私、東風谷早苗は射命丸文が大嫌いだ。
どこが嫌いかと問われれば、いくらでも上げられる。
御柱に箇条書きしていけば、丸々一本埋め尽くすだろう。やらないけど。
例えば……そう、取材をしている時の顔だ。
へらへらとご機嫌伺いしているようで、その実”お前のことはなんでもお見通しだぞ”って表情。何一つ見落とすまいという意思がこもった、真剣そのものの目。威圧感を与えないためか、隠しているつもりみたいだけども、私にはばればれだ。表面では笑っていても、時折眇められる視線が刺さって痛い。
そんな表情が嫌いだ。
神様だと言っているのに、いつも「人間でしょう?」といなされる。
他にも「風の扱いがまだまだですね」とか「細い腕でよくやりますね」とか言いつつ、弾幕ごっこで手加減したり、里へ行った帰りに買出しの荷物を半分持ったりする。そしておまけで”これだから人間は”とでも言うように、呆れる所作をつけてくる。
そんな子ども扱いが嫌いだ。
境内の掃除中に邪魔をしてくる時がある。
「ネタを提供しない巫女に用事はありません」なんてことを言う。その癖三日と開けず、大きく羽ばたきながら鳥居の向こうに降り立つ。挨拶を交わして、しばらく立ち話。そのまま取材へ向かう。何をしにきたんだと言いたい。あと私は風祝だ。
そんな忙しなさが嫌いだ。
私が幻想郷に越してきて二ヶ月も経たない頃。
夕焼けを目に入れると、なぜだか外の世界に残した物が思い出され、泣くことがあった。中秋の物静かな空気を通して見える入日は、紅くて大きくて怖かった。そういう時にはいつの間にか射命丸さんが隣にいて、その翼で私を包んでいた。
そんな慰めの押し売りが嫌いだった。
まだまだ出せるけれど、大嫌いになった決定的な理由がある。
目の前にいる、馬鹿で鈍感で無神経な鴉天狗がなんでもない様に放った一言。
「貴方は好きな人がいますか」
いるわけないじゃないか。そうだとも。
***
大失敗したようだ。
「私としたことが」
ため息と共に自嘲の念が漏れる。何度目だろうか。
軽く首を捻って太陽を見る。中天にさしかかろうとしていた。守矢神社を後にして半刻ほども経っただろうか。それ以来あてどなく飛びっぱなしだ。それでも背中に圧し掛かる失意が薄らぐ気配はない。
完璧だったはずだ。ありったけの平静さをかき集めて、慎重に、軽く、明日の天気を話題へ出すように問えたはずだ。あれだけの集中力を発揮できたことへ、自分に賞賛を贈りたい。御柱を百本まとめて投げつけられたところで、汗一つ掻かないまま避けきれただろう。
もっとも冷や汗は掻いた。拭き取る気力もなかったが、飛ぶうちにあらかた乾いた。それでもまだ、服に隠れる翼の付け根が蒸れてて、ちょっと気持ち悪い。ブラウスを脱ぎ捨ててしまおうか。
「人間は分からないわね」
ため息をもう一つ。
三日前、博麗神社で開かれた少し気の早い花見の席。
興がのってきた鬼達は吼え、相手が誰であろうと構わず飲み比べに出る。
白玉楼の庭師が注される酒を断りきれず、透き通った白の表面に朱が散る。
そんな頃合だ。
早咲きを相手に、隅で手酌を傾けていると、喧騒を潜り抜けて耳に届いた会話があった。
そちらに目を向けてみれば、巫女が二人に普通の魔法使いがいた。
内容はと言えば、ありふれた色恋の物。酒精も入り、年頃でもあるためだろう。花が咲くのも当たり前だ。
これも肴に、と聞き続けた。
谷河童が機械弄りに熱中するあまり恋人を放置し、厄塗れになる運命を危ういところで避けたこと。
「退屈だ」そう蓬莱人から、満月に照らされたうなぎの屋台で、延々聞かされたという愚痴。
動かない図書館の主と、人里に住まう書の僕が交わした恋文について。
話題があちらこちらへと移るたび、三人の表情もころころと変わる。
突然嬌声を上げたかと思えば、声を落として密やかに語り合う。
そうした恋話が幾らか続いた後、風向きが変わるのを感じた。
「そういえば」紅白の巫女が一息つくかのように言った。「魔理沙、あんたはどうなのよ」
「あー? 何がだ」
とぼけた聞き返しに、からかいの色を帯びた声が重なった。
「アリスに決まってるでしょ。あいつ忙しいみたいじゃない。今日も来てないし」
確かに人形遣いはまだ見ていなかった。
麓の巫女は目敏い。
「それがどうしたって言うんだ。魔法使いなら、研究で一ヶ月籠りっきりになったりするのは普通だぜ。そんなの、お前だって知ってるだろ」
ぶっきらぼうに早口で言い放った。
よろしくない方向へ話が向きかけているのだ。そこから逸らそうしているのは、誰だとて察しが付いただろう。
「別にー。ただあんたが寂しがってるんじゃないかなぁ、とちょっと思ってね」
「なっ、なんで私が寂しがらなきゃいけないんだ!」
面白げに響く酔っ払いの声に対して抗議が上がった。
これだけ分かりやすい人間も早々いないだろう。その胸で燻る想いも。周りで観察したなら一目瞭然だ。
「えええ魔理沙さんてばもしかしてあれですかアリスさんに恋心抱いたりしちゃってるんですか!」
気付いていない人間がいた。早苗は相当恋愛に疎いのかもしれない。
横目で覗ってみれば、両手をついて力の限り魔理沙へ迫っていた。右に左に揺れる体が危なっかしかった。
「ないないないなんで私があんな温室魔法使いに恋をするなんて絶対ない!」
酔っているせいか動揺からか言葉が変だ。ついでに耳まで真っ赤になっていた。
「何、早苗気付いてなかったの? アリスの前だとこいつはそわそわしっぱなしなの。面白いわよ」
「へええええぜひ見せてください恋を患う魔法使いの乙女な姿なんてかわいすぎるじゃないですか!」
「だからそんなことはない! 私はどうだっていいだろ大体お前こそ紫とどうなんだ!」
「なっ」
攻守交替。こちらは誤魔化しが効かない。先日、私が記事にしたものが理由だ。
少々失礼ながら、私とネタを隔てる障子に穴を開けさせてもらった。覗いた先には、神社の居間でくつろいでいるスキマ妖怪。そこへ紅白の巫女が全身で抱きつく場面をすっぱ抜いたのだ。
後日、刷り上った新聞を携え巫女を訪ねたところ、日が暮れるまで夢想封印による歓待を受けた。
あれだけ喜んでもらえると、記者の冥利を感じずにはいられない。
「さっ、早苗はどうなの! 誰か気になってる一人もいるんじゃない」
流石にそのすり替え方は強引に過ぎるだろうと思った。しかし早苗に関しても興味がある。
幻想郷に来てから半年程度経っているとはいえ、新参には変わりない。彼女の情報なら艶めいた話もいい記事になる。
さらには保護者の件もあった。いつだったか、似たような話題が山の巫女に及んだ際。酒臭さを体中に纏った八坂様が、身も世もあらぬ態で乱入してきたのだ。
曰く「早苗にはまだ早い」
曰く「巫女とはその奉じる神と契りし者」
曰く「私は祝を絶対手放さない」
支離滅裂なまま喚き暴れ、程なくして洩矢様の間欠泉で高々と打ち上げられ事なきを得た。
その時は、結局聞けないまま有耶無耶に終わり、もどかしい思いをした。
当の乾神はといえば、中央で樽を片手に舞っていた。これなら邪魔には入らない。安心だ。
武を扱うからだろう。一挙手一投足に雄雄しさが見える。そうした中でも、酒気と共に匂い立つ華やかさがある。それに向けて喝采が上がった。気を取られかけたが、ここしばらく好奇心を煽られてきたネタだ。それが聞ける絶好の機会をみすみす逃すわけにはいかない。
規則正しく左右へ振れていた巫女が、勢いよく背筋を伸ばす。頬を笑みと紅とで埋めつつ、口を開いた。
「わたしですかー。わたしは
「おおい天狗! そんな静かに飲んでいるなんて似合わないよ。ここに座れ。飲み比べだ!」
角を生やした伏兵がいた。
山の社会は上下に厳しい。”元”と注釈がつくとはいえ上司の誘い。断れるはずもなかった。
それが三日前だ。
鬼の酒でぐるぐるする頭を抱えながら宴会から戻り、そのまま寝床に倒れこんだ。
あの様子だ。想い人のいないわけがあるまい。
どうしたわけか探究心が燃焼不良を起こした。その煙が黙々と心を燻し続ける。ずっと以前から気になっていた件だというのに。
焚きつけられたまま、何も行動へ移さないのは性に合わない。そう思い何度も身を起こそうとした。しかし、どうしても羽が持ち上がらなかった。この重石は何処から来たものだろうか。
ただ鬱々と刻を数えた。
使い魔の鴉がネタを抱えて注進に来た。どうでもよかったので自由にさせた。
ようやく腰を上げられたのが今朝だ。
花見以来の歴史が降り積もっていた服を換えた。あちこち跳ねる髪をのろのろと整えた。
楽しげに語り合っていた調子をなぞって聞き出せばいい。なんでもないし、簡単だ。易々と秘密を暴ける。取材して記事にすればいい。自分に何遍も言い含めて、やっと家を出た。
山の神社へ辿りつき、巫女が境内に出ていることを確かめた。殊更に空気を混ぜ返して私に気付かせた。挨拶を交わした。益体もない話を二、三遣り取りした。ここまでは普段通りだ。
その間だけで、背中に無数の汗が浮かんだ。
本命に備え、丹田へ力を溜める。膝が笑いだしかけたので、無理矢理抑え込む。気取られないよう、何気なさを装って切り出す。
「貴方は好きな人がいますか」
大失敗だったようだ。
しばらく巫女は呆気に取られたような表情で立ち尽くしていた。
徐々に頬が膨らみ、顔に赤みが差し、こめかみに青筋の浮き立つ過程を見た。
それからは阿鼻叫喚だ。
符が舞い、風が荒れ、水が狂った。
ほうほうの態で抜け出せたのが半刻ほど前だ。
今朝方まで、たかが人間と侮っていた自分が馬鹿に思えて仕方ない。実際馬鹿だった。寝不足で万全とはいえない体調だったというのもある。しかしそれを差し引いても、避けきれる気が微塵もしなかった。あれほどの弾幕を張れる人間がいるなど、夢にも思わなかった。
「参ったわね」
ため息を追加で一つ。
何故、急に血相を変えて撃ち込んできたのだろうか。
他人へ胸中を曝すことに、それほど苦痛を感じたのだろうか。宴会での様子を思い出す限り、それはないはずだ。むしろ嬉々として打ち明ける様は、幸せを感じているようにさえ見えた。
平常を心したはずの世間話で、なにかしら粗相をしたのだろうか。こっちはありそうだ。私が人間について分かっていないのは確か。かてて加えて彼女は外来人だ。馴染んできているとはいえ、幻想郷とはまた違った倫理観を持っているのかもしれない。知らず知らずに、彼女の逆鱗へ触れていたとしても頷ける。
なんにせよ、こうなっては聞き出さずに済ませるなんてできそうもない。
ほんの一刻も前にあった躊躇いが消える。
突撃取材は無理があったのだろう。分からないということは分っていたつもりだが、ここまで通用しないとは。考えを改めて、今の人間を理解するところから始めなければならないだろうか。しばらく唸って思いついたのは、懇意にしている谷河童だ。人間の盟友を謳う以上、私よりは彼女達についての知識もあるに違いない。
運が良ければ巫女の激怒した理由を知れる。気がかりな答えも得られて、記事に出来るかもしれない。
方針を定められたことで翼に少し力が戻る。九天の滝を源にする流れへ進路を取る。
***
あの鴉天狗には苛々させられる。
言うに事欠いてなんだ、「好きな人がいますか」だと?
