたしの後にお風呂に入るので、毎日わたしが呼びに行っているからです。わざわざ新入りのわたしを立てるために決めてくれたことです。いなかったことなんて、一度もありません。
「むらさ? ……あの、怒ってる?」
恐る恐る聞きますが、やはり返事はありません。わたしはいよいよ心細くなってきました。反省するつもりでいますが、むらさの機嫌が悪い理由がちっともわからないのです。
ためらいましたが、ドアを開けてみることにしました。水色のカバーが付いたノブを、ゆっくり回し、そっと奥を覗き込みます。
ベッドの上には、大きなお饅頭がありました。
いえ、よく見ればときどき小刻みに震えています。どうやらこれは、頭から毛布をかぶったむらさらしいです。
今日のむらさはやっぱり変でした。わたしは彼女の行動が理解できなくて、ぽかんとしながらドアを開きました。放たれたドアが開き切り、壁にぶつかってガンという音を鳴らすと、お饅頭形のむらさがビクっと驚きました。
ゴソゴソ鳴らしながら顔を出したむらさは、わたしの顔を見て安堵したように溜息を吐きました。
「な、なんだ響子か。脅かさないでよ」
「ちゃんとノックしたし、声もかけたよ」
小さかったけど。
むらさは訝しげにわたしを見つめました。疑っているのでしょうか……。
一応謝りに来たのだけれど、この調子では意味があるのかどうか。わたしはどんどん不安になりました。それでも謝らないよりはいいだろうと思って、声を絞り出します。
「あの、さ、さっきは―――」
瞬間、再び閃光が走りました。遅れて、霹靂。さらに遅れて雨が、叩きつけられるような強い音を立てました。
むらさは今にも泣きそうな、ひどい顔になって、また毛布をかぶってお饅頭になりました。
なんて悲しい表情をするんだろう。見ているわたしまで泣きたくなるような、痛々しさが見えました。
ようやく合点がいきました。彼女は雷雨が大の苦手だったのです。
船幽霊は、海で亡くなった人の霊。
では、人がなぜ海で亡くなるかといえば――――。
雨音は次第に勢いを増していきました。幸い風の音はそう強く聞こえません。
わたしは耳を澄ましてみました。しとしとと降っていたはずの涙雨は、もうそんな優しい声をしていません。バラバラ、ビタビタと木に叩きつけられる雨音は、暴力のように、憤怒のように押し寄せてきました。
むらさを刺激しないようにしながら、わたしはそっと彼女の隣、ベッドの上に座り込みました。ゴロゴロという空の唸りを聞きながら、そっとお饅頭のなかに手を入れます。
お饅頭の餡がぴくっと動いて、恐る恐る顔を出しました。弱々しい涙目が憐憫を誘います。
わたしは彼女の両耳を塞ぐように、ふんわり手で包みました。わたしがお風呂上がりであったかいのもあるけど、それを差し引いても冷たい耳でした。
山彦が音を塞ぐなんて、滑稽です。わたしの声まで聞こえなくなっちゃうけど、仕方ありません。こんな方法しか、彼女を落ち着かせる術はありません。
彼女はきょとんとした顔をしました。恥ずかしいのか上目遣いでした。少し冷静になれたのかもしれません。
「むらさ」
「あぅ……」
わたしの声が届いたのかどうかはわかりません。むらさは声にならない声を出して、身を乗り出し、静かにわたしの胸に抱きつきました。
「わっ、わわ」
ちょっとだけだけど、緊張してしまいました。むらさがまるで子供のように甘えてくるものだから、びっくりです。
一瞬、雨の音がなくなって、衣擦れの音だけ聞こえました。手が勝手に耳から離れて、行き場所がなくなって、気がついたらむらさの背中と頭を抱き締めていました。
また、雷が落ちます。また、胸のなかでむらさが跳ね上がりました。
鼓動が聞こえます。くっつきすぎて、むらさの鼓動なのか、わたしの鼓動なのかわかりません。
