白玉楼の庭には、大量の桜が植えてある。
今の季節にはそれらが満開となり、庭一面が文字通り桜の海となるのだ。
そしてそれを目当てに観光客が訪れる。もうすっかり観光名所だ。
昼間の喧騒が嘘のような夜の静けさの中、幽々子はのんびりと縁側に座っていた。
庭先では妖夢が剣を振るっていた。ふぉん、ふぉんと、風を切る音だけが響いている。
その音を聞きながら、幽々子は空を見上げた。幻想郷の上に浮かぶ、今日の月は小望月。
幽々子は隣に置いてある盆から、昼間妖夢に買わせてあった団子を手にとった。
「明日は、綺麗な満月でしょうね」
パクリと口に入れよく味わう。飲み込んでから、お茶を口に含んだ。やはり団子にはお茶がよく合う。
ガンガンガンと、戸を叩く音が聞こえてきた。剣を鞘に収めた妖夢が走って応対に向かった。
「ああ、今年もやって来たのね」
彼女は毎年、この時期の小望月が浮かぶ夜に必ずやって来る。
何故かは分からないし、理由を尋ねてもはぐらかされるので、最近は聞くことも止めてしまった。
何にせよ、旧知の友人がわざわざ泊まりに来てくれるのだ。嬉しい事なので、どんな理由であっても構わないだろう。
「相変わらず、今年もここの桜はビックリする程綺麗に咲いてるわね」
「ええ。夜桜見物には丁度良いぐらいにね」
後ろを向けば、そこには紫が酒の入った瓶を片手に立っていた。
とんとんとんとんと、妖夢が台所で食材を切っている。
その後ろ姿をチラチラと見ながら、幽々子と紫は居間でお茶を飲んでいた。
盆に載せられている団子を一つ、紫がつまみ上げる。
「それね、人里で有名な店のお団子なの。お昼のうちに、妖夢に買いに行かせたのよ」
「へぇ……ひとつ貰ってもいいかしら?」
「ええ、勿論良いわよ」
口の中へ団子を放り込む。しっかり咀嚼し、舌で味わってから飲み込んだ。
それから湯のみを手に取り、お茶を一口分飲み込んだ。
団子の後味と、お茶の味、その両方が綺麗に混ざり合った。
「ふぅ~」とため息が漏れる。
「美味しいわね、これ」
「ええ。お茶菓子にピッタリ」
もうひとつ、と手が伸びたところで台所から妖夢の声がした。
「あんまり食べちゃ駄目ですよー。今日はお鍋なんですからー」
お互いに顔を見合わせ、クスリと笑う。
「はーい」そう言って、伸ばしかけていた手を引っ込めた。
「そうねー、妖夢のお鍋は美味しいからー」
「だから、なるべく早くお願いねー?」
「が、頑張ります!」
焦りが見える妖夢の声に、紫と幽々子はクスクスと笑い合っていた。
空になった鍋と食器をカチャカチャと妖夢が運んでいく。
満腹になった腹をさすりながら、幽々子は満足そうだ。何時もの事だが、食事の途中からずっと笑顔のままである。
それを見ながらの食事だったので、自然と賑やかなものとなった。
鍋は美味しいし、幽々子はその御蔭でずっと笑顔になっていたので自然と二人も笑顔になる。
食事時の幽々子の笑顔は素晴らしい、紫はそう思っている。屈託無い、それが幸せなのだと一目で分かる笑顔だ。
その笑顔を崩さぬまま、幽々子と紫はお茶と団子をお供に、談笑に花を咲かせていた。台所からは水の流れる音と、食器をカチャカチャやっている音が聞こえてくる。
しばらく話し込んでいたが、ふいに幽々子が大きな欠伸をした。
その目は瞼が重そうで、実に分かりやすい。
「あら、幽々子はもうオネムの時間かしら?」
「御飯食べて、満腹になればあとは寝るだけよ。自然なことだわ」
「確かにそうね」
幽々子はニコリと微笑むと「妖夢ー、妖夢ー」と妖夢を呼びつけた。
「はい、どうされました?」手ぬぐいで手を拭きながら妖夢がやって来た。
「そろそろ寝床の用意をして頂戴」
「あ、はい。分かりました」
前掛けを壁にかけ、妖夢が寝室へと続く廊下を歩いて行く。
そうしてまた会話を楽しんでいると「ご用意、出来ました」と妖夢が戻ってきた。
「じゃあ行こうかしらね」
「そうね」
二人は揃って立ち上がると、妖夢を先頭にして寝室へと歩いて行った。
灯りのない真っ暗闇を、月の光が照らしている。
そんな中で、幽々子と紫は布団をくっつけあって横になっていた。
「ねぇ、紫?」
「んー?」
体は仰向けのまま、幽々子の顔だけが紫に向けられる。
「そろそろ何で毎年この時期に絶対来るのか、聞かせてもらえないかしら?」
「……別に良いじゃない。私が来たいから、来てるのよ」
「ふぅん。……それなら良いの」
しばらくすると、幽々子から規則正しい寝息が聞こえてきた。
「幽々子?」と紫が尋ねるが返事はない。
「毎年来る理由、か」独りごちた。幽々子には言えないだろう。
そうして、紫も瞼を閉じた。
