Coolier - 新生・東方創想話

背中合わせの午睡

2011/05/24 03:10:54
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 ふと気づくと、咲夜さんが私の背に寄りかかって眠っていた。正午を少し回ったばかりだったから、我ながら珍しくきちんと警備はしていたはずだ。その所為でできた背中と壁の間に、この人は潜り込んでいた。猫か。
 どうしてこんなことに。
 冷や汗をかきながら考える。わざわざ私にもたれかからなくても。せめてこう、壁とか。いやいや、それ以前の問題か。
 夏から秋に移り変わる、季節の境目だった。あれだけ煩かった蝉の鳴き声はようやくなりを潜め、連日溶けるんじゃないかと思うくらいに強く照りつけていた日差しも和らいでいる。朝晩の風はめっきり涼しくなって、幻想郷はこれから短い秋を越えたあと、寒い寒い冬に至る。
 昼前に庭から声をかけたとき、咲夜さんはいつものように忙しくしていたはずだ。むしろ、今日は館内一斉清掃の日だったから、妖精メイドたちに指示を出すいつも以上に忙しそうに見えた。邪魔しないで、と怒声を返されて少しだけ悲しくなってしまったのは秘密である。今一つ、紅魔館に来たばかりの彼女に接していた頃の癖が抜け切らない。

「あの頃は可愛かったんですけどねえ」

 思案を放り出して、肩越しに銀髪を眺めながら呟く。起こさないよう、気を付けて。とは言え、その心配もないくらいによく眠っている。門が人一人分くらい開いていることに気付く。余裕がなかったのかもしれない。寝顔を拝めないのは残念だけれど、まあ起きるまではこうしていようかと思う。問題は私がまだ昼食を摂っていないことだ。一食くらい抜いても、少々腹が減るくらいでどうなるわけでもないが、習慣づいているので何だか据わりが悪い。……我慢。
 魔理沙が来なければいいのだけれど。最近は里の近くにできたお寺で修行をしているらしいから、あまりその可能性は高くないとは思う。見た目と行動から受ける印象通り、あの子は割と実践派の魔法使いだ。パチュリー様の図書を奪っていくのは、もちろん研究には役立っていたのだろう。けれど誰かに師事し、身体に理論を染み込ませることは、思索とはまた違う意味合いを持つ。これはまあ、私なりの経験則。
 魔理沙はもともと決して勝率の高くなかった私を、最近ではスペルカードすら使わずに蹴散らしていくようになっている。情けないと思っても、こと弾幕ごっこというジャンルでは彼女に勝つことは難しい。敵ながら爽快感すら覚えてしまう。

「門番としてはハタ迷惑なんですけどね……おっと」

 崩れ落ちそうになった咲夜さんを後ろ手に支える。規則正しい寝息を確認。起きてはいないらしい。私の言えたことではないけれど、立ったまま、というのも寝辛いだろうとは思う。けれど姿勢を変えようにも、その拍子に起きてしまわないかが心配だった。安定しているのなら、そっとしておきたい。
 それでも。
 このまま放っておいたら、いつかは倒れてしまいそうな気もするし。どうしてこんな所で、ともう一度考える。まあ、場所を除けばおおよその見当はつく。時間を止めて仮眠をとっていたのだろう。立ちっぱなしなのは、この格好だと目が覚めやすいと私が力説したからとか、慣れない姿勢で能力の行使に失敗したとか。実は間の抜けたところもある人だから、あながち間違ってはいないんじゃないだろうか。わざわざこんな場所を選んだ意味は本当に分からないけれど、案外暖かい場所で昼寝をしたいだけだったのかもしれない。
 ずいぶん涼しくなったものなと、館を取り囲む森が作り出す薄い影を見ながらそう思う。夏を越せば幻想郷の気温は急激に下がっていく。私はいつも外で立ちん坊だし、気を使って体温を調節するくらいのことは簡単にできるから、あまり気にしていないけれど。いつだか咲夜さんに話したときには能力の無駄遣いねと呆れられたものだが、とんでもない。冬場はこうしていないと到底しのげたものじゃないのだ。

「ま、それだけのために使ってるわけじゃないんでしょ?」

 きぃ、と鉄の門扉が軋んだ音を微かに立てて、大きく開く。内心を見透かしたような声が掛けられて、誰かが並んだ。

「ええまあ。広範囲を探るときなんかには割と重宝してますよ、お嬢様」

 視線だけで隣を伺う。水色の日傘の天辺が見えた。小振りなそれの下に収まっているのは、日光の似合わない永遠に紅い幼き月。

「満月明けの割に、今日は随分とお早い起床で」
「昨晩は明け方前に眠ったのよ。フランと遊んでたからね」
「あ、やっぱりやってたんですねえ。……あの、館の損壊具合は」
「今回は奇跡的に無傷、よ。パチェと咲夜が頑張ってくれたからねー」
「じゃあ、これは」
「疲れてるんでしょうね。まったく、私たちに付き合ったりするからこうなるのよ。……人間のくせに、生意気な」