脳がその言葉を認識した瞬間、いたけどいなくなった。
そのまま頭に血が昇って行き、わけが分からなくなった。気が付けば、広い境内に私一人だけ立っていた。ついさっきまで手にしていたはずの竹箒が、少し離れた所で横たわっていた。拾おうと身を屈めたら無闇に惨めな気分になって、嗚咽と涙と鼻水が一斉に溢れ出ようとした。限界だ。両足に力が入らなくなって、両手で顔を覆って泣いた。玉砂利を敷く膝が痛かった。
大嫌いだ
あの人の瞳に私は映っていない。
私が抱えた荷物を渡す時に重なった手の柔らかさは嘘だ。
気安げに投げかけてくれた挨拶は嘘だ。
震えが止まらない肩を抱いてくれた翼の暖かさは嘘だ。大嘘だ。
早合点して一人で浮かれていた私は大馬鹿だ。
そこに思い至った途端、喉から漏れる音がしゃくりあげる笑い声へ替わる。
今泣いて、笑っている原因は、私の一人相撲。勝手に勘違いして、勝手に期待した結果がこれ。
小さい頃から私は、思い込みが激しいと言われてきた。どこかに仕舞ったきりの通信簿を、どれでもいいから開けば分かる。そこに見える”もう少し落ち着きましょう”って文句と私はお馴染みだ。昔と変わらない。
初恋は破れる物だ、と聞いた覚えがある。
なるほど、それならこうして私が笑っているのも道理だ。
初恋は破れる方がいいのだ、とも聞いた気がする。
人生のためになるからだそうだ。当たっていると思う。
こんな思いをしたなら、いくら私が馬鹿だろうと忘れはしないし、しっかり学べるだろう。
三日前の宴会で、好きな人について語った風景が目に浮かんだ。
宵闇に浮かぶ早咲きの色。月明かりと混ざった桜が幻想的だった。
花に酔った私は、楽しくて、幸せで、何も疑おうとしていなかった。
記憶は鮮明でも、外の世界に残した思い出みたく感じた。
今朝までの私に”もう少し落ち着きましょう”って文句を赤ペンでつけよう。
「ばか」
ため息と共に最後まで残っていた涙を押し出す。しばらくそのまま呆けていた。
軽く頭を巡らせ日に目をやる。中天にさしかかろうとしていた。境内に座り込んでから一時間ほども経っただろうか。立ち上がろうとしたら足がもつれた。春先の冷えた地面で強張ってしまったようだ。
遅れたけれど昼餉の支度をしないといけない。
そう考えたところで、胃の辺りに不快な重みを見つける。どうやら何も食べられそうにないようだ。
無理に口へ入れたら、きっと吐く。
神饌を調えたら、そのまま失礼しよう。買出しなり分社の様子を見るなり、理由をつけて外に出ればいい。心配をおかけするだろうけど、仕方ない。
もし一緒に食卓を囲めば、必ず私の不調を見咎める。
それでなくとも、ただ顔を合わせるだけで察するだろう。二柱はお優しいから。
そして、私が今気遣われたら、きっと泣く。
でも、先に顔を洗おう。涙の跡がひりひりするし、突っ張ってる。目も赤くなってるはず。鈴仙さんになれたかも。とりあえず、これを流さないとどうしようもない。
跡と言うよりフェイスパックみたいだと思う。結局使う機会はなかったけど。これも鼻やら喉やら涙腺やらを全部使って泣いた成果だ。
眉を上げてみたら、それにつられて頬まで動いた。ちょっと面白い。録画してみようか。
向かう先は井戸だ。
台所にも汲み置きの甕はある。けれど中に入れば、二柱のどちらかと鉢合わせするかもしれない。そんな危険は冒せない。
お勝手に周り、井戸へバケツを落とす。
「ありゃ、早苗か」
釣瓶を半分ほど引いたあたりで、背中に声が掛かった。迂闊だった。
諏訪子様は、裏手にある森の散策がお好きだ。お昼時に合わせて、そこから帰っていらしたのだろう。
「お帰りなさいませ。顔を汚しましたから、背を向けたままで失礼します。ご飯はもうしばらくお待ちくださいね」
息は整えた。日常通りの応えにできたはず。
バケツを引き上げる。
「ただいま。汚れたって怪我はしてないの。さっき結構派手にやらかしてたけど、大丈夫? また天狗?」
言わないでください。
あっという間にぼやけた視界へ水をぶつける。
「ありがとうございます。私はなんでもありません」
力を入れて返す。
喉のひくつきを抑えきれなかった。でも、きっと本当に僅かな違い。
「早苗。こっち向いてごらん」
駄目だった。
静かで、有無を言わせぬ調子に渋々正対する。
見つめられる。観察する目。けれども柔和な目。いつも私を見守り続けてくれた目。
視線を合わせられず、御尊顔から胸元へ逸らせてしまう。
「そっか、もういいよ。お前は部屋に戻ってな。ちょっと疲れてるみたいだし」
「ありがとうございます。お言葉に甘えて少し休ませて頂きますね」
途中から言葉が震えた。
一礼して、中に駆け込む。
ほら見ろやっぱりだ。やっぱり優しい。だから会いたくなかったんだ。
***
正午をまわっていくらかした頃、目的地が近づいてきた。
眼下には水量の豊かな流れと、それに寄り添う森が見える。しばらく上ると、小さく木立に切れ目が入る。日当たりはよく、川筋を下る風が穏やかに脇をよぎる空白。いつもの場所だ。
そこに目当ての人影を見つけた。
「おや、天狗様。しばらくのお見限りだったね」
「少々立て込んでいたんですよ。にとり」
乾いた木と木が打ち合う。岸を洗う音へ混ざる幽かな拍子。
河童がしかめ面を作ってみせる。将棋盤を挟み、白狼天狗が泰然自若として構える。
「文さんは取材となるとそれ以外が見えなくなります。何も変わったことはありません」
「うるさいですよ、椛。私のやり方にケチをつけないでください」
駒を指した水色がこちらに顔を向ける。
紅の塊が隣で日向ぼっこをしていた。
「うわっ、ひっどい顔。どうしたのさ、文」
「本当にひどいわね。木槌を前にした塗り壁の方がまだましよ。厄も随分溜めこんでる」
厄神様が起き上がりつつ、にこやかに貶してきた。
すぐさま厄を巻き取り始めてくれたのはありがたいが。
「そんなにひどいですかね」
「今すぐ火葬場に連れて行きたくなる、って言ったら伝わるかな。そこで顔洗ってきなよ」
「多分伝わりました。そうなった原因があるんですよ。それに関して貴方達へ相談してみようと思いまして」
言われっぱなしは悔しい。
そう告白しながら、おとなしく川へ向かう。
そんな私の背後から、珍しいだの熱があるだの明日は槍が降るだの、散々な言葉が降り注ぐ。
確かに、鴉天狗の矜持を枉げてまで他者に知恵を求めるなど、本当に久しぶりだ。仕方ないかもしれない。
「とりあえず聞いてください」
凍えるような雪解け水を被り、幾分か気が晴れたところで始める。
ここへ向かう道中で話す内容を整理した。躓くような箇所もなく説明できるだろう。
聞いているのかいないのか、合間合間に盤上から生まれる音が差し込まれる。
「えーっと」
あらましを伝え終わった後、河童が呆れたような声を出した。
「雛はどう思う?」
「唐変木」
間髪いれず、容赦ない言葉が返って来た。
「じゃあ、椛」
「純粋な早苗さんを、そういう風にからかうのは感心しません」
「そして私は二人に大賛成だよ。天狗様」
多数決の結果、私は黒のようだ。
不満を口にする。
「からかうとはなんです。取材にもならない、ささやかな疑問を投げただけじゃないですか」
「なんでこんなのに早苗が惚れたんだろうなー」
「妖怪の山七不思議に加えてもいいわよね。不憫な早苗」
「こんなのだって一応鴉天狗ですよ。貶しすぎるのはお勧めしません」
終いにはこんなの呼ばわりだ。
何か聞き捨てならないことを言われた気がする。
「巫女が、私に惚れた?」
「まさか気付いてなかったって言うの? べた惚れでしょ」
三人が顔を見合わせる。
「本気で知らなかったようですね」
「あれって、いたずらの結果報告だと思っていたわ。違ったのね」
「私も。そう思ったから、文の株を下げたんだけど。上げ直すには微妙だなぁ」
有り得ない。あの巫女には私なんかじゃない、意中の人がいるはずだ。
「有り得ませんね。何故そういうことになるんですか。大体三日前にあった宴会のことも話したでしょう。彼女は誰かに懸想しているんです」
「どうして、その懸想してる誰かさんは文じゃないって言いきれるのさ」
「それは」
何故だろう。
早苗が同性同士での婚姻に、禁忌の念を抱いていると思った?
時代錯誤だ。河童と厄神様を見て、「羨ましい」としょっちゅうこぼしている。それはない。
何度も主張されているように、彼女は現人神。神へ嫁ぎ夫婦神になると考えた?
それもない。そもそも妖怪と神の間に本質的な違いはない。
彼女の相手は人間だと決めつけた?
あの常識破りな巫女だ。そんな考えは端から捨てている。
なら何故。
「それは」
その後が続かない。
私としたことが、こんな問題で。
乾いたはずの背に、湿り気を感じる。傾き始めた春日を、頬にじりじりと受ける。
「降参みたいだね。椛、正解をどうぞー」
「文さんは初心なんですよ。自信を持てないんです」
私に自信がない? 誇りある鴉天狗を捕まえて?