むらさの指にどんどん力が入っていって、わたしの背中に食い込んでいきます。力はみるみる強くなって、ちょっと痛いかもと思ったとき、むらさは思い切り甘えるようにわたしに身体を寄せました。
ちょうど、ベッドの上へ押し倒されるような形になって――――鼓動が高鳴ったのは、明らかにわたしのほうでした。
この瞬間どうしてか顔が熱くなって、一瞬、めまいも起こしたような気がしました。
むらさの頭は、わたしの胸の上に押し付けられる格好でした。わたしはお風呂上がりで薄着でしたから、とてつもなく密着したように感じました。この平らな胸に顔を近づけられるのは、何だかすごく恥ずかしいのです。
しばらく、この体制のままじっとしていました。抱き合っているうちに、不思議と雷の怖さがまぎれて、安心するようになりました。いつになく甘えんぼうなむらさが、だんだん可愛く思えてきたりもするのでした。
ゴロゴロ。
ビュウビュウ。
パラパラパラ。
あんなに優しい雨だったのに、今やその面影もなく。パラパラと窓に打ち付ける雨風の音は、止む気配がありません。
ちょっとダマされた気分です。むらさは、こうなることをわかっていたのでしょうか。だとしたら、すごい観察眼です。
わたしは彼女の髪をなるべく優しく撫でました。
そのとき、急にバタンと扉が開いて、一輪が飛び込んできました。
「みつ! 平気!?」
きっとむらさの雷嫌いを知っているから、気になって飛んできたのでしょう。その割にはちょっと遅い気がするけど……彼女も雷が苦手なのでしょうか。
「あ、いちりん、あの」
「って、ちょおっと待て!?」
わたしは言葉を返そうとしたのですが、一輪はそれを待たずに声を重ねてきました。
「な、な、なんだ元気そうじゃない。しし心配して損しちゃった!」
どう見ても狼狽した様子で目をキョロキョロさせています。どうしたんでしょうか。
むらさはわたしにしがみついたまま「イチ……」と、ぼそっと呟くだけでした。まだ雷が怖くて動けないみたいです。
「あの、いちりん。むらさ、怖くて動けなくなっちゃったみたいなの」
代わりに、なんとかしてわたしが状況を伝えます。こういうときぐらい、気が効くところを見せないといけません。
「あ、ああ、そういうことね……わかった。仕方ないから今日のところは譲ってあげる」
「?」
「暴れて手がつけられなくなったら呼んでね。私を。わたしを」
「えっと……わかりまし、た……?」
何を譲ってくれたのかまではよくわかりませんが、一輪は部屋を出てドタドタと走って行ってしまいました。扉が開けっ放しです。
むらさに乗っかられたのが悪かったのでしょうか。
程なくして、しとしとと。
いつしか雨の音だけ響いています。
雷風の音が遠くなり、窓に打ち付けていた雨は、ただの雨だれに変わりました。
むらさも、ようやく会話ができるくらいに落ち着いてきたようでした。
「ごめん、響子」
「ん?」
「迷惑かけなかった?」
「え? ぜんぜん」
むらさはむくっと身体を起こして、私を見下ろしました。涙の跡が頬を伝っているのが、痛々しく見えました。
「いっつもなんだ。嵐が来るとパニクっちゃって。何してたんだか、後でよく思い出せなくって」
わたしも起き上がって、むらさの前に座り込みました。
「そうだったんだね。でもなんとなくわかるよ。おっかないの」
「情けないな。長く生きてもみんなに助けられても、私は過去ひとつ乗り越えられなくて……」
そう言うむらさの目はまだ辛そうでした。
「情けなくなんて」
「……でも今日は、響子が優しくしてくれたの、憶えてる。ありがとね」
言うと、むらさは随分ひさしぶりに笑いました。いつものあっけらかんとした様子ではなく、少し寂しそうな笑顔でした。
「やまない雨はないわ」
自然と口をついたのは、そんな誰かの言葉でした。これだけじゃなんとなく決まりが悪く思えたので、こう続けました。
「雨がやむまで、歌でも歌おっか」
「歌?」