 はあ、とお嬢様はわざとらしいため息を吐いた。傘に隠れて見えないけれど、咲夜さんに視線を注いでいることは分かる。言葉とは裏腹に、口調はひどく優しげだ。二人は何だかんだでいい主従関係を築いている。きっと心配なんだろう。
 それにしても――前夜も働いていて、今日もなお働き続けていたのだとすれば、この人はいつ眠っているのだろう。ああ、今か。

「相変わらず人とは思えないほど働きますね、咲夜さんは」
「オマエがよく寝てる分、バランスは取れてるんじゃないか」
「いやはや、そこまで言われると照れます」
「……健康なのは日光浴の賜物かしら」
「年中お日様の光を浴びてますからねえ」
「その分肌荒れしそうだし? 吸血鬼的には日光浴なんて避けたいけどね」

 フランはそう思わないようだけど――と言って、傘が揺れた。笑ったのだろう、多分。
 妹様が幽閉を解かれて数年が経つ。お嬢様と連れ立って外出することも増えた。増えたことそれ自体は喜ばしいと、私なんかは単純に思う。でも、今までうまく行っていなかった能力の制御が、短期間でできるようになるはずもない。力を抑圧することのストレスで、一時期は幽閉時代よりも荒れていた。
『発散させてやりなさい。そうすれば落ち着くわよ』
 診察に来た竹林の薬師さんはそう言った。吸血鬼のストレス発散、といえばもちろん吸血行為がそれに当たるのだろう。けれど、幻想郷では契約の関係で行う事ができない。
 いざとなったらそんなもの、どうにかして破ってやるわ――とお嬢様は笑って。取った手段は、結局もっと原始的な力のぶつかり合いだった。二人が"遊び"と呼ぶスペルカード無用の決闘は、当然ながら紅魔館くらい簡単に消し去ってしまう。それを防げる人材が、紅魔館には幸いにいた。
 パチュリー・ノーレッジ。十六夜咲夜。空間に干渉する能力と魔法で、どうにかこうにか紅魔館は未だに原型を留めている。破損した箇所の修繕は、紅魔館に大勢いる妖精メイドさんたちがシフトの空きを利用して行っている。やらなくていいと知れば皆喜ぶだろう。勤労はあんまり好きじゃない子たちばかりだし。
 こうして考えると、やっぱり一番働いてるのはこの人なんだろうなと、背中で穏やかな寝息を感じながら思う。

「せめて弾幕ごっこで模擬戦闘にできればいいんでしょうけどね」
「それができる頃には、フランの能力制御は完全だろう。無理に戦う必要だってなくなってるわ」
「ご尤も」
「まあ、続けること自体は吝かじゃないさ。姉妹間のスキンシップとしては悪くないような気もするしね」
「いやあ、流石に派手すぎると思いますよ」

 そうか? と日傘がわずかに傾げられる。
 他所へ漏らさないために遮音と視界遮断、それに強力な防護の魔法がかかっていて、二人の遊びは館の外から様子を伺うことはできない。できないが、片付けるときには破壊の爪痕に驚くこともある。あれを受け流すのは骨だろう。だからこそ、私が鍛錬で仮想敵に想定するのは、それを作り出した一撃だ。
 館が無傷だったということは、もしかして何か新しい術式でも作り出したのだろうか。図書館で読書しているであろう魔女を幻視しながら思う。その所為で咲夜さんは普段以上に疲れているのだろうか、とも。

「命は落とさないようにしてくださいね。ここ追われると行き場所ないので」
「はは、前向きに善処するわ。美鈴ならどこででも暮らせそうな気はするけどね」

 軽く苦笑して、私は否定する。

「暮らせないことはないかもしれませんけどね。ただ暮らすことと生きることは、やっぱり違うものですよ」
「ここの暮らしはどう?」
「許容できなきゃとうに逃げてます。いいところですよ、紅魔館は。あんまり無茶も言われないし」
「寝てても飯にはありつけるし?」

 そうですね、と適当に茶を濁す。咲夜さんが今目を覚まして話を聞かれたら、と思うとそれだけで首筋に寒いものが走った。昔はもう少し頑張ってたものだけれど、幻想郷は平和だから。言い訳をするなら、そんなところだろうか。
 お嬢様は愉快気に笑い声をこぼして、