「乙女だよねぇ。そんなことでうじうじ悩むなんてさ」
「初々しさが見てて飽きないわね」
私がいつ、悩んだというのだ。
「話が見えませんね。私に自信がない件と、巫女が想う候補に私を含めない件。どう繋がるんですか」
分からない。
「もしかして自覚してないの?」
「何をですか」
「天狗様が山の巫女にぞっこんだってこと」
それも有り得ない。どうして私が人間に。
三人が私の顔を覗き込む。河童が盛大にため息をついた。
「道理で話が噛み合わないはずです」
「何を相談しに来たのか不思議だったけど。やっと分かったわ」
「どう見ても知らなかったって顔だよね。じゃあ、聞くよ。普段守矢神社へ用もないのに通うのは何故」
「通り道だからですよ。挨拶をして損はありません。彼女達との親交は山が受ける利益に直結します」
親交は信仰へ通じる。
信仰により守矢の神々が力を増せば、それに合わせ、山の神気も高まる。
畢竟、上層部が勢いを増すのは気に食わないが、余剰の力は動くために役立つ。それは使える手段が増えるということだ。取れる選択肢はあればあるだけ余裕となる。
「大層暇のかかる通り道があったもんだね。次、私達の場に出す話題が早苗に終始するのは何故」
「何せ新参の外来人ですからね。目新しさには尽きません。必然でしょう」
だからこそ、宴会でも傍耳に注意したのだ。そこに他意はない。
新聞はまず、印象的な写真と見出しで耳目を惹き付けるところから始まる。ならば、珍しい・話題性のあるネタを題材に据えるのは当たり前だろう。格好の対象が山の巫女だった。
余った・記事にならない程度の話を、身内で消費している。
それだけだ。
「”ネタにならない巫女だ”ってぼやく癖にね。最後、早苗達がここへ来た当初の二ヶ月。神社の監視を増員する件について、何度も打診を受けてたよね。全部断って、一人きりで続けたのは何故」
「情報を独占するためです。分かりきってるでしょう。あれだけ美味しい状況は早々ありません」
そのままだ。何か一大事でも起きていれば、去年の新聞大会では優勝出来ていただろう。
結局、麓の巫女と魔法使いが喧嘩を売りに(または買いに?)来ただけで終わったが。
「意地を張るわね。離れて愛でたい初々しさを通り越して、虐めたくなってきたわ」
「文さんですからね。頑固さだけなら、私達白狼天狗と比べても遜色ありません」
彼女達が持つ、私に対する評価はどうなっているのだろうか。
河童がまた一つ、大きくため息をつく。その手に桂馬が踊る。
「じゃあさ。早苗が怒った理由も分からない?」
「分かったら苦労しません。それを解明するために、ここへ来たんですよ」
「やっぱりそうだったんだ」
複雑怪奇な寄り道をして、ようやく本題に入れた。
眼前に舞っていた駒が、気圧される勢いを持って升目へ落ちる。
「ほんとは自力で気付いて欲しかったんだけどね。埒が明かなさそうだから言うよ」
助かった。これで難題が一つ解けるかもしれない。
「早苗はね、文にだけは訊ねられたくなかったんだよ」
余計に混乱した。
「何故私なんです。そもそも特定の個人に聞かれたくないなんてどういうことですか」
質問を連ねる。晴れると期待した霧が厚みを増した。
「何も言わずに聞いてよ。説明するから」
不承不承頷く。これも頭に巣食い続ける雲を払うためだ。
にとりが盤面に注ぐ視線を外し、私の目を覗き込んできた。
「早苗は文が好きなの」
「だからそれは有り得な
「黙って聞いて。早苗はよく抱きついたり、おぶさったりしてくるでしょ。椛と文限定だけどさ。あれって文に対しての方が、ずっと多いこと分かってる?」
嘘だ。そこへ座る犬にばかり寄っていくじゃないか。「椛さんの耳ってかわいいですよね」なんて言いながら楽しそうに抱きつくじゃないか。
銀が構える。
「早苗って、ちょくちょく焼き菓子を作ってきてくれるよね。好物を訊かれた文が答えに挙げてからなんだよ。気付いてた?」
矢倉囲いに穴を開ける。
そう言われると、あの後からだったかもしれない。
巫女が焼いたクッキーは、里のカフェーで供される物より断然美味しい。つい食べ過ぎてしまい、皆から非難される。
「梅が咲いた頃。早苗が”私と新聞、どちらが大切なのか”って、文に訊いたの覚えてる? 冗談めかしてたけど、ちょっと涙目だったの知ってた?」
香車が成る。
覚えている。ネタの裏取りに追われた結果、一週間会えなかった直後だ。
久々だったせいか、巫女の顔を直視できずにいた。分かるわけないだろう。適当にあしらいつつ、後者だと答えた。
「早苗は文が好きなんだよ。これを飲み込んで」
判断がつかない、曖昧な例ばかりじゃないか。
玉が逃げる。
「そして、文は早苗が好きなの。ここへ皆が集まっている時、文はいつも早苗の隣に居るんだ」
そうだったろうか。気にしたこともなかった。
言い聞かせるような声音。それへ続く硬質な音が耳朶を打つ。
「そうして早苗の気を惹こうとするんだ。『私の翼はふさふさですよ』とか『風の扱い方を教えてあげます』とかさ。大抵振られてるけどね」
それは勘違いだろう。
棋譜が進む。
「何か集まりがあった時、いつも文はまず守矢の神様達へ挨拶に行くよね。それからは呼ばれない限り、ずっと早苗の近くにいるんだ。目も離さずにね」
初耳だ。
白狼天狗の耳が垂れる。
「文は早苗が好きなの。早苗は文が好きなの」
「それで早苗は”文は早苗が好き”って思ってたし、”早苗は文が好き”だってことを文は知ってるって思ってたんだ」
「でも、そんな時に、文から”早苗が誰を好きになろうと関係ない”って言うような態度で『好きな人がいますか』なんて聞かれたら……そりゃぁ怒るさ」
王手
駒が一際高く鳴る。
***
ノックが二回鳴る。
「早苗」
神奈子様だ。
慌てて跳ね起きる。
「このままでいい、すぐ済むわ。出掛けてくるって伝えに来ただけ」
声を出したつもりなのに、乾いた空気が漏れ出る音だけを聞いた。
腕を枕元についたまま、内と外の境へ体を捻る。
「諏訪子も一緒よ。今夜は遅くなるから、戸締りだけ忘れないようにね」
「はい、分かりました。行ってらっしゃいませ」
「土産に美味しい酒を期待してて頂戴」
廊下の軋みが遠のいてゆく。
よかった。掠れていたけど、なんとか返事は出来た。
力が抜けた。支えを失った体がシーツへ沈む。ぬいぐるみを抱き寄せる。
お土産は、あの方なりのお気遣いだと分かってる。
ご自身が好む物ならば、誰それと縛らずに、笑顔にできると信じて疑わないのだ。
私はアルコールが苦手なのに。
縫製のワニへ顔を埋める。くぐもった笑い声が部屋に響く。
そんなお気持ちが有難い。涙が出るほど有難い。
寝ていたはずもないのに、記憶がおぼろげだ。
昼からの行動を浚ってみる。
顔を洗った。諏訪子様をお迎えした。部屋に戻った。ベッドに倒れこんだ。神奈子様がお出でになった。
泣いた
そうだった。それ以外は何もしてない。なら頭に残らないのも道理だ。
そんなことも忘れるなんて。やっぱり私って馬鹿だな。
渇きを覚える。
当然だ。あれだけ水分を無駄にしたのだ。
口蓋に張り付いた舌を意識する。気持ち悪くてたまらなくなった。
何か飲もう。
ぬいぐるみを放し、毛布から這い出る。ノブを回す。
窓から入る日光が頼りないせいだろう。廊下は少し薄暗い。
部屋を出る前は気付かなかったけれど、夕暮れが近い。
土間に下りる。
甕の蓋にかかった柄杓を取って、コップに水を汲む。
昼間の陽気が溜まっていたせいだろう。ちょっとぬるかった。
一息つけた。顔も洗おう。
部屋へ戻ろうとして、上がり框に足を取られて転んだ。大して痛くもなかったのに、涙が零れた。
私は、こんなに泣き虫だっただろうか。
居間へ目を向けると、ちゃぶ台に蝿帳が載っていた。見慣れた連絡に使うメモ用紙も一緒だ。
おにぎりの群れと、豪快で達筆な「早苗へ」という文字が見える。隣にはピンクのハートマーク。
こっそり書き足したのだろう。そういう茶目っ気を諏訪子様はお持ちだ。
ぼんやりとそれを眺めていたら、小さい頃にあった運動会を思い出した。
周りの大人達は、見上げなければいけない高さだったから、私が多分小学二年生くらい。
弔事か何かと重なり、両親は来られなかった。
校庭の隅っこに一人で座り、謝りながら持たされたお弁当を開ける。
少し離れて友人とその親が、談笑しながら食事をしていた。寂しくて涙が滲んだ。
そうして、もそもそと玉子焼きを飲み下していたら、お二方がいらっしゃったのだ。
神奈子様の御手には、スイカでも包んでいるように膨らんだ風呂敷。
満面の笑みと共に解かれた中には、おにぎりの群れが詰まっていた。
私はすぐさま機嫌を直して、それを頂いた。美味しさに涙が滲んだ。
昼食が済んだ後、昼休憩の終わるまで、諏訪子様に遊んで頂いた覚えもある。
当時は、変な帽子を被った近所のお姉ちゃんとしか思ってなかったっけ。
知らなかったこととはいえ、今思えば不敬な話だ。
目の前にある、綺麗に揃った三角形を一つ手に取る。噛み締める。
そうだ、こんな味だった。
二柱は、何度私を泣かせたら気が済むのだろう。
紅く染まる境内に出た。
入日を見なければ、今日を終わらせられない気がしたのだ。
静葉様が度々仰る言葉を思い出す。「終焉は日常」という話。それには容易く頷ける。
終焉があったればこそ、守矢神社は幻想郷に来た。
日々、私達が口にしている物は、全て終焉を含んでいる。
今また夕焼けを浴びて、肌にそれを感じる。
私は忘れることができるだろうか。
射命丸さんの声。射命丸さんの視線。射命丸さんの体温。
聞くたびに、交わすたびに、触れるたびに幸せを感じた。
それを今更追いやれるだろうか。
今朝、私に訊ねた時、あの人が見せた無関心な顔。
私もああいう顔で会えるだろうか。
私は全てを忘れて生きていけるだろうか。
西の空を眺める。
紅くて大きくて怖い円が、地平線に沈んでいく。肩が震えた。
なんてことはない。私はずっと泣き虫だったのだ。
運動会があった、あの日から泣きっぱなしだ。これからも泣くだろう。
そんなある日、暖かな翼が私を気紛れに慰めてくれただけなのだ。
それを今失ったところで、以前に戻るだけ。なんてことはない。
境内に薄闇が降りていく。
そろそろ中に入ろう。お二方には気を遣って頂いた。お帰りになった時のために、夜食を準備しておこう。感謝を込めてとっておきの新巻鮭だ。おまけに秘蔵のブランデーを出してもいいだろう。
縁側に体を向ける。
風を感じた。
***
結局、あれから三人には散々なじられ、発破をかけられ、追い出された。
「なんで天狗様はたまに危なっかしいんだろうね」
「それも魅力だと感じる人がいるかもしれないわよ。山の巫女とか」
「もたもたしてないで、早苗さんに謝ってきてください。きっと泣いてます」
勝手を言ってくれるものだ。私はまだ納得してないのに。
ため息を漏らして、遠くに沈みつつある紅を見やった。
そういえばこんな日だったかもしれない。
私がネタを仕入れ帰宅する途中のことだ。
初秋に彩られた背景の中、でたらめに飛ぶ影をみた。
少し気にかかって観察を続けた。何せここは妖怪の山。何事かあり、それを見逃したとなれば大目玉だ。
どうやら人間のようだ。見慣れた特徴的な巫女服を着ているが、配色は記憶にあるものと違う。
何故こんなところにいるのか。不思議に思って距離を縮める。
彼女は綺麗だった。
光の中、なびく黒髪が碧に燃えていた。
白磁の肌に、夕日を照り返す汗が煌いていた。
端整な顔に、頑是無い童の浮かべるような笑みが輝いていた。
一番星が出てしばらく経った頃。彼女は山の奥へ去っていった。
後に機会を得て、あの時なにをしていたのか問うたことがある。
「初めて人目を気にせず飛べたんですよ。舞い上がっちゃってて、覚えてません」
鴉天狗は飛ぶことが好きだ。
私も例に洩れない。新聞で行き詰った時は、よく頭を空にして飛び回る。生き甲斐だと言ってもいい。
それでもあそこまで楽しげに、幸せそうに、生き生きと空へ舞う誰かの姿を、見た覚えがなかった。
はにかみながら答えた彼女の顔も綺麗だった。
一体あれは何だったのか、と疑問を浮かべながら家へ戻る。
玄関の前に、はたてがいた。鼻高天狗による召集がかかったことを伝えに来たらしい。
それへ応え向かう道中、並び飛ぶ同僚から事情を聞いた。
曰く「新参が来た。神社と湖ごと幻想入りを果たした常識外れだ」
曰く「強大な力を持つらしい神の出現に、上層部はてんやわんやだ」
曰く「監視をつけたいが、白狼天狗では力不足だと言う。速報性の確保に鴉天狗を駆り出したいようだ」
「私はそんな気が張りそうな任務。つきたくないんだけどね」
面倒くさそうに締めた物言いは、何事にも悠長な彼女らしい。
念写はこういう時に便利だと思う。一報に添えられた、当の新参らしき姿が映る写真も渡された。そこへ半刻ほど前に私が見た少女もいた。
私は、上司の人員を求める声に応じた。
翌日のことだ。
私は日の出と共に、神社を見渡せる枝へ身を潜めた。
奇妙な帽子が、退屈そうに跳ねる頭の上で踊っていた。
軒先で外来人らしい、これまた奇妙な洗濯物が日光を浴びていた。
しばらくして神々が出払ったようだ。境内に静寂が降りた。
「暇だわ」
早速飽きた。
所々物珍しい光景はある。ネタを探し、何刻も張り込む忍耐力は記者に必須だ。しかし、私は彼女達の威容を聞かされていたのだ。刺激のかけらも見当たらない。これでは吸血鬼へ仕える門番を眺めるのと大差がない。
溢れていた期待が肩透かしを食らった。使い魔の鴉とじゃんけんで暇を潰した。負け越した。
いつの間にか眠っていたらしい。はっきりしない頭を振って、状況を確認した。
夕闇が迫っていた。木々の下は薄暗い。境内に、一つ白い影がある。
どうやら巫女が帰ってきていたらしい。いいだろう、監視を続けよう。目を凝らす。
「何をしてるのかしら」
戸惑った。よく分からないその姿を観察する。
力なくしゃがみこんでいる。肩が小刻みに震えている。目元に握りこぶしをあてている。口元が醜く歪んでいる。
泣いているのか?