「雨の日には、楽しい歌も悲しい歌も似合うんだよ」
軽くかしげられた頭を、わたしはくすくす笑いながら抱き寄せました。
「子守歌。むらさが安心して眠れるように」
「なっ。こ、子供扱いしないでくださいー」
拗ねたように答えつつ、むらさはちゃんと抱き返してくれました。目と目が合うと、彼女は不意に微笑みました。
わたしの胸がきゅんとなります。
なんだか可愛い。
落ち着いてきたむらさや雨音に応えるよう、わたしは静かな歌を歌うことにしました。静かで、雨で、明るい歌。優しくて、可愛くて、でもちょっぴり切ない歌。
目を閉じて、耳を澄まして。外の歌声を聴いて、むらさの匂いを感じて。
雨だれとともに、雨だれを歌いました。
「ちょおおおおお何やってんのおおおおおおおおおおおおお」
という怒号によって目覚めた翌朝。視界に入ったのは、盛大に剥ぎ取られたふとんが宙を舞う姿でした。
ふとんがふっとんでいました。一輪がふっとばしたようです。
「何するのぉ……」
わたしは言いながら、眠い目をこすろうとしました。
だけど腕を動かせませんでした。何事かと思って見てみると、誰かの腕が後ろから、ガッチリとわたしを抱きしめたまま眠っていました。
ドキッと。
わたしの胸が高鳴ります。
「あ、む、むらさ……」
遅れて感じられる、むらさの匂い。
ゆうべの雨音が思い出されました。あのあと歌っているうちに、いつしかわたしも眠ってしまっていたようです。
「はい死んだー! おまえら死んだよ! ここお寺だから! そういうのだめだから! はい破門ー! 今この瞬間に破門ー!」
「ええー!?」
物騒なことをぎゃーぎゃー騒ぐ落ちてきたふとんは再び蹴っ飛ばされ、けっこうな勢いで部屋の外まで飛んでいき、歩いていた聖の頭に直撃しました。
「あっ」
「あっ」
わたしと一輪の声が重なりました。
怒られる。たぶん二人ともがそう覚悟したと思います。
しかし聖は怯みもせずにふとんを捕まえると、一言「朝から賑やかね」と言ってどこかへ行ってしまいました。ふとんはなぜか連れ去られました。
一輪とわたしと、見つめ合いました。間に妙な空気が流れました。一輪が「ま、まあ勝負は預けておくわ」と言うので、わたしはつい反射的に「あずかった」と答えてしまいました。
なんで勝負しなきゃいけないのか、よくわからないのですが。
破門されるよりはいいので仕方ありません。
なんで破門されそうなのかもわからないですが……。
朝の光が、すっと差し込みました。
窓の外を見ると、六月に珍しく晴れ渡っていました。ゆうべの嵐が嘘のようです。
きっと昨日は、むらさが雨を悪く言ったから、空が拗ねちゃったのでしょう。ちょっとわがままだけど、寂しがり屋な子みたいです。
だけど、今わたしを抱いてすやすや眠っているむらさは。
一度は死んだ身です。いいえ、殺された身。雷雨によって、海の上で。
もはや想像できない経験だけれど、ああやって必死に雨を嫌がっている気持ちは、なんとなくわかる気がしてしまいます。
今は二人、仲違いしているのだと思います。
すぐにはできないかもしれないけど、いつか仲直りしてくれればいいな。そうすれば、きっとむらさも入れてみんなで、雨の歌を歌えるだろうから。それはとても素敵なことだと思います。
そういえば、ゆうべは結局謝りそびれてしまいました。
わたしはむらさの耳元に唇を寄せて、「ごめんね、ありがとう」と囁きました。
窓の外では、聖がふとんを干していました。
髪に、屋根に、雫が落ちます。
しとしと。
肩に靴に、染みこんで。
さらさらら。
やがて雨だれが、わたしとむらさを隔てます。
「降ってきた」
縁側に座っていたむらさが、さめざめと言いました。
「うんっ」
さらさらさら。雨音がたくさん増えて、やがてひとつの長い音に変わります。
春風は、強くありません。少し温かい気もする雨でした。