「そんなわけだから。咲夜は寝かせといてやって。どうせ起きたら取り返そうとして無理するんだろうし。私は図書館でパチェの紅茶でも飲んでるわ」

 日傘をくるりと回した。外に――博麗神社にでも行くつもりで出てきたのかと思ったのに。

「それだけ言いに来たんですか?」

 訊くと、お嬢様はくつくつと苦笑した。

「それだけ、ってねえ。美鈴、ここは私の部屋から丸見えなのよ。お疲れの可愛い忠犬を労ってやろうと思い立ったって構わないだろう?」
「別に構いやしませんけどね。そういうのは直接言った方がいいんじゃないですか?」
「私も咲夜も、そんなのは苦手なのよ。面と向かってどうこうなんて柄じゃないわ。今の距離がちょうど良いの。――じゃ、よろしくね」
「はーい」

 お嬢様は日傘から出した手をひらひらと振りながら、館の方へ戻って行った。
 紅魔館の気安い主。最近は妹様を伴って人里へ足を踏み入れても、すっかり驚かれることはなくなったらしい。妖怪としてそれはどうなのか、と思わなくはないけれど、驚かれはせずとも一目置かれてはいるのだとか。あんなナリをしている割にはひとを惹きつける何かをあの方は持っている。それなりに長い付き合いの中で、私は幾度となく見せつけられてきた。
 人間に恐怖を与えていた存在、吸血鬼。ヴラドの末裔を自称する純血種。
 幾らかは箔を付けるための情報操作だし、年格好相応に子どもっぽい所も――時折見せたりはするのだが。

「全部含めてお嬢様、ってトコですかねー」

 それにしても起きないなあ。
 空を見上げる。雲が鱗状に浮かんでいた。丁度いい具合に日光が遮られて、絶好の昼寝日和ではあった。今私が寝れば、後ろの誰かさんがコケてしまうから寝ないけれど。
 くぁ、と出そうになった欠伸を噛み殺す。ううむ、こうしてみると空腹感が絶妙な目覚ましになっているような気がしてきた。ほぼ無意識に咲夜さんの姿勢を正す。今日は来客の予定はなかったはず、と頭の片隅でおさらい。そもそも紅魔館なんて好き好んでくる連中がいるのか、と問われれば――最近は割と多いのだと返すよりない。
 紅魔館は、人里から霧の湖を挟んで妖怪の山へ立ち入る道の途中に建っている。
 山が閉鎖的だからあまり目立たないし、そもそも山へ行くような妖怪はここを飛び越えて行くから、今までは殆ど意味がなかったのだけれど。守矢神社ができてから、その構図が少しばかり変化した。
 そもそも吸血鬼の住む館、という言葉のイメージに反してここの雰囲気はかなり明るい。特殊な能力を持たない人間でも、もともと館内観光くらいなら許可だって下りていた。以前は霧の湖へ釣りに来た太公望が迷い込むくらいのものだったし、襲われる危険を犯してまでこんな所へ来る物好きがいなかったから、広まりようがなかっただけで。それが山の中に守矢神社ができたことで、これから参拝に行こうという人たちが宿に使うようになったのだ。
 初めに人里の方から打診があったときにはかなり驚いたものだけれど、紅魔館は幾らでも開いている部屋がある。それを開放するだけじゃない? お嬢様はそう言っていた。人間という奴はよく分からないもので、困難な道を歩いて参拝すれば受けられるご利益も大きいと考えるらしい。
 宴席で呑み交わした神様に尋ねてみると、来てくれる人がいるなら嬉しい、という答えが返ってきた。決して無駄ではないということなのだろう、多分。
 かなり危険の伴う道行だし、不用意に山へ踏み込めば食べられてしまうのが関の山だから、風祝さんか他の誰かが――、

「あややや? これは何とも珍しいものが見えますなあ」
「あ、ホントに寝てるー。明日は雨かな、嫌だな」

 ――着いて来るわけなのだけれど。

「……参りましたね。何故こんなときに限ってひとが来るんでしょうか」

 嘆息。
 上方と背後から同時に声をかけられて。どちらを見ようかと一瞬迷ったときには、もう二人は私の両隣に立っていた。軽い足音が止まり、からんと下駄が音を立てる。左手では日傘の端から色鮮やかな羽が覗き、眼を巡らせた右方で艶やかな黒翼が仕舞われた。
 気の感知範囲外から超高速で来られると、今の私には対処することが難しい。館側にはそもそもあまり注意を向けていないから、声をかけられるまで気付けないことも多い。さっきのお嬢様だって、実は気付いていなかったのだ。

