「おはよーございますっ!!」
追い払われるにしろ、歓迎されるにしろ。
とある妖怪が住み付いてからと言うもの、五月蝿いくらいに響いていた声が朝の風物詩になっていた。五感が鋭いナズーリンなどは、廊下ですれ違うたびに挙手と同時に発せられる大音響で顔をしかめるほどなのだから。
至近距離で食らうと、意識が飛びかねない。
じゃあ挨拶しなければいいという話になってくるが。
『挨拶すらできない者など、この寺に置いておくわけには行きません!』
『毘沙門天の使いとして恥ずかしくないのですか!』
などという、立派な僧侶様と毘沙門天代理がいるのでナズーリンの逃げ場はない。
ゆえに、今日も身構えていた。
あの角を曲がれば、また鼓膜を突き破るほどの音が待っているのだろうと、抜き足差し足。
できるだけ先手を取って被害を減らそうと、手鏡まで利用して相手との位置関係を把握する。
鏡の中の新入り、幽谷響子は現在ナズーりンに背を向けて歩いている状況だ。
ならば、まだましな部類かもしれない。
「やぁ、おは……」
大きく息を吸い込み、返ってくるはずの声に身を強張らせる。
が、
「おや?」
その日は、静寂と、鳥の声だけが耳に入ってきた。
ナズーリンよりも少し大きな影は、背を向けたままてくてくと。
まるっきりナズーリンを無視して、
「お、おーい、響子?」
朝食が並べられているはずの居間へと歩みを進めていくのだった。
◇ ◇ ◇
昨晩、人間の男が死んだ。
愛する者のため、その者の病気から救うため。
満月の夜にしか咲かない薬草を求めて、人里から出た男が妖怪に襲われて大怪我を負った。
なんとか薬草を手に入れ、命蓮寺まで逃げ込めたものの傷は深く。
聖たちに看取られながらその命は消えた。
その後、事情を知った聖が大急ぎで薬の素材を永遠亭に届け、その妻となるはずの人物は救われたが、戻ってきた聖の顔色を見て、星やナズーリンたちは悟ったのだという。
その深い悲しみを。
聖と、相手が受けた心の傷を。
それで是非にとも、葬儀を命蓮寺でとり行わせて欲しいという話になり、朝から大忙しで準備を繰り返しているというわけだ。
そんな大事な中で……
「響子、私は別に人の趣味をどうこういうつもりもありませんし、それを故意に矯正することもしません」
こくん、と。
犬耳を持った妖怪が首を振る。
「しかし、しかしですよ? えーっと、なんといいますか。その、いきなりそういった行動を取られるとこちらとしては混乱するといいますか」
星の真正面に座り、犬耳を持っているはずの妖怪が首を何度も縦に振る。
「わかりますか? 今日は御通夜というものがありまして、それは厳かにそれでいてしめやかに行われるべきで、そういった格好をされるとこちらの誠意というものが人間に誤解されてしまうというかですね」
星の横に座るナズーリンは頭を押さえながら聞き、目を細めながら響子へと視線を向けた。
いや、なんだかよくわからない状況を必死で理解しようとしていたというべきか。
何せ、今日に限って響子が。
「あの、その、せめて猿ぐつわは外しませんか?」
薄い布をきつく縛り、その口を塞いでいたり。
垂らした耳がタオルでしっかりと覆われ、何重にも包まれていたり。
今朝、居間に現れた時から全員が口をあんぐりと開けてしまうような出で立ちで現れて。
「わかりましたか?」
今のように、ナズーリンや星の顔をじーっと眺めながら、コクコクと頷いて手持ちの手帳を二人に見せ付けたのだ。
そこにはしっかりとこう書いてある。
『おはよーございます!!』
とても元気の良い文字が、妙に恨めしい。
「わかってない、全然伝わってないじゃないかご主人!」
「いえ、今のおはようございますは字が滲んでいました。きっと私の言葉が響いた結果でしょう!」
「一緒だよっ、どこをどう見ても朝食のときと同じ字だよ! ええいっ! それをさっさととらないかっ!」
もう我慢の限界なのだろう。