わたしは庭を掃く箒を止めて、曇り空を見上げました。昼下がりだというのに薄暗くなった空気が、雨音で揺れていました。
降り注ぐ雫は音も光も反射して、わたし達に小さな虹を見せてくれました。雫のなかひとつひとつに虹があって、雫が落ちる音もまた、すべて虹になります。
紫陽花も桔梗も茄子の花も、みんな虹のおめかし。みんなで一緒に、雨の歌を歌いたい気分です。
思わず踏み出した靴音が、雨で濡れた土に揉まれてぴちゃぴちゃと歌いました。わたしは楽しくなって、空を仰ぎながら、くるくると変な踊りをして遊んでみました。
わたしの髪や耳、服が、どんどん雨を吸っていきます。こんなに綺麗な雨に濡れたら、きっとお色気ムンムンです。
むらさは、そんなわたしをじっと見ていました。
きっと、仄暗くもキラキラ光る世界のなか、綺麗な雨に濡れたわたしにメロメロなのです。
雨の庭の歌姫にだって、選んでくれるだろうと思っていました。
けれど、庭ではしゃぐわたしを尻目に、むらさはあまり機嫌がよくありませんでした。雨の入らない縁側で、面白くなさそうな顔をしてあぐらを掻きました。
わたしはぺたぺた走り回るのをやめて、むらさを見つめました。そのとき、むらさの顔がなぜか悲しそうだったことに気づきました。
「むらさ、どうしたの? 気分悪い?」
「……んなとこいると、風邪引くよ」
「かぜひく」
何だか不自然な感じがしました。どうしてむらさがそう答えるのか、わたしにはよくわかりませんでした。だから山彦のわたしは、ただ反響しました。
「風邪なんか引かないよ」
やっぱり変だと思いました。
服に染みる雫から温かさが伝わるほどに、雨の歌は穏やかでした。それぞれの雫の歌声が、庭中に反響してわたしの大きな耳へと伝わります。
わたしの力なんて必要ないくらい、雨の歌は広がっていて。それなのに、とても淑やかに囁き続けていて。
「こんなに優しい雨だもん」
わたしは言いました。
けれどもむらさは納得してくれなかったようで、ますます不機嫌な様子になりました。
「優しくなんかない」
「やさしくなんか、……」
雨の声が少し大きくなったように思いました。それとも、むらさの声が小さくなったのか。
わたしは反響を紡ぐことができませんでした。何か悪いことをしてしまったのだと思いました。
肩で飛び跳ねる音符たちは、依然楽しそうに歌っていました。わたしは歌声に囲まれたまま、むらさをぼうっと見ていました。彼女は黙って空を仰いでいました。
わたしがお風呂から上がっても、雨はしとしと歌をやめませんでした。いつしか雲の上で陽の光が傾いたのか、薄暗い寺は闇の帳を少し多くしていました。
木造の壁越しに聞こえるさみだれの楽譜は、少しづつ音符を増やしていきます。きっと今がサビの部分なんでしょうと、わたしは悠長に構えていました。
廊下へ出たそのとき。
一閃、雷光が走りました。
龍の声でした。幻想郷中が、一瞬で凄まじい光と音に包まれたことでしょう。この強烈な声は、わたしには反響させることができません。辺りの山すべての山彦を集めてようやく、この声を天にかえすことができます。
一拍遅れて、寺のどこかから「きゃー」という叫び声が飛んできます。怖がっているような、ちょっとだけ愉しんでいるような声。たぶん、一輪かな。わたしはそれに向かって、小さく「きゃー」を返しました。
ようやく、雨が怒りだしているのだとわかりました。
むらさは船長室という、自分専用の部屋を持っています。わたしは不機嫌だったむらさに謝ろうと思って、そこへ行きました。
木のドアを叩いて、小さな声でむらさを呼びます。返事はありませんでした。でも、いないはずはありません。なぜなら、むらさはいつもわたしの後にお風呂に入るので、毎日わたしが呼びに行っているからです。わざわざ新入りのわたしを立てるために決めてくれたことです。いなかったことなんて、一度もありません。