「文さんも妹様も、あまり騒がないようにしてくださいね」
「分かっていますとも。――ではとりあえず写真を一枚」
「妹様ー」
「おっけ、任せて」
「じょ、冗談ですってば。撮りません撮りません」

 今日はもう取材に行ってきた帰りなんですよう――と、鴉天狗の新聞屋、文さんは嘯いた。敵対するメリットがあまり無いネタだからだろう。彼女はごく稀に、里から山への参拝客を引き受けて小遣い稼ぎをしている。人の通貨を持っておけば買い食いできるじゃないですか。文さんは理由をそう話すけど、本当のところは分からない。案外風祝の早苗さんが苦手でこき使われていたりするんじゃないだろうか。
 そんな文さんを眺めながら、妹様はくすくすと笑い声を零す。姉と同様、傘の角度の問題でその顔は見えない。でもまあ、笑っているのならいいか。同じ意匠で色の違う、薄桃色の傘の天辺を見ながら思う。

「文さんはともかく、妹様は何故ここに?」
「お姉様より私の方が先に図書館にいたのよ。で、何か面白いものが見れるって言うから」
「なるほど」
「吸血鬼なのに、お二人とも早くから起きてらっしゃるんですね?」

 疑問を差し挟んだのは文さんだ。妹様は上機嫌に笑いながら、

「昨日はお姉様とイイコトしたからね。今日は特別」

 と、積極的に誤解を招くような台詞を吐いた。記者の目がきらりと光る。腰に提げたポーチから音もなく手帳が取り出される。文花帖、と言うのだっけ。真新しい和綴じの表面には数字が記されていた。通しのナンバリングなのだろう。
 文さんは私の前に身を乗り出して、妹様に尋ねる。

「ほう? 以前お話を伺ったときには仲が悪そうに見えましたが、心変わりですか」
「なーいしょ。楽しいことスキなのは誰でも一緒、ってね」
「あやー」

 万年筆の尻で側頭部を掻いて――続ける。

「これはレミリアさんにも取材してみる必要がありそうですなあ」
「じゃあ次の満月の夜に来ればいいよ。文もついでに遊んであげるから」
「実地で取材ですか。いいですね」
「うふふ、恋の迷路に迷い込むといいわ」

 止めるべきかなあ、と悩む私を挟んで、妹様と文さんの話は進んでいる。声のトーンは何だかんだで抑え気味。文さんはともかく、妹様がそうした配慮をするのは少々意外ではあった。外に出るようになって、人間と触れ合う機会が増えたからだろうか。
 人間、ねえ。
 咲夜さんをすら人間として認識しているのかどうか、今ひとつ怪しかった時期を、妹様はすでに脱している。ついでに、人間が種族的に弱いもの、脆いものだということも――まあ、色々あって理解したのだろう。だから気を遣うことも覚えられたのか。成長の証だなあ、とつくづく感慨深く思う。
 能力的には人を超えているように思えても、背で眠るこの人は紛れもなく人間だ。妖怪にとってみればすぐに死んでしまう。それは否定しようのない現実。
 けれど、それゆえに感情を向けるに足る存在でも――あるわけで。

「……寝顔は可愛らしいものですね。普段あれだけ尖っている割には」
「咲夜は結構可愛いよ? 怖いのは文のせいだと思うな」

 気付けば二人は私の後ろへ回り込んでいる。咲夜さんは一向に起きる気配がない。よほど疲れていたのか、能力の庇護があると確信しているのか。考えていることは分からないけど、私の傍だから安心してくれているのだ、と過信することは許されるだろうか。
 そう考えれば、背中に寄りかかる温もりが余計に重みを増した気がして。同時に、その表情を見られないことがひどく不満に思えた。最近はますます隙がなくなって、寝顔を見るチャンスなんてなかったからだ。

「あのう、文さん?」
「はい?」

 声をかけてはみたものの、どう切り出したものかと少し迷って。結局、ストレートに言うことにする。

「プライベートな依頼って、受けてもらえるものですかね」
「私の興が乗れば可能ですが」
「なら咲夜さんの寝顔を一枚」
「乗りましょう。見出しは紅魔館の門番とメイド長、放逐か――とかでどうですかね」

 プライベートって言ったじゃないですか、と半眼を向ける。視界の端っこで文さんはまた、冗談ですよ、と笑った。手に持った文花帖を元通りポーチに戻して、人差し指を左右に振る。