命蓮寺の一員として、さすがに受け入れられないナズーリンは無理やりターバンもどきと、猿ぐつわを外そうと飛び掛るが。
「っ! っっ!!」
「こら、大人しくしろ! それに朝から何も食べていないんだろう!」
ぶんぶんっと。
唸り声一つ上げずに抵抗する響子は、背中を畳に付けてジタバタとナズーリンの攻撃を手足で防ぐ。それでも押し返すだけで傷つけるような攻撃を繰り出さないのは、ナズーリンのことをいたわっているからなのだろう。
それでも、そういった遠慮した防御で押さえきれるはずがなく。
とうとうその右手が布に触れそうになる。
すると、いまにも泣きそうな顔で必死にナズーリンを睨み返してきた。
そのあまりの強い意志に、思わず頭に向けた手を止めるが、それも一瞬。
『人の命を送る儀が控えているのだ。ふざけてなどいられるか』と。
ナズーリンは心を鬼にして、その手を再び進め。
「やめましょう、ナズーリン」
「ご主人っ!?」
しかしそれは意外な人物によって防がれた。
後ろからナズーリンの腕を掴む星によって。
思わず眼を見開いて振り返ったその眼に飛び込んできたのは、優しい笑顔で首を左右に振る。
「朝、聖もあなたと同じく。響子からタオルや手拭いを奪い取ろうとしました。けれど、そのとき、響子の眼を見て、好きにしなさいとつぶやいたはずです」
「しかしだなご主人、聖にだって間違いというものは」
「そして、あなたも今、一瞬だけ躊躇した。冷静なあなたでも何か感じるものがあったということでしょう?」
「そ、それは、そうだが……もう、その顔は反則だと何度言ったらわかるんだ!」
「ははは、すみません。ナズーリン」
力を緩め、響子から体をどけた。
けれど、不満げにぴしっと畳に尻尾を叩きつけるのはナズーリンなりの最後の抵抗だったのかもしれない。尻尾のバスケットに乗っていた同朋にはとんだとばっちりのようだったが。
すると、響子は服を正しながらも、何度も何度もナズーリンと星に頭を下げてくる。
「それは良いのですが、いきなり朝ごはんを食べなくなるのはあまり感心しませんね。みんな心配しますよ?」
右手で箸をそして、左手でお椀を。
まるで手の中に実物が納まっているかのように星は動かしてみせる。すると、申し訳なさそうに目を瞑って、部屋の隅にあった作業机まで脚を運ぶ。
そして手帳の新しいページに文字を書き始めた。
『今日だけ』
たったそれだけの、簡単な文字だけが書かれた手帳を星とナズーリンの前に置くと。
正座して必死に頭を下げ続けていた。
それをじっと眺めた星は、ふぅっと諦めたように息を吐き。
「本来ならば、なんのつもりか詳細まで書かせるのが私の役目なのでしょうけれど。困ったことに私は今日多忙でして、掃除や荷物の準備だけで手が離せませんし」
そして、眉根を下げたまま困った顔をナズーリンへ向ける。
この顔だ。
宝塔を無くしたときだって、聖を助けたいと打ち明けたときだって。
いつもこの顔で大事なことを告げてくるのだから。
「……はぁ、私も今日は御通夜に必要な道具を探し集めないといけないからね。手が離せないよ」
「そうですか。なら仕方ありませんね。では、こちらの判断としては」
星は微笑んで、頭の上に両手を上げると。
手の先をくっつけて、大きな丸を作り出した。
「これです。でも、こんな我侭は一日だけですからね」
続けて、一本指を響子にかざして小さく振る。
それだけで響子の目がぱぁっと輝いて、
コクコクコク、と。
頭が取れてしまうんじゃないかと心配してしまうほど。
その日一番の頷きが星に返ってきた。
◇ ◇ ◇
それから準備を進めていく中、響子は誰を手伝うということなく屋根の上でじっと門の方を眺めていた。
ナズーリンが同朋に探らせていたから、それは間違いない。
人里の代表者である長老や稗田家と話しをしている間もじっとそのやり取りを眺め続け、動き一つ見せなかった。