「むらさ? ……あの、怒ってる?」
恐る恐る聞きますが、やはり返事はありません。わたしはいよいよ心細くなってきました。反省するつもりでいますが、むらさの機嫌が悪い理由がちっともわからないのです。
ためらいましたが、ドアを開けてみることにしました。水色のカバーが付いたノブを、ゆっくり回し、そっと奥を覗き込みます。
ベッドの上には、大きなお饅頭がありました。
いえ、よく見ればときどき小刻みに震えています。どうやらこれは、頭から毛布をかぶったむらさらしいです。
今日のむらさはやっぱり変でした。わたしは彼女の行動が理解できなくて、ぽかんとしながらドアを開きました。放たれたドアが開き切り、壁にぶつかってガンという音を鳴らすと、お饅頭形のむらさがビクっと驚きました。
ゴソゴソ鳴らしながら顔を出したむらさは、わたしの顔を見て安堵したように溜息を吐きました。
「な、なんだ響子か。脅かさないでよ」
「ちゃんとノックしたし、声もかけたよ」
小さかったけど。
むらさは訝しげにわたしを見つめました。疑っているのでしょうか……。
一応謝りに来たのだけれど、この調子では意味があるのかどうか。わたしはどんどん不安になりました。それでも謝らないよりはいいだろうと思って、声を絞り出します。
「あの、さ、さっきは―――」
瞬間、再び閃光が走りました。遅れて、霹靂。さらに遅れて雨が、叩きつけられるような強い音を立てました。
むらさは今にも泣きそうな、ひどい顔になって、また毛布をかぶってお饅頭になりました。
なんて悲しい表情をするんだろう。見ているわたしまで泣きたくなるような、痛々しさが見えました。
ようやく合点がいきました。彼女は雷雨が大の苦手だったのです。
船幽霊は、海で亡くなった人の霊。
では、人がなぜ海で亡くなるかといえば――――。
雨音は次第に勢いを増していきました。幸い風の音はそう強く聞こえません。
わたしは耳を澄ましてみました。しとしとと降っていたはずの涙雨は、もうそんな優しい声をしていません。バラバラ、ビタビタと木に叩きつけられる雨音は、暴力のように、憤怒のように押し寄せてきました。
むらさを刺激しないようにしながら、わたしはそっと彼女の隣、ベッドの上に座り込みました。ゴロゴロという空の唸りを聞きながら、そっとお饅頭のなかに手を入れます。
お饅頭の餡がぴくっと動いて、恐る恐る顔を出しました。弱々しい涙目が憐憫を誘います。
わたしは彼女の両耳を塞ぐように、ふんわり手で包みました。わたしがお風呂上がりであったかいのもあるけど、それを差し引いても冷たい耳でした。
山彦が音を塞ぐなんて、滑稽です。わたしの声まで聞こえなくなっちゃうけど、仕方ありません。こんな方法しか、彼女を落ち着かせる術はありません。
彼女はきょとんとした顔をしました。恥ずかしいのか上目遣いでした。少し冷静になれたのかもしれません。
「むらさ」
「あぅ……」
わたしの声が届いたのかどうかはわかりません。むらさは声にならない声を出して、身を乗り出し、静かにわたしの胸に抱きつきました。
「わっ、わわ」
ちょっとだけだけど、緊張してしまいました。むらさがまるで子供のように甘えてくるものだから、びっくりです。
一瞬、雨の音がなくなって、衣擦れの音だけ聞こえました。手が勝手に耳から離れて、行き場所がなくなって、気がついたらむらさの背中と頭を抱き締めていました。
また、雷が落ちます。また、胸のなかでむらさが跳ね上がりました。
鼓動が聞こえます。くっつきすぎて、むらさの鼓動なのか、わたしの鼓動なのかわかりません。
むらさの指にどんどん力が入っていって、わたしの背中に食い込んでいきます。力はみるみる強くなって、ちょっと痛いかもと思ったとき、むらさは思い切り甘えるようにわたしに身体を寄せました。
ちょうど、ベッドの上へ押し倒されるような形になって――――鼓動が高鳴ったのは、明らかにわたしのほうでした。