「美鈴さんには日頃からお世話になってますからね」
「私が、何か?」
「天狗ということで警戒する人も中にはいるのですよ。その点、幻想郷縁起に押し通ろうとしない限り危険はないと書かれた貴女は、馴染みやすい妖怪に数えらているわけでして。無自覚かもしれませんが、間を取り持つ形になってくれているのですよ。後ろの方と話したりすることで、ね」
「はあ」

 確かにいくらかの人間とはそういう話をした記憶もあるような気はするけれども。

「美鈴、人気者?」
「下手をすれば里の守護者どのの次くらいには親しみやすい妖怪に挙げられるんじゃないか、と個人的には思ってます」
「持ち上げても何も出ませんよ」
「でも美鈴、咲夜はお姉様のものだからね? 迷路に迷い込む価値があるかどうかは、ちゃんと考えた方がいいわ」

 日傘をわずかに傾けて妹様は私を見上げる。真紅の瞳はずいぶんと楽しそうに細められていた。無邪気な言葉はどういう意図なのだろう。色恋に方向づけられるようなことを言った覚えはないのだけれど。私にとっての咲夜さんは、言うなれば妹とか娘とか、そういう感覚の方が近いと思う。
 考えている間に、いつもより軽めのシャッター音が響いた。

「妖力を通さない普通の写真ですから、かえって現像が難しそうですねえ」

 ふむ、と文さんは考え込むように一つ唸って。

「まあにとりに頼めば明日までに仕上げてくれるでしょう。ちょうど配布する予定の新聞がありますから、それに挟んで持ってきますね。その方がいいでしょう?」
「何から何まで有難うございます」

 言葉だけで礼とする。早い方がいいですね――と、文さんは呟いて。

「では、私はこれで。レミリアさんに近々取材に伺うとお伝えください。フランドールさんも、興味深い話をありがとうございました」
「承知しました」
「ばいばい、文」

 三歩前に出て、文さんは鴉羽を出現させる。なくても飛ぶことはできるけど、風を切る快感は段違いなのだとか。羽を持たない私には分からない感覚。もう一度、では、と片手を挙げて空へ。吹いた微風がスカートの裾を揺らす。咲夜さんの寝息がかき消される。そうして、文さんは狭い視界からあっという間に姿を消した。
 その姿を見送るように、妹様はぐるりと身体ごと山の方向を振り返っていた。やがて気が済んだのか、再び正面に向き直ると、今度は日傘を傾けて私を見上げてくる。

「天狗って気持ち良さそうに飛ぶよね」
「そうですねえ。あの方達にとって飛ぶことは娯楽であり、生きることそのものなのでしょう。風の化身と言うくらいですから」
「ふうん。一度あんな風に飛んでみたいなあ」
「いつでも飛べるじゃないですか」
「でも、日傘(これ)を持たなきゃいけないでしょう?」
「……ああ」

 夜なら、と言いかけてやめた。そう言うことではないのだろう。お嬢様が言っていたように、陽の下を歩きたいという願望を、妹様は吸血鬼なのに何故だか持っている。
 ……それは、きっと。長い間を地下室で過ごしたことの弊害だ。
 昼となく夜となく、いつでも暗いその部屋は。夜の王でも参ってしまう。
 日の光と月の光。双方が存在していることを知っているから、妖怪は――吸血鬼は夜を好む。妹様は、五百年近くの間にどこかで間違えたのだろう。これから時間をかけて、慣らしていくべきことの一つ。
 けれど。

「歳を重ねてもっと強くなれば、あるいは太陽だって平気になるかもしれませんね」
「そうなの?」

 はい、と私は頷く。

「いつだか読んだ冒険譚には、そんな吸血鬼が出ていました。陽の光をものともせず、十字架や聖水も効かず、主人公をぎりぎりまで追い詰めて――まあ、最後には物語の都合で負けるんですけど」

 なにそれ、つまんない――と妹様は不満げに日傘を揺らした。背後で虹翼がからからと乾いた音を立てる。いつの間にか、声のボリュームは平素と変わらなくなっている。咲夜さんがいつまでも動く気配を見せないからか。
 ――遠く、霧の湖で遊ぶ妖精の声がごく小さく聞こえる。いくらか長く不平を並べ立てて、妹様は不意にそれってさ、と言った。

「なんだか、私たちみたいね」
「どこがです?」
「主人公に――解決役に負けるところ」
「そこだけですか」

 見下ろす。日傘の端から覗く眼が、苛立ったように細められる。

「むう。だって、霊夢も魔理沙もいつまで経ったって勝てる気がしなかったもの。ぎりぎりまで追い詰めたなんて言えないわ。ルールだからとか、全力じゃなかったから、って言い訳もできるけどね。負けたんだし、潔く認めちゃう方が格好良いじゃない」
「本音は?」
「きゅっとしてやればコインいくつくらい吐いたのかしら」
「やらないで下さいね」