「……本当に、何がしたいんだ?」
それを理解できないナズーリンは、ときどき愚痴を零し、『まぁまぁ』と星が宥める。
そんな中、聖が二人の部屋にやってきて。
「さあ、お出迎えよ」
凛とした顔で、告げてくる。
暗い感情を表に出さない、僧侶としてあるべき顔。
それを表情に貼り付けて、二人に指示を出したのだ。
「わかりました。私たちもすぐ参ります」
それは、この儀を行うに当たって最も重要な人物の出迎え。
愛する者を失った女性を招き入れること。
妖怪によって失われた命を弔うことの重大さが聖の決意から滲み出ていた。
「ああ、行こうか。ご主人」
部屋を出て、普通の廊下を歩くだけ。
たったそれだけの作業だというのに、その一歩のなんと重いことか。
その道のりのなんと長いことか。
廊下から眺める門の先には、左右から支えられてやっと立っている女性の姿がはっきり見え、見えない鎖がナズーリンの足を止めようとする。
それでも、星と聖の背中は前に進む。
同じか、それ以上の重さを感じている二人が、先へと進む。
「強いな」
ナズーリンはそれだけつぶやいて、自分の太ももをぱんっと叩いた。
動け、と足に魔法を掛けて。
止まりかけた足を進める。
そうやって玄関までなんとかやってきて、草履を履いて外に出る。
「この度は……」
そして、星の後ろに隠れるようにして小さく会釈。
その目の前には、今にも消えてなくなってしまいそうな弱々しい女性がいた。
けれど、その暗く沈んだ顔を凝視することができず、ナズーリンは唇を噛む。
『死人だ』
そうつぶやいてしまいそうになった唇を、強く押さえ込む。
本当にそう見えた。
放っておいたら迷いなく、その命の灯火を消してしまいそうなほど。
それでも聖は、全員を代表して会話を繰り返している。
礼儀を尽くし、相手を尊重し、その声を届けている。
その声が届いたのだろうか。
「あの、一つだけ……」
手続き上の話が終わった頃。
促されることなく、女性が唇を上下に動かす。
自らの声で、大切なことを聞き出そうとする。
「あの人は、最期になんと……」
愛するものの残した言葉を、受け取りたいと。
聖の瞳をじっと見つめる。
だから聖は、少し躊躇いながら、迷いながら。
彼女が生きる希望を失わないように、言葉を選んだ。
「……あなたに生きていて欲しい、と」
けれど、女性はその言葉に何の反応も見せず。
口を笑みの形へと歪める。
「あなたも、同じことを言うのですね」
そして乾いた笑い声を上げて、疲れ切った顔を、星やナズーリンにも向けた。
「お母様も、お父様も、あの人のご両親も同じことしかいってくれません。あの人は『生きて欲しいと思っているはずだ』『あの人の分まで生きて欲しい』と。そんな言葉、教えて欲しいなんて思ってないのに」
「お待ちください。あの方はっ!」
しまった、と。
聖が顔色を変えるが、もう遅い。
女性の表情は尚、闇を帯び、膝から力を失う。
両側の両親と思われる男女が励ますが、自分で立つ気力すら失ってその身を預けるだけ。
「いいんです。もう、いいの。あの人の言葉はもう、この世界に残っていない。あの人の魂は、この場所に残っていない。だから、もう、聞こえるはずがないのに……私は何を期待したというのか」
聖たちは、あの夜確かに聞いた。
薬草を手渡し、とある人を救って欲しいという人物の声を。
それと同時に、別の言葉も聞いたはずだった。
それでも彼女を見ていたらどうしてもそれを口走れなくて、彼の言葉どおりになど伝えられなかった。
「この薬草を……あの竹林の名医まで届けてください……それで、すべて伝わるはずです……」
そう、そうだ。
こんな声だ。
こんな弱々しい男の声だった。
「そしてすぐそれを人里へ、届けて欲しいと、お伝えください……お願いします……」
自分の命が危ういのに、大切な誰かのことを想い、願った。
純粋な一人の男の――
「っ!?」
男の、声?