何があったというのか。昨日見せた快活さはどこへ行ったんだ。輝くような笑顔はどこへ消えたんだ。
考える。
私は彼女へ何かできるだろうか。ひたすら見守り、動きがあるまで待機する。それは退屈だ。
能天気な顔で近寄り、事情について取材を申し込むか。できるわけがない。
慰めるべきなのだろうか。見知らぬ鴉天狗からの、余計なお世話。それも無理だ。
逡巡する私の視界に、小さく縮こまった姿が入る。
ままよ、とばかりに隣へ降り立つ。しかし掛ける言葉が思いつかない。
どうしたものか。巫女は、私に気付いた様子もなく泣き続けている。
そうだ、たまに発明で失敗した河童が失意から落ち込む姿を見る。そういう時はいつも厄神様が静かに肩を抱いてるじゃないか。多分あれでいいはず。ただ直に腕を使うと、怖がらせるかもしれない。何せ相手は人間だ。滑らかな私の羽が適当だろう。朝晩かかさず手入れをする自慢の一対だ。気に入らないはずがない。
服に仕舞っていた翼を広げ、刺激しないために、ゆっくりと彼女の肩を抱く。
やはり驚いたのだろう、体を大きく震わせこちらに顔を向けてきた。
ありったけの平静さをかき集めて、安心させられるよう笑顔を作った。羽で肩を撫でる。
突然、巫女が胸に縋り付いてきた。
軽かったけれど、勢いがつけば別だ。私も軽いのだ。後ろに倒れかけたが、なんとか踏みとどまる。
しばらくその華奢な体を翼で包み続けた。
ようやく泣き止んだ頃には、日が落ちきっていた。
袖で涙を拭っていた彼女に、理由を尋ねる。
「分かりません。ちょっと疲れていたんでしょうか」
照れたように頬を掻きつつ応えた。流石に黄昏の闇を通すと、細かい表情は覗えない。
そのまま互いに自己紹介をする。その流れで、早苗という名を知った。
「ご親切にありがとうございました。射命丸さんはお優しいんですね」
泣き腫らした目もどこ吹く風と、彼女は無邪気に明るく笑った。
それでいい。私は、この笑顔が見たかったんだ。
そこまで回想し、唐突に思い至った。
早苗を評し「恋愛に疎い」と言ったのは誰だったか。私にそれを言える資格はない。
自分の馬鹿さ加減に対して苦笑を漏らす。
「どう考えても、一目惚れよね」
三人には苦労をかけた。言われている内は散々だったが、あれで親身になって説いてくれたのだ。今なら分かる。後で手土産の一つも持って、感謝を伝えに行こう。
問題は早苗の方だ。幼稚で愚鈍な鴉天狗の無礼を許してくれるだろうか。分からない。
それでも謝らなければなるまい。このままでは私が耐えられない。自己満足になろうと、有耶無耶に終わらせられはしない。今すぐ会いに行こう。
暮れなずむ空の中、風を集め全身で駆ける。
***
「射命丸さんの風」
半年だ。ずっとあの人を感じてきた。間違えようもないこれは、彼女の風。でも何故。
戸惑って振り返った先に、畳まれつつある大きな翼が見えた。
「こんばんは、早苗。どうしても今朝の事を謝りたく思いまして」
「射命丸さん、こんばんは。こちらこそ取り乱してしまって、すみません」
心臓がぎゅっと縮み上がる。
声音は問題ない。追い詰められると、なんとかなるものだ。黄昏の暗さだ。多分細かい表情は分からないはず。大丈夫。
しかし諦めた途端、顔を合わせるなんて。神様を恨みたいが、どちらに坐すのだろうか。私か。
「ついでに、その件で少々言いたい言葉ができたんです」
「なんでしょうか」
ありったけの平静さをかき集めて聞き返す。
終わらないのか。まだ続けるのか。勘弁して欲しい。
会った瞬間から膝が落ちないように、全力で支えてるというのに。
今すぐ声を振り絞って泣けと、喉がひくついているというのに。
「あやややや。いざとなると言い辛いものですねぇ」
「時間がかかるようでしたら、明日以降にまわして頂けると助かるのですが」
努めて冷静に、固い口調を使う。指先まで震えてくる。
解放してください。もう耐えられない。
「待って。待ってください。言いますとも」
「なら早くしてください」
つっけんどんになるのが分かる。
この人に、こんな言い方したくないのに。
諦めきれない私が心の片隅にいる。もっと優しくしろと私を責め立てる。
「私は」
鴉天狗が言葉を切る。長く言いよどむ。
なんだというのだ。今すぐ部屋に戻りたい。この足では戻れるかも分からない。
「私は、早苗が好きです」
なんと言った? 私が好き? 嘘だ。有り得ない。聞き間違いだ。
汗が吹き出る。喉が詰まった。心臓が跳ね上がる。
そのまま射命丸さんが続ける。
「一目惚れなんです」
「貴方が初めてこちらの空を飛んだ時です」
「それを見て綺麗だと思いました」
聞き間違いじゃない。目の前がぐるぐるしてる。体が熱い。翼の向こうに桜が見えた。視界の隅に流れ星。春風が柔らかい。
「だって今朝」
「ええ、私が何も分かっていなかったんです。すみません。何故貴方が怒ったか見当がつかなくて、にとり達へ相談したんです。”鈍感だ”って散々絞られました」
ぼやける頭で思い出す。通信簿と、昼間私につけた赤ペン。
”もう少し落ち着きましょう”って文句と私はお馴染みだ。昔と変わらない。
限界だ。両足に力が入らなくなって、崩れ落ちる。
この勢いで倒れたら痛いんだろうな。
「うわっ、大丈夫ですか」
抱きとめられた。柔らかい。暖かい。嗅ぎ慣れた香りがする。運ばれる。縁側へ座らされた。心配させてる。応えなきゃ。
「力が抜けちゃって。ありがとうございます」
「あやや。これは参りましたね」
何が、と思えば、私は泣いてた。
嗚咽が止まらない。涙が溢れる。肩が震えた。
翼に包まれた
顔を上げれば、射命丸さんの困ったような顔が見えた。胸に縋り付く。
ほら見ろやっぱりだ。やっぱり私は泣き虫だ。そして迷惑ばかりかけるんだ。
静葉様の言葉を受け、穣子様が下に一文続ける。
「終焉は日常」「そして終焉は再生の種」
木々は秋に落葉し、冬に滋養を蓄え、春に芽吹く。
紅葉は生命に休息を呼びかけ、桜は皆に目覚めの時を告げる。
終わりは始まり。
終焉が日常ならば、再生もまた日常なのだろう。
「落ち着きましたか」
「はい、もう大丈夫です」
愛しい人の声が頭上から掛かる。
私は抱きついたままだ。恥ずかしいけど、離れたくない。絶対離さない。
「そうですか。なら、ちょっと訊ねたい疑問があるんです」
「取材ですか」
鼻を啜り上げながら返事をする。目元がひりひりする。
我ながらかっこわるい。
「違いますよ。こんな時に、いじわるですね」
「いじわるされましたから。お返しです」
普段と変わらない、些細な遣り取りが嬉しい。
いつもより高めな体温を額に感じながら、質問を待つ。
失ったと思った幸せ。
抱き締めていた胸が、大きく膨らんだ。
「貴方は好きな人がいますか」
ずっと口に出せなかった言葉。
今なら言える気がする。言わないといけない。
射命丸さんの目を見て、はっきり伝えないといけない。
心臓を落ち着かせる。埋めた顔を上げる。呼吸を整える。力を込める。
「私は、文さんが
***
私、射命丸文は東風谷早苗が大好きだ。
どこが好きかと問われれば、いくらでも上げられる。
新聞に書き連ねていけば、何部発行しても足りないだろう。やらないけれど。
例えば……
どこが嫌いかと問われれば、いくらでも上げられる。
御柱に箇条書きしていけば、丸々一本埋め尽くすだろう。やらないけど。
例えば……そう、取材をしている時の顔だ。
へらへらとご機嫌伺いしているようで、その実”お前のことはなんでもお見通しだぞ”って表情。何一つ見落とすまいという意思がこもった、真剣そのものの目。威圧感を与えないためか、隠しているつもりみたいだけども、私にはばればれだ。表面では笑っていても、時折眇められる視線が刺さって痛い。
そんな表情が嫌いだ。
神様だと言っているのに、いつも「人間でしょう?」といなされる。
他にも「風の扱いがまだまだですね」とか「細い腕でよくやりますね」とか言いつつ、弾幕ごっこで手加減したり、里へ行った帰りに買出しの荷物を半分持ったりする。そしておまけで”これだから人間は”とでも言うように、呆れる所作をつけてくる。
そんな子ども扱いが嫌いだ。
境内の掃除中に邪魔をしてくる時がある。
「ネタを提供しない巫女に用事はありません」なんてことを言う。その癖三日と開けず、大きく羽ばたきながら鳥居の向こうに降り立つ。挨拶を交わして、しばらく立ち話。そのまま取材へ向かう。何をしにきたんだと言いたい。あと私は風祝だ。
そんな忙しなさが嫌いだ。
私が幻想郷に越してきて二ヶ月も経たない頃。
夕焼けを目に入れると、なぜだか外の世界に残した物が思い出され、泣くことがあった。中秋の物静かな空気を通して見える入日は、紅くて大きくて怖かった。そういう時にはいつの間にか射命丸さんが隣にいて、その翼で私を包んでいた。
そんな慰めの押し売りが嫌いだった。
まだまだ出せるけれど、大嫌いになった決定的な理由がある。
目の前にいる、馬鹿で鈍感で無神経な鴉天狗がなんでもない様に放った一言。
「貴方は好きな人がいますか」
いるわけないじゃないか。そうだとも。
***
大失敗したようだ。
「私としたことが」
ため息と共に自嘲の念が漏れる。何度目だろうか。