 ふん――と、妹様は唇を尖らせた。

「やんないわよ。人の恋路を邪魔するようなものじゃない」
「……ええと、あとその恋がどうこうって言うのは何なんです? 何かきっかけでもあったんですか」
「……魔理沙が魔砲を教えてくれるって言うから。恋を想え、イメトレは大事だぜ、って」

 はにかむような沈黙の後、妹様はそう言った。ようやく合点が行って、私は苦笑する。スペルカード戦のスペシャリストが吹き込んだ話なら、正しいのかもしれない。
 なるほど。私が今ひとつ弾幕ごっこで振るわないのは、イメージトレーニングが足りなかったからなのか。胸中でぽんと手を打って。すぐさま、ありえないと打ち消した。
 それでどうにかなるくらいなら、対魔理沙戦の戦績も少しは上がるはずだ。才気と努力が合わさって、始めて超えられる壁。きっと、そういうモノなんだろう。中にはどこぞの巫女のように、素養だけでそのラインを越えている者もいるにはいるけれど。やっぱり、お嬢様が起こした異変のときに腕の一本でも食べておけば良かったか。間違ってもそんなことができそうな力量の差ではなかったが。
 しかし、魔法か。

「魔法なら、どうにかできるんじゃないですか?」
「え?」
「例えば、紅魔館の窓にかかっているようなのを使ってみるとか。畑違いだからあまりいい考えなんて浮かびませんけど、パチュリー様なら何か思いつくのではないかと」
「そうかなあ。お姉様はずっと日傘で外に出てるじゃない」

 あの方の場合は、面倒臭いとか苦手とかいうのが優先されてるだけなのでは、とは言えない。姉の威厳に関わる。派手な魔法はともかく、細々した魔法は図書館の親友に丸投げなのだ。館内の遮光ガラスや夜になると灯るランプが消耗品の魔具で、それの修理も実はパチェがやってるのよ――とはいつ聞いた話だったか。
 さて、どう言ったものか。考えて腕を組んだそのとき、

「まあいいわ。美鈴がそう言うならちょっと聞いてみる。どうせお姉様も図書館なんだし、なんで魔法を使わないのかも聞いてみようっと」
「え、あ、ちょっと妹様?」
「またね、めいりーん」

 妹様はぱっと身を翻して言った。来たとき同様唐突に、私の隣から姿を消す。

「……ええと」

 残された私は中途半端に振り返った姿勢のままで硬直した。姉妹揃って門扉は思い切り開け放って行ったのか。他所から見たらどんな感じなんだろう、この光景は。考えて、はぁ、とため息を吐く。職務放棄をしているようにしか見えまい。
 そろそろ腰が痛いな、と思う。
 慣れない変な態勢で寝ようとするから、咲夜さんは体重の大部分をこちらに預けていた。いつもならこの程度で音を上げるような身体ではない、はずだ。けれど、他人の重さを支えながら、眠っている状態のふらつく重心を探り、それが大きく崩れないようにコントロールしつつも片や会話とリアクションをする――なんて変なことをやっていたのは私だって同じなのだ。
 だから。

「なんて言うか、そろそろ開放してくれませんかね、咲夜さん」
「……貴女、気付いてたの?」
「だてに気を使う、なんてことを標榜してるわけじゃないですよ。覚醒している人は独特の気を放つものです。まあ、妹様も気付かれているようではありましたけどね」

 そう――と気まずそうに言って、咲夜さんは私から離れた。スカートのポケットから見慣れた銀時計を取り出して、開く。現在時刻を見て、その顔色が一気に青ざめる。

「もうこんな時間!?」
「あ、お嬢様の許可は下りてるから大丈夫だと思いますよー」
「う。お嬢様が来たんならその時に起こしてよねもぅ……」

 涙目で睨まれる。あれこれ考えているうちにそのタイミングを逃した。言葉にすればそれだけなのだが、それゆえ申し開きとするには弱い。だから曖昧に笑って誤魔化した。咲夜さんだって結局、目を覚ましたのは文さんが立ち去った時だったのだ。それまでにも起きる機会はあったはずだし、私だけが責められるのは納得が行かない。別に、常日頃サボるなと怒られている意趣返しをしたかったわけではない。本当に。
 腰を叩きながら時計塔を見ると、いきなり咲夜さんが現れたことに気付いたときから一時間あまりが経過している。瀟洒を心掛けるメイド長にしてみれば悔しいのだろう。立ち去ることも忘れて、私の左隣でへたり込む。両手で隠した顔は見えないけれど、耳まで赤く染まっている。そんなに悔しかったのだろうか。

