少女は枕の上でぱっちりと目を開けた。夢を見ていたような気がしたが、それがただ眠りに就く前の記憶だということにやがて思い当たって、それからむくりと上半身を起こした。着替えと化粧を手早く済ませ、銀色の髪を結う。時間を大切にしなければならないということは、十六夜咲夜から散々聞かされていた。
彼女はもう長いこと、紅魔館のメイドとしての教育をメイド長から直々に受けていた。長いこと、といってもわずか数日間だけだった気もするし、何年も経ったような感もある。どのみちこの世界では、時間の流れに意味などなかった。昨日と今日の区切りは就寝と起床しかないのだ。
部屋を出て扉を閉める。鍵はかけない。部屋を荒らそうとする者はおろか、この館に侵入できる者などひとりだっていやしない。紅魔館には悪戯好きな妖精が沢山いるが、今は彼女の世界にはどうやっても干渉できないのだから、用心する必要などどこにもなかった。足音を殺し切るほど毛足の長い紅絨毯の上を、少女はするすると歩く。目指すは上階にある、レミリア・スカーレットの部屋だ。
果たして意味がどれだけあるのかは分からないが、館の主に朝の挨拶をするのが彼女の日課である。彫像のように不動の彼女はいつでも自室のテラスに座って、空のカップを前にして無表情だった。
「お早うございます、お嬢様」
レミリアの後ろで、少女は深く腰を折る。たっぷり五秒間頭を下げ、視線を上げてみてもレミリアは背中を向けたままだった。毎朝それを認める度、その視線が自分を捉えることを、その声が自分の名を呼ぶことを彼女はちらりと望んだ。ただの人間たる自分に、吸血鬼の考えがどこまで推し量れるかは分からないが。
小さな背中は黙したまま、何も答えることはない。
主の部屋を辞して、厨房へと向かう。食事は毎日作らなければならない。
「お早うございます、メイド長」
「お早う」
そこでは既に、咲夜が下拵えを始めていた。彼女より早く来ようといつも計算し努力しているのだが、成功した試しがない。ため息は心の中だけで吐いて、少女は篭の中のニンジンを手に取った。
サラダにトースト、それにコーヒーという簡素な朝食は、それほどかからずに完成した。食べ切ってしまうのにもそれほど時間は要しなかった。カップに口を付けた少女に、咲夜が呟くように問いかけた。
「―― 貴女は、覚えている? 紅魔館に来たときのことを。来る前のことでもいいけど」
「いいえ」
コーヒーに手を付けないままに咲夜が発した質問への答えは、明確にノーだった。産まれる前の記憶など誰にもないのと同じように、紅魔館でメイド長に師事するまでの記憶は少女にない。自分が親から産まれたのではなく、唐突にこの紅魔館から存在が始まったのだと言われても、彼女には信じられる気がした。
「でも、関係ありません。私はきっと、ここでこうなるためにいるんです」
空になった二人分の皿を持って少女は立ち上がる。椅子を引く音は立たない。音を伴わずにあらゆる所作を行うことも、メイドの必須技能である。
流し台の桶に貯められた水で皿を濯ぎ、布で拭き取って立てかける。片づけが終わってふと気づくと、厨房の入り口に咲夜が佇んでいた。いつもだったら食後は自分の席で座ったまま、片付け終わるのを待っているのだが。
「昨日言ったと思うけど」
指先で銀時計を弄びながら、メイド長は柱に寄りかかっている。
「貴女には私を、そろそろ継いでもらうわ」
「……まだ、早いんじゃないでしょうか」
彼女がそう返したのには、二つ理由があった。一つは自分がまだ未熟な存在であるということ、二つは十六夜咲夜に身を引くべきところなど見あたらないということだ。自分と齢はそれほど変わらないように見えるのに、炊事や掃除はもちろん戦闘における身のこなしにも衰えたところなど一つもなく、自分には遠く及ばない次元にいるのだということを思い知らされっぱなしなのだ。
しかし、咲夜は首を振る。
「むしろ、遅すぎるくらいなのよ」
そしてコーヒーを淹れるために沸かした湯の残りで、紅茶を淹れ始めた。注いだ湯が葉を蒸らしている間に、棚からタルトを取り出して、切り分ける。
「あまりお嬢様を待たせるわけにもいかないし」
「でも」