軽く首を捻って太陽を見る。中天にさしかかろうとしていた。守矢神社を後にして半刻ほども経っただろうか。それ以来あてどなく飛びっぱなしだ。それでも背中に圧し掛かる失意が薄らぐ気配はない。
完璧だったはずだ。ありったけの平静さをかき集めて、慎重に、軽く、明日の天気を話題へ出すように問えたはずだ。あれだけの集中力を発揮できたことへ、自分に賞賛を贈りたい。御柱を百本まとめて投げつけられたところで、汗一つ掻かないまま避けきれただろう。
もっとも冷や汗は掻いた。拭き取る気力もなかったが、飛ぶうちにあらかた乾いた。それでもまだ、服に隠れる翼の付け根が蒸れてて、ちょっと気持ち悪い。ブラウスを脱ぎ捨ててしまおうか。
「人間は分からないわね」
ため息をもう一つ。
三日前、博麗神社で開かれた少し気の早い花見の席。
興がのってきた鬼達は吼え、相手が誰であろうと構わず飲み比べに出る。
白玉楼の庭師が注される酒を断りきれず、透き通った白の表面に朱が散る。
そんな頃合だ。
早咲きを相手に、隅で手酌を傾けていると、喧騒を潜り抜けて耳に届いた会話があった。
そちらに目を向けてみれば、巫女が二人に普通の魔法使いがいた。
内容はと言えば、ありふれた色恋の物。酒精も入り、年頃でもあるためだろう。花が咲くのも当たり前だ。
これも肴に、と聞き続けた。
谷河童が機械弄りに熱中するあまり恋人を放置し、厄塗れになる運命を危ういところで避けたこと。
「退屈だ」そう蓬莱人から、満月に照らされたうなぎの屋台で、延々聞かされたという愚痴。
動かない図書館の主と、人里に住まう書の僕が交わした恋文について。
話題があちらこちらへと移るたび、三人の表情もころころと変わる。
突然嬌声を上げたかと思えば、声を落として密やかに語り合う。
そうした恋話が幾らか続いた後、風向きが変わるのを感じた。
「そういえば」紅白の巫女が一息つくかのように言った。「魔理沙、あんたはどうなのよ」
「あー? 何がだ」
とぼけた聞き返しに、からかいの色を帯びた声が重なった。
「アリスに決まってるでしょ。あいつ忙しいみたいじゃない。今日も来てないし」
確かに人形遣いはまだ見ていなかった。
麓の巫女は目敏い。
「それがどうしたって言うんだ。魔法使いなら、研究で一ヶ月籠りっきりになったりするのは普通だぜ。そんなの、お前だって知ってるだろ」
ぶっきらぼうに早口で言い放った。
よろしくない方向へ話が向きかけているのだ。そこから逸らそうしているのは、誰だとて察しが付いただろう。
「別にー。ただあんたが寂しがってるんじゃないかなぁ、とちょっと思ってね」
「なっ、なんで私が寂しがらなきゃいけないんだ!」
面白げに響く酔っ払いの声に対して抗議が上がった。
これだけ分かりやすい人間も早々いないだろう。その胸で燻る想いも。周りで観察したなら一目瞭然だ。
「えええ魔理沙さんてばもしかしてあれですかアリスさんに恋心抱いたりしちゃってるんですか!」
気付いていない人間がいた。早苗は相当恋愛に疎いのかもしれない。
横目で覗ってみれば、両手をついて力の限り魔理沙へ迫っていた。右に左に揺れる体が危なっかしかった。
「ないないないなんで私があんな温室魔法使いに恋をするなんて絶対ない!」
酔っているせいか動揺からか言葉が変だ。ついでに耳まで真っ赤になっていた。
「何、早苗気付いてなかったの? アリスの前だとこいつはそわそわしっぱなしなの。面白いわよ」
「へええええぜひ見せてください恋を患う魔法使いの乙女な姿なんてかわいすぎるじゃないですか!」
「だからそんなことはない! 私はどうだっていいだろ大体お前こそ紫とどうなんだ!」
「なっ」
攻守交替。こちらは誤魔化しが効かない。先日、私が記事にしたものが理由だ。
少々失礼ながら、私とネタを隔てる障子に穴を開けさせてもらった。覗いた先には、神社の居間でくつろいでいるスキマ妖怪。そこへ紅白の巫女が全身で抱きつく場面をすっぱ抜いたのだ。
後日、刷り上った新聞を携え巫女を訪ねたところ、日が暮れるまで夢想封印による歓待を受けた。
あれだけ喜んでもらえると、記者の冥利を感じずにはいられない。
「さっ、早苗はどうなの! 誰か気になってる一人もいるんじゃない」
流石にそのすり替え方は強引に過ぎるだろうと思った。しかし早苗に関しても興味がある。
幻想郷に来てから半年程度経っているとはいえ、新参には変わりない。彼女の情報なら艶めいた話もいい記事になる。
さらには保護者の件もあった。いつだったか、似たような話題が山の巫女に及んだ際。酒臭さを体中に纏った八坂様が、身も世もあらぬ態で乱入してきたのだ。
曰く「早苗にはまだ早い」
曰く「巫女とはその奉じる神と契りし者」
曰く「私は祝を絶対手放さない」
支離滅裂なまま喚き暴れ、程なくして洩矢様の間欠泉で高々と打ち上げられ事なきを得た。
その時は、結局聞けないまま有耶無耶に終わり、もどかしい思いをした。
当の乾神はといえば、中央で樽を片手に舞っていた。これなら邪魔には入らない。安心だ。
武を扱うからだろう。一挙手一投足に雄雄しさが見える。そうした中でも、酒気と共に匂い立つ華やかさがある。それに向けて喝采が上がった。気を取られかけたが、ここしばらく好奇心を煽られてきたネタだ。それが聞ける絶好の機会をみすみす逃すわけにはいかない。
規則正しく左右へ振れていた巫女が、勢いよく背筋を伸ばす。頬を笑みと紅とで埋めつつ、口を開いた。
「わたしですかー。わたしは
「おおい天狗! そんな静かに飲んでいるなんて似合わないよ。ここに座れ。飲み比べだ!」
角を生やした伏兵がいた。
山の社会は上下に厳しい。”元”と注釈がつくとはいえ上司の誘い。断れるはずもなかった。
それが三日前だ。
鬼の酒でぐるぐるする頭を抱えながら宴会から戻り、そのまま寝床に倒れこんだ。
あの様子だ。想い人のいないわけがあるまい。
どうしたわけか探究心が燃焼不良を起こした。その煙が黙々と心を燻し続ける。ずっと以前から気になっていた件だというのに。
焚きつけられたまま、何も行動へ移さないのは性に合わない。そう思い何度も身を起こそうとした。しかし、どうしても羽が持ち上がらなかった。この重石は何処から来たものだろうか。
ただ鬱々と刻を数えた。
使い魔の鴉がネタを抱えて注進に来た。どうでもよかったので自由にさせた。
ようやく腰を上げられたのが今朝だ。
花見以来の歴史が降り積もっていた服を換えた。あちこち跳ねる髪をのろのろと整えた。
楽しげに語り合っていた調子をなぞって聞き出せばいい。なんでもないし、簡単だ。易々と秘密を暴ける。取材して記事にすればいい。自分に何遍も言い含めて、やっと家を出た。
山の神社へ辿りつき、巫女が境内に出ていることを確かめた。殊更に空気を混ぜ返して私に気付かせた。挨拶を交わした。益体もない話を二、三遣り取りした。ここまでは普段通りだ。
その間だけで、背中に無数の汗が浮かんだ。
本命に備え、丹田へ力を溜める。膝が笑いだしかけたので、無理矢理抑え込む。気取られないよう、何気なさを装って切り出す。
「貴方は好きな人がいますか」
大失敗だったようだ。
しばらく巫女は呆気に取られたような表情で立ち尽くしていた。
徐々に頬が膨らみ、顔に赤みが差し、こめかみに青筋の浮き立つ過程を見た。
それからは阿鼻叫喚だ。
符が舞い、風が荒れ、水が狂った。
ほうほうの態で抜け出せたのが半刻ほど前だ。
今朝方まで、たかが人間と侮っていた自分が馬鹿に思えて仕方ない。実際馬鹿だった。寝不足で万全とはいえない体調だったというのもある。しかしそれを差し引いても、避けきれる気が微塵もしなかった。あれほどの弾幕を張れる人間がいるなど、夢にも思わなかった。
「参ったわね」
ため息を追加で一つ。
何故、急に血相を変えて撃ち込んできたのだろうか。
他人へ胸中を曝すことに、それほど苦痛を感じたのだろうか。宴会での様子を思い出す限り、それはないはずだ。むしろ嬉々として打ち明ける様は、幸せを感じているようにさえ見えた。
平常を心したはずの世間話で、なにかしら粗相をしたのだろうか。こっちはありそうだ。私が人間について分かっていないのは確か。かてて加えて彼女は外来人だ。馴染んできているとはいえ、幻想郷とはまた違った倫理観を持っているのかもしれない。知らず知らずに、彼女の逆鱗へ触れていたとしても頷ける。
なんにせよ、こうなっては聞き出さずに済ませるなんてできそうもない。
ほんの一刻も前にあった躊躇いが消える。
突撃取材は無理があったのだろう。分からないということは分っていたつもりだが、ここまで通用しないとは。考えを改めて、今の人間を理解するところから始めなければならないだろうか。しばらく唸って思いついたのは、懇意にしている谷河童だ。人間の盟友を謳う以上、私よりは彼女達についての知識もあるに違いない。
運が良ければ巫女の激怒した理由を知れる。気がかりな答えも得られて、記事に出来るかもしれない。
方針を定められたことで翼に少し力が戻る。九天の滝を源にする流れへ進路を取る。
***
あの鴉天狗には苛々させられる。
言うに事欠いてなんだ、「好きな人がいますか」だと?