そんなものが、この命蓮寺にあるはずがない。
ここを構成する妖怪はほとんどが女性で、唯一の雲山が時折声を発するときがあるがもっと、もっと低い。腹を響かせるほどの重低音のはずだ。
こんな高い声が、この場に流れることなんてありえない。
「それと、はははっ……お恥ずかしいことなのですが……もう一つ」
それが、斜め上から降りてくる。
ナズーリンの同朋が見張っていた、たった一人の少女から。
布や手拭いを口と耳から剥ぎ取り、屋根の上で口を動かし続ける響子が強く、言葉を紡ぎ続けた。
あの夜の、あの男とまったく同じ声で。
わなわなと体を振るわせ始めた女性目掛けて、言霊を飛ばす。
「その女性に、伝えてくれませんか? ……ごめん、て」
「……響子、君は」
大切な言葉が上書きされないように、耳を閉じ。
少しでも鮮明に届けようとした。
「本当に、あなたと一緒になりたかった……あなたと一緒に子供を抱いて、笑っていたかった。明日のご飯の内容だけで、笑いあったり、喧嘩したかった……生きて、いたかった、ああ、やっぱり、そうだ……」
大切な言葉が一番最初に彼女に届けられるように。
その口を閉ざした。
「……くやしい、そう、心から思えるくらい……、僕は……あなたを愛している。だから、生きて欲しいんだって。どうか、届けて……」
あの男が、望んだとおり。
あの男が、願ったとおり。
響子はそのすべてを届けて、屋根から飛び降り、必要なくなった手拭いを女性へと手渡した。
すると、女性は強く響子の手を掴む。
妖怪である響子が思わず顔を歪めてしまうほど強く。
それでも逃げない。
じっと、女性が力を緩めるのを待った。
「ああ、うぁぁぁぁぁああああっ!!」
そして、意思の炎が点り始めた女性の瞳が、やっと本当の涙を流し始めた頃。
自然と離れた手に手拭いを押し付けて、響子は逃げるようにその場を去っていく。
耳をパタパタと揺らし、顔を真っ赤にして。
それを見送った星とナズーリンは、
「……やられたね、ぬえ以外に化かされるとは思わなかった」
「ええ、まったくですね」
優しい瞳で見詰め合い、こっそり微笑んだ。
それが見つかって聖に叱られるが、溢れてくる暖かい感情を抑えるのは一苦労で、
「厄介者を拾う聖が悪い」
困ったことに、ナズーリンはそう毒づくので精一杯だった。
そして、困ったことがもう一つ。
名実ともに命蓮寺に受け入れられた、響子の信頼度と
「おはよーございますっ!!」
「ぎゃふっ!?」
ナズーリンを悩ませる声量がうなぎ上りだという事に。
最後のナズの「ぎゃふっ!?」が可愛くて涙目のニヤケ顔だけど気にしない
響子ちゃん凄い!
さすがは山彦です。
響子ちゃああああん!!
君はなんて良いこなんだあああああ!!!
最後感動しました。
しかし疑問も幾つか残ります。
永琳が果たして「満月の夜にしか咲かない薬草」を採りに行けと言ったのでしょうか?何もフォローも無しに?
そして、聖が「彼女が生きる希望を失わないように」との意味で、虚偽の言葉を伝えるでしょうか?
また、里の守護者である慧音の存在もあります
彼女に相談していれば、慧音が代行したり霊夢や霧雨魔法店へ依頼するなどあったはずです
緊急性が示されていたとしても、もうちょっとやりようがあったんじゃないかな、と
読んでいる間中もやもやしっぱなしでしたが、発想に感心できましたし、この点数で
さいこうでしたの