「それに、私はもうダメなのよ。壊れてしまったから」
そう言いながら微笑む咲夜の顔には、どこか寂しげな香りが漂っていた。
やがて盆の上に、ひとり分のティータイムの準備が完了する。彩りの少ないこの館に、オレンジペコとクランベリーの赤が悲しく映えた。
「さぁ、持って。貴女の初仕事よ」
言われるがままにその盆を手に取る。そのまま咲夜は、彼女を主の部屋へ向かうよう促した。
厨房から出て、厚い絨毯の上を再び歩く。先を行くメイド長の腰で、エプロンの大きな結び目が揺れている。
少女には言いたいことが沢山あった。咲夜と話したいことが、彼女に教わりたいことがまだまだあるのだ。だがその後ろ姿は、その全ての機会はもう終わってしまったと明確に告げていた。
再び、主の部屋の前に立つ。咲夜は律儀にノックをして、中へと入った。
レミリアは相変わらず、テラスに座ったままだ。
「さぁ」
咲夜の声に、少女は初めてレミリアの脇へと足を進める。産まれて初めて吸血鬼の背中ではない場所を目にして、心臓がひとつ跳ねた。
「それじゃあ、後を頼むわね」
止まったままの銀時計を懐から取り出し、咲夜は少女に差し出した。片手を空けて何とか受け取る。時計には外周の十二時に当たるところに釦があって、それは押し込まれたままになっていた。
「知っていると思うけど、私にはもう使えないから。貴女が釦を押して、時を進めて頂戴」
「これを、押せばいいのですね」
「そう、簡単でしょう」
「だけど咲夜さん、これは……」
「違うわ。私はもう十六夜咲夜じゃあない。私はもはや、時間の狭間に取り残された名もなき一人の女」
彼女は逆側から主の側にかがみ込み、少しだけ曲がった襟を直してやっていた。
「これからは、貴女がメイド長。貴女が十六夜咲夜なのよ」
二人の少女は同じ顔で視線を混じらせる。かがんでいた少女が立ち上がると、そのちょうど真ん中に鏡が置かれているようだった。
時間が産み落とした子供たちは、そこで初めて同じ高さで向き合ったのだ。
「さぁ、止まった時間を戻しなさい」
「……貴女は、貴女はどうなるんですか」
「私はもう、元の時間には戻れない。たぶん、貴女が元いたところへ戻るだけ。私の産まれた場所に戻るだけ」
「いつかまた、会えますか」
「えぇ、きっと。貴女も私も十六夜咲夜なのだから。私の前にも、その前にも、同じように沢山の十六夜咲夜がいた。皆同じ場所で待っているわ」
少女は朗らかに笑いながら、自身の消滅の運命を語る。盆と時計を持ったまま、新しい十六夜咲夜は表情を失っていた。
「じゃあ、行ってらっしゃい」
「―― 今まで、ありがとうございました」
礼を述べ、釦を押し込む。かちり、と音がして、時計の針は何事もなかったかのように動き出した。
「……!」
風が吹き込む。木々のざわめきが押し寄せる。世界が一瞬で彩色される。
紅魔館の時間が、再び始まった。
そこに、鏡はもうなかった。
「咲夜、紅茶を頂戴。クランベリータルトも」
「分かりました」
そう言った従者の姿が掻き消える。
レミリアは十六夜咲夜の仕事に全幅の信頼を置いている。時を止めることのできる彼女は、一瞬で準備を終えて自分の前に言いつけたものを持ってきてくれるだろう。
そして刹那の後に、傍らへ咲夜が舞い戻ってきた。
しかし、どこか様子がおかしい。盆を持ったまま、その場に立ち尽くしている。
「……咲夜?」
「……あ、はい」
主の声があるまで、メイド長の意識はまるで別の世界へと向いていたようだった。
やがて紅茶とタルトが供される。早速カップに口を付けたレミリアだったが、すぐに顔を顰めた。
「何よこれ、葉が開ききってないわ。沸かし置きの湯を使ったんでしょう。咲夜らしくもない」
非難の色を視線に込めて、咲夜へとカップを突き返す。稀にこんな子供でもしないような失態をやらかす辺りが、メイド長の玉に瑕であった。
「申し訳、ありません」
詫びながら、しかし咲夜はそれをとても大事そうに受け取った。
その顔が、レミリアには今にも泣き出しそうなくらいに崩れて見えた。
面白かったです
これは面白い十六夜咲夜論。
なるほど、この解釈は面白い。
面白かったです。
それ、なんてD4C?