脳がその言葉を認識した瞬間、いたけどいなくなった。
そのまま頭に血が昇って行き、わけが分からなくなった。気が付けば、広い境内に私一人だけ立っていた。ついさっきまで手にしていたはずの竹箒が、少し離れた所で横たわっていた。拾おうと身を屈めたら無闇に惨めな気分になって、嗚咽と涙と鼻水が一斉に溢れ出ようとした。限界だ。両足に力が入らなくなって、両手で顔を覆って泣いた。玉砂利を敷く膝が痛かった。
大嫌いだ
あの人の瞳に私は映っていない。
私が抱えた荷物を渡す時に重なった手の柔らかさは嘘だ。
気安げに投げかけてくれた挨拶は嘘だ。
震えが止まらない肩を抱いてくれた翼の暖かさは嘘だ。大嘘だ。
早合点して一人で浮かれていた私は大馬鹿だ。
そこに思い至った途端、喉から漏れる音がしゃくりあげる笑い声へ替わる。
今泣いて、笑っている原因は、私の一人相撲。勝手に勘違いして、勝手に期待した結果がこれ。
小さい頃から私は、思い込みが激しいと言われてきた。どこかに仕舞ったきりの通信簿を、どれでもいいから開けば分かる。そこに見える”もう少し落ち着きましょう”って文句と私はお馴染みだ。昔と変わらない。
初恋は破れる物だ、と聞いた覚えがある。
なるほど、それならこうして私が笑っているのも道理だ。
初恋は破れる方がいいのだ、とも聞いた気がする。
人生のためになるからだそうだ。当たっていると思う。
こんな思いをしたなら、いくら私が馬鹿だろうと忘れはしないし、しっかり学べるだろう。
三日前の宴会で、好きな人について語った風景が目に浮かんだ。
宵闇に浮かぶ早咲きの色。月明かりと混ざった桜が幻想的だった。
花に酔った私は、楽しくて、幸せで、何も疑おうとしていなかった。
記憶は鮮明でも、外の世界に残した思い出みたく感じた。
今朝までの私に”もう少し落ち着きましょう”って文句を赤ペンでつけよう。
「ばか」
ため息と共に最後まで残っていた涙を押し出す。しばらくそのまま呆けていた。
軽く頭を巡らせ日に目をやる。中天にさしかかろうとしていた。境内に座り込んでから一時間ほども経っただろうか。立ち上がろうとしたら足がもつれた。春先の冷えた地面で強張ってしまったようだ。
遅れたけれど昼餉の支度をしないといけない。
そう考えたところで、胃の辺りに不快な重みを見つける。どうやら何も食べられそうにないようだ。
無理に口へ入れたら、きっと吐く。
神饌を調えたら、そのまま失礼しよう。買出しなり分社の様子を見るなり、理由をつけて外に出ればいい。心配をおかけするだろうけど、仕方ない。
もし一緒に食卓を囲めば、必ず私の不調を見咎める。
それでなくとも、ただ顔を合わせるだけで察するだろう。二柱はお優しいから。
そして、私が今気遣われたら、きっと泣く。
でも、先に顔を洗おう。涙の跡がひりひりするし、突っ張ってる。目も赤くなってるはず。鈴仙さんになれたかも。とりあえず、これを流さないとどうしようもない。
跡と言うよりフェイスパックみたいだと思う。結局使う機会はなかったけど。これも鼻やら喉やら涙腺やらを全部使って泣いた成果だ。
眉を上げてみたら、それにつられて頬まで動いた。ちょっと面白い。録画してみようか。
向かう先は井戸だ。
台所にも汲み置きの甕はある。けれど中に入れば、二柱のどちらかと鉢合わせするかもしれない。そんな危険は冒せない。
お勝手に周り、井戸へバケツを落とす。
「ありゃ、早苗か」
釣瓶を半分ほど引いたあたりで、背中に声が掛かった。迂闊だった。
諏訪子様は、裏手にある森の散策がお好きだ。お昼時に合わせて、そこから帰っていらしたのだろう。
「お帰りなさいませ。顔を汚しましたから、背を向けたままで失礼します。ご飯はもうしばらくお待ちくださいね」
息は整えた。日常通りの応えにできたはず。
バケツを引き上げる。
「ただいま。汚れたって怪我はしてないの。さっき結構派手にやらかしてたけど、大丈夫? また天狗?」
言わないでください。
あっという間にぼやけた視界へ水をぶつける。
「ありがとうございます。私はなんでもありません」
力を入れて返す。
喉のひくつきを抑えきれなかった。でも、きっと本当に僅かな違い。
「早苗。こっち向いてごらん」
駄目だった。
静かで、有無を言わせぬ調子に渋々正対する。
見つめられる。観察する目。けれども柔和な目。いつも私を見守り続けてくれた目。
視線を合わせられず、御尊顔から胸元へ逸らせてしまう。
「そっか、もういいよ。お前は部屋に戻ってな。ちょっと疲れてるみたいだし」
「ありがとうございます。お言葉に甘えて少し休ませて頂きますね」
途中から言葉が震えた。
一礼して、中に駆け込む。
ほら見ろやっぱりだ。やっぱり優しい。だから会いたくなかったんだ。
***
正午をまわっていくらかした頃、目的地が近づいてきた。
眼下には水量の豊かな流れと、それに寄り添う森が見える。しばらく上ると、小さく木立に切れ目が入る。日当たりはよく、川筋を下る風が穏やかに脇をよぎる空白。いつもの場所だ。
そこに目当ての人影を見つけた。
「おや、天狗様。しばらくのお見限りだったね」
「少々立て込んでいたんですよ。にとり」
乾いた木と木が打ち合う。岸を洗う音へ混ざる幽かな拍子。
河童がしかめ面を作ってみせる。将棋盤を挟み、白狼天狗が泰然自若として構える。
「文さんは取材となるとそれ以外が見えなくなります。何も変わったことはありません」
「うるさいですよ、椛。私のやり方にケチをつけないでください」
駒を指した水色がこちらに顔を向ける。
紅の塊が隣で日向ぼっこをしていた。
「うわっ、ひっどい顔。どうしたのさ、文」
「本当にひどいわね。木槌を前にした塗り壁の方がまだましよ。厄も随分溜めこんでる」
厄神様が起き上がりつつ、にこやかに貶してきた。
すぐさま厄を巻き取り始めてくれたのはありがたいが。
「そんなにひどいですかね」
「今すぐ火葬場に連れて行きたくなる、って言ったら伝わるかな。そこで顔洗ってきなよ」
「多分伝わりました。そうなった原因があるんですよ。それに関して貴方達へ相談してみようと思いまして」
言われっぱなしは悔しい。
そう告白しながら、おとなしく川へ向かう。
そんな私の背後から、珍しいだの熱があるだの明日は槍が降るだの、散々な言葉が降り注ぐ。
確かに、鴉天狗の矜持を枉げてまで他者に知恵を求めるなど、本当に久しぶりだ。仕方ないかもしれない。
「とりあえず聞いてください」
凍えるような雪解け水を被り、幾分か気が晴れたところで始める。
ここへ向かう道中で話す内容を整理した。躓くような箇所もなく説明できるだろう。
聞いているのかいないのか、合間合間に盤上から生まれる音が差し込まれる。
「えーっと」
あらましを伝え終わった後、河童が呆れたような声を出した。
「雛はどう思う?」
「唐変木」
間髪いれず、容赦ない言葉が返って来た。
「じゃあ、椛」
「純粋な早苗さんを、そういう風にからかうのは感心しません」
「そして私は二人に大賛成だよ。天狗様」
多数決の結果、私は黒のようだ。
不満を口にする。
「からかうとはなんです。取材にもならない、ささやかな疑問を投げただけじゃないですか」
「なんでこんなのに早苗が惚れたんだろうなー」
「妖怪の山七不思議に加えてもいいわよね。不憫な早苗」
「こんなのだって一応鴉天狗ですよ。貶しすぎるのはお勧めしません」
終いにはこんなの呼ばわりだ。
何か聞き捨てならないことを言われた気がする。
「巫女が、私に惚れた?」
「まさか気付いてなかったって言うの? べた惚れでしょ」
三人が顔を見合わせる。
「本気で知らなかったようですね」
「あれって、いたずらの結果報告だと思っていたわ。違ったのね」
「私も。そう思ったから、文の株を下げたんだけど。上げ直すには微妙だなぁ」
有り得ない。あの巫女には私なんかじゃない、意中の人がいるはずだ。
「有り得ませんね。何故そういうことになるんですか。大体三日前にあった宴会のことも話したでしょう。彼女は誰かに懸想しているんです」
「どうして、その懸想してる誰かさんは文じゃないって言いきれるのさ」
「それは」
何故だろう。
早苗が同性同士での婚姻に、禁忌の念を抱いていると思った?
時代錯誤だ。河童と厄神様を見て、「羨ましい」としょっちゅうこぼしている。それはない。
何度も主張されているように、彼女は現人神。神へ嫁ぎ夫婦神になると考えた?
それもない。そもそも妖怪と神の間に本質的な違いはない。
彼女の相手は人間だと決めつけた?
あの常識破りな巫女だ。そんな考えは端から捨てている。
なら何故。
「それは」
その後が続かない。
私としたことが、こんな問題で。
乾いたはずの背に、湿り気を感じる。傾き始めた春日を、頬にじりじりと受ける。
「降参みたいだね。椛、正解をどうぞー」
「文さんは初心なんですよ。自信を持てないんです」
私に自信がない? 誇りある鴉天狗を捕まえて?