「大丈夫ですか? 寝起きは軽く動かしといた方がいいですよ。むくみます」
「……流石、慣れてると言うことが違うわね」
「いやあ、師範とでも呼んでください」
「褒めてないわよッ!」

 怒鳴りながらも立ち上がり、言われた通りに足を振る。咲夜さんの起床を待ち兼ねていたように、くぅ、と私の腹が鳴った。お八つ刻。今更ながらに何かをよこせと要求される。ああいえ違うんです、と慌てて掌を振ると、

「あとで何か持ってくるわね」

 虚を突かれたように目を丸くして。それから、咲夜さんは苦笑した。私は照れ隠しに目を逸らしながら訊く。

「あー、何故こんな所で寝ようと思ったのか、聞かせてもらっても構いませんか」
「……どうしても聞きたい?」
「それはまあ」

 当然ながら、と頷く。ええとね――と言って、咲夜さんはスカートの裾を握った。

「驚かせようと思ったのよ。珍しく貴女は起きていたし、疲れていたから。リフレッシュという奴ね」
「自慢げに言われましても」
「ついでに三十分くらい仮眠でもとろうと思って目を閉じたらすっかり寝過ごしてしかも能力まで解除されちゃって気が付いたら貴女と妹様が話していたって寸法よ参ったか!」
「ええまあ参りましたとも」

 また真っ赤になるくらいならそこまで赤裸々にぶっちゃけてくれなくても良かったのに。肩で息をする咲夜さんを宥めながら思う。思ってみるけれど、顔がにやけるのを抑えることはできなかった。本音を聞かせてくれたのは素直に嬉しい。
 暫くして漸くトーンダウンした咲夜さんは、またふらふらと腰を落とした。地面にぺたりと膝を着けて、盛大なため息を一つ。幸せが逃げますよ、とでも言おうかと思って。ここはそういうのとは無縁な紅魔館なのだと考え直す。

「たまにはこんな日があってもいいじゃないですか。咲夜さん、お疲れのようですし」

 そう言いながら、咲夜さんの隣に座った。ぽんぽんと軽く肩を叩く。昔の失敗談でも話していた方が落ち着きますか? と問うと全力で首を振って否定された。今よりひどい失敗談なんて幾らでもある、と言いたかっただけなのだ。そんな殺す目で睨まないでほしい。
 あやすように肩を叩きつつ、空を見上げる。鱗状の雲はいつの間にか崩れて、たなびく線のような雲模様になっていた。青と白を背景に、数人の妖精がふわふわと飛んで行く。何かを追いかけているらしい。遠目にはよく分からないが、鳥か何かだ。悪戯を仕掛けるなら、陥れられた側がそれと認識できるような知能を持った生き物を狙うはずだから、あれも妖怪化した動物なのかもしれない。
 捕まるなよー、と心中で応援していると、

「妹様」

 呟く声が隣から聞こえた。と言っても、妹様の足音はおろか気配すら感じない。はて、と思って聞き返す。

「はい?」
「妹様が術とか関係なしに、太陽なんて克服できればいいと思う」
「ああ――聞いていたんですっけ」
「貴女はできると思う?」

 ええ、と私は眉尻を下げる。

「妖怪なんて気の持ちようです。吸血鬼は日光が弱点だと思うから、日に当たると溶けてしまうんですよきっと」
「それは暴論じゃない?」
「――正直極端かもしれないとは自分でも」

 やっぱりね――と咲夜さんも相好を崩した。もうすっかり落ち着いたらしい。動かしていた手を止め、膝を抱える。こんな場所で二人揃って座り込んでいるなんて、文さんが早めに帰ってくれてよかったなと思う。撮られたら紙面を大きく取ることはできなくても、賑やかしくらいには使われてしまうだろう。紅魔館、ついにメイド長までサボりか――なんて、私は構わなくてもこの人はすごく気にするはずだから。
 膝に頬を預けて、私は仕切り直すように咲夜さんへ顔を向ける。

「ですが、時間さえかければ迷信を追い越すことだってできます」
「私はその頃にはいないかもしれないけどね」

 人と妖怪では時間の尺度が違う。それは仕方のないことと思っても、何となく不満で反論する。

「分かりませんよ。明日にも平気になってるかもしれないじゃないですか」
「矛盾してるわ、美鈴」
「じゃあ、十年とか」
「それは妹様を甘く見過ぎなんじゃない?」
「……貴女は結論をどこに持って行きたいんですか」
 恨めしげに問うと、私にだって解らないわと苦笑された。言いたいだけなのか。なんとなく敗北感。
 いつだかの永い夜。その延長の肝試しで、咲夜さんは人のまま仕えると忠誠を新たにしたらしい。
 私はそれを伝聞でしか知らない。印象に残っているのは、話してくれたお嬢様が妙に嬉しそうだったこと。生意気よね、と繰り返すあの方の心境を、私は完全には理解できなかった。それはきっと、お嬢様と咲夜さんの間にある絆がそうさせているのだろう。
 ……ううん。ハハオヤの心理って言うのはこういうものなんだろうか。よく分からないそれをよく分からないままに、

「――まあ、なんて言うかその」

 呟いた。咲夜さんは、なに? と小さく首を傾げる。できるだけ深刻さを感じさせないように、続ける。

「長生きしてくださいね。側仕えは大変かもしれないし、私なんかに言われても嬉しくないかもしれないですけど」
「……迷惑をかけない程度に長生きさせてもらうわ」

 柔らかく笑う。

「見ていたいものも、まだまだあるしね。そう簡単にはくたばらないわ」
「……咲夜ちゃんの癖に生意気」
「余計なお世話よ」

 固めた拳を振り上げられる。さっと頭を庇った私は、脇腹に一撃をもらって悶絶した。タイミングもさることながら上手い具合に肋骨の間を狙うとは、

「腕を上げましたね……!」
「種のある手品よ」

 そう言って、咲夜さんは立ち上がった。ぱたぱたとスカートを叩く音。土埃が私の頭に降りかかる。酷い。
 よし、と気合を入れ直した咲夜さんは私を見下ろす。

「それじゃ、私は仕事に戻りますわ。快眠の邪魔をしなかったこと、お礼申し上げますわね」

 去り際は瀟洒な挨拶で。
 門扉の閉まる軋んだ音。颯爽と響くヒールの音が遠ざかって行く。後ろ姿を見送りながら、低い位置から頑張ってくださいねと声を投げた。館内に入る瞬間、片手を振って返される。主従で仕草まで似てきたな。

「よいせ、と」

 それを見届けてから、私は立ち上がった。咲夜さんに倣って体を叩く。流石にもう、今日は誰も来ないだろう。紅魔館の門前で、昼日中に誰かを見かけること自体が本来は稀なことなのだ。家人が大半だったとは言え、四人もここに来るなんて、

「本当に明日は雨かもしれませんねえ」

 妹様の言葉を思い出して、私は独り笑った。まあ、降るなら降ればいい。お嬢様方には悪いけれど、雨だって悪くはないと思うのだ。もちろん門番業は大変になる。それでも、それくらいは許容しようという気分になる日常のアクセントは、結構好きだから。
 変わらない紅魔館も良いのかもしれない。その方がいいことだってきっとある。私たちは一人を除いて妖怪と妖精なのだし、早過ぎる変化は苦手だ。けれどきっと、何一つ変化しない日々は退屈だとも思うのだ。それがどういう方向への変化であったとしても。
 そろそろ食べ物が美味しくなる季節。本格的な秋が来たら山へ栗拾いにでも行こうかと考えながら、私は大きく伸びをして――門横の壁にもたれかかった。
 さて、今日のアクセント分の帳尻合わせをしましょうか。





 翌日新聞を届けに来た文さんと咲夜さんが鉢合わせて、あらぬ誤解を受けたのは。
 まあ、泣きたくなる方向への変化だったけれども。
幻想郷の人々は意外と、妖怪と人との違いを受け入れているのではないでしょうか。
その上できっちりと関係を築いているとしたら、彼女たちの在り方は共存に近しいのだろうと思います。
ここまで読んでいただいた方に最大の感謝を。ありがとうございました。
斎木
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コメント



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4.90奇声を発する程度の能力削除
のんびりとした感じで良かったです
8.100名前が無い程度の能力削除
まったりとした雰囲気が良かったです。
12.100名前が無い程度の能力削除
まったーり
16.90名前が無い程度の能力削除
いい雰囲気だね
20.100名前が無い程度の能力削除
実にまったり。
某赤バラさんとかも魔力が強すぎて日光無効化してましたね
27.100名前が無い程度の能力削除
こーゆーのんびりした雰囲気が好き
29.無評価斎木削除
評価、コメントありがとうございます。
ゆるゆると取り留めもない話をしている姿が美鈴には似合っていると思うのです。
イメージと違う、と仰られる方もいるかもしれませんが、私の中ではそういう感じです。
それでは、また。
37.無評価ヘルシア削除
日光を、なんかだるーい、で済ませる吸血姫もいますしねぇ