この瞬間どうしてか顔が熱くなって、一瞬、めまいも起こしたような気がしました。
むらさの頭は、わたしの胸の上に押し付けられる格好でした。わたしはお風呂上がりで薄着でしたから、とてつもなく密着したように感じました。この平らな胸に顔を近づけられるのは、何だかすごく恥ずかしいのです。
しばらく、この体制のままじっとしていました。抱き合っているうちに、不思議と雷の怖さがまぎれて、安心するようになりました。いつになく甘えんぼうなむらさが、だんだん可愛く思えてきたりもするのでした。
ゴロゴロ。
ビュウビュウ。
パラパラパラ。
あんなに優しい雨だったのに、今やその面影もなく。パラパラと窓に打ち付ける雨風の音は、止む気配がありません。
ちょっとダマされた気分です。むらさは、こうなることをわかっていたのでしょうか。だとしたら、すごい観察眼です。
わたしは彼女の髪をなるべく優しく撫でました。
そのとき、急にバタンと扉が開いて、一輪が飛び込んできました。
「みつ! 平気!?」
きっとむらさの雷嫌いを知っているから、気になって飛んできたのでしょう。その割にはちょっと遅い気がするけど……彼女も雷が苦手なのでしょうか。
「あ、いちりん、あの」
「って、ちょおっと待て!?」
わたしは言葉を返そうとしたのですが、一輪はそれを待たずに声を重ねてきました。
「な、な、なんだ元気そうじゃない。しし心配して損しちゃった!」
どう見ても狼狽した様子で目をキョロキョロさせています。どうしたんでしょうか。
むらさはわたしにしがみついたまま「イチ……」と、ぼそっと呟くだけでした。まだ雷が怖くて動けないみたいです。
「あの、いちりん。むらさ、怖くて動けなくなっちゃったみたいなの」
代わりに、なんとかしてわたしが状況を伝えます。こういうときぐらい、気が効くところを見せないといけません。
「あ、ああ、そういうことね……わかった。仕方ないから今日のところは譲ってあげる」
「?」
「暴れて手がつけられなくなったら呼んでね。私を。わたしを」
「えっと……わかりまし、た……?」
何を譲ってくれたのかまではよくわかりませんが、一輪は部屋を出てドタドタと走って行ってしまいました。扉が開けっ放しです。
むらさに乗っかられたのが悪かったのでしょうか。
程なくして、しとしとと。
いつしか雨の音だけ響いています。
雷風の音が遠くなり、窓に打ち付けていた雨は、ただの雨だれに変わりました。
むらさも、ようやく会話ができるくらいに落ち着いてきたようでした。
「ごめん、響子」
「ん?」
「迷惑かけなかった?」
「え? ぜんぜん」
むらさはむくっと身体を起こして、私を見下ろしました。涙の跡が頬を伝っているのが、痛々しく見えました。
「いっつもなんだ。嵐が来るとパニクっちゃって。何してたんだか、後でよく思い出せなくって」
わたしも起き上がって、むらさの前に座り込みました。
「そうだったんだね。でもなんとなくわかるよ。おっかないの」
「情けないな。長く生きてもみんなに助けられても、私は過去ひとつ乗り越えられなくて……」
そう言うむらさの目はまだ辛そうでした。
「情けなくなんて」
「……でも今日は、響子が優しくしてくれたの、憶えてる。ありがとね」
言うと、むらさは随分ひさしぶりに笑いました。いつものあっけらかんとした様子ではなく、少し寂しそうな笑顔でした。
「やまない雨はないわ」
自然と口をついたのは、そんな誰かの言葉でした。これだけじゃなんとなく決まりが悪く思えたので、こう続けました。
「雨がやむまで、歌でも歌おっか」
「歌?」
「雨の日には、楽しい歌も悲しい歌も似合うんだよ」
軽くかしげられた頭を、わたしはくすくす笑いながら抱き寄せました。
「子守歌。むらさが安心して眠れるように」
「なっ。こ、子供扱いしないでくださいー」