「乙女だよねぇ。そんなことでうじうじ悩むなんてさ」
「初々しさが見てて飽きないわね」
私がいつ、悩んだというのだ。
「話が見えませんね。私に自信がない件と、巫女が想う候補に私を含めない件。どう繋がるんですか」
分からない。
「もしかして自覚してないの?」
「何をですか」
「天狗様が山の巫女にぞっこんだってこと」
それも有り得ない。どうして私が人間に。
三人が私の顔を覗き込む。河童が盛大にため息をついた。
「道理で話が噛み合わないはずです」
「何を相談しに来たのか不思議だったけど。やっと分かったわ」
「どう見ても知らなかったって顔だよね。じゃあ、聞くよ。普段守矢神社へ用もないのに通うのは何故」
「通り道だからですよ。挨拶をして損はありません。彼女達との親交は山が受ける利益に直結します」
親交は信仰へ通じる。
信仰により守矢の神々が力を増せば、それに合わせ、山の神気も高まる。
畢竟、上層部が勢いを増すのは気に食わないが、余剰の力は動くために役立つ。それは使える手段が増えるということだ。取れる選択肢はあればあるだけ余裕となる。
「大層暇のかかる通り道があったもんだね。次、私達の場に出す話題が早苗に終始するのは何故」
「何せ新参の外来人ですからね。目新しさには尽きません。必然でしょう」
だからこそ、宴会でも傍耳に注意したのだ。そこに他意はない。
新聞はまず、印象的な写真と見出しで耳目を惹き付けるところから始まる。ならば、珍しい・話題性のあるネタを題材に据えるのは当たり前だろう。格好の対象が山の巫女だった。
余った・記事にならない程度の話を、身内で消費している。
それだけだ。
「”ネタにならない巫女だ”ってぼやく癖にね。最後、早苗達がここへ来た当初の二ヶ月。神社の監視を増員する件について、何度も打診を受けてたよね。全部断って、一人きりで続けたのは何故」
「情報を独占するためです。分かりきってるでしょう。あれだけ美味しい状況は早々ありません」
そのままだ。何か一大事でも起きていれば、去年の新聞大会では優勝出来ていただろう。
結局、麓の巫女と魔法使いが喧嘩を売りに(または買いに?)来ただけで終わったが。
「意地を張るわね。離れて愛でたい初々しさを通り越して、虐めたくなってきたわ」
「文さんですからね。頑固さだけなら、私達白狼天狗と比べても遜色ありません」
彼女達が持つ、私に対する評価はどうなっているのだろうか。
河童がまた一つ、大きくため息をつく。その手に桂馬が踊る。
「じゃあさ。早苗が怒った理由も分からない?」
「分かったら苦労しません。それを解明するために、ここへ来たんですよ」
「やっぱりそうだったんだ」
複雑怪奇な寄り道をして、ようやく本題に入れた。
眼前に舞っていた駒が、気圧される勢いを持って升目へ落ちる。
「ほんとは自力で気付いて欲しかったんだけどね。埒が明かなさそうだから言うよ」
助かった。これで難題が一つ解けるかもしれない。
「早苗はね、文にだけは訊ねられたくなかったんだよ」
余計に混乱した。
「何故私なんです。そもそも特定の個人に聞かれたくないなんてどういうことですか」
質問を連ねる。晴れると期待した霧が厚みを増した。
「何も言わずに聞いてよ。説明するから」
不承不承頷く。これも頭に巣食い続ける雲を払うためだ。
にとりが盤面に注ぐ視線を外し、私の目を覗き込んできた。
「早苗は文が好きなの」
「だからそれは有り得な
「黙って聞いて。早苗はよく抱きついたり、おぶさったりしてくるでしょ。椛と文限定だけどさ。あれって文に対しての方が、ずっと多いこと分かってる?」
嘘だ。そこへ座る犬にばかり寄っていくじゃないか。「椛さんの耳ってかわいいですよね」なんて言いながら楽しそうに抱きつくじゃないか。
銀が構える。
「早苗って、ちょくちょく焼き菓子を作ってきてくれるよね。好物を訊かれた文が答えに挙げてからなんだよ。気付いてた?」
矢倉囲いに穴を開ける。
そう言われると、あの後からだったかもしれない。
巫女が焼いたクッキーは、里のカフェーで供される物より断然美味しい。つい食べ過ぎてしまい、皆から非難される。
「梅が咲いた頃。早苗が”私と新聞、どちらが大切なのか”って、文に訊いたの覚えてる? 冗談めかしてたけど、ちょっと涙目だったの知ってた?」
香車が成る。
覚えている。ネタの裏取りに追われた結果、一週間会えなかった直後だ。
久々だったせいか、巫女の顔を直視できずにいた。分かるわけないだろう。適当にあしらいつつ、後者だと答えた。
「早苗は文が好きなんだよ。これを飲み込んで」
判断がつかない、曖昧な例ばかりじゃないか。
玉が逃げる。
「そして、文は早苗が好きなの。ここへ皆が集まっている時、文はいつも早苗の隣に居るんだ」
そうだったろうか。気にしたこともなかった。
言い聞かせるような声音。それへ続く硬質な音が耳朶を打つ。
「そうして早苗の気を惹こうとするんだ。『私の翼はふさふさですよ』とか『風の扱い方を教えてあげます』とかさ。大抵振られてるけどね」
それは勘違いだろう。
棋譜が進む。
「何か集まりがあった時、いつも文はまず守矢の神様達へ挨拶に行くよね。それからは呼ばれない限り、ずっと早苗の近くにいるんだ。目も離さずにね」
初耳だ。
白狼天狗の耳が垂れる。
「文は早苗が好きなの。早苗は文が好きなの」
「それで早苗は”文は早苗が好き”って思ってたし、”早苗は文が好き”だってことを文は知ってるって思ってたんだ」
「でも、そんな時に、文から”早苗が誰を好きになろうと関係ない”って言うような態度で『好きな人がいますか』なんて聞かれたら……そりゃぁ怒るさ」
王手
駒が一際高く鳴る。
***
ノックが二回鳴る。
「早苗」
神奈子様だ。
慌てて跳ね起きる。
「このままでいい、すぐ済むわ。出掛けてくるって伝えに来ただけ」
声を出したつもりなのに、乾いた空気が漏れ出る音だけを聞いた。
腕を枕元についたまま、内と外の境へ体を捻る。
「諏訪子も一緒よ。今夜は遅くなるから、戸締りだけ忘れないようにね」
「はい、分かりました。行ってらっしゃいませ」
「土産に美味しい酒を期待してて頂戴」
廊下の軋みが遠のいてゆく。
よかった。掠れていたけど、なんとか返事は出来た。
力が抜けた。支えを失った体がシーツへ沈む。ぬいぐるみを抱き寄せる。
お土産は、あの方なりのお気遣いだと分かってる。
ご自身が好む物ならば、誰それと縛らずに、笑顔にできると信じて疑わないのだ。
私はアルコールが苦手なのに。
縫製のワニへ顔を埋める。くぐもった笑い声が部屋に響く。
そんなお気持ちが有難い。涙が出るほど有難い。
寝ていたはずもないのに、記憶がおぼろげだ。
昼からの行動を浚ってみる。
顔を洗った。諏訪子様をお迎えした。部屋に戻った。ベッドに倒れこんだ。神奈子様がお出でになった。
泣いた
そうだった。それ以外は何もしてない。なら頭に残らないのも道理だ。
そんなことも忘れるなんて。やっぱり私って馬鹿だな。
渇きを覚える。
当然だ。あれだけ水分を無駄にしたのだ。
口蓋に張り付いた舌を意識する。気持ち悪くてたまらなくなった。
何か飲もう。
ぬいぐるみを放し、毛布から這い出る。ノブを回す。
窓から入る日光が頼りないせいだろう。廊下は少し薄暗い。
部屋を出る前は気付かなかったけれど、夕暮れが近い。
土間に下りる。
甕の蓋にかかった柄杓を取って、コップに水を汲む。
昼間の陽気が溜まっていたせいだろう。ちょっとぬるかった。
一息つけた。顔も洗おう。
部屋へ戻ろうとして、上がり框に足を取られて転んだ。大して痛くもなかったのに、涙が零れた。
私は、こんなに泣き虫だっただろうか。
居間へ目を向けると、ちゃぶ台に蝿帳が載っていた。見慣れた連絡に使うメモ用紙も一緒だ。
おにぎりの群れと、豪快で達筆な「早苗へ」という文字が見える。隣にはピンクのハートマーク。
こっそり書き足したのだろう。そういう茶目っ気を諏訪子様はお持ちだ。
ぼんやりとそれを眺めていたら、小さい頃にあった運動会を思い出した。
周りの大人達は、見上げなければいけない高さだったから、私が多分小学二年生くらい。
弔事か何かと重なり、両親は来られなかった。
校庭の隅っこに一人で座り、謝りながら持たされたお弁当を開ける。
少し離れて友人とその親が、談笑しながら食事をしていた。寂しくて涙が滲んだ。
そうして、もそもそと玉子焼きを飲み下していたら、お二方がいらっしゃったのだ。
神奈子様の御手には、スイカでも包んでいるように膨らんだ風呂敷。
満面の笑みと共に解かれた中には、おにぎりの群れが詰まっていた。
私はすぐさま機嫌を直して、それを頂いた。美味しさに涙が滲んだ。
昼食が済んだ後、昼休憩の終わるまで、諏訪子様に遊んで頂いた覚えもある。
当時は、変な帽子を被った近所のお姉ちゃんとしか思ってなかったっけ。
知らなかったこととはいえ、今思えば不敬な話だ。
目の前にある、綺麗に揃った三角形を一つ手に取る。噛み締める。
そうだ、こんな味だった。
二柱は、何度私を泣かせたら気が済むのだろう。
紅く染まる境内に出た。
入日を見なければ、今日を終わらせられない気がしたのだ。
静葉様が度々仰る言葉を思い出す。「終焉は日常」という話。それには容易く頷ける。
終焉があったればこそ、守矢神社は幻想郷に来た。
日々、私達が口にしている物は、全て終焉を含んでいる。
今また夕焼けを浴びて、肌にそれを感じる。
私は忘れることができるだろうか。
射命丸さんの声。射命丸さんの視線。射命丸さんの体温。
聞くたびに、交わすたびに、触れるたびに幸せを感じた。
それを今更追いやれるだろうか。
今朝、私に訊ねた時、あの人が見せた無関心な顔。
私もああいう顔で会えるだろうか。
私は全てを忘れて生きていけるだろうか。
西の空を眺める。
紅くて大きくて怖い円が、地平線に沈んでいく。肩が震えた。
なんてことはない。私はずっと泣き虫だったのだ。
運動会があった、あの日から泣きっぱなしだ。これからも泣くだろう。
そんなある日、暖かな翼が私を気紛れに慰めてくれただけなのだ。
それを今失ったところで、以前に戻るだけ。なんてことはない。
境内に薄闇が降りていく。
そろそろ中に入ろう。お二方には気を遣って頂いた。お帰りになった時のために、夜食を準備しておこう。感謝を込めてとっておきの新巻鮭だ。おまけに秘蔵のブランデーを出してもいいだろう。
縁側に体を向ける。
風を感じた。
***
結局、あれから三人には散々なじられ、発破をかけられ、追い出された。
「なんで天狗様はたまに危なっかしいんだろうね」
「それも魅力だと感じる人がいるかもしれないわよ。山の巫女とか」
「もたもたしてないで、早苗さんに謝ってきてください。きっと泣いてます」
勝手を言ってくれるものだ。私はまだ納得してないのに。
ため息を漏らして、遠くに沈みつつある紅を見やった。
そういえばこんな日だったかもしれない。
私がネタを仕入れ帰宅する途中のことだ。
初秋に彩られた背景の中、でたらめに飛ぶ影をみた。
少し気にかかって観察を続けた。何せここは妖怪の山。何事かあり、それを見逃したとなれば大目玉だ。
どうやら人間のようだ。見慣れた特徴的な巫女服を着ているが、配色は記憶にあるものと違う。
何故こんなところにいるのか。不思議に思って距離を縮める。
彼女は綺麗だった。
光の中、なびく黒髪が碧に燃えていた。
白磁の肌に、夕日を照り返す汗が煌いていた。
端整な顔に、頑是無い童の浮かべるような笑みが輝いていた。
一番星が出てしばらく経った頃。彼女は山の奥へ去っていった。
後に機会を得て、あの時なにをしていたのか問うたことがある。
「初めて人目を気にせず飛べたんですよ。舞い上がっちゃってて、覚えてません」
鴉天狗は飛ぶことが好きだ。
私も例に洩れない。新聞で行き詰った時は、よく頭を空にして飛び回る。生き甲斐だと言ってもいい。
それでもあそこまで楽しげに、幸せそうに、生き生きと空へ舞う誰かの姿を、見た覚えがなかった。
はにかみながら答えた彼女の顔も綺麗だった。
一体あれは何だったのか、と疑問を浮かべながら家へ戻る。
玄関の前に、はたてがいた。鼻高天狗による召集がかかったことを伝えに来たらしい。
それへ応え向かう道中、並び飛ぶ同僚から事情を聞いた。
曰く「新参が来た。神社と湖ごと幻想入りを果たした常識外れだ」
曰く「強大な力を持つらしい神の出現に、上層部はてんやわんやだ」
曰く「監視をつけたいが、白狼天狗では力不足だと言う。速報性の確保に鴉天狗を駆り出したいようだ」
「私はそんな気が張りそうな任務。つきたくないんだけどね」
面倒くさそうに締めた物言いは、何事にも悠長な彼女らしい。
念写はこういう時に便利だと思う。一報に添えられた、当の新参らしき姿が映る写真も渡された。そこへ半刻ほど前に私が見た少女もいた。
私は、上司の人員を求める声に応じた。
翌日のことだ。
私は日の出と共に、神社を見渡せる枝へ身を潜めた。
奇妙な帽子が、退屈そうに跳ねる頭の上で踊っていた。
軒先で外来人らしい、これまた奇妙な洗濯物が日光を浴びていた。
しばらくして神々が出払ったようだ。境内に静寂が降りた。
「暇だわ」
早速飽きた。
所々物珍しい光景はある。ネタを探し、何刻も張り込む忍耐力は記者に必須だ。しかし、私は彼女達の威容を聞かされていたのだ。刺激のかけらも見当たらない。これでは吸血鬼へ仕える門番を眺めるのと大差がない。
溢れていた期待が肩透かしを食らった。使い魔の鴉とじゃんけんで暇を潰した。負け越した。
いつの間にか眠っていたらしい。はっきりしない頭を振って、状況を確認した。
夕闇が迫っていた。木々の下は薄暗い。境内に、一つ白い影がある。
どうやら巫女が帰ってきていたらしい。いいだろう、監視を続けよう。目を凝らす。
「何をしてるのかしら」
戸惑った。よく分からないその姿を観察する。
力なくしゃがみこんでいる。肩が小刻みに震えている。目元に握りこぶしをあてている。口元が醜く歪んでいる。
泣いているのか?