満開の桜並木の中、その巨大な桜はあった。
本来なら他の桜と同じく、その見事な美しさで人々の目を楽しませる桜になっていただろう。
だがその桜はすでに普通のそれではない。
また一人、人間がやって来た。まるで夢遊病のようで、フラフラと根元まで歩いて行く。
そして懐から小刀を取り出したかと思うと、それで自分の首をかき切った。
血が吹き出し、花びらを真っ赤にしていく。遠巻きに人々が見ていた、もうああなっては止められない。
悲痛な面持ちの人間たちが去った後、にゅうと虚空にスキマが開いた。
そこから紫が姿を表す。
彼女は忌々しげに桜を見て、其の根元に傘で傷をつけた。
傷口からはドロリと、血が流れ出す、だがそれも直ぐに塞がってしまった。
「今日もまた命を吸ったか!」
苛立つ紫をあざ笑うかのように音を立てて樹の枝が揺れる。
噛みちぎらんばかりに、紫は唇を噛んだ。プツリと傷が入り、唇から血が伝う。
だがこの桜の凶行も明日で終わる。それは紫の努力が実を結ぶ事無く、期限を迎えるということに他ならない。
ありとあらゆる文献を読み、いくつかの手段は実際に試しても見た。だがそれでもこれは収まらなかった。
最初のきっかけは、或る男が自身の信念に殉じただけ。
しかしそれは彼を慕う者たちも同じ行動に走らせ、命を吸い続けたこの桜は妖怪桜、西行妖となった。
それだけなら彼女が動く必要はなかった。だがこの桜の影響を受けて、彼女の唯一の親友が苦しむことになった。
彼女は人を殺せるような娘ではない。それなのに、これのせいで元々あった彼女の能力は、この桜と同じ人を死へ誘う力となってしまった。
明日、満月の夜にその親友がこの根元で命を絶つ。その命を以て、この桜を封じるために。
それを止めることの出来ない自分が、苦しむ親友を救えない事がたまらなく悔しい。
紫は拳を幹に叩き受けた。傷ついた手から血が少しだけ流れ出し、それを桜が吸うのが分かる。
拳を幹から離し、悔しそうな顔と続けて今にも泣きそうな顔を見せた。
そうして、にゅうとまた彼女はスキマへ体を滑り込ませた。
その日の夜、空には少しだけ欠けた月が浮かんでいる。
屋敷の縁側で幽々子は月を眺めていた。ゆっくり月を見ることが出来る機会など、これが最後だろう。
満月ではないが、雲ひとつなく綺麗な夜空に月が浮かぶその光景は、何度見ても飽きないものだ。
そんな彼女の目の前に、にゅうと手が出てきた。次いで、驚く彼女の前に「はーい」と、よく知った顔が現れた。
「あら、紫じゃない? 久しぶりね」
「貴女も変わりなさそうで安心したわ。本当は昼のうちに来たかったのだけれど、監視が強くてねぇ」
「あの人達は考えすぎなのよ」
紫の顔を見た幽々子が笑顔になった。自分の隣をポンポンと叩き、座るよう促す。
スキマから体を出した紫が隣に座ると、幽々子はその体にもたれかかった。
そんな幽々子の頭を、愛おしげに撫でてやる。気持いいのか、幽々子の顔がほころぶ。
その顔のまま、紫を見上げた。それに紫も微笑み返してやる。
だがその心は泣いていた。泣いて、謝って済ませることが出来るのならどれだけ楽だろう。だがそれは許されない。
無力な自分にできる事は、ただ幽々子の側に居るだけだ。
その体勢のまま、二人は話し続けていた。久方ぶりの二人きりの時間。
だがそんな時間も、永遠につづくわけはない。幽々子が大きな欠伸をした。しきりに目を擦っているが、もう限界だろう。
「ほら、早く布団に入らないと、風邪を引いてしまうわよ」
「う~ん……。まだ話し足りないわ」
「布団に入ってからでも良いじゃない」
グズる幽々子をお姫様抱っこして、布団へと連れて行く。
優しく下ろして掛け布団を掛けると幽々子がスカートの端をつまんだ。
「どうしたのかしら?」
「一緒に寝てほしいのよ。ね、お願い」
「……ええ、良いわよ」
そう言うと一度紫はスキマへと姿を消した。少しして戻ってきた彼女は、寝間着に着替えていた。
幽々子が布団の横に寄ると、そこに紫が入りこんできた。
思わずその体に抱きつく。紫も、そんな幽々子を優しく抱きしめ返してやる。
二人は抱き合ったまま、静かに眠りについた。
満月の灯りを、松明の火がかき消していく。
其の明かりに照らされて、桜の花びらもオレンジ色に色づいていた。
短刀を持った幽々子がゆっくりと、西行妖へと歩み寄っていく。里の人達はそれを遠巻きに眺めていた。
その群衆の中に紫は居た。周りから聞こえるのは、哀れみの声ばかり。
そうだ。幽々子はまだ少女なのだ。自分の、いやここに居る大人たちの半分も生きていない。
(なにをやっているんだ!)
叫びたかった。ここに居る人間たちに、なにより自分自身に。
胸ぐらでもひっつかんで、あの娘を助けろ。女の子一人助けられないのか! そう叫んでやりたかった。
顔を落としたまま、紫はスキマへと消えて行った。
西行妖の近くまで来てみると、その威圧感は幽々子を押し潰さんとしているかのようだ。
その迫力に圧倒されてか、一歩後ずさった。
怖い。とにかく怖い。
目の前にある存在もそうだが、自分で自分を殺さなくてはならない。それが怖くて仕方がない。
その顔は青ざめていて、今にも泣き出しそうだ。
足が震え出す。幽々子を支えるものはただ一つ、自分の父が原因となったこれを、何とかしなければならないという使命感だけだ。
ゆっくりと、崩れ落ちそうになりながらも更に近づいて行く。
西行妖の根元まで行くと、そこで膝まづく。あとは手にした短刀を自分の心臓に突き刺すだけ。
ガタガタと手が震えてしまう。もし心臓以外を刺してしまうと、ショック死でもしない限りは失血死するまでたっぷり苦しまなければならない。
呼吸が荒くなる。こんなこと、一人で出来るわけがない! 心のなかで叫び、涙が溢れ出す。
その時、スキマからにゅうと手が伸びて幽々子の手をつかんだ。
スキマから紫が上半身だけを出して来た。これ以上出すと、後ろに控えている連中に見つかってしまうかもしれない。
其の限界まで体を出し、優しく涙を拭ってやった。
「ゆ、か……り……」
「ごめん、ごめんなさい……」
もう限界だった。紫の目から涙が溢れ、流れていく。だが幽々子は、紫の顔を見て真っ青な顔のままニコリと笑った。
「何で、どうして笑っていられるの!? 嫌なら、嫌って……!」
「うん。嫌、だ。これで紫と会えなくなるかもしれないって思ったら、すごく嫌だ」
「じゃあ!」紫の叫びを遮るように、幽々子が頭を振った。
「これは私がやらなきゃいけないのよ、紫。私だけが出来ないお仕事」
それなら、やらないと駄目じゃない。そう言って幽々子が今にも消えそうな笑みを見せた。そして紫の手を、短刀へと導く。
「お願い、ね。自分だけじゃ出来そうにないの」幽々子が短刀へ胸を近づけた。
「う、うあぁぁぁぁぁ……!」
どうして、どうして、どうして! たった一人の親友を、自分の手で殺せと!
そうだ、これは罰なのだ。幽々子を救う手段を見つけることの出来なかった自分への、罰。
眼を閉じてその時を待つ幽々子の顔を見た。この娘もたっぷり苦しんだ。ならばそれを終わらせるのも親友たる自分の役目。
「また、会いましょう」
「必ず……!」
幽々子の胸に、短刀が突き刺さった。
「……紫? どうしたの? 紫?」
「あ、ああ。幽々子……」
目を開けると、そこに心配そうに自分を覗き込む幽々子が居た。
目を擦り、起き上がる。外から太陽の光が差し込んでいて、もう朝になっているようだ。
「紫ったら、うなされてたのよ。怖い夢でも見たのかしら?」
クスクスと、幽々子が笑う。その顔が夢のなかとダブって、少し涙ぐんでしまった。気がつかれないよう、慌てて擦り上げる。
変な紫、と幽々子がまた笑い、それに釣られて紫も笑った。
しばらく二人で仲良く笑いあう。夢のなかとは打って変わって、幸せそうな光景だ。
「幽々子様ー、紫様ー。朝御飯が出来ましたー」
台所から妖夢の声が響いてきた。
「じゃあ行きましょうか」紫が立ち上がった。
「ええ、そうね」
幽々子が立ち上がろうとしたとき、紫が手を差し伸べた。その手を取って、幽々子が立ち上がる。
二人は連れ立って、居間へと歩いて行った。
それを再認識されるお話でした
ありがとうございました
紫の幽々子への思いがとても切なかった。
妖夢も出番は少なかったけど可愛かったです。