拗ねたように答えつつ、むらさはちゃんと抱き返してくれました。目と目が合うと、彼女は不意に微笑みました。
わたしの胸がきゅんとなります。
なんだか可愛い。
落ち着いてきたむらさや雨音に応えるよう、わたしは静かな歌を歌うことにしました。静かで、雨で、明るい歌。優しくて、可愛くて、でもちょっぴり切ない歌。
目を閉じて、耳を澄まして。外の歌声を聴いて、むらさの匂いを感じて。
雨だれとともに、雨だれを歌いました。
「ちょおおおおお何やってんのおおおおおおおおおおおおお」
という怒号によって目覚めた翌朝。視界に入ったのは、盛大に剥ぎ取られたふとんが宙を舞う姿でした。
ふとんがふっとんでいました。一輪がふっとばしたようです。
「何するのぉ……」
わたしは言いながら、眠い目をこすろうとしました。
だけど腕を動かせませんでした。何事かと思って見てみると、誰かの腕が後ろから、ガッチリとわたしを抱きしめたまま眠っていました。
ドキッと。
わたしの胸が高鳴ります。
「あ、む、むらさ……」
遅れて感じられる、むらさの匂い。
ゆうべの雨音が思い出されました。あのあと歌っているうちに、いつしかわたしも眠ってしまっていたようです。
「はい死んだー! おまえら死んだよ! ここお寺だから! そういうのだめだから! はい破門ー! 今この瞬間に破門ー!」
「ええー!?」
物騒なことをぎゃーぎゃー騒ぐ落ちてきたふとんは再び蹴っ飛ばされ、けっこうな勢いで部屋の外まで飛んでいき、歩いていた聖の頭に直撃しました。
「あっ」
「あっ」
わたしと一輪の声が重なりました。
怒られる。たぶん二人ともがそう覚悟したと思います。
しかし聖は怯みもせずにふとんを捕まえると、一言「朝から賑やかね」と言ってどこかへ行ってしまいました。ふとんはなぜか連れ去られました。
一輪とわたしと、見つめ合いました。間に妙な空気が流れました。一輪が「ま、まあ勝負は預けておくわ」と言うので、わたしはつい反射的に「あずかった」と答えてしまいました。
なんで勝負しなきゃいけないのか、よくわからないのですが。
破門されるよりはいいので仕方ありません。
なんで破門されそうなのかもわからないですが……。
朝の光が、すっと差し込みました。
窓の外を見ると、六月に珍しく晴れ渡っていました。ゆうべの嵐が嘘のようです。
きっと昨日は、むらさが雨を悪く言ったから、空が拗ねちゃったのでしょう。ちょっとわがままだけど、寂しがり屋な子みたいです。
だけど、今わたしを抱いてすやすや眠っているむらさは。
一度は死んだ身です。いいえ、殺された身。雷雨によって、海の上で。
もはや想像できない経験だけれど、ああやって必死に雨を嫌がっている気持ちは、なんとなくわかる気がしてしまいます。
今は二人、仲違いしているのだと思います。
すぐにはできないかもしれないけど、いつか仲直りしてくれればいいな。そうすれば、きっとむらさも入れてみんなで、雨の歌を歌えるだろうから。それはとても素敵なことだと思います。
そういえば、ゆうべは結局謝りそびれてしまいました。
わたしはむらさの耳元に唇を寄せて、「ごめんね、ありがとう」と囁きました。
窓の外では、聖がふとんを干していました。
響子の優しさが伝わる良いお話でした
響子ちゃん可愛いっ。
そして、一輪さんは頑張れ。
相手は天然だぞ!? マジ頑張れ!
が、貴方の描くキャラクターは必ずどこかがぶっ飛んでいるww
純粋な響子ちゃんが巻き起こしたのは優しいそよ風か、混沌を招く突風か。
はぁ響子ちゃんかわいい。
そして聖つええ。
そして >ふとんがふっとんでいました。一輪がふっとばしたようです。
で不覚にも吹きました。とてもいいお話でした
響子ちゃんはどこまでも優しく、かわいかった。耳ぴこぴこ。
ただ書かない方が確実によかった
響子ちゃんはすごくよかったです