何があったというのか。昨日見せた快活さはどこへ行ったんだ。輝くような笑顔はどこへ消えたんだ。
考える。
私は彼女へ何かできるだろうか。ひたすら見守り、動きがあるまで待機する。それは退屈だ。
能天気な顔で近寄り、事情について取材を申し込むか。できるわけがない。
慰めるべきなのだろうか。見知らぬ鴉天狗からの、余計なお世話。それも無理だ。
逡巡する私の視界に、小さく縮こまった姿が入る。
ままよ、とばかりに隣へ降り立つ。しかし掛ける言葉が思いつかない。
どうしたものか。巫女は、私に気付いた様子もなく泣き続けている。
そうだ、たまに発明で失敗した河童が失意から落ち込む姿を見る。そういう時はいつも厄神様が静かに肩を抱いてるじゃないか。多分あれでいいはず。ただ直に腕を使うと、怖がらせるかもしれない。何せ相手は人間だ。滑らかな私の羽が適当だろう。朝晩かかさず手入れをする自慢の一対だ。気に入らないはずがない。
服に仕舞っていた翼を広げ、刺激しないために、ゆっくりと彼女の肩を抱く。
やはり驚いたのだろう、体を大きく震わせこちらに顔を向けてきた。
ありったけの平静さをかき集めて、安心させられるよう笑顔を作った。羽で肩を撫でる。
突然、巫女が胸に縋り付いてきた。
軽かったけれど、勢いがつけば別だ。私も軽いのだ。後ろに倒れかけたが、なんとか踏みとどまる。
しばらくその華奢な体を翼で包み続けた。
ようやく泣き止んだ頃には、日が落ちきっていた。
袖で涙を拭っていた彼女に、理由を尋ねる。
「分かりません。ちょっと疲れていたんでしょうか」
照れたように頬を掻きつつ応えた。流石に黄昏の闇を通すと、細かい表情は覗えない。
そのまま互いに自己紹介をする。その流れで、早苗という名を知った。
「ご親切にありがとうございました。射命丸さんはお優しいんですね」
泣き腫らした目もどこ吹く風と、彼女は無邪気に明るく笑った。
それでいい。私は、この笑顔が見たかったんだ。
そこまで回想し、唐突に思い至った。
早苗を評し「恋愛に疎い」と言ったのは誰だったか。私にそれを言える資格はない。
自分の馬鹿さ加減に対して苦笑を漏らす。
「どう考えても、一目惚れよね」
三人には苦労をかけた。言われている内は散々だったが、あれで親身になって説いてくれたのだ。今なら分かる。後で手土産の一つも持って、感謝を伝えに行こう。
問題は早苗の方だ。幼稚で愚鈍な鴉天狗の無礼を許してくれるだろうか。分からない。
それでも謝らなければなるまい。このままでは私が耐えられない。自己満足になろうと、有耶無耶に終わらせられはしない。今すぐ会いに行こう。
暮れなずむ空の中、風を集め全身で駆ける。
***
「射命丸さんの風」
半年だ。ずっとあの人を感じてきた。間違えようもないこれは、彼女の風。でも何故。
戸惑って振り返った先に、畳まれつつある大きな翼が見えた。
「こんばんは、早苗。どうしても今朝の事を謝りたく思いまして」
「射命丸さん、こんばんは。こちらこそ取り乱してしまって、すみません」
心臓がぎゅっと縮み上がる。
声音は問題ない。追い詰められると、なんとかなるものだ。黄昏の暗さだ。多分細かい表情は分からないはず。大丈夫。
しかし諦めた途端、顔を合わせるなんて。神様を恨みたいが、どちらに坐すのだろうか。私か。
「ついでに、その件で少々言いたい言葉ができたんです」
「なんでしょうか」
ありったけの平静さをかき集めて聞き返す。
終わらないのか。まだ続けるのか。勘弁して欲しい。
会った瞬間から膝が落ちないように、全力で支えてるというのに。
今すぐ声を振り絞って泣けと、喉がひくついているというのに。
「あやややや。いざとなると言い辛いものですねぇ」
「時間がかかるようでしたら、明日以降にまわして頂けると助かるのですが」
努めて冷静に、固い口調を使う。指先まで震えてくる。
解放してください。もう耐えられない。
「待って。待ってください。言いますとも」
「なら早くしてください」
つっけんどんになるのが分かる。
この人に、こんな言い方したくないのに。
諦めきれない私が心の片隅にいる。もっと優しくしろと私を責め立てる。
「私は」
鴉天狗が言葉を切る。長く言いよどむ。
なんだというのだ。今すぐ部屋に戻りたい。この足では戻れるかも分からない。
「私は、早苗が好きです」
なんと言った? 私が好き? 嘘だ。有り得ない。聞き間違いだ。
汗が吹き出る。喉が詰まった。心臓が跳ね上がる。
そのまま射命丸さんが続ける。
「一目惚れなんです」
「貴方が初めてこちらの空を飛んだ時です」
「それを見て綺麗だと思いました」
聞き間違いじゃない。目の前がぐるぐるしてる。体が熱い。翼の向こうに桜が見えた。視界の隅に流れ星。春風が柔らかい。
「だって今朝」
「ええ、私が何も分かっていなかったんです。すみません。何故貴方が怒ったか見当がつかなくて、にとり達へ相談したんです。”鈍感だ”って散々絞られました」
ぼやける頭で思い出す。通信簿と、昼間私につけた赤ペン。
”もう少し落ち着きましょう”って文句と私はお馴染みだ。昔と変わらない。
限界だ。両足に力が入らなくなって、崩れ落ちる。
この勢いで倒れたら痛いんだろうな。
「うわっ、大丈夫ですか」
抱きとめられた。柔らかい。暖かい。嗅ぎ慣れた香りがする。運ばれる。縁側へ座らされた。心配させてる。応えなきゃ。
「力が抜けちゃって。ありがとうございます」
「あやや。これは参りましたね」
何が、と思えば、私は泣いてた。
嗚咽が止まらない。涙が溢れる。肩が震えた。
翼に包まれた
顔を上げれば、射命丸さんの困ったような顔が見えた。胸に縋り付く。
ほら見ろやっぱりだ。やっぱり私は泣き虫だ。そして迷惑ばかりかけるんだ。
静葉様の言葉を受け、穣子様が下に一文続ける。
「終焉は日常」「そして終焉は再生の種」
木々は秋に落葉し、冬に滋養を蓄え、春に芽吹く。
紅葉は生命に休息を呼びかけ、桜は皆に目覚めの時を告げる。
終わりは始まり。
終焉が日常ならば、再生もまた日常なのだろう。
「落ち着きましたか」
「はい、もう大丈夫です」
愛しい人の声が頭上から掛かる。
私は抱きついたままだ。恥ずかしいけど、離れたくない。絶対離さない。
「そうですか。なら、ちょっと訊ねたい疑問があるんです」
「取材ですか」
鼻を啜り上げながら返事をする。目元がひりひりする。
我ながらかっこわるい。
「違いますよ。こんな時に、いじわるですね」
「いじわるされましたから。お返しです」
普段と変わらない、些細な遣り取りが嬉しい。
いつもより高めな体温を額に感じながら、質問を待つ。
失ったと思った幸せ。
抱き締めていた胸が、大きく膨らんだ。
「貴方は好きな人がいますか」
ずっと口に出せなかった言葉。
今なら言える気がする。言わないといけない。
射命丸さんの目を見て、はっきり伝えないといけない。
心臓を落ち着かせる。埋めた顔を上げる。呼吸を整える。力を込める。
「私は、文さんが
***
私、射命丸文は東風谷早苗が大好きだ。
どこが好きかと問われれば、いくらでも上げられる。
新聞に書き連ねていけば、何部発行しても足りないだろう。やらないけれど。
例えば……
スッキリとした読了感がたまりませんね。
ご馳走様でした~。
素敵な風をありがとうございました。
100点満点
想像してしまってたわw
でもこういう平和なのも好き。
そこも、あやさなの魅力だと思います。
ありがとうございました
ディティールが細かくて二人の気持ちに無理なく共感できます。
鈍感だけど優しい文と、少女らしい感性の豊かな早苗に、風神録メンバーも総出演で本当にうれしい限り。
ああ、この二人のこれからがもっと見たい!
あなたがあやさな神か?
百合